続石上神宮の視線

石上神宮の北と南
 大型古墳とつながった石上神宮。他の古墳群との結びつきはどうなっているのでしょう。そして、寺社とのつながりはあるのでしょうか。
北へ伸びる赤ライン
 石上神宮から北へ上る赤ラインと、南へ伸びる赤ライン。この赤ライン二本は、連続して引いたものではありません。まず、北上する赤ラインから見ましょう。
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 ラインは、弘仁寺の敷地を通るようです。弘仁寺は、高野山真言宗の寺院です。814年嵯峨天皇の勅願により、空海が創建したと伝えられています。807年、この地に明星が落ちたので空海が「神聖な土地」として寺を建立したとか。一説には、小野篁が創建者とも。弘仁とは、嵯峨天皇在位期の元号です。
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 弘仁寺から北上すると、春日大社と春日山の間を通過します。
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 更に北上して、滋賀県大津市の三井寺に着きます。三井寺は、長等山園城寺といい、壬申の乱に敗れた大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、子の与多王(よたのおおきみ)が田畑屋敷を投げ打って建立を発願した寺です。686年、天武天皇が建立を許可し「園城寺」の勅額を与えたというのです。以来、大友氏の氏寺となっています。
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 9世紀になって、密教の奥義を伝授された円珍が唐から帰国後、三井寺に入り寺を整備しました。円珍の母は空海の妹か姪だそうです。では、空海の「都守護・国家守護」の方法を熟知していたかもしれません。円珍は、没するまで24年間天台最高の「天台座主」の地位にありました。24年間に様々な事をしたでしょう。その中で、園城寺は国守りの重要な地位を得ていったのではないでしょうか。石上神宮と南北につながるのですから。
南へ伸びる赤ライン
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石上神宮から南下する赤ラインは、崇神天皇陵墓・景行天皇陵墓を通り、若桜神社に至ります。実は、この神社の摂社「高屋阿倍神社」が式内社(明神大)です。以前は、ここより400m南の松木山にあったのですが、かなり以前に移座されたようです。
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 若桜神社からラインを更に伸ばすと、桜井市の古墳に当たるようです。古墳だらけですからね。
南へ伸びる緑ライン
 石上神宮から緑ラインが南下します。赤ラインと並んでいます。手白香皇女陵墓・崇神天皇陵墓・景行天皇陵墓を通り、桜井市のメスリ山古墳に至ります。
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手白香皇女は、欽明天皇の母となった人でしょうね。継体天皇の皇后です。
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崇神天皇・景行天皇の陵墓はこんなに大きいのに、「陵墓を守る陵戸などがいなかった」と、本で読んだ記憶があります。特に、景行天皇は印象に残ったのです。有名な天皇だし、日本武尊の父だし、不思議な気分になったのです。
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 さて、このメスリ山古墳ですが、古墳時代前期のもので大王に並ぶ副葬品を持つそうです。藤原宮と並ぶようですが、皇居と並んでいるのではないようです。この古墳の不思議さは、記紀をはじめ「延喜式」などの、何処にも陵墓としての伝承がない事です。最近、ここの出土物が国の重要文化財に指定されたそうです。
メスリ山古墳については、また後の「メスリ山古墳の謎」でお話します。
 ひとまず、石上神宮をまとめましょう。石上神宮は、何処を見ていたのか。そこは、大山古墳であり、履中の古墳であり、崇神の古墳であり、景行の古墳であり、メスリ山古墳であるわけです。この古墳の被葬者は、仁徳とか、履中とか景行とか、超有名大王とされています。そのことは、素人にはわかりません。後の人が決めた事ですから。、そのことを含めて、祭祀ラインから何か分かるかもしれないではありませんか。石上神宮の主祭神「布都御魂大神」は、剣に宿る神霊のことで、剣を振り下ろす時の「ふっ」という音だそうですね。石上神宮がいつから現地に鎮座していたか分かりませんが、古墳との関係で言うと、南のメスリ山古墳が4世紀なら、その頃にはあったということでしょうか。弥生の遺跡が少ない畿内に、大型古墳が4・5・6・世紀に爆発的に集中する事は何を意味するのでしょうか。労働力とそれを支える食糧を計算しなければならないでしょう。人口集中はどうして可能になったのでしょうか。
 また、メスリ山古墳に見られるような、大型円筒埴輪を焼き続ける事、その技術の保持者を他の地域に頼らなければ急に集める事は出来ないはずです。一つの古墳に必要な埴輪を焼くには何年もかかるでしょうし、技術者集団がいても、いくつもの古墳を同時に受けもつことは大変だったでしょう。大型古墳の埴輪の量も計算して、燃料の確保と原料の確保とそれを運ぶ労働力も考えなければなりません。
 更に、多くの労働者を動かす強烈な推進力、指導力も必要です。文字がまだ浸透していないとされる時代に、口頭のみでそれが可能だったのでしょうか。何か、新しい発見がなければ、解き明かせない真実があるように思えてなりません。

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# by tizudesiru | 2012-04-02 15:46 | 59続石上神宮の視線 | Comments(0)

石上神宮は何処を見ているのか

西を見る石上神宮
 七枝刀で知られる石上神宮。別名には、石上坐布都御魂神社・石上振神宮・岩神大明神など。このほかにもあります。地元では『いわがみさん』とも呼ばれていたようです。石上郷にある布留山の西北麓に鎮座し、古い歴史を持つ神社で、物部氏が祭祀し、布都姫という斎宮がいたそうです。伊勢神宮の古名が「磯宮いそのみや」ですから、どこか「石上いそのかみ」に似ていますよね。
 主祭神は、布都御魂大神(布都御魂剣)。この剣は、武甕槌と経津主の二神が葦原中国平定に使った剣で、神武東征では熊野で神武天皇が使った(危機に陥った時、夢に天照大神と高木の神、建御雷神が現れ、高倉下をとおして手に入れた)剣です。
 そうすると、神武天皇は、の文化圏からこの地に来たという事ですね。天照大神も高木神も文化圏の神でしょうか。

 
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石上神宮を見てみましょう。ピンクライン・水色ライン・白ラインが西側に伸びています。赤ライン・緑ラインが南北に通っています。
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 東に伸びるピンクラインは、越智神社(式内社 明神大)を通過し、住吉大社(式内社 明神大)に着きます。
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 水色ラインは西側にのびて、、城山古墳の後方部をかすめ、高塚山1号墳を通り、大塚山古墳を横切り、丹比芝籬宮址を通り、大山古墳に届きます。
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 ちなみに、大山古墳の隣の履中陵と石上神宮をラインでつなぐと、間に河合町の大塚山古墳や、中津姫陵古墳(応神天皇皇后)を横切ります。青ラインをみてください。
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 白ラインは、式内社とずれたのでなしにします。それで、別の白ラインを引きました。それは、石上神宮から、南西におります。大和神社(式内社 明神大)を通過し、耳成山山頂に届きます。そのあとも伸びて飛鳥の古墳に届きますが……
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 こうしてみると、石上神宮は、かなりの大型古墳と結びつきます。他の式内社にない特徴です。この神社が古い歴史を持っている事を示しているのでしょう。また、剣を御祭神としている事からも、文化圏とのつながりを無視できないでしょう。
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# by tizudesiru | 2012-04-01 22:26 | 58石上神宮の視線 | Comments(0)

宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ

都の裏鬼門を守る
    石清水八幡宮

 石清水八幡宮は、武家の守り神と思っていました。男山の峰にあるし、「南無八幡大菩薩」と矢を構える武将の姿を物語で読んだと思います。調べてみると、宇佐神宮から移座されたとのこと。
 859年に南都大安寺の僧(行教)が宇佐神宮に参詣した時「我都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を受けたので、翌年860年、清和天皇の命により社殿を創建したそうです。以来、皇室・朝廷の尊崇篤く、行幸も数多くあったそうです。都の東北(鬼門)にある比叡山延暦寺と対峙して、南西(裏鬼門)を守る王城守護の神として信仰を受けたようです。創建以来、神仏習合の宮寺で「石清水八幡護国寺」と称し、東寺清水寺・延暦寺・仁和寺・相国寺・大安寺などと関連も深いそうです。
 また、多くの武家・清和源氏が氏神として信仰したので、武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬されたそうです。
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宇佐八幡宮からの移座なのに、お寺との結びつきが多いのですね。鬼門にあたる延暦寺はともかく、清水寺とは、どんな関係になるのでしょう。石清水八幡宮から黄色ラインを北東に向かって伸ばしてみます。
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黄色ラインは、清水寺を通過しました。間に挟まる寺ですから、京都鎮護の仕事を手伝わなければなりません。そして、ラインは延暦寺に届かなければなりませんね。
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これで、石清水八幡と延暦寺は、京都を鎮護する役目を担っていたことが分かりますね。では、同じように式内社ではない伊勢神宮もお寺と結びつくのでしょうか。
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 伊勢神宮から水色と緑のラインが出ています。このラインは何処へ行くのでしょう。緑のラインは、比叡山延暦寺を通り、貴船神社に届きます。奥の院ではないようです。
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では、水色ラインは、東寺でしょうか。
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伏見稲荷(式内明神大)を通り、やはり東寺に届きます。
 石清水八幡宮とお寺との結びつきから分かることは、神祀りの始まりが新しいという事です。では、伊勢神宮はどうでしょう。倭姫が「天照大神」の鎮座地を求めて諸国をさまよったという物語伝承もあるように、始まりは新しいということでしょうか。
 伊勢神宮は新しいけれど、元宮は古いという事でしょうか。(その始まりの地は何処でしょうね)
9世紀、都の位置をきめ、東寺西寺社を建てた前後に伊勢神宮からのラインを引いて伏見稲荷を造営したのでしょう。伊勢神宮からのラインを引いて、最澄が延暦寺を造営する時も、貴船神社と伊勢神宮の間の地を選んだ事になります。
 東寺・延暦寺などの寺院、仏教が、国家守護を担い勢力を付けていく方向付け・基礎作りを、伊勢神宮が手伝ったのです。
 ここで分かった事として、国家守護を神社に頼む事は古くからおこなわれていたこと、そこに寺院が加わっても、守るべき位置をラインでつないだり、ラインで囲んだりする事は変わらず行われたことなどです。神祀りの第一は、王城を守ることとも言えそうです。そういう神祀りが何処で始まったか、それは、北部九州です。

 新しいとはいえ、伊勢神宮の美しさには深い驚きと畏敬の念が湧きます。江戸時代の人々もこぞってお伊勢参りに出かけましたね。今も、年間600万人の参詣者があるとか。



 
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# by tizudesiru | 2012-04-01 01:02 | 57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ | Comments(0)

天智天皇陵墓と天武天皇陵墓

天智天皇陵と天武天皇陵
 歴史上とても有名な二人の天皇です。また、弟の天武帝のほうが年上だったとか、天智帝は暗殺されたとか、噂の絶えない天皇でもあります。では、二人の関係を地図で見てみましょう。
 天智天皇は平安京の守り神として陵墓が造営されていると、カテゴリ「50醍醐天皇の都の守り」に書いています。その天智帝の陵墓から南に紫ラインを下ろしてみました。
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 この紫ラインは、皇室・藤原氏と関係の深い山科にある歓修寺を通ります。この歓修寺は、醍醐天皇が早く亡くした母のために私邸を譲り受けて造営した寺です。
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 そのまま南下し、黄檗宗万福寺に届きます。それから、宇治の平等院を通過します。
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 この後もどんどん南下し、ウワナベ古墳・コナベ古墳の間を通り、いくつかの式内社(小社)を通過し、藤原京に着きます。
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 更に、南下して天武天皇陵墓に至るのです。
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 天武陵には、持統天皇も合葬されています。
 この様に二人の天皇の陵墓を見ると、並々ならぬ結びつきを感じます。あの壬申の乱は何だったのでしょう。また、結びつきの深い天皇の陵墓は、何らかの結びつきを形・場所・方向で示しているということです。それは、8世紀の陵墓に対する考え方を教えてくれるのです。また、藤原京の南に天武・持統天皇陵墓があることは、都の守りに過去の有力統治者の霊力に頼ったという事でしょうか。
 8世紀には、都の形が方形になり、南北が主軸線となりました。それまでの墳墓は、南北に並ぶ例が少ないようです。しかし、いずれかの方向に並ぶことは、大王墓の大切な要素でした。そう言えると思います。
 「墳墓が並ぶ」この考えはいつから始まったか。それは「九州の弥生から」というのが、私が地図を見て出した結論です。
 九州では、山あてをしながら墓の位置を決めています。測量が難しかった時代ですから、高い処から眺め、山を目当てに墓の位置を決めていたと思います。
 その考え方の延長線上に、6世紀の古墳があると思います。

