彷徨う月ノ岡古墳の三角縁神獣鏡

三角縁二神二獣鏡三角縁神獣鏡に入らない
そんなことないでしょう!?
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(月ノ岡古墳の三角縁神獣鏡(上)と吉井町の若宮八幡宮)
最近でしたが、吉井町の若宮八幡を紹介しました。この広場に享保一揆と宝暦一揆の農民たちが集結したと云うことなどを。ここは、古来より人々の心の拠所だったと思うのです。

この神社を挟んで二つの古墳があります。月ノ岡古墳(西側)と日ノ岡古墳(東側)です。月ノ岡は竪穴式石室で長持形石棺があり、日ノ岡は横穴式石室で全面にに装飾があります。二つの古墳は150mほどしか離れていませんが、埋葬儀礼が異なる古墳なのです。月ノ岡古墳からは眉庇付冑などが出土し長持形石棺ということから、ヤマト王権がこの地に入り込んできた証拠だとされています。このことは、既に「そうではないだろう」ということを述べました。

今回は、副葬されていた鏡について書きたいのです。ここの三角縁神獣鏡ですが、前回紹介した「三角縁神獣鏡の出土地リスト」には、掲載されていません。仲間から外れているのです。


三角縁神獣鏡の出土地リストによると、次の古墳や遺跡が福岡県の出土地です

祇園山古墳、神蔵古墳、大願寺、原口古墳、御陵古墳、妙法寺2号墳、一貴山銚子塚古墳、大日古墳、老司古墳、藤崎遺跡6号方形周溝墓、藤崎遺跡第一地点、若八幡宮古墳、那珂八幡宮古墳、香住ヶ丘3町目古墳、天神森古墳、名島古墳、忠隈古墳、御坐1号墳、豊前石塚山古墳、沖ノ島(16号、17号、18号、御金蔵、遺跡)ほか伝来地2か所

ということで、月ノ岡古墳は入れてありません。なぜでしょう。鏡の縁は確かに三角ですが、直系が16.3cmと小さいからだと思います。

技術的には三角縁神獣鏡であり大きさが小さいということは、初期の三角縁神獣鏡だと云うことになりませんかね?
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吉井町教育委員会の「若宮古墳群(2005)」の写真をデジカメで撮ったのを紹介します。月ノ岡古墳は江戸時代から知られていました。
1805年に石室の発掘が行われ『月岡宮掘開記』『月岡所獲古器図』安元大炊祀官により記録が残されています。その後、1853年に矢野一貞が『筑後将士軍談』のなかで「若宮村古墳」「若宮月岡併古物図」と題して発掘の経緯や主要な出土物についての詳細なと説明を残しています。
その絵図を吉井町の発掘報告書から紹介します。

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スゴイ記録ですね。矢野一貞はこれらが腐ってしまう前に記録しなければならないと分かったのですね。写真は、眉庇付冑と鎧の破片、帯金具、脛当です。
では、吉井町の報告書の武具の写真を紹介します。デジカメで写しました。

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龍文透彫銙帯金具(上)は大阪府七観古墳の出土物に似ているそうです。七観古墳は、帯金具のみだけでなく、馬具類、革綴短甲、武器の大量副葬など、月岡古墳と共通するそうです。しかし、三角縁神獣鏡は七観古墳では出土していないようです。
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月ノ岡古墳の鏡は一面だけではありません。矢野一貞の記録には5面ですが、現在は4面が吉井町の博物館に展示されています。
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1号:同行式画像鏡(三角縁二神二獣鏡) 16.3cm *朱が付着している 
2号:獣形文鏡  11.9cm
3号:四乳渦文鏡 9.5cm
4号:珠文鏡  6.9cm

(5号は不明です)
2・3・4号は三角縁ではないし、前・後漢鏡のように縁は平たいですね。末永雅雄は「増補 日本上代の甲冑」(1981)で、4面をすべて仿製鏡としています。国産としても、モデルとなったのは弥生の漢鏡でしょうね。
この鏡は技術的にも高度だったのでしょうね。前回のブログで紹介したように三角縁神獣鏡の鈕孔は方形でした。しかし、1号鏡の鈕孔は丸いのです。
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鈕孔を見ると、たくさん出土した三角縁神獣鏡とは違いますよね。
では、この鏡はどんな位置付けになるのでしょう? 三角縁であって、三角縁とは呼ばれない、重要な古墳からの出土なのに「行き場」がないのです。

このまま「彷徨う三角縁神獣鏡」として、吉井町の博物館に鎮座するのでしょうか。
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月ノ岡古墳の三角縁神獣鏡は、和製鏡の大量生産の発祥地を教えてくれるかも知れませんね。

吉井町若宮にある月ノ岡古墳の竪穴式石室の蓋石は、石碑として、月讀神社(墳丘の上に在る)の社の敷石として使われています。
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石棺は社の中に御神体として祀られているのです。
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今回も隙間から覗きましたが、まったく見えませんでしたので、吉井町の報告書の写真を紹介します。あいにく雨だったので余計に暗かったのでしょう。
では、墳丘も紹介しましょう。前方部は草が刈られていましたが、雨で少々けぶって見えます。
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後円部もかすんでいます。木立の中に月讀神社があります。
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同行式画像鏡が何者なのか、その出自がはっきりする日が来ることを願っています。

同じ若宮地区には、日ノ岡古墳だけではなく、塚堂(つかんどう)古墳があります。ここは、副葬品・埴輪もあり出土遺物も面白いのですが、文化財指定を受けていません。古墳としての残存面積が少ないからだそうです。びっくりしました。
なかなか面白い古墳です。わたしは文化財指定を受けていないなら、町が独自で復元して、埴輪を並べ古墳公園にしたらいいと思いました。見ごたえがあると思いますよ。どうですか? 吉井町の方はいいものをお持ちですよ。
では、これにて。



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# by tizudesiru | 2017-10-24 00:56 | 292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳 | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡はなぜ大量生産されたのか?

三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された鏡ではない
最近、既に多くの人がこう考えているようです。
それはそれでいいのですが、では何故大量に生産されたのでしょうか。
三角縁神獣鏡が人気商品だった理由があるはずです。
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弥生時代の甕棺から出土する鏡は、一つの鋳型で一つの鏡しか造らないそうです。しかし、三角縁神獣鏡は一つの鋳型でたくさんの同范鏡を作っているのです。
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同范・同形鏡は全国で出土しています。その供給元が椿井大塚山の被葬者だったというのですが、本当でしょうか。

椿井大塚古墳出土の三角縁神獣鏡と同范・同形鏡を手元の資料でみますと。

天皇日月獣文帯四神四獣鏡、獣文帯五神四獣鏡、獣文帯四神四獣鏡、などなど文様もさまざまですが。

茶臼山古墳(奈良)・奥津社古墳(群馬県愛西市)・備前車塚古墳(岡山市)・秦上沼古墳(岡山県)・西求女塚古墳(神戸市)・長法寺南原古墳(長岡京市)・寺戸大塚古墳(日向市)・石塚山古墳(福岡県苅田町)・赤塚古墳(大分県宇佐市)など挙げられます。
全国の古墳と共通するのですね。それも、大きな古墳から多く出土するというのです。そうなんですね。
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でも、ですね。ちょっと気になることがあります。
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それは、鏡の数ではなく出土地の数です。
確かに、近畿に400面以上の三角縁神獣鏡はスゴイです。黒塚古墳33面、大塚山古墳33面を考えると、二ヵ所で66面になります。では、出土地の数はどうなるのでしょうね。「三角縁神獣鏡辞典(吉川弘文館)」のデータで調べてみましょうか。
ただ、出土地はそのままでいいのですが「伝来品」はどうしましょう。他所から持ち込まれたかも知れないし、偽物として造られたかも知れません。このことも考えてみましょうね。

県名 (出土地の数)#(出土地の中で5面以上の出土地数)*伝来品の数 
鹿児島県 (1)
宮崎県 (3)
熊本県 (0)*伝来3 
佐賀県 (3)
福岡県 (24)
#5面以上3出土数内に沖ノ島の遺跡5*伝来2 
大分県 (3)#5面以上1 *伝来3 
愛媛県 (2)
香川県 (5)*伝来1
徳島県 (2)*四国の伝来1
山口県 (4)*伝来1
島根県 (5)
鳥取県 (5)*伝来1
広島県 (5)
岡山県 (8)#5面以上 *伝来2 
兵庫県 (20)#5面以上 *伝来2 
和歌山県 (1)
大阪府 (17)#5面以上 *伝来3 
京都府 (15)#5面以上 *伝来6 
奈良県 (16)#5面以上 *伝来16 
滋賀県 (7)
三重県 (6)*伝来4
福井県 (1)*伝来1
石川県 (0)*伝来1
岐阜県 (8)#5面以上 *伝来4 
愛知県 (8)*伝来3
静岡県 (8)*伝来1
長野県 (2)
山梨県 (2)*伝来1
神奈川県 (2)
千葉県 (2)
埼玉県 (1)
茨城県 (0)*伝来1
群馬県 (6)*伝来2
福島県 (1)
出土地不明 (42)

*福岡の場合、沖ノ島では16号,17号,18号、御金蔵など出土遺跡がことなっています。

こうして見ると、福岡・兵庫・大阪・奈良・京都が多いようですね。これは、三角縁神獣鏡のデータです。古墳時代になって、鏡の生産を担ったのは何処なのでしょう。弥生の鉄も銅鏡も出なかった地域に鏡造りが急に盛んになったのなら理由があるでしょう。鏡を持つことで氏族の家格を引き上げたとか…でしょうね。

経済力を持ち権力を手にした氏族が次に求めるのは、高貴な血統と家柄の格上げでしょう。鏡は古代王家のシンボルであり、光り輝く物でした。威信財として、魔よけとして、家格の向上の為にも必要だったのでしょう。
鏡を多く手にした氏族は新興勢力だったと云うことです。そして、其の鏡の材料として北部九州の銅鏡や銅剣・銅矛・銅戈が持ち込まれて熔かされたと思います。
だって、伊都国の平原王墓でも分かるように、鏡の大量副葬は王墓級では当たり前のことでしたから、それに倣おうとしたのでしょう。

椿井大塚山の被葬者が鏡の生産に携わったかどうかはわかりません。ただ、彼は他の古墳群と離れた木津川の畔で氏族の栄華を願い、ひたすら鏡を集めていたと云えると思うのです。鏡制作者を集めたという可能性も否定はできませんね。わたしはその結果として様々な地域との同范同形鏡が手もとに集まったのだと、思うのです。

では、鏡を作っていたのは何処の誰なのでしょう。
銅製品を早く弥生時代から加工していたのは、北部九州でした。

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30面以上の漢鏡を副葬していた須玖岡本遺跡の王墓があった春日丘陵は弥生の工場地帯でした。57面の前漢鏡を副葬した三雲南少路王墓のある伊都国にも、産業があったのです。
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そこでは銅製品も作っていました。春日市では弥生時代の初期に移入したとされる多鈕細文鏡の鋳型が破棄された状態で出てきています。大事な鋳型を残したら技術を盗まれるからでしょうか。ただ、広形銅矛の鋳型は、時代が不必要としたので捨てられたのでしょう。弥生の終わりに突然に埋納された銅矛たちの鋳型です。春日市でも鋳型が出土しています。

弥生集落の発掘調査によると、北部九州では政治的大異変が起こったようです。弥生集落が突然捨てられました。人々は生活道具を周濠に捨て、又は家屋にそのまま残して何処かへ去りました。大型甕棺の時代に忽然と人々が消えたのです。文化的にも栄えていた時に、何かがあったのです。弥生集落の遺跡はそこが捨てられた時代を教えています。福岡平野でも、南の筑紫平野でも、同じように集落が捨てられました。捨てられた理由は地震でも洪水でもありません。福岡平野も筑紫平野も農業用地としては一等地が捨てられているのです。

銅製品製作の技術を持った人々は何処へ行ったのでしょうね。
大型甕棺の製作技術を持った人々は何処へ去ったのでしょうね。
わたしは技術を持った人々は何処に行っても歓迎されたと思います。
彼らは、新天地で自分の生業に汗を流し励んだことでしょう。そして、権力者に取り込まれていったと思います。

この人々の移動を引き起こした政治的大事件が、倭国大乱の後の卑弥呼の死であり狗奴国との戦争だったと思います。つまり、史書に残る倭国の中心地は北部九州にあり、そこから人々が拡散して行ったと思うのです。

また、明日。


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# by tizudesiru | 2017-10-23 01:41 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡を製造した?椿井大塚山古墳

椿井大塚山古墳に行きました
三角縁神獣鏡を製造した首長の墓?

