193人麻呂編集の万葉集

193人麻呂編集の万葉集

初期万葉集は有間(ありま)皇子事件を意識していると、既に書きました。

それは、巻一と巻二の冒頭を見ればわかってきます。


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1 雄略帝(
大泊瀬稚(おおはつせわか)(たけ)天皇)の歌

2 舒明帝((おき)長足(ながたらし)()(ひろ)(ぬか)天皇)の歌 *間人(はしひと)皇后の父

3 中皇(なかつすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)に献じさせた歌 *中皇命は間人皇后

4 反歌

(5 軍王の歌・6 反歌)この歌については別の機会に触れます

前記のように並んだ後に、一気に「有間皇子謀反事件」関係の歌に突入するという並びだったと思います。

つまり、1、2、3、4、(5、6)7、9、1011128、と並んでいたと思うのです。あくまで、そう思うだけです。時間軸で考えれば。ただ、熟田津が四国の港ではなく、難波のにぎやかしい港であったなら、この順番は変わるでしょう。

というのは、8番歌の左脚に類聚歌(るいじゅうか)(りん)からの長々とした説明が引用してあるからです。

内容は「舒明天皇がその元年(639)に大后と共に伊予の湯に行幸された。その後、斉明天皇七年(661)に熟田津の(いは)()の仮宮に泊まり、昔日の想い出のものを見て、(かん)(あい)(こころ)を起こされた。この故によりて天皇が御歌をつくり哀傷(かな)しまれた。

その哀傷の歌が「熟田津に船乗りせむと」という堂々とした歌だというのです。本当に、この歌なのでしょうか。

色々考えるべき点はあるのですが……



巻二は、仁徳天皇の皇后・磐之姫で始まりますが、その歌が仁徳天皇(難波高津宮御宇天皇)代ではなく孝徳天皇(難波長柄豊崎宮御宇天皇)代であったなら…と、両天皇が入れ替えられていたのなら、間人皇后が磐之姫皇后に、すり換えられていたら…やはり、有間皇子事件に行き着きます。

わたしは、後の世の人が、「難波天皇には違いないが、長柄を高津に入れ替えた。間人皇后とは書かず中皇命と書いた」と思うのです。

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更に巻二の挽歌の冒頭の扱いです。

もともと万葉集には、事件と人が分かるように歌が掲載されていたと思います。しかし、高貴な人の手により、主役が消された。

そこに、大きなスキャンダルが隠れていると、私は考えたのです。

中皇命の実名が一度も出てこないのは、高貴な女性だったからです。

天皇・皇太子・皇太后・帥・大臣・〇夫人などの表現も人名を裂けています。が、当時の人には人物が特定できたのでした。万葉集が分かりにくいのは、「いつ誰が何の(誰の)ために編纂したのか」見えにくいからです。これは、万葉集を読む時、常に大きな問題でした。

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持統天皇が人麻呂に詔して鎮魂の歌集を編纂させた」ようだと、ここまでは述べてきました。

誰のための歌集なのかも述べたつもりですが、まだしっかり伝え切れていないようですね。

万葉集の「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌を読むと、持統天皇の物語が万葉集の中に展開します。

しかし、万葉集には他にもあまたの物語が組み込まれ埋め込まれ、隠されています。古代史の政変も王朝の光芒もスキャンダルも、勝者ばかりでなく敗者の物語も。


むしろ、敗者のための歌集であったのかも知れません、万葉集は。

しかも、万葉集を受け継いだ大伴家持は万葉集を男性の物語歌集に変えたのです。

そして、時代に翻弄された惜しむべき人々の運命と宿命を言霊として万葉集に託したのでした。





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# by tizudesiru | 2017-01-07 13:54 | 193人麻呂編集の万葉集 | Comments(0)

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

有間(ありま)皇子と(こう)(とく)(36代天皇)の皇后だった間人(はしひと)皇女の物語を僅か首の歌に見ました。が、何度も言うように、この物語は万葉集ができた当初は隠されてはいなかったと私は思っています。

堂々と、しかも読み手に分かるように柿本人麻呂が編集していたと、私は考えているのです。

難波(なには)天皇の「難波長柄(ながらの)豊崎(とよさきの)宮御宇(みやにあめのしたしらしめす)難波高津(たかつ)宮御宇」仁徳天皇(16代天皇)に変えたのは、後の人です。

後の学者も各歌の信憑性を疑い、様々に検討を加えています。巻二の冒頭の「(いわの)(ひめ)皇后の歌」には納得しかねたのでしょうか。詳しい左脚があるのです。

磐姫皇后の御歌で85~89の歌の内、山上憶良(やまうえのおくら)の「類聚歌(るいじゅうか)(りん)」にあったのは、85だけだとを入れています。

それでは、86~89は誰がここに置いたのか。89は「古歌集」から選ばれたのですから、それは編集者の手元にあった「古歌集」からの引用に他なりません。

86~88の三首は、言葉と表現方法から「柿本人麻呂」の作だと云われています。

すると、人麻呂は熟慮の結果として「磐姫の四首を並べた」のでしょう。


さて、
(いわの)(ひめ)皇后の四首の後に、軽太郎女(かるのおほいらつめ)の歌(90)が置かれています。

この90番歌が、磐姫皇后の85番歌とそっくりなのです。

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これは、軽太郎女の決心を歌ったものです。

万葉集中の磐姫皇后は、大変けなげで書紀の磐之姫とはかなり違って、「どんなに年を取ろうと白髪になろうとあの方をお待ちしよう」と決心していました。


しかし、軽太郎女は違います。

軽太郎女は決然と立ち上がり、太子を迎えに行くのです。


軽太郎女(軽太娘)皇女の歌が語る政変

90 君が行き()長くなりぬ山たづの迎えを往かむ待つには待たじ

あの方がお出かけになってからずいぶん日が経った。お迎えに往こう。このまま待って、待ち続けるなんてできない。

万葉集には「右の一首は、古事記と類聚歌林というところに同じくあらず」と書かれ、磐姫皇后の御綱柏を海に投げ捨てた嫉妬の話が先に紹介された後、「また曰く」と、軽太子と軽太郎女の話が紹介されています。


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左脚には「遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰(をあさづまのわくごのすくねの)天皇(すめらみこと)(19代・允恭天皇)の二十三年の春三月、(きのえ)(うま)の朔の庚子(かのえね)に、()(なしの)軽皇子(かるのみこ)を太子となすてい

書紀の允恭天皇紀(19代)によると、確かに、仁徳天皇(16代)の三子・允恭天皇(履中天皇の弟)の二十三年に、木梨軽皇子が皇太子(ひつぎのみこ)二十四年太郎女密通まいす。木梨皇子皇太子であったず、伊予皇女た。

安康(あんこう)天皇紀20代)によると、允恭天皇四十二年正月に天皇崩御。冬十月、皇太子暴虐(軽太郎女との問題)のため群臣の信頼を損ない、群臣が弟の(あな)()皇子ついった穴穂皇子とうし、穴穂皇子太子物部大前宿祢自害伊予


となっているのです。しかし、よく見ると木梨軽皇子は伊予には流されていません。物部大前宿祢の家に逃げ込んだのですから。事の発覚が允恭二十四年で、自害は天皇崩御の四十二年になっています。


このズレの意味は何でしょうか。

古事記では、軽太子は大前小前宿祢の家に逃げ兵器を備えたが、穴穂皇子が軍を興して大前小前宿祢の家を取り囲んだ。

しかし、宿祢は太子を説き伏せ「われ捕らえて貢進せん」と軽太子を差し出したので、太子は伊予に流された。

宿禰は、ほかに軽皇子を救う方法がなかったのでしょう。


そこで、軽太娘皇女が「君が行きけ長くなりぬ」と歌うのです。

皇女は軽皇子を追い到り、お互いに歌を交わしました。そして、「共に自ら死にたまひき」という結末になります。

 

古事記・日本書紀ともに、共通するのは「謀反」事件です。

それも、皇太子の謀反ではありません。皇位を奪ったのは、他の皇位継承者でした。軽太子をスキャンダルで追い詰め、流罪にし、死に到らしめたという…

どこかで見たような展開です。


そうです。
皇太子をスキャンダルで追い込み、死に至らしめる、まるで有間皇子事件にそっくりではありませんか。

軽太娘皇女の歌が万葉集に置かれた意味はここにあります。

当時の人には、万葉集・巻二の冒頭の五首の意味が全て分かったことでしょう。

驚きの編集と云わねばなりませんね。




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# by tizudesiru | 2017-01-06 23:55 | Comments(0)

191 消された物語・有間と間人

191消された物語・有間皇子と間人皇后

有間皇子と間人皇太后の歌は、万葉集の扉を開ける鍵の一つです。

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中皇(なかつすめら)(みこと)は、有間皇子と自分とを同等に並べて歌を詠みました。

以前に紹介した時は、訳文に「陛下」とは書かず「殿下」を使い、皇太子として間人皇太后が有間皇子に接したように書きました。

しかし、今回は有間皇子を「難波長柄豊崎宮御宇天皇」の跡継ぎとして、ほとんど玉璽を渡された状態であるとして訳文を書きました。

つまり、有間皇子を追って来たのは中皇(なかつすめら)(みこと)(玉璽を預かっている人)なのです。これには重大な意味があります。

書紀では、斉明帝に玉璽(ぎょくじ)ったようてい中皇命存在以上大王(おおきみ)御璽(みしるし)孝徳帝ってい間人(はしひと)皇太后以外

10「陛下、お気持ちをお察しいたします。陛下がこの先どれほど命を永らえられるか、わたくしの命さえどれほどのものであるか、誰が知っているでしょう。ですが、岩代のあの岩ばかりの岡の草は根を深く下ろし、あのように命をしっかりとつないでおります。岩代の岡はその命運を知っているのでしょうか。さあ、あの岡の草根を結んで、互いの命の永からんことを祈りましょう。」

皇子も応えました。

「貴女の云う通り、この岩代に生える松は根を深く下ろし、これからも長く命をつないでいくのだろう。わたしもその永からん命を願って松の枝を引き寄せて結んでおこう。わたしに神の御加護があれば、再びここに還って来る。そして、この松を見たい。貴女も見たいのだ。」