 さて、畿内の王墓の並び方はどうなのでしょうね。大山・履中陵は並んでいるようにも思えますが。ばらばらにも思えます。
 飛鳥の近くの陵墓の位置をみましょうか。
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地元のひとにしか分からない陵墓の言い伝えがあるでしょうし、知る人ぞ知る陵墓の意味があると思います。

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# by tizudesiru | 2012-03-31 11:06 | 56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓 | Comments(0)

大山古墳・被葬者の祀り方

大山古墳の謎
 なぜ大山古墳は、大きく造られたのでしょう。なぜ仁徳天皇陵墓とされたのでしょう。王権とのつながりはどうなっているのでしょう。墳丘墓はすでに盗掘されているそうです。それも、盗掘者などには持ち運べないほどの大石を、堺の政所の庭石にしているとか聞きました。もし、そうであれば、盗掘したのではなく堂々と持ち出したのですね。時の権力者(豊臣秀吉)が。誰も止める事が出来なかったのですね。関白の官位をいただいた秀吉が、天皇家の陵墓を破壊出来るでしょうか。大山古墳は、本当に古代天皇の陵墓でしょうか。
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 大山古墳(仁徳天皇)・履中天皇古墳は、二つの式内明神大社に挟まれています。これは、両側からその霊力を封じようという事でしょうか。北を上にせず、少し地図を斜めにしてみます。
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写真で見ると、明らかに巨大古墳の墳丘墓を、大鳥神社と大依羅神社が挟んでいます。両式内社は、はたして如何なる役目を背負っているのでしょう。霊力を封じるためならば、この古墳の被葬者は、天皇家と直接のつながりはないことになります。両古墳から霊力をもらって、国守りの仕事をしているのなら、いずれかの古代天皇の陵墓ということになります。大鳥神社について、もう少し情報が必要ですね。

大鳥大社・式内社(明神大)
 元来の祭神は「大鳥連祖神おおとりのむらじのおやがみ」だったようですが、「大鳥」と「白鳥」が結びついて「日本武尊」を祀るようになったそうです。(日本武尊は、皇子でありながら「崩御」として取り扱われている不思議な存在です。仲哀天皇は日本武尊の御子です)
 大鳥連は中臣氏と同じ祖神(天児屋命)を祀っていたそうです。ですから、大鳥連祖神は、天児屋命となります。

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# by tizudesiru | 2012-03-30 23:48 | 55大山古墳の謎 | Comments(0)

空海の霊力=都の守り

 平安京を守ったのは、神か仏か
空海の霊力
 空海(774年~835年)は、弘法大師として知られていますが、これは、921年醍醐天皇から贈られた諡号です。延喜の治として知られる醍醐天皇が、空海の死後80年以上もたって「大師」を贈られているのです。空海の霊力に、大きな期待をされたのです。醍醐天皇は、菅原道真の祟りに苦しんでおられましたから。祟りを払いのけて、都の苦しみをその霊力で救ってくれると信じられたのでしょう。同じ921年は、筥崎八幡宮に「敵国降伏」の辰筆を与えられた年です。このことはカテゴリ「筥崎宮から見える太宰府天満宮」に書いています。「大師」も「敵国降伏」も醍醐天皇の意思でしょう。
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天皇家の尊崇篤かった加茂別雷神社から、桜色ラインが伸びています。このラインは南下し続け、二条城を通ります。この城は、京都を見張るために、江戸幕府がつくった建造物です。大事な加茂別雷神社ラインに割り込んでいます。これは、後世の江戸幕府の意思と言わざるを得ません。家康は、仏教界に対して宗教統制をしました。関東真言宗古義法度、東寺・醍醐寺・高野山学侶方にも法度が出されています。
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 やがて、桜色ラインは、東寺に届きます。東寺は「平安京鎮護」のため、嵯峨天皇より空海に下賜された寺です。「教王護国寺」という名称は鎌倉時代に使われたものらしいです。今は、初めの東寺に変わっているはずです。また、空海の時代から明治まで、宮中でおこなわれていた行事「後七日御修法ごしちにちみしほ」は、明治以後ここで行われています。真言宗最高の秘儀だそうです。ちなみに、東寺の五重塔は徳川家光の寄進によるものです。仏教統制をおこなった幕府の意図を思うと、何やら空海の霊力を断つためのものではないかとと憶測しますね。
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桜色ラインは、更に南下して城南宮に着きます。城南宮は式内社ですが、小社です。ですから、もともと加茂別雷神社のラインがここまでつながっていたか、はなはだ疑問です。しかし、城南宮は「方除の大社」として有名です。この地にあった式内社「真幡寸神社」(城南神)を、白河天皇が「鳥羽離宮」を造るときその一部に取り込んだそうです(代々の天皇・上皇が行幸されたとか)。京都御所の裏鬼門を守る神とされたことから、方除け、厄除けの神として信仰されたそうです。
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 加茂別雷神社からの桜色ラインは南下して、二条城を通り、東寺を通り、城南宮にあたりました。このラインの霊力・威力を信じた人々が浮かんできました。もちろん、醍醐帝を筆頭に。
 式内社にたくされた願いがかなりはっきりしてきました。式内明神大社は、平安京を守る神社です。そして、仏教も大きな役割を果たしています。重要ラインに多くの寺が連なるわけです。また、そのラインの霊力を断つために、城を建築したり、対抗する寺社を造営したりする事もわかってきました。
 




 中学時代、JRを使って京都に修学旅行に行った時、東寺の五重塔をみて感動したものでした。今は、気を付けていないと、塔を見逃してしまいます。京都のシンボルを失った感じで、何度出かけても京都駅でがっかりします。塔が見えないことなんか、京都の人には、どうでもいいのかな…そんな事はないでしょう。やはり千年の古都を守りたいと思ってるはずです。
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# by tizudesiru | 2012-03-30 00:36 | 53空海の霊力 | Comments(0)

出雲大社と熊野大社の絆

出雲大社と熊野本宮大社
 出雲大社(杵築大社)は、日本書紀に登場します。斉明天皇5年(659年)出雲国造に命じて、大社を造営しています。このころの祭神は、オオナムチノ命(大国主命)だったそうです。鎌倉時代には、スサノウノ命になり、17世紀に出雲国造家の申し出が認められ再度大国主に変わっています。平安時代に「出雲太郎・大和二郎・京三郎」と詠われたそうで、大和の大仏殿より大きな建造物があったようです。
 本殿瑞垣内の社
主祭神は大国主ですね。他の瑞垣内の社は、下記の通り
・大神大后神社(大国主の正后・須勢理毘賣
・伊能知比賣神社(大国主の蘇生を行った二人を祀る)
・神魂御子神社(大国主の妻、宗像三女神の一人、多紀理毘賣*「筑紫社つくしのやしろ」ともいう
・門神社(回廊八足門内の両側にあり、本殿を守護する)
 出雲大社は、筑紫との関係が深かったようですね。しかし、10世紀には近畿との結びつきが深まるのです。
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日本書紀でも「出雲古根が筑紫に行って留守の間に、弟が出雲の神宝を近畿に差し出したので、帰ってきた古根が怒って弟を殺した。が、そのことで、古根は吉備津彦に討たれた」事が書かれています。出雲風土記にも同じような話があります。とにかく、地図に戻りましょう。東に進むピンクラインは、出石神社に、南に伸びるラインは伊予神社に届きます。どちらも、式内明神大社です。
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伊予神社から東に伸びる青ラインは、熊野本宮大社に届きます。
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偶然と言えば、それまでですが。熊野本宮大社から北に伸びる緑ラインを見ましょう。北へ昇りつめ、福井県の若狭媛神社にあたります。ここも式内明神大社です。若狭彦神社は、若狭姫神社のラインの南になります。そろって式内社・明神大社です。画面に若狭彦と入れてしまいました。
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若狭媛神社から西へ向かう紫ラインがあります。それは、出石神社に行きつきます。
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 このように、出雲大社・伊予神社・熊野本宮大社・若狭媛神社・出石神社を結ぶと、大きな四角形が出来るのです。いずれも、明神大社です。偶然とは言い切れません。10世紀には、こうした神祀りが可能だったと言えると思います。そして、四角形に意味があったのでしょう。

 また、出雲大社の祭神を熊野に勧請したという伝承もありますから、出雲神の霊力を頼り、畿内の南の本宮大社に祀って、国家安泰を祈願したという事でしょうか。
 そうして、出雲と畿内は結びつき、筑紫との縁は断たれた事になりますね。
しかも、出雲・伊予・熊野本宮・若狭媛・出石の五社は、それまでの地域の伝統や結びつきを捨て、近畿の神祀りの組織の中に取り込まれたことになります。
 ところで、東西に並ぶとか、東西に相対しているとか、国守りの山・神社とか、どこかで聞いたと思いませんか? そうです。九州の弥生・古墳時代に多く出した言葉です。つまり、九州の弥生・古墳時代の文化が、やや形を変えて、近畿まで広がっているのです。九州では、東西の方向が、重要視されたようです。特に、神籠石の並び方を思い出して下さい。神籠石が単に山城としてだけでなく、神祀りの場としての役目を果たしていた事になりますね。

 じつは、まだまだ、あるのです。こうした式内明神大社の鎮座地の不思議が。

 じゃあ、もう一度、都の守りを見てみましょう。また後で、お会いします。


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# by tizudesiru | 2012-03-29 11:05 | 54出雲大社と熊野本宮大社 | Comments(0)

伊弉諾神宮の不思議

淡路国伊弉諾神宮の不思議何も考えず、次の写真を見てください。伊弉諾神社の位置を説明しています。
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すごいです。(東)伊勢神宮 (西)対馬の海神神社 (南)淡路の譲羽神社 (北)兵庫県の出石神社 そして、(北西)日御崎神社 (北東)長野県の諏訪大社 (南東)熊野那智大社 (南西)宮崎県の高千穂神宮
 上記の有名神社にラインが当たるというのです。やってみましょう。
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白ライン・南(譲羽神社)
赤ライン・東(伊勢神宮内宮)
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黄色ライン・北東(諏訪大社)
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ピンクライン・西(海神神社)
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オレンジライン・北西(日御崎神社)
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出雲大社にもラインが当たりそうに思えますが、拡大するとラインから離れています。このラインは、日御崎神社ではなく、出雲大社に向かったすれば、少し事情が変わります。
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水色ライン・北(出石神社)
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紫ライン・南東(熊野那智神社)
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青ライン・南西(高千穂神宮)
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 この様につながります。しかし、どうしてラインがつながるのか、私にも理解できません。何処までもラインを伸ばして、ラインに当たる神社名をあげることは可能だからです。
 しかし、発見がありました
明神大社が包む長方形
 出雲大社・熊野本宮大社を取り込んだ、醍醐帝の願いが見つかりました。出雲大社を見ると、南(水色ライン)と東(ピンクライン)に向かうラインが分かります。ピンクラインは、出石神社にあたり、水色ラインは愛媛県の伊豫神社にあたります。いずれも式内明神大社です。
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伊予神社は、他にも候補地がありますが、ここが有力です。
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出石神社は、これからも度々登場する式内明神大社です。
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このラインの全貌は、次にまとめます。
 10世紀、延喜式の「名神大社」は、大きな国家的戦略のもとに定められました。明神大社により守られる地域こそ、10世紀の為政者が重要と考えた地域なのです。それまでの権力者の歴史や信仰を取り込み、平安京に在位される天皇のために新しく神祀りを造り変えたのです。まさに、辛酉の年を契機にはじめられた大事業でした。
出雲大社と熊野本宮大社の絆をどうぞ!




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# by tizudesiru | 2012-03-29 00:31 | 52淡路国伊弉諾神社 | Comments(0)

伊勢神宮は国守り?