椿井大塚山古墳の被葬者が、王権の委託を受けて三角縁神獣鏡を製造したと、いう説がほぼ定説です。この古墳を線路が横断していますので、前方部と後円部は線路で分断されています。
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だから、時々電車が通ります。
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ここは、木津川市の椿井大塚山古墳です。
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では、大塚山に登ってみましょう。線路のガード下を通って、墳丘に登ります。
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ここを上って行くと、後円部につきます。
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周囲は竹林になっていました。
山城の二大古墳群は、乙訓古墳群と久津川古墳群です。木津川古墳群の椿井大塚古墳群(全長75m)は少し離れた所にあります。
南部の比較的小さな古墳群の中に椿井大塚山古墳はあります。
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地図の一番南に在ります。木津川がカーブして北上する辺りです。
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では、鏡のことはまた明日。



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# by tizudesiru | 2017-10-20 22:47 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

続・黒塚古墳の三角縁神獣鏡


黒塚古墳にいきました



黒塚古墳の三角縁神獣鏡の続き

黒塚古墳は三角縁神獣鏡が33面出土した古墳でした。33面は棺外に置かれていましたね。戦後には「卑弥呼の鏡」として話題を呼びましたが、大量に見つかってしまった上に棺外に置かれていたので、これら三角縁神獣鏡が中国からの下賜品とは考えにくくなり、今では「三角縁神獣鏡」に考古学者でもふれない人が多いということです。が、今でも三角縁神獣鏡の中でも出来のいいものは「舶載品」出来の悪いものは「国産品」と分けられて論じられてもいるのです。
最近、ちまたでは三角縁神獣鏡の代わりに、「画文帯神獣鏡こそ卑弥呼の鏡だ」と主張されているようです。
黒塚古墳でも画文帯神獣鏡は棺内にありました。
では、昨日の続きで33面の鏡の残りの写真を紹介しましょう。
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こんな33枚の三角縁神獣鏡が棺外に置かれていたのですね。そして、画文帯神獣鏡は,棺内に置かれていました。
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この画文帯神獣鏡は13.5cmと小さいのです。が、棺内に置かれていたと云うことは、大変意味のある鏡なのでしょう。
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三角縁神獣鏡の出土は、奈良も京都もダントツですね。それは、一つの古墳に出土する数が多いからですが、この地域の首長はどうしてたくさん副葬することを願ったのでしょうか。理由があるはずですよね。
①鏡を副葬することは弥生時代から九州の首長のステイタスだった。鏡や武器はステイタスシンボルとして憧れの威信財だった。その思想が畿内に伝播した。
➁鏡製造の技術を持った集団が、何らかの理由で東へ移動した。そこで、生業にしてきた鏡作りをして地域の有力者と取引をした。銅を手に入れる手順を熟知していた。
③鏡や威信財を手に入れた首長達は、近隣の首長より多く手に入れようとした。
④祖先の葬送のしきたりの鏡・刀・剣などの武器や武具を埋葬する習慣を強調するために、大量に副葬品として墓に入れた。
と、なるのでしょうか。

500面近くの鏡の材料(銅)は、どのようにして手に入れたのでしょうね。輸入するにしてもそうそうには大量の銅は手に入らないでしょうし、それは大量の鉄にしても同じでしょう。
古墳時代になって、近畿で鉄製産が爆発するにしても、その技術者が全くいなかった(鉄の出土のない)地域に「鉄生産が急に始まる」には、理由が必要でしょう。ミステリーではありません。歴史的な意味や理由があるはずです。
古墳や石棺に朱を塗る習慣も九州が発祥ではありませんか。
埴輪を赤く塗るのも、九州の弥生の祭祀品の丹塗土器の伝播ではありませんか。九州で朱やベンガラが使われなくなった後に、近畿で朱が使われるようになったと考古学の先生から聞きましたが、そうだろうなと思いました。
その時、近畿の銅鐸は、九州から持ち込んだ鏡を鋳つぶして造ったとも聞きました。

いろいろ聞いて思う事は、三角縁神獣鏡も最初は九州で生産されたのではありませんか、という簡単なことです。



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# by tizudesiru | 2017-10-19 20:00 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

黒塚古墳の三角縁神獣鏡


黒塚古墳に行きました
三角縁神獣鏡を見ました

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資料館では黒塚古墳の竪穴式石室を再現していました。正面からも上からものぞくことができます。三角縁神獣鏡が棺外に並べられていたことがわかりますね。
ここは写真撮影はOKでしたよ。
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18号を写していないようです。
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33枚はやや多いので、次にまわします。
また、後で。




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# by tizudesiru | 2017-10-18 14:46 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡を33面も副葬した黒塚古墳

黒塚古墳に行きました

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春に行ったときは資料館が閉館していましたので、再度、夏に行きました。
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後世に城が造られているので、元々どんな古墳だったのか分からないのです。
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後円部の縁を廻って前方部から墳丘の上に登りました。
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墳丘の頂上は平らになっていて、石室のようすが陶板で紹介されていました。
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周囲を全部見渡せる位置に墳丘墓は作られていました。
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木が高くて十分に辺りが見えませんでした。辺りには大型古墳が揃っているのです。
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ここは三角縁神獣鏡が文様もはっきり残っています。資料館内には古墳石室が原寸大に復原されていました。大きな木棺あとでした。
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三角縁神獣鏡は棺外に置かれていたのです。鏡の力で棺を守ったのでしょう。
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黒塚古墳の時代は、まだまだ鏡の力が墓に必要だと考えられていたのですね。
それも一枚じゃ心細かった、できる限り手に入れようとした、のですね。
鏡の紹介は、次にまわします。

では、次回お会いします。



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# by tizudesiru | 2017-10-17 12:28 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(1)

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!何ゆえ?
それは何故なのか、詠まなかったのか、詠めなかったのか、詠もうとしなかったのか?
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(香具山と藤原宮)

弓削皇子の挽歌を詠んだのは、置始東人(おきそめのあづまひと)でした。

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東人は「皇子はいつまでも生きていたいと願っていた」と詠みました。その通りだったのでしょう。弓削皇子は日頃から「我が命は長くはない」と話すことがあったようです。そんな不安を持って生きていたことが万葉集からも読み取れます。いつからそんな漠然とした不安を持つようになったのでしょう。
だいたんに想像するなら、軽皇子立太子の後ではないでしょうか。当時は二十歳ほどの若者でした。多少青臭い言動もあったでしょうが、賢い青年でした。その言動には藤原氏が鋭い視線を向けていたと思われます。
多感な青年は滅びた近江朝にも関心があったようです。天智天皇の葬儀に最後まで仕えた額田王に弓削皇子は親しく歌を贈っています。
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いにしへに恋ふる鳥かもゆづりはの御井の上より鳴き渡りゆく
吉野のゆづりはの繁る御井の上を鳴きながら飛び去って行ったあの鳥は、あの古を恋う鳥なのでしょうか。あんなに鳴いて飛んでいくから、わたしも古に思いをはせました。あなたは古を思う事はありますか。
弓削皇子は近江朝に最後まで仕えた額田王を信頼していたのです。あなたも昔(近江朝)が恋しいのではありませんか? と。
そのころの弓削皇子には、持統天皇の吉野行幸について行っても心に不安があったのです。額田王は若い皇子に歌を返しました。

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額田王は若い皇子に応えました。
まあ、殿下、古を恋うる鳥ですか、それは霍公鳥だったのではありませんか。その鳥はきっと昔を偲ぶように鳴いたのでしょうね、まるでわたくしの思いのような懐かしそうな鳴き方をして。


額田王は人生の辛苦をなめ尽くしていました。娘の夫(弘文天皇)は壬申の乱で殺され、娘は突然死(自死)し、孫(葛野王ら)を抱えて苦労したでしょうね。だからこそ、優しかったのかも知れません。

弓削皇子を取り巻く状況はどんどん変化していきました。軽皇子立太子の半年後、文武天皇の即位です。夫人となったのは、藤原宮子で不比等の娘でした。不比等は文武天皇の乳母だった犬養美千代を妻とします。文武天皇の周囲は藤原色に染まっていきました。

そして、弓削皇子の不安は現実となり、文武三年(699)薨去となりました。
この後ですが、不比等は美千代に女子を生ませ、その女子を文武天皇の皇子の夫人としていくのです。文武天皇の皇子の乳母はなんと犬養美千代でした!文武天皇と聖武天皇の双方の乳母は美千代だったのでした!)

持統天皇は自ら太上天皇となり、必死で文武天皇を支えていました。若い天皇が政治をするのは大変なことでしたから。文武天皇も必死で祖母に答えました。そして、大宝二年(702)持統天皇の崩御となったのです。

こんな状況では人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠めなかったでしょうね。だけど、人麻呂が密かに挽歌を詠んだとすれば、万葉集のどこかに置かれているでしょうね。

(太上天皇亡き後(702年以降)、文武天皇も無理がこうじて倒れ長く臥せることになったのでしょう。
夫人の宮子も首皇子(701生)を生むと我が子を抱くこともできないほど精神的に追い詰められ、閉じこもって(閉じ込められて)いったのでした。)


人麻呂は世の移ろいを見ていたでしょう。持統天皇の遺勅を受けて、万葉集を完成させるために日を過ごしていたはずです。才能に恵まれながら若くして世を去った天武帝の男子を人麻呂は惜しんだのだと思います。
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万葉集編集者は弓削皇子の歌を多く残していますから、この若者の死を惜しんだに違いありません。編集者は誰ですか。
わたしは「初期万葉集を編纂させたのは持統天皇、実行したのは人麻呂だった」と思っています。その後いろいろあって万葉集は大伴氏から平城天皇に渡り、勅撰集のごとく編集されたと思っているのです。何度もしゃべりましたが。
なぜ、平城天皇は万葉集に興味を持ち、都を平城京に戻すように望みかつ実行したのか。それは、万葉集を読んで王朝の本当の姿が見えたから、桓武天皇が捨てた平城京こそ王朝のルーツであり意味があると理解したからと、わたしは思っているのです。

ところで、何故こんなに話が飛ぶのか
(古墳・神社・万葉集・近畿から大阪・熊本・福岡と話が飛ぶのは、何故なのか) 
是についての私の言い訳を書いて見ますと、わたしの中では全てつながっているのです。そんなこと当然のことですが、一つのことを書いていると関係ない事象が結びつくのです。そして、謎が解けていく…
例えば、万葉集の歌を和歌(倭歌)というなら、倭国の歌ではないか。倭国で生まれた歌なら、倭国は何処にあったのだ? 万葉集に倭国の地を探る手がかりがあるだろうか。万葉集の編纂者はどのような認識を持って編纂したのだろうか。となるのです。そして、倭国に徐々に近づいていくのです。まだ答は書いてはいませんが。
さらに、古墳ですが畿内の古墳は箸墓を基準に考えられています。明らかに三世紀の古墳ではありません。しかし、編年がぐちゃぐちゃで副葬品や墳丘の形が納得できるようになっていないのです。たとえば、有名なメスリ山古墳には鏡の副葬はありません。すると、鏡副葬の後の時代に造られた古墳となり、多くの副葬品はどこかからか運ばれたことになるでしょう。では、何処から?
一つ一つの事実は独立しているのではなく、必ずつながっています。
わたしは古代史のパーツを拾い集めています。ジグソーパズルのようにそれらはある結論を導き出すと信じて、ひたすらはめ込んでいるのです。


というわけで、次は黒塚古墳に飛びますね。
ミステリーは、人を引き付けてしまうものですね。


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# by tizudesiru | 2017-10-16 20:58 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は舎人皇子に警告した!危機が迫っている!

