181藤原不比等とは何者か(3)

181藤原不比等は何者か(3)


不比等は万葉集に歌を残してはいません。その館で歌は詠ませていますから、興味がなかったのではありません。不比等は教養人でもあったのですが、万葉集の世界とは異質な世界の人格だったのです。


兄の定恵(じょうえ)(貞慧)が果たせなかった仏教による国家の形成を目指し、不比等は律令による権力の掌握をもくろんでいました。


権力を握るために、あまたの女子が必要でした。めぼしい皇族に結びつくための子女が必要だったのです。


不道徳のようにも思えますが、できるだけ多くの女子を高貴な血統の氏族の女性に生んでもらうことが大切だったのです。


不比等の子(女子)

宮子(文武帝夫人)の母:賀茂小黒麻呂女賀茂比売

光明子(聖武帝皇后)の母:県犬養東人女県犬養三千代(橘三千代)

多比能(橘諸兄の妻)の母:生母不明

娥子(長屋王の妻)の母:生母不明

女(大伴古慈比の妻)の母:生母不明


(あがた)犬養(いぬかい)三千代は美努王(栗隈王の子・橘諸兄の父)の妻で、もともと文武天皇(683~707)と聖武天皇(701~748)の乳人(めのと)でした。不比等はこの女性に近づき光明子(701~760)をもうけました。


不比等(659~720)は、688年に判事になり、697年に藤原宮子入内(じゅだい)させています。娘の宮子が生んだ(おびと)皇子に、三千代に産ませた光明子を入内させるのですから、幸運というより計画的ですね。そして、光明子を皇族外からの皇后となすのです。


不比等の子(男子)

武智(むち)麻呂(まろ)の母:蘇我武羅自古(そがむらじこ)女娼子(蘇我連子の女、娼子または媼子)

房前(ふささき)の母:蘇我武羅自古女娼子

宇合(うまかい)の母:蘇我武羅自古女娼子

麿の母:鎌足女五百重夫人


五百重夫人に産んでもらいたかったのは、女子だったのでしょうね。


しかし、男子・麿が生まれた。不比等はがっかりしたはずです。麿は兄たちのようには出世していなくて、あまり不比等に愛されてはいなかったでしょうか。大伴(おほともの)坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の夫でもありました。


『尊卑分脈』には、藤原夫人(五百重娘・大原大刀自)は後舎兄(たん)(かい)(こう)(不比等)と密通し麿を生む…とあります。

「尊卑分脈」とは、南北朝時代の公家が書き残した系図です。


淡海公に込められた意味=天智天皇の御落胤


(たん)(かい)(こう)とは、天平宝字四年(760に贈られた称号です。

まるで、淡海御宇天皇を思わせるような称号ですね。

「興福寺縁起」ばかりではなく、「大鏡」『公卿補任』「尊卑分脈」などで、不比等は天智天皇の御落胤と書かれているそうです。

淡海公とは、いったいどのような経緯で贈られたのでしょうか。

それは、760年に贈られた追諡です。前後の出来事を見ましょう。

757年(天平勝宝九年)、光明子の兄であった橘諸兄が一月に亡くなると、半年後の七月に諸兄の子『橘奈良麻呂の謀反』が発覚したとして、大量の刑死者と処分者を出します。

半年後の法則とでも言いましょうか。

藤原氏がかかわった謀反事件は、半年後に結果がでますよね。

謀反事件で政敵を一掃するのは、藤原氏の常套手段でした。

757年 (たちばな)奈良(なら)麻呂(まろ)らの謀反事件

758年 (こう)(けん)天皇大炊(おほい)王に譲位。(じゅん)(にん)天皇即位。

759年 正月一日、因幡国庁での家持の最終歌(万葉集最終歌)

760年 一月藤原恵美押(えみのおし)(かつ)太師(太政大臣) 六月光明子

    八月不比等淡海公と追諡。武智麻呂と房前に太政大臣    

759年 大伴家持は歌の道を断つ。藤原氏の謀略横暴になすすべ無しと、世の中に絶望したのでしょうね。

そして、760

即位した淳仁天皇は、藤原仲麻呂に「恵美押勝」を贈ります。

光明子が薨去すると、さっそく父の不比等に「淡海公」と(おくりな)するのです。

当然、藤原仲麻呂(なかまろ)=恵美押勝の意思よって奉られた(おくりな)です。

不比等が天智天皇の御落胤であることを明示するために。

仲麻呂は、藤原四兄弟の武智麻呂の子で、仲麻呂の時代に藤原氏の「藤氏家伝」が書かれています。思いのままに、天智天皇と鎌足の信頼関係を述べたことでしょう。そして、不比等と武智麻呂の功績を。

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万葉集の最終歌は、大伴家持の絶望を伝えます。
橘諸兄の死後、藤原氏の横暴はついに「橘奈良麻呂の謀反」の発覚という事態を招き、多くの有力者が刑死・流刑などの処分を受けます。家持は藤原氏に取り入り難を逃れますが、決して逃れきれるものではなかったのです。
家持は、絶望の中で、言霊により世の安泰を祈ったのでした。





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# by tizudesiru | 2016-12-24 01:08 | 181藤原不比等とは何者か(3) | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(2)

181藤原不比等とは何者か? その2

前回、藤原(ふじはら)不比等(ふひと)(鎌足の二子)の母は誰なのか? と書きました。

興福寺(こうふくじ)縁起(えんぎ)には、(かがみの)王女(おほきみ)が不比等の母だとしました。

それは不可能ではありません。


しかし、万葉集事典では「母は
車持(くるまもちの)国子(くにこの)君女(きみのむすめ)としています。興福寺としては、車持国子君女では「役者が足りなかった」ので、鏡王女としたのでしょう。


が、鏡女王が高貴な女性であれば、鎌足の正室の位置にあって一族に采配しても、鎌足と寝所を共にしたとは思えません。

鎌足と鏡王女の万葉集の歌は、公の場で詠まれたものです。天皇の前で詠まれたものかも知れません。


平安時代も、高貴な女性であった皇女・内親王は皇族以外の男性に嫁することはできなかったのですから。その身分を冒すことは大変なことだったのです。鏡王女が天智帝の子を身ごもり、定恵を生んだ可能性はあります。鎌足の子として育ったとしても、世間には高貴な血だと知られたでしょう。


定恵が高貴な血統だとしたら、鏡王女は鎌足を受け入れることはないでしょう。定恵意外に子をもうけないことが、その身を護った証明となるのですから。鏡王女は我が子を強く愛し、国外に留学させたのは理由があると思います。それは、機会があれば、いずれ。


これで、天武帝が鏡王女を見舞った理由が明白になります。生涯を鎌足の正室としながら、天智帝の寵妃であった過去を守り続けたその意思に対しての労いです。世間にもこれほどの美女はなく、これほどの意志の強い女性はいなかった、そして、藤原氏を護った聡明さに対しての労いです。

それを、世間も望んだということです。


それは、鏡王女が皇族だったことの証明にもなるでしょう。

天武帝の異母妹だったかも知れません。


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不比等の生涯を見ると、持統帝の即位の時期に合わせて台頭してきます。

文武帝即位では、娘の宮子を夫人として皇室に接近し、

翌年には、藤原の姓()けました。

藤原の姓は「藤原鎌足」が天智天皇から賜ったものであるから、不比等の家系以外は中臣に戻したのでした。

不比等は、大宝元年には大納言、和銅元年には右大臣です。

養老元年(717)に左大臣の石上麿が没しますから、最終的に不比等が議政官のトップになるのですが、何故か、

元正天皇(文武天皇の姉・草壁皇子の娘・独身)は、不比等を左大臣には任官しませんでした。

元正天皇の陰には母の元明天皇がいて、その意思が働いていたのでしょう。

元明天皇には夫の草壁皇子の意思を受けての信念がありました。さっそく、長屋王を議政官に任じます。

養老二年(718)、
長屋王(高市皇子の長子)が大納言に任じられる

高市皇子の王子がこれから権力の坐へ登っていく。誰にもそう見えました。

長屋王の妃は、文武天皇と元正天皇の妹(吉備内親王)だったのですから。

ここから、長屋王家の滅亡計画が藤原氏により密かに進められていくのでしょう。

720年に不比等が没します。

そこで、不比等の意志を継いだ長男の武智麻呂が長屋王家を滅ぼすという展開になるのです。

藤原氏は徹底的に天武皇統を切り捨てて行きました。
それは、不比等の遺言だったと、わたしには思えます。

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長屋王の父母は、共に皇女と皇子です。
母の御名部皇女は天智帝の娘です。父は高市皇子、子供たちは吉備内親王の子であり、元明天皇の孫です。
何もかもそろった長屋王に権力が渡れば、天武王朝は安泰となる…それは、藤原氏には許せない事でした。
藤原氏は律令により権力を握ろうとした氏であり、天智天皇の腹心でした。




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# by tizudesiru | 2016-12-22 14:26 | 181藤原不比等とは何者か(2) | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(1)

181藤原不比等とは何者か?

不比等は、天武天皇(40代天皇)の嬪であった妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(695生)をもうけています。

天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね?

天武天皇と藤原夫人の歌を万葉集に見ましょう。

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天武天皇(四十代)から藤原夫人へ賜う御歌

巻二103・わたしの住んでいる大宮に大雪が降った。そちらの住まいの大原の古い里に降るのは、もっと後であろうな

 

藤原夫人(五百重娘)のこたえ奉る歌

巻二104・それはわたくしの岡の神に言いつけて降らせた雪の、そのくだけたものがそちらにも散り敷いたのでしょうね。 

二人は楽しそうにやり取りをしています。藤原夫人は、天武帝が心許した女性だったのでしょうか。

天武帝の死後、この異母妹に不比等は近づいたのでした。

後宮は、女帝である持統帝の治世では機能していなかった。婦人たちはバラバラになったのでしょうか。

不比等は、父の藤原鎌足の鏡王女や安見兒に対する態度とは全く違いますね。
不比等は図々しすぎませんか。本来なら、秘話として処理されたでしょうに。麿は藤原四兄弟の末っ子になっています。少しも隠されていないようですね。

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不比等の母は誰か

千年の長きにわたって、藤原氏が朝廷の重臣であり、皇室との関係を保ち続けてきたのは、異常というか奇跡でしょう。道筋を開いたのは、不比等でしょうか。

不比等は鎌足(669没)の二子であり、壬申の乱(672)には参加していません。乱の当時は十五歳。その母は?

興福寺縁起には、鏡女王が不比等の生母(創作説もあり)とされています。

興福寺は、平城京の別区のようになっている藤原氏の氏寺です。

なぜ、興福寺縁起に鏡女王生母説が出て来たのでしょう? 

高貴な出自の鏡女王の名が必要だったとしか思えません。

 

前回のブログ(180)に書いた鏡王女は、その出自もはっきりしていません。名前の記述も、鏡王女(万葉集)、鏡姫王(日本書紀)、鏡女王(興福寺縁起・延喜式)と微妙に違っていて、同一人物ではないとする説があります。

天武十二年(683)、天武天皇が鏡王女の病気を見舞っています。それは、女王薨去の前日でした。もちろん後宮の女性ではありません。

天皇が病を見舞うとは、鏡王女は特別な女性ですね。天武天皇にもゆかりのある女王なのです。

興福寺縁起では、この鏡女王が不比等の母だというのです。なぜでしょう。車持国子君の娘が不比等の母ではないのですか?