お伊勢様は何処を守っているのでしょう
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伊勢神宮は式内社ではありません。それに、伊勢の式内社のうち明神大社は、阿射加神社と多度大社だけと思います。志摩国には、明神大社はありません。
 伊勢外宮に赤ラインが届いています。これは、真東の式内社から届いたものです。起点にあるのは、淡路島の伊弉諾神宮です。延喜式では、淡路国津名郡「淡路伊佐奈伎神社」、明神大社です。
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 ここを起点にして、東に伸びている赤ラインが、伊勢の外宮に届きます。北東に伸びたピンクラインは、滋賀県甲賀市の式内社(明神大)川田神社を通過し、三重県桑名市の多度大社に届く感じです。グーグルの写真が不鮮明ですから。多度大社は、式内社(明神大)、伊勢国桑名郡「多度神社」です。
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 さて、淡路の伊弉諾神宮から南東に伸びるラインは、実は、熊野に届きます。それも、本宮大社です。もちろん、本宮大社も式内社(明神大)です。
 オレンジラインは、途中で式内社(明神大)のそばを通り、本宮大社に届くのです。
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本宮大社は、もとは河原にあったそうですが、洪水で流されたので、現在地に移されたそうです。オレンジラインを河原まで伸ばしてみました。
 熊野本宮大社も式内社なのに、伊勢神宮(内宮)は違う……つまり、伊勢の内宮は「国守り」神社ではないというのでしょうか。それとも、「日本」全体を守っているのでしょうか。または、皇室の方々をお守りしているのでしょうか。「天照大神の鎮座地」を求めて、あちこち探された倭姫のお宮(倭姫神社)にも行きましたが、巫女さんから「鎮座地を求めて各地を放浪された倭姫の御苦労を思い、明治になって地元の人が造ったのが、倭姫神社です。だから古くはありません」と教えてもらいました。新しいお宮だったのです。
 伊勢神宮は、日本書紀にも万葉集にも何度も出てくる神社です。地域の式内社は、ほとんど名前も知りませんが、「伊勢」はよく聞きます。そして、今回改めて知りました。伊勢神宮は、どんな式内社ともかかわりを持ちません。しかも、皇室の尊崇を集めています。
 伊勢神宮の天照大神は、本当は何処をみておられるのでしょう。

続きは「57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ」を見てください。ここで、伊勢神宮と寺社との関わりについても書いています。

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# by tizudesiru | 2012-03-28 00:07 | 51十世紀の国守り | Comments(2)

醍醐帝の都を守る式内社

10世紀の都の守り
醍醐天皇の時代に成立した延喜式により定められた式内社。その中で、明神大社として手厚く奉幣を受けた神社があります。その神社は、どのように都を守ったのでしょう
 土地に住む人にしか分からない微妙な社格の違いなど、旅行者には分かりません。しかし、心に残った神社や寺の由緒を知るのは楽しいものです。そして、地図を開いてみて、「あれ?」と思う発見があるのです。少しお知らせします。もちろん、その土地に住む人の歴史観や知識にたいして、余計なことを言うつもりはありません。
以外に遠い貴船神社
 貴船神社は京都左京区にありますが、ちょっと駅から遠いです。でも、ここはすごく重要な位置にあります。
 延喜式には、山城国愛宕郡貴布祢神社とあるらしいのですが、都より離れた山深い処にあった神社です。
ここから南にラインを伸ばすと、京都御所の上をラインが通過します。そして、はるか南、広瀬大社までラインが届きます。大和国広瀬郡「広瀬座和加宇加売命神社」と称されたようです。離れた位置から御所を守っているのです。
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(京都御所)
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南北ラインは御所を通るので、分かりやすいです。
 次は、都の北(北区)、加茂別雷神社からのラインです。
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天皇・皇室の尊崇篤かった上加茂神社から、黄色のラインが二本でています。右は、西京区の松尾大社に届きます。乙訓郡(西京区)松尾神社と称されました。もとは、秦氏の守り神だったそうです。酒造の神様としてよく知られています。
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対する左の黄色ラインは、山城の天智天皇陵墓に届きます。平安京が造られた時、天武天皇の血統から天智天皇の血統に変わったことを示したかったのでしょうか。この地に、天智天皇の陵墓を定めたのは、どなたでしょう。政治的なにおいがしますね。
更に、松尾大社と天智帝陵墓は、東西の関係になります。並んで、大事なところを見ておられるのでしょう。
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都は、きれいな三角形で包まれています。
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 こうしてみると、式内社はやはり国守りの神社ですね。

 

まだまだ続きますが…

 



また後で
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# by tizudesiru | 2012-03-27 17:01 | 50醍醐天皇の都の守り | Comments(2)

宮地岳古代山城=阿志岐山城

宮地岳古代山城を見ました。
筑紫野市の阿志岐山城です。筑紫野市では見学コースに足場を作り、山道に蓆を敷いて、バスで二日市駅から送り迎えして下さいました。現地案内の人もいて、大変ありがたい見学会でした。地域の方より豚汁まで御馳走してもらいました。国指定史跡になった記念の事業だそうです。宮地岳は何度も行きましたが、山城には出会いませんでした。今回は、大変楽く興味をそそられる催しに出会えてうれしかったです。
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私も写真を撮りました。杉木立の奥の崖が土塁
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第3水門の石塁。石積みを石塁というそうです。
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石を切り欠き加工して積み上げています。
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階段状に少しずつ石をずらしながら積み上げています。この工法は、後の時代には使われなかったので、ここが古代山城と決まったそうです。
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版築で作られた土塁の上を通りました。急な斜面が土塁です。崩れやすい処は粘土質の土。そうでないところは、水はけのいい土を使っているそうです。
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列石の下に長い石が敷かれています。敷石が見られるのは、この阿志岐山城だけだそうです。韓国(百済にも・新羅にも)列石の下に敷石が見られるそうです。
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列石が露出しています。
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この土塁は9mの幅があり、土塁の南北に列石があります。斜面の列石は片面のみで、列石の上に版築の土塁が築かれています。しかし、ここは土塁の両面に列石があります。ここは、出入口があったようです。北の高雄山に
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向いています。
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この斜面には、きれいな列石があるそうです。下の平野から見上げた時、きれいに見えるように作られているそうです。高雄山側から見たら美しいように出来ているのです。
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この斜面は、阿志岐山城が発見された地点です。この列石を見つけた人の喜びは、どんなものだったでしょうね。
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崩れた敷石の奥に、水はけを良くするために使われた小石が見えています。
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第1水門。ここは、一番大きな谷になっているため、かなり流されています。残っている石塁が見られます。古代に築造されたまま残っているか疑問だそうです。
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三郡山地
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中央が宝満山です。
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阿志岐駅(あしきのうまや)は、木立の間の黄色にはげているように見える辺りです。万葉集にもある阿志岐駅です。ここは、交通の要衝でした。
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高雄山は、小高い丘です。
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二日市駅の近くから見た宝満山。きれいな笠の形です。三笠山とか、竈山とも呼ばれた山です。
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二日市駅近くから見た宮地岳。ここも三笠山と呼ばれるとか。 二つの三笠山が、大小で並んでいるのです。 不思議?ですね。
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筥崎宮・大城山・太宰府天満宮・宮地岳というラインの先に、阿志岐山城があります。
また、高良神籠石・宮地岳(阿志岐)神籠石・宝満山・砥石山・鉾立山と南北ライン上にある阿志岐山城。
阿志岐山城の西へラインをのばすと、糸島市には、雷山神籠石があります。
阿志岐山城は、7世紀の築造とパンフレットに書かれ、案内の方に説明も受けました。しかし、その根拠はまだないそうです。歴史書にも書かれていないし、手がかりになる遺物もまだないそうです。たぶん7世紀だろうという事でした。これから発掘するそうですが、決めてかかるのは問題かなと……思います。私は、地図で見る限りですが、7世紀より古いと思います。神籠石は、6世紀の古墳とつながっていますから。神籠石は、磐井の乱後、北部九州の勢力が互いに連絡し合って作ったものと思います。

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# by tizudesiru | 2012-03-20 19:34 | 49宮地岳(阿志岐)古代山城 | Comments(0)

高良山神籠石から謎が解ける

高良山神籠石から謎を解く
そうなんです。神籠石と式内社の謎が解けると思います。
 高良山神籠石と、延喜式神名帳に「高良玉垂命神社」と記載されている高良大社は、別の時代の建造物なのに、同じ敷地内に同居しているのです。それはなぜなのでしょう。高良大社の敷地を取り囲むように、神籠石の列石が存在するなんて不思議です。また、北側の列石が突然消失しているのは、天武地震(678年)によるものと言われます。そうすると、678年前に神籠石は作られた事になります。高良山のみならず、同じような列石を持った神籠石が、歴史に登場しないのはなぜか。重要な地点に建設され、多くの労働をかりだしたであろうに。高良山の西側の御井には国の役所も作られています。人の行き来のない山奥とは違います。生産力のある平地の近くに造られたのに、まったく忘れられている。それはなぜか。
 忘れられた理由があるはずです。
 
今まで紹介してきたことを重ねて考えていただくと、結論は自ずから現れてきます。
 6世紀前の北部九州には、国々が大きな連合関係にあった事。それが、磐井の乱後に崩れていったらしいこと。近畿の勢力が九州に入ってきたのは、磐井の乱後。
 7世紀半ばになって、太宰府に大宰府が作られたらしいこと。白村江敗戦後、再び九州の統制が重要になったのが、大宰府設置の本音です。
 10世紀醍醐帝の時代・辛酉の年になって、再、再度九州の神を封じなければならない状況が生まれました。天神として、畿内に災いを起こしたからです。筥崎八幡宮(式内社)の「敵国降伏」の辰筆は、まさに「九州の古代国家を真に降伏させたい」という願いの下に書かれたものでしょう。だから、10世紀になって、北部九州の神を封じるために式内社が設定されたのではないかということ……等々です。
 6世紀から10世紀にかけての政変が、繰り返し過去を消しました。それでも、残ったのが、首長墓・山岳・神籠石・いくらかの神社だったのです。つまり、6世紀の九州の地域連合は、神籠石からのラインや、有力首長の墳墓からのラインが地域の山岳と結びつくということで証明・象徴されるのです。そのことが、高良山神籠石・高良玉垂命神社(式内社)に集約されています。

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写真の神社マークが高良大社です。高良大社から、たくさんのラインを伸ばしています。本殿の裏には神籠石の列石が続いていますが、北側で突然失われています。敷地内には、式内社の伊勢天照御祖神社があります。「高良玉垂の神が、高木の神に一夜の宿を願ったので、高木の神が譲ったところ、玉垂の神が結界を張り居座ってしまった」という伝承もあり、高木の神は、麓に鎮座されています。では、ラインを見てみましょう。
 赤紫ライン(高良大社・筑紫野の宮地岳・宝満山・鉾立山)北へ上るラインです。宮地岳には古代山城址がありますが、誰が何のために作ったのか不明です。宝満山から西へ伸びるラインは、須玖岡本・吉武高木・飯盛山山頂・三雲南王墓・一貴山銚子塚と弥生の中期・後期の遺跡の上を通ります。福岡平野の中心の東西ラインです。その宝満山を通り鉾立山に届きます。鉾立山からも西へラインを延ばすと、香椎宮を通り、海の中道の大嶽神社に届きます。つまり、高良大社から北上するラインは、福岡平野の守りの主軸線とつながっています
 紫ライン(女山神籠石・高良山神籠石・寿命の王塚古墳
これは、寿命の王塚古墳からのラインです。女山と高良山の神籠石を結びつけています。寿命王塚は見事な装飾古墳です。国内最多の5色の顔料が使われ、玄室の手前に羨道・前室があります。奥壁に石棚、下部には石棺、前面に灯明台が置かれ、玄室入口の上部に子窓が開けてあり、石棺を覆う石屋形を持ち、棺床は二人を収納する場所が設置され、石屋形の外にも二個の石枕が置かれていました。文様は、騎馬像・同心円・三角文・わらび手文・双脚輪状文・靫・大刀・盾です。双脚輪状文を持つ古墳は希少。
 未盗掘の古墳だったため、馬具(鐙・轡など)鏡(変形神獣鏡)管玉・なつめ玉・切子玉・耳輪・銀鈴・大刀・鉾・刀子・鉄鏃など・高坏(たかつき)・提瓶(さげべ)等々
 6世紀半ばという古墳ですが、すごい出土品です。磐井の乱後、この古墳の主は二つの神籠石を守ったのでしょうか。 
 
