宝満山・飯盛山ライン

 宝満山と飯盛山に見守られた福岡平野
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飯盛山にイザナミノ命、宝満山にイザナギノ命。これなら、地形的にも、真東の山の頂上から太陽が出て、真西の山に沈むということになる。満足の結果となる。
  特に、吉武高木の王(首長)にとって、大事なことだろう。自分の大型建物から、太陽を祀っていたなら……である。
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# by tizudesiru | 2011-10-05 20:09 | 5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本 | Comments(0)

熊鷲は、何世紀の人なのか

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これで見ると、焼けの峠古墳の被葬者は、脊振の神とは無関係と言えないだろうか。筑紫の国の真ん中に埋葬されたにも関わらず。熊鷲は、脊振の信仰があった時代の人ということになる。日本書紀編纂の八世紀には、熊鷲として、その名前らしいものが残っていた。
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更に、古処山・鷹取山の信仰のあった時代の人ということになる。
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後の時代であるが、馬見山と二か所の三奈木神社の結びつきからすると、馬見山は古くからの神の山ということになる。古処山に住んでいた(?)熊鷲は、馬見山の神を信仰していた。そこから、東の馬見山に向かって、太陽を祀っていたと思うのだが。
 日本書紀の「野鳥(のとり)のタフレ」という地名も気になる。タフレが村という意味なら、壱岐の島には、まだ『たふれ』『ふれ』が残っている。同じ文化圏だったのだろうか。
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寿命王塚古墳の被葬者が、宝満を通り脊振に向かっていたことからすると、熊鷲も同じ信仰の時代にあった。地域の王は、脊振に向かうという信仰の時代に。
 熊鷲は、弥生の信仰の伝統を受け継いでいた。最後は、「そそぎの」に敗れている。そこが雷山(そそぎ山)とすると、彼は広い支配地を持ち、筑紫の国全体で戦った事になる。数日で終わった戦いではないだろう。
 そうなると、小さな国の時代ではなく、大きな支配者がいた時代となる。それは、五、六世紀になるだろう
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馬見山の信仰は、十世紀の初めまでは残っていたと思われる。筥崎宮の遷宮は十世紀のはじめである。このことは、「神社は御神体として、山などを背負っている」と仮定し、更に、山と山との重なりが、強い霊力を生むと仮定しての説である。

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更に、おかしなことだが、馬見山・熊鷲墓・三奈木神社・(林田)三奈木神社・岩戸山古墳とつながる。熊鷲は、誰なのだろう?
 熊鷲が筑紫の王だったとすると、磐井は熊鷲を意識して自分の墓をつくったことになる。
 または、熊鷲とは、磐井の別の名だったのか。熊鷲の墓は、筑紫の王としては、あまりに小さな墓である。
 後の世の人が、過去の王の最後をしのんで、ひそかに選ばれた地に墓をつくったのかも……とか、想像してしまう。
 飛躍しすぎなので、ここでおしまい。 
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# by tizudesiru | 2011-10-05 08:34 | 11羽白熊鷲と脊振山 | Comments(0)

山と王墓の位置

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一貴山銚子塚古墳の時代この時代は、まだ宝満(かまど山)・飯盛山の力は信じられていた。弥生の神の伝統は、残っていた事になる。
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高良大社の時代高良大社の時代になると、糸島の神は、別の神に浸食されていたのだろうか。
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弥生の王たちは、いつ忘れられて言ったのだろうか。一貴山銚子塚の世紀までは、残っていたはずだが。その後、わずか二、三百年の間に消されていった……のであろう。
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# by tizudesiru | 2011-10-05 08:08 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)

熊鷲と古処山の位置

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古処山と熊鷲の墓と耳納山地の鷹取山は、一直線に並びます。
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熊鷲の墓は、脊振の真東にあります。
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古処山と高良大社を結ぶと、平塚川添遺跡の上を通ります。
 馬見山・熊鷲の墓・三奈木神社・林田の三奈木神社は、一直線に並びます。
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# by tizudesiru | 2011-10-03 20:51 | 12羽白熊鷲と古処山 | Comments(0)

筥崎八幡宮の位置

筥崎八幡宮と三郡山 
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 三郡山を通って馬見山へ届きます。
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筥崎八幡宮と宝満山
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宇美役場に重なって宇美八幡宮があります。宝満山を通って大根地山へ届きます。
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# by tizudesiru | 2011-10-03 20:16 | 4筥崎八幡宮 | Comments(0)

糸島の地図

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# by tizudesiru | 2011-10-03 14:40 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)

地図で分かる山と神社と古墳の位置

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宝満山・大城山・飯盛山
太宰府の四角形

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宗像大社のラインは、大島の御嶽から、宗像大社を通り、英彦山に届きます。 
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高良大社のライン。宝満山・宮地岳のラインは、久留米の高良大社に届きます。
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羽白熊鷲の墓の西に位置する脊振山。前方後方墳の焼の峠古墳は、位置的にずれるので、脊振山を背負った首長ではないでしょう。
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# by tizudesiru | 2011-10-02 23:25 | 地図のたのしみ | Comments(0)

最近、国内最古の出土物が続きます

やはり、北部九州に出ましたか!
西日本新聞記事 2011年9月22日(木)
最近、宗像で出土した「鉄てい」も、国内最古とか。他にも、縄文の櫛も最古だったように記憶している。しかし、暦とは、面白いです。
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使われた漢字から、時代や地域が特定できませんか?
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 また、大和王権からの下賜ですか。この被葬者の立場を示す明確な証拠があるのでしょうか。この被葬者が、九州の勢力とどのようにつながっていたかを示すような、そんな資料はないのでしょうか。
 期待しますね。
 
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# by tizudesiru | 2011-09-30 21:40 | 31国内最古の暦が刻まれた太刀 | Comments(0)

地図を歩く

あなたは旅好きですか
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あなたは九州を旅したことはありますか。ここは佐賀県唐津市。唐津湾に浮かぶのは、高島、奥に大島。長い平たい島は、神集島。
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今では陸地になっているけれど、唐津平野は決して広くはありません。
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松浦川が流れています。ここは、弥生時代に末蘆国と呼ばれたところです。
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 この丘は、久里双水古墳です。なぜこの古墳はココに造られたのでしょう。平野も大きくないこの地方に。
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古墳の上に登らせてもらうと、浮嶽が山頂をのぞかせています。この古墳の縦の中央線上に、見える山は浮嶽。山頂に浮嶽神社があります。
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古代の人は、どんなことを考えてココに墳墓を造ったのだろうと、ついつい考えます。しかし、誰も教えてくれません。それで、地図を開くのです。
もちろん、そこに答えが書いてあるわけではないのですが。


始めたばかりで、分からに事だらけですが、よろしくお願いします。
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# by tizudesiru | 2011-09-30 15:36 | 初めての地図旅 | Comments(0)

地図で遊ぶ

1 大宰府・都府楼跡の東西南北 
大王の遠の朝廷とあり通う島戸を見れば神代し思ほゆ
万葉集「柿本朝臣人麿、筑紫に下りしとき海路にて作れる歌二首」のうちの一首である。何度も目にし、耳にした万葉秀歌だ。「大王のおいでになる処からは遠い朝廷である筑紫に通う時、島がまるで戸のようになった出入口を見ると、神代の事を思う」と、なるのだろうか。人麿はどんな用事で、筑紫まで来たのだろう。現代でこそ関東や近畿から九州へ転勤させる会社はたくさんあるが、古代にそれが簡単に出来たとは思えない。しかし、困難な旅行しかできなかった古代にかなりの官人が地方に国司として出かけている。
ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも我は忘れじ志賀の皇神
これも万葉秀歌で、博多湾の入り口の志賀海神社に歌碑がある。鐘崎にも志賀島にも尊い神がおられたことになるのか。志賀島は、金印が出土した所でもある。歴史の中の筑紫や志賀島は、どんな姿で昔の人々の目に映ったのだろうか。古代の人は九州の山川をどんな思いで眺めたのだろう。

 古代の官人は大宰府で仕事にあたっていた。福岡県太宰府市の政庁跡(都府楼跡)に立つと、北に山が迫って見える。眼前に折り重なって見える山は、地図で調べると大城山(大野山)である。四王寺山ともいい、朝鮮式の山城である大野城が造られている。白村江(663年)の戦いの後、急いで造られた山城であり、高床式の倉庫跡や百閒石垣などが残っている。この大城山の頂上は、地図上では都府楼跡の真北になる。地元のボランティアの方の説明によると、大宰府政庁は風水にかなっているそうだ。四王寺山は、政庁を守る山である。

都府楼・大城山を結ぶ直線を地図上に南北に延ばしてみた。北に延びた直線は、五万分の一の地図上の猪野の伊野天照皇大神宮(貝原益軒が参拝し縁起を草し寄進した)の辺りを通る。
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(猪野天照皇大神宮)
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 辺りというあいまいな表現は、この神宮が洪水などにより現在の場所に拝殿が移ったことによる。以前は猪野川のほとりにあったのである。南北直線を北へ延ばすと宗像大社まで達する。
南に伸ばした直線は、佐賀の田代太田古墳(国指定史跡)か、安永田遺跡(弥生の祭祀遺跡があるらしい)の上を通り、

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田代太田古墳

筑後の石人山古墳(国指定史跡)の上を通り、山門郡の女山神籠石の上を通るようだ。歴史上の建造物や山が一本の直線上に並ぶといっても、ひとつひとつは遥かに離れいくつもの市町村をまたいでいる。南北を意識した土木工事をしたとしても、それは何の為だろうか。南北だけでなく東西を反映した遺跡や建造物が確認できるだろうか。もし、東西ラインがあるなら、稲作文化として入ったものだろうか。南北なら、何だろう。北天は天子の象徴である。それは、易や風水と関係するのだろうか。興味が湧いて来た。

五万分の一の地図上で直線を引けば、一ミリずれても実際は五十メートルずれることになるから、地図上の地点が直線で結べても眉唾物と思わなくてはならないだろう。そうは思っても東に直線をひくと、都府楼の真東には大分県宇佐市の宇佐神宮があった。都府楼の東に数百メートルで大宰府天満宮があるが、この辺りを、昔から宰府という。この真東に宇佐神宮があるようだ。他にも同じような例があるだろうか。
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(宮地嶽神社)
試しに、宮地嶽神社(巨石の横穴式石室を持った円墳で、国宝の太刀(125m)を墳丘に埋納した古墳がある)から真東に直線を引くと、四国の石鎚山を横切り紀伊半島の熊野(河原の大祓)に達する。これは、国際地学協会の地図帳を使って、緯度を調べながら直線を引いたのだが、それは和歌山県の熊野本宮大社の大斎原の辺りを通るとしか言いようがない。大斎原が洪水で流される前の熊野本宮の地であったとか。なるほどと、一人納得してしまう。が、考えてみると、宇佐も、大宰府も、熊野も、いずれ劣らぬ有名な神社である。宗像大社も宮地嶽神社も国宝の宝物で有名である。これらの有名な神社が東西南北の直線で結びつくとかありうるのだろうか。

測量の面からも、神社の祭祀の始まりの面からも、人々のつながりの面からも、ありえないとは思いつつ、空想しながら地図を見るのもなかなか楽しいものである。神社や、古墳が、何故、その土地に残っているのか、その場所が選ばれたのか。理由や経過があるはずだ。言い伝えは何もないのだろうか。祀られた神は、どなただろう。共通点や結びつきはあるのだろうか。知りたい事が膨らんでいく。

疑問を持ったまま、地図を眺め、直線を引くうちに、面白くなって来た。もちろん、まったく知らない土地は、地図だけではイメージがつかみにくい。行って確かめることのできる身近な地域を選んで調べ歩いた。それだけなので、大きなことは言えない。が、古代の人がかなり正確に位置関係を知る方法や技術を持っていて、それを使っていたのではないかと、だんだん思えて来た。地図とは、なんと面白いものだろう。人の暮らし方や歴史がその中に見える。まだ知らない事がそこに潜んでいる。歴史の真実もきっと隠されているだろう。これまでも地図を何冊も買っている。ページを開くたびに別の世界が展開する。 
 そもそも東西南北の測量は、いつから始まったのだろう。
 『日本書紀』巻第七の成務天皇(稚足彦天皇)の段に、東西南北についての記述がある。「国郡に造長を立て、県邑に稲置をおき、それぞれに盾矛を賜って印とした。山河を境として国県を分け、縦横の道に従って村を定めた。こうして、東西を日の縦とし、南北を日の横とした。山の南側を影面、山の北側を背面と言う。これによって人民は居に安んじ、天下は無事であった。」(宇治谷孟著『日本書紀上』より)縦横の道に従って村を定めたとは、何らかの測量の痕跡を感じさせる。

しかし、『古事記』の成務天皇の段は、記述も極端に少なく「武内宿禰を大臣として、大國小國の國造を定めたまひ、また國國の境、また大縣小縣の縣主を定めたまひき」とかかれている。東西南北についての記述はない。また、地方の長に盾と矛を与え、その証とした事も『古事記』にはない。日本書紀の編者は、成務天皇を矛の文化圏の人として描いている。弥生の銅鐸文化圏ではないと教えているのだろうか。山河を国縣の境とし、東西を日の縱としたのは南北より重んじていた為だろうか。

日本には、自然や地形と結びついた地名が多い。昔から生活の中に、自然や地形が深く入り込んでいたのだ。地図とは面白いものである。土地の歴史や、人の考え方や、生活の仕方を想像させてくれる。
日本に住む人は、ほとんど遺伝子の中に「おてんとうさま」を拝む感性を持っているようだ。東西南北がどの方向か生活の中で知っていた。農業が始まると、何よりも春の訪れを知るために、真東の方位は大切になったと思われる。太陽の位置と方位、それと地形が結びつくのは、自明のことであろう。地名にも、西、東など付いた所がたくさんある。特に、山川はどの時代の人間にとっても大切なものだった。

明治まで登山を楽しむ事もなく、山を神の坐す処として、畏れ崇めてきた。人がその山をどう思って暮らしてきたか、それぞれの山の名に残されている。谷も、川も、平地も、地名は過去を反映している。そして、地図は地方の歴史を反映しているのだろう。 


参考資料として
*南北線(東経で表現。国土地理院・地図検索ホームページの地図上にカーソルを当て、経度を検索したもの。検索する位置で若干の数字のぶれがあるとおもう大宰府政庁跡中心(東経130度30分53秒)
大城山=大野城=四王子山(東経130度30分50秒)
宗像大社(東経130度30分50秒)
現・猪野皇大神宮(東経130度30分43秒)*水害で場所移動後
猪野皇大神宮門前・川岸(東経130度30分50秒)
安永田遺跡(東経130度30分51度)
田代大田古墳(東経130度30分55秒)
八女石人山古墳(東経130度30分59秒)
女山神籠石(東経130度30分47秒)
屋久島・翁岳(東経130度30分45秒)
屋久島・宮ノ浦岳(東経130度30分15秒)

*東西線(緯度で表現。国土地理院地図検索を利用したのも)
大宰府政庁跡(北緯33度30分53秒)
大宰府天満宮本殿(北緯33度31分16分)
大宰府天満宮裏庭の神社(北緯33度31分23秒)
宇佐神宮本殿(北緯33度31分24秒)

宗像大社本殿(北緯33度49分52秒)
熊野大社・大斎原(北緯33分50分2秒)
熊野大社・本宮(北緯33度50分24秒)
宮地嶽神社(北緯33度46分48秒)
石鎚山山頂神社(北緯33度46分8秒)
石鎚山成就神社(北緯33度47分24秒)
*こうして見ると、宮地嶽神社のラインは、大祓まで届くにしても、宗像大社と熊野大社は東西の線でつながるんだという、新しい発見におどろくばかり……
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# by tizudesiru | 2011-09-30 00:59 | 1大宰府の位置 | Comments(2)

竹原古墳

2 竹原古墳に東西線は見られるか
 古代の人は、山当てをして道を作っていたそうである。古代の官道は、道幅も広くかなり真っ直ぐである。山々は太陽と違って動かないから、方向をつかみやすかっただろう。  
 この山当てを使って墳墓や神社も造られたと思われるものを地図で見つけた。
 福岡県立図書館の二階への階段踊り場の壁面には、装飾古墳である竹原古墳の玄室の壁画のパネルが掛けられている。この福岡県宮若市の竹原古墳は、測量されたことが感じられる円墳である。国指定の装飾古墳でもある。
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(住宅の裏の岡にある竹原古墳)

6世紀後半築造の円墳。玄室、前室、羨道で構成され、勾玉・金環などの装飾品、馬具、鉄製武器などが出土している。玄室の奥壁と前室の袖石にベンガラと炭で絵が描かれている。奥壁に、さしば、龍、三角連続文、船、馬を牽いた人物、波形文、月などが描かれている。波や、さしばは、よく判る。袖石には玄武と朱雀が描かれているらしい。石室の中を見せてもらったが、素人には絵の判別が難しいものもあった。絵の解釈として、四神信仰・龍媒信仰など考えられるそうだが、北には玄武ではなく龍が描かれている。

 この竹原古墳は、宮若市の里山である天の坊(266m)からのびた丘陵の先端に乗っている。竹原古墳と天の坊山頂を地図上であるが、直線で結んでみる。直線を二等分する点に垂直の線を引くと、一方は北の靡山山頂(296m)に、もう一方は南の間夫山頂(508m)に届く。試しに引いた直線が、二つの山頂をつなぐのは偶然とは思えない。ここで古墳・なびき山・天の坊を頂点としてつなぐと三角形が出来る。次に、なびき山を間夫に変えて、古墳・間夫・天の坊を結ぶ三角形を作る。大きさは違うが、どちらもきれいな二等辺三角形になる。竹原古墳を築造するとき、山当て測量をして位置を決めたのだろうか。測量に利用しているのは、どうやら三角形だ。東西南北のラインは使われていないようだ。

天の坊と、竹原古墳は、東西ラインになっているのだろうか。天の坊は、竹原古墳の真西ではない。真西に当たるのは、天の坊の隣の春山(333m)である。昭和49年の国土地理院の五万分の一の地図には、春山と書かれている。が、改訂版の平成2年では、雁城と変わっている。同じ山でも呼び名が変わるのだ。春山という役目が終わったのだろうか。春山・竹原古墳の直線を更に西に延ばすと、古賀市の天降神社に当たる。あもり神社と呼ぶようだ。
竹原古墳の緯度が、北緯33度43分59秒。
春山山頂が、北緯33度43分58秒。
天降神社が、北緯33度43分59秒。

ほとんど一直線、きれいな東西線が出来る。両者は地図上で十六センチだから、直線距離にして実際は八キロあまり離れている。
 天降神社は、いつどのようにして建てられたのだろうか。古賀市の薦野(こもの)にあるこの神社を尋ねてみると、説明の建て看板があった。
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 「1305年に、古野からこの地に移した」とあった。古野にあった神社を、領主の薦野氏がこの地に移した。薦野氏もこの地の名をとって、氏名としたようだ。土地の霊力を借りたいのだろう。七百年前の人々は、この地が竹原古墳の真西であることを承知していたのだろうか。少なくとも七百年前の人々は、目前に立ちはだかる山の向こうの小さな古墳を知っていただろう。薦野から全く見えない春山は、春分秋分の日に太陽が昇る山であり、宮若市側からは太陽が沈む山だったのである。中世の武士にとって東西線上の古墳と山は、霊力の強いものだったのだと思う。

 天降神社の氏子は、米多比・薦野・舎利蔵の人々である。ご祭神は、大己貴神・スサノウ尊・少彦名神である。「太宰府管内志」にも神社名が見えるという。
 天降神社の近くを通る人に、元宮の古野を聞いてみた。答えは、「知らない」だった。地図やパソコンでも調べたが、近くに古野という大字はなかった。小字も見つからなかった。そもそも神社を遷すことに、どんな目的があったのだろうか。強い指導者が候補地を選択したり、一族の繁栄のために祀りを取り行ったり、大変だったはずである。中世の薦野氏はこの地の領主として、神の力を借りなければならなかったのだろう。中世の武士の多くが山城を作った。生死をかけた戦乱に巻き込まれた彼らは、神仏に深く帰依している。薦野氏も、この地で清滝寺と天降神社を支えた領主である。

 山頂をつないでできる三角形を使って、ほかにも測量したと思われる点がある。
 天降神社からなびき山までの距離と、天降神社から間夫までの距離はほぼ同じである。ほぼ八キロ強だから、神社と竹原古墳までの距離に近い。なびき山頂・天降神社・間夫山頂の三点を結ぶと正三角形に近い三角形が出来る。地図上の天降神社から、なびき山頂・間夫山頂を結ぶ辺に垂直な線を引くと、底辺を二等分する。しかも、この二等分線は、天降神社の南(やや西より)に見えるかわいい三角形状の「城の山」山頂を通過していく。山頂をつなぐ直線は、目測しやすかったのだろうか。この山頂は、薦野氏の山城である。

 天降神社を頂点とした三角形の中には、宮若市の人ならたいていは知っている西山連山が入る。一番高いのが、西山(644m)で、レーダー基地がある。
この西山は、この地区にとってどんな意味を持っているのだろう。宮若市の若宮地区には数多くの古墳があるが、竹原古墳から一キロばかりの平地にも剣塚古墳がある。この古墳と西山との距離、西山と間夫との地図上の直線距離は、ほとんど同じである。きれいな二等辺三角形が出来る。西山と間夫から流れてくる二本の川の合流点に、この古墳は造られている。西山はこの地域の大切な山だったはずで、西山・剣塚古墳のラインには大きな意味があったに違いない。そして、西山・間夫ラインもなかなか思わせぶりである。西山・間夫ラインを五、六キロ延ばし南下していくと龍王山(615m)山頂に届く。(このラインは後に再び登場する)また、西山・間夫ラインが北上すると、宗像市の桜京古墳にぶつかるようである。日本中古墳だらけである。犬も歩けば棒にあたる。そういう結論になるのだろうか。それとも、古代の人は、山をつないだライン上に墓や神社を造ったりして、何か山の力のようなものを引き出そうとしたのだろうか。

宮若市の古墳は、山当てで三角形を作りながら建造された。と、なると、東西南北のラインは此処にはあまり必要なかった事になる。中世の薦野氏がわずかに東西ラインを意識したようであるが。

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# by tizudesiru | 2011-09-29 19:57 | 2竹原古墳 | Comments(0)

間夫という山

3 間夫という不思議な山 
 間夫は、すでに登場した山の名であるが、最初は読めなかった。
 福岡県宮若市の地図を開いた時、初めて間夫にぶつかった。山の名であるが、読みが分からなかった。カンブ、マブ、いずれにしても名づけの由来が想像できない。遊女の情夫をマブというようだが、そんなキワドイ名前をつけるには、面白い伝承などあるかも知れない。間夫の麓に湧く脇田温泉を楽しみながら、調査を開始した。

然し、私が尋ねた脇田の人は、誰一人「間夫」を知らなかった。名前も位置も。犬鳴峠を超えて福岡方面から宮若市に入るとき、カーナビにも間夫の名が出る。確かに、脇田温泉の背後の山である。国土地理院の地図には、麓に「裏の山」や「大道」などの集落名もみえる。大道とは、昔の官道の事ではないか。この山の中を官道が通っていたのだろうか。車で犬鳴トンネルを出ると、右手に三角形をした大きな山が見えるのだが、それが間夫である。宮若市に入ると山の形は、方向が変わるために台形に変化する。