長いので次にまわします。
また、後で




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# by tizudesiru | 2016-12-21 14:56 | 181藤原不比等とは何者か(1) | Comments(1)

180天智天皇と藤原鎌足

180天智天皇と藤原鎌足


天智天皇より異例の厚遇を受けた藤原鎌足


それは、何故でしょう。


鎌足は天智天皇の腹心の部下でした。

内臣(うちつおみ)鎌足病気して、見舞った天智天皇

天智八年(669)十月十日、天皇は藤原内臣の家に病気を見舞う

同年 十月十五日、東宮大皇弟を遣わし、大織冠と大臣と藤原姓を賜う

同年 十月十六日、藤原内大臣が薨去した

同年 十月十九日、天皇が内大臣の家に行幸し恩詔を陳べさせ、金香鑪下賜


これまでは、内臣(うちつおみ)ですが、これからは内大臣(うちのおほおみ・うちのおほまえつきみ)となり、内大臣の官は宝亀八年(777)に、藤原良継に授けられるまで百年以上授与されていません。鎌足は特別の官を得たのです


*藤原良継は、鎌足→不比等→宇合→良継(鎌足の曽孫)

「日本書紀」には「日本世紀」からの引用文が載せられています。

日本世紀に、内大臣は五十歳で私邸において薨じた。山南に移して殯をした。天はどうして、良くないことに、強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ。碑に『五十六歳で薨じた』という


*日本世紀は、高句麗の僧・道顕による編年体の歴史書で、日本書紀の基本的資料の一つとなった。


では、天智天皇と中臣鎌足の関係を万葉集で見ましょう。



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(鏡王女も安見兒も天皇から鎌足に与えられた女性です)

鏡王女は気位の高い人でした。

一般には額田王の姉と言われています。

(たま)櫛笥(くしげ)は「覆い」にかかる枕詞で、大切な化粧箱だそうです。

覆いで隠すわけではありませんが、夜が明けてからお帰りになって、貴方の名が人に知れるのはいいのでしょうが、わたくしの名が立つのは口惜しいのです。

鎌足の歌の珠櫛笥は、「みもろ」に掛かります。化粧箱の身と蓋の「み」に掛かるのです。

そうですか。みもろの山の「さな(かずら)」のように「さ寝ず」でいいのですか。そうなったら、貴女はとても耐えられないでしょう。



鏡王女は、口惜しかったでしょうね。

鏡王女は、もともと天智天皇と恋仲だったのです


天皇、鏡王女に賜う御歌一首

妹が家も継ぎて見ましをヤマトなる大嶋の()


いとしい貴女の家をいつも見たいものだ。せめて、やまとの大嶋の嶺に私の家があったらいいのに


鏡王女こたえ奉る御歌一首

秋山の()(がく)御念(おもほ)


秋の山の木々の下を流れる水は流れながら水かさを増していきます。その水のように、わたくしの思いの方が勝っております。殿下の御思いよりは


二人は恋仲というより、鏡王女(683没)は天智天皇の寵妃だったのです。鏡王女の歌は「御歌」とありますから、彼女は皇族でした。

それが、藤原鎌足(669没)に与えられたという…のです。


鏡王女としては耐えられなかったことでしょう。しかも、身重だったとか。(この子が定恵だったという説があります)

鏡女王は、藤原鎌足の室となっています。


藤原氏の台頭と持統帝との結びつきの要因は、この辺りにありそうですね。 
次は不比等の歌ですね。が、彼自身の歌は万葉集にはないのです。
ですが、不比等の話をしましょう。





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# by tizudesiru | 2016-12-20 12:37 | 180天智天皇と藤原鎌足 | Comments(0)

179天武帝と持統帝の溝・2

179・天武帝と持統帝の溝・2

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次に、天武帝の挽歌を見てみましょう。

天智帝(38代)に比べて、天武天皇(40代)の葬送儀礼の歌が少ないことに気づかれましたよね。
しかし、その事で天武帝の立場に問題があったとか、天武・持統帝のふたりの絆が薄かったということの証明にはなりません。
天武天皇の葬儀(686)は
仏教の儀式として執り行われたのでしょう。八年後の御斎会(693)もそうです。天武帝は仏教に手厚かったのです。たびたび寺で経も読ませています。


つまり、天智天皇の葬儀(671)は古来の天皇崩御の時の祭祀の方法
に従って執り行われた、挽歌を献じながらの葬送の儀式をした、ということでしょう。昔ながらの葬儀でした。

すると、天智帝と天武帝は、基本的に異なった宗教儀式を取り入れていたのですね。

天武帝は、天智朝とは別の王朝として出発したかったのですかね。

その天武帝が…伊勢に行くなんて。

いかさまに おもほしめせか神風の伊勢の国に 、八年後の夢の中で天武天皇が伊勢に行かれたことは、持統帝には意外だったようですね。仏教に帰依していた天武帝でしたから西方浄土へ行かれたと思っていたのに、夢の中で神の国である伊勢に行かれてしまった…古代では、夢も現実と同じでしたから、持統帝は驚いたのです。


政治のやり方も天武帝と天智帝では違っていました。
天智帝は律令政治を、天武帝は天皇自らが政治をすることを目指していたのです。だから、在位中に左右大臣も任官はありません。天武帝には、他に権力を分けるつもりはなかったのです。

壬申の乱(672)で天武帝に協力した豪族たちは、出世できなくてさぞやがっかりしたことでしょう。


さて、天武帝崩御後に権力を握った持統帝は、即位(690)後に議政官を任命しています。つまり、律令による政治へ切り替えたのです。持統帝は、天武帝の政治を引き継ぎませんでした。
それまでとは違った政治を始めました。

ただ、太政大臣に高市皇子、右大臣に多治比嶋が任じられました。
高市皇子は、天武帝の側近として天武帝の在位中も活躍していたと思われます。
何の実績もなく太政大臣はないでしょう。大王に次ぐ最高の権力者という意味ですから。

まとめると

天武帝の政治は、律令政治を目指した孝徳朝や天智朝とは基本的に違っていたのです。持統帝は天武帝の政治を否定したのです。

持統帝と天武帝の間には、深い溝があったのでした。
世間では、夫唱婦随のカップルのように言われている二人ですが。

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天武帝の下では、律令によって権力を握ろうとしていた近江朝の藤原氏・中臣氏も不満だったことでしょう。
ですが、持統帝の世の中になりました。
藤原氏は持統帝に近づける大きなカギを握っていました。だから、持統帝の時代には、台頭してきたのでした。

その鍵とは、藤原不比等の出自に関わることでした。

不比等が淡海公と呼ばれていたことは、ご存じでしたか?

次はそのことを書きましょう。



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# by tizudesiru | 2016-12-19 22:06 | 179天武帝と持統帝の溝 | Comments(0)

179持統帝と天武帝の溝

179・持統帝と天武帝の溝

「持統帝と天武帝のつながりの深さ」と「天武天皇の霊魂は伊勢へ」で、二人の絆の深さを考える材料としました。

さて、二人は強い絆で結ばれていたのでしょうか。

持統帝の歌を詠めば、どちらかというと持統帝は天武帝に対してさっぱりしていた、あまり執着がなかった…ようですね。なぜ?

持統帝は噂通りの冷たい女性なのでしょうか。いえいえ、有間皇子への深い鎮魂の思いを見ると、情の深い人だと分かります。

草壁皇子を失った後も、妃の阿閇皇女を連れて紀伊國行幸をして嫁を励ましました。阿閇皇女も持統帝を信頼していました。

ですが、「吉野の盟約(天武八年)」で我が子のように受け入れるとした大津皇子に、謀反発覚後すぐ死を賜わった」この時、「皇后、臨朝称制」していたのです。持統帝が政権のトップでした。大津皇子の死は、持統帝の意思だとされています。

持統帝は草壁皇子のために大津皇子を排除した冷酷な女性だというのが、世間の通説です。


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(日本書紀によると、大津皇子は天智天皇に愛されていました。大伯皇女が生んだかわいい孫だったのでしょう。天武帝にも期待されていました。
天武帝崩御後に謀判が発覚し、大津皇子はを死を賜りました。)


そもそも吉野の盟約は、草壁皇子を皇太子と認める儀式ではありませんでしたね。天武朝の新しい皇族の結成の儀式でしたね。草壁皇子が皇太子になるのは、天武十年か、十二年です。その時、大津皇子も「朝政を聴く」地位に置かれ、二人はバランスをとっていました。


もちろん、大津皇子にもチャンスを残しておくことは、天武帝の望みでした。持統帝とは違った考えを持っていたのです。天武と持統の二人は皇位継承に対しても、もともと意見が一致していなかったのです。


しかしながら、天武帝には皇后としての鵜野皇女(持統帝)が必要だった。

その理由は? あまたの妃の中から、なぜ持統帝が皇后に選ばれたのか? 

考えても見てください。

天武帝は天智帝の後宮の女性たちをことごとく、新王朝の後宮に移しました。高貴な血統を他に漏らさない為でした。そして、あまたの後宮の女性の中で、鵜野皇女こそが皇后にふさわしかったのです。

大王になれる皇族は限られています。同じく皇后になれる女性も限られているのです。持統帝は特別な皇女だったのです。


貴種に対する執着は、武家の時代になっても根強く残り続けました。

古代には、その出自で一生が決まったのでしょうね。



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# by tizudesiru | 2016-12-19 20:55 | 179天武帝と持統帝の溝 | Comments(0)

178天武帝の霊魂は伊勢へ

178天武天皇崩御の八年後の持統帝の御歌

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天武天皇崩御の八年後(693)の九月九日(天武帝の命日)御斎会(ごさいえ)の夜、持統天皇の夢の中に詠み覚えられた御歌一首が、万葉集にあります。御歌なので皇后としての持統天皇の歌となります。

持統天皇の歌は162番歌は、草壁皇子の挽歌167番より前に載せられていますが、現実には草壁皇子の歌の方が時期的に先に詠まれたものです。


草壁皇子薨去(689)の方が、天武帝崩御の八年後(693)より早いのです。
持統帝は人麻呂の歌を夢の中で思い出したのかも知れません。
草壁皇子の挽歌の「高照らす日の皇子は飛ぶ鳥の浄の宮に神ながら太しきまして」と同じ言葉を使っています。      

では、夢の中での一首


162 明日香の
(きよ)御原(みはら)の宮に天の下知らしめしし ()(すみ)しし(わご)大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国は おきつ()も ()みたる波に 塩気(しおけ)のみ 香れる国に (うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子


明日香の浄御原の宮に天下をお治めになられた、支配者である我が大王は、高きより天下を照らす日の皇子であるのに
どう思われたのだろうか、神風の伊勢の国は沖の藻も靡いている波の上を、塩の気のみが漂い香っている国。そんな国に(何故行かれたのか)。言葉にできないほど慕わしい高照らす日の皇子が…


この歌は中途半端だそうです。夢の中での歌だから、言葉や思いが尽くされていないのでしょうか。
それにしても


日の皇子である天武天皇が行かれたのは、塩気のみが香る伊勢の国でした。


持統天皇にとって、天武帝が伊勢国へ行くとは理解しがたいと、いうのです。伊勢とは、壬申の乱で天武に加勢した神の坐す土地で、天照大神を祀る神社のある土地です。壬申の乱後に、天武帝は皇女を斎宮として送りました。


最近こそ二千年の神祀りの神社とか平気で報道しているけれど、伊勢神宮が歴史に登場したのは新しいのです。



更に、明治になるまで、伊勢には天皇の参拝がなかったという。


その伊勢に、天武天皇の霊魂が行かれたというのですから意味深ですね。


伊勢神宮は天武天皇にとって、皇室にとって大事な神であり、氏神の神社であったのです。一般の人が願い事をすることも禁じられていました。


そういえば、万葉集に詠まれる神社には「石上神宮」がありましたね。石上神宮は物部氏の神社で、ご神体は剣(空を切る時のフッという音から、フツ主の神ですね)

とすると、弥生の神であった鏡と剣と玉を祖先神とする氏族のルーツは、北部九州なのですね。


天武天皇は九州と深い関係があったのですね。最初の妻は宗形氏の娘です。息子の高市皇子は「藤原宮」の瓦に、九州の観世音寺や大宰府政庁と同じ文様の複弁蓮華文の軒先丸瓦を葺いています。

九州との繋がりを意識していたのでしょうね。

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観世音寺の軒先丸瓦と軒先平瓦
写真は「一瓦一説」(森郁夫)の写真をデジカメで撮ったもの





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# by tizudesiru | 2016-12-14 11:32 | 178天武帝の霊魂は伊勢へ | Comments(0)