柿本人麻呂は舎人皇子に警鐘の歌を献上

ご用心召され、皇子は狙われておいでです!
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天武帝にとって草壁皇子と大津皇子と、壬申の乱後に生まれた天武帝の皇子の中で天智帝の皇女を母に持つ男子が特別でした。
天武帝は近江朝の後宮の女性を外に出しませんでした。全部自分の後宮か家族の妃としたのでした。高貴な血をほかに伝えるのを避けたのです。次の火種となりますから。

それが、天武帝が天智帝の皇女を何人も妃にした理由なのです。大江皇女は長皇子(674?生)と弓削皇子を生み、新田部皇女は舎人皇子(676生)を生みました、壬申の乱後に。天智帝が弟との結びつきを深めるために娘を出したのではないのです。皇女が後宮に入れられたのは壬申の乱後で、天智帝は既に崩御していたのですから。皇女の運命を決めたのは天武帝、高貴な血統を守るために天武帝が判断したことです。
それは、孝徳朝から難波朝に移るときも、天智朝に移る時も実行されました。天武朝でも同じだったのです。


特別だった長皇子のことは、前回紹介しました。今日は舎人皇子のことを紹介します。
皇子、ご用心なさいませ!と人麻呂は詠む 
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天武帝に愛され朝政を聴くまで成長していた大津皇子(663~686)が謀反の罪で死を賜り、草壁皇子(662~689) が薨去した後、残された若い皇子の成長が待たれていました。人心は長皇子と舎人皇子に集まっていたでしょう。

ふさ手おり多武の山霧しげみかも細川の瀬に波の騒げる
この歌が詠まれたのはいつでしょう。多武の峰といえば藤原不比等と兄の定恵が父・鎌足の遺体を移し祀ったという寺のあった所です。藤原氏を象徴する山に霧が立ち込めている…霧や雲は霊魂や人の思いや下心の現れたものというのが古代人の認識でした。
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(別格官幣社 談山神社)


多武峰に厚く立ち込めた山霧だけではなく、細川の瀬も音が激しくなっていると、人麻呂は詠みます。山の上ではすでに嵐になっているのです。藤原氏が暗躍し不穏な空気が流れています。なぜでしょう?
もちろん、舎人皇子が人心を集めるほどに成長しているからです。だから、時間がないと軽皇子(草壁皇子の忘れ形見)を擁立しようとする藤原不比等が策を練っている、亡き父・鎌足の元で。だから、ご用心なさいませと、人麻呂は歌に託して危機を知らせたのです。

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おや?と、思いますよね。持統天皇の忠臣がなぜ長皇子を称えたり、舎人皇子に危機を知らせたりするのでしょうか。幼い軽皇子にとってはライバルではありませんか。
持統帝は軽皇子を後継者とするために即位したのではありませんでしたか?
そうなんです。これらの歌から読めるのは、持統天皇は長皇子に期待し舎人皇子も愛していたことになるのです。なぜ? それは、天智帝の血統の皇子だったからでしょう。
持統帝は常に天智帝につながる人を大事にしています。


冬こもり春部を恋ひて植し木の実のなる時を片待つ吾等ぞ
皇子の成長を待っていたのは人麻呂だけでなく、大勢いたようです。だからこそ、危険が迫った。その警鐘の歌を読んで、舎人皇子も歌を返します。

黒玉の夜霧はたちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに
人麻呂の意図は皇子にも伝わり、皇子もこたえました。真黒な夜霧がとうとう高屋(高貴な方がお住まい)の高殿の上にまでたなびいてしまった、わたしは心して日を過ごそう…これは、持統天皇も取り込まれたと舎人皇子が理解したということでしょうか。


人麻呂が二人の皇子に献じた歌を読む限り、持統天皇がはじめから軽皇子のみを後継者としていたとは思えないのです。女帝は天智帝の血統の子供たちを十分に愛していたと思うのです。


それにしても、「冬こもり春部を恋ひて」の歌、難波津の歌にイメージがにていませんか? 以前にも書きましたが、王朝の始まりを寿ぐ歌でしたね。人麻呂は同じような思いを舎人皇子に抱いていたのでしょうね。
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では、今日はここまで。




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# by tizudesiru | 2017-10-15 11:59 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は長皇子を皇太子のごとく歌に詠んだ!何故?

人麻呂が称えた長皇子
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持統天皇の即位は、将来的に孫の軽皇子(文武天皇)に譲位するためだったと、史家は語ります。事実、歴史はそのように動きました。

万葉集も確かに歴史書の通りに読めますが、ところどころに「おや? なぜ?」と歴史の流れと反すると思う箇所があります。
天武朝の皇子に対する柿本朝臣人麻呂の歌もしかり、それは何か所もありますが、今日は人麻呂が長皇子に献じた歌を詠んでみましょう。
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やすみししわご吾大王高光る日の皇子
とたたえる言葉が続きます。まるで皇太子のようです。

更に、「あめゆく月を網に刺し、キヌガサにした」大王だと反歌に詠みました。長歌に重ねて、反歌でも「大王」と飾りたてたのでした。この御猟は天皇の儀式のように馬を並べて行われ、狩場の鹿も鶉もはいつくばって大王を敬ったと詠んだのですから、驚きます。
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「或本の反歌」として、
おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海を成すかも
の歌が付けたされています。「おほきみは神にしませば」の修飾詞は「天武朝の皇子達と天武朝にしか使われていない」と、万葉学者の指摘です。
天武朝の皇族は「神である」という思想を強く打ち出したのです。だから祖先の時代を神代として正史に残したのでしょう。

皇子の高貴な血統
長皇子は天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)に生れた男子です。弟に弓削皇子がいて、母の弟・叔父は川嶋皇子(天智帝の男子)です。天智帝と天武帝の血統だから長皇子に人麻呂が歌を献じたのでしょう。もちろん、この歌が詠まれた時点では持統帝も認める皇子だったので、公の場で称えられたのです。ほとんど次の皇太子的存在だったのでしょうか。
大津・草壁皇子が没したあと、周囲の目は天智帝と天武帝の二人の血統の男子に向いていたと思います。
長皇子、弓削皇子、舎人皇子は特別な存在だったでしょう。


持統十一年(697)軽皇子立太子(14歳)
人麻呂の歌が献じられた皇子や皇女は特別な存在だったとなると、では何故、長皇子は皇太子にならず軽皇子(文武天皇)が立太子したのでしょう。

軽皇子は14歳でしたが、長皇子は8歳年上ですから凛々しい青年になっていたはずです。持統天皇が孫を愛していても、周囲の豪族や高官を納得させることは難しい状況だったかもしれません。

弓削皇子は「軽皇子の立太子」に異議を申し立てました。
それは、当時の状況を反映してのことでしょう。彼は「兄の長皇子がより皇太子にふさわしい」と思っていたかもしれません。しかし、弓削皇子の異議申し立ては葛野王(大友皇子の子)に一喝されました。


長皇子の立太子を望んでいた勢力は、権力が何処に動いたのか思い知らされたでしょうね。

この後、高貴な皇子たちがどうなるか想像できますね。
弓削皇子は三年後寂しく薨去し、長皇子は文武天皇崩御後に再度脚光を浴びるのですが……舎人皇子は自分の立場を理解し一歩下がり臣下のように振る舞うという……

その歌の紹介は、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-15 01:10 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

聖徳太子の存在は証明できたのか?ヒストリア

NHK歴史ヒストリアは、聖徳太子の実在を証明したのか?
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(最近、教科書ではこの画像を聖徳太子と教えていません)
聖徳太子は実在しなかったという説もあります。
また、隋書のアメノタリシホコは奈良の聖徳太子ではないという説もあります。
だって、日出処天子は男性でその姓は阿毎(アメ)、あざなは多利思北弧(タリシホコ・タリシヒコ)。彼には妻がいて、その号は阿輩鶏弥(アハキミ)です。

天子と名乗る以上、それなりの財力・統制力・組織力・元号・税制など持たねばならないものが多々ありますが、隋書の天子は持っているのです。また、天子が男性であるか女性であるかも重要でしょう。隋書に書かれた天子は男性です。

「倭王は天を以って兄と為し、日を以て弟と為す。天いまだ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ)して坐す。日いづれば、すなわち理務をとどめ、わが弟にゆだねんと言う」とかかれています。


奈良の推古天皇は女帝で、夜のうちに仕事をし昼は弟に任せるなんてことは、一つもありません。全く違うシステムで政治をしているのです。


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更に、釈迦三尊の光背の銘文です。
光背の裏に銘文があり、字はタガネで彫ったのではなく、蝋書きし(蝋に字をほり土で固め)熱で蝋を溶かしたところに銅が流れ込むという技法で作られています。でも、その技法で時代を特定できるでしょうか。
以前から、光背の銘文は後にはめ込まれたもので太子の時代の事ではないという説が有力で、研究者の間でも問題になっていました。

わたしは十数年前に「銘文は本物だ」という説を読んだことがあります。研究者の名も本も忘れましたが、その中で印象に残っている箇所があります。
銘文の真偽を十分に展開したあと、
光背にはめ込まれた銅板に銘文は彫られている。文章を彫り込んだ板を出来上がった光背に後世はめ込んだということは、十分に考えられることである。しかし、光背には鍍金(金メッキ)が施してある。それが何時為されたのか、それがはっきりすれば問題は解決する。
光背と銘文銅板の間の永年の汚れを取り除けば、光背に鍍金が成された時、銅板が既にはめ込まれていたのか、銅板の鍍金が後の時代のものか、光背完成時期か、明らかになるだろう。
国宝に手を入れるのではなく、光背と銅板の間の一部の付着物を取り除けば鍍金の時期を確定できるのではないか。それを実行してほしい」

という内容でした。わたしは感激したので、よく覚えています。図書館で借りた本なので探せば分かると思います。
問題はこの後です。この銘文の主人公は最高位についた人なのです。皇太子ではありません。日本書紀の聖徳太子ではなく、極位についた天子であり法皇となった人なのです。

是が本物なら、新しい歴史上の問題となるのです。

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尺寸王身であれば、法隆寺の夢殿の秘仏「救世観音」とよく似た体形だとか…
そして、叡福寺古墳(聖徳太子の廟)の棺の話でした。棺は漆塗の挟紵棺ということでした。その破片が石室内から出土しているのです。わたしはこの石室も挟紵棺(きょうちょかん)も、後の時代のものと思っていました。
NHKもその辺りを取材していました。野口王墓や牽牛子塚古墳(斉明天皇陵と考えられている)の漆塗り木棺・挟紵棺が取り上げられていました。つまり、後の時代になって、聖徳太子が取り上げられ、棺が作り直されたという説の紹介でした。

