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豊前の金村神社の桜

今回は福岡県田川郡糸田町1145の金村神社をたずねました。
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コロナ自粛のみぎり、桜を見に行けない貴方に送ります。
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金村神社は、糸田町金村1145と住所に在りました。この辺りは、金村というのです。ほかに糸田町真岡という住所もあったので、どちらが本当でしょうか。
他に金村神社があるのは、奈良県葛城市大屋213、茨城県つくば市上郷4528、だそうです。
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ご祭神は、罔象女神・金山彦命・埴安姫命です。創祀は天智天皇七年(668年)だそうです。大伴金村に因んで建立された神社です。町指定文化財である天井絵を糸田町が紹介しています。

桜は青空に美しく映えていました。
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この神社は、大伴金村が罔象女神・金山彦命・埴安姫命を祀ったということでしょうか。すると、金属生産や焼き物生産にかかわる仕事に大伴金村がかかわっていたということでしょう。次の世代になって、神祭りをしていた祭祀者が祭られるようになっていきます。
神社の祭祀は、天地創造や生産活動に関する祭祀神々に始まるのですが、そののち、祭祀を執り行っていた首長が祭神となっていくそうです。つまり、他の地域の金村神社は、ここより後の次元の神社だということですね。だって、金村その人を祀っているからです。

金村神社は糸田町の大事な民俗文化財に指定されています。
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天井絵が有名ですが、それも文久三年に頼まれて写したそうですから、もともとの絵はかなり以前に描かれていたということになります。古くなったので写して後世に残したということです。ここは昔から由緒のある古い神社だったということですね。
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ここは田川郡ですから、古代の「たかは」という地域ですね。藤原広嗣の乱のときも、田川道を弟の軍が北上したのです。古代にも官道が通っていて交通の要衝だったのです。
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古い石塔は今にも倒れそうで、支えがつけてありました。
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あたりは春爛漫、天地はあまねく光に満ちてきれいです。車の窓から写真を撮りました。橋の近くに街道の道しるべがありました。
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ここは、街道の交差点だったのです。では、また、明日。




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# by tizudesiru | 2020-04-09 20:30 | 376神社一人旅はいかがですか | Trackback

養老八年、元正天皇が譲位して神亀元年となる・家持七歳

養老八年(724)二月改元。元正天皇は甥の首皇太子に譲位したのです。
皇太子として十年、聖武天皇には長い長い待機の年月でした。天武天皇の男子が多く残る中で、首皇太子の皇統の弱さにたいする周囲の不満は根強くありました。そこは、高市皇子の男子である長屋王が左大臣となることでひとまず落ち着いたのでしょうか。
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譲位の詔勅が二月に出されることをみんな承知していました。
元正天皇は宮廷でもよおされた肆宴に臨み、詩賦を命じました。そこで、官人たちが漢詩を詠んだのです。詩に詠まれたた花は、当然ですが、梅花でした。立春からひと月ですから、さぞや馥郁として梅花の香が漂っていたことでしょう。
この時、元正天皇も、首皇太子も、長屋王も、大伴旅人も、みんな幸せでした。
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喜びに包まれて、聖武天皇は即位しました。

三月、聖武天皇の初めての行幸は吉野でした。吉野は草壁皇子の母の持統天皇が足しげく通った聖地です。

聖武天皇も、持統天皇を偲んだのでしょう。そこで、盛大な宴が開かれました。
大伴旅人もこの行幸に従駕しています。この時、天皇より勅があったので、旅人は奏上する歌を用意していました。
左大臣長屋王も、参議の藤原房前も、中納言大伴旅人も、中納言藤原武智麻呂も、みんな参席していたでしょう。
   
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315 み吉野の 吉野の宮は やまからし 貴くあらし 水からし さやけくあらし 天地と 長くひさしく かはらずあらむ 幸しの宮
  反歌
316 昔見し 象(さき)の小川を 今みれば いよよさやけく なりにけるかも

しかし、なぜか大伴旅人は歌の奏上ができなかったのでした。なぜでしょう、勅に応じていたのに。
考えられることは、二つです。誰かが横やりを入れて奏上させなかったか、読む時間が来なかったか、でしょうね。
誰かが「奏上しないほうがいい」と言ったとしたら、その理由はなんでしょう。

