186聖武帝の不運と不幸(3)

186聖武天皇の不運と不幸

聖武天皇の不幸は上げればきりがありませんが、その不幸の中で唯一心許せる人物がいたとしたら、橘諸兄でした。その変わらぬ忠誠心を信頼していたのです。「橘は」の歌は元正太上天皇の御製歌という説もあると左脚に注があります。

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1009 橘は実さえ花さえその葉さえ ()に霜降れどいや常葉(とこは)の木

橘は実も花も素晴らしい。その葉は霜が降っても決して変わらず青々としてますます栄えて行く木である。(まるで汝の変わらぬ忠誠心のようではないか)

その忠誠心のまま、諸兄は聖武帝に仕えました。ただ、聖武帝は娘の阿倍内親王に譲位しようと考えていました。そうすると、天武朝の皇統が消えてしまうと諸兄は心配していました。

天平十八年正月・太上天皇(元正)の御在所に雪を払いに行った後の宴席で

橘の諸兄が詔に応えて詠みました。

3922 降る雪の白髪までに大皇(おほきみ)もあ

降る白雪のように白髪になるまで大王にお仕えいたしますことは、何ともありがたく尊いことであります。

橘諸兄は元正太上天皇にも信頼されていました。太上天皇が天武帝の皇子に皇統を継がせたいと内心考えておられることも知っていました。

「天武朝の皇統を守りたい」というのは、壬申の乱で活躍した氏族の願いでした。当然、大伴氏もその考えでしたので、諸兄と親交があったのです。

しかし、藤原氏と光明子が許しません。聖武帝は、内親王に譲位しました。

その後、安堵した聖武太上天皇が諸兄宅に招かれました。

そこで、諸兄の子・橘奈良麻呂が詠みました。

1010 奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すともつちに落ちめやも

奥山の雪は真木でさえ葉をしのぎ押伏せるでしょうが、どんなに雪が降り積んでも橘の実は土に落ちたりいたしません。

こんな橘氏が邪魔でないわけがありません、藤原氏にとって。

だから、橘奈良麻呂の謀反事件は起こりました。

748年 元正太上天皇没

756年 聖武太上天皇没 遺詔により道祖王を立太子

757年 一月橘諸兄没 七月橘奈良麻呂の謀反発覚

先手を打たねばなりません。やはり、諸兄(もろえ)半年後に陰謀の結果が出ました。半年後の法則です。拷問で自白させられた小野東人の告白により、有力者が獄に命を落としました。

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聖武太上天皇の遺言で皇太子になり廃太子されていた(ふな)()も 絶命

佐伯(さえき)大伴氏同族た。佐伯(さえきの)全成(またなり)顛末自白自害た。

大伴家持は既に藤原氏に近づいていました。


しかし、この事件は決定的に家持に深い傷を残したのです。

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奈良麻呂の謀反発覚の前の家持の歌

奈良麻呂の謀反発覚後の藤原の仲麻呂と淳仁天皇(まだ皇太子)の歌

ここに集約された藤原氏側の陰謀の証明

これらの歌については、いずれ触れましょうね。

そして、今年の最後の歌は、大伴家持の万葉集最終歌です。


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何もかも世の中は思い通りにはならず、大切にしていた友と主を亡くし、心あるものは命を奪われ、権力を振り回すものには物事の本質が読めず、弱いものは消されていく。

絶望に満ちた世で生きて行くのは、何のためなのか。


それでも、家持は言霊の力に一筋の望みを託して詠みました。

どうぞ良いお年を。


新しき年の初めの初春(はつはる)今日降()(ごと)








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# by tizudesiru | 2016-12-31 14:32 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)

186聖武帝の不運と不幸(2)

186 聖武天皇の不運と不幸(2)

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即位して間もない時に起こった「
長屋(ながやの)(おほきみ)の事件(729)」は、聖武天皇にとって衝撃だったでしょう。

太上天皇と長屋王の佐保(さほ)の新築の館に招かれて、楽しい宴会をした後の事件でしたから。元正太上天皇にとっても辛い出来事だったと思います。

それでも、元正太上天皇は聖武天皇を「我が子」として大事にしました。

太上天皇にとっては弟の文武天皇の忘れ形見であり、聖武天皇も優しい人がらだったようです。

元正太上天皇は、母の元明天皇の意思を甥に伝えることが使命でもありました。それは、確実に伝えられたと思われます。

それは、即位後の行幸を見ればわかります。

聖武天皇は即位(二月)

持統天皇の形見(かたみ)の地「吉野」に行幸(三月)

紀伊国行幸(十月)文武天皇・元明天皇、持統天皇・有間皇子の形見の地

聖武天皇の紀伊国行幸は「持統天皇最晩年の大宝(たいほう)元年(がんねん)(しん)(ちゅう)冬十月」と同じ季節に同じ場所を訪ねたのです。それも長い滞在でした。

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紀伊国では、頓宮(かりみや)位階名草(なぐさ)海部(あま)地名ゆえ手厚想像

そして、長屋王の変(729)

元正太上天皇と目指すべき方向を見定めていたのに、聖武天皇は残念だったと思います。

長屋王を(きゅう)(もん)した舎人(とねり)皇子・新田部(にいたべ)皇子・多治比(たじひの)池守(いけもり)藤原武智(むち)()()小野牛(おのうし)(かひ)す。吉備(きび)内親王・膳夫(かしはで)王・桑田(くわた)王・葛木(かつらぎ)王・(かぎ)(とり)四人男子た。「吉備内親王藤原氏の「藤氏家伝書」には、長屋王の変には一切触れていません。武智麻呂自分にかかわることなので書かなかったのです。

絶頂期に藤原四兄弟死す

天平七年(735)新田部皇子没・舎人皇子

天平八年(736)葛城王臣下に降下、橘氏の姓を賜う(橘諸兄)

天平九年(737)藤原房前・藤原麿・藤原武智麻呂・藤原宇合四兄弟没

光明子の兄の藤原四兄弟が天然痘で世を去ります。



聖武天皇と橘諸兄との蜜月


橘諸兄は、(あがた)犬養(いぬかいの)三千代(みちよ)()()二人た。父違光明子兄弟死後、橘氏当然


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葛城王が臣下に降下した時の聖武天皇の御製歌があります。

橘は実さえ花さえその葉さえ枝に霜降れどいや常葉(とこは)

天平勝四年(752)の御製歌は、阿倍内親王に譲位して太上天皇となった聖武帝が諸兄の宅で詠んだものです。

橘奈良麻呂(諸兄の子)と左大臣(橘諸兄)が応えて歌を詠みました。

大伴家持も同席していました。諸兄は左大臣まで上り詰めて、聖武帝を館に招くほど力もあったのです。

聖武帝と諸兄とを深く結びつけたのは、

天平十二年(740)藤原広嗣の乱だったでしょうか。

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広嗣の乱の後、聖武天皇は長く彷徨います。
平城宮を出て、紫香楽宮、恭仁宮…と京が変わるのでした。諸兄はその聖武帝を支え続けたのでした。

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もちろん、藤原氏は次の手を考えていました。




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# by tizudesiru | 2016-12-31 01:22 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)

186・聖武天皇の不運と不幸

186聖武天皇の不運と不幸

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聖武天皇の不運と不幸

その遠因は、帝(首親王=聖武天皇)の母があの藤原宮子で、皇后に昇る妻が藤原光明子だったことです。

マタニティブルーだったのか、宮子は三十数年も息子に会いませんでした。

光明子(安宿(あすかべ)媛)の母は犬養三千代で、文武帝と聖武帝の乳人(めのと)です。犬養三千代が安宿媛(光明子)と首皇子(聖武帝)を育てたのです。


その成長を元明天皇は危惧していました。

それでも、藤原氏の手により首親王の十五歳即位の準備は、前回書いたように着々と勧められていました。

しかし

祖母の元明天皇は、皇太子ではなく()(たか)内親王(ひめみこ)元正天皇に譲位しました。首皇子が元服立太子していたにもかかわらず、です。

藤原氏は元明天皇にしてやられたのです。

元明天皇の詔には(けん)(どう)は天を()べ、文明ここに(こよみ)(ぎょ)す。大きなる(たから)(くらい)といい(略)()りてこの神器を皇太子に譲らむとすれども、()(はい)幼く(わか)くして未だ深宮(しんきゅう)を離れず。(略)一品氷高内親王は、早く(しょう)()(天の授けるよいしるし)にかない、つとに徳音(とくいん)(よい評判)をあらわせり。(略)今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉くつつしみ奉りて、朕が(こころ)にかなふべし』


詔には首皇子が「若く幼く即位するには不十分」と言うのです。皇太子側には厳しい評価でした。育てた藤原氏側は恥をかかされた状態でしょう。


藤原氏は首親王に猛勉強させます。

715年 長親王(6月没)穂積親王(7月没)志貴親王(8月没)

9月・氷高内親王即位

716年 遣唐使任命有力者を国外へ出す

717年 難波行幸 藤原房前参議 

718年 藤原不比等ら養老律令撰進

719年 首親王始めて朝政に参画 新田部親王・舎人親王が皇太子の補翼を務める

720年 不比等没 日本書紀などを撰進

721年 元明天皇没 井上女王(首親王の娘)を伊勢宮の斎内親王とする

     *県犬養広刀自の生んだ女王の結婚のチャンスを断つ目的か
     実際に「伊勢の大神宮に侍らしむ」のは727年のこと。

724年 首親王即位


日本書紀の編纂に取り組んでいた舎人親王など、天武朝の有力者を皇太子の補翼を務めさせたのでした。
元明天皇が没すると、県犬養広刀自の生んだ皇女を斎内親王と決めます。彼女に有力者に嫁がれては困るので、伊勢神宮の斎宮とするのです。藤原氏側が先手を打ったのでした。

*後に、井上内親王は光仁天皇の皇后になるのですが、最後は皇太子と共に殺されました。広刀自に生まれた三人の子どもたちは全て消されました。

聖武天皇は自分の御子を残すことができませんでした。

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安積親王の突然死

聖武天皇の期待の皇太子(母・光明子)の(もとい)(おう)は生後一歳で死亡し、安積(あさかの)親王(みこ)(母・(あがた)犬養(いぬかいの)(ひろ)()())も若くして薨去し男子跡継

安積親王(728~744)は、十七歳で毒殺されたと言われます。

大伴家持は安積親王の内舎人(うちとねり)だったので、そのショックは大変なものでした。

聖武天皇はまことにお気の毒な帝でした。


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# by tizudesiru | 2016-12-29 17:37 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)

185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇

185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇

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長屋王の館は平城宮の南東にあり、宮城のすぐ近くでした。大規模な発掘があって大量の遺物・遺構が発見され、木簡も出ています。その木簡には『長屋親王』と書かれていて、元明天皇の「吉備内親王の男女を皇孫」としたことを裏づけるものでしょう。


万葉集の巻三に長屋王(
268番)の歌があります。非常に意味深な掲載の仕方になっています。人麻呂(266番)志貴皇子(267番)の後です。

266 (あふ)()夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)()(こころ)しの(いにしへ)

267 むささびは()(ぬれ)とあ()()()(あい)

268 ()背子古家(ふるへ)明日香千鳥(つま)

このように並ぶと、非常に悲しい出来事が浮かんできます。

この歌を詠む人たちには、淡海から近江朝の都の址を思い出させ、志貴皇子の歌から(子が光仁天皇として近江朝の皇統を取り戻したことを思い出させ)何も知らないムササビ(長屋王)が罠にかかって山の猟師(政敵)に殺されたことを思い出させる。そして、長屋王の歌。