  脇田を過ぎると、やがて田んぼの中に小高い社の森が見える。由緒ありげなので立ち寄った。散歩中の老婦人に尋ねると
「これは、古墳じゃありません。黒水(高水)神社です。山の上にあった様々な社も降ろしてきて一緒に祀っています。若い人は忙しくて手が届きませんから。」
と、答えられた。山中の社を合祀しているそうだ。ついでに間夫のことも聞いた。
「山の名は、まぶです。昔から間夫の右に雲がかかれば昼から雨になるし、左に雲がかかれば晴れてくると知っていたので、一日の仕事の計画をしたものです。」

間違いなく間夫は、まぶだった。そして、人の暮らしと結びついた山だった。山の名の由来については聞けなかった。若宮地区の西側に台形に座っている大きな山の存在が、地域の人々に忘れられかけているのが残念だった。それにしても古代の測量に使われていたらしい間夫は、どういう意味を持っているのだろう。古代にそういうスキャンダルがあったのだろうか。それらしき人物の伝説は残っているのだろうか。私が思いついたのは、武内宿禰である。巷には様々な事が言われているようだ。でも、まさか。間夫は言葉として新しいではないか。古代に間夫とは言わなかっただろう。  

  次に、『夫』を『分』に勝手ながら入れ替えてみた。間分だったのではなかろうか。これなら、測量用語のような気もする。ほかの山地のように、固有名詞の下に山や岳が付かないのは、山以外の役目があったからではないか。間夫は鉱夫か、鉱山の坑道の入口の意味もあるそうである。鉱山があった山なのだろうか。ともかく間夫なのである。
  間夫は、山の他にも何かの役目を果たしていたと、この時点で私は思った。

  間夫が、天の坊やなびき山や竹原古墳、西山や剣塚古墳などの位置と深いつながりがあるらしいと思ったが、龍王山との関係が新たな疑問となった。また、剣塚古墳から間夫山頂を通り更にラインを進めると、宇美八幡(神功皇后が応神天皇を生んだ伝承あり)の上宮(奥宮)神領古墳に届く。宇美八幡本宮や大きなクスの神木とはややずれるのである。

剣塚古墳築造の頃は、宇美八幡宮は存在していなかったのかも知れない。この神領古墳は、五世紀初めの円墳らしい。古墳が宇美公園内に四基ほどある。円筒埴輪や勾玉などを出土している。更に宇美には、光正寺古墳がある。三世紀の前方後円墳であるが、間夫と竜王山ラインからは、かなりずれている。そうならば、このラインはただの妄想だろうか。
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宇美八幡宮
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 改めて地図を広げてみると、穂波町に大分(だいぶ)という地名がある。町名は、神功皇后が、豊かに実った稲穂が揺れるのを見て、『穂波かな』と言った伝説に由来する。

大分とは、三韓征伐から帰還した皇后が、兵士達と別れた処であるという。それで、その地を「大分」と呼んだという地名譚も残っている。間夫が測量用語と仮定すると、この大分という地名も測量用語ということだろうか。然し、大分には別な解釈もあるらしい。大分宮を訊ねてみると、以前は相当賑わいを見せたらしい事が、案内板に書かれている。宮の裏は宮内庁の管轄の陵墓指定を受けていた。
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(大分八幡宮と門前の杯状穴・なぜかしめ縄が張られている)
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近くには、大分廃寺という新羅系の寺院跡もある。大分八幡宮とは、ほぼ緯度は同じである。
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  穂波町の大分(だいぶ)八幡神社は、三大八幡宮の筥崎八幡宮の元宮であり、同じく大分県の宇佐神宮の本宮である

『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、築上郡椎田町の矢幡八幡宮(金富神社)が八幡神顕現の霊地であり、穂波町の大分宮が本宮
であると書かれているそうである。三大八幡宮の元宮、本宮となると、これは、由々しきことではないか。この時点では、このまま先には進めなかった。
竹原古墳→天の坊→なびき山(三角形)
竹原古墳→天の坊→間夫(三角形)
 竹原古墳→春山(雁城)→天降神社 *東西の直線で結ばれる
 竹原古墳→間夫→鉾立山→大城山(太宰府)→九千部(脊振山地)*直線で結ばれる
天降神社→なびき山→間夫(三角形)
間夫→剣塚古墳→西山(三角形)
剣塚古墳→間夫→宇美八幡 *直線で結ばれる
桜京古墳?→西山→間夫→龍王山 *直線で結ばれる
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# by tizudesiru | 2011-09-28 23:30 | 3間夫という山 | Comments(0)

筥崎八幡宮

4 筥崎八幡宮
 福岡市東区箱崎に官幣大社の筥崎八幡宮がある。参道から社を見ると、鳥居と本殿の間に、三郡山(三郡山地の最高峰936m)の山頂が三角形に見えている。あまりにきちんと頂上が社殿屋根中央に来るので、以前から気になっていた。筥崎宮と三郡山とは、何らかの関係があるのだろうか。

縁起をみると九二三年に大分八幡より遷宮となっている。山とのかかわりは何もない。遷宮が十世紀なら、神社の中では古い方ではないだろう。しかし、筥崎八幡は延喜式に名を連ねる由緒ある神社なのである。

九〇五年に醍醐天皇
の命により延喜式の編纂が始まり、奏上が九二六年で、施行されたのが九六七年。延喜式に名を残す神社を式内社というが、当然ながら近畿の神社が圧倒的に多い。筑前の神社で式内社として名を残しているのは、十三社という。神社としての格式を認められているのは、中央とつながりを認められた何らかの理由があるのだろう。
筑前の国の式内社は次の通り

   宗像神社(宗像市沖ノ島・大島・田島)
   織幡神社(宗像市鐘崎)
   八幡大菩薩筥崎宮神社(福岡市箱崎)
   住吉神社(福岡市住吉)
   住吉神社(福岡市若久)
   志加海神社(福岡市志賀島)*志賀海神社)
   志登神社(糸島市志登)
   筑紫神社(筑紫野市原田)
   竈神社(太宰府市内山)
   麻テ良布(マテラウ)神社(朝倉市杷木)
   三奈宜神社(甘木市林田)
   三奈宜神社(甘木市荷原)
   於保奈牟智(オホナムチ)神社(朝倉市三輪)*大己貴神社


  何を調べても、山とのかかわりを書いたものは出て来ない。なぜ三郡山を社の背後に頂くのか、それを知りたくなった。それで、地図を広げた。
 筥崎宮について『応神天皇の胎衣を箱に収め川に流し、流れ着いたところに埋めた。そこに、松を植えた。だから、靴箱の箱ではなく、玉手筥の筥の字で筥崎宮という』との言い伝えを神社の近隣の人から聞いたことがある。社伝にも「応神天皇の胎衣を箱に入れ収めた地に松を植え、しるしの松とした」と書いてあった。それで、筥松と呼んだとも。筥松は、御神木として本殿右前に今も名残がある。筥松の地名は、「社領」と共に「筥松」として筥崎宮の南の宇美川沿いに今も残る。筥崎宮の裏(南に二、三百歩離れている)を流れるこの宇美川の上流に、神功皇后伝説の「応神天皇出産の地」宇美八幡はある。

試しに、筥崎宮本殿と宇美八幡を直線で結んでみる。直線を伸ばすと三郡山からずれて、同じ山地の宝満山上宮(829m)に届く。更にのばすと、大根地山頂(652m)に届く。三か所の神社がつながれる。

また、拝殿屋根に三角に付き出て見える三郡山と筥崎宮本殿を結ぶと、遠く朝倉の馬見山山頂(978m)まで直線が延びる。こんな偶然もあるのだ。

宝満山と三郡山、これらの山は、お互いに何か関係があるのだろうか。
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筥崎宮のご祭神は、応神天皇・神功皇后・玉依姫となっているので、同じ御祭神を祀る宇美八幡と直線で結ばれるのは納得できる。さらに、筥崎八幡と宇美八幡を結ぶラインは、宝満山頂に伸びている。しかし、筥崎宮が背負う山は、宝満山ではなく三郡山である。どうもしっくり来ない。更に大分八幡との地理的なつながりが見当たらない。ラインはただの偶然かと、再び思う。

  あえて大分八幡と三郡山山頂を直線でつなげば、行先は大きく外れ、大宰府の観世音寺のあたりに届く。何の脈絡もなくその地点で直角に右に折れると、筥崎宮本殿に届く。三郡山と大分宮とつなぎ筥崎宮に届くには直角に曲がる他はない。しかし、直角に曲げる意味も思いつかない。
箱崎宮は元々大分宮の頓宮であった。延喜二十年(921年)、託宣が降り、現在地に新宮を営むことになったという。大分宮では三悪があるという理由だった。
三悪とは、次の三点である。

一に、節会に参来する府官人の行路にある伯母竈宮(宝満の竈神社)に不敬であるため
二に、険阻な山越えのため、饗応の郡司百姓が苦しんでいるため
三に、放生会は海上で行われるべきで、山間部の大分宮では不適当


古代の国司の赴任後の初仕事は、赴任国の全ての神社への参拝であったという。太宰府から大分宮への道は、確かに難儀したであろう。しかし、である。頓宮であった筥崎宮が、何故、式内社となりえたのであろうか。九二一年に醍醐天皇から『敵国降伏』の辰筆が与えられ、遷宮は九二三年である。

この天皇の命により延喜式の編纂が始められ(905年)、奏上が九二七年、施行が九六七年。三代格式の一つという国の組織や法をまとめた延喜式に、筥崎宮の名が出ている。仲哀天皇の崩御の地と伝わる香椎宮も、巨石の横穴式石室を持ち、国宝の太刀が墳丘に埋められていた円墳もあり、由緒もある宮地嶽神社も選ばれてはいない。神名帳に載る二八六一社は、祈年祭奉幣を受けるべき、当時の朝廷から重要視された神社なのである。そうであっても、「敵国降伏」の辰筆を頂いたとはいえ、新参の神社を式内社にするだろうか。出された辰筆が何故「敵国降伏」なのか、政治的状況の反映だったのか、理由はわからないが。何の由緒もない場所だとしたら、新しい社殿を建てるだろうか。

ふらりと筥崎宮に参拝してみると、御神木の筥松が瑞々しい緑を湛えている。本殿の裏地に末社が左右にある。
東末社には、稲荷社、住吉社、乙子殿、武内社、池島殿
西末社には、民潤社、厳島社、仲哀殿、若宮殿、龍王社
バラエティに富む社の数々である。家に帰って、地図を広げると、筥崎宮の真東に穂波町の龍王山(615m)がある。西末社に龍王社が祭られていた。何か関係があるのだろうか。この時点では、龍王山には大きな意味は見出だせない。しかし、地図上では本殿の真東に龍王山の山頂が来るのだ。これは見逃せない。春分秋分に決まって太陽の昇る山を、昔の人は祭らなかったのだろうか。図書館で穂波町について調べてみる事にした。

 龍王山には、伝説が残されていた。穂波の人々は、水を抑えた龍に毎年田植えの水を貰う為、龍を怖れ人身御供も行われたとか、龍王山には鎮西八郎為朝の矢で昇天した龍が住んでいたとか。山頂には「龍王神社があり、昔この一帯で大干ばつがあり、村人が神前で酒を供え、かがり火を焚き太鼓をたたいて一昼夜交代でお籠りを続けたところ俄かに雨が降って村人が助かったとかいう様々な伝承。穂波の人々は、博多へ出る近道だったにも関わらず龍王山の傍を通るのを恐れたそうである

 ここで、私の中に生まれたのは新たな憶測だった。筥崎八幡宮では、九二三年以前は龍王を祀っていたのではないだろうか。社殿も東を向いていたのではないかと、勝手な憶測である。

 そういう由緒ある場所だったからこそ、同じ穂波の大分宮を遷宮し式内社にもなれたのではないか。では、龍王社はどんな霊力を持つ神として祀られたのだろうか。龍王だから農耕の水を守る神、または、海上交通の安全を守る神だったなら、自然と龍王山と結びつく。太陽が真東の龍王山から昇り、真西の能古島の城ノ浦に沈む。太陽信仰の地であり、海上交通の神を祀る地であるとしたらどうだろう。そう仮定すると、漁師町の箱崎に宮が造営されても理解できる。それが、穂波の大分宮遷宮の理由になった……

そう仮定しても、九州に龍王山・竜王山の名を持つ山は少ないのだ。福岡県一ヶ所、大分県二ヶ所、熊本県一ヶ所(竜王山古墳)である。ちなみに岡山県二十二ヶ所、広島県十三ヶ所で、圧倒的に関西・中国・四国が多い。龍王山以前は、別の名だった可能性が強い。太陽信仰の山としても、龍王山という名は他の文化圏のものであろう。政変があった時、入って来たものであろうか。また、古代の豪族が山を御神体として頂くとき、どんな山を対象に選び信仰するのだろう。新たな疑問が浮かんできた。地図を使って、山と神社(信仰)の関係が他にも見つかるだろうか。
筥崎八幡→宇美八幡→宝満山頂神社→大根地山
筥崎八幡→三郡山→馬見山
筥崎八幡→(真東)龍王山

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# by tizudesiru | 2011-09-27 00:18 | 4筥崎八幡宮 | Comments(4)

弥生王墓・吉武高木と須玖岡本

5 弥生王墓・吉武高木と須玖岡本 
古代の信仰は見える形では残っていないだろう。そう思いながら、やっぱり地図を開いてみる。福岡平野の北には博多湾。平野の周りは山波である。南に脊振山地。東に、三郡山地。太宰府の鬼門に位置するという宝満山は、東の三郡山地の西端に位置する。以前は三笠山、または竈山と呼ばれていたという。

貝原益軒の『筑前国続風土記』によるが、『この山は国の中央にありていと高く、造花神秀集まれる所にして、神霊のとどまります地なれはにや筑紫の国の総鎮守と称す』と
書かれている。神仏習合の時代になって、宝満と名を変えたようである。三笠の森や三笠川に、いにしえの名をわずかに留めて。
 
宝満山は、明治になるまで英彦山、求菩提山と並ぶ修験道の聖地であった。盛時は僧坊三百七十を数えたという。近くには三郡山もあるが、花崗岩の急峻な宝満が好まれたのだろうか。宝満山・三郡山・砥石山(828m)・若杉山(681m)は、山歩きに慣れた人のハイキングコースである。若杉も、山岳信仰と結びついている。

 はるか昔の人々はこの山をどう思っていたのだろう。三郡、宝満、若杉のそれぞれの山頂から福岡平野を横切るラインを真西に引いてみた。この東西ラインが突き当たる山頂はあるだろうか。真西にある山で、しかも山頂が来なければならない。宝満山頂神社からのラインは、福岡平野の西、早良区の飯盛山の山頂に届いた。
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(飯盛山東側麓の飯盛神社)

 宝満山頂にあるのは、竈神社の上宮である。竈神社の神は、初めに上宮に降りたとか。ここが、竈神社の本宮であるという。

 この宝満山頂神社からの東西ラインに、二つの大きな弥生遺跡が乗っていたのである。
五万分の一の地図の上に、赤ボールペンで直線を入れてよく見ると、赤のラインは春日市の須玖岡本遺跡の上を通っていた。有名な弥生王墓である。三十面以上の舶載鏡を持つ。この時期の墳墓の中では、圧倒的な漢鏡の数である。ここの王墓の近くには熊野神社があり、ほぼ東西に並んでいるようだ。
そして、宝満山頂神社の真西、福岡平野の西奥に吉武高木遺跡がある。

 吉武高木遺跡は福岡市早良区の遺跡であるが、早良王墓として脚光を浴びたことがある。弥生の墓である。鏡・玉・剣を副葬していることで、三種の神器の発祥地ではないかと話題になった。しかし、近畿辺りでは三点を副葬した墓が出ないので、最近は三種の神器は考慮に入れず大和王権の発祥の地を考えようという動きになっているようであるが、当時は大きな発見だったのである。この王墓は甕棺群の中にあって木棺であり、鏡は多紐細文鏡である。朝鮮半島と関係の深い鏡だそうである。紀元前二世紀から二百年あまりの間、力をもった人々の墓地なのである。高殿の柱あとも見つかっている。祭祀をした建物と考えられているようだ。

 弥生の墓地から考古学上の様々なことが分かるが、墓地として選ばれた場所にも注目しなければならないだろう。遺跡の背後は飯盛山頂。山頂の東の麓に、飯盛神社がある。吉武高木の王墓は、東の宝満山と宝満神社、西の飯盛山・飯盛神社に挟まれているのである。(ここで、勝手に王墓と書いているが、王とは中国から認定された役職のようなもので、王墓と呼んでいいかわからないが、素人なので王墓と使っている)

 両方の弥生王墓は、無関係なのだろうか。それとも、お互いに意識し合っていたのだろうか。北部九州の弥生の王が、同じ東西のラインの中に眠るとは。吉武高木と須玖岡本では、前者の方が古い王墓となるが、後者の方が鏡の数は圧倒的に多い。早良地区が衰えた後、春日地区が栄えたらしい。前者は後者に吸収されたという説も聞く。

 更に驚いた事に、宝満・飯盛ラインを西に延ばしていくと、飯盛山を越えて伊都国に入り、三雲南小路王墓を通過する。ここも多くの副葬品を持つ王墓である。三十五面の漢鏡だけではなく、中国から王候クラスの者に贈られたガラス璧を出土している。中国製のガラス璧を副葬した王墓は、須玖岡本、三雲南小路、それに福岡県夜須町の峰遺跡が有名である。

 宝満・飯盛ラインは、弥生時代の聖なるラインだったのではないか。

 このラインを、更に西に延ばしてみた。すると、四世紀後半に造営されたという、一貴山銚子塚古墳に届く。伊都国(糸島地方)で一番大きい前方後円墳(103m)である。この古墳は十面の銅鏡を副葬し、そのうちの二面は中国製で被葬者の頭部近くに置かれていた。残りの八面は三角縁神獣鏡で、棺の左右の側縁に四枚ずつ置かれていたのである。この古墳が造られた頃は、三角縁神獣鏡の勢力圏に組み込まれていたのだろう。それでも、この地域の人は、宝満・飯盛ラインにこだわって一貴山銚子塚墓を造った。王墓ラインを意識していたのだ。
 宝満山→大城山→須玖岡本→吉武高木→飯盛山→三雲南小路→一貴山銚子塚

 この時代、弥生時代、宝満山を中心に一つの文化圏が出来ていた。地域により盛衰はあるが甕棺文化圏であろう。そうなると、宝満山(三笠山)は、王の魂が集まる山とならないだろうか。祖霊が天に昇る山としての信仰があったのではないか。

 同じような信仰の山は、宝満山意外にもあるだろう。祖霊が集まる山は、子孫達を見守っている。また、子孫達も先祖の守りの中で、祖先を敬いながら生活したであろう等々想像してみる。

 弥生の人々は見える範囲の山を、自国の守りの山と信仰していたと、仮定出来ないだろうか。その山は、氏族により異なっていた。そう仮定して、他の古墳や神社と山の関係をみてみたい。その際、山頂に限ってラインを引くことにしよう。宝満のように山頂神社が起点になる事もあったのだが。信仰の対象となるなら山頂でなければならないと思う。

 地図の上に定規を乗せて、少し恐ろしくなって来た。安い五万分の一の地図と、プラスチックの定規で、古代史にとんでもない問題のある説を打ち立てようとしているのだろうか。いえいえ、素人のただの楽しみ。定規一本で、どんな事が分かるか、やってみても面白いかも知れない程度のこと。何を見つけたいのか。それをはっきりさせなければ。何から取りかかろうか。とりあえず、山と古墳と神社に定規を当てながら、湧いてくる疑問を追及してみたいと思う。

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# by tizudesiru | 2011-09-26 10:35 | 5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本 | Comments(0)