皇后の歌は、他にも二首あります。若い有間皇子を間人皇太后は何故追いかけて来たのか。

皇子の紀伊国への護送(旅)がどんな意味を持っているのか、間人は十分に承知して追いかけて来たのです。


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11「陛下、白浜が見えております。明日、出立の松原を過ぎれば、太后のおられる白浜も遠くは有りません。太后はわたくしの母ではありますが、母の意にそわず難波宮に残ったわたくしの言葉など聞いては下さいますまい。まして、兄にすれば。…陛下、今夜はどうぞごゆっくりお休みくださいませ。草が足りなければ、陛下が結ばれたあの小松の下の草をお刈りくださいませ。必ず陛下のお体をお包みしてお慰めすることでしょう。」

間人皇太后は、有間皇子を「わが背子」と呼びました。

背子は特別な親しい間柄に使われる表現です。

有間皇子は間人皇太后にとって特に親しい男性だったことになります。

そして、次の日になりました。

12「陛下、今一度お声を聴きとうございます。わたくしがかねてより見たいと申し上げていた野島は見せていただきました。あの野島の海人が潜水して白玉を得ているのですね。願いを懸ける白玉を。でも、陛下は白玉を拾おうとはなさらなかった。底深い阿胡根の浦の白玉を拾って祈ろうとはなさらなかった。わたくしの心には深い恨みが残りました。ああ、白玉を拾って祈りたかったのに。」

以前は「陛下」とは書かず「殿下」と書きました。しかし、今は、夫の孝徳天皇が難波宮に倒れた時から「皇后」としての立場に戻った間人皇后は、孝徳天皇崩御の後は「中皇命」として難波宮に玉璽(ぎょくじ)を以って行政の処理をしていたと思います。昔も今もトップの死によって、行政がストップすることはないのです。百官がいましたから。

有間皇子の歌は、挽歌の二首だけです。歌の中では、皇子はへりくだってはいません。額田王が詠んだように「最後の瞬間まで皇子は凛としていた。「い立たせりけむいつ橿が本」凛としてお立ちになっていた厳橿の下に。死に臨んで木の下にお立ちになった時も。

有間と間人の二人の歌は、中皇命(間人皇太后)の歌3首。有間皇子の歌2首です。

僅か5首の歌が、なんと多くのことを教えてくれるのでしょう。

これら5首から読めるのは、二人は深く愛し合っていた、ことです。

理由は一つ、孝徳帝の崩御後、難波宮の後宮は皇太子が受け継いだのです。


それで、間人皇太后は難波長柄豊崎宮に残ったのでした。

有間皇子に玉璽が渡る。

世間はそう思ったでしょう。

その世間を欺くように、有間皇子は連れ去られた。

待つべきか、追いかけるべきか。いや、何があってもわたしが迎えに行く。


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しかし、その愛は有間皇子謀反事件によって断ち切られました。

間人皇太后の怒りと悲しみはいかばかりだったことでしょう。決して、兄・中大兄皇子を許さなかったと思います。

中皇命が玉璽を渡さなかったから、中大兄は皇位につけなかったのです。

中大兄は、皇祖母尊と間人皇太后の葬儀を済ませ陵墓に葬った後に即位しました。

また、有間皇子事件(658)後に、皇子の後宮は天智天皇の後宮へと変更された。

更に、壬申の乱後は、天武帝の後宮に変更されたのです。

それでなくては、宮廷に仕える女性たちは、政変の度に彷徨わねばなりません。

それがどんなに過酷でも、宮廷の女性も生きているのですから。

まず、間人皇太后の愛と、断たれてしまった思いについて書きました。

持統天皇はこの有間皇子を幾度も思い出し、その霊魂を慰め鎮めました。その意味は、まだ十分に書いていません。



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# by tizudesiru | 2017-01-05 22:04 | 192有間皇子と間人皇后の物語 | Comments(0)

191間人皇后の難波宮脱出

191間人皇后の難波宮脱出

間人皇后の愛と悲劇・とりかえばや物語

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間人皇后が難波宮を去ったわけ

間人(はしひと)皇女が孝徳帝の大后(皇后)に立てられたのは、幾つの時でしょうね!

大化改新の時、中大兄皇子は十九歳(十八歳)くらいで、その妹ですから十五歳くらいでしょうか。そんな少女が初老も過ぎた男性に嫁がねばならないとはあまりに過酷な話です。

大后に昇れる女性は皇族に限られましたが、皇女とはいえ間人は子どもみたいなもので無理な話ですよね。


その皇后が、突然皇居を去るのです。皇后に立って九年目の出来事でした。

(はく)()四年(653)、(やまとの)(みやこ)に遷りたい」という中大兄皇子の申し出に対し、孝徳天皇は許しませんでした

しかし、中大兄皇子は母の皇祖母命と間人皇后を奉り、合わせて皇弟達を連れて、飛鳥の河辺(かわべの)行宮(かりみや)に移りました。すると、公卿大夫や百官の人も皆従て移った

中大兄皇子が突然言い出して、母と妹を引き連れて飛鳥に戻ったことになっています。理由は書かれていません。

皇后(きさき)皇祖母(すめみおやの)(みこと)・皇太子が揃って皇居を出て行くのはおかしな話です。何があったのでしょう。


少し大人になった皇女が、「倭京に戻る」と言い出した、皇后となって初めて恋をした、この展開なら納得できる話です。「難波宮を出たい」と言い出したのは皇后だったのではないか。斉明皇太后も中大兄皇子も、この妹に諦めさせる方法を持たなかった…

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万葉集に「中皇(なかのすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)(たてまつ)らしめたまふ歌」が掲載されています。父の(じょ)(めい)天皇に、幼い中皇(なかつすめら)(みこと)(間人皇女)が「自分は儀式歌を詠めない」ので、代わりに間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)献上させた歌だというのです。

(じょ)(めい)天皇(641没)の在位は十三年間ですが、皇女はその間に生まれて歌を献上させるほどに成長したというのでしょうか。納得できない話ですね。

十歳くらいの少女が高貴な血をもってして巫女的な仕事をしていた(?)とは考えられません。巫女的な仕事をするべき皇后(皇極)は、お傍におられるのですから。

はたまた、ここで疑いの心が芽生えてしまうのです。

この歌は、舒明天皇のために献じられたのだろうか、と。

しかも、この歌は「()()の野に遊猟(みかり)したまう時」に献じさせた歌です。

おや!? ()()(奈良県旧宇智郡)ですか?

あの菟道稚郎子(うぢのわきのいらいこ)の宮処の比定地として、京都府宇治と奈良県宇智郡の二か所が候補地に挙げられています。

宇治若郎子(うぢのわきのいらつこ)とも書き仁徳帝と皇位を譲りあった皇太子です。

ここ巻一から、そこはかとなく菟道稚郎子の話「正式の皇太子の悲劇」がにおい立って来ました。

更によく見ると、万葉集・巻一の3番4番歌に続くのは、5讃岐(さぬき)国に(いでま)す時に、(いくさの)(きみ)が山を見て作る歌」6「反歌」ですが、おかしなことに舒明天皇の讃岐国行幸は日本書紀には書かれていないのです。軍王も何処のどんな人か不明です。一体どの天皇の話なのでしょう。

更に、7番歌は、額田王(ぬかたのおほきみ)のあの歌です。

 秋の野の()草刈(くさかり)()き宿れりし()()のみやこのかりほ(仮庵)し(おも)ほゆ

よくよく見ると、3・4・(5・6)・7と菟道稚郎子と共に悲劇の皇太子の事件を読み手に思い出させているようです。

8番歌は、額田王か斉明天皇御製歌とされる九州に向かう船出の歌ですね。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今はこぎでな

その後に、万葉集には、

有間皇子事件の目撃者としての「紀伊国に幸す時、額田王が造る歌」が置かれていましたね。(すでに、紹介しています)

考えてみると、百済救援のための征西は斉明七年(661)で、有間皇子の事件は斉明四年(658)なので、8番歌より9101112番歌が時期的には早く詠まれた歌になります。しかし、時期を無視して、『熟田津』の歌が有間皇子事件の歌の前に挿入されているのです

額田王の歌が、7・9と並んだら、そこに有間皇子と菟道稚郎子があっさりと結びついてしまうでしょう。

7 秋の野の美草刈葺き宿れりし菟道のみやこの仮庵しおもほゆ

9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立たせりけむいつ橿が本

そして続いて、

10・11・12と中皇命の「紀伊国に往す時の歌」がくれば、有間皇子事件の歌が並ぶことになってしまうのです。

もともと巻一は有間皇子事件に向かって編集されていました。

それが、今日の結論です。

また、明日



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# by tizudesiru | 2017-01-05 10:35 | 191間人皇后の難波宮脱出 | Comments(0)

190間人皇后の愛と悲劇(2)

190間人皇后の恋

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なぜ、間人(はしひと)皇后(こう)(とく)ったしょう

書紀によると、孝徳帝は皇后に歌を送って言われました。

金木(かなき)()(こま)()()吾が人見(ひとみ)

あれほど大事に後宮の奥深くに置いて人目に触れないようにしていたのに、貴女を人が見たというのか(誰かがあなたに手を出したというのか、その事で貴女は後宮を去ったのか)

「見る」という行為は、万葉集の時代「眺める」ではないのです。皇后が誰かを愛したのではないかと、後宮であってはならないことを問いかけている歌です。世間では、間人皇后が愛したのは中大兄皇子だと云われています。

そうでしょうか。

であれば、大スキャンダルで中大兄皇子は極位には着けません。

わたしは、皇后の愛した相手は兄ではないと思います。

中大兄はそんな危ない橋は渡らない、用意周到な計算高い人で、あの藤原鎌足が見込んだ男です。鎌足は孝徳帝から中大兄皇子に乗り換えたのですから。

間人皇后の相手は中大兄皇子ではありえません。

大后(おほきさき)は、後宮中宮トップ地位にあ

その大后が仕えていた者を引き連れて、(さい)明皇太后(めいこうたいごう)難波宮内裏(だいり)ガランしょう。のお引越ん。孝徳帝絶望し、国位たい山崎(やまさき)山城(やましろ)乙訓(おとくに)山崎(やまさき)郷)す.

