人麻呂の妻は火葬された

人麻呂の妻は火葬された!
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「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀働して作る歌二首併せて短歌」

の続きです。
巻二「挽歌」

210 うつせみと思いし時に 取り持ちて 吾がふたり見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白妙の 天ひれ隠り 鳥じもの 朝だちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 若兒(みどりご)の 乞い泣くごとに 取り与ふ ものしなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と ふたり吾が寐し 枕付く 嬬屋のうちに 昼はも うらざび暮し 夜はも いきづきあかし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に 吾戀ふる 妹はいますと 人のいへば 石根さくみて なづみこし よけくもぞなく うつせみと 思いし妹が たまかぎる ほのかげだにも 見へなく思へば 

211 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる

212 衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を往けば 生けるともなし

210 あの人は現世の人だと思っていた時に、手を取りあって二人で見た 突き出した土手の槻の木の枝のあちこちに春の葉が茂っているように 深く思っていたあの人であるが、頼りにしていたあの人なのに、常ならぬ世の中の掟に背くことはできないので、かげろうが燃える荒野に、真っ白な天女のヒレに隠れて 鳥でもないのに朝早くから家を出て、入日のように隠れてしまったので、あの人が形見に残して行った幼な兒がものほしさに泣いても与えられる物もなく、男だけれど小脇に幼兒を抱いて、あの人とふたり寝た 嬬屋の中で、昼はうらさび暮し、夜はため息をついて夜を明し、どんなに嘆いてもどうしょうもなく、どんなに恋しく思っても もう会うこともできない。羽がいの山に恋しいあの人がいますと人が言うので、岩根を押し分けてやって来たのに、その甲斐もなかった。この世の人だと思っていたあの人が死んでしまって、ほんの少しほのかな影すら見えないと思うと…


211 去年見ていた秋の月は今も照らしているけれど、一緒にこの月をみたあの人は年と共に遠ざかっていく

212 衾道の引手の山にあの人を置いて山道を帰って来る時、とても生きている心地がしない。

前回の挽歌の妻とは別の女性でしょうか。この女性と人麻呂は一緒に暮らしていたのでしょう。死亡した女性は朝から白栲の布につつまれて家を出て行ったのだが、もう帰ることはないと嘆いています。そして、一人の幼兒を残していたので、その子が泣いても何もしてやれない男であることを人麻呂は嘆いています。女性は引手の山に葬られたのでしょうか。妻を置いて山から帰るのですから、葬儀を済ませたと云うことです。「使いが来て妻の死を知った」というなかなか会えない207番歌の「天飛ぶや軽の道」の妻とはかなり身分の違う女性のようです。


この挽歌には、異伝があるのです。
表現も大変良く似ています。が、見逃せない言葉があります。

210の最後に「うつせみ(打蝉)と おもひし妹が たまかぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

213の最後に「うつそみ(宇都曽臣)と おもひし妹が 灰にて坐せば

これは、大変な違いです。213の女性は、「灰にてませば」と火葬されているからです。

この時代、火葬は一般的ではありませんでした。

火葬された人の名は、書紀にも取り上げられています。火葬の初出は、700年の道照で「粟原にて火葬」とあります。702年没の持統天皇も火葬でした。

では、213番歌を読みましょう。
或本の歌に曰

213 うつそみと おもいし時に 携はり 吾ふたり見し 出立の ももへ槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂れるがごと 思へりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば かぎる火の 燃ゆる荒野に 白栲の 天ひれがくり 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見における 緑子の 乞いなくごとに 取りあたふ 物しなければ 男じもの 脇挟み持ち 吾妹子と 二人わがねし 枕つく つまやの内に ひるはも うらさびくらし 夜はも 息づきあかし 嘆けども せむすべしらに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に なが恋ふる 妹はいますと 人の云へば 岩根さくみて な積みこし よけくもぞなき うつそみと 念ひし妹が 灰にてませば

短歌三首

214 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は わたれども あいみし妹は いや年離(さか)る

215 衾路(ふすまぢ)を 引出の山に 妹を置きて 山路おもふに 生けるともなし

216 家に来て 吾がやを見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕(こまくら)

さて、人麻呂は210と213の挽歌のどちらを先に詠んだのでしょう。

わたしは、213が先だと思います。「灰にて坐せば」が先だと思うのです。

火葬とは、由々しきことです。こんな行為を受け入れた女性として、読み手は誰を思い出すでしょう。

平城天皇に万葉集が召し上げられて(806年)、編集を担当した学者は、ここを詠んで愕然としたでしょう。「これは、高貴なあの方を導き出す言葉だ」と。
だから、210を挿入し、213を「或本の歌」としたと、大胆にもわたしは思うのです。
そうでなければ、210と213はあまりにも似ています。手直しをする必要はないほど似ているのです。なのに、敢て手直しをしたのは何処か、「灰にて坐せば」以外にありません。

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「灰」になってヨミガエリを拒否した持統天皇の思いを感じずにはおれません。
では、ここに出て来る「幼兒」とは…あの古今伝授に残された人なのでしょうか。
わたしにはわかりません。
古今伝授と207番歌(人麻呂の妻の挽歌)については、このブログの「264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が」を読んでくだされば、少しは説明不足を補えると思います。

それから、前回は「飛鳥と明日香」の紀行文的だったのに、今回は「万葉集」の人麻呂の挽歌について書いているという……ブログの内容があちこちに飛びますね。
ごめんなさい。読みにくいブログになっていることでしょう。
わたしは古代史の謎に興味があるのですが、謎を解く鍵として地図があると考えています。それに、書紀や古事記、先代旧事本記や古語拾遺などの文献、寺社の由緒なども面白いと思うのです。それらのバラバラなパーツを一つずつ拾ってジグソーパズルのようにはめ込んでいるつもりです。だんだんバラバラだったものが、一定の方向に導いてくれるのではないかと、発見したことを書いているのですが。
パーツが多すぎて分かりにくいですよね。
これからも「丁寧に説明していく」つもりです。105.png112.png119.pngよろしくおねがいします。



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# by tizudesiru | 2017-07-19 01:35 | 268人麻呂の妻は火葬された | Trackback | Comments(0)

鬼のまな板の上で霊魂は語る

飛鳥は霊魂が飛び交う聖地
今年は三度目の明日香の旅でした。
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7月の猛暑の中を明日香へ…
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此の分かれ道を左に向かうと亀石まで届きます。
私も40年ぶりに明日香駅から岡までの路を辿ってみました。
駅から吉備姫古墳と猿石を見て、
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大池を見て、
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天武持統合葬墓を右に見ながら、
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鬼の雪隠、鬼のまな板まで行きました。
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思い出しました、むかし不思議に思ったことを。なぜこの墓が破壊され石棺の刳り貫き型の上蓋部ががけ下に落とされたのか…
はじめて見た時は、とても不思議な気がしました。古墳の主はきっと身分の高い人だったでしょうから。
現在地の鬼のまな板の石は、当時の古墳がつくられた場所にあるのでしょう。すっかり竹やぶになった崖の上に。
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この墓が破壊された理由はただ一つ。邪魔だったからでしょう。

7世紀の当時の人々は、ここが誰の築造で誰のための墓か十分に知っていました。それは王家以外の人物だったかも知れないし、王家の誰かだったかもしれません。
しかし、邪魔だったのです。なぜなら、
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鬼のまな板は、欽明陵と天武持統陵の間に在りますし、植山古墳(推古陵)と中尾山古墳(文武陵)の交差点に在ります。
どう考えても、高貴な方のラインに乗っているのです

ある氏族にとっては、大事な線上にたまたま鬼の雪隠古墳が乗ってしまったのでしょう。
だから、万人承知の上での破壊だったと思います。

明日香が飛鳥となったのは、ここが霊魂(鳥となった霊)が飛び交う土地だからでしょう。ここには、いろいろな氏族のルーツの墓があります。蘇我氏も、中臣氏も、大伴氏も、天武朝の皇子達も…
ここは、それぞれの氏の祖先霊が飛び交う地なのだと思います。大きな財を生みだす田畑は少ないのに多くの寺院が建立されたのには、わけがあると思います。祖先霊の漂う地が「飛鳥」だから寺が造られたと、わたしはそのように思います。
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万葉集には「明日香」が使われ、日本書紀には「飛鳥」が使われています。その成立の過程で厳密な検討がなされ、書紀編纂者は「飛鳥」を採用したのです。
日本書紀が成った720年は、既に平城京に都が遷っていましたから、祖先の都「明日香」を尊んで祖先の霊魂が飛び交う聖なる土地として「飛ぶ鳥の都」とし、アスカ「飛ぶ鳥の霊魂漂う明日香」と特別の意味で呼ばれたのだと思います。
このブログの「215天智天皇の三山歌」には、ヤマト三山と呼ばれる畝傍山・天香具山・耳成山が古代有力氏族のシンボルの山だったことを書いています。合せて読んでいただければ、明日香のイメージが分かりやすいかも知れません。


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# by tizudesiru | 2017-07-15 12:56 | 267氏族の霊魂が飛鳥で出会う | Trackback | Comments(0)

世界遺産になった三女神・お仕事は天孫の奉助

宗像三女神のお仕事は
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天孫を助け奉ること

奥津宮(田心媛たごりひめ)、中津宮(湍津姫たぎつひめ)、辺津宮(市杵島姫いちきしまひめ)の三女神は、天孫を助けるために宗像大社に祀られているのです。大社側のパンフレットにもそう書かれています。
そもそも、宗像は「大社」です。天皇家の安泰を祈るための延喜式内社(名神大社)でもありますから、三女神のお仕事の第一は「天皇家に仕えること」ですよね。

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では、この地域で祭られていた地域の神様ではないのでしょうか。
私は自著「太宰具・宝満・沖ノ島」で、「英彦山の北岳の北山三御前が許斐山(宗像)に降り、その後に宗像大社に祀られた」という伝承を紹介しました。いったいどのような神だろうと、三女神に興味が湧いたのです。
三女神はもともと北部九州の神だったのではないかと思ったのです、それが記紀神話に取り入れられたと。

古事記でも日本書紀でも、三女神は天照大神とスサノウの誓約から生まれたことになっています。
スサノウが姉の天照に別れのあいさつに行ったところ、天照は武装して弟を待ち受けます。高天原を侵略すると思ったからです。スサノウは身の潔白を示すために誓約(うけい)をするのです。悪い心であれば男が生まれ、清き心であれば女が生まれると。スサノウの剣を天照が噛み砕いて吹き付けると、三女神が生まれました。「十握剣はお前の物根であるから、この三女神はことごとくお前の子である」と、天照は言いました。三女神はこうしてスサノウの子になりました。
(スサノウが八坂瓊の五百箇の御統(みすまる)を間で吹き付けると5人の男子が生まれ、天照がことごとく我が子といいました。御統は天照のものだったからです。第1男神は天忍穂耳命、天の忍穂耳命がニニギノ尊の父です。第2男神は天穂日命、この人の子孫が出雲臣につながっていきます。)


高天原での誓約(うけい)で三女神が誕生したのはわかってましたが、記紀の記述には微妙な差があるのですよね。

三女神誕生に使われた物根ものざね(物実ものしろ)は剣(鉄製品)です。
古事記は、須佐之男命の十挙剣(とつかのつるぎ)
日本書紀は、素戔鳴尊の十握剣(とつかのつるぎ)
    第一・第三の一書に、日神の九握剣(ここのつかのつるぎ)
             八握剣(やつかのつるぎ)
    第二の一書に、素戔鳴尊の八坂瓊(やさかに)のまが玉

物根の劔は、十握、九握、八握と長さが違うのは、女神が生まれるたびに剣が短くなっていくらしいのです。でも、まが玉では全く物が違います。


次は、誕生順ですが、古事記は、多紀理毗売命(奥津島比売)→市寸嶋比売命(佐依毗売)→多岐都比売命の順に生まれています。
日本書紀は、(本文)田心姫→湍津姫→市杵嶋姫 *宗像大社は書紀に因る祭神
   (第一の一書)瀛津嶋姫→湍津姫→田心姫
   (第二の一書)市杵嶋姫田心姫→湍津姫
   (第三の一書)瀛津嶋姫(市杵嶋姫)→湍津姫→
田霧姫
さて、長女は誰なのでしょう。(大国主の妃になったのは奥津宮の姫です)
このように微妙な違いがなぜ出るのか、それは伝承する側が多いこと、様々な氏族が伝承を持っている、ということでしょう。

書紀には三女神を九州の氏族が祭っていたと書かれていますから、天照とスサノウの物語も、やはり九州で生まれた物語かも知れませんね。
三女神のひとり多紀理毗売は出雲の大国主の妃になっていましたね。出雲大社の本殿の垣内に筑紫宮があります。出雲と九州の関係も深いのですね。


では、スサノウと天照が対峙した高天原は何処にあったのでしょうね。ニニギの天孫降臨の地は何処でしたっけ? 確か日向の襲(そ)の高千穂の添山(そおりのやま)峯ですが、鹿児島県ですか? 福岡には日向峠も日向川もあるし、脊振(せふり、そふり)山もありますねえ…

海と関係ない北山三御前が三女神となり、なぜ宗像に鎮座されたのか、海北を守る神となったのか知りたいですよね。


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三女神の奉斎氏族ですが、日本書紀では、宗像氏と水沼氏は王権に取り込まれています。王権に入り込もうとした氏族が三女神を祀ったのでしょうか。
古事記は、胸形君
日本書紀本文は、筑紫胸肩君
    第三の一書は、筑紫水沼君