平原王墓ラインから分かること

6 平原王墓ラインから分かること
 東西ライン(宝満・飯盛ライン)
の上に乗らない有名弥生王墓がある。それは、著書『実在した神話』で有名な原田大六氏が発掘した弥生墓、平原王墓である。弥生後期の方形周溝墓で、国内最大の大きさを誇る仿製鏡(内向花文鏡)五面を入れて四十面の銅鏡(いずれも国宝)を出土している。素環頭太刀やガラス製の勾玉や管玉。漢の高貴な女性が身につけたというピアス(耳とう)も出土している。この、コハク蛋白石のピアス。これは、国内唯一だとか。女性とされるこの王は、どんな環境の中に眠っているのだろうか。
平原王墓の位置
 平原王墓から見える南の脊振山地の中で、井原山(982m)と雷山(955m)が、この地域から見える象徴的な山である。これらの山々との関係はどうだろうか。
井原山と平原王墓をつなぐと、ラインは北側に伸びて糸島半島(いにしえの志摩国)の天ヶ岳(250m)に届く。王は、二つの山の間に眠っているようだ。
 また、佐賀県との県境に位置する羽金山(900m)と平原王墓を結んでみる。羽金山は、埋蔵金伝説の残る山である。天草の乱制圧に向かう黒田藩の軍用金の一部十万両が、長野峠で賊に奪われたという。それが、山中に隠されているというので、埋蔵金を探す人もいるらしい。その羽金山と平原王墓を結ぶと、ラインは北に伸びて、糸島半島(いにしえの志摩国)の浜崎山(97m)につながる。浜崎山は、博多湾側にある今津湾の入り口の山である。平原の王は、今回も二つの山を結ぶライン上に眠っている。彼女は、井原山ラインと羽金山ラインの交点に、日向峠に向かって横たわっている。が、それだけで今のところ何も分からない。
伊都国の他の弥生墓には、このような状況は認められるのだろうか。
たとえば、羽金山ラインは、古墳時代の一貴山銚子塚古墳を通り、志摩国側の彦山(231m)に届く。浮岳(805m)ラインは、宮地岳、志登支石墓1、志登支石墓2を通り、毘沙門山に少しずれて届く。獅子舞岳(841m)ラインは、釜塚古墳を通り志摩国の大葉山に届く。脊振山(1055m)ラインは、三雲王墓を通り志摩国の火山(244m)に届く。火山には、神功皇后伝説がある。新羅遠征の時、山に火を焚いたのでその名がつくという。
 山→古墳→山の信仰が、弥生にはあったのだ……。力のある王は、高い山を背負っている。二つの山に見守られて眠る事は、首長達のスティタスシンボルだったのだろうか。
井原山→平原王墓→天ヶ岳
脊振山→三雲王墓→火山
羽金山→平原王墓→浜崎山
羽金山→銚子塚古墳→彦山
浮岳→宮地岳→志登支石墓→毘沙門山
獅子舞岳→釜塚古墳→大葉山
雷山と平原王墓
 さて、雷山である。この山を通る墳丘墓はないのだろうか。
 平原王墓の存在が、伊都国で絶大だったのは、疑う余地はないが、雷山との関係はどうだろう。定規を当ててみたが、雷山と平原王墓を結ぶラインは、何故かどの山頂にも当たらない。雷山は、雷山神籠石のある山である。伊都国から見ると、井原山より若干低いのに雷山の方が高く思える。その山と平原王墓は、何故結びつかないのだろうか。平原王墓は、直接的に雷山と結びつくのを避けたのか。様々に憶測してしまう。平原の王が、より近くにそびえる雷山に何も思いを抱かなかったとは思えないのである。
 しかし、雷山からのラインが三雲南小路王墓を通ると、丸隈山古墳に届く。宝満・飯盛ラインのように、王墓や首長墓を結んでいる。三雲南小路の時代、雷山は大切な山だったようである。丸隈山の王は雷山への信仰心を持ち、三雲王を崇敬していたのだろう。可也山からのラインも、志登支石墓1を通り、此処から鋤崎古墳へと続く。王墓どうしが結びつく例は、ありそうだ。しかし、平原古墳と雷山の関係はない。弥生後期には雷山への信仰が薄れたのか。または、雷山と結びつく権力が交替したので、平原の被葬者は故意に雷山ラインを避けたのか、である。
雷山と可也山
 では、他に雷山からどんな事実が導き出されるだろう。
 試しに、雷山から真北へ定規を置いてみると、柑子岳(254m)に当たった。
この南北ラインに、式内社の志登神社が乗っている。十世紀になって志登神社の神は、雷山を意識して鎮座されたか。今は、田んぼの中に取り残されたように見えるが、昔はこの地方の大事な神社だったはずである。志登神社の南に志登支石墓群1(この番号は勝手につけている)も乗っている。また、この支石墓群の真西に可也山の山頂が見える。可也山東西ライン上にこの支石墓群1があり、そこは雷山南北ラインとの交点になるのである。東西ラインと南北ラインの交点に、渡来系人の墓と聞いている支石墓群1がある。雷山は、彼らにとって祖霊が集まる山だったのだろうか。それにしても、地域のシンボルの雷山の活躍の場が少ないようだ。何故か? この疑問は後に残しておこう。
 可也山は、韓国の慶尚南道の加耶に由来する山名である。その東にある墓。そうすると、彼らは、先祖の土地を懐かしみながら、地元の山から天に昇ったのだろうか。ちなみに、支石墓はこの地ばかりではなく、方々にある。近くにも残っているが、そこは、浮岳→一貴山銚子塚古墳→志登支石墓群2→志登神社(式内社)→毘沙門山と、浮岳ライン上に並ぶのである。しかし、並ぶからといって、これらの墓や神社の歴史的背景は、同じではない。それぞれが出来た時間は大きくずれる。ずっと存在するのは、山くらいだ。たとえ西九州にたくさんある支石墓群の中の二つが、ラインに並ぶように見えても、それは、ただの偶然かも知れない。偶然を見つけて、古代人の思いや信仰を捻じ曲げても悪い気がする。だが、地域の山に対して聖なるものを感じたり、自分の心のよりどころとする信仰はあったと思われる。
平原王墓と可也山 更に、糸島富士とも呼ばれている加也山と平原王墓の関係はどうなるだろう。可也山から平原に向かって線を引くと、平原王墓を通り南東の三雲南小路王墓に届く。宝満・飯盛ライン上の三雲王墓である。二つの弥生の王墓を、可也山が結びつけている。近くには狐塚とか、割れ塚古墳、築山古墳、端山古墳など多くの古墳があるが、それらには結びつかず三雲南小路の王墓に当たる。平原王墓は、三雲南小路王墓を意識し、王権を継承しようとしたのだろうか。
高祖山と平原王墓
では、高祖神社があり古墳のメッカでもあるという高祖山から直線を伸ばしてみよう。ラインは平原王墓を通り、西に伸びて一貴山銚子塚古墳に当たる。前に紹介した糸島地方最大の前方後円墳である。さすが高祖山、平原王墓と一貴山銚子塚を結びつけたのである。銚子塚の主人は、平原の王権を意識し受け継ごうとした。と、考えられないだろうか。宝満・飯盛ライン上の三雲南小路王墓の継承ばかりでなく、平原からも王の威力を継承しようとしたのだろうか。
可也山→平原王墓→三雲南小路王墓(矢印の向きは、逆であろう)
高祖山→平原王墓→一貴山銚子塚古墳
 王墓や古墳を、山が結び着ける。有名王墓は、有名王墓に結びつく。こんな例が、他にもあるのだろうか。
もし、この直観が有効だとすれば、江戸時代に発見されたが、埋め戻されて所在が分からなくなった、多くの銅鏡が副葬されていた井原鑓溝遺跡も、このようなライン上に隠れているのではないだろうか。平原古墳が、答えを教えてくれるかも知れない。
魏志倭人伝の中で、伊都国の紹介に『世王あり』と書かれている。此処には、王がいた。彼らは、伊都国に眠っている。王の埋葬の仕方も、文化として受け継がれたであろう。伊都国では、甕棺墓が比較的早く始まり、早く終わっているという。三雲王墓は甕棺墓である。しかし、平原王墓は割竹型木棺墓である。弥生後期に、同じ地域内で、葬送文化が変化した事になる。それは、他文化との交流だけでなく、歴史上の変化も示しているのだろうか。それでも、鏡、太刀、勾玉、豪華な装身具などを副葬する埋葬の仕方は、先祖や祖霊を大切にする古代人の考えの表れに違いない。彼らは、日常生活の中でも祖先を敬い畏れていたと思う。だからこそ、国内最大の内行花文鏡を量産し、何らかの意味を持って、それを破壊し埋葬したのだ。内行花文鏡の時代の終焉? なのか。三角縁神獣鏡の時代の始まりか。
とにもかくにも、南北ラインと東西ラインの交点という新しい視点を見つけた事で、これから先がもっと面白くなる気がしている。嬉しいことである。 
 しかしである。
 ここでいう東西ライン、南北ラインが、不正確で意味をなさないとしたら、これからの追及も意味をなさなくなる。そこで、国土地理院の地図検索を使って、緯度と経度を測定してみようと思ったのである。
*宝満・飯盛 東西ライン(大ライン)
 宝満山上宮(北緯33度32分23秒)
大城山頂(北緯33度32分19秒)
須玖岡本遺跡(北緯33度32分17秒)
須玖岡本・神社(北緯33度32分20秒
吉武高木遺跡(北緯33度32分13秒)
飯盛山頂(北緯33度32分13秒)
三雲南小路王墓(北緯33度32分12秒)
一貴山銚子塚古墳(北緯33度32分11秒*可也山 東西ライン(小ライン)
可也山頂(北緯33度34分20秒)
志登支石墓群1(北緯33度34分20秒)

カーソルで数字を出してみると、平野の両端では若干のずれを生じる。定規を使って引いた宝満ラインは、真東真西の関係と地図上では確認したつもりだったが、パソコンで調べた数字では数秒傾いたラインになる。それは、地形の関係や、目測で測量した関係でもあろうが、出発点と到着点が数十キロ離れている事も関係していると思う。それとも、ここ二千年の間に、真東がずれたのだろうか。
*雷山 南北ライン
雷山山頂(東経130度13分24秒)
志登支石墓群1(東経130度13分20秒)
志登神社(東経130度13分20秒)
柑子岳山頂(東経130度13分18秒

 地図に直線を引くと、真北にまっすぐラインが通ったかに思えたが、数字を見るとやや傾いている。山頂の何処かに目印を設定したのだろうが、面になる山頂と墓とを結ぶラインは微妙にずれて来たのだろうか。それとも、この二千年の間に、真北が若干ずれて来たのだろうか? 平原王墓が避けた雷山を取り込んだ十世紀の志登神社の文化は、弥生時代とつながらないかもしれない。
  此処では、山と墓をつなぐラインが存在するらしいと、ひとまず結論を出しておこう。弥生時代から古墳時代にかけて、その時代の首長達は選ばれた地に眠っている。地域のシンボルの山に挟まれて眠るのは王候クラスである。他の首長達も権力を継承するためや、王族とのつながりを示すため、または墓から霊力を得ようとしたのか、山を媒介にしたライン上に眠っている。


まだまだ編集中 つづく
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# by tizudesiru | 2011-09-25 20:57 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)

志登神社(式内社)

志登神社の説明板
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神社参道
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# by tizudesiru | 2011-09-25 08:05 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)

八女丘陵の古墳のライン

7 八女丘陵の古墳のライン 前項で、有名古墳がお互いに結びつきそうだとか、山と古墳の結びつきとか、怪しげな事を書いたが、その事をもう少し明らかにしなければならないと思う。しかし、有名かそうではないかの区別をつけるほどには、判断基準を持たないので、ひとまず、新聞テレビで見たり聞いたりしたことのある古墳に目を向けてみる。
 考えてみると、九州の古墳には、様々な問題がある。まず、筆者は素人だから弥生の墓も古墳と呼びたい気がするが、考古学の方は弥生の方形周溝墓を古墳とは言わない。古墳とは、古墳時代の墳丘を持つ墓の事をいうそうだ。だから、弥生王墓と古墳は区別して使わなければならない。それに、九州には装飾古墳も数多いし、形式の違いも色々あるそうだ。私は、ひとまとめに古墳として扱っている。
 
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(ア)八女丘陵の古墳
  さて、八女丘陵の古墳に進みたいが、伊都国で見られたような山を東に頂くような首長の埋葬の仕方は此処にもあるのだろうか。また、代々の王達は山や墳墓を媒介にしたライン上に眠っているのだろうか。弥生の埋葬文化が古墳時代にも受け継がれているのだろうか。

  九州では二番目の大きさで、教科書にも載っている筑紫国造磐井の墓と伝わる岩戸山古墳は、特に有名と言っていいだろう。この古墳があるのが、八女丘陵である。
 筑紫君の幾世代もの墓域といわれる八女丘陵(東西約十キロ)には、百五十から三百の墳墓があると考えられている。石人山古墳、神奈牟多古墳、岩戸山古墳、乗場古墳、善蔵塚古墳、鶴見山古墳、釘崎古墳群、丸山古墳など十一基の有名古墳がある。この東側にも「金製垂飾耳飾り」や埴輪などを出土した立山古墳や、徐福伝説もある巨石石室で有名な童男山古墳などがある。

  岩戸山古墳が知られているのは、一つにはこの墓の被葬者が分かっているためでもある。「筑紫国風土記」には、磐井が生前に造らせた墓と、裁判の様子を表したという墓の隣に造られた衙頭という別区の事が書かれている。風土記に書かれた墓が、岩戸山古墳だと比定されたのである。また、正史に記されている「磐井の乱」でも有名である。

  継体天皇の二二年(五二七年)、磐井は新羅から密かに賄賂を受け取り、新羅に奪われた任那の地を奪還すべく送られた近江毛野臣を、阻止しようとしたのである。新羅と組んだ筑紫国造磐井に対して、畿内の継体天皇は大伴・物部軍をおくった。継体二二年(528年)御井郡(久留米市・御井郡)で激戦の結果、磐井は破れて斬られた。父に連座する事を恐れた磐井の子の葛子は、糟屋の地を屯倉として献上し、罪を免れている

  「風土記」の別伝によれば、磐井は豊前国上膳県(現、豊前市)の山中に逃亡し、磐井がなかなか見つからないので、いらだった官軍の兵士が石人 石馬を壊したという。八女地方や熊本などにもみられる埴輪の代わりに墓に置かれたという石人石馬は、「磐井の乱」後には墳墓に使われることが少なくなっていったそうだ。代わりに装飾古墳が多くなっていったらしいのである。そういう説明を文化財センターの講座で聞いた事がある。

(イ)岩戸山古墳に結びつく古墳岩戸山古墳の真東にあるのは、なに山だろうか。 大きな山に、定規を当ててみる。
岩戸山古墳の真東にあるのは、熊渡山(960m)である。
岩戸山古墳(北緯33度13分47秒)
熊渡山 (北緯33度13分46秒)

  県境の山である。岩戸山古墳とセットになった山だから、有名な古墳に導いてくれるだろう。
 磐井の最後の戦いの場は、耳納山地の西側、御井の辺りである。この耳納山地には多数の峰が乱立している。一番高いのが鷹取山(802m)。

  熊渡山を地図上で耳納山地の峰と結んでみると、いずれも、耳納山地を越えて直線が延びて行く。耳納山地を越えると、的(いくは)臣、水沼君の勢力圏となる。頂上はあるが地図に名前のない山は、「? 山」と表現している。
熊渡山(960m)→鷹取山(802m)→寺徳古墳(装飾古墳)
熊渡山→ ?山(797m)→ ?山(406m)→屋形古墳群(装飾古墳)
熊渡山→ ?山(365m)→楠名・重定古墳(装飾古墳)
熊渡山→ ?山(250m)→塚花塚古墳(装飾古墳)

  地図に名前の載った古墳には、ラインが届くようである。他の有名古墳も東に山頂を背負い、ラインが耳納山地を越えるのだろうか。

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(ウ)石人山古墳 筑紫君一族の墳墓といわれる石人山古墳はどうだろう。
 東西に延びる八女丘陵に点在する古墳の中で、石人山古墳は五世紀半の築造と言われ、岩戸山古墳より時代を遡る前方後円墳である。後円部六〇メートル前方部四五メートル周囲には濠がある。辺りは人形原と言われ、後の世まで石人石馬が方々に見られたようである。
  この古墳の東には、鈴ノ耳納山(931m)があり、その山頂まで小高い山が頂を並べている。石人山古墳から順に山の峰を辿ると、次のようになる。
石人山古墳(北緯33度14分14秒)
高峰山(567m・北緯33度14分15秒)
大山 (599m・北緯33度14分11秒)
? 山(689m・北緯33度14分10秒)
? 山(716m・北緯33度14分11秒)
? 山(705m・北緯33度14分11秒)
鈴ノ耳納山(931m・北緯33度14分11秒)


  こうして並べてみると、石人山の王が自分の墓の東に、選んだ鈴ノ耳納山は、いくつもの峰の奥にある特別の山だったのだろうか。鈴ノ耳納山から発して、別の山を越え、有力者の墓に達するラインも見つかった。
鈴ノ耳納山→明星岳(382m)→浦山古墳(五世紀後半・帆立貝式前方後円墳)
鈴ノ耳納山→ ?山(887m)→日ノ岡古墳(六世紀半・装飾古墳)
釈迦岳(1231m)→鈴ノ耳納山→寺徳古墳(六世紀後半・装飾古墳)
浦山も、寺徳も、日ノ岡も、耳納山地を越えた北側にある古墳である。寺徳古墳は、釈迦・鈴ノ耳納だけでなく、前述の熊渡山もつながっていた。
鈴ノ耳納山→ ?山(716m)→ ?山(689m)→茶臼塚古墳(盗掘・六世紀頃)
鈴ノ耳納山→ ?山(322m)→丸山塚古墳(六世紀後半・装飾古墳)
この二つは、八女丘陵にある。

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(エ)寺徳古墳 
 石人山と岩戸山古墳の真東にある鈴ノ耳納山と熊渡山が、筑後川以南の豪族にとって大事な山である事はうなずける。殊に熊渡山は、大分県との県境の山である。耳納山地の東に位置し、この辺りの最高峯でもある。

  岩戸山古墳の王は、祖先の石人山古墳の王が真東に頂いた鈴ノ耳納山(931m)のように、同じく真東の熊渡山(960m)を選んだ。一族の長として。一族の象徴として選んだ山であろう。その事を子孫達や周囲の有力者達は、十分に承知していたと思える。特に、寺徳古墳の被葬者は、鈴ノ耳納山・熊渡山・鷹取山という筑紫君一族の象徴的な山とつながり、日ノ岡古墳と高良大社の間に横たわるとは尋常ではない。六世紀後半の特別な人物だったに違いない。それも、筑紫君一族と深い関係がある……磐井の乱の後、その勢力は残った事にもなる。もともとの高良の神は、磐井と深い関係にあったことも見えてくる。

釈迦岳→鈴ノ耳納山→寺徳古墳
熊渡山→鷹取山→寺徳古墳
高良大社→下馬場古墳(六世紀後)→寺徳古墳(六世紀後)→日ノ岡古墳(六世紀中)
寺徳古墳→発心山→丸山塚(六世紀後半)
と、なるからである。しかし、この古墳には首長墓としての持ち物が少ない。日ノ岡古墳と似た赤い同心円の装飾が用いられてはいるが。

(オ)周辺の古墳と有名古墳の結びつき
 古墳と山頂にラインを引いてみた。
岩戸山古墳(前方後円・六世紀前半)→乗場古墳(前方後円・六世紀中・装飾)→茶臼塚古墳(盗掘あり・円墳・六世紀ころ)*八女丘陵内の狭い結び着きに収まっている
弘化谷古墳(円墳・六世紀中・装飾))→明星山→耳納山→下馬場古墳(円墳・六世紀後半・装飾)*古墳が耳納山地をはさみ、やや広い結びつきとなっている。
浦山古墳(五世紀後半・帆立貝式前方後円)→高良山→下馬場古墳
前述であるが、耳納山地を古墳がはさむ例である。
寺徳古墳(円墳・六世紀後半・装飾)→発心山→(茶臼塚古墳)→丸山塚古墳(円墳・六世紀後半・装飾)

  これに対して、「高良大社→下馬場古墳→寺徳古墳→日ノ岡古墳(前方後円・六世紀中・装飾)」のように、耳納山地の北部地域だけと結びつく例もがある。南側との関係が切れたのだろうか。
  八女丘陵でも三百近くの古墳がある上に、耳納山地を越えた筑後川流域部にも幾多の古墳や古墳群がある。寺徳古墳のある田主丸地区には、六世紀後半から古墳が集中している。百五十基ほどあそうだ。中には、百メートルを超える前方後円墳も最近見つかり、古墳と山の関係が十分見えているわけではない。
だから、犬も歩けば棒に当たる式の古墳の結びつきは、充分に考えられる。その事は頭に入れておいて、結びついた古墳について分かる事を並べてみたい。

(カ)乗場古墳・弘化谷古墳などその他の古墳 乗場古墳は、岩戸山古墳の東三百メートルに位置する。石人も出土しているが、装飾は、寿命王塚古墳、熊本のオプサン古墳、チプサン古墳とよく似ているそうである。古墳の特色が似ているという事は、それらの古墳とはなみなみならぬ結びつきがある事になる。茶臼塚からは円筒埴輪も出土しているが、詳しく分からない。岩戸山と結びつく範囲は、小さいようである。他地域の古墳とのつながりが薄い気がするのは、磐井の乱が原因で一族から敬遠された為だろうか。

  弘化谷古墳の方は、鞆、同心円、三角文などの文様もあるが、謎と言われる双脚輪状文がある。双脚輪状文は、何を表現しているのか、解明されていない。この文様をもつのは、寿命王塚古墳、熊本の釜尾古墳、同じく熊本県の横山古墳、五郎山古墳など、超有名な装飾古墳である。蕨手文の複雑な形とも、高貴な人にさしかける「さしば」などなど、双脚輪状文にはさまざまな説がある。この弘化谷古墳は、明星山と耳納山を越え筑後川の方に結びつく。他の豪族との関係を示している。

  寺徳古墳と丸山塚古墳も、山を挟んで他の豪族と結びつくという同じ方法を使ったと思われる。丸山塚古墳には。わらび手文の装飾がある。わらび手文を持つ古墳は、寿命王塚、珍敷塚、塚花塚、日ノ岡、五郎山、熊本の釜尾など、七基である。高良大社からも下馬場、寺徳、日ノ岡と各古墳につながる。日ノ岡古墳は、若宮古墳群の中では最後の前方後円墳となる。七十八メートルあり、横穴式石室にわらび手文・双脚輪状文の文様を持つ。

  近くには、八十メートルの月岡古墳があり、若宮古墳群中の最初の前方後円墳で三重濠を持つ。日ノ岡の被葬者は、近くの月岡より高良大社ラインを選んだのだろうか。もしくは、日ノ岡と高良大社の間を選んで、下馬場と寺徳が墓を造った。古墳造営の順が、私には断定できないのでこうなる。が、いずれかの被葬者が、強い意思を持って先祖の威光にあやかろうとしたと思われる。祖先を祀る事は、一族の結束や繁栄にもつながると考えたのだろうか。筑後の首長達も、須玖岡本や吉武高木や伊都国の弥生王達に倣って、地元の山を選び、自分の墓の位置を決め、一族や子孫の繁栄を願ったのだろう。しかし、途中から山との関係より、高良玉垂宮との関係にすり替わるようだ。

  気になって来たのは、高良大社がからむラインである。
 下馬場、寺徳、日ノ岡、これらの古墳の被葬者は、高良大社とつながりを持とうとした。氏族の守り神とか、血族とか先祖とか、理由があったのではなかろうか。そもそも、高良大社の神は、いつから祀られていたのだろう。古墳との関係が見え隠れしているから、古墳時代中期か、六世紀には、その祭礼が執り行われていたことになる。少なくとも、有力者には尊崇の念を持たれていたのだろうから。

  しかし、大善寺玉垂宮とは関係なさそうである。
  大善寺玉垂宮と近くの御塚古墳(初期ホタテガイ型前方後円墳)をラインでつなぐと、隣の権現塚古墳にはつながるが、高良玉垂宮にはつながらない。また、水間君ゆかりの弓頭神社(塚崎にも弓頭神社がある)(原田)と月読神社(高良御廟塚と同じ敷地)(塚崎)をつなぐと、御塚古墳につながる。ここは、水間君関係の古墳と神社ということになる。筑紫君磐井と水間君は、関係を断っていたのだろうか。

(キ)少し脱線!
「磐井の乱」後も筑紫君一族は存続したのか
筑紫国造(君)磐井は六世紀前半に斬られたというが、「筑紫君」は残ったようである。百年後、六六三年八月、一昼夜にして軍船が炎上し、倭国軍が新羅・唐の連合軍に敗れた「白村江の戦い」の後にも筑紫君一族は残っていたと、古代史の講座ではよく聞く。この戦いで、唐軍の捕虜となったらしい筑紫君薩夜麻は、磐井の子孫だろうか。日本書紀のこの部分を調べることにした。
 捕虜となっていた薩夜麻は、天智天皇十年十一月十日に、沙門道久、韓島勝沙婆、布師首磐と共に帰国している。『唐の使人郭務悰ら六百人、送司沙宅孫登ら千四百人、合わせて二千人、船四十七隻比知島に泊まっている。船の数が多いので、この地に近づけば防人が驚いて戦いになるだろうから、あらかじめ来朝した事を、道久達が述べに来た』と、唐からの来朝を対馬から知らせている。二千人の来朝は、驚きであったろう。
しかし、来朝は、こればかりではない。郭務悰は、天智天皇四年に、二百五十四人で来朝し、大和にも来ている。また、天智天皇八年にも『大唐、郭務悰等二千人を遣せり』とある。彼らは何をしに来たのか。当然、白村江戦の戦後処理だろう。書紀の記述に重複があるかもしれないが、薩夜麻が帰ったとき、送司沙宅孫登ら千四百人が一緒に来たのは驚きである。彼らは、薩夜麻等を送って来たのだろうか。この年の十二月三日、一月も経ぬうちに天智天皇崩御。翌年三月、天皇の喪が筑紫の郭務悰に知らされる。彼は喪服を着て三度挙哀(人の死にあたり声にだして哀情を表す礼)したと書紀にある。五月十二日、郭務悰等は甲冑弓矢その他の賜物を賜り、三十日に筑紫から帰っている。五月末までは、彼らは筑紫に居たのだ。大和に行く用は無かったのだろうか。薩夜麻も筑紫に帰り、大和にはいかなかったのだろうか。疑問は残る。
薩夜麻らは帰国の目的を達成したのか、気になるところである。
そもそも、薩夜麻が帰国出来たのは、大伴部博麻の犠牲の賜物だった。
長安にいた捕虜達は、「唐が倭国を攻める」という噂を聞きつけた。彼らは、帰国して唐の計画を知らせ、国難から救おうとした。しかし、路銀も何もない。そこで、博麻は我身を売って衣食・旅費を捻出し、四人の捕虜を帰国させた。
筑紫国上陽哶(カミツヤメ)の出身で九州の人である大伴部博麻は、三十年後に帰国した時、国への忠節に対し、持統天皇に褒美をもらっている。この時、長安にいた捕虜達は、師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子と博麻が報告しているが、持統天皇四年に書かれている四人の名前は、天智十年の記述と違っている。天智十年の帰国者の中で薩夜麻だけが同じ人物である。我が身と引き換えた捕虜達の名を、博麻が忘れるはずはないだろうに。
五十年後に帰国した許勢部形見も筑後の国山門郡から出征しているから、九州の人である。数万の軍で半島に渡ったのは九州の兵力だったのだろう。九州には、軍事力、海運力ともにあったのかも知れない。
日本書紀によると、白村江敗戦後、百済の熊津には都督府(唐の行政府)が置かれ、占領政策を行ったのである。同じような行政府であろうか、天智天皇六年、「筑紫都督府に境部連石積等を送る」と書いてある。都督府の文字が出て来るのは、これだけと注釈に書いてある。畿内には、都督府は置かれなかった。占領政策下に置かれたのは、九州ということだろうか。
半島に渡った倭国の総司令官は、誰だったのだろう。阿倍引田比羅夫、上毛野君稚子、許勢神前臣訳語、この人達は、戦後どのような運命をたどったのだろう。白村江の戦いの責任を、誰がとったのだろう。
畿内の天皇家は、何も責められなかったのだろうか。
六六〇年に滅びた百済の重臣鬼室福信から、皇太子豊璋の帰国を願い、百済再興のための救援の要請があった時、これに応えた斉明天皇は、近畿から九州に渡り、心労がたたった為か崩御されている。その為、近畿の勢力は兵を動かすことなく、近畿に戻り殯葬をしている。彼らは百済救済に本気だったのだろうか。(?)
筑紫君薩夜麻が、磐井の子孫である可能性はあるだろう。大友部博麻は、主人の身代りになったのだろう。岩戸山歴史資料館の講演会(田中正日子氏)で知ったことだが、博麻は筑紫国住人として出兵したのである。博麻が帰国した時、すでに筑紫の国は二つに分けられ、筑前筑後となっていた。彼が唐に居る間に大きな政治的な改革があったという。
筑紫君一族は筑前筑後の何れに残ったのか。八女丘陵には『磐井の乱』後も墳丘墓は造られ続けられている。気になるのは、薩夜麻・博麻らが身を賭して、大和に「唐の謀を知らせよう」とした事である。では、薩夜麻も博麻も、既に大和の支配下に入れられていたという事だろうか。
気になるところだが、筑後国の方に戻ろう。
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# by tizudesiru | 2011-09-24 15:51 | 7八女丘陵の古墳のライン | Comments(2)

高良玉垂命の目的は何?

