聖徳太子の陵墓は、三骨一廟

聖徳太子が眠るのは叡福寺

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この夏、叡福寺を訪ねました。磯長山叡福寺は聖徳太子の御墓がある寺院です。
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「河内国 上之太子 磯長山叡福寺縁起」には次のようにかかれています。

叡福寺は聖徳太子の墓前に営まれた寺院で磯長山と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗金剛峯寺の末寺で、所在地であるかっての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた。

また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する性格の寺院であるところから太子寺・御廟寺・聖霊院の号もあり、四天王寺・法隆寺と並んで太子信仰の中核をなした寺院である。

なお、一連の太子建立伝説を持つ八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」羽曳野市野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と俗称されしたしまれている。

寺院の創立は明らかではないが、寺伝によると推古天皇三十年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当時の始まりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えられている

現在の伽藍は天正二年(1574)織田信長の兵火で焼失したあと相前後して再建されたもので広大な境内には金堂、聖霊殿、宝塔などの同塔が建ち並び由緒ある寺院としての風格を保っている。

また、境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇二十九年(621)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后、翌年二月大和斑鳩宮において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎子の三人が一か所に葬られているところから、三骨一廟とよばれ、この墓前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧知識の参籠が多く、現在も太子に会わんがために善男善女の参詣が絶えることがない。

当寺には重要文化財に指定された絹本着色文殊渡海図、高屋連枚人(ひらひと)墓誌の他、数多くの貴重な文化財を所蔵している。精霊殿(太子堂)は慶長八年(1603)豊臣秀頼が伊藤左馬頭(さまのかみ)則長を奉行として再建したもので、桃山時代の特長をよく示しており、宝塔は承応元年(1652)に建立されたもので、いずれも昭和五十二年一月重要文化財の指定を受けている。

棟札によって競歩十七年(1732)の再建が明確な金堂(附棟札)、肘木絵様と木鼻が聖霊殿とよく似ており十七世紀前半を下らない建築と考えられる鐘楼は、共に平成十三年二月二日に大阪府指定文化財となっている。

また明治初期に塔頭、石塔律院跡から客殿庭園内に移建された巨大な石造五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、鎌倉末期の優作として、昭和五十二年三月大阪府有形文化財の指定を受けている。

 聖徳皇太子御廟所 磯長山叡福寺

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階段を登ります。
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「縁起」を読みましょう。先に全文を紹介しています。
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宝塔です。

横を通り過ぎて、まっすぐ廟に向かいます。

階段を上ると廟所です。

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此処に三人の棺があるのです。穴穂部間人皇后と膳部大郎女と聖徳太子。
「穴穂部間人皇后のために墓所を太子町太子の北側の丘陵斜面に決め、石室を築いた」との伝承があり、元々は母のために切り石の横穴式の墓を造っていたのです。

ふうん、すると推古天皇より古いタイプの陵墓となるはずですね。
叡福寺の寺伝では、「上宮太子を磯長陵に葬めまつる(書紀)」のあと、推古天皇の勅により、御廟を守るために叡福寺が建立されたとなっています。
しかし、古瓦や瓦器などは後世の物で、飛鳥から奈良時代のものは今のところ出土しておらず、7世紀前半に叡福寺が建立された証拠はないそうです。
更に
明治のはじめのころまでは廟内に入ることができたようです。明治12年に宮内庁から来て内部を記録した実検記が残されています。
それを読むと、聖徳太子の墓と決めてしまっていいのかなあと思います。もちろん、信仰上の廟所でもいいのですが、太子信仰とは切り離して考えると、この陵墓は新しいと思えるのです。


聖霊殿です。

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帰りの石段です。正面に何があるのかな?
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静かなたたずまいの町屋があります。
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聖徳太子信仰は今も根強いようです。
また、明日に続きます。



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# by tizudesiru | 2017-09-06 23:39 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback | Comments(0)

西原の縄文土器の出現と退去

2017・9・5 縄文土器の紹介

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ほとんどの土器に文様があります。

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何種類の文様を見つけられましたか。

一度の探索で拾えるのはこの量で、結構な手ごたえがあります。

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様々な土器の縁だったり、底だったり、胴のふくらみだったり、出会ったときは、ありがとう、です。

遺物に出会いたいと思ったら、おまじないをしなくてはなりません。

「今、わたしの前に出ておいで。もし、そうしなかったら是からまた何千年もそのまま土の中に居ることになるでしょう。それでいいの? 寂しかったら、さあ、わたしの前に出ておいで。」

と、心で呼び掛けるのです。本当に心から話しかけると、次々に目に入ってきます。歩く足元に出ているのです。

「よく出てきてくれたね」

嘘みたいでしょう? でも、本当なんです。

あんまり石器に出会うので、父から

「お前には何かついているのではないか?!」

と云われたことがありました。それで、 わたしは石達に言いました。

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「ありがとう。もう、いいよ。そのままでいいよ。そのまま、ずっとそこに居ていいんだよ」

といいました。それから、探さないと出会えなくなりましたが、それでいいと思っています。

私よりずっと長く西原を見てきた遺物達に心から「ごくろうさま」といいたいですね。

今は、耕運機が畑を耕しますから畑では見つからないでしょうね。道路もアスファルトやセメントがかぶってしまいました。野原は草ぼうぼうで人間は入れません。

これから、土器も石器も静かに眠りにつくことでしょう。

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余談ですが、わたしは何処に行っても石に出会いました。25年ほど前、平尾台の近くの山道で道が通れるか見るために車を降りたら、水晶を拾いました。一緒にいた妹たちに見せると、そこに幾つか落ちていました。さらに、その道で小さな黒曜石も拾ったのです。

辺りは黒曜石の産地ではありません。古代人が何処かから運んできたものに違いないのです。

その時は、とても不思議な出会いを感じました。

石も何か人間の波長を感じるのかもしれませんね。まさか! ですけど。

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1988年12月、高齢の母と俵山に登りました。登り始めて三時間近くたって頂上に着きました。
「もう、登れないよ。これが最後ね」
と母が言いました。山頂でお弁当を開いたのですが、その腰かけた石の傍の砂地に鏃がありました。左の石鏃です。だいぶ風化していました。もともとは、右の石鏃のようなギザギザがあったのでしょうね。母との思いでの遺物です。
なぜ頂上にあったのでしょうか。今でも不思議です。

きょうは、土器と石との別れの日です。
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# by tizudesiru | 2017-09-05 09:58 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback | Comments(0)

無理が通れば・小水城の不思議な版築

無理が通れば土塁ひっこむ?
小水城って何でしょう? 

大宰府を守る水城と同じでしょうか?
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大野城市教育委員会の「上大利小水城跡」の現地説明会に行ってきました。
天智天皇の治世につくられたという大野城(朝鮮式古代山城)から長く延びる土塁が水城です。
大宰府を守るために造られたとされています。
今回の現地説明会は、この水城ではなく「小水城」です。

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上大利の小水城が何処にあるかわかりましたか?
それは100mたらずの本当に短い土塁なのです。
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日本書紀・天智三年(664)以降に造られた水城とほぼ同じ時期に造られた「小水城」だそうです。
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右に何処にもあるような土手が見えます。これが削平された土塁です。
矢印のところで切れていますが、奥の丘陵に土塁は届いていたということです。

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矢印の辺りにトレンチがありました。
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版築土塁の基盤となるのは、谷部の底の花崗岩バイラン土でした。頑丈な部分まで掘り下げて版築をしているということでした。

1トレンチ

北側へ緩やかに傾斜している積土と土塁の裾部。積土のなかから須恵器(古墳時代)が少量出たそうです。黒い層は平安時代の土器が出土した腐植土層です。小水城の北側には、平安時代には水が溜まっていたそうです。
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版築はうすい層を何層にも重ねています。同じ土塁のはずですが、反対側の土塁の版築の層は厚いのです。明らかに工法が違っています。
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同じ土塁の中で版築の技法が違っていました。理由は、2トレンチのほうは基盤(花崗岩バイラン土)がしっかりしていたので版築も緻密ではなかったということでした。

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土塁の幅は緑の線の範囲と推定されています。
「土塁が東に向かって低くなっているのはなぜですか?」と尋ねました。
答は、木樋などの排水施設が見つかっていないので、排水のために東側が低いのかも知れないということでした。

それにしてもふしぎです。白村江敗戦後に造られたのは水城・小水城・大土居・前畑遺跡の土塁、そして大野城、基肄城・鞠智城だそうで、これらのすべてに版築技法がつかわれています。
どの土木工事を取り上げても、大変な人手と食料と統率力と経済力が必要です。
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見学会の会場の説明パネルに「巨大な防衛線」と書かれています。あの羅城説のことです。
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ここでも、羅城説が取り上げられていました。

羅城という大土木工事には、誰がかかわったのでしょう。
白村江敗戦後の筑紫國の人々が造ったという想定です。
二万の男性を亡くした筑紫国の婦女子と老人が、手弁当で版築の棒を握ったのでしょうか。食糧生産にもはげみながら…
白村江戦には兵糧として食料も持ちだしたでしょう。だから、備蓄されていた食料はすでに無かったでしょうに。残った人々は飢えていたでしょうに。


羅城があったとしても、白村江敗戦後に造るのは無理! ではないでしょうか。
無理が通ったというのでしょうか。無理が通れば道理は引っ込むのでしょうか。
…などと書きましたが、上の言葉は単なる疑問符です。
本音は、発掘している若者に頑張ってほしいのです。未来も彼らにかかっているのですが、過去も彼らにかかっているのです。彼らの真摯な思いが貫かれれば歴史は自ずから開いてくれると思うのです。

わたしは歴史のホントのところを知りたいのです。
不快な言葉があるかも知れませんが、本音は単純。歴史は世界の誰にとっても大切なものです。

今、熊本に来ています。
此処に来ると、過去の人々の努力と挫折と願いと喜びを感じることができるのです。

誰にも、素晴らしい明日を。


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# by tizudesiru | 2017-09-03 01:31 | 279小水城の不思議な版築 | Trackback | Comments(2)

西原村は旧石器と縄文のタイムカプセル

西原村は旧石器と縄文の
   タイムカプセル

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八月の白川。熊本県大津町の橋から東を見ると阿蘇が」見えます。橋を渡ると、やがて西原村の入り口です。
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白川の水はくすんでいます。火山灰が混じっているのでしょう。
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上流の阿蘇方面は、珍しくはっきり見えました。
地震で崩れた山肌が少し見えています。立野を通る国道57は復旧していませんが、並行して白川の横を通る道路が、一週間ほど前に復旧したそうです。
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今日は西原村史の一部の紹介です。
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村史の写真で目を引く縄文時代の大珠(だいじゅ)です。石材は糸魚川産のヒスイだそうです。

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ちょっと気になる写真です。縄文時代の土器ですが、豊穣のシンボルとして描かれたのでしょうか。
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これは銅矛です。矛だということは、福岡平野とのつながりを示すのでしょうか。
有明海から白川を遡るとしたら、この銅矛が奉納された鳥子あたりが船着き場でしょうね。ここより上流は、速瀬と石が多くて舟での遡上には難渋するでしょう。その先数キロの立野では滝と絶壁でもちろんストップです。古代には白川を大津まで舟で来て、鳥子を通って桑鶴地区、俵山峠を越えて阿蘇谷に入ったのでしょう。古道が残っています。
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銅矛が奉納されていた鳥子の三之宮神社です。一之宮・二之宮・三之宮と、ご祭神によって神社の呼び名がちがうのです。
村史に「旧石器遺跡分布図」が掲載されていました。
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私たちが拾った遺物は上の赤丸の中に限られます。今更驚かされるのは、こんな狭い範囲にこれだけ大量に落ちているということです。もちろんトラクターで撹拌されなかったのでしょう。
ただ、父が地域の人から譲られたものも交じっているのですが。
下の写真は、村史に有る旧石器の細石刃です。貴重な黒曜石を小さく欠いて最大限に生かしたのだそうです。
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更に、下の写真は縄文時代の石匙です。小さなつまみには糸(紐)をつけて、首から下げて持ち歩いたそうです。動物の皮を剥ぐための道具だとききました。
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こんなミステリアスな西原村ですが、大断層の上に在るのです。今回の被害もその故に起こりました。布田川断層は怖いと思ってはいましたが、まさか実家が全壊になるとは思いませんでした。
傾いた家を起こし、屋根をなおし、石垣をなおし、床を張り替え、配水管をなおし、でもほとんどの家具や小物は捨てました。それでも、残された考古の遺物達です。
西原村に長く住んでいたこれら・古代の語り部を捨てるわけにはいかなかったのです。

将に西原村は古代人が現代に残したタイムカプセルです。
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流れ去った水は戻りません。そうして常に新しくなっていくのでしょう。
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最近紹介した石斧や石鏃やトロトロなどの考古資料は、阿蘇の外輪山の俵山の西麓に広がる西原村の特定の地域で拾ったものです。上の写真の中央の山(山頂が二重に見える)が俵山です。現在、阿蘇に入る俵山越えの道とトンネルがあります。
(熊本空港から南阿蘇に入るには、俵山トンネルを使ったが早いのです。俵山にも地震の爪痕が残ります。大雨が降ったらどうなるのでしょう。)

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付け加えです

これらは拾われたものですから(表採という。地層からの発掘品ではないので)、考古学的な価値はないそうです。私たち家族はもったいないと思ったのですが、今日までどうにもならなかったのでした。
しかし、拾った場所が特定しているのは大切だということで、石斧を見ていただくことになりました。
そう云って下さったのは、福岡市埋蔵文化財センターの先生でした。
良かった、の一言です。
西原にはこんなに落ちているのですから、発掘すれば他にも分かることがあるでしょうね。でも、発掘なんてお願いしているのではありません。そんなことは望んでいません。
手元の石や土器が捨てられないで済むようにと、それが何よりの願いなのです。




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# by tizudesiru | 2017-09-01 20:15 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback | Comments(0)

黒曜石・白滝の赤と腰岳の黒

黒曜石北海道白滝の赤と九州腰岳の黒
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これは白滝の黒曜石です。十五年以上前に白滝を訪ねましたが、その時拾ったものです。
白滝(赤石山)は湧別川の上流に有るので、その河口のオホーツク海の海岸で拾えるのです。

湧別川の河の中には誰もが拾ったのでしょう。黒曜石はありませんでした。それならと思って、河原の氾濫原を探してみました。そこに落ちていました。でも、その石は上の写真のものではありません。河原で拾ったものは、川に流されて風化しているので、すりガラスのようになってガラス質の特色は見られません。

近くで北海道大学の発掘あっていて、見学がてらお話を聞きました。そこで黒曜石で石器を試作されていて、ナイフや槍先ができていました。外に出ると、素材の黒曜石が砕かれてプレハブの前に捨ててありました。
「分けてもらってもいいですか?」と、恐る恐る尋ねると「どうぞ!」といわれました。
嬉しかったのですが、一掬いだけいただきました。
たくさんあったのですが、さすがに遠慮してしまいました。