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しかし問題はそのあと、明日香のそれらは麻布に漆を重ねた棺ですが、叡福寺古墳のものは麻ではなく絹だったのです。それも漆を塗った棺は100Kgあったというのです。
絹の消費量を考えると、何処で調達したのでしょうね。飛鳥・奈良時代ですら絹の産地は筑紫です。万葉集にも「筑紫のわた(絹)」の歌があります。叡福寺の棺だけ特別調達したのでしょうか? 何ゆえに?
そのうえ、光背銘文と日本書紀が大きく食い違うのは何故でしょう。隋書とは食い違ってはいませんよね。


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それに棺が乗せられた棺台(石材)ですが、そこに格狭間(こざま)という仏具につく文様があるのです。
わたしはこの紋様を持つから、叡福寺の石室は新しいと思って、ある大学で質問をしました。答は、
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この格狭間(こざま)は、中国では早い段階に使われているから、後代の文様とは入ってきた経路が違うと、答えていただきました。
そうなんですか。
太子町では、叡福寺古墳の棺を早い段階における技術の導入だと、主張していたと思います。現に漆棺の破片が出ていて、聖徳太子伝承があるからです。その伝承がどのような経緯で出来上がったのか、問題にならないまま信仰と結びついて、真実が見えなくなったと、思うのですが。

多くの検討がないまま様々な主張がなされているので、NHKはよく検討して番組を作ってほしいと思いましたね。

日本書紀の聖徳太子のところは、後からの挿入と考えられる漢文的にもちぐはぐであると読んだことがあります。書紀の推古朝には多くの問題があるのです。
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髄は使者を倭国に送りましたから、使者である文林朗裴世清は倭国王に会いました。まさか、女帝が宮室に隠れて代わりに皇太子が使者に会ったなど、想像できますか?
そんなことできるわけがないでしょう。ですから
日出処の天子は書紀の聖徳太子ではない、と思います。

ヒストリアでは、阿武山古墳の藤原鎌足の挟紵棺の画像や、明日香の岩屋山古墳(聖徳太子の墓に似ている)の紹介もありました。
わたしもこのブログで、紹介しています。
カテゴリ 240「藤原鎌足の墓」
藤原鎌足の墓は何処か 
カテゴリ 280「聖徳太子伝承の嘘とまこと」
 ~聖徳太子の陵墓は三骨一廟、明治まで石室内を見られた聖徳太子陵墓、聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩屋山古墳

良かったら、ブログを見ていただければ嬉しいです。

では、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-14 01:09 | 289聖徳太子の実在は証明されたのか? | Trackback | Comments(0)

水神・河童・怨霊・虚実ないまぜの田主丸

虚実ないまぜ不思議だらけの田主丸
五柱神社にも行きました。銀杏が一面に落ちていましたが、拾う人はいませんでした。
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境内には様々な摂社がありました。人々の願いもそれだけ切実だったというのでしょう。
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一つの摂社に込めた願いを思うと切なくなります。享保一揆・宝暦一揆・大飢饉で1万人以上の餓死者を出すという歴史にうなります。
宮地嶽神社が多く勧請されたのは、水争いなどに勝利するためだったそうです。無理もありません、命がけの争いだったでしょうから。
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ここ筑後川流域には河童伝承もあります。久留米市の北野天満宮には河童の墓もあるのです。
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河童に化身したと言われる平清盛と二位尼の木造が、田主丸にはあるそうです。
他にも、怖ろし気な水神が祀られ、怨霊伝説もあります。下の写真は「川ん殿さま」です。ここは、伝承の宝庫ですね。
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帰りにちょっと不思議なところに寄りました。三明寺のバス停にある「用明天皇の墓・伝承地」です。まさか、まさかの展開ですね。
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ここが?!ですか。なんだか盛り上がった土地ではありますが。お堂がポツンと建ち、裏の石柱(?)に網が掛けられていました。
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これは一体なんでしょう。なぜ、用明天皇の墓などという伝承があるのでしょう。聖徳太子の正倉もあるとか聞いて、そんな!!と思いながら、分からないまま筑後川を渡り、帰途につきました。
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河を渡ると、こんなにも不思議な世界が広がるのですね。


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# by tizudesiru | 2017-10-12 21:43 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

神鉾神社の祭神は八千矛神(大国主命)

神鉾神社の御祭神は八千矛神

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竹野の森山地区の神鉾神社も長い階段を上らねばなりません。南は耳納山地、北には筑紫平野を望みます。三郡山地と筑豊三山が見えます。ここ神鉾神社が、江戸時代の農民一揆で生葉と共に久留米藩に立ち向かった地区の守り神です。
(享保一揆については、前々回にブログで紹介しています。宝暦一揆については少ししか書いていませんが、キリシタン大名だった有馬氏の末裔の圧政は、今も語り継がれているのです。天草四郎の旗印を何百年も守り続けたあの有馬氏の圧政ですよ。藩が困窮したから、すべてが間違っていったのでしょうね)
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筑紫平野が一望できる神社に鎮まるのは、八千矛神です。
ここには、大国主命=八千矛神が祭られているのです。何故って、
もともと筑紫平野をおさめていた神が大国主だったからでしょうね。

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筑豊三山、左から古処山、屏山、馬見山です。杉木立の向うには、英彦山がみえるはずです。
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神社の屋根には門光紋が打ってあります。上の写真、瓦を変えた時、自慢の瓦を境内に飾ってありました。誇るべき神文なのでしょうね。
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拝殿の裏に祭殿があります。拝殿にはあの「義士衣錦」の額。
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掲げられている「義士衣錦」額には、農民の無念と希望と誇りを秘めているのでしょうね。八角形の飾りが天井に張り付けてありました。
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天上の八角形の意味は何でしょうね。ここは下宮です。
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上宮は山の中にあります。更に更に階段を上ります。
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無理だとおもって見上げるだけにしました。
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神鉾神社の「夜渡」の写真です、夜渡と書いて、「よど」と読みます。神社の夏祭りや秋祭りのことを田主丸ではそう呼びます。夜を通して楽しむという意味でしょうか。
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16枚の花弁の菊の中に目玉のような円が重なっていますが、これは、大国主を意味するマークなのだそうです。
こうして神社に集まって、昔の話もしたでしょう。あの宝暦一揆(1754年)の話も出たでしょう。竹野郡で極刑に処された11人のうち、墓が見つかっているのは、門ノ上村庄屋の忠助、亀山村の庄屋の伴造、騒動の発起人としてさらし首にされた野中村の久兵衛のわずか三名で、ほとんど墓もなく野に眠っているのです。処刑された人々は、村の指導者だったのです。村に残されたのは怒りや悲しみばかりでなく、喪失感、大きな損失だったのです。夜なら顔も見られず集まって泣いて語り合えたし、とがめられなかったでしょうね。
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宝暦一揆の法要が行われています。
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田主丸の人は先祖の深い思いが込められた大地に暮らしておられるのですね。忘れまいぞ、と。
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ぜひ、わたしも蝋燭を上げたいですね。
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こんどは、神鉾神社の上宮に参詣するつもりです。


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# by tizudesiru | 2017-10-11 01:13 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

月岡古墳は大和政権側の古墳なのか

若宮八幡神社の若宮古墳群の不思議
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若宮八幡のある吉井町は水上交通で栄えた町でした。若宮八幡は此処に有ります。
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吉井町の若宮八幡は、久留米藩の享保一揆の寄り合いが持たれた場所でした。月ノ岡古墳と日ノ岡古墳は、ここにあります。
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では、月の岡古墳を見に行きましょう。本殿の正面左奥にそれは有ります。
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神社の裏に廻り、濠を渡ると、古墳の鳥居が見えてきます。
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80mの前方後円墳です。5世紀中ごろと書かれています。外側に三重の濠があったそうです。石室は竪穴ですから、九州ではほぼ4世紀の石室ですよね。
以前に見た報告書では、たしか4世紀の古墳と書かれていたように思うのですが、ファイルを探さなくてはなりませんね。

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金銅装眉庇付冑(こんどうそうまびさしつきかぶと)は、誰でも持てるものではありませんでした。さらに、ここで発掘された甲冑の分析をした研究者の報告では、甲冑の鋲留の技術を調査研究の結果「国産品」であるという見解でした。
甲冑など半島からの移入品だと教え込まれていた私には、「国産品」という言葉は新鮮でしたので、よく覚えています。
ここは重要な古墳です。しかも、石棺は長持ち型です。石棺と眉庇付冑から「ここは倭王権とつながりが深く、倭王権が入り込んだ証拠の古墳」だというのは、月ノ岡古墳の定説です。
何もかも「大和王権」と結びつけて考えられるのですね。しかし、ここは装飾古墳ではありません。150mほど離れた日ノ岡古墳は横穴式石室の中に装飾があります。
では、では、大和王権の後に「装飾古墳の文化が入り込み席巻した」というのでしょうか。耳納山地の北側には装飾古墳がどっと増えるのですから。定説では説明がつきませんね。
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では、日ノ岡古墳も見ましょうか。広い境内を横切りまして、若宮八幡神社の正面横の古墳に向かいます。
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日ノ岡古墳と神社の間には、道路が通っています。
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墳長は78mとあり、月ノ岡古墳とほぼ同規模です。同心円とわらび手文、三角文の文様が描かれています。この日ノ岡古墳が後の時代とつながるのは、ラインを引いて確認することができます。もう、何処に行っても紹介していますが、改めて載せましょう。
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日ノ岡古墳、寺徳古墳・下馬場古墳は装飾古墳です。その墳丘部をつなぐと、高良大社の社殿にラインが届きます。おもしろいことですね。
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三か所の装飾古墳が一本の線上に並ぶのは大変不思議ですよね。
江戸時代に若宮八幡が一揆衆の集合地になったと云うことは、古くから祖先の地として二つの古墳を守っていたからかもしれません。が、月の岡古墳と日ノ岡古墳には共通点はないのです。装飾古墳の勢力が入って来て、元の勢力を取り込んで(嫁にするとか、氏を継ぐとか)いったのでしょうかねえ。色々あったでしょうね。
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-09 17:30 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない!?

