207 唐津で不思議な話

207 唐津の神社見学の帰りにご一緒した婦人に不思議な話を聞きました。
田島神社を見ての帰りでした。
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西九州自動車道で糸島を通過する時、その人は「糸島市の高祖神社に参拝したのは、夢の中で指示されたからだった」というのです。高祖のバス停の文字が浮かんできて、高祖と書いて「たかす」と読むことも夢で教えられたとか…へえ、それはスゴイと思いました。
「たかそ神社」とキーボードには打ち込みますが、土地の人は「たかす」と呼びます。
高祖神社に参拝することで様々な出会いがあり、家族の難病が治ったとか。自分の先祖に関わる神社や寺との交わりとか、驚くばかりでした。
最後に、鏡山(唐津)の話になって、「藤原広嗣が反乱に失敗して、五島に逃げたけれど風に押し戻されて、唐津で斬られたんですよね。鏡神社は広嗣を祀っているんです。」と私が言うと、その人は「え、広嗣を御存知ですか?」と驚かれました。
「私は広嗣のことは何も知りませんでした。実在の人物だと知って驚いたのです。そろそろ首と体を合わせる時が来た」と夢で指示があったというのです。
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奥の水平線は唐津湾、台形の島は神集(かしわ)島、右の奥の緑が鏡山。山頂に鏡神社があります。藤原広嗣は唐津の海岸で斬られたというのですが、更に、その人は言いました。
「そろそろ首と体を合わせる時が来たという指示があったので、唐津の宏嗣を祀る神社の宮司さんに話して理解してもらい、体と首を合わせるために五島に行った」そうです。
首は五島にあるというのです。
五島に向かっている時、友人から電話があり「頭が痛くてたまらないが、どうしたらいいか」と聞かれたので、「今、五島に向かっているが、首と体が合ったら頭の痛みはとれると思うから、治ったら電話ください」と応えたそうです。
それから、五島の神社の宮司さんに祀りをしてもらって、やがて頭の痛かった友人から電話があって「治った」ということだったそうです。不思議な話でした。
広嗣と言えば、首が都に飛んで行ったとか、玄昉が広嗣の祟りで死亡したとか、怪しげな話の主役です。その首が五島にある?
その人の話は確かに不思議ですが、実際に五島にまで行って神主に神事をしてもらっているんですから、思い込みでは無いようです。
確かに、広嗣は刑死していますが、斬られたのは唐津なのに首は五島とはどういう意味でしょうね。続日本紀の広嗣の乱の記述は、なんだか変です。朝廷の命令の前に広嗣は斬られているようですし、藤原氏族内の権力争いに広嗣は巻き込まれたのかも知れませんね。
「その話、ブログに載せてもいいですか?」と聞いたら「いいですよ」と答えられたので、こうしてあらましを書きました。
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不思議な話もあるものですね。


また、明日。



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# by tizudesiru | 2017-02-01 20:59 | 206古墳散歩・唐津湾 | Comments(0)

206松浦川のほとりを歩く

206唐津で黒曜石と桜貝を拾う
唐津に行くと、必ず松浦川のほとりを歩いていました。そして、虹の松原のレストランで食事をする…松の香りが素晴らしい松原ですよ。
今は護岸工事をやってしまってるので、なかなか拾えませんが、十数年も前には、松浦川の岸辺で黒曜石の欠片をいろいろ拾えました。スクレイパーも、石鏃も落ちていました。土手が雨にあらわれて、ガラスのようにぽつぽつ地表に落ちていたのです。
海岸では紅色の蝶貝と、薄いピンクの忘れ貝を拾いましたね。今も小瓶に詰めていますが…
さて、松浦川のほとりに三世紀後半の古墳があります。最近は、四世紀初めと書き換えてありますが。確かに、四世紀初めとされる一貴山銚子塚(糸島市)より古いタイプの前方後円墳です。だから、三世紀後半でも構わないと思うのですが。
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何度も紹介していますが、久里双水古墳のど真ん中を通る主軸線が真っ直ぐ延びると、浮嶽に届き一貴山銚子塚に届き、志賀島と向き合う毘沙門山に届きます。
二〇〇七年に取った久里双水古墳の墳頂から浮嶽を取った写真です。古墳の主軸線がまっすぐ浮嶽に延びていたので驚きました。

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ここには、後漢の盤龍鏡が副葬されていました。
この古墳は、全長108m(後円部62m)の地山を削り出した上に盛り土をしています。竪穴式の石槨に舟形木棺があった可能性があるそうです。
周りには縄文時代からの遺跡や、弥生王墓と思われる遺跡があり、唐津の菜畑遺跡には早期の水田跡が発見されています。
糸島地方の一貴山銚子塚(いきさんちょうしつか)古墳には、後漢鏡と金メッキの後漢鏡と足元に三角縁神獣鏡・鉄製素環頭大刀(3)、直刀(3)、短刀(1)、剣形槍身(14)硬玉製勾玉(2)碧玉製管玉(33)が副葬されていましたから、久里双水古墳よりは新しいでしょうね。一貴山銚子塚古墳は103mの柄鏡形の前方後円墳です。一貴山は未盗掘の古墳でしたから、竪穴式石室の中にどのような副葬品がどのように置かれたかを知る手がかりとなりました。

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その浮嶽から志賀島の志賀海神社にオレンジのラインがつながっています。このラインには、一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳が乗っています。このラインは、釜塚古墳のど真ん中を通って行きます。そして、延喜式内社の9志賀海神社に当たります。
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一貴山はラインが集まる最重要古墳ですが。
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今日は一貴山には行きませんでした。
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参拝したのは、湊疫神社です。
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神集島(かしわじま)に渡る港にある神社です。
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肥前鳥居がありました。
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次に田島神社に行きました。宗像三女神と大山祇と稚武王を祀ります。
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神社の裏には磐座があります。
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この田島神社が宗像市の田島にある宗像大社の元宮だという話も聞きました。
なかなかおもしろいですね。
神の集まる神集島も、そこにわたる港もある。
なるほどですね。



今日は、少し息抜きでした。
また明日





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# by tizudesiru | 2017-01-29 21:07 | 206古墳散歩・唐津湾 | Comments(0)

205藤原宮の御井を寿ぐ歌

205広い敷地で繰り広げられたまつりごと
藤原宮跡に行きました。朝堂院東門の柱の奥に耳成山が見えます。わずかに見える林は大極殿です。車両があるのは、整備しているのです。
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この宮殿の造営に尽力したのは高市皇子です。
天武天皇と宗像徳善の娘・尼子娘の間に生まれた第一子です。
壬申の乱(672)後、天武天皇は皇親政治を望みましたから、高市皇子は大活躍でした。
持統帝の時代には高市皇子は太政大臣にまで上り詰めています。
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遠くに西門が見えます。
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こちらは東門です。
右を向いても左を見ても、ただ広い空き地です。
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北の耳成山。そして、南に南門が見えます。
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一番広くて便利な場所に藤原宮を造ったということでしょうね。
万葉集に「藤原宮御井歌」が掲載されています。作者はわかりません。

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この歌に詠まれている「日の経(たて)」は「東」ですが、本来「日の経」は東西として使われています。「日の緯(よこ)」は南北のことですが、ここでは「西」として使われています。
藤原の宮は、東西南北守られている。東は香久山、西は畝傍、南は吉野、北は耳成山。そこに湧く真清水は永遠にあるだろうと、歌い上げているのです。







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# by tizudesiru | 2017-01-28 00:12 | 205藤原宮の御井の歌 | Comments(0)

204吉備真備の挫折と王朝の交替

204吉備真備の挫折と王朝の交替
真備の目の前で王朝交代劇がありました。真備はそれをどう見たのでしょう

波乱万丈の81年の生涯を送ったのは、吉備真備(695~776)です。

優秀な人材であり、孝謙天皇の教育係でしたが、これまでも紹介したように不遇でした。

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藤原氏によって九州に遣わされて、怡土城を築いたのは天平勝宝八年(756)で、真備は六十歳を超えていました。

天平宝字八年(764)、久しぶりに造東大寺長官として都に戻りました。

この年に、恵美押勝の乱が起こります。

孝謙上皇は真備を頼り、従三位を授け中衛大将として追討軍を指揮させました。

その後、真備は参議・中納言・大納言・右大臣と昇進したのです。

しかし、称徳天皇(孝謙上皇)崩御後、藤原氏の陰謀により白壁王が立太子されました。

真備は長屋王の血統(天武天皇系)の皇太子を立てることができませんでした。

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白壁王の妃が、聖武天皇の第一子である井上内親王でした。

伊勢斎王・酒浸り皇族の妻から皇后、廃后、幽閉の末に毒殺

井上(いがみ)井上(いのえ))内親王の生涯は、まことにお気の毒。内親王に産まれながら幼い時から権力争いの犠牲となり、寂しい思いをしなかった時はほんのわずかという、聖武天皇の第一皇女です。母は犬養(いぬかい)(ひろ)()()した

広刀自は井上内親王の他に、不破(ふわ)内親王と安積(あさか)親王を聖武天皇との間に儲けました。

広刀自に遅れて一年後に、光明子(安宿(あすかべ)媛)も阿倍内親王(孝謙天皇)を聖武天皇の第二子として出産しています。


井上内親王はわずか五歳で伊勢斎王とされました。五歳から家族と離れて潔斎しなければなりませんでした。実際に伊勢に下ったのは、十一歳になってのからでした。伊勢に赴き神祭りに奉仕するのです。

六年間も都の郊外で斎王となるための精進潔斎を続けるのは大変なことだったでしょう。

神亀四年(727)九月、井上内親王は伊勢斎王として旅立ちました。同じ年の(うるう)九月に、光明子に(もとい)王が生まれています。光明子には十年ぶりに第二子の出産でした。男子の誕生に聖武天皇も嬉しかったよう生後一月で基王を皇太子とします。

聖武天皇も幼くして斎王となった娘の寂しさなど忘れることもあったでしょう。

しかし、翌年、基王は一歳になる前に亡くなりました。

その半年後に、長屋王の謀反事件が起こりました。

(長屋王は左大臣でしたから、トップの位置にあったのです。謀反を企てる必要はなかったでしょうに。藤原氏側の陰謀ですね。)

井上内親王が都に帰って来るのは、天平十六年(744)です。

既に、737年、藤原四兄弟が揃って疫病に倒れ、

738年、妹の阿倍内親王が立太子し、

740年、藤原広嗣の乱が起こりそして終息し、

741年~742年、天皇は恭仁京、紫香楽宮、と遷移を繰り返し、

743年、大仏鋳造の詔を出し、

744年、弟の安積親王が薨去。井上内親王、伊勢斎王の任を解かれる。

弟の安積親王の死後に、ようやく斎王の任を解かれました。

28歳の井上内親王が嫁いだのが白壁王でした。

白壁王は志貴皇子(天智天皇の皇子)の子で和銅二年(709)の生まれで、皇位継承の争いに巻き込まれないように酒に親しむ生活をしていたようです。

まあ、酒好き? ですか?
まさか、アルコール中毒ではないでしょうね。

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(白壁王が光仁天皇となり、その皇子が桓武天皇です。)
白壁王の妃となったのに、皇后にまで上り詰めたのに、井上内親王は廃后され、息子の皇太子と共に幽閉され、あげく毒殺されるというのです。
余りにひどい結末ですが、藤原氏がここまでやれたのは何故でしょうね。