白滝の黒曜石は赤いのです。その中にマダラの黒が入っています。T大学のY教授から大きな白滝産の黒曜石を父がいただいていたので、それ以上は必要なかったのですが、わたしは拾ってしまいました。
今になって、この石は何処へ行ったらいいのか、迷っていることでしょう。
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こちらは九州の黒曜石、一番の産地は伊万里の腰岳です。これは道路のアスファルトの下敷きになりそうだったのを拾いました。伊万里にはたくさんあるのでしょうか。開いた道路にたくさん落ちていてもそのままにローラーをかけてアスファルト道路にするのです。

父が元気な頃でしたが、伊万里に出かけて道路工事に出くわして黒曜石の末路を見てしまったのでした。残念に思って、たまたま日曜日で工事があってなかったので、家族で拾いました。


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これは、25年前の甥の夏休みの自由研究です。この中にトロトロとよばれる珍しい石鏃があるのですが、分かりますか。
それは、鏃であってヤジリではない、祭祀に使われたのではないかという石器です。この時点で、日本には百五十数個しか登録されていないという貴重品です。
甥は西原村の父の住まいの近所の土手のようなところで拾いました。実は、父もそこで旧石器の台形石器を拾っています。
それは、博物館かどこかに預けたそうです。
さて、トロトロですが、4番ではないでしょうか
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決して鏃の役目はできないが、鏃のかたちをしているというものです。
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大きな発見につながるのは、子供の目と直感なのでしょうか。
なかなかのコレクションですね。

黒曜石は、大変魅力的な石です。

それから、とても大事なことを忘れていました。

黒曜石は大事な考古学の資料ですから、いらなくなっても何処にでも捨ててはなりません。
燃えないゴミとしてごみ処理する以外にないのです。
空き地などに捨てると、後々考古学的資料になってしまうからです。私も黒曜石などを人にあげる時は「決して、捨てないで。いらなくなったら燃えないゴミとして処分して」といいます。
何より処理できないものを、最近は拾わなくなりました。
国東の姫島の黒曜石が港(姫島)の周囲に落ちていましたが、一つも拾わずに帰りました。
石はその生れた場所にいるのがいいと思うようになったのです。遅いけど。


石達が嫁入り先で平安に過ごせるように祈ります。


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# by tizudesiru | 2017-08-29 22:36 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback | Comments(0)

前畑遺跡は羅城の土塁?版築の様相を見る

以前のブログでNHKの番組を紹介しました
262「神籠石系山城を築造したのは中大兄皇子か?」で
この時「羅城」という皇都をまもる城壁のことが紹介されました。
その羅城が九州の太宰府を守るためにあったということでした。

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今回は羅城の土塁とされた「前畑遺跡」の紹介です
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NHK「英雄たちの選択」で白村江戦における中大兄皇子の決断が放送されました。
中大兄は従わない邪魔な豪族に百済救援の戦いに出兵させ、敗戦により彼らの勢力を一掃し、唐と新羅に備えるために大宰府の守りを水城・大野城・基肄城によって強化したという展開の番組でした。
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大宰府守備の為大きな羅城を築いたというのです。羅城の壁ならぬ土塁が筑紫平野の北に見つかったというのですが、それが筑紫野市の前畑遺跡でした。
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白村江敗戦後、朝鮮式山城(大野・基肄)ばかりではなく、神籠石系山城もこの時の築造となったというのです。工法も技術も朝鮮式山城とは違う神籠石系山城が。
あまりな展開に驚いたのでブログ(262)で取り上げました。

今回は、筑紫野市の前畑遺跡の写真の紹介です。
ここも、中大兄皇子の命令で作られたというのです。私にはそうは思えないのですが。
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羅城かも知れない?!

前畑遺跡の版築土塁が?!


貴方の目で確かめてください。版築の様相を。

現地説明会の写真を紹介します。
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この遺跡は壊される運命です。もうないかも知れません。立ち入り禁止の柵の奥で既に消えたかも知れません。
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この遺跡は360度のロケーション、辺りが一望できました。
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確かに版築土塁ですね。
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この土塁は白村江敗戦で疲弊しきった九州の豪族の、それも働き手が戦死した後に残された子女が、血涙を絞って造ったのでしょうか。

水城を作り、大野城を作り、基肄城を造り、鞠智城も造ったかもしれないのに、そのうえ神籠石系の山城も造ったという!!!考えられません。
人手・食料・経済の面から考えても難しいでしょうね。

私には理解できません。夫も息子も失った女たちは働く力もないでしょうし、土塁築造の働き手に食べさせる食料の生産も間に合わなかったでしょう。
彼らは農耕の片手間に土塁を造ったとは思えません。築造の指揮官もいたはずです。

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此処が羅城の土塁だとしたら、白村江戦以前のものではありませんか。
中国では羅城は皇都を守るために築造されたものです。倭国でも皇都を守るために土塁が作られたのかも知れません。
でも、そうなると皇都は九州にあったことになります。天子が九州にいたことになります。

それとも、九州でも皇都のような羅城を造ったのでしょうか。


羅城が九州にあったとなると、歴史が変わってしまいますね。
それも、面白いと思います。



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# by tizudesiru | 2017-08-27 21:35 | 262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か? | Trackback | Comments(0)

さらば愛しき小物たち

旧石器時代からの遺物が

落ちていた村・遺跡の村


約五十年前、西原村の山を買って父母が家を建てました。
その時、ブルトーザーで開いた土地に土器や石器がありました。
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わが庭から出た二つの石斧です。左は蛇紋岩で、右は火成岩で作られています。

父母の家は遺跡の上に建ったのです。それから、我が家は遺物拾いに目覚めました。ちょうど辺りには家も少なく平たい所は畑で田圃はありませんでした。山野を歩けば様々な土器・石器が落ちていました。

特に雨上がりは表面の土が流されていたので土器も石器もはっきりと姿を見せています。

仕事が休みになると父母の家に遊びに行って辺りを歩きました。月に一度くらいの訪問ですから、遺物は適度の雨に洗われて次々に姿を現すのです。

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チャート、サヌカイト(?)、黒曜石と材質もさまざま。石匙、石鏃、スクレーパーと種類もさまざま。
父と母、妹たち、孫たちが月に一つか二つ拾うことができました。


気が付いてみると、たいへんなコレクションになっていました。

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ほとんどはガラクタでしょうか。

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これは島根県の玉です。
右は二十年前に拾いました。
海岸で海を見ていたら、砂浜に変わった石が落ちていました。何か分からないので、拾って「石を加工販売している店」に行って「これは何でしょう」と尋ねました。

店主は少し沈黙した後、「玉」と教えてくれました。私が見つけたのは、玉だったのです。
私はすぐに父にこの石を送りました。思い出の深い石です。

十二年前、ふたたび島根に行きました。出雲から日御碕までドライブして、玉作温泉に立ち寄りました。
左のつるりとした石は、その時拾った島根の玉です。これは、玉作温泉の温泉川で拾いました。

お湯から上がって川の畔を歩いていました。浅い川の水は淀んでいて、温泉水が流れ込んだのか少し濁っていました。ふっと見ると、まわりとは違った色の石が水に沈んでいます。

玉かも知れないとは思いましたが、川水が汚れているので手を入れるのは嫌でした。しかし、拾わずに帰ったら後悔するだろうと思って、思い切って拾いました。

誰が見ても玉だと分かるものですね。これを見せたい父は既に亡くなっていたので、仏壇に置きました。
島根の二つの玉は懐かしい、思いでの品です。

思い出をありがとう

この思い出深い石達とサヨナラしようと思っているところです。妹たちとも話し合ったのですが、このまま手元に置いていても、やがては出自のわからないガラクタになることでしょう。

その前に、嫁に出そうということになりました。
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そのうち土器も紹介しましょう、縄文土器ですが。そのときは全て私の傍にはないかも知れません。



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# by tizudesiru | 2017-08-26 23:05 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback | Comments(0)

稲荷山鉄剣の辛亥年=531年が有力

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鉄剣の辛亥年は531年(大岡晋)

稲荷山鉄剣の辛亥年は471年が定説です。
しかし、発見当時、学者の皆さんのご意見では稲荷山古墳の築造時期は六世紀前半で、辛亥年は531年が有力だったのです。
それが、書紀の雄略帝に合わせて471年になってしまったようです。
(こんな定説でいいのでしょうか)

刀剣銘文百十五文字から見た日本語の源流 (学習院大学教授 大野晋)で、大野晋氏が「時」の前後をどうよむかで、解釈が変わると指摘している文を簡単にまとめました。 


「獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下」の「時」の前後を大岡氏は、①推量形 ➁現在系 ③過去形 の三つの読み方をしています。


では、①推量でよみましょう。
「ワカタケル大王の寺が、シキの宮に在るだろう時に、お助けしよう」となり推量形の読みは無理。



次は、②現在形でよみましょう。
「ワカタケル大王の寺が、今シキの宮に在るその時、吾 天下を治むることをお助けしている」又は、
「ワカタケル大王の寺が、シキの宮に在る時はいつでも、私は天下をお治めすることをお助けする



更に、③過去形でよむと、
「ワカタケル大王の寺が、シキの宮にあった時にわたしも天下を治めることをお助けした」となり自然だというのです。

ワカタケル大王の治世は書紀によれば456年から479年であり、倭王・武の上表文も478年である。
 従って、「ワカタケル大王の寺がシキの宮にあった時」という表現があることは、この文章を書いている時点は、479年以降であることを示す。とすれば「辛亥年」は471年に比定することはできず、降って531年に比定しなければならなくなる。

大体、「辛亥年」を471年に比定したのは、「ワカタケル大王」という名詞が確認されたとき、雄略天皇の治世は、456年から479年だが、「辛亥」の年紀が471年に有る。だから私は471年だという論理であった。
 それは、この全文の文意をよみ取った結果「471年」を考えたのではない。(略) 「辛亥年を471年」とする歴史家には、この文章全体をどうとらえ、この文章の目的・全文の意味について、どう見るのかをうかがえるとさいわいであると思う。

その事を考えるとき471年は困難になってくるのである。  (大岡晋)


「獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下」を大岡氏は過去形でよみ、その意味を考えようとされました。

これまでブログでお伝えしたように、埼玉新聞社の「稲荷山古墳」の記述によると、「稲荷山古墳の築造時期が六世紀の前半であれば、辛亥年は531年」では矛盾しませんね。531年の時点で乎獲居臣が百錬の刀を作って銘文を刻んだということになります。

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531年に鉄剣は作られたとなると、稲荷山古墳の被葬者が獲加多支鹵大王に仕えたのは、彼が若い時だったとしても6世紀の初頭でしょうか。


 日本書紀の雄略帝の治世456~479年に仕えていたとなると、無理が生じます。被葬者は杖刀人の首でしたから、若干二十歳ではないでしょう。三十歳くらいだとしても、六十年後に銘文の大刀を作った時は九十歳を越えていることになり、かなり無理です。


そうすると、獲加多支鹵大王は書紀の雄略帝とは別人かも知れません。では、もうひとりワカタケル大王(雄略帝)がいたことになるのでしょうか。


この被葬者は、自分が仕えた斯鬼宮の獲加多支鹵大王を非常に懐かしみ、大王に仕え天下佐治したことを誇りに思っています。当然、その大王はこの世の人ではありませんが、名前を云えばだれでも知っているような大王だったのでしょう。更に、礫槨とはいえ玉と鏡と剣を副葬し、自分の出自にも誇りを持っているのです。

それにしても、乎獲居臣が仕えた「獲加多支鹵大王」を日本書紀の「雄略天皇」に してしまっていいのでしょうか。雄略天皇は、「部民制」を導入したと社会科で習ったような…、日本書紀でも様々な「部」を創設しています。「部制」であって、決して「人制」ではありません。
九州の水沼君が献上した「養鳥人」も「鳥飼部」に変えています。
乎獲居臣は「杖刀人」ですし、江田船山古墳では「典曹人」です。役職には「人」がついているのです。明らかに雄略天皇の治世にはない役職でしょう。

わたしは、獲加多支鹵大王と書紀の雄略天皇はどこかでズレがあると思います。


九州と関東はつながっている。杖刀人と典曹人の人物は、同じ大王に仕えた可能性がある、と、思うのです。

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稲荷山古墳の築造時期の決め手は何でしょう。

稲荷山古墳の墳頂部には二つの亡骸を納める施設(攪乱された粘土槨・礫槨)

礫槨は、整然と副葬品が置かれており、攪乱の痕跡もなし

・頭の部分に当たる所に鏡(画文帯神獣鏡)、二つの銀環、一つの勾玉

・腹に当たる所には立派な帯金具

・右わきに三本の刀、左脇の頭よりに鉾、と刀

・左足よりに剣(金象嵌銘文のある鉄剣)

**遺物の下に木炭のような痕跡あり= 副葬品は木棺に納められていた

木棺の外

・頭のの辺りには鈴のついた杏葉(ぎょうよう)轡、辻金具、などの馬具

・足よりには小札(こざね)を貫いた挂甲(けいこう)、鉄鏃、


この中に、大事なものがまだあると思えてなりません。

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一緒に出土した画文帯神獣鏡なども、まだまだたくさんの事実を背負っていると思います。

あらためて埼玉新聞社の「稲荷山古墳」(昭和53年)を読んで、考えることが沢山ありました。座談会に出席された皆さんや大岡晋氏・直木浩二郎氏などが寄せられた文章に教えられることが多かったし、今でも解決されていないことばかりでした。

昭和53年12月に発信された言葉の一つ一つを忘れてはなりません。

「辛亥年=471年」定説は再度検討されるべきだと思いました。



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# by tizudesiru | 2017-08-26 00:15 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback | Comments(0)

稲荷山古墳の築造は六世紀(1)

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関東地方の前方後円墳の特色
=古い形式の主体部=稲荷山古墳

「さきたま古墳群の全体、それと将軍塚古墳(明治26年発掘)など終末期の古墳(横穴式石室が含まれる)ので、最初は横穴式の石室を探した。ただ、前方後円墳の場合、特に関東地方では古い形式の主体部が新しい古墳にも残されていることがある。」そうです。

いわば棺・あるいは槨的なものが墳丘の上に営まれることもあるので、(墳丘の)上も調べたそうです。


『稲荷山古墳』(埼玉新聞社)より座談会の抜き書き」

柳田 あの近所(さきたま古墳群)にある古墳を見ますとほとんど横穴なのですね。そこで横穴を想定して準備をしたのですが、斎藤先生から、上方の竪穴も想定しなきゃと注意されて、それが当たったのです。

  (略)