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白雉年(651)、難波宮はその異様なまでの大きさで人々の前に顕れていました。この年、孝徳天皇は新宮に遷り、難波(なにわの)長柄(ながらの)豊崎宮(とよさきのみや)(なづ)けました。難波は、大変ったしょうね。

大化改新(645)(みことのり)により新体制の政治が始まり、人々は期待っていしょう大スキャンダルってた。

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(この大極殿の北に内裏がありました)


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# by tizudesiru | 2017-01-04 12:24 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Comments(0)

189万葉集に隠された間人皇后の愛と悲劇

189間人皇后の愛と悲劇


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万葉集・とりかえばや物語(1)

万葉集の巻二は不思議な始まり方をしています。

(いわの)(ひめ)皇后(仁徳天皇の皇后)の歌で始まるのですが、これが本当に磐姫皇后の歌だとすると万葉集中で最古の歌になります

万葉集・巻二の冒頭歌は誰の歌なのか

   (いわの)(ひめ)皇后(おほきさき)、天皇を(しの)いて作らす歌四首

85 君が行き()(なが)くなりぬ 山たづね迎えか行かむ 待ちにか待たむ

   右一首は、山上憶良(やまのうへのおくらの)(おみ)類聚歌(るいじゅうか)(りん)()

   磐姫皇后が天皇を想って御作りになった歌四首

あのかたがお出かけになってからずいぶん日が経ちました。山に分け入りあの方をお迎えに行きましょうか。それとも、このまま待って待ち続けましょうか。(山上憶良臣の類聚歌林に掲載あり)


磐姫皇后が思っているのは、仁徳天皇です。仁徳天皇が出かけたまま帰らないというのです。天皇が他の女性のところに出かけているので嫉妬しているというのでしょうか。それにしても長い不在なのです。


86 
かくばかり恋つつあらずは高山の磐根し巻て死なましものを

これほどまでにあの方を恋しがっているよりは、あの方をお迎えに行って高山の岩を枕にいっそ死んでしまったほうがいい


87 
()りつつも君をば待たむ(うち)(なび)くあが黒髪に霜の置くまで

ずっとこのままあの方を待ち続けよう。打ち靡くようなわたしの黒髪に霜が降りたように白髪になってしまう時までも。


88 
秋の田の穂の()()らふ朝霞(あさかすみ)いつ()(かた)()が恋やまむ

秋の田の稲の穂の上に立ち込める朝霧がいつの間にか消えて行くように、わたしの恋も何時かどこかに消えて止むのだろうか。

   或本の歌に曰く


89 
居あかして君をば待たむ ぬばたまの吾が黒髪に霜はふるとも

   右一首、古歌集中に出ず

ずっとこのまま居てあの方を待っていましょうか。ぬばたまのように黒い私の髪に霜が降ったように白髪になるとしても。


85~88は連作になっています。89は別に「古歌集」から付け加えた歌です。

あの方が出かけて長く帰らないので、山に踏み入って迎えに行きたいが。

・いっそ険しく高い山の岩を枕に死にたいくらいあの方が恋しい…

・このままあの方をまちつづけよう。髪が白くなるまで。

・私の恋は朝霧のように消えることがあるのだろうか。

・(いえいえ、このまますっと何年でも白髪になってもあの方を待っていよう)

万葉集では、いっそ死にたいとまで思い詰めている磐姫皇后一体何があったのでしょうか。

いくら待ってもあの方は帰って来ない。こんなに待っているのに。


しかし、書紀の仁徳紀では、磐姫皇后は待ちません
。夫が他の女性を召そうとしても許しません。

むしろ、出かけて長く帰って来なかったのは磐姫皇后の方です。

磐姫は紀伊国に三綱(みつな)(かしわ)を取りに行ったのですが、皇后の留守をいいことに仁徳天皇は八田皇女を召しいれます。


難波まで帰って来てそれを知った皇后は怒って川を上って山背に去り、再び難波に帰ることはありませんでした。
仁徳天皇は磐姫皇后に「帰ってほしい」と歌を送ります。あれほど愛し合ったではないかと歌で呼びかけるのですが、皇后は聞きませんでした。

待ち続けたのは仁徳天皇の方です。

万葉集と日本書紀では、立場が逆転しているのです。


万葉集は鎮魂のための歌集です
言霊(ことだま)により(たま)にふれたり、霊魂を慰めたり鎮めたりする歌を集めた歌集です。そこに嘘を並べても意味がありませんし、むしろ、悪霊を刺激してしまうでしょう。

古代人は言霊を畏れました。死者の名を出さないようにしたし、(いみな)(本名)を口に出すことさえ避けたのですから。


万葉集は言霊が信じられた時代の歌集なのです。そこに嘘を並べても畏れ多いのですから、歌そのものは信頼できるでしょう。
或皇后の歌は存在したでしょう。

もし、それが磐姫皇后でなかったとしたら……

「もし」が可能なら、非常に恐ろしい事件が浮かび上がってくるのです。
また、明日


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# by tizudesiru | 2017-01-03 15:44 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Comments(0)

188孝徳天皇の難波宮を寿ぐ

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188孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌

わたしには、大化の改新の中心的存在であった孝徳天皇の御代の歌が万葉集中に一つもないことに疑問を持っていました。それは、何故か?

①孝徳天皇に歌の素養が無く、残されるべき歌がなかった。

しかし、書紀には孝徳天皇自身の歌が残されている。

➁万葉集編集者は、孝徳天皇の御代の歌を取り上げたくなかった。

孝徳帝の息子の有間皇子は繰り返し追慕され、後の世まで偲ばれている。

③孝徳天皇の御代の歌がないのは、単なる偶然である。

4500首の中に一首も無いのは偶然だろうか。

④元は孝徳天皇の御代の歌はあったが、後の世に意図的に削られた。

意図的に削ったのは誰か。その人物の削りたい理由は何か。

①②③④のいずれも問題あり、ですね。

しかし、わたしは④だと思っているのです。平城(なら)(みかど)万葉集と、文献てい万葉集編集の手を入れることができた人は、平城天皇です。家持死して二十年後のことでした。


そこで、平城天皇は確認されたでしょう、万葉集編纂の意図を。

元明天皇が激怒した理由も十分に承知されたでしょう。

そこに書かれていたのは、「天武から天智の皇統に皇位が戻ったことを易姓革命」と認識している桓武天皇の皇統にも、触れたくなかった何かということでしょうか。


そこで、桓武帝の皇子である
平城天皇が、万葉集に詔により大きな編集のメスを入れさせた、と思います。結果として、孝徳天皇の御代の歌が消えた。


しかし、です。

そのゴースト(影)は残ったのです。

孝徳天皇の名前が、仁徳天皇にすり替えられた。

何と畏れ多い、しかもゾッとするスリリングな話、と思われたでしょうか?


ですが、仁徳天皇を孝徳天皇に変えて読むと、万葉集の歌が生き生きとある歴史的な事件を伝えていることに気が付くのです。

それは、興味本意な面白さを追求した読み方になるのでしょうか。

この万葉集に込められた鎮魂の思いとドラマに、わたしは何度も泣きました。

万葉集は高貴な女性のために編まれた歌集です。

持統天皇の思いが溢れています。そして、額田王や鏡女王や元明天皇の切なる思いが、愛するものを奪われた悲しみが、読み手の胸を打つのです。


大伴家持は初期万葉集の意図と意義を十分に分かったうえで、藤原氏の陰謀を告発したのです。

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ということで、以前紹介した大阪城の前に広がる難波宮を思い出してください。難波宮は何度も皇居となりました。孝徳天皇・天武天皇・聖武天皇の御代に。


特に、
孝徳天皇の時代には、掘立柱の巨大な宮殿が造られました。

藤原宮や平城宮のような形式の宮殿なのです。

「形容のしようがないほどすばらしい」と云われた孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌こそ、難波津の歌なのです。

文化の起点は難波宮に在ったからこそ、難波津の歌が古今集に取り上げられ、かるた競技の始めに詠まれるようになったのです.



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では、孝徳天皇の物語も紐解いていかなければなりませんね。そして、家持が告発した藤原氏の悪行にも迫らねばなりません。政変のはざまではかない命を燃やした美しき女性たちの物語を、やはり共有したいと思います。
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誤解を招きそうなので、付け加えます。難波津の歌は、古今集の仮名序に紹介されている歌です。仁徳天皇の御代の始まりの歌とされています。ここにも、仁徳帝の名が使われていますが、(それなら、万葉集に掲載されてもいいでしょう)歌の通りに天皇の御代の始まりの歌なら、孝徳帝の難波の宮こそふさわしいと、わたしが思ったということです。
では、また明日



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# by tizudesiru | 2017-01-02 15:32 | 188孝徳帝の難波宮を寿ぐ | Comments(0)

187難波宮を寿ぐ歌

187孝徳帝の難波津の歌



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「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌は、

孝徳天皇の難波長柄豊崎の宮を寿ぐ歌ですよね!」

というと、こんな返事が帰って来ます。

「嘘! 難波津の歌は、仁徳朝を寿ぐ歌でしょう?!」

さて、どうなのでしょう。


聖帝としておなじみの仁徳帝の都は難波高津宮でした。それは、大阪城の辺りと言われています。確かに、孝徳帝の難波長柄豊崎宮に遺跡が重なるようにも見えます。


仁徳天皇の高津宮は何処だったのか、平安時代にも分からなかったのです。

貞観八年(866)、勅命により難波高津宮跡が探索され、その地に(今の大阪城の辺り)に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったという。しかし、豊臣秀吉が大阪城を築城する際に、現在地(比売古曽神社の境内に遷座し、比売古曽神社を地主神として摂社とした)に遷し難波高津神社とした。

平安時代の発掘調査が現代のような信頼のおけるものでなかったことはわかりますが。それにしても、大阪城の辺りにそれらしい遺構があったということですかねえ。


仁徳天皇の出自・父は応神天皇

仁徳天皇は、応神天皇(誉田(ほんだ)(わけ)天皇)の第四子でした。

仁徳(にんとく)天皇(なかつ)(ひめ)す。

誉田別天皇は、(じん)(ぐう)皇后のおなかの中に長くとどまらせ出産を遅れさせて生まれた天皇として知られています。

誉田別天皇(誉田天皇)宮・明宮(大隅(おおすみ)宮)軽島(かるしまの)豊明宮(とよあきらのみや)(奈良県橿原市大軽町に比定)難波にも大隅宮(東淀川区大隅・または中央区)古事記には軽島之明宮となっている。七一歳で即位百十一歳で崩御。


