166・高市皇子・万葉集で一番長い挽歌

166・高松塚古墳の被葬者と耳成



持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。


死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。

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万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。



高市皇子は、
天武天皇の第一子・妻は天智帝の皇女でした。
草壁皇子の死後、後皇子尊(のちのみこのみこと)とされ、権力の中枢に入りました。
 持統天皇十年(696)七月・薨去



高市皇子の陵は、高松塚古墳という説があります。


壁画装飾で知られる高松塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。


高松塚古墳は、耳成山の真南に位置します。将に、


「耳に成す山」の真南です。時の最高権力者の墓と言う場所です。

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発掘された骨は、40才過ぎの壮年の男性でした。

では、高市皇子となります。


高市皇子は最高権力者となったことになります。書紀では「太政大臣」となっています。妃は御名部皇女(天智天皇の娘・蘇我石川麿の孫)でした。

高市皇子の挽歌は、長歌は草壁皇子の2倍以上あります。

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高市皇子尊の城上(きのへ)(あらき)(のみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

 

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天御門を かしこくも定めたまいて 神さぶと 磐隠ります 八隅しし わが大王の

 

ことばに出すこともはばかれる、言葉にして言うことも何とも畏れ多い、明日香の真神の原に ひさかたの天上の聖なる御殿を畏れ多くもお定めになって、神として窟におられる 世をお治めになった我が大王の


ここに歌われているのは、天武天皇のことです。人麻呂は、挽歌の冒頭には天武天皇のことを述べ、高市皇子の血統を示しました。


(わが大王の)きこしめす 
背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下治めたまひ ()す国を 定めたまふと (とり)が鳴く 東の国の 御軍士(みいくさ) 召したまひて ちはやぶる 人を(やは)せと (まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら (よさ)したまへば 大御身に 太刀取り()かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を (あども)ひたまひ 


我が大王のお治めになる北の(美濃)の国の 真木の立つ不破山を越えて、和佐射見の原の 行宮に 神のように天降りおいでになって 天の下をお治めになって、統治なさる国を鎮めようと、鶏が鳴く東の国の 軍勢をお集めになって、荒れる人々をおさえ鎮め、従わない国を治めよと、皇子であるからこそお任せになったので、皇子はその御身に太刀をお佩きになり、その御手に弓をお持ちになり、軍勢を率いられた。 


ここも、ほとんどが天武帝の命令を高市皇子が受けたことが語られているようです。

この後に、戦で高市皇子が活躍したことが述べられています。

要約すれば・


鼓の音は雷の声かと聞き違えるほど

兵士が掲げる軍旗の靡きは、野火が風にあおられるように見え

弓はずの音は、大雪の降る冬の林につむじ風が吹き渡るように聞こえ

飛んでくる矢があまりに多く、大雪が飛んでくるようだった

立向かう兵士も命がけで戦っていた時、

渡会の伊勢の宮から神風が吹いてきて、その天雲で敵を覆ってしまった

そうして、水穂の国を 神として大いにお治めになった


高市皇子の壬申の乱での活躍が語られました。
要約しましたが、壬申の乱は夏だったはずですが、ここではま冬の厳しい戦いとして書かれています。

 長いのでここで一休み。

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さて、続きです。

やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 
()綿花(ふばな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に (よそ)い奉りて (つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ (ぬば)(たま) ゆうべになれば 大殿を 振りさけ見つつ (うずら)なす いはいもとほり さもらへど さもらひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに おもいも 未だ尽きねば 


天下をお治めになった我が大王(天武帝)に、我が大王(高市皇子)が天下のことを申しあげられたので、いつまでもそうであろうと、結う花のように栄えていた時に、我が大王の皇子の御殿を 神殿(御霊殿)として飾りたて 仕えていた御殿の人も真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の庭に 一日中を鹿ではないが腹這い伏して、暗い夜になれば 御殿を仰ぎ見ながら 鶉ではないが 這うようにうろうろし、お仕えしているけれど、お仕えするかいはなく、春の鳥のように鳴き迷っているのに 悲しみも未だおわってはいないのに、皇子を想うこともまだ尽きてはいないのに


何もかも受け入れがたく、気持ちの整理がつかないままなのに、皇子の霊殿から殯宮へと亡骸をお送りすることになってしまった、のです。
次は、殯宮の様子です。


言さえく 百済の原ゆ 
神葬(かむはぶり) て あし   て ら ぬ も 大王

万代(よろづよ)に て し 香久山宮   と つ き む 


あの百済の原を通り抜けて、神として葬り奉り、城上の殯宮を 常にお住まいになる宮として 高くお祀りし 神としてお鎮まりされてしまった。しかれども、我が大王が「万代までも」と思われてお造りになった香久山の宮(藤原宮)、この宮は、いつまでも残って行くと思われただろう。

天を仰ぐように皇子を振り仰ぎながら、玉だすきを懸けるように、皇子のことを心にかけてお偲びしたい。畏れ多いことだけれど。


さて、人麻呂は高市皇子を如何に詠み奉ったでしょうか。

天武天皇が天下を治めた

その皇子は天皇のために戦の前線にたった

その戦いは、敵を圧倒した

すっかり皇子の代になると思っていたのに

皇子は亡くなり、誰もが混乱した

皇子は城上の宮にお住まいになるが、お造りになった藤原宮は万代まで栄えてほしいだろう

皇子をこれからも偲んでいこう


という内容です。


あまた言葉が並んでいますが……

高市皇子は、確かに大王だったようです。天武天皇と同じ文字「大王」を同じ詩篇の中に使われていますから。

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高市皇子は、耳成山の真南に葬られた方のようです。

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しかし、その耳成山との霊力は断たれます。

なぜ?

それは、明日

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# by tizudesiru | 2016-11-23 15:20 | 166・高市皇子と高松塚古墳 | Comments(0)

165・天武大地震(678年)=筑紫大地震

天武天皇七年(678)


九州で大地震
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(福岡県久留米市で、耳納断層に関わる筑紫大地震の爪痕の特別展があっています)

この地震により、筑紫平野の寺院や役所が倒壊しました。上岩田遺跡の瓦が出土しています。ほとんどが垂木先瓦でした。「たるきさきかわら」とは、屋根ではなく垂木の木部が風雨にさらされて痛むのを防ぐための瓦です。
屋根を葺く瓦は他の寺院に運ばれて再利用されたので発掘されなかったのです。
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(小郡埋蔵文化財センターの展示物・写真撮影可能)

八弁蓮華文の文様で、蓮弁の中に子葉があります。飛鳥の山田寺の瓦の文様と同じでしょうか。
瓦のお話もしたいですね……
また、東日本で地震がありました。
大きな被害になりませんように。
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# by tizudesiru | 2016-11-22 12:12 | 165・天武大地震(筑紫大地震)678年 | Comments(2)

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂ことあげす

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

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「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前のブログ(157・持統帝の霊魂に再会した人麻呂)に書きました。

人麻呂の紀伊國の旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。

形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れる為の旅でした。黒牛方は、有間皇子の終焉の地、藤白坂の近くの海岸です。その海岸に、

女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は、女帝の霊魂に確かめに行ったのです。

「お言葉のままに、事挙げしてよろしいのでしょうか。わたくしは決心がつきかねております」

人麻呂が迷っていたのは、万葉集の編纂を続け、それを文武天皇に奏上することでした。

答は「詔のままにせよ」だったのです。

無念の最後を遂げたゆかりの人、滅ぼされてしまったゆかりの人を追慕し、その霊魂を鎮め、鎮魂歌集として末永く朝廷に伝えること。

それが、持統帝の詔でした。

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人麻呂は命を賭して「事挙げ」の決心をしました。


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葦原の水穂の国は、この国を支配する神様としては言葉にして言い立てたりはしない国だ。

だが、わたしはあえて言葉にして言うのだ。どうぞご無事で、真にお幸せにと、障りもなくご無事であれば、荒磯浪のアリのように在りし時にお逢いしたかった。

百重浪、千重浪のような後から後から押し寄せて来る波のように、私は何度でも事挙げする。

わたしは亡き帝のために何度も何度も事挙げする。

反歌(長歌と同じような中身を繰り返す短歌という意味)

敷島のの倭の国は、言霊の霊力によって幸をもたらす國である。私は、言霊によってこの国の幸を願う。どうぞ末永く、無事でおいで下さい。


人麻呂が決心して「万葉集」を奉ろうとしたのですが、そこに、

文武天皇(持統天皇の孫・42代天皇)の突然の崩御でした。

やむを得ず、母の元明天皇(草壁皇子の妃・43代天皇)に奏上したのでした。

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元明天皇は激怒しました。

そこに皇統の秘密が書かれていたのです

それは、誰にも知られていることだったと思います。が、

それをわざわざ事挙げする人麻呂を許せなかったと思います。
それが故に、草壁皇子が苦しみ、持統天皇が文武天皇のために身を挺して政を支え力尽きたことを、元明天皇は承知していました。
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人麻呂は流罪になりましたが、さらに刑死となりました。

それを甘んじて受けたことが、万葉集でも読み取れるのです。


またあとで





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# by tizudesiru | 2016-11-21 11:33 | 164・持統天皇との約束・人麻呂ことあげ | Comments(0)

163・持統天皇の最後の願い・火葬と合葬

163・持統天皇の最後の願い

・火葬と合葬墓

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大宝2年十二月二十二日、持統天皇崩御

「続日本紀」文武天皇、大宝二年十二月条に

太上天皇、(かむあが)ぬ。遺詔(いせう)したたまはく

素服(そふく)挙哀(こあい)することなかれ。内外の文武の(つかさ)()()は常のごとくよ。

喪葬のことは、努めて倹約に従へ」とのたまふ。


持統天皇の火葬・天武陵への合葬

持統天皇の最後の願いは火葬であり、野口陵への合葬でした。

歴代天皇の中で、初めての火葬でした。

しかも、合葬墓です。

ここに、何かしらの違和感があります。

天皇位に上ったということは、神になったということですから天皇の葬儀は、神として葬送儀礼が行われ、陵墓が造られました。

ひとりひとりが一柱の神となって祀られてきたのでした。それなのに…
墓も作らず、骨のみを残し、霊魂となって飛び去ったのです。どこへ?
もちろん、天智陵へ向かって。

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天武・持統合葬陵は、山城の天智陵と経度がおなじです



天智陵→藤原宮・大極殿(白ポイント)→ 天武・持統合葬陵(青ポイント)

持統天皇は、「天智天皇の墓の真南に眠る」ことを希望したのです。なぜ?

もちろん、天智天皇と死後もつながっていたかったからです。

持統天皇にとって、淡海は忘れられない思い出の地でした。

草壁皇子を大津で生んでいます。

柿本朝臣人麻呂は「近江皇都の在れるのを哀しむ歌」を献じています。

なぜ、持統天皇は、天智帝をそこまで愛したのか。

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全て、持統天皇の出自、宿命に関わることです。
鬼のように冷静で、藤原氏と手を組んで、あまたの皇子皇女の運命を変えた女性として知られる持統天皇。その実像は、万葉集を読むと違ってくるのです。
ここで、いち早く持統天皇の最後を持って来たのは、他でもありません。
持統帝がいかなる宿世を持った人だったのか、考えてもらいたいからです。

紀伊国行幸に見られる有間皇子への強い追慕の念と、鎮魂の思い。持統帝は皇子の所縁の人としか思えません。
天武天皇の政権下では、寺院の建立が盛んでした。それは何故なのか。失った人が多くいたということでしょうか。
祖父の石川麿の山田寺(浄土寺)の再建だけではありません。

では、草壁皇子のために造った寺は?
(明日香村の岡寺は。僧義淵が造りました) 
一人息子の草壁皇子の死に接した時の持統帝の姿は、書き残されていません。
孫の軽皇子(後
の文武天皇)に、阿騎野で草壁皇子の霊魂に触れさせ、15歳で即位させ、自分は太上天皇として文武天皇を補佐し続けました。
そして、最後には天智帝(38代)と天武帝(40代)を結ぶように野口陵を造り、そのライン上に藤原宮を造営したのは、偶然ではありません。
更に、最終的に自身もそこに眠ったという、この軌跡から匂い立つのは、女性としての意思だと思います。

山城の勧修寺も、宇治の平等院も、禅宗の万福寺もこの直線に乗っています。
このラインの意味は、少なくとも十世紀の人までは知られていたということでしょう。



またあとで





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# by tizudesiru | 2016-11-20 11:42 | 163・持統天皇の最後の願い | Comments(0)

162・天武朝の女性たちの悲劇・その2

162・後宮の女性たちの悲劇・その2

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吉野盟約とは、天武八年(679)五月五日

天武天皇が「千歳の後に、事なからしめむと欲す、いかに?」

と問えば、皇子達、「ことわり、(いや)(ちこ)なり」と答えた。


千年の後まで事がないようにしたいが、どうか?