柳田 出土品の話にいきますと、特に多いなと思ったのは武器、武具の類と馬具ですね。それから、三種の神器(鏡・勾玉・剣)。武器では鉾から太刀(直刀)、剣、挂甲、鉄鏃が束になったのがあるのです。馬具も作りのいい鈴杏葉(すずぎょうよう)、環鈴、これは埼玉県では初めてです。

斎藤 あのような鈴杏葉は若干例がありますが、関東地方では面白い例だと思うのです。群馬県の宝塔山(ほうとさん)古墳ですが、江戸時代かにいい鈴杏葉が出ています。ここの場合は、あれより下るのじゃないかと思います。
この古墳の副葬品で特色のある物は、(象嵌のある)剣は別としても、馬具ともう一つは帯金具。長方形の板でバンドに直接取り付ける、龍のような文様があるのです。
熊本の江田船山古墳と装身具を比べてみますと、江田船山の方には冠が出ているのです。純金のたれ飾りのついている耳飾も出ています。

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(江田船山古墳の冠や耳飾・馬具は大伽耶系とされる。同じ大伽耶系の馬具が出土するのが、稲荷山・江田船山・和歌山大谷古墳)

斎藤 帯金具となると、同じようなものですね。
東国の古墳の被葬者というのは江田船山古墳に比べると帯金具は別として、やや質素というか、東国らしいと思うんです(略)

柳田 埼玉県内には前方後円墳が百十いくつかあると思うのですが。金井塚さん、あのような副葬品について、その辺りは。
金井塚 今度の辛亥鉄剣ではいろんな方のご意見が出されました。斎藤先生が『重要なのは考古学的な研究の事実の上に立って、問題を考えていかなければならない』といわれましたが、わたしも同感です。(略)現状では銘文が独り歩きしているような現象と思います。あくまでも考古学の成果が基礎になるのではないかと。(略)
最初に問題にしたいのは、稲荷山古墳がいつ造られたのかということなのです。築造年代は二転三転しました。最初の発掘の段階では六世紀の半ばないしそれ以前。次に埼玉県教育委員会の「稲荷山古墳発掘概報」では六世紀前半ということになった訳です。理由は(書紀の)安閑紀の国造の争乱に結び付けて、その頃の築造だろうとなったのです。三回目が「考古学ジャーナル」に発表された(栗原文蔵氏)五世紀の終末から六世紀の初頭というふうに、二転三転したのです。
いま文献の方のご意見を見ていますと、どうも五世紀の終末から六世紀の初頭の上に立って考えられているようです。
(略)私は六世紀初頭の築造だと考えざるを得ないような気がするんです。確かに出土遺物の大部分は五世紀代に持って行っていいだろうと思うのですが、その全てが年代比定がなされていないのです。鏡にしても、同じものが八幡観音塚古墳(群馬県高崎)出ていますから、五世紀というわけにもいかない。須恵器や馬具、埴輪、墳丘構造も考えてみる必要があるでしょう。
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金井塚 「須恵器」は出土状態がはっきりしないが、関西では五世紀のものとされる。が、北武蔵では竪穴住居から出ている(大西遺跡)三窓一段透の脚台付坏と坩(つぼ)は、「稲荷山古墳の須恵器とほとんど同じ時期と考えて間違いない」(さきたま資料館・金子真土斯)ということでした。大西遺跡は鬼高式土器を出す竪穴住居なので、六世紀初頭の竪穴住と考えていいだろうと思います。
稲荷山古墳から土師器も出ていますが、鬼高式土器だったと思います。六世紀初頭…かなり築造時期の決め手になると思います。
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金井塚 もう一つ鈴杏葉(すずぎょうよう)ですが、立派なもので、これに類似する鈴杏葉は群馬のもの、茨城県の国松古墳のものによく似ています。埼玉県では目沼九号墳から出た鈴杏葉もそっくりです。
問題は、ここからも鬼高式土器が出ているのです。一緒に副葬されていますから、時期は六世紀ということになります。

(国松古墳の鈴杏葉 と目沼九号墳の鈴杏葉)
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なるほど、鈴が三つついてるのですね。そういえば、
鈴杏葉って埴輪の馬を飾っていたような  

どこかで見たことがあると思ったら、江田船山古墳に出土していたと思います、鈴杏葉が。

稲荷山古墳の築造時期の決め手は何でしょう

古墳の副葬品には古いものもあるけれど、新しい時期の物もあるから、築造時期を考える時には一番新しいものを決め手にするということですね。
稲荷山古墳の墳頂部には二つの亡骸を納める施設(攪乱された粘土槨・礫槨)があったそうですから、そちらも見ましょう。
埴輪も築造時期の決め手になるかも知れませんね。
しばらく、出かけていたのでブログを休んでいました。
また、よろしくお願いします。

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# by tizudesiru | 2017-08-24 00:34 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback | Comments(0)

稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇

「ワカタケル」は雄略天皇か

稲荷山古墳の被葬者は、獲加多支鹵大王に仕え助けたと書かれていました。獲加多支鹵大王とは雄略天皇の事でしょうか。
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(「稲荷山古墳・鉄剣が秘めた古代の謎」より写真と文章を抜き書きしました)

原島礼二
(埼玉大教授・古代史)わたしは「ワカタケル」は雄略でいいと思います。471年か、531年かはわからないけれども、皆さんのご意見を聞いていると471年の方がスムーズだなあという感じは受けていますけれども、最終的には古墳の問題もあるし(略)この「ワカタケル」をどうしても雄略であってはならないという問題が、逆に積極的に出されてくればどうなんでしょう。


柳田敏司
(埼玉県史編纂室・考古学)早稲田大学の水野祐先生は、これは雄略と解釈しなくていいんだ。大王というのは、地方の豪族でも名乗ったんだと。だから武蔵方面の豪族がこういうふうに名乗っても一向に差し支えないじゃないか、という説をとっていますよ。

 

斎藤忠(大正大学教授・考古学)全体を見ますと、これは雄略天皇と解釈するのが一番自然ではないか、これは一つの歴史の常識だとおもっているのですが。ただその場合、「寺」を最初は「やかた」というようなことで読んで、それが今まで続いているようですけれども、この「寺」とう言葉をなぜここに使ったかという疑問も出てきます。(略)(人偏をつけて)「侍る」とどうして読めないのか。

文献をやっている人は「ワカタケル大王に はべりて」では順序がおかしいと云うことです。

私は「ワカタケル大王にはべりて斯鬼宮に在りし時、吾天下を佐治しぬ」と読むと、いろんな点ですっきりすることがあるのではないか。


柳田
 「寺」という字は「ジ」とか「シ」とか読んで朝廷のことだという人と、人偏をつけて「はべる」と解すべきだと、二通りあります。


斎藤
 要するに、「ワカタケル大王の館」と「はべる」との場合は、「ヲワケオミ」が主人公になるんです。「ヲワケオミ」が「ワカタケル大王」に侍って斯鬼宮に在ったときに、私は天下を
(たす)け…ということです。


原島
 大王と当人の関係が少し変わってきますね。

柳田 「斯鬼宮に在った時」というんですが、この「斯鬼宮」をめぐってまた問題になっています。

 

黛弘道(学習院大学教授・古代史) それこそ埼玉県の「志木」だという古田説(古田武彦氏・古代史家)もありましたね。


金井塚良一
(埼玉県立歴史資料館・考古学) それは、遺跡の分布からいっても不可能でしょうね。


 (古田説は)東国に結び付けようとしているんですね。これは、(雄略天皇の)朝倉宮のことを「斯鬼宮」といったという方がオーソドックスですね。


柳田
 刀を向う(畿内)で作ったとなると、向こうでは(朝倉宮を)斯鬼宮と云っていたということになりますね。しかし、そういう遺跡もないと云うことになると…


斎藤
 岸氏辺りは、「斯鬼宮」を雄略天皇の時に考えてもいいと云うことでしょう。それと、その剣を一体どこで作ったかということです。象嵌の技術なり、剣を作る技術なり、剣を作る技術は東国でも十分あったと。しかし、あの百十五の銘文を作らせて、あそこに彫らせた技術はやはり畿内でなければできない。そこに当然渡来人というか、帰化人というか、そういう人が文章を作った。そうしか考えられないと思うんです。


柳田
 すると、「斯鬼宮」は大体、畿内にあった。そして、「天下を佐治した」と。また、「百錬利刀」というのは、一種の決まり文句ですよね。


斎藤
 最後のところですが、「吾奉事の根記す也」と、これが一つの疑問を持たれたのは、江田船山古墳の場合は、書く者は、作る者は、と帰化人の名前が出ているんです。これと同じではないかということで「根」は名前ではないかというのですが、江田船山の銘文の内容とこの剣の内容は違うと思うのです。


斎藤
 あれを持っている人がおめでたいという吉祥的なことで、今度(稲荷山)の場合は自分の系譜、それから歴代の身分、地位、それから「天下を佐治する」ということ。よくよくのことだと思うのです、この銘文を書いたということは。

(略)

金井塚 李進熙氏(明治大学講師)が盛んに言われていますけれど、おそらく百済系の渡来人達がこの字を最初に伝えたのだろうと。その場合、呉音でどう読むかということも検討する必要があるといわれている。

呉音

古代の漢字が伝わった初期の字音を平安時代に「呉音」と呼び、8世紀初頭に遣唐使が持ち帰った漢字の音を「漢音」と呼んでいる。要するに、呉音の方が古い音で、漢和辞典には呉音・漢音の両方の読みが書かれている。対馬音は呉音のことで、唐音は漢音のことである。


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ちょっと待ってください
刀剣を作る技術は畿内にしかなかった、なんてどうしていえるのでしょうか?!
地方には技術がなかったからと断定して、だから畿内で作った刀だとなって、そうであれば斯鬼宮も畿内にあったのだろう。じゃあ、朝倉宮を実は斯鬼宮と呼んでいたんだ、と想像でいいのですか、歴史ではなく空想の世界の話になっているではありませんか!!
是では、学者の皆さんが事実に基づいて論議しているとは…言いにくいと思うのですが。
是でいいのですかねえ?

明日は、稲荷山古墳の築造時期についてのご意見を紹介しましょう。

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またまた、遅くなりましたが、明日のことです。
熊本の和水町で少しお話することになりました。
稲荷山古墳について少し触れられたらいいと思うのですが、場所が江田船山古墳のすぐそばの公民館ですから。
遅ればせながら、紹介させていただきました。


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# by tizudesiru | 2017-08-19 13:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback | Comments(0)

稲荷山古墳鉄剣銘文・乎獲居臣の系譜から読めること

稲荷山古墳の鉄剣銘文(乎獲居臣の系譜)何が読めるのか
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ヲワケノオミとはどんなひと? 何をしていた? 幾つくらい?
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前回の座談会の記事から取り上げたのは「ワケ・スクネ・ヒコ」は称号であるということでした。今回は、称号が姓(かばね)へと変わっていくという所を抜き書きしました。
称号から姓(かばね)


姓とは古代貴族階級の身分表示のため(うじ)に付けた呼び名。
大別して語源は敬称などから来たもの(連・臣・君・直・宿禰・首)、天皇に奉仕する意のもの(造)、職能からするもの(史・曰佐・伎)などがある。初めは集団内の地位や宮廷における職能を表示したものが、次第に姓の間に尊卑の別が生じ、尊卑を表示するものと変わった。

柳田(埼玉県史編纂室・考古学) 系譜の上からも大事であると。ワケとか、スクネとか氏姓制度の姓ですね。これ(鉄剣の銘文)との関連はどうですか。

(学習院大学教授・古代史)ここに出てくるのは、いわゆる後世の整った形の姓ではなくて称号というふうに言った方がいいと思うんです。

称号ですから、オホヒコもそうなんですが、その後は「タカリ」でしょう。「カリ」でもいいですが、それから「テイカリ」「テヨカリ」、それから「タカハシ」「タサキ」。

これは、みんな一個の名詞ですよね。先祖は「オホヒコ」で、この「オホ」は形容詞なんです。後はみんな一つの名詞です。そして最後の「ヲワケ」の「ヲ」は、オホヒコの「オホ」に対して、こっちは小さい方です。

で、「ワケ」でしょう。そうすると、先祖たちの代々と比べると「タサキワケ」というのと「ヲワケ」というのは全然構造が違うわけですね。

その段階になって、初めて姓らしきものを必要として来る。

この「ワケ」は元来、称号だったんだけれども、この人にとっては「ヲワケ」というのがむしろ名前の本体に近くなって、それに「直」なり、「臣」なりという後世の姓に近いものがくっついているんです、一番最後の世代に。

この変化は大変面白いと思うんです。称号から姓へという変化のプロセスがここに出ているように思うんです。

(略)

原島(埼玉大学教授・古代史)この「ワケ」については佐伯有清氏が『日本古代の政治と社会』という本を書いていますが、そのご研究の結論とこの「ワケ」とが非常によく合うんです。

黛 佐伯さんは、四世紀に「ワケ」というのが中央と地方にありまして、五世紀中頃から六世紀にかけて、中央では「ワケ」は「大王」と「王」と「公(君)」に分かれている。地方では「ワケ」から「臣」、あるいは「直」あるいは「君(公)」あるいはまだ「ワケ」の連中が残っている。そして六世紀後半から七世紀になると「大王」が天皇になり、皇族は「王」と称し、臣下に下ったのは「公(君)」だと、そういうふうに帰納しているわけなんです。

そうするとね、今の段階は「ワケ」から「臣」か「直」かは問題だけれども、ここの段階だと五世紀中ごろ以降六世紀で合うんですよ。(略)

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ワケがスタートですか?