父の高市皇子が造営した新益京はすっかり古くなってしまったが、たくさんの鳥が今でも主が帰って来るのを待っているのだろうなあ、と読めるのです。


この三首を読むと、いつもゾッとするのです。

万葉集に驚かされるのですが、ここは人麻呂の編集ではありません。人麻呂(柿本左留708没)、志貴皇子(716没)、長屋王(729没)の死後、時も変わり、事件の真相もほぼ明らかになった後に、すべてを知ることのできた人が編集したとしか考えられません。

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441番歌の倉橋部女王は長屋王の娘とされています。
442番歌は作者不明。これは大伴旅人の作と私は思っています。

次は、いろいろありますが、安積親王の毒殺事件ですかねえ…
お正月には きれいな歌にしたいですが…


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# by tizudesiru | 2016-12-28 10:50 | 185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇 | Comments(0)

184氷高内親王(元正天皇)の孤独

184氷高内親王(元正天皇)の孤独


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元正天皇の御製歌は、集中に八首ありますが、中でも巻八1637はドラマチックです。太上天皇とは譲位した元正天皇のことで、天皇とは聖武天皇です。


二人が揃って新築した長屋王の屋敷に招かれての御製歌です。


太上天皇


はだすすきや尾花をさかさまに葺き黒木を用いて作った新築の館は、万代までも長く栄えるだろう(栄えてほしい)


聖武天皇


奈良の山にある黒木を持ちて造った新築の館、此処はいつまでいても飽きることはない


聖武天皇の即位は、神亀元年(724)で、長屋王の変は神亀六年(729)です。太上天皇と聖武天皇が揃って長屋王の佐保の新室に訪問し、宴を楽しんだのは、この五年間のいずれかの日でしょう。


参列した長屋王家の人々は笑顔で高貴な二人を迎え、幸せを噛みしめたことでしょう。しかし、数年後には長屋王家の滅亡となるのです。


この時、吉備内親王と氷高内親王の姉妹は、お互いの幸せを喜び合ったのでしょうに。長屋王が無罪だったことを知らされた聖武天皇は、さめざめと泣かれたそうです。


氷高内親王は、草壁皇子と阿閇皇女の長女で文武天皇の姉です。

美しく賢い人で、幼い時から天武天皇に愛されたようです。

天武十一年八月()(たか)皇女(新家(にひのみ)皇女)の病のために、死罪以下の男女、合わせて百九十八人全員を赦免。翌日、百四十人余りを大官大寺で出家させた。


まだ三歳くらいの皇女のために百四十人も出家とは。この皇女が特別の位置にいたとしか考えられません。

これほど愛されながら、生涯独身で誰にも嫁いでいません。文武天皇が即位した時、十八歳の娘盛りだったので、結婚話があってもいいはずですが…

*内親王:大宝律令より皇子と皇女を親王・内親王と称した。

 奈良時代後半には、親王宣下のあった子女のみに使われた。

日高(氷高)皇女が結婚できなかった理由は、率直に考えて周囲の思惑が影響したこと以外に考えられません。天武天皇なら長屋王に嫁がせることを考えたと思います。しかし、天武帝は皇女が七歳の時崩御。

周囲の皇族が氷高皇女をゆくゆくは天皇位につけたいと考えての独身だったとしても、まだ、皇女の即位は例がない時期ですから、この説には無理があります。聖武天皇の皇女(阿倍内親王=孝謙天皇)は、天皇位に昇るということで独身でしたが。これは、日高皇女の例があったので、皇女からの極位に昇る条件のようにされたという説があります。


わたしには、
(すめろぎ)の血統を他に分けない為の手段のように思えてなりません。誰の意思だったのか、その人物は特定できるのではないでしょうか。



天皇の子女と後宮の女性は狭い世界に閉じ込められ、相手も自分で選ぶこともできず、権力者の意向に左右されて生きていたと思います。

その苦しさのために病気になるのは当然で、唯一近づけたのが学問を修めた僧であり、宮中に出入りできた僧正に後宮の女性は走ったのだと思います。光明子も僧玄昉との間によからぬ噂が立ちました。それを諫めたのが、甥の藤原広嗣の乱でした。後に光明子の娘の孝謙天皇も銅鏡との噂を立てられました。(しかし、銅鏡は罰されていないと思います。)

閉じられた世界には、悲惨な噂が立つものです。



藤原宮子が病気では後宮は不安定です。早く首皇子を即位させて光明子を入内させようと不比等は焦っていたでしょう。


藤原氏は首皇子の即位に向けて着々と準備を進めていました。


和銅七年(714)

六月、皇太子(首皇子十四歳)元服。立太子。天下に大赦す

和銅八年(715)

正月、皇太子、初めて礼服で拝朝(みかどおがみ)東方に慶雲あらわる

白狐献上、白はと献上。「元日に皇太子始めて拝朝して、瑞雲あらわる。天下に大赦すべし」の詔。(皇太子の拝朝を慶祝する瑞兆とした)

九月、元明天皇、氷高皇女に譲位。霊亀と改元



皇太子のために和銅七年と八年の二回、大赦を行っています。


次は即位だろうと、誰もが思うでしょう。しかし、即位したのは、氷高内親王だった。


元明天皇の決断でした。     


続日本紀には文武帝以下各天皇の即位の宣命を収載しているが、元正天皇の受禅(位を譲られること)、即位に関してのみは、漢文体の詔を載せるに過ぎない。これは元正即位の特異性を物語るか。(岩波・続日本紀・脚注)



日高内親王には母から託された使命があったと思います。


それは何だったのか。その使命を持って皇位につき、長屋王と聖武天皇を結びつけようとしたのでしょう。しかし、辛い結果になってしまった。


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次は、長屋王の悲劇



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# by tizudesiru | 2016-12-27 22:38 | 184氷高内親王の孤独 | Comments(0)

183元明天皇の愛と苦悩

183元明天皇の愛と苦悩


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元明(げんめい)天皇(阿閇(あへ)皇女)は、天智天皇の(みむすめ)で草壁皇子の妃でした。

持統天皇には異母妹で、息子(草壁)の嫁でした。

吉野盟約の後に草壁皇子と阿閇皇女の間に()(たか)皇女(元正(げんしょう)天皇)が生まれています。

持統三年(689)

草壁皇子の薨去(自死)は、阿閇皇女を打ちのめしたことでしょう。持統天皇は阿閇皇女を連れて紀伊國へ行幸しました。そこで詠まれたのが、阿閉皇女の勢能山の歌でした


夫亡き後に持統天皇に旅に誘われて紀伊国行幸に出かけた阿閇皇女は、背の山と妹山が紀ノ川を見ながら両岸から向かい合っている地に差し掛かりました。皇女は立ち止まって亡き夫を想い、涙を流されたでしょう。その時に詠まれた歌です。

まるで、七夕の牽牛と織女のように逢いたいと思いながら互いに川岸にたたずむ…織姫のような皇女の姿が浮かびます。

即位した持統帝は、幼い子供たちのために阿閇皇女に強い母になってもらわねばなりませんでした軽皇子(文武帝)は、まだ数えの八歳、氷高皇女が十歳、吉備皇女は六歳くらいでしょうか。

持統三年(689)

律令政治に舵を取り直す。六月「諸司に令一部二十二巻を分かつ」とある。

撰善言司(先人の善言を集めて教訓的歴史書を撰上しようとした官司。文武帝や皇族の子弟の修養に役立つ書物の編集を目指したが、完成せず)を置く。

持統四年(690)、即位

六月には高市皇子を太政大臣・多治比嶋を右大臣に任官して、九月紀伊国行幸

持統5年(691)

八月、十八氏に祖先の墓記を提出させる

十月、新益京(いわゆる藤原京)を鎮祭

十一月、大嘗祭。中臣大嶋が天神寿詞を読む

持統五年(692)

三月、伊勢行幸(大三輪高市麿が行幸を諫め、辞職)

五月、藤原宮地鎮祭


持統天皇は一番に
軽皇子(かるのみこ)文武帝の成長を望み(せん)善言司(ぜんげんし)を置きました。きちんと先を考えていたのです、軽皇子を帝王に育てるのだという。持統帝の思いは十分に阿閇皇女にも伝わりました。


軽皇子は冬の阿騎野の野に出かけて一晩を過ごし、草壁皇子の霊魂に触れ皇太子位を受け継ぎ、成人式を上げ立太子。そして、即位。

十五歳の文武帝に三人の女性が入内しました。

文武天皇五年(701)大宝律令成る 藤原宮子は首皇子を生む


しかし、何が原因だったのか、藤原宮子精神的な病気にかかりました。

宮子は首皇子(聖武天皇)を生んだ後に引きこもり、三十年余り息子に会いませんでした。病のために話もできず閉じこもっていたのでした。


文武帝にも、息子の首皇子にも、持統帝にも、阿閇皇女にも、それは辛い現実だったことでしょう。

早くに父を亡くした文武天皇を阿閇皇女は持統帝と守って来た、その息子の嫁が病気になった…これは、阿閇皇女にとって相当に痛手だったはずです。


末っ子の吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、阿閇皇女を安心させました。

しかし、文武帝には多忙な日々が続きました。

大宝二年(702)持統天皇崩御

慶雲四年(707)文武天皇崩御。
         心労のため、文武帝は前年から病気気味だった

         阿閇皇女即位(元明天皇) 


元明天皇は、持統帝と同じ道を辿ることになったのでした

そして

高市皇子が造営した新益京の藤原宮を捨て、藤原不比等の氏寺(興福寺)が岡の上から御所を見下ろしているという都に移ります。

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(この新益京は捨てられました)


平城宮遷都(710)


首皇子(聖武天皇)の乳人は県犬養美千代です。美千代は光明子を生み、首皇子と一緒に育てました。首皇子は十四歳で元服します。


不比等は
皇太子が十五歳で即位することを望み待っていたでしょう。

父の文武天皇も十五歳で即位していましたから。条件は同じだと。

しかし、首皇子は稚いという理由で即位できず、姉の氷高皇女が即位したのです。

和銅八年・霊亀元年(715)

正月、吉備内親王の男女(子供たち)をみな皇孫に入れる

九月、氷高内親王即位(元正天皇)、改元


藤原不比等は、怒りに燃えたでしょうね。首皇子の即位のために準備に準備を重ねて来たのです。

即位はおろか、元明天皇は譲位の前に、あろうことか長屋王の男女を皇孫(二品)に引き上げたのですから、怒り心頭だったはずです。皇位継承候補者の中に長屋王の子どもたちが入るのですから、許せなかったでしょう。

これから、藤原氏の暗躍が激しくなりますね。




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# by tizudesiru | 2016-12-26 21:46 | 183元明天皇の愛と苦悩 | Comments(0)

183元明天皇の愛と苦悩

183天智帝の娘元明天皇の愛

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天智帝との繋がりを意識しているのは、藤原氏だけではありません。

天智の皇女であった元明(げんめい)天皇(阿閇(あへ)皇女九州の観世音寺天智天皇発願(ほつがん)寺」として速やかに造営するように詔を出しています。財政的に困難な時期にもかかわらず。元明天皇は、天智帝の意志を貫こうとしたのです。