このように全ての奉斎氏族に「」が付けられています。すると、三女神を祀っていたのは
九州の氏族らですね。「胸肩・水沼」の両氏族は確実に祭祀をしていました。以前「安心院(あじむ)の二女神・三女神」の所で紹介したように、水沼君が祭祀をしていた伝承は安心院の三女神社にありました。
天照大神にしても三女神にしても神功皇后にしても女性神ですから、女神発祥の地は九州でしょうかね… 海神の男性三神を祀っていたのは志賀海神社の安曇氏ですね。三神という「三」にこだわる文化もあったようです。
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数年前に、田中正日子先生のセミナーで「みあれ祭」ついて学ぶ機会がありました。そこで、記紀神話の三女神の記述を紐解いていただきました。
その時に「藤原一族が宗像の神を自分の屋敷内に祭り始めるのは、長屋王の怨念が怖かったからではなかったか。」と話が出たと思います。記憶が確かであれば。私には納得の言葉でした。三女神の進出には、藤原氏の働きかけが大きかったと思います。書紀に神話が書かれても、すぐ世間に浸透することはないでしょうから。
長屋王事件(729年)の前に書紀の編纂(720年)は終わっていますから、天照とスサノウの誓約の話は既に出来上がり、藤原氏によって三女神は畿内にも知られていったとおもうのです。
しかし、この頃(八世紀)の沖ノ島の「露天祭祀」の奉献品は、以前に比べられないほど質素になります。とても、王権の祭祀とは思えない庶民の奉献品のようになっています。七世紀の後半から八世紀の始めには、何らかの大きな政治的変化があったのでしょうね。

田中先生は「沖ノ島祭祀は、その始まりから大和王権主導型の祭祀であった」という小田富士夫先生の文を引用されていました。
たしかに4世紀の奉献品は豪華です。大きな権力の祭祀には違いありません。
でも
ホントに4世紀から近畿王権主導の祭祀だったのでしょうか。大化の改新まで中央集権化はできていなかったのに。いつの間に、王権祭祀が入って来ていたのでしょうか。

沖ノ島には、まだまだ分からないことがありますね。

三女神は世界遺産の神としてデビュしました。
三女神のお名前を書き間違えてはいけないと思って、「神宿る島 沖ノ島」のパンフレットを開きました。しかし、何処にも三女神のお名前は有りませんでした。ご祭神はどうでもよかったのでしょうか。ご祭神の名を知りたい人には不思議でしょう。どの神社もご祭神を祀ることで成り立っているのですから。神への奉献品で人目を引いて、「神よりお宝がにすごいから世界遺産にしてほしい。そしてみんなに観光に来てほしい」という意図のもとに登録を願ったと、誤解されてもいけませんね。
沖ノ島は古代の信仰を伝え、海北の海路が困難であったことを伝え、それでも海を渡った先人の勇気と決断を伝えているのです。世界遺産を通して古代の人々を偲ぼうではありませんか。
国宝を知ってもらうのは大切ですけど。
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奉献品は時代と共に変わりました。時代が変われば奉献品が変わるのは当然ですが、突然変わるのには理由がありましょうね。
また、明日。
と書いてから、十日が経ちました。実は大事なことを書いていなかったので「269彷徨える大国主命」を書こうと思います。読んでくださいね。


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# by tizudesiru | 2017-07-10 16:15 | 266大宰府・宝満・沖ノ島 | Trackback | Comments(1)

海の正倉院沖ノ島・世界遺産になる

神宿る島・沖ノ島

2017年7月9日・海の正倉院
沖ノ島
世界遺産に
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沖ノ島を日本だけでなく世界の人に知ってもらえるのは、喜ばしいことです。ただ女人禁制の島なので、女性の上陸は許されていません。
女性でなくとも、島に上陸する男性は全裸で禊ぎをしなければなりませんし、島のものは草木一本持ち出すことはできません。「お言わずノ島」ですから、沖ノ島で見たことも一切しゃべってもなりません。そう云うことですから、世界遺産になっても「沖ノ島」を知ってもらえないなあと思っていました。
もちろん、古代からの禁制を止めてほしくはありません。沖ノ島は今まで通りでいいです。そうして奉献品が守られてきたのですから、それは大事な文化です。
(一般男性の上陸も今まで通り「年に一回の上陸、人数制限」を守ってほしいですね。)
関連遺産群が同時に登録されたそうですから、沖ノ島を偲ぶ手がかりはあるのですね。

せめて、宗像や福津や周辺をまわって、沖ノ島を遠くから見てほしいです。
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「みあれ祭」を見て、おいしい海の幸をいただくのはおすすめ!です
宗像大社のみあれ祭は沖ノ島(沖津宮)と大嶋(中津宮)の二女神が宗像大社(辺津宮)迎えられるというお祭りです。大船団が神を迎える勇壮な行事で、青海原のはるかなる沖から神湊(こうのみなと)へ幟をひるがえして船団が近づいて来るのを見るのは感動します。
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沖ノ島の祭祀は4世紀から始まりました。巨石の上に神に奉げられた武具や鏡が古墳の副葬品と共通するので、王権の祭祀と云うことです。
銅鏡・碧玉製腕輪・玉類・鉄鋌・武器・工具などの質と量が、当時の在地豪族の古墳遺物を越えているのだそうですが…

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上の写真のように巨石の上に石で囲みをつくりここに奉献品が置かれたのです。このように巨石の上に宝物が置かれたのが、祭祀の始まりでした。
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それにしても、沖ノ島まで来てこんな奉献品を捧げた王権は何処の誰でしょうね。奉献品が素晴らしいので、ヤマト王権の祭祀だったというのですが…
四世紀には沖ノ島の傍を通過する半島へのルートは、ほんとうは誰が支配していたのでしょうね。

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岩上祭祀の奉献品・三角縁神獣鏡の同范鏡が勝浦峯畑古墳(前方後円墳)から出土しています。では、この古墳の被葬者が沖ノ島に三角縁神獣鏡を奉献したのでしょうね。勝浦は福津市津屋崎にある海辺の集落です。草崎という岬があり、その付け根が勝浦で、岬の反対側に神湊があります。
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草崎の次に見える島が勝島で、その奥に大嶋(中津宮がある)がかすんでいます。
実は、草崎の石祠から勝島の山頂を通り、大嶋の沖ノ島遥拝所を通り、沖ノ島の峯まで直線が引けるのです。
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このラインを引いた時、わたしもちょっと驚きました。だけど、「やっぱりそうだったのか」とも思いました。沖ノ島が古代九州に導き、古代の物語を教えてくれました。それは、また今度。
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数年前に、「太宰府・宝満・沖ノ島」という本を出しました。博物館でも売ってもらっています。福岡は図書館にもあると思います。
読んでもらったら幸せです。

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# by tizudesiru | 2017-07-10 02:12 | 266大宰府・宝満・沖ノ島 | Trackback | Comments(0)

264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が

古今伝授に書かれた秘密
柿本人麻呂は持統天皇の恋人(?ホント?

という内容の本を10年位前に読んだことがあります。書名をどうしても思い出せないのですが、「古今伝授」を受けた公家の書き残したものを紹介した本でした。そこには、古今集の序文の読み解きが書かれていました。


古今和歌集・仮名序「二歌聖評」

いにしへより かくつたはるうちにも、ならの御時よりぞ ひろまりにける。かのおほむ世や、うたの心をしろしめしたりけむ。かのおほむ時に、おほきみのくらゐ かきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。これはきみもひとも身をあはせたりといふなるべし。秋のゆふべ、竜田河にながるる もみぢをば、みかどのおほむために にしきと見たまひ、春のあした、よしのの山のさくらは、人まろが心には くもかとのみなむおぼえける。


昔からこのように伝わって来た中でも、奈良の帝の時代より特にひろまって来たのです。その御代には、歌の心を理解なさっていたのでしょう。その御代には、正三位柿本人麻呂が歌の聖でありました。これは帝も臣下もよく心を合わせ、同体であったと云えるのでしょう。秋の夕暮れ、竜田川に流れる黄葉を帝の目には錦と御覧になり、春の朝、吉野山の桜は人麻呂の心には雲ではないかと思われたのです。


古今伝授とは歌の世界の秘密や言い伝えを伝授することですが、「これはきみもひとも身をあはせたりといふなるべし」の箇所が人麻呂と持統帝の関係を暗示(暴露)した文だというのです。そして、子までなしたと…

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(軽の路は、奈良県橿原市の大軽・見瀬・五条野辺りで下ツ道はそのなごり?)

さて、その人麻呂と持統天皇の秘密は万葉集で読めるのでしょうか。
子どもまでいたというのですが…吉野に頻繁に出かけていた頃の持統天皇はすでに初老の婦人です。健気に有間皇子を追慕し続けた女帝から想像することはできないのですが。万葉集巻二に「妻の死を詠んだ」挽歌があります。

柿本人麻呂の妻死し後に泣血哀働して作る歌二首幷短歌

207 天飛ぶや 軽の路は 吾もこが 里にしあれば ねもころに見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべし さね葛 のちもあわむと 大船の 思いたのみて 玉かぎる 磐垣ふちの 隠のみ 恋つつあるに 渡る日の くれぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 奥津藻の なびきし妹は 黄葉の過ぎていにきと 玉梓の 使いの言えば 梓弓 おとに聞きて いはむすべせむすべしらに おとのみを 聞きてありえねば 吾戀ふる 千重の一重も なぐさもる こころ(情)もありやと 吾もこが 止まず出で見し 軽の市に 吾立ち聞けば 玉だすき 畝火の山に 鳴く鳥の声も聞こえず 玉鉾の 道行く人も 独りだに 似てしゆかねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる 


208
 秋山の 黄葉をしげみ まといぬる 妹を求めむ 山道知らずも

209 黄葉の ちりゆくなえに 玉梓の 使いを見れば 相し日おもほゆ


ここで読める「人麻呂の妻の姿は」
妻の里は軽の路の近くで、妻の許に何度も通って逢いたいのだが、止まずに通えば人目に付き、多く通えば人に知られてしまう。今は控えて後に逢おうと思ってひっそりと隠れるように恋しく思っていた…
人麻呂の妻は、人目があって簡単に会えない女性だった、高貴な人?
日が沈むように月が雲に隠れるように、あの人はもみじばのように亡くなったと使いが来ていうので、知らせだけ聞いてもどうしょうもなく、知らせだけきいても何の慰めにもならず…
人麻呂は妻の死に目にもあえず、知らせを受けただけというのです
そして、軽のちまたに在りし日のあの人の姿をもとめても、似た人もいなくて、畝傍山でいつも泣いていた鳥の声も聞こえず、あの子の名を呼んで袖を振った…
妻の面影を求めてただただ軽の巷を彷徨った人麻呂。どうして直に会えないのでしょうね。妻は簡単には会えない人だったのです。

次も、妻の死を傷んだ挽歌です。長歌と短歌ですが、これは、次回にまわします

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古今伝授は、わたしには懐かしい詞です。熊本市の水前寺公園に茶室がありました。そこは細川幽斎の「古今伝授の間」であると、社会科の先生が紹介してくれました。幽斎は肥後藩主細川忠興の父で、忠興の妻はガラシャ・明智光秀の娘です。


細川幽斎は武芸・和歌・茶道・連歌・蹴鞠などのわざを修め、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、当代随一の教養人だったそうです。ですから、公家と交流も深く、三条西実枝に古今伝授を承けました。古今伝授とは古代から伝えられている和歌に関わる秘密を伝授するのですが、内容を書き残してはならず、むやみに漏らしてもなりません。それも、一対一で伝授するという掟がありました。


徳川家光が後水尾天皇に古今伝授のなかみを教えてほしいと頼んで断られて話は有名ですね。


また、幽斎が古今伝授のおかげで命拾いをした話も有名です。

1600年、息子の忠興が会津征伐に出た後に、幽斎は三男幸隆と500ほどの手勢で田辺城を守っていました。石田三成が徳川を討たんと兵をあげ、田辺城は1万5000の兵に囲まれました。幽斎は籠城します。包囲軍には幽斎の歌道の弟子も多く居て、彼らも攻めきれませんので長期戦となっていました。幽斎の弟子でもあった八条宮智仁親王は、2度にわたり講話を働きかけますが、幽斎は受け付けません。ついに智仁親王は兄・後陽成天皇に奏請し、勅使が田辺城に下され、関ヶ原の戦いの二日前に勅命による講和が結ばれました。理由はもちろん、幽斎が死亡すれば「大事な古今伝授が失われる」からです。古今伝授が天皇を動かしたと云うことです。

幽斎は三条西実枝からうけた古今伝授を実枝の子三条西公国と孫・三条西実条に返しました。また、八条宮智仁親王が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」が、大正時代に熊本市の水前寺成趣圓(公園)に移築されたのです。


熊本地震で水前寺公園の湧き水が一時的に止まりましたが、今は回復しているそうです。
遅くなりましたが、明日のお知らせです。北部九州では記録的な大雨で大変な被害が出ていますので、お知らせするのに躊躇しました。が、明日のことですので少し報告します。明日7月8日(土)、久留米大学での公開講座です。

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時間は8日13時からで、今回は事前申し込みが必要でした。
開催されるのかというおたずねがありましたのでお知らせしました。
講座は一時間半ほどですから、万葉集の謎の一部のお話になると思います。
では、明日。


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# by tizudesiru | 2017-07-07 00:19 | 264柿本人麻呂と持統天皇 | Trackback | Comments(0)

三輪山は饒速日の山だった

消された饒速日の王権

三首の神器を持っていた天神の御子・饒速日尊

饒速日尊は三輪山に遷った

先代旧事本記「天神本記(あまつかみのふみ)」には、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊は、河内国河上の哮峯(いかるがのたけ)に天降られ、更に大倭國(当時は鳥見国・長髄)の鳥見白庭山(桜井市三輪山)に遷られた」と書かれています。

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(桜井市の三輪山は大神神社の御神体です)

饒速日尊が天降られる時、天神の御祖より天璽瑞寶十種(あまつしるしのみづのたからとくさ)を授かっていました。その瑞宝とは、

瀛都鏡一(おきつかがみひとつ)

邊都鏡一(へつかがみひとつ)

八握劔一(やつかのつるぎひとつ)

生玉一(いくたまひとつ)

死反玉一(よみかへしのたまひとつ)

足玉一(たるたまひとつ)

道反玉一(ちかへしのたまひとつ)

蛇比禮一(へみのひれひとつ)

蜂比禮一(はちのひれひとつ)

品物比禮一(くさぐさのひれひとつ)

この宝は、「一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむななやここのたり)」と唱えながら振ることによって死者も蘇るという瑞宝でした。

これらの宝は、饒速日尊の御子・宇摩志麻治命(うましまちのみこと)により神武天皇に奉献され、天皇が橿原で即位するとき宮殿内に祀られました。神武天皇が即位の時に奉斎したのは、饒速日尊の神霊だったと云うことです。宇摩志麻治命は母が長髄彦の妹だったので、「天神の子」という神武天皇に大王の位を譲ったと云うことでしょうか?