父の誉田天皇は、末子の
菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)皇子皇太子大山守(おおやまもり)皇子不服謀反大鷦鷯(おおさざき)皇子謀反を知り郎子郎子大山守た。皇子書紀てい


兄を倒したにもかかわらず、三年間も大鷦鷯尊と皇位を譲りあい菟道稚郎子は即位しませんでした。そして、ついに自殺してしまいました。

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このような不可解な事件後に仁徳天皇が即位したのです。


民の
竈門(かまど)ない御覧った仁徳帝三年間ったという聖帝てい


仁徳帝の宮の修理は、仁徳十年からです。

さて、「難波津に」の歌は、仁徳帝のどの時点で詠まれたものでしょうか。

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ボロボロの宮室を見ながら、「さあ春になりました。ここ難波津に咲いている木の花は、長い冬をじっと耐えていましたが、春になったので今こそ良い時期だと咲き香っているのです。この花のように咲きほこってくださいませ」と帝の御代を詠んだというのでしょうか。


これも若干…不可解な話ですね。



今年は難波宮でスタートです。また後で
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# by tizudesiru | 2017-01-01 12:46 | 187難波宮を寿ぐ歌 | Comments(0)

186聖武帝の不運と不幸(3)

186聖武天皇の不運と不幸

聖武天皇の不幸は上げればきりがありませんが、その不幸の中で唯一心許せる人物がいたとしたら、橘諸兄でした。その変わらぬ忠誠心を信頼していたのです。「橘は」の歌は元正太上天皇の御製歌という説もあると左脚に注があります。

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1009 橘は実さえ花さえその葉さえ ()に霜降れどいや常葉(とこは)の木

橘は実も花も素晴らしい。その葉は霜が降っても決して変わらず青々としてますます栄えて行く木である。(まるで汝の変わらぬ忠誠心のようではないか)

その忠誠心のまま、諸兄は聖武帝に仕えました。ただ、聖武帝は娘の阿倍内親王に譲位しようと考えていました。そうすると、天武朝の皇統が消えてしまうと諸兄は心配していました。

天平十八年正月・太上天皇(元正)の御在所に雪を払いに行った後の宴席で

橘の諸兄が詔に応えて詠みました。

3922 降る雪の白髪までに大皇(おほきみ)もあ

降る白雪のように白髪になるまで大王にお仕えいたしますことは、何ともありがたく尊いことであります。

橘諸兄は元正太上天皇にも信頼されていました。太上天皇が天武帝の皇子に皇統を継がせたいと内心考えておられることも知っていました。

「天武朝の皇統を守りたい」というのは、壬申の乱で活躍した氏族の願いでした。当然、大伴氏もその考えでしたので、諸兄と親交があったのです。

しかし、藤原氏と光明子が許しません。聖武帝は、内親王に譲位しました。

その後、安堵した聖武太上天皇が諸兄宅に招かれました。

そこで、諸兄の子・橘奈良麻呂が詠みました。

1010 奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すともつちに落ちめやも

奥山の雪は真木でさえ葉をしのぎ押伏せるでしょうが、どんなに雪が降り積んでも橘の実は土に落ちたりいたしません。

こんな橘氏が邪魔でないわけがありません、藤原氏にとって。

だから、橘奈良麻呂の謀反事件は起こりました。

748年 元正太上天皇没

756年 聖武太上天皇没 遺詔により道祖王を立太子

757年 一月橘諸兄没 七月橘奈良麻呂の謀反発覚

先手を打たねばなりません。やはり、諸兄(もろえ)半年後に陰謀の結果が出ました。半年後の法則です。拷問で自白させられた小野東人の告白により、有力者が獄に命を落としました。

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聖武太上天皇の遺言で皇太子になり廃太子されていた(ふな)()も 絶命

佐伯(さえき)大伴氏同族た。佐伯(さえきの)全成(またなり)顛末自白自害た。

大伴家持は既に藤原氏に近づいていました。


しかし、この事件は決定的に家持に深い傷を残したのです。

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奈良麻呂の謀反発覚の前の家持の歌

奈良麻呂の謀反発覚後の藤原の仲麻呂と淳仁天皇(まだ皇太子)の歌

ここに集約された藤原氏側の陰謀の証明

これらの歌については、いずれ触れましょうね。

そして、今年の最後の歌は、大伴家持の万葉集最終歌です。


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何もかも世の中は思い通りにはならず、大切にしていた友と主を亡くし、心あるものは命を奪われ、権力を振り回すものには物事の本質が読めず、弱いものは消されていく。

絶望に満ちた世で生きて行くのは、何のためなのか。


それでも、家持は言霊の力に一筋の望みを託して詠みました。

どうぞ良いお年を。


新しき年の初めの初春(はつはる)今日降()(ごと)








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# by tizudesiru | 2016-12-31 14:32 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)

186聖武帝の不運と不幸(2)

186 聖武天皇の不運と不幸(2)

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即位して間もない時に起こった「
長屋(ながやの)(おほきみ)の事件(729)」は、聖武天皇にとって衝撃だったでしょう。

太上天皇と長屋王の佐保(さほ)の新築の館に招かれて、楽しい宴会をした後の事件でしたから。元正太上天皇にとっても辛い出来事だったと思います。

それでも、元正太上天皇は聖武天皇を「我が子」として大事にしました。

太上天皇にとっては弟の文武天皇の忘れ形見であり、聖武天皇も優しい人がらだったようです。

元正太上天皇は、母の元明天皇の意思を甥に伝えることが使命でもありました。それは、確実に伝えられたと思われます。

それは、即位後の行幸を見ればわかります。

聖武天皇は即位(二月)

持統天皇の形見(かたみ)の地「吉野」に行幸(三月)

紀伊国行幸(十月)文武天皇・元明天皇、持統天皇・有間皇子の形見の地

聖武天皇の紀伊国行幸は「持統天皇最晩年の大宝(たいほう)元年(がんねん)(しん)(ちゅう)冬十月」と同じ季節に同じ場所を訪ねたのです。それも長い滞在でした。

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紀伊国では、頓宮(かりみや)位階名草(なぐさ)海部(あま)地名ゆえ手厚想像

そして、長屋王の変(729)

元正太上天皇と目指すべき方向を見定めていたのに、聖武天皇は残念だったと思います。

長屋王を(きゅう)(もん)した舎人(とねり)皇子・新田部(にいたべ)皇子・多治比(たじひの)池守(いけもり)藤原武智(むち)()()小野牛(おのうし)(かひ)す。吉備(きび)内親王・膳夫(かしはで)王・桑田(くわた)王・葛木(かつらぎ)王・(かぎ)(とり)四人男子た。「吉備内親王藤原氏の「藤氏家伝書」には、長屋王の変には一切触れていません。武智麻呂自分にかかわることなので書かなかったのです。

絶頂期に藤原四兄弟死す

天平七年(735)新田部皇子没・舎人皇子

天平八年(736)葛城王臣下に降下、橘氏の姓を賜う(橘諸兄)

天平九年(737)藤原房前・藤原麿・藤原武智麻呂・藤原宇合四兄弟没

光明子の兄の藤原四兄弟が天然痘で世を去ります。



聖武天皇と橘諸兄との蜜月


橘諸兄は、(あがた)犬養(いぬかいの)三千代(みちよ)()()二人た。父違光明子兄弟死後、橘氏当然


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葛城王が臣下に降下した時の聖武天皇の御製歌があります。

橘は実さえ花さえその葉さえ枝に霜降れどいや常葉(とこは)

天平勝四年(752)の御製歌は、阿倍内親王に譲位して太上天皇となった聖武帝が諸兄の宅で詠んだものです。

橘奈良麻呂(諸兄の子)と左大臣(橘諸兄)が応えて歌を詠みました。

大伴家持も同席していました。諸兄は左大臣まで上り詰めて、聖武帝を館に招くほど力もあったのです。

聖武帝と諸兄とを深く結びつけたのは、

天平十二年(740)藤原広嗣の乱だったでしょうか。

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広嗣の乱の後、聖武天皇は長く彷徨います。
平城宮を出て、紫香楽宮、恭仁宮…と京が変わるのでした。諸兄はその聖武帝を支え続けたのでした。

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もちろん、藤原氏は次の手を考えていました。




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# by tizudesiru | 2016-12-31 01:22 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)

186・聖武天皇の不運と不幸

186聖武天皇の不運と不幸

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聖武天皇の不運と不幸

その遠因は、帝(首親王=聖武天皇)の母があの藤原宮子で、皇后に昇る妻が藤原光明子だったことです。

マタニティブルーだったのか、宮子は三十数年も息子に会いませんでした。

光明子(安宿(あすかべ)媛)の母は犬養三千代で、文武帝と聖武帝の乳人(めのと)です。犬養三千代が安宿媛(光明子)と首皇子(聖武帝)を育てたのです。


その成長を元明天皇は危惧していました。

それでも、藤原氏の手により首親王の十五歳即位の準備は、前回書いたように着々と勧められていました。

しかし

祖母の元明天皇は、皇太子ではなく()(たか)内親王(ひめみこ)元正天皇に譲位しました。首皇子が元服立太子していたにもかかわらず、です。

藤原氏は元明天皇にしてやられたのです。

元明天皇の詔には(けん)(どう)は天を()べ、文明ここに(こよみ)(ぎょ)す。大きなる(たから)(くらい)といい(略)()りてこの神器を皇太子に譲らむとすれども、()(はい)幼く(わか)くして未だ深宮(しんきゅう)を離れず。(略)一品氷高内親王は、早く(しょう)()(天の授けるよいしるし)にかない、つとに徳音(とくいん)(よい評判)をあらわせり。(略)今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉くつつしみ奉りて、朕が(こころ)にかなふべし』


詔には首皇子が「若く幼く即位するには不十分」と言うのです。皇太子側には厳しい評価でした。育てた藤原氏側は恥をかかされた状態でしょう。


藤原氏は首親王に猛勉強させます。

715年 長親王(6月没)穂積親王(7月没)志貴親王(8月没)