道理はまことに明白です。


六人の皇子が「われら十余りの王は、それぞれ母が違っているが、天皇の勅に従い、これから助け合い逆らうことはしない」と天武帝と持統皇后に盟約をしました。


六皇子とは、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴
ですが、この誓いの詞は正確ではありません。違っているのは、母だけではないのです。六人のうち二人の皇子(川嶋・志貴)の父は、天智天皇でした。父も違っていました。

ここで行われた儀式は「皇太子決め」でしょうか。

草壁皇子が立太子されるのは、天武十年か十二年です。


十市皇女のように思い詰めて苦しむことはないと、天皇が家族として後宮の女性達と、その連れ子達を認めたのです。

だから、川嶋皇子(天智帝の皇子)、志貴皇子(天智帝の皇子)が吉野盟約の六人に入っているのです。滅ぼした前王朝の皇子を入れて、「千歳のことなき」を誓い、新皇族が発足したのです。


川嶋皇子の姉は、大江皇女です。姉弟そろって新家族となったのです。

吉野盟約とは「新王朝を立てたことを確認し、前王朝の子女も含めて新王朝の家族となる儀式だった…と思います。


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天武天皇は歓喜した


吉野宮に行幸して「新王朝」の儀式をした時の喜びの歌が万葉集巻一にあります。気持ちの上でも、全ての女性と皇子皇女たちを受け入れようとしたのです。


天皇吉野宮に
(いでま)す時の御製歌

27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三


よきひとの よしとよくみて よしといいし よしのよくみよ よきひとよくみ

ここ、芳野を、淑き人が良い所だと、よくよく見て、好しと言った。その芳野をよく見よ、若い良き人達よ。よく見よ。


天武朝の後宮


天武天皇の妃には、天智天皇の皇女が四人入っています。
大江皇女と新田部皇女は、壬申の乱後の後宮入りでした。

大田皇女蘇我氏系母) 大津皇子(663~686)・大伯皇女

鵜野讃良皇女蘇我氏系母)草壁皇子(662~689)

大江皇女(忍海造母)  長皇子・弓削皇子 *676年以降の出生

新田部皇女(阿倍氏系母)舎人皇子 *676年以降の出生


新田部皇女の姉・明日香皇女の嫁ぎ先ははっきりしません。なぜ、明日香皇女を後宮に入れなかったのか。そこがキーポイントでありますが。


大江皇女と新田部皇女の初産の時期
から推察すれば、壬申の乱当時は二人は稚かったのでしょう。長皇子と舎人皇子は、大津皇子や草壁皇子の出生年と比べても遅い出生年となっています。

つまり、若い皇女も高齢の婦人も、全て次の王朝に移動させ、その自由を束縛しました。耐えかねた采女が自殺したようです。


壬申の乱という内乱の後、女性たちはこぞって天武朝の皇子に振り分けられたということでしょうか。女性たちはしたたかに生きて行くのですが…

高市皇子(654~696)の妃にも天智帝の皇女が入っています。

御名部皇女蘇我氏系母)長屋王(676~729)

十市皇女(母は額田王) 葛野王は大友皇子の子


草壁皇子の妃に天智帝の皇女が入っています。

阿閇皇女蘇我氏系母)元正天皇(680生)文武天皇・吉備内親王


大津皇子の妃にも天智帝の皇女

山辺皇女蘇我氏系母)* ~686没 ? 


気が付かれましたか。同じ皇女でも、蘇我系の母を持つ皇女が重要だったことが。

蘇我石川麿は右大臣・蘇我赤兄は左大臣にまで上りました。特に、石川麿の娘達は皇女を生みました。その皇女の子どもたちが皇位継承者になったのです。

 

蘇我氏は大化改新(645)で滅びたのではありません。本家は滅亡しましたが、分家の子女が王朝を支えたのです。


持統天皇は苦しんだのか?

さて、天智朝からたくさんの女性が移動させられたとして、持統天皇はどのような立場になるのでしょう。


また後で


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# by tizudesiru | 2016-11-19 10:43 | 161・天武朝の女性たちの悲劇 | Comments(0)

161・天武朝の女性たちの悲劇・その1

161・天武朝の後宮の女性達の悲劇 その1

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壬申の乱で勝利した天武天皇は、滅ぼした王朝の天智天皇の皇女を後宮に入れました。特に有力氏族の皇女は、外に出しませんでした。

なぜなら、女性たちが血統を伝える皇位継承者を生んでくれるからです。

高貴な血統を他に渡すことはしなかったのです。

女性には辛い束縛だったのではないでしょうか。


十市皇女(大友皇子の妃)の薨去


天武天皇と額田王の娘である十市皇女は、壬申の乱の総大将・大友皇子の妃でした。葛野王を生んでいます。乱の後は、母と明日香へ帰り、高市皇子の妃となっていたようです。

天武7年(678)に薨去しています。突然の死でありました。

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三輪山


十市皇女が亡くなった時の高市皇子の歌が、万葉集巻二・挽歌にあります。

十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首


156 三諸の神の神すぎ巳具耳矣自得見監乍共い寝ぬ夜ぞ多き


みもろの みわのかむすぎ巳具耳矣自得見監乍共いねぬよぞおおき

あなたはあの三輪山の神の杉のように思えた。巳具耳矣自得見監乍共 わたしはよく眠れない日が続いています。あなたを理解してやれなかった私です。

この時、十市皇女は30歳過ぎくらいで、高市皇子は24歳です。子連れの敵将の女性に高市皇子は近づき難かったのでしょう。しかも、自分は壬申の乱の総大将でした。十市の夫の大友皇子を殺させ、その首も見たのです。皇女に対して恐れがなかったとは言えないでしょう。

だから、高市皇子は嘆きました。


157 神山の山辺
()()()木綿(ゆふ)


みわやまのやまべまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき

三輪山の麓の神社の神に奉るまそ木綿(ゆふ)ったに、ってい

高市皇子の後悔が伝わります。


158 山ぶきの立よそいたる山清水酌みに行かめど道のしらなく


やまぶきの たちよそひたる やましみず くみにゆかめど みちのしらなく

山吹の花が咲き乱れているという山奥の山清水を酌んであなたに捧げたいけれど、そこはこの世ではないらしく、私には道が分からない。

埋葬の後でしょうか。少し落ち着いて皇女のことを偲んでいます。

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石上神宮

十市皇女は伊勢神宮に参詣したりして、精神的再生を心していたのでしたが、耐えられない日々だったのでしょう。当然、後宮の女性にも不安が走ります。

十市皇女の突然の死(678)は、自死だったと思われます。
母である額田王はどれほど悲しんだでしょう。
息子の葛野王は、しみじみと自分の立場を感じたでしょう。
夫の高市皇子も責任を感じていたし、
父である天武帝にしても、深い自責の念にかられたでしょう。


そこで、一年後天武八年(679)に
「吉野の盟約」と言われる「新王朝の家族となる儀式」をしたのです。


吉野の盟約は「草壁を皇太子とするための盟約」ではありません。

天武帝は、「家族となろう」と呼びかけた。

新家族結成の儀式をしたのです。
後宮の女性たちの不安を除くために。

後にも先にも、天武帝の吉野行幸はこの一回のみです。


吉野盟約の次の年に、草壁皇子に長女の氷高皇女が生まれています。

草壁は安心して、天智帝の娘の阿閇皇女と結婚したのです。

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しかし、天武朝の中の火種が消えたのではありませんでした。

後宮の女性たちの悲劇はまだまだ続きます。

また後で


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# by tizudesiru | 2016-11-18 11:07 | 161・天武朝の女性たちの悲劇 | Comments(0)

160・大津皇子の流涕して作らす御歌

160・大津皇子の流涕して作らす御歌

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万葉集巻三・挽歌

 
大津皇子、死を
(たまは)リし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首

416 百伝ふ磐余の池になく鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

  右、藤原の宮の朱鳥の元年の冬十月


大津皇子は異母兄弟の草壁皇子と皇位を争って敗れ、朱鳥元年(683)の十月、自邸で命を落されました。書紀に「皇子大津」と書かれ、罪人としての刑死でありました。


その臨死の歌は『雲隠りなむ』と、いかにも王者らしく凛としています。

彼は、「せめて王者として死のう」と思ったのでしょう。

大津は自身を極位に上るべき立場にいたと思っていたのですから。


謀反というより、当然の行為だったのです。

十分に考慮を重ねての決断だったはずです。

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姉の大伯皇女に相談に行った時の歌が万葉集にあります。

伊勢神宮の斎宮であった大伯皇女が弟の決心を聞いて、倭に帰した後の歌です。


話をしていたからこそ、
事の重大さを知っていたからこそ、
弟が立ち去った後も立ち尽くしたのでした。


105 吾背子を倭へ遣ると小夜深けてあかとき露に吾立ち濡れぬ


106 二人ゆけど行き過ぎ難き秋山を如何にか君が独り越ゆらむ


そして、悲劇は起こりました。


163 神風の伊勢の国のもあらましを何しか来けむ君もあらなくに


164 見まくほり吾する君も有らなくに何しか来けむ馬つかるるに


165 うつそみの人にある吾や明日よりは二上山をいろせと吾見む


166 磯の上にさける馬酔木を手折らめど視すべき君が在りと言わなくに


これらが、後の人の歌物語として作られたとしても、大津皇子と大伯皇女の堅い絆を伝えようとしたのは、確かでしょう。

この悲劇は、起こるべくして起こりました


大津皇子は、天武帝の第三子とされています。

高市・草壁・大津の順です。

皇位継承者は何より高貴な皇統を継ぐ人であることが重要でした。

『玉たすき 畝傍の山の橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと栂の木の いや継ぎ継ぎに天の下…』ですから。母方の血統も大事でした。


高市の母は宗形氏、草壁と大津は蘇我系の皇女。

皇位継承の対象は、草壁と大津にしぼられたことでしょう。

当然、取り巻きは色めき立ちました。

大津皇子は天武帝に愛されたと書紀にも書かれています。

帝王学も学び、十分に学問も積んでいました。

なのに、大津皇子が破れた。


その不満は、天武系の皇子達王子達の間に残りました。

この先、皇位継承に関して、異議を申し立てたり、謀判の罪を着せられたり、謀判を起こしたりで、落命した人物はかなりの数に上りますが、全て天武系の皇子や王子達です。

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この話は、後で


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# by tizudesiru | 2016-11-17 11:48 | 160・大津皇子の流涕して作る御歌 | Comments(0)

159草壁皇子の薨去の事情


159・草壁皇子の隠された薨去の事情 


日本書紀のおける草壁皇子の薨去の記事はわずかです
。亡くなったと書かれているのみです。

「御病したまう」とか、病気平癒を願って何人得度させたとか、記述はありません。草壁皇子の娘の氷高皇女が病気になった時、持統帝は140人を出家させました。明日香皇女(天智帝の娘)の病気にも104人を出家させています。

それなのに、草壁皇子のために出家した人はいません。

皇太子だったのに。

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草壁皇子は病弱だったのでしょうか


草壁皇子の挽歌に、舎人が詠んだ反歌二十三首が並んでいます。


173 高光る わが日の皇子のいましせば 嶋の御門は荒れずあらましを

174 よそに見し 檀の岡も 君ませば 常つ御門ととのいするかも

183 我が御門 千代とことばに栄えむと 想ひてありし 吾し悲しも

191 毛衣を ときかたまけていでましし 宇田の大野は 想ほえむかも


皇子を「日の皇子」と尊び、墓所となる「檀の岡」はよそ事だと思いたのに宿直することとなってしまって、「我が主人は千代に栄える」と思っていた自分が悲しい。狩の装いの毛衣を着て、宇多の大野にお出でになった時のお姿が忘れられない…と読みました。皇子は元気だった…

突然の薨去だったようです。

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草壁皇子のライバルは、大津皇子だったのか? 