ワケが地方と中央にあった?! ワケから大王とか・王とか・公(君)が派生したのですか。しかし、ですよ。魏志倭人伝には、九州の伊都国には「世(代々)王がいて、官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚、柄渠觚という。ワケという称号は見当たりません。

お隣の奴国を見ましょうか。官は兕馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。ここにもワケは有りません。

近隣の不弥国を見ると、官を多模(たま)、副を卑奴母離。

一大(壱岐)国は、官を卑狗(ひこ)、副を卑奴母離。
対馬国は、官を卑狗、副を卑奴母離。

南の投馬国(つまこく)は、官は弥弥(みみ)、副を弥弥那利。

要するに、5世紀になって九州辺りの官職名がごっそりなくなっていることは、魏志倭人伝の後の時代に何かが起こったということでしょうか。
忘れていました、女王国の官を付け加えることを。
官には伊支馬(イキマ)、次は弥馬升といい、次は弥馬獲支といい、奴佳鞮という。ここは、官が多いですね。
さすがに七万戸の女王国です。きっと広い平野・大きな川のある地に違いありません。七万戸ですから。まさか谷あいの小さな土地ではないですよね!
弥馬獲支を「みまわけ」とよむのでしょうか。しかし、官としては三番目ですね。ここから「ワケ」が進化していくとは思えないのですが。

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まだまだ、続きます。また、明日



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# by tizudesiru | 2017-08-17 22:22 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback | Comments(0)

乎獲居臣の八代の系譜

乎獲居臣の八代の系譜

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乎獲居臣(ヲワケノオミ)に到る八代の先祖
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黛弘道(学習院大教授)座談会より

「銘文が持つところの歴史的意義といいますか、これは非常に多岐にわたるわけでしてね。いろんな問題がここから引き出せるだろうと思うのです。国語の問題とか、技術的な問題とか云うこともありますが、中身だけについても、八代の系譜が五世紀なり、六世紀なりの銘文に出てくるわけですから、大変なことだと思うのです。文献では継体天皇系譜なんていうのがありますけど、この銘文は確かにこの時期に書かれた系譜ですから、その意味で画期的なものだと思いますね。

ただ大事な点は此処に書いてある八代が全部実在だ、などというふうに思い込んだらとんでもないことであって、これは「ヲワケノオミ」の時代に彼の先祖としてこういう人がいたといわれておった。まあ、それは彼より数代前くらいまでは実在したかも知れませんけれども、例えばオホヒコなんかはすぐに実在だというふうには言えない。
そこで問題になるのは、だからといってこれを記紀に出てくるオホヒコと結びつけることの良し悪しです。私はそれを悪いとは思わない。なぜならば、この時期にオホヒコという伝説上の人物があって、当時の人はすでに信用しており、自分の先祖だと主張する者もおったという事実がこの銘文から知れるし、「古事記」に出てくる『大毘古』が書物になったのは七、八世紀ですけども、ああいう伝承は一方ではずっと古くから伝わっておったと思います。ですから、すぐに両者を結び付けるのは短絡だという批判もあるけれども、案外そうでもないかも知れない。そういう意味で八代の系譜と云うのは古代史の問題として非常に興味があるわけなんです。

ヒコ・スクネ・ワケ

「ヒコ」(比垝)、「スクネ」(足尼)、「ワケ」(獲居)という称号ですね。この辺も「古事記」「日本書紀」などから抽出して、「彦ひこ」、「宿禰すくね」、「別わけ」を並べてみますと矛盾しないのですね。

だから、記紀に書いてある個々の記事が信用できるか、できないかということは別問題としても、記紀といえども時代の大勢には背くような記述はしていないという意味で、記紀の見直しをできる面がある。記紀をそのまま信用できるという意味では、もちろんないですけどもね。

(略)
「ヲワケオミ」を稲荷山古墳の主だとお考えの方が多いのではないかと思いますが、そう断定する根拠は何もないということですね。これはね、もしそういうふうに考えると佐伯有清氏(北海道大学教授)のように「臣」(おみ)じゃなくて「直」(あたい)の方が都合がいいのですよ。私の師の井上光貞氏(元東京大学教授)は、あれが出たときに、これは「直」だと具合がいいんだけどな、とおっしゃいましたが、歴史学の常識からすると「直」でなきゃいけないわけなんです。

ところが、これは武蔵国造の系譜と断定する根拠は何もないと思う。したがって被葬者を示すものでも何もない。武蔵国造かもしれないけど、そうでないかもしれない。ですから、その点はもう少し虚心に考えた方がいい。たとえば誰かから貰ってきた刀だと、例えば中央からですね。そういう解釈もできないことはないと私は思っているわけです。

特に「オミ」が姓(かばね)であるかどうかという問題もありますけれども、「直」でないことは岸俊男氏(京都大学教授)も断言されたようです。そうなると逆に武蔵国造とすぐに結びつけないで考えたらどうか。(略)

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銘文の読みについては、まだまだ色々あるのですが。
明日は、姓(かばね)について紹介します。




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# by tizudesiru | 2017-08-17 00:34 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback | Comments(0)

稲荷山古墳の金石文の訓み解きをめぐって

稲荷山古墳出土鉄剣の錯銘文
前回紹介した稲荷山古墳です。古墳公園の「見晴らし台」とするために、緊急発掘が行われ、そこで鉄剣が出土し、鉄剣の金象嵌が発見されたのです。
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鉄剣の裏と表に象嵌された文字。これを裏表に分ける作業がありまして、
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このような文に解読されたのです。
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これは、辛亥年(471年説、531年説)の7月に作られたものです。
これを作らせたのは、乎獲居臣(オワケノオミ)で、彼は杖刀人の首だったようです。仕えていた大王は斯鬼宮にいた獲加多支鹵で、その時自分は大王の政治を助けたというのです。
辛亥年・この時、乎獲居臣は幾つだったのでしょう。50歳前後だとすると、獲加多支鹵大王に仕え天下を佐治(天下を治めるのを助けること)した時期はいつ頃になるのでしょう。
辛亥年(471年)なら
20歳~45歳のころ務めたなら、440~465年ころですかね。
辛亥年(531年)なら
20歳~45歳ころ務めたとして、500~525年ころですかね。

乎獲居臣の前に先祖の名が連なっていますが、「八代の系譜は阿倍氏のもの」
と、『稲荷山古墳(埼玉新聞社)』に紹介されていました。
明日はその乎獲居臣について紹介しましょう。


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# by tizudesiru | 2017-08-16 11:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback | Comments(0)

稲荷山古墳は仁徳陵の4分の1

行田市の稲荷山古墳
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(発掘調査前の稲荷山古墳・埼玉新聞社「稲荷山古墳」より)
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さて、「稲荷山古墳」(埼玉新聞社発行・昭和53年)を妹から譲られました。彼女も知り合いから譲ってもらったのだそうです。
それは絶版になっているもので、貴重な当時の稲荷山古墳発掘に関わったトップの方々の座談会などが収録された出版物です。
福岡の県立図書館も所蔵していませんし、実に幸運なことでした。
何より、そこに書かれていたのは、将に驚愕の中身だったのです。


江田船山古墳の銀象嵌鉄刀の対して、稲荷山古墳は金象嵌の鉄剣

関東と九州の離れた地域に出土した考古資料、江田船山の鉄刀と稲荷山の鉄剣に錯銘された文字をめぐって新聞やテレビが大きく取り上げました。金石文の中に「典曹人」と「杖刀人」がほられていました。離れた二か所の金石文は互いに比較され、大王の名をどう読むのか、築造時期はいつか、日本中が大騒ぎしたのを覚えています。

その時の出版物を紹介したいのです。
稲荷山古墳は、仁徳陵の4分の1の大きさだそうです。二子山古墳も同じ墳形だそうです。(わたしは此処で大阪平野と関わりの深い古墳だろうかと思いました)

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稲荷山古墳の埋葬施設は、横穴式の石室とかではありません。墳丘頂上部の礫槨でした。

さて、この古墳についてネットには次のように紹介されています。
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群の中で、最初に出現した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。
前方部は1937年(昭12)年に土取りで壊されてしまいましたが、1997年(平成9)年からの復原整備で前方部が復元され、現在では造られた当時のかたちを見ることができます。墳丘の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には二重の堀が巡っています。
堀の整備などはこれからも続けて行きますが、墳丘の頂上には登れるようになり、周囲の古墳を見ることができますので、高さを実感してください。
さきたま風土記の丘を整備するために、1968(昭和43)年に稲荷山古墳の発掘調査をしたところ、頂上から2基の主体部が発見されました。』

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つまり、稲荷山古墳はほとんど偶然に見つかったのです。
当時、稲荷山古墳の発掘が目的だったのではなく、高度成長の時代に日本中の文化財の破壊が進んだので、破壊から文化祭を守る手立てとして価値のある物だけを文化財として残すのではなく、地域を一塊として公園化すること(風土記の丘)で、文化財指定を受けていない古墳も残そうとしたのでした。
その為に、古墳公園整備のために、古墳公園全体を見渡す「見晴らし台」として、稲荷山古墳が選ばれたのです。
そして、緊急発掘により墳丘頂上部から二基の埋葬施設が見つかったというのです。
土取りで破壊されかかっていた稲荷山古墳の礫槨と粘土郭。
粘土槨の方はかき回されていましたが、礫槨のほうは無事だったのです。整然と副葬品が置かれた埋葬施設が現れました。

発見の楽しさが、やがて驚愕の大発見へとつながっていくのです。

ドキドキ感が伝わりましたね。
また、明日


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# by tizudesiru | 2017-08-15 01:14 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback | Comments(0)

知っていそうで知らない江田船山古墳

江田船山古墳、急に熊本の古墳に話が飛んだ感じですね。
実は、家形石棺を見ていて、今回も疑問が生まれたのです。
艸墓古墳や蘇我系の墓制は、横穴式の石室に家形石棺を置いていました。そのルーツは何処だろうと再度思いました。
まず、家形石棺と云えば北部九州が発祥地ではないでしょうか。
ですが、「九州の墓制は石屋形に亡骸を納め、棺は密閉されていないから、他の地域と特に畿内とは墓制が違う。畿内の石棺は密閉型である」と、墓制の違いが強調されて来ました。しかし、九州には、石屋形だけでなく、密閉型の家形石棺も、舟形石棺も、長持ち型石棺も、組合せ式箱式石棺もみんな揃っています。そこに、装飾が施されているものがあり、大変複雑ですよね。このことには、皆さんがよくご存じだと思いますが。
畿内の石棺には、阿蘇溶結凝灰岩を用いて造られていたものがあり、後期になると畿内の二上山産の凝灰岩が用いられています。
是だけでも、素人は「石棺に凝灰岩を用いる」ことは九州から伝わったと思いますね。というわけで、畿内を飛び越えて、関東と九州の墓制をちょっとだけ見たいなと思ったのです。

知っていそうで知らない江田船山古墳


江田船山古墳は熊本県北部に在ります 
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この時も、きれいに草が刈られていました。いつ出かけてもきれいです。
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横穴式石室に家形石棺が納められています。
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九州の家形石棺には出入り口が穿たれているものがいくつもあります。もちろん密閉型もありますが。こんなに口がぽっかり空いているのは何故でしょう。
当時は盗掘者はいなかったのでしょうか。
墓泥棒には都合のいい造りですね。
この古墳から100mほど離れた古墳も横穴式古墳があり、石室内を見学できます。
塚坊主古墳といいます。
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石屋形と呼ばれるものでしょうか。
わたしには家形石棺のように見えます。

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石室の右横をよく見ると、家形石棺の屋根が見えて縄掛突起らしいものがあるのですが…。激しく破壊されていますね。
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どうですかねえ。
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菊池川流域には多くの装飾古墳があります。
塚坊主古墳も装飾古墳のお仲間だったのですね。


同じ古墳群の中に在りますから、江田船山古墳の被葬者とは所縁のある人なのですね。

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江田船山古墳には造り出(つくりだし)部があり、後円部の付け根に出っ張りがついています。この古墳がつくられた時期は何時なのでしょうね。
築造時期を考えるために、「治天下」と「杖刀人」という金石文が発見された埼玉県の稲荷山古墳の築造時期とも比べてみましょうね。江田船山古墳の鉄刀の銘文にも「典曹人」という役職が出てきます。離れた古墳には何等かのつながりがあることでしょうから。

また明日

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# by tizudesiru | 2017-08-13 17:43 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback | Comments(1)

阿倍寺の近くの艸墓古墳

前回の安倍倉橋麻呂の墓だという、安倍文殊院の西古墳、どうおもわれましたか?

倉橋麻呂の墓と思われましたか?実は、わたしは疑ったのです。
あの切り石加工は、八世紀の文武天皇陵や束明神古墳の石組みに似ていますし、技術的には八世紀と思ったのです。

では、安倍丘陵の他の古墳をみましょうか。


阿倍寺跡ではなく、安倍文殊院により近い

艸墓古墳は誰の墓
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艸墓古墳の家形石棺は、いろいろな古代史関係の本にも出て来るので気になりますよね。わたしは阿倍氏に関わる墓かも知れないと思ったのです。それで、訪ねてみました。
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この古墳は分かりにくくて、地元の人のお世話になりました。
よそ様の敷地の中に半分足を踏み込みそうになりながら、隙間を通ってたどり着きました。ほとんど道はありません。よそ様の家とよそ様の庭の間を通ります。
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安倍文殊院のこの辺りは、安倍丘陵という小高地です。そこに錐(きり)のような形の墳丘があり、長方形の方墳だというのです。石室の石の隙間に漆喰(しっくい)がつめられていて、奈良の竜山石(白い肌の凝灰岩)を用いた刳り抜き型の家形石棺が置かれているのです。
方墳・家形石棺となると、蘇我系の墳墓を思い出しますね。
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巨石の石室の奥に石棺が見えます。
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確かに縄掛突起も見えますね。ここは、家形石棺の時代の墓なのです。
安倍丘陵の日当たりのいい一等地にこの古墳です。見晴らしもよく、眼下に見渡せる谷を流れるのは寺川で、その奥の山は鳥見山だったのです。
艸墓古墳の被葬者は首長だったと思います。だって、鳥見山山頂のほぼ真西に艸墓古墳は造られていますから。
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鳥見山の北には、桜井茶臼山古墳があります。神武天皇東遷に出て来る鳥見の長脛彦の墓ですか。
甘南備型の247mほどの鳥見山の周囲には、舒明天皇陵、赤坂天王山古墳(崇峻天皇という説あり)、少し離れるけどメスリ山古墳と揃ってるんですが、同じ氏族の墓なのですかねえ。

そうそう、艸墓古墳の帰りに「聖徳太子が安倍に造ったという土舞台」を見に行きましたが、なにしろ草が深くて、足が止まりました。
一人旅の手弱女には深草は無理です。怖いです。
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では、また

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# by tizudesiru | 2017-08-11 14:30 | 276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓 | Trackback | Comments(0)