あ、そうでしたね。
天武朝とか、天智朝とか、言葉に「--朝」と使っていますが、これは正確な使い方ではないでしょう。天智系とか天武系と使うべきでしょうね。
だけど、桓武天皇は天智系に皇統が戻ったことを「易姓革命」として扱っています。将に、王朝が変わったのだと。
意識的には王朝が変わった! ということでしょうか。
それとも、本当に王朝が変わっていたのでしょうか?
また明日・・・


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# by tizudesiru | 2017-01-26 11:18 | 204吉備真備の挫折と王朝の交替 | Comments(0)

204淳仁天皇の甥・和気王の謀反

204政変の果てに


藤原仲麻呂のの反乱で、藤原氏の氏族内の権力争いが決着したのではありません。まだ、聖武天皇と犬養広刀自との間に生まれた三人の子どもたちが残っています。称徳天皇には後継者はいませんから、誰が次の玉座に昇るのか、都には噂ばかりではなく呪詛も充満したことでしょう。

天武系の王子達も、密かな期待を持ちました。
和気王も舎人皇子の孫であり、淳仁天皇の甥であることから皇位を望んだようです。

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天平宝字八年(764)仲麻呂の乱は鎮圧されました。
和気王は淳仁天皇の甥でしたが、臣籍降下していました。
舎人親王に崇道盡敬皇帝の尊号が追贈されると、和気王は皇籍に戻っています。

淳仁天皇としては舎人親王に「天皇」と追贈したかったのですがかなわなかったのです。天皇と皇帝では、意味が違ったということです。

祖父の舎人親王の歌は万葉集に三首残されています。
万葉集の時代には、叙景歌はほとんどないとされます。純粋に景色や風景のみを詠むことはないのです。詞の中に意味があり、出来事や神事が詠みこまれて叙事詩となっているのです。すると、舎人親王の歌も、ただの叙景詩ではありませんね。

1706 黒玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上にたなびくまでに

この歌は、「右、柿本朝臣人麻呂の歌集に所出」と書かれた歌群(1682~1709)の中にあります。1704と1705は、人麻呂が舎人皇子に献じたものです。次が、1706で舎人皇子の歌と続いています。

    
「舎人皇子に献ずる歌二首」
1704 
ふさ手折り多武の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒げる
1705 
冬こもり春へを恋ひて植えし木の実になる時を片待つ吾ぞ
人麻呂は舎人皇子に何を伝えようとしているのでしょうね。

1704 
木の枝をためるという「たむ」と同じ多武の山の霧が深いからだろうか、細川の瀬の波が立ち激しい音を立てている。
1705 
冬の間に春になったらと期待して植えた木に、花が咲いて実がなる時をただ待ち続ける私なのだ。
多武の峯には藤原氏ゆかりの談山神社があります。多武山は藤原氏を意味しているのでしょう。藤原氏の権力への欲望はその山霧のように深く、細い山川は瀬の音高く事件が起こりそうだと騒いでいる、とでも読めそうです。

更に、まるで冬のような時に何をしてもうまくいかない、春になったらと期待して実のなる木を植えておいて、花が咲いて実になるまでただひたすら待ち続ける以外に道はない、それが生き残る道なのだから、と人麻呂が伝えていると読めませんか。

そうして、次に舎人皇子の1706の歌です。
1706 ぬばたまのように黒い夜の暗闇に霧が立ち込め、高い館の上までも包みたなびいている。こんなに夜霧が深ければ、私には何も見えないし、何もすることはできない。
舎人皇子は、自分の置かれた状況を冷静にしかも正確に把握していたのでしょう。
しかし、子の淳仁天皇も孫の和気王も的確な判断ができなかったのか、または藤原氏の方が一枚上手だったのか。
哀しい結果となりました。

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また、明日






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# by tizudesiru | 2017-01-25 00:59 | 204和気王の謀反 | Comments(0)

203藤原仲麻呂、琵琶湖畔に死す

203藤原仲麻呂の最後


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琵琶湖;風がない日は穏やかです。古代には、嵐ともなれば波が立ち小さな船では対岸に渡れなかったでしょう。藤原仲麻呂は家族と共に逃れようとして、琵琶湖を渡り切れませんでした。仲麻呂は光明皇后の甥でしたが、罪人として家族ともども湖岸に絶命しました。そのお話です。
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万葉集に残された藤原仲麻呂の歌は二首(42424487)です。既に紹介しています。


4242 天雲の(ゆき)(かへ)ゆえ(おも)(あが)


4487 いざ()(ども)天地(あめつち)やまと


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伯母の光明皇后を後ろ盾に権力の頂点に上り詰めた藤原仲麻呂は、道鏡の存在に恐怖を覚えました。

政敵をことごとく退けて来た仲麻呂でしたが、道鏡は僧侶なので手の打ちようがありません。そこで、道鏡を除くために淳仁天皇を連れ出しクーデターを起こそうとしたのでした。

しかし、密告者が相次ぎ、淳仁天皇も連れだせず、仲麻呂は追われる身となりました。

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淳仁天皇(47代)の父は、舎人親王です。
舎人親王は、天武天皇と新田部皇女(天智帝の娘)の間に生まれています。
仲麻呂の反乱は次のように展開しました。


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仲麻呂は、武智麻呂の後を継ぐべきと思っていたのでしょう。息子が没した後、その妻の婿に迎えた大炊王を天皇に押し上げたまでは、うまくいったのでしょうに。
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*上の人名に間違いがあります。「淳仁天皇が藤原恵美押勝の乱で、押勝を殺させたのは坂上苅田麻呂」です。坂上田村麻呂ではありません。


此の後の道鏡事件はあまりにも有名ですね。
和気清麿が宇佐神宮に御神託を確認に行くのです。
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では、琵琶湖の湖畔にたたずんで対岸を見ましょうか。淡海を渡ることなく滅んだ仲麻呂の家族が流した涙は、この湖に流れ込んだことでしょう。後の世に、この風景を見て、涙を流したのはどこの誰だったのでしょうね。
また、明日



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# by tizudesiru | 2017-01-23 12:14 | 203藤原仲麻呂の最後 | Comments(0)

202藤原仲麻呂暗殺計画

202藤原恵美押勝仲麻呂暗殺計画・陰謀の果てに

藤原仲麻呂は、身内からも嫌われたようです。仲麻呂暗殺計画を練ったのは、藤原北家の藤原良継でした。それが、今日のお話です。

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藤原仲麻呂の権力へ執着、そして強引なやり口への反発と不満は、有力氏族のみならず同族内にも根深くありました。

中でも、北家の人々は不満でした。藤原宇合(うまかい)北家)藤原広嗣(ひろつぐ)北家不遇藤原朝臣宿奈(すくな)麿(まろ)(よし)(つぐ)一人

良継は大伴家持とも親交がありました。

天平勝宝七年(755)防人部領使(ことりづかひの)(かみ)とし防人八首家持進上ていす。拙劣五首万葉集良継剛毅のあったしょうの進上された三首紹介


この三首は防人の歌として進上されたものです。元は八首あったのですが、拙劣な五首は万葉集に残されていません。作者は、助丁(すけのよぼろ)丈部(はせつかべ)麿上丁(かみのよぼろ)丹比部(たじひべ)国人上丁(かみつよぼろ)丸子連(まろこのむらじ)(おほ)麿(まろ)の三人です。防人は歌が詠める人達だったのです。



4328 大君(おおきみ)命畏(みことかしこ)(いそ)()海原父母

4329 八十(やそ)(くに)難波

4330 難波津に(よそ)(よそ)今日

4328 大王のご命令を畏んで承り、磯や海原を渡っていくのだ。父母を置いたまま。

4329 多くの国から来た防人は難波に集まり船出の舟飾りをする。その日の私の晴れ姿を見る人がいてくれたらいいのに。

4330 難波津にできる限りの舟飾りをして、今日いよいよ命令に従って任地に行くのだ。その私を見送る母もいないのに。

進上された歌の後ろに、家持が「追いて防人の(わかれ)ぶる(いた)一首があす。家持良継えて歌を詠み

二人は非常に親密でした。

天平宝字六年(763)、良継は藤原恵美押勝暗殺計画を練るのですが、発覚しました。


伯母の光明皇后を後ろ盾に皇后直属の官吏として運命の糸を操った藤原仲麻呂。しかし、多くの反感と恨みを買っていました。

仲麻呂に陰りが見え始めるのは、

天平宝字四年(760)光明皇后薨去の辺りからです。

母の看病に疲れた孝謙上皇も病に臥せっていました。そこに道鏡が現れ、上皇の病を見ます。

道鏡は、孝謙上皇をどれほど安心させたことでしょう。

長い間病に苦しんだと、平安な日々を過ごせる都を求め続けたと、一人は、三人そろって仏門に入っていました。

国分寺も造り、東大寺の廬舎那仏も造りましたが、それでも救われないのです。道鏡以外に女帝を救える人はいなかったのです。しかし、仲麻呂は不安になりました。道鏡に権力が移っていくと思ったのです。淳仁天皇に「道鏡への上皇の寵」を諫めさせました。

当然、上皇は激怒しました。

道鏡は、志貴親王(天智天皇の皇子)の王子ともいわれています。道鏡は僧侶ですから、後継者をもうけることはできません。上皇も同じです。

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藤原良継の仲麻呂暗殺計画は、失敗しました。

そのころ、藤原恵美押勝の反乱計画も密に進んでいました。

藤原仲麻呂は、皇族だけが登れた太政大臣と同じ「大師」にまで上り詰めましたが、孝謙天皇の寵が道鏡に集まるとそれを妬み、都督使となり兵を集めました。

孝謙上皇は吉備真備を呼び寄せ、全権を与えます。

そうして、仲麻呂は寂しい末路を辿るのですが。その話は、また後で。


橘奈良麻呂は生き延びていた?