女性問題に関しても、大津皇子にポイントを取られていたと解釈されています。
草壁皇子の歌は、集中に一首のみです。


日並皇子尊、石川郎女に贈り賜ふ御歌一首 郎女、
(あざな)を大名児といふ

110 大名児 彼方(おちかた)野辺に 刈る(かや)の (つか)の間も われ忘れめや

ああ大名児、彼方の野辺で刈る草の一束のツカのような、ほんの束の間もわたしはお前を忘れることはない。

この歌の前に、大津皇子の歌があります。


 大津皇子、ひそかに石川郎女に
()ふ時に、津守連通、その事を占へ(あら)はすに、皇子の作る御歌一首

109 大船の 津守が占に()らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し

大船が泊まる津と同じ、津守の占いに現れるとは、将にこちらも承知のうえでふたりは寝たのだ。


こうしてみると、石川郎女を奪ったのは大津皇子で、草壁皇子はまだ未練がある、と読み取れるようです。しかし、もともと、大津皇子と石川郎女は恋仲だったようです。

 

   大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首

107 あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ち濡れぬ 山のしづくに

   石川郎女こたえ奉る歌一首

108 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを


このように並んでいますから、二人はアツアツだったのです。石川郎女は、途中で草壁皇子に召されたのかも知れません。それで、密に大津にあったのだと。

この恋のバトルは大津皇子が優位だったという説が有力です。

確かに、大津皇子は魅力的な青年だったのでしょう。


懐風藻にも漢詩を残し、日本書紀にも「詩賦は大津より始まる」と書かれています。何より天武十二年(683)「朝政を聞く」とあり、朝政に参画しはじめていました。天武天皇の大きな期待が大津皇子に掛けられていたのは間違いないのです。

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当時の宮廷の官人も周囲の豪族も大津皇子に期待していた。

持統帝も草壁皇子もそれを知らないはずはありません。


上記の「大名児」の歌ですが、

大名児よ、わたしは何処か分からない彼方で刈り取られた草の一束のように、ほんの束の間もお前を忘れることはないが、それは、何処か分からない彼方の草だ。だから、お前も彼方の草と同じ、それでいい。

とも読めるかなア、これは読みすぎでしょうね。

しかし、草壁皇子は承知だったはずです。大名児とは、宮廷の侍女だったのでしょうから、豪族の娘だったのかも知れません。自由に恋ができない女性が大津皇子を愛しても許してあげたのではないでしょうか。


さて、草壁皇子は天武十年(681)か、十 二年(683)に皇太子になりました。

非常に遅い立太子です。

同時に、大津皇子は「朝政を聞く」となっています。

天武天皇としては、大津皇子に極位への道を用意しておきたかったのです

天武天皇崩御


朱鳥元年(686)五月、天皇の病を卜うと、草薙劔の祟りというので、熱田社に安置。

仏法にて病の平癒を誓願。

諸国は主な神社に幣を奉り、天皇の病の平癒を祈念。

「天下のことは全て皇后と皇太子に啓上せよ」の勅

朱鳥元年とする。

皇太子・大津皇子・高市皇子に封四百戸

9月4日・皇子・諸臣ことごとく川原寺で天皇の病平癒を誓願。

99日・天皇崩御

911日・殯宮を建てる

924日・殯の礼。大津皇子が謀反を起こす

102日・大津皇子の謀反が発覚

103日・大津皇子に賜死。山辺皇女が殉死


これらの出来事のことごとくを、草壁皇子は見聞きしていたのです。

草壁皇子が苦しまないはずはありません。

皇太子でありながら即位しなかった大きな理由は、ここにあると思います
大津を死なせてしまった

このことが、草壁皇子の心を縛り、即位を拒否したと思うのです。

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草壁皇子は苦しんだ挙句、高市皇子に皇位継承を託しますが、母が承知しません。群臣と母と高市皇子の取り巻き勢力の板挟みで、皇子は自ら命を絶ったと思います。
だから、書紀の記述は短く。万葉集の挽歌も「高市皇子の挽歌」より短いのです。人麻呂が崇拝する持統帝の息子の挽歌を粗末にするわけはありません。彼は、あれ以上書けなかった。
悲しすぎて、悔しすぎて書けなかったのです。

むしろ。草壁皇子は大津皇子に皇位が継承されることを考えていた。
彼の申し出を受けてもよかった。
大津皇子は姉にも相談し、決心を固めた。
しかし、事は謀反とされ、大津皇子は死を賜った。
草壁皇子は責任を感じたのです。
母との三年間の軋轢を経て、ついに…
これが、私が日本書紀から読んだことです。
あなたはどう思いますか?
つぎは、大津皇子について書きましょうか。




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# by tizudesiru | 2016-11-16 11:44 | 159・草壁皇子の薨去の事情 | Comments(0)

158草壁皇子の形見の地で霊魂に触れる



158
・草壁皇子の霊魂に触れるために、

軽皇子も形見の地を訪れた

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東の太陽・西の月が象徴する譲位

柿本朝臣人麻呂は、天武朝の皇子・皇女のために歌を献じています。

草壁皇子や高市皇子の挽歌も詠んでいます。

人麻呂の歌の中で最も有名なのは「東の野にかぎろいの立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ」でしょう。これは、万葉集・巻一の「(かる)皇子、安騎(あき)()に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」の後についている短歌四首の内にある一首です。軽皇子(文武天皇)は、皇太子になるために父(草壁皇子)の霊魂に触れねばなりませんでした


その為に、
阿騎(あき)()宿リに出かけたのでした。

阿騎野は、草壁皇子の形見の地だったのです。

形見の地で亡き人の霊魂に触れる儀式をしたのです。

人麻呂が紀伊国で持統帝の霊魂に再会しようとしたことと同じです。

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万葉集巻一 


「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」は、長歌です。この後に続く短歌四首


46 阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓

安騎の野に 宿る旅人 うち靡き 寐も寝らめやも いにしへ思ふに

あきののに やどるたびびと うちなびき いもぬらめやも いにしへおもふに


日並皇子の想い出の阿騎の野に来て、旅寝をする者たちは、手足を伸ばしてぐっすり寝られはしないだろう。日並皇子が狩をされたころのことを思い出すと、なかなか眠れないのだ。


4
7 真草刈 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

まくさかる あらのにはあれど もみじばの すぎにしきみがかたみとぞこし


ま草を刈るような荒野ではあるけれど、黄葉のようにはかなく亡くなってしまわれた日並皇子の形見の地だからこそ、跡継ぎの皇子も我々もここに来たのだ。

皇子の霊魂にお逢いするために、冬の阿騎野に来たのだ。


48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月西渡る

ひむがしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきにしわたる(つきかたぶきぬ) 


夜が明けて来て、東の空にかぎろいが立ち始めた。清々しい朝日が昇って来るのだろう。西の空を振り返ると、一晩中若い軽皇子を照らしていた月が、西に渡り沈もうとしている。月が隠れ、朝日が昇る。ああ、日並皇子が息子の軽皇子に太子位を譲られたのだ。


49 日
雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者来向

日並の 皇子の命の 馬並めて み狩立たしし 時は来向ふ

ひなみしの みこのみことの うまなめて みかりたたしし ときはきむかふ


あの日、御狩が始まろうとしたあの時、日並皇子命が馬を一斉に並べて、御狩の壮麗な装いと凛々しいお姿でお立ちになった、あの瞬間がもうすぐやって来る。その瞬間に、今、軽皇子が立ち向かわれるのだ。


人麻呂は「葉」のみを「もみじば」と読ませました。

『葉』は此処だけの表現と思います。

上の四首に詠まれているのは父の草壁皇子。軽皇子の姿は見えにくい。人麻呂は心ゆくまで、在りし日の凛々しい草壁皇子の姿を詠みました。

草壁皇子は、持統称制(しょうせい)三年(689)四月に亡くなりました。

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皇太子でありながら即位せず、母の持統帝が代わりに政務を取る『称制(しょうせい)』という政治体制になっていました。

なぜ、皇太子でありながら草壁皇子は即位しなかったのか。

歴史上の大きな疑問です。

持統帝は草壁皇子が即位するのを待って称制を続けていました。

そこに、皇太子草壁皇子の薨去(689)でした。

持統帝は必至で耐え、ついに即位(690年)したのです。

草壁皇子の忘れ形見の軽皇子の成長を待って。

 

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軽皇子(文武天皇)は十歳になり、帝王学を学ぶ時期になりました。

皇太子になるために、父の草壁皇子の霊魂に触れなければなりません。

それが為の、阿騎野における冬の狩でした。

父の草壁皇子の狩場で一晩過ごし、霊魂に触れたのです。


父の霊魂に触れた軽皇子(文武天皇)は十五歳で元服し、即位(697年)します。嬪は藤原宮子(藤原不比等のむすめ)でした。


草壁皇子は病弱であったので即位できなかったというのが定説です。
そうでしょうか? 
狩が好きで何度も狩場に出かけたようで、その姿を皇子の
舎人(とねり)(近習のひと・御付きの人)も歌に詠んでいます。皇太子として即位できないほど病弱ではなかったのです。

万葉集の数多くの謎は、有間皇子(658年没)を読まなければ解けません。更に、草壁皇子(689年没)も重要な鍵を持っているのです。

この二人の存在が持統天皇を生かし動かし続けたのでした。

そこには、草壁皇子の苦悩もあったでしょう


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# by tizudesiru | 2016-11-15 13:37 | 158草壁皇子の形見の地・阿騎野 | Comments(0)

157・持統帝の霊魂に再会した人麻呂

万葉集集・巻九の挽歌の冒頭の五首 

ここには、人麻呂の想いが凝縮されています。



157・人麻呂が偲んだ持統天皇 

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万葉集・巻九「挽歌」の冒頭の五首 


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挽歌の冒頭は『宇治若郎子の宮所』の歌でした。高貴な方の歌を冒頭に置くという形式を踏襲するための配置だったのでしょうか。いえ、人麻呂歌集に置かれた五首はセットです。一緒に並べたから意味があるのです。
そして、宇治若郎子の運命を有間皇子の運命と重ね、皇子が皇太子だったこと、父王に極位を譲られていたこと、無情にもその命を政敵により奪われたことを伝えたのです。
一首目は、寓意のある歌でした。
次が、

紀伊国に作る歌四首
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黄葉(もみじば)は、故人・亡き人のことです。人麻呂は、他にも『葉』と書いて、葉(もみじば)とも読ませています。

では、二首目


1796・黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも

もみじばのすぎにしこらとたづさはりあそびしいそをみればかなしも


亡くなってしまった愛する人と手を取り合って遊んだ磯を見ると悲しくて仕方ない。あの人は、確かにここに来た。
 

紀伊国で、愛する人と遊んだとき、その人は独りではなかったのでしょうね。


1797・塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し

しおけたつありそにはあれどゆくみずのすぎにしいもがかたみとぞこし


浪が荒くて潮の香り立つ荒磯ではあるけれど、流れ去った水のように鮮やかに亡くなってしまったあの人の形見だからこそ、わたしは此処へ来た。

あの人の形見のこの地で、あの人の霊魂に会い、あの人の意思を確かめる為に、此処に来た。

更に、

塩気立つ荒磯に流れ去る水ののように亡くなってしまったあの人は、昔ここに来た。有間皇子の形見の地として、あの人はここへ来た。しかし、今わたしはあの人の形見の地として、ここへ来たのだ。

 

「形見とぞ来し」は重要な言葉です。霊魂に出会うための詞であり、行為なのです。次の「文武天皇の冬猟」のところでお話しましょう。

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1798・いにしへに妹と吾が見し黒玉の黒牛方を見ればさぶしも 

いにしへにいもとわがみしぬばたまのくろうしがたをみればさぶしも

以前、あの人と黒牛方を見た時、その真っ黒な岩を見ても寂しくはなかったが、今はあの人がいないことで、こんなにも悲しく寂しいのだ。

黒牛方の痕跡があるのは、和歌山県黒江です。藤白坂を下りたあたりの海に、人麻呂は来ているのです。 


1799・玉津嶋磯の浦みの真砂にもにほいにゆかな妹も触れけむ 

たまつしまいそのうらみのまなごにもにほいにゆかないももふれけむ 

紀伊川の下流域に浮かぶ数々の島の浦の真砂にもしっかり触れて行こう。その砂は、むかしあの人が何度も何度も触れて涙を流した真砂なのだから。私も真砂にふれて、あの人の想いを染みこませて帰ろう。

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人麻呂は、なぜ紀伊国に旅をしたのか。

愛する人を亡くした後に、その形見の地を訪ねたのか。

その思い出は、海で遊んだこと・黒牛方を見たこと。

このくらいの思い出の地を形見とするのは不思議です。

いえ、人麻呂は『故人が形見の地としていたところ』に来たのです。

同じ形見の地に。
持統帝が常に心を置いていた海辺に。


人麻呂は故人の心の裡に触れてしまっていたのです

二人が愛し合ったとは書いてない。

敬愛する人が触れた真砂にも触れて行こう、あの人が触れたに違いないから。

持統帝崩御後、人麻呂は万葉集の編纂をして、文武天皇(持統天皇の孫)に献上する約束を果たそうとしていた。しかし、人麻呂は躊躇していたのです。

なぜなら、そこに皇統の秘密が書かれていたから。
だから

文武帝に万葉集を献上してもいいのか、持統天皇の霊魂に確かめるために紀伊国に来たのでした。


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果たして、持統帝のこたえは?

このことは『人麻呂の我は事挙げす』で触れましょうね。




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# by tizudesiru | 2016-11-14 11:17 | 157持統帝の霊魂に再会した人麻呂 | Comments(2)

156・人麻呂は女帝のために生きた

156・持統天皇のために

柿本朝臣人麻呂は生きた


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宇治若郎子は悲劇の皇子


宇治若郎子の宮所を詠んだ人麻呂


宇治若郎子の宮所の歌一首


1795 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬待つの木は古人見けむ


いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ 

愛するあの子のもとへ「今来た」という意味になる今木の嶺に、茂り立っている松の木は、嬬(つま)を「待つ」の木であろうが、此処に住んでいた古人もこの松を見たのであろうか。


おや?

宇治若郎子は仁徳天皇の弟でしたね。

応神天皇の末子で、仁徳天皇と極位を譲りあった末に自ら命を絶つという悲劇の人。有名な自殺した皇太子の話でしたね。そして、此処には松が詠まれているのです。


これは、挽歌の冒頭です。

仁徳天皇の弟の宇治若郎子の宮所とは、何処でしょう。仁徳天皇は時代がかなり上り、日本書紀の記述で見ると4世紀となります。卑弥呼の少し後の時代です…? 

人麻呂はそんな古い時代の宮所の松を詠んだのでしょうか?


宇治若郎子自身の歌は日本書紀にも万葉集にもありません。

宇治若郎子は皇太子でしたが即位せず、三年間も兄と極位を譲りあい、ついに亡くなったのです。不自然でしょう。


ここに寓意が込められているのです

どんな?