熊本地震報告・南阿蘇への道

熊本地震報告・12月

南阿蘇への道・修復開通
熊本の阿蘇外輪山の西にある西原村の袴野地区です。
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9月は田んぼの上に土が運ばれて、道が何処を通るのか分かる程度でした。
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12月9日には、路肩の工事も進んでいました。
20日には、このう回路も開通し、南阿蘇への道路の修復が終わると聞いています。国道57号はしばらく使えないので、南阿蘇への道路はミルクロードと地蔵峠越えの2本しかありませんでした。
この俵山道路が修復すれば、阿蘇への道はずいぶん楽になるでしょう。
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山田牧場はすっかり削られてしまいました。牛を護って避難できなかった牧場主は、どうされたのかなあ。今回、牛の鳴き声が聞こえなかったので気になりました。
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工事車両が通れるようになった道路ですが、秋を楽しむ人の姿は全くありません。古墳と言われるツンツン塚の下を断層が走っています。萌の里の駐車場も寂しい限りでした。
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ツンツン塚は古墳じゃないという人もいるそうです。でも、盛り土の下が動いたからヒビが入ったのじゃないでしょうか。
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妹が大量のお芋をもらって帰って来ました。
「このお芋は無料で、御一人様一袋と書いて、おじさんが車から降ろしてたのよ」
一袋と云ったって、写真の袋ですから相当量入ります。
「今年は地震で、ようでけんだったけん(形よくできなかった)」ということで、ただで人に分けているのです。
たくさん貰ってうれしいやら、気の毒やら…と、妹は言いました。
たまたま居合わせた人達は、袋いっぱい黙々と芋を摘めていたそうです。
「おじさん、大きいお芋と小さいお芋は、どちらがおいしいのですか?」
「そらア・大きか芋だろうなあ」

「わあ、ありがとうございます」
家に帰って洗ってみましたが、どれも立派なお芋でした。
喜んで貰ってあげることが大事なのでしょうが…
地震の後に苗を植えて収穫したのにと思うと気の毒で、涙が出てきました。
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よくよく考えてみると、大きな無料のお芋を目の前に出されたら、わたしも「やった!いただきます!」とせっせと袋詰めしたことでしょう。
その時、おじさんの寂しさや苦労はあまり考えなかったかも知れません。
そう思うと、自分が情けなかったです…

熊本の人は、ほんとにまじめで実直な人が多いです。
ありがとうございました。

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# by tizudesiru | 2016-12-11 15:54 | 熊本地震・南阿蘇への道 | Comments(0)

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

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持統天皇と天武天皇の合葬墓は、野口王墓(写真はNHKの映像をデジカメで撮影)

天智陵の真南に天武陵があります。
天智陵を改葬したのは文武天皇(持統天皇の孫)でした。天智陵は藤原氏の土地に築造されているそうです。藤原氏は持統天皇と天武天皇に仕えたのです。

さて、藤原氏は天智帝の腹心の部下であったと何度も書きました。
しかし、藤原不比等は持統帝に仕え、目覚ましい出世を遂げました。

では、不比等は天智朝を滅ぼした天武朝に忠誠を誓ったのでしょうか。

気になるところですよね。ですが、今回は天武天皇と持統天皇の絆です。


天武天皇崩御の時、持統大后の御作歌


まず、持統帝が天武帝の崩御の時に詠んだ歌を見てみましょう。

天皇(かむあが)りましし時、大后の作らす御歌一首


159 八隅しし 我が大王の 
(ゆう)されば 召し賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし (かむ)(おか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 召し賜はまし その山を 振りさけ見つつ (ゆう)されば あやに哀しみ 明けくれば うらさびくらし あらたへの 衣の袖は ()る時もなし


世の隅々までお治めになられた我が大王は、夕方になると御覧になられただろう。明け方になれば、きっとお訊ねになられただろう、神山の黄葉を。今日だってお尋ねになられたであろう。明日もご覧になるだろう。その山をはるか遠くに仰ぎ見ながら、夕方になると何とも悲しく、明け方になると何とも寂しい思いで暮らしているので、荒栲の喪服の袖は涙に濡れて乾く時もない。


もし天武帝がご健在であれば、きっと神山の黄葉を朝晩お尋ねになったであろう。が、帝は既に崩じられたので、何も問われることはない。(我が大王はもうこの世の方ではないと思いながら)、神山を仰ぎ見ると思い出して悲しい
、というのです。

太后の御歌」となっているので、崩御後余り日が経ない秋の詠歌でしょう。しかし、すっかり遠くの人を恋しく思うように感じます。

次の歌は「太上天皇の御製歌」となっているので、

一書に曰く、天皇崩じたる時の太上天皇の御製歌二首


160 燃ゆる火も取りてつつみてふくろには 入ると
()ずやも智男雲


燃えている火だって、手に取って包んで袋に入れることができるというではないか。そんなこともできるのに、何で・・・できないのか。


161 
()南山(たやま)にたなびく雲の青雲の(ほし)(さか)りゆく月を(はな)れて


北山にたなびいている雲は、あれは帝の霊魂だろうか。あの青雲が星を離れて行く。月さえも離れて…帝の霊魂は何もかも置いて離れていかれるのか。


何度読み返しても、持統天皇の御歌も御製歌も言葉足らずで「亡き人への執着」
が感じられないのです。天武帝と熱烈に愛し合っていたとは思えないのです。でも、天武帝からは大事にされたのでしたね。

あまたの妃の中から、皇后に立てられたのは持統帝でした。


「吉野の盟約」のあと、持統帝は後宮のトップになり
すべての皇子と皇女の母となったのでした。

その皇后・持統天皇と天武天皇との絆は深かったのでしょうか。
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(系図は、小学館「日本書紀(3)」の挿入図をデジカメで撮影)

持統天皇は帝王(天智天皇)の娘で、礼節を好み、母性の徳があったと書かれています。草壁皇子は、大津宮で生んだとも

そうすると、大津宮に遷都(667)する前、白村江敗戦(663)の前、天智元年(662)に、草壁皇子は生まれたのですね? 九州に身重の娘を連れて来ていた? 父の天智帝の宮で草壁皇子を生んだ? 
この時、持統帝は17歳ということになります。
草壁皇子が生まれた大津宮が九州の那の大津ならば、持統天皇は幼くして母を亡くしていますから、その後、父の宮で暮らしていた?
では、大海人皇子と結婚した後は、何処でどのように暮らしていたのでしょうね。この辺りがあいまいなのですね。

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# by tizudesiru | 2016-12-11 10:30 | 177持統帝と天武帝の絆の深さ? | Comments(0)

176大化改新後の謀反年表を見る

177大化改新後の謀反事件を年表に見る


大津皇子や高市皇子が皇位継承の何らかの事情により生きられなかった
としたら、その発端は何処に求めたらいいのでしょう。


天智朝から皇位を奪った天武朝ですが、天智朝も孝徳天皇の後継者を抹殺するという事件を起こしています。

孝徳朝は、大化改新から始まります。
ということは、すべての発端は大化改新にあるということです。

財政を蘇我氏から取り上げ(645)、律令政治によって国家を造り上げるという古代国家の大変革が様々なひずみを生みだし、それが収束し新たな権力が定着するまでに何度も揺り戻しが来たということでしょう。
その激動の100年が万葉集に残されている、のですね。

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・大化改新後に何も事件はないようにも見えるが、右大臣蘇我石川麿は無実の中に没(649)したし、同じ三月に左大臣阿倍倉橋麿も没している。おかしな事件と云える


有間皇子の謀判(658)は最大の事件だったと思われる


・大化改新から近江遷都・即位まで中臣鎌足(669没)暗躍か?


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庚午年籍(670)が大宝律令では戸籍の基本とされる


・大友皇子の太政大臣は最高政権を握ったとされ、後世に弘文天皇を贈られる


・「草壁立太子(681)と帝紀及び上古の諸事を記す」は、セット?


大津皇子朝政を聴く(683)は、大津政権への準備か


・鏡女王(683没)、天智帝から中臣鎌足に賜われた女性、不比等の母


持統即位(690)一月、紀伊国行幸十月(有間皇子所縁の地へ)


・天武帝崩御の八年後、天武天皇の神霊は伊勢へ



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・藤原宮遷都(694)と藤原氏の関係は? 藤原宮造営は高市皇子

・高市皇子(696没)軽皇子は半年後に立太子、その半年後に即位

・難波行幸(699)の目的は、大宝律令制定の準備なのか?

・粟原寺(額田王が草壁皇子のために立てた寺)で道昭火葬(初出)

建号・大宝律令制定後に、紀伊国行幸(有間皇子所縁の地へ)

・持統帝、歴代天皇で初めて火葬(703)

・柿本佐留(708没)は柿本人麻呂で、刑死したとされている。


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・筑紫観世音寺は半世紀以上かけても完成していない。造営を命じた(709)のは、元明天皇だが、何故に天智帝発願の九州の寺を❓ 元明天皇は天智天皇の娘で、草壁皇子の妃。

・元明天皇は何故「藤原宮」を捨てて、平城宮へ遷都(710)の理由?

・15歳になった(おびと)親王ではなく、()(たか)内親王が即位(715)の理由

(おびと)親王初めて朝政に参画(719)は、即位への道

・皇子・皇女は「大宝律令」により、親王・内親王と変わる

・日本書紀(720)をつくりあげた目的はなんだったのか

(おびと)皇太子即位(724)立太子から10年後!

・聖武天皇が即位後に吉野行幸(724)持統帝ゆかりの地へ。紀伊国行幸(持統帝と有間皇子の所縁の地へ)

難波行幸(725)

(もとい)王(728没)の死後に長屋王家の滅亡(729)が仕組まれる



こうして、万葉集関係者の年表を作ってみると、中臣氏・藤原氏・藤原不比等の活躍が見えて来ますね。それは、大化改新後の律令政治への邁進であり、藤原氏の権力集中への道程でもありました。


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# by tizudesiru | 2016-12-10 11:39 | 176大化改新後の年表 | Comments(0)

175草壁皇子の挽歌・2

175草壁皇子の挽歌・2

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この歌の大意は、次のようになります。

天と地が分かれた初めの時、久かたの天の河原に、八百万の神々が集まられて、その集まりの中で話合われた時に、天照らす日女(ひるめ)命は天を治めることになり
また、葦原の水穂の国を天と地の依りあう極みまでお治めになる神の命を、天雲の幾重にも重なった雲をかき分けて、神々がお下しになった。
その高い天から照らすように日の皇子が、飛鳥の浄の宮に神のようにおいでになったのに、この国は天皇のご統治になる国であると、自ら天の原の岩戸を開けて、現世から天界に神上がりされてしまわれた。

もし、我が大王である皇子尊が天の下を統治なさっていたら、春の花のように素晴らしく、満月のように欠けることなく、世の中のあらゆる地域の人は大船に乗ったようにすっかり安心して、天からの雨を空を仰ぐように待っていたのに、どのように思われたのであろうか、
何のゆかりもない真弓の岡に殯宮を高々と建てられ、
(あさ)(ごと)仰せもない、そんな日が長く重なり続いてしまった。そのために、皇子の宮人はこれからどうしていいか分からないのである。


長歌の内容を、次のように読むことができます。二種類考えました。

その(1)

①八百万の神が集まって決めたのは、天を治めるのは天照大神(神代の話)

②葦原の水穂国を治めるために天から下りて来たのは、神の命

日の皇子(草壁)はこの国は天皇が統治なさる国だと神上がりされた

④もし、皇子尊(草壁)が統治されていたら皆よろこんだろうに

(もがり)長くな、皇子(草壁)の宮人はこの先どうしていいか分からない

と、五つの内容で長歌は構成されています。


その(2)
大方の現代語訳は、日の皇子を天武帝としています。


①大昔、神々が集まって天照大神に天を治めさせ(神代の話)

➁葦原中津国を治めるために神の命として天より下されたのが(天武)

③浄の宮に統治された日の皇子(天武)は、天皇が統治される国と神上がりされた 天武帝が自ら神上がりした?