8 高良玉垂命の目的は何
(ア)高良大社
 日ノ岡古墳・寺徳古墳・下馬場古墳・高良大社と続くライン上の高良大社は、式内社で筑後国の一ノ宮である。
 高良大社は、高良玉垂命神社または高良玉垂宮ともいわれ、仁徳天皇の五十五年(367年)、または仁徳天皇七十八年(390年)鎮座。履中天皇元年(400年)創建と伝えられる。延喜式神名帳には「高良玉垂命神社」とある。もと高木神(高御産巣日神・高牟礼神)が鎮座していたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出、高木神が譲ったら、玉垂命は結界を張り鎮座したという。山の名も高牟礼から高良となった。元の氏神は、二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座している。奇妙な言い伝えである。地元のブログにも書き込まれているくらいだから、周知の事なのだ。まるで、高木神が詐欺に会われたみたいではないか。

 結界とは、どんなものを言ったのだろう。高良山には、神籠石という何時何の目的で造られたか分からない列石がある。長方形の花崗岩はかなり重く、何キロも並べるなど、そうそうにできる仕事ではない。それらが、まるで結界のように高良玉垂宮の麓から、宮を取り囲むように並んでいる。この事と関係があるのだろうか。しかも、列石は一夜にして作れるものではない。
 高良大社は、権現造りでは九州最大の建築物であり、耳納山地の最西端に鎮座する。御祭神の高良玉垂命は、武内宿禰とも藤大臣とも月神とも言われ、諸説がある。高良玉垂命の墓と伝わる高良御廟塚が、三潴町大字塚崎にある。二十メートルの円墳である。水沼君の崇める神と聞く。と、すると、高木神を騙したのは、水沼君だろうか。
(イ)水間君
 水沼君は日本書紀にも登場する。筑後川河口の平野に栄えたらしい。水沼君の墓と伝わるのは、御塚(おんづか)古墳である。鬼塚ともいう。百二十メートルを超える帆立貝式前方後円墳で、辺りには、権現塚、イロハ塚など四十基以上の古墳が点在している。五世紀後半造営、武人埴輪も出土したという。近くには、「鬼夜」という行事で有名な大善寺玉垂宮がある。高良玉垂宮とも深い関係の神社だそうである。
 景行天皇の子孫という国乳別皇子(水沼別)は、筑紫の豪族の始祖という。この皇子が祭られているのは、塚崎にある町内最古の弓頭神社である。皇子の墓と言われる烏帽子塚古墳(南北100m・周囲720m)も塚崎にあり、大古墳だったたらしいが、今は壊されてなくなった。旧三潴郡が、水沼君の本拠地だった事は分かる。が、古事記にも日本書紀にも登場しない氏神(高良玉垂命)が、高木神を高牟礼山から降ろしたとは。

(ウ)高木神と高良玉垂神と武内宿禰
 高木神を祭っていた氏族として考えられるのは、筑紫国造(筑紫君)磐井だ。
 高良大社の西、高良山の麓には御井という地があり、古く国府が置かれた処でもある。そこに、磐井の井戸と伝わる井戸がある。土地の人は深く信仰し、祭りにも使われてきた。「磐井の乱」の最後の戦いも、この御井の辺りである。磐井の本拠地は何処だったのだろうか。耳納山地が磐井の勢力下だったことはうなずける。自分の鎮座地を奪われたのに、高木神が無抵抗であるのも不思議だが、祀っていた氏族・磐井が戦いに敗れたのなら仕方ないだろう。

 高木神の後に鎮座した水沼君の祖と伝わる高良玉垂命は、武内宿禰との言い伝えもあるが、その廟(?)として祭られているのが、高良大社の奥の院である。今も大切に祭られていると聞いて訊ねてみると、高良大社の一キロばかり東南の斜面に社があった。決して、広くない空間である。水場にもなっていて、信心厚い人が訪れているようだ。中世には、征西将軍懐良親王の陣にもなったと伝わる。狭い斜面には、武内宿禰を連想出来るものは何も見出せないが、戦うための山城には、水は不可欠のものである。水場として使われたのだろうか。高良山の辺りは、古代から中世・戦国時代まで戦場になった。水場として確保されたのなら大事な場所であろう。

 高良大社が水沼君と深くかかわり、戦場となることが多かった高良山稜線上にあり、高木神と入れ替わったという伝承を持ち、六世紀後半の古墳と結びつくとすれば、その鎮座時期は六世紀半ば以後となるだろうか。そして、鎮座された目的は「水沼君の守護?」だろうか。それが、十世紀に式内社に奏上された時「国家守護」の神に変わった。「高良の高良たる由縁」と皇室の尊崇篤かったのは、そういう事だろうか。
 古代の王や有力者達は、海抜の高い山を祖先の魂が天に昇る霊地として崇敬したようだ。そして、居住地の近くの山を使って、霊地とつなぐ手掛かりとしたり、山当てをしたりして、墓地や神社の造営地を決めた。だから、大事なポイントに氏神を祀った。と、少しずつだが、はっきりしてきたのではないか。有力者が入れ替われば、氏神も入れ替わる。そのため、筑紫君の神と水間君の神が、交錯してしまったのだろう。

(エ)最高峰は釈迦岳 しかし、である。九州北部の最高峰は釈迦岳(1231m)で、しかも福岡県南部の筑後地方の山である。御前(権現)岳(1209m)も近くに並び、同じく近くに渡神山(1150m)もある。釈迦岳に登ると、御前岳と渡神山の山頂が左右に来る。地図でも調べても、三山の山頂は一列に並び、釈迦岳ラインは耳納山地の高良山(312m)を通過し、耳納山地の西の端、高良大社に当たる。見事である。
 同時に新たな疑問もでてきた。高良大社に当たるという事は、当然、このラインを意識して、神社を造営したことになる。では、それは何時? それ以前の古代の首長達には、釈迦岳や御前岳の存在は遠かったのだろうか。それとも、高木神も釈迦岳を背負って鎮座されていたのだろうか。高木神が高良玉垂神に一夜の宿として譲ったという伝承が本当なら、同じ場所に鎮座されていたことになる高木神を守護神とした豪族も、釈迦岳を神の山として崇めていたとなる。しかし、どのようにこの事を証明できるだろう。この事は、心に止めて次に進もう。答えは、何処かに転がっていると思う。
 
 確認しておくが、私がラインを引くのは地図の上である。それも、当然ながら地図上に記されている古墳や、遺跡や、山頂を結んでいる。更に付け加えれば、五万分の一の地図(国土地理院)を糊でつなぎ合わせた広い微妙なズレの可能性もある代物の上に、ボールペンや鉛筆で引く線である。また、市販されている県別の道路地図を組み合わせて、場所と固有名詞の表記を確認している。パソコンで調べるのは、緯度と経度。それも、カーソルを当てる位置が適当かどうか悩みながらである。これが二万五千分の一の地図になると、線が引きにくい。遠くの山を見ながら結んだであろうラインは、広い山頂から一点を選ぶには微妙なずれや、到達する古墳の大きさに左右され過ぎる。曖昧だが方向性がはっきりする五万分の一の地図が、ラインを引いて調べる場合は適当である。

こんな条件の中だが、ライン上に登場する地名・神社・遺跡は名だたる名所旧跡が多いので、筆者自身も少々戸惑っている。しかし、地図に書き込まれているのは、そういう所である。しかし、地図記号だけの神社でも、歴史や由緒のあるところは数多くある。
それは、それぞれの地方で編纂されたパンフレットなどを見て確認している。地図を何度も片付けたが、気になっていたことが急に解決に向かって展開すると、再び地図から目が離せないようになる。
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# by tizudesiru | 2011-09-23 22:43 | 8高良玉垂命の目的 | Comments(0)

渡神から英彦山へ

9 渡神山から 英彦山へ
 渡神山→釈迦岳→御前岳→高良山→高良大社のラインは、出来過ぎに思える。渡神・釈迦・御前の三山をつなぐとは。しかし、これは、何か意味もありそうな気がしてきた。やや気になるのは、渡神山である。ここが起点になるとしたら、どんな意味があるのだろうか。たとえば、釈迦岳→鈴ノ耳納山→ 山(931m)→寺徳古墳のラインを既に示したが、このように釈迦岳からラインが始まれば気分としては納得できる。釈迦岳は、県境の最高峰である。海抜が高い山が、信仰の山に選ばれるのは当然だからである。  
 渡神山は、釈迦岳の東南にそびえる円錐型の、堂々としていかにも神々が目印にして渡り来られそうな山だ。 さて、来られるのは、どのような神々だろう。地図を広げて、じっと眺めると、筑後川を越え、日田の市街を越え、真北にそびえる大きな山は英彦山。明治になるまで修験道の山であった。渡神山は英彦山に連れて行ってくれるのだろうか。


(ア)英彦山の伝承
 さて、英彦山には伝承が数多くある。神武天皇東征の時、天村雲命を遣わされ本殿上宮を祀られたという。
  社殿が出来たのは、崇神天皇四一年と伝わる。御祭神は、天忍穂耳命。天照大神の子どもということで、日の子の山「日子山」と呼ばれたが、嵯峨天皇により日子を彦と変えられた。約九百年後、霊元法王により彦の上に「英」を賜り、英彦山となったのである。また、英彦山は古代より神体山として崇められてきたが、継体天皇二十五年、北魏の僧善正に殺生の罪を諭された藤原恒夫(恒雄)が善正の弟子となって、上宮三社を建立した事が始まりと伝わるが、別伝では、忍骨命の降臨した山頂に祠が建てられたのが起源という。八六五年に清和天皇より従四位上を授けられ、延喜式神名帳にも名を残す。  

 更に、「彦山流記」や「彦山縁起」等によると、彦山権現は、天竺の摩訶提国から中国の天台山に渡り、八角三尺六寸の水精石となって豊前に降りた。香原明神に宿を求めるが断られた。しかし、地主神の北山三御前は住むところを譲り中腹へ移った。(大国主尊が宗像三女神を北岳に祀っていたが、天忍骨命に譲り、中腹へ移ったとも。また、宗像の許斐山に移ったともある)

 権現が天竺の摩珂提国から投げた五剣を、彦山の般若窟の上に見つけ、四九窟に御神体を分け、金剛童子を置いた。その八二年後、伊予の石槌山に第二剣。その六年後、淡路国諭鶴羽峰に第三剣。その六一年後、紀伊国牟漏郡切部玉那木淵の上に第四剣。その六一年後、熊野新宮の南神蔵峰に第五剣。その六一年後、新宮東阿須賀社の北石淵に勧請。二千後、元のように英彦山に帰る。

 熊野権現縁起や諭鶴羽山の由緒譚は、英彦山とよく似ているらしい。
 それにしても、渡神山からこんな霊山に辿りつくとは。修験の山としての英彦山と、古代の信仰とが入り乱れているようであるが、英彦山の神々が渡って来られる道しるべの山が、渡神山だとしたら、なるほどである。試しに、南北ラインだから、経度を比べてみよう。
英彦山南岳(1199m・東経130度55分33秒)
英彦山中岳神社(東経130度55分34秒)
英彦山北岳(1192m・東経130度55分59秒)
渡神山(1150m・東経130度55分40秒)

 こうして数字にしてみると、渡神山の真北に当たるのは、英彦山の北岳と中岳の間という事になる。何ともすっきりしない。気になるので、英彦山を訪ね登山する事にした。英彦山は著名な観光地でもあり、過去に何度か訪ねている。四十年前に参拝した社は、奉幣殿であった。ほとんどの観光客は、ここで参拝を済ませるのだ。
 
(イ)英彦山の北岳
 北岳に登ったのは四月だったが、数日前に降った雪が登山道に残っていた。登山口の高住神社に参拝を済ませ、北岳への急峻な登山道を辿ると、頂上は禁足地になっていた。樹木に覆われていて、しめ縄が張ってある。西側の木の間から、南岳と、中岳の上宮神社が見える。辺りの山の名前は見当も付かなかったが、山の霊気に癒され、下山する事にした。降りて『北岳山頂には神仏習合時代からの「禁足地」があり、未だ立ち入り禁止となっている』と、書いてあったのに、岩など詳しく見ないままに降りて来た事が悔やまれた。帰りに高住神社にまわり、御祭神を訊ねると、豊日別大神・天照大神・天火明命等と教えられた。

 社殿は継体天皇の御代に創建と伝えられている。豊日別大神は、豊前豊後の守護神であり、明治まで豊前坊天狗神として崇められた、鷹巣山の神という。心正しい者は、八天狗をはじめ総ての天狗を集めて、願いを叶え身を守ると伝わる。鷹巣山は、英彦山の隣に並ぶ、いかにも神々が住まいされるような円柱の岩山である。それも三峯ある。英彦山の北岳、中岳、南岳の三峯と同じ。

 英彦山の中岳には天忍穂耳命。北岳に祀られていたのは、もともと地主神の北山三御前と呼ばれた神のようだ。大国主命が祀っていた宗像三女神だろうか。此処でも、神が天忍穂耳命や彦山権現に聖地を譲っている。政治的な事件があった為か。
 伝説の藤原恒夫は、北岳に現身(法体)阿弥陀如来、南岳に釈迦如来、中岳には観世音菩薩を祭ったとか。明治まで『峰に三千の仙人あり』と言われた修験道の拠点、英彦山。

(ウ)高住神社
 長い間人々の崇敬を集めたが、廃仏毀釈により消されてしまった「英彦山権現」の事を考えていたら、帰り道、別な思いも湧いて来た。もともとは、豊日別大神が北岳の御祭神ではないかという事。豊日別大神を祀る高住神社は、北岳の登山口に建てられている。 

  そこは、北岳の真北(東経130度55分59秒)、北岳と同じ経度になる。距離的にも、北岳の方が、鷹巣山より近い。神社の位置や地形からして、鷹巣山を祀るのは不自然である。中岳の英彦山神社の場合、地形の関係を考慮に入れても、中社、下社、奉幣殿は中岳山頂神社に向かって並んでいる。並びは、全く自然に感じられる。それからすると、北岳を祀るのは、高住神社と考えたくなる。とは思っても、ただの思いつきに過ぎない。不思議な気分に浸りながら、英彦山を後にした。この霊山は幾度も盛衰を繰り返し、神も入れ替わりながらも、長く人の信仰を集めて来たのだと思いながら。

  この英彦山山地の霊峰に降りられた神々が、南の渡神山に天がけ渡る。渡神山に渡った神々は、方向を西隣の釈迦岳に変えて、真っ直ぐ高良山を目指す。そうだとしたら、英彦山信仰が、その時代にあまねく知れ渡っていたことになる。少なくとも、有力者には。そして、英彦山と高良山の結び着きは、高良玉垂宮が鎮座した頃とは限らない。祀られる神の交代が実際に起こっていたとしたら、現在見られる英彦山・渡神山・釈迦岳・高良大社ラインは、それ以前の権力者の信仰の対象だった可能性もあるのだ。

(エ)英彦山から雷山へ
が、しかし、である。自分の在所から遠い神々を信仰するには、人の交流や文化の交流が前提となり、共感する事がなければならない。それは、何だったのだろう。古代の王族や有力者が互いに深くつながっていたことにならないか。そうでなければ他の地域(国)の山を信仰の対象にするはずはない。日子山という山名からして、太陽信仰と関係があるだろう。そうであれば、弥生の稲作文化とつながるという事だろうか。更に、日子山に相対する山があり、東西ラインが見つかるだろう。筑後川の北側の彦山山地の最高峰である英彦山の西側には、佐賀県と福岡県を分ける脊振山地がある。
  その中のトップの山は、脊振山(1055m)である。英彦山と脊振山を結ぶラインなら、当然信仰の対象たりえる。定規をあててみたが、脊振には当たらない。当たるのは、雷山山頂(955m)であった。雷山? 雷山・志登神社ラインの南北ラインを持つ、霊峰である。では、英彦山・雷山ラインは、信仰の東西ラインとしても成立するだろうか。

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# by tizudesiru | 2011-09-22 08:53 | 9渡神山から英彦山へ | Comments(0)

10 雷山・雷山神社・千如寺・神籠石

10 雷山・雷山神社・千如寺・神籠石?  
(ア)雷山は曽増岐山
 雷山の頂上に登ったのは少ないが、見晴らしのいい事と、大きな岩があった事、二つの印象が残っている。昔の記憶だが、尾根続きに歩くコースだけでなく、雷山は何処も四季を通して素晴らしい。雷山も英彦山と同じように霊地である。中腹にある大悲王院千如寺の千手千眼観世音菩薩は、幾度拝観しても感動する。山全体が、明治になるまで真言密教の道場だった。インドの僧清賀上人が開山したと言われる大悲王院千如寺は、仏教公伝より前の成務天皇四八年の開創とも伝わる。
 「雷山千如寺縁起」には、風伯雨師の雷電神が一夜のうちに山を削り、岩を砕き、大伽藍を造顕したと、雷電寺の草創を伝える。雷山は、曽増岐(そそぎ)山と言われ、曽増岐神社の上宮、中宮、下宮があり、中宮は現在「雷神社」として残っている。以前は、雷神社横の中の坊にあった講堂に「千手千眼観世音菩薩」は安置されていた。
 下宮は「笠折権現」とも呼ばれた。神宮寺は聖武天皇の勅願を伝え、清賀上人が開山建立した寺であり、後に千如寺になった。雷山は幾度の興亡の中、『三百の僧坊』を数えた事もある。千如寺は、多数の僧坊の総称である。神仏習合の時代の終焉と共に、千手千眼観世音菩薩は大悲王院に移され、中の坊は解かれた。今では雷山は深い森に閉ざされているようである。明治の世にどれだけの仏と神が失われたことか。改めて、考えさせられる。失われる。世の中が変わるとは、そういう事なのだ。雷山が「そそぎやま」と呼ばれていたことすら、福岡市博物館の資料を見るまで知らなかった。名前が変わったのは、真言密教が入って来た事が原因だろうか。為政者が変わり、宗教が変われば、生活の仕方も土地の名すらも変わる。それが繰り返されて、おぼろげな記憶となり、怪しげな伝承となってしまうのだろう。そのわずかな片鱗から、はるかな過去が甦る事が出来たら、それは、なんと素晴らしいことだろう。途方もない思いが湧いて来た。
(イ)雷山神籠石 
 雷山には、目的不明、使途不明な神籠石がある。雷山北面の中腹、伊都国側の海抜四百から四百八十メートルの辺り、列石と土塁と水門、列石の外側に保護用の木柵の跡。雷山の場合も、列石は山頂を含まない。東側と西側の列石はすでに失われている。急な崖となっているところへ落ちてしまったようだ。高良大社の神籠石と同じく、天武天皇時代の地震(筑紫大地震)で壊れたらしいのである。
 神籠石の使途については、山城説、霊域説等いろいろあったようだが、最近では山城説が有力とか聞く。古墳の石室の石組みとの比較からして、神籠石の築造は時代を遡るという説も読んだが、古代の建造物の中でかなりの労力を要する神籠石は、山城意外に考えられないとも書いてあったと思う。
 山城とは、白村江敗戦後に作られた山城である。
 日本書紀に「天智天皇四年八月、達率億礼副留、達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野及び 基肄、二城を築かしむ」とある。達率とは、百済の冠位である。筑紫に百済の役人が来て、大野城と 基肄城を造った。防人と烽とを置き、水城を造ったのは、天智三年である。大和の高安城、讃岐の屋島城、対馬の金田城は、天智六年。この辺りで、他の神籠石(山城)も築造したのだろうか。それらは、大和を守る目的の為に造られたと、歴史で学習した。しかし、九州の歴史に詳しい人は、古代山城は大宰府を守るために築かれたと言う。そうかも知れない。北部九州の神籠石の数からして、大宰府を守るためかもしれない。そうすると、雷山神籠石は大宰府を守っているのだろうか。他の神籠石と何かつながりがあるのだろうか。
まず、霊域としての役目はどうだろう。雷山山頂などの経度を比べてみよう。
雷山山頂(東経130度13分24秒)
雷神社(中の坊・講堂)(東経130度13分27秒)
山頂近くの神社(東経130度13分24秒)
雷山神籠石(東経130度13分6秒)