 薄紫ライン(高良大社・平塚川添遺跡・古処山
 古処山は、羽白熊鷲の伝承の山です。神功皇后に敗れましたが、その墓なるものが甘木水の文化村に残されています。日本書紀に書かれている数少ない個人名です。古処山山頂からのラインが、平塚川添遺跡の端を通ります。平塚川添は、六重の環濠を持つ、弥生時代後期から古墳時代にかけての環濠集落です。もし、このラインが有効なら弥生の信仰の場(平塚川添遺跡)を意識して神籠石(高良山)を造った事になります。
赤ライン(高良大社・天神社・屏山)上記の薄紫ラインの古処山からのラインが有効だとしたら、古処山の隣の屏山からのラインも生きてきます。神籠石を造った人々は、古処山・屏山・馬見山と連なる三つの峰を信仰の対象にしていたことになります。馬見山は、幾度となく出てきた信仰の山です。
 青ライン(高良大社と英彦山をつないでみたら、釈迦ヶ岳が間に入りそうです)これは、なぜだか分りません。あえて、言うなら、英彦山が日子山であった時代、神籠石を支える山だったかもしれません。または、式内社としての高良大社を助ける山だったかも。そうなると、まったく逆の働きをしていたことになります。どうも、朝廷側に取り込まれたようにも感じます。
 薄桃ライン(高良大社・下馬場古墳・寺徳古墳・日ノ岡古墳)日ノ岡・地徳・(下馬場)の首長の墓は、神籠石を守るように並んでいると思います。しかし、式内社の高良大社が、その霊力を断ち切ろうとしている。古代の首長連合を阻止しているようです。
 ピンクライン(高良大社の真東の鷹取山)真東の山は、鷹取山。当然、高良山神籠石から朝夕祈りをささげた山でしょう。それは、弥生の福岡平野に見られたような信仰の山、春分秋分の日に太陽の昇る山です。鷹取山は、古処山とともに南と北で筑紫平野を挟んで相対してもいるのです。西を向いている高良大社は、鷹取山に背を向けています。式内社の時代に、鷹取信仰が消されたのでしょう。
 水色ライン(高良大社・矢部の釈迦岳・渡神山)釈迦岳は、福岡県でも英彦山と並んで高い山です。そして、渡神山・釈迦岳・御前岳の山頂は並んでいます。そのラインが高良大社に届きます。三連山のラインを断ち切るように、式内社としての高良大社は造られたと思うのです。神籠石につながる三連山は、6世紀の国守りの山だったはずです。
 黄色ライン(高良大社・阿蘇の中岳・高千穂神宮)
 これも、出来過ぎのラインです。式内社としての高良大社が、高千穂神宮と阿蘇山の力を封じたのかもしれないと思うのです。それは、古代の人が、煙を吐く火山を恐れていたと仮定してのことです。又は、熊襲の信仰の山として封じたのかもしれません。


 かって、高良山は久留米市街から常に見えました。メイン道路が高良山を向いているからです。そこに、筑後一ノ宮としての高良玉垂宮があるからです。そこは、長い間、人々にとって大切な場所だったのです。筑後の一ノ宮の玉垂宮は、人々の尊崇を集めました。中世には、大伴・島津・菊池など九州の武家も高良大社を支えました。西征大将軍懐良親王の陣も、高良山にありました。
 それは、10世紀も同じでした。高良玉垂宮は式内社となりました。筑前筑後の式内社は、古代の権力の否定を目的にしていました。 
 宝満山のイザナギ命を下ろし、玉依姫としたのは、7世紀の天智天皇でしょう。高良玉垂宮は、さらに宮地岳神籠石の霊力を奪い、宝満山を見据えます。そして、古代の耳納山地の信仰の山である東の鷹取山を封じ、西をにらみます。西にあるのは、小城です。そこに、高良大社が直視する城(神籠石)があるはずです。風土記には、「小城には土蜘蛛がいて、堡(おき)=城塞に隠れて抵抗したため、日本武尊により征伐された」と書かれています。この堡から小城という地名が生まれたとの事です。おき(城塞の意味)があったのは確かでしょう。
 渡神山・釈迦岳・御前岳のラインは、霊力を切る為か、逆に霊力を得るためか分かりません。このラインは、英彦山・釈迦ヶ岳と同じように、高良玉垂宮が自社の霊力を高めるために結んだラインかもしれませんが。 
 そして、日ノ岡古墳・王塚古墳・寺徳古墳など装飾古墳の首長たちの連合を断ち切っているようです。首長連合の仲立ちをしていた高良山神籠石の上に式内社が来て、本来の目的を覆しているのです。他の式内社も、同じでしょう。




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# by tizudesiru | 2012-03-08 00:10 | 48神籠石の謎解き | Comments(0)

雲仙が守った首長は、誰?

雲仙と阿蘇に守られたのは何処?
雲仙からのラインは、次の通り
(1)・雲仙・帯熊山神籠石荒平山
(2)・雲仙・脊振山・宗像大島御嶽山頂
(3)・雲仙・女山神籠石岩戸山古墳
(4)・雲仙・三ノ岳・国造神社
(5)・雲仙・金峰山・小山諏訪神社・高岳
(6)・雲仙・健軍阿蘇神社・木山神宮・清水寺
(7)・雲仙・(真東)・草部吉見神社

赤ラインが3本北上しています。西側は、帯隈神籠石を経て、福岡市の荒平山に届きます。中央ラインは、脊振山を通り、宗像大社の中津宮がある大島の御嶽に届きます。東側の赤ラインは、宗像大社と結んでみましたが、何処にも当たりません。
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紫・白・黄緑・緑・赤の5本のラインがあります。
紫ライン
 このラインは、女山神籠石から岩戸山古墳につながります。既に、紹介しています。
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女山を横切る紫ラインが分かりやすいように、白を添えています。
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岩戸山古墳に南西から届いたのが、雲仙からのラインです。
白ライン
 雲仙から伸びて、三ノ岳に届き、阿蘇の手野の国造神社につながります。
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黄緑ライン
 雲仙から金峰山に届き、小山山と神園山の間の小山諏訪神社を通り、阿蘇の高岳につながります。途中の山頂神社は少しずれます。
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平地に二つの低い峰が並んでいます。その間から阿蘇が見えます。阿蘇へ一直線につながります。雲仙と阿蘇は互いに見えます。
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高岳が阿蘇の五岳では一番高いのです。
緑ラインこのらいんは、雲仙から外輪山の清水寺まで届きます。間に、健軍阿蘇神社と木山神宮を通ります。。
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赤ライン
雲仙の真東に当たるのが、草部吉見神社です。
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陵墓は、高千穂峰からこの地に入ってきた、彦八井耳命(日子八井命)のものだそうです。
 雲仙が守ってきたのは、国造神社関係の人でしょうか。清水寺は、国造神社・高岳山頂と一直線になると、「阿蘇町史」に書かれていました。町史を編纂した人も、高岳と一直線になることに驚かれたのでしょう。清水寺を外輪山中に尋ねた事があります。奈良時代創建の古刹だそうです。樹齢四〇〇年のナシの木があります。菩提樹だと聞きました。遠い昔、国造家の意向による祭祀場が此処にあったのでしょう。阿蘇地方で一番古い寺となる前に。
 雲仙・三ノ岳・国造神社とつながるのも、見逃せません。なぜなら、金峰山から阿蘇高岳につながるからです。阿蘇・雲仙の見える有明海を船で通れば、噴煙を上げる両火山が魔の山に見えるかもしれません。雲仙と阿蘇の噴煙が見える有明海は、まさに「地獄の門」だったに違いありません。隋からの使者が自分の紀行文に書いたとおりの景色。7世紀初頭、隋から来た文林朗裴清が、有明海を通ったとすれば、ですが。しかも、彼は阿蘇山のことも、阿蘇に住む人達の事も隋書に記録しています。6世紀の人々は、「隋書」にも書かれているとおり、理由失くして火を噴きあげる火山を恐れていたのです。では、阿蘇山は隋書にある「俀国」の人々を守っていたのでしょうか。筑紫城に住み、アワキミ(おおきみ)とよばれ、妻も太子もいた「天子」を。

 阿蘇から流れ出す白川流域の人々も、雲仙と阿蘇が東西に見える土地に住んでいる人々も、火の山を恐れたことでしょう。阿蘇神社の広がりを見ると、阿蘇の噴煙が見える範囲では神祀りをしたでしょう。しかし、肥(火)君が阿蘇君と同じように火山を祀っていたとは考えにくいです。江田船山古墳から、神社や古墳、山頂などで、阿蘇山に結びつくものが、今のところありません。「江田船山古墳の主は、女山や岩戸山とはつながっているので、彼は北部九州の方を向いている。金ではなく銀象眼太刀(国宝)を副葬していたことからして、小地域の首長です。彼は大王に仕え、八方ヶ岳・熊ノ岳・多良岳に守られた地域を支配していたのです。彼が典曹人として奉事していた大王は何処に住んでいたのでしょう。遠い畿内の雄略天皇となるのでしょうか。なかなか、そうは思えません。
また後で
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# by tizudesiru | 2012-02-19 16:50 | 47雲仙が守った首長は、何処 | Comments(0)

信じますか? 高千穂ライン

信じますか?高千穂ライン
これは、眉つばものでしょうか。私も少し疑っています。でも、面白いから紹介します。
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宮崎県の高千穂の高千穂神宮です。観光地になっていますね。ここに、ピンク・緑・黄色・赤ラインが集まっています。画像を大きくしたいのですが、ピンボケしてしまうので、ここで我慢してください。
緑ライン高千穂神宮からのラインは、下り宮として有名な草部吉見(くさかべよしみ)神社を通ります。阿蘇神社では、三の宮として大切にされています。
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この神社は、谷に下りるように階段が作られていますから、それを下りて社にお参りするのです。なんとも不思議な神社です。緑ラインはそのまま進んで、阿蘇高岳に届きます。山頂は広いので目印を二か所入れています。御祭神は、神武天皇の長男、彦八井耳命です。
写真は熊本県の紹介の写真を使わせていただきました。
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彦八井命が高千穂峰からこの地にいたり、宮居を定めようと占ったところ、「吉の池」が良いことになりました。が、この池には大蛇が住んでいました。この大蛇を退治し、池を埋めて一夜で屋根も壁も草で葺いて宮殿を立てました。壁がクサだったので、この地が「草部」と呼ばれるようになったそうです。
 大蛇が血を流しながら逃げたところを血引原(地引原)、最後に焼かれたところを灰塚と言うそうです。
 更に、彦八井耳命の弟、神八井耳命の子、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が天皇から「阿蘇を治めるように」命じられて、草部吉見に立ち寄り、彦八耳命の娘、阿蘇都姫と結婚します。
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緑ラインは、高千穂神宮・草部吉見神社・阿蘇高岳とつながるので、まんざら眉つばでもなさそうです。
ピンクライン
 高千穂神宮から、久住山につながり、唐原神籠石までつながります。
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「この辺」と文字を入れている辺りが、唐原神籠石です。高千穂からはるばる北上して唐原まで……です。まさかです。
黄色ラインこれは、高千穂神宮から阿蘇の火口を通り、何と高良大社に届きます。
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噴煙が上がっているところが火口です。
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何度も出てきた高良大社です。

この三本のラインは、スケールが大きすぎますね。
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# by tizudesiru | 2012-02-18 20:57 | 46高千穂の峰から阿蘇へ | Comments(0)

江田船山古墳と筑紫君磐井

江田船山古墳筑紫君磐井
 カテゴリ「神籠石から分かること(4)」の「女山神籠石の謎」で取り上げた「江田船山古墳」について考えてみたいと思います。
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 此処に、
 赤・ピンク・青・水色・黄色・桜色 
の6色のラインが集まっています。それぞれの行き先を見ましょう。
赤ライン
 海を挟んで、西の山に届きます。佐賀県の多良岳です。春分秋分の日に、江田船山古墳から見れば日が沈む山です。
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多良(たら)とはどんな意味でしょう。
ピンクライン
 このラインは既に紹介しています。北北西に伸びて女山神籠石を通り、福岡市の愛宕神社を通り、福岡市の志賀島の北の志賀海神社元宮に突き当ります。
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(女山神籠石の中心を通っています)
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(愛宕神社にきちんとあたっています)
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(志賀海神社の元宮・沖津宮にちゃんとあたっています)
 ピンクラインは、出来過ぎのラインです。ピンポイントで当たるなんて。愛宕神社は幾度も取り上げました。カテゴリ「愛宕山が見た早良国の光芒」で詳しく取り扱っています。志賀海神社は式内社です。博多湾側に移動したのは、式内社になったころでしょう。その頃、海の神以外の役わりが生まれたと考えられます。
青ライン
 これは、岩戸山古墳(筑紫君磐井の寿墓)からのラインです。江田船山古墳を通過し、熊本県の熊ノ岳に届きます。
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江田船山古墳のほうが年代が上がりますので、筑紫君磐井は江田船山の被葬者に熊ノ岳との仲を取り持ってもらったことになります。これもピンポイントでつながります。江田船山古墳は、国宝の銀象眼鉄剣で有名です。磐井は、江田船山の被葬者を尊敬していたのでしょうか。熊ノ岳にかかる紫ラインは、おつぼ山神籠石と井寺古墳を結ぶラインです。紹介済みです。
水色ライン
 江田船山古墳から出る水色ラインは、山鹿市街にある大宮神社を通り、菊池市の八方ヶ岳につながります。間に伝説の残る不動岩があります。
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大宮神社は、景行天皇の伝承がある神社で、山鹿灯篭でも有名です。
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八方ヶ岳は、熊本平野や菊池盆地など広い範囲から見える山です。たくさんのラインが集まっています。紫ラインは、女山神籠石から阿蘇の国造神社に通るラインです。
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女山神籠石は、幾度も取り上げました。
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阿蘇市手野にある国造神社の近くには10基ほどの古墳があります。地方豪族の「君」が「国造」(くにのみやつこ)となったのは、磐井の乱後だそうです。磐井が敗れた後、倭国は大きく変わったのです。阿蘇の国造神社に祀られたのは、磐井の乱後も勢力を保った豪族ということになります。磐井は肥(火)の君と姻戚関係を結んでいます。江田船山古墳のラインからみると、肥(火)ノ君の勢力は阿蘇地方ではなく、山鹿・玉名の辺りでしょう。芦北ノ君・阿蘇ノ君・肥ノ君などと熊本ではいくつかの勢力に分かれていましたから。江田船山の被葬者は大王につかえていました。「君」ではなく「おおきみ」です。その大王は、雄略天皇だそうです。そう聞くたびに、しっくり来ないのです。磐井の乱の前に、近畿の大王に典曹人として奉事していたのでしょうか。「治天下」と文字が彫られていた以上は、天下を治めていた大王がいた事は間違いないのですが。確かに、万葉集にも雄略天皇から詩歌が載せられています。万葉集が造られた時、雄略天皇は重要な歴史的人物だったのでしょう。
 