ここは吉野です。天武天皇が兵をあげて天智朝を滅ぼす決意をしたところです。壬申の乱は多くの犠牲者を出し、天智天皇の後継者である大友皇子は命を落としました。そのことを、藤原氏も長屋王も忘れてはいません。
その後も吉野は、あとあと皇位継承の問題が起きないように天武天皇が六人の皇子に盟約をさせたところです。天武系の皇子である高市皇子・草壁皇子・大津皇子・刑部皇子と天智系の皇子である川島皇子・志貴皇子の六人が儀式を行い、天武天皇の王子となるという誓いを立てた聖地でした。
ここは、吉野です。
聖武天皇の吉野行幸に従った長屋王は高市皇子の長子で、藤原武智麻呂や房前は天智天皇の寵臣で大友皇子について戦った藤原氏の同族で天智帝に尽くした鎌足の子孫でした。
聖武天皇は敵対した藤原氏と草壁皇子の血が流れています。高市皇子に従って大活躍をした大伴氏の子孫に歌を奏上させることに藤原武智麻呂は難色を示したでしょう。
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壬申の乱も吉野の盟約も、昔の話です。
全て過去の話ですが、吉野は過去を思い出させる聖地なのです。
そこで、房前が耳打ちしたかもしれません。「ここは、祝いの席なので過去の恨みを引き出さないように振舞っていただきたい」
せっかく楽しく宴会をしているのですから、旅人は残念と思いつつも奏上しなかったと思うのです。

そのいきさつを背負った祝い唄を、旅人は残しておいたのでしょう。だから、万葉集には記載された、ということです。
今日は、ここまでにします。


# by tizudesiru | 2020-04-08 20:40 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback(11)

そして、誰もいなかった大宰府の春・山上憶良と大伴旅人の歌碑を訪ねて

九州の四月は、クスが葉を落とし新緑がやわらかです。それで、山上臣憶良の歌碑がある太宰府市国分の天満宮を訪ねてみました。コロナのための自粛中でありますから、一人ペットボトルを持って車でのドライブです。ここには何度も来ましたが、今までも人に会ったことはありません。誰もいないのです。しかし今回、驚きました。去年まで大きく育っていたクスが全部切られていました。最近までどのクスも枝が切られてマッチ棒状態だったのに、今年は根元からバッサリでした。たぶん、落ちた葉を掃除する人がいないからでしょう。近所の神社のお世話をする老人には負担だったと思います。
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ただの空き地のようになっていました。
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寂しく、山上臣憶良の歌碑がありました。
お隣は奈良時代の国分寺の跡地です。
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この神社は筑前国分寺址に接しているので、その瓦積みの基壇が隣に見えます。横の寺院は国分寺のなごりの国分密寺です。
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とぼとぼ歩いて、太宰府天満宮に行くとやはり人はほとんどいませんでした。
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太宰府天満宮の隣の国立博物館も長く閉まったままです。
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雨の時は、特に人はいないでしょう。
令和二年四月一日は雨でした。それで、四月三日に大伴旅人の歌碑を取り直しました。
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しかし、晴れても人はいません。
この日も、外国人の二人が写真を撮っていましたが、他は誰もいませんでした。
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雨の日は、かなり寂しそうでした。
この長雨が上がる日が待ちどおしいですね。
私も誰と話もせずに写真だけ撮って帰りました。


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# by tizudesiru | 2020-04-07 17:00 | 374令和元年こそ万葉集を読み解こう | Trackback(7)

養老七年に三世一身の法制定、元正天皇は安どして吉野へ行幸した・家持六歳

養老七年(723)四月、財政難を解決するために「三世一身の法」が制定されました。果たして、生産力は上がるのでしょうか。
元正天皇は三世一身の法が定められると、安心したのか吉野に行幸されました。
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吉野行幸には、多くの官人がお供したでしょう。万葉集巻六の冒頭歌は、笠朝臣金村の吉野を祝する歌です。他にも多くの他にも歌が残されていて、ある本の歌が続きます。金村のほかに、車持朝臣千歳(くるまもちのあそみちとせ)も吉野を寿ぐ歌を詠んでいます。
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この年の二月には、沙弥満誓が筑紫に派遣されました。出家する前の名は、笠朝臣麿と麿言いました。
この人は、景雲元年(704)従五位下ですから、若くして才能が開花していたのでしょう。景雲三年から美濃守に任じられ、和銅元年(708)美濃守として従五位上に昇格し、翌年に善政を賞されています。和銅四年に正五位上、和銅六年に従四位下、和銅七年に木曽路を開通させたのでその功績をほめられています。
霊亀二年(716)には尾張守をかねました。養老元年(717)従四位上に昇格、尾張・参河・信濃按察使(しなのあぜち)となり、諸国をめぐりました。
そして、養老五年、太上天皇(元明)不予により出家したのです。それで、沙弥満誓と号したのです。
笠朝臣麿は、なかなかハンサムだったようだし仕事もできるし、とんとん拍子に出世しています。
しかし、沙弥となって大宰府に来て何をしていたのでしょう。
満誓は造筑紫観世音寺別当となったのですが、観世音寺の落成供養が行われるのは、二十数年後の事です。観世音寺はなかなか出来上がりませんでした、不思議ですね。
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養老六年は、元正天皇には安堵の年となったようです。家持は五歳になりました。