 こうして見ると、神籠石は雷山の南北ライン上にはない。信仰とは結びついていないように思える。やはり、山城としての目的の為に築かれたのだろうか。
 では、雷山神籠石の東、大宰府方面に定規を当ててみよう。
 東にラインを伸ばすと、大宰府の南にある宮地岳に達する。近年、山頂西側に古代山城が発掘されたと聞く山である。この古代山城の発掘により、「神籠石は古代山城」と確定したのだ。試しに、緯度を出してみよう。
雷山神籠石(北緯33度29分38秒~49秒)
雷神社  (北緯33度29分31秒)
宮地岳山頂(北緯33度29分34秒)*西側に古代山城あり

 かなり興味をそそられる数字が出た。宮地岳神籠石は、発掘の結果古代山城と結論付けられたが、神籠石と言っても一つの塊ではなく、広い範囲の列石である。確かに数字は近いが、東西の関係として断定する事、安易な結論は避けたい。他の神籠石との関係はどうなっているか、もちろん興味の湧くところだが、まだ気になる古墳や神社が残されているので、そちらを先に考えたい。神籠石については後に書く予定である。
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# by tizudesiru | 2011-09-21 13:17 | 10雷山 | Comments(0)

11 羽白熊鷲と脊振山

11 羽白熊鷲の伝承と墓は、脊振へ向かう
 「甘木水の文化村」という施設が、甘木市にある。当地の寺内ダム建設の時、近隣の人々の為に造られた施設であろう。立派なトイレ付きの広い無料駐車場があり、施設への入場料もいらない。ゲートをくぐり階段を上って広場に着くと、小さな円墳がある。羽白熊鷲の墓である。元は、文化村中央にあったが、せせらぎ館建設にともない移動した。が、地元の意見により、せせらぎ館正面に再度移動したそうだ。「千数百年の間、大切にされてきた熊鷲の墓が荒れていくのはしのびない」と、商工会が行動を起こしたそうだ。
 また、この地方では羽白熊鷲の伝承が残り、地域の歴史家の興味を引きだしているようだった。羽白熊鷲の伝承に関するシンポジウムも、開かれているようである。
(ア)日本書紀の羽白熊鷲
 羽白熊鷲は、日本書紀にもでてくる。
 巻第九神功皇后の熊襲征伐に「荷持田村(のとりのたふれ)に羽白熊鷲という者があり、その人となりは強健で、翼があり高く飛ぶことができる。皇命に従わず人民を掠めている。十七日に皇后は熊襲を討とうとして、香椎宮から松峡宮に移られた。その時つむじ風がにわかに吹いて御笠が吹き飛ばされた。時の人はそこを名づけて御笠といった。二十日、層増岐野(そそきの)にいき、兵をあげて羽白熊鷲を殺した。そばの人に『熊鷲を取って心安らかになった』といわれた。そこを名づけて安という」(日本初期・現代語訳・宇治谷孟)荷持(甘木市野鳥)、香椎、御笠山(宝満山)、安(夜須町)などの地名譚も入って、熊鷲という人物の名が出て来る。気になる地名は、層増岐野である。「そそぎやま」の雷山のことだろうか。後で再度追及するが、日本書紀の注解には「層増岐野は場所が特定できない」としている。
 熊鷲は古処山(白山・白髪山)を本拠としていた豪族のようだ。地図で見ると、その墓の位置は、古処山の真南になりそうだ。墓所移動の事情により、場所が特定できないが。
 古処山は秋月の背後の山である。「甘木水の文化村」より秋月に墓があってもよさそうに思うが、ダムが建設されたような人家の少ない土地にあるのである。長い定規を使って古処山から南に線を延ばすと、耳納山地の鷹取山の山頂に達する。既に名前の出た山である。筑後平野の中央から南を見ると耳納山地で一番高く見える山で、戦国時代には山城が築かれていた山でもある。それに、鷹取山はかの高良大社の真東にある。熊鷲は、古処山・鷹取山の南北ライン上に眠っているのだろうか。
古処山(東経130度43分32秒)
羽白熊鷲墓(東経130度43分31秒)*水の文化村せせらぎ館前
鷹取山(東経130度43分23秒)
古処山と鷹取山は、直線距離でも二十キロほど離れている。南北の直線は若干傾いているようだ。
では、羽白熊鷲墓の東西ラインはどうだろうか。真西にラインを伸ばすと、脊振山地の脊振山頂(1055m)に当たる。背振山とは、驚いた。しかし、羽白熊鷲が熊襲の長であれば、当然のことであろう。福岡平野からは、季節を通して脊振は目立つ。筑後平野からもよく見えるのだろうか。九千部山が背振山を遮るので、少し高度があがらないと見えないかも知れない。
脊振山頂(北緯33度26分8秒)
契山408m(北緯33度26分9秒)
羽白熊鷲墓(北緯33度26分6秒)*水の文化村せせらぎ館前

なるほど、かなりいい線である。背振山を墓の西に頂いたという熊鷲は、かなり有力な豪族だったという事になる。神功皇后に誅殺された熊襲だったことは、書紀にはっきり書かれているが。熊襲は南九州だけにいたのではなく、筑紫にも居た事になる。
更に、官軍(神功皇后側)に誅殺された熊鷲の墓を、選ばれた場所に造ったのは誰だろう。何故、墓の西に脊振山が来るような場所を探したのだろう。答えは、そういう思想が既にあったとしか考えられない。「脊振山は王(首長)の魂が天に昇る聖地である」という思想か、または、「祟りがないように、王(首長)の魂が天に昇る場所を選んで葬らねばならない」という思想が、熊鷲の時代にはあった。
 羽白熊鷲は歴史の中に封じ込められた多くの首長達の無念を教えてくれているのかも知れない。
(イ)脊振山の位置
 此処で、脊振についても書いておかなければならない事がある。
 結論をいうと、「脊振は、北部九州の王や有力者の魂が、天に昇る山と思われる」である。
 脊振山と須玖岡本の王墓と結ぶと、間にある日拝塚古墳をラインが通過する。彼岸の時には、一六キロ離れた大根地山から昇る太陽を拝む事ができるので、日拝塚(ひはいつか)古墳と呼ばれている。春日市にあるこの古墳は六世紀前半の前方後円墳で、全長五六メートル。昭和四年に盗掘を受け、その後の発掘で出土した副葬品は東京国博に保管されている。ただ金製垂飾付耳飾は「那国の丘歴史資料館」に展示されている。太刀や槍などの武器、馬具や装飾品、鍍金環頭太刀柄頭など、副葬品からして有力者の墓である事が分かる。日拝塚の被葬者は、須玖岡本の王の威光を自分に引き寄せたかった。そして、脊振山から魂が天に昇った。更に、地図の上での事であるが、このラインをそのまま伸ばして行くと、乙犬山(185m)を通り宮若市の竹原古墳に届きそうである。しかし、これは、定規の加減もあるので自信はない。
 更に、桂川にある寿命王塚古墳も脊振につながる
 この古墳は、採土工事中に偶然発見され、馬具、銅鏡、装飾品、土器類が出土した。六世紀中ごろ造られた、全長八六メートルの前方後円墳である。遠賀川流域では、最大の規模の墳丘と横穴式石室を持つ。遺体を収めた玄室には、工夫を凝らした「石屋形」と「石棚」、前室との間に「小窓」があり、この三点を併せ持つ例は非常に珍しく、王塚古墳の特色となっている。他にも、赤、黄、白、緑、黒で描かれた壁面の装飾も特徴的である。靫、盾、騎馬、星、双脚輪状文、わらび手文、三角文などが、壁面や天井に表現されている。王塚古墳から宝満山を通り、なんと脊振山までラインが届く。かなり離れた場所にある二つの山が、寿命王塚古墳により結ばれた。寿命王塚の被葬者は、宝満と脊振という福岡平野の代表的な山とつながっているのだ。宝満山と脊振山は、福岡平野の王達とつながり、時代がくだるにつれて伊都国や遠賀川流域の有力者ともつながっていった。つまり、有力首長達の神上がりの場だと言っていいだろうか。
 脊振山→三雲南小路王墓→火山(前述
 同じく糸島の金塚古墳→宮地岳(110m)→? 山(700m)→脊振山
一貴山銚子塚古墳→? 山(448m)→脊振山
脊振山→久留米の日輪寺古墳→浦山古墳
脊振山→大峠(406m)→五郎山古墳
 佐賀県の古墳群や遺跡が脊振山麓に広がっているが、たぶん同じことが立証されるのではないだろうか。

 何故、脊振山が北部九州で神あがりの山となれたのかという疑問が湧いてくる。
 それは、三連山の山だからであろう。脊振山、井原山、雷山の山頂に直線を引くと、見事に直線で結ばれる。他の山とは、難しい。三は古代には特別の数だったのではなかろうか。思い出してみると、英彦山も、鷹巣山も、三つの峰を持つ山であった。古処山も、馬見山、屏山と峰が並ぶ。宝満山も、三郡山、頭巾山と峰が並ぶ。田川の香春岳も、一の岳、二の岳、三の岳と信仰を集めている。宗像三女神、住吉三神、いずれも三である。そして、海抜の高い山が信仰の対象となったのだ。
(ウ)福岡の主要な山岳を並べてみよう。
釈迦岳(矢部 1230m)
御前岳(矢部 1209m)
英彦山南岳(添田 1200m)
犬が岳(豊前1131m)
脊振山(福岡早良区1055m)
岳滅鬼山(添田1037m)
三国山(矢部 994m)
経読岳(豊前 992m)
井原山(前原 983m)
鷹巣山(添田 979m)
馬見山(甘木 978m)
大塚山(矢部 978m)
猿駈山(矢部 968m)
金山 (福岡早良区967m)
熊渡山(黒木 960m)
雷山 (前原 955m)
障子ガ岳(添田 948m)
石割岳(星野 942m)
三群山(宇美 936m)
鈴ノ耳納山(星野 931m)
屏山 (甘木 927m)
門前山(矢部 922m)
竹山 (星野 905m)
福知山(田川 901m)
頭巾山(宇美 901m)
羽金山(佐賀県 900m)
黒岩 (添田  878m)
休鹿 (矢部  866m)
古処山(朝倉 860m)
九千部山(那珂川 848m)
釈迦岳(添田 844m)
広川原(黒木 843m)
獅子舞岳(佐賀県 841m)
平野岳(星野 840m)
大日ヶ岳(添田 830m)
宝満山(筑紫野 829m)
砥石山(宇美 828m)
浮岳 (佐賀県唐津 805m)
鷹取山(星野 801m)

 こうして山名が並ぶと、信仰の対象になる山には高さが重要だと思えてくる。その中でも、高い山が連なるのは、大切な条件ではなかろうか。山を「さん」と発音するのも、数字の三と同じ発想につながるのだろうか。三にはめでたい意味も重なってくる。それとも、山を高さや山容にかかわりなく、山と呼んだり、岳と呼んだりするのだろうか。
この事は、専門家の方に解決していただくことにしよう。
此処では、羽白熊鷲は、背振山を首長達の魂が天に昇る山である事を示したこと。逆に、彼も甘木朝倉の辺りの首長であった事を改めて確認できる。
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# by tizudesiru | 2011-09-20 14:28 | 11羽白熊鷲と脊振山 | Comments(0)

12 羽白熊鷲と古処山

12 羽白熊鷲の本拠地は古処山
(ア) 二つの三奈木神社
 朝倉市三奈木には、神功皇后が「水清しと宣り給う」土地という伝承がある。熊鷲を滅ぼした皇后の伝承が、熊鷲の墓の近くにある三奈木神社にも残っている。皇后が三韓遠征の兵を集めようとしたが、全く集まらなかったので、三奈木の地に天神地祇を祀り神に祈ったところ、兵が集まったという。自分たちの領主(?)を殺されたのに兵がすぐに集まるとも考えられないが、何か強制されたのかも知れない。
 三奈木神社は延喜式に名のある式内社である。そして、同じ字、同じ呼び名でもう一つ神社がある。林田の三奈木神社である。昔から、どちらが式内社か、地域を二分し論争が繰り広げられたとか。決着がつかないまま現在に至っているそうだ。
 不思議な事がある。馬見山と寺内の三奈木神社を結ぶと、馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の三奈木神社→林田の三奈木神社と、地図の上ではラインがつながるのである。地図記号の小さな神社。小さな点のような神社記号を通るとは、偶然にしても出来過ぎに思える。
 寺内の三奈木神社は、元宮は裏山(大仏山)の頂上にあったそうだ。行ってみると、ゴルフ場の入口の辺りに案内板があって、確かに社があった。樹木がなければ、そこから熊鷲の墓の辺りを隣の山に見つけられたかも知れないが、木が多くて無理だった。つまり、元宮のままなら直線上には乗らないのだ。神社が移動した事は、由緒書きにも載せてある。しかし、移動した場所が的確(?)なので驚いてしまう。両方の三奈木神社では、お互いに「名前は同じだが、神社としては何の関係もない」と言われるが。
(イ) 馬見山 
 何故、起点が馬見山だろう。馬見山の伝承は、神武天皇が逃げた馬を捕まえられなくて、見逃したから「馬見」となったと聞いたと思う。あまり気にもならず聞き流していた。それにしても、熊鷲は古処山を本拠地としていたのに、その墓が馬見山と結びつくなんて不思議だ。馬見山と古処山は、地図上は東西の関係になりそうである。
古処山(北緯33度29分2秒)
屏山(北緯33度29分16秒)
馬見山(北緯33度29分10秒)

 真東とは言い難いが、東にあるようである。熊鷲が古処山を本拠地にしたのは何故だろう。考えられるのは、彼はそこから東の馬見山を遥拝していた? である。彼の神は馬見山に鎮座しておられた? のではないか。と言うのは、遠賀川の源流は、馬見山だ。この辺りでは、大神様を「おんがさま」と呼ぶ。馬見山は「大神様」と呼ばれる信仰の対象だったのだ。だから、遠賀(おんが)川の流れも馬見山から始まっている。一人納得してしまった。
 羽白熊鷲の神が馬見山だとすると、古処山は、地図の上では何処と結びつくだろう。
 そう思って、古処山と甘木市の背後の大平山の山頂を結んでみた。
 古処山・大平山ラインは、南西に傾き甘木市街の中心を貫いた。そのままラインは伸びると、平塚川添遺跡を横切るようである。遺跡が大きいのではっきりとは分からないが、祭祀点を通るのだろうか。ここは、筑紫平野では最大とも言われる遺跡で、二重三重どころではない、七重(?)の環濠を持つ祭祀場のような場所と、大型の建物を持っている。そして、大平山を底辺とし、小石原川と佐田川に囲まれた細長い土地で、川に囲まれた土地は三角形にすぼまり、両河川は筑後川に合流する。古処山・大平山ラインは、この細長い三角の土地の中心を通る。まるで、聖なるラインのようである。あまり触れたくはないが、甘木は、邪馬台国論争の渦中にある。何と言っても、最大の弥生遺跡といわれるほど、平塚川添遺跡は大きい。
 よく見ると、古処山・大平山ラインは、先の馬見山ラインとほぼ並行である。二つのラインは並んでいる。
 馬見と古処のあいだにある屏山は、どうなるのだろう。馬見・古処の東西ラインからは若干北側にずれる山である。屏山(926m)→上秋月の高倉山(285m)→安見ヶ城山(300m)の山頂ラインは、平塚川添の大きな環濠遺跡を横切る。他の二つのラインとほぼ並行である。そして、細長い三角地帯にある、日本では筑後にしかない地名、稲数という村を横切る。久留米の北野町の稲数は、古代の負祖である稲を貯蔵した稲置が置かれた処である。此処も同じ意味の場所であろう。また、筑後国史の「稲数村館跡」によると、「稲員(いなかず)氏は、高良山の神管領の職務を司り、玉垂命の裔孫にあたり、約五百年間稲数に居館した」とある。その稲員氏と関係のある土地らしい。
 馬見山・屏山・古処山からそれぞれに三本のラインが同じような角度に伸びた。それは甘木の市街地を横切った。この三本のラインと直角に交差するラインがある。
 まず、筑後平野の東側に位置する朝倉の宮地岳と、筑紫野の宮地岳(古代山城)の山頂を結ぶと、ラインは北西に伸びて弥永(いやなが)の大己貴(おほなむち)神社を横切る。宮地岳・大己貴神社ラインは、古処山ライン・馬見山ラインとほぼ垂直に交わるのである。聖なるラインを中にして、甘木は四角形に取り囲まれそうである。神社は建て替えの度に場所がずれるので何とも言えない面もあるが。
更に、地図上の甘木市の道路は、古処山を向いている。近隣の町と比べて、明らかに道路網の碁盤の目が、傾いている。甘木は、大平山に向かい、その裏の古処山に向かって出来た集落だろうか。そういえば、久留米も古い道路が高良山を向いている。基本の道路がそうなると、後から造られる道路も向きが決まるのだろう。久留米の近くの福島は東西ライン・南北ラインが交差する碁盤の目になっている。中世に城が築かれたので、それに倣って道路が出来たのだろう。ちなみに、京都や奈良の地図は、綺麗な碁盤の目の道路になっている。古代から都が置かれたので、道路も東西南北のはっきりしたものになったのだろう。
とにかく、古処山と羽白熊鷲の伝承に、馬見山と塀山が結びつき、更に平塚川添が結びつく。とは言え、平塚川添はあまりに大きな遺跡である。的が大きすぎる。当たるのは、当然と言える。ここは、他にも様々な遺跡や、墓や、山などと結びつく可能性がある。
(ウ) 朝倉と甘木
 以前から面白いとおもっていた事がある。筑紫平野の東の朝倉に「朝闇(あさくら)神社」という小さな社があるが、此処を起点に平塚川添遺跡を通りラインを西に延ばすと、田代太田古墳に当たる。東西の関係である。朝闇神社を見に出かけたら、辺りには何もなく斉明天皇の「橘の広庭」という伝承があるのみだった。土地の人もよく分からない様子だったので、写真も取らずに帰った。考古学関係の方からも「あの辺からは何も出なかった」という話を聞いた事がある。しかし、平塚川添の東西ライン上の一点のように思えて気にはなっている。
 平塚川添の北には、何があるだろう。定規を当てると、目配(めくばせ)山が来る。「武内宿禰と神功皇后が、荷持田村(のとりたふれ)の羽白熊鷲を退治するための討伐軍をすすめ、敵の形勢を見渡したところだそうである、熊鷲を滅ぼした後『わが心安し』と言ったので夜須(安)の地名がうまれた」とか。前述の書紀とは微妙に違うが、ほとんど重なる話である。この辺りは、神功皇后伝説が至る所にある。少々、食傷気味にもなる。昔の人は、伝説の中に自分たちの先祖の地を組み込んで何か誇りを持ちたかったのだろうか。
 ついでだが、もし卑弥呼の時代と甘木の辺りが重なるとしたら、古処・馬見のラインと、無縁ではないだろうと思う。筑紫平野にも東西ラインはあっただろう、宝満山ラインのように。東西線の上に卑弥呼の墓は来るだろうか。しかし、馬見・古処ラインは、山が重なりあい、墓を作ろうと思っても筑紫の宮地岳の南裾野辺りになってしまうので、無理。では、古処・大平ラインはどうだろう。これは、神聖なラインで平塚川添の祭祀を行った辺りには、墓らしいものが見つからないとか。残りは、脊振ラインとかになるが、それは、当然、熊鷲の墓の西側ライン上になる。持丸の浄水場の盛土のような小山とか、大塚という地名の辺り。特に、大己貴神社の南に伸びるラインの交点とか、どうだろうか。かろうじて、小石原川の東に入る地点でも、例の三角地帯に入るから可能性があるのではないか。もしくは、どんと離れて、やはり先の筑紫野の宮地岳の裾野に行ってしまうか。古処・馬見ラインと宮地岳ラインの交点が筑前山家の北にある。何処にあっても、三世紀の墳墓である。何らかの伝承と共に残っているはずである。日本のどこかに。
 熊鷲から卑弥呼へ飛んでしまった。
(エ)雲仙ライン 
 九州で最も大きい平野に、何らかの勢力が起こらなかったはずはない。筑紫野市、小郡市、鳥栖市、那珂川町、神崎町など、筑紫平野の西側は、古墳と遺跡の密集地帯である。特に、神崎の吉野ケ里遺跡は有名である。新聞に取り上げられる遺跡の中でも回数の多い地名であろう。「吉野ケ里遺跡北側の墳丘墓と、北内閣と、大型建物の中心線が、雲仙山頂と直線でつながる」という新聞記事を読んだ時は、とにかく嬉しかった。やはり、霊力を持つと思われる山を頂いて、宮殿や墓を作っていたのだと確認できたからである。同時に、雲仙を向いているとしたら、吉野ヶ里は、邪馬台国ではないとも思った。女王国が伊都国に一大率を置いている以上、その視線は九州北部に向けられているだろうし、「信仰の対象として、雲仙は遠すぎる」と。しかし、はるか遠くに見える山に畏怖の念を抱くのは当然でもあろうし、雲仙への信仰心が生まれたかも知れないとも思う。

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# by tizudesiru | 2011-09-19 16:02 | 12羽白熊鷲と古処山 | Comments(0)

13 九千部山と香椎宮の長方形

13 九千部山と香椎宮の長方形さて、先に高良大社を取り上げたが、この御宮に参拝した時である。本殿前階段下の茶店の御主人に、北西に連なる山地について尋ねた。
「あの山の連なりは、脊振ですか?」
「いえ、九千部です。脊振はここから見えません」
 まさかと思った。うねうねと続く山地は脊振山地でなくて何であろう。大きなレーダーもあるではないか。毎度、地図を広げていたが、耳納山地西端の高良大社からは脊振山は見えるつもりになっていた。大きな山の連なりが九千部と聞いて驚いたのである。戻って改めて地図を広げた。なるほど、脊振山の前にたちはだかる山塊は、九千部山(847m)である。脊振は山頂近くがわずかに見える程度。
 九五一年、脊振三千坊の隆信斜門が、民の苦しみを救い、風水害から守るために、法華経一万部の大願を起こし九千部山に入山した。しかし、九千部を読破した夜、白蛇の化身である美女が現れ、隆信は一万部の大願を果たす事が出来なかった。痩せ細った屍で見つかった隆信を、村人が祀ったという伝説のある九千部山。ここも後の世の信仰により山名が変わっている。
 背振山を隠すほど大きな山は、どんな働きをしているのだろう。
(ア) 九千部山と香椎宮
 定規を当てて、一瞬固まった。九千部ラインは北上し、須玖岡本遺跡を通り、まっすぐ香椎宮に達する。九千部と香椎宮は距離的にかなり離れている。定規で測ると五十三センチくらいある。直線で、二十六,七キロだろうか。香椎宮は、まさに神功皇后伝説の地であり、万葉集にも大友家持や山ノ上憶良が参拝したという香椎廟の地である。何で? ともかく経度を出してみよう。
 九千部山頂 (東経130度26分46秒)
 須玖岡本遺跡(東経130度27分2秒)
 香椎宮本殿 (東経130度27分8秒)
 