皇位継承の法として

元明天皇は天智天皇が用いたという「不改常典(改めベからざる常の(のり))と初め定めた法」を、皇位継承の法として持ち出しています。それは、直系に皇位を継承するという意味で用いられたようです。天武朝が「自ら滅ぼした王朝の法」の「不改常典」の文言を使用するなんて、しかも「皇位継承法」として、です。すっきりしませんね。


この表記は次のように使用されました。

①元明天皇即位の詔(初見)(慶雲四年・707)

➁聖武天皇即位の詔(神亀元年・724)

③聖武天皇譲位の詔(天平勝宝元年・749)

④桓武天皇即位の詔(天応元年・781)


「天智帝が不改常典と初め定めたと伝えられる法」

このような表現は、以後歴代天皇の即位詔(宣命(せんみょう)に継承されていきます。

やや疑問なのは、近江朝での大海人(おほしあま)皇子(天武天皇)皇太子(大皇弟)でした。

ということは、実子に譲位する嫡子継承ではなく、従来通りの同世代(兄弟)継承です。同世代が終われば、次の世代に継承されるという方法が長い間行われていましたので、大海人皇子が皇太子であれば従来通りのやり方だったことになります。


しかし、元明天皇は、直系継承の「不改常典」として天智天皇が決めたというのです。


大海人皇子が吉野に去った後に、天智天皇が急いで決めたのでしょうか。書紀に記述はありません。元明天皇は天智天皇の皇女ですから、父の法を取り入れたいのでしょうか。気持ちはわかりますが、本当は何もなくて、天智天皇の名を借りただけかも知れません。真相はわかりません。


それとも、大海人皇子ではなく、直系である大友皇子に皇位継承がなされていたのでしょうか。(明治になって、大友皇子は弘文天皇と
諡号(しごう)が贈られ認められました

ともかく、元明天皇は「天智天皇の名を以ってして、皇位継承を確実なものとしたかった」のです。天武朝にとっての天智朝は、滅んでも尚大きな影響力を持っていたのでした。

だから、天智帝との結びつきを背景に、藤原不比等が持統帝に取り入ってきていました。持統帝はかしこい不比等を気に入っていたかも知れません。しかし、元明天皇は警戒していました。ですが、天武朝の皇子が力をつけて行く中で、孫の軽皇子を護るには、不比等を頼る他はなかったでしょう。

「高市皇子の死の真相」で述べたように、高市皇子の死は異常でした。何か言いがかりをつけられたか、事件が起こっています。

頭蓋骨を取り去り刀身を抜きとって、壁画の玄武と朱雀の頭を削り、黄泉の国から永遠にヨミガエリができないようにして葬られた人物は、誰だというのですか。高松塚の被葬者は、高市皇子以外には考えられません。

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高市皇子の薨去、その半年後に軽皇子の立太子でした。そして、更に半年後に十五歳での軽皇子の即位です。夫人は藤原宮子ですから、判事でしかなかった不比等の影の力、推して知るべし。


天武帝の皇子の子達には女子が数多いましたが、誰一人として軽皇子の後宮に入れていません。皇族の娘は皇后になれるからです。不比等はそれを阻止しています。他の嬪として、紀氏(竈門)と石川氏(石川刀自)を入れています。が、和銅六年には嬪の身分を削っています。宮子のみが文武帝の後継者の生母になれるのです。これは、藤原氏の横暴以外にないでしょう。

元明天皇は、心の底で藤原氏を畏れていたと思われます。



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しかし、元明天皇は天武朝の皇子達を頼りにはしなかった。文武帝の妃を見れば一目瞭然でしょう。皇族から一人の妃も出さないとは異常すぎます。



軽皇子(文武帝)の立太子に異議をとなえた弓削皇子(天武帝・大江皇女の皇子)は不審な死を遂げました。


元明天皇は持統天皇とともにひたすら軽皇子を護りましたが、持統帝亡き後は孤立無援状態でした。その愛と苦悩の果てに…


若くして文武天皇は崩御してしまうのです。


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苦悩の中で、元明天皇は草壁皇子の忘れ形身を愛し守り続けるのですが…
 また、次回






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# by tizudesiru | 2016-12-25 22:41 | 183元明天皇の愛と苦悩 | Comments(0)

182鎮魂の歌集・初期万葉集

182鎮魂の歌集・万葉集

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さて、三回にわたって藤原(ふじはら)不比(ふひ)()とは何者か」について書きました。


なぜ、このように不比等について書いたのかというと、政界に出てはトップまで上り詰めたのに、万葉集では藤原不比等の影があまりに薄いからです。彼は、歌を詠まなかったのでしょうか。


また、時は天武朝であるのに「滅ぼされた王朝の創始者・天智天皇との関係」を繰り返し持ちだす藤原不比等、それを許した持統帝と元明天皇を不思議に思ったからです。


万葉集の時代に、天皇の外戚として藤原氏は権力の頂点に上り詰めました


しかも、藤原氏は天智帝と鎌足の関係を強調したあげく天智帝の御落胤とまで主張し始めました。


時は、天武朝です。滅ぼした王権の残照にすがりつくなど考えられないことです。何ゆえ藤原氏が天智帝との結びつきを強調し続けるのか、それを時の皇室が許すのは何故か、大きな疑問です。


藤原氏は初期万葉集編纂に関わってはいませんし、壬申の乱の時子どもだった不比等が成長する間に、初期万葉集は一定の方向を以って編集され続けていました。

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(藤原氏関係の歌は、見ての通り、鎮魂の思いは何処にもありません。初期万葉集とは藤原氏関係の歌は、質が異なるようです)

他にも「幾つもの疑問」


万葉集を読むと、幾つもの疑問に立ち止まらねばなりませんでした。


持統天皇が心寄せるのは有間皇子であり、その追慕は尋常ではないが、どんな因縁があるのか…

・持統天皇は柿本人麻呂と他歌人に幾度も近江京を哀しむ歌を詠ませた、そのわけは?

人麻呂は「事挙げす」というが、何を事挙げしたのか

草壁皇子は病弱ではなかったのに、何故か即位しなかった!

天武天皇「吉野の盟約」に感動・歓喜したのはなぜか

・人麻呂は持統帝の詔により万葉集の編纂をしたのか

持統天皇と天武天皇の同じ場で詠まれた歌がないのは何故?

 光明子と聖武天皇の歌は残されているのに

人麻呂が柿本佐留だとすると、元明天皇の怒りは何だったのか


上記の疑問は、途中ですが少しずつ解けてきました。
ここで、改めて問い直しましょう。
万葉集は、誰が何の目的で編纂したのか。
それを誰が手を入れたのか。






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# by tizudesiru | 2016-12-24 22:47 | 182鎮魂の歌集・初期万葉集 | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(3)

181藤原不比等は何者か(3)


不比等は万葉集に歌を残してはいません。その館で歌は詠ませていますから、興味がなかったのではありません。不比等は教養人でもあったのですが、万葉集の世界とは異質な世界の人格だったのです。


兄の定恵(じょうえ)(貞慧)が果たせなかった仏教による国家の形成を目指し、不比等は律令による権力の掌握をもくろんでいました。


権力を握るために、あまたの女子が必要でした。めぼしい皇族に結びつくための子女が必要だったのです。


不道徳のようにも思えますが、できるだけ多くの女子を高貴な血統の氏族の女性に生んでもらうことが大切だったのです。


不比等の子(女子)

宮子(文武帝夫人)の母:賀茂小黒麻呂女賀茂比売

光明子(聖武帝皇后)の母:県犬養東人女県犬養三千代(橘三千代)

多比能(橘諸兄の妻)の母:生母不明

娥子(長屋王の妻)の母:生母不明

女(大伴古慈比の妻)の母:生母不明


(あがた)犬養(いぬかい)三千代は美努王(栗隈王の子・橘諸兄の父)の妻で、もともと文武天皇(683~707)と聖武天皇(701~748)の乳人(めのと)でした。不比等はこの女性に近づき光明子(701~760)をもうけました。


不比等(659~720)は、688年に判事になり、697年に藤原宮子入内(じゅだい)させています。娘の宮子が生んだ(おびと)皇子に、三千代に産ませた光明子を入内させるのですから、幸運というより計画的ですね。そして、光明子を皇族外からの皇后となすのです。


不比等の子(男子)

武智(むち)麻呂(まろ)の母:蘇我武羅自古(そがむらじこ)女娼子(蘇我連子の女、娼子または媼子)

房前(ふささき)の母:蘇我武羅自古女娼子

宇合(うまかい)の母:蘇我武羅自古女娼子

麿の母:鎌足女五百重夫人


五百重夫人に産んでもらいたかったのは、女子だったのでしょうね。


しかし、男子・麿が生まれた。不比等はがっかりしたはずです。麿は兄たちのようには出世していなくて、あまり不比等に愛されてはいなかったでしょうか。大伴(おほともの)坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の夫でもありました。


『尊卑分脈』には、藤原夫人(五百重娘・大原大刀自)は後舎兄(たん)(かい)(こう)(不比等)と密通し麿を生む…とあります。

「尊卑分脈」とは、南北朝時代の公家が書き残した系図です。


淡海公に込められた意味=天智天皇の御落胤


(たん)(かい)(こう)とは、天平宝字四年(760に贈られた称号です。

まるで、淡海御宇天皇を思わせるような称号ですね。

「興福寺縁起」ばかりではなく、「大鏡」『公卿補任』「尊卑分脈」などで、不比等は天智天皇の御落胤と書かれているそうです。

淡海公とは、いったいどのような経緯で贈られたのでしょうか。

それは、760年に贈られた追諡です。前後の出来事を見ましょう。

757年(天平勝宝九年)、光明子の兄であった橘諸兄が一月に亡くなると、半年後の七月に諸兄の子『橘奈良麻呂の謀反』が発覚したとして、大量の刑死者と処分者を出します。

半年後の法則とでも言いましょうか。

藤原氏がかかわった謀反事件は、半年後に結果がでますよね。

謀反事件で政敵を一掃するのは、藤原氏の常套手段でした。

757年 (たちばな)奈良(なら)麻呂(まろ)らの謀反事件

758年 (こう)(けん)天皇大炊(おほい)王に譲位。(じゅん)(にん)天皇即位。

759年 正月一日、因幡国庁での家持の最終歌(万葉集最終歌)

760年 一月藤原恵美押(えみのおし)(かつ)太師(太政大臣) 六月光明子

    八月不比等淡海公と追諡。武智麻呂と房前に太政大臣    

759年 大伴家持は歌の道を断つ。藤原氏の謀略横暴になすすべ無しと、世の中に絶望したのでしょうね。

そして、760

即位した淳仁天皇は、藤原仲麻呂に「恵美押勝」を贈ります。

光明子が薨去すると、さっそく父の不比等に「淡海公」と(おくりな)するのです。

当然、藤原仲麻呂(なかまろ)=恵美押勝の意思よって奉られた(おくりな)です。

不比等が天智天皇の御落胤であることを明示するために。

仲麻呂は、藤原四兄弟の武智麻呂の子で、仲麻呂の時代に藤原氏の「藤氏家伝」が書かれています。思いのままに、天智天皇と鎌足の信頼関係を述べたことでしょう。そして、不比等と武智麻呂の功績を。

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万葉集の最終歌は、大伴家持の絶望を伝えます。
橘諸兄の死後、藤原氏の横暴はついに「橘奈良麻呂の謀反」の発覚という事態を招き、多くの有力者が刑死・流刑などの処分を受けます。家持は藤原氏に取り入り難を逃れますが、決して逃れきれるものではなかったのです。
家持は、絶望の中で、言霊により世の安泰を祈ったのでした。