皇太子でありながら、即位できなかった。身内により皇位を奪われた皇子である。誰かに似た状況ではありませんか。そう、有間皇子に、よく似ています。


有間皇子事件を宇治若郎子になぞらえて、人麻呂は挽歌に詠んだのです。


ここは、あの方がお住まいになっていた宮だが、もうあの方はいない。今木の丘に松が茂り立っている。愛しい人の許へ来たという「今来」という名は今となっては空しいが、今木の丘の上に……。松の木さえ、あの方を「いつまで待つ松の木」であろうが、あの松をあの方もごらんになったのだ。

 

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柿本人麻呂は、ちまたの噂通り、持統天皇を崇拝し愛していました。それは深い敬愛でありました。持統天皇の崩御後も霊魂に話しかけ、面影を追い続けました。

人麻呂の愛の証、それは万葉集の編纂と献上でした。人麻呂こそ初期万葉集を編纂した人なのです。
持統天皇のために編纂し、約束を守って万葉集を献上し、それが故に刑死したのです。

「すぎにし人の形見とぞ」 

すぎにし人の形見とぞ……これが人麻呂の歌を解く鍵になる詞です

人麻呂を想うと、この言葉が胸に突きあげます。
彼がいかに持統帝と萬葉集を愛したか。
それが故の刑死を甘んじて受けたのですから。刑死の年は、和銅元年(708)、刑を執行させたのは、元明天皇(阿閇皇女)でした。あの草壁皇子の妃であり、文武天皇の母、心優しい人でした。しかし、人麻呂に死を賜った…その事情は、おいおいお話ししましょう。万葉集を読みながら。
今は、人麻呂の話です。

さて、人麻呂は持統太上天皇崩御の後、再び紀伊國を訪ねました。なぜ?
もちろん「すぎにし人の形見」の地だから、その霊魂に会いに行ったのです。愛する持統天皇の霊魂に


万葉集・巻九の挽歌の冒頭歌

大宝元年(701)紀伊國行幸の歌は、巻九にありました。冒頭から有間皇子を偲ぶための編集になっていました。
同じく巻九の挽歌の冒頭の五首は、「右五首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出る」と説明されています。もちろん、人麻呂自身の歌です。
『宇治若郎子の宮所の歌一首』『紀伊国に作る歌四首』の五首です。

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宇治の都を詠んだ額田王 


宇治若郎子につながるような歌を額田王も読んでいます。二つの歌の『宇治』には共通点があるのでしょうか。


  額田王の歌(または皇極上皇の歌ともいう)


7 金野の 美草刈葺き やどれりし 兎道の宮子の かりほし念ほゆ

 あきののの みくさかりふき やどれりし うじのみやこの かりほしおもほゆ


「金」とは秋のことです。中国の五行説に基づいて秋を表した文字です。

秋の野で草を刈り取って屋根を葺き、仮廬をお作りになって、あの方が宿となさった、あの宇治の都の仮廬をずっと思い続けている


額田王が詠んだ宇治の宮子とはどこでしょう。

宇治若郎子に所縁の宮であれば、額田王も皇子の悲劇を詠んだと思われます。有間皇子を宇治若郎子に擬して、牟婁温泉に護送された時に草を刈り取って仮廬とした、あの悲劇の旅を詠んだとしたら、どうでしょう。

あの秋の出来事、もう寒くなっていたのに野宿のために草を刈り仮廬の屋根を葺かれた、高貴な方にはお辛い旅の宿であったろうに。秋になると、宇治の若郎子のように命を絶たれたあの方の仮宮を思い出してしまう。

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次は、人麻呂が紀伊国で詠んだ歌です。
彼が愛していたのは……


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# by tizudesiru | 2016-11-13 12:32 | 156・人麻呂は女帝のために生きた | Comments(0)

155・持統太上天皇の紀伊国行幸の最終歌

155・紀伊國に止まず往来む


持統天皇の心緒を述べた行幸の最終歌

いよいよ紀伊國行幸十三首の最終歌です…

大宝元年・紀伊国行幸の最終歌では、何をどのように詠んでるのでしょう。

1679 紀伊国に止まず通はむ妻の杜妻よし来せね妻と云いながら
きのくにに やまずかよはむ つまのもり つまよしこせね つまといいながら

 紀伊国にはこれからも続けて通って来ます。ですから、妻の杜の神様、その名の通り「妻の杜」の神ならば、妻を連れてきてください。「妻」という名なのですから。

妻の杜に祈りを捧げたら、ひたすら都に戻るのでしょう。

ここで、捧げた祈りは、妻の杜の神に『神ならその力を見せてほしい。妻の杜なら、わたしの大事な妻を連れて来てほしい。その名のように』という、無理難題だったのです。

それも、次の行幸さえ危ぶまれる老女帝が「紀伊国に止まず通わん。」と、祈ったのでした。 

紀伊國には「止まず通って来たい」が十三首目、最終歌なのです。

それは、女帝の率直な願いでした。
では紀伊國行幸の十三首を振り返ってみましょう。

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いもがため われ玉もとむ おきへなる白玉よせこ 沖つしらなみ
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しらさきは さきくありまて おほふねに まかじしじぬき またかへりみむ
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みなへのうら しおなみちそね かしまなる つりするあまを みてかへりこむ
あさびらき こぎいでてわれは ゆらのさき つりするあまを みてかへりこむ
ゆらのさき しほひにけらし しらかみの いそのうらみを あへてこぐなり
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くろうしがた しほひのうらを くれないの たまもすそひき ゆくはたがつま
かざなしの はまのしらなみ いたずらに ここによせくる みるひとなしに

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わがせこが つかいこむかと いでたちの このまつばらを けふかすぎなむ

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ふじしろの みさかをこゆと しろたえの わがころもでは ぬれにけるかも
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せのやまに もみじつねしく かむおかの やまのもみじは けふかちるらむ
やまとには きこえもゆくか おほがのの たかはかりしき いほりせりとは
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きのくにの むかしさつおの なりやもち しかとりなべし さかのうえにぞある
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ここに見えるのは、持統帝の有間皇子への強い執着、亡き人への鎮魂の想いです。
鵜野皇女(持統帝)は有間皇子を知っています。心の深くで思い続けています。
持統天皇の子ども時代の呼び名は、鵜野(うの)皇女、宇野讃良(うののさらら)皇女などがあります。有間皇子事件は658年ですが、その時鵜野皇女は十三歳ぐらいです。

有間皇子は持統帝にとって、いかなる存在だったのでしょう。それが、紀伊国行幸を読む大きな動機でしたね。

有間皇子は持統天皇の所縁の人、親族である可能性は高いです。


では、

①鵜野皇女(持統天皇)は、有間皇子の妃(または婚約者)

➁鵜野皇女(持統天皇)は、有間皇子の妹

③鵜野皇女(持統天皇)は、有間皇子の娘

④鵜野皇女(持統天皇)は、父・天智帝に代わって有間の鎮魂をしただけで、有間皇子との血縁は薄い

以上考えられますが、あなたはどう思いますか。

わたしも、長くこのことを考えました。

私の結論は他の所でお話しします。
有間皇子とは何者だったのか、実はそれも万葉集で解けるのです。
そして、柿本朝臣人麻呂とは何者だったのかも。




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# by tizudesiru | 2016-11-12 11:53 | 155・持統帝の紀伊国行幸の最終歌 | Comments(0)

154有間皇子は無実だった

有間皇子は無実だった

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大宝元年は西暦七〇一年、持統帝は大宝二年十二月の崩御であるから、最後の一年に力を振り絞って紀伊国の旅に出たということです。そこで献じられた十三首に何が読み込まれていましたか。

 まず、紀伊国海岸の白玉が詠まれ、黒牛潟、白崎、由良の埼、南部の浦、出立と有間皇子の護送の道を辿り、皇子の終焉の地・藤白坂に到達しました。そこで、有間皇子の無実と無念とが語られ、持統太上天皇と文武天皇は都へと還幸されました。行幸の行程は有間皇子の死出の旅路を辿るという、鎮魂の思いが凝縮された十三首なのです。

持統天皇の有間皇子への深い思いを陳べた万葉集・巻九の「紀伊國行幸の十三首」、その十三首の内、十一首まで紹介しました。


次は、十二首目です。

万葉集・巻九の冒頭歌の仕掛け

十二首目の歌に入る前に、巻九の冒頭歌の話をしなければなりません。

そこには、寓意が込められているのです。


巻九の冒頭歌は、大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の御製歌です。


1664 ゆうされば小掠の山に臥す鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも


 左脚に、「或本に岡本天皇の御製というが分からないので再度のせた」


 これは、舒明天皇(岡本天皇)御製歌として、巻八に「ゆうされば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」という歌と重複していることの説明です。どちらも天皇御製歌とされています。


さて、「今宵は鳴かず」の鹿はどうなったのか、ですが、万葉集では殺されたことを暗示しているのです。

当時の人なら誰もが思い出した鹿の物語は、日本書紀の仁徳紀の「菟餓野の鹿」と続日本紀の「摂津国風土記」逸文の「夢野の鹿」の物語でしょう。これらの物語が何時成立したのか定かではありませんが、少なくとも7世紀末か8世紀初めには物語があったのです。そして、どちらも狩人に殺された話です。


巻九の冒頭の二首目・三首目は、岡本宮御宇天皇の紀伊國行幸の時の歌です。


1665 妹がため吾玉拾う沖辺なる玉寄せもちこ沖津白波


1666 朝霧に濡れにし衣干さずしてひとりか君が山路越ゆらむ


と、このように三首が並んだ後に、「大宝元年の紀伊國行幸の十三首」が置かれているのです。巻九は、

雄略天皇・舒明天皇・天皇に従駕した者の歌(十三首の冒頭は白玉の歌)

どこかで見た並びです。

そう、万葉集・巻一が、

雄略天皇御製歌・舒明天皇御製歌・天皇に従駕した者の歌

雄略・舒明の御製歌に続くのは、「中皇命が間人連老に献じさせた歌」なのです。この並び……巻一と同じだ、冒頭歌には意味があると、ふっと思います。


巻九を読んでいた人は、この並びは偶然ではないと気が付くのです。

巻九の白玉と、巻一の中皇命の歌が共鳴します。


ここで中皇命が登場することで、斉明天皇の紀伊國行幸の時の「君が代もわが代も」の歌、「わが瀬子は仮廬作らす」の歌、「吾ほりし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾りはぬ」の歌がすっと顕れて、この玉の歌が、巻九の白玉につながってしてしまう。そういう仕掛けになっているのです。

巻九は、巻一と同じように大事なのだと。
九は「ここのへ」宮廷の話を象徴しているのかも知れません。

中皇命の必死の嘆願にもかかわらず、有間皇子は絞殺されました。本当に謀反であったなら、絞殺ではなく最高刑の斬刑でしょう。しかし、斬刑ではなかった。そこに、皇子は無罪だった匂いがします。

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紀伊國行幸の時の十三首に戻ります


1678 
紀伊国の昔弓雄の鳴り矢持ち鹿猪取り靡べし坂の上にぞある


その昔、紀伊國のあの剛の者弓雄が、鳴り矢をうならせて鹿猪を退治し一帯を平定した、その坂の上であるぞ、此処は。


上記のように、これまでも岩波や集英社に紹介されている現代語訳を紹介してきました。しかし、ここで現代語訳を紹介すると、意味が取りにくくなるので、原文を紹介します。

1678木國尓  昔弓雄之  響矢用  鹿取靡  坂上尓曽安留

きのくにに むかしさつおの なりやもち しかとりなべし さかのうえにぞある


むかしむかし、紀伊國にいた猟師が鳴り矢で鹿を取り抑え、辺りを平らげたという、まるで鹿のように皇子はここで取り押さえられ命を奪われた。そうして、皇子の勢力を平らげ政変は成し遂げられた。ここは、その政変により皇子が最期を遂げられた坂の上であるぞ。(一同そろって、心から皇子のご冥福を祈ろう)

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十二首目のこの歌は、有間皇子事件を象徴する歌です。

その悲しみも、皇子の無念も、事件の残酷さも、持統帝の内に秘めた思いも、すべてを象徴した歌なのです。

万葉集には、罠にかかって命を奪われた皇子の歌が、寓意を以って編集されています、他にも。

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次は十三首目、紀伊國行幸の最後の歌です。
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また後で


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# by tizudesiru | 2016-11-11 12:44 | 154 ・有間皇子は無実だった | Comments(0)

153有間皇子の終焉の地を訪ねた持統太上天皇

有間皇子の終焉の地を訪ねた

持統太上天皇

大宝元年辛丑冬十月・大行天皇を伴っての紀伊國行幸のクライマックス

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1675 藤白の御坂を越ゆと白栲の我が衣手は濡れにけるかも

 藤白の御坂は有間皇子の終焉の地であれば、その坂を越える時に皇子の姿を思い出し、四十年経っていても私の衣手は流れる涙に濡れてしまう。私には忘れることのできない出来事なのである。私がこの坂を訪れるのも、これが最後かも知れない


牟婁の温泉まで連れていかれて尋問を受けた有間皇子は、藤白坂で追っ手により絞殺されてしまいました。伴の者や同行した家族が泣き叫び、無実を訴える中から皇子は引き離され、斎橿の下へ連れていかれたのでしょう。

その理不尽、不条理、家族の嘆きを一身に受けて皇子は橿の樹の本に立たれたのでしょう。その姿は凛としていた……その最後の姿を伝え聴いた額田王が「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 我が背子がい立たせりけむ厳橿が本」と読んだのだと、すでに紹介しました。


藤白坂で、最後に皇子の瞳に焼き付いた人物は誰だったのか。それはわかりませんが、皇子の最後の言葉を親族は聞き、心の裡に深く残したことでしょう。この藤白坂で四十年後も涙を流す人こそ、有間皇子に所縁の人ではないでしょうか。

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藤白の御坂を越ゆと白栲にわが衣手は濡れにけるかも……の歌碑
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藤白坂で鎮魂の儀式をすませた行幸の人々は、都を目指して進み始めます。

暖かい紀伊国に秋が深まり、平地も紅葉し始めていました。


1676 背の山に黄葉常敷く神岳の山の黄葉は今日か散るらむ


 紀ノ川の北岸にある背の山の黄葉は今散っている。これから帰る都の神岳(かむおか)の黄葉は今日あたりに散ってしまうであろうか。思えば、皇子がお亡くなりになったのは、黄葉が散り敷くちょうど今頃であった。背の山の黄葉を皇子はご覧になれなかったであろう。


1677 大和には聞こえも行くか大我野の竹葉刈り敷き廬せりとは


 明日辺りは都も見えて来よう。行幸の一行が大我野まで帰ったことは都にも伝わったことだろう。大我野には家もあろうに、わざわざ竹の葉を刈りとって旅の宿りとしたこと。有間皇子が草を刈って仮廬となさった最後の夜を偲んで、竹葉の廬で一夜を過ごしたことを知ったら都の人には分かるだろう。この旅は、文武天皇にとっても大事だったということが。


いよいよ紀伊国行幸も終盤、最後まで皇子を偲んだというのです。

ここまで、紀伊国行幸の十三首の内、十一首まで紹介してきました。

持統太上天皇は紀伊國を訪ね、有間皇子を偲びながらその霊魂を鎮魂し、藤白坂に至って号泣されたのでしょう。「我が衣手は濡れにけるかも」と書かれています。持統帝に成り代わって従駕の者が詠んだのでしょう。では、誰が?