左大臣安倍倉梯麿の安倍寺と墓

阿倍氏といえば阿倍晴明が有名です。彼は平安時代の人です。
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安倍寺を建てたのは、左大臣・安倍倉梯麻呂
阿倍氏の阿倍寺に行きました。阿倍倉梯麿の墓と言う古墳を見に行ったのです。
奈良県桜井市の安倍文殊院境内に西古墳と東古墳があり、どちらも7世紀の古墳です。
阿倍倉橋麻呂は、孝徳天皇の左大臣でした。孝徳天皇の寵妃・小足媛の父であり、有間皇子の祖父でもあります。孝徳天皇の薄葬礼が出ていたにも関わらず、大きな古墳を築いたとされ、それが境内の古墳かも知れないからです。
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山田寺から山田道(磐余道)を北上すると、阿倍寺跡に届き、少し坂道に入り込むと安倍文殊院があり、その境内に二つの古墳はあります。
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(現在の安倍文殊院の文殊池にあるお堂)
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倉梯麿は、645年乙巳の変(大化改新)後に左大臣となりました
阿倍文殊院に安倍倉梯麿の墓と言う古墳を見に行ったのですが、そこは彼が建てたという阿倍寺とは少し離れています。
阿倍倉橋麻呂は力を持った豪族の長
645年6月に乙巳の変が起きました。その直後に大王になった軽皇子(孝徳天皇)の左大臣でしたが、相当に年齢は高かったと思います。舒明帝に古くから仕えていたのでしょう。舒明2年(639)に百済大寺の造寺司となっています。舒明帝は信頼できる豪族に百済大寺を任せたのです。当然、倉梯麿は若くなかったでしょうね。
左大臣
 阿倍倉梯麿 6月任
右大臣 蘇我倉山田石川麿 6月任
内臣 中臣鎌子(鎌足) 6月任
孝徳天皇に任命されたのは、阿倍氏、蘇我氏、中臣氏の三人でしたが、五年目には二人の大臣は死亡します。不思議なことに、左右大臣は同年同月に死亡しています。何かあったのでしょうか。左右大臣が揃って死亡とは…
左大臣
 阿倍倉梯麿 3月没 (巨勢徳陀 4月任)
右大臣 蘇我倉山田石川麿 3月自殺 (大伴長徳 4月任)

さて、古墳を見ましょう。
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池を見ながら西に進むと、すぐに文殊院西古墳があります。
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綺麗な花崗岩の切り石の石室ですね。此処が、倉梯麿の墓だそうです。
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次は東古墳です。反対側に進みます。
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お社の左に東古墳があります。
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西古墳と比べると、こちらが古いようですね。
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文殊院の西古墳と東古墳をみました。さて、どちらが倉梯麿の墓でしょうか。それとも、彼の墓は別にあるのでしょうか。
安倍倉梯麿の墓が何処にあるのか、どんな墳丘墓なのか、それは重要です。
大化改新前後の安倍氏の文化力、彼の左大臣としての立場や影響力が想像できるからです。

安倍氏は孝徳朝の重要なポストに着きました。天武朝でも、安倍仲麻呂は遣唐使として唐に渡りました。優れた文化力を持った豪族だったのです。
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安倍仲麻呂の望郷の歌は有名ですね。
あまのはら 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
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さて、阿部文殊院の近くには面白い古墳があります。そこもチェックしましょうか。
では、また明日

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# by tizudesiru | 2017-08-10 20:47 | 276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓 | Trackback | Comments(0)

明日香・奥山廃寺に秘められた物語

奥山廃寺は、明日香の奥山にあります。
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奥山の久米寺、その境内に廃寺の塔跡が残っています。
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去年の秋、塔跡を見た時の写真です。よく見ると、左の柱礎石に穴が穿たれているのに気が付きますよね。今年も見に行きました。
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穴を確かめましたが、ヒビがあるので水は溜まっていません。
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これは石塔の下の敷かれた石、こちらには水があります。
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よく見ると穴が有ったりなかったりと、様々な塔の敷石です。
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他にも穴の穿たれた石が境内の隅に置かれていました。
まるで塔心礎のようではありませんか。そういえば、奥山久米寺の礎石が、明日香博物館に置かれていました。なんと、この礎石にも穴があります。講堂の礎石だそうです。
穴は必要なので彫られたはずです、扉の戸の軸穴などとして。すると、奥山久米寺の塔跡の礎石の穴も、扉の開閉のための戸の軸穴だったのでしょうか。
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帰りに橿原の博物館でも聞きました。「塔跡のこの穴は何ですか」
礎石の写真も見てもらいましたが、なぜ穴が穿たれているのか、「開閉のため戸の軸穴の可能性」を云われただけで、はっきりしませんでした。たくさんの穴があることが不思議という感じでしたね。
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実は、ここでスゴイ瓦を見せていただきました。(写真には撮らせていただきましたが、ネットに上げるのは遠慮させていただきます。)

スゴイ古瓦・
奥山久米寺の平瓦・朱が塗られた大きい平瓦

わたしも驚きましたが、同時に「やった!」と思いました。
わたしはかねてより明日香にあったはずのある館を探しているのです。
それが奥山久米寺の辺りなら申し分ありません。近くにあった邸宅が寺院になったと思うからです。

その館の主が没したあと、特別な寺院が造られた、または改造された、と思うからです。

その邸宅の出入り口には、多くの頑丈な門があったでしょう。門扉の軸穴が有って当然です。
その人は高貴な生まれの人だったでしょう。
その死後、四天王寺式の寺院が屋形の柱や礎石を使って建立されたと、わたしは思っているのです。


奥山久米寺、なかなか面白い所ですが、車は入れません。
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きっと、ここも歴史の扉を開ける鍵となることでしょう。


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# by tizudesiru | 2017-08-08 10:38 | 275飛鳥・奥山廃寺の謎 | Trackback | Comments(0)

蘇我馬子の菩提を弔ったのは誰

よく質問されること「古代には測量技術はなかったのに、
何故ラインが引けるのか?」です。
またまた、テレビが教えてくれました。「国宝・投入堂・秘められた謎」です。
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二つのお堂ははるか遠くに離れています。
しかし、同じような建築様式です。それも、緯度がほぼ同じなのです。
投入堂の緯度・北緯35度23分47.5秒
笠森観音堂の緯度・北緯35度23分58・6秒

その答えは、「古代から太陽観測をして、かなり正確に位置を知ることができたから、離れていても二つのお堂の緯度の数値が近いのだ」というのです。
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投入堂と笠森観音を直線でつなぐと、大山の北側を通り熊野神社を通り出雲大社の参道入口までつながります。では、古代の都があった飛鳥でも、太陽を観測して位置を決めたのでしょうか。
調べてみましょうか。

ラインで見る石舞台
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藤原宮の大極殿から石舞台に直線を引くと、紀寺廃寺・飛鳥寺を通って石舞台につながります。持統天皇・高市皇子が造営した藤原宮ですが、飛鳥寺を取り込んでのことでしょうか。石舞台に直線が届いたのは、偶然と思えないのです。
此処はお互いに近いから、棒を数本使って目測で位置を確認できたでしょうね。


それから、石舞台古墳から西にむかって直線をのばすと、与楽鑵子塚古墳に行き着きます。
此処は渡来系の人の古墳だそうです。石舞台古墳のような大石を積んだ石室で高さもあります。
(地図があれば
、古代史の謎に迫ることができる!と思っている私には、面白い事実でした。
地図を見ることが、わたしの古代史の謎を解く時の基本的な方法です。)


蘇我大臣の墓という石舞台の直線は何を語る?
この三角のラインは、以前から気になっていました。藤原宮から与楽鑵子塚古墳に直線を引くと、本薬師寺がライン上に来るからです。飛鳥寺も本薬師寺も当時の官寺ですから、国家の行事も法事も行われていたでしょう。
そして、最近気が付いたのは、定林寺跡が石舞台古墳と与楽鑵子塚古墳の間に入ることです。


古代の寺、それも飛鳥の時期の古瓦が出土した定林寺

蘇我馬子は自分の為に寺を建てなかったのでしょうか。または、余るほどの財力を持っていた蘇我氏は、蘇我大臣のために菩提寺は建てなかったのでしょうか。
そんな思いで地図を見ていて、気になる廃寺がありました。
立部にある廃寺、定林寺です。


馬子が建立した寺は飛鳥寺・甘樫の丘の東に造営した。
では、蘇我馬子の菩提寺は?


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蘇我氏の甘樫の丘から飛鳥寺も槻の広場もよく見えたことでしょう。ただ、蘇我馬子は甘樫の丘ではなく島ノ庄の館に住んでいましたから、丘から飛鳥寺を眺めたのは、蝦夷や入鹿でした。
飛鳥寺は当時の外交の場であり、国内の豪族をもてなす場でもありました。飛鳥寺の横の槻の広場で様々な国家的行事が行われたとされています。
乙巳の変(645)の時、中大兄は蘇我入鹿を斬った後で飛鳥寺に立て籠もり、入鹿の父・蘇我蝦夷の反撃に備えました。その後も、飛鳥寺は官寺として大王のために読経しました。
ですから、蘇我氏が一族の為に造営した寺でしたが、結果的に官寺として多用されたということです。

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飛鳥寺は蘇我氏の寺であっても、蘇我氏の菩提寺ではなさそうです。では、蘇我氏の菩提寺は?
ほとんどの氏が自分の寺を持っていましたよね。

では、立部の定林寺跡に行ってみましょう。

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この道を上っていくと、春日神社がありました。
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定林寺跡が遺跡と認定されたので、この春日神社が移動させられたと云うことです。
道の奥に定林寺跡があり、道は行き止まりです。
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奥に少し広場が見えます。定林寺跡は、ここです。
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狭い丘の上に寺があったようです。見える範囲が全てです。春日神社まで寺域を広げると、塔と金堂が東西に並ぶ配置になるのでしょうね。

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奥の丸い岡の上あたりが定林寺でしょうか。
さて、この飛鳥時代の瓦をもつこの寺を造営したのは誰でしょうね。

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定林寺と他の寺とのかかわりを見ます。飛鳥寺と定林寺を結ぶと、ラインは文武陵まで届きます。

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同じ蘇我氏、石川麿の山田寺とラインをつなぐと、なんと川原寺が乗りました。
鞍作氏の坂田寺を本薬師寺とつなぐと、川原寺と蘇我蝦夷の館跡を通ります。

定林寺を建立したのは、どうも蘇我系の人のように思えます。



定林寺と直線でつながるのは、蘇我石川麿の山田寺・斉明天皇ゆかりの川原寺です。
川原寺は本薬師寺や蘇我本家の館(甘樫丘)坂田寺(鞍作氏の寺)などとつながります。
誰が定林寺を建立したのかですが、わたしは蘇我蝦夷だと思います。馬子大臣の菩提を弔ったのではないかと、思うのです。
では、また


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# by tizudesiru | 2017-08-06 22:19 | 274 古代の測量の可能性・飛鳥 | Trackback | Comments(0)

福岡市の平群・地図で読む物語

飯盛山の東には宝満山
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(飯盛山の中腹・飯盛神社の中宮から東の宝満山を見る)

早良区の飯盛山の山頂の真東には、宝満山山頂(宝満山の左のピークは三郡山)があります。宝満山と飯盛山は東西に向かい合っています。
宝満山に向かい合う飯盛山は、西にあります
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飯盛山の中腹の中宮は、東を見ています。
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(飯盛神社・中宮)
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(飯盛山・山頂下の大石)


宝満・飯盛の二つの山を直線で結ぶと、宝満山・大城山・飯盛山の山頂がつながり、須玖岡本(春日市)・吉武高木(早良区)・三雲南少路(糸島市)の三大王墓とされる遺跡が直線に乗ります。

更に、西に(糸島地方)伸ばすと一貴山銚子塚古墳(柄鏡形前方後円墳)までつながります。これは、王墓のラインと思われます。
弥生時代の権力の中心は、吉武高木から須玖岡本から糸島へと動いたのでしょう。
第一段階・吉武高木遺跡の王は、飯盛山の上にて祭祀をした
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吉武高木の王は進んで半島と交流し、佐賀県の唐津地域の王より銅製武器の威力を学び銅剣と鏡を手に入れたようです。

やがて、銅矛を同族のシンボルとする春日地区の王が工業力で他国を抑え始めました。
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吉武高木遺跡の時期には飯盛山の山頂での神祭りでした。夏至の太陽は鉾立山から昇り、冬至の太陽は荒平山から昇りました。
次の時代には神祭りの場が春日丘陵(須玖岡本遺跡)に代わりました。
夏至の太陽は砥石山からのぼり、愛宕山に沈みます。
冬至の日は宮地岳から昇り、井原山に沈みます。



須玖岡本遺跡の時代、弥生の王は何処にいたのか
それは、日知りの山が見える所でしょう。朝日が出る山頂が見えて、沈む山が見える丘陵です。
そこで、日知り王として神祭りをした、そう思われます。
そういうぴったりの場所が偶然にも春日丘陵にあるのです。

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その後、新しい勢力(?)が糸島に生れる(一貴山銚子塚古墳)のですが、彼らが握った経済力の元は何だったのでしょうね。
交易? 祭祀? 工業? 対外貿易?いろいろあるようですね。
ガラス工房もあるし、交易していた証拠も多々ありますから。

春日丘陵や糸島地方に取って代わられた吉武高木遺跡のある早良地域の人々はどうなったのでしょうね。

中には新天地を求めて、他の地域に移動していったかも知れませんね。
奈良の平群町も、生駒山信貴山系と平群の山々に囲まれ、中央を竜田川が流れていて、早良にとてもよく似た地形です。

大昔は何らかのつながりがあったのでしょうか。

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ではでは、平群を懐かしんだ倭建は何処の人?

景行天皇・九州を巡行(書紀)
倭建命の父は景行天皇ですね。そして、景行天皇は九州と関係の深い大王です。しかし、古事記には九州巡行の記述は有りません。
古事記には景行天皇のことはほとんど書かれていませんでした。
書かれていたのは、其の后と子供たちの記述くらいでした。
しかし、日本書紀には九州遠征のことがかなり書き込まれていました。
すると、奈良の纏向の日代宮からわざわざ九州に来られたと云うことですが、とうとう帰られなかった(?)ようです。不思議な話でした。
確かに、九州には景行天皇の伝承は数多くあります。
「火の国の不知火を見た話」だけではありません。熊本にはお祭りから地名譚まで様々に残るのです。
前回「倭建の国偲び歌」でも書きましたが、倭建は景行天皇の皇子ではない可能性が高いですね。
すると、景行天皇とは如何なる王なのでしょう。
もちろん、書紀や古事記に書かれていることが正確かどうかを問うていません。そこに何が書かれているかを考えているのです。
矛盾や齟齬があるとしたら、その原因があるでしょう。使われた地名には考えるヒントがあるかも知れません。無関係の地名でも、関係深い地名でも、その地名を書いた人物の意図はあるわけですから、何か考えるヒントを教えてくれるかも知れません。


地図や古文書や伝承の中のどこかに、おもしろいパンドラの箱が落ちているかも知れません。

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福岡地方では弥生前期から古墳時代前期まで、神祭りの場が移動していきますが、太陽を神とする思想は受け継がれていくようです。
黄色はパソコンで確かめた夏至の日の出のライン。黄緑は冬至の日の出のラインです。
これが、きちんと有名な山頂や古墳や神社を結ぶのです。


長くなったので、ここまでにします。

ちょっと熊本地震のあとの片づけに出かけていました。
あれから一年以上経ちましたが、まだまだですね。



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# by tizudesiru | 2017-08-05 00:02 | 272平群を詠んんだ倭建命 | Trackback | Comments(0)

大型甕棺墓の時代の木棺墓

王墓は甕棺ではなく

木棺だった
福岡・吉武高木遺跡の場合
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その王墓は半分道路の下になっています。そこは、特定集団墓と呼ばれる区域です。
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この一角は特別だったようです。特にM3という木棺墓は、副葬品から当時の古代史学会・メディアの注目する所となりました。

その木棺墓は、鏡(多鈕細文鏡)剣・玉の三点が副葬されていたわが国最古の王墓です。
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写真は、3号木棺墓の副葬品、銅戈、銅矛、銅剣、まが玉、鏡(多鈕細文鏡)です。多鈕細文鏡は、朝鮮半島由来の鏡です。弥生の王が最初に手に入れたのは、半島の鏡だったのです。
この鏡は、福岡県や佐賀県の甕棺や木棺から出土しています。
佐賀の遺跡はより半島に近いので、初期の段階の細形銅剣など早い段階で手に入れたようですが、だんだん糸島や福岡平野に経済力を奪われていくようです。
(近畿でも一、二点、後の段階の多鈕細文鏡がため池の工事中に出て来たりしていますが、埋納されていたと云うことです。特別な人物の持ち物ではなくなった時代に埋納されたようです)
つまり、近畿の弥生時代には、漢鏡も半島の銅鏡も移入していないのですね。

最近、福岡県では、多鈕細文鏡の鋳型も出土していますから、半島由来ではない鏡があったのでしょうね。
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これは、吉武高木遺跡の副葬品です。同時期にこれだけの副葬品が木棺や甕棺に入っていたのですね。
この後、吉武高木遺跡の大型甕棺の副葬品は無くなっていきます。春日市の須玖岡本遺跡が栄えて行きますから、経済力や権力が春日丘陵の首長に吸収されていくのでしょう。
室見川はその盛衰を見て来たのですね。
室見の「室」とは、大型の掘立柱の建物のことです。
この川沿いに大型の掘立柱の建物があったと云うことでしょうか。
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興味の湧く地域ですね。


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# by tizudesiru | 2017-08-02 21:26 | 273大型甕棺の時代 | Trackback | Comments(0)

大型甕棺の種類、見分けにくいです!