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# by tizudesiru | 2016-12-24 01:08 | 181藤原不比等とは何者か(3) | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(2)

181藤原不比等とは何者か? その2

前回、藤原(ふじはら)不比等(ふひと)(鎌足の二子)の母は誰なのか? と書きました。

興福寺(こうふくじ)縁起(えんぎ)には、(かがみの)王女(おほきみ)が不比等の母だとしました。

それは不可能ではありません。


しかし、万葉集事典では「母は
車持(くるまもちの)国子(くにこの)君女(きみのむすめ)としています。興福寺としては、車持国子君女では「役者が足りなかった」ので、鏡王女としたのでしょう。


が、鏡女王が高貴な女性であれば、鎌足の正室の位置にあって一族に采配しても、鎌足と寝所を共にしたとは思えません。

鎌足と鏡王女の万葉集の歌は、公の場で詠まれたものです。天皇の前で詠まれたものかも知れません。


平安時代も、高貴な女性であった皇女・内親王は皇族以外の男性に嫁することはできなかったのですから。その身分を冒すことは大変なことだったのです。鏡王女が天智帝の子を身ごもり、定恵を生んだ可能性はあります。鎌足の子として育ったとしても、世間には高貴な血だと知られたでしょう。


定恵が高貴な血統だとしたら、鏡王女は鎌足を受け入れることはないでしょう。定恵意外に子をもうけないことが、その身を護った証明となるのですから。鏡王女は我が子を強く愛し、国外に留学させたのは理由があると思います。それは、機会があれば、いずれ。


これで、天武帝が鏡王女を見舞った理由が明白になります。生涯を鎌足の正室としながら、天智帝の寵妃であった過去を守り続けたその意思に対しての労いです。世間にもこれほどの美女はなく、これほどの意志の強い女性はいなかった、そして、藤原氏を護った聡明さに対しての労いです。

それを、世間も望んだということです。


それは、鏡王女が皇族だったことの証明にもなるでしょう。

天武帝の異母妹だったかも知れません。


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不比等の生涯を見ると、持統帝の即位の時期に合わせて台頭してきます。

文武帝即位では、娘の宮子を夫人として皇室に接近し、

翌年には、藤原の姓()けました。

藤原の姓は「藤原鎌足」が天智天皇から賜ったものであるから、不比等の家系以外は中臣に戻したのでした。

不比等は、大宝元年には大納言、和銅元年には右大臣です。

養老元年(717)に左大臣の石上麿が没しますから、最終的に不比等が議政官のトップになるのですが、何故か、

元正天皇(文武天皇の姉・草壁皇子の娘・独身)は、不比等を左大臣には任官しませんでした。

元正天皇の陰には母の元明天皇がいて、その意思が働いていたのでしょう。

元明天皇には夫の草壁皇子の意思を受けての信念がありました。さっそく、長屋王を議政官に任じます。

養老二年(718)、
長屋王(高市皇子の長子)が大納言に任じられる

高市皇子の王子がこれから権力の坐へ登っていく。誰にもそう見えました。

長屋王の妃は、文武天皇と元正天皇の妹(吉備内親王)だったのですから。

ここから、長屋王家の滅亡計画が藤原氏により密かに進められていくのでしょう。

720年に不比等が没します。

そこで、不比等の意志を継いだ長男の武智麻呂が長屋王家を滅ぼすという展開になるのです。

藤原氏は徹底的に天武皇統を切り捨てて行きました。
それは、不比等の遺言だったと、わたしには思えます。

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長屋王の父母は、共に皇女と皇子です。
母の御名部皇女は天智帝の娘です。父は高市皇子、子供たちは吉備内親王の子であり、元明天皇の孫です。
何もかもそろった長屋王に権力が渡れば、天武王朝は安泰となる…それは、藤原氏には許せない事でした。
藤原氏は律令により権力を握ろうとした氏であり、天智天皇の腹心でした。




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# by tizudesiru | 2016-12-22 14:26 | 181藤原不比等とは何者か(2) | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(1)

181藤原不比等とは何者か?

不比等は、天武天皇(40代天皇)の嬪であった妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(695生)をもうけています。

天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね?

天武天皇と藤原夫人の歌を万葉集に見ましょう。

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天武天皇(四十代)から藤原夫人へ賜う御歌

巻二103・わたしの住んでいる大宮に大雪が降った。そちらの住まいの大原の古い里に降るのは、もっと後であろうな

 

藤原夫人(五百重娘)のこたえ奉る歌

巻二104・それはわたくしの岡の神に言いつけて降らせた雪の、そのくだけたものがそちらにも散り敷いたのでしょうね。 

二人は楽しそうにやり取りをしています。藤原夫人は、天武帝が心許した女性だったのでしょうか。

天武帝の死後、この異母妹に不比等は近づいたのでした。

後宮は、女帝である持統帝の治世では機能していなかった。婦人たちはバラバラになったのでしょうか。

不比等は、父の藤原鎌足の鏡王女や安見兒に対する態度とは全く違いますね。
不比等は図々しすぎませんか。本来なら、秘話として処理されたでしょうに。麿は藤原四兄弟の末っ子になっています。少しも隠されていないようですね。

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不比等の母は誰か

千年の長きにわたって、藤原氏が朝廷の重臣であり、皇室との関係を保ち続けてきたのは、異常というか奇跡でしょう。道筋を開いたのは、不比等でしょうか。

不比等は鎌足(669没)の二子であり、壬申の乱(672)には参加していません。乱の当時は十五歳。その母は?

興福寺縁起には、鏡女王が不比等の生母(創作説もあり)とされています。

興福寺は、平城京の別区のようになっている藤原氏の氏寺です。

なぜ、興福寺縁起に鏡女王生母説が出て来たのでしょう? 

高貴な出自の鏡女王の名が必要だったとしか思えません。

 

前回のブログ(180)に書いた鏡王女は、その出自もはっきりしていません。名前の記述も、鏡王女(万葉集)、鏡姫王(日本書紀)、鏡女王(興福寺縁起・延喜式)と微妙に違っていて、同一人物ではないとする説があります。

天武十二年(683)、天武天皇が鏡王女の病気を見舞っています。それは、女王薨去の前日でした。もちろん後宮の女性ではありません。

天皇が病を見舞うとは、鏡王女は特別な女性ですね。天武天皇にもゆかりのある女王なのです。

興福寺縁起では、この鏡女王が不比等の母だというのです。なぜでしょう。車持国子君の娘が不比等の母ではないのですか?


長いので次にまわします。
また、後で




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# by tizudesiru | 2016-12-21 14:56 | 181藤原不比等とは何者か(1) | Comments(1)

180天智天皇と藤原鎌足

180天智天皇と藤原鎌足


天智天皇より異例の厚遇を受けた藤原鎌足


それは、何故でしょう。


鎌足は天智天皇の腹心の部下でした。

内臣(うちつおみ)鎌足病気して、見舞った天智天皇

天智八年(669)十月十日、天皇は藤原内臣の家に病気を見舞う

同年 十月十五日、東宮大皇弟を遣わし、大織冠と大臣と藤原姓を賜う

同年 十月十六日、藤原内大臣が薨去した

同年 十月十九日、天皇が内大臣の家に行幸し恩詔を陳べさせ、金香鑪下賜


これまでは、内臣(うちつおみ)ですが、これからは内大臣(うちのおほおみ・うちのおほまえつきみ)となり、内大臣の官は宝亀八年(777)に、藤原良継に授けられるまで百年以上授与されていません。鎌足は特別の官を得たのです


*藤原良継は、鎌足→不比等→宇合→良継(鎌足の曽孫)

「日本書紀」には「日本世紀」からの引用文が載せられています。

日本世紀に、内大臣は五十歳で私邸において薨じた。山南に移して殯をした。天はどうして、良くないことに、強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ。碑に『五十六歳で薨じた』という


*日本世紀は、高句麗の僧・道顕による編年体の歴史書で、日本書紀の基本的資料の一つとなった。


では、天智天皇と中臣鎌足の関係を万葉集で見ましょう。



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(鏡王女も安見兒も天皇から鎌足に与えられた女性です)

鏡王女は気位の高い人でした。

一般には額田王の姉と言われています。

(たま)櫛笥(くしげ)は「覆い」にかかる枕詞で、大切な化粧箱だそうです。

覆いで隠すわけではありませんが、夜が明けてからお帰りになって、貴方の名が人に知れるのはいいのでしょうが、わたくしの名が立つのは口惜しいのです。

鎌足の歌の珠櫛笥は、「みもろ」に掛かります。化粧箱の身と蓋の「み」に掛かるのです。

そうですか。みもろの山の「さな(かずら)」のように「さ寝ず」でいいのですか。そうなったら、貴女はとても耐えられないでしょう。



鏡王女は、口惜しかったでしょうね。

鏡王女は、もともと天智天皇と恋仲だったのです


天皇、鏡王女に賜う御歌一首

妹が家も継ぎて見ましをヤマトなる大嶋の()


いとしい貴女の家をいつも見たいものだ。せめて、やまとの大嶋の嶺に私の家があったらいいのに


鏡王女こたえ奉る御歌一首

秋山の()(がく)御念(おもほ)


秋の山の木々の下を流れる水は流れながら水かさを増していきます。その水のように、わたくしの思いの方が勝っております。殿下の御思いよりは


二人は恋仲というより、鏡王女(683没)は天智天皇の寵妃だったのです。鏡王女の歌は「御歌」とありますから、彼女は皇族でした。

それが、藤原鎌足(669没)に与えられたという…のです。


鏡王女としては耐えられなかったことでしょう。しかも、身重だったとか。(この子が定恵だったという説があります)

鏡女王は、藤原鎌足の室となっています。


藤原氏の台頭と持統帝との結びつきの要因は、この辺りにありそうですね。 
次は不比等の歌ですね。が、彼自身の歌は万葉集にはないのです。
ですが、不比等の話をしましょう。





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# by tizudesiru | 2016-12-20 12:37 | 180天智天皇と藤原鎌足 | Comments(0)

179天武帝と持統帝の溝・2

179・天武帝と持統帝の溝・2

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次に、天武帝の挽歌を見てみましょう。

天智帝(38代)に比べて、天武天皇(40代)の葬送儀礼の歌が少ないことに気づかれましたよね。
しかし、その事で天武帝の立場に問題があったとか、天武・持統帝のふたりの絆が薄かったということの証明にはなりません。
天武天皇の葬儀(686)は
仏教の儀式として執り行われたのでしょう。八年後の御斎会(693)もそうです。天武帝は仏教に手厚かったのです。たびたび寺で経も読ませています。


つまり、天智天皇の葬儀(671)は古来の天皇崩御の時の祭祀の方法
に従って執り行われた、挽歌を献じながらの葬送の儀式をした、ということでしょう。昔ながらの葬儀でした。

すると、天智帝と天武帝は、基本的に異なった宗教儀式を取り入れていたのですね。

天武帝は、天智朝とは別の王朝として出発したかったのですかね。

その天武帝が…伊勢に行くなんて。

いかさまに おもほしめせか神風の伊勢の国に 、八年後の夢の中で天武天皇が伊勢に行かれたことは、持統帝には意外だったようですね。仏教に帰依していた天武帝でしたから西方浄土へ行かれたと思っていたのに、夢の中で神の国である伊勢に行かれてしまった…古代では、夢も現実と同じでしたから、持統帝は驚いたのです。


政治のやり方も天武帝と天智帝では違っていました。
天智帝は律令政治を、天武帝は天皇自らが政治をすることを目指していたのです。だから、在位中に左右大臣も任官はありません。天武帝には、他に権力を分けるつもりはなかったのです。

壬申の乱(672)で天武帝に協力した豪族たちは、出世できなくてさぞやがっかりしたことでしょう。


さて、天武帝崩御後に権力を握った持統帝は、即位(690)後に議政官を任命しています。つまり、律令による政治へ切り替えたのです。持統帝は、天武帝の政治を引き継ぎませんでした。
それまでとは違った政治を始めました。

ただ、太政大臣に高市皇子、右大臣に多治比嶋が任じられました。
高市皇子は、天武帝の側近として天武帝の在位中も活躍していたと思われます。
何の実績もなく太政大臣はないでしょう。大王に次ぐ最高の権力者という意味ですから。

まとめると

天武帝の政治は、律令政治を目指した孝徳朝や天智朝とは基本的に違っていたのです。持統帝は天武帝の政治を否定したのです。

持統帝と天武帝の間には、深い溝があったのでした。
世間では、夫唱婦随のカップルのように言われている二人ですが。

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天武帝の下では、律令によって権力を握ろうとしていた近江朝の藤原氏・中臣氏も不満だったことでしょう。
ですが、持統帝の世の中になりました。
藤原氏は持統帝に近づける大きなカギを握っていました。だから、持統帝の時代には、台頭してきたのでした。

その鍵とは、藤原不比等の出自に関わることでした。

不比等が淡海公と呼ばれていたことは、ご存じでしたか?