長忌寸意吉麻呂は詔に応えて「風なしの浜の白波いたずらにここに寄せ来る見る人なしに」と詠みました。

巻二では、柿本人麻呂が「大宝元年辛丑紀伊国に幸す時」に

「後見むと君が結べる岩代の子松がうれを又も見むかも」

後に見ようとあの方が結ばれた岩代の子松の枝、その松のうれを私は今日見た…だが、この後、私は結松を再び見ることができるのだろうか。(私も年を重ねた…この後、再び松を見ることはできないかもしれない。)

と詠みました。

紀伊国に人麻呂も従駕していたのです。「我が衣手」の歌は、人麻呂が太上天皇に寄り添って読んだのかも知れません。人麻呂は女帝の心緒を述べた歌を万葉集に残しています。

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次が、皇子の無実を陳べる紀伊国行幸の総括の歌です。

 

また後で


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# by tizudesiru | 2016-11-10 11:06 | 153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇 | Comments(0)

152有間皇子の霊魂に別れの儀式

有間皇子の霊魂への別れの儀式


大宝元年辛丑冬十月の紀伊國行幸の真実

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大宝(大寶)元年は「大宝律令」が完成した年で、律令の施行は大宝二年になります。

「大宝」と年号を建てた記念すべき年の行幸です。

それも、時の最高権力者が二人も揃っての行幸。

持統帝の崩御は大宝二年ですから、女帝は思いでの地への最後の旅と意識して、有間皇子の霊魂に別れの儀式をするために行幸したのです。


「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇・大行天皇、紀伊国に幸す時の歌十三首
 


実は、この十三首の前に、巻九の冒頭には三首置かれています。この巻九の編集にはおおいなる編者の意図があるのですが、その話は別の機会にまわします。

太上天皇(持統帝)と大行天皇(文武帝)の冬の行幸は、単なる物見遊山ではないのです。

では、十三首を率直に読み、そこに込められた意味を考えてみましょう。

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1667 妹が為 我が玉求む 沖辺なる白玉よせ来 沖つ白波


 大事な人のために私は白玉を求める。わたしは白玉にどうしても託したい願いがある。遠くの沖にある白玉をここに寄せて来てくれ、沖の白波よ。


沖には白波が立っていて波が荒いのです。その強い波の力で白玉を寄せて来てくれと願う歌から、十三首が始まります。

ここには、左脚があって「右の一首は先に載せているが、ただ、歌意が少し違い、年代も違っているので、重ねて載せた」と書かれています。

つまり、巻九の冒頭の三首の中に、「妹が為 吾玉拾ふ 沖辺なる 玉寄せ持ち来 沖つ白波」があって、すぐ後に同じような歌が掲載されているので、理由を説明したのです。

それにしても、紀伊國行幸の冒頭歌が「白玉」の歌なのです。


紀伊國の白玉と言えば、誰もが「我が欲りし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾はぬ」中皇命の歌を思い出すから、紀伊國行幸の冒頭にこの歌が置かれたのです。


四十年前、中皇命は有間皇子を追って紀伊國まで来ました。

冒頭歌は、四十年前のあの哀しい別れ、有間皇子事件にタイムスリップする歌なのです。

有間皇子事件には中皇命は欠かせない。

ただの悲しいドラマではないのです。

持統帝は孫の文武帝にどうしても紀伊國行幸で伝えたいことがあったのです。


「帰り見む・帰り来む」は、生きて還り、大切な人に再び会うこと

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1668 白崎は幸く在り待て大船に真梶しじ貫き又帰り見む


 紀伊國の美しい白崎の岬よ、そこでそのまま待っていてくれ。大船はたくさんの梶を取り付けているから、きっと無事に帰って来る。そうしたら、白崎よ、再びお前を見たい。

「帰り見む」とは、強い意志を表した言葉です

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白崎と白崎海岸の万葉歌碑

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由良の埼

1669 みなへの浦 潮な満ちそね鹿島在る 釣する海人を見て帰り来む


 みなへの浦の潮よ、そんなに満ちて来ないでくれ。鹿島で釣する海人を見て帰って来たいから。


1670 朝開き漕ぎ出て我は由良の埼釣する海人を見て帰り来む


 
朝早く漕ぎ出して、由良の埼で釣をしている海人を見て、帰って来たいのだ。

真梶をたくさん取り付けて、大船で何処へ行くというのでしょう。
みなへの海で釣する海人を見るだけで、帰って来るのです。
朝早く、由良の埼の海人を見て帰って来るのです。
そう遠くはない所に行くのに、まるで帰って来れないかのような歌になっています。


紀伊國行幸で、従駕の者が歌を詠みました。有間皇子が見た風景を、「再び帰って来て逢いたい人がいる。どうしても帰って来るのだ」という強い意志を、行幸に従った者が詠みました。「帰り見む」と望んでも果たせなかった皇子の霊魂を、歌で鎮めたのでした。
持統太上天皇も文武天皇も、じっと耳を傾けたことでしょう。

5首~7首目・潮が引いた浜辺に寄せ来る波・あの日のことが波が寄せるように繰り返し思い出される

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1671 由良の埼潮干にけらし白神の磯の浦みをあへて漕ぐなり

 
由良の埼は潮が引いたようで船が進みにくいのに、それでも白神の磯の辺りを船が漕いで行くようだ。(なぜに、そんなにまでして舟は離れて行かなければならなかったのだ。皇子を船に乗せて)


1672 黒牛潟(方)潮干の浦を紅の玉裳裾引き行は誰が妻


 潮はますます引いて黒牛方が見えている。その広い浜辺を紅の美しい裙を引きずりながら歩いて行くのは、誰の妻だというのだ。(あの美しい高貴な夫人は皇子の所縁の人。連れていかれた皇子の姿を最後まで見送り、一人残されて放心したように歩いていたあの方の姿が今も目に焼き付いている。)


1673 風なしの浜の白波いたづらにここに寄せ来る見る人なしに


 風が止まったように静かな浜辺に、白波だけは繰り返し寄せて来る。この美しい浜辺を一緒に見たかったあの方はいないのに、波だけが空しく寄せて来る。


この歌には左脚がついています。「右の一首、山上臣憶良の類聚歌林には「長忌寸意吉麻呂が詔に応えてこの歌を作る」といふ」と。この歌は、持統天皇が望んで意吉麻呂に詠ませたと書かれているのです。「見る人なしに」の見る人とは、当然、有間皇子のことになりましょう。皇子は帰って来なかった、この浜辺を共に見るべき人はいないのに波は空しく寄せて来る、という歌意になります。

八首目・出立の松原を過ぎて行く人

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1674 我が背子が使ひ来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ

 この出立の松原は、あの日大事なあの方が使いを待っておられた松原なのだ。四十年たった今日、その松原を私は通り過ぎて行く。あの方を偲んで通り過ぎて行くだけなのだ。(この後、この松原に来てあの方を偲ぶことはないのだろう)

現在は、出立の松原の痕跡を辿ることはできません。しかし、熊野九十九王子社の一つとして、出立王子(田部王子)という社と名が残されています。
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出立で、四十年前の有間皇子との別れを十分に偲んだ後、白浜にも牟婁の湯にも行幸されたことでしょう。
持統太上天皇と文武天皇の旅は、いよいよ帰路になります。

それにしても
これほどまでに、有間皇子の悲劇の跡を訪ねる人、持統天皇とはどのような宿命を持った人なのでしょう。

如何なる宿命の人なのでしょう。
では次回へ。



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# by tizudesiru | 2016-11-08 11:19 | 152有間皇子の霊魂に別れの儀式 | Comments(0)

151・有間皇子を偲ぶ歌

有間皇子を偲ぶ歌

皇子を偲んだのは持統天皇
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結松の記念碑のある岩代からみなべの海と白浜方面を望みます。


持統帝は有間皇子を偲んだ

朱鳥四年(690)紀伊國行幸の一行は、岩代の海岸に至ります。そこで、川嶋皇子の御歌が詠まれました。他にもこの時詠まれた歌が、巻二の挽歌にあります。行幸に従駕した長忌寸意吉麻呂の歌です。


143 岩代の岸の松が枝結びけむ人は返りてまたも見むかも(長忌寸意吉麻呂)

 
 岩代の結松を見ると、松が枝を結んで再び帰って来ることを祈られた皇子が思い出される。皇子は帰りにこの結松を再びご覧になったのであろうか。


144 岩代の野中に立てる結松 心も解けずいにしえ思ほゆ
(同上)


 岩代の野中に立っている有間皇子が結ばれたという結松、この松のように私の心も結ばれたようになって、昔の出来事がしきりに思い出される。


意吉麻呂の歌に山上臣憶良が追和しています。追和ですから、別の機会の歌でしょうか。



145 天翔りあり通ひつつ見らめども 人こそ知らね松は知るとも
(山上臣憶良)

「鳥翔成」は「天翔り」と読んでありますが、この読みには定説がありません。


鳥となった皇子の魂は、何度も何度も通って松をご覧になったことでしょう。その事を人は気が付かず知らないでしょうが、松は皇子が来られることを知っているのです。

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上記の三首の後に左脚があり「これは、柩を挽く時の歌(挽歌)ではないけれど、歌意が挽歌の類に入るのでここに掲載した」と書かれています。
三首に続いて柿本朝臣人麻呂の歌が載せられています。「大宝元年辛丑に紀伊國に幸す時、結松を見ての歌一首」と題があります。

146 後見むと君が結べる磐代の子松がうれを又も見むかも(人麻呂)

 無事に帰って来て再び見よう、後に見ようと、皇子が結ばれた子松の枝。その松が枝を私も後も見たいが、再び見ることができるのだろうか。*大宝元年(701)は、持統帝崩御の前年です。

人麻呂は、持統帝に成り代わってこの歌を読んだのでしょう。大宝元年に文武帝を連れての紀伊國行幸です。将に、「またも見むかも」の心情をくみ取っての歌と言えます。

名だたる歌人が詠んだ、結松の歌。これらは、紀伊国に旅をして気ままに詠んだ歌ではありません。従駕したお供の者が献上した歌の類です。

有間皇子を偲んだのは、もちろん持統帝です。なぜに、ここまで? 当然の疑問が生まれますね。

 

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# by tizudesiru | 2016-11-07 15:51 | 151有間皇子を偲ぶ歌 | Comments(0)

150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女の歌

阿閉皇女が草壁皇子を偲ぶ歌

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紀伊に旅して印象に残った白崎。ここで「白崎は幸くありまて」の万葉歌碑を見て、思わず涙しました。この美しい風景には様々な悲話が重なるのですから。


紀伊國の旅はなんといっても持統天皇の大宝元年の「紀伊國行幸」の時の歌群が内容的にも圧巻です。持統天皇の紀伊国行幸は数度あるようですが、二度は万葉集で誰にも確認できます。


その一度目は、朱鳥4年(690)持統帝が草壁皇子を亡くした翌年です。
草壁皇子の妃の阿閇皇女を伴っての行幸です。阿閇皇女は夫を失って失意のうちにありました。持統帝はこのとき息子の嫁を元気づけようとしていたのです。皇女には草壁皇子の遺児が三人いて、
中でも跡取りの軽皇子の成長を待って皇位継承を成さねばならなかったのです。その為に堅い決心を促すために、旅にさそった…それが「紀伊國行幸」です。そこで持統帝が見せたもの、それには重大な意味がありました。