 磐井の乱から約130年後、万葉集の額田王の歌「にぎたづに船乗りせんと月待てば…」は、660年に滅びた百済を支援するため、662年斉明天皇が船出して九州に向かう時の歌と学校で教えられました。白村江戦の支援もほとんどできず、斉明天皇崩御。万葉集にはこの歌の説明に「征西」に船出したと書かれています。日本書紀も斉明天皇の九州くだりは「征西」です。同じ考えの下の表記でしょう。百済支援ではなく九州への「征西」だったと、どうしても思えるのです。
 九州には、「征西されるべき勢力があった」と思ってしまいます。
 白村江戦後に帰ってくる人々は、九州人です。捕虜となっていた筑紫君薩耶麻も帰ります。彼が倭国の王家の者だったかどうかは分かりません。しかし、他の学問僧や留学生と一緒に唐船で送られて帰ったのです。百済都督府からの使者郭務悰は、倭王への表函(上表文)を持って来ています。筑紫でそれを渡していますから、受け取られて畿内に送られたのか、九州の地で読まれたのか分かりません。
 新しい事実がなかなか見つかりません。しかし、筑紫都督府がおかれていますから、占領軍が九州に来たのは事実です。都督府とは、唐の占領政策を実行する出先機関です。このことは、カテゴリ21・22で天智天皇の事も一緒に紹介しています。
 
 江田船山古墳は5世紀に造られたと言われています。岩戸山古墳が6世紀。白村江戦は、7世紀です。この三百年間に何があったのでしょう。
 



途中ですがここまで
 

 余談ですが、先ごろ福岡市西区の元岡で見つかった鉄剣は、「大和朝廷から下賜されたものであろう」という学者の意見が大半でした。元岡から27基(数が27か、28か分かりません)の製鉄炉が見つかったというニュースも見ました。国内にこれだけ多数の製鉄炉は他にないとの事。
 鉄剣から分かる年代570年、この時期でも、近畿で造ったものであるとは驚きです。九州の製鉄の技術が、近畿に突然友好的に移動しているという報告も見たことがあります。友好的という表現は、どういう意味でしょう。弥生時代春日市の須玖岡本には青銅器の工房もありました。6世紀に鉄剣の制作が出来なかったなんて不思議です。日本書紀によると暦の伝来が6世紀半ばだから、畿内で暦を使い出したと考えて、その後九州に暦がもたらされた例だというのです。九州に暦が先に入ったらいけないのでしょうか。
 江田船山の鉄剣も畿内から下賜されたものでしょうか? それともあちらに注文して作らせたのもでしょうか。こちらで、江田船山の被葬者が作らせたと考える方が自然ではありませんか。鉄剣を作る技術があったと思います。弥生の鉄は、圧倒的に九州が多いのですから。加工する技術があったとしてもおかしくないと思います。
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# by tizudesiru | 2012-02-16 11:11 | 44江田船山と筑紫君磐井 | Comments(0)

筥崎八幡宮の謎と意味

筥崎八幡宮に謎がある
 921年、醍醐天皇の御辰筆をいただき、923年穂波の大分八幡宮より筥崎に遷宮されたと、縁起にあります。遷宮の年も923年と決まっていて、その理由も分かっている筥崎宮。式内社の中でも創建年代がはっきりしている神社は珍しいでしょう。その神社に謎?しかし、謎があるのです。
(1) 筥崎宮の長い参道から見える社の背後の三郡山山頂。なぜ筑紫の霊峰宝満山ではなく三郡山なのか。長い間の疑問でした。平安時代の国司が穂波の大分宮に奉幣するのが難儀である事と、大宰府から越えていく宝満山に不敬である事が、大分宮からの遷宮の理由だったからです。社の背後に、三郡山と並んでいる宝満山を背後にいただく事は容易だったはずです。宝満山を避けているのでしょうか。
(2) 923年は、大宰府に流された菅原道真が許され官位を戻された年です。道真は左遷後一年ほどで亡くなっています。以後二十年間も道真の祟りに苦しんだ都の人々。923年はその祟りを断ち切る年だったのです。同じ年に遷宮とは、道真の祟りと関係しているのでしょうか。
(3) 遷宮地に筥崎がえらばれたのは、放生会は山より海が望ましいという理由です。本殿のある位置でなけばならない理由があるのでしょうか。
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 本殿から出る水色ラインと黄色ラインと赤ラインがあります。この3本から調べてみましょう。
水色ラインこのラインは、筥崎宮から若杉山の太祖宮を通り、穂波町の大分八幡につながります。本殿から本殿へとつながります。つまり、ここ数百年間、本殿の位置が動いていないのです。
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神功皇后が若杉にイザナギを祀ったという伝承があります。
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水色ラインは、大分八幡宮の本殿にかかっている事がよくわかります。この時代は、正確に測量できたのですね。
陵墓にかかる紺ラインは、愛宕山(福岡市)からのラインです。こうして見ると、大分宮からの遷宮には、太祖宮も絡んでいますね。神功皇后の伝承を承知した上で、神功皇后ゆかりの大分宮から遷宮するとしたら、水色ライン上のどこかになるのでしょう
 黄色ライン
 このラインは、筥崎宮本殿から三郡山を経て、馬見山に届きます。
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三郡山は単なる通過点でしょうか。それとも、別の役目があるのでしょうか。
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馬見山が古代の信仰の山であったらしいと、すでにカテゴリ「神籠石から分かること(5)」で紹介しています。
赤ライン赤ラインは、何処につながるのでしょう。それは、太宰府天満宮の本殿です。
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道真の復権(?)の年、祟り封じの神社として、筥崎宮は創建されたのでしょうか。あまりにも出来過ぎではありませんか。
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赤ラインは、筥崎宮から大城山(都府楼跡の裏山)を通過し、太宰府天満宮を通り、宝満山の南の宮地岳に届きます。この山は、古代山城(神籠石)のある山として幾度も出てきました。
筥崎宮は、きちんと測量され選ばれた位置に造営されたのです。他の何処でもなく、三本のラインの始点(終点)以外に創建の地はないのです。選らばれた神社としても、それは、なんの為に?
 道真の祟りを封じ込めるためにでしょうか?
では、「敵国降伏」の真意は何でしょう?菅原道真という個人を指しているとは思えません。敵国というのは、どの辺りを指しているのでしょう。3本のラインから読めるでしょうか。
 ラインの終点にあたる大分宮は筥崎宮の元宮ですが、弥生時代の早良国を守った愛宕山と東西に相対しています。馬見山は古代からの信仰の山と思われ、磐井ノ墓の岩戸山古墳や、神籠石とも結びついています。宮地岳は、古代山城の地。この三か所に共通点はあるでしょうか。醍醐帝が「敵国」と呼ぶに相当しい国なのでしょうか。三か所がかかわった国は、何処にあったのでしょうか。それが、古代の国の姿を教えてくれるのでしょうか。福岡県全体にも及ぶかと思われる「国」が、9世紀から10世紀の初めころには認識されていたのでしょうか。それは、実際に存在したのではなく、伝承の「国」でしょうか。神籠石に守られた処は何処でしょう。それが、醍醐帝が「敵国」と呼んだ場所でしょう。その中心地の宮城は何処に置かれたのでしょう。天満宮へ伸びたラインの先にあるポイントを以前から見つけていました。


 そこにある偶然があります
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この画像は、筥崎宮・太宰府天満宮のラインをのばした、宮地岳との間をアップしたものです。国立博物館の上を赤ラインが通過しています。更に、よく見るとラインが交差する場所があります。以前から、私が注目しているポイントです。
 赤ライン(筥崎・大城山・太宰府天満宮・国立博物館・宮地岳)と交差するピンクラインがあります。南北に走るピンクラインは、若杉山の太祖宮と式内社の筑紫神社を結ぶラインです。筥崎宮と大分宮を取り持つようにライン上にあった太祖宮。そこから真南にラインを引くと、筑紫神社に当たるのです。偶然すぎます。
 交差する水色ラインが2本あります。東北からのラインは、三郡山から宝満山を通り、高雄山を通り、九千部に届きます。西北からのラインは、大城山と宮地岳を結んだものですから筥崎からのラインの亜流です。また、紫ラインが中心に届いていますが、唐原神籠石からのラインで、途中で大根地山の山頂を通ります。
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(
(「この辺」としているのが唐原神籠石です)
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 こうしてみると、赤・ピンク・水色・紫ラインが集まるところは、どういう歴史のある場所なのでしょう。私は、以前の記事に「此処に古代の太宰府の宮城があったのではないか」と書きました。2006年までは、そう思っていたのです。改めて地図を当たってみて、「やはり此処には歴史が隠れているのではないか」と思います。醍醐帝が封じ込めたかった「敵国」の王宮があったと…… 
 こう書いてしまうと、なんだか恥ずかしいです。ラインが集まる事の他は、何も宮城があったという証拠がないからです。とにかく、なんとなく思ったことです。何年たっても、ここから進化しませんね。
 

九州(熊本・福岡・佐賀)には「天子神社」「天神社」がたくさんあります。これは何を意味するのでしょうか。聞きたいです。
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# by tizudesiru | 2012-02-14 11:30 | 45筥崎宮から見た太宰府天満宮 | Comments(0)

なぜ愛宕山に鎮西探題は置かれたのか?

古代における愛宕山の意味
 愛宕山の神様に願い事をして、もしそれが叶ったらお礼詣りをするように、神様と約束したことは必ず守らなければならないと教えられたのが愛宕神社でした。強い神様だなあと思いました。
 愛宕山には、元寇の後「鎮西探題」が置かれたそうです。鎌倉幕府は、古代鴻蘆館が置かれた中央区ではなく、福岡平野の西の端を流れる室見川河口になぜ鎮西探題をおいたのでしょう。もちろん九州の動きを監視していたのですが、あまりにも隅っこと思われます。商人の町や、有名寺社のある中心地から離れているのです。とは言え、1333年後醍醐天皇の綸旨を受けて攻めてきた菊池武時は、中心地にあった櫛田神社に矢を射かけています。北条(赤橋)英時を討つためでした。教養人である英時は、最後の執権北条守時の弟です。菊池武時は姪ノ浜から博多に攻めたのです。鎌倉時代には、姪ノ浜や愛宕山辺りは開けていたのでしょうか。一族郎党を引き連れて戦仕立てで博多に入る事はできないでしょうから、脊振の南から福岡市早良区に入ったのでしょう。
佐賀県の神埼側から坂本峠を通り、板屋峠を越えると早良区
です。早良区を流れる室見川に沿って進めば、ほどなく愛宕山に着きます。ここは、交通の要衝だったわけです。改めて、愛宕神社を見てみましょう。
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たくさんのラインがありますが、紫ラインは福岡市東区の大嶽神社を起点として、佐賀の帯熊山神籠石に届くものです。間に、早良区の日吉神社がはいるので画像をアップしました。
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北から下りている紫ラインが、愛宕神社からのものです。帯熊山山頂にラインが届いています。
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愛宕山への信仰はいつから始まったのでしょう。愛宕神社から南東(右下)に伸びる水色ラインは、南東にのびて、日拝塚古墳と焼ノ峠古墳に届きます。愛宕山は既に六世紀には意味を持っていた山だということになります。二か所の古墳は、愛宕山を意識して造られた(?)事になります。
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(北西から南東に横切るのが愛宕神社からのラインです)
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(水色ラインが届く前方後方墳です)
 では、東に伸びるライン(色を紺に変えました)
 紺ラインは、愛宕神社から鴻臚館を通り、住吉神社(博多)を通り穂波の大分宮の背後の陵墓に届きます。鴻臚館は、いつまで遡るのでしょう。鴻臚館の下には古墳もあったとか。