前畑遺跡筑紫野市は残さない
という話を今日聞きました。えええええ、本当ですか!!
非常に残念です。高度成長の時代じゃないのに、開発でしょうか。
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ここには、縄文時代・弥生時代・古墳時代から中世・近世までの遺跡が集まっています。そうでしょう、筑前と筑後の物流・文化・人々の交差点ですから、筑紫野は。
文化庁も県も努力したと風の便りに聞きましたが、遺跡は残りません。写真の部分はほとんど壊されます。残されるのは、山手の土塁が顕著なところではないのです。主要な部分、見学会で紹介された場所は、ことごとく無くなります。残念の一言です。
今は、見学も許可されていないそうです。

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版築の後も鮮明です。遺跡を調査している段階から、「ここは他と違う」と仕事している人が言い出して、調査が大きく動いたそうです。誰が見ても他と違う様子だったのです。
なぜ、こんなところに大きな版築土塁が在るのでしょう。まだ、何も分かってはいないのです。

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ここが騒がれているように羅城の一部だとしたら、倭国の都は九州にあったということになるではありませんか。筑紫野市にとっても大きな観光資源だと思うのですが、素人のたわごとでしょうか。
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これからの日本の人口は減っていくのです。開発が大事なものを壊していくのは、みんな承知しています。承知の上で経済成長を支えて来たのでしょう、今まで。しかし、考えなくちゃならないのは是からのことでしょう。
何を無くしてはならないのか、何に目をつぶるのか、重要な選択を間違ってはならないと思います。
しっかり目を開けて、何が未来にとって必要なのか、残されるべきか考えないと…
失った後では間に合わないのです。一人の市民として、行く先の短いものとして、わたしは前畑遺跡の消滅は悲しいと思います。

今日、遺跡の運命を聞かされてショックだったので書きました。


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# by tizudesiru | 2017-10-08 21:16 | 288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない | Trackback | Comments(1)

耳納山・鯰・政変・一揆、田主丸の伝承いろいろ

耳納山の牛鬼伝承
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康平五年(1062)のある夜、ゴーンゴーンという鐘の音に然廓上人は目を覚まし「こんな夜中に誰が鐘をついているのだろう」と不思議に思いました。鐘つき堂には誰もいないのです。不思議な出来事は幾晩も続き、果ては婦女子が怪物に襲われるという怪異までもおこるようになり、「御仏の御霊光にかけても」と意を決した上人は正体を突き止めるべく木陰に実を潜め時の到るのを待っていました。
そこに現れた怪物は、顔は牛、体は鬼。しかし、上人はただ経文を読み続けました。すると、御仏の功徳によってか牛鬼も神通力を失い五体の自由さえ失いました。夜が明けるころ、駆け付けた村人たちにより怪物の首は都へ送られ、怪物の手は切り取られて寺に残されるこことなったのでした。耳は山に埋められて、その山を名付けて「耳納山」となった、という伝承が田主丸の紹介本に書かれていました。(写真は、その本をデジカメで撮ったものです)

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古墳で御こもり・塚神と八代龍王
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地徳の善院区の吉岡家の敷地内にある古墳には「塚神」として十一面観音が祀ってあります。この塚神の謂れは、次のようなものです。90年ほど前のこと、吉岡家の幼い長女が病弱で医者にかかっても効果が見られませんでした。ある日、トウニンサン(祷人)が訪れ、「塚の口を開けなさい。そして、十一面観音を祀りなさい」と勧められ、娘の快気を祈って教えに従ったそうです。
吉岡家のあたりはホノケ(字)といい、八龍ということだそうです。古墳の上には以前から「水の神」として八代龍王が祀られていたからでしょう。
この墳丘では年に一度「御こもり」が行われているそうです。この御こもりは一旦絶えたのだそうですが、村内で雷に打たれた人が亡くなることがあって、復活したのだそうです。


阿蘇神社の守り神鯰を食べない人々
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森山地区の人々は、鯰を阿蘇神社の使いと信じ、絶対に鯰を食べないという禁忌を守っていました。上の鯰の石像は、昭和十年(1935)に伊勢神宮に参詣した祈念に奉納されたものです。村人の支えによって代表が伊勢神宮に参拝した祈念なのです。タブーを守ることは、地区の人々の団結力も培ったのです。
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鯰は川魚として昔からよく食べられていましたが、それを禁忌として守ることは、阿蘇神社が中世の菊池市とのつながりができた頃に勧請されたとしても、長く人々の団結力を培ったのでしょう。
藩政に苦しみ一揆を起こした人々
その団結力は一揆にも反映されました。
享保十三年(1728)の一揆は、藩の税制改革が過酷であったので、当時、厳禁とされていた寄り合いを農民たちが各地で持ったのです。そして「大庄屋衆より聞き書覚」によれば、生葉郡若宮の森(現 吉井町若宮八幡境内)で二月二十七日から三月二日までの間に、最初は五~六〇人、次に八〇〇余人、さらに下郡からも参加して二〇〇〇余人の寄り合いを持ったのでした。
三月四日には、城下に押し掛ける覚悟で、菅笠・かうばし(はったいこ)の類を用意したのです。
この事態に、家老中達四名の連盟による税制改革案の撤廃書を出しましたが、信用ならぬと騒動は収まりませんでした。江戸には使者がたてられましたが、藩主からは「税制改革の方針どおりに進めよ」との申し渡しがありました。家老の有間右近も江戸に出府し藩主に一考を促しますが、「騒ぎ立て不届きの至り」と取り合いません。

八月上旬になって、上三郡の農民は「寄合極書」を申し合わせ、竹野郡・山本群からも嘆願書が提出されました。やがて、生葉郡竹野郡の農民の農民が動き出しました。大庄屋は制止しますが聞き入れられません。
八月二十日、農民は城下へ向かって進むことを相談して決めます。大庄屋は郡奉行所に農民の要求を報告しました。八月二十三日、農民はついに久留米市御井の切り通しまで進出したのです。

八月二十四日、家老の有間監物、同内記、同因幡、同右近ら、四人連名で「藩主の裁許無しには願い事は取り上げられぬ。ごくごく難儀の品々があれば藩主からの裁許なくとも詮議するので、そうそう居村に帰るがよい。この旨を相弁えないとすれば幾日滞留しても願いは受けぬ」と申し渡され、農民たちは各村々に引き上げたのでした。

 
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(吉井町の若宮八幡宮、広い境内があったのでしょう)
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久留米藩の税制改革は、正徳二年(1711)に始まり、享保を経て、延喬五年(1748)まで続きますが、藩の財政ひっ迫はどうにもなりませんでした。なかでも、享保十七年に大飢饉が西日本を襲った時には、年貢は平年の二割しか入らず藩は困窮し、領内では餓死者一万一一九〇人、死馬4000頭と伝わります。
更に悲惨だった宝暦一揆
享保一揆は、農民が年貢減免を要求した最初の一揆でした。ここで、彼らは団結する強さを学んだのです。同時に、為政者側は更なる弾圧と取り締まりの方法を考えたのです。ですから、宝暦一揆の場合は農民も強くなっていましたが、藩側も厳しくなっていました。
久留米藩の二大一揆は、生葉・竹野二郡を起点として起こっていますが、それは何故でしょう。この地域は江戸時代初期の「五人の庄屋」の物語が残っています。彼らは命を賭して大石堰を造り用水路を完成させ、地域のコメの生産力を上げたのです。(その後、水神として祭られています)しかし、その水路の恩恵で得た物を藩によりほとんど収奪されたのでした。生葉・竹野の農民の努力に藩は報いるどころか何もかも収奪したのです。


宝暦一揆は、藩権力に対する全領的な蜂起であったので、藩の権威維持と農民支配のために、事後処理は徹底されました。また、藩としても農民からの収奪の限界を知ることにもなったのでした。
一揆後、次々と関係者が捕らわれ始めました。6月末から7月にかけて三〇〇人にも及び、死罪三十七名、追放七十六名、過料四十七名、など厳しいものでした。
竹野郡は、庄屋が四名死罪、二名追放、村役人の重罪処分は他郡より多く、死罪三十七名のうち竹野郡の者は十一名と多いのです。(生葉郡は死罪五名)

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野中村久兵衛は、ただ一人さらし首となりました。

以上、田主丸町史の中身を少しだけ紹介しました。
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竹野の神鉾神社の拝殿の絵馬にあった「義士衣錦」の文字には歴史の重みがあるのですね。
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古代の磐井も耳納山地の西の御井で戦いました。中世の後醍醐天皇の皇子も耳納山地に陣を置きました。豊臣秀吉も耳納山地の西の端に陣を置きました。昔から耳納山地にはあまたの血と涙と汗が流れているのです。美しい山並には、様々な物語が隠れていますね。


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# by tizudesiru | 2017-10-08 01:45 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

田主丸の阿蘇神社は橘の紋

なぜか、阿蘇神社に橘の紋
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久留米市田主丸町地徳(善院、ぜい)2808
田主丸の阿蘇神社は、大クスが知られています。祭殿の後ろに樟があります。
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拝殿には橘の紋がありました。よく見ると、あちこちに橘の紋がありました。
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阿蘇神社はほとんどタカノハ(並びタカノハ、ちがえタカノハ、三段のタカノハ、などなど)ですが、ここはタチバナです。不思議です。神額にもタチバナがありますね。これは何故でしょう。
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ご祭神は、建磐龍命(たていわたつ)、合祀している祭神は、国魂神、木花咲耶姫、神功皇后、勝頼大明神、浅間之神。なんとも様々な神様が合祀されていますねえ。
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一段高い所に祠が見えています。
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人の入れ替わりで様々な神様が入れ替わり、粗末にもできず摂社・末社になったと云うことでしょうか。その中で、タチバナの紋は残されたと。
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広い境内の南は耳納山地。北には筑紫平野が広がります。
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阿蘇神社ですから、やはりナマズが置かれているのでしょう。ここだけ、阿蘇神社らしいところですね。

タチバナの紋は、ここのご祭神がもともとは「建磐龍命」ではなかったと伝えているのでしょうね。


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# by tizudesiru | 2017-10-05 14:48 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(2)

ヒキガエルが守る姥ヶ城の天満神社

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ここには八幡宮
はない!
って、どういうこと?? 
不思議な天満宮だらけ

「南無八万大菩薩!」と弓をきりりと絞ったのは、平家物語の那須与一でしたね。武士は八幡神を信仰しました。八幡神は応神天皇で、武人の神なのでしょう。八幡神は神功皇后と一緒に祭られていますね。
案内してくださったM氏が言われました。
「不思議なことに、ここには八幡神社はありません。天満宮だらけです」
ふむ…むむ…では、八幡神を守護神とする武士の信仰が入って来なかったということですか?
それとも、神功皇后伝承が必要なかったということでしょうか? 
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「天」の字にすっかり慣れました。ここは、田主丸町地徳(姥ヶ城)の天満宮です。
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「鳥居杉」というのだそうです。境内への入口には杉の間に注連縄が張ってありました。神域を示したのでしょうね。鳥居を造るにはお金がかかるでしょうから。それとも、本来鳥居などなく、ご神域を示す「注連縄」があっただけでしょうか。
万葉集でも「標結はましを(しめ縄を張りましたのに)」とか「しめ野(標縄を張って区別した土地)」とか出てきます。大事な場所は、標縄を張って区別したのですね。
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あれ!天満宮に牛ではなく、カエルですか?
これは、ヒキガエルだそうです。
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狛犬の台座も梅ではなく牡丹(?)が彫られています。
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確かに天満神社ですね。
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神殿の南北の軒下には、青鬼・赤鬼が守りについていました。
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網戸の向うをのぞかせていただきました。
ご神体は菅原道真のはずですが、三柱の神様がおられるようです。ここも、ある時期に神様の入れ替えや合祀があったのでしょうか。
ふむふむ、ですね。ヒキガエルや三柱の御神体を参拝させていただきましたが、どうおもわれましたか?