 若干、直線は傾いているようであるが、見た目には分からない。また、九千部山頂から須玖岡本遺跡までの距離と、須玖岡本遺跡から香椎宮までの距離はほぼ等しいようである。また、須玖岡本遺跡と飯盛山までの距離ともかなり近い。つまり、須玖岡本遺跡は、福岡平野の中央部にあることになる。弥生時代の地形が、どうなのかは分からないが、中心点として造営された遺跡や墓だろうか。
 もし、宝満までの距離もほぼ等しくなれば、そこには何らかの意図が働いた事にならないか。定規を当ててみたが、少し短いのである。等距離なら、宝満を越えて裏の斜面に直線が届く。この事を差し引いて考えても、須玖岡本は、大事な地点になる。東に宝満山、西に飯盛山。北に香椎宮、南に九千部山。長い南北ラインと東西ラインの交点が見つかってしまったが、それが何のためのラインか、考えなくてはならない。九千部の東にあるのは、何? 定規に当たったのは、宝満川である。二百メートルほどずれるが、御勢大霊石(みせのおおみたまいし)神社がある。また、みせたいれいせき神社とも言う。式内社である。御祭神は足仲彦天皇(仲哀天皇)。昔から此処に鎮座されていたのだろうか。
 社殿によれば、「大保の里が白洲で清浄であったので、神功皇后が天神地祇を祀り仮陣地とした」とある。白洲であれば、元社は、河原にあったのではないだろうか。皇后が天神地祇を斎祀った場所は、河原が多い。寺内の三奈木神社にも川原で祀ったとの言い伝えがあるし、猪野の皇大神宮も神功皇后が河原で斎祀ったと聞いた。すると、元々は河原にあった神社かも知れない。洪水で移動した猪野の皇大神宮のように、此処も出水対策に移動したものだろうか。
「仲哀天皇が熊襲征伐の折、この地で毒矢に当たり崩御された。激戦中であったので崩御を深く秘し、仮に御殯葬された。熊襲征伐後、崩御を布告し霊柩を香椎に移した後、皇后は天皇の御魂代として霊石を船に積み、三韓征伐を行った。戦勝凱旋して、その御魂代である霊石を、殯葬の地に宮柱を立て斎祭り、御勢大霊石宮と崇めた」という。
 延喜式には、名がみられるが、正史に出て来ない神社である。神功皇后二年の創建とされる。
緯度を出しておこう。東西に並んでいるようだ。
九千部山  (北緯33度25分10秒)
御勢大霊神社(北緯33度24分44秒)*現在地
宝満川河原 (北緯33度24分44秒)公園

 偶然だろうか。北にラインを伸ばすと、大宰府の南の山・宮地岳に当たる。この神社の元社は、地図の上では筑紫野の宮地岳の真南に位置するようだ。経度を出してみよう。
筑紫野の宮地岳山頂(東経130度34分7秒)
御勢大霊石神社本殿(東経130度33分50秒)*現在地
宝満川河原   (東経130度34分8秒)公園

 数字の上ではややずれているが、地図上の河川公園よりに元宮があれば、本殿と山頂は同じラインに並ぶことになる。考えてみると、御勢大霊石神社は、香椎宮の対角線の頂点に来るという事だ。じゃあ、九千部山の対角線に来る山は、あるのだろうか。香椎宮の東で、御勢大霊石神社の北に、山は果たしてあるのか。
(イ) 鉾立山
 そこに、鉾立山が見つかった。気になる山名ではあったし、伝説も面白かったので、印象に残っていた山である。
玉依姫は、神武天皇の父に嫁し、鎮座する山を求めて筑紫の山野を歩いていた。一行は、鞍手と糟屋両郡にそびえる一峰に辿り着いた。周囲よりぬきん出て高く眺望は絶景である。豊の国、筑紫の国を見渡し、北に大海原が開け韓さえ望まれる。『あな清が清がし』と仰せになり、そこを菅岳と呼ぶようになった。しかし、この山に決まると思えたのに、遠く坤(ひつじさる)・南西に山容の美しい山が見えた。そこで、神集いしていた神達に『いずれがよき? いずれか高きを選ばん』といわれた。それで、菅岳の前の山に鉾を立て、どちらが高いか測ることになった。すると、菅岳は砂で出来ていたため裾から減って、かの山より低くなってしまった。それで、へり山(縁山)と言い、鉾を立てた山を『鋒立山』という
 なかなか面白い。山の高さを測り比べるのに鉾を用いたという。棒のようなものを立てて、工夫して測量したものかと思われる。鉾立山の山頂は、東経130度34分7秒で、筑紫野の宮地岳とぴったり一致した。しかし、地図上では、山頂と香椎宮本殿がややずれるのである。緯度をパソコンで出してみよう。
鉾立山  (北緯33度39分3秒)
香椎宮本殿(北緯33度39分13秒)

 数字を出してみると、地図で見る時ほどずれない。距離的に近いのでずれを大きく感じるのだろう。
南の九千部に対し北の香椎宮、南の御勢大霊石神社に対し北の鉾立山の四点を頂点とする、長方形に近い細長い四角形が出来た。地図の上では、少しもゆがみは感じられない。
偶然にしても出来過ぎで面白い。その上、対角線で結ばれる二つの神社は、神功皇后でも結び付く。おまけに、長方形をほぼ等しく二分するのが、須玖岡本遺跡・宝満山神社・大城山・飯盛山の東西ラインである。
 この長方形の中にある土地には、どんな意味があるのだろう。どう説明できるだろう。これは、古代の国の姿や歴史を教えてくれるヒントになるのだろうか。古代の国が、長方形とは考えにくい。しかし、その中に大事なものがあったのだろう。では、国守りの結界のようなものだろうか。もし、そうであれば、気になる神社がある。飯盛神社と王城神社である。
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# by tizudesiru | 2011-09-18 17:06 | 13九千部山と香椎宮 | Comments(0)

国守りの祭祀は何処で行われたか

14 国守りの神社(祭祀場)は、何処に置かれていたのか
(ア) 夫婦神が弥生の福岡平野を守っていた

 福岡平野の西にある飯盛山の麓の飯盛神社は、早良郡平群郷(現在は福岡市早良区)にあり、イザナミノ尊、宝満大神(玉依姫)、八幡大神(品陀和貴尊)、中宮に五十猛尊を祀る。天太玉命イザナミノ尊を奉斎した事を創建の起源としているそうである。
 また、神宮皇后が三韓平定した後、奉賽の後、社殿を西に向けて若杉山に太祖神社を造営した。それは、早良郡の飯盛山に鎮座するイザナミノ尊の社殿が東に向かっているので、相対するためであったそうだ。太祖神社の祭神は、イザナギノ尊である。太祖神社を相対して造営した事から、飯盛神社は、先に存在していた国守りの山だという事だろうか。更に、夫婦神の片方だけが(飯盛山が太祖神社よりも早くから東を向いていた)古い時代から信仰されていた事になる。おかしいではないか。
 この他にも皇后が若杉山の若杉を香椎宮に植えたのが、今の綾杉だという伝承もある。

 地図上の大宰府の背後の大城山と、鉾立山を直線で結ぶと、若杉山の太祖神社を斜めラインが横切る。太祖神社が二つの山と深い関係にある事を暗示している。大城山も、宝満神社や飯盛山と同じ東西ラインに乗る山である。しかし、少し腑に落ちない事が出て来た。相対すると言いながら、真東を向いている飯盛山に対して、太祖神社の視線は真西ではない。東西ラインからかけ離れた位置に、太祖神社はある。

 ここで、飯盛山に鎮座していたイザナミ尊に対して、相対する東の宝満山にもともと鎮座していたのはイザナギノ尊だったのではないかと想像したくなる。そうしないと、イザナミノ尊だけが飯盛山に鎮座されているのは、不自然である。イザナギノ尊が、玉依姫以前に宝満山頂に鎮座されていたなら不自然ではない。東西の相対する夫婦山に見守られて弥生の福岡平野は栄えた。そして、後世「神功皇后」以後・鉾立山南北ラインを打ち立てた時代、政権の交代に従って祭神も交代した。宝満山の神が、若杉山に移られたのである。そして、やがて玉依姫が宝満山頂に降りた。どうしても玉依姫でなければならなかったのだ。玉依姫は、神武天皇の母である。神武の政治が始まったという事だろう。イザナミノ尊を祀っていたのは、天太玉命だったから、当然同じ首長がイザナギノ命を祀っていた事になる。この神は、神武に敗れた。

(イ) 王城(おうぎ)神社の由緒 宝満山の東に位置する大城(おうき)山にも伝承がある。太宰府の通古賀にある王城神社の由緒に残っている。
神武天皇が四王寺山(大城山も含む山全体のこと)に城を築く際、その峯に祭っていた事代主と武ミカ槌命を、天智天皇が大野城を築くので、通古賀に移した」先のイザナギ命が若杉山に移られた(政権交代があったらしい)の後、再び政治が変わったのだろうか。神武天皇の城に祀られていた神を、天智天皇が下ろした! という。

  六六三年白村江の戦いで敗れたので、六六五年(天智四年)に、大野城・基肄城の二城を築いた事は、書紀にも書かれている。この伝承は、その事ばかりではなく、「大野城以前に神武天皇の築いた城があった」と伝えているのだ。(*大野城は、大城山を含む古代山城・今、山全体を、四王寺山とよぶ)神武天皇の築城の時そこに祀られた事代主と武ミカ槌命を、天智天皇が通古賀の「王城神社」に移した。王城神社は、ほぼ大城山・都府楼ライン上に位置している。たぶん元宮は、大城山にあったであろう。移動した社が、都府楼の朱雀大路の右郭にある榎社(榎寺)の西にあるからである。そこは、ほぼ大城山の南に当たるから、同じライン上を移動したのだろう。榎社は、菅原道真が謹慎した南館跡である。

 他にも、「天智三年(六六四年)、大宰府を今の地(都府楼跡地)に移し、水城を築き、鬼門にあたる宝満山に八百万の神を祀った。六八三年、玉依姫を示現したので、玉依姫を鬼門封じの神として上宮に祀った」という伝承もある。大宰府は移動していた
 さらに、春日市の春日神社の「春日大明神記録」に、「斉明天皇のとき、中大兄皇子が四王寺山の山頂から此の地に、天児屋根命を祀り、その後七六八年(神護景雲二年)藤原宇合の第五子藤原田麻呂が、大和の春日大明神を迎えて春日神社を創立」とある。こんどは、四王寺山から迎えられたのは、天児屋根命だ。しかし、四王寺山にもともと神が祭られていたことは同じである。その神を四王寺山から降ろしたのは、どちらも同じ天智天皇である。

 つまり、天智天皇のとき、大きな変化があったことを伝えていないだろうか。
 天智以前、四王寺山(大城山)は、大事な山だった。それは、長い間大切にされていた山に違いない。早良の飯盛山の神と、東と西に相対していた宝満山の前山(同じ緯度)なのだ。そして、もともと事代主と武ミカ槌命、そして天児屋根命が祀られていた山城は、何のために築かれたのだろうか。やはり神の力を借りて、何処かを守っていたのだろうか。では、何処を? それは、太宰府と答えたが自然である。そして、その地は、かなりしぼられる。古代の福岡を守っていた神々には、事代主・武ミカ槌・天児屋根の神々もいる。この神々は、重要な場所を守っていた。

 そして、気になる山城がある。先に出て来た筑紫野の宮地岳の古代山城。正史に出て来ないが、白村江の戦いの後に築かれたのだろうと言われている。しかし、神武天皇が築いた元の四王寺山城(仮にこう呼んでおく)と同じ時代に造られたと仮定したら、どうなるだろう。
 面白い事に、宮地岳は鉾立山ラインに取り込まれている。鉾立山→砥石山→宝満山→筑紫野宮地岳→高良大社と南北ラインがつながるのである。宮地岳と高良大社には、神籠石がある。宮地岳から三二キロほど西には、雷神社と雷山神籠石がある。雷山神籠石も、正史には出て来ない建造物である。ここも、国守りの為の山城だろうか。

 神籠石は後に回して、気になる神社について、もう少し考えたい。

(ウ) 筑紫神社
 筑前野市原田に「筑紫国」の名のもとになったという筑紫神社がある。式内社でもある。
 御笠郡筑紫神社縁起は、「筑紫国風土記」をもとに作られたそうである。
境に麁猛神がいて、往来の人が、半ば生き半ば死んだ。その数が多かったので、人の命尽しと言った。筑紫君と肥君が占い、筑紫君の祖、甕依姫を祝(はふり)として祀らせた。その神を筑紫神として祀ると鎮まった」という。本殿の大きな額に「筑紫宮」があり、左右に田村大神と宝満大神の額がある。御祭神は、筑紫大明神と呼ばれ白日別神で、別名は五十猛命である。田村大神は坂上田村麻呂、宝満大神は玉依姫。ここが、筑紫の国の名の起こりともいう。「死んだものを葬るため木を切って棺輿を作ったので、山の木が尽きてしまった。よって『尽くし』筑紫という」という地名譚がある。そうなると、かなり古い由緒ある場所になるのだろうか。また、古代の地方の呼び方は、「ーー道」である。道の奥が「みちのく」であり、常陸は「直(ひた)道」であり、筑紫は、「道の尽きるところ」である。と、日本書紀の講座で先生から教えてもらった。そうならば、中央の地は、自ずから近畿ということになる。この中央と地方という認識は、いつから日本の共通認識となったのだろう。

 話を戻すが、筑紫神社は、もとは城山の山頂に祀られていたという。城山とは、基山(椽城が築かれた山)の事であると土地の人に教えてもらった。。筑紫野市の文化財課に電話で確かめると、「城山と書いてキヤマと読み、基山の事です」という答えが戻ってきた。筑紫神社は、もとは基山山頂にあった。
 またもや、天智四年に築いた大野・椽の二城の内の椽(基肄)城を築くために降ろされたのか。とすると、筑紫神社は六六五年以降に現地に社が造られたことになる。天智天皇の意志により、王城神社・筑紫神社と二つの神社が、同時代に同一の目的で山より降ろされたのだ。
 築紫神社の参道がほぼ南に真っ直ぐ伸びているが、その道を境に筑後と肥前が左右に別れていたと、岩戸山の講演会で聞いた。国境だったのである。白村江の戦後、国境を引くために利用された神社だったようだ。

(エ) 城山から降りた筑紫神社
 筑紫神社を地図の上で確認して良く見ると、前に鉛筆で引いたラインの跡が目に入った。御勢大霊石神社から北西に傾いて香椎宮までを結んだラインである。そのライン上に、御勢大霊石神社(式内社)→五郎山古墳→筑紫神社(式内社)→岩崎神社(志免にあり)→香椎宮と、小さな点が玉のように貫かれている。
 五郎山古墳は、以前にも紹介した双脚輪状文を持った装飾古墳だ。被葬者は小高い丘の上の、自分の領地を見渡せる地に眠っているのだ。自分の土地に王の墓があるという言い伝えを持っていた人が、畑に偶然見つけた円墳である。筑紫神社のすぐ近くからして、白日別命の関係の墓だろうか。いずれにしても、首長格の人の墓なのだろう。
古墳と二つの式内社をラインが通るとは、もはや偶然とは考えられない。しかし、何故? 
 御勢大霊石神社も、筑紫神社も移動したかも知れないのに。今の位置でなければ、直線上には来ない。結果から察するに、これらの神社を建立した時代には、この体制でなくてはならなかったのだろう。これは、新しい時代の、たぶん延喜式が造られた十世紀前後、または七世紀までさかのぼれる、国守りの体制だったと言えないだろうか。
(オ) 香椎廟と式内社

 そうなると、香椎宮は何故、式内社に入れられなかったのだろうか。香椎宮は古くから宇佐神宮と並んで朝廷の崇敬は厚く、祈願・奉幣は宇佐神宮に次ぐ。が、十世紀頃まで香椎廟として扱われ、神社ではなかった。それで、式内社とならなかったのであろう。「仲哀天皇九年、神功皇后がこの地に祠を建て天皇の霊を祀られたのが創建であるが、養老七年(七二三年)神功皇后の御神託により社殿の造営、七二四年に竣工された二つの廟をもって香椎廟とする」という。大友家持の歌「いざ児等香椎の潟に白砂の袖さえ濡れて若菜つみてむ」という万葉集歌もある。香椎宮については、香椎廟と呼ばれた時代と、香椎宮になった時代と分けて考えなければ、時間が交差して分かりにくい。地図に現れているのは、過去千数百年の歴史の縮図であるから。
・糟屋の屯倉として磐井葛子が大和に献上する以前(六世紀前半より前)
・仲哀天皇が香椎宮に滞在した頃
・香椎廟として朝廷の尊崇を集めた頃(七世紀半から一〇世紀前)
・香椎宮となり、今に至る社が造営され始めた頃
と、長い時間をかけて時代を通り変化して来たのである。

 北部九州の式内社が、直線上に並ぶのだが、それは、南北線でも東西線でもない。新しい並び方である。他の式内社も同じような配置やライン上に並んでいるのだろうか。
たとえば、式内社の八幡大菩薩筥崎宮からのラインは、式内社の住吉神社を貫いて背振山頂に結び付いている。式内社の麻氐良布神社からのラインは、同じく式内社の於保奈牟智神社を通り、筑紫野の宮地岳山頂にとどく。こうして見ると、式内社は、東西南北のラインを避けて定められているようだ。東に延びているラインもあるが、式内社ではない。穂波の大分八幡宮は、式内社の住吉神社を通り愛宕神社に辿り着く。大分八幡は、九州五所八幡に数えられる神社であるが、神功皇后に結び着く事は先に述べている。神功皇后なら他の式内社のように、朝廷の手厚い庇護を受けても良かったと思うが。この三神社ラインは、東西の関係になる。これが、延喜式以前の体制の信仰ラインだったとすると、そのまま受け入れるだろうか。東西ラインだったからこそ再利用を避け、政治的意図で筥崎宮に遷宮したのではないか。そうでなくては、簡単に宮を移す事はできないだろう。とても庶民の願いとは思えない。地域の人や歴史に基づいてこその神社ではないか。
 こうして見ても、式内社の位置は、過去の信仰ラインを継承していない。むしろ、神功皇后の伝説を掘り起こし、それを使って新しい国の鎮守としようとする意図が感じられる。
(カ) 辛酉の年に起こった「世直し」
 醍瑚天皇の御代は、天皇親政の時代である。九〇一年(昌泰四年)は、辛酉の年に当たっていた。「除旧布新」すべき年、「世直しのために改元すべき」事を上奏され、「昌泰」が「延喜」と改元された。九〇五年、醍醐天皇の命による延喜式の作成開始。行政の組織を作り上げようとした延喜式の時代は、盤石の国家を目指したのではなかろうか。その為、北部九州に残る「旧体制のなごり」を一掃しようと、神功皇后を利用したのではないだろうか。
 過去にも、世直し・体制の変革を目指した時代が幾度もあった。七二三年にも、元明天皇の時代だが、地名の字を佳字に変え、二字にするよう詔勅が出ている。この時代も、過去を断ち切り、新しい国家を打ち立てようとしたのだろうか。詔勅は二回目も出ているので、国の隅々まで国家の意図を浸透させるために、地方の歴史なり、人々の思いなりの含まれた土地の名を変えたのではないか。
 延喜式以前の国のありようは、式内社で見つけるのは難しい事になる。
 延喜式以前の埋もれた歴史を見出すためには、飯盛神社のような、山と結びついた古い伝承の神社で、神功皇后が出て来ないところを探さなくてはならないのだろうか。
 または、神功皇后は実在していた。彼女は、武内宿禰とともに近畿に攻めのぼり、応神王朝をたてた……
 それにしても、何故、九州で活躍し、近畿に攻めのぼった人物が女性なのだろうか。神功皇后なのだろうか。他には武内宿禰がいるが。二人は、九州に受け入れやすいイメージを持っていたのだろうか。そういえば、田油津姫や八女津媛の伝承もある。女性のリーダーは人気があったのだろうか。または、女神信仰があったのだろうか。
 四王寺山の伝承で少し見えて来た、大野城建造の前にあったという神武天皇の城は、どういうものだったのだろう。(神武天皇が「日本書紀」の神日本磐余彦天皇であると単純に受け止めているわけではない。むしろ別人として、伝承上の人名としては扱っているつもりであるが)

そして、鉾立山→砥石山→宝満山(竈山)→宮地岳山城→高良山神籠石の南北ラインは、いつの時代まで有効だろうか。重要なラインだったような気がしてならない。

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# by tizudesiru | 2011-09-17 20:39 | 14国守りの山は何処に? | Comments(0)

15 神籠石は古代を教えてくれるのか?