次はそのことを書きましょう。



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# by tizudesiru | 2016-12-19 22:06 | 179天武帝と持統帝の溝 | Comments(0)

179持統帝と天武帝の溝

179・持統帝と天武帝の溝

「持統帝と天武帝のつながりの深さ」と「天武天皇の霊魂は伊勢へ」で、二人の絆の深さを考える材料としました。

さて、二人は強い絆で結ばれていたのでしょうか。

持統帝の歌を詠めば、どちらかというと持統帝は天武帝に対してさっぱりしていた、あまり執着がなかった…ようですね。なぜ?

持統帝は噂通りの冷たい女性なのでしょうか。いえいえ、有間皇子への深い鎮魂の思いを見ると、情の深い人だと分かります。

草壁皇子を失った後も、妃の阿閇皇女を連れて紀伊國行幸をして嫁を励ましました。阿閇皇女も持統帝を信頼していました。

ですが、「吉野の盟約(天武八年)」で我が子のように受け入れるとした大津皇子に、謀反発覚後すぐ死を賜わった」この時、「皇后、臨朝称制」していたのです。持統帝が政権のトップでした。大津皇子の死は、持統帝の意思だとされています。

持統帝は草壁皇子のために大津皇子を排除した冷酷な女性だというのが、世間の通説です。


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(日本書紀によると、大津皇子は天智天皇に愛されていました。大伯皇女が生んだかわいい孫だったのでしょう。天武帝にも期待されていました。
天武帝崩御後に謀判が発覚し、大津皇子はを死を賜りました。)


そもそも吉野の盟約は、草壁皇子を皇太子と認める儀式ではありませんでしたね。天武朝の新しい皇族の結成の儀式でしたね。草壁皇子が皇太子になるのは、天武十年か、十二年です。その時、大津皇子も「朝政を聴く」地位に置かれ、二人はバランスをとっていました。


もちろん、大津皇子にもチャンスを残しておくことは、天武帝の望みでした。持統帝とは違った考えを持っていたのです。天武と持統の二人は皇位継承に対しても、もともと意見が一致していなかったのです。


しかしながら、天武帝には皇后としての鵜野皇女(持統帝)が必要だった。

その理由は? あまたの妃の中から、なぜ持統帝が皇后に選ばれたのか? 

考えても見てください。

天武帝は天智帝の後宮の女性たちをことごとく、新王朝の後宮に移しました。高貴な血統を他に漏らさない為でした。そして、あまたの後宮の女性の中で、鵜野皇女こそが皇后にふさわしかったのです。

大王になれる皇族は限られています。同じく皇后になれる女性も限られているのです。持統帝は特別な皇女だったのです。


貴種に対する執着は、武家の時代になっても根強く残り続けました。

古代には、その出自で一生が決まったのでしょうね。



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# by tizudesiru | 2016-12-19 20:55 | 179天武帝と持統帝の溝 | Comments(0)

178天武帝の霊魂は伊勢へ

178天武天皇崩御の八年後の持統帝の御歌

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天武天皇崩御の八年後(693)の九月九日(天武帝の命日)御斎会(ごさいえ)の夜、持統天皇の夢の中に詠み覚えられた御歌一首が、万葉集にあります。御歌なので皇后としての持統天皇の歌となります。

持統天皇の歌は162番歌は、草壁皇子の挽歌167番より前に載せられていますが、現実には草壁皇子の歌の方が時期的に先に詠まれたものです。


草壁皇子薨去(689)の方が、天武帝崩御の八年後(693)より早いのです。
持統帝は人麻呂の歌を夢の中で思い出したのかも知れません。
草壁皇子の挽歌の「高照らす日の皇子は飛ぶ鳥の浄の宮に神ながら太しきまして」と同じ言葉を使っています。      

では、夢の中での一首


162 明日香の
(きよ)御原(みはら)の宮に天の下知らしめしし ()(すみ)しし(わご)大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国は おきつ()も ()みたる波に 塩気(しおけ)のみ 香れる国に (うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子


明日香の浄御原の宮に天下をお治めになられた、支配者である我が大王は、高きより天下を照らす日の皇子であるのに
どう思われたのだろうか、神風の伊勢の国は沖の藻も靡いている波の上を、塩の気のみが漂い香っている国。そんな国に(何故行かれたのか)。言葉にできないほど慕わしい高照らす日の皇子が…


この歌は中途半端だそうです。夢の中での歌だから、言葉や思いが尽くされていないのでしょうか。
それにしても


日の皇子である天武天皇が行かれたのは、塩気のみが香る伊勢の国でした。


持統天皇にとって、天武帝が伊勢国へ行くとは理解しがたいと、いうのです。伊勢とは、壬申の乱で天武に加勢した神の坐す土地で、天照大神を祀る神社のある土地です。壬申の乱後に、天武帝は皇女を斎宮として送りました。


最近こそ二千年の神祀りの神社とか平気で報道しているけれど、伊勢神宮が歴史に登場したのは新しいのです。



更に、明治になるまで、伊勢には天皇の参拝がなかったという。


その伊勢に、天武天皇の霊魂が行かれたというのですから意味深ですね。


伊勢神宮は天武天皇にとって、皇室にとって大事な神であり、氏神の神社であったのです。一般の人が願い事をすることも禁じられていました。


そういえば、万葉集に詠まれる神社には「石上神宮」がありましたね。石上神宮は物部氏の神社で、ご神体は剣(空を切る時のフッという音から、フツ主の神ですね)

とすると、弥生の神であった鏡と剣と玉を祖先神とする氏族のルーツは、北部九州なのですね。


天武天皇は九州と深い関係があったのですね。最初の妻は宗形氏の娘です。息子の高市皇子は「藤原宮」の瓦に、九州の観世音寺や大宰府政庁と同じ文様の複弁蓮華文の軒先丸瓦を葺いています。

九州との繋がりを意識していたのでしょうね。

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観世音寺の軒先丸瓦と軒先平瓦
写真は「一瓦一説」(森郁夫)の写真をデジカメで撮ったもの





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# by tizudesiru | 2016-12-14 11:32 | 178天武帝の霊魂は伊勢へ | Comments(0)

熊本地震報告・南阿蘇への道

熊本地震報告・12月

南阿蘇への道・修復開通
熊本の阿蘇外輪山の西にある西原村の袴野地区です。
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9月は田んぼの上に土が運ばれて、道が何処を通るのか分かる程度でした。
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12月9日には、路肩の工事も進んでいました。
20日には、このう回路も開通し、南阿蘇への道路の修復が終わると聞いています。国道57号はしばらく使えないので、南阿蘇への道路はミルクロードと地蔵峠越えの2本しかありませんでした。
この俵山道路が修復すれば、阿蘇への道はずいぶん楽になるでしょう。
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山田牧場はすっかり削られてしまいました。牛を護って避難できなかった牧場主は、どうされたのかなあ。今回、牛の鳴き声が聞こえなかったので気になりました。
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工事車両が通れるようになった道路ですが、秋を楽しむ人の姿は全くありません。古墳と言われるツンツン塚の下を断層が走っています。萌の里の駐車場も寂しい限りでした。
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ツンツン塚は古墳じゃないという人もいるそうです。でも、盛り土の下が動いたからヒビが入ったのじゃないでしょうか。
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妹が大量のお芋をもらって帰って来ました。
「このお芋は無料で、御一人様一袋と書いて、おじさんが車から降ろしてたのよ」
一袋と云ったって、写真の袋ですから相当量入ります。
「今年は地震で、ようでけんだったけん(形よくできなかった)」ということで、ただで人に分けているのです。
たくさん貰ってうれしいやら、気の毒やら…と、妹は言いました。
たまたま居合わせた人達は、袋いっぱい黙々と芋を摘めていたそうです。
「おじさん、大きいお芋と小さいお芋は、どちらがおいしいのですか?」
「そらア・大きか芋だろうなあ」

「わあ、ありがとうございます」
家に帰って洗ってみましたが、どれも立派なお芋でした。
喜んで貰ってあげることが大事なのでしょうが…
地震の後に苗を植えて収穫したのにと思うと気の毒で、涙が出てきました。
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よくよく考えてみると、大きな無料のお芋を目の前に出されたら、わたしも「やった!いただきます!」とせっせと袋詰めしたことでしょう。
その時、おじさんの寂しさや苦労はあまり考えなかったかも知れません。
そう思うと、自分が情けなかったです…

熊本の人は、ほんとにまじめで実直な人が多いです。
ありがとうございました。

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# by tizudesiru | 2016-12-11 15:54 | 熊本地震・南阿蘇への道 | Comments(0)

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

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持統天皇と天武天皇の合葬墓は、野口王墓(写真はNHKの映像をデジカメで撮影)

天智陵の真南に天武陵があります。
天智陵を改葬したのは文武天皇(持統天皇の孫)でした。天智陵は藤原氏の土地に築造されているそうです。藤原氏は持統天皇と天武天皇に仕えたのです。

さて、藤原氏は天智帝の腹心の部下であったと何度も書きました。
しかし、藤原不比等は持統帝に仕え、目覚ましい出世を遂げました。

では、不比等は天智朝を滅ぼした天武朝に忠誠を誓ったのでしょうか。

気になるところですよね。ですが、今回は天武天皇と持統天皇の絆です。


天武天皇崩御の時、持統大后の御作歌


まず、持統帝が天武帝の崩御の時に詠んだ歌を見てみましょう。

天皇(かむあが)りましし時、大后の作らす御歌一首


159 八隅しし 我が大王の 
(ゆう)されば 召し賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし (かむ)(おか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 召し賜はまし その山を 振りさけ見つつ (ゆう)されば あやに哀しみ 明けくれば うらさびくらし あらたへの 衣の袖は ()る時もなし