④もし、皇子尊(草壁)が統治されていたら、世の中の人も喜んだろうに

⑤殯の日が多く長くなると、皇子の宮人の不安も大きくなっていく


上(1)下(2)のどちらの現代語訳が人麻呂の歌に近い内容なのか、わたしには解けません。「持統帝と草壁皇子の歌のなぞ」誰か読み解いてください。


長歌に続くのは、反歌二首(反歌とは、長歌と同じ内容を繰り返す短歌のこと)

168 久かたの(あめ)見るごとく仰ぎ見し 皇子の御門(みかど)の荒れまく惜しも

遥かなる天空を見るように仰ぎ見た皇子の宮殿が荒れてしまうと思うとたまらなく寂しい


169 茜さす日は照らせれど 
(ぬば)(たま)の夜渡る月の(かく)らく惜しも


太陽は赤々と照り輝いているのに、真っ暗な夜を渡っていく月が隠れるように、お隠れになってしまったことが悲しくてたまらない

 或本の歌一首

170 島の宮まがりの池の(はな)ち鳥 人目に(こひ)て 池に(かづ)かず


皇子がお住まいになった島の宮の池の放ち鳥も、人の目が恋しいのか、池に潜ることもなく、池に浮かんでいる。皇子がいらっしゃらないからだろう。



草壁皇子こそが、天の神が決めた統治者である。せっかく神が天下りさせられたのに、冥界に上ってしまわれた。残念でたまらない。


と、柿本朝臣人麻呂の詠んだ挽歌からは読めるのです。


人麻呂の歌を見る限り「高市皇子や大津皇子は、天武天皇の皇位継承者としては選ばれていない」ということでしょうか。


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# by tizudesiru | 2016-12-09 21:21 | 175草壁皇子の挽歌 | Comments(0)

175草壁皇子の挽歌

175・柿本人麻呂が詠んだ草壁皇子の挽歌

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壬申の乱後の天武朝で、謀反事件が次々と起こりました


壬申の乱
とは何だったのか。

この壬申の乱が天智朝と天武朝の間に大きく傷を残し、その亀裂に入り込んだ藤原氏が様々な策を講じて律令政治を掌握し、藤原氏族の横暴につながっていくと思うのですが…


壬申の乱そのものが謀反事件だった
(大友皇子が先に兵をあげたのではありません)のですが、これが天武朝の王子が次々に命を絶たれていくという結果に導いた大きな要因だと思うのです。万葉集を読むかぎり。

さて、7世紀の天武朝の謀反事件で、忘れてはならない事件がありました。

朱鳥元年の大津皇子謀反事件です。ここで、大津皇子が死を賜ったことが、結果的に天武朝の滅亡へと展開していくのですからね。

そして、大津皇子の死後三年、皇太子草壁皇子が薨去します。即位せず、皇太子のままでしたが。その死の顛末は何も語られていません。

人麻呂は挽歌を献じました。

草壁皇子こそが皇統を伝えるべき唯一の存在だったと、声を大にして歌い上げているのです。  


皇太子草壁皇子の挽歌


日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首幷短歌


天地の初めの時の 久かたの天の河原に 
八百万(やおよろず) 千万(ちよろず)神の (かむ)(つど)い 
集いいまして 神はかり はかりし時に 天照らす 
日女(ひるめ)の命 天をば 知らしめせと 葦原の水穂の国を 天地の 依りあひの極み 知らしめす 神の尊を 天雲の八重かき分けて 神下し いませ(まつ)りし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の (きよみ)の宮に 神ながら 太しきまして 天皇(すめろき)の しきます国と 天の原 岩門(いはと)を開き 神上がり 上がりいましぬ わご大王 皇子の命の 天の
下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の たたはしけむと 天の下 四方の人の 大船の 思いたのみて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに おもほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太しきいまし みあらかを 高知りまして あさことに 御言(みこと)はさず 日月の まねくなりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも

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ここには、母の思いが切々と語られています。


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# by tizudesiru | 2016-12-03 14:12 | 175草壁皇子の挽歌 | Comments(0)

175高市皇子の薨去と謀反事件

175・高市皇子の薨去と謀反事件


高松塚古墳が発掘された時、その埋葬の様子が問題になりました。


しかし、石室は狭いのですが、壁画があり、
それが大きな話題となったので、その為に他の事実が目立たなくなってしまいました。

当時、被葬者は「何か罰を受けるような、事件に巻き込まれた人」であるとされていました。

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わたしの記憶が確かであれば、遺体の様相が問題だったと思います。


頭蓋骨がなかった…首の骨は有ったので斬首ではない
と。この話題はいつの間にか消えたようですが、問題が解決されたのではありません。

埋葬当時から頭蓋骨が抜き取られていた(小さな骨、甲状軟骨・舌骨などは残る)? 筋骨の発育のいい壮年男性。7世紀末に死亡。

梅原氏は「人骨に頭蓋骨がない・鞘のみで、大刀の刀身が抜かれている・日月像と玄武の顔が削られていた」これは、呪いの封印で、被葬者のヨミガエリを阻止したのだという。

ですから、軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子が被葬者と、梅原氏は主張されました。高市皇子だと言ったのは原田大六氏だけです。


わたしは、ずっと草壁皇子だと思っていました。それは、治田神社(岡宮跡・草壁皇子が育った)と、高松塚石室と、岡宮天皇陵が直線で結ばれるからでした。

所縁の宮と改葬前の墓とを結び、尚かつ耳成山の真南に位置するのは、草壁皇子の墓以外には考えられない
と思っていました。数年前に、ブログにもそう書きました。

しかし、出土した歯の鑑定が壮年男性となったので考え直したのです。

では、「後皇子尊」と尊称で呼ばれた高市皇子以外にないと結論しました。

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高市皇子ならヨミガエリを阻止された(天武朝の皇統が続くことを阻止した)ことは十分考えられます。

だからこそ、耳成山と高松塚古墳の間に文武陵を築造(改葬)したのです。そして、岡宮天皇陵(草壁皇子の陵)も束明神古墳に改葬した、と考えます。


本当に、高市皇子のヨミガエリは阻止されたのか?
それは何故か?
だからこそ、高市皇子の死は再検証しなければなりません。


謀反事件の共通点

①有間皇子の場合

658年 中大兄皇子の息子、建王没(5月)

半年後に、有間子に謀反の疑い(11月)有間皇子没


わたしが幾度も紹介したのは、有間皇子が有力な皇位継承者であったことです。有間皇子の存在が邪魔だったのは、鎌足や中大兄皇子側でした。
蘇我系女子(造子媛)が生んだ建王の死は、中大兄皇子サイドには、後継者を亡くしたことになった。大友皇子は後継者とはなれなかったから、中大兄は「不改常典」の法を考え、皇位継承の決め事を造ったと、展開していきます。

➁高市皇子の場合

太政大臣という最高位についていた。文武天皇の元服が近くなった。高市皇子にも王子がいて、有力な後継者だった。

696年 高市皇子没(7月)

半年後に、697年 軽皇子立太子(2月)、

半年後に、軽皇子即位(8月)


軽皇子の立太子と即位が滞りなく行われるには、高市皇子の存在が障害になっていた。次の段階に進むには、喪が終わる半年の時間が最低必要だった。文武天皇の15歳即位に合わせて、高市皇子の死は、すごく計画的に練られた事件だった、と言えるでしょう。

③氷高内親王の即位の場合? なぜ首皇子は即位できなかったか?

714年 首皇太子元服(14歳)*次の年の即位を考えていた

715年 長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)没

 氷高内親王即位(9月)*元明天皇の配慮か


独身だった氷高皇女(元正天皇)には、身分が高すぎて嫁ぎ先がなかった。藤原氏としては、皇位継承者を拡散するつもりはなかったので、氷高皇女を結婚させなかったのでは…。
藤原氏としては、首皇子(文武天皇の子・聖武天皇)を元服させ、即位準備は十分に整っていたが元明天皇は娘の氷高皇女を即位させた。それは何故か?
元明天皇は、草壁皇子の妃です。夫の決意(自死)を十分に承知していたとしか思えません。皇統は長屋王に受け継がれてもいいと……

④長屋王の場合
妃は吉備内親王(文武天皇・元正天皇の妹)で後継の男子あり

727年 基王(母・光明子)生まれてひと月で立太子

728年 基皇太子一歳で没(9月)

半年後に、729年 長屋王、謀反の密告で自刃(2月)

聖武天皇と光明子の間に生まれた基王は、生後すぐに立太子されたが、一歳ほどで死亡。すると、皇位継承者として一番近かった長屋王一家を全滅させる謀略を、藤原氏は取ったのだった。


謀反事件の共通点

謀反事件は、有力な皇位継承者が死亡した時に起こる。
次の継承者とおぼしき人物が抹殺される

と考えられるのですが、

更に、「藤原氏がここまでのことがやれたのは何故か

なぜ、高市皇子は封じ込められなければならなっかったのか
をはっきりさせねばなりません。


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# by tizudesiru | 2016-12-02 10:25 | 174高市皇子の死の真相 | Comments(0)

174高市皇子の死の真相・1

174高市皇子とは何者か


万葉集の謎の一つに「高市皇子の挽歌」は何故あれほど長いのか」という謎というか、疑問がありました。


持統帝が愛した草壁皇子より弔いの歌が長いのです。

もちろん、天武帝の長男である太政大臣(高市)の葬儀の歌です。長いのは当然かも知れませんが、皇太子より2倍以上長いのは誰が見ても不思議です。

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しかし、よく読み直してみると、先に紹介した通り(「高松塚古墳の被葬者」で読んだ通り)、多くの詞が使われているのは、


壬申の乱
(夏の戦を冬の厳しい戦いとして表現されていますが)と


天武天皇の意志と功績
、其の命を受けた皇子、そして、


「結う花の栄ゆる時に」お元気で今も盛りの時に、「皇子の御門を神宮に装い」皇子自身の御殿を霊殿に飾ったこと。


高市皇子の棺を挽き、神として城上の宮に祀ったということ、です。

 

冷静に読むと、高市皇子の権力者としての姿は見えにくいですね。

人麻呂は「時の最高権力者に敬意」を払ったけれど、その真の姿を現さなかった…


では、高市皇子の本当の姿は読めないのでしょうか。

高市皇子の挽歌は、長歌と短歌からなっています。長歌は紹介しましたから、短歌を見てみましょう。


短歌二首


200 久かたの 
(あめ)() ゆえ 日月


地上ではなく天上世界をお治めになることになった皇子ゆえに、残された者は日月が立つのも分からないほど嘆き皇子を慕い続けている


201 
埴安(はにやす)  (こもり)() 舎人(とねり)(まど)


埴安の池の堤に囲まれた出口のない隠れ沼のように、水の行き先が分からないように、舎人たちはただ迷い嘆くだけである


  或書の反歌一首


202 
哭沢(なきさわ)の 神社(もり)三輪(みわ)須江(すえ) いも 我が(おほきみ) 

 右一首は、類聚歌林に檜隈女王が泣沢(なきさわ)神社


哭き沢の神社に神祭りの酒の甕を据えて、皇子の蘇生をお祈りしたけれど、その甲斐もなく、とうとう我が王は天上をお治めになることになってしまった。なんということだろう。


高市皇子は何故死なねばならなかったのでしょうか。
上記の短歌三首の内の二首は人麻呂作です。人麻呂は、天武朝の皇子に対して、その立場や位置を的確な言葉で表現しています。

「高市皇子は地上を治めるのではなく天上をお治めになられた」
元来『地上を治める人だった❓』けれど、天上を治めることに成った…と、人麻呂は表現しています。
長歌の詞でも『わご大王の天の下申し給えば』とは、高市皇子が天下の政治を執り行っていた、と読めます。
高市皇子は、太政大臣以上の立場だったのでしょうか。

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それで、気になることがあります。大化改新後の謀反事件には、ある共通点があるのです

その事を考えてみたいと思います。


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# by tizudesiru | 2016-12-01 12:03 | 174高市皇子の死の真相 | Comments(0)

173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

高市皇子を裏切った但馬皇女


記紀には道ならぬ恋の話が出てきますが、その恋は許されていません。

しかし、天武朝では許されたのでしょうか。


高市皇子の宮に居た但馬皇女は、穂積皇子を好きになります。二人は恋仲になったようですが、

穂積皇子も但馬皇女も咎めは受けなかったのでしょうか。

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但馬皇女、高市皇子の宮に(いま)す時、穂積皇子を(しの)て作らす御歌一首


114 秋の田の穂向きのよれるかたよりに君によりなな
(こち)()くありとも


 秋の田の稲穂は重くて片方によってしまうが、その片よりのように貴方にわたしは寄り添いたい。どんなに人がいろいろ噂して煩わしくあっても。


穂積皇子に勅して近江志賀の山寺に
(つか)はす、但馬皇女の御歌一首


115 
(おく)れいて恋つつあらずは追いしかむ道のくまみに標結え吾がせ


行ってしまった貴方を恋しく思いながらいるよりは、追いかけて行きますから、道の曲がり角ごとに標を結って神様にお祈りしていて下さい、あなた。


但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、
(ひそか)に穂積皇子に()い、事すでに(あらは)れて作らす御歌一首


116 
人事(ひとごと)を繁みこちたみ(おの)が世に未だ渡らぬ朝川渡る


世間の噂がひどくて煩わしいので、生まれてこの方一度も渡ったことのない川を、それも朝川を私は渡る

   但馬皇女の御歌一首  一書に云う子部王(ちいさこべのおおきみ)作る


1515 事繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひてゆかましものを


世間の噂が激しくて耐えられないような里に住まないならば、今朝鳴いていた雁と一緒に連れだって飛び去ったのに


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但馬皇女(こう)ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷(ひしょう)流涕(りゅうてい)して作らす御歌一首