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(大分宮の背後の陵墓は宮内庁の管轄です。大分宮は、朝廷から奉幣されていた神社でした)
 縁起によると筥崎八幡宮は 921年に醍醐天皇から「敵国降伏」の辰筆が与えられ、923年には大分八幡宮から遷宮されています。余談になりますが、923年は菅原道真が罪を許され官位も戻された年です。「延喜の治」と言われた天皇親政の時代、その醍醐天皇は次々に降りかかる「道長の祟り」に、震撼とされていたのです。醍醐帝が道長を許された年に、大分宮からの遷宮とは何を意味するのでしょう。そして、「敵国降伏」とは、何処を敵国と思われていたのでしょうね。
『愛宕山とは古代にどんな意味を持っていたのか」少しずつ分かってきました。古代の東西ライン(太陽信仰と思われる)の起点(又は終点)となる位置に存在することです。そこで広い福岡平野(海が深く入りこんでいた)の東の山々から上る太陽を見守っていたのでしょう。愛宕山の南は、早良王墓(吉武高木遺跡)のある福岡市早良区です。板屋峠を越えて佐賀(吉野ヶ里からも)から最短距離で早良に入れます早良に入ると、そこは佐賀大和から三瀬峠を越えた道(国道267)が合流します。合流する辺りを脇山地区と言いますが、門戸口・脇山・大門・城ノ原・谷・仙道・長峰・入部(いるべ)と地名が早良の中心に北上していくのです。中心地の方向が地名に示されているのでしょうか。昔そこに国があったとしたら、守るべき出入口だったでしょう。入部から更に北上すると、妙見崎・浦江・金武となり、金武から伊都国に最短距離ではいる道が西へ伸びています。早良の中心地から日向峠を越える道です。日向峠から伊都国が一望できます。
 また、三瀬から早良に入る辺りには、飯場(伊都国へ入る飯場峠がある)・曲淵・石釜・下ノ畑・古賀・内野ときて、合流します。古代には、三瀬峠より板屋峠の方が通行量は多かったのでしょうか。

 早良地区が栄えたのは弥生時代です。それも、紀元前一世紀。
 愛宕山が早良を守れたのは、わずかの間です。そのあとは、甕棺の並びも乱れているそうです。きちんとした墓地の管理もできなくなったのでしょう。しかし、愛宕山の霊力は福岡平野の人々に信じられ続けた事になります。大分宮(宇佐八幡宮の本宮)とともに福岡平野を守ったのでしょう。そして、6世紀の神籠石が造られた時代にも、その霊力を頼りにされたと考えられます。武士の時代になっても、神の力を頼って、鎮西探題が置かれたのではないでしょうか。

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# by tizudesiru | 2012-02-12 12:27 | 42愛宕山が見た早良国の光芒 | Comments(0)

仲哀天皇の宮殿は何処に?(橿日宮の場合)

古代の宮殿
 有力者もどこかで暮らしていたわけですが、そこは宮殿のようなところだったのでしょうか? イメージを造りにくいですね。吉野ヶ里のような大きな柱があったのでしょうか。そこで、日本書紀にも出てくる橿日宮の跡が福岡市東区香椎にあるらしいですね。今までラインを引いてきた香椎宮は、香椎廟と呼ばれていたようです。つまり、仲哀天皇の陵墓であったわけです。橿日宮は、少し北東にあります。写真の「仲哀天皇」と文字を入れている辺りのようです。
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 ラインの色を分かりやすく変えてみました。黄緑、水色、青、ピンク、白、赤の6本です。
(1)黄緑ライン
 このラインは、香椎宮から、若杉山の太祖宮を通り、古処山に届きます。神功皇后が「飯盛山に相対するようにイザナギを祀ったという」太祖宮を通り、羽白熊鷲が住んでいたという古処山に届くのです。は白熊鷲を討ったのは、仲哀天皇の皇后である神功皇后です。伝説をつなぐラインです。
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(2)水色ライン
 このラインも、筑紫神社と五朗山古墳を通り、御勢大霊石神社につながります。筑紫神社は式内社です。五朗山古墳は幾度も取り上げましたが、双脚輪状文を持つ古墳で、神籠石ともつながりました。御勢大霊石神社は、御祭神は足仲彦天皇(仲哀天皇)です。熊襲征伐の折、敵の毒矢に崩御された仲哀天皇の御魂代として霊石を船に積み、神功皇后が三韓征伐行った後、凱旋して御魂代である霊石を殯葬の地に宮柱を立て斎祀ったという神社です。水色ラインも伝説の地をつないでいます。
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北にある神社マークの場所が筑紫神社で、南の山の上にラインの集まる円墳が五朗山古墳です。
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(3)青ライン
 このラインは、まっすぐ南に伸びて九千部山に届きます。この山が香椎宮の南に来るという事実だけです。途中で須玖岡本の横を通ります。王墓の甕棺の位置が分からないので、なんとも言えません。
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(4)ピンクライン
 脊振につないでみました。ラインは引いてみると、途中で式内社の住吉神社(若久)の横を通ります。横なので意味はないと思います。香椎廟は脊振山とは結びつかないということでしょうか。
(5)白ライン
 香椎宮から飯盛山を通り、雷山に届きます。
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(6)赤ライン
 最後になった赤ラインは、東西ラインのようです。西は博多湾の西戸崎の大嶽神社、東は鉾立山です。
どちらも幾度となく登場しました。
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 香椎宮(廟)は、上記のように古処山、飯盛山、鉾立山とむすびつき、筑紫神社と御勢大霊石神社と結びつきます。
 では、仲哀天皇の訶志比宮跡はどうでしょう。
 古処山と結ぶと、間に来るのは太祖宮ではなく若杉山山頂です。
 では、他の山と結んでみましょう。糸島市の高祖山はどうでしょう。宮跡(大本営址と表記されている)からラインを伸ばすと、西区の愛宕神社を通ります。高祖山の頂上は平らなので目印を二つ付けました。ラインはその間に付けました。黄土色のラインです。
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(訶志比宮址)
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(愛宕神社)
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(高祖山) 
 8世紀には香椎廟のラインは確かにあったようです。大伴家持が香椎廟に参拝した時の和歌が万葉集にありますから。その頃には、香椎宮はこの場にあったのでしょう。
 次に、神功皇后が「兵が集まらないので、清浄な河原で天神地祇に祈った」という伝承のある苛原の三奈木神社と訶志比宮址結んでみましょう。ラインは、大根地神社を通ります。
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大根地山の山頂と、大根地神社にラインが集まっています。黄土ラインが横切るところが、大根地神社です。
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雲がかかっていますが、辺りの地形から三奈木神社は、この辺りです。皇后が河原で祭祀をしたのなら、その場所は今の神社とずれるかもしれません。
 林田の三奈木神社はどうでしょう。訶志比宮址からラインを引くと、間に竈門神社がきます。
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雲がかかっていますが、グーグルを信じて竈門神社はこの辺りだと思います。
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林田の三奈木神社は、ずっとこの場に動かなかったのでしょうか? 
 驚いたことに、竈門神社も、苛原の三奈木神社も、林田の三奈木神社も式内社です。ここで言えることは、神社は伝承の地に造られたということです。
 古代の宮殿のありようは、まだつかめません。しかし、山や、神社と関係の深い場所に宮殿が造られた可能性はあるでしょう。  


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# by tizudesiru | 2012-02-10 13:49 | 43古代の宮殿は何処に?(1) | Comments(0)

飯盛山になぜラインンが密集する?

飯盛山は何ゆえに信仰されたのか
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以前から幾度も出てきた飯盛山。古代からイザナミを祀る信仰の山だったことは、幾多の伝承により明らかです。それに、神功皇后伝説に「相対するイザナギの社がなかったので、社を西に向けて若杉山に造った」という伝承が若杉山にあります。夫婦神にもかかわらず、イザナギを祀る社がなかった!とは驚きです。
このことは記事「14・国守りの祭祀は何処で行われたか」でも言及していますが、「記事1~記事30」までは、2006年に書きあげたもので、それに少し最近の写真を入れて紹介したものです。その後、グーグルでラインを引いてみて、新たな事柄を付け加える事になりました。改めて紹介しているのはその為です。
(1)飯盛山を斜めに横切る紫ラインは、鹿毛馬神籠石からのものです。このラインは、飯盛山に届くとそのまま進み、浮嶽に届きます。
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この神籠石ラインは距離が長すぎるので、私も「まさかあり得ない」と5年前は思っていたのです。飯盛山と東西の関係で相対するのは宝満山。飯盛・宝満ラインは以前紹介しました。
 (2)次は、飯盛山で交差する二本の水色ラインです。南西からのラインは、雷山を起点にしています。飯盛山を通り、香椎宮に届きます。香椎宮には同じ色のラインが集まっているので、雷山ラインには紫色を添えています。
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(ラインの集まる香椎宮)

 (3)それから、南南西からのラインは井原山を起点にしています。福岡市西区の愛宕神社をかすめ、宗像大社に届きます。社殿に届くので、このラインはそう古くはないと思います。宗像大社は式内社です。
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(愛宕神社の写真、ラインが集まっているところ)
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雷山と井原山からのラインが、飯盛山で交差するのも出来過ぎの感がありますね。
 (4)次は、飯盛山・麓の飯盛神社のラインです。式内社の若久住吉神社を通り、宇美八幡の本殿に届きます。スタートのラインが分かりにくいので、赤ラインに白を添えています。
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(神社と文字があるところが飯盛神社)
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宇美八幡を横切る薄茶色のラインは、志賀海神社から、大嶽神社を通り、宇美八幡を通り、宝満山を通り、大根地山に至るラインです。志賀海神社は式内社です。飯盛山から有名神社にラインが伸びるとは、何を意味するのでしょう。
(5)飯盛山より南東に伸びるブルーラインは、天拝山をかすめ、大巳貴神社をかすめ、苛原の三奈木神社に届きます。大巳貴神社も三奈木神社も式内社です。
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(6)更に、ピンクラインは、高宮八幡を通り、那珂八幡(古墳)を通り、若杉山に届きます。太祖神社の横をすりぬけ若杉の山頂に届くのです。那珂八幡古墳は75メートルの初期前方後円墳(箸墓と同じ撥型)です。主体部は発掘されていませんが、2号主体部は割竹型木棺から三角縁神獣鏡と勾玉・管玉・管玉・ガラス製小玉・赤色顔料が塗布された土師器の高坏が出土しています。出土した三角縁神獣鏡は、椿井の大塚山古墳、岡山市の湯迫車塚古墳、奈良県富尾丸山古墳出土のものと同范鏡だそうです。
鏡は平絹に包まれていたことにも興味がわきます。
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(7)鶯色ラインは、飯盛山から式内社の住吉神社を通り、鉾立山にラインが届きます。
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 (8)まだまだラインはあるのです。あきあきしますね。糸島の丸隈山古墳からのラインは、飯盛山を通り脊振山地の九千部山に届きます。
 (9)紹介はこの辺りでやめますが、最後は東西に貫く宝満・飯盛ライン。
 これが、私が初めて見つけた弥生時代の東西ラインです。宝満山から須玖岡本や吉武高木、飯盛山を越えて伊都国に入り三雲南小路王墓を通り、一貴山銚子塚古墳にまで届くもです。「このラインの意味を知る首長は、これを大切にし汚すことはなかった」と、私は思います。
 (1)から(9)までのラインから導かれる答えは、「」飯盛山は弥生・古墳時代を通して政治上でも、宗教上でも重要な山であったろう」です。それにしても、水源の山でもなく、標高も低いのに何故? 
 考えられるのは、重要な祭祀の場所であったのではないか? という事。春分・秋分の日の出は、宝満山から。
 夏至の日の出は、住吉神社(博多)の方向。南公園が間にある。冬至の日の出は、乙子神社の方向で、間に荒平山がある。住吉神社の真南に乙子神社があるのも、このような理由かもしれません。
 「神籠石は、上記のように太陽信仰の山と結びつくのではないか」と思うのです。
 「地域の首長の墓(霊力)と、生活を守る神の山(水)と、太陽(日の神)を祀る山に守られたかったのは、何か。それは、自分たちの住む地域と、住む人に他ならないだろうと・・・」神籠石は交通の要衝にありますが、山城として使うには不都合なところが多いのではありませんか。しかし、事情が変わり始めて、山城としての役割を担うところも出てきた……と考えられませんか。その事情は、もちろん政変、乱、戦争、侵略などでしょう。



 
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# by tizudesiru | 2012-02-08 14:11 | 41神籠石から分かること(6) | Comments(0)