そしてようやく、首親王の即位となっていくのです。
なぜ、聖武天皇の即位までにこんなに下準備と年月が必要だったのでしょう。それは、当然、首親王では不服という勢力が強くあったからです。
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首親王の母は、藤原不比等の娘の都です。当時の社会は、母の出自も重要だったのです。夫人に迎えたのも藤原不比等の娘だったので、他の皇族の血統と比べられたのです。右大臣となった長屋王は、天智帝と天武帝の血統です。元明天皇は天智帝の娘ですから、文武天皇も天智帝と天武帝の血統になります。しかし、文武天皇は藤原宮子を夫人としたので、血統が弱くなったのです。更に、首親王も夫人は藤原不比等の娘ですから、その皇統はさらに弱くなるのです。このことが、すべての原因となっていくのです。
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首親王は二十四歳になります。もう待てないでしょう。






# by tizudesiru | 2020-04-06 21:23 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback(4)

奈良時代は財政難だったので元正天皇は悩んでいた・養老六年、家持五歳

社会科で習いましたね。奈良の都には大きな寺院や宮殿が立ち並び絵のように鮮やかで美しかったと。そして、この歌を教えられました。
あおによし 奈良の都は 咲く花の 匂うがごとく 今盛りなり
青や丹の顔料をすりつぶしてならすという、そのナラスの読みと同じ奈良の都は、まるで満開に咲き匂う桜花のように、今、真っ盛りなのです。都は遠いので大宰府からそう簡単には行けませんから、あの美しさをご覧になれないなんて…お・き・の・ど・く
実は、この歌は小野老(おののおゆ)が大宰府で詠んだ歌です。
確かに、都は美しかったでしょうね。
しかし、反面、国家の財政はひっ迫していました。財政難だったのです。国民の飢えを解消するにはどうすればいいか、元正天皇は悩んでいました。
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そろそろ首皇太子に譲位しなければなりません。しかし、財政難を解決しないまま譲位も難しいでしょう。
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そこで、良田百万町歩の開墾が計画されました。
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養老六年(722)
この年元正天皇を非難して不敬罪を問われ斬刑になった穂積朝臣老が、首皇太子の奏上で減刑され、佐渡島へ流罪となりました。
この人は朝廷に対して何を言ったのでしょう。この後、穂積朝臣老が許されるのは、天平十二年(740)ですから、十八年後のことです。
聖武天皇による大赦で赦免されて入京を許されます。十八年間もつらかったでしょうね。
天平十六年(744)、大雪が降った正月に橘諸兄らとともに元正天皇の中宮西院にかけつけ雪かきの奉仕をし、上皇の肆宴に参席しています。
そして、天平勝宝元年(七百四十九)に没しました。
穂積朝臣老は、大宝三年(703)から名が正史に在りますから、その時二十三歳くらいだとして、それから四十六年間も生きたのです、困難な時代を。
では、養老六年に不敬罪で佐渡に流されるときの長歌と反歌を紹介しましょう。

3240 王(おほきみ)の 命かしこみ 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉河(いづみのかは)の 速き瀬を 竿さし渡り ちはやぶる 氏の渡りの たぎつ瀬を 見つつ渡りて 近江道の 逢坂山に 手向けして 吾が越えゆけば ささなみの 滋賀の唐崎 幸くあらば また返り見む 道の前(くま) 八十くまごとに 嘆きつつ 吾が過ぎゆけば いや遠に 里さかり来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 剣刀(つるぎたち) 鞘ゆ抜きでて 伊香胡山(いかごやま) いかにか吾がせむ 行方知らずて 
 反歌
3241 天地(あめつち)を 嘆き乞ひのみ 幸くあらば また返り見む 志賀の韓埼(からさき)
 右二首 ただしこの短歌は ある本に穂積朝臣老が佐渡に配流の時に作る歌という

泉川とは、木津川のことです。木津川も宇治川も越えていったのですね。どんなに切なかったでしょう。しかし、年老いて都に帰り、更によぼよぼになっても、年老いた元正天皇の雪の正月を見舞い、雪かきをして、、そのねぎらいの肆宴の時、歌も詠んだのですから、すごい意志力の人だったのでしょうね。 

この時代の人の意思の強さと率直さと賢さには頭が下がります。

では、また明日。


# by tizudesiru | 2020-04-05 23:39 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback(1640)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
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113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
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116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
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131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
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140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ 
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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