203 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)()(かい)の岡の寒くあらまくに


雪が降って来た。雪がたくさん降ったならあの人が眠っている吉隠の猪養の岡が寒いだろうから、多くはふってくれるな。

この二人が許されていたとは。高市皇子の妃は御名部皇女(持統帝の妹・阿閇皇女の姉)ですし、不思議です。但馬皇女は世間の噂の中でも、自分を貫いたのでした。二人を結びつけたのは、天智朝の重臣の家系だという自負でしょうか。藤原不比等の後ろ盾があったのでしょうか。

但馬皇女

父・天武天皇  母・藤原鎌足の娘、氷上娘

?生~和銅元年(708)没

高市皇子の宮に住んでいた

若い穂積皇子に惹かれていた

穂積皇子

父・天武天皇  母・蘇我赤兄の娘、大蕤(おおぬ)

壬申の乱後?生~霊亀元年(715)薨去

・持統五年(691)浄広弐  妻・大伴坂上郎女






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# by tizudesiru | 2016-11-30 17:15 | Comments(0)

172続・糸島の神社・再訪問

糸島神社巡の続きです
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宮地岳山上の熊野社

吉備真備が渡唐の時神に祈ったという宮地岳の山頂の熊野神社(祠)に行きました。
吉備真備は大学者で、聖武天皇の娘の孝謙天皇の養育係でもありました。

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藤原氏のために九州の怡土城(いとじょう)築造をさせられたリ、二度も唐に遣唐使として遣られたり、東大寺造に従事させられたりなど、さんざん都の中枢より遠ざけられます。しかし、「藤原仲麻呂の乱」では、孝謙天皇が素早く真備を呼び出しました。真備は仲麻呂の逃走路を断ち、乱を鎮めました。
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福津市ではなく、糸島市の宮地岳山上の宮地嶽神社です。お宮の紋は福津市の宮地嶽神社と同じです。
あのJALの『光の道』で有名になった宮地嶽神社と、です。


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次に、正八幡神社に行きました。長野川のほとりにあります。
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そして、太田神社に行きました。

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太田神社は糸島七寺の夷巍寺の近くです。この寺の所在はまだ確認されていません。
聖武天皇の時代にはあったという七寺の内、一つも確認されていないのです。
この山門は、ぽつんと道の真ん中に残されています。
大きな仁王が二躯、山門に安置されていて、わたしは泥棒の心配をしてしまいました。
 
この寺の前の道を左に折れると、太田宮の常夜灯が民家の間に残っています。民家の屋根より高いのです。

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この前の道を進むと太田宮です。

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ここは、二丈町大字一貴山です。ここに、大田命を祀る大田神社(神額には太田)です。
神と地名と結びつかないのです。意味深な由緒書きです。

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社殿に到る階段に石が祀られています。社殿の後ろには大石がありました。

太田命は、おおたたねこ(太田タネコ)とつながりがあるのでしょうか?

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次の機会に




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# by tizudesiru | 2016-11-29 13:34 | 172糸島の神社 | Comments(0)

172糸島の神社・雉琴・宇美八幡・神在・太田

糸島の神社・再訪問

糸島には神功皇后の伝承が至る所にあります。

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雉琴神社には次のような由緒書きがありました。
神功皇后は雷山(曽々岐岳)に登り神祀りをして戦勝祈願をしたら、夢枕に「ヤマトタケル」が立ち、賊徒討伐の方法を教えてもらった。雉の鳴き声を琴の音に聞いて目覚めたので、帰還の後、日本武命を祀り『雉琴神社』と名付けたと
いうことです。
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雉琴神社は他にもありました。社は既になくなっていました。近くに神功皇后の腰掛石がありました。


神功皇后伝承地の宇美神社。応神天皇の誕生伝説の地
ここは、糸島市の長糸です。
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昔は海から川をさかのぼってこの地にあがったのですね。宇美八幡の参道は川から始まっています。参道の脇に近所の田畑から集められた「支石墓」が置かれてました。運よく捨てられなかったのですね。庭石にもされなかった…
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神社の境内は。5世紀~7世紀の墳墓群です。首長の墳丘墓は山上に作られました。
糸島も、福岡平野も、周囲の小さな丘陵は全て古代の墓地と云っても過言ではありません。山を歩くと石室の石組みが露出しているのでぞっとします。
宇美八幡宮は、糟谷の宇美の宇美八幡が有名ですが。ここが、元宮という人もいます。
上宮は仲哀天皇、本宮は誉田別天皇・気長足姫命・玉依姫命・ニニギ尊
古くは長野八幡宮 
⊛宮司家は武内さん・武内宿祢の御子孫とか…
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本宮階段下に宮地嶽神社が摂社としてありました。
祭神に
勝門姫命・阿部助盛命・阿部高盛命・志那津比古・志那津比売・大山祇命
勝門姫命(勝ちど姫)とは、誰でしょうね。たらし姫のことでしょうか。

万葉集に、山上臣憶良の気長足姫の歌があります。
869 たらしひめ 神の命の 魚(な)釣らすと み立たしせりし 石をたれ見き
たらし姫が魚を釣ろうとしてお立ちになったその石を誰が見たというのだろうか
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近くに大石があります。15年ほど前に見た時は畑の中に見えていました。しかし、今はすっかり竹藪の中でした。驚きました。神在の地名は「神在り」そのものでしょうか。
他の神社にも、行きましたが
また後で







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# by tizudesiru | 2016-11-29 10:20 | 172糸島の神社 | Comments(0)

171額田王の歌の紹介

額田王の歌を紹介します

額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。

でも、天智天皇を待つ歌がありますね。斉明天皇にも仕えています。

額田王とは如何なる人だったのでしょうか。

では、天智朝では、どんな立場だったのか。それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。
女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌はかなり政治的ですね。

最晩年には粟原寺を建立したことになっています。

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では、額田王の歌の紹介です

額田王歌


7 秋の野の 美草刈り葺きやどれりし兎道のみやこのかりほしおもほゆ


 額田王歌


8 熟田津に船乗りせむと月待たば潮もかなひぬ今はこぎいでな


 紀温泉に幸す時に額田王の作る歌


9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が背子がい立たせりけむいつ橿が本


 


 天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌



16 冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を
()み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我れは 



額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌


17 
(うま)(さけ) 三輪の山 青丹吉 奈良の山の 山のまに いかくるまで 道の  (くま) い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむやまを (こころ)なく雲の 隠そふべしや


反歌

18 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠そうべしや


*井戸王(意のへの王)の歌は省略

神の山の三輪山、その三輪山が青丹よし奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲りが重なってしまうまでも、見ながら行きたいのに。何度でも見ておきたい山なのに。私の気持ちの分からない雲が隠してしまう。心無い雲が隠してもいいのだろうか。(17)

神山の三輪山を、よりによって何で隠すのか。雲にだって心があろうに。三輪山を隠したりしていいものだろうか。(18)

この二首を山上憶良は類聚歌林に「都を近江の国に移す時に三輪山を御覧になっての御歌」としています。つまり、天皇の歌だというのです。

 天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌


20 
あかねさす紫野行き標野ゆき野守は見ずや君が袖振る

額田王、(こた)へ奉る歌一首(倭京より(たてまつ)り入る)


112 
いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我がもえるごと

吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首


113 
み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく


天皇の
大殯(おほあらき)の時の歌二首

151 かからむとかねて知りせば大御船()てし()まりに標結はましを

山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首


155 
やすみしし 我ご大王の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は ゆき別れなむ

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首


488 
君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く


*巻八・1606は、488と同じ題詞で同じ歌

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藤原宮・新益京




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# by tizudesiru | 2016-11-28 17:02 | 171額田王の歌の紹介 | Comments(0)

170額田王が草壁皇子の為に寺院建立

170額田王は草壁皇子のために寺を建立した


明日香に帰って、額田王は何をしていたのか?


十市皇女の突然死で苦しんでいましたが、深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後は遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させました。

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草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立?

なぜ? 草壁皇子?

額田王は天武帝の皇子にも尊敬され、藤原氏とも交流があったようです。

中でも、藤原朝臣大嶋とは親密な仲だった、つまり結婚していたいう…

額田王は比売朝臣額田なのでしょうか。

談山神社に、元は粟原寺にあったという国宝の鉢が残されています。粟原寺の塔が完成した時に上げられた露盤で、そこに銘文があり、次のような記述があるのです。
談山神社は藤原氏所縁の神社です。

この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

この功徳により仰ぎてお願いすることは

皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。

(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。

様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

甲午年・持統八年は694年で、和銅八年は715年です。

日並御宇東宮(草壁皇子) このようは表現は、他の資料にはありません。

この年(694)の十二月に、藤原宮に遷都します。(しん)(やくの)(みやこ)藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都だと云われています。


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藤原宮大極殿跡
下は耳成山と藤原宮、南大門跡
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NHKのテレビ画面を撮影

藤原大嶋は、藤原の姓を不比等の血統だけに限られて、中臣の姓に戻っています。
彼は藤原鎌足の亡き後、藤原祝詞をもって天智帝に仕えた藤原金の甥です。
藤原金は、壬申の乱で大友皇子が破れた後に斬られました。

天智帝に右大臣として仕えた叔父の冥福も祈りたかったのでしょう。
しかし、大嶋は持統八年に死去します。
その意志を額田王が受け継いだのでしょう。

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それにしても
なぜ、草壁皇子を「日並知皇子」ではなく、

日並御宇東宮(草壁皇子)
と表現したのでしょう。

傍から見ると、やたらゴマをすっているように見えますが、天武帝も持統帝も文武帝も全て鬼籍に入っています。ゴマをする相手は誰もおられません。

粟原寺の建立を待ち望んだ人は…額田王一人?

比売朝臣額田(女性です)が、伝承通り額田王だとすると、八十歳も過ぎた年齢となります。

ここにあるメッセージは、草壁皇子は特別大事な存在
ということでしょう。

何が特別だったのでしょう。

またあとで


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# by tizudesiru | 2016-11-27 17:09 | 170額田王が建立した粟原寺 | Comments(0)

169・額田王の恋歌と素顔

169額田王の恋歌と素顔


額田王は恋多き女性だったのでしょうか。
美女だったようですが。


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万葉集にも額田王の恋の歌はあります。巻四と巻八に。

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首

488 君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く

*巻八1606は、巻四488と同じ題詞で同じ歌


あなたが何時お出でになるかと待っていると、わたしが恋しく思っているからでしょうか、わたしの館の簾を動かして秋風が吹いてきました。簾をうごかしたのは、あなたではなかった…


額田王の歌は、
78916171820112113151155488・(1606)の13首 のうち1首は重複してるので、12首。


内容を見ると、非常に政治的な歌が多いようですね。

488と1606以外の歌を見てみましょう。

7は、額田王(兎道若郎子の京を歌った・悲運な皇太子を暗示

8は、額田王(百済救援軍として熟田津を出航する時の歌

9は、紀温泉に幸す時に額田王の作る歌(有間皇子事件当時の詠歌


8は、斉明天皇御製歌とも「類聚歌林」にかかれているという。天皇に代わって額田王が歌を詠んだと云われているのです。いずれも斉明天皇の時代の歌です。

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額田王は若かったのに、上の三首は恋愛とは関係ないようですね。

16は、天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌天皇の詔で判定する歌

17は、額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌(近江遷都の時の詠歌

18は17の反歌

20は、天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌(天皇の宴席での詠歌


16は、非常に文化的な内容での天皇の詔です。春と秋のどちらが優位なのかを、額田王が判定するのです。次は、遷都の時の詠歌と「類聚歌林」に書かれているので、公的な詠歌です。その次も、天皇の前で詠んだもの。

額田王は、立場的に公の場で活躍していた、常に政治の表に立っていたようです。


額田王はただの美女ではなかった!?