15 神籠石は古代を教えてくれるのか?
 九州北部の神籠石は、白村江戦後に造られた山城というのが、今日では定説になっているそうである。そうなのだろうか。
 高校社会科でも、「白村江の戦いに敗れ、敵の襲撃に備えるため、慌てて造られた為か、大野城(日本書紀に書かれた山城)の造りは粗悪なもので、石垣もいかにも工事が粗い」と教えられた。よほど慌てたに違いないと思ったものだ。大人になって、四王寺山を見に行くと、高床式の倉庫群があったらしいことが、綺麗にならんだ礎石群で分かった。今に残る石を見て、しっかり土台を作ったから流れもせず残ったのだと感心したものだ。
 前回と重複するが
七世紀の大野城以前に、六世紀に古代山城が造られていた。そこに、事代主、武??槌を祭っていた」と「王城神社由緒」で述べている。同じく四王寺山から降ろされた天児屋根(春日神社の由緒)も入れて、少なくとも三神が祭られていた。大野城以前に四王寺山城を作り、神を祭ったのは何の為か、再度確認しておく。
 飯盛神社の神は東を向いていたから、当然、宝満山の神は西を向いていた。夫婦山として相対する東西の山(双方の神)は、東と西から福岡平野を見守っていた。そして、大城山は宝満を背中に背負い西を見ていた。または、宝満山を背負った大城山(四王寺山)には祭祀場があり、また都を守るための山城(古代山城)が造られていた。ようやく七世紀以前の福岡が見え始めた気がする。
 
 他の山城(神籠石)はどうなっているだろうと改めて興味が湧いて来たが、不思議な気分だ。初めて神籠石を知った時は、謎の古代建造物として興味津々だった。それで、鹿毛馬神籠石や御所ヶ谷神籠石を見に行ったが、現地の説明板に書いてある以上の事は何も分からなかった。むしろ、六世紀頃の土器も出ているし、その頃の山城だろうと納得したと思う。それが、今更のように、神籠石に興味を持ち始めて、何だか逆戻りした気がする。それに、九州北部に集中的にある事から理由を考えると、余りに単純な答えになる。多くの人から聞いたようなことしか、頭に浮かばない。「神籠石は、大宰府を守っている」となる。それ以外なら、「大和に敵が入るのを防ぐために、前線基地の大宰府を守っている」となるのだろうか。
 祭祀施設としての説も聞くが、設置された場所がそれぞれまちまちに思える。山深くであったり、交通の要衝であったり、何の特色も感じられない里山であったり、神域であったり、共通するのは、列石や水門などである。
 いや、神籠石が祭祀施設説でも山城説でも構わない。神武天皇の四王寺山城にしても、山城であり、祭祀場でもある。山城に神を祭っていても、不思議ではない。命を賭して戦う時、何かにすがりたいものであろうし、中世の武士も守護神を頼みとした。先の大戦ですら、息子を戦場に送る親は、護身用の守り刀を持たせたと聞く。何か霊力のある物を傍に置きたいと思うのだろう。神籠石について祭祀の面からも考えてみたい。
 まず、鹿毛馬神籠石は、何故、かの地にあるのか。
 鹿毛馬の周囲にあるのは、西に遠賀川、東に彦山川である。二つの川は下流で遠賀川となる。これらの川を遡って来る敵を防ぐ役目に違いないだろう。鹿毛馬の南には、馬見山・屏山・古処山が並ぶ。その中央の塀山を背負って、北の響灘から来る敵を見張る山城となっている。三連山の霊力に支えられた城であろうか。
鹿毛馬神籠石(東経130度44分4秒)
屏山    (東経130度44分25秒)

 鹿毛馬神籠石の東には、五所ヶ谷神籠石がある。二つの神籠石はほぼ同じ緯度に並んでいる。連携しているかも知れない。御所ヶ谷の近くには、周防灘に流れ込む今川や祓川がある。南には、英彦山の北岳、中岳、南岳がある。御所ガ谷神籠石は英彦山を背負って、周防灘から入りこむ敵を見張っているのだろう。
 御所ガ谷と鹿毛馬の両神籠石の間には、香春岳の一ノ岳がある。ニノ岳、三ノ岳の力も借りているのだろう。一ノ岳には、香春神社がまつられている。
御所ガ谷神籠石(北緯33度40分29秒 東経130度55分53秒)
香春岳一ノ岳 (北緯33度40分33秒 東経130度50分23秒)
鹿毛馬神籠石 (北緯33度40分37秒 東経130度44分4秒)
屏山     ( 東経130度44分25秒)
英彦山・中岳 ( 東経130度55分35秒)

 同じような事、信仰の対象となる山を後ろに背負った神籠石が、他にも存在するのだろうか。
 筑紫野の宮地岳(古代山城)は、どうだろう。北に宝満山を背負っているから、南を向いているのだろうか。よく見ると、宮地岳山頂は、東隣の砥上山と並んでいる。
宮地岳(北緯33度29分34秒 東経130度34分7秒)
砥上岳(北緯33度29分34秒 東経130度36分38秒)

 近いので、山頂の緯度がほとんどずれない。砥上岳には、またもや神功皇后伝説がある。羽白熊鷲征伐の折、刀を研いだので「砥上岳」という。刀を山頂で研ぐとは、何かのまじないのような、または戦勝祈願のようなものだろうか。砥上岳は神の山だったらしい。
 宮地岳と砥上岳の間を長崎街道が通っている。国道二〇〇号線と重なる。交通の要衝だから、宮地岳は砥上岳と連携して、飯塚方面(遠賀川流域)への道をふさいだようだ。
 更に、宮地岳の西は、国道三号、九州高速道、鹿児島本線等、主要交通機関の通る超重要地点である、昔も今も。此処に、山城を置かない訳はない。宮地岳山城は、大規模なものだっただろう。三郡山地と脊振山地の間の断層地形の重要な峡地を守るのに、砥上岳のようにもう一つなにか山城が必要だと思うが。
 宮地岳の西に見えるのは、天拝山である。山頂は、宮地岳と緯度がややずれる。
しかし、ここは菅原道真が都に帰れるように、天に祈ったという伝説の地だ。実際の道真は、ひたすら都府楼前の朱雀大路の右郭にあった南館に謹慎し、都の許しを願っていた。天拝山に登るはずはない。天拝山の山頂下には武蔵寺がある。蘇我山田石川麻呂を裏切った蘇我日向は、大宰府にしのび流しをされたが、彼が建てたと伝わる筑前で一番古い寺らしい。そこは、後世に寺を建てるにふさわしい場所だったのだ。武蔵寺の辺りが宮地岳と連携するには適当な処だと思うが、勝手な意見かもしれない。それにしても、古代の天拝山では何を祈っていたのだろう。
宮地岳(北緯33度29分34秒)
天拝山(北緯33度28分54秒)
武蔵寺(北緯33度29分22秒)

 国の安泰を天に祈っていたのではないか。天拝山の東には英彦山があり、西には雷山がある。英彦山と雷山は、離れているが東西の関係にある。この二つの山は東と西の端から国を見守り、国守りの山とされていたのであろう。宮地岳と英彦山の間の直線距離と、宮地岳と雷山の直線距離は数字的にはかなり近い。ほぼ中心地点に宮地岳は位置しているようだ。そして、此処は交通の要衝。宮地岳には堅牢な山城と祭祀場が必要だったのではなかろうか。
 ちなみに天智天皇の命により築造された基肄城は、天拝山より五キロほど南に下がる。
では、次の神籠石を検討しよう。佐賀県の帯隈山神籠石は、どうだろう。
脊振山地の南山麓に、小高い山が並んでいる。
鈴隈山(133m 北緯33度20分8秒)
帯隈山(175m 北緯33度20分8秒)
早稲隈山(163m 北緯33度20分10秒)
真ん中の帯隈山に神籠石がある。近くにエヒメアヤメの自生地があり、花の咲く頃はボランティァが花を守っている。三山の東南には、日の隈山(158m 北緯33度19分59秒)があり、四山は並んでいるようだ。帯隈山と結びつくのは天山である。
天山てんざん(1046m 北緯33度20分20秒)
あめやま  (996m  北緯33度20分5秒)

西の天山を背負って帯隈山が見ているのは、筑紫平野だ。天山は佐賀で一番高い山だと聞いていたが、脊振(1055m)と経ヶ岳のほうがわずかに高いそうだ。しかし、遠く熊本からも島原半島からも目立つ高い山は、天山だ。当然ながら、神籠石を後ろから支えてくれる山に選ばれたのだろう。かなり山と神籠石の関係がはっきりして来た。
 それじゃあ、経ヶ岳は何も支えていないのか。
 実は、おつぼ山神籠石の南に、経ヶ岳の峰が並んでいる。
おつぼ山神籠石  (東経130度3分28秒)
経ヶ岳(1075m 東経130度4分34秒)
 経ヶ岳の峰(865m  東経130度4分6秒)
 経ヶ岳の峰(822m  東経130度3分44秒)
と、並ぶがすっきりしない。北に控える山を見てみよう。作礼山がある。
作礼山(887m  東経130度3分57秒)となる。
地図検索の画面上の神籠石の地図記号にカーソルを当てているので、位置の操作はしていない。やや数字がずれる。しかし、経ヶ岳と作礼山の間におつぼ山があるのだろうか。三者は南北ラインに並んでいる。では、おつぼ山は、どこを見ているのだろう。実は、三方向を見ているのだ。おつぼ山の場所は、有明海に臨み、武雄と嬉野の間にある。長崎、大村、唐津への三方面への分岐点にあるのだ。ここも交通の要衝である。山城のあるべき場所だった。
だんだん神籠石の本質が見えて来た。後は、女山神籠石と杷木神籠石、高良山神籠石。
 女山神籠石は熊本との県境に近く、矢部川を見張り、その向こうの有明海を見ている。女山神籠石を支えているのは、東に並ぶ県境の山、男岳、姫御前岳、女岳である。頼みの山を東に背負うから、間違いなく此処から西の有明海を見張っている。
女山神籠石(北緯33度9分36秒)
男岳 532m(北緯33度9分38秒)
姫御前岳514m(北緯33度9分59秒)
女岳 595m(北緯33度10分17秒)

 この遺跡はかなり開発が進み破壊されているようだ。
 そして、杷木神籠石は、どの山を背負っているのだろう。これは、よく分からない。あえて言えば、マテラウ山であろう。この神籠石は筑後川に乗り出すように位置している。日田を過ぎて渓谷を流れた筑後川は、杷木を過ぎると一気に筑紫平野に蛇行して広がっていく。入るにも出るにも、大事な場所に違いない。平野との境目を守っているのだ。
それから高良山神籠石だが、耳納山地の最高峰の鷹取山を真東に背負い、西を見張っているのは容易に理解できる。ここは、筑紫平野が一望できる場所であり、筑後川の河口を見張る事が出来る。北に広がる筑紫平野、その奥に宮地岳、宝満山、砥石山、鉾立山と中心の山が連なる聖なるラインがここから北上する。
雷山神籠石は、すでに何度も出てきた。この後も、登場するだろう。
 この他にも北部九州には最近発掘された土佐井の神籠石があるが、地図上に記載されていないためにカーソルを当てる事が出来ない。緯度経度が出せないので取り上げていない。地図上に記載されたそれぞれの神籠石は、次のようにまとめることが出来る。
 そこは、頼みとする神の山を背負って一定の方向を見張り、協力してどこか大切な地域を守っている。造られたのは出土物から推定される六世紀のようだ。「白村江の戦い」前に、誰かが目的を持って造ったという事である。そして、白村江の戦い後に造られた大野城・基肄城、高安城(畿内)等とは似ているが、若干目的が違うようだ。
 書紀によると、近畿の高安城熊津都督府(百済に置かれた唐の占領政府)熊津県令が境部連石積らを筑紫の都督府に送って来た天智六年に、讃岐屋島城、対馬金田城と共に造られている。また藤原鎌足内大臣が薨去した天智八年に修理し、畿内の田税を納めている。この年に斑鳩寺(法隆寺)が焼けたという記事が突然挿入されている。天智九年にも高安城の修理を行い殻(もみ)と塩と積み入れた。明らかに戦争の準備をしている。天智十年に天智天皇崩御。天武元年の壬申の乱では、近江軍が城として使っている。が、天武軍に攻められ近江軍は税倉をすっかり焼いて逃亡。その後、天武四年、天皇行幸。持統天皇三年、天皇行幸。高安城は実戦で活躍した重要な城だったようである。
 では、こちら九州の神籠石は戦闘とかかわっていないのだろうか。正史に出て来ない。しかし、神籠石が教えてくれた古代の姿、それは戦争を意識して造られている。更にはっきりしたことを付け加えれば、神籠石は北部九州を守っている。畿内を守っているとは考えにくい。それも交通の要衝を見張っている。神籠石の時代は、守るべき場所として、北部九州を捉えていた。そこには、九州北部の古代から続く山信仰を背景にした思想があり、大事な場所を守ろうとする人間集団がいた。で、あるが、山城の地形・位置などから考えても、神籠石山城は利便性のいい場所にはない。造るのは困難だったはずである。しかし、人々はその大事業を忘れてしまった。正史に記録されていないだけではない。不自然過ぎる。工法や山城の形態から、北部九州の神籠石はほぼ同時代の建造物だという。これだけの工事が同時期に行われたのだ。国を挙げての大事業だったはずである。七世紀の白村江の戦い後、出兵で疲弊した北部九州に、こんな工事をする余力があったとは考えにくい。やはりその前の六世紀に造られたのだ。神籠石が忘れられた理由こそ、政権交代を示しているのではないか。そこに、古代の真の姿が見えるのだろう
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# by tizudesiru | 2011-09-16 21:09 | 15神籠石が教えてくれる古代 | Comments(0)

16 守られた土地は太宰府?

16 守られた土地は太宰府?
 神籠石山城を作り、守らねばならない場所が北部九州にあった。そして、当時の人々もその事を理解していた。そこは、何処だろう。太宰府なのか。それとも、筑後川を含む筑紫平野の中のどこか。
 太宰府の山と山城を地図上で結ぶと、面白い事が見えて来る。
(ア) 大宰府の四角形
 南の宮地岳と北の宝満山は直線距離で五キロほど離れているが、宝満山と西の大城山も、直線で五キロほどの距離である。此処にほぼ正方形の聖域が出来そうだ。正方形とはすばらしい。宝満・宮地・大城の三点は、見つかったが、もう一点は……何処だろう。
 宮地岳と大城山は対角線の頂点になる。どちらも、山城として向き合っているのである。
 宝満山の対角線に来るのは、都府楼の南に直線を伸ばした位置。大城山から五キロの地点になる。
 宮地岳から西へのラインと、大城山から南へのラインの交点だが、大城山から都府楼を通り、朱雀大路を抜け、二日市駅の西側、塔ノ原辺りになる。塔ノ原は、寺院の塔の礎石が見つかったので「塔ノ原」という地名になったそうだ。その礎石は、何処から運ばれたかはっきりしないそうである。
 問題の交点は、平地の上になる。そこに、塔が建っていたとしたら、どうなるのだろう。仏教の寺院とすれば、天智天皇統治前の寺院となろう。しかし、何らかの理由で、塔は取り除かれた。礎石は重いので、遠くに運べず放置された。憶測で申し訳ないが、それは、都府楼の南前二・五キロに立っていた塔になる。大に点のない「大宰府」が置かれた時、邪魔になったから、壊されたのだろうか。ともかく塔が建っていたと仮定すると、正方形の聖域が出来る。それは、塔以外のものでも構わないが、何か強力な意味のある建造物があったと仮定すると、方形の空間が見えて来る。
 そうなると、後世の都府楼跡は、正方形の外枠に位置する事になってしまう。政庁跡として、長く調査を受けている場所なのだが、天地三年以前には中心地に位置しなくなる。どう考えればいいか。政治権力の強制力なしではできない事が、大野城を築いた時に起こったのだ。政庁の建物を建てる時に、一番端のラインが中心線に変わったのである。
 観世音寺もほぼ昔の位置にあるらしい。発掘の結果、太宰府の条坊に沿って立っているらしいのである。そうすると都府楼の前の東西に貫くメイン道路は、昔も道だった事になる。この道は、正方形をほぼ南側と北側に二等分する。では、東と西に等分するラインはあるだろうか。それは、ある。
 地図を見て気が付いたが筑紫神社と太祖神社を結ぶ南北ラインは、正方形を東側と西側に二等分する。
太祖神社(東経130度32分33秒)
筑紫神社(東経130度32分34秒)
ほとんどずれない。この太祖・筑紫ラインが、大城山・宝満山の東西ライン五キロを二等分する。
式内社だが、筑紫神社は古代の伝承を伝えている。この筑紫神社と、若杉山の太祖神社は、南北の関係にある。東の宝満の竈神社と西の飯盛山が向かいあっていた事は、既に書いた。北と南で向い合っていたのは、筑紫神社と太祖神社である。若杉山で神功皇后が飯盛山に向かって社を建てた伝承には、やはり無理がある。宝満と飯盛が向かいあい、筑紫神社と太祖神社が向かい合う。国守りの神社なら当然かも知れない。東西南北の関係なのだ。
 対角線が交差する点、二等分線が交差する点は、どこだろう。
その中心点は、太宰府天満宮の南東五〇〇メートルほどの地点、石坂の東の岡、ゴルフ場の辺りである。そこには、近くに、小さい高雄山がある。都府楼前のメイン道路の直線がいきつく場でもある。
この地点なら、宝満山は大宰府の北東に当たり、鬼門となる。「竈山旧記」によると『大宰府が置かれた時に大宰府の鬼門を護るために建設された』と記されている。陰陽道に基づいて建設されたようだ。しかし、石坂の東の地でなければ、竈神社は鬼門を守っているという言葉の通りにならない。この正方形が示すように、古太宰府の中心は、石坂の東の岡の上辺りにあったのだ。高雄山の斜面には、石穴観音がある。王の墓だろうか。
 太宰府天満宮の辺りを、宰府という。昔の言い伝えの地名として使っているではなく、小字だった。西の都府楼の辺りに朱雀や都府楼の地名に混じって、坂本や国分や水城の地名がある。一方、都府楼から距離的に離れた東の天満宮の辺りに、宰府だけでなく太宰府や連歌屋、三条や五条、白川や高雄などの地名がある。どうも釣り合わない。太宰府の地名から推測しても昔の中心地は、やはり石坂の上辺りだったと十分考えられる。そうだとしても、何時、何故、変わったのか。やはり、天智天皇の時代か。巷の説の通り白村江の戦いに敗れ、戦地へ出ていた王達は戻れなかったのか。
新聞記事を読んで、不思議に思った事があった。都府楼跡の発掘で、大宰府に空白時間があったのだ。太宰府政庁跡には三つの時代の遺構があった。地上の礎石の六〇センチ下に同じような配置の礎石が確認された。更に、その下に掘立柱の柱穴があった。記録と照らし合わせて、礎石の並びから発掘した遺構の年代を決めていくと、不思議なことに、白村江の後の建物が掘立柱になることが分かった。山城として突貫工事をした大野城でさえ、倉庫は礎石の上に建っている。釣り合わないという事だった。発掘の結果、謎は深まったのだ。読んで何故だろうと疑問を持ったが、もし中心地が石坂の東だったなら、西の都府楼跡の辺りは、王都入口の付近になる。そして、南西の裏鬼門には、塔が建っていた。
太宰府ではなく、大に点のない大宰府が大和朝廷の役所として機能し始めた時代に、現在の都府楼跡に石の礎石の建造物が現れても不思議ではない。掘っ立て柱は、その前の時代の遺構だ。そこにもともと何があったのだろう。真っ直ぐ石坂に伸びる道路にはどんな建物がならんでいたのか。
宮殿に向かって伸びた東西メイン道路が、都府楼前の朱雀大路(南北メイン道路)に変わった時、中心地も変わった。昔の王宮は捨てられた事になる。
地図は、思いがけず古代の王都を教えてくれた。そう、これほど守られていた土地は王都でしかありえない。が、しかし、誰の都だろうか。七世紀に王都を造り変えたのが天地天皇として、その前に玉座についていたのは……
王を特定しないまま、6世紀に太宰府は王都だったとしておこう。七世紀後半、支配者が変わり天智天皇による新しい政治が始まると、大きな役所の建て替えに伴い、それまでの国守りの東西重視の信仰は否定され、主祭神も変わり神祀りの方法も変わった。新しい支配者は、仲哀・神功の流れを強く受け継ぐ人々である。都府楼を中心とした筑紫支配の為に、南北重視の神祀りライン香椎・鉾立山・御勢大霊石神社・九千部の四点を頂点とした長い四角形を作り上げ、筑紫の王都(古代大宰府)をはるかに超えるようにした。長四角形はおよそ正方形王都の十倍の広さになり、古代王都も含まれる。歴代王の祖霊の昇る脊振山は、「天竺の鬼門」として避け、東西信仰の英彦山・雷山ラインも忘れようとした。そこに、後に山岳宗教が入りこむ余地があったのだ。
更に時を経て、醍醐天皇の「延喜式」により政治が行われる時代になり、再び古代の国守り信仰の残骸が再度見直され、結果として式内社が選定された。九州北部では神功皇后伝説を利用して、それまでの歴史を背負う神社の事実上の格下げが行われた。此処で、東西南北の国守り信仰が、ずたずたに分断されたのである。
では、それほどに信仰の形や神社の格式等を変えなければならない政治的理由は何だろう。政権交代だけでなく、天智天皇には特別の理由があったのかも知れない。
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# by tizudesiru | 2011-09-15 22:43 | 16六世紀の都 | Comments(0)

17 太宰府は皇后伝説の空白地?

17 太宰府は皇后伝説の空白地
 少し遡って、太宰府を見てみよう。
 日本書紀の仲哀天皇の巻には、九州北部の地名が多く出て来る。紀伊国滞在中に熊襲が従わず朝貢しなかった事を知り、熊襲征討のため山口の穴門まで来て皇后を勅により呼び寄せた。皇后は穴門の豊浦宮から、仲哀天皇八年に筑紫に渡った。その時、出迎えたのが岡県主(おかのあがたぬし)の祖、熊鰐(くまわに)である。遠賀川を船で遡るのに難航したようである。縄文時代には奥地まで海が入り込んでいたが、時代が下がり河底が浅くなっていたのだ。また、筑紫の伊覩(伊都)県主の祖、五十途手も服従の姿勢で迎える。儺県(なのあがた)に着き橿日宮に滞在。そこで群臣と熊襲征討の相談となった。その時皇后が神がかりとなり、熊襲より新羅を討つようにと神託がくだる。しかし、天皇は訊かず熊襲を征討しようとしたが、勝てずに帰り突然体力が弱り翌日に崩御。密かに遺骸は穴門に遷して、豊浦宮で殯葬したという。別伝では、熊襲を討とうとしたが、賊の矢に当たって崩御という。
 次は、神功皇后の巻。天皇が橿日宮にて崩御された事を悲しみ、祟った神を知り罪を払うため、小山田邑(宗像郷山田村)に斎宮を造った。この時、名の出たのは、渡会県の拆鈴五十鈴宮の神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、尾田節の淡郡に坐ます神(志摩国?)、天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神橘小戸の表筒男・中筒男・底筒男の神(住吉三神)である。
 それから、熊襲は自ら服従したが、荷持田村(のとりのたふれ)の羽白熊鷲が従わないので、討つために松狭宮に遷る。層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲を討つ
熊鷲を討った層増岐野(そそぎの)は、場所が特定されていない。しかし、雷山は層増岐(そそぎ)山と呼ばれていた。熊鷲かその一族が雷山で戦ったのだろうか。雷山には雷山神籠石山城もある。もし雷山神籠石山城が熊鷲軍の最後の戦いの場所であれば、彼らが戦ったのは六世紀になる。 

 次は、山門県(大和郡瀬高)に土蜘蛛田油津媛を誅殺。次は、肥前松浦県玉島の里の川で鮎釣りをして占う。それから、儺河(那珂川)の水を神田に引くために裂田溝を掘る。それから、男装して船を整え、財土を求めることにした。そこで大三輪社(朝倉郡・於保奈牟智神社)を立てると兵士が自ずから集まった。準備を整えて出発しようとしたが、ちょうど臨月だったので、石を取って腰に挿んで新羅に遠征した。その石は伊都県の道辺にあるという。新羅王は皇后の進軍に驚き恐れて服従し、朝貢を約束する。この時、重宝の府庫(くら)を封じ、地図・戸籍・文書を収めた。(新羅国にはすでに戸籍があったと書紀は書いている)これを見た高麗と百済の王は自らやってきて朝貢を約束する。いわゆる三韓、内官家(うちつみやけ)である。皇后は新羅から帰り、宇瀰(宇美)で誉田(応神)天皇を出産。この後、皇后は武内宿禰と畿内に帰り、香坂王と忍熊王と戦う。ついに、二人を滅ぼし、皇后は摂政として政治をする。
 皇后の巻の前半は九州であるが、大宰府の辺りの地名はほとんどでてこない。風が笠を吹きとばしたという伝承の御笠山は、後の宝満山である。近くを通ったようだ。