この話は、付け加えです。

奈良麻呂の謀反発覚で、大量の処分者を出し、仲麻呂の独裁体制となりました。

道祖王も大伴古麻呂の杖下に絶命しました。

しかし、奈良麻呂は逮捕されましたが、死亡の記述は「続日本紀」にはないのです。歴史的には、他のものと同じく死没したと扱われています。

しかし、私は佐賀県橘町で不思議な説明板を見ました。

おつぼ山(こう)()(いし)見学ったす。案内板さい。りう

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長崎街道が墓地をカーブしながら通っています。墓地の正面100メートルほどで、おつぼ山神籠石です。
次は、「仲麻呂の最後」ですね。
また、あした

(数日旅行してました。飛鳥の写真を撮りに行っていました)



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# by tizudesiru | 2017-01-22 21:10 | 202藤原仲麻呂暗殺計画 | Comments(0)

201大伴家持が見た奈良麻呂の謀反事件

201大伴家持が見た橘奈良麻呂の謀反事件

橘宿祢奈良麻呂の謀反発覚は、長屋王事件と同じくらい世間を驚かせました。四百人以上の処罰者を出し、有力者が杖下に刑死したからです。

同時に、「とうとうこの日が来た」と世間は思ったでしょう。

大伴宿祢家持は、この日を予感していました。

だから、家持は先手を打ち連座を免れたのでした。

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天平勝宝八年(756)聖武太上天皇崩御。遺詔により(ふな)()王立太子

聖武太上天皇は、娘の孝謙天皇に跡継ぎがないので皇太子として道祖王を立てるように遺詔を残していました。

(ふな)()王は新田部(にいたべ)親王の子です。新田部親王(父・天武帝、母・五百重娘)は、長屋王宅に窮問使として遣わされ、長屋王家の滅亡に関わりました。

そのことを聖武天皇は忘れていなかったのでした。

兄の塩焼(しおやき)王には不破(ふわ)内親王(父・聖武天皇、母・犬養(ひろ)()())を室とさせ、弟の道祖王を皇太子としたのです。

新田部皇子(親王)は長屋王の無実を知って窮問したかも知れません。三十年後に、長屋王事件関与に対する聖武太上天皇の配慮があったのでしょうか。新田部皇子に無実の者を裁かせたので、その見返りに手厚くしたという。兄に内親王を与え、弟を皇太子に成したのですから。五百重娘(いほえのいらつめ)は鎌足の子で不比等の妹ですから、光明子の身内から後継者を出そうとしたのかも知れません。五百重娘は不比等との間に藤原麿を儲けていますから、新田部親王は麻呂の兄になります。

しかし、その全ては藤原氏によって奪われてしまいます。

万葉集二十・に道祖王の歌があります。


4284
新しき年の初めに思うどちいむれておればうれしくもあるか

新年に心許した仲間と一緒に集まって宴していると、なんと楽しく嬉しいことだろうか。*どちとは親しい仲間のこと

公卿に仲間入りした初々しい公達の歌です。


しかし、元気な公達はむしろ邪魔だったのです。二月に橘諸兄が薨去しました。すると、聖武天皇の喪中に不謹慎なことをしたと、道祖王は廃太子されました。


翌月に立太子されたのは、
大炊(おおい)王(父・舎人皇子)です。

舎人皇子も長屋王事件の窮問使の一人でした。

天平勝宝九年(757)

(1月)橘諸兄(もろえ) *光明子の兄の諸兄の死亡

3月)(ふな)()王廃太子 *聖武天皇の遺言を無視

4月)大炊(おおい)王立太子 *大炊王は仲麻呂の娘の入り婿

5月)藤原仲麻呂紫微(しび)内相養老(ようろう)律令(りつりょう)施行 *新体制を整える

6月)橘奈良麻呂大弁、大伴家持大輔 *謀反事件の直前に人事

7月)橘奈良麻呂の謀反発覚奈良麻呂逮捕、黄文(きふみの)(おほきみ)・道祖王・大伴()麻呂(まろ)・小野東人ら拷問死。藤原豊成を大宰府員外(そち)に左降。*兄も降ろす

8月)改元(天平勝宝→天平宝字)

黄文王は、長屋王の王子です。吉備内親王に産まれた四王子は自経しましたが、他の女性(藤原不比等の娘)に生れた男女などは許されていました。天平九年(737)には、安宿(あすかべ)黄文(きふみ)円方(まとかた)王、()女王、(おし)海部(みぬべ)女王位階ていす。757年、長屋王の王子の藤原系の黄文王も、藤原系の道祖王も刑死しました。

聖武天皇の崩御後、皇位継承者を断罪し抹殺したのです。

万葉集に、大伴家持、大炊王、藤原仲麻呂の歌が残されています。

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家持は謀反事件と取りざたされそうな兆候を感じたのでしょうか。
藤原氏側にすり寄ったのでしょうか。時勢の移り変わりを見つめています。
対して、仲麻呂の驕りは何でしょうか。彼の末路が読めるようです。


六月二十三日の家持の歌は、謀反事件の一週間ほど前の詠歌です。

4483 いろいろなことが時と共に変わっていく。時勢の変化を見るごとに心が痛み、懐かしい古人が偲ばれてならない。(世の中とは、こんなものか。)


4484
 美しく咲いている花は時が来ればしおれていくものだが、山に生えているヤブランの根は地中深く根を下ろして長くかわらないのだろうなあ。(地中深く隠れるように、今の世を過ごす以外に道はない。)


4485
 季節の花はなかなか良いものだが、このように時の花を見ながら心を明るくして行こう。これから秋になるごとに。(花を眺めて心を晴らす以外にないのだ)


まるで、事件を予知して、身に降りかかる火の粉を避けたような歌です。

奈良麻呂の謀反事件が一段落した後、大炊王と仲麻呂の歌。


4486
 天地を照らす日月の極みが無いように、治世と繁栄はこの国に極みなくゆきとどいているから何も心配することはないのだ。

4487 さあ、お前たち、たわけた真似などするのじゃない。この大和の国は天地の神々が固めた国であるぞ。


前記の二首は、天平宝字元年(
757)十一月十八日に内裏で宴の席で詠まれたものでした。

家持は事件を見ていました。

44834487の五首は、家持の孤独と大炊王と仲麻呂の驕りが臭います。

身内の大伴古麻呂の最後も見ました。大伴古麻呂は、遣唐使として唐に渡っています。唐の皇帝の朝賀の席順を新羅と争い、日本の方が上席だと主張し勝利したのです。ちなみにこの遣唐使の中に阿倍仲麻呂や吉備真備などがいました。

大伴古麻呂は、大伴氏の期待の星となりました。しかし、奈良麻呂謀反に巻き込まれ死亡しました。

家持は大伴氏を守ろうと耐え忍びます。翌年(758)六月、因幡守(鳥取県)として都から離されました。八月に孝謙天皇は譲位し、大炊王が即位しました。

藤原仲麻呂は大保に任命され、淳仁天皇から恵美押勝の姓名を賜ったのでした。

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画像はNHKのテレビの画像・デジカメで撮ったもの

この後、孝謙天皇と淳仁天皇が対立します。
そして、悲しい末路が




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# by tizudesiru | 2017-01-16 20:49 | 201家持と橘奈良麻呂謀反事件 | Comments(0)

200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独

200東大寺大仏開眼会の影にスキャンダル

今度は、孝謙天皇(阿倍内親王)の話です。孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の娘です。
藤原宮子が文武天皇の夫人となり、妹の光明子が聖武天皇の夫人となりましたので、阿倍内親王は藤原氏が実権を握った時に生まれたのです。
光明子の生んだ男子(基王)が1歳で死亡しましたので、阿倍内親王の他に藤原氏系の皇位継承者はいません。藤原氏としては、阿倍内親王を皇太子に立てるほかはありませんでした。

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天平十年(738)に立太子して十五年を経れば、
孝謙天皇は三十五歳を過ぎていました。母に守られていたとはいえ、女の盛りを帝王学に明け暮れた日々は、孝謙天皇にとっていかなる意味を持っていたのでしょう。

そこには、女性としての華やかな青春の思い出があったのでしょうか。

孝謙天皇のこれまでの三十五年間には、様々な事件と権力闘争が絡っていましたので、たとえ内親王でも何らかの噂は聞こえたでしょうに、聖武天皇が娘を守り続けていました。


「姫様こそ、わが日本国の極位に昇られる方でございます。ゆめ恋をなさってはなりません」

と、奸臣は囁いたでしょう。内親王からの即位は、元正天皇(氷高皇女・父は文武天皇)という例がありましたから、奸臣どもは男性が内親王に近づくことを極力妨害したはずです。元正太上天皇と聖武天皇は、皇太子の教育係に吉備真備を採用しました。真備の才能を承知していましたから


それは、藤原氏側には不満だったと思います。

光明皇后に働きかけて、藤原氏の権力回復を図りました。

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天平十六年(746)仲麻呂は式部卿になっています。しかし、橘諸兄の長子の奈良麻呂が着実に父の後を追いかけていました。

前年(745)に、都は再度「平城京」に戻っていましたし、大養(やま)()大倭(やまと)戻りました。聖武天皇の病気平癒の為でしょうか。

光明皇后は、天皇の病平癒のために新薬師寺を建立(747)しています。

天平二十年(749)五月に聖武天皇は「薬師寺」に遷御されました。

そして、七月に譲位でした。

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天平二十一年・天平勝宝元年(749)孝謙天皇即位

藤原豊成右大臣、藤原仲麻呂大納言・紫微令、藤原清河参議と、一氏族から一官職という慣例を再び藤原氏が破る状況になってきました。


更に、光明子は
「紫微中台」という皇后の勅を出せる官位を制定しました。当然、仲麻呂が実権を握るのです。

藤原豊成と仲麻呂は、南家(藤原武智麻呂)の長子と二子です。

藤原清河は、北家(藤原房前)の四子でした。

右大臣が豊成で弟が仲麻呂であれば、清河に未来はないでしょう。


天平宝勝二年(750)

吉備真備を筑前守にして九州へ飛ばします。(さらに、751年には、真備を遣唐使の入唐副使に任命する)

藤原清河(北家)を第十次遣唐使に任命します。(唐で客死する)

意に沿わない藤原乙麿(南家)を大宰帥にして飛ばします。



天平宝勝四年(751)

東大寺廬舎那仏開眼会となったのですが、誰に孝謙天皇を諫めることができたでしょうか。開眼会が行われたその夕べ、孝謙天皇は仲麻呂宅に泊まりました。

藤原氏、それも仲麻呂の思うツボにはまった…としか言いようがありません。孝謙天皇は、仲麻呂の田村第を御在所としたのです。


遣唐使も唐へ出発して行きました。この時の、皇后、清河、仲麻呂の歌が万葉集に残されています。三者の状況が詠める三首です。


春日神祭の日に藤原太后の御歌一首

4240大船に()(かじ)しじ貫きこの吾子(あご)韓国(からくに)へやる いはへ神たち


・大使藤原朝臣清河の歌一首

4241春日野にいつく()(もろ)の梅の花栄えて在り待て還り来るまで


・入唐使等の宴の日、主人卿の作る歌一首

4242 天雲のゆき還りなむものゆえに思いぞ吾する別れ悲しみ

(光明皇后)大きな船に立派な梶を取り付けた船で、藤原の血を受けた大事なこの子を韓国に遣らねばならない。春日野の藤原を守る氏神よ、旅路を神力で祝い清め守ってください。


(清河)
この藤原を守る春日野には神がおられる。そこに栄えて咲く梅の花よ、私が帰って来るまで毎年咲き続けていてくれ。必ず還って来る。


(仲麻呂)
天を流れる雲は流れ去って戻ってくることはない。それだからこそ、私はこの別れをお前との最後かも知れないと思い悲しくなっているのだ。無事に帰ってくれよ。


光明皇后は権威を見せつけ、清河は還って来たいと願い、仲麻呂は是が最後の対面だと内心考えている…三者三様の心の内を万葉集は書き留めているのです。

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また明日


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# by tizudesiru | 2017-01-14 13:55 | 200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独 | Comments(0)

199光明皇后の病・既に年月を経たり

199光明皇后の病・既に年月を経たり

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天平元年(729)、八月に藤原夫人・光明子は、皇后となりました。六月が長屋王事件でしたのに、事の運びが早すぎました。光明子が思い悩んだのは当然だったかも知れません。そのための病だったのでしょう。