9月・氷高内親王即位

716年 遣唐使任命有力者を国外へ出す

717年 難波行幸 藤原房前参議 

718年 藤原不比等ら養老律令撰進

719年 首親王始めて朝政に参画 新田部親王・舎人親王が皇太子の補翼を務める

720年 不比等没 日本書紀などを撰進

721年 元明天皇没 井上女王(首親王の娘)を伊勢宮の斎内親王とする

     *県犬養広刀自の生んだ女王の結婚のチャンスを断つ目的か
     実際に「伊勢の大神宮に侍らしむ」のは727年のこと。

724年 首親王即位


日本書紀の編纂に取り組んでいた舎人親王など、天武朝の有力者を皇太子の補翼を務めさせたのでした。
元明天皇が没すると、県犬養広刀自の生んだ皇女を斎内親王と決めます。彼女に有力者に嫁がれては困るので、伊勢神宮の斎宮とするのです。藤原氏側が先手を打ったのでした。

*後に、井上内親王は光仁天皇の皇后になるのですが、最後は皇太子と共に殺されました。広刀自に生まれた三人の子どもたちは全て消されました。

聖武天皇は自分の御子を残すことができませんでした。

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安積親王の突然死

聖武天皇の期待の皇太子(母・光明子)の(もとい)(おう)は生後一歳で死亡し、安積(あさかの)親王(みこ)(母・(あがた)犬養(いぬかいの)(ひろ)()())も若くして薨去し男子跡継

安積親王(728~744)は、十七歳で毒殺されたと言われます。

大伴家持は安積親王の内舎人(うちとねり)だったので、そのショックは大変なものでした。

聖武天皇はまことにお気の毒な帝でした。


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# by tizudesiru | 2016-12-29 17:37 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)

185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇

185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇

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長屋王の館は平城宮の南東にあり、宮城のすぐ近くでした。大規模な発掘があって大量の遺物・遺構が発見され、木簡も出ています。その木簡には『長屋親王』と書かれていて、元明天皇の「吉備内親王の男女を皇孫」としたことを裏づけるものでしょう。


万葉集の巻三に長屋王(
268番)の歌があります。非常に意味深な掲載の仕方になっています。人麻呂(266番)志貴皇子(267番)の後です。

266 (あふ)()夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)()(こころ)しの(いにしへ)

267 むささびは()(ぬれ)とあ()()()(あい)

268 ()背子古家(ふるへ)明日香千鳥(つま)

このように並ぶと、非常に悲しい出来事が浮かんできます。

この歌を詠む人たちには、淡海から近江朝の都の址を思い出させ、志貴皇子の歌から(子が光仁天皇として近江朝の皇統を取り戻したことを思い出させ)何も知らないムササビ(長屋王)が罠にかかって山の猟師(政敵)に殺されたことを思い出させる。そして、長屋王の歌。

父の高市皇子が造営した新益京はすっかり古くなってしまったが、たくさんの鳥が今でも主が帰って来るのを待っているのだろうなあ、と読めるのです。


この三首を読むと、いつもゾッとするのです。

万葉集に驚かされるのですが、ここは人麻呂の編集ではありません。人麻呂(柿本左留708没)、志貴皇子(716没)、長屋王(729没)の死後、時も変わり、事件の真相もほぼ明らかになった後に、すべてを知ることのできた人が編集したとしか考えられません。

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441番歌の倉橋部女王は長屋王の娘とされています。
442番歌は作者不明。これは大伴旅人の作と私は思っています。

次は、いろいろありますが、安積親王の毒殺事件ですかねえ…
お正月には きれいな歌にしたいですが…


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# by tizudesiru | 2016-12-28 10:50 | 185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇 | Comments(0)

184氷高内親王(元正天皇)の孤独

184氷高内親王(元正天皇)の孤独


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元正天皇の御製歌は、集中に八首ありますが、中でも巻八1637はドラマチックです。太上天皇とは譲位した元正天皇のことで、天皇とは聖武天皇です。


二人が揃って新築した長屋王の屋敷に招かれての御製歌です。


太上天皇


はだすすきや尾花をさかさまに葺き黒木を用いて作った新築の館は、万代までも長く栄えるだろう(栄えてほしい)


聖武天皇


奈良の山にある黒木を持ちて造った新築の館、此処はいつまでいても飽きることはない


聖武天皇の即位は、神亀元年(724)で、長屋王の変は神亀六年(729)です。太上天皇と聖武天皇が揃って長屋王の佐保の新室に訪問し、宴を楽しんだのは、この五年間のいずれかの日でしょう。


参列した長屋王家の人々は笑顔で高貴な二人を迎え、幸せを噛みしめたことでしょう。しかし、数年後には長屋王家の滅亡となるのです。


この時、吉備内親王と氷高内親王の姉妹は、お互いの幸せを喜び合ったのでしょうに。長屋王が無罪だったことを知らされた聖武天皇は、さめざめと泣かれたそうです。


氷高内親王は、草壁皇子と阿閇皇女の長女で文武天皇の姉です。

美しく賢い人で、幼い時から天武天皇に愛されたようです。

天武十一年八月()(たか)皇女(新家(にひのみ)皇女)の病のために、死罪以下の男女、合わせて百九十八人全員を赦免。翌日、百四十人余りを大官大寺で出家させた。


まだ三歳くらいの皇女のために百四十人も出家とは。この皇女が特別の位置にいたとしか考えられません。

これほど愛されながら、生涯独身で誰にも嫁いでいません。文武天皇が即位した時、十八歳の娘盛りだったので、結婚話があってもいいはずですが…

*内親王:大宝律令より皇子と皇女を親王・内親王と称した。

 奈良時代後半には、親王宣下のあった子女のみに使われた。

日高(氷高)皇女が結婚できなかった理由は、率直に考えて周囲の思惑が影響したこと以外に考えられません。天武天皇なら長屋王に嫁がせることを考えたと思います。しかし、天武帝は皇女が七歳の時崩御。

周囲の皇族が氷高皇女をゆくゆくは天皇位につけたいと考えての独身だったとしても、まだ、皇女の即位は例がない時期ですから、この説には無理があります。聖武天皇の皇女(阿倍内親王=孝謙天皇)は、天皇位に昇るということで独身でしたが。これは、日高皇女の例があったので、皇女からの極位に昇る条件のようにされたという説があります。


わたしには、
(すめろぎ)の血統を他に分けない為の手段のように思えてなりません。誰の意思だったのか、その人物は特定できるのではないでしょうか。



天皇の子女と後宮の女性は狭い世界に閉じ込められ、相手も自分で選ぶこともできず、権力者の意向に左右されて生きていたと思います。

その苦しさのために病気になるのは当然で、唯一近づけたのが学問を修めた僧であり、宮中に出入りできた僧正に後宮の女性は走ったのだと思います。光明子も僧玄昉との間によからぬ噂が立ちました。それを諫めたのが、甥の藤原広嗣の乱でした。後に光明子の娘の孝謙天皇も銅鏡との噂を立てられました。(しかし、銅鏡は罰されていないと思います。)

閉じられた世界には、悲惨な噂が立つものです。



藤原宮子が病気では後宮は不安定です。早く首皇子を即位させて光明子を入内させようと不比等は焦っていたでしょう。


藤原氏は首皇子の即位に向けて着々と準備を進めていました。


和銅七年(714)

六月、皇太子(首皇子十四歳)元服。立太子。天下に大赦す

和銅八年(715)

正月、皇太子、初めて礼服で拝朝(みかどおがみ)東方に慶雲あらわる

白狐献上、白はと献上。「元日に皇太子始めて拝朝して、瑞雲あらわる。天下に大赦すべし」の詔。(皇太子の拝朝を慶祝する瑞兆とした)

九月、元明天皇、氷高皇女に譲位。霊亀と改元



皇太子のために和銅七年と八年の二回、大赦を行っています。


次は即位だろうと、誰もが思うでしょう。しかし、即位したのは、氷高内親王だった。


元明天皇の決断でした。     


続日本紀には文武帝以下各天皇の即位の宣命を収載しているが、元正天皇の受禅(位を譲られること)、即位に関してのみは、漢文体の詔を載せるに過ぎない。これは元正即位の特異性を物語るか。(岩波・続日本紀・脚注)



日高内親王には母から託された使命があったと思います。


それは何だったのか。その使命を持って皇位につき、長屋王と聖武天皇を結びつけようとしたのでしょう。しかし、辛い結果になってしまった。


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次は、長屋王の悲劇



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# by tizudesiru | 2016-12-27 22:38 | 184氷高内親王の孤独 | Comments(0)

183元明天皇の愛と苦悩

183元明天皇の愛と苦悩


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元明(げんめい)天皇(阿閇(あへ)皇女)は、天智天皇の(みむすめ)で草壁皇子の妃でした。

持統天皇には異母妹で、息子(草壁)の嫁でした。

吉野盟約の後に草壁皇子と阿閇皇女の間に()(たか)皇女(元正(げんしょう)天皇)が生まれています。

持統三年(689)

草壁皇子の薨去(自死)は、阿閇皇女を打ちのめしたことでしょう。持統天皇は阿閇皇女を連れて紀伊國へ行幸しました。そこで詠まれたのが、阿閉皇女の勢能山の歌でした


夫亡き後に持統天皇に旅に誘われて紀伊国行幸に出かけた阿閇皇女は、背の山と妹山が紀ノ川を見ながら両岸から向かい合っている地に差し掛かりました。皇女は立ち止まって亡き夫を想い、涙を流されたでしょう。その時に詠まれた歌です。

まるで、七夕の牽牛と織女のように逢いたいと思いながら互いに川岸にたたずむ…織姫のような皇女の姿が浮かびます。

即位した持統帝は、幼い子供たちのために阿閇皇女に強い母になってもらわねばなりませんでした軽皇子(文武帝)は、まだ数えの八歳、氷高皇女が十歳、吉備皇女は六歳くらいでしょうか。

持統三年(689)