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阿閇皇女は愛情深い優しい人でありました。

阿閉皇女は天智天皇と蘇我石川麿の娘の姪郎女の娘です。持統天皇の母も蘇我石川麿の娘の越智娘となっていますから、持統帝とって、息子の嫁は妹であり姪であり非常に近い間柄です。


「勢能山を越ゆる時の阿閇皇女の作らす歌」巻一の35

 
これやこの倭にしては我が恋ふる紀伊路にありという 名に負う背ノ山

この歌は、単なる土地褒めの歌でしょうか。阿閇皇女は夫の突然の死によって深く傷ついていました。この紀伊國行幸は物見遊山というより、この先どのように生きるのか、何をしなければならないのかを義母から諭された旅であったのです。

「これがそうですか。お母さま、いえ、陛下から常々お聞きしていた勢能山は。紀伊路の紀ノ川(吉野川)を挟んで背ノ山と妹山が向かい合っています。わたくしは織姫と彦星のように離れていても心から慕いあうお話を聞いて、ぜひとも背ノ山を見たいと倭から恋焦がれておりました。今日、とうとう背ノ山を見ました。お別れした我が背の君を思い出させる背ノ山。わたくしは、これから織姫のように我が背の君との逢瀬を待ち続けましょう、ずっと。」

背の山を見た皇女は草壁皇子を思い出して、十分に涙を流したことでしょう。皇女は夫を愛していたし、三人の子どもたちを心から愛しているのです。

やがて、始めて背ノ山を見て涙を流した阿閇皇女が連れていかれたのは、
有間皇子が浜松が枝を結んだ岩代だったのです。その地を見せるのが持統帝の目的でしたから。
朱鳥四年九月の行幸の目的は、岩代の結松に手向けすることでした。この年の一月に、持統天皇は即位していました。

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阿閇皇女の『これやこの』の歌の前にあるのは、川嶋皇子の「紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌」です。川嶋皇子は翌年に薨去していますから、死の一年前の歌です。


白波の 浜松が枝の手向け草 幾代までにか年の経ぬらむ



明らかに有間皇子の「岩代の浜松が枝を」の歌を踏まえた歌です。有間皇子の刑死の年(658)から朱鳥四年は三十年余りたっていますが、祈りをささげた結松は残っていたというのでしょうか。

「白波が打ち寄せる岩代の浜辺の結松は、あの有間皇子が祈りを込めて結ばれた手向け草だった。皇子は無事を祈られたのに帰路で追っ手により亡くなってしまった、無実だったのに。あの有間皇子事件からどのくらい年月が経ったというのだろうか。何年も年月が流れたが、結松を見ると胸が痛む。

川嶋皇子は親友だった大津皇子の謀反を密告した人です。
「吉野の盟約」にも参加した、天智天皇の皇子で、姉の大江皇女は天武天皇の妃になり、長皇子と弓削皇子を生んでいます。
川嶋皇子が有間皇子を悼み、結松を読むことは意味のあることでした。

川嶋皇子は、大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子は無実だったので、

その運命の過酷さを悼み、皇子を偲んでいる…となるのです。

皇子川嶋に「結松」を読ませたい人は、誰か? もちろん、此の行幸の主人でしょう。

朱鳥四年の紀伊国行幸で詠まれたと思われる歌がまだありますが、それは、また今度。
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また後で



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# by tizudesiru | 2016-11-06 15:48 | 150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女 | Comments(0)

149・有間皇子を愛した間人皇太后

有間皇子を愛した間人皇太后
スキャンダルとして取り上げたのではありません

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144「紀伊國に有間皇子の跡をを訪ねて」で下記のように書いていました。
先に取り上げた内容は、実は私の本音が含まれていなかったので、訂正したいのです。
舒明帝の娘だった間人皇女が、孝徳天皇の皇后に立てられた時、二人には年の差がありました。それで、孝徳帝は大事にしていたのですが、中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて明日香に帰ってしまいます。孝徳帝との間に意見の違いがあったのでしょう。更に、中大兄皇子は、ずっと皇太子のままで二十年以上も即位していません。それは、妹との道ならぬ関係を断つことができなかったからだというのです。果たして、そうでしょうか。私は、別の意見を持っていますが、それは後で。


貴方の寿命もわたしの寿命も知っているであろうか、岩代の岡のしっかり根を下ろした松の枝を、さあ結びましょう。

我が背子が仮廬を作っていらっしゃる。カヤがないのなら、子松の下のカヤをお刈りなさいませ。

わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれた。でも、阿胡根の浦の玉は拾わなかった。玉こそ拾いたかったのに。


此処に、中皇命の歌が三首もあり、それも有間皇子の歌と対応するのです。

岩代の濱松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む

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孝徳帝の崩御の時、間人皇太后は飛鳥から難波に戻らなかったのでしょうか。

間人皇女は皇后だったのです。皇太后は帝の葬儀のために難波宮に戻ったはずです。そこで、皇位継承の御璽を受けたから「中皇命」という立場になったのです。玉璽を一時的に預かる立場です。それを誰に渡すのか、それが問題でした。当然、中大兄皇子は明日香に帰っていますから、その権利を主張しにくいでしょう。葬儀が終わった後も中皇命は難波宮に残り、大化改新の新体制が全国に浸透するように、難波宮の官僚たちと仕事をしていたのだと思います。近年発見されている三野国の木簡にしても「評」の行政区が書かれ、租税を納められているのですから。天皇の崩御の度に行政が滞ることはないのです。当然、有間皇子も難波宮の東宮の館に住んでいたことでしょう。間人皇后は難波宮の後宮に女官や孝徳帝に仕えた女性たちを護りながら過ごしていたはずです。
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前期難波宮の遺構は赤の部分・八角形の建物は東西にありました。

前期難波宮が孝徳朝の宮跡とされています。掘立柱の異様なほど立派な「いうべからず」という宮殿だったのです。もちろん、後宮も北に在りました。
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難波宮、此処から有間皇子は連れ出されたのです。間人皇太后は事の重大さに不安を覚え、皇子を迎えに行きました。しかし、紀伊國に入って、有間皇子に掛けられたその嫌疑に愕然とします。このことは、後日触れます。
皇太后は皇子に語り掛けました。岩代から白浜が見えています。
「殿下、お気持ちをお察しいたします。殿下がこの先々どれほど永らえられるか、わたくしの命さえどれほどのものであるか、誰が知っているでしょう。ですが、岩代のあの岩ばかりの岡の草は根を深く下ろし、あのようにしっかりと命をつないでおります。岩代の岡はその命運を知っているのでしょうか。さあ、あの岡の草根を結んで、互いの代の永からんことを祈りましょう」

君が代もわが代も知るや 岩代の岡の草根をいざ結びてな


皇子も促されて草を結びました。間人皇太后は、白浜に目をやります。

「殿下、白浜が見えております。あす、出立の松原を過ぎれば、太后のおられる白浜は遠くは有りません。太后はわたくしの母君ではありますが、母を捨てて殿下にお味方したわたくしの言葉など聞いては下さいますまい。まして、兄にすれば。……殿下、今夜はどうぞごゆっくりお休みくださいませ。仮廬の草を深く敷かれてくださいませ。草が足りなければ、殿下が結ばれたあの小松の下の草をお刈りくださいませ。必ず、殿下のお体をお包みしお慰めすることでしょう。」

我が背子は仮廬作らす草なくは 小松が下の草を刈らさね


いよいよ、皇子が一人牟婁の温泉(ゆ)に送られる時が来ました。伴の者も、自ら追いかけて来た中皇命も見送るほかありません。中皇命は去りゆく皇子の姿に問いかけました。

殿下、今一度お声を聴きとうございます。殿下、わたくしがかねてより見たいと申し上げていた野島は見せていただきました。あの野島の海女が潜水して白玉を得ているのですね。願いをかける白玉を。でも、殿下は白玉を拾おうとはなさらなかった。底深い阿胡根の浦の白玉を拾って祈ろうとはなさらなかった。わたくしの心には深い恨みが残りました。ああ、白玉を拾って祈りたかったのに」

吾欲りし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ

中皇命は間人皇太后以外ありえないでしょう。それでなければ、これほどの歌を読むことはできません。後の人が作った歌物語だったとしても、有間皇子の物語を詳しく知っての作となるでしょう。
中皇命は本気で有間皇子に皇位を伝えるつもりだったのです。
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岩代の海の迫った海岸、
みなべの海の奥に白浜が見える。









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# by tizudesiru | 2016-11-05 09:45 | 144・紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて | Comments(0)

148光の道は弥生時代から

宮地嶽古墳・元宮から冬至の日没ラインを見ると
宮地嶽古墳→志賀海神社(元宮の辺津宮)→灘山→彦山→大祖神社(塩土翁をまつる)     志賀海神社はもともと外海に向いていました
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夏至と冬至の日の出の山、春分秋分の日の出の山は、古代の人にとって「祭祀の山」であり、「暦かわりの山」でもありました。
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北部九州だけではなく、あらゆる地方に暦の山はあったことでしょう。北部九州では、そこに弥生の王墓と呼ばれる遺跡が並ぶのです。
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この飯盛山の東に吉武高木遺跡があり、西に三雲南遺跡があります。
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王の証として、中国の皇帝から贈られた棺の飾り金具が三雲南王墓から出土しています。弥生の太陽の道(東西ライン)が、王の永遠の眠りの場であったのです。九州に邪馬台国があったのなら、女王はこの道にかかわるどこかに眠っているはずです。平原王墓も十分にその可能性があるし、春日市の須玖岡本のどこか、又は、須玖岡本の真北になる香椎宮のあたりなど、可能性がありますね。




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# by tizudesiru | 2016-11-04 10:47 | 148光の道は弥生時代から | Comments(0)

147糸島高校の博物館に行きました

糸島高校の博物館に行きました
60周年記念の「公式ガイドブック」(1000円)も買いました。
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ぜひとも見せていただきたかったのは、舟形石棺でした。大正2年頃に長須隈古墳(二丈町鹿家)から掘り出されたという砂岩の刳り貫き型石棺は、盗掘を受けて上蓋が割られていましたが、見事な加工が施されていました。発見された当時は内側は真っ赤だったそうです。今は、わずかに朱が残っているだけです。雨ざらしだったそうですから、無理もありませんが。さすがに、中に入って遊ぶ生徒はいなくなったとか……
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確かに、ベンガラではない水銀朱の赤色でした。糸島の朱は輸入物だとよく聞きます。
一貴山銚子塚古墳(3世紀後半~4世紀初)の水銀朱が、糸島高校にあると聞いていたので、それも見ることができました。
水銀朱が使われた甕棺や古墳は糸島地域に数多くあります。神在遺跡の5号甕棺の内部、泊熊野遺跡の甕棺のにも水銀朱が溜まっていました。潤地頭給遺跡は玉作工房として知られていますが、水銀朱やベンガラの精製にもかかわっていたことが明らかになりました。
卑弥呼が魏から贈られた品に名の中に「真珠(水銀朱)五十斤」が記録されています。倭国への重要な下賜品でもあったのです。

これらの、細かい説明は「公式ガイドブック」の中に書かれています。当然、原田大六氏の多大な功績が掲載されているのは言うまでもありません。
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この祭祀用の土器に塗られているのはベンガラです。
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どこか特殊器台に似ていませんか。九州で水銀朱やベンガラが使われなくなって、近畿でも朱やベンガラが使われるようになったと、ある有名が研究者が話をされていました。九州の弥生時代に「水銀朱」が大量に出土することは、邪馬台国論争でも重大なことと思います。
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他にも三種類の布に包まれていた鏡や百済系陶質土器や、玉杖や顔が描かれた壺など、見ておきたいものがたくさんあります。







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# by tizudesiru | 2016-11-04 08:01 | 147糸島高校博物館 | Comments(0)

146有間皇子の墓は岩内1号墳か

有間皇子の墓は
岩内1号墳
和歌山には 歴史上に皇族の墓はないが、岩内1号墳は皇族の墓の様相を呈している
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岩内1号墳
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岩内1号墳・7世紀後半の築造とされています。有間皇子の墓が岩内に築造された理由も経緯も分かりませんが、この石室の羨道には切り欠き加工が取り入れられています。将に、九州の技法ですね。7世紀後半に、技術が和歌山には入っていたことの証拠でしょうね。
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薄葬令に従って築造された墳丘墓のようですね。

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# by tizudesiru | 2016-11-03 12:12 | 146有間皇子の墓は岩内1号墳か | Comments(0)