地図で分かる?神籠石の謎

馬見山の物語古墳と神籠石が結びつくことは、なんとなく分かってきました。
 では、山との関係はどうなのでしょう。
 まず、馬見山から考えてみましょう。
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たくさんのラインを引き寄せています。その中で黄緑ラインは、屏山を横切り、古処山をかすめ、天拝山(山頂ではない)をかすめ、乙子神社を横切り、雷山山頂に届きます。
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雷山と東西の関係で向かい合っているのは、馬見山でしょうか。
馬見山は、屏山や古処山とほぼ東西に並んでいます。古処山はやや南にずれています。古処山は、筑紫平野を挟んで耳納山地の鷹取山と南北に向かい合っている事は、以前にも取り上げました。そして、羽白熊鷲の伝承があることも「12・羽白熊鷲と古処山」でお知らせしています。熊鷲は、古処山で何をしていたのでしょう。地域の首長が生活する場とは考えにくいです。それで、以前の記事では、羽白熊鷲は「古処山で馬見山の神を祭祀し、その神は大神(おおが)様、または大神(おんが)様と呼ばれていたのではないか。遠賀川の源流が馬見山であることも,それを証明しているのではないか」と、既に伝えています。
 馬見山とは、古代の人にとって如何なる山だったのでしょう。
 御所ヶ谷神籠石と岩戸山古墳をつなぐと、馬見山を通り、苛原と林田の二か所の式内社、三奈木神社を通過しました。6世紀の人には、馬見山は大切な山だった事になります。そして、羽白熊鷲の墓を通過する可能性もあります。(古墳の移動や復元などで元の位置がはっきりしない)筑紫君磐井は、羽白熊鷲を知っていたのでしょうか。「熊鷲と馬見山の関係を知っていたから、選ばれた場所に古墳を造営した」のでしょうか。磐井の墓は寿墓だそうです。生前に墓を造っています。当然、しかるべき場所を選んだことでしょう。
 遠賀川沿いに暮らす人にとって、水を与えてくれる山は馬見山です。馬見山の西側の小石原川は恵みの川であり、ここに住む人は大きな筑後川から水をもらっているのではありません。馬見山を大神様と祀っていたのでしょう。同じように、屏山も古処山も信仰の対象だったことでしょう。古処山と高良大社を結ぶと、平塚川添遺跡をラインが通過します。古処山も高良山神籠石と結びつくのです。
 あれほど、多くのラインを引き寄せた脊振山は、どの神籠石とも関わりません。つまり、脊振山と馬見山は、違う意味で信仰されていたことになります。あえて言うなら、脊振は死者の集まる山。馬見は生活を守る山。朝夕、大神の恵みに感謝する時、馬見を拝んだのではないでしょうか。もしかしたら、馬見・屏山・古処の三山を。



 
 



また明日!
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# by tizudesiru | 2012-02-07 01:11 | 40神籠石から分かること(5) | Comments(0)

神籠石から分かること

少しだけ言えること神籠石は、7世紀の建造物とは思えません。偶然にしては、6世紀の古墳と結びつきすぎています。大塚古墳は飯塚市の寿命にあります。双脚輪状文を持つ古墳です。
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・竹原古墳は、宮若市にあります。
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五朗山古墳は筑紫神社の近くにあります。近くと言っても1キロまでは離れていない感じです。ここにも双脚輪状文が石室内に描かれています。
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岩戸山古墳は、6世紀前半の磐井の乱で敗れた筑紫君磐井の墓とされています。
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一貴山銚子塚古墳は、4世紀の古墳だそうです。6世紀の古墳と聞いたこともありますが、私には何処で判定がなされるのか分かりません。
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宮地嶽古墳は、宗像君徳善の墓といわれていますが、そうなると7世紀の墓になります。しかし、それより古いということも聞きます。2メートル以上の太刀(国宝)も埋納されていました。
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これらの古墳の存在を知っていた人々が、共通の意味をこめて方角を探り、神籠石の築造場所を決めたのでしょう。
 そうなると、神籠石を造った人々は、同じような考え方をしていたし、筑紫の君磐井を逆賊と考えていなかったことになります。また、神籠石の列石の下から6世紀の土器片が出たので、その頃の建造物との説を聞きましたが、それはどうなったのでしょう
 つまり、神籠石が「白村江戦後に造られた」という説に疑問が出てくるのです。大野城や椽城(基城)のように日本書紀に書かれてないことも大事と思います。

 

これらの古墳は、たまたま残されたタイムカプセルです。発掘された遺物は、東京や京都の博物館や大学に持ち去られていますが、個人のものではないですから、基本的には地元に返してほしいですね。研究室や博物館は、貸し借りしているとは思いますが。
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# by tizudesiru | 2012-02-03 22:35 | 39神籠石から分かること(4) | Comments(3)

もう少し、言えること

もう少し付け加えると
 高良大社と日の岡古墳(6世紀中)を結ぶと、ラインに寺徳古墳が乗ることは、カテゴリ7「八女丘陵の古墳」で紹介していますが、高良大社本殿を少しずらした高良山神籠石とすると、日の岡古墳・寺徳古墳・下馬場古墳・高良大社本殿前とつながります。日の岡古墳にもわらびて文が描かれています。全長78メートルの前方後円墳です。
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高良大社に集まるラインの中で少しずれた水色のラインが、日の岡古墳からのラインです。水色の色を付けました。
 日ノ岡古墳は、的(いくは)臣の古墳と言われ、畿内から来たとされています。しかし、高良大社や高良山神籠石と深いつながりがあるとしたら、考え直さなければならないと思います。
 磐井の乱の後、国家は著しく変化したそうです。磐井の子の葛子が糟屋屯倉を差し出しただけでなく、全国的に屯倉が広がったそうです。
 それまで、地方の有力者は「君}と呼ばれていましたが、磐井の乱後は「国造(くにのみやつこ)」となり、国造が各地にがおかれました。国の奴(やっこ)となったのです。6世紀は、国家の体制が大きく変わった時代となります。
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(この写真は、古墳の案内の写真を使わせていただきました) 
 月岡古墳が近くにあります。しかし、こちらは装飾古墳ではありません。この地区の若宮古墳群の中では一番古い前方後円墳と言われています。もちろん日ノ岡古墳より古く、80メートルの前方後円墳で長持型石棺の中に副葬されていたたくさんの馬具・甲・刀・剣などとともに金銅製冑は有名です。長持型石棺は畿内に多く用いられている石棺の形式です。九州では唐津の谷口古墳と月ノ岡だけだそうです。それで、畿内と関係の深い古墳といわれるのです。明らかに、月ノ岡古墳と日ノ岡古墳は様子が違います。日ノ岡古墳の被葬者が神籠石と関係があるなら、各地の有力者(宮地嶽・寿命大塚・竹原・五朗山・岩戸山・日ノ岡など古墳のある地域の首長)は連携していた。と、なるのでしょうか。その連携には、6世紀とそれ以前の九州の体制が反映していると言えるのではないでしょうか。
 そうすると、弘化谷古墳(八女丘陵)にも双脚輪状文があるのです。ここも神籠石と結びつくのか。という問題が出てきます。ためしにやってみましょう。わかりやすく黄緑ラインにしてみます。
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結果、弘化谷古墳から大善寺玉垂宮を通り、雷山神籠石を横切り、一貴山銚子塚古墳に届きました。ラインの色は黄緑です。このラインも神籠石のラインに入れると、有力者の墓と思われる墳墓は神籠石に結びつきます。
 
神籠石は、北部九州の有力者の思いを反映している。彼らが考えていたことは、中途で頓挫した」神籠石は、途中で作業が止まったところがあるそうです。それは、何を意味するのでしょう。それから、先日まで「日ノ岡古墳には双脚輪状文がある」と書いていました。石室の同心円の内の中央の文様がそのように見えるのですが、古墳の案内板には「双脚輪状文」という紹介の言葉がないので、このたびはずしました。蕨手文はいくつもあります。
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# by tizudesiru | 2012-02-03 00:07 | 39神籠石から分かること(4) | Comments(0)

その他の神籠石

石城山神籠石と永納山神籠石
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山口県の石城山神籠石と愛媛県の永納山神籠石も、ほぼ東西の位置にあります。ということは、この二か所の神籠石は、対になっていて何らかの関係を持っていた事になるのでしょうか。
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# by tizudesiru | 2012-02-02 15:51 | 39神籠石から分かること(4) | Comments(0)

女山神籠石の謎

女山神籠石の謎
神籠石の秘密を一緒に考えませんか
 西日本に点在する不思議な列石、何時代に造ったか分からないといわれている神籠石。使用目的が、歴史の記録の中にないのですって。どんな人が作ったのか、人々の記憶の中にもありません。西日本にある列石が、数箇所確認されています。古代の山城か、祭祀施設か、いずれとも決着がつかないままでしたが、最近になって、山城説が考古学的観点から優勢のようです。しかし、地図を広げ、定規を当て、よく見ると思いがけない結果が生まれました。
見つかっている神籠石
・佐賀県
      おつぼ山神籠石
      帯隈山神籠石

・福岡県
     ・女山神籠石
     ・高良山神籠石
     ・雷山神籠石
     ・鹿毛馬神籠石
     ・御所ヶ谷神籠石
     ・杷木神籠石
     ・唐原神籠石
     ・宮地岳古代山城

山口県      石城山
岡山県      鬼城山城
・        大廻り小廻り山城
愛媛県      永納山
香川県      讃岐城
兵庫県      播磨城山城  
 神籠石は、太陽信仰の祭祀処(?)という説もあるそうです。
 現在、これらの建造物を神籠石と呼ばないで、古代山城と呼ぶ傾向もあるようです。
 どうでしょう? 何のために、いつ造られたのか、謎を解いてみたいですね。
 地図上にラインを入れて、どんな処と結びつくか調べましょう。

女山神籠石から考えます 
「女山」と文字を二か所に入れています。平野に近い地点は、地図上に「神籠石」と書かれた場所です。もう一つは、実際に見学したときの展望台のあった場所で、近くから列石が続いていました。神籠石と言っても、小さな建造物ではありません。地形に沿って長い列石で囲んだ広い場所を言うので、一定の地点を特定できません。
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 グーグルアースの映像に線を入れています。分かりやすくラインに少し色を付けました。
紫ラインは、ほぼ西に延びて佐賀県のおつぼ山神籠石に届きます。
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女山神籠石(北緯33度9分47秒)とおつぼ山神籠石(北緯33度10分39秒)は、有明海を挟んで向き合っています。しかし、きっちり東西ではないようです。見た目には東西の関係に見えますが。
 三本の紫ラインの中央のラインが、東の女山に届きます。上のラインは、北東に伸びて、帯隈山神籠石に届きます。それから、帯隈山を通過し、五郎山古墳に届くようです。一番下のラインは、熊本県の西の山々の中の三ノ岳を通過し、井寺古墳に届きます。
 井寺古墳は、上益城郡嘉島町井寺にあり、直径14mの円墳。石室内に切り石造りの石障があり、これにすぐれた直弧文の装飾。しかし、鏡、刀剣などの副葬品はすでに散逸し、今は直刀4本を残すのみ。二次大戦中に防空壕として使われ、赤以外の色は不鮮明。国指定史跡で、熊本県立美術館に古墳のレプリカがあるそうです。
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赤ライン・紫ラインの集まる場所が、神籠石の地図上の地点と重なります。おつぼ山からの紫ラインが斜めに横切る地点が、神籠石です。帯隈山という目印は、帯隈山の山頂に入れました。

再度「女山神籠石」に戻ります。

 女山を横切る白ライン
これは、女山神籠石の北北東に延びると「岩戸山古墳」に届き、女山神籠石から南南西に降りて雲仙普賢岳に届きます。
 女山神籠石を横切るピンクライン
これは、北北西に延びると、福岡市西区の愛宕神社を通り志賀海神社の北の元宮の内の「沖津宮」に届きます。勝馬の浜から見える小さな島に社がありますが、それが沖津宮です。また、女山神籠石から南南東に延びたラインは、熊本県の和水町の江田船山古墳に届きます。
 江田船山古墳は、五世紀の古墳です。副葬品も圧倒的に大量ですし、国宝の鉄剣でも有名です。
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福岡市の愛宕神社と志賀海神社の元宮との結びつきは、面白いです。志賀海神社は、式内社ですから十世紀には、現在地に遷宮しているはずです。ですから、玄界灘側の元宮に届く事は、古い神祭りを示しているのでしょうか。
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さて、次は青いライン
これは、女山神籠石から北西にのびて、雷山を通り、糸島の一貴山銚子塚古墳に届きます。この古墳は、四世紀の前方後円墳です。

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北へ延びる水色ラインは、石人山古墳を通り、太宰府の四王子山(大城山の頂上)に届きます。このラインを無理して伸ばすと、宗像大社に届きます。宗像大社は、式内社ですから、十世紀には社殿があったでしょうが、女山神籠石は築造の時間が違いすぎます。
今度は、水色ラインと白ラインの間の黄色ラインです。このラインは、高良大社を通り、桂川町の王塚古墳に届きます。高良大社の社域は、高良神籠石と重なります。黄色ラインが神籠石の領域を横断しています。たくさんのラインが集まっている社殿が、高良大社です。
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王塚に届いている紫のラインが、女山神籠石から届いたラインです。黄色に色を変えていませんが。
では、女山神籠石から南東に伸びた緑ラインは、何処へつながるのでしょう。
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女山神籠石からのラインは、阿蘇カルデラ内、阿蘇神社の本宮である国造神社に届きます。この神社の横には、首長達の古墳があります。それから、このラインが八方ヶ岳を横切ることも忘れてはなりません。