律令政治に舵を取り直す。六月「諸司に令一部二十二巻を分かつ」とある。

撰善言司(先人の善言を集めて教訓的歴史書を撰上しようとした官司。文武帝や皇族の子弟の修養に役立つ書物の編集を目指したが、完成せず)を置く。

持統四年(690)、即位

六月には高市皇子を太政大臣・多治比嶋を右大臣に任官して、九月紀伊国行幸

持統5年(691)

八月、十八氏に祖先の墓記を提出させる

十月、新益京(いわゆる藤原京)を鎮祭

十一月、大嘗祭。中臣大嶋が天神寿詞を読む

持統五年(692)

三月、伊勢行幸(大三輪高市麿が行幸を諫め、辞職)

五月、藤原宮地鎮祭


持統天皇は一番に
軽皇子(かるのみこ)文武帝の成長を望み(せん)善言司(ぜんげんし)を置きました。きちんと先を考えていたのです、軽皇子を帝王に育てるのだという。持統帝の思いは十分に阿閇皇女にも伝わりました。


軽皇子は冬の阿騎野の野に出かけて一晩を過ごし、草壁皇子の霊魂に触れ皇太子位を受け継ぎ、成人式を上げ立太子。そして、即位。

十五歳の文武帝に三人の女性が入内しました。

文武天皇五年(701)大宝律令成る 藤原宮子は首皇子を生む


しかし、何が原因だったのか、藤原宮子精神的な病気にかかりました。

宮子は首皇子(聖武天皇)を生んだ後に引きこもり、三十年余り息子に会いませんでした。病のために話もできず閉じこもっていたのでした。


文武帝にも、息子の首皇子にも、持統帝にも、阿閇皇女にも、それは辛い現実だったことでしょう。

早くに父を亡くした文武天皇を阿閇皇女は持統帝と守って来た、その息子の嫁が病気になった…これは、阿閇皇女にとって相当に痛手だったはずです。


末っ子の吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、阿閇皇女を安心させました。

しかし、文武帝には多忙な日々が続きました。

大宝二年(702)持統天皇崩御

慶雲四年(707)文武天皇崩御。
         心労のため、文武帝は前年から病気気味だった

         阿閇皇女即位(元明天皇) 


元明天皇は、持統帝と同じ道を辿ることになったのでした

そして

高市皇子が造営した新益京の藤原宮を捨て、藤原不比等の氏寺(興福寺)が岡の上から御所を見下ろしているという都に移ります。

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(この新益京は捨てられました)


平城宮遷都(710)


首皇子(聖武天皇)の乳人は県犬養美千代です。美千代は光明子を生み、首皇子と一緒に育てました。首皇子は十四歳で元服します。


不比等は
皇太子が十五歳で即位することを望み待っていたでしょう。

父の文武天皇も十五歳で即位していましたから。条件は同じだと。

しかし、首皇子は稚いという理由で即位できず、姉の氷高皇女が即位したのです。

和銅八年・霊亀元年(715)

正月、吉備内親王の男女(子供たち)をみな皇孫に入れる

九月、氷高内親王即位(元正天皇)、改元


藤原不比等は、怒りに燃えたでしょうね。首皇子の即位のために準備に準備を重ねて来たのです。

即位はおろか、元明天皇は譲位の前に、あろうことか長屋王の男女を皇孫(二品)に引き上げたのですから、怒り心頭だったはずです。皇位継承候補者の中に長屋王の子どもたちが入るのですから、許せなかったでしょう。

これから、藤原氏の暗躍が激しくなりますね。




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# by tizudesiru | 2016-12-26 21:46 | 183元明天皇の愛と苦悩 | Comments(0)

183元明天皇の愛と苦悩

183天智帝の娘元明天皇の愛

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天智帝との繋がりを意識しているのは、藤原氏だけではありません。

天智の皇女であった元明(げんめい)天皇(阿閇(あへ)皇女九州の観世音寺天智天皇発願(ほつがん)寺」として速やかに造営するように詔を出しています。財政的に困難な時期にもかかわらず。元明天皇は、天智帝の意志を貫こうとしたのです。


皇位継承の法として

元明天皇は天智天皇が用いたという「不改常典(改めベからざる常の(のり))と初め定めた法」を、皇位継承の法として持ち出しています。それは、直系に皇位を継承するという意味で用いられたようです。天武朝が「自ら滅ぼした王朝の法」の「不改常典」の文言を使用するなんて、しかも「皇位継承法」として、です。すっきりしませんね。


この表記は次のように使用されました。

①元明天皇即位の詔(初見)(慶雲四年・707)

➁聖武天皇即位の詔(神亀元年・724)

③聖武天皇譲位の詔(天平勝宝元年・749)

④桓武天皇即位の詔(天応元年・781)


「天智帝が不改常典と初め定めたと伝えられる法」

このような表現は、以後歴代天皇の即位詔(宣命(せんみょう)に継承されていきます。

やや疑問なのは、近江朝での大海人(おほしあま)皇子(天武天皇)皇太子(大皇弟)でした。

ということは、実子に譲位する嫡子継承ではなく、従来通りの同世代(兄弟)継承です。同世代が終われば、次の世代に継承されるという方法が長い間行われていましたので、大海人皇子が皇太子であれば従来通りのやり方だったことになります。


しかし、元明天皇は、直系継承の「不改常典」として天智天皇が決めたというのです。


大海人皇子が吉野に去った後に、天智天皇が急いで決めたのでしょうか。書紀に記述はありません。元明天皇は天智天皇の皇女ですから、父の法を取り入れたいのでしょうか。気持ちはわかりますが、本当は何もなくて、天智天皇の名を借りただけかも知れません。真相はわかりません。


それとも、大海人皇子ではなく、直系である大友皇子に皇位継承がなされていたのでしょうか。(明治になって、大友皇子は弘文天皇と
諡号(しごう)が贈られ認められました

ともかく、元明天皇は「天智天皇の名を以ってして、皇位継承を確実なものとしたかった」のです。天武朝にとっての天智朝は、滅んでも尚大きな影響力を持っていたのでした。

だから、天智帝との結びつきを背景に、藤原不比等が持統帝に取り入ってきていました。持統帝はかしこい不比等を気に入っていたかも知れません。しかし、元明天皇は警戒していました。ですが、天武朝の皇子が力をつけて行く中で、孫の軽皇子を護るには、不比等を頼る他はなかったでしょう。

「高市皇子の死の真相」で述べたように、高市皇子の死は異常でした。何か言いがかりをつけられたか、事件が起こっています。

頭蓋骨を取り去り刀身を抜きとって、壁画の玄武と朱雀の頭を削り、黄泉の国から永遠にヨミガエリができないようにして葬られた人物は、誰だというのですか。高松塚の被葬者は、高市皇子以外には考えられません。

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高市皇子の薨去、その半年後に軽皇子の立太子でした。そして、更に半年後に十五歳での軽皇子の即位です。夫人は藤原宮子ですから、判事でしかなかった不比等の影の力、推して知るべし。


天武帝の皇子の子達には女子が数多いましたが、誰一人として軽皇子の後宮に入れていません。皇族の娘は皇后になれるからです。不比等はそれを阻止しています。他の嬪として、紀氏(竈門)と石川氏(石川刀自)を入れています。が、和銅六年には嬪の身分を削っています。宮子のみが文武帝の後継者の生母になれるのです。これは、藤原氏の横暴以外にないでしょう。

元明天皇は、心の底で藤原氏を畏れていたと思われます。



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しかし、元明天皇は天武朝の皇子達を頼りにはしなかった。文武帝の妃を見れば一目瞭然でしょう。皇族から一人の妃も出さないとは異常すぎます。



軽皇子(文武帝)の立太子に異議をとなえた弓削皇子(天武帝・大江皇女の皇子)は不審な死を遂げました。


元明天皇は持統天皇とともにひたすら軽皇子を護りましたが、持統帝亡き後は孤立無援状態でした。その愛と苦悩の果てに…


若くして文武天皇は崩御してしまうのです。


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苦悩の中で、元明天皇は草壁皇子の忘れ形身を愛し守り続けるのですが…
 また、次回






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# by tizudesiru | 2016-12-25 22:41 | 183元明天皇の愛と苦悩 | Comments(0)

182鎮魂の歌集・初期万葉集

182鎮魂の歌集・万葉集

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さて、三回にわたって藤原(ふじはら)不比(ふひ)()とは何者か」について書きました。


なぜ、このように不比等について書いたのかというと、政界に出てはトップまで上り詰めたのに、万葉集では藤原不比等の影があまりに薄いからです。彼は、歌を詠まなかったのでしょうか。


また、時は天武朝であるのに「滅ぼされた王朝の創始者・天智天皇との関係」を繰り返し持ちだす藤原不比等、それを許した持統帝と元明天皇を不思議に思ったからです。


万葉集の時代に、天皇の外戚として藤原氏は権力の頂点に上り詰めました


しかも、藤原氏は天智帝と鎌足の関係を強調したあげく天智帝の御落胤とまで主張し始めました。


時は、天武朝です。滅ぼした王権の残照にすがりつくなど考えられないことです。何ゆえ藤原氏が天智帝との結びつきを強調し続けるのか、それを時の皇室が許すのは何故か、大きな疑問です。


藤原氏は初期万葉集編纂に関わってはいませんし、壬申の乱の時子どもだった不比等が成長する間に、初期万葉集は一定の方向を以って編集され続けていました。

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(藤原氏関係の歌は、見ての通り、鎮魂の思いは何処にもありません。初期万葉集とは藤原氏関係の歌は、質が異なるようです)

他にも「幾つもの疑問」


万葉集を読むと、幾つもの疑問に立ち止まらねばなりませんでした。


持統天皇が心寄せるのは有間皇子であり、その追慕は尋常ではないが、どんな因縁があるのか…

・持統天皇は柿本人麻呂と他歌人に幾度も近江京を哀しむ歌を詠ませた、そのわけは?

人麻呂は「事挙げす」というが、何を事挙げしたのか

草壁皇子は病弱ではなかったのに、何故か即位しなかった!

天武天皇「吉野の盟約」に感動・歓喜したのはなぜか

・人麻呂は持統帝の詔により万葉集の編纂をしたのか

持統天皇と天武天皇の同じ場で詠まれた歌がないのは何故?