ヒキガエルのお話、どこかにありましたね。


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# by tizudesiru | 2017-10-04 10:42 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

八代龍王(豊玉彦)が祭られた円墳と石室

八代龍王は個人宅にひっそりと…八代龍王社


田主丸町善院(ぜい)の八代龍王社の御祭神は豊玉彦
ごめんください、お邪魔しますと路地を抜けると八代龍王社が古墳の上に鎮座されていました。もともと辺りには古墳が沢山あったのでしょうね。後世、人々の集落ができ始めると塚は生活上いらないものになったかも知れません。屋敷を広げたり、畑を広げたりと、塚は無くなって忘れられ、すっかり庭の石材となり、用水路の石材となったことでしょうね。

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耳納山地の北側山麓は古墳の宝庫です。龍王社の背後には筑紫平野、目前の南には山塊。あの白建石が見えるのです。
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では、この円墳の石室にお邪魔してみましょう。やはり個人のお宅にお邪魔することになります
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お庭の奥に石室の入り口が開いていました。昔はここで蚕を飼っていたそうです。石室の中は真っ赤に朱が塗られていたそうです。狭い前室の奥に広い玄室がありました。
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天井は高く朱が残っているように見えました。下の写真は石室の天井です。
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玄室の奥壁の前にセメントの台があって、大石が少ししか確認できません。
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小口の石を積み上げて石室を造っているのですね。
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玄室の入り口の袖石です。両袖でした。壊されずに残されてよかったですね。
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しかし、古墳は放置されれば樹木が石を緩めていくかも知れませんね。

田主丸はミステリーゾーンがおおいです!
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-03 14:49 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

井樋権現は天武大地震を証明する

森影に井樋(いび)神宮
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田主丸町大字地徳(ちとく)
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井樋宮の御祭神は、天穂日命・伊弉諾尊・伊弉冉尊です。そして、ここは下宮です。中宮は此処から横の道を上っていけますが、上宮には別の道を使って登らなくてはなりません。
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上宮=井樋権現は上の写真の中の三角形の山です。かすんでいますが、電線の上のほぼ中央に小さく見えています。ここが白建山(白建石)です。天武大地震(678年)で斜面が崩れ花崗岩の岩がむき出しになったという所です。
耳納山地の西でも、高良大社の神籠石の北側が断層崖になり列石が崩れて切れています。これも天武地震の影響とされ、「神籠石」が678年以前の土木工事だと証明されたのでした。
地徳の白建石は花崗岩ですから、遠くからでも白く光って見えたでしょう。下宮の井樋宮に白い白雲母花崗岩が並べてありましたから、白い雲母がキラキラする石は井樋権現の化身だったのでしょうね。
この巨大な白石は筑後川の対岸からも目立ったようで、天武朝に筑紫国が分割された時、上座郡(かみつあさくらぐん)と下座郡(しもつあさくらぐん)を分ける郡境の直線を引くために利用されたようです。
このお話は田中正日子先生からも聞いていたので、井樋神宮を紹介してくださったMさんから再び教えてもらってうれしかったです。先生は実際に見て感動したと言われました。わたしも是非とも白建石を見たいと思いました
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古代の郡境は、筑後川の北北東に延びたの少し濃いラインで、そのラインを南にのばすとⒷの白建石につながります。今でも白い道がまっすぐに通っているのです。川向うからは目印にしやすかったのですね。
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この白建石の山頂からは8世紀~10世紀の土器が表採されています。「東川」と書かれた墨書土器もあり、麓には東川という地名も残るそうですから、何処の人が祭祀を行っていたか分かろうというものですね。
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井樋神宮の上宮と下宮は南北に並びます。祭祀は上宮で始まったのでしょうが、山頂では祭を日常的に行うには難しいこともあったろうし、その後も、山崩れ(山潮・やましお)などの被害も重なり、上宮での祭祀をある程度下宮に下ろしたのでしょうね。
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井樋神宮の入り口のミズヒキソウの花の色は白でした。清々しい空気が漂っていましたね。
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そうそう、神社と神宮は違いますよね。神社は別のところから神様に来ていただいて祭り始めた所ですが、神宮はもともとその地に生まれた信仰が中心になっていて、その宮が原点だということでしょう。
ですから、井樋神宮はこの地の信仰のご祭神を祀る神社ということですね。

それは、地域の誇りともなっているのでしょうし、参詣する者にも大変興味のあることになります。
では、また。



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# by tizudesiru | 2017-10-03 01:07 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

古代の祭祀場なのか、明見社は

古代の祭祀場 磐座と明見社
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明見社は小さな石祠でした。石祠の北には筑紫平野が広がり、明見社は北斗をここから眺めています。
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砥上山、宮地岳、大根地山、三郡山、宝満山、大城山という信仰の対象となった山々がここからは見えるのです。
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実は、この石祠の横は2mほど下がったくぼ地になっていて、清流が横を流れている十坪ほどの広場があり、磐座が祭られていました。
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この磐座は無残にも砂防ダムと橋がすぐそばに造られていて、いにしえの面影をわずかにとどめているだけですが、今も祭られ守られているようです。
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この磐座の横の橋を渡り、さらに杉林の中に入ると、井樋神社があるのです。
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実に深い森の中に井樋(いび)神社はあるのです。

それは、また明日。


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# by tizudesiru | 2017-10-01 21:06 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

謡曲「竹生島」と田主丸にあった地獄神社?

地獄(じごく)神社?と読んでしまった神社
しかし、宮地嶽神社と読むとわかりました
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筑後川流域田主丸天満神社
福岡県久留米市田主丸町竹野にあります。耳納山地の北側には古墳が集中しますが、古い神社も集中しています。
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鳥居の額には天満宮と書かれているそうですが、読みにくいですね。
天満宮ですから、ご祭神は菅公(菅原道真)と木花咲耶姫です。不思議な組み合わせですね。
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清々しい神社でした。祭殿には確かに男神と女神が祭られていました。
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境内もきれいに清掃されていました。ほとんど山の中の神社ですし、人もいないのですが。
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この神社の境内にお堂が見えますが、横に鳥居が見えています。そこから階段を上れば宮地嶽神社があると聞いたので参詣しました。
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真新しい鳥居がありました。「宮地獄(みやじごく)神社」という額ですが、何も気が付かずに階段を上りました。宮地嶽(みやじだけ)神社と思って手を合わせました。
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階段を下りて気が付いた人がいたのです。地獄だと…
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鳥居の神額が、宮地獄(宮じごく)神社となっていたのです。
嶽を獄に書き間違えるなんて、まさか、ないでしょう。むかしから「獄」の字をつかっていたのか、本当は宮地嶽神社ではなかったので、「嶽」の字を故意に避けたのか。どうなのでしょうねえ。まさか、地獄とはねえ。
と書きましたが、これは、宮地だけ神社と読むのだそうです。
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もうひとつ、鳥居の横のお堂に西国三十三箇所の三十番目の御詠歌が掲げられていました。
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なんで、ここに滋賀県の竹生島の弁財天信仰に謡われる御詠歌が架けられているのでしょうか。このお堂に、市来島姫(市杵島姫)を祭っているという理由からでしょうかね。
市杵島姫はスサノウとアマテラスの誓約で生まれたことになっている三女神の一人として知られています。出雲大社にある筑紫宮に祭られる大国主命の妃でもあります。つまり、もともと九州の神なのですね。
その神が弁財天して信仰され、竹生島の都久夫須麻神社にも祭られています。都久夫須麻神社は、「三代実録」(879年)には「筑夫嶋神社」と書かれ、10世紀の「延喜式神名帳」では、「近江国浅井郡都久夫須麻神社」と書かれています。


要するに、都久夫須麻神社は筑紫島神社ということでしょうか?
神社によると、竹生島に「雄略天皇三年に浅井姫を祀る小祠が造られたこと」が祭祀の始まりだそうです。また、天智天皇が近江宮を造る時、宮中の守護神として祭られたとも。
聖武天皇の時、「琵琶湖に小島あり、そこは弁財天の聖地であるから寺院を建立せよ」と神託があったので、行基に宝厳寺を開基させたということです。
そうですか。やはり聖武天皇は天智天皇の守護神だった竹生島の神を祀り敬ったということでしょうか。

そうそう、謡曲「竹生島」(宝生流)のことも一事、書かなければなりませんでしたね。
あらすじは『延喜の聖代(醍醐天皇の御代)に仕える臣下が竹生島の参詣に出かけて琵琶湖畔に着くと、老人と若い女が乗った船があったので、同情させてもらう。湖上の春景色を眺めているうちに、舟は竹生島に着く。女が降りるのを見て、臣下はこの島は女人禁制であると聞いていると不審顔をするが、老人は島に祭られている弁財天は女体の神であり、それを知らない人が言ったことであろうと教え、島の由来を語った後、自分たちは実は人間ではないことを明し、女性は社檀の中に消え、老人は波間に姿を消す。(中入り)
臣下が待っていると、社檀が揺るぎ光輝く姿の女体の弁財天が姿を表して舞を舞う。やがて湖上の波が荒れたかと思うと龍神が現れ、光り輝く金銀珠玉を臣下に授けて、素性済度の誓いを表して水中の龍宮に飛んで消え失せる』という大変華やかな弁財天が登場するものです。

謡曲は近世に流行した演劇でしょうが、演目は平家滅亡とか大きな政変に関わる「亡霊」や神や仏が出てくる中身が多いように思います。竹生島も浅井(あざい)媛が首を斬られてできたという伝承の嶋ですから、弁財天の話も入りやすかったのでしょうね。

 

面白いことはまだまだありましたが、ここまでにします。


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# by tizudesiru | 2017-10-01 01:48 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(2)

穂波川流域に栄えた土師氏


狭い所に前方後円墳が集中桂川町
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古墳が集中するのは、穂波川と泉河内川の間です。川の氾濫原から一段高くなった丘陵の上に前方後円墳があるのです。
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右端に王塚古墳の墳丘が見えているはずですが、確認しにくいでしょうね。
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王塚古墳館の桂川町紹介(古墳)の画像を見てください。
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上の画像の古墳は、山が荒れていて見学不可能です。
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王塚古墳と天神山古墳は見学できます。
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この地域には7基の前方後円墳があるそうです。が、その経済を支えたのは何か、なんという氏族が政治経済を握っていたのか、わかっていません。
古墳時代の集落跡がほとんど見つかっていないのです。これだけの墳丘を続けて造るには、人手が必要ですし、技術も知識も必要です。よそから働きに来たとは考えられませんから、地域の住民がかかわったはずです。
僅かに古墳時代の遺跡が土師(はじ)地区で発掘されています。其の出土物は王塚古墳館に展示してあります。確かに須恵器の甕のようすから、古墳時代の遺跡ですね。
天神山古墳の八幡神社は土師地区から遷したということでしたから、古墳群を造ったという伝承が土師地区にはあったかも知れませんね。江戸時代までは。

更に古い伝承もあります。
『九〇一年(昌泰四年)正月、菅原道真は右大臣・従二位であったが、正月二十五日、大宰府に左遷された。この頃、土師郷に土師氏がいて、土師庄の領主であった。道真はもともと土師氏であったので、同じ土師氏であるからと、大宰府にいる道真と親交をむすんだ。九〇三年(延喜三年)二月二十五日に道真が大宰府で没したので、土師氏の人が道真をオオクニヌシノミコトを祀る神社に祭った。』という伝承が土師の老松神社神職の高森氏の家に残されているそうです。


土師地区の人は「同じ土師氏だから」とオオクニヌシをまつる老松神社に道真を祭ったのですね。なかなか面白い伝承です。
だって、大国主を祀る神社だったのでしょう!! 土師氏は大国主を祀っていたなんて?! です。
大国主命が大化改新までの倭国の神だったのではないかと、私は思っているのです。九州と日本海側と関東にその信仰は広がっていました。が、政変により大きな神社は祭神が変えられた、小さな神社は相手にされず見逃されたと思っているのです。人口の少ない集落に古い神々が残されていますものね。

時代が変わるたびに、鎌倉武士により神社の祭神の入れ替え、江戸時代の藩政による別の神社の勧請などで摂社・末社に主祭神が置き変えられるなど、いろいろあったということです。
桂川はなかなか面白い町ですよ。


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# by tizudesiru | 2017-09-25 15:48 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Trackback | Comments(0)