更に、赤ラインです。このラインは、女山神籠石から北東に伸びて、杷木神籠石を通り唐原神籠石(土佐井)に突き当ります。「この辺」の文字に届く紫ラインが女山神籠石から届いたラインです。
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 唐原神籠石(土佐井)を地図で確認したのですが、自信がないので、「この辺」と文字を入れています。

 これで、女山神籠石に入れたライン(紫・白・ピンク・青・水色・黄色・緑・赤)8本が、どんな山や古墳・神籠石と結びつくかを書きました。
 それで、いくつかの事が分かりましたが、たくさんの事が謎のままです。
(1)東西に位置する神籠石がある。二か所は、対になっているのだろうか。
(2)交通の要衝にある神籠石は、山城のような防衛施設なのだろうか。
(3)神籠石からのラインが当たる山は、当時の人々にとって信仰の対象の神の山だったのだろうか。
(4)神籠石からのラインが当たる古墳は、大きな影響力を持った首長の墓なのだろうか。
(5)見つかっている神籠石が、北部九州に集中するのはなぜだろうか。
(6)同時期に大変な土木工事する必要があったとしたら、その理由は何だろう。そのことが忘れられたのは
、なぜだろう。
神籠石の謎は、まだまだ続きます一緒に謎解きしませんか?
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# by tizudesiru | 2012-02-01 00:49 | 36神籠石から分かること(1) | Comments(0)

帯隈山神籠石と杷木神籠石

帯隈山神籠石と杷木神籠石
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1・帯隈山神籠石から北に伸びる紫ライン(帯隈山・愛宕・大嶽)
2・帯隈神籠石から東に伸びる紫ライン(帯隈山・杷木)
3・帯隈神籠石を斜めに横切る紫ライン(おつぼ山・帯隈山・五朗山古墳)

 帯隈山神籠石から北にライン(1)を伸ばすと、福岡市西区の愛宕神社を通り、博多湾を越え、西戸崎の大嶽神社に届きます。海の中道にある岡の上の神社です。
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 紫のライン(1)が、帯隈山神籠石からのラインです。ピンク・水色・赤のラインが集まっている地点が、愛宕神社です。カーブした道路の横を流れるのは、室見川です。
 次の写真は、西戸崎の大嶽神社です。南に延びる紫のラインが、帯隈山神籠石につながります。北の海は玄界灘、南は博多湾です。海の色が違います。

杷木神籠石の場合も
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4・西に伸びる紫ライン(帯隈山神籠石から・杷木神籠石)
5・杷木神籠石を斜めに横切る紫ライン(女山神籠石・杷木神籠石を経て・唐原神籠石)

 この二か所の神籠石は、筑後平野を挟んで同じような緯度にあるようです。少し傾いていますが、だいたい東西の関係になっています。帯隈山神籠石と杷木神籠石は、対になっているようです。何のためでしょう。通行の面とか物理的な目的でしょうか。宗教的な、または政治的な関係でしょうか。

  
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# by tizudesiru | 2012-01-29 21:16 | 37神籠石から分かること(2) | Comments(2)

鹿毛馬神籠石・御所ヶ谷神籠石

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 鹿毛馬神籠石と御所ヶ谷神籠石も、ほぼ東西の関係になります。香春岳の一の岳を間にはさみます。現在、一ノ岳はセメント会社により山頂を含めかなり削られて往時の面影はありません。資料館に残る香春岳のレプリカや、以前の地図を見て山頂に目印を入れました。
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1・鹿毛馬神籠石から西に伸びる紫ラインは、東の御所ヶ谷神籠石から届いたラインで、そのまま西に進むと福岡市の志賀島にある志賀海神社の元宮(沖津宮)に届きます。更にラインを伸ばすと、玄海島の山頂に届くようです。志賀島の北の海水浴場から見える小さな島に沖津宮があります。
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2・鹿毛馬神籠石の高処から北西に伸びる紫ラインは、宮若市の竹原古墳を通り、福津市の宮地嶽古墳に届きます。どちらも、福岡では有名な古墳です。鹿毛馬神籠石からのラインは、分かりやすいように紫色にしています。
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竹原古墳・ラインの集まる杜が、古墳のある場所です)
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宮地嶽古墳・石室と目印を入れています。国宝が埋納されていた古墳です)
3・鹿毛馬から南西に降りる紫ラインは、福岡市の西の端の飯盛山を通り、佐賀県との県境の浮岳に届きます。距離が離れすぎているのですが、参考までに載せました。
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浮岳
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 また、御所ヶ谷神籠石は、地図上では大きな水門の位置に「神籠石」と文字が入っています。範囲が分かりにくいので、御所ヶ岳山と、西側の高い地点に目印を入れました。目印で神籠石の辺りが分かると思います。
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4・御所ヶ谷神籠石から西に伸びる紫ラインが、すでに説明した鹿毛馬神籠石に届くラインです。
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5・南西に伸びる紫ラインは、宝満山を通り、筑紫郡の乙子神社に届きます。私は、この乙子神社について何も知りません。この神社を北の福岡平野に伸ばすと、式内社の住吉神社(若久)と、式内社の住吉神社(博多区住吉)にラインが届きます。できすぎた偶然です。
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5・、御所ヶ谷から南南西に伸びる紫ラインは、馬見山を通り、三奈木神社を通り、林田の三奈木神社をかすめ、八女市の岩戸山古墳に届きます。
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鹿毛馬・御所ヶ谷神籠石のラインから分かってきたことは、何でしょう。
 これまで、幾度も名前の出てきた山や古墳が、再度登場しています。三奈木神社は、黒田藩により社殿の移動が行われています。それで、ぴったり通過するとは言い難いですが。山や古墳は、当時のままでしょう。竹原古墳や岩戸山古墳は、六世紀の古墳とされています。もし、これらの古墳を意識して神籠石が築造されたのなら、古墳に埋葬されたのは、どういうつながりの方々でしょう。
 神籠石は、信仰の対象となる山や、地域の有力者の古墳と関係がありそうですね。

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# by tizudesiru | 2012-01-28 14:43 | 38神籠石からわかること(3) | Comments(0)

雷山神籠石と宮地岳古代山城

雷山神籠石
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この神籠石は、雷山の北側の斜面に築造されています。西側の列石は失われていますが、地震による損壊と考えられているそうです。写真のように、雷山にたくさんのラインが集まっています。が、神籠石にはほとんどラインはありません。ちなみに、神籠石の範囲は目印から小ダムの周囲です。
1・ 雷山神籠石から東に紫のラインを伸ばすと、宮地岳古代山城に届きます。
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 宮地岳神籠石は、山頂の西にあるそうです。見に行きましたが、神籠石を見つけることができませんでした。近年、発掘調査の結果「古代山城」であると発表され、現在は神籠石ではなく「古代山城」という呼び名が定着しつつあります。宮地岳の西側にある低地は「阿志岐」という地名です。宝満川が流れています。
2・宮地岳を南北に貫く紫ラインは、南の高良大社から伸びて来て、宮地岳から宝満山を通り砥石山を過ぎ、鉾立山につながります。下の写真で、ラインが集まっている社が高良大社の本殿です。
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上の写真は鉾立山です。山頂に目印を入れています。南からの紫ラインが高良大社からのラインです。雷山神籠石と宮地岳古代山城についてまとめるとしたら、どう言えばいいでしょう。
 二つの神籠石は、東西で対になっているのかもしれない。また、宮地岳古代山城と高良山神籠石は南北に設置されているかもしれない。
 そうなると、高良山神籠石の西であり、雷山神籠石の南にあたる地点に『神籠石』のような建造物があるか
もしれない。もしあるとしたら、何のために造られたか・・・


謎はますます広がります
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# by tizudesiru | 2012-01-28 00:50 | 38神籠石からわかること(3) | Comments(0)

一夜の祭「栂尾神楽」に生きる

栂尾神楽は、宮崎県の山深く、椎葉村栂尾に伝えられていました
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栂尾神楽は、国指定の
無形文化財でもあります。11月22日、この辺りでは、栂尾神楽が最初に舞われます。
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栂尾に着いた時、祭の準備が進められていました。栂尾の人々のほとんどは、すでに村を去り、ひと夜の祭に「神楽を舞うために」帰ってくるのです。栂尾を遠く離れた各々のグループで、集まって神楽の練習をしているそうです。
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階段を上ると、お社があります。ここで、最初の神楽が奉納されます。
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栂尾神社の近くに集落はなく、自給自足状態の宮司さんの住まいがあるのみです。宮司さんの神田と畑がその周囲にあります。それは、棚田になっていて、イノシシよけの柵が作られていました。
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神楽殿に神(スサノウノ命)に降りていただいて、儀式が始まります。まず、供物と榊が奉納されました。
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二番、「たいどの」という神楽です。
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装束が少しずつ変わり、手に持つ神事の小道具も変わり、どんどん神楽が舞われて行きます。
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夜はどんどん更けていきます。
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日付が変わっても、笛や太鼓の音は変わらず響き渡っていました。疲れのため、観客は半数近くが、神楽の舞台のそばに寝てしまいました。
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「朝よ」と起されたら、朝の七時でした。でも、神楽は続いていました。
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# by tizudesiru | 2011-11-23 23:56 | 35栂尾神楽(宮崎県椎葉) | Comments(4)

「君が代」の歌詞を持つ「かりすなどり祭」

志賀海神社の山ほめ祭・古くは「かりすなどりの御祭」という・
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11月15日。初めて『山ほめ祭」を見せてもらいました。
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まぎれもなく「君が代」の歌詞が使われています。すごいです。宮司の祝詞が奏され、榊が献じられ、や乙女と呼ばれる婦人の舞が奉納され、氏子による榊がけんじられると、本殿の儀式がおわります。
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本殿の隣の「今宮神社」に移り、そこでも儀式がとりおこなわれました。
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今宮神社の中です。祖先を祀っているそうです。
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次に、今宮神社を出て、本殿前の石の階段下の境内に移ります。
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そこで、パンフレットに紹介されている言葉で、劇的な神事が行われます。
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「ああらよい山 繁った山」と山をほめます。それから、御祭の酒に酔っていても志賀三社志賀大明神の力をもって、「一匹たりとも逃がしはせぬ」と、矢を三度放ちます。
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それから、櫓を漕いで鯛を釣りに出かけます。そこで、「君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて苔にむすまで」「あれはや あれこそは わが君の御船なり」
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その御船が「「あれはやあれこそは安曇の君のめし給う御船なりけるよ」となるのです。おどろきますね。
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誘われて、初めて「山ほめ祭」を見せていただいて、楽しかったです。見学する人も少なくてもったいないと思い、たくさんの人に紹介したい気持ちになりました。

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# by tizudesiru | 2011-11-16 07:54 | 34志賀海神社の山ほめ祭 | Comments(0)

貴方は筑紫舞を見ましたか?

いつか機会があったら筑紫舞を見ませんか
宮地嶽神社(20011年10月22日)今年の「御遷座記念祭」は、終わってしまいました
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 十個の国宝を出した神社として、宮地嶽神社は有名です。これは、国宝の太刀が埋納されていた古墳。巨石の石室があります。筑紫舞は、以前、この石室の前で舞われていたとか。それで、まずここにお参りに行きました。
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 舞台は準備されていました。
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 まず奉納されたのは、筑紫神前(かんめえ)「笹の露}
  雨が降り出したので、社殿で舞われました。
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 次に奉納されたのが、筑紫巫子舞(きねまい)「雪月花」
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 次は、筑紫神舞(かんまい)「鑑の曲」
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  それから、筑紫巫子舞「橘」
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  最後に、筑紫舞「翁」
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 ここで、三人の翁が名のります。「我は、都の翁」向かって右の翁が名のります。「肥後の翁」と。左の翁も名のります。「カンガーの翁」 !? よく聞き取れません。紹介の文を読むと「加賀の翁」と書いてありました。
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 筑紫舞の伝承者となられた宮司さんが、自ら「都の翁」を舞われました。伝承と、練習と、宮司の仕事。大変な日常だろうと思いました。
初めて筑紫舞を見せていただいて、すごく楽しかったです。伝統の舞をたくさんの人に見てほしいと思いました
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# by tizudesiru | 2011-10-22 22:01 | 33筑紫舞(宮地嶽神社) | Comments(0)


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