先代旧事本記には、こう書かれているのです。饒速日は神武には逢っていませんね、既に死亡していたからです。饒速日は石上神宮に祀られていますね。

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しかし、日本書紀は違っています。
日本書紀を読んだとき神武と長髄彦の箇所は疑問点が沢山あったことを思い出しました。
それは、主語が「天皇」となったり、「皇帥」となったり、「天神の子」と呼ばれたりして代わるのです。
また、なぜか饒速日の子の高倉下(たかくらじ)が饒速日の剣・韴霊(ふつのみたま)を戦いに疲れて朦朧としていた天孫(神武天皇)に献上し、神武の軍は生気を取り戻しています。
それに、長髄彦は饒速日の「天羽矢ひとつと靭」を神武に見せて、饒速日が天神の子であることを示しました。神武も同じく天羽矢一つと靭を見せて、二人は天表(あまつしるし)が間違いないものと確認し、長髄彦は畏敬の念を抱きました。
にもかかわらず長髄彦は饒速日に討たれ、饒速日は天神の御子でありながら神武に帰順するのです。神武は饒速日の功績を誉め寵愛したと云うことですが…どの逸話も納得のいかない展開でした。(先代旧事本記によると、饒速日は既に亡くなっているのですから神武に会うはずはありません


書紀では、神武は事代主と玉櫛媛の娘・媛蹈鞴五十鈴媛を正妃として、橿原宮に即位しました。媛蹈鞴五十鈴媛は神八井命と神渟名川耳命(綏靖天皇)を生みました、また古事記では、大物主神の娘・伊須気余理比売と神武の間に生れた皇子と書かれています。


大物主は桜井市三輪の大神神社の祀られていますね。

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(大神神社のご祭神は、大物主櫛甕玉命おおものぬしくしみかたまのみこと

饒速日命は死後に「櫛玉(神秘的な力を持つ玉)」の尊称をおくられて櫛甕玉饒速日尊といいます。
出雲国造神賀詞に「倭大物主櫛甕玉命とみ名を称えて大御和乃(おおみわの)神奈備に坐ます」とあるそうです。すると、三輪山の神は饒速日と云うことですか。

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饒速日は大王だったことは前回も言いました。
やはり、書紀が饒速日の業績と歴史を隠しているように思えます。また、大神神社、石上神宮、大國魂神社が同じ祭神だと、大野七三氏は書いています。
そうなると、河内から鳥見に入って来た勢力は九州の氏族だったことになりますね。ここに入って来た人々は、鏡と剣と玉をシンボルとする、王位継承の玉璽とする人達だったのですね。
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よく読むと、十種の神宝には、玉璽の鏡・剣・玉という三種の神器が含まれていますね。これは、九州の弥生墓に副葬されたものと共通します。三点が揃って副葬された最初の甕棺墓・木棺墓は、福岡市の吉武高木遺跡にあります。ここが三種の神器の発祥の地だと一時は騒がれましたが、なぜか今では取り上げられません。たぶん、邪馬台国九州説の後押しをいてしまうので遠慮しているのでしょうね。
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それに、まだ気になることがあります。神武天皇の第一子の事です。
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(草部吉見神社は、下り宮として有名です)

熊本県の阿蘇の草部吉見(くさかべよしみ)神社のご祭神は、神武天皇の第一御子である日子八井命(国龍神)です。神武が東遷する前に、日子八井命が五瀬川をさかのぼってこの地に来て、この地を平定したというのです。


ちょっと、長くなりました。
饒速日尊は河内から鳥見の白庭山に遷った、そこが三輪山だった。今回、書きたかったのは、これでした。
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-07-06 01:45 | 265消された饒速日の王権 | Trackback | Comments(0)

天香具山(物部氏の山?)を詠んだ天智天皇

天氏は物部氏ですね

天智天皇は「三山歌」で天香具山を詠みました
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すると、天智天皇は「香具山」に天が付くのですから、物部氏の皇統を主張しているのでしょうか。
「先代旧事本記」の「天神本記」によると、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が東遷される時、三十二人の武将と二十五部の物部(軍隊)とその他の従者を従えてきました。三十二人の防衛の従者は
天香語山命(あまのかごやまのみこと)
天鈿賣命(あまのうずめのみこと)
天太玉命(あまのふとたまのみこと)
天兒屋命(あまのこやねのみこと)
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)
天道根命(あまのみちねのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天椹野命(あまのむくぬのみこと)
天糠戸命(あまのぬかどのみこと)
天明玉命(あまのあかるたまみこと)
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)
天神立命(あまのかむたちのみこと)
天御陰命(あまのみかげのみこと)
天造日女命(あまのみやつこひめのみこと)
天世手命(あまのよてのみこと)
天斗麻彌命(あまのとまみのみこと)
天背男命(あまのせおのみこと)
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)
天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天三降命(あまのみくだりのみこと)
天日神命(あまのひのかみのみこと)
天乳速日命(あまのちはやひのみこと)
天八坂彦命(あまのやさかひこのみこと)
天伊佐布魂命(あまのいさふたまのみこと)
天伊岐志邇保命(あまのいきしにほのみこと)
天活玉命(あまのいくたまのみこと)
天少彦根命(あまのすくなひこねのみこと)
天事湯彦命(あめのことゆひこのみこと)
天表春命(あまのうははるのみこと)
天下春命(あまのしたはるのみこと)
天月神命(あまのつきのかみのみこと)

続いて、五部人、天降りに従った人
天津麻良(あまつまら)、天會蘇(あまつそそ)、天津赤占(あまつあかうら)、富々侶(ほほろ)、天津赤星(あまつあさほし)
更に天降りに従ったミヤツコ(造)
二田造(ふつだのみやつこ)、大庭造(おほばのみやつこ)、舎人造(とねりのみやつこ)、勇蘇造(いそのみやつこ)、坂戸造(さかとのみやつこ)


天津物部ら二十五部の人。兵仗を帯びて天降る
二田物部、當麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、鳥戸(嶋戸)物部、浮田物部、巷宜(そが)物部、足田物部、酒人(さかひと)物部、田尻物部、赤間物部、久米物部、狭竹(さたけ)物部、大豆(まめ)物部、肩野(眉野)物部、物束(はつかし)物部、尋津物部、布都留(ふつる)物部、住跡物部、讃岐三野物部、相槻(なみつき)物部、筑紫聞(つくしのきく)物部、播磨物部、筑紫贄田(つくしのにへた)物部

船長(ふなおさ)舵取りを率いて天降る
天津羽原(あまつはばら)、天津麻良(あまつまら)、天津真浦(あまつまうら)*以下三人の名がない書がある 天津麻占、天都赤麻良

ここまで「天」が並ぶと、あまの〇〇と来れば「饒速日」の関係者だと思いますよね。
ではでは、天智天皇の近江朝の荒れた都を過ぎる時の柿本人麻呂の歌を思い出してみましょう。「畝傍の山の橿原の日知りの御代から」と詠んでいます。橿原で即位したのは、記紀によれば神武天皇です。神武天皇に長髄彦(ながすねひこ)は言いました。
「昔、天神の御子が天岩船に乗って天より降られました。櫛玉饒速日尊と云われます。私の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名・
長髄媛・鳥見媛と結婚して御子が生まれ、可美真手(うましまで)命といいます。私は饒速日命を君としてお仕えしていました。」
すると、饒速日が大王にになっていたのですね。
そして、初代神武天皇から九代開花天皇までの皇后が饒速日の神裔から立てられました。この皇后の皇子が皇太子となり次期の大王となったのです。

柿本朝臣人麻呂は、近江の皇都を詠みました

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この長歌も中大兄が何者か語られているのです。
今日はここまで


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# by tizudesiru | 2017-07-02 22:00 | 263天智天皇は物部系の皇統か | Trackback | Comments(0)

NHKは日本の歴史を変えるつもり?

はたまた驚きの展開神籠石式山城を

築造したのは天智天皇?!

NHKの番組「英雄たちの選択」を見ました。驚きました、いつの間に古代史が変わったの??
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今年、九州国博で開かれた「山城シンポジウム」でのことですが、大変驚きの展開だったのでブログでもお知らせしました。それは、『神籠石系山城』とか『神籠石』とか一切使われず言葉そのものが消滅し、朝鮮式山城と呼ばれていた正史に残る基肄城・大野城なども全て含めて「古代山城」という言葉でくくられて、すべてヤマト王権側の築造だとされていた、そういうシンポジウムだったということでした。
今まで、歴史書にも古代史にも取り上げられて来なかった神籠石系山城が、急に王権側が白村江敗戦後に築造したというのですから驚きました。
全くどうなったんでしょう? まるで寝耳に水で、なぜそうなったのか分からないままシンポジウムが終わりました。

今度は、NHKの番組「英雄たちの選択」で同じく白村江敗戦後に王権側が造ったとしていました。いつ歴史が変わったのでしょうか?
(下は、難波宮跡・孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮遺構はほぼ重なる)
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大化改新で律令による中央集権国家を目指していた中大兄と鎌足は、まだ改新の道半ばであったとという所から、番組を見ました。中央集権化はまだ不十分だった証拠として、難波宮跡出土の木棺が示されていました。そこに「戊申年(大化4年)」の墨書がありました。大化とうい年号があったのに使われていないと云うことは、各地の豪族に改新の詔が浸透していなかった、中央集権化はまだ途中であったというのでした。改新に反発する豪族がいたというのです。

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中央集権化が進んでいない中に、大陸の政治状況が絡んできました。
大陸では唐が高句麗侵略の足掛かりとして新羅と結び、その為に百済を滅ぼしたという状況で、中大兄は「百済復興を救援するのか、しないのか」どちらを選択したのか、という
なかみでゲストがおしゃべりをするという番組でした。内容的には…
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百済の王族でもあった鬼室福信は、日本にいた王子・扶余豊璋を滅びた百済の王として迎え、百済を復興したいと申し入れました。鬼室福信は唐の捕虜百人を献上していました。福信は今なら唐に勝てる可能性があるというのでしょうか。
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王権は扶余豊璋に五千の兵をつけて半島に返しました。その後、すぐ兵を派遣したのではありません。兵を集めるのに時間がかかったというのです。豪族の納得もなかったし、戸籍もできていなかったからです。その中で「備中国風土記」逸文に、「すぐれた兵二万人を得る」よって、その邑を「二万(にま)の郷と名づける」という記述があるのですが、この兵は救援軍とはならず、百済ではなく新羅へ向かったのでしょう。
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一方、百済の救援に向かった兵は全滅しました。唐の船団の装備と策略を知らなかったのでしょうか。二日で大敗したのです。唐の船は楼舡といって装備した武器も軍船としてもすぐれていました。救援軍は惨敗でしたが、なぜこの結果を招いたのでしょう。
それも、この結果を中大兄側は承知していた・予測していたというのです。

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まつろわぬ豪族の兵力を「外国に遣ってそこで死なせてしまう」という、中国が取って来た政略が使われたと紹介されました。つまり百済救援で打撃を受けた豪族は王権側には邪魔な勢力だったと云うことです。白村江戦を利用したというのです。では、そこで戦死した九州の勢力は、王権とは対立していたのですね。

白村江敗戦後、羅城築造?
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今まで知られていたのは、白村江敗戦後に大野城・基肄城・水城が造られたということでした。それも、亡命百済人の指揮の元、急ピッチで造られたと。
そこに羅城構想が加わりました。筑紫野市の前畑遺跡の土塁です。ここも慌てて作られたのでしょうか。
前畑遺跡は水城や大野城などの土塁と同じ技術で造られたのでしょうか?そこも分からないまま、羅城説が出されていました。
そもそも羅城とは王都の周りに作られる外壁だということですが…大宰府が王都だったと証明したいのでしょうか。
大宰府は百済の泗沘東羅城の敷葉工法が水城土塁の工法に共通することからも、強い関連性が指摘されています。一方、新羅の王都である慶州にも山城の配置など類似点は指摘されているけれど、羅城は設けられてないそうです
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いったいこの羅城は何処を守るのでしょうか?
なにより、百済により近しい関係だった地域は何処でしょうね。そして、ついに