 福岡各地の伝承に幾度となく出てくる仲哀天皇は香椎の宮におられたが、伝承では筑紫平野の大保近くでの戦闘中に亡くなった。その仲哀天皇は、大宰府には踏み込んでいない。立ち寄った形跡がないのは、まだ太宰府が都として機能していなかったからだろうか。
 古事記にも「帯中日子天皇、穴戸の豊浦宮、または筑紫の詞志比宮に坐しまして、天の下治らしめき」とある。香椎は行宮ではない。そこに、畿内とつながる宮があった。それは、いつの時代に造られたのだろう。そこは、宮が置かれるほど、中央の勢力が入っていた。その辺りは、磐井葛子が献上した糟屋の屯倉だろうか。葛子が糟屋の屯倉を献上したのは六世紀である。
 何度も確認するが、磐井の乱は五二七年である。五二八年、磐井の乱を鎮圧したこの年、継体天皇が大和に都をおく。(崩御は、五二七年、五三四年と定かではない)この年、磐井葛子が糟屋の屯倉を大和政権に奉る。磐井の罪に連座する事を恐れたためという。この記録の他にも屯倉の献上はあったかもしれないが。
五四〇年欽明天皇即位。五六〇年伽耶(任那の官家)滅亡。
 香椎辺りに糟屋屯倉があったのなら、此処は博多湾に守られ、近くには防人の名を問うたという「名島」があり、三本の川がある。多々良川は宮若市に迫り、須惠川と宇美川は宝満・三郡山から流れだし、上流は太宰府に迫る交通の要衝である。葛子は大事な土地を手離したことになる。が、同時に、この時点まで筑紫の国の北岸には磐井の勢力があった。博多湾岸の香椎辺りまで、力を持っていたことにもなる。そうなると、位置的に太宰府も、まだ筑紫君の勢力圏にあった事になる。その終焉は、大城山の南の都府楼跡に、初めて大宰府が置かれた時だが、それまでの百年、太宰府がやはり筑紫の都だったのか。屯倉が置かれたので畿内の勢力が入って来たとすると、神功皇后の話は三世紀初頭ではなくなる。香椎の宮の建造が、屯倉が置かれたあとと考えるならであるが。
 伝承の神功皇后と武内宿禰は、仲哀天皇と古代九州のまつろわぬ豪族を誅殺した人物になっている。彼らも太宰府には入っていない。羽白熊鷲は秋月の古処山を本拠としたそうで、太宰府の南にいた豪族である。香椎から南下すれば太宰府のすぐ傍を通って進まねばならない。関や山城があって通れないとしたら、太宰府の王とは敵対していたことになる。田油津媛を倒し、那珂川町山田では神田に水をひくための井堰を造り、裂田の溝を掘り通水したという伝承もある。那珂川町は太宰府から決して遠くはない。しかし、大宰府に入った形跡はない。全国に皇后の所縁の地があふれているというのに。同じく武内宿禰も全国に名が知れ渡っている。伝承が多すぎるのだ。
 皇后の墓も定まらない。奈良の宮山古墳(238m前方後円墳)は武内宿禰の墓というが、子の葛城襲津彦の墓という説もある。これより少し前に造られた巣山古墳が武内宿禰の墓の可能性が出て来たようだ。巣山古墳の中心線は、佐紀石塚山古墳の後円部中心を通る。神功皇后陵墓は、平安時代には隣の佐紀陵山古墳とされていた。が、それが誤っているとのことで祟りがあったそうだ。やはり石塚古墳が神功皇后の墓になるようだ。それにしても、神功皇后陵墓参考地は、全国に八九六ヵ所あるらしい。特定のしようもないだろう。武内の宿禰墓も方々にあるのだ。
 福岡県田川郡香春町高野には、鏡山大神社という皇后所縁の神社がある。三韓出兵の折、仲哀天皇と神功皇后はこの地で天神地祇を祀り、必勝を祈願したが、その時神功皇后の御魂を鎮めた鏡を奉祭したので鏡山という。このような所縁の地を辿れば、墓の数ほどの伝承地が出て来るのだろう。しかし、太宰府には、伝承がない。何故か。伝承は必要なかったか。伝承が入り込む余地がなかったのか。
 久留米の風浪宮は「おふろうさん」と呼ばれ、此処も神功皇后ゆかりの神社である。外苑の一遇にある磯良丸神社は、安曇磯良丸を祀る。この人は三韓遠征のとき干珠満珠を持って皇后に従った後、凱旋して風浪宮の初代神官となったという。現宮司まで六十七代に及ぶ。付き従った船頭のうち七名も当時の船名を継ぎ、この地域の神事に参加するという。船の名前が残っているとは驚きである。
 筑後の式内社は、高良大社、伊勢天照御祖神社(久留米市御井町)、伊勢天照御祖神社(久留米市大石町)、豊比哶神社(久留米市上津町)、豊姫神社(久留米市北野町)、御勢大霊石神社(小郡市大保)の六社である。この中の高良大社の奥宮(奥の院)は、武内宿禰の墓所という言い伝えがある。久留米の北野町にある豊姫神社の「豊姫縁起」にも、景行天皇や神功皇后の征西にかんする伝承が書かれている。応神天皇誕生の地は、此処であるという伝承もある。北野町の旧大城村一帯は、水沼君の本拠地であったという。末裔が住んだという稲数という地名もある。水沼君はかなり皇后に接近しているようだ。
 これほど具体的な伝承が揃っている地域があるのに、仲哀天皇と大宰府を結ぶものはない。崩御後も香椎に運ばれている。流れ矢が当たって亡くなったという大保の地から香椎の宮は遠い。太宰府の方がかなり近い。ここが畿内の王と関係の深い都であれば、仲哀天皇の棺が運び込まれたはずである。仲哀天皇は筑紫の王都とは無関係な存在だったのだろうか。それとも、王都はなかったのか。
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# by tizudesiru | 2011-09-14 08:25 | 17神功皇后伝説の空白地 | Comments(0)

18 太宰府と大保と大分

18 太宰府と大保と大分
 太宰府と伝説の地「大保と大分(だいぶ)」は、つながりがあるのだろうか。太宰府から大保までの距離と、大宰府から大分までの距離はほぼ同じである。
小郡市大保の御勢大霊石神社は、もちろんの神功皇后伝説のゆかりの地である。この近くに大規模な建造物の跡があるようだ。地方役所( 郡衙)の跡らしいのだが、方二町(約240m)は大きすぎるらしい。書籍名は忘れたが記述の中で、「天子の徳を保ち、安んずる宮」の太保府の跡ではないかという説を読んだが、その事がブログにも書かれていた。 そういえば、穂波町の大分八幡宮を訪ねたとき、近くの大分廃寺を知った。この遺跡は、大分八幡と同じ緯度にある。東西ラインで結ばれるのだ。何らかのつながりがある建造物になるのだろう。
穂波の大分八幡宮(北緯33度35分7秒  東経130度37分32秒)
穂波の大分廃寺塔跡(北緯33度35分7秒 東経130度38分12秒)

 廃寺跡に立って新羅系の瓦が出土したという説明書きを見た。そこで、磐井が新羅から貢物を貰っていた事を思い出した。しかし、案内板には八世紀の建立と書かれていた。磐井の時代は六世紀前半であるから、かなり後の時代となる。
 また、大分も太傳府ではないかという説があるらしい。ブログには太傳「天子の師傳となる官」であり、筑紫王朝の太傳府が置かれたところであると書かれていた。太傳府があったから、セットとして近くに寺もあったのだろうか。しかし、時間のずれはどう解決すればいいだろうか。
 大分八幡宮の創建は、七二六年と書かれている。しかし、この年代は宇佐神宮の由緒と矛盾する。「大分宮は我が本宮なり」という宇佐神宮の創建は、欽明天皇の三二年(五七一年)だが、もともと神代に比売大神を祭っていたと由緒にある。七二五年聖武天皇の勅願により現在地に御殿を造立し、八二三年に神功皇后を三の御殿に祀ったという。上記の宇佐神宮の由緒と合致しない。大分八幡宮も創建はもっと古く、比売大神を祭っていたかも知れない。
 大分八幡の門前に杯状穴のある四角柱の大石があり、しめ縄が掛けられていた。古い神祭りの仕方が残っていると感じた。古い神社は、石段などにそんな穴がかなりの頻度であるものだ。九州だけかも知れないが。と、いう事で、再び神功皇后に戻ろう。
大分八幡宮の近くに、神功皇后関連の鶯塚の伝承もある。
うぐいす塚(北緯33度35分21秒 東経130度37分51秒)

 三韓遠征後帰国して将軍達を故郷に帰したのだが、別れの場の伝承地。また、「分かれの場」だから「大分」という地名譚もある。神功皇后は三韓遠征の後、宇美で応神天皇を出産し「しょうけ」に皇子を入れて峠を越え、穂波町の大分に入ったという。宇美からの峠越えを「ショウケ越え」と現在も言う。そして、大分の鶯塚で兵士達と別れているのだ。皇后は筑紫平野の林田や大保で兵を集めたり戦ったりした後、三韓遠征を終え、大分で兵を解散している。と、なると、神功皇后は大保と大分と深くかかわっている。この二ヶ所が役所であり、太保府と太傳府なら、答えは非常に狭い意味になる。香椎の宮も入れて皇后は三つの役所を使っていた。信じられないが、筑紫の役所で仕事をしていたことにならないか。では、新羅と戦った目的は、何だろう。それに、何故、太宰府に入らず、畿内に帰ったのだろう。忍熊王・香坂王との皇位継承の戦いが待っていたからか。
 もし、太宰府に王都があったとすると、仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰がなぜ都に入らなかったのか。王都はいつ始まり誰の王都だったのか、疑問が深まる。そして再び、王都はなかったのかという疑問も生まれる。九州の豪族たちが畿内に取り込まれて行くのはいつなのか。そして、積極的に畿内と結びついた豪族は、どこを本拠地にしていたのだろう。
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# by tizudesiru | 2011-09-13 10:47 | 18太宰府と大保と大分 | Comments(0)

19 畿内に近い豪族たち

19 畿内に近い豪族たち
畿内の王権に深い関係を持つ氏族が、神功皇后の巻でもはっきりしている。
また、水沼君や宗像氏や安曇氏も畿内王家と関係が深い。
天智政権は、都府楼の北の守りに宗像大社を置いている。鉾立山に代わる南北ラインは、宗像大社から都府楼を通り南の女山神籠石に当たる。のちの為政者は再び前の政権の遺物を利用したのか……神籠石を? 福岡県の南北中央線の北の氏族と、南に山門郡の氏族が結ばれることになる。勿論、両者は離れ過ぎてお互いに視覚的には位置を確認できない。都府楼を中心に地図上で測ると、宗像大社までの距離と女山までの距離はほぼ同じくらいである。南の水沼君と北の宗像氏は、畿内に協力的な氏族だった。大海皇子(天武天皇)の妃となった宗像徳善の娘尼子朗女は、高市皇子を生んでいる。宗像神社が十世紀に式内社になった事はすでに述べているが、近くの宗像市鐘崎の織幡神社も式内社である。三韓遠征の折、武内宿禰が紅白二本の幡を織らせ、旗を上げ下げして敵を翻弄し最後に沖の島に旗を立てたという。
水沼君は日本書紀にも登場する。彼も強力な畿内の支援者だったはずである。高良山はすでに高良玉垂命(武内宿禰・水沼君の祖)に取って代わられている。高良山も後世に式内社となっているから、重要な位置にあったと思われるが、位置的に前政権のなごりが強く残りすぎている気もする。それで、宗像・都府楼ラインからずれしているのだろう。宗像大社と都府楼の間の距離が、ほぼ都府楼から女山神籠石までと同じくらいとはいえ、この辺りに別の南の守りがあってもおかしくない。女山の近くに神功皇后に係る建物があったかも知れないが、比定地が定まらない。九世紀に唐から帰国した最澄が女山の近くに清水寺を建立している。この辺りには、九世紀に大寺院を建立する意味があったのだ。
天智天皇のひ孫の桓武天皇は、最澄に平安京を守る西寺を造らせている(空海に東寺を造らせている)。宗像・都府楼・女山ラインが天智天皇の治世の意図を示唆しているなら、桓武天皇の時代、このライン上に最澄が国守りの神社を建造したとしても理解できる。天武朝から天智朝の皇統へ政治が戻ったのだから、桓武帝は古の神祀りを再確認させたかも知れない。平安京は早良親王やさまざまの怨霊から都を守ることを第一に造られた。同じく国の隅々まで怨霊から国を守る工夫がされたはずである。平城京から平安京への遷都は、政治・宗教・文化の上で大きな転換期である。
同じように太宰府が大宰府となった時、大きな変化があったに違いない。それを示すのが、宗像・都府楼・女山ラインである。伊野皇大神宮もこのライン上にある。神功皇后が川のほとりで天神地祇を祀り、財国はないかと登って遠くを見たという遠見山がある。多々良川の上流猪野の辺りは、皇后の斎宮が造られた場所でもある。
それから、遠賀川河口流域の岡県主と伊都県主の祖まで入れると、太宰府は畿内勢力に包囲されたことになるようだ。羽白熊鷲が最後の戦いで敗れた層増岐野(そそきの)が雷山(層増岐山)であり、そこが熊鷲の終焉の地(雷山神籠石)であるなら、眼下に広がる伊都国はすでに敵の勢力圏となっていたのだ。そこで、彼は何を思いながら死んでいったのか。熊鷲の戦場は秋月、大保、雷山と広がり、彼こそ北部九州の王だったようにも思えて来る。彼が敗れた事で九州勢力は大きく後退したのだろうか。九州が畿内勢力に取り込まれて行くのは何時だろうか。羽白熊鷲の時代を特定することが出来ない。三世紀か、四世紀か、五世紀か、果たして六世紀か。書紀の記述で時代や年代が特定できないのは何故だろうか。詳しい話し合いの内容や戦いの様子まで物語のように書かれているのに、それが、客観的な時間と結びつかない事が多い。いつか韓国や中国との歴史的な事実と何処かで接点が出て来るだろうが。地図を眺めながら歴史を見ると、あまりにも時間が交錯した状態なので終始がつかなくなってしまった。少し整理しなければならない。
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# by tizudesiru | 2011-09-12 11:06 | 19畿内に近い豪族たち | Comments(0)

20 大倭とは何か

20 大倭とはなにか
(ア)大倭 
 日本書紀の記述で気になる事がある。「倭」や「大倭」、「日本」と書いて、いずれも「やまと」と読ませる事である。それは、何故だろうか。古箏記には「日本」は出て来ない事からすると、歴史書編纂のほんの数年の間に「日本(やまと)」が入り込んだことになる。それとも、古事記は日本書紀を踏まえて、のちに書かれた「いわゆる偽書」の類だろうか。
 畿内勢力の地が「大倭」と呼ばれるのは、何故だろう。九州にも「やまと」と発音する地名が何カ所かある。山門郡もそうである。福岡市にも、下山門がある。佐賀にも、大和がある。全国にばらまかれた地名である。特に奈良県に多くはない。むしろ少ない。
江戸時代には山門郡の「やまと」の響きから、邪馬台国の比定地にもなったが、「やまと」の発音は、此処だけではない。平安時代末に造られた「和名抄」にも筑後の山門が出て来るが、この地の畿内と関係の深い豪族水沼君が、進んで畿内の地名を入れたとも考えられる。地名は、九州から機内へ動いたと聞く事が多いが、逆もあるだろう。山門の他に「やまと」と読む「大倭」や「倭」がある。地名の移動、そうでなければ、地形が山門のようだったからか。
 または、此処に「やまと」という組織が置かれた名残か。「大倭」と書いて、読みは分からないが、同じ文字が魏志「倭人伝」にも出て来る。
 魏志「倭人伝」の講座などで常に話題になるのは、一大率である。それは、伊都国に置かれ、帯方郡よりの使者が常に立ち寄る処という。女王国の北にあり、他の国を監視しているので、諸国から恐れられている。三世紀初頭には役所があって、様々な仕事を分担していたのである。国の仕事をする組織が出来ていた。そして、気になるもう一つの組織(?)、それが「大倭」である。
 「身分の上下の秩序はよく守られ、十分に臣服している。租税、賦役を収め、そのための建物(倉)が建てられ、国々には物資を交易する市があり、大倭に命じて、これを監督させている」(倭人伝より)どうしてこれを取り上げられないのだろうと、気になっていた。
 ただ、「大倭」が組織名なのか、役職名なのか分からない。どんな仕事をしていたのだろう。物資の交易(市)の監督とは、租税として入る品々の交易の監督をしていたのだろうか。「『やまと』とは矢が的に当たるように、国々が連合し集まったという意味である」という説も邪馬台国講座で聞いた事がある。物資が集まる場所と理解したらどうだろう。
 唐突だが、此処に至って思いついたことがある。租税として物資を集めていた、財政を監督していた「大倭」が、権力を持つのは時間の問題ではなかろうか。また、「倭人伝」に出て来る土地には方位が書かれている。「南、邪馬台国に至るには」「女王国より北の諸国は」「その南にある狗奴国」「女王国より北に特に一大率を置いて」などなど。しかし、「大倭」には方位が書かれていない。これは、国などの場所を意味する言葉ではなく、各地に置かれた役職または組織を表現しているのではなかろうか。交易する市などは、各地にあったはずである。当然、方位を示せない。女王国より任命された「大倭」は、経済を握り次第に権力と結びついて行った。一大率は検察権を持っていたが、財力は持ち得なかった。
 それから、天皇の和風諡号で気になる名前がある。「古事記」の神武天皇の諡号は、神倭伊波禮毘古命である。懿徳天皇は大倭日子鉏友命、孝安天皇は大倭帯日子國押人命、孝霊天皇は大倭根子日子賦斗邇命、孝元天皇は大倭根子日子國玖琉命、開化天皇は若倭根子日子大毘毘命。倭をヤマトと読むが、この天皇の名前も「大倭」と無関係だろうか。彼らが「大倭」という肩書を持って畿内に入り込んでいったとしたら、「大倭」こそ富と権力の象徴となるだろう。畿内に大型古墳が出現するには、財力が必要である。租税を集める組織無くして、財力を蓄えるのは困難である。租税を集める組織が権力を持ち始めると、利権をめぐる争いも生まれるだろう。近畿王権が「公地公民」「班田収受」を打ち出すのは、大化の改新後である。それまで、経済を左右する土地と人民を掌握していなかったことになる。しかし、大型古墳が出現している。つまり、何か経済を握っていた組織があったことにならないか。
(イ) 財力と権力 
 ある時期には、畿内で急激に権力を持った「大倭」という組織の長が蘇我氏だったかも知れない。蘇我氏が突然出てきて権力を握るには、財力の背景が不可欠であろう。その為、畿内の王族と対立しただろう。蘇我氏が結びついた王家は、継体天皇・手白髪姫の皇子、欽明天皇(天国排開広庭天皇)の一族である。そして、大臣が財政を握っていたのである。それでなくては、大臣一族を滅ぼして「改新」とは言えない。
 全く古事記も書紀も現代語訳しか読めないのに、筆者は急に飛躍して大胆な事を並べてしまった。これは、地図で読める事ではない。地図以外の憶測で読んでいる。
 話を九州に戻すが、香椎の宮の「仲哀天皇の組織」は、大倭と関係ないだろうか。租税を集める組織や屯倉が香椎にあって、そこにいて仕事をしていた畿内関係の人物がいた。そこは、磐井から献上された大きな屯倉だったのだろう。もちろん、此処で仲哀天皇が六世紀の人と決めつけているのではない。あくまでそういう組織があった可能性を言っている。
(ウ) 経済活動と文化の交流 
 倭人伝にある「大倭」が畿内の大倭になっていったと憶測を重ねていると、三世紀にはすでに畿内と九州が、組織的につながっていたことになる。そうだろうか。
 福岡市の歴史資料館が天神の赤レンガの建物にあった頃、蔵書のうちから「三輪町史」を借りたことがある。それには、奈良の三輪山の辺りの地名・山川の書き込まれた簡単な地図と、三輪町の地図(地名山川の名前と位置の書き込まれた)が折り込みでついていた。お互いに同じ地名があるばかりでなく、同じ方位に同じ名の集落が位置することに驚いた。三輪町の人は早くからこの事に気づき、情報を発信していた。筆者も地図をコピーして知り合いに配ったが、反応は薄かった。最近は関心も高いようだが。同じ地名という事実を、九州の勢力が畿内に移動したと考えるなら、東西の神の山々の信仰を持った人々の移動による、早い段階の交流はあったかもしれない。交流があったとしてもその理由は何だろうか。鉄が欲しかったとか、手に入れたい鉱物があったとかだろうか。他の地域との交流が始まるには、経済的理由が大きかったと思われる。

 人の交流は、王の墓や葬祭の仕方・祀り方なども伝えただろう。墳墓の造り方にしても、山を使って祖先や一族の墓とつながるライン上の地を選ぶとか、王統を継ぐためや大きな権力を持った王とつながるための形式とか、墳墓の建造には力が入ったことだろう。
陵墓は治めた領地を見渡せる位置にあり、太陽の昇る東を向き、西に沈むのを見送り、墓に鏡を副葬することも、剣や太刀を埋葬する事も、同じく文化として持ち込まれたに違いない。祖霊が天に昇る山の思想や文化も持ち込まれただろう。しかし、そういうものが、すぐに浸透しただろうか。
古墳の石室は竪穴式から横穴式に移行するが、横穴式石室が造られるのは、九州の方が早い。横口式竪穴系石室は、今宿の鋤崎古墳、老司古墳、釜塚古墳などに見られ、四世紀から五世紀に出現する。朝鮮半島南部の横穴式石室を竪穴式石室に取り入れたものといわれている。これが、畿内に入るのは百年ほど遅れる。鋤崎も老司も前方後円墳である。前方後円墳は畿内からの伝播というが、外側だけまねしたのだろうか。九州と畿内の連続性や関連性はどう考えたらいいのか、気になるところである。
(エ) 三角縁神獣鏡
 そもそも畿内で大規模古墳が造られたのは、何故だろう。三角縁神獣鏡に卑弥呼との関連を暗示する年号が刻まれている。この鏡は、教科書で卑弥呼が貰った銅鏡百枚の鏡だと教えられた。しかし、三角縁神獣鏡は百をはるかに超え大量に出てきた。中国の技術者を招いて、日本で作られた鏡であるという説も聞いた。何故この鏡が大量に必要だったのだろうか。鏡を作らせて、何を主張したいのか。また憶測だが、それは邪馬台国の末裔である事、栄光ある歴史を背負っている事の主張であろう。鏡はゆるぎない権力の象徴となっていたのだ。でも、畿内王家は、卑弥呼を正史に登場させない。いや、そんな大切な事を書き落とすわけがない。天照大神として登場しているのだ。卑弥呼は天照大神のように太陽神だった。または、太陽を祭っていた。だから、畿内王家が日の神の象徴として鏡を鋳造し、邪馬台国の継承を示したのなら、理解できる。そうなると、卑弥呼は三世紀初頭の人だから、神代が三世紀になってしまう。畿内にも東を神聖な場所として祀る神社や山はあるだろう。畿内へ九州から移動した勢力があったとしたら、その勢力の文化が伝わっているはずだ。しかし、弥生の小国群が一気に大きな国にまとまったとは考えにくい。断続的に幾度も統一に向けての波が来たに違いない。
 それが、熊鷲の時代であり、磐井の乱の後であり、白村江の戦い後の時代であろう。天智天皇の時代には、都府楼の例のように、北に山を持ち南に門が開いた役所に変わる。東向きの文化が、北向きの文化に変わる。太陽神ではなく、北天を頂く選ばれた人間が政治をするようになった。世の中は急速に変わっていった。
失われつつある祖先の栄光と歴史、それを残したいと考えた人物が、古事記や日本書紀の元を作ったのか。何の目的もなしに、困難な国家的な仕事は出来ないだろう。もちろん、中国の文化に学んでいたのだから、天子のいる国に歴史書がないのは恥ずかしい? それぞれの氏族が自分たちの祖先について書いていたものはあったが、国の正史はなかった? だから、天子の出現が正史への取り組みとなった。それであれば、天皇という言葉が出来たといわれる天武天皇以降に、正史への取り組みが始まるのは、当然のことだろう。天武天皇は、それまで欲しくても歴史書を持てなかったとしたら……
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# by tizudesiru | 2011-09-11 11:16 | 20大倭とは何か | Comments(0)


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22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
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31国内最古の暦が刻まれた太刀
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33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
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211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩

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