天平五年(733)、皇后の病により大赦(たいしゃ)がありました。

長屋王の事件以来、皇后はうつ状態だったのかも知れません。


(みことのり)
には、『
皇后、枕席安(しむせきやす)からむこと、すでに年月(としつき)()たり』光明皇后は、長い間何年も寝込んでいたのです。枕席(ちんせき)とは枕と寝床のことす。百方(ひゃくはう)治療(いや)せども、その可なることを見ず』いろいろ手を尽くしたけれど、よくなりそうな気配がない。『この(ぼん)()を思ひて、(しん)(そん)とを忘る』この苦しみのために眠ることも食べることもできないので、『天下に大赦して、この(やまひ)()()ふべし』大赦を行い病気を治そうというのです。『常赦(じょうしゃ)(ゆる)さぬも、(みな)(ことごと)くゆるせ』 ふつうは許さない者も全て許せというのです。そして、強窃(ごうせつ)の二の外は軽重をつけてみな赦したのです。


大赦を考えたほど、光明皇后の病は深刻でした。



独り雪を見た光明皇后の孤独


巻八 1658
は、(とう)皇后(こうごう)(光明皇后)、(聖武)天皇(すめらみこと)に奉る御歌一首

吾が背子とふたり見ませば幾ばくかこの降る雪のうれしくあらまし

雪が降っております。わが背の君とふたりで一緒にこの雪を見ることができましたなら、この寂しい雪もどんなにか嬉しく思われたでしょうに。

この歌は、広嗣の乱(740)の後の詠歌ですね。

四十歳の光明皇后は独り都に残り、聖武天皇は広嗣(ひろつぐ)の乱(740)の後東国への旅の途中でした。この時、天皇は()()京におられたのでしょう。一人雪を見ていた皇后は、何を思っていたのでしょうね。

亡くした基王のこと、その為に滅ぼした長屋王家のこと、聖武天皇が心許した長屋王、その死(身内の陰謀)に目をつぶったこと…

夫が太上天皇と共に長屋王の新室(にいむろ)まで訪ねたのに、長屋王家の後継者の全てが自刃という結末。藤原氏が長屋王に手を下したことは、世間には周知のことだったでしょう。ですから、藤原四兄弟の死は、長屋王の祟りと思われたかも知れません。

甥の広嗣の乱の結末や、一人で旅をしている夫のことも…思い出すと耐えられなかったでしょう。

四月、七月、八月と、兄たち四兄弟が死没した後、大倭(やまと)大養(やま)()文字

この数年にいろいろありました

天平十年(738)阿倍内親王の立太子、(たちばなの)諸兄(もろえ)右大臣

長屋王事件から十年経っていました。

この年になっても、長屋王事件は人々の記憶から消えていませんでした。大伴子(おおとものこ)(むし)長屋王でいる」密告中臣(なかとみの)東人(あずまひと)た。年経ていず、長屋王に恩を受けていた子虫には恨みが残っていました。

続日本紀に子虫の事件が書き残されたということは、事件に世間の風潮が反映しているということでしょう。

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木津川が大きく蛇行し北上する地に恭仁京が造営されました。

天平十二年(740)広嗣の乱

四兄弟没後、聖武天皇が頼りにしているのは、橘諸兄(もろえ)葛城(かつらぎ)王でした。諸兄を退けようと広嗣は立ち上がったのです。皇后の甥だという甘えがあったのかも知れません。

しかし、皇后にも分かっていました。藤原氏が築いた権力構造に、橘氏が入り込む隙を作ってはならなかったのだと。諸兄(もろえ)ら、皇后った

そして、この後もことが起こりました

天平十五年(744)

光明皇后が夫に尽くそうと思っても、当の聖武天皇は都から遠ざかっていきます。()()難波京官人民意安積(あさか)皇子薨去た。突然た。

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光明皇后の娘の阿倍内親王が立太子していたとはいえ、藤原氏側には安積皇子(744没)は大きな存在だったのでしょう。光明皇后は、経論を書写させました。こんな時こそ、経論を唐より持ちかえった玄昉に頼りたくなったでしょうね。しかし、広嗣の乱を見て来た藤原氏は、玄昉を大宰府に左遷(745)しました。光明皇后に安易に近づいてもらっては困るのでしょう。玄昉は、翌年没(746)しています。
尋常な死ではなかったでしょう。
光明子の心を癒すことができた人はいなかったのでしょうね。
光明子は強い人でしたから耐えられましたが…大変気の毒な人だと思います。

また明日




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# by tizudesiru | 2017-01-14 00:51 | 199光明皇后の深い憂鬱 | Comments(0)

198光明皇后の不幸と不運

198光明皇后の不運と不幸

当時の女性たちの中で最高の権力と財力を手にしたのは、光明皇后でした。

しかし、不運で不幸な女性でもありました。もちろん、聖武天皇の皇后になったからです。

権力が光明子を不幸にしたのです。

光明子は生まれた時から聖武天皇((おびと)皇子)の妃となるべく育てられました。母譲りの気丈な女性だったようで、聖武天皇に尽くすことが藤原の娘としての自分の使命だと確信していたようです。

しかし、(もとい)王(728没)の他に男子をもうけることはできず、女子の阿倍(あへの)内親王(ひめみこ)を皇太子にする(738年)ほかは有りませんでした。母として、それでよかったのでしょうか。阿倍内親王が立太子されたのは二十一歳の女盛りです。過酷な判断だったのではないでしょうか。

この時、光明子は三十八歳、基王を生んだ時の光明子は二十七歳でしたが。十年間子供に恵まれなかったのです。

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長屋王の事件以来、光明皇后はふさぎ気味だったでしょう。
あの日、

天平元年(729)、長屋王の事件は世間を揺るがせました。

世間では長屋王への同情が広がりました。「長屋王は無罪だったのに」と。

噂を鎮めるための勅には「長屋王は悪人だったから除かれ滅ぼされたのだ。衆は三人以上集まって話をしてはならない」と書かれました。

異端を学んだ者、勅禁を破る者、呪詛をする者は罰する」という勅も出ました。(呪詛は大流行していたのです。)

天平二年(730)、光明皇后は興福寺の五重塔を建てたりしましたが、男子を授かることはありませんでした。それは、長屋王の怨霊でしょうか。世間は様々に取りざたしたでしょう。

長屋王の館は官に没収され、光明皇后のものとなりました。これを世間はどう思ったでしょう。皇后は平城宮に隣接する長屋王の住居跡が欲しかったのではないか… そこに、皇后となった藤原夫人は、「皇后宮職」を新設していました。

そこに、疫病の流行でした。


天平九年(737)、大宰府に疱瘡が流行し、たちまち都に伝染しました。そのため、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麿)が揃って疫病で没しました。まるで天罰。世間はそう思ったでしょう。

この年、遣唐使の玄昉が持ち帰っていた経論を皇后宮職で写経させました。皇后が仏教にすがったのは無理からぬことでした。そして、

天平十年(738)、阿倍内親王の立太子。四兄弟が没した以上、どうしても政権の安定を図らねばなりませんでした。

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天平十二年(740)

そんな時に、藤原広嗣の乱は起こりました。広嗣は大宰府に左遷されたと、不満を感じていました。それを上表文にしたためました。そして、

弟と九州の兵を使って都に攻め上がろうとしますが、失敗しました。

天皇を誹謗することは、それだけで大罪でした。極刑となります。

広嗣は上表文を出した時点で大罪を犯していました。

彼は都からの「光明皇后と玄昉のよからぬ噂」に、怒り心頭だったようです。

しかし、噂です。噂で兵をあげるなど、考えられない事でした。このように、実際に兵を動かした大罪は、この時代には藤原氏だけがおかしました。(他の謀反事件は密告などで露見し、兵など動かしてはいません)

藤原四兄弟の没後に「広嗣の乱」。怨霊の仕業でしょうか。

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大仏鋳造の発願の詔が出されたのは、光明皇后が一番苦しい時でした。光明皇后は仲麻呂を優遇します。(が、光明皇后没後、4年で仲麻呂も乱を起こし斬られました。この時代、二度も藤原氏は乱を起こしました。)
更に、犬養三千代の子であり、兄であった橘諸兄が没すると、甥の橘奈良麻呂は謀反で断罪されました。光明子は、長屋王事件・橘奈良麻呂事件・藤原広嗣の乱と、苦しめられました。

光明子の不運と不幸の遠因は、「皇后」だったからです。

聖武天皇の皇后だったからです。

聖武天皇の崩御後に天皇遺愛の品を正倉院に納めたのは、光明皇后です。

その宝物は寺によって守られ今日まで伝わりました。

「正倉院展」は、毎年大盛況です。宝物の豊富さと豪華さ技術の高さなどに毎回驚かされました。そして、この天皇だけ、何故このように遺愛の品が残されたのかと不思議に思います。他の天皇の私物はほとんど残されなかったのに。


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考えてみると、遺愛の品は「開かずの倉庫」に納められました。

皇后としての苦痛の年月を思い出す品々を、光明皇后は見たくなかった、見るのが辛かった、二度と目に触れないものとしたかったと、思うのです。

それは、封印。それは、聖武天皇への決別だったのかも知れません。

そして、権力によって大事なものを失ったことの後悔でしょうか。

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また明日




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# by tizudesiru | 2017-01-12 22:18 | 198光明皇后の不幸と不運 | Comments(0)

197 光明子の苦悩と懺悔

197光明皇后の苦悩と懺悔        

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701年生まれの光明子は、夫の聖武天皇(首皇子)と同じ齢でした。

(おびと)皇子(聖武天皇)の乳母は光明子の母・犬養三千代です。

首皇子と光明子は、生まれた時から運命の糸に縛られていました。

県犬養橘宿祢(あがたのいぬかいのたちばなのすくね)三千代(みちよ)(県犬養命婦(みょうぶ)

東人の娘。()(のの)(おほきみ)に嫁し、葛城(かつらぎ)王(橘諸兄)()()王・牟漏(むろ)女王)を生む。

後に藤原不比等の室となり光明子(光明皇后)を生む。

養老(ようろう)元年(717)従四下より従三位、養老五年(721)正三位になるが、同年5月に元明天皇不予(ふよ)により入道。天平五年(733)の薨去。

葬儀は散一位で行われ、同じ年に贈従一位。

天平八年(736)葛城王・佐為王に橘の姓を下賜。

(おびと)親王は三千代と藤原不比等に深宮の奥で大事に育てられました。

成人した首親王と光明子は結婚させられました。

光明子が阿倍(あへ)内親王(こう)(けん)天皇)を生んだのは、十七歳か十八歳の時です

幼いまま母となりました。

皇后になるための特訓は受けていたはずですが、まだ精神的には子供だったと思います。

夫の聖武天皇には犬養広刀自という女性が仕えて、三人(安積(あさかの)皇子(みこ)・井上内親王・不破(ふは)内親王)の男女に恵まれました。安積皇子が生まれたのは、光明子が生んだ皇太子・(もとい)王(九月没)が薨去した翌月でした。

自分が産後の憂鬱にイライラしている時に犬養(いぬかいの)(ひろ)()()懐妊し、更に自分が愛息を亡くした時に広刀自が出産するという現実、後宮の女性の言の葉に上った噂はどんことだったでしょうね。