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額田王こたへ奉る歌一首

112は、額田王、(こた)へ奉る歌一首倭京より(たてまつ)り入る弓削皇子に奉る歌

113は、吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首弓削皇子に奉る歌

年を取った額田王に若い皇子が様々に問いかけたのでしょう。

公的な舞台から身を引いても、若い皇子に頼りにされる存在だったことが分かります。学識経験者として、政治的相談役だったのでしょうか

151は、天皇の大殯(おほあらき)の時の歌二首天皇の葬儀の挽歌

155は、山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首(天皇の葬送儀礼の挽歌


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この二首は、天智天皇の葬送儀礼の時の挽歌です。倭姫皇后や石川夫人(蘇我石川麿の娘の姪娘)と共に、額田王の挽歌も残されています。


額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。では、天智朝では、どんな立場だったのか。
それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。

女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌からかなり政治的なものが読み取れます。しかも、才能ある美女だった、そんな額田王を天智天皇も愛したに違いありません。
 
葬儀の最後まで額田王は、山城陵にいたのですから。
明日香に帰った額田王は何をしたのか、そこに、大きなメッセージが残されているのです。



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# by tizudesiru | 2016-11-26 22:43 | 169額田王の恋歌と素顔 | Comments(0)

168・額田王は天智天皇を愛し続けた

168・額田王は天智帝を愛し続けた

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112 (いにしえ)霍公(ほととぎ)()(もえ)


過ぎた昔を懐かしむ鳥は、それは霍公鳥でしょう。霍公鳥は蜀魂とも云われていて、亡き皇帝の魂が鳥となった姿だそうですよ。あなたが見たその鳥は不如帰です。きっと私が昔のことを懐かしく思うように、懐かしそうな声でその鳥も鳴いたことでしょうね。
 


額田王は、王朝が変わっても、幾つになっても、天智天皇を偲びました。


額田王は天智帝の崩御・葬送儀礼の最後まで仕えた人です。

書紀には初めは天武帝(大海人皇子)に召され十市皇女をもうけたと書かれています。万葉集の「中大兄の三山歌」は、大海人皇子と中大兄が額田王を争った歌だとも解釈されています。

その額田王の歌です。(額田王については「144・有間皇子事件の目撃者」で既に紹介していますが、斉明帝にも仕えていました)

ここでは、額田王自身が最後まで愛した人は誰かということです。

それは、天武天皇(大海人皇子)ではありません。

明日香での額田王の暮らしは、天智天皇を偲ぶ毎日だったのでしょう。

額田王の歌・万葉集巻二にある112番歌は、弓削皇子(699没)とのやり取りの歌です。

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若い弓削皇子は、父の天武帝より先の帝の方を愛しているに違いない額田王に興味を覚えたのでしょうか。

ゆづるはの三井の上を鳴き渡って行った鳥がいましたが、あれは昔を懐かしむという例の鳥でしょうか。どうでしょう?


天智帝・天武帝の二人ともすでに鬼籍に入っているのです。どちらを霍公鳥にたとえてもいいのでしょうが、額田王は「ゆづるはの(王朝を譲った)三井」の上を鳴き渡った「その鳥は不如帰」と答えました。あっさりと「わたしも昔のあの方が懐かしい」と返したのでした。


弓削皇子はこの後も額田王と歌のやり取りを続けたようです。

さて、
額田王と大海人皇子とのやり取りで有名なのは、「天智天皇が、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)(668年)された時の歌」がありますね


天皇、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌


20 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る


紫草の生える野には標が張られ立ち入りが禁止されている、その紫野を行きながら貴方がそんなことしては野守に見られないでしょうか、わたくしに袖を振るなんてこと。

皇太子の答へたまふ御歌


21 
(むら)(さき)のにほへる妹をにくくあらば人嬬(ひとづま)ゆえに吾恋めやも


まるで紫草のように美しい貴女を心憎く思っていたら、人妻のあなたに惹かれたりはしないでしょう。


四十歳近くの額田王としては余裕の歌なのでした。

額田王と皇太子(大海人皇子)は、天智天皇の宴の席で歌のやり取りをしているのです。衆人が見ている中で。

二人は、かっては子ども(十市皇女)までもうけた仲。誰もが知っていました。


今( 668)は、額田王は天智に仕えていて、娘(十市皇女)は天智帝の後継者である大友皇子の妃となっていました。

大友皇子と十市皇女の間に葛野王が生まれるのは、次の年(669)です。

やがて、天智十年(671)天皇崩御

そして、壬申の乱(672)大友皇子敗れる

その後、額田王と十市皇女は明日香に帰った


額田王は、明日香に帰っても天智帝を想いつづけていました
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額田王の気持ちは当然弓削皇子にも伝わったことでしょう


弓削皇子は天武天皇の息子であり、天智天皇の孫、母も天智帝皇女でした。
皇統を継げる血統だったのです。
それが故に、軽皇子(文武天皇)の立太子に異議を申し立てたのです。
それを、十市皇女の息子の葛野王に叱責され止められました。

弓削皇子が言いたかったのは何だったのか。葛野王が弓削皇子を𠮟った理由は何だったのか。気になる所です。
それが為の、弓削皇子の早世(文武三年)でしょうか

またあした




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# by tizudesiru | 2016-11-25 15:24 | 168額田王は天智天皇を愛し続けた | Comments(0)

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

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文武天皇は15歳で即位しました。

夫人は藤原宮子(不比等の娘)です

文武天皇は若い天皇でしたから、持統天皇が太上天皇として全面的にバックアップしたのです。

ですから,文武天皇の仕事には、持統太上天皇の意思が入り込んでいるのです。

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その中に、おや? と思う仕事があります。


文武三年(699)の山田寺に封三百戸


それに、越智(斉明天皇陵)と山科(天智天皇陵)の造営
です。

山田寺は祖父蘇我石川麿が無念の最後を遂げた寺です。

そして、斉明天皇は天武天皇の母、天智天皇は天武天皇の兄。


陵墓の造営(改葬になります)は当然でしょうか?

ここで、 前に紹介した「163・持統天皇の最後の願い・火葬と合葬」を思い出してください。


持統天皇は真っ白な骨となって、天武天皇陵に合葬されたのです。霊魂がその墓を離れ、未来永劫飛びまわるために。

陵墓の造営が重要であること、祖先・天皇の墓はその王朝にとって意味があること、お分かりですよね。

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(山城の天智天皇陵)

では、高市皇子(天武天皇の第一子)の墓が高松塚であれば、その墓と文武帝は如何なる関係になっているでしょう。

以前、高松塚古墳は文武天皇の墓という伝承がありました。

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(まだ、高松塚古墳の石室が調査中のライン・石室の真上を通っています)


治田神社(草壁皇子の岡宮跡)→高松塚古墳石室→岡宮天皇陵(草壁皇子陵の改葬前の墓)


高市皇子は、後皇子尊(のちのみこのみこと)と呼ばれました。

であれば、草壁皇子の宮跡とその陵墓に挟まれて眠るのは当然かもしれません。

そして、あろうことか、文武天皇の崩御。

持統天皇亡き後の公務が多すぎたのでしょうか。

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文武天皇陵は、現在天武天皇の真南になっています。しかし、最近「中尾山古墳」(八角形墳丘墓)が改装後の文武天皇陵とされています。

その中尾山古墳は、なんと耳成山の真南にあります。


高市皇子と耳成山の間ですね。

そのわけは、①耳成山と高市皇子の霊力を受け取ろうとした。

または、  ➁高市皇子と耳成山の霊力を遮断した。


更に、草壁皇子の墓も最近は岡宮天皇陵ではなく、「束明神古墳」とされています。

よりよい子孫の繁栄を願って陵墓を改装したのでしょう。
それも、牽牛子塚(斉明陵)、天智陵、中尾山古墳と、八角形の極位に上ったという墳丘墓の形式に揃えたかったということでしょうか

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持統帝の天智天皇への思いがだんだんはっきりしてきましたね。

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文武天皇の傍に藤原氏がぴったりと寄り添って、その行動をコントロールしていたのも確かです。

藤原氏は計画的に謀略を積み重ねて、権力の頂点に駆け上っていくのです。


また明日


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# by tizudesiru | 2016-11-24 11:34 | 167持統帝の孫・文武天皇の仕事 | Comments(0)

166・高市皇子・万葉集で一番長い挽歌

166・高松塚古墳の被葬者と耳成



持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。


死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。

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万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。



高市皇子は、
天武天皇の第一子・妻は天智帝の皇女でした。
草壁皇子の死後、後皇子尊(のちのみこのみこと)とされ、権力の中枢に入りました。
 持統天皇十年(696)七月・薨去



高市皇子の陵は、高松塚古墳という説があります。


壁画装飾で知られる高松塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。


高松塚古墳は、耳成山の真南に位置します。将に、


「耳に成す山」の真南です。時の最高権力者の墓と言う場所です。

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発掘された骨は、40才過ぎの壮年の男性でした。

では、高市皇子となります。


高市皇子は最高権力者となったことになります。書紀では「太政大臣」となっています。妃は御名部皇女(天智天皇の娘・蘇我石川麿の孫)でした。

高市皇子の挽歌は、長歌は草壁皇子の2倍以上あります。

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高市皇子尊の城上(きのへ)(あらき)(のみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

 

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天御門を かしこくも定めたまいて 神さぶと 磐隠ります 八隅しし わが大王の

 

ことばに出すこともはばかれる、言葉にして言うことも何とも畏れ多い、明日香の真神の原に ひさかたの天上の聖なる御殿を畏れ多くもお定めになって、神として窟におられる 世をお治めになった我が大王の


ここに歌われているのは、天武天皇のことです。人麻呂は、挽歌の冒頭には天武天皇のことを述べ、高市皇子の血統を示しました。


(わが大王の)きこしめす 
背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下治めたまひ ()す国を 定めたまふと (とり)が鳴く 東の国の 御軍士(みいくさ) 召したまひて ちはやぶる 人を(やは)せと (まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら (よさ)したまへば 大御身に 太刀取り()かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を (あども)ひたまひ 


我が大王のお治めになる北の(美濃)の国の 真木の立つ不破山を越えて、和佐射見の原の 行宮に 神のように天降りおいでになって 天の下をお治めになって、統治なさる国を鎮めようと、鶏が鳴く東の国の 軍勢をお集めになって、荒れる人々をおさえ鎮め、従わない国を治めよと、皇子であるからこそお任せになったので、皇子はその御身に太刀をお佩きになり、その御手に弓をお持ちになり、軍勢を率いられた。 


ここも、ほとんどが天武帝の命令を高市皇子が受けたことが語られているようです。

この後に、戦で高市皇子が活躍したことが述べられています。

要約すれば・


鼓の音は雷の声かと聞き違えるほど

兵士が掲げる軍旗の靡きは、野火が風にあおられるように見え

弓はずの音は、大雪の降る冬の林につむじ風が吹き渡るように聞こえ

飛んでくる矢があまりに多く、大雪が飛んでくるようだった

立向かう兵士も命がけで戦っていた時、

渡会の伊勢の宮から神風が吹いてきて、その天雲で敵を覆ってしまった

そうして、水穂の国を 神として大いにお治めになった


高市皇子の壬申の乱での活躍が語られました。
要約しましたが、壬申の乱は夏だったはずですが、ここではま冬の厳しい戦いとして書かれています。

 長いのでここで一休み。

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さて、続きです。

やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 
()綿花(ふばな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に (よそ)い奉りて (つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ (ぬば)(たま) ゆうべになれば 大殿を 振りさけ見つつ (うずら)なす いはいもとほり さもらへど さもらひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに おもいも 未だ尽きねば 


天下をお治めになった我が大王(天武帝)に、我が大王(高市皇子)が天下のことを申しあげられたので、いつまでもそうであろうと、結う花のように栄えていた時に、我が大王の皇子の御殿を 神殿(御霊殿)として飾りたて 仕えていた御殿の人も真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の庭に 一日中を鹿ではないが腹這い伏して、暗い夜になれば 御殿を仰ぎ見ながら 鶉ではないが 這うようにうろうろし、お仕えしているけれど、お仕えするかいはなく、春の鳥のように鳴き迷っているのに 悲しみも未だおわってはいないのに、皇子を想うこともまだ尽きてはいないのに


何もかも受け入れがたく、気持ちの整理がつかないままなのに、皇子の霊殿から殯宮へと亡骸をお送りすることになってしまった、のです。
次は、殯宮の様子です。


言さえく 百済の原ゆ 
神葬(かむはぶり) て あし   て ら ぬ も 大王

万代(よろづよ)に て し 香久山宮   と つ き む 


あの百済の原を通り抜けて、神として葬り奉り、城上の殯宮を 常にお住まいになる宮として 高くお祀りし 神としてお鎮まりされてしまった。しかれども、我が大王が「万代までも」と思われてお造りになった香久山の宮(藤原宮)、この宮は、いつまでも残って行くと思われただろう。

天を仰ぐように皇子を振り仰ぎながら、玉だすきを懸けるように、皇子のことを心にかけてお偲びしたい。畏れ多いことだけれど。


さて、人麻呂は高市皇子を如何に詠み奉ったでしょうか。

天武天皇が天下を治めた

その皇子は天皇のために戦の前線にたった

その戦いは、敵を圧倒した

すっかり皇子の代になると思っていたのに

皇子は亡くなり、誰もが混乱した

皇子は城上の宮にお住まいになるが、お造りになった藤原宮は万代まで栄えてほしいだろう

皇子をこれからも偲んでいこう


という内容です。


あまた言葉が並んでいますが……

高市皇子は、確かに大王だったようです。天武天皇と同じ文字「大王」を同じ詩篇の中に使われていますから。

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高市皇子は、耳成山の真南に葬られた方のようです。

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しかし、その耳成山との霊力は断たれます。

なぜ?