初めて見た突堤の溝・天神山古墳現地説明会

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(上の写真は桂川町の王塚古墳です。奥の森の中にも古墳群があります)
筑前王塚古墳近くに天神山古墳があり、その墳丘の見学会がありました。
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大きく削られていますが、そこに豆田八幡神社があります。この神社は江戸時代に土師地区から遷されたものだそうです。その時、削られたのでしょうか。
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国道200号の上に陸橋がかかっています。渡ると天神山古墳です。
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遠賀川の支流の穂波川と泉河内川の間には古墳が集中しています。後日紹介します。
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神社の裏に回ります。
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古墳の突堤の一部が見えます。
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トレンチを見ると、地山を削り出して古墳を造ったことが分かります。前方部の角もトレンチで確認されていました。
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白い棒の先が前方後円墳の前方部の端ということでした。
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上の写真が前方部です。では、後円部へ進みましょう。
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今回の見学会のメインは、この突堤の切れ目でした。突堤に通路のような溝が造られているのです。このような溝は他に例がないとのことです。これは、1940年の調査の時も確認されていて、再確認されたのです。
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上の測量図が1940年の調査で造られたものです。左上の突堤に切れ目があります。
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決して大きくはない渠で、周溝に降りる所に一段、突堤から外へ出る所に一段階段がありました。周辺の腐葉土などの堆積物から判断して、この溝は築造時からあったということです。
それは、どういうことでしょうか。築造時、この溝は必要だったのです。
何かを運ぶために開けられたのか、お祭りをする時の通り道として掘られたのか、理由はわからないそうです。
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後円部の墳丘の上は平らになっています。瓦が落ちていますから、一昔前に社が建てられていたのでしょう。それにしても、この古墳には遺物がないのです。須恵器が神社の辺りで表採されたのみで、埴輪も葺石もないそうです。石室らしきものも未だ確認されてなくて、墳丘部を電波で探査したけれど、それらしい反応はなかったとのことです。
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怪しい古墳ですか? そうなのです、とても不思議です。
6世紀後半の古墳なら円筒埴輪だけでなく形象埴輪は伴うはずです。近くの王塚古墳のように、横穴式石室があるはずです。周溝が盾形ではなく、くびれ部で内側に突堤がカーブしているのも変です。
本当に6世紀後半でしょうか。

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私は、突然思いつきました。この溝は、古墳が出来上がった暁にはふさがれる予定だったのではないか、ということです。つまり、ここは途中で築造がストップした古墳だと思うのです。なぜか? それは、何らかの政変が起こったということでしょう。墳丘を作り、石室のための穴を掘り、石を運び込む、という手順で行われていた土木工事、その工事が途中で止まったのではないか!! だから、石室もないし、埴輪もなければ葺石もない、人々の祭祀の跡もないので生活用の土器も出ない、としか考えられないのです。そんな状況で被葬者の木棺直葬があったかも知れませんね。想像ですが。

今日、丁寧なご説明をしてくださった先生、ありがとうございました。大変面白かったです。
石室の調査をぜひお願いしたいですね。天神山古墳の築造時期は何時頃でしょう。
興味の湧く見学会でした。



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# by tizudesiru | 2017-09-24 00:07 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Trackback | Comments(0)

香具山を詠んだ三人の天皇(2)

吾は山常の大王であるぞ

舒明天皇が香具山を詠んで主張したのは「香具山に降り立ったぞ。これからは私がヤマトの大王であるぞ」ということでした。
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万葉集の巻一の冒頭は雄略ですが、二番歌に舒明天皇の歌が置かれています。それは、明日香に入った初めての男王である舒明帝が、香具山で国見の儀式をして大王であることを宣言した歌であるからなのでしょう。
万葉集がどの大王を祖先とし、どの王朝の繁栄を願い、誰を慈しみ、誰を哀悼し、何を主張しようとしたのかという、万葉集の根幹にかかわることの、その一端が「舒明天皇の国見歌」からも読み取れるのです。


香具山を氏の守りの神山としたのは、舒明天皇です。舒明天皇は「山々が折り重なったようなヤマトの地に降り立ち、群山の中で鳥もよろけるような神山である香久山」を選びました。もちろん、周囲が開けた一等地の甘樫の丘は既に蘇我氏のものでしたから、そこに入り込むことはできなかったのです。
それでも、天香久山の周囲は開け畝傍も耳梨も見えて豊かな土地でした。

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舒明天皇はあんがい伊予国の人だったかも知れませんね。
案内板にもありました「伊予から天降った」という伊予の風土記と、萬葉集を合わせても読むとそういう結論も出てきますね。
巻一の六番歌の左脚に、「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはない。ただ山上憶良の類聚歌林によると(日本書)紀には(舒明)天皇の十一年、己巳の朔の壬午に伊予の湯に行幸された」書かれています。
また、巻一の八番歌「熟田津に~」の歌の後に、「斉明天皇が熟田津の石湯の仮宮に行かれたとき、天皇は昔日の物がなおも残っているのを見て、たちまち感愛の情が起こり、哀傷のために歌をお読みになった」ことが書かれています。

34代舒明天皇は明日香の地に入った初めての男王でしたが、それを望んだのは蘇我氏でしょうか。
29代欽明帝の宮は桜井市で、30代敏達帝の宮も桜井市と河内長野です。明日香は田舎だったのでしょう。そこで馬子は飛鳥寺を作り華やかな仏教文化を取り入れました。しかし、用明帝の宮は桜井市、せっかく大王位に着けてやった崇峻帝も宮は桜井市倉橋でした。当時の物流を考えると、大和川を遡れる桜井市の方がずっと政治経済的には有用な土地だったのでしょう。明日香川はあまりに小さく水量も少なかったのです。
崇峻帝は愚かではなかったのですが、蘇我馬子は崇峻帝を暗殺してしまいます。


やっと明日香に迎えた舒明帝は、蘇我系の女帝・推古天皇の遺言のようなもので選ばれた天皇でした。どうしても明日香に「大王」宮を招致したいという推古帝の使命感だったのでしょう。明日香のために、蘇我氏の発展のために。
斑鳩の宮にいた山背大兄皇子は蘇我氏に除かれましたよね。
難波宮の孝徳帝の場合も、中大兄が背いた理由の中に、明日香から離れたことへの蘇我系氏の不満があったかも知れませんね。
経済を握ることが政治の目的だった、人民は関係ない、今も昔もかわらないのですね。

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以来、藤原宮に遷るまで、明日香がひとまず都でした。明日香から大津へ遷都するときの歌は、万葉集のどの歌も不安に満ち、寂しさに心おれそうです。つまり明日香を基盤に生れた王権が他へ遷ることは「本家」を捨てるように思えたのでしょう。
それでも、世は変わり都は遷っていきました。



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# by tizudesiru | 2017-09-22 11:15 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Trackback | Comments(0)

天の香具山を詠んだ三人の天皇(1)

衣干したり天香具山

飛鳥の天香具山を訪ねましたが、草が多くてちょっと登れませんでした。でも、少し紹介しましょうね。


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案内板に従って天香具山に向かって少し歩きます。152mほどの山ですが、一人で上るのはやめました。山頂への登山口が見えています。
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ここからは西の畝傍山がよく見えます。
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大和三山の畝傍山と耳成山は死火山です。香具山は多武峰からの山稜が伸びてきてそれが独立したすそ野の一部です。
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登山口に天香具山神社と天岩戸神社の道路案内がありました。此処から二つの神社は離れています。
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平成17年にできた説明板がありました。
香具山を詠んだと万葉集に残るのは、三人の天皇です。持統天皇・舒明天皇・天智天皇です。

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舒明天皇の国見歌の石碑が建てられていました。歴代の天皇は大阪の百舌鳥古墳群や近津飛鳥(磯長)や桜井市や天理市に陵墓があります。
明日香に所縁のある天皇は欽明天皇以降ですね。
舒明天皇が明日香を手に入れて登った国見山が「香具山」だったというのです。
新しい王朝なのでしょうね、舒明朝は。

香具山のお話はつづきます。


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# by tizudesiru | 2017-09-21 15:12 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Trackback | Comments(0)

檜隈寺跡は天皇の宮跡

キトラ古墳のすぐそばに檜隈寺跡
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中央の小高い丘にキトラ古墳があります。
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振り返るとくぼ地があり、坂道をのぼると森があります。中央の森が檜隈寺跡です。
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森の中に於美阿志(おみあし)神社があります。
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「檜隈は百済から渡来した阿智使主が居住したと伝えられ、於美阿志はその阿智使主を祭祀する。檜隈寺跡は」その神社の境内にあり、塔と金堂と推定される建物跡を残す。日本書紀、天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の〇〇〇跡からは、7世紀末の瓦が出土する。〇〇〇ある十三重石塔は上層の一部を欠いているが、文化財に指定されている。」と、案内文にあります。
下の案内板には、大字桧前となっていて、地名は檜隈ではなく桧前(ひのくま)となっています。

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於美阿志神社の境内には、宣化天皇桧前廬入野宮址と書かれた石柱がありました。28代宣化天皇は、継体天皇の皇子です。
29代が同じ継体天皇の皇子の欽明天皇です。欽明天皇の陵は、明日香村大字平田にあり「檜隈坂合陵」と呼ばれています。

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更に奥に進むと石塔が見えてきます。
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石塔は於美阿志神社の社の隣の敷地に在ります。ここが塔跡のようです。
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於美阿志神社を挟んで北には講堂跡があります。近江の崇福寺・南滋賀廃寺、山城の高麗寺などで見られる瓦積基壇を持つ建物は、明日香では初めて見つかったものだと書かれています。
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基壇上には礎石が残っていました。
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於美阿志神社の神殿です。ここから北に30mほど歩くと、瓦を焼いた窯跡があります。
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古い瓦当文様もありますね。
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芝生の斜面が瓦窯跡で、すでに埋め戻されています。
奥の森は檜隈寺の講堂址ですから、古代には使用する瓦を寺院のすぐ近くで焼いたことが分かりますね。

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では、檜隈寺跡とお別れしましょう。
そうそう、わたしが何ゆえに檜隈(檜前)寺=宣化天皇宮址を取り上げたのか、大事なことを書いていませんでしたね。
わたしは日頃から飛鳥に関心を持っています。そこは「飛ぶ鳥=霊魂の国」だという意味の地名だと思うからです。しかし、其の思想は古代からの物ではありません。天香具山をトーテムとした氏族が生みだしたものです。
其の証拠に、書紀によれば、古代の歴代天皇の陵は、大阪府の百舌鳥古墳群や磯長(近つ飛鳥)や桜井市や天理市や橿原市にあるではありませんか。
その陵の事実関係はともかく、古代天皇の出身地は飛鳥ではないのです。
飛鳥に入るのは欽明天皇からで、それまでの天皇の宮跡もありません。飛鳥を宮とした宣化天皇が渡来系の氏族の寺跡と重なるのは、面白いと思ったからです。
縁もゆかりもない所に住んだりしないでしょう。何かしら関係があるのです。それは、瓦によっても分かりますからね。
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-09-21 11:36 | 283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址 | Trackback | Comments(0)

呉音と漢音で「倭人伝」の役職名・人名を読む

初めて接した漢字の発音
倭国が初めて接した漢字の発音は、今日、呉音・対馬音とか呼ばれるものだったそうです。
万葉集は万葉仮名と呼ばれる漢字で書かれています。
やはり、多くは呉音の発音で読むようです。漢音と呼ばれる今日ではよく使われる発音は、八世紀になって唐と交流が始まって後に入って来た「発音」といわれます。
中国では本来漢字の読みは一つです。しかし、日本では漢字が取り入れられた時期が幾度もあるので、読みが幾通りもあるのです。
例えば「明治めいじ」や「明神みょうじん」などのように「明」をメイ(漢音)と読んだりミョウ(呉音)とよんだりします。呉音と漢音という入ってきた時期が違うので様々な音読みがあるのです。

一・二・三、壱・弐・参、イチ・ニ・サン、日本語そのもののようですが、これらは古代中国語の呉音の発音なのです。

過去の文献の個人名など呉音で読むか漢音で読むか気になります。

「倭人伝」も呉音で読まなくちゃいけませんよね。やってみましょうか。

赤(呉音)、色無し(漢音)、青(呉、漢、両方に共通)