光明子の嘆きと恨みは大きかったと思います。

基王の没年(728)の年、長屋王家の殲滅計画がなされたとしても、光明子は反対しなかったでしょう。

聖武天皇はそれを知らずに、安積皇子の誕生を喜んでいたでしょうね。

藤原氏にとっても、ゆくゆくは広刀自の生んだ皇子皇女の権力への道は閉ざさねばなりませんでした。

そして、藤原氏にとって気になることは、聖武天皇のまじめさでした。

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聖武天皇は叔母の元正天皇と約束を交わしていたようで、即位の年(724)には紀伊国行幸をしました。その時、冬十月、

山部赤人(やまべのあかひと)の長歌に「やしみしし 我ご大王の常宮(とこみや)と仕え奉れる」

という詞が使われています。聖武天皇は、紀伊国の雑賀(さいか)の宮を仮宮ではなく常宮として使うつもりだったようです。紀伊国には特別の思い入れがあった、特別の所縁の地としていた、ということです。

何のための行幸か、すでに何度も述べた通り、「大宝元年辛丑冬十月の持統太上天皇の紀伊国行幸」は「有間皇子の所縁の地への鎮魂のための行幸」でしたから、聖武天皇もその行幸をなぞり亡き人を偲んだのです。

そして、紀伊国には「止まず往来」しょうと、常宮としたのでした。

持統帝の死後の柿本人麻呂の紀伊国の旅も、亡き人をしのぶ旅でした。

亡き人の所縁の地を訪ねることは、霊魂に触れるための行為でした。

聖武天皇は那珂(なか)郡と海部(あま)郡に長逗留し、名草(なぐさ)と海部の二郡の田租を許し、(わかの)(うら)明光(あか)浦と地名も変えました。

聖武天皇は誠実だったのです。気弱とか意志薄弱とか云われますが、権力におごらず心優しい人だったのでしょう。三十年以上も母の藤原宮子にも会えず、寂しかったと思います。

そんな聖武天皇が安積皇子や長屋王の王子達を皇太子としないように、藤原氏はことを急ぎました。

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神亀六年(729)

二月十日に密告があり「ひそかに()(どう)を学びて国家を傾けむとす」

その夜、兵が長屋王の宅を囲みました。

指図したのは藤原武智麻呂、長屋王宅に向かったのは式部卿の藤原宇合、その他もろもろの官人、そして長屋王の館を囲ませたのです。王家の人々に、逃げる道は何処にも有りませんでした。

*左道とは、良くない道、邪道ということで、長屋王が何か具体的にしたというのではありません。何もなかったのです。

二月十一日、取り急ぎ官の人事を仮に済ませ、

朝十時には、舎人(とねり)親王、新田部(にいたべ)親王と皇族のトップをそろえ、大納言・多治比(たじひの)真人(まひと)池守(いけもり)、中納言・藤原(ふじはらの)武智(むち)麻呂(まろ)長屋王の罪を(きゅう)(もん)しました。

長屋王には、もはや妻や子を救うことはできません。

たぶん、王は自分の身と引き換えに妻子の命乞いをしたと思います。

神亀六年(729)長屋王の謀反の密告は二月十日

二月十二日、王をして自ら()なしむ。その室二品吉備(きび)内親王、男従四位下膳夫(かしはで)王、無位桑田(くはた)王、葛木(かつらぎ)王、(かぎ)(とり)王ら同じく亦自ら(くび)る。

身分の高い皇族を手に掛けることはできませでした。自ら死なせたというのです。男子四人は立派な皇位継承者でした。

続日本紀には、長屋王についてはさんざん誹謗していますが、吉備内親王については『罪無し』と書いています。

事は起ってしまいました。聖武天皇がどんなに嘆かれたか知れません。

長屋王家の滅亡の後、光明子は皇后となれたのです。

長屋王事件は、光明子の中に何を残したでしょう。

光明子の業績を見れば、その事が分かります。

天平二年(730)、興福寺の五重塔の建立を発願し、年の暮には完成させた。

五重塔建立は長屋王事件の翌年でした。

五重塔を造らねば落ち着いておれなかったのです。

天平五年(733)、興福寺の東金堂に対面する西金堂は、橘三千代の一周忌に間に合うように造りました。

天平五年~八年には、多数の財物を法隆寺に施入しました。

天平十一年(739)、法隆寺の東院を建立

天平十九年(747)、聖武天皇のために新薬師寺を建立

中でも

天平八年(736)、僧玄昉が持ち帰った経論の書写を発願し、皇后宮職の写経所で写経させました。写経は天平勝宝元年(749)まで続きました。

この皇后宮職が置かれた場所は、何処でしょう!

他でもありません。

あの長屋王の邸宅跡でした。

あの忌まわしい事件の館跡に、光明子は「皇后宮職」という役所を置いたのでした。そこで、玄昉の持ち帰った経論を十年以上もかけて写経させたのです。なんということ、長屋王の屋敷は官に没収され光明子のために使われたのです。

懺悔のつもりの写経でしょうか。

僧玄昉は、光明子の心の闇を解きほぐしたのかも知れません。

光明子も藤原氏という権力者集団を背負って、時折、心が折れそうになったことでしょう。


また明日


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# by tizudesiru | 2017-01-11 16:41 | 197光明子の苦悩と懺悔 | Comments(0)

196玄昉の墓は沈黙する(広嗣の乱)

196玄昉の墓は沈黙する

太宰府に行きました。以前に撮った写真を消してしまったからですが、観世音寺と戒壇院に寄りました。
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正式に僧になるためには一定の条件(修行)が必要でした。戒律を受けなければなりませんでした。それを授けるために、そのために、鑑真が招かれました。ここは、西国でただ一つの戒律を受けられる場所でした。
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静かなたたずまいの中に山茶花の花が散っていました。
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戒壇院の裏に、僧玄昉の墓があります。
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右奥のブロックで囲まれた小さな敷地に、それは有ります。
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彼が何をしたというのでしょう。
藤原宮子が閉じこもり、息子の聖武帝にも会えない状態だったのに、玄昉の治療ですぐに治って、聖武帝との親子の対面となったのです。
そして、光明子も玄昉に近づいたとか…玄昉は太宰府の観世音寺に左遷されました。
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戒壇院と観世音寺は並んでいます。観世音寺の裏には、僧房跡の礎石が並んでいます。
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観世音寺も静寂に包まれていました。
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塔の心礎の石が中央に見えます。奥の鐘楼には、国宝の梵鐘が下げられています。妙心寺の鐘と兄弟と云われています。
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観世音寺は塔と金堂が東西に並んでいます。
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観世音寺を見ながら、玄昉は何を考えていたのでしょうね。

また明日




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# by tizudesiru | 2017-01-10 14:56 | 196玄昉の墓は沈黙する | Comments(0)

195聖武天皇と元正天皇の約束

195聖武天皇と元明天皇の遺言

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元明天皇
(43)は、草壁皇子の妃であった阿閇皇女です。

天智天皇の皇女で持統天皇には姪であり妹であり、更に息子の嫁でした。元正天皇は、元明天皇と草壁皇子の長女です。

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元明天皇は、実に賢い人で愛情も豊かでした。

草壁皇子との間に、三人の子どもに恵まれていました。

氷高皇女(元正天皇)、軽皇子(文武天皇)、吉備皇女(内親王)の三人です。

草壁皇子は、大津皇子が政争に巻き込まれ命を落としたことを深く嘆き、自分は即位しませんでした。

妃の阿閇皇女はその嘆きを十分に知っていたので、夫の意志を貫こうとしました。

それは、天武の直系に皇統を譲ることでした。というより、その可能性を残したというべきでしょうか。

その為に、吉備皇女を長屋王の正室としました。生まれた子どもたちの身分を二品とし、皇位継承の候補としました。


そして、
藤原氏の思惑に反して娘の元正天皇に譲位したのです。


和銅八年、霊亀元年(715)
のこの年には、大江皇女(天智帝の皇女)が生んだ長皇子が六月に没しています。

それは、重要な皇位継承者の死でした。

七月には穂積皇子が没し、万葉集では八月に志貴皇子も没しています。九月に、元正天皇の即位です。

(志貴皇子の王子が後に光仁天皇となるのです)

穂積皇子は藤原氏系の皇子で、志貴皇子は天智帝の皇子でした。志貴皇子の挽歌が万葉集に残されています。



元明天皇はなぜ聖武天皇に譲位しなかったのか

確かに、藤原氏の思惑通りに事を運びたくなかったのでしょうが、元明天皇は首親王(聖武天皇)のやさしさを知っていたのです。

何もかも持っている人は、人に分け与える以外にすることは有りません。

聖武天皇はその何もかもを人に与えると、元明天皇は危惧したと思います。

与えてはならない皇位までも。


だから、元正天皇に十分な遺言をしたのでしょう。それは、

草壁皇子の意思を忘れてはならない。

有間皇子と持統天皇をわすれてはならない。

でした。

元正天皇は聖武天皇に譲位した後、二人そろって長屋王の新室に行幸しました。また、紀伊国や難波宮に行幸したりしています。

それは何のためだったのか。すでに、お分かりですよね。

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聖武天皇は、時間をかけて、紀伊國行幸をしています。

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即位したときは、叔母や祖母の意志を守ろうと聖武天皇も努力したのです。
しかし、周囲を藤原壁と光明子壁に挟まれて、いかに苦しかったか。
想像に難くありませんね。


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# by tizudesiru | 2017-01-09 11:30 | 195聖武天皇と元正天皇の約束 | Comments(0)

194大伴家持は政変の目撃者

194大伴家持は政変の目撃者・(万葉集は倭国の歌)

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万葉集の時代には長歌・短歌・旋頭歌など詩歌の形式の様々ありましたが、古今集の時代になると、ほとんどが「5・7・5・7・7」の短歌に集約され、それが勅撰歌集として残されました。詩歌にも革命的変化が起こったのです。それは、政治の流れと無縁ではないでしょう。

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聖武天皇が即位した時、家持は十歳にもならない子どもでした

古代に倭歌はどのように使われていたのか。

倭歌ですから、倭国の歌です。八世紀になって、「倭国の挽歌」を止めて「日本挽歌」としようと大伴旅人に提案したのは、山上憶良でした。しかし、日本歌にはなりませんでした。

憶良の提案にあった「挽歌」のように、人の終わりに「挽歌」を使った儀式をしたようです。歌は始まりと終わりの儀式に必要なものでした。

年の初め・大王の御代の始めや、年の終わり・人の最後(葬送儀礼)に歌われたのでした。万葉集の巻一は「雑歌(くさぐさのうた)」で、儀式歌が中心です。巻一には、挽歌は有りません。挽歌は巻二にまとめられています。もともとは、巻一が雑歌・巻二は挽歌としてまとめられていたのかも知れません。

万葉集は、巻一から有間(ありま)皇子事件に向かって編集されていました。それが見えにくいのは、大伴家持の手により後期万葉集と呼ばれる歌群が持ち込まれ、後の世に手が加えられたからです。

大伴氏により、後期万葉集と呼ばれる歌群が付け加えられた。

大伴宿祢家持479首、大伴宿祢旅人76首、大伴坂上郎女84首、娘の大伴坂上大嬢11首、大伴宿祢池主29首、他に大伴氏関係の歌多数持ち込まれた。大伴氏に献上された歌群もある。