大型甕棺の違って分かりにくい
博物館で説明を聞いてもなかなか見分けがつきませんよね。
だけど、吉武高木遺跡公園(やよいの風公園)では、それが分かりやすいのです。
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では、甕棺ロードと呼ばれるところに行ってみましょう。
早良区の甕棺墓群はかなりの範囲に有りますが、最盛期には整然と一列に並んでいるので、計画的に墓地が造営されたと考えられています。しかし、後期になるとその列が乱れて来るのです。
この遺跡でもそれが分かると思います。
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金海式と呼ばれる甕棺で、足先の辺りがすぼまったように見えます。
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こちらも金海式の甕棺です。K-045という記号は、Kが甕棺という意味になります。木棺の場合はMとなります。140号も045号も甕棺の個々の名前です。
140号には銅剣、045号には銅剣と銅矛が副葬されていました。
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おや、突き出た帯が甕棺を取り巻いていますし、足元がずいぶんすぼまりましたね。
これは、須玖式という大型甕棺の型式です。
春日丘陵の須玖岡本遺跡の須玖式です。
須玖式の時代になると、早良地区では甕棺に副葬品が入らなくなるのです。地域の財力が落ちたと云うことでしょうか。
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甕棺には地域によって型式に特徴があるようです。
汲田(くんでん)式というのは唐津地方の特徴で、立岩式というのは遠賀川流域の飯塚市の立岩遺跡の窯間の特徴です。
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いずれも大型甕棺です。この甕棺が大型化した最盛期に突然の終焉を迎える…
信じがたいですね。そこで、何かがあった・起こったと思われます。
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この立岩式の甕棺には、赤色がついています。ベンガラでしょうかね。

是で、博物館の甕棺を見る時、時代とか型式とか考えることができますね。

木棺の紹介はできませんでしたね。
明日は、木棺墓について考えましょう。
古代では、地域のご神木に眠る首長が権力者だったようですよ。
甕棺より木棺のほうが権力者だった時代があるようです。



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# by tizudesiru | 2017-08-01 20:01 | 273大型甕棺の時代 | Trackback | Comments(0)

三種神器発祥の地・吉武高木遺跡

平群村があった福岡市早良
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前回の記事で、景行天皇の征西について書きました。浮羽で征西を終わった景行天皇は京都に帰りました。
その京は何処にあったのか。景行天皇が国偲びで詠んだ「平群」が九州にもありますよ。

というわけで、福岡市の早良区の吉武高木遺跡を紹介しましょう。

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(小学館・日本書紀の景行紀の図を借りました)

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早良区を流れるのは室見川です。室見川は脊振山系から流れ出し、早良を下って博多湾に届きます。
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博多湾に浮かぶのは、能古島(おのころ島)で、スモッグでかすんで見えます。写真には映っていませんが、陸地側には青木ヶ原(昔は青木氏のものだった)が広がっています

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飯盛山の背後に連なる山は、糸島市との境の山です。
飯盛山の右手(北)には叶岳があり、左手(南)には日向峠があります。
サワラと伊都国をつなぐ最短道路です。
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遺跡の発見から40年、やっと公園になりました。しかし、数人が遊んでいるだけです。真夏ですからね。すごく暑いですね。
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➁特定集団墓は、半分道路になっています
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この王墓と飯盛山と宝満山は東西に並びます。西には飯盛山。東に宝満山。油山の稜線の左にある宝満山はかすんで見えません。すぐ近くの油山も白く見えます。
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では明日は、甕棺と木棺墓と副葬品を紹介しましょう。

また明日。



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# by tizudesiru | 2017-07-30 17:36 | 272平群を詠んんだ倭建命 | Trackback | Comments(2)

虚実ないまぜ?古事記と書紀の倭建命の父

虚実が絡み合っている記紀の物語
倭建命って何処の誰ですか?


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(写真は三輪山)
書紀によれば、倭建の父は纏向の日代宮の大帯日子天皇だそうで、母は播磨の稲日大郎姫(いなびのおほいらつめ)。祖父は活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)天皇、祖母は日葉洲媛(丹波道主王の娘)。倭建命の名は小碓命で双子、双子の兄は大碓皇子です。

記紀の物語は何処までが嘘なのか、伝承なのか分かりません。


物語の内容が記紀では違っているのです。倭建の国偲び歌
は、古事記では倭建命が歌いますが、書紀では景行天皇が九州に来て歌ったことになっています。

記紀では内容が矛盾することが多々あるのです。景行天皇の記述にも、それは有ります。倭建命の曽孫が、倭建命の父の嫁になって子供を産むなんてありえないでしょ。


これは伝承の手違いか、書き間違いということですが、古事記にも書紀にも書いてあります。どちらも検討されて書かれたでしょうから、共通して矛盾を認めているのです。

記紀の共通点と矛盾点をさらりと見ても、なんだかホントも出てきそうですので、いくつか挙げてみましょう。

1・古事記では纏向に居たという景行帝が「西の方に熊襲建あり」と、息子を九州に遠征させます。倭建命は女装して二人を殺しますが、返り討ちにあっていません。熊襲建の兵と倭建の兵は戦わなかったのでしょうか。次に、出雲へ行って出雲建と友となって騙して殺します。

どちらも、首長のすぐ近くに入りこめています。敵というより、むしろ元々知り合いだったのでは?


2・書紀では征西するのは景行天皇で、倭建命ではありません。

天皇は周芳(すは)のサバ(佐波)
に留まり使いを出しました。神夏磯媛は、根のついた榊に八握剣(やつかのつるぎ)八咫鏡、八尺瓊(やさかに)を取り付けて帰順しました。

神夏磯媛の手引きにより、宇佐の河上と高羽(田川)の河上にいた土蜘蛛を討ちます。
九州の首長って、剣・鏡・瓊を木に結び付けて帰順するのですね。


3・景行帝は日向に留まり、熊襲の八十梟帥(やそたける)を討つ計画を立てます。二人の娘は景行帝に騙され、姉が父に酒を飲ませ弓の弦を断ちます。父を裏切ったにもかかわらず、姉も熊襲
梟帥も殺されました。

4・襲の国を平らげ、数年後に日向にに到り京都を偲んで歌を読みました。

愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も

倭は国のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる 倭し 麗し

命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白橿が枝を 髻華に挿せ この子


この歌は、父と息子のどちらが詠んだのでしょう。それとも、ただの説話でしょうか。ただ、この時景行天皇は病気ではありません。元気に都に帰りましたから。


5・景行帝は日向から都へ帰ることにしました。夷守に寄り熊県で弟熊を誅し、葦北に寄り、火の国を過ぎ、玉杵名で土蜘蛛を殺し、阿蘇を通り御木(三池)を通り、八女津媛の話を水沼県主から聞き、八月に的邑(いくはのむら)に到りました。
九月に、天皇は日向より 帰られました、となっています。

浮羽までは詳しい地名が書かれていますが、ここまでしか書かれていません。やはり景行天皇も、筑紫國では賊を討ちませんでした。景行天皇の都は浮羽より北にあったのでしょうね。


それにしても、平群の山が詠まれていましたね。
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福岡市早良の平群村
奈良県の平群町
前回、倭建の「国偲び歌」を紹介しました。平群の熊白樫という意味深な言葉がありましたね。神聖な樫の木は、斎樫(いつかし)、白樫(かし)と、斎や白をつけて書かれますが、それに熊が付きました。クマガシと白カシは少し違います。そもそも、熊・球磨・隈とか九州の地名に付く言葉ですね。
熊白樫は九州とつながりが有るのでしょう。

奈良の平群町とよく似た地形の平群村が、最近まで福岡市に在りました。

同じ平群という地名ですが、共通点はあるのでしょうか。
福岡市の早良区に最近まであった平群村は、町村合併で消えました。景行天皇は、ここの白橿の葉を詠んだのでしょうか。

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早良区の吉武高木遺跡(弥生前期の遺跡)、山は飯盛山。古代から見た神祭りの山です。
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早良区の中央を室見川が流れています。平群村はこんな早良区に有りました。

早良の地は弥生時代の先進地で、この遺跡から出雲系の土器をはじめ全国各地の土器が出土していますもちろん、弥生時代の土器です。
また、吉武高木遺跡は、甕棺墓・木棺墓から、三種神器と呼ばれる「鏡・剣・玉」が出土した、三種神器の発祥の地なのです。
景行天皇の祖先の地、神祭りの山は此処だったのでしょうか。



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# by tizudesiru | 2017-07-29 22:00 | 272平群を詠んんだ倭建命 | Trackback | Comments(0)

倭は国のまほろば・倭建命の国偲び歌

平群の熊白樫を詠んだ倭建命

長屋王の墓が残る平群は、ほとんどがゆるやかな傾斜地です。

ここは、滅ぼされた古代豪族・平群氏の本貫でした。
古事記では倭建命も、平群の山を詠んでいます。

倭建命の故郷は平群ではないのに

命は平群の熊白樫を詠みました。それを髪に挿して、祀り事をしなさいと。

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(奈良県平群町を流れる竜田川、水量も減ってしまったとか。大和川の支流です)

古事記の倭建命・たくさんの歌が掲載されている

命の父は大帯日子瘀斯呂和氣で、纏向の日代宮に治天下天皇(景行天皇)です。
母は若建吉備津彦の娘・針間の伊那毘能大郎女。
同母の兄妹は、櫛角別王。大碓命。
倭根子命。神櫛王。
       小碓命(倭男具那命)=倭建命

倭建命は西に東に兵を進め、あげくの果てに心身ともに疲れ、杖をついて能煩野(のぼの)までたどり着いました。そこで「国偲びの歌」を詠み、薨去しました。

倭は国のまほろば たたなずく青垣 山隠れる 倭しうるわし

倭は国の中でももっともすぐれたところで、たたみ重ねたように連なる青垣のような山々の中に籠っている、倭はうるわしい。

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続いて
命の全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白樫が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

わたしは、もはや生きて故郷に帰ることはできないだろう。命ある者は、畳んだ薦を広げたような平群の山の神霊のこもる樫の葉を髻(もとどり)に挿して、神に感謝をするのだぞ、お前たち。

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さて、倭建命の歌は能煩野(のぼの)で読まれました。
また、続けて、

愛(は)しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居起(た)ち来も

なつかしいなあ、我が家の方から雲が湧いて来るよ


この時、命は危篤状態になりました。

嬢子(おとめ)の床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや


乙女の(ミヤズ姫のこと)床の横にわたしが置いて来た剣、その刀剣があったなら、その刀剣が、ああ…

と歌いおえ、崩(かむあが)りされました


さて、倭建とは何者でしょう

西も東も平定した(九州から関東まで)
皇室の宝の草薙劔を持っていた・
各地に地名を残した・
本人も皇太子息子は帯中津日子(仲哀天皇)
妃は垂仁天皇の姫・尾張の娘も妻とした・

平群熊白樫(くまかし)の霊験を知っていた・

天皇ではないのに、死去した時「」と書かれた
*宇治若郎子も崩と書かれていたと思います。

書紀では「国偲び歌」は景行天皇の歌となっている
倭建の記事が異常に多い
 
それにしても、古事記は正直です。物語を無理にでっち上げていないかも知れません。
それぞれの天皇の記述が極端に多かったり、少なかったりするのです。例えば、成務天皇は、単行本では6行。景行天皇は、220行(16ページ)なのです。220行のほとんどが、倭建のエピソードとは・・・。全く、古事記は何を伝えたいのでしょう。

わたしは、倭建は、筑紫の人だと思います。
なぜなら、熊襲と出雲と東国にまで遠征したのに、筑紫は討っていません。纏向も討っていません。纏向には別の同族がいたからでしょうか。皇太子が三人いるのも不思議です。それぞれ別の王族の皇太子と見たほうが自然です。
それに、倭建の曽孫・迦具漏比賣を大帯日子天皇が嫁にして子をもうけています。
息子の曽孫と結婚するなど、有りえないことです。
では、倭建は大帯日子天皇の皇子ではなく、遠い先祖となります。

気が付かれましたか、倭建の遠征地と大国主の勢力範囲と重なりますね。


倭建は倭王武かもしれません。彼は自ら甲冑を着て東西に兵を進めましたから。その伝承が、大国主=倭建と結びついた!!
どこかで聞いたような話になりますか?