それは、明日

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# by tizudesiru | 2016-11-23 15:20 | 166・高市皇子と高松塚古墳 | Comments(0)

165・天武大地震(678年)=筑紫大地震

天武天皇七年(678)


九州で大地震
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(福岡県久留米市で、耳納断層に関わる筑紫大地震の爪痕の特別展があっています)

この地震により、筑紫平野の寺院や役所が倒壊しました。上岩田遺跡の瓦が出土しています。ほとんどが垂木先瓦でした。「たるきさきかわら」とは、屋根ではなく垂木の木部が風雨にさらされて痛むのを防ぐための瓦です。
屋根を葺く瓦は他の寺院に運ばれて再利用されたので発掘されなかったのです。
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(小郡埋蔵文化財センターの展示物・写真撮影可能)

八弁蓮華文の文様で、蓮弁の中に子葉があります。飛鳥の山田寺の瓦の文様と同じでしょうか。
瓦のお話もしたいですね……
また、東日本で地震がありました。
大きな被害になりませんように。
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# by tizudesiru | 2016-11-22 12:12 | 165・天武大地震(筑紫大地震)678年 | Comments(2)

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂ことあげす

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

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「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前のブログ(157・持統帝の霊魂に再会した人麻呂)に書きました。

人麻呂の紀伊國の旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。

形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れる為の旅でした。黒牛方は、有間皇子の終焉の地、藤白坂の近くの海岸です。その海岸に、

女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は、女帝の霊魂に確かめに行ったのです。

「お言葉のままに、事挙げしてよろしいのでしょうか。わたくしは決心がつきかねております」

人麻呂が迷っていたのは、万葉集の編纂を続け、それを文武天皇に奏上することでした。

答は「詔のままにせよ」だったのです。

無念の最後を遂げたゆかりの人、滅ぼされてしまったゆかりの人を追慕し、その霊魂を鎮め、鎮魂歌集として末永く朝廷に伝えること。

それが、持統帝の詔でした。

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人麻呂は命を賭して「事挙げ」の決心をしました。


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葦原の水穂の国は、この国を支配する神様としては言葉にして言い立てたりはしない国だ。

だが、わたしはあえて言葉にして言うのだ。どうぞご無事で、真にお幸せにと、障りもなくご無事であれば、荒磯浪のアリのように在りし時にお逢いしたかった。

百重浪、千重浪のような後から後から押し寄せて来る波のように、私は何度でも事挙げする。

わたしは亡き帝のために何度も何度も事挙げする。

反歌(長歌と同じような中身を繰り返す短歌という意味)

敷島のの倭の国は、言霊の霊力によって幸をもたらす國である。私は、言霊によってこの国の幸を願う。どうぞ末永く、無事でおいで下さい。


人麻呂が決心して「万葉集」を奉ろうとしたのですが、そこに、

文武天皇(持統天皇の孫・42代天皇)の突然の崩御でした。

やむを得ず、母の元明天皇(草壁皇子の妃・43代天皇)に奏上したのでした。

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元明天皇は激怒しました。

そこに皇統の秘密が書かれていたのです

それは、誰にも知られていることだったと思います。が、

それをわざわざ事挙げする人麻呂を許せなかったと思います。
それが故に、草壁皇子が苦しみ、持統天皇が文武天皇のために身を挺して政を支え力尽きたことを、元明天皇は承知していました。
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人麻呂は流罪になりましたが、さらに刑死となりました。

それを甘んじて受けたことが、万葉集でも読み取れるのです。


またあとで





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# by tizudesiru | 2016-11-21 11:33 | 164・持統天皇との約束・人麻呂ことあげ | Comments(0)

163・持統天皇の最後の願い・火葬と合葬

163・持統天皇の最後の願い

・火葬と合葬墓

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大宝2年十二月二十二日、持統天皇崩御

「続日本紀」文武天皇、大宝二年十二月条に

太上天皇、(かむあが)ぬ。遺詔(いせう)したたまはく

素服(そふく)挙哀(こあい)することなかれ。内外の文武の(つかさ)()()は常のごとくよ。

喪葬のことは、努めて倹約に従へ」とのたまふ。


持統天皇の火葬・天武陵への合葬

持統天皇の最後の願いは火葬であり、野口陵への合葬でした。

歴代天皇の中で、初めての火葬でした。

しかも、合葬墓です。

ここに、何かしらの違和感があります。

天皇位に上ったということは、神になったということですから天皇の葬儀は、神として葬送儀礼が行われ、陵墓が造られました。

ひとりひとりが一柱の神となって祀られてきたのでした。それなのに…
墓も作らず、骨のみを残し、霊魂となって飛び去ったのです。どこへ?
もちろん、天智陵へ向かって。

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天武・持統合葬陵は、山城の天智陵と経度がおなじです



天智陵→藤原宮・大極殿(白ポイント)→ 天武・持統合葬陵(青ポイント)

持統天皇は、「天智天皇の墓の真南に眠る」ことを希望したのです。なぜ?

もちろん、天智天皇と死後もつながっていたかったからです。

持統天皇にとって、淡海は忘れられない思い出の地でした。

草壁皇子を大津で生んでいます。

柿本朝臣人麻呂は「近江皇都の在れるのを哀しむ歌」を献じています。

なぜ、持統天皇は、天智帝をそこまで愛したのか。

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全て、持統天皇の出自、宿命に関わることです。
鬼のように冷静で、藤原氏と手を組んで、あまたの皇子皇女の運命を変えた女性として知られる持統天皇。その実像は、万葉集を読むと違ってくるのです。
ここで、いち早く持統天皇の最後を持って来たのは、他でもありません。
持統帝がいかなる宿世を持った人だったのか、考えてもらいたいからです。

紀伊国行幸に見られる有間皇子への強い追慕の念と、鎮魂の思い。持統帝は皇子の所縁の人としか思えません。
天武天皇の政権下では、寺院の建立が盛んでした。それは何故なのか。失った人が多くいたということでしょうか。
祖父の石川麿の山田寺(浄土寺)の再建だけではありません。

では、草壁皇子のために造った寺は?
(明日香村の岡寺は。僧義淵が造りました) 
一人息子の草壁皇子の死に接した時の持統帝の姿は、書き残されていません。
孫の軽皇子(後
の文武天皇)に、阿騎野で草壁皇子の霊魂に触れさせ、15歳で即位させ、自分は太上天皇として文武天皇を補佐し続けました。
そして、最後には天智帝(38代)と天武帝(40代)を結ぶように野口陵を造り、そのライン上に藤原宮を造営したのは、偶然ではありません。
更に、最終的に自身もそこに眠ったという、この軌跡から匂い立つのは、女性としての意思だと思います。

山城の勧修寺も、宇治の平等院も、禅宗の万福寺もこの直線に乗っています。
このラインの意味は、少なくとも十世紀の人までは知られていたということでしょう。



またあとで





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# by tizudesiru | 2016-11-20 11:42 | 163・持統天皇の最後の願い | Comments(0)

162・天武朝の女性たちの悲劇・その2

162・後宮の女性たちの悲劇・その2

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吉野盟約とは、天武八年(679)五月五日

天武天皇が「千歳の後に、事なからしめむと欲す、いかに?」

と問えば、皇子達、「ことわり、(いや)(ちこ)なり」と答えた。


千年の後まで事がないようにしたいが、どうか?

道理はまことに明白です。


六人の皇子が「われら十余りの王は、それぞれ母が違っているが、天皇の勅に従い、これから助け合い逆らうことはしない」と天武帝と持統皇后に盟約をしました。


六皇子とは、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴
ですが、この誓いの詞は正確ではありません。違っているのは、母だけではないのです。六人のうち二人の皇子(川嶋・志貴)の父は、天智天皇でした。父も違っていました。

ここで行われた儀式は「皇太子決め」でしょうか。

草壁皇子が立太子されるのは、天武十年か十二年です。


十市皇女のように思い詰めて苦しむことはないと、天皇が家族として後宮の女性達と、その連れ子達を認めたのです。

だから、川嶋皇子(天智帝の皇子)、志貴皇子(天智帝の皇子)が吉野盟約の六人に入っているのです。滅ぼした前王朝の皇子を入れて、「千歳のことなき」を誓い、新皇族が発足したのです。


川嶋皇子の姉は、大江皇女です。姉弟そろって新家族となったのです。

吉野盟約とは「新王朝を立てたことを確認し、前王朝の子女も含めて新王朝の家族となる儀式だった…と思います。


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天武天皇は歓喜した


吉野宮に行幸して「新王朝」の儀式をした時の喜びの歌が万葉集巻一にあります。気持ちの上でも、全ての女性と皇子皇女たちを受け入れようとしたのです。


天皇吉野宮に
(いでま)す時の御製歌

27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三


よきひとの よしとよくみて よしといいし よしのよくみよ よきひとよくみ

ここ、芳野を、淑き人が良い所だと、よくよく見て、好しと言った。その芳野をよく見よ、若い良き人達よ。よく見よ。


天武朝の後宮


天武天皇の妃には、天智天皇の皇女が四人入っています。
大江皇女と新田部皇女は、壬申の乱後の後宮入りでした。

大田皇女蘇我氏系母) 大津皇子(663~686)・大伯皇女

鵜野讃良皇女蘇我氏系母)草壁皇子(662~689)

大江皇女(忍海造母)  長皇子・弓削皇子 *676年以降の出生

新田部皇女(阿倍氏系母)舎人皇子 *676年以降の出生


新田部皇女の姉・明日香皇女の嫁ぎ先ははっきりしません。なぜ、明日香皇女を後宮に入れなかったのか。そこがキーポイントでありますが。


大江皇女と新田部皇女の初産の時期
から推察すれば、壬申の乱当時は二人は稚かったのでしょう。長皇子と舎人皇子は、大津皇子や草壁皇子の出生年と比べても遅い出生年となっています。

つまり、若い皇女も高齢の婦人も、全て次の王朝に移動させ、その自由を束縛しました。耐えかねた采女が自殺したようです。


壬申の乱という内乱の後、女性たちはこぞって天武朝の皇子に振り分けられたということでしょうか。女性たちはしたたかに生きて行くのですが…

高市皇子(654~696)の妃にも天智帝の皇女が入っています。

御名部皇女蘇我氏系母)長屋王(676~729)

十市皇女(母は額田王) 葛野王は大友皇子の子


草壁皇子の妃に天智帝の皇女が入っています。

阿閇皇女蘇我氏系母)元正天皇(680生)文武天皇・吉備内親王


大津皇子の妃にも天智帝の皇女

山辺皇女蘇我氏系母)* ~686没 ? 


気が付かれましたか。同じ皇女でも、蘇我系の母を持つ皇女が重要だったことが。

蘇我石川麿は右大臣・蘇我赤兄は左大臣にまで上りました。特に、石川麿の娘達は皇女を生みました。その皇女の子どもたちが皇位継承者になったのです。

 

蘇我氏は大化改新(645)で滅びたのではありません。本家は滅亡しましたが、分家の子女が王朝を支えたのです。


持統天皇は苦しんだのか?