柿本朝臣人麻呂88首、柿本朝臣人麻呂之歌集369首、柿本朝臣人麻呂之歌(集)中3首と、人麻呂の歌も多いが万葉集中に分散されている。

更に、後世、高貴な人の手により大きな編集のメスが入れられたので、万葉集に託された物語が読みにくくなった。


家持の
479首の歌は、時代を移す鏡でしょう。

家持は自分の歌ばかりでなく、大伴氏や知人の歌、献上された歌も残しました。そこに見え隠れするのは、藤原氏の悪行の告発です。

では、またご一緒に


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# by tizudesiru | 2017-01-08 11:49 | 194万葉集は倭国の歌 | Comments(0)

193人麻呂編集の万葉集

193人麻呂編集の万葉集

初期万葉集は有間(ありま)皇子事件を意識していると、既に書きました。

それは、巻一と巻二の冒頭を見ればわかってきます。


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1 雄略帝(
大泊瀬稚(おおはつせわか)(たけ)天皇)の歌

2 舒明帝((おき)長足(ながたらし)()(ひろ)(ぬか)天皇)の歌 *間人(はしひと)皇后の父

3 中皇(なかつすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)に献じさせた歌 *中皇命は間人皇后

4 反歌

(5 軍王の歌・6 反歌)この歌については別の機会に触れます

前記のように並んだ後に、一気に「有間皇子謀反事件」関係の歌に突入するという並びだったと思います。

つまり、1、2、3、4、(5、6)7、9、1011128、と並んでいたと思うのです。あくまで、そう思うだけです。時間軸で考えれば。ただ、熟田津が四国の港ではなく、難波のにぎやかしい港であったなら、この順番は変わるでしょう。

というのは、8番歌の左脚に類聚歌(るいじゅうか)(りん)からの長々とした説明が引用してあるからです。

内容は「舒明天皇がその元年(639)に大后と共に伊予の湯に行幸された。その後、斉明天皇七年(661)に熟田津の(いは)()の仮宮に泊まり、昔日の想い出のものを見て、(かん)(あい)(こころ)を起こされた。この故によりて天皇が御歌をつくり哀傷(かな)しまれた。

その哀傷の歌が「熟田津に船乗りせむと」という堂々とした歌だというのです。本当に、この歌なのでしょうか。

色々考えるべき点はあるのですが……



巻二は、仁徳天皇の皇后・磐之姫で始まりますが、その歌が仁徳天皇(難波高津宮御宇天皇)代ではなく孝徳天皇(難波長柄豊崎宮御宇天皇)代であったなら…と、両天皇が入れ替えられていたのなら、間人皇后が磐之姫皇后に、すり換えられていたら…やはり、有間皇子事件に行き着きます。

わたしは、後の世の人が、「難波天皇には違いないが、長柄を高津に入れ替えた。間人皇后とは書かず中皇命と書いた」と思うのです。

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更に巻二の挽歌の冒頭の扱いです。

もともと万葉集には、事件と人が分かるように歌が掲載されていたと思います。しかし、高貴な人の手により、主役が消された。

そこに、大きなスキャンダルが隠れていると、私は考えたのです。

中皇命の実名が一度も出てこないのは、高貴な女性だったからです。

天皇・皇太子・皇太后・帥・大臣・〇夫人などの表現も人名を裂けています。が、当時の人には人物が特定できたのでした。万葉集が分かりにくいのは、「いつ誰が何の(誰の)ために編纂したのか」見えにくいからです。これは、万葉集を読む時、常に大きな問題でした。

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持統天皇が人麻呂に詔して鎮魂の歌集を編纂させた」ようだと、ここまでは述べてきました。

誰のための歌集なのかも述べたつもりですが、まだしっかり伝え切れていないようですね。

万葉集の「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌を読むと、持統天皇の物語が万葉集の中に展開します。

しかし、万葉集には他にもあまたの物語が組み込まれ埋め込まれ、隠されています。古代史の政変も王朝の光芒もスキャンダルも、勝者ばかりでなく敗者の物語も。


むしろ、敗者のための歌集であったのかも知れません、万葉集は。

しかも、万葉集を受け継いだ大伴家持は万葉集を男性の物語歌集に変えたのです。

そして、時代に翻弄された惜しむべき人々の運命と宿命を言霊として万葉集に託したのでした。





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# by tizudesiru | 2017-01-07 13:54 | 193人麻呂編集の万葉集 | Comments(0)

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

有間(ありま)皇子と(こう)(とく)(36代天皇)の皇后だった間人(はしひと)皇女の物語を僅か首の歌に見ました。が、何度も言うように、この物語は万葉集ができた当初は隠されてはいなかったと私は思っています。

堂々と、しかも読み手に分かるように柿本人麻呂が編集していたと、私は考えているのです。

難波(なには)天皇の「難波長柄(ながらの)豊崎(とよさきの)宮御宇(みやにあめのしたしらしめす)難波高津(たかつ)宮御宇」仁徳天皇(16代天皇)に変えたのは、後の人です。

後の学者も各歌の信憑性を疑い、様々に検討を加えています。巻二の冒頭の「(いわの)(ひめ)皇后の歌」には納得しかねたのでしょうか。詳しい左脚があるのです。

磐姫皇后の御歌で85~89の歌の内、山上憶良(やまうえのおくら)の「類聚歌(るいじゅうか)(りん)」にあったのは、85だけだとを入れています。

それでは、86~89は誰がここに置いたのか。89は「古歌集」から選ばれたのですから、それは編集者の手元にあった「古歌集」からの引用に他なりません。

86~88の三首は、言葉と表現方法から「柿本人麻呂」の作だと云われています。

すると、人麻呂は熟慮の結果として「磐姫の四首を並べた」のでしょう。


さて、
(いわの)(ひめ)皇后の四首の後に、軽太郎女(かるのおほいらつめ)の歌(90)が置かれています。

この90番歌が、磐姫皇后の85番歌とそっくりなのです。

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これは、軽太郎女の決心を歌ったものです。

万葉集中の磐姫皇后は、大変けなげで書紀の磐之姫とはかなり違って、「どんなに年を取ろうと白髪になろうとあの方をお待ちしよう」と決心していました。


しかし、軽太郎女は違います。

軽太郎女は決然と立ち上がり、太子を迎えに行くのです。


軽太郎女(軽太娘)皇女の歌が語る政変

90 君が行き()長くなりぬ山たづの迎えを往かむ待つには待たじ

あの方がお出かけになってからずいぶん日が経った。お迎えに往こう。このまま待って、待ち続けるなんてできない。

万葉集には「右の一首は、古事記と類聚歌林というところに同じくあらず」と書かれ、磐姫皇后の御綱柏を海に投げ捨てた嫉妬の話が先に紹介された後、「また曰く」と、軽太子と軽太郎女の話が紹介されています。


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左脚には「遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰(をあさづまのわくごのすくねの)天皇(すめらみこと)(19代・允恭天皇)の二十三年の春三月、(きのえ)(うま)の朔の庚子(かのえね)に、()(なしの)軽皇子(かるのみこ)を太子となすてい

書紀の允恭天皇紀(19代)によると、確かに、仁徳天皇(16代)の三子・允恭天皇(履中天皇の弟)の二十三年に、木梨軽皇子が皇太子(ひつぎのみこ)二十四年太郎女密通まいす。木梨皇子皇太子であったず、伊予皇女た。

安康(あんこう)天皇紀20代)によると、允恭天皇四十二年正月に天皇崩御。冬十月、皇太子暴虐(軽太郎女との問題)のため群臣の信頼を損ない、群臣が弟の(あな)()皇子ついった穴穂皇子とうし、穴穂皇子太子物部大前宿祢自害伊予


となっているのです。しかし、よく見ると木梨軽皇子は伊予には流されていません。物部大前宿祢の家に逃げ込んだのですから。事の発覚が允恭二十四年で、自害は天皇崩御の四十二年になっています。


このズレの意味は何でしょうか。

古事記では、軽太子は大前小前宿祢の家に逃げ兵器を備えたが、穴穂皇子が軍を興して大前小前宿祢の家を取り囲んだ。

しかし、宿祢は太子を説き伏せ「われ捕らえて貢進せん」と軽太子を差し出したので、太子は伊予に流された。

宿禰は、ほかに軽皇子を救う方法がなかったのでしょう。


そこで、軽太娘皇女が「君が行きけ長くなりぬ」と歌うのです。

皇女は軽皇子を追い到り、お互いに歌を交わしました。そして、「共に自ら死にたまひき」という結末になります。

 

古事記・日本書紀ともに、共通するのは「謀反」事件です。

それも、皇太子の謀反ではありません。皇位を奪ったのは、他の皇位継承者でした。軽太子をスキャンダルで追い詰め、流罪にし、死に到らしめたという…

どこかで見たような展開です。


そうです。
皇太子をスキャンダルで追い込み、死に至らしめる、まるで有間皇子事件にそっくりではありませんか。

軽太娘皇女の歌が万葉集に置かれた意味はここにあります。

当時の人には、万葉集・巻二の冒頭の五首の意味が全て分かったことでしょう。

驚きの編集と云わねばなりませんね。




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# by tizudesiru | 2017-01-06 23:55 | Comments(0)

191 消された物語・有間と間人

191消された物語・有間皇子と間人皇后

有間皇子と間人皇太后の歌は、万葉集の扉を開ける鍵の一つです。

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中皇(なかつすめら)(みこと)は、有間皇子と自分とを同等に並べて歌を詠みました。

以前に紹介した時は、訳文に「陛下」とは書かず「殿下」を使い、皇太子として間人皇太后が有間皇子に接したように書きました。

しかし、今回は有間皇子を「難波長柄豊崎宮御宇天皇」の跡継ぎとして、ほとんど玉璽を渡された状態であるとして訳文を書きました。

つまり、有間皇子を追って来たのは中皇(なかつすめら)(みこと)(玉璽を預かっている人)なのです。これには重大な意味があります。

書紀では、斉明帝に玉璽(ぎょくじ)ったようてい中皇命存在以上大王(おおきみ)御璽(みしるし)孝徳帝ってい間人(はしひと)皇太后以外

10「陛下、お気持ちをお察しいたします。陛下がこの先どれほど命を永らえられるか、わたくしの命さえどれほどのものであるか、誰が知っているでしょう。ですが、岩代のあの岩ばかりの岡の草は根を深く下ろし、あのように命をしっかりとつないでおります。岩代の岡はその命運を知っているのでしょうか。さあ、あの岡の草根を結んで、互いの命の永からんことを祈りましょう。」

皇子も応えました。

「貴女の云う通り、この岩代に生える松は根を深く下ろし、これからも長く命をつないでいくのだろう。わたしもその永からん命を願って松の枝を引き寄せて結んでおこう。わたしに神の御加護があれば、再びここに還って来る。そして、この松を見たい。貴女も見たいのだ。」

皇后の歌は、他にも二首あります。若い有間皇子を間人皇太后は何故追いかけて来たのか。

皇子の紀伊国への護送(旅)がどんな意味を持っているのか、間人は十分に承知して追いかけて来たのです。


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11「陛下、白浜が見えております。明日、出立の松原を過ぎれば、太后のおられる白浜も遠くは有りません。太后はわたくしの母ではありますが、母の意にそわず難波宮に残ったわたくしの言葉など聞いては下さいますまい。まして、兄にすれば。…陛下、今夜はどうぞごゆっくりお休みくださいませ。草が足りなければ、陛下が結ばれたあの小松の下の草をお刈りくださいませ。必ず陛下のお体をお包みしてお慰めすることでしょう。」