145和歌山と北部九州の古墳

和歌山の古墳
大谷古墳岩橋千塚古墳群

馬甲で有名な大谷古墳に行きました。福岡県新宮の船原3号墳で豪華な馬具と馬甲が出土したのは記憶に新しい所ですね。馬甲は、今のところ日本で3点しか確認されていません。埼玉の将軍塚古墳と、和歌山の大谷古墳と、福岡の船原3号墳の3点です。考えてみると、これは、当然の結果なのでしょう。つまり、三か所は同じ文化圏だったということです。
船原の場合は、半島との仲立ちをしている九州の豪族にヤマト王権が馬具と共に下賜したものとされています。では、藤ノ木古墳に並ぶ豪華なものを下賜したということになり、その技術は畿内にしかなかったということでしょうか。
産業は受容と供給で成り立っていくものでしょうから、供給先が何処なのかというのは大事なことでしょう。馬甲は、関東・紀ノ川流域・北部九州と距離的に離れて出土しているし、畿内に王権があったとすれば、田舎から出たことになります。むしろ、馬甲と馬具は、畿内とは別の文化圏の中で流通したと考えられないでしょうか。
とはいえ、さまざまなシンポジウムで、馬具の様式について議論がある時、新羅系・加也系などの用語が出て来るのです。そこで、将軍塚・大谷・藤ノ木の馬具は常に紹介されますが、他の古墳名はなかなか出てきません。ですので、馬具について多くは知らないのが現実です。
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画像は、船原3号墳を紹介するシンポジウム会場のスクリーンに映されたものです。許可をもらって撮りました。次の写真は和歌山の大谷古墳の墳頂です。後円部の墳頂に石室の説明板があります。
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豊かな副葬品です。紀ノ川流域の平野を見渡せる丘陵の地山を削ように、古墳が築かれています。



岩橋千塚古墳群
ここは、6世紀後半の群集墓が見られるところです。現在確認されている古墳のほとんどは、6世紀後半の群集墓です。日本中に古墳が溢れています。この千塚古墳群で注目すべきことは、横穴式石室に石棚が作られているということです。つまり、九州からの墓制文化の移動です。もちろん、竪穴式の石室もあります。
和歌山県の資料には、「大谷古墳と千塚古墳群は系統の違う氏族の墓」であると説明されています。しかし、そうでしょうか。石棚といい、石積の技術といい、千塚古墳群と九州のつながりは明らかです。そして、大谷古墳の家形石棺の材料は、阿蘇溶結凝灰岩。九州との関係は深かったと言えます。
すると、紀ノ川の北岸と南岸の古墳は、共に九州とのかかわりの深さを示しているのです。それも、石棚・横穴式石室・家形石棺という、築造時期を特定する条件も揃っています。
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和歌山と九州の古代からの結びつきの証拠は、まだまだあるのです。
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# by tizudesiru | 2016-11-02 10:15 | 145和歌山と九州の古墳 | Comments(0)

144・有間皇子事件の目撃者

有間皇子事件の目撃者
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この理不尽な事件を目撃したのは額田王中皇命
二人は紀伊温泉に来ていました。額田王は斉明天皇の行幸に従って、間人皇后(中皇命)は有間皇子に付き添って。
二人の歌が万葉集に残されています。
まず、「紀伊温泉に幸す時、額田王の作れる歌」です。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が瀬子が い立たせりけむ いつかしが本
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣には、読みの定説がありません。
ゆふつきの あふきてとひし
ゆふつきし おほひなせそくも
きのくにの やまこえてゆけ
みもろの やまみつつゆけ
まつちやま みつつこそゆけ
さかどりの おほふなあさゆき
ふけひのうらに しつめにたつ
しづまりし かみななりそね
みよしのの やまみつつゆけ
ゆふつきの かげふみてたつ
しづまりし うらなみさわく
どれもピタリと、意味と読みが合致せず、定説がないのです。云うに言えない心のうちを意味不明の漢字に託して、額田王は読んだのでしょう。
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莫・日暮れ・広い大きい・寂しい→計り知れない寂しさの中
囂・かまびすしい・うるさい、やかましい→うるさく騒ぐ人や
圓・まどい・おだやか→穏やかな人も
隣・となり、集落に家がある→集まって
之・漢文に用いられる日本独特の終助詞・強めの助詞
大相・大きな会見→尋問がおこなわれた
七・一の中からわずかな変化が斜めに芽を出すこと→些細な事で
兄・あに・二つのものを比べて、その中ですぐれたほう→年上の人が。
爪.つめ、爪の先でつまむ→あの方は小さな望みを以って
謁・目上の者に申し上げる→潔白を陳べた
氣・目に見えない力→あの方は凛としておられた
漢字だけで考えると上記のようになります。

わが瀬子とは、有間皇子のことだとしても良い(当の有間皇子を擬する道がありそうである)と、万葉集釋注で伊藤博は書いています。事件は斉明天皇の紀伊國行幸の時に起こったのですから、額田王が知らずに過ごすことはないでしょう。
蘇我赤兄が奏上してきた「有間皇子の謀反」、額田王は斉明天皇の傍近くに居たと思われますから、事の重大さと急変を感じないはずは有りません。「わが瀬子」とは、親しい男性に対する気持ちを込めた言葉です。額田王にとって、有間皇子はどのような存在だったのでしょうね。斉明天皇にとっては、実弟の孝徳天皇の皇子です。甥の姿を見て動揺されたことでしょう。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 わが背の君がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根元よ(万葉集釋注)
「あの方は独り、大臣諸侯の前に連れ出され尋問を受けられた。あの方に掛けられた嫌疑はささやかなことであったが年上の方は詰め寄って…あの方はわずかな望みを以って申し開きをされたが、そのお姿は凛としていた。その場は許されたかに見えたのに、追っ手の手に掛かって、あの方は命を落とされたと聞いた。最後まで、命を奪うために縄がかけられた橿の樹の本に立たれたあの方の姿は毅然としていたという。ああ、私がこのことを忘れることがあろうか。あの方を忘れることはない。」と、私は読みたいと思います。
読めない部分にこそ、本音が隠れているのですね。
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次は、「中皇命、紀伊の温泉に往すの御歌」
君が代も我が代も知るや 岩代の岡の草根をいざ結びてな
わが背子は仮廬(かりいお)作らす 草(かや)なくは 小松が下の草を刈らさね
我がほりし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ
中皇命は間人皇后とされ、『有間皇子がこの温泉に護送された時、間人皇后がつきそって行く途中での歌とされる説がある(田中卓)』と岩波の「古典文学大系」に書かれています。私も、そう思います。
間人皇后と兄の中大兄皇子は、同母の兄妹という関係を越えて恋仲だったという説もあります。
舒明帝の娘だった間人皇女が、孝徳天皇の皇后に立てられた時、二人には年の差がありました。それで、孝徳帝は大事にしていたのですが、中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて明日香に帰ってしまいます。孝徳帝との間に意見の違いがあったのでしょう。更に、中大兄皇子は、ずっと皇太子のままで二十年以上も即位していません。それは、妹との道ならぬ関係を断つことができなかったからだというのです。果たして、そうでしょうか。私は、別の意見を持っていますが、それは後で。
貴方の寿命もわたしの寿命も知っているであろうか、岩代の岡のしっかり根を下ろした松の枝を、さあ結びましょう。
我が背子が仮廬を作っていらっしゃる。カヤがないのなら、子松の下のカヤをお刈りなさいませ。
わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれた。でも、阿胡根の浦の玉は拾わなかった。玉こそ拾いたかったのに。
此処に、中皇命の歌が三首もあり、それも有間皇子の歌と対応するのです。
 岩代の濱松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む
 



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# by tizudesiru | 2016-11-01 16:47 | 144・有間皇子事件の目撃者 | Comments(0)

144・紀伊国に有間皇子の跡を訪ねて

有間皇子の悲劇何故起こったのか
答はシンプル
それは、彼が皇位継承の有力者だったからです。
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和歌山市に二泊して、藤白神社から牟婁の湯まで辿りました。有間皇子の足跡というか、蘇我赤兄に陥れられた皇子が護送された道を辿るのが目的でした。
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孝徳天皇の姉、有間皇子の伯母に当たる斉明天皇の創建と言われる「藤白神社」を出発地としました。藤白神社の境内にある「有間皇子神社」は、昭和になってこの地に置かれた新しい神社です。
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藤白神社は、熊野古道の藤白にあります。
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神社の脇の熊野古道を紫川(ちいさな山川)を越えて、200mも行けば「有間皇子の墓」と呼ばれる地に至ります。
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そこには、案内板が置かれ、有間皇子事件の紹介が書かれています。
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実は、有間皇子の墓は、岩内1号墳が有力とされています。ここは、石室とその副葬品から皇族の墓であろうと推定されています。ところが、和歌山で亡くなった皇族は歴史上は一人もいないということです。有間皇子以外には。それで、岩内1号が有力視されているのです。岩内1号については別の機会に紹介します。
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白崎から、岩代の結松を訪ね、白浜海岸から牟婁の湯とめぐりました。
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先々の有間皇子に関する万葉歌碑に涙しながらの旅でした。これから、数日、万葉の歌を読む旅をしませんか。では、また後で。
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# by tizudesiru | 2016-11-01 13:56 | 144・紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて | Comments(0)

143おほなむち少彦名の神こそは

筑前國宗形郡名兒山を越える時の歌・万葉集巻六
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これは、大伴坂上郎女が詠んだ歌です。この歌は、様々なことを教えてくれます。
時は 天平二年(730)冬十一月、
   (旅人は大納言に昇進し帰京することになった)
   大伴坂上郎女は大宰府の帥の館を出て道に上り
  (一足先に帰京することになった)
   筑前の国の宗形の郡の名兒山を越える時に作る歌
  (名兒山を越えて何処へ立ち寄るのか)
   津屋崎側から名兒山を越えると、そこに或る社は宗形の神。
  (宗像神社にお参りする。他には考えられない)
   名兒山と初めて名づけたのは「大汝、小彦名神」という……
  (古代に津屋崎辺りを手中にしていた神は、大汝=大国主だったのですか!!)

名兒山は宮地嶽神社のある津屋崎にある山地の山です。宮地岳・在自山・対馬見山と連なって、名兒山・桂岳と続いていきます。
  
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 大汝と少彦名の神こそが始めて名付けられたという名兒山、その名を負う名兒山と聞いても、わたしが恋しく思う心には、ほんの少しも慰めにはならないのに。
 この歌には、他の読みかたもあります。
大汝 少彦名の神こそば 名付けそめけめ 名のみを 名兒山と負いて 吾が恋の 千重の一重も なぐさめなくに」
此の名兒山の名は、神代の昔、大国主命と少彦名命がはじめて名付けられた由緒深い名だということであるが、心が和むという、名児山という名を背負っているばかりで、わたしの苦しい恋心の、千のうちの一つさえも慰めてはくれないではないか。「万葉集釋注・伊藤博著」より

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それから、もう一つ
   旅の途中に船を下りて、道にあがって、名兒山を越えて、坂上郎女が立ち寄ったのは、何処でしょうね。
 名兒山を越えると宗像神社です。坂上郎女は旅の安全を祈るために、宗像神社に立ち寄ったと思われます。
 宗像大社の神は、宗像三女神のはずですが。古代のこの辺りの神は、大国主だったのでしょうか。では、三女神の信仰は、何時ぐらいから始まったのでしょうね。

「おほなむち すくな御神の 作らしし 妹勢の山を 見らくしよしも」
という本朝臣人麻呂歌集の歌もあります。
 妹勢(いもせ)の山と云ったら、和歌山県の紀伊川の右岸と左岸にある妹山と勢能山(背ノ山)のことです。大国主と少彦名は、いたるところに神としておられたのですね。


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# by tizudesiru | 2016-10-31 01:19 | 143大汝小彦名の神こそは | Comments(0)

142宮地嶽神社の光の道は祭祀線

宮地嶽神社の光の道4世紀後半の祭祀線
JALのコマーシャルで全国に知れ渡った『光の道』が、古代の祭祀線であったことに気付かれた人は多いと思います。では、どんな意味を持った直線(ライン)だったのか、少し話したいと思います。このことは、三年前に出した「太宰府・宝満・沖ノ島」という本でも紹介していますが、今回は古代史の集会で私がプレゼンをしたスライドを幾つか使って話してみようと思います。
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 これは、宮地嶽神社の参道の延長上にある相島の話でもあります。私は幾度も相島に行きましたが、そのうち何度か韓国からの旅行者に逢いました。彼らは相島の朝鮮通信使客館跡と積石塚古墳の見学に来ていたのです。つまり、相島は江戸時代の朝鮮通信使が立ち寄った島でもあるのです。朝鮮通信史について知らない方はないと思いますが。江戸時代は鎖国政策をとっていましたので、外国の情報はオランダと朝鮮から得ていました。中でも、朝鮮通信使は徳川将軍の代替わりに来日し、一行は道中を各藩に歓待されながら、江戸まで大行列で上ったのでした。沿線の住民は一行を歓迎しこぞって行列を見に走ったのです。中には筆と紙を差し出し、通信使の役人に一筆書いてもらうという幸運を得た者もいました。
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10月と2月に、この参道のかなたに太陽が沈み、その光の道がテレビで取り上げられたのです。
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地域の方も覚えておられる元宮は、参道の階段を上り詰めた所に有りました。光の道は、最近まで元宮を黄金色に染めていたのです。元宮が見ていたのは、相島の相島大塚古墳(120号墳)になります。
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ほかにも、相島とのつながりを探してみましょう。相島で最高所である「遠見番所」と元宮をつなぐと、相島北塚(1号墳)を通ります。右の白ポイントがメガネ岩で、左が遠見番所です。夕日がメガネ岩に沈むのもカメラマンのお気に入りのようですが、浜の鳥居辺りからのショットは「宮地嶽古墳(6世紀後半)」からのラインと重なります。
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宮地嶽神社の元宮から伸びる参道は、海岸に行き着きます。その先には海があり、相島が浮かんでいます。では、光の道(参道ライン)が当たる積石塚古墳群についてお話しましょうね。
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元宮からの二本のラインの内、参道の上をまっすぐ進んだのは、120号墳に届くラインのみです。遠見番所へのラインは既に参道からずれています。つまり、120号墳と宮地嶽神社(元宮)の結びつきが推察されるということです。宮地嶽古墳からのラインは、1号・120号のどちらの積石塚と結んでも参道を通りません。
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この相島大塚が120号墳です。前方後方墳で、竪穴式石室を持つ4世紀の積石塚古墳と言われています。
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次は、相島北塚(1号墳)です。
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長井浜と呼ばれる積石塚墓の浜は、ほぼ120号墳辺りに始まり、北の1号墳で築造を終わるのです。その間、4世紀から6世紀前半。7世紀までに少し横穴式石室に追葬が行われているそうです。
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ここで、疑問が生まれます。なぜ、6世紀前半で築造が終わるのかです。九州北部で大きな変化があった、のです。6世紀の前半の政変といえば「磐井の乱」です。相島の行政区である新宮町辺りは、「糟谷屯倉」として磐井の子の葛子が献上したとされる地域の近くですから、まんざら無縁とは思えません。すると、沖ノ島祭祀との関係も出て来るのではないでしょうか。沖ノ島祭祀も、「岩上祭祀」が6世紀の始めに終わり、次の「岩陰祭祀」が始まるまでに、半世紀ほどの空白があるのです。この空白がなぜ生まれたのか。沖ノ島の報告書では「磐井の乱」との関連が指摘されていました。このことは、自著「太宰府・宝満・沖ノ島」でも紹介していますが。
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このことは、深く読むと「沖ノ島祭祀」を行っていたのはヤマト王権と呼ばれる勢力なのか、という疑問も引き出してしまうのです。