倭(ワ・イ)国              *地方名(読み) ワコク・イコク

卑()狗(・コウ)           *対馬、壱岐(読み)ヒク=ひこ

卑 奴(ド・)母(ボ・)離()   *対馬、壱岐(読み)ヒヌモリ=ひなもり

爾(ジ・)支(シ)→イをつけて伎(キ・)*伊都国(読み)ニギ=にぎ・ねぎ

泄(エイ・セツ)謨(ボ・)觚(・ク) *伊都国(読み)エモコ

柄(ヘイ)渠(キョ・?)觚     *伊都国(読み)ヘゴコ

兕()馬(バ・)觚       *伊都国 (読み)ジメコ・シマコ

多()模(・ボ)       *不弥国(読み)タモ=たま

投(トウ・)馬         *投馬国(読み)ヅマ・=つま

彌(ビ・)彌          *投馬国(読み)ミミ

彌 彌 那(・ダ)利()   *投馬国(読み)ミミナリ

邪(ジャ・シャ・ヤ)馬 壹(イチ・イツ) *邪馬台国(読み)ジャマイチ・ジャメイチ      

伊()支 馬            *邪馬台国(読み)イキメ

彌 馬 升(ショウ)         *邪馬台国(読み)ミメショウ・ミマショウ

彌 馬 獲(クァク)支      *邪馬台国(読み)ミマワキ・ミメワキ 

奴 佳(カ・)鞮(テイ)      *邪馬台国(読み)ヌケテ 

勝手ながら呼んでみましたが、なかなか日本語らしくなりませんね。
中国の人が聞き取った日本語を漢字に変えているからでしょうね。

漢字が日本に入って来たとき、みんな苦労したでしょう。
どんな発音なのかが分かると、万葉集も古事記も文化的に何時の時代を反映するのか察しがつきますよね。
日本国になって、唐と交流するためには新しい漢字の発音が必要でした。急いで新しい読みを取り入れられたでしょうが、それまでに培った文化はなかなか消せるものではありませんから混乱したでしょう。
万葉集の時代には「雲・天・雨・日・月」など身近な言葉は既に訓読みが浸透していました。漢字を消化するには時間がかかったと思いますが、文字を手に入れることは大きな喜びだったことでしょうね。



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# by tizudesiru | 2017-09-18 16:23 | 282呉音で書かれた万葉集と古事記 | Trackback | Comments(0)

キトラ古墳の被葬者は舎人皇子

キトラ古墳の被葬者は
舎人皇子
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古代史ファンの注目を集めた壁画を持つキトラ古墳の被葬者はだれでしょう。私は舎人皇子と思うのです。キトラは天武帝の家族の領域に位置しています。
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天武持統陵は藤原宮(白いポイント)の真南にあります。文武陵は天武陵のほぼ南にありますが、真の文武陵は中尾山古墳とされています。
高松塚古墳Ⓑは耳成山の真南にあり、藤原宮と結ぶと間に中尾山古墳が入ります。耳成山の真南に中尾山と高松塚古墳があるのです。
皇族のトップになる高貴な人の陵墓は、適当には造営されていません。ちなみにⒶ は菖蒲池古墳です。
同じ氏や家族の墓は意味のある場所に造られ、ゆかりの人の墓や寺とラインが引けます。すると、キトラ古墳の主は、天武朝の皇子ではないかと思うのです。
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(中尾山古墳)
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(高松塚古墳)
キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵に造られた壁画を持つ古墳で、壁画も高松塚古墳に似ています。
キトラの被葬者も天武帝の皇子でしょう。それも皇位継承権があった皇子だと思います。
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天武天皇の皇子はあまた居ますが…
草壁皇子亡き後、持統天皇が皇位を受け、10年後に軽皇子(文武天皇)に譲位しました。軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子は、文武三年(699)に薨じました。彼は兄の長皇子の方が軽皇子(文武天皇)より皇位継承の地位が高いと主張したのではないでしょうか。

若い文武天皇の崩御が慶雲四年(707)です。
持統天皇も既に崩御(702)されていたし、大変な事態となりました。しかし、文武天皇の母である元明天皇が即位したのです。孫の首皇子(聖武天皇)に皇位をつなぐためでした。

和銅七年(714)首皇子が元服

和銅八年(715)氷高皇女即位
いよいよと思われたこの年、有力皇子(親王)が次々と亡くなりました。
6月(長皇子)、7月(穂積皇子)、8月(志貴皇子)、そして9月に即位したのが、氷高皇女(元正天皇)だったのです。
(父の文武天皇も15歳で即位したのに、首皇子即位はかないませんでした。聖武天皇が即位したのは、10年後の養老八年(724)です)

和銅八年、有力皇子は次々と死亡しています。
長生きして50歳を超えたのは、新田部皇子と舎人皇子でしょうか。ふたりは、天平七年(735)に没しました。
二人の違いは母の出自でした。
新田部皇子の母は鎌足の娘・五百重娘ですが、舎人皇子の母は天智天皇の娘・新田部皇女です。二人の身分は全く違っているのです。長皇子も弓削皇子も母は天智帝の皇女でした。もちろん高市皇子の母も天智帝の皇女です。皇位継承権は天智・天武の皇統にこそあったのでしょう。
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(キトラ古墳)
発掘された歯のようすから50~60の皇子となれば
キトラに眠るべき皇子は舎人皇子(舎人親王)以外にはいないのです。
万葉集からも舎人皇子が皇位継承の立場にあったことが窺えます。
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人麻呂は708年に没した柿本佐留だと考えていますから、人麻呂の歌は舎人皇子の若い時に献じたものだとなります。
舎人皇子、皇子が皇位継承の対象である限り、ゆめゆめ油断召さるな。
多武峰の霧はいつでも厚く立ち込めて皇子を狙っているのですから。


長生きした舎人親王は王者として、しかし、こじんまりとしたキトラ古墳に葬られたと思うのです。薨去の時舎人皇子に残されていたのは、優良な皇位継承者だったという名誉だけだったのでしょうか。
だからこそ、舎人皇子の息子・大炊王(淳仁天皇)は藤原仲麻呂(恵美押勝)に担がれるのです。そして、父の舎人皇子に「天皇」の追号を望むのですが果たされませんでした。

キトラ古墳に戻りますが、皇子でなければ、天体図の元には眠れないと思うのです。舎人皇子は高市皇子と同じく行政のトップ(知太政官事)にありました。721~735の十五年間もです。その間には「長屋王の変」がありました。事件に遭遇した時、舎人皇子はどんなことを考えたのでしょうね。

もしかしたら、舎人親王は常々「皇位継承の正当性を正そう」と息子に語っていたのかも知れませんね。
大炊王はそれを現実のものにしたかったと…考えられないこともありません。


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# by tizudesiru | 2017-09-17 00:26 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback | Comments(1)

キトラ古墳の主は星空と四神と十二支神に囲まれた

キトラ古墳の被葬者は誰

キトラ古墳の被葬者として、歴史に名が残されている人を当てようとするのは、仕方がありませんね。何処の誰かが分かると、古墳の意味と時代の様相が格段に理解しやすくなりますからね。
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道の奥の斜面の木の間にキトラ古墳が見えています。

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キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵の斜面にあります。すぐ隣にある集落は「阿倍山」といいます。
その地名があるからキトラの被葬者を「阿倍御主人(あべのみうし)」とする説があるのです。阿倍御主人は大宝元年(701)三月に右大臣に任命されています。

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(写真の集落は阿倍山です)(下の写真はNHK)
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さてさて、キトラ古墳の被葬者は誰なのでしょうね。出土した歯のようすから石槨に葬られたのは一人で、50~60歳の男性のようです。
そうなると、若くして亡くなった弓削皇子説などは消えますね。
40代の高市皇子説も消えるでしょう。
すると、阿部御主人説が有力になるのでしょうか。
しかし、小さい墳丘ながらもキトラ古墳の石槨の天上に天体図があります。
阿部御主人の墓なら、右大臣なのに北斗七星のもとに眠るのでしょうか。
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上の写真は、孝明天皇の即位の儀式で着用された礼服ですが、これに北斗七星の図が使われています。
北斗は、極位に登る方が礼服に使用されるべき星座というのでしょうね。
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(キトラ古墳の天上の天体図です)
三重の同心円は、内規・赤道・外規です。
内規は常に見えている星で、外規は季節ごとに見える星だそうです。赤道は太陽の通る道となります。
中心のずれた円は黄道で、月の通り道です。
この天文図は紀元前1世紀中ごろと推定されているそうです。


紀元前の星の位置を記録したという「石氏星経(せきしせいきょう)」とも整合したので、「中国からもたらされた星図をもとにして描かれた可能性が高い」とされています。
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中国ですか……古代の日本も月や太陽の観測はしていたはずですよね。神話にも「月読命」っておられますからね。神社の行事にも未だに月を観測する行為が残されていますからね。
それにしても古い天体図を描いたのですね。
キトラの絵師にも渡された下図があったはずですよね。それが是ですか。

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(体験館の図をお借りしました)
右大臣阿部御主人が被葬者とすると、右大臣の墓に天体図(体験館の写真を使わせていただきました)や十二支の人形図が書かれたのは何故でしょうか。
玄武に朱雀に青龍といった神聖な四神が墓に描かれたのですから、その社会的立場は相当に重要だったのではないでしょうか
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中国の山西省の金勝村7号墓の壁画にキトラ古墳の壁画が似ていると放送されていました。かなり前の放送だったので余り覚えていませんが、金勝村7号墳の被葬者は、どんな身分の人だったのでしょうか。
御存じの方がおられたら教えてください。

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そうそう、
高松塚古墳にも四神や星座が描かれていました。
何より高松塚は藤原宮大極殿の真南に位置していました。選ばれた墳丘墓でした。

では、
キトラ古墳は、どのような位置にあるのでしょう


つづく


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# by tizudesiru | 2017-09-14 15:40 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback | Comments(0)

キトラ古墳の被葬者

聖徳太子の墓は終末期の古墳でした。
それも、明日香の岩屋山古墳に近い石室とされました。では、飛鳥の終末期古墳・キトラ古墳も見てみましょう。

終末期古墳・キトラの被葬者は?


紹介文には「キトラ古墳は高松塚に続き日本で二番目に発見された大陸風の壁画古墳です。」と書かれていました。

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発掘された時のキトラ古墳。四角い穴は鎌倉時代の盗掘の跡です。
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盗掘の穴から覗くと、四神・天体図・獣頭十二支像などの壁画が見つかりました。
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高松塚古墳に続く発見となり、中でも天体図は魅力的でTVにも取り上げられました。
壁画の保存に伴い辺りは大きな公園になりました。
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それにしても、被葬者は誰なのかが話題になりました。7世紀末~8世紀初めにかけての終末期古墳ですから、被葬者もかぎられるはずですし、天体図や玄武などの四神が描かれ、獣頭の十二支像が描かれるなど、高貴な人に限られのです。

a0237545_00054603.png
天武天皇の皇子である高市皇子、同じく天武天皇の皇子の弓削皇子、高官であった百済王昌成、古墳の周辺が阿倍山という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が挙げりました。
石室は狭いのですが、副葬品を見ると金や銀を使った豪華な木棺など有りますから、身分の高い人だったに違いありません。
a0237545_09342896.jpg
a0237545_09351388.jpg
壁画を見ると、将に王者のものですね。しかし、古墳は小さい…
この小さな古墳に眠っていたのは何処の誰でしょう。高貴な方には違いないのですが。

つづく


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# by tizudesiru | 2017-09-13 09:36 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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