間人皇太后は、有間皇子を「わが背子」と呼びました。

背子は特別な親しい間柄に使われる表現です。

有間皇子は間人皇太后にとって特に親しい男性だったことになります。

そして、次の日になりました。

12「陛下、今一度お声を聴きとうございます。わたくしがかねてより見たいと申し上げていた野島は見せていただきました。あの野島の海人が潜水して白玉を得ているのですね。願いを懸ける白玉を。でも、陛下は白玉を拾おうとはなさらなかった。底深い阿胡根の浦の白玉を拾って祈ろうとはなさらなかった。わたくしの心には深い恨みが残りました。ああ、白玉を拾って祈りたかったのに。」

以前は「陛下」とは書かず「殿下」と書きました。しかし、今は、夫の孝徳天皇が難波宮に倒れた時から「皇后」としての立場に戻った間人皇后は、孝徳天皇崩御の後は「中皇命」として難波宮に玉璽(ぎょくじ)を以って行政の処理をしていたと思います。昔も今もトップの死によって、行政がストップすることはないのです。百官がいましたから。

有間皇子の歌は、挽歌の二首だけです。歌の中では、皇子はへりくだってはいません。額田王が詠んだように「最後の瞬間まで皇子は凛としていた。「い立たせりけむいつ橿が本」凛としてお立ちになっていた厳橿の下に。死に臨んで木の下にお立ちになった時も。

有間と間人の二人の歌は、中皇命(間人皇太后)の歌3首。有間皇子の歌2首です。

僅か5首の歌が、なんと多くのことを教えてくれるのでしょう。

これら5首から読めるのは、二人は深く愛し合っていた、ことです。

理由は一つ、孝徳帝の崩御後、難波宮の後宮は皇太子が受け継いだのです。


それで、間人皇太后は難波長柄豊崎宮に残ったのでした。

有間皇子に玉璽が渡る。

世間はそう思ったでしょう。

その世間を欺くように、有間皇子は連れ去られた。

待つべきか、追いかけるべきか。いや、何があってもわたしが迎えに行く。


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しかし、その愛は有間皇子謀反事件によって断ち切られました。

間人皇太后の怒りと悲しみはいかばかりだったことでしょう。決して、兄・中大兄皇子を許さなかったと思います。

中皇命が玉璽を渡さなかったから、中大兄は皇位につけなかったのです。

中大兄は、皇祖母尊と間人皇太后の葬儀を済ませ陵墓に葬った後に即位しました。

また、有間皇子事件(658)後に、皇子の後宮は天智天皇の後宮へと変更された。

更に、壬申の乱後は、天武帝の後宮に変更されたのです。

それでなくては、宮廷に仕える女性たちは、政変の度に彷徨わねばなりません。

それがどんなに過酷でも、宮廷の女性も生きているのですから。

まず、間人皇太后の愛と、断たれてしまった思いについて書きました。

持統天皇はこの有間皇子を幾度も思い出し、その霊魂を慰め鎮めました。その意味は、まだ十分に書いていません。



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# by tizudesiru | 2017-01-05 22:04 | 192有間皇子と間人皇后の物語 | Comments(0)

191間人皇后の難波宮脱出

191間人皇后の難波宮脱出

間人皇后の愛と悲劇・とりかえばや物語

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間人皇后が難波宮を去ったわけ

間人(はしひと)皇女が孝徳帝の大后(皇后)に立てられたのは、幾つの時でしょうね!

大化改新の時、中大兄皇子は十九歳(十八歳)くらいで、その妹ですから十五歳くらいでしょうか。そんな少女が初老も過ぎた男性に嫁がねばならないとはあまりに過酷な話です。

大后に昇れる女性は皇族に限られましたが、皇女とはいえ間人は子どもみたいなもので無理な話ですよね。


その皇后が、突然皇居を去るのです。皇后に立って九年目の出来事でした。

(はく)()四年(653)、(やまとの)(みやこ)に遷りたい」という中大兄皇子の申し出に対し、孝徳天皇は許しませんでした

しかし、中大兄皇子は母の皇祖母命と間人皇后を奉り、合わせて皇弟達を連れて、飛鳥の河辺(かわべの)行宮(かりみや)に移りました。すると、公卿大夫や百官の人も皆従て移った

中大兄皇子が突然言い出して、母と妹を引き連れて飛鳥に戻ったことになっています。理由は書かれていません。

皇后(きさき)皇祖母(すめみおやの)(みこと)・皇太子が揃って皇居を出て行くのはおかしな話です。何があったのでしょう。


少し大人になった皇女が、「倭京に戻る」と言い出した、皇后となって初めて恋をした、この展開なら納得できる話です。「難波宮を出たい」と言い出したのは皇后だったのではないか。斉明皇太后も中大兄皇子も、この妹に諦めさせる方法を持たなかった…

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万葉集に「中皇(なかのすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)(たてまつ)らしめたまふ歌」が掲載されています。父の(じょ)(めい)天皇に、幼い中皇(なかつすめら)(みこと)(間人皇女)が「自分は儀式歌を詠めない」ので、代わりに間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)献上させた歌だというのです。

(じょ)(めい)天皇(641没)の在位は十三年間ですが、皇女はその間に生まれて歌を献上させるほどに成長したというのでしょうか。納得できない話ですね。

十歳くらいの少女が高貴な血をもってして巫女的な仕事をしていた(?)とは考えられません。巫女的な仕事をするべき皇后(皇極)は、お傍におられるのですから。

はたまた、ここで疑いの心が芽生えてしまうのです。

この歌は、舒明天皇のために献じられたのだろうか、と。

しかも、この歌は「()()の野に遊猟(みかり)したまう時」に献じさせた歌です。

おや!? ()()(奈良県旧宇智郡)ですか?

あの菟道稚郎子(うぢのわきのいらいこ)の宮処の比定地として、京都府宇治と奈良県宇智郡の二か所が候補地に挙げられています。

宇治若郎子(うぢのわきのいらつこ)とも書き仁徳帝と皇位を譲りあった皇太子です。

ここ巻一から、そこはかとなく菟道稚郎子の話「正式の皇太子の悲劇」がにおい立って来ました。

更によく見ると、万葉集・巻一の3番4番歌に続くのは、5讃岐(さぬき)国に(いでま)す時に、(いくさの)(きみ)が山を見て作る歌」6「反歌」ですが、おかしなことに舒明天皇の讃岐国行幸は日本書紀には書かれていないのです。軍王も何処のどんな人か不明です。一体どの天皇の話なのでしょう。

更に、7番歌は、額田王(ぬかたのおほきみ)のあの歌です。

 秋の野の()草刈(くさかり)()き宿れりし()()のみやこのかりほ(仮庵)し(おも)ほゆ

よくよく見ると、3・4・(5・6)・7と菟道稚郎子と共に悲劇の皇太子の事件を読み手に思い出させているようです。

8番歌は、額田王か斉明天皇御製歌とされる九州に向かう船出の歌ですね。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今はこぎでな

その後に、万葉集には、

有間皇子事件の目撃者としての「紀伊国に幸す時、額田王が造る歌」が置かれていましたね。(すでに、紹介しています)

考えてみると、百済救援のための征西は斉明七年(661)で、有間皇子の事件は斉明四年(658)なので、8番歌より9101112番歌が時期的には早く詠まれた歌になります。しかし、時期を無視して、『熟田津』の歌が有間皇子事件の歌の前に挿入されているのです

額田王の歌が、7・9と並んだら、そこに有間皇子と菟道稚郎子があっさりと結びついてしまうでしょう。

7 秋の野の美草刈葺き宿れりし菟道のみやこの仮庵しおもほゆ

9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立たせりけむいつ橿が本

そして続いて、

10・11・12と中皇命の「紀伊国に往す時の歌」がくれば、有間皇子事件の歌が並ぶことになってしまうのです。

もともと巻一は有間皇子事件に向かって編集されていました。

それが、今日の結論です。

また、明日



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# by tizudesiru | 2017-01-05 10:35 | 191間人皇后の難波宮脱出 | Comments(0)

190間人皇后の愛と悲劇(2)

190間人皇后の恋

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なぜ、間人(はしひと)皇后(こう)(とく)ったしょう

書紀によると、孝徳帝は皇后に歌を送って言われました。

金木(かなき)()(こま)()()吾が人見(ひとみ)

あれほど大事に後宮の奥深くに置いて人目に触れないようにしていたのに、貴女を人が見たというのか(誰かがあなたに手を出したというのか、その事で貴女は後宮を去ったのか)

「見る」という行為は、万葉集の時代「眺める」ではないのです。皇后が誰かを愛したのではないかと、後宮であってはならないことを問いかけている歌です。世間では、間人皇后が愛したのは中大兄皇子だと云われています。

そうでしょうか。

であれば、大スキャンダルで中大兄皇子は極位には着けません。

わたしは、皇后の愛した相手は兄ではないと思います。

中大兄はそんな危ない橋は渡らない、用意周到な計算高い人で、あの藤原鎌足が見込んだ男です。鎌足は孝徳帝から中大兄皇子に乗り換えたのですから。

間人皇后の相手は中大兄皇子ではありえません。

大后(おほきさき)は、後宮中宮トップ地位にあ

その大后が仕えていた者を引き連れて、(さい)明皇太后(めいこうたいごう)難波宮内裏(だいり)ガランしょう。のお引越ん。孝徳帝絶望し、国位たい山崎(やまさき)山城(やましろ)乙訓(おとくに)山崎(やまさき)郷)す.