白村江敗戦後に古代山城
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そして、古代山城が築かれ、天智天皇は近江に都を移し即位した、という番組になっていました。そこに、神籠石系山城が入れられていたのです。
神籠石が古代山城となって、消滅するのでしょうか。100年続いた神籠石論争は終了するのでしょうか。
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発見されている九州の神籠石は、きちんと東西ラインと夏至の日の出のラインに並んでいます。工法も切り石技術も共通しています。この計画性を見ると、豪族たちが協力し同じ思想のもとに築造したと思われます。これらの神籠石系山城に付いては、このブログで何度も取り上げてきました。画像もありますから見ていただければ嬉しいです。朝鮮式山城の大野城・基肄城・鞠智城についても、ブログに紹介しています。
わたしは神籠石が天智天皇によって造られたとは思えないのです。
もし、天智天皇であれば、彼は九州の王だったことになります。そうでなければ、まつろわぬ豪族たちの勢力圏で国家的な土木工事はできないでしょうし、百済救援の兵を死なせた状況で土木工事の強要は難しいでしょう。
国家を挙げて取り組んだとしか思えないのが、神籠石なのですから。
国家的土木工事は、人・もの・金がないとできません。人を動かすためには戸籍が必要で、これがないと何もできないでしょう。その事を痛感したからこそ、天智天皇は戸籍を造ったのでした。大宝律令でも、この庚午年籍を基本とし、廃棄しませんでした。
逆に、戸籍がなければ何もできないことを証明したのです。
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さて、天智天皇とは……だったのでしょうね。
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ここまでにします。


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# by tizudesiru | 2017-07-01 23:28 | 262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か? | Trackback | Comments(0)

大国魂神社は大化改新後に総社になった

武蔵大国魂神社の創立は?
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創立は景行天皇四一年だそうで、

ご祭神は大国魂大神で、出雲の大国主神と御同神です。
不思議ですね。
この地域では元から出雲の神を祀っていたと云うことでしょうか。
では、武蔵国は出雲と深い
つながりのある地域となります。畿内の神々を飛び越えて出雲と結びついているのですから、本当に面白いですね。

それも、大化改新後に近畿の勢力の手が入ったと、当の神社が発信しておられるのですから、とても意味深です。祭祀の在り方に大きな変化があったのは、七世紀半ばだということになりますね。

「大國魂大神」とはいえ大国主神と同神であると長年主張し続け、王権側の国司もそれを認めて来たのですね。それにしても、大國主神は大巳貴神ともいい、天地創造の神ですね。

万葉集にも「おほなむち すくなひこなの神こそは 名付けそめけめ 名のみを名児山と…」という九州で詠んだ大伴坂上郎女の歌があります。
巻十八にも「おほなむち すくなびこなの 神代より言い継ぎけらく…」とありますし、
巻七には柿本人麻呂の歌集として「おほなむち すくなみかみの 作らしし 妹背の山を見らくしよしも」があります。
まさに大國主(おほなむち)は天地創造の神ですね。

少なくとも、万葉の時代には、おおなむち(大国主)すくなひこなの神が国土を造った神でした。九州でも、和歌山でも、関東でも、天地創造の神だったのです。
大國魂神社の意味するところは大きいのです。
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武蔵国造が代々奉仕していましたが、大化改新後に武蔵国府がこの地に置かれたので、以来国司が国造に代わって奉仕するようになったと云うことです。
大化改新後に? と云うことは、他の地域でも地域の古来からの神が集められて総社が作られることが、大化改新後にあったのでしょうか。

そもそも、総社が造られたのは何故なのか。大化改新が契機となったのか。
気になることがひとつ増えました。
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国司は赴任後一宮から次々に幣を捧げなければなりません。国司が管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵国中の神社を一カ所に集めて祭ったので、大国魂神社が武蔵総社となったのです。集められた神社は六社です。
(西殿)
六ノ宮 杉山大神(神奈川県横浜市緑区西八朔二〇八)
五ノ宮 金佐奈大神(埼玉県児玉郡神川町七五〇)
四ノ宮 秩父大神(埼玉県秩父市番場町一_三)
(中殿)
御霊大神
大國魂大神
国内諸神

(東殿)
一ノ宮 小野大神(東京都多摩市一ノ宮一~一八~八)
二ノ宮 小河大神(東京都あきる野市二ノ宮二二五二)
三ノ宮 氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一~四〇七)
かなり広い範囲から6社集めたのですね
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闇夜祭(くらやみまつり)5月5日の例大祭
夜間八基の神輿が古式の行列を整え、闇夜にお旅所へ渡御するので、俗に府中の「闇夜祭」といわれ大いににぎわいます。府中競馬もありますので、現在は御輿渡御は夕刻六時より行われているそうです。
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摂社として宮乃咩(みやのめ)神社があり、祭神は天鈿女命。例祭の夜、当神社に置いて「青袖の舞」を奏し、終えて本社に参向して同舞を奏し、翌朝「杉の舞」を奏します。創立は本社と同時代であると云われています。他に、摂社の坪宮(つぼのみや)があり、国造神社とも称します。
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末社に、松尾神社、大鷲(大トリ)神社、住吉神社などがあります。後の時代に勧請されたようです。八幡宮(国府八幡)は、聖武天皇の時代の創立だそうです。
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大國魂神社に集められた六社のうちの一宮・小野神社にも行ってみました。
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小野神社についてはよくわからない様です。大きな権力によりいつの時代も古来の信仰に改ざんの手が入ったのでしょうね。そうして本来の意味が分からなくなるのは、とても残念な気がしました。
それにしても、秩父大神も夜祭で有名ですね。
関東の暗闇に行われる祭りには、どんな意味があったのでしょうね。


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# by tizudesiru | 2017-06-27 10:33 | 大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる | Trackback | Comments(0)

隅田八幡神社の国宝・人物画像鏡

国宝・人物画像鏡
を所蔵する隅田(すだ)八幡神社に
寄り道しました。 
赤い橋が架かるのは、隅田川です。鳥居の奥に神社があります。長い参道になっているのですね。

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有名な人物画像鏡についての説明板がありました。パンフレットは買いましたが、どこかへ行ってしまったので、この写真を読む以外に説明文は有りません。

人物画像鏡の説明板

国宝・人物画像鏡 (大正五年五月二四日国指定 昭和二六年六月九日国宝指定)

隅田八幡神社に伝わる青銅鏡。直系19.8cm、重さ1434g。背面には人物や騎馬像を現した画像文が描かれ、外区にはこの鏡の特徴である48文字からなる銘文が鋳出されている。この銘文の解釈については諸説あるが、おおむね次のように読むことができる。

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取上同二百旱作此竟

銘文冒頭の癸未(みずのとひつじ)は十干十二支を組み合わせて年代を現したもので、六十年に一回巡る紀年法である。銘文中漢字の恩をかりて表記した固有名詞をどのように比定するかで年代が異なり、西暦383年、443年、503年のいずれかにあたるとされるのが一般的である。

銘文解釈の一例をあげると、「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいましし時、斯麻が長寿を念じて開中費直穢人今州利二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」と解釈することができる。ただし、文字の解読や銘文中の人物を誰に比定するか異論が多く、今のところ定説といえるものは出ていない。

考古学的には、この鏡は舶載の画像鏡を手本として製作されたものと考えられている。この原型とされる中国鏡と比べると、内区の画像は逆まわりに配され、乳による区画も不統一で、人物像も少なくなっている。図像の構図が左右逆転し、逆まわりに配されているのは、手本となる鏡をそのまま鋳型にひき写す仿製鏡によく見られる特色である。

原型とされる中国鏡は大阪府八尾市の郡川古墳等で出土しており、それらの古墳が西暦400年代後半から500年代前半とみられることから癸未年は、443年または503年と推定されている。

この鏡がいつ隅田八幡神社の所蔵するところとなったかは詳らかではない。江戸時代後期に編さんされた「紀伊続風土記」および「紀伊国名所図会」にはこの鏡に関する記述があり、相当以前から神宝とすて隅田八幡神社に伝えられていたことがうかがえる。いずれにしても、日本最古の金石文の一つとして貴重な資料である。  橋本市教育委員会・隅田八幡神社

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江戸時代から近隣の信仰を集めていたのですね。裏手にはたくさんの摂社がありました。

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境内には経塚もありました。隣にはお寺もありますから、長い間この辺りは寺と神社が地域を守り、また人々も頼りにして来たのでしょうね。

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# by tizudesiru | 2017-06-26 01:20 | 隅田八幡・人物画像鏡 | Trackback | Comments(3)

太政大臣高市皇子を苦しめた皇女達

太政大臣高市皇子の苦悩 
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持統天皇と吉野行幸の不思議
やっと春が来て、その春も過ぎ夏が来たらしい。神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の時代になったのだ』はつらつとした歌ですが、持統帝が実権を握るのは晩年でしたから、これは初老の婦人の歌です。これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのですが。一体、いつ詠まれたのでしょうね。歌の意味と即位後の吉野行幸が結びつかないのです。

日本書紀の持統天皇の吉野行幸を見ると30回以上あり、即位しても仕事していたのかどうか疑いたくなります。即位は称制期間の三年を経ての持統四年1月ですが、吉野行幸がつづきます。行幸の月は、持統三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)ですから在位中の行幸の多さには驚きますね。これで、天皇としての仕事ができたでしょうか。持統天皇は即位していなかったか(太上天皇と称されているが)、すべてを高市皇子にゆだねていたのかなど疑う人もいますが、高市皇子が政権の中枢にいたとしか考えられません。
天皇が旅行している間は政治を留守司がやっていたことになりますが、その立場にあったのは高市皇子でしょう。持統四年(690)に高市皇子は太政大臣になっていますが、天武帝は天皇親政をしていた(議政官の任命はない)のですから、天武帝存命中から高市皇子が行政のトップだったのでしょう。

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高市皇子が造営した藤原宮
高市皇子が行政のトップとして政治を行っていたところへ「天武十二(683)大津皇子、朝政を聴く」状況が入ってきました。藤原宮が耳成山の南の地に造営されたのは、大津皇子の政治参画によって候補地が変えられたためだそうです。都地を選んだのは大津皇子だったというのです。と云うことは、大津皇子(686没)が大きな存在だったと云うことです。高市皇子はどう思ったでしょうね。
確か、新益京(藤原宮)は「周易」で造られたのでしたね。条坊の真ん中に宮殿があるという京で、平城宮のように北に宮殿が置かれた都とは造営の思想が違っています。
都の中央に宮殿があり耳成山の南の平地に広がる都が…広大な条坊を持った瓦葺の宮殿を持った「新益あらましき」の都が、なぜ捨てられたのか、不思議でなりません。藤原宮は15年で捨てられているのです。
万葉集には藤原宮の「藤原宮御井の歌」など寿ぐ歌がありますが…
遷都の理由は何か、答は少ないでしょう。高市皇子が造った京だから破棄された、藤原宮とは別の思想で造られた都が欲しかった、ここが呪われた京だと思われた、この都を支えた氏族が離反した、謀反者・大津皇子が望んだ都地だったから破棄した、などなど考えられますが。
(藤原宮の瓦も見事です。九州の観世音寺と同じ瓦当文様です。元明天皇の時代になっても60年ほど完成されなかった観世音寺と同じです。この瓦は、この後全国に広がる瓦当文様のモデルとなったようです)。

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ここで思うのは、持統天皇と高市皇子の確執です。ほとんどの権力を掌握していたであろう高市皇子が太政大臣に留まり、称制していた持統天皇が持統四年に即位するという展開は、次の天皇の出現を待っていたためでした。その事は、高市皇子を苦しめなかったのでしょうか。頼りの女帝は留守で、天智朝の皇子皇女が大勢いる中での政治ですから、困難がなかったとは思えません。

大津皇子を死に至らしめたのは、持統天皇の草壁皇子に対する愛の結果だと噂されています。が、天武朝の他の謀反事件を見ても「謀反の判断を下したのは議政官」でした。藤原広嗣の乱も橘諸兄が謀反と判断、長屋王事件も密告を受けて動いたのは藤原氏でした。天皇に直接密告することはできません。間に議政官がいるのです。

ですから、大津皇子を断罪したのは、持統天皇というより高市皇子だったと考えたが自然です。

天武朝の期待の星・大津皇子を断罪(686年)しなければならなかったのが高市皇子だったとすると、その心中はいかばかりだったのか。
そして、高市皇子を苦しめたのは、これだけではありませんでした。高市皇子は壬申の乱の後遺症も残る新政権のトップだったのですから。
妃の御名部皇女は天智帝の皇女ですし、壬申の乱後に妃に迎えた十市皇女(大友皇子の妃だった)は、天武帝が斎宮に向かった後に自殺しています。異母姉・十市皇女の死に高市皇子は苦しみました。その時の歌が、万葉集の挽歌に残されています。さらに、天武帝の皇女で鎌足の娘の氷上娘の生んだ但馬皇女は、高市皇子を裏切り穂積皇子に走りました。これらのことは既に書いていますが。

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その後、十市皇女は祟り神になったと思います。過酷な皇女の人生とその結末を考えると、人々は畏れたことでしょう。ひそかに祟り神を慰めたり鎮めたり、守護神として頼りにしたり、南都・鏡神社の辺りに天満宮信仰(菅原道真の祟りを鎮める)の原型として、比賣塚信仰が潜伏していたのだと思います。

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以前に紹介した新薬師寺の門前の「比賣神社」は、鏡神社の摂社でした。
この南都・鏡神社は、806年に唐津の鏡神社(藤原広嗣を祀る)からの勧請です。

806年は桓武天皇の崩御年で、平城天皇の即位年です。平安京の平安の為に南都の新薬師寺の守護神として、強い祟り神を選んだのです。祟りが強ければ強いほど霊力が強力だったし、守護神として頼りになったのです。

比賣塚
にもそういう祟り神としての伝承があったので、鏡神社の宮司様が十市皇女を改めて祭られたのだと思います。
わたしがこの比賣塚を十市皇女と結びつけたのは、比賣塚の横に「神像石」があったからです。弘文天皇(大友皇子)の在りし日を顕彰し、四代にわたる御姿石を長く祀ったと書かれていたからです。隣り合い身を寄せ合う塚と石がある、それは何を意味するのでしょう。比賣塚は十市皇女以外に考えられません。
それは、祟り神となった悲しみの王妃を偲ぶ縁となっていたのです。


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# by tizudesiru | 2017-06-24 00:05 | 259王権と高市皇子の苦悩 | Trackback | Comments(0)

三輪山の周囲を根拠地とした氏族は?