さて、天智朝からたくさんの女性が移動させられたとして、持統天皇はどのような立場になるのでしょう。


また後で


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# by tizudesiru | 2016-11-19 10:43 | 161・天武朝の女性たちの悲劇 | Comments(0)

161・天武朝の女性たちの悲劇・その1

161・天武朝の後宮の女性達の悲劇 その1

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壬申の乱で勝利した天武天皇は、滅ぼした王朝の天智天皇の皇女を後宮に入れました。特に有力氏族の皇女は、外に出しませんでした。

なぜなら、女性たちが血統を伝える皇位継承者を生んでくれるからです。

高貴な血統を他に渡すことはしなかったのです。

女性には辛い束縛だったのではないでしょうか。


十市皇女(大友皇子の妃)の薨去


天武天皇と額田王の娘である十市皇女は、壬申の乱の総大将・大友皇子の妃でした。葛野王を生んでいます。乱の後は、母と明日香へ帰り、高市皇子の妃となっていたようです。

天武7年(678)に薨去しています。突然の死でありました。

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三輪山


十市皇女が亡くなった時の高市皇子の歌が、万葉集巻二・挽歌にあります。

十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首


156 三諸の神の神すぎ巳具耳矣自得見監乍共い寝ぬ夜ぞ多き


みもろの みわのかむすぎ巳具耳矣自得見監乍共いねぬよぞおおき

あなたはあの三輪山の神の杉のように思えた。巳具耳矣自得見監乍共 わたしはよく眠れない日が続いています。あなたを理解してやれなかった私です。

この時、十市皇女は30歳過ぎくらいで、高市皇子は24歳です。子連れの敵将の女性に高市皇子は近づき難かったのでしょう。しかも、自分は壬申の乱の総大将でした。十市の夫の大友皇子を殺させ、その首も見たのです。皇女に対して恐れがなかったとは言えないでしょう。

だから、高市皇子は嘆きました。


157 神山の山辺
()()()木綿(ゆふ)


みわやまのやまべまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき

三輪山の麓の神社の神に奉るまそ木綿(ゆふ)ったに、ってい

高市皇子の後悔が伝わります。


158 山ぶきの立よそいたる山清水酌みに行かめど道のしらなく


やまぶきの たちよそひたる やましみず くみにゆかめど みちのしらなく

山吹の花が咲き乱れているという山奥の山清水を酌んであなたに捧げたいけれど、そこはこの世ではないらしく、私には道が分からない。

埋葬の後でしょうか。少し落ち着いて皇女のことを偲んでいます。

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石上神宮

十市皇女は伊勢神宮に参詣したりして、精神的再生を心していたのでしたが、耐えられない日々だったのでしょう。当然、後宮の女性にも不安が走ります。

十市皇女の突然の死(678)は、自死だったと思われます。
母である額田王はどれほど悲しんだでしょう。
息子の葛野王は、しみじみと自分の立場を感じたでしょう。
夫の高市皇子も責任を感じていたし、
父である天武帝にしても、深い自責の念にかられたでしょう。


そこで、一年後天武八年(679)に
「吉野の盟約」と言われる「新王朝の家族となる儀式」をしたのです。


吉野の盟約は「草壁を皇太子とするための盟約」ではありません。

天武帝は、「家族となろう」と呼びかけた。

新家族結成の儀式をしたのです。
後宮の女性たちの不安を除くために。

後にも先にも、天武帝の吉野行幸はこの一回のみです。


吉野盟約の次の年に、草壁皇子に長女の氷高皇女が生まれています。

草壁は安心して、天智帝の娘の阿閇皇女と結婚したのです。

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しかし、天武朝の中の火種が消えたのではありませんでした。

後宮の女性たちの悲劇はまだまだ続きます。

また後で


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# by tizudesiru | 2016-11-18 11:07 | 161・天武朝の女性たちの悲劇 | Comments(0)

160・大津皇子の流涕して作らす御歌

160・大津皇子の流涕して作らす御歌

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万葉集巻三・挽歌

 
大津皇子、死を
(たまは)リし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首

416 百伝ふ磐余の池になく鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

  右、藤原の宮の朱鳥の元年の冬十月


大津皇子は異母兄弟の草壁皇子と皇位を争って敗れ、朱鳥元年(683)の十月、自邸で命を落されました。書紀に「皇子大津」と書かれ、罪人としての刑死でありました。


その臨死の歌は『雲隠りなむ』と、いかにも王者らしく凛としています。

彼は、「せめて王者として死のう」と思ったのでしょう。

大津は自身を極位に上るべき立場にいたと思っていたのですから。


謀反というより、当然の行為だったのです。

十分に考慮を重ねての決断だったはずです。

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姉の大伯皇女に相談に行った時の歌が万葉集にあります。

伊勢神宮の斎宮であった大伯皇女が弟の決心を聞いて、倭に帰した後の歌です。


話をしていたからこそ、
事の重大さを知っていたからこそ、
弟が立ち去った後も立ち尽くしたのでした。


105 吾背子を倭へ遣ると小夜深けてあかとき露に吾立ち濡れぬ


106 二人ゆけど行き過ぎ難き秋山を如何にか君が独り越ゆらむ


そして、悲劇は起こりました。


163 神風の伊勢の国のもあらましを何しか来けむ君もあらなくに


164 見まくほり吾する君も有らなくに何しか来けむ馬つかるるに


165 うつそみの人にある吾や明日よりは二上山をいろせと吾見む


166 磯の上にさける馬酔木を手折らめど視すべき君が在りと言わなくに


これらが、後の人の歌物語として作られたとしても、大津皇子と大伯皇女の堅い絆を伝えようとしたのは、確かでしょう。

この悲劇は、起こるべくして起こりました


大津皇子は、天武帝の第三子とされています。

高市・草壁・大津の順です。

皇位継承者は何より高貴な皇統を継ぐ人であることが重要でした。

『玉たすき 畝傍の山の橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと栂の木の いや継ぎ継ぎに天の下…』ですから。母方の血統も大事でした。


高市の母は宗形氏、草壁と大津は蘇我系の皇女。

皇位継承の対象は、草壁と大津にしぼられたことでしょう。

当然、取り巻きは色めき立ちました。

大津皇子は天武帝に愛されたと書紀にも書かれています。

帝王学も学び、十分に学問も積んでいました。

なのに、大津皇子が破れた。


その不満は、天武系の皇子達王子達の間に残りました。

この先、皇位継承に関して、異議を申し立てたり、謀判の罪を着せられたり、謀判を起こしたりで、落命した人物はかなりの数に上りますが、全て天武系の皇子や王子達です。

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この話は、後で


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# by tizudesiru | 2016-11-17 11:48 | 160・大津皇子の流涕して作る御歌 | Comments(0)

159草壁皇子の薨去の事情


159・草壁皇子の隠された薨去の事情 


日本書紀のおける草壁皇子の薨去の記事はわずかです
。亡くなったと書かれているのみです。

「御病したまう」とか、病気平癒を願って何人得度させたとか、記述はありません。草壁皇子の娘の氷高皇女が病気になった時、持統帝は140人を出家させました。明日香皇女(天智帝の娘)の病気にも104人を出家させています。

それなのに、草壁皇子のために出家した人はいません。

皇太子だったのに。

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草壁皇子は病弱だったのでしょうか


草壁皇子の挽歌に、舎人が詠んだ反歌二十三首が並んでいます。


173 高光る わが日の皇子のいましせば 嶋の御門は荒れずあらましを

174 よそに見し 檀の岡も 君ませば 常つ御門ととのいするかも

183 我が御門 千代とことばに栄えむと 想ひてありし 吾し悲しも

191 毛衣を ときかたまけていでましし 宇田の大野は 想ほえむかも


皇子を「日の皇子」と尊び、墓所となる「檀の岡」はよそ事だと思いたのに宿直することとなってしまって、「我が主人は千代に栄える」と思っていた自分が悲しい。狩の装いの毛衣を着て、宇多の大野にお出でになった時のお姿が忘れられない…と読みました。皇子は元気だった…

突然の薨去だったようです。

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草壁皇子のライバルは、大津皇子だったのか? 


女性問題に関しても、大津皇子にポイントを取られていたと解釈されています。
草壁皇子の歌は、集中に一首のみです。


日並皇子尊、石川郎女に贈り賜ふ御歌一首 郎女、
(あざな)を大名児といふ

110 大名児 彼方(おちかた)野辺に 刈る(かや)の (つか)の間も われ忘れめや

ああ大名児、彼方の野辺で刈る草の一束のツカのような、ほんの束の間もわたしはお前を忘れることはない。

この歌の前に、大津皇子の歌があります。


 大津皇子、ひそかに石川郎女に
()ふ時に、津守連通、その事を占へ(あら)はすに、皇子の作る御歌一首

109 大船の 津守が占に()らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し

大船が泊まる津と同じ、津守の占いに現れるとは、将にこちらも承知のうえでふたりは寝たのだ。


こうしてみると、石川郎女を奪ったのは大津皇子で、草壁皇子はまだ未練がある、と読み取れるようです。しかし、もともと、大津皇子と石川郎女は恋仲だったようです。

 

   大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首

107 あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ち濡れぬ 山のしづくに

   石川郎女こたえ奉る歌一首

108 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを


このように並んでいますから、二人はアツアツだったのです。石川郎女は、途中で草壁皇子に召されたのかも知れません。それで、密に大津にあったのだと。

この恋のバトルは大津皇子が優位だったという説が有力です。

確かに、大津皇子は魅力的な青年だったのでしょう。


懐風藻にも漢詩を残し、日本書紀にも「詩賦は大津より始まる」と書かれています。何より天武十二年(683)「朝政を聞く」とあり、朝政に参画しはじめていました。天武天皇の大きな期待が大津皇子に掛けられていたのは間違いないのです。

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当時の宮廷の官人も周囲の豪族も大津皇子に期待していた。

持統帝も草壁皇子もそれを知らないはずはありません。


上記の「大名児」の歌ですが、

大名児よ、わたしは何処か分からない彼方で刈り取られた草の一束のように、ほんの束の間もお前を忘れることはないが、それは、何処か分からない彼方の草だ。だから、お前も彼方の草と同じ、それでいい。

とも読めるかなア、これは読みすぎでしょうね。

しかし、草壁皇子は承知だったはずです。大名児とは、宮廷の侍女だったのでしょうから、豪族の娘だったのかも知れません。自由に恋ができない女性が大津皇子を愛しても許してあげたのではないでしょうか。


さて、草壁皇子は天武十年(681)か、十 二年(683)に皇太子になりました。

非常に遅い立太子です。

同時に、大津皇子は「朝政を聞く」となっています。

天武天皇としては、大津皇子に極位への道を用意しておきたかったのです

天武天皇崩御


朱鳥元年(686)五月、天皇の病を卜うと、草薙劔の祟りというので、熱田社に安置。

仏法にて病の平癒を誓願。

諸国は主な神社に幣を奉り、天皇の病の平癒を祈念。

「天下のことは全て皇后と皇太子に啓上せよ」の勅

朱鳥元年とする。

皇太子・大津皇子・高市皇子に封四百戸

9月4日・皇子・諸臣ことごとく川原寺で天皇の病平癒を誓願。

99日・天皇崩御

911日・殯宮を建てる

924日・殯の礼。大津皇子が謀反を起こす

102日・大津皇子の謀反が発覚

103日・大津皇子に賜死。山辺皇女が殉死


これらの出来事のことごとくを、草壁皇子は見聞きしていたのです。

草壁皇子が苦しまないはずはありません。

皇太子でありながら即位しなかった大きな理由は、ここにあると思います
大津を死なせてしまった

このことが、草壁皇子の心を縛り、即位を拒否したと思うのです。

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草壁皇子は苦しんだ挙句、高市皇子に皇位継承を託しますが、母が承知しません。群臣と母と高市皇子の取り巻き勢力の板挟みで、皇子は自ら命を絶ったと思います。
だから、書紀の記述は短く。万葉集の挽歌も「高市皇子の挽歌」より短いのです。人麻呂が崇拝する持統帝の息子の挽歌を粗末にするわけはありません。彼は、あれ以上書けなかった。
悲しすぎて、悔しすぎて書けなかったのです。

むしろ。草壁皇子は大津皇子に皇位が継承されることを考えていた。
彼の申し出を受けてもよかった。
大津皇子は姉にも相談し、決心を固めた。
しかし、事は謀反とされ、大津皇子は死を賜った。
草壁皇子は責任を感じたのです。
母との三年間の軋轢を経て、ついに…
これが、私が日本書紀から読んだことです。
あなたはどう思いますか?
つぎは、大津皇子について書きましょうか。




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# by tizudesiru | 2016-11-16 11:44 | 159・草壁皇子の薨去の事情 | Comments(0)


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