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白雉年(651)、難波宮はその異様なまでの大きさで人々の前に顕れていました。この年、孝徳天皇は新宮に遷り、難波(なにわの)長柄(ながらの)豊崎宮(とよさきのみや)(なづ)けました。難波は、大変ったしょうね。

大化改新(645)(みことのり)により新体制の政治が始まり、人々は期待っていしょう大スキャンダルってた。

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(この大極殿の北に内裏がありました)


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# by tizudesiru | 2017-01-04 12:24 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Comments(0)

189万葉集に隠された間人皇后の愛と悲劇

189間人皇后の愛と悲劇


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万葉集・とりかえばや物語(1)

万葉集の巻二は不思議な始まり方をしています。

(いわの)(ひめ)皇后(仁徳天皇の皇后)の歌で始まるのですが、これが本当に磐姫皇后の歌だとすると万葉集中で最古の歌になります

万葉集・巻二の冒頭歌は誰の歌なのか

   (いわの)(ひめ)皇后(おほきさき)、天皇を(しの)いて作らす歌四首

85 君が行き()(なが)くなりぬ 山たづね迎えか行かむ 待ちにか待たむ

   右一首は、山上憶良(やまのうへのおくらの)(おみ)類聚歌(るいじゅうか)(りん)()

   磐姫皇后が天皇を想って御作りになった歌四首

あのかたがお出かけになってからずいぶん日が経ちました。山に分け入りあの方をお迎えに行きましょうか。それとも、このまま待って待ち続けましょうか。(山上憶良臣の類聚歌林に掲載あり)


磐姫皇后が思っているのは、仁徳天皇です。仁徳天皇が出かけたまま帰らないというのです。天皇が他の女性のところに出かけているので嫉妬しているというのでしょうか。それにしても長い不在なのです。


86 
かくばかり恋つつあらずは高山の磐根し巻て死なましものを

これほどまでにあの方を恋しがっているよりは、あの方をお迎えに行って高山の岩を枕にいっそ死んでしまったほうがいい


87 
()りつつも君をば待たむ(うち)(なび)くあが黒髪に霜の置くまで

ずっとこのままあの方を待ち続けよう。打ち靡くようなわたしの黒髪に霜が降りたように白髪になってしまう時までも。


88 
秋の田の穂の()()らふ朝霞(あさかすみ)いつ()(かた)()が恋やまむ

秋の田の稲の穂の上に立ち込める朝霧がいつの間にか消えて行くように、わたしの恋も何時かどこかに消えて止むのだろうか。

   或本の歌に曰く


89 
居あかして君をば待たむ ぬばたまの吾が黒髪に霜はふるとも

   右一首、古歌集中に出ず

ずっとこのまま居てあの方を待っていましょうか。ぬばたまのように黒い私の髪に霜が降ったように白髪になるとしても。


85~88は連作になっています。89は別に「古歌集」から付け加えた歌です。

あの方が出かけて長く帰らないので、山に踏み入って迎えに行きたいが。

・いっそ険しく高い山の岩を枕に死にたいくらいあの方が恋しい…

・このままあの方をまちつづけよう。髪が白くなるまで。

・私の恋は朝霧のように消えることがあるのだろうか。

・(いえいえ、このまますっと何年でも白髪になってもあの方を待っていよう)

万葉集では、いっそ死にたいとまで思い詰めている磐姫皇后一体何があったのでしょうか。

いくら待ってもあの方は帰って来ない。こんなに待っているのに。


しかし、書紀の仁徳紀では、磐姫皇后は待ちません
。夫が他の女性を召そうとしても許しません。

むしろ、出かけて長く帰って来なかったのは磐姫皇后の方です。

磐姫は紀伊国に三綱(みつな)(かしわ)を取りに行ったのですが、皇后の留守をいいことに仁徳天皇は八田皇女を召しいれます。


難波まで帰って来てそれを知った皇后は怒って川を上って山背に去り、再び難波に帰ることはありませんでした。
仁徳天皇は磐姫皇后に「帰ってほしい」と歌を送ります。あれほど愛し合ったではないかと歌で呼びかけるのですが、皇后は聞きませんでした。

待ち続けたのは仁徳天皇の方です。

万葉集と日本書紀では、立場が逆転しているのです。


万葉集は鎮魂のための歌集です
言霊(ことだま)により(たま)にふれたり、霊魂を慰めたり鎮めたりする歌を集めた歌集です。そこに嘘を並べても意味がありませんし、むしろ、悪霊を刺激してしまうでしょう。

古代人は言霊を畏れました。死者の名を出さないようにしたし、(いみな)(本名)を口に出すことさえ避けたのですから。


万葉集は言霊が信じられた時代の歌集なのです。そこに嘘を並べても畏れ多いのですから、歌そのものは信頼できるでしょう。
或皇后の歌は存在したでしょう。

もし、それが磐姫皇后でなかったとしたら……

「もし」が可能なら、非常に恐ろしい事件が浮かび上がってくるのです。
また、明日


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# by tizudesiru | 2017-01-03 15:44 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Comments(0)

188孝徳天皇の難波宮を寿ぐ

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188孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌

わたしには、大化の改新の中心的存在であった孝徳天皇の御代の歌が万葉集中に一つもないことに疑問を持っていました。それは、何故か?

①孝徳天皇に歌の素養が無く、残されるべき歌がなかった。

しかし、書紀には孝徳天皇自身の歌が残されている。

➁万葉集編集者は、孝徳天皇の御代の歌を取り上げたくなかった。

孝徳帝の息子の有間皇子は繰り返し追慕され、後の世まで偲ばれている。

③孝徳天皇の御代の歌がないのは、単なる偶然である。

4500首の中に一首も無いのは偶然だろうか。

④元は孝徳天皇の御代の歌はあったが、後の世に意図的に削られた。

意図的に削ったのは誰か。その人物の削りたい理由は何か。

①②③④のいずれも問題あり、ですね。

しかし、わたしは④だと思っているのです。平城(なら)(みかど)万葉集と、文献てい万葉集編集の手を入れることができた人は、平城天皇です。家持死して二十年後のことでした。


そこで、平城天皇は確認されたでしょう、万葉集編纂の意図を。

元明天皇が激怒した理由も十分に承知されたでしょう。

そこに書かれていたのは、「天武から天智の皇統に皇位が戻ったことを易姓革命」と認識している桓武天皇の皇統にも、触れたくなかった何かということでしょうか。


そこで、桓武帝の皇子である
平城天皇が、万葉集に詔により大きな編集のメスを入れさせた、と思います。結果として、孝徳天皇の御代の歌が消えた。


しかし、です。

そのゴースト(影)は残ったのです。

孝徳天皇の名前が、仁徳天皇にすり替えられた。

何と畏れ多い、しかもゾッとするスリリングな話、と思われたでしょうか?


ですが、仁徳天皇を孝徳天皇に変えて読むと、万葉集の歌が生き生きとある歴史的な事件を伝えていることに気が付くのです。

それは、興味本意な面白さを追求した読み方になるのでしょうか。

この万葉集に込められた鎮魂の思いとドラマに、わたしは何度も泣きました。

万葉集は高貴な女性のために編まれた歌集です。

持統天皇の思いが溢れています。そして、額田王や鏡女王や元明天皇の切なる思いが、愛するものを奪われた悲しみが、読み手の胸を打つのです。


大伴家持は初期万葉集の意図と意義を十分に分かったうえで、藤原氏の陰謀を告発したのです。

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ということで、以前紹介した大阪城の前に広がる難波宮を思い出してください。難波宮は何度も皇居となりました。孝徳天皇・天武天皇・聖武天皇の御代に。


特に、
孝徳天皇の時代には、掘立柱の巨大な宮殿が造られました。

藤原宮や平城宮のような形式の宮殿なのです。

「形容のしようがないほどすばらしい」と云われた孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌こそ、難波津の歌なのです。

文化の起点は難波宮に在ったからこそ、難波津の歌が古今集に取り上げられ、かるた競技の始めに詠まれるようになったのです.



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では、孝徳天皇の物語も紐解いていかなければなりませんね。そして、家持が告発した藤原氏の悪行にも迫らねばなりません。政変のはざまではかない命を燃やした美しき女性たちの物語を、やはり共有したいと思います。
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誤解を招きそうなので、付け加えます。難波津の歌は、古今集の仮名序に紹介されている歌です。仁徳天皇の御代の始まりの歌とされています。ここにも、仁徳帝の名が使われていますが、(それなら、万葉集に掲載されてもいいでしょう)歌の通りに天皇の御代の始まりの歌なら、孝徳帝の難波の宮こそふさわしいと、わたしが思ったということです。
では、また明日



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# by tizudesiru | 2017-01-02 15:32 | 188孝徳帝の難波宮を寿ぐ | Comments(0)

187難波宮を寿ぐ歌

187孝徳帝の難波津の歌



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「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌は、

孝徳天皇の難波長柄豊崎の宮を寿ぐ歌ですよね!」

というと、こんな返事が帰って来ます。

「嘘! 難波津の歌は、仁徳朝を寿ぐ歌でしょう?!」

さて、どうなのでしょう。


聖帝としておなじみの仁徳帝の都は難波高津宮でした。それは、大阪城の辺りと言われています。確かに、孝徳帝の難波長柄豊崎宮に遺跡が重なるようにも見えます。


仁徳天皇の高津宮は何処だったのか、平安時代にも分からなかったのです。

貞観八年(866)、勅命により難波高津宮跡が探索され、その地に(今の大阪城の辺り)に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったという。しかし、豊臣秀吉が大阪城を築城する際に、現在地(比売古曽神社の境内に遷座し、比売古曽神社を地主神として摂社とした)に遷し難波高津神社とした。

平安時代の発掘調査が現代のような信頼のおけるものでなかったことはわかりますが。それにしても、大阪城の辺りにそれらしい遺構があったということですかねえ。


仁徳天皇の出自・父は応神天皇

仁徳天皇は、応神天皇(誉田(ほんだ)(わけ)天皇)の第四子でした。

仁徳(にんとく)天皇(なかつ)(ひめ)す。

誉田別天皇は、(じん)(ぐう)皇后のおなかの中に長くとどまらせ出産を遅れさせて生まれた天皇として知られています。

誉田別天皇(誉田天皇)宮・明宮(大隅(おおすみ)宮)軽島(かるしまの)豊明宮(とよあきらのみや)(奈良県橿原市大軽町に比定)難波にも大隅宮(東淀川区大隅・または中央区)古事記には軽島之明宮となっている。七一歳で即位百十一歳で崩御。


父の誉田天皇は、末子の
菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)皇子皇太子大山守(おおやまもり)皇子不服謀反大鷦鷯(おおさざき)皇子謀反を知り郎子郎子大山守た。皇子書紀てい


兄を倒したにもかかわらず、三年間も大鷦鷯尊と皇位を譲りあい菟道稚郎子は即位しませんでした。そして、ついに自殺してしまいました。

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このような不可解な事件後に仁徳天皇が即位したのです。


民の
竈門(かまど)ない御覧った仁徳帝三年間ったという聖帝てい


仁徳帝の宮の修理は、仁徳十年からです。

さて、「難波津に」の歌は、仁徳帝のどの時点で詠まれたものでしょうか。

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ボロボロの宮室を見ながら、「さあ春になりました。ここ難波津に咲いている木の花は、長い冬をじっと耐えていましたが、春になったので今こそ良い時期だと咲き香っているのです。この花のように咲きほこってくださいませ」と帝の御代を詠んだというのでしょうか。


これも若干…不可解な話ですね。



今年は難波宮でスタートです。また後で
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# by tizudesiru | 2017-01-01 12:46 | 187難波宮を寿ぐ歌 | Comments(0)

186聖武帝の不運と不幸(3)

186聖武天皇の不運と不幸

聖武天皇の不幸は上げればきりがありませんが、その不幸の中で唯一心許せる人物がいたとしたら、橘諸兄でした。その変わらぬ忠誠心を信頼していたのです。「橘は」の歌は元正太上天皇の御製歌という説もあると左脚に注があります。

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1009 橘は実さえ花さえその葉さえ ()に霜降れどいや常葉(とこは)の木

橘は実も花も素晴らしい。その葉は霜が降っても決して変わらず青々としてますます栄えて行く木である。(まるで汝の変わらぬ忠誠心のようではないか)

その忠誠心のまま、諸兄は聖武帝に仕えました。ただ、聖武帝は娘の阿倍内親王に譲位しようと考えていました。そうすると、天武朝の皇統が消えてしまうと諸兄は心配していました。

天平十八年正月・太上天皇(元正)の御在所に雪を払いに行った後の宴席で

橘の諸兄が詔に応えて詠みました。

3922 降る雪の白髪までに大皇(おほきみ)もあ