三輪山の近くに、三世紀?ホケノ山古墳
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あの有名な三輪山の麓には大神神社

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大神神社の近くに箸中山墓古墳があり、何と卑弥呼の墓ではないかと巷では噂されています。では、三世紀に急に巨大古墳が出現したことになり、摩訶不思議な噂です。本気で言われているので驚きです。すると、突然この墓を造る人口増加と食料生産力が上昇したと云うことです。権力も財力も備わっていたということです。吉備系の特殊器台が墳丘墓の上から見つかっているそうですから、吉備との繋がりができていたのですね。特殊器台の型式から時期も特定されるはずですから…ここを三世紀の古墳としてしまうのには、すごい違和感があります。王権が奈良に芽生えた過程を、本当のところを教えてほしいと思います。
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箸墓から三輪山も見えます。
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甘南備のゆったりした三輪山の前にこんもりした森が見えますが、国津神社です。其の左奥に慶雲寺があります。慶雲寺に置かれた石棺は、阿蘇凝結凝灰岩で造られています。遠い九州から離れた土地に阿蘇石の石棺とは恐れ入りますね。誰がなぜわざわざ運んだのでしょうね。九州からの贈答品ですか? 石の材質は宇土石と呼ばれるもので、舟形石棺です。舟形石棺は、熊本の南の地域に多い石棺です。それにしても、自分に関係ない地方の石棺を使うなんて理解しにくいですね。ちなみに、ホケノ山古墳にも家形石棺が出土しています。それは、6世紀末になってホケノ山古墳を再利用した為とされ、本来のホケノ山古墳より後の時代の埋葬施設になるそうです。ホケノ山古墳は国津神社と慶雲寺の間にあります。
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地図で見ると、ホケ山古墳は大事な位置に在りますね。このホケ山古墳は箸墓より古いとされていますが、4世紀のはじめと考えられている土器を伴っていますし、副葬品も新しいようです。
慶雲寺の石棺はもともと何処にあったのか不明です。

(ホケノ山古墳)
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この古墳は帆立式の墳丘墓と呼ばれ、箸墓より古いタイプの古墳の形で築造は三世紀とされています
ここだけには画文帯神獣鏡だけでなく大量の鉄製品が出土しています。三世紀代とされる古墳で、鉄製品が大量に副葬されるのは、ホケ山古墳だけの特色だそうです… 最近は「画文帯神獣鏡」が卑弥呼の貰った鏡ではないかと、はたまた噂されています。発掘が進んだ結果、三角縁神獣鏡が大量に出過ぎたので、卑弥呼の鏡として画文帯神獣鏡説が新たに取りざたされ始めたのです。考えてみると、三角縁神獣鏡が古墳時代のステイタスシンボルであったのは間違いないでしょうね。みんなが欲しがったのですから。九州の弥生王たちが甕棺に副葬した銅鏡は、時を経て憧れのアイテムとなったのでしょうね。鉄の時代になってからの三角縁神獣鏡の流行なのですから。

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北部九州では「帆立式の前方後円墳」は、柄鏡形前方後円墳より新しくなります。副葬品からの判定です。方形周溝墓・円形周溝墓と時期も近く、山の尾根に地山を削り盛り土をして造られた前方後円墳が古いのです。平地に下りた古墳は前方部がバチ型に開きますし、その後「造り出し」部分が備わっていくようです。支配地の地域首長の功績を称える埴輪群や祭祀用具が置かれていきます。平地に下りた古墳の方が新しいのは、全国何処も共通すると思います。
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ホケノ山古墳の墳丘上から箸墓が見えます。中央の小山の森。
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もちろん、三輪山も見えます。
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かすんではいますが、耳成山も見えています。
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国津神社の森もすぐ近くに見えます。
さて、この土地を開き、三輪山の神祭りをし、ホケノ山墓を作り、箸墓を造った氏族は、どんな人たちだったのでしょう。ここには石塚古墳や纏向勝山古墳、纏向矢塚古墳、纏野内石塚古墳・東田大塚古墳・茅原大墓古墳など、そして景行天皇陵や崇神天皇陵と呼ばれる大型古墳も近いのです。大きな古墳を作るには大量の人手が必要ですから、辺りを掌握する権力と財力が必要です。大量の食糧生産と人口増加が必要なのです。それは開拓と人口流入の後でしょう。

奈良県天理市と桜井市には宇土半島の阿蘇溶結凝灰岩で造られた石棺が慶雲寺の他にも4基ほどあります。なぜ遠路はるばる石棺を運んだのでしょう。九州からの人間と文化の移入が在ったのでしょうね。

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# by tizudesiru | 2017-06-23 08:55 | 258ホケノ山古墳の周辺 | Trackback | Comments(0)

蘇我氏の本貫・寺と瓦釜と氏神

飛鳥寺の近くの窯跡と神社
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蘇我氏の宗家の寺は、飛鳥寺でした。この寺は官寺の役目を果たしたようで、公的な行事を寺の傍で行いました。ですから、蘇我入鹿はの首塚が飛鳥寺の裏に有ります。大化改新の事件後には、中大兄は飛鳥寺に籠りました。それを甘樫の丘から蘇我蝦夷は見たでしょう。吾子の悲惨な最後はすぐに伝わったはずですね。古人大兄は震撼しました。「韓人が鞍作を殺した。吾心痛し」と、自分の屋敷の門を閉ざしました。
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飛鳥寺の門前に道を挟んで小高い丘がありますが、そこは窯跡だそうです。ここで飛鳥寺の瓦を焼いたのです。古代寺には瓦窯跡が伴います。すぐ近くで必要なものを調達したのです。もちろん鍛冶も材木加工も寺の近くでしていました。釘も一緒に造ったのです。すると、木材も近くで調達したのでしょうね。
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そして、学問のすべてを併せ持つ仏教文化を取り入れて、最新の事業を展開していたのです。
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そして、飛鳥寺の西裏には甘樫の丘が横たわります。そこは蘇我氏本家の邸宅がありました。甘樫とは、『天のように畏し』だったのかも知れません。文字は変えられていますが、「天氏」のアマだった可能性はあります。樫は「アナかしこ」の「カシ」で、畏れ多いという意味です。つまり蘇我氏は「まるで大王のようにふるまった」のではなく、大王そのものだったのかも知れません。だからこそ、滅ぼされたと考えたが自然でしょう。最近、小山田古墳も蘇我氏の墓だった説が有力ですね。
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この甘樫の丘や飛鳥寺の一帯は、当時の権力を握っていた蘇我氏の本貫でした。その中に中臣氏の関係の土地も含まれています。と云うことは、両氏族は近い関係に在ったと云うことでしょうか。飛鳥坐神社は甘樫丘と向かい合っていますから、蘇我氏と中臣氏は同じ神社を祭祀していたのでしょうか。元は同族だった? かも知れません。相手の弱点を十分に承知した上で、乙巳の変は実行された。だから、成功したのでしょう。
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飛鳥坐神社と甘樫丘は一本の道で結ばれています。
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この道をまっすぐ進むと甘樫丘です。左に曲がると飛鳥寺です。
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ここには主要道路が交叉しています。
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近くには板蓋宮もありました。
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古代の権力に必要なものがここには揃っているようです。氏の寺、氏の山、氏の祭祀、氏の館、氏の権力の象徴である宮殿、そして、氏が支配する職人集団です。政治経済と文化を掌握しなければ、権力を集中することはできません。蘇我氏が持たなかったものは、軍事力かも知れません。蝦夷は自殺しましたが、兵は動かしませんでした。軍事力…次の権力者は滅びた蘇我氏からあらゆることを学んだのです……

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# by tizudesiru | 2017-06-19 00:29 | 257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社 | Trackback | Comments(0)

257平城天皇、侍臣に詔して万葉集を撰ばしむ

「昔、平城天子、侍臣に詔して『万葉集』を撰ばしむ」(古今集・真名序)
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平城天皇は万葉集を編集した

平城天皇(安殿親王)が万葉集を編纂したと古今集に書かれています。平城上皇の崩御は天長元年(824)ですから、824年までの間で万葉集に手が入れられたことになります。寛平五年(893)に菅原道真により『新撰万葉集(上巻)』が成り、万葉集は古歌で読めなくなってきたと「序」があります。平城天皇と道真は万葉集を理解し、読めるようにしたということです(道真が仕えたのは宇多天皇です)。
平城天皇は藤原氏の勢力争いも含んだ「薬子の変」を起こして、出家するという事態になってしまいました。おかげで皇子の安保親王は父に連座し14年間も九州大宰府に遣られました。父が在位の世であれば、皇太子として都に在り極位に登られていたかも知れません。それなのに九州への遠流のような状況となって、親王にとっては辛い日々だったでしょうか。
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福岡市の飯盛神社には安保親王の王子の在原清平の書状が残されています。『飯盛神社に伝えられていた諸行事を復活するように』と云う内容でした。飯盛山は古代の信仰の山ですから、そこには古代からの神祭りの行事が残されていたのです。しかし、伝統が廃れていたので復活するようにというのでした。安保親王にとって九州は不思議なところだったことでしょうから、そこで見聞きしたことに関心があったということですね。
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(不退寺)都に戻った安保親王は、平城宮の北に造営された平城天皇の陵墓の近くに隠棲されました。御子達は臣下に降下し「在原氏」となっていました。在原業平(弟)と在原清平(兄)の兄弟は親王と内親王の御子ですから「やんごとなき身分」の生れでしたが、臣籍降下の憂き目を見たのでした。在原業平は足しげく奈良の旧都の父の隠棲地に通いました。今、そこは不退寺となっています。
それにしても、自ら譲位した嵯峨天皇に挑んでまで、奈良の都への回帰を願った平城上皇の真意は何だったのでしょう。
それは、平城上皇が万葉集と他の資料からある事実に気が付いたからだと思うのです。「父の桓武天皇が言われたように、天皇位は天武帝の皇統から天智帝の皇統に戻ったのではない」と云うことです。もともと、持統天皇によって天智帝の皇統は守られていたと。だから、仏教の都である平城京を捨てるべきではない。むしろ見直して、奈良に戻るべきだと、主張されたのだと思います。
然し、嵯峨天皇は承知しなかった。呪詛でけがれた平城京に戻ることは断じて嫌だったのでしょう。藤原氏によって天武帝の皇統はことごとく悲惨な最後を遂げていたのですから。その怨念は平城京の周りに漂っていました。だから、国家守護の密教で空海の力を借りて平安京を守ろうとしたのだと、思います。

嵯峨天皇と平城天皇の争いは平安京と平城京の戦いでありましたが、平安京が勝利しました。そして、再び「万葉集は日陰の身」となりました。宇多天皇は藤原氏の力が一瞬陰った時にあらわれて、菅原道真に万葉集を預けたのでしょうか。
学識のある道真は歴史的視点で万葉集を見直したことでしょう。
彼が後期万葉集も手掛けていたら、どんな詩歌集が残されたことでしょうね、今日に。
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# by tizudesiru | 2017-06-16 17:42 | 256平城京と平安京 | Trackback | Comments(0)