世の隅々までお治めになられた我が大王は、夕方になると御覧になられただろう。明け方になれば、きっとお訊ねになられただろう、神山の黄葉を。今日だってお尋ねになられたであろう。明日もご覧になるだろう。その山をはるか遠くに仰ぎ見ながら、夕方になると何とも悲しく、明け方になると何とも寂しい思いで暮らしているので、荒栲の喪服の袖は涙に濡れて乾く時もない。


もし天武帝がご健在であれば、きっと神山の黄葉を朝晩お尋ねになったであろう。が、帝は既に崩じられたので、何も問われることはない。(我が大王はもうこの世の方ではないと思いながら)、神山を仰ぎ見ると思い出して悲しい
、というのです。

太后の御歌」となっているので、崩御後余り日が経ない秋の詠歌でしょう。しかし、すっかり遠くの人を恋しく思うように感じます。

次の歌は「太上天皇の御製歌」となっているので、

一書に曰く、天皇崩じたる時の太上天皇の御製歌二首


160 燃ゆる火も取りてつつみてふくろには 入ると
()ずやも智男雲


燃えている火だって、手に取って包んで袋に入れることができるというではないか。そんなこともできるのに、何で・・・できないのか。


161 
()南山(たやま)にたなびく雲の青雲の(ほし)(さか)りゆく月を(はな)れて


北山にたなびいている雲は、あれは帝の霊魂だろうか。あの青雲が星を離れて行く。月さえも離れて…帝の霊魂は何もかも置いて離れていかれるのか。


何度読み返しても、持統天皇の御歌も御製歌も言葉足らずで「亡き人への執着」
が感じられないのです。天武帝と熱烈に愛し合っていたとは思えないのです。でも、天武帝からは大事にされたのでしたね。

あまたの妃の中から、皇后に立てられたのは持統帝でした。


「吉野の盟約」のあと、持統帝は後宮のトップになり
すべての皇子と皇女の母となったのでした。

その皇后・持統天皇と天武天皇との絆は深かったのでしょうか。
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(系図は、小学館「日本書紀(3)」の挿入図をデジカメで撮影)

持統天皇は帝王(天智天皇)の娘で、礼節を好み、母性の徳があったと書かれています。草壁皇子は、大津宮で生んだとも

そうすると、大津宮に遷都(667)する前、白村江敗戦(663)の前、天智元年(662)に、草壁皇子は生まれたのですね? 九州に身重の娘を連れて来ていた? 父の天智帝の宮で草壁皇子を生んだ? 
この時、持統帝は17歳ということになります。
草壁皇子が生まれた大津宮が九州の那の大津ならば、持統天皇は幼くして母を亡くしていますから、その後、父の宮で暮らしていた?
では、大海人皇子と結婚した後は、何処でどのように暮らしていたのでしょうね。この辺りがあいまいなのですね。

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# by tizudesiru | 2016-12-11 10:30 | 177持統帝と天武帝の絆の深さ? | Comments(0)

176大化改新後の謀反年表を見る

177大化改新後の謀反事件を年表に見る


大津皇子や高市皇子が皇位継承の何らかの事情により生きられなかった
としたら、その発端は何処に求めたらいいのでしょう。


天智朝から皇位を奪った天武朝ですが、天智朝も孝徳天皇の後継者を抹殺するという事件を起こしています。

孝徳朝は、大化改新から始まります。
ということは、すべての発端は大化改新にあるということです。

財政を蘇我氏から取り上げ(645)、律令政治によって国家を造り上げるという古代国家の大変革が様々なひずみを生みだし、それが収束し新たな権力が定着するまでに何度も揺り戻しが来たということでしょう。
その激動の100年が万葉集に残されている、のですね。

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・大化改新後に何も事件はないようにも見えるが、右大臣蘇我石川麿は無実の中に没(649)したし、同じ三月に左大臣阿倍倉橋麿も没している。おかしな事件と云える


有間皇子の謀判(658)は最大の事件だったと思われる


・大化改新から近江遷都・即位まで中臣鎌足(669没)暗躍か?


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庚午年籍(670)が大宝律令では戸籍の基本とされる


・大友皇子の太政大臣は最高政権を握ったとされ、後世に弘文天皇を贈られる


・「草壁立太子(681)と帝紀及び上古の諸事を記す」は、セット?


大津皇子朝政を聴く(683)は、大津政権への準備か


・鏡女王(683没)、天智帝から中臣鎌足に賜われた女性、不比等の母


持統即位(690)一月、紀伊国行幸十月(有間皇子所縁の地へ)


・天武帝崩御の八年後、天武天皇の神霊は伊勢へ



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・藤原宮遷都(694)と藤原氏の関係は? 藤原宮造営は高市皇子

・高市皇子(696没)軽皇子は半年後に立太子、その半年後に即位

・難波行幸(699)の目的は、大宝律令制定の準備なのか?

・粟原寺(額田王が草壁皇子のために立てた寺)で道昭火葬(初出)

建号・大宝律令制定後に、紀伊国行幸(有間皇子所縁の地へ)

・持統帝、歴代天皇で初めて火葬(703)

・柿本佐留(708没)は柿本人麻呂で、刑死したとされている。


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・筑紫観世音寺は半世紀以上かけても完成していない。造営を命じた(709)のは、元明天皇だが、何故に天智帝発願の九州の寺を❓ 元明天皇は天智天皇の娘で、草壁皇子の妃。

・元明天皇は何故「藤原宮」を捨てて、平城宮へ遷都(710)の理由?

・15歳になった(おびと)親王ではなく、()(たか)内親王が即位(715)の理由

(おびと)親王初めて朝政に参画(719)は、即位への道

・皇子・皇女は「大宝律令」により、親王・内親王と変わる

・日本書紀(720)をつくりあげた目的はなんだったのか

(おびと)皇太子即位(724)立太子から10年後!

・聖武天皇が即位後に吉野行幸(724)持統帝ゆかりの地へ。紀伊国行幸(持統帝と有間皇子の所縁の地へ)

難波行幸(725)

(もとい)王(728没)の死後に長屋王家の滅亡(729)が仕組まれる



こうして、万葉集関係者の年表を作ってみると、中臣氏・藤原氏・藤原不比等の活躍が見えて来ますね。それは、大化改新後の律令政治への邁進であり、藤原氏の権力集中への道程でもありました。


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# by tizudesiru | 2016-12-10 11:39 | 176大化改新後の年表 | Comments(0)

175草壁皇子の挽歌・2

175草壁皇子の挽歌・2

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この歌の大意は、次のようになります。

天と地が分かれた初めの時、久かたの天の河原に、八百万の神々が集まられて、その集まりの中で話合われた時に、天照らす日女(ひるめ)命は天を治めることになり
また、葦原の水穂の国を天と地の依りあう極みまでお治めになる神の命を、天雲の幾重にも重なった雲をかき分けて、神々がお下しになった。
その高い天から照らすように日の皇子が、飛鳥の浄の宮に神のようにおいでになったのに、この国は天皇のご統治になる国であると、自ら天の原の岩戸を開けて、現世から天界に神上がりされてしまわれた。

もし、我が大王である皇子尊が天の下を統治なさっていたら、春の花のように素晴らしく、満月のように欠けることなく、世の中のあらゆる地域の人は大船に乗ったようにすっかり安心して、天からの雨を空を仰ぐように待っていたのに、どのように思われたのであろうか、
何のゆかりもない真弓の岡に殯宮を高々と建てられ、
(あさ)(ごと)仰せもない、そんな日が長く重なり続いてしまった。そのために、皇子の宮人はこれからどうしていいか分からないのである。


長歌の内容を、次のように読むことができます。二種類考えました。

その(1)

①八百万の神が集まって決めたのは、天を治めるのは天照大神(神代の話)

②葦原の水穂国を治めるために天から下りて来たのは、神の命

日の皇子(草壁)はこの国は天皇が統治なさる国だと神上がりされた

④もし、皇子尊(草壁)が統治されていたら皆よろこんだろうに

(もがり)長くな、皇子(草壁)の宮人はこの先どうしていいか分からない

と、五つの内容で長歌は構成されています。


その(2)
大方の現代語訳は、日の皇子を天武帝としています。


①大昔、神々が集まって天照大神に天を治めさせ(神代の話)

➁葦原中津国を治めるために神の命として天より下されたのが(天武)

③浄の宮に統治された日の皇子(天武)は、天皇が統治される国と神上がりされた 天武帝が自ら神上がりした?

④もし、皇子尊(草壁)が統治されていたら、世の中の人も喜んだろうに

⑤殯の日が多く長くなると、皇子の宮人の不安も大きくなっていく


上(1)下(2)のどちらの現代語訳が人麻呂の歌に近い内容なのか、わたしには解けません。「持統帝と草壁皇子の歌のなぞ」誰か読み解いてください。


長歌に続くのは、反歌二首(反歌とは、長歌と同じ内容を繰り返す短歌のこと)

168 久かたの(あめ)見るごとく仰ぎ見し 皇子の御門(みかど)の荒れまく惜しも

遥かなる天空を見るように仰ぎ見た皇子の宮殿が荒れてしまうと思うとたまらなく寂しい


169 茜さす日は照らせれど 
(ぬば)(たま)の夜渡る月の(かく)らく惜しも


太陽は赤々と照り輝いているのに、真っ暗な夜を渡っていく月が隠れるように、お隠れになってしまったことが悲しくてたまらない

 或本の歌一首

170 島の宮まがりの池の(はな)ち鳥 人目に(こひ)て 池に(かづ)かず


皇子がお住まいになった島の宮の池の放ち鳥も、人の目が恋しいのか、池に潜ることもなく、池に浮かんでいる。皇子がいらっしゃらないからだろう。



草壁皇子こそが、天の神が決めた統治者である。せっかく神が天下りさせられたのに、冥界に上ってしまわれた。残念でたまらない。


と、柿本朝臣人麻呂の詠んだ挽歌からは読めるのです。


人麻呂の歌を見る限り「高市皇子や大津皇子は、天武天皇の皇位継承者としては選ばれていない」ということでしょうか。


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# by tizudesiru | 2016-12-09 21:21 | 175草壁皇子の挽歌 | Comments(0)

175草壁皇子の挽歌

175・柿本人麻呂が詠んだ草壁皇子の挽歌

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壬申の乱後の天武朝で、謀反事件が次々と起こりました


壬申の乱
とは何だったのか。

この壬申の乱が天智朝と天武朝の間に大きく傷を残し、その亀裂に入り込んだ藤原氏が様々な策を講じて律令政治を掌握し、藤原氏族の横暴につながっていくと思うのですが…


壬申の乱そのものが謀反事件だった
(大友皇子が先に兵をあげたのではありません)のですが、これが天武朝の王子が次々に命を絶たれていくという結果に導いた大きな要因だと思うのです。万葉集を読むかぎり。

さて、7世紀の天武朝の謀反事件で、忘れてはならない事件がありました。

朱鳥元年の大津皇子謀反事件です。ここで、大津皇子が死を賜ったことが、結果的に天武朝の滅亡へと展開していくのですからね。

そして、大津皇子の死後三年、皇太子草壁皇子が薨去します。即位せず、皇太子のままでしたが。その死の顛末は何も語られていません。

人麻呂は挽歌を献じました。

草壁皇子こそが皇統を伝えるべき唯一の存在だったと、声を大にして歌い上げているのです。  


皇太子草壁皇子の挽歌


日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首幷短歌


天地の初めの時の 久かたの天の河原に 
八百万(やおよろず) 千万(ちよろず)神の (かむ)(つど)い 
集いいまして 神はかり はかりし時に 天照らす 
日女(ひるめ)の命 天をば 知らしめせと 葦原の水穂の国を 天地の 依りあひの極み 知らしめす 神の尊を 天雲の八重かき分けて 神下し いませ(まつ)りし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の (きよみ)の宮に 神ながら 太しきまして 天皇(すめろき)の しきます国と 天の原 岩門(いはと)を開き 神上がり 上がりいましぬ わご大王 皇子の命の 天の
下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の たたはしけむと 天の下 四方の人の 大船の 思いたのみて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに おもほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太しきいまし みあらかを 高知りまして あさことに 御言(みこと)はさず 日月の まねくなりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも

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ここには、母の思いが切々と語られています。


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# by tizudesiru | 2016-12-03 14:12 | 175草壁皇子の挽歌 | Comments(0)

175高市皇子の薨去と謀反事件

175・高市皇子の薨去と謀反事件


高松塚古墳が発掘された時、その埋葬の様子が問題になりました。


しかし、石室は狭いのですが、壁画があり、
それが大きな話題となったので、その為に他の事実が目立たなくなってしまいました。

当時、被葬者は「何か罰を受けるような、事件に巻き込まれた人」であるとされていました。

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わたしの記憶が確かであれば、遺体の様相が問題だったと思います。


頭蓋骨がなかった…首の骨は有ったので斬首ではない
と。この話題はいつの間にか消えたようですが、問題が解決されたのではありません。

埋葬当時から頭蓋骨が抜き取られていた(小さな骨、甲状軟骨・舌骨などは残る)? 筋骨の発育のいい壮年男性。7世紀末に死亡。

梅原氏は「人骨に頭蓋骨がない・鞘のみで、大刀の刀身が抜かれている・日月像と玄武の顔が削られていた」これは、呪いの封印で、被葬者のヨミガエリを阻止したのだという。

ですから、軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子が被葬者と、梅原氏は主張されました。高市皇子だと言ったのは原田大六氏だけです。


わたしは、ずっと草壁皇子だと思っていました。それは、治田神社(岡宮跡・草壁皇子が育った)と、高松塚石室と、岡宮天皇陵が直線で結ばれるからでした。

所縁の宮と改葬前の墓とを結び、尚かつ耳成山の真南に位置するのは、草壁皇子の墓以外には考えられない
と思っていました。数年前に、ブログにもそう書きました。

しかし、出土した歯の鑑定が壮年男性となったので考え直したのです。

では、「後皇子尊」と尊称で呼ばれた高市皇子以外にないと結論しました。

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高市皇子ならヨミガエリを阻止された(天武朝の皇統が続くことを阻止した)ことは十分考えられます。

だからこそ、耳成山と高松塚古墳の間に文武陵を築造(改葬)したのです。そして、岡宮天皇陵(草壁皇子の陵)も束明神古墳に改葬した、と考えます。


本当に、高市皇子のヨミガエリは阻止されたのか?
それは何故か?
だからこそ、高市皇子の死は再検証しなければなりません。


謀反事件の共通点

①有間皇子の場合

658年 中大兄皇子の息子、建王没(5月)

半年後に、有間子に謀反の疑い(11月)有間皇子没


わたしが幾度も紹介したのは、有間皇子が有力な皇位継承者であったことです。有間皇子の存在が邪魔だったのは、鎌足や中大兄皇子側でした。
蘇我系女子(造子媛)が生んだ建王の死は、中大兄皇子サイドには、後継者を亡くしたことになった。大友皇子は後継者とはなれなかったから、中大兄は「不改常典」の法を考え、皇位継承の決め事を造ったと、展開していきます。

➁高市皇子の場合

太政大臣という最高位についていた。文武天皇の元服が近くなった。高市皇子にも王子がいて、有力な後継者だった。

696年 高市皇子没(7月)

半年後に、697年 軽皇子立太子(2月)、

半年後に、軽皇子即位(8月)


軽皇子の立太子と即位が滞りなく行われるには、高市皇子の存在が障害になっていた。次の段階に進むには、喪が終わる半年の時間が最低必要だった。文武天皇の15歳即位に合わせて、高市皇子の死は、すごく計画的に練られた事件だった、と言えるでしょう。

③氷高内親王の即位の場合? なぜ首皇子は即位できなかったか?

714年 首皇太子元服(14歳)*次の年の即位を考えていた

715年 長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)没

 氷高内親王即位(9月)*元明天皇の配慮か


独身だった氷高皇女(元正天皇)には、身分が高すぎて嫁ぎ先がなかった。藤原氏としては、皇位継承者を拡散するつもりはなかったので、氷高皇女を結婚させなかったのでは…。
藤原氏としては、首皇子(文武天皇の子・聖武天皇)を元服させ、即位準備は十分に整っていたが元明天皇は娘の氷高皇女を即位させた。それは何故か?
元明天皇は、草壁皇子の妃です。夫の決意(自死)を十分に承知していたとしか思えません。皇統は長屋王に受け継がれてもいいと……

④長屋王の場合
妃は吉備内親王(文武天皇・元正天皇の妹)で後継の男子あり

727年 基王(母・光明子)生まれてひと月で立太子

728年 基皇太子一歳で没(9月)

半年後に、729年 長屋王、謀反の密告で自刃(2月)

聖武天皇と光明子の間に生まれた基王は、生後すぐに立太子されたが、一歳ほどで死亡。すると、皇位継承者として一番近かった長屋王一家を全滅させる謀略を、藤原氏は取ったのだった。


謀反事件の共通点

謀反事件は、有力な皇位継承者が死亡した時に起こる。
次の継承者とおぼしき人物が抹殺される

と考えられるのですが、

更に、「藤原氏がここまでのことがやれたのは何故か

なぜ、高市皇子は封じ込められなければならなっかったのか
をはっきりさせねばなりません。


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# by tizudesiru | 2016-12-02 10:25 | 174高市皇子の死の真相 | Comments(0)

174高市皇子の死の真相・1

174高市皇子とは何者か


万葉集の謎の一つに「高市皇子の挽歌」は何故あれほど長いのか」という謎というか、疑問がありました。


持統帝が愛した草壁皇子より弔いの歌が長いのです。

もちろん、天武帝の長男である太政大臣(高市)の葬儀の歌です。長いのは当然かも知れませんが、皇太子より2倍以上長いのは誰が見ても不思議です。

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しかし、よく読み直してみると、先に紹介した通り(「高松塚古墳の被葬者」で読んだ通り)、多くの詞が使われているのは、


壬申の乱
(夏の戦を冬の厳しい戦いとして表現されていますが)と


天武天皇の意志と功績
、其の命を受けた皇子、そして、


「結う花の栄ゆる時に」お元気で今も盛りの時に、「皇子の御門を神宮に装い」皇子自身の御殿を霊殿に飾ったこと。


高市皇子の棺を挽き、神として城上の宮に祀ったということ、です。

 

冷静に読むと、高市皇子の権力者としての姿は見えにくいですね。

人麻呂は「時の最高権力者に敬意」を払ったけれど、その真の姿を現さなかった…


では、高市皇子の本当の姿は読めないのでしょうか。

高市皇子の挽歌は、長歌と短歌からなっています。長歌は紹介しましたから、短歌を見てみましょう。


短歌二首


200 久かたの 
(あめ)() ゆえ 日月


地上ではなく天上世界をお治めになることになった皇子ゆえに、残された者は日月が立つのも分からないほど嘆き皇子を慕い続けている


201 
埴安(はにやす)  (こもり)() 舎人(とねり)(まど)


埴安の池の堤に囲まれた出口のない隠れ沼のように、水の行き先が分からないように、舎人たちはただ迷い嘆くだけである


  或書の反歌一首


202 
哭沢(なきさわ)の 神社(もり)三輪(みわ)須江(すえ) いも 我が(おほきみ) 

 右一首は、類聚歌林に檜隈女王が泣沢(なきさわ)神社


哭き沢の神社に神祭りの酒の甕を据えて、皇子の蘇生をお祈りしたけれど、その甲斐もなく、とうとう我が王は天上をお治めになることになってしまった。なんということだろう。


高市皇子は何故死なねばならなかったのでしょうか。
上記の短歌三首の内の二首は人麻呂作です。人麻呂は、天武朝の皇子に対して、その立場や位置を的確な言葉で表現しています。

「高市皇子は地上を治めるのではなく天上をお治めになられた」
元来『地上を治める人だった❓』けれど、天上を治めることに成った…と、人麻呂は表現しています。
長歌の詞でも『わご大王の天の下申し給えば』とは、高市皇子が天下の政治を執り行っていた、と読めます。
高市皇子は、太政大臣以上の立場だったのでしょうか。

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それで、気になることがあります。大化改新後の謀反事件には、ある共通点があるのです

その事を考えてみたいと思います。


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# by tizudesiru | 2016-12-01 12:03 | 174高市皇子の死の真相 | Comments(0)

173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

高市皇子を裏切った但馬皇女


記紀には道ならぬ恋の話が出てきますが、その恋は許されていません。

しかし、天武朝では許されたのでしょうか。


高市皇子の宮に居た但馬皇女は、穂積皇子を好きになります。二人は恋仲になったようですが、

穂積皇子も但馬皇女も咎めは受けなかったのでしょうか。

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但馬皇女、高市皇子の宮に(いま)す時、穂積皇子を(しの)て作らす御歌一首


114 秋の田の穂向きのよれるかたよりに君によりなな
(こち)()くありとも


 秋の田の稲穂は重くて片方によってしまうが、その片よりのように貴方にわたしは寄り添いたい。どんなに人がいろいろ噂して煩わしくあっても。


穂積皇子に勅して近江志賀の山寺に
(つか)はす、但馬皇女の御歌一首


115 
(おく)れいて恋つつあらずは追いしかむ道のくまみに標結え吾がせ


行ってしまった貴方を恋しく思いながらいるよりは、追いかけて行きますから、道の曲がり角ごとに標を結って神様にお祈りしていて下さい、あなた。


但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、
(ひそか)に穂積皇子に()い、事すでに(あらは)れて作らす御歌一首


116 
人事(ひとごと)を繁みこちたみ(おの)が世に未だ渡らぬ朝川渡る


世間の噂がひどくて煩わしいので、生まれてこの方一度も渡ったことのない川を、それも朝川を私は渡る

   但馬皇女の御歌一首  一書に云う子部王(ちいさこべのおおきみ)作る


1515 事繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひてゆかましものを


世間の噂が激しくて耐えられないような里に住まないならば、今朝鳴いていた雁と一緒に連れだって飛び去ったのに


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但馬皇女(こう)ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷(ひしょう)流涕(りゅうてい)して作らす御歌一首

203 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)()(かい)の岡の寒くあらまくに


雪が降って来た。雪がたくさん降ったならあの人が眠っている吉隠の猪養の岡が寒いだろうから、多くはふってくれるな。

この二人が許されていたとは。高市皇子の妃は御名部皇女(持統帝の妹・阿閇皇女の姉)ですし、不思議です。但馬皇女は世間の噂の中でも、自分を貫いたのでした。二人を結びつけたのは、天智朝の重臣の家系だという自負でしょうか。藤原不比等の後ろ盾があったのでしょうか。

但馬皇女

父・天武天皇  母・藤原鎌足の娘、氷上娘

?生~和銅元年(708)没

高市皇子の宮に住んでいた

若い穂積皇子に惹かれていた

穂積皇子

父・天武天皇  母・蘇我赤兄の娘、大蕤(おおぬ)