 光明子と聖武天皇の歌は残されているのに

人麻呂が柿本佐留だとすると、元明天皇の怒りは何だったのか


上記の疑問は、途中ですが少しずつ解けてきました。
ここで、改めて問い直しましょう。
万葉集は、誰が何の目的で編纂したのか。
それを誰が手を入れたのか。






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# by tizudesiru | 2016-12-24 22:47 | 182鎮魂の歌集・初期万葉集 | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(3)

181藤原不比等は何者か(3)


不比等は万葉集に歌を残してはいません。その館で歌は詠ませていますから、興味がなかったのではありません。不比等は教養人でもあったのですが、万葉集の世界とは異質な世界の人格だったのです。


兄の定恵(じょうえ)(貞慧)が果たせなかった仏教による国家の形成を目指し、不比等は律令による権力の掌握をもくろんでいました。


権力を握るために、あまたの女子が必要でした。めぼしい皇族に結びつくための子女が必要だったのです。


不道徳のようにも思えますが、できるだけ多くの女子を高貴な血統の氏族の女性に生んでもらうことが大切だったのです。


不比等の子(女子)

宮子(文武帝夫人)の母:賀茂小黒麻呂女賀茂比売

光明子(聖武帝皇后)の母:県犬養東人女県犬養三千代(橘三千代)

多比能(橘諸兄の妻)の母:生母不明

娥子(長屋王の妻)の母:生母不明

女(大伴古慈比の妻)の母:生母不明


(あがた)犬養(いぬかい)三千代は美努王(栗隈王の子・橘諸兄の父)の妻で、もともと文武天皇(683~707)と聖武天皇(701~748)の乳人(めのと)でした。不比等はこの女性に近づき光明子(701~760)をもうけました。


不比等(659~720)は、688年に判事になり、697年に藤原宮子入内(じゅだい)させています。娘の宮子が生んだ(おびと)皇子に、三千代に産ませた光明子を入内させるのですから、幸運というより計画的ですね。そして、光明子を皇族外からの皇后となすのです。


不比等の子(男子)

武智(むち)麻呂(まろ)の母:蘇我武羅自古(そがむらじこ)女娼子(蘇我連子の女、娼子または媼子)

房前(ふささき)の母:蘇我武羅自古女娼子

宇合(うまかい)の母:蘇我武羅自古女娼子

麿の母:鎌足女五百重夫人


五百重夫人に産んでもらいたかったのは、女子だったのでしょうね。


しかし、男子・麿が生まれた。不比等はがっかりしたはずです。麿は兄たちのようには出世していなくて、あまり不比等に愛されてはいなかったでしょうか。大伴(おほともの)坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の夫でもありました。


『尊卑分脈』には、藤原夫人(五百重娘・大原大刀自)は後舎兄(たん)(かい)(こう)(不比等)と密通し麿を生む…とあります。

「尊卑分脈」とは、南北朝時代の公家が書き残した系図です。


淡海公に込められた意味=天智天皇の御落胤


(たん)(かい)(こう)とは、天平宝字四年(760に贈られた称号です。

まるで、淡海御宇天皇を思わせるような称号ですね。

「興福寺縁起」ばかりではなく、「大鏡」『公卿補任』「尊卑分脈」などで、不比等は天智天皇の御落胤と書かれているそうです。

淡海公とは、いったいどのような経緯で贈られたのでしょうか。

それは、760年に贈られた追諡です。前後の出来事を見ましょう。

757年(天平勝宝九年)、光明子の兄であった橘諸兄が一月に亡くなると、半年後の七月に諸兄の子『橘奈良麻呂の謀反』が発覚したとして、大量の刑死者と処分者を出します。

半年後の法則とでも言いましょうか。

藤原氏がかかわった謀反事件は、半年後に結果がでますよね。

謀反事件で政敵を一掃するのは、藤原氏の常套手段でした。

757年 (たちばな)奈良(なら)麻呂(まろ)らの謀反事件

758年 (こう)(けん)天皇大炊(おほい)王に譲位。(じゅん)(にん)天皇即位。

759年 正月一日、因幡国庁での家持の最終歌(万葉集最終歌)

760年 一月藤原恵美押(えみのおし)(かつ)太師(太政大臣) 六月光明子

    八月不比等淡海公と追諡。武智麻呂と房前に太政大臣    

759年 大伴家持は歌の道を断つ。藤原氏の謀略横暴になすすべ無しと、世の中に絶望したのでしょうね。

そして、760

即位した淳仁天皇は、藤原仲麻呂に「恵美押勝」を贈ります。

光明子が薨去すると、さっそく父の不比等に「淡海公」と(おくりな)するのです。

当然、藤原仲麻呂(なかまろ)=恵美押勝の意思よって奉られた(おくりな)です。

不比等が天智天皇の御落胤であることを明示するために。

仲麻呂は、藤原四兄弟の武智麻呂の子で、仲麻呂の時代に藤原氏の「藤氏家伝」が書かれています。思いのままに、天智天皇と鎌足の信頼関係を述べたことでしょう。そして、不比等と武智麻呂の功績を。

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万葉集の最終歌は、大伴家持の絶望を伝えます。
橘諸兄の死後、藤原氏の横暴はついに「橘奈良麻呂の謀反」の発覚という事態を招き、多くの有力者が刑死・流刑などの処分を受けます。家持は藤原氏に取り入り難を逃れますが、決して逃れきれるものではなかったのです。
家持は、絶望の中で、言霊により世の安泰を祈ったのでした。





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# by tizudesiru | 2016-12-24 01:08 | 181藤原不比等とは何者か(3) | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(2)

181藤原不比等とは何者か? その2

前回、藤原(ふじはら)不比等(ふひと)(鎌足の二子)の母は誰なのか? と書きました。

興福寺(こうふくじ)縁起(えんぎ)には、(かがみの)王女(おほきみ)が不比等の母だとしました。

それは不可能ではありません。


しかし、万葉集事典では「母は
車持(くるまもちの)国子(くにこの)君女(きみのむすめ)としています。興福寺としては、車持国子君女では「役者が足りなかった」ので、鏡王女としたのでしょう。


が、鏡女王が高貴な女性であれば、鎌足の正室の位置にあって一族に采配しても、鎌足と寝所を共にしたとは思えません。

鎌足と鏡王女の万葉集の歌は、公の場で詠まれたものです。天皇の前で詠まれたものかも知れません。


平安時代も、高貴な女性であった皇女・内親王は皇族以外の男性に嫁することはできなかったのですから。その身分を冒すことは大変なことだったのです。鏡王女が天智帝の子を身ごもり、定恵を生んだ可能性はあります。鎌足の子として育ったとしても、世間には高貴な血だと知られたでしょう。


定恵が高貴な血統だとしたら、鏡王女は鎌足を受け入れることはないでしょう。定恵意外に子をもうけないことが、その身を護った証明となるのですから。鏡王女は我が子を強く愛し、国外に留学させたのは理由があると思います。それは、機会があれば、いずれ。


これで、天武帝が鏡王女を見舞った理由が明白になります。生涯を鎌足の正室としながら、天智帝の寵妃であった過去を守り続けたその意思に対しての労いです。世間にもこれほどの美女はなく、これほどの意志の強い女性はいなかった、そして、藤原氏を護った聡明さに対しての労いです。

それを、世間も望んだということです。


それは、鏡王女が皇族だったことの証明にもなるでしょう。

天武帝の異母妹だったかも知れません。


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不比等の生涯を見ると、持統帝の即位の時期に合わせて台頭してきます。

文武帝即位では、娘の宮子を夫人として皇室に接近し、

翌年には、藤原の姓()けました。

藤原の姓は「藤原鎌足」が天智天皇から賜ったものであるから、不比等の家系以外は中臣に戻したのでした。

不比等は、大宝元年には大納言、和銅元年には右大臣です。

養老元年(717)に左大臣の石上麿が没しますから、最終的に不比等が議政官のトップになるのですが、何故か、

元正天皇(文武天皇の姉・草壁皇子の娘・独身)は、不比等を左大臣には任官しませんでした。

元正天皇の陰には母の元明天皇がいて、その意思が働いていたのでしょう。

元明天皇には夫の草壁皇子の意思を受けての信念がありました。さっそく、長屋王を議政官に任じます。

養老二年(718)、
長屋王(高市皇子の長子)が大納言に任じられる

高市皇子の王子がこれから権力の坐へ登っていく。誰にもそう見えました。

長屋王の妃は、文武天皇と元正天皇の妹(吉備内親王)だったのですから。

ここから、長屋王家の滅亡計画が藤原氏により密かに進められていくのでしょう。

720年に不比等が没します。

そこで、不比等の意志を継いだ長男の武智麻呂が長屋王家を滅ぼすという展開になるのです。

藤原氏は徹底的に天武皇統を切り捨てて行きました。
それは、不比等の遺言だったと、わたしには思えます。

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長屋王の父母は、共に皇女と皇子です。
母の御名部皇女は天智帝の娘です。父は高市皇子、子供たちは吉備内親王の子であり、元明天皇の孫です。
何もかもそろった長屋王に権力が渡れば、天武王朝は安泰となる…それは、藤原氏には許せない事でした。
藤原氏は律令により権力を握ろうとした氏であり、天智天皇の腹心でした。




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# by tizudesiru | 2016-12-22 14:26 | 181藤原不比等とは何者か(2) | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(1)

181藤原不比等とは何者か?

不比等は、天武天皇(40代天皇)の嬪であった妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(695生)をもうけています。

天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね?

天武天皇と藤原夫人の歌を万葉集に見ましょう。

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天武天皇(四十代)から藤原夫人へ賜う御歌

巻二103・わたしの住んでいる大宮に大雪が降った。そちらの住まいの大原の古い里に降るのは、もっと後であろうな

 

藤原夫人(五百重娘)のこたえ奉る歌

巻二104・それはわたくしの岡の神に言いつけて降らせた雪の、そのくだけたものがそちらにも散り敷いたのでしょうね。 

二人は楽しそうにやり取りをしています。藤原夫人は、天武帝が心許した女性だったのでしょうか。

天武帝の死後、この異母妹に不比等は近づいたのでした。

後宮は、女帝である持統帝の治世では機能していなかった。婦人たちはバラバラになったのでしょうか。

不比等は、父の藤原鎌足の鏡王女や安見兒に対する態度とは全く違いますね。
不比等は図々しすぎませんか。本来なら、秘話として処理されたでしょうに。麿は藤原四兄弟の末っ子になっています。少しも隠されていないようですね。

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不比等の母は誰か

千年の長きにわたって、藤原氏が朝廷の重臣であり、皇室との関係を保ち続けてきたのは、異常というか奇跡でしょう。道筋を開いたのは、不比等でしょうか。

不比等は鎌足(669没)の二子であり、壬申の乱(672)には参加していません。乱の当時は十五歳。その母は?