すると、倭建の本貫は何処なのか。

福岡平野の西となりますね。そこにも平群がありましたから。倭建は平群の山の神を頼りにしていたと云うことですから。

貴方は、どう思いますか?
このブログの「大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる」を合わせて読んんでくださいね。「彷徨える大国主」あたりも一緒に読んで下さればありがたいです。

また、明日

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# by tizudesiru | 2017-07-27 11:08 | 272平群を詠んんだ倭建命 | Trackback | Comments(0)

長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成

長屋王の亡骸を抱いた男・

平群廣成の慟哭


謀反罪で死を賜った長屋王


長屋王は高市皇子の長子でしたが、家族と共に死を賜わりました。その王の亡骸を埋葬したのは誰でしょう。
罪科ある人の墓はほとんどどこにあるかわかりません。しかし、長屋王の墓は伝承があり、その墓が明治になって整備されたのです。
明治までその墓を伝えたのは平群氏でしょう。

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(長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町にあります。江戸時代の文書に長屋王の墓という伝承が残されていたのです。)

長屋王墓の近所には夫人の吉備内親王の墓もあります。二人を近くに葬るには、それなりの努力と尽力があったと思います。続日本紀には、

「王をして自ら尽(し)なしむ。その室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、鉤取王ら同じく亦自ら経(くび)る」
「長屋王・吉備内親王を生馬山(いこまやま)に葬らしむ。」
「吉備内親王は罪無し。例になずらえて送り葬るべし。」
と書かれています。

この謀反事件で、現天皇の叔母の家族を断罪したのです。吉備内親王は前天皇の妹であり、前々天皇の娘なのです
内親王の家族を全て死なせた事件なのです
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平群氏は長屋王家に出入りしていた

奈良市の長屋王の屋敷後から、多くの木簡が出土しています。その中に、平群廣足(ひろたり)平群廣成(ひろなり)の名が書かれた木簡が見つかりました。

廣足は倭舞の名人だったようで、宮中の雅楽寮(ががくりょう)より派遣を要請されています。

廣成は天平五年遣唐使として唐に派遣されています。帰国後は順調に官位を進めて、最後には従四位上(長官クラスの官職)に任ぜられ、出世を果たしました。
ですから、長屋王の邸宅に出入りしていたのは若い頃でしょうが、その時、主人の難に遭遇しました


数多の兵と役人に囲まれた王の屋敷内に、従者が出入りすることはできなかったでしょう。
屋敷の召使たちも外でじっと邸宅を見つめ、畏れおののいていたことでしょう。
遂に、長屋王と吉備内親王と四人の男子は、死を撰ばされました。
大邸宅の周りの空気は、泣き叫ぶ召使たちの声で震えたことでしょう。
王の妻だった他の女性たちは、各々の実家で知らせを聞いたでしょうから、屋敷の周りにいたのは庶民だったようです。

続日本紀によれば、このあと、都では長屋王事件に
ついて噂と憶測と追悼の声が溢れ、長く終始が
つかなくなるのです。

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吉備内親王は罪無し、しかし、長屋王は…
平群廣成は長屋王の傍に生活したのです。主人を十分に知っています。
主人がいかがわしいことをする人物かどうか、知らないはずがありません。
彼は糾問される主人を待ち続け、死後はその亡骸を抱いて泣いたと思います。
罪無くして逝ったその人を。
だから、平群氏の本貫の地に長屋王の亡骸を葬ったと思うのです。

長屋王の墓は、「前方後円墳の後円部の上に造られている」と書かれた文を読んだことがあります。
罪科のある主人を小さな墓に埋葬しなければならないと十分知りつつ、せめて王墓のような大きさにしたいと、廣成は祖先の墓を長屋王のために提供したと…そう思いませんか。
吉備内親王の墓は少し離れた微高地にありますので、当時はまるで仲良く並んでいるように見えたことでしょう。
平群町の小さな墳丘には、平群廣成の思いが込められていると、わたしは思います。

長屋王の大邸宅は、光明子のものとなりました。

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ここからは、おさらい


なぜこのような悲惨な事件が起こったのか、以前もブログに書いたと思いますが、少しおさらいしてみましょう。事件が起こったのは、
長屋王が恵まれ過ぎていたからです。父母は御名部皇女(内親王)と高市皇子(親王)で、妻は元明天皇の娘であり、文武天皇の妹でした。多大な財力と権力を持ち、当代随一の名家であり、将来も揚々たるものだったのです。

霊亀元年(715)二月、元明天皇(草壁皇子の妃)は「勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を皆皇孫の列(つら)」に入れたと続紀にあります。
長屋王の子どもたちの身分を三世王から二世王(天皇の孫)あつかいしたのです。

藤原不比等は「皇太子の首皇子が十五歳で即位すれば、外戚になれるから」と、長屋王家の特別待遇を容認していたでしょう。

しかし、元明天皇が譲位したのは皇太子の首皇子ではなく、娘の元正天皇でした。それは、政変のような衝撃だったのです。
元明天皇は、前年元服した皇太子・首皇子に不安を覚えていました。

養老二年(718)長屋王大納言。大伴旅人中納言。
     この年、養老律令を撰進(藤原不比等ら) 
     功績に関わらず不比等は右大臣のまま
養老四年(720)日本書紀撰進。藤原不比等没
養老五年(721)一月、長屋王右大臣。十二月、元明太上天皇崩御。

元明太上天皇は長屋王家へのレールを敷いて崩御されたのでした。が、チャンス到来と
藤原氏は着々と首皇子の即位に向けて準備をはじめました。

山上憶良ら当代の知識人を東宮(皇太子)の周りに集めます、そして、元正天皇に譲位を迫りました。元より中継ぎを承知だった元正天皇は、元明天皇の崩御の三年目の二月に首皇子(聖武天皇)に譲位されました。崩御からほとんど二年しかたっていなかったのですが。

この時(724年)、長屋王は左大臣となったのでした。
元明天皇の思いが元正天皇に引き継がれていたのでしょうか。
そして、この時、長屋王の運命は決まったのです。

引き金は、聖武天皇の皇太子(基王)が一歳で没したこと(728年)でした。
聖武天皇の皇位継承者より、長屋王の男子の方が有力だったのです。
神亀六年(729年)、基王の死から半年後、長屋王事件は起こりました。

長屋王がどんな左大臣だったか、都の庶民は知っていました。その事をめぐって様々な噂といざこざが起こり、殺人事件も起こりました。もちろん、聖武天皇は十分に知らされていなかったでしょうね。
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全ては、歴史の靄の中に。


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# by tizudesiru | 2017-07-25 15:05 | 271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成 | Trackback | Comments(0)

卑弥呼の宮室は吉野ケ里ではない?

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卑弥呼の宮殿の候補地は何処なのか

吉野ケ里と纏向でいいの?


邪馬台国論争では、いつもこの二ヵ所が取り上げられて比較されていますが、二か所でいいのでしょうか。

そもそもの出発点、三国志の「倭人伝」に見える女王国の様子を見ましょうね。検討できるところを抜き書きしました。

男子は大人も子供も鯨面文身(顔にまで入れ墨をしている)
道理を図ると、まさに会稽(かいけい)・東冶(とうや)の東にある
禾稻(イネ)苧麻(からむし)蚕桑・絹績(蚕と桑を植え絹織物を織る)細紵・縑緜(細い麻糸と絹織物)がある
兵は、、楯、木弓を用いる。竹矢には鉄鏃、骨鏃を用いる
文物は中国の儋耳(たんじ)朱崖(しゅがい)と似ている。*南海島の郡名
倭の地は温暖・冬も夏も生菜を食し、みな裸足
父母と寝起きするところはちがっている
朱丹をその体に塗る
墓は棺はあるけれど槨(外側の箱)はない。土で冢をつくる。もがりを十日ほどする。
倭は、真珠・青玉をいだす。山には丹がある。
木は、クス・トチ・クスの木・ボケ・クヌギ・スギ(?)・カシ・ヤマグワ・カエデ・
竹には、シノダケ・ヤダケ・?
しょうが・さんしょう・みょうが等あるが、滋味とはしていない
骨を焼いて吉凶を卜う
大人は皆、四、五人の婦(よめ)。下戸は、二、三人の婦。
租賦を収む(税をおさめていた)
邸閣(ていかく)あり。(大きな館があった)
国国に市があり、物々交換をしていた。大倭がこれを監視していた。
女王国より北に一大率を置いて、諸国を検察し、諸国はこれを畏れていた。
一大率は常に伊都国に置かれていた。


ここまでは、
九州説を裏づけする事項だらけですね。
倭王の使いが京都・帯方郡などに詣でる時、及び群からの使いが倭国に来る時、港で文書・賜遣のものなどの荷物を開けて、不足や食い違いがないか調べている。*字が読めたし、書けたのです
(略)倭国大乱などの記事があります。
卑弥呼は王となってより人に会うことが少ない。婢が千人仕えていて、男子一人が出入りする

居処には、宮室・楼観・城柵、おごそかに設け、常に兵が守衛している。
まだまだ、続きますが省略します。

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一方の纏向遺跡
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この大型建物の柱穴は方形です。方形の柱穴が現れるのは、ほぼ七世紀から八世紀だそうです。更に、ここから古い土器に混じって四世紀の土器が出土しているので、時期は卑弥呼の時代ではないと訂正されたそうですが……館に城柵は有りませんね。
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では、この模型はなんなのでしょう。辺りは川の小さな支流がいくつもあり、大型建物を建てるには難しい所だと聞きましたが。
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各地方の土器が沢山出土したことが取り上げられていましたが、韓半島の楽浪系土器は出土していません。(九州には出土していますが)

番組の纏向遺跡の切り札は「ベニバナの花粉」でした。確かに、倭錦・絳青縑(こうせいけん)などを倭国から贈っています。絳青縑は赤と青の絹織物だそうです。でも、ベニバナの花粉がみつかったから絹織物があったとは飛躍がありませんか。(絹織物が弥生の甕棺から出土するので、絹も九州にはありました)


わたしは、近畿に王権が出現する事実を精査して、王権発祥の地を見つけてほしいと思います。このまま纏向に決めて突き進むのは、無理だと思うのです。


大型古墳の築造順序も精査して、埴輪や副葬品の時期をすり合わせて、納得のいく王権誕生のドラマを市民に見せてほしいのです。
私利私欲、我田引水は、もういいですから。
わたしたちは日本誕生の真実を、倭国とは何だったのかの真実を知りたいのです。人間は知ることが好きなのです。


邪馬台国九州説の老人たちが生きている間に、

なんとかなりませんか。

そうそう、わたしは邪馬台国は「吉野ケ里」ではないかも、と思っています。あそこは重要な弥生の集落のモデルですが。
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もし女王国が北部九州にあったのなら、鏡が副葬されたでしょうし、五尺刀も副葬されているでしょう。卑弥呼は女王国から実家の墓地に運ばれて埋葬されたかも知れません。後の時代の古墳の改葬のように、幾度も改葬されたかも知れません。改葬の途中で金印は権威ある者の手に渡った可能性もあるでしょう。
次の王権が卑弥呼を倒した勢力であれば、必ずそうすると思います。二度と蘇らないように墓を改葬するのです。
卑弥呼の霊力が信じられていたのなら、必ず実行したはずです。

卑弥呼の墓は、北部九州にあると云うことですかね。でも、
卑弥呼の宮殿は吉野ケ里ではない
これは、今の時点でのわたしの結論です。


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# by tizudesiru | 2017-07-24 14:44 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback | Comments(2)

邪馬台国論争・TBSの着地も纏向ですか

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卑弥呼が没したのは、正始八年(247年)でしたね。三世紀の半ばですね。

ちょっと、テレビに気になることがあったので寄り道です。

またまた不思議な
邪馬台国論争
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「邪馬台国の候補地は全国にある」と笑って

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魏志・倭人伝の一文「水行十日陸行一月」を取り上げて、

邪馬台国論争が始まりました…

女王の都する所が、水行十日陸行一月だというので、明治以来の九州説と奈良説の二ヵ所にしぼって邪馬台国の場所を探る番組でした。吉野ヶ里と纏向が比較されていました。

そもそも、魏志の「倭人」伝は、帯方郡から女王国までの里程を「水行十日陸行一月」のみで説明してるのではありません。里程を抜き書きしてみましょう。

従郡至倭(郡より倭に至る)には、海岸に沿って行き、
到其北岸句邪韓国(その北岸、句邪韓国にる)*その北岸は、何処の北岸?
七千余里、始度一海、千余里至対馬国(七千余里にして、初めて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る)
又南渡一海。(また南し一海を渡る) 名を瀚海という、
千余里、至一大国(千余里にして一大国に至る)
又渡一海、千余里至末盧国また一海を渡り、千余里にして末盧国に至る)
東南陸行五百里、到伊都国東南に陸行し五百里にして伊都国る)

伊都国だけ「到」が使われています。このあとで、伊都国の説明が入ります。これまでの国々にも官や国土や風俗の説明は有りましたが、省きました。

それでは、伊都国のせつめい。

官を爾支(ねぎ)といい、副を泄謨觚(えもこ)柄溧觚(へごこ)という。千余戸あり。世(よよ)王あり。皆、女王国に統属す(皆統属女王国)。(帯方郡の)軍使往来するとき、常に駐まる所なり。*(代々の王は皆、女王国を統属していたとよめませんか?)

再び、里程に戻ります。
東南至奴国、百里(東南して奴国に至る。百里なり)
東行至不彌国、百里東に行きて不弥国に至る。百里なり)
南至投馬国、水行二十日(南にして投馬国に至る。水行すること二十日なり)
南至邪馬壱国、女王之所都、水行十日陸行一月(南して邪馬壱国に至る。女王の都する所なり。水行すること十日、陸行すること一月なり)

次に他の国について「女王国の北にある国」は、その個数とか距離のおおよそを書くことができるが、その他の方角の国々は、遠く離れていて詳しく知ることができない」と書かれています。

すると、

対馬国も、一大国も、末盧国も、伊都国も、奴国も不彌国も、投馬国も、みんな

女王国より北にあると云うことです。

戸数や距離や官や副官が述べられていますからね。


女王の都に至るには、水行十日陸行一月かかるのですが、出発地は何処でしょう。帯方郡ではありませんか?