256高野山に生きる空海の結界

高野山・国家の鎮守
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弘法大師空海が生きたまま入滅した廟へ向かう道は清々しい空気に満ちています。
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御大師様のお力にすがる人々は間断なくここを訪れていますが、10年前に比べるとすれ違う人の半数以上が外国人でした。「世界遺産」は怖いもので、宿坊も変わりました。なぜか修行僧も半減した感じでした。それはともかく、弘法大師を慕ってなのか様々な人がここに廟や供養塔を設営しています。
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中でも驚いたのが、外国人観光客を案内しているガイドさんが紹介している供養塔でした。何だと思いますか? ガイドさんが「ここには日本人らしい供養塔があります。これは、白アリの供養塔です」と説明している声が聞こえたので驚いて振り返りました。万物に命があるのだし、「一寸の虫にも」と云うし、白蟻を処分することを生業とする業者の思いが詰まった供養塔なのですが、外国の人に紹介される「日本らしさ」なのかと、改めて思いました。
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さて、空海は平安時代の超天才の留学僧で、予定の留学期間を短縮して帰って来たので、なかなか都に入れなかったという人です。嵯峨天皇の前で不思議な霊力を見せたと言われますし、数限りないエピソードが日本中に在りますね。
空海は嵯峨天皇に東寺を与えられ(西寺は最澄)、都に結界を張り東寺で都を守りました。皇居が焼失して現在地に移ると、下鴨神社と東寺が皇居をまもりました。下鴨神社と東寺をラインで結ぶと皇居を通りますよ。
嵯峨天皇が空海に都の守りを託したのは何故でしょう。嵯峨天皇は桓武天皇の御子で、平成天皇の弟です。父の桓武天皇は極位が天智帝の皇統に戻ったことを「易姓革命」だと思っていましたから、天武帝の皇統の都・平城京のように滅びの道を辿ることのないように、風水で王都を守ろうとしました。それは平安京を造営した桓武天皇の強い願いだったのです。
しかし、長子の平城天皇は奈良の都に深く心を寄せました。平城京に戻るようにと、譲位した後も主張し続けました。そして、自ら平城京に住んで嵯峨天皇と対立したのです。しかし、「薬子の変」で先に兵を動かした嵯峨天皇に敗れたのでした。嵯峨天皇が平安京の守りに力を注いだのも、そういった経過があったからでしょうか。
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明治になるまで宮中で正月に年頭の厄払いをしていたのですが、明治以降は東寺で行っています。中世、この結界を破ろうとしたのが足利氏でした。天龍寺と金閣寺を造営して結界を破ろうとしたのです。徳川氏は二条城で東寺と賀茂雷神社のラインを切りました。空海が都に張った結界を武士は破ろうとしたのですね、ラインで見ると。
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古代では見えない霊力を畏れたのですね。


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# by tizudesiru | 2017-06-15 23:38 | 256平城京と平安京 | Trackback | Comments(0)

255東大寺は聖武天皇の希望だった

東大寺の隣に興福寺がある
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興福寺の五重塔を見ると奈良公園に来たなあと思います。中学生だったころの修学旅行で感動したことを思い出します。この塔は見るたびに違った思いに誘います。家族で見た時は単なる観光地だったし、妹と見た時には藤原氏の権力が話題になったし、古代史研の人と来た時は素通りでした。正倉院展には通っても、五重塔は見なくなっていました。が、今改めて見ると異様な感じがします。それは光明皇后が建立した五重塔が、聖武天皇が建立した東金堂の隣にドーンとそびえているからです。まるで、東金堂を見下ろしているようにも見えるのです。東には塔と東金堂が並びますが。
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西には南円堂と西金堂。
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南に猿沢の池。興福寺は広いのです。東大寺の大仏殿は宝福寺の東隣なのですが、歩けば疲れますね。
東大寺の大仏の右足の下から2010年に国宝が見つかりました。聖武天皇の遺品の宝刀で、長い間行方知れずになっていた「陽剣と陰剣」です。(画像はNHKテレビ)明治時代に見つかっていたのですが、再調査でレントゲン写真を撮り文字が浮かび上がり、「国家珍宝帳」に記載された二振りの刀であると確認されました。大きなニュースになりましたね。
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わたしが気になっていたのは、なぜ東大寺正倉院に奉納されていた聖武天皇の一級の宝物が大仏の足元に置かれたのかと云うことです。大仏の体内ならばまだしも、右足の下とは。光明皇后が病気になり、その平癒を東大寺で祈願した時に納めたのではないかということですが、理由は謎のまま今日に至っています。
聖武天皇と光明皇后の微妙な行き違いがあったのではないかと思えてなりません。

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今年は国宝館が休館中だと云うことで、阿修羅像など(西金堂の仏)は特別展で展示されていました。「天平乾漆群像展」です。(西金堂は光明子の母、県犬養美千代の菩提を弔うために建てられました)この阿修羅像は脱活乾漆という技法で作られた像です。脱活乾漆は、布を漆で固めて形を作るのですが、最後に内側の骨組みや支えを抜いてしまうので大変軽いのです。興福寺では度重なる火災にもこの像を抱えて逃げられたから、今日に阿修羅などの八部衆が残ったと云うことでしょうか。この時代の仏像は様々な技法で作られていますね。薬師寺の金銅仏、新薬師寺は塑像(木の骨組みに藁を混ぜた粘土で形を作り、紙の繊維と雲母を混ぜた土で上塗りをしたもの)です。もちろん木に彫られた仏像もあります。その技術の多様さに驚きます。技術者たちは何処で学びどのように技術を伝えたのでしょう。
それらは平安京に伝わったのでしょうか。微妙です。

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# by tizudesiru | 2017-06-14 21:55 | 255 東大寺は興福寺と並ぶ | Trackback | Comments(0)

255新薬師寺門前に淡海三船が勧請した神像石

新薬師寺の門前に天智朝を偲ぶ神像石由来書
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淡海真人三船(あふみのまひとみふね)は天智朝の末裔でした。天智天皇→大友皇子→葛野王→池辺王→三船王(淡海真人の姓を下賜)、天平勝宝三年(751)に淡海真人三船となりました。天平勝宝八年に「朝廷を誹謗した」として、人臣の礼を欠く罪により大伴古慈斐(こじひ)とともに禁固刑を受けています。なかなか肝の座った学者だったのですね。大学頭兼文章博士を長く務め、最後は刑部卿大学頭因幡守でした。無位無官から数々の独断行動をとりながらも出世したのですから、相当に賢い人だったのでしょう。続日本紀には「卒伝に性識聡敏、群書を渉覧し筆礼を好んだと録す」と書かれています。

この淡海三船が「四代にわたる御姿石を勧請し」ているそうです。すると、天智天皇・大友皇子・葛野王・池辺王の姿石でしょうか。彼の姓からして「淡海」ですから、淡海朝(近江朝)を十分に意識した苗字に違いありません。何処からどのように勧請して、どのような経過でここに置かれたのか全く分からないのですが、興味の湧く状況です。

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御姿石の隣に比売神社(旧比売塚)がありました。ここに鎮座されたのは、昭和五十六年五月九日と云うことです。神社は新しいことが分かりますが、比売塚は昔からあったと云うことでしょうか。比売塚にはもともと伝承があったということですね。しかし、十市皇女とは……十市皇女は天武帝と額田王の間に生まれた天武帝の長女でした。大友皇子の妃になり、葛野(かどの)王を生んだ人でした。隣の御姿石と所縁の深い人で、天武七年(678)に宮中で突然死(自死ではないかと思われる)し、天武帝を号泣させた皇女で、敵将の高市皇子の妃になっていました。皇女として生まれ、壬申の乱で夫を失い、敵将の妻になって自殺したという、まことに悲運の女性です。
鏡神社はなぜ、ここに十市皇女の社を造ったのでしょう。
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鏡神社によると、大同元年に「新薬師寺の鎮守」として勧請されたとありますから、桓武天皇が病に倒れられていた年(806)で、平城天皇が即位された年になります。改元されていますから、平城天皇の即位後なのでしょう。春日大社の本殿の部材を用いて鏡神社の社殿を作るとは、この神社と藤原氏との結びつきは深いのですね。
藤原氏所縁の寺の前に御姿石や十市皇女を祀る神社があり、藤原氏がそれらを大事にするのは、天武朝に仕えながら「内心は天智朝のために暗躍していた」と云うことです。そのことは繰り返し書きましたが、天武朝で暴利をむさぼりながら下心は「天智朝の忠臣である」を貫いた藤原氏だった……
藤三女と自らを称する光明皇后も、聖武天皇の皇后でありながら「天智天皇から下賜された藤原氏の三女である」と主張したと云うことです。万葉集にも藤皇后と書かれています。

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さてもさても、神武天皇とか天智天皇、天武天皇、継体天皇、持統天皇などの漢風諡号を奏上した淡海三船ですが、よくよく考えての諡(おくりな)だったはずですね。天智天武に意味があり、継体持統にも深い意味があると言われています。
三船は藤原氏の何を理解していたのでしょう。六十四歳で生涯を閉じた三船は何を思って生きたのでしょうね。興味の湧く新薬師寺界隈でした。
また、後で。




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# by tizudesiru | 2017-06-14 00:03 | 254新薬師寺・光明子の下心 | Trackback | Comments(0)

光明皇后の愛と苦悩

新薬師寺は黙したまま光明皇后の苦悩を伝える
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新薬師寺は光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建てた寺院だと云われます。十二神将像で有名です。平安時代末に成立した「東大寺要録」には末寺である新薬師寺について書かれていて、『天平十九年(747)に光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った』とあるそうです。
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写真は新薬師寺のパンフレットです。中央の薬師座像を十二の神将が守っています。
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万葉集の巻八1658は、「藤皇后天皇に奉る御歌一首」です。
吾が背子と二人見ませば幾ばくかこのふる雪の嬉しくあらまし
愛しいわが背の君と二人でこの雪を見られたならば、寒く寂しい雪でさえどんなにか楽しく見ることができたでしょうに。
雪の日、聖武天皇は都におられなかったようです。都に残った皇后は寂しかったでしょう。阿倍内親王(718生)の後十年間も子供に恵まれず、かたや聖武天皇と犬養広刀自の間には安積親王・井上内親王・不破内親王と誕生したのに、光明子にはやっと授かった基王が立太子されながら一歳で死亡という不運に見舞われ、失意の日々を過ごしていたでしょう。長屋王の自刃(729)で臣下出身の皇后となっても、母県犬養美千代(733没)を亡くし、頼りにしていた兄たち藤原四兄弟を亡くし(737)、藤原広嗣の乱(740)では僧玄昉との仲を甥の広嗣に疑われ、この後聖武天皇は恭仁京・紫香楽宮・難波宮と住みかえながら平城京を離れました。
孤独と苦悩の日々、この時、光明子の手に有ったのは、権力と財力でした。
興福寺の五重塔は、一年足らず驚くべき速さで建立されました。
母美千代の菩提を弔うために「西金堂」を建立します。あの阿修羅を含む乾漆八部衆立像などが安置されたお堂です。

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新薬師寺と云い、五重塔と云い、西金堂と云い、莫大な富を持った人にしか造営できないものです。国家の富の6分の1を光明子が持っていたそうですが、そうなんですね…。
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本堂は本来のものではなく、広大な元の新薬師寺内のいずれかのお堂だったそうです。
新薬師寺の仏は素晴らしいまなざしで時代をみてきたのです。
守護神である宮毘羅(くびら)像に蝋燭を上げて祈り、家族の為にも祈った後は外に出ました。気になる物を見つけていたからです。以前にも幾度か来たのに気が付きませんでした。それは、南門のすぐそばに在りました。
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「神像石由来」に「弘文天皇の御曽孫淡海三船公は本邦最初の漢詩集「懐風藻」を編集せられ四面楚歌の中にありながら曽祖父なる弘文天皇(大友皇子)いませし日を顕彰せられ、孝養を讃え四代にわたる御姿石を勧請し永く斎き奉らん願うものなり」と書かれていました。この説明板は新薬師寺に隣接する「鏡神社宮司」様がお書きになったということです。これは、何時からの言い伝えでしょうね。
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この話は、また明日


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# by tizudesiru | 2017-06-13 00:08 | 254新薬師寺・光明子の下心 | Trackback | Comments(0)

橘諸兄左大臣の願い

玉津岡神社の御祭神は女神(下照比売)
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下照比売命(欽明天皇元年八月玉津岡の南に降臨され、聖武天皇天平三年九月井隄左大臣橘諸兄公が現在の地に遷座し今日に及ぶ。歌道女徳を養い家内の和合を守らせ給ふ御神なり)
摂社の祭神は次の通りです。 天兒屋根命(元 春日社)、少彦名命(元 田中社)、素盞鳴男命(元 八坂社)、味粗高彦根命(元 天神社)、明治十一年に四社をその時の八王子社殿(玉岡の社)に合祀し、翌年玉津岡神社と改称したと説明板がありました。
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本殿の千木は男性の神様の千木のようですね。ま、祭神の入れ替わりなどが在ったかも知れないから何とも言えませんね。明治になっても此処は残されたということはわかりました。
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参道の先には井出の玉川が見えています。いにしえの人はこの坂道を上って来たのでしょうね。諸兄は恭仁京を近くに建設しようとしました。
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(画像はNHKのテレビ)
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吉備真備が孝謙天皇を支え、橘左大臣が聖武天皇を支えました。藤原広嗣の乱後、聖武天皇は平城京に5年間戻りませんでした。左大臣として諸兄は天皇に仕え続けたのです。光明子はひとり平城宮に留まることもありました。夫婦にも大きな危機でもあったのですね。


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# by tizudesiru | 2017-06-11 21:29 | 253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ | Trackback | Comments(0)

橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ

橘諸兄左大臣、黄泉国に遊ぶ
井出の玉川は歌枕の地として有名ですが、橘諸兄左大臣の邸宅もありました。左大臣はこの地に山吹の花を植えました。なぜだと思いますか? 山吹は黄色で、あの世を意味するのです、黄泉を。
高市皇子の「十市皇女が薨去した時の歌」がありましたね。
158 やまぶきの立ちよそいたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく (山吹が咲き乱れているという黄泉の国の山清水を酌んで貴女に差し上げたいのだけど、そこへ行く道が分からない)
山吹が「黄泉の国」を意味していると、当時の教養人は誰もが知っていました。
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(井出の玉川)
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この地に屋敷を構えた橘諸兄は、聖武天皇の皇后・光明子の実兄でした。県犬養美千代が美努王との間に産んだ子どもです。県犬養三代は藤原不比等との間に光明子を生みました。聖武天皇の乳母でもあった美千代は、光明子と共に首皇子(聖武天皇)にも授乳したのです。首(おびと)皇子の母の藤原宮子は、心の病になっていましたから、吾子を抱くこともできませんでした。首皇子にとって県犬養美千代は本当に母替わりだったのです。
そんな美千代の子どもが葛城王(橘諸兄)と佐為王でしたから、藤原四兄弟が流行り病で没した後は自然に諸兄が権力の座に登りました。諸兄は、参議、大納言、右大臣、左大臣と出世していきました。参議の時、『橘』姓を承けています。孤独な聖武天皇は諸兄を信頼し、諸兄も聖武帝を守りました。
聖武帝に後継者問題が出てきたとき、諸兄は阿倍内親王(孝謙天皇)ではなく、長屋王の残された子ども「黄文王」がふさわしいと考えたようです。阿倍内親王に独身を強要するより、天武朝の弥栄の為に高市皇子の系統の黄文王がふさわしいと考えたのでしょう。黄文王は藤原不比等の娘が生んだ子供だったので、藤原氏にとっても、そう悪くない話だと思ったのでしょうが…
結果として、阿倍内親王が立太子されました。宴席での諸兄の愚痴が告げ口されますが、聖武天皇は笑って相手にされません。しかし、それを知った諸兄は己を恥じて左大臣を辞職しました。

井出の地で山吹を植え続けて、諸兄は黄泉の国を作りました。こんな父を見ていた息子の橘奈良麻呂です。彼が父の死後、謀反するなど考えられないことです。不満はあったでしょうが、父の姿を見ていたはずですから、孝謙天皇を守ろうとはしたでしょう…
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藤原広嗣の乱(740)の時、動揺した聖武天皇を諸兄は支えました。井手の玉川を取り込んだ恭仁京の建設もその一つだったのでしょう。頼りにしていた元正天皇崩御(748)の後も、しかし、諸兄は左大臣を辞任(756)しました。翌年(757)一月橘諸兄薨去。その七月、奈良麻呂謀反という思いもよらぬ展開になるのです
井出の玉川、ここが黄泉の国に遊んだ橘諸兄左大臣の住んだところだったからこそ、たくさんの文人、西行や芭蕉などを引き付けたのでしょう。彼らも黄泉の国を見たでしょう。今は、桜の名所ですが。
井出の玉川、清々しさと哀しさと、そんな思いが交錯するところです。


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では、橘諸兄が信仰した玉津岡神社に出かけてみましょうか。



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# by tizudesiru | 2017-06-10 21:30 | 253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ | Trackback | Comments(0)

瓦に込めた聖武天皇の思い

瓦に込めた聖武天皇の思い紀伊国分寺の瓦
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紀伊国分寺にはどんな瓦がふかれていたのでしょう。資料館に発掘された瓦を重ねて一部を復元(❓)していました。こんなに完璧な形で割れなかったものが沢山出土したのですね。大量に瓦が出土したということは、途中で他所に移動されなかったということです。更に、ここの瓦には、聖武帝の願いが込められているのですね。この地にあった法隆寺式(東西に塔と金堂が並ぶ)の寺院ではなく南北に伽藍を配置して国分寺を造ったのですから。さて、聖武帝の願いとは何だったのでしょう。母の藤原宮子とは生まれ落ちて36年間も会えず、信頼した忠義の長屋王と親しく交流していたのに謀反の罪で殺され、共に叔母の吉備内親王やその子たちを失い、その事で臣下が処断され、皇后(光明子)の生んだ皇太子は一歳で死亡し、夫人(犬養氏)の生んだ男子は毒殺され、外戚の藤原氏は富を集め続けた…そんな時代を生きた聖武天皇。仏教に救いを求めたのは無理からぬことと思います。全国に展開した国分寺は、聖武天皇の苦悩を象徴するものだと思うのです。地方にどんな大寺院が展開していても、国分寺が最優先されて配置されたのでした。国分寺は一面では、時代の暗闇を照らし出しているのでしょう。
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葺かれた瓦の文様は、奈良時代のもののようですね。そうすると、紀伊国分寺は、西国分廃寺より新しいことになります。国分尼寺だとされた西国分事の方が瓦が古いからです。
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瓦の生産された時期を説明して欲しかったのですが、資料館には学芸員さんが常駐されていないので、詳しいことは聞けませんでした。が、和歌山県那賀(長)群打田(うちた)町東国分の「打田町歴史民俗資料館」の方は親切に対応してくださいました。写真もOKでした。資料はそこで購入したパンフレットです。
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この軒廊(こんろう)の柱穴は■ですね。四角い柱穴は、7世紀8世紀のものですね、たしかに。…ついつい纏向遺跡の卑弥呼の宮殿といわれる遺構の柱穴を思い出してしまいました。あれも四角の柱穴で、3世紀には見られない柱穴らしいですね。ふうむ、そうするとどこかに無理があるのでしょう。当初の見込み通りに「柿本人麻呂の屋敷跡」としたが無難ではないでしょうか。部外者としても気になります。あんまり誇張は宜しくないと思うので、ほんとのことを市民に教えてほしいと切に思います。


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# by tizudesiru | 2017-06-07 11:46 | 252瓦に込めた聖武帝の願い | Trackback | Comments(3)

紀伊国国分寺

紀伊国分寺跡
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紀伊国分寺跡に行きました。奥に見えるのは講堂です。
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講堂は江戸時代に建てられたもので、本来の講堂のより小さくなっていますが、現代に伝わる仏堂なので文化財として修復されたものです。元の国分寺の礎石が残っているので小さくなったのが分かります。
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下は塔跡です。
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塔跡には瓦積基壇が残されていました。
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金堂跡です。
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講堂の裏には僧房跡がありました。ここは礎石はなく掘立柱の建物でした。
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紀伊国には国分寺が二つあります。そこにも行ってみましょう。
紀伊国の国分寺は二つあるそうです、僧寺と尼寺でしょうか。
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西国分塔跡です。
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もともとあった寺院を国分尼寺として使ったと書かれています。立派な塔礎石ですからさぞや大きな塔が立っていたことでしょうね。塔礎石も紀伊国分寺とは違います。こちらの方が古いようです。更に、この寺跡は法隆寺式の伽藍配置ですし、7世紀中ごろの創建と考えられています。国分寺は奈良時代・8世紀で、興福寺式軒瓦を用いて建立されていますからね。この寺を国分寺とはせずに、尼寺として使ったというのですが…
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後で、国分寺の瓦も見ましょうね。


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# by tizudesiru | 2017-06-05 17:22 | 252瓦に込めた聖武帝の願い | Trackback | Comments(0)

久邇京跡の瓦

久邇京と山城国分寺跡の瓦
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山城国分寺の瓦と恭仁京の瓦です。展示されている資料は撮影可能です。
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講堂と金堂に葺かれた瓦です。
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寺院の建立には瓦がひつようですから、近くに瓦窯が作られました。他に、他の建造物の瓦を再利用することもあります。下の瓦は平城宮から運ばれたようです。
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平瓦にはその瓦を提供した氏族の名前が刻まれています。
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こんなに力を入れた久邇京でしたが、聖武天皇は平城宮に戻られたのでした。
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木津川は、今も静かに流れています。
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では、また。

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# by tizudesiru | 2017-06-01 21:15 | 251恭仁京・一瞬の夢 | Trackback | Comments(0)

久邇京の夢さめて

久邇京の夢さめて1200年
恭仁京を訪ねた時、間抜けなことがありました。集落に入り込んだので、長く住んでおられたように見えるご老人に道を尋ねたのですが、「恭仁京ねえ、そうですねえ…此処もそうですけどねえ。…小学校の辺りが中心なんですが…恭仁京と云っても、広いからねえ。何処かと聞かれても…」10分ほどたっても、何処に向かえばいいのか結論が出なかったので「ありがとうございました」と失礼して、気の向くまま田圃道に進みました。思い返すと、恭仁京のど真ん中で「恭仁京は何処ですか?」と、間抜けな質問をしたのでした。
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南にむかって緩やかに傾斜した土地で、下って行けば木津川に届きます。この辺りはすべて恭仁京の中であり、桜の辺りが小学校で古の大極殿跡です。
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ここは、恭仁京大極殿跡であり、山城国分寺跡でもありました。
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橘諸兄の命を受けて恭仁京造営に励んだ大伴家持も、この辺りを歩いたのです。木津川の水運に恵まれたここに新しい都ができるはずでした。しかし、恭仁京造営は中止になり、後に山城国の国分寺となりました。
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国分寺の塔跡です。
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次に、「くにのみや学習館」を訪ねましょう。
芸員の方がとても親切に説明してくださいました。



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# by tizudesiru | 2017-05-31 14:46 | 251恭仁京・一瞬の夢 | Trackback | Comments(0)

静かなる高麗寺跡

静かなる高麗寺跡
木津川のほとりに高麗寺跡があります。木津川という名前は木材を運ぶため川という意味で、昔はその為の「津」がある川だったのですね。木津川が大きくカーブし北上するその円弧の南辺に高麗寺は造営されたようです。
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発掘が終わったのか、公園にするための工事が始まっていました。
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上の写真は塔の心礎です。大石の側面に穴が穿たれています。この穴に舎利などを入れたのです。塔の基壇は整地面から直接瓦を平積みした「瓦積基壇」(43尺正方形)です。周りには石敷きの犬走が設けられていました。金堂も整地面から直接瓦を平積みにした「瓦積基壇」(54尺×45尺)だったそうです。
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我が国最古の寺院の一つと書かれる所以は、創建飛鳥寺の屋根瓦とされる丸瓦「花組」の同范品が出土しているからです。ですから、7世紀初頭には創建されたというのですが、発掘調査ではその時期の明確な遺構は確認されていません。
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上の二枚の写真は、飛鳥寺の瓦の展示品です。
飛鳥寺の「花組」と呼ばれる丸瓦は、百済系と云われます。飛鳥寺に韓国から贈られた丸瓦が展示されていました。「素弁八弁蓮華文軒丸瓦」と書かれています。「単弁八弁蓮華文軒丸瓦」と名称は違いますが、同じものを云うそうです。飛鳥寺のものは十弁と書かれていますが、花弁が10枚、9枚、11枚のものもあります。下の写真のように、花弁の先に珠文があるものも飛鳥寺の創建瓦とされています。(下の写真)
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さて、高麗寺に戻ります。恵便(高句麗の還俗僧・蘇我馬子の仏教の師)、恵慈(聖徳太子の仏教の師)は高句麗の人でした。
高麗寺の伽藍は、塔(東)と金堂(西)が東西に並び、講堂が北に位置し回廊が取り付くという観世音寺式の配置になっています。明日香の川原寺も塔と金堂が東西に並んでいました。高麗寺は、川原寺式伽藍配置→「法起寺式伽藍配置」への移行期の寺院とされるのです。下は川原寺の伽藍図と川原寺跡。
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高麗寺跡からは、明日香の川原寺(天智天皇の発願で建立)金堂の創建瓦の同范品が出土しています。ですから、大津遷都(667年)の前に高麗寺の伽藍の整備が行われたというのです。順番は、金堂→塔→講堂→中門・南門ということです。
また、南門は小ぶりな八脚門だったようですが、屋根には不釣り合いな大型3尺の鴟尾(しび)が据えられていたということです。どうしてでしょうね。どこかの余りものか、払い下げでしょうか。
創建高麗寺には百済系と云われる飛鳥寺の同范瓦が使われ、その後の整備時には川原寺の金堂の同范品が用いられたというのです。
また、蟹満寺造営のために新調された瓦范が、高麗寺の中門や南門に用いられたそうです。なぜにこうもバラバラなのでしょう。築造に何年もの年月がかかったので仕入れ先が途中で変わったのでしょうか。請負業者が途中で変わったのでしょか。

それも、飛鳥寺や川原寺との関係が深いとは…、ここにどういう解釈が成り立つのでしょう。高麗寺が渡来系の狛氏の氏寺としたら、彼らは何によって蘇我氏や大王家と結びついたのでしょうね。
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高麗寺にはまだ訪れる人もありませんでしたが、公園が整えば人の目にも触れるようになるでしょうね。それまで、今まで通り高麗寺は静かに木津川を見ていることでしょう。


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# by tizudesiru | 2017-05-27 15:52 | 250静かなる高麗寺跡 | Trackback | Comments(2)