興福寺縁起には、鏡女王が不比等の生母(創作説もあり)とされています。

興福寺は、平城京の別区のようになっている藤原氏の氏寺です。

なぜ、興福寺縁起に鏡女王生母説が出て来たのでしょう? 

高貴な出自の鏡女王の名が必要だったとしか思えません。

 

前回のブログ(180)に書いた鏡王女は、その出自もはっきりしていません。名前の記述も、鏡王女(万葉集)、鏡姫王(日本書紀)、鏡女王(興福寺縁起・延喜式)と微妙に違っていて、同一人物ではないとする説があります。

天武十二年(683)、天武天皇が鏡王女の病気を見舞っています。それは、女王薨去の前日でした。もちろん後宮の女性ではありません。

天皇が病を見舞うとは、鏡王女は特別な女性ですね。天武天皇にもゆかりのある女王なのです。

興福寺縁起では、この鏡女王が不比等の母だというのです。なぜでしょう。車持国子君の娘が不比等の母ではないのですか?


長いので次にまわします。
また、後で




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# by tizudesiru | 2016-12-21 14:56 | 181藤原不比等とは何者か(1) | Comments(1)

180天智天皇と藤原鎌足

180天智天皇と藤原鎌足


天智天皇より異例の厚遇を受けた藤原鎌足


それは、何故でしょう。


鎌足は天智天皇の腹心の部下でした。

内臣(うちつおみ)鎌足病気して、見舞った天智天皇

天智八年(669)十月十日、天皇は藤原内臣の家に病気を見舞う

同年 十月十五日、東宮大皇弟を遣わし、大織冠と大臣と藤原姓を賜う

同年 十月十六日、藤原内大臣が薨去した

同年 十月十九日、天皇が内大臣の家に行幸し恩詔を陳べさせ、金香鑪下賜


これまでは、内臣(うちつおみ)ですが、これからは内大臣(うちのおほおみ・うちのおほまえつきみ)となり、内大臣の官は宝亀八年(777)に、藤原良継に授けられるまで百年以上授与されていません。鎌足は特別の官を得たのです


*藤原良継は、鎌足→不比等→宇合→良継(鎌足の曽孫)

「日本書紀」には「日本世紀」からの引用文が載せられています。

日本世紀に、内大臣は五十歳で私邸において薨じた。山南に移して殯をした。天はどうして、良くないことに、強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ。碑に『五十六歳で薨じた』という


*日本世紀は、高句麗の僧・道顕による編年体の歴史書で、日本書紀の基本的資料の一つとなった。


では、天智天皇と中臣鎌足の関係を万葉集で見ましょう。



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(鏡王女も安見兒も天皇から鎌足に与えられた女性です)

鏡王女は気位の高い人でした。

一般には額田王の姉と言われています。

(たま)櫛笥(くしげ)は「覆い」にかかる枕詞で、大切な化粧箱だそうです。

覆いで隠すわけではありませんが、夜が明けてからお帰りになって、貴方の名が人に知れるのはいいのでしょうが、わたくしの名が立つのは口惜しいのです。

鎌足の歌の珠櫛笥は、「みもろ」に掛かります。化粧箱の身と蓋の「み」に掛かるのです。

そうですか。みもろの山の「さな(かずら)」のように「さ寝ず」でいいのですか。そうなったら、貴女はとても耐えられないでしょう。



鏡王女は、口惜しかったでしょうね。

鏡王女は、もともと天智天皇と恋仲だったのです


天皇、鏡王女に賜う御歌一首

妹が家も継ぎて見ましをヤマトなる大嶋の()


いとしい貴女の家をいつも見たいものだ。せめて、やまとの大嶋の嶺に私の家があったらいいのに


鏡王女こたえ奉る御歌一首

秋山の()(がく)御念(おもほ)


秋の山の木々の下を流れる水は流れながら水かさを増していきます。その水のように、わたくしの思いの方が勝っております。殿下の御思いよりは


二人は恋仲というより、鏡王女(683没)は天智天皇の寵妃だったのです。鏡王女の歌は「御歌」とありますから、彼女は皇族でした。

それが、藤原鎌足(669没)に与えられたという…のです。


鏡王女としては耐えられなかったことでしょう。しかも、身重だったとか。(この子が定恵だったという説があります)

鏡女王は、藤原鎌足の室となっています。


藤原氏の台頭と持統帝との結びつきの要因は、この辺りにありそうですね。 
次は不比等の歌ですね。が、彼自身の歌は万葉集にはないのです。
ですが、不比等の話をしましょう。





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# by tizudesiru | 2016-12-20 12:37 | 180天智天皇と藤原鎌足 | Comments(0)

179天武帝と持統帝の溝・2

179・天武帝と持統帝の溝・2

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次に、天武帝の挽歌を見てみましょう。

天智帝(38代)に比べて、天武天皇(40代)の葬送儀礼の歌が少ないことに気づかれましたよね。
しかし、その事で天武帝の立場に問題があったとか、天武・持統帝のふたりの絆が薄かったということの証明にはなりません。
天武天皇の葬儀(686)は
仏教の儀式として執り行われたのでしょう。八年後の御斎会(693)もそうです。天武帝は仏教に手厚かったのです。たびたび寺で経も読ませています。


つまり、天智天皇の葬儀(671)は古来の天皇崩御の時の祭祀の方法
に従って執り行われた、挽歌を献じながらの葬送の儀式をした、ということでしょう。昔ながらの葬儀でした。

すると、天智帝と天武帝は、基本的に異なった宗教儀式を取り入れていたのですね。

天武帝は、天智朝とは別の王朝として出発したかったのですかね。

その天武帝が…伊勢に行くなんて。

いかさまに おもほしめせか神風の伊勢の国に 、八年後の夢の中で天武天皇が伊勢に行かれたことは、持統帝には意外だったようですね。仏教に帰依していた天武帝でしたから西方浄土へ行かれたと思っていたのに、夢の中で神の国である伊勢に行かれてしまった…古代では、夢も現実と同じでしたから、持統帝は驚いたのです。


政治のやり方も天武帝と天智帝では違っていました。
天智帝は律令政治を、天武帝は天皇自らが政治をすることを目指していたのです。だから、在位中に左右大臣も任官はありません。天武帝には、他に権力を分けるつもりはなかったのです。

壬申の乱(672)で天武帝に協力した豪族たちは、出世できなくてさぞやがっかりしたことでしょう。


さて、天武帝崩御後に権力を握った持統帝は、即位(690)後に議政官を任命しています。つまり、律令による政治へ切り替えたのです。持統帝は、天武帝の政治を引き継ぎませんでした。
それまでとは違った政治を始めました。

ただ、太政大臣に高市皇子、右大臣に多治比嶋が任じられました。
高市皇子は、天武帝の側近として天武帝の在位中も活躍していたと思われます。
何の実績もなく太政大臣はないでしょう。大王に次ぐ最高の権力者という意味ですから。

まとめると

天武帝の政治は、律令政治を目指した孝徳朝や天智朝とは基本的に違っていたのです。持統帝は天武帝の政治を否定したのです。

持統帝と天武帝の間には、深い溝があったのでした。
世間では、夫唱婦随のカップルのように言われている二人ですが。

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天武帝の下では、律令によって権力を握ろうとしていた近江朝の藤原氏・中臣氏も不満だったことでしょう。
ですが、持統帝の世の中になりました。
藤原氏は持統帝に近づける大きなカギを握っていました。だから、持統帝の時代には、台頭してきたのでした。

その鍵とは、藤原不比等の出自に関わることでした。

不比等が淡海公と呼ばれていたことは、ご存じでしたか?

次はそのことを書きましょう。



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# by tizudesiru | 2016-12-19 22:06 | 179天武帝と持統帝の溝 | Comments(0)

179持統帝と天武帝の溝

179・持統帝と天武帝の溝

「持統帝と天武帝のつながりの深さ」と「天武天皇の霊魂は伊勢へ」で、二人の絆の深さを考える材料としました。

さて、二人は強い絆で結ばれていたのでしょうか。

持統帝の歌を詠めば、どちらかというと持統帝は天武帝に対してさっぱりしていた、あまり執着がなかった…ようですね。なぜ?

持統帝は噂通りの冷たい女性なのでしょうか。いえいえ、有間皇子への深い鎮魂の思いを見ると、情の深い人だと分かります。

草壁皇子を失った後も、妃の阿閇皇女を連れて紀伊國行幸をして嫁を励ましました。阿閇皇女も持統帝を信頼していました。

ですが、「吉野の盟約(天武八年)」で我が子のように受け入れるとした大津皇子に、謀反発覚後すぐ死を賜わった」この時、「皇后、臨朝称制」していたのです。持統帝が政権のトップでした。大津皇子の死は、持統帝の意思だとされています。

持統帝は草壁皇子のために大津皇子を排除した冷酷な女性だというのが、世間の通説です。


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(日本書紀によると、大津皇子は天智天皇に愛されていました。大伯皇女が生んだかわいい孫だったのでしょう。天武帝にも期待されていました。
天武帝崩御後に謀判が発覚し、大津皇子はを死を賜りました。)


そもそも吉野の盟約は、草壁皇子を皇太子と認める儀式ではありませんでしたね。天武朝の新しい皇族の結成の儀式でしたね。草壁皇子が皇太子になるのは、天武十年か、十二年です。その時、大津皇子も「朝政を聴く」地位に置かれ、二人はバランスをとっていました。


もちろん、大津皇子にもチャンスを残しておくことは、天武帝の望みでした。持統帝とは違った考えを持っていたのです。天武と持統の二人は皇位継承に対しても、もともと意見が一致していなかったのです。


しかしながら、天武帝には皇后としての鵜野皇女(持統帝)が必要だった。