壬申の乱後?生~霊亀元年(715)薨去

・持統五年(691)浄広弐  妻・大伴坂上郎女






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# by tizudesiru | 2016-11-30 17:15 | Comments(0)

172続・糸島の神社・再訪問

糸島神社巡の続きです
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宮地岳山上の熊野社

吉備真備が渡唐の時神に祈ったという宮地岳の山頂の熊野神社(祠)に行きました。
吉備真備は大学者で、聖武天皇の娘の孝謙天皇の養育係でもありました。

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藤原氏のために九州の怡土城(いとじょう)築造をさせられたリ、二度も唐に遣唐使として遣られたり、東大寺造に従事させられたりなど、さんざん都の中枢より遠ざけられます。しかし、「藤原仲麻呂の乱」では、孝謙天皇が素早く真備を呼び出しました。真備は仲麻呂の逃走路を断ち、乱を鎮めました。
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福津市ではなく、糸島市の宮地岳山上の宮地嶽神社です。お宮の紋は福津市の宮地嶽神社と同じです。
あのJALの『光の道』で有名になった宮地嶽神社と、です。


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次に、正八幡神社に行きました。長野川のほとりにあります。
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そして、太田神社に行きました。

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太田神社は糸島七寺の夷巍寺の近くです。この寺の所在はまだ確認されていません。
聖武天皇の時代にはあったという七寺の内、一つも確認されていないのです。
この山門は、ぽつんと道の真ん中に残されています。
大きな仁王が二躯、山門に安置されていて、わたしは泥棒の心配をしてしまいました。
 
この寺の前の道を左に折れると、太田宮の常夜灯が民家の間に残っています。民家の屋根より高いのです。

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この前の道を進むと太田宮です。

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ここは、二丈町大字一貴山です。ここに、大田命を祀る大田神社(神額には太田)です。
神と地名と結びつかないのです。意味深な由緒書きです。

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社殿に到る階段に石が祀られています。社殿の後ろには大石がありました。

太田命は、おおたたねこ(太田タネコ)とつながりがあるのでしょうか?

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次の機会に




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# by tizudesiru | 2016-11-29 13:34 | 172糸島の神社 | Comments(0)

172糸島の神社・雉琴・宇美八幡・神在・太田

糸島の神社・再訪問

糸島には神功皇后の伝承が至る所にあります。

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雉琴神社には次のような由緒書きがありました。
神功皇后は雷山(曽々岐岳)に登り神祀りをして戦勝祈願をしたら、夢枕に「ヤマトタケル」が立ち、賊徒討伐の方法を教えてもらった。雉の鳴き声を琴の音に聞いて目覚めたので、帰還の後、日本武命を祀り『雉琴神社』と名付けたと
いうことです。
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雉琴神社は他にもありました。社は既になくなっていました。近くに神功皇后の腰掛石がありました。


神功皇后伝承地の宇美神社。応神天皇の誕生伝説の地
ここは、糸島市の長糸です。
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昔は海から川をさかのぼってこの地にあがったのですね。宇美八幡の参道は川から始まっています。参道の脇に近所の田畑から集められた「支石墓」が置かれてました。運よく捨てられなかったのですね。庭石にもされなかった…
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神社の境内は。5世紀~7世紀の墳墓群です。首長の墳丘墓は山上に作られました。
糸島も、福岡平野も、周囲の小さな丘陵は全て古代の墓地と云っても過言ではありません。山を歩くと石室の石組みが露出しているのでぞっとします。
宇美八幡宮は、糟谷の宇美の宇美八幡が有名ですが。ここが、元宮という人もいます。
上宮は仲哀天皇、本宮は誉田別天皇・気長足姫命・玉依姫命・ニニギ尊
古くは長野八幡宮 
⊛宮司家は武内さん・武内宿祢の御子孫とか…
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本宮階段下に宮地嶽神社が摂社としてありました。
祭神に
勝門姫命・阿部助盛命・阿部高盛命・志那津比古・志那津比売・大山祇命
勝門姫命(勝ちど姫)とは、誰でしょうね。たらし姫のことでしょうか。

万葉集に、山上臣憶良の気長足姫の歌があります。
869 たらしひめ 神の命の 魚(な)釣らすと み立たしせりし 石をたれ見き
たらし姫が魚を釣ろうとしてお立ちになったその石を誰が見たというのだろうか
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近くに大石があります。15年ほど前に見た時は畑の中に見えていました。しかし、今はすっかり竹藪の中でした。驚きました。神在の地名は「神在り」そのものでしょうか。
他の神社にも、行きましたが
また後で







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# by tizudesiru | 2016-11-29 10:20 | 172糸島の神社 | Comments(0)

171額田王の歌の紹介

額田王の歌を紹介します

額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。

でも、天智天皇を待つ歌がありますね。斉明天皇にも仕えています。

額田王とは如何なる人だったのでしょうか。

では、天智朝では、どんな立場だったのか。それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。
女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌はかなり政治的ですね。

最晩年には粟原寺を建立したことになっています。

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では、額田王の歌の紹介です

額田王歌


7 秋の野の 美草刈り葺きやどれりし兎道のみやこのかりほしおもほゆ


 額田王歌


8 熟田津に船乗りせむと月待たば潮もかなひぬ今はこぎいでな


 紀温泉に幸す時に額田王の作る歌


9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が背子がい立たせりけむいつ橿が本


 


 天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌



16 冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を
()み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我れは 



額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌


17 
(うま)(さけ) 三輪の山 青丹吉 奈良の山の 山のまに いかくるまで 道の  (くま) い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむやまを (こころ)なく雲の 隠そふべしや


反歌

18 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠そうべしや


*井戸王(意のへの王)の歌は省略

神の山の三輪山、その三輪山が青丹よし奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲りが重なってしまうまでも、見ながら行きたいのに。何度でも見ておきたい山なのに。私の気持ちの分からない雲が隠してしまう。心無い雲が隠してもいいのだろうか。(17)

神山の三輪山を、よりによって何で隠すのか。雲にだって心があろうに。三輪山を隠したりしていいものだろうか。(18)

この二首を山上憶良は類聚歌林に「都を近江の国に移す時に三輪山を御覧になっての御歌」としています。つまり、天皇の歌だというのです。

 天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌


20 
あかねさす紫野行き標野ゆき野守は見ずや君が袖振る

額田王、(こた)へ奉る歌一首(倭京より(たてまつ)り入る)


112 
いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我がもえるごと

吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首


113 
み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく


天皇の
大殯(おほあらき)の時の歌二首

151 かからむとかねて知りせば大御船()てし()まりに標結はましを

山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首


155 
やすみしし 我ご大王の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は ゆき別れなむ

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首


488 
君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く


*巻八・1606は、488と同じ題詞で同じ歌

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藤原宮・新益京




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# by tizudesiru | 2016-11-28 17:02 | 171額田王の歌の紹介 | Comments(0)

170額田王が草壁皇子の為に寺院建立

170額田王は草壁皇子のために寺を建立した


明日香に帰って、額田王は何をしていたのか?


十市皇女の突然死で苦しんでいましたが、深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後は遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させました。

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草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立?

なぜ? 草壁皇子?

額田王は天武帝の皇子にも尊敬され、藤原氏とも交流があったようです。

中でも、藤原朝臣大嶋とは親密な仲だった、つまり結婚していたいう…

額田王は比売朝臣額田なのでしょうか。

談山神社に、元は粟原寺にあったという国宝の鉢が残されています。粟原寺の塔が完成した時に上げられた露盤で、そこに銘文があり、次のような記述があるのです。
談山神社は藤原氏所縁の神社です。

この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

この功徳により仰ぎてお願いすることは

皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。

(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。

様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

甲午年・持統八年は694年で、和銅八年は715年です。

日並御宇東宮(草壁皇子) このようは表現は、他の資料にはありません。

この年(694)の十二月に、藤原宮に遷都します。(しん)(やくの)(みやこ)藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都だと云われています。


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藤原宮大極殿跡
下は耳成山と藤原宮、南大門跡
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NHKのテレビ画面を撮影

藤原大嶋は、藤原の姓を不比等の血統だけに限られて、中臣の姓に戻っています。
彼は藤原鎌足の亡き後、藤原祝詞をもって天智帝に仕えた藤原金の甥です。
藤原金は、壬申の乱で大友皇子が破れた後に斬られました。

天智帝に右大臣として仕えた叔父の冥福も祈りたかったのでしょう。
しかし、大嶋は持統八年に死去します。
その意志を額田王が受け継いだのでしょう。

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それにしても
なぜ、草壁皇子を「日並知皇子」ではなく、

日並御宇東宮(草壁皇子)
と表現したのでしょう。

傍から見ると、やたらゴマをすっているように見えますが、天武帝も持統帝も文武帝も全て鬼籍に入っています。ゴマをする相手は誰もおられません。

粟原寺の建立を待ち望んだ人は…額田王一人?

比売朝臣額田(女性です)が、伝承通り額田王だとすると、八十歳も過ぎた年齢となります。

ここにあるメッセージは、草壁皇子は特別大事な存在
ということでしょう。

何が特別だったのでしょう。

またあとで


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# by tizudesiru | 2016-11-27 17:09 | 170額田王が建立した粟原寺 | Comments(0)

169・額田王の恋歌と素顔

169額田王の恋歌と素顔


額田王は恋多き女性だったのでしょうか。
美女だったようですが。


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万葉集にも額田王の恋の歌はあります。巻四と巻八に。

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首

488 君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く

*巻八1606は、巻四488と同じ題詞で同じ歌


あなたが何時お出でになるかと待っていると、わたしが恋しく思っているからでしょうか、わたしの館の簾を動かして秋風が吹いてきました。簾をうごかしたのは、あなたではなかった…


額田王の歌は、
78916171820112113151155488・(1606)の13首 のうち1首は重複してるので、12首。


内容を見ると、非常に政治的な歌が多いようですね。

488と1606以外の歌を見てみましょう。

7は、額田王(兎道若郎子の京を歌った・悲運な皇太子を暗示

8は、額田王(百済救援軍として熟田津を出航する時の歌

9は、紀温泉に幸す時に額田王の作る歌(有間皇子事件当時の詠歌


8は、斉明天皇御製歌とも「類聚歌林」にかかれているという。天皇に代わって額田王が歌を詠んだと云われているのです。いずれも斉明天皇の時代の歌です。

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額田王は若かったのに、上の三首は恋愛とは関係ないようですね。

16は、天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌天皇の詔で判定する歌

17は、額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌(近江遷都の時の詠歌

18は17の反歌

20は、天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌(天皇の宴席での詠歌


16は、非常に文化的な内容での天皇の詔です。春と秋のどちらが優位なのかを、額田王が判定するのです。次は、遷都の時の詠歌と「類聚歌林」に書かれているので、公的な詠歌です。その次も、天皇の前で詠んだもの。

額田王は、立場的に公の場で活躍していた、常に政治の表に立っていたようです。


額田王はただの美女ではなかった!?

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額田王こたへ奉る歌一首

112は、額田王、(こた)へ奉る歌一首倭京より(たてまつ)り入る弓削皇子に奉る歌

113は、吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首弓削皇子に奉る歌

年を取った額田王に若い皇子が様々に問いかけたのでしょう。

公的な舞台から身を引いても、若い皇子に頼りにされる存在だったことが分かります。学識経験者として、政治的相談役だったのでしょうか

151は