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# by tizudesiru | 2016-10-27 12:51 | 142光の道は祭祀線 | Comments(0)

西原村報告2

5月8日熊本地震から三週間以上経った西原村を訪ねた 
緑に埋まる萌の里
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しかし、道路は通交止めで、車も人もほとんど見当たりません。写真奥に小峰山の赤茶けた崩落した崖が少し見えています。二日続けて雨でした。犬の散歩で橋の近くを通る時、始めて遠くから現場を見ました。
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雨では電気のない実家での片づけが暗くてできないので、自宅に戻ることにしました。その時、通りすがりに撮った写真です。橋と道の段差はは少し抑えてありましたが、基本的には何もできてないようです。青のシートは大切畑ダムの決壊を防ぐためのものでしょうか。このダムは地域の農業を支えていますが、今後も使うかどうかも含めて検討しているそうです。
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高遊原の農業にとって大事な水ですが、ダムの状況は深刻です。このダムの横を布田川断層が通っています。橋が架かった時から心配していたことですが、天災は避けられないのでしょうね。地震の
予感は当たりました
ちょうど一年前、実家の井戸水は真っ黒になったのです。その井戸水は100mの地下まで掘り下げ電気でくみ上げているものです。水は無菌水と認定された飲料水でした。それが、朝起きて蛇口をひねると、真っ黒だったのです。私は妹たちに向かって、「起きなさい!地震が来る! 水が異常に濁っている。早く避難して!」と騒ぎました。彼らも、トイレの水や洗面所まで、黒い細砂粒に変化していたので、すぐに部屋から出てきました。それから、私は熊本の気象庁に連絡したと思います。しかし、「地震に関しての情報は福岡に言ってくれ」と指示され、福岡の気象庁に電話しました。答えは「地震に関する情報では、井戸水は扱っていない」と、切られました。井戸とポンプはポンプ会社の人に来てもらって修理しましたが、大変な負担となりました。気象庁の皆さん、地下水と地震の結びつきはないのでしょうか。
地震雲ってありますか?
2015年の12月2日のことでした。犬の散歩でいつものように牧場に行くと、立野の谷を一本の雲が流れていました。白川に霧がかかっているのだとも思いましたが、他の谷には雲がかかっていないので、不思議に思ってカメラを取りに戻りました。立野の断層の活動が電磁波を起こして雲を湧かせたものかとも思ったからです。
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なんとなくピンクがかった雲のように思えますが、朝の光のせいでしょうか。そうしたら、実家の片づけに来た今回も、同じような雲を見ました。その雲は布田川断層の上にかかっているようにも思えました。気のせいでしょうか。
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驚いて後ろの俵山を振り返りましたが、天雲がのしかかっているだけでした。
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地震は予知が難しいとされます。確かにそうでしょう。日ごろから考えておかなければなりませんね。その時、何をするかを。日ごろの暮らしがそのまま見える村被災地は道路が乱れ、家や塀が倒壊し、所狭しとゴミが溢れていますが、西原村は違います。私は実家に何度も片づけに通いましたが、その時見た袴野の集落は石垣こそ崩れ、家は傾いていましたし、屋根にシートが被せられていましたが、少しもゴミが見当たりません。今度も、崩れた石垣に花が咲き乱れている風景を見ました。それは、むしろ美しくさえありました。日ごろから綺麗に片づけられた地域ですから、被災してもゴミを家の周囲に置くなどしないのです。本震の後も、崩れた石垣の横を通る細い村道にそれぞれの車を縦列駐車し、みんなで炊き出しをして一晩そこで過ごしたのだそうです。「ここで死ぬなら本望」と、老人たちはしっかり話していたそうです。妹はその光景に打たれ、涙が出たと言いました。「こんな美しい村があるでしょうか」と、私たちは日ごろから話していたのですが、豊かな湧水と緑と清風に包まれて生きて来た人達だから、こんな暮らしが出きるし、彼らが育てるから野菜も全ておいしいのだと、私と妹たちは再び確認することができたのです。これは、外交辞令ではなく自然な気持ちです
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それに、妹の知り合いの息子さん達が、東京や三重からボランティアに来てくれて、力仕事をしてくれました。こんな若者がいるのですね。ありがたいです。 
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中の妹の自宅は東京ですが、被災した末妹を置いては返れないと、今も西原に留まっています。「こんなに美しい被災地があるだろうか」と感動しきりの妹も、西原の人のようにはいかなくて、被災してぐしゃぐしゃの自分のセカンドハウスを上手に片づけてはいないようです。全く、身についたものとは恐ろしいものです。反省しきりの毎日です。
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# by tizudesiru | 2016-05-11 10:40 | 141熊本大震災 | Comments(0)

西原村報告

西原村報告
布田川断層を垣間見るやっと熊本に入りました。
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肥後大津から阿蘇方面を見ると、大きな外輪山の切れ目が見えます。カルデラの割れ目で、『蹴破り伝説』のある谷です。北向山と立野の間の谷を白川が流れています。
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白川の岸から俵山を眺めました。山の一部が地震で崩れているようです。雨が降ったら危険でしょうね。
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壊れた道路ですが、まだまだ大事な動脈として使えます。
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布田川断層のすぐ横を走る道路は壊れて、交通止めになっていています。この夜は何とか過ごしましたが、余震で夜中に目が覚めて朝まで眠れませんでした。
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断層の上の家屋は全壊です。このような壊れた石垣の横をわずかに車が通れるように地域の人が道を整備していました。次の日は雨で、雨の重みで実家の天井が落ちました。この日の夜は、避難勧告が出て避難所で車中泊となり、仕方なく自宅に戻りました。高速は混んでいましたが、朝早くだったので渋滞はありませんでした。  

 
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# by tizudesiru | 2016-04-28 19:12 | 141熊本大震災 | Comments(0)

熊本大震災!緑よ、よみがえれ!

熊 本大震災!緑よ、蘇れ!その美しさを永遠に! 
私は、今年・2016年4月6日、阿蘇の黄スミレを見に行った。近年の集中豪雨のあと、阿蘇の山肌は荒れてしまったので、黄スミレはどうなったのだろうと気がかりだったからだ。この日から10日後に、大震災が来るとは思ってもみなかった……
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黄スミレは、けなげにつつましく咲いていた。
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春を迎えるために行われる草原の「野焼き」のあとに、焼けた草ぐさの根元に咲いていた。
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黄スミレの咲く草地から往生岳が見える。往生岳の東南に阿蘇中岳が控えている。
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美しく蘇ったような往生岳には、まだまだ水害の爪痕が残っている。
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一面に咲く黄スミレを見て、この美しさが長く永く続きますようにと祈った、祈らずにはおれなかった。
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阿蘇のカルデラの田園と外輪山は、しんとして静かだった。
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阿蘇中岳も静かに煙を上げていた。すべて世はこともなし……というこの静かな風景は、この後一変してしまうのだ……
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# by tizudesiru | 2016-04-22 10:28 | Comments(0)

140猫大明神のネコとは?

大明神のネコとは?
何でしょうね。ネコと言われると、まず頭に浮かぶのは「ヤマトネコ彦」のネコ(根子)ですが、そういう古代の首長と関係の深い、そういう背景のあるお宮なのでしょうか。南荒尾駅前の県道を南に下り、最初の信号を左に曲がると「猫宮」地区になります。猫宮公民館の近くに、檜の香りのする建て替えられたばかり「猫宮」があります。
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猫宮訪問の目的は、ご神体を見せていただくことでした。ご神体が石棺だということです。
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猫宮には、鎌倉時代からの猫にまつわる「せなが長者」の伝承が残されています。この辺りに対外貿易で富を得た長者がいたという、有明海の中世の状況を伝えているのです。もちろん、古代からの操船技術や航路知識の上に成り立った海運業なのでしょう。
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今回、猫好きの知人の紹介により猫宮にご縁がありましたが、私は猫好きでもあり、犬好きでもあります。もちろん、猫宮地区は猫にとっては幸せの地であるようです。地域の方は昔から猫を大事にされていて、猫を飼うと家族の幸せにつながるとか。猫宮の周囲のあちこちから愛らしい猫達が訪問者を眺めていて、幸せな気分になりました。さて、いよいよ猫宮に参拝させていただくのですが、今回、素敵なサプライズがありました。猫宮を守り続けてこられたご家族(昨年十月に社を改築されたご兄弟)にお会いできたことです。
参拝の後、やおら顔を上げると、猫宮の御神体が目前にありました。石棺と聞いていたので、神社の裏にあるのかと想像していましたが、なんとお社の中にありました。それは、石棺の縄掛突起だったのです。円筒形の縄掛突起で、大きな石棺を動かすために石棺の蓋などに彫り込まれているものです。
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更に、二つ目も石棺の縄掛突起でした。もともとご神体は二つの石だったそうで、両方ともに石棺の縄掛突起だったのです。
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どういう事情で、この二つのご神体が猫宮に伝わったのでしょう。
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ご神体がもともと何処にあったのか、どのような状況で運ばれたのか分からないとのことです。縄掛突起の大きさから想像すれば、石棺は大きなものだったのでしょう。石棺の主のために供養をしたかったが、果たせず、やむなく石棺の一部のみを持って移動した……。または、被葬者の石棺が破壊されることになり、親族か一族が供養のために「せめてその一部を」と、石棺を割り欠いて持って来た……または、本貫を離れることになり、先祖の石棺はそのまま残すことになったが、石棺の一部を持って御霊代とした……空想物語はちょっと湿っぽくなりましたが、石棺を運べなかったという状況は想像できます。縄掛突起の部分だけを長くご神体として守り続けたのは、石棺の被葬者が一族の長であり、誇るべき人物であったからでしょう。それも、ネコ宮とは意味深ですね。ところで、石棺と言えば、舟形石棺・家形石棺・組み合わせ型箱式石棺などありますが、猫宮の石棺はどんな形式だったのでしょう。近くの菊池川流域には、石屋形を持つチブサン古墳や袈裟尾大塚古墳などがありますし、家形石棺を持つ江田船山古墳(銀象嵌銘文の大刀が有名)などもあります。同じ菊池川流域の前方後円墳でも、石屋形と家形石棺では墓制に違いがあるように思えます。猫宮の石棺は、円筒状の縄掛突起を持つ江田船山古墳に近いようです。江田船山古墳の副葬品は、同時代のどの古墳より舶来品が多いという特殊な状況にあります。つまり、地域の有力者であったわけです。同じような妻入式家形石棺(縄掛突起あり)は、筑後川流域の浦山古墳や八女丘陵の石人山古墳でも見られました。すでに何度も紹介した事柄です。仮に、これらの有名古墳と猫宮石棺との間に何らかの結びつきがあったとしたら……
猫宮石棺の出土地がはっきりしないので、墳丘を特定できないのですが、縄掛突起を運んだ先祖が墳丘墓の所在地を知っていたとしてラインを引いてみましょう。すでに紹介しているラインですが、岩戸山古墳と熊ノ岳山頂を結ぶと、江田船山古墳の墳丘をラインが通りました。
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浦山古墳からのラインを江田船山古墳に乗せると、熊ノ岳の山頂を若干外します。
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猫宮石棺が結びつく山頂は、熊ノ岳が有力ということでしょうか。しかし、猫宮が結びつく山頂を探したら、福岡県の雷山と彦山の山頂となりました。ラインに乗る古墳を探したら、清原古墳群の虚空蔵古墳を通るラインが阿蘇の国造神社に届きました。寿命王塚古墳に結ぶと、アメノオシホミミ神社を通ったので面白いかなと思いましたが、なかなか物語にはなりにくいようです。
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# by tizudesiru | 2016-02-08 15:58 | 140猫大明神のネコとは | Comments(0)


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