高松塚古墳の被葬者は高市皇子

再度、高松塚古墳の被葬者
NHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で、高松塚の被葬者について追及していました。石棺・壁画とその陵墓の位置を分析しながら。面白く拝見しました。最後まで視聴者を引っ張って面白かったのですが、最後に疑問が残りました。被葬者が高市皇子ではなく刑部(忍壁)皇子となったからです。わたしは被葬者は高市皇子だと思っています。彼こそ新益京(藤原京)を造営した人だからです。最高権力者としてその大極殿と朱雀大路の南の直線上に眠るべくして永眠したと思うからです。
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画像はNHKテレビをデジカメで撮りました。
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藤原宮(新益京)は耳成山の南に作られた最初の条坊を持つ都とされ、藤原宮は初めて瓦が葺かれた宮殿とされています。その藤原宮の大極殿の南に野口王墓(持統・天武陵)があり、その南に中尾山古墳と高松塚古墳があることは、今までに繰り返しお知らせしてきました。
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高松塚古墳は石室(石槨)の壁に人物像や四神の玄武と青龍がえがかれ、被葬者が権力者であることは間違いありません。
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更に、さしかけられた笠が深緑であることから、被葬者が一位であることが分かりました。やはり最高権力者です。そこで,被葬者の候補が忍壁(刑部)皇子と高市皇子にしぼられたのです。また、「海獣葡萄鏡」が副葬されていたことから、遣唐使が持ち帰った鏡ではないかということで、705年没の刑部皇子と決まったという展開でした。
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それでは、四神が描かれたキトラ古墳が高市皇子の陵墓というのでしょうか。しかし、キトラ古墳は藤原宮より伸びたラインからずれています。大極殿を通るラインのみが、中尾山古墳と高松塚古墳を通るのです
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天智陵から南下したピンクのラインに乗るのは、菖蒲池古墳・天武持統合葬墓です。藤原宮から熊野大社に引いたラインにはキトラは乗るかもしれませんが、他の陵墓はラインからずれます。
耳成山から南下した緑ラインには、中尾山古墳と高松塚古墳が乗ります。赤いラインを藤原宮から高松塚古墳までひきました。すると、ラインは大極殿から朝堂院南門を通りました。高松塚古墳は正確に測量して作られたということがわかるのです。

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ここまで藤原宮にこだわった被葬者です。高市皇子以外に考えられないのです。それに、被葬者は頭蓋骨がなく抜き取られた可能性がある(首を斬られたのではない。下あごの骨はのこっていたので40歳~60歳の男性の骨とわかった)、大刀の刀身が抜かれ、玄武の顔が削られていたと、調査報告がありました。そんな仕打ちを受けた可能性のある一位の人物は、高市皇子以外に考えられません。長屋王事件の後、謀反の罪が埋葬されていた父親の高市皇子まで及んだとも考えられるし、軽皇子(文武天皇)の立太子に対して何らかの咎を受けたかも知れません。軽皇子は高市皇子薨去後半年で立太子、その後半年で即位してるのですから。
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ヒストリアで最後にラインを熊野大社に持っていくという不思議な画面の挿入がありました。藤原宮と熊野大社を結びつけるなんて、何か意図があったのでしょうか。平安時代から確かに熊野は聖地となり、あまたの皇族貴族が詣でました。テレビでは意味が分からないまま終わったのですが、わたしは日頃から三本の棒があれば測量し直線を引けると言っているので、ラストの熊野ラインはちょっとおもしろかったです。しかし、正確に言うと、藤原ぐうから熊野まで直線を引くと、天武持統陵や高松塚はラインに乗りません。大雑把なことでいいなら別ですが…
古代は建築や墳丘造営や旅行や意味づけをする時、方角を大事にしました。命や運勢に関係すると思っていたからです。ですから、いい加減な測量はしなかったと思います。
だからこそ、高松塚古墳の位置は大事で、なぜその地が選ばれたか考えなければならないと思います。


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# by tizudesiru | 2017-05-22 21:32 | 249再び高松塚古墳の被葬者 | Trackback | Comments(0)

続々・岩戸山古墳と八女丘陵

続々・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山歴史資料館から東に向かって八女丘陵の古墳を訪ねました。これまで、乗場古墳・善蔵塚古墳・茶臼塚古墳・鶴見山古墳・釘崎2号墳・立山山古墳をみました。更に東に向かいます。やがて見えてくるのが丸山古墳です。
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未調査だということですが、墳丘には円筒埴輪の破片が落ちています。
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この破片について質問がありました。「持って帰ったのか?」ということです。残念ながらお墓の祭祀用土器ですから、怖くて持って帰れません。欲しくもありませんから。でも、丸山古墳を円筒埴輪が取り囲んでいた証拠ですよね。それに、以前から遺跡の上に置かれていたと思います、誰もが持ち帰りを敬遠したのでしょうね。
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丸山古墳を過ぎると、古墳群の東端の童男山古墳群です。ここまでくると、これまでの古墳とは異なる様式の墓だと感じます。
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上の写真は童男山11号墳の馬具です。この古墳群は円墳に巨石の横穴式石室を持つのです。この石屋形を持つ墳丘墓こそ磐井の乱後の古墳の様式ではないでしょうか。つまり、童男山古墳の氏族は、侵入者か次の権力者なのでしょう。まず、一号墳。
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1号墳と同じ斜面にあるのが、2号墳と3号墳です。
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この辺り一帯が古墳群ですが、いずれも巨石で石室が組まれています
八女丘陵には他にも様々な古墳群があります。
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資料館では「八女丘陵の首長墓の系列」を上の図のようにまとめられていました。首長の墓はどんどん東に築かれていったということでしょうか。こうしてみると石人石馬という石製品は、九州の特色というより磐井一族の限られた人々が使用したものと云えるのではないでしょうか。八女丘陵の古墳には埴輪も多く使用されていますから。石人山古墳などの古墳は、当然磐井の一族だということになりますね。
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立山山8号墳の形象埴輪には、どんな意味があり氏族のどんな主張があるのでしょうね。石ではなく埴にこだわり固執したのですから。彼らが磐井を裏切ったのかも知れませんし、または、古来の伝統を守り磐井亡き後の北部九州を守ろうとしたのかも知れません。八女丘陵の墓の変遷が、わたしたちに歴史上の何かを知らせているのです。
では、ひとまずこれにて。

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# by tizudesiru | 2017-05-21 10:57 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Trackback | Comments(2)

続・岩戸山古墳と八女丘陵

続・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山古墳資料館から八女丘陵を歩いてみましょう。まず乗場古墳、善蔵塚古墳、茶臼塚古墳と見ました。次は、数年前に発掘された石人で有名な鶴見山古墳(前方後円墳)です。その石人は博物館に展示されています。発見された時は、たくさんの石の下敷きになっていて、発掘している方は下から何が出て来るのかドキドキしながら石を除いていったそうです。出土品は、円筒・朝顔形・形象埴輪、須恵器、馬具、銅鏡破片、石製品などがあります。特に、玄室内から出土した銅鏡破片には、表面にヒメクロバエの蛹と毛髪痕が残っていました。それが殯(もがリ)が行われた根拠となったのです。ヒメクロバエは日光の下でしか成長しないからです。

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鶴見山古墳は岩戸山古墳の後の築造とされ、筑紫君葛子の墓ではないかと言われています。

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鶴見山古墳から更に東に進むと、下り坂の途中の釘崎2号墳に当たります。近くには1号墳がみえています。ここは前方後円墳4基を中心にした12基の古墳群です。
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釘崎2号墳から更に下り、集落の中に入ると目の前に石垣が現れ、立山山20号墳にぶつかります。
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あの有名な金製耳飾を出土した立山山8号墳ではありません。これは、立山山20墳です。立山山地区にも多くの古墳がありましたが、8号墳など既に壊されて今はありません。8号墳の副葬品は次の通りです。装飾品の他に馬具などがあります。
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立山山13号墳からは須恵器の祭祀土器がたくさん出土したのですね。
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こうして、古墳を見ると不思議な気分になります。どの古墳も労力と時間と財力を使っているからです。
日本列島の6世紀とは、いったいどんな時代だったのでしょうね。こんなに葬送儀礼に財力を投じるなんて。どの古墳も馬具や武具でいっぱいです。そして、須恵器も溢れています。豪族を支えた経済力は何によって生み出されたのでしょう。更に、墓造りという技術を持った庶民の生活はどうだったのでしょうね。
明日も八女丘陵を歩きます。



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# by tizudesiru | 2017-05-21 00:51 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Trackback | Comments(0)

岩戸山古墳と八女丘陵

岩戸山古墳と八女丘陵
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江戸時代までは、石人山古墳が筑紫君磐井の墓だとされていました。岩戸山が磐井の墓とされるようになったのは、この百年余のことなのです。岩戸山にはたくさんのラインが引かれます。既に紹介してると思いますが。直線の先にあるのは、有名古墳の墳丘や地域の信仰の対象になった山の山頂です。宝満山・脊振山・高祖山・九千部・阿蘇山・普賢岳、数か所の神籠石、江田船山古墳などの首長墓です。それはさておき、今回は八女丘陵の古墳群の紹介です。
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岩戸山古墳の東300メートル、博物館のすぐ近くにあるのが乗場古墳です。前方後円墳ですが、昭和30年代に周溝は削られて、今はありません
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副葬品は、玉・馬具・土器などは東京国博にあるのですが、人物埴輪・環頭大刀(福島高校に)など、岩戸山歴史博物館に展示されていました。
さて、磐井の乱後は大きい前方後円墳は作られなくなり、装飾のある円墳に代わるそうですから、横穴式石室に装飾を持つ乗場古墳(前方後円墳)は、磐井の一族ではないということでしょうか。または、一族の中の別の家系だったのかも知れませんね。同じく磐井の乱後に築造されたという装飾を持つ弘化谷古墳は、大円墳で石屋形があります。別の氏族の墓なのでしょうね。
更に、岩戸山古墳(磐井の墓)の石製の大刀には勾金(まがりかね)がついています。大刀の束を飾るものですが、環頭大刀は大刀の頭に輪がついているものです。このような飾大刀は、勾金のついた大刀より古い大刀のように思われますが、どうなのでしょう。岩戸山古墳より新しいということですから
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乗場古墳を過ぎ、福島高校の前を通り抜け丘陵の尾根を下ると、途中に善蔵塚古墳(前方後円墳)があります。
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そのまま丘陵を下りて行くと、茶臼塚古墳(円墳)が見えてきます。道からがけ下を覗くと、ため池と丸山古墳があります。
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丸山古墳の祭祀土器です。
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崖下に下りずに進むと、目の前に茶臼塚古墳が見えてきます。
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八女丘陵は歩けば様々な古墳に出会います。
また明日。




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# by tizudesiru | 2017-05-19 21:48 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社の古墳・うきはの春

賀茂神社の古墳浮羽の春
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水のきれいな此の地に京都の下鴨神社から祭神を勧請したとか…この神社を守る氏子の代表という方のお屋敷を訪ねるというので、四月の日曜日にわたしも出かけました。賀茂神社は以前にお参りした神社でしたので、今回は拝殿など写真を撮るのを忘れました。
この境内に古墳があるのですが、それは知りませんでした。筑後の耳納山の北と南は古墳群が集中しています。南は家形石棺とか巨石横穴の古墳群が多いようですし、北は日ノ岡古墳とか装飾古墳が多いようです。築造時期もややズレるので、別の氏族がそれぞれに栄えたということです。
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この古墳は形を見ると円墳でしょうか。墳丘が南に延びているのを見ると前方後円墳かも知れません。過去に発掘調査があったようで、記念碑が建てられていました。
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石室内の全面には朱が塗られ、頭がい骨と直刀が出たと書かれています。
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賀茂神社から歩いて河北家に向かいました。
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河北家は河北倫明の生家ということで、記念館がありました。下は河北家の倉を使用する時の入口でしょうか。
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広いお庭のある河北邸は文化財の指定を受けていました。河北家には自家の山北神社があり、この地に移入してきた先祖を祀っておられました。神社を「山北神社」と呼ぶのにも歴史があって、ご当主にお話を聞くことができました。楠森河北家は、浮羽の地に800年間27代続く旧家なのです。壁結(かべゆい)や台所に巨大な海老の注連縄など、 中世を偲ばせる民族的にも貴重な祭事が今でも多く残っています。楠森(くすもり)は河北家の古くからの屋号です。
鎌倉時代の初めに大分の日田に、室町時代の初めに山北小柳館に居を構え、天正年間に現在の楠森に住みつかれ、武家から庄屋として生業を変えて家を守られたということです。山北神社は山北小柳館に由来する社だということです。
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山北神社の敷地内にハルリンドウが咲いていました。九州の日の当たる山地に見られる花ですが、宿根ではなく毎年種で命をつなぐので、一度絶えると次の年から咲きません。ここが昔から守られたことを示す春の花でしょうね。
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どちらも河北家の家紋です。
先の大戦後の「農地改革」で農地のほとんどが無くなったうえに社会の変化により、先代まで残されてきた地域の行事などが消えて行く中、ご当主は農業を続けながらなんとか楠森河北家を守って来られたのです。大変だということでした。近くには河北家がお世話する神社が何か所もありました。屋敷裏の神社もその中の一つだそうで、三次神社と云いました。
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以前、知り合いから貰ったお茶があって、「茶ノ木はほとんど挿し木で増やすから主根が浅いけれど、このお茶樹は原木だから根が岩盤まで達していて、深い所のミネラルを吸い上げているから美味しい」という話がついていました。煎茶と番茶でしたが、たまたま河北家がお茶を生産されているということだったので、買わせていただきました。すると、わたしがいただいたお茶と同じでした。廻りあわせで生産者にお会いしたということです。が、唐突なので「以前からいただいています」とは伝えませんでした。お伝えすればよかったです。味わい深いお茶ですから、様々な方にお勧めしたいと思いました。道の駅でも買えるそうです。
福岡県浮羽郡浮羽町大字山北の河北氏に感謝いたします。お邪魔いたしました。



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# by tizudesiru | 2017-05-17 14:15 | 248賀茂神社の古墳と浮羽の春 | Trackback | Comments(0)


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166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂は知っていた!
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?

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