更に、よく見ると「距離・至・国名」の順番で、対馬国も一大国も末盧国も伊都国も紹介されていました。距離が先で、帯方郡から連なって来た意味でしょうか。
が、
奴国・投馬国・不彌国・女王国は、「至・国名
距離
で書かれていました。距離が国名の後に有りました。
これには意味があると思います。出発地は、郡ではなく伊都国ですかね…

更にさらに、
詳しく知ることができない国々を二十ヶ国あまり名前だけ書いた後に、

其の南に狗奴国あり。男を王とし、その官には狗古智卑狗があり、女王には属していない」と書かれているのです。
狗奴国は女王国の南です。

次に里程のまとめとして自郡至女王国萬二千余里

帯方郡より女王国に至る距離は一万二千里余り

7000+1000+1000+1000+500=10500
あと1500里で伊都国から女王国に届くのです。

普通に、邪馬台国は近畿では有りえません。
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邪馬台国が手に入れていた鉄の問題がありました

「倭人」伝に書かれているのですから、これは決定的な物証でしょうね。

鉄が出土する遺跡とその量の画像を見ると、圧倒的に中部九州が多いですね。

そこには狗奴国があったのではないでしょうか。

狗奴国は鉄を以て武器や工具を作り、生産力を上げ、女王国と対抗したのです。

熊本の遺跡は、近畿の遺跡ほど掘られてはいません。調査もせず土木工事が行われているのも現実です。

見つかっても掘るのは一部です。(吉野ケ里遺跡は特別中の特別なのです)


鉄の工具や鏃などの武器は、出土数で福岡より熊本が勝っています。
自著にも書きましたが、この違いが狗奴国が邪馬壱国を追い詰めたと思います。
そして、女王国は狗奴国に破れたと。

たまらず女王国に隷属していた人々は、東へ移動したのです。

もちろん、鉄の生産技術・大型甕棺の焼成技術・銅製品の生産技術など、みんな持って逃げたと思います。


久留米地方も、福岡平野も、繁栄していた遺跡がある時期一度に放棄されました。

生活用具も祭祀具もみんな周濠に捨てて(完品も捨てられている事実がある)、一斉に逃げ出すことが起こりました。


持ち物を破棄する理由は沢山ないでしょう。
豊かな土地を捨てなければならない理由なんて。

その後に入って来たのは、もちろん肥後の勢力でした。
それが、古墳の様相から読み取れるのです。

わたしがこのように書くまでもなく、いろいろな方が様々に指摘されていることでしたね。

明らかに、畿内説は無理なのに。それでも取り上げるTBS。
NHKも同じでした。なぜでしょうか。

由々しくもゲストが言っていました。

「邪馬台国が九州なら、邪馬台国は一地方の国となる」

「畿内ならば、ヤマト王権につながる国ということになる」

そうでしょうか。王権はどのように生まれたのか、まだ定説は有りません。
ゲストとしては、邪馬台国が一地方(田舎)にあったという結論が嫌だというのですね。

でも、田舎でいいではありませんか、事実であれば。(本人は畿内説だそうですから)

それに、王権と九州は深いつながりがありますよね。

東京だって、五百年前は都から離れた田舎だったのですからね。政治が変われば、経済・文化の中心地も変わるのですよ。

更に司会者が「九州説の人には、年よりが多い
」といいました。
驚きました、九州説の研究者にも老人にも若者にも失礼でしょう。
番組として恥ずかしくありませんか。


当然ですが、二千年前は大陸や半島に近い所が文化の中心地だったと思います。

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(福岡市博物館・新奴国展のカタログより)

さて、里程以外でもたくさんのことが取り上げられ、比較がされていました。
それもなかなか見逃せなかったので、また明日紹介しましょう。
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明後日には、また古代の神祭りと萬葉集の時代に戻るつもりです。
邪馬台国九州説の老女としては、ちょっと、ネ。気になりました。


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# by tizudesiru | 2017-07-23 14:29 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback | Comments(3)

大国主を追放したのは、何処の氏族?

権力者(為政者)が変われば

祭祀方法も祭神も変わる


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大国主命(八千矛神・オオナムチ)が彷徨うことになった理由は、政変

意外に考えられません。

為政者が変われば、墳墓の形も、シンボルの山も、祭祀する神も変わります。
次の為政者は先祖から伝わる葬儀をするでしょうし、崇める山も違って来るし、当然祭神も変わるのでしょう。

全国に浸透しつつあった大国主神が、出雲一局にて祀られるようになったのには理由があるはずです。北部九州・出雲・紀伊・関東で神祭りが変わるのは、いつでしょう。

大国主が出雲へ向かったのは、弥生時代の終わりころ?
普通の国主ではなく、「大」が付く国主となったのは何処で、いつなのか。

大国主命はオオナムチ・八千矛神とも言います。たくさんの矛(鉾)をシンボルとした神なのです。矛を祭祀に使った神祀りをしていたのは、北部九州の福岡平野が中心です。その中でも春日市から小郡市にかけての一帯、その辺りが中心地のようです。
弥生のコンビナート・須玖岡本周辺の古代工業地帯には、銅矛の鋳型が大量に出土しています。
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(福岡平野では、広形銅矛だけではなく、銅剣や銅戈の鋳型も出土しています)

弥生時代の終わりには大型青銅器の広形銅矛がなぜか埋納されるのです。
氏族の貴重品が突然埋められるのは、やはり異常です。

八千矛神は広形銅矛祭祀氏族が信仰した神と、わたしは思います。
その氏族かその一派が出雲へ向かったのではないでしょうか。
八千矛神は、出雲のスサノウの娘を嫡妻としたのです。

出雲の荒神谷に埋納された300本を超える銅剣は、彩杉文に研がれていました。その技術は九州のものだそうです。未だに銅剣製造の跡が見つからない出雲に三百五十余の銅剣が出土したのですから、誰かが九州から持ち込んだと思うのです。製造地がない限り、他には考えられません。
オオナムチは九州から移動し、出雲で大国主になったと思うのです。
その大国主は、広く九州・和歌山・関東の神となっていたのに、
突然「大国の主=権力者=祖先神」ではなくなったのです。それはいつなのでしょう。

それは、古墳時代の終わりだと思います。
前方後円墳ではなく、大型方墳の時代に代わったころ
、大国主の神祭りは傍系に移される運命になったと思います。

為政者の交替により、文化・人脈・祭祀・経済などに変化が起こるのですから。

地方にまで祭祀の変革・神社のご祭神の交替が求められたのは、大化改新後であり、大宝律令制定後ではないでしょうか。


大型方墳・蘇我系の大王
大型方墳が築かれるようになったのは、蘇我系大王の時代です。
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磯長の用明天皇陵(65m×60m)は方墳です。
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推古天皇陵(63m×55m)も方墳です。または、(59m×55m)

江戸時代に修復が行われています。

推古陵には「内に石棺二を安す」
という記録が残されています。
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(太子町竹内街道歴史資料館・「横領の谷・磯長谷古墳群」より)
推古陵も用明陵も大型方墳です。

この時代大王の墓の形が変わりました。
蘇我馬子の墓と言う石舞台も、蘇我稲目の墓という都塚古墳も方墳です。


ここで、気になるのは孝徳天皇陵は円墳(経32m)です。竹内街道歴史資料館の傍に有ります。ここは円墳だそうで…他の王陵と不釣り合いですね。
自らが出した薄葬礼に従って、小さな墳丘墓にされたと云うことでしょうか。
あの壮大な難波宮を造営した大王が…小さな墳丘…そうかもしれませんが。
わたしは孝徳天皇陵は近くに方墳としてある思うのですが…
余計なことかも知れませんが、その墓は未だに認められてないのでは…
私としては、確かに大型墳があたりにはあると思います。

蘇我系大王の方墳には家形石棺が置かれている

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都塚古墳(方墳)も、石舞台古墳(大型方墳)も、崇峻天皇墓ともいわれる赤坂天王山古墳(大型方墳)も、凝灰岩の家形石棺が置かれていました。氏族の葬送の共通性は十分にありますね。
家形石棺のルーツも、九州だと思うのです。
 
はい、今日は「広範囲の神とされていたはずの大国主命が、本貫を離れることになったのは何故か」を考えるのが目的でしたね。すっかり大型古墳に話が飛びましたね。戻りましょう。

八千矛神が何処で生まれたのかというと、九州でしょうね。
何が大きな転機があって、八千矛神は出雲に入り込んでいきました。大国主となった八千矛神は、関東にまでその勢力を伸ばしましたが、ある時、別の勢力にとってかわられた…
それが、大型方墳が現れる時期ではないかと、思うのです。
この大型方墳の勢力が明日香に入っていったと思います。

地名を見ても、太子町の辺りは「近つ飛鳥」というではありませんか
大阪府の南河内に蘇我系の勢力が入って来たのではないかと、わたしは思います。その勢力が奈良の明日香に進出したと。
なぜ奈良なのかですが、追われた氏族が隠れるのにいい土地ですね。山地で農地は狭いけれど薪の材料があり、炭焼きができたし、鉄の生産をするのに適していたと思います。経済力が何より重要ですよね。
また、ながくなりましたね。




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# by tizudesiru | 2017-07-22 17:27 | 269彷徨える大国主命 | Trackback | Comments(0)

269彷徨える大国主命と宗像君徳善

彷徨える大国主命宗像君徳善
さて、彷徨える大国主命の話の方へ移りましょう。
万葉集巻六「冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を発ちて道に上がりて、筑前の国宗形郡名兒山を越える時に作る歌一首」におおなむちの神が歌われています。

963 おほなむち すくなひこなのかみこそは 名付けそめけめ 名のみを 名兒山とおいて あがこふる 千重の一重も なぐさめなくに

むかし、おおなむちとスクナヒコナの神がはじめて名付けられたという「名兒山」だけど、わたしが都に置いて来た娘を恋しく思う心に比べれば、「なごやま(汝の兒の山だよ)」と聞いても、千重の一重も少しの慰めにもならない。

幾度か取り上げた万葉集の大伴坂上郎女の歌です。
このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神だったと、既に紹介しています。
では、おおなむちとスクナヒコナの神は、宗像氏の支配地域の神だったのでしょうか。支配神でなくては、山の名付け等できないはずです。
しかし、三女神を「宗形氏などが祀る」と書紀にも書かれています。万葉集とほぼ同時代に、同じ地域で神の名がずれているのです。
考えられるのは、同じ八世紀にご祭神が入れ替わったと云うことです。
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宗像氏は日本書紀に出てきますが、特に天武天皇の嬪となった宗像君徳善の娘・尼子娘は、高市皇子を生んだと書かれています。その宗像君徳善の墓が宮地嶽神社にある宮地嶽不動古墳とされていますが、徳善の墓ではないという説もありますね。
幾度もこのブログでも取り上げましたが、その古墳の所在する宮地嶽神社を再訪してみましょう。

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元のお社は階段を上り詰めたこの辺りに在りました。背面の山は神社のご神体山です。拝殿の大注連縄は、直系2.5m、重さ5t、日本一だということです。
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山門をくぐったこの境内で、毎年筑紫舞が(10月22日)奉納されます。
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特別の舞である「磯良の舞」が舞われた年もありました。安曇磯良は安曇氏の祖先神です。白装束で顔を隠して登場します。安曇氏は海神を祀っています。
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この宮地嶽神社のご祭神は三女神ではありません。また、宗像氏ともかかわりのないご祭神でもあります。
息長足比売命(神功皇后)

勝村大神(かつむらおおかみ)

勝頼大神(かつよりおおかみ)


神社の創建は1600年前とされ、1200年前に神功皇后が遷座されたと云うことです


ご遷座された日が10月22日と云うことで、御遷座記念祭が行われているのです。

平たく言えば、神功皇后は後の世に入って来られた神なのですね。

宮地嶽神社古墳は、相島(神社の正面の海に横たわる島)
の玄武岩で造られた巨石の横穴式石室の古墳です。

(日本で二番目に長い巨石の羨道をもっています)。

以上のことから、この神社の古墳が宗像君徳善の墓であると思いますか?
素人は、違うのではないかと疑ってしまいますね。
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このブログの『148光の道は弥生から』を見ていただくと、宮地嶽神社と古墳のことが分かるのではないかと思います。光の道で有名になった神社です。

さて、再度「彷徨える大国主命」の話の方へ移りましょう。

このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。大国主は関東地方の神にもなっていたのだと。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神
でした。
すると、おおなむちとスクナヒコナの神は、もとは古代宗像氏の支配地域の神だったのでしょう。(支配神でなくては、山河の名付け等できないからです)

永く神として祭られていた大国主(おおなむち)の神、しかし、歴史のどこかで主祭神ではなくなっていったようです。
おおなむち神は北部九州辺りの神だったのに、その後、何処に行かれたことになります。
古事記によると、おおなむち(大国主)は多くの妃との間に多くの子どもをもうけています。

須佐之男命の娘・須勢理毘賣(嫡妻)
八上比賣ーー木俣神
高志国の沼河比賣
宗像の奥津宮の多紀理比賣ーー阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)・高比賣(下照比賣)
神屋の楯比賣ーー事代主神
八島牟遅神の娘・鳥耳の神ーー鳥鳴海神(とりなるみ)


広範囲から妻を迎えていますね。出雲のスセリヒメ、越の国のヌナカワヒメ、宗像のタギリヒメなどなど、日本海ルートの国と深いつながりがあるのですね。そして、関東にまで手をのばしていた、ということです。

子孫も古事記で辿ってみましょう。
スセリ姫には子が書かれていません。スサノウの娘で、しかも嫡妻ですから、オオナムチ(大国主)が出雲に入るには、出雲の支配者の娘を娶る必要があったと云うことです。もしかしたら、スセリ姫は年齢が高くて子供が産めなかったのかも知れませんね。それでも、嫡妻にしなければならなかった…
この掟(慣習)は、古代国家にもその後にも受け継がれる「王権の条件」ですね。古代では、皇后には皇女でなければなれなかったのですから。


では、大国主の子孫たち、鳥鳴海神から続きます。
鳥鳴海神
と日名照額田毘道男伊許知邇神ーー国忍富神(くにおしとみ)
国忍富神と葦那陀迦神(八河江比賣)ーー速甕の多氣波夜遅奴美神
多氣波夜遅奴美神天の御仲主の娘・前玉比賣ーー甕主日子神(みかぬしひこ)
甕主日子と於加美神の娘・比那良志毘賣ーー多比理岐志麻流美神
多比理岐志麻流美神と比比羅木の其花麻豆美神の娘・活玉前玉比賣神ー美呂浪神
美呂浪神と敷山主神の娘・青沼馬沼押比賣ーー布忍富鳥鳴海神
布忍富鳥鳴海神と若盡女神ーー天日腹大科度美神
天日腹大科度美神と天の狭霧神の娘・遠津待根神ー遠津山岬多良斯神

おおなむちの神が妻を迎えた地域は、広範囲にわたりました。
途中から「天御中主神」が入ってきますね。甕(みか)・日子・天など九州に所縁の深い詞が子孫の名についています。九州の勢力が大国主の勢力に浸透していったと云うことでしょうか。
その後、オオナムチ神は摂社や境内社へと遷座されていったようです。または、名前を変えて…
時々、思わぬ場所で「大国主」が祭られている神社に出会います。
そんな小さな祠にも、村社の摂社にも、知られざる歴史の面白さを感じますね。
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(関東平野の最奥の筑波山とつくし池です。写真をお借りしました)
(古事記では、多岐理比賣がオオナムチの妻になっていますが、書紀には市杵嶋姫という一書もあります。また、宗像大社の辺津宮の女神でもあります。「宗形三女神のお仕事」で祭神はとりあげています)


今回も長くなりました。読みづらいでしょうね。
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# by tizudesiru | 2017-07-20 11:20 | 269彷徨える大国主命 | Trackback | Comments(0)


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289人麻呂が見た王朝の皇子達
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂は知っていた!
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?

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