薦神社の不思議

薦神社の不思議
ブログでも既に紹介していると思います。少人数の会ですが、発表もしていますが、7月に参拝予定でもあるので、改めて紹介します。
 大分県中津市にある薦(薦)神社は、別名「大貞八幡」ともいい、宇佐神宮の祖宮とも言われています。祭神は、応神天皇、比メ大神(宗像三女神)、息長帯比賣命です。
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グーグルで見ると、宇佐神宮と香原神社をラインで結ぶと、ラインが薦神社を横切るのです。
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香原神社から
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逢坂山を通り
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薦神社を通り
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宇佐八幡に届くのです。
 宇佐神宮も、香原神社も、ともに延喜式内社です。豊前國の式内社(名神大社)は、宇佐の三座だけになっています。二か所の式内社が、薦神社を挟んでいる事実をどう考えるか、すでに幾度も例を挙げて説明しています。式内社は、醍醐帝の御代、帝の願いにより「近畿勢力・国守りの神社として見直されている」神社です。九州においては、旧勢力(九州の古い権力)を抑えることが、国守りとなっています。
 現に、穂波町の大分宮から遷宮された筥崎八幡宮には、醍醐天皇の「敵國降伏」の辰筆が下り、式内社(名神大社)となっています。すでに、お知らせしています。筥崎宮遷宮の目的は、「敵國降伏」でした。そして、九州の延喜式内社(名神大社)は、こぞって古来から信仰を集めた山、神社・古墳を抑えるように建立されていました。
 このことを踏まえて、薦神社を見ると、気が付きます。薦神社が、羽交い絞めになっていることに。
 では、ここは古来から重要な神社であり、九州の古い勢力と無関係ではなくなります。
 宇佐神宮は、筥崎宮はもちろん、高良大社とも深い関係にあるそうです。この神社は、延喜式内社、もちろん名神大社です。
 




 実は、前回の筥崎宮のところで、付け加えようと思っていたことがあります。これは、筥崎宮の権宮司さんからお話として、2012年に博物館で聞いたことですし、小冊子にも発表されていますし、「社頭春秋」という故宮司の聞き書きを集めた本にも書かれています。それで、ブログに書いても許されるかと思って紹介するものです。
 延喜二三年(921年)神託により、延長元年(923年)に遷宮となっていますが、神功皇后伝承によると応神天皇の胎盤とへその緒を筥に納めて、祀った所に標の松を植えた
とも伝わるので、遷宮以前にも祭祀していた処のではないかと考えられています。敵國降伏という言葉は、第六十代醍醐天皇の辰筆によるものであり、神託の二年前に放生会が始まり、神託の二年後に社殿ができました。社殿の基礎柱が三十四か所あり、ご神座三座を足して、三十七か所になります。そのころ醍醐帝は三十七歳、基礎柱とご神座には、敵國降伏の言葉が納められていると伝わります。「敵國降伏」の国がまえの口の中には、「王「」が三十四枚、基礎柱に。「武」の草書体、「或」、「民」がご神座に収められているそうです。
また、「敵国降伏」は、漢学者からも、「敵国を降伏させる」と読むのではなく、「敵国が降伏する」と読むもので、武力による降伏ではなく、「徳により敵が自ずから降伏する」となるのだそうです。
 文永十一年(1274年)の元寇のとき、筥崎宮も炎上しました。建治元年(1275年)の社殿造営の後、亀山上皇により「敵國降伏」の辰筆の三十七葉が下賜されました。今、楼門に掲げられている勅額は、桃山時代に模写拡大したものです。

 上記のことは、遅れましたが、前回の筥崎宮にも挿入させていただきました。
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# by tizudesiru | 2013-07-14 21:46 | 91 薦神社の不思議 | Trackback | Comments(0)

筥崎宮百八回目の神事

筥崎宮百八回目の神事
                  「さつき祭」

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初夏の筥崎宮です。お社の上に見えるのは、三郡山頂です。筥崎宮・三郡山のラインは、馬見山頂までつながりました。
 毎年五月二七日と二八日には、五月祭と呼ばれるお祭りがあります。日本海海戦の戦没者と海難事故の被災者の慰霊祭です。
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私が筥崎宮の近くに住むようになって、はやいもので四〇年余が過ぎました。百八回目といっても、五月祭は、まだ新しい祀りなのです。歴史の一コマが生々しく残っていると、あらためて思いました。
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此処は、筥松です。応神天皇の胎盤を筥に入れて納め、そこに松を植えて「しるしの松」としたと伝わります。神功皇后の時代です。西暦に直すことは、いまだにできていません。
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下の写真は、唐船塔です。謡曲「唐船」の物語の舞台は、筥崎です。時代は、中世となります。
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筥崎宮には、一年中さまざまな神事があります。
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末社池島殿は、知っていましたが、こんな神事があっていた事は、知りませんでした。
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 亀山上皇の奉安殿です。東公園にある銅像の原型となる、木彫の亀山上皇像です。昨年から、筥崎宮にお祀りされる事になりました。筥崎宮には元寇関連の遺物もあります。博多湾に押し寄せたフビライの軍船の碇が、長く境内におかれていました。元寇という悲劇が、重ねて刻まれることになりました。悲劇は、二度とご免です。平和を祈るために、奉安殿に祀られたそうです。
 筥崎宮の扁額「敵國降伏」は、以前にも紹介しましたが、あらためて紹介します。これは、「元寇」という国難以前に、醍醐天皇の辰筆「敵國降伏」に由来するものです。



 延喜二三年(921年)神託により、延長元年(923年)に遷宮となっていますが、神功皇后伝承によると応神天皇の胎盤とへその緒を筥に納めて、祀った所に標の松を植えた
とも伝わるので、遷宮以前にも祭祀していた処のではないかと考えられています。敵國降伏という言葉は、第六十代醍醐天皇の辰筆によるものであり、神託の二年前に放生会が始まり、神託の二年後に社殿ができました。社殿の基礎柱が三十四か所あり、ご神座三座を足して、三十七か所になります。そのころ醍醐帝は三十七歳、基礎柱とご神座には、敵國降伏の言葉が納められていると伝わります。「敵國降伏」の国がまえの口の中には、「王「」が三十四枚、基礎柱に。「武」の草書体、「或」、「民」がご神座に収められているそうです。
また、「敵国降伏」は、漢学者からも、「敵国を降伏させる」と読むのではなく、「敵国が降伏する」と読むもので、武力による降伏ではなく、「徳により敵が自ずから降伏する」となるのだそうです。
 文永十一年(1274年)の元寇のとき、筥崎宮も炎上しました。建治元年(1275年)の社殿造営の後、亀山上皇により「敵國降伏」の辰筆の三十七葉が下賜されました。今、楼門に掲げられている勅額は、桃山時代に模写拡大したものです。

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# by tizudesiru | 2013-05-28 10:56 | 90筥崎宮百八回目の神事 | Trackback | Comments(0)

古墳のライン・焼ノ峠古墳と日拝塚古墳

古墳のライン・焼ノ峠古墳
北部九州では、珍しい前方後方墳である焼ノ峠古墳について考えてみましょう。ここは、何度か取り上げましたが、古墳の形から見ると、ほかの首長墓とのつながりがはっきりしません。しかし、福岡市の愛宕山とつながります。
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上の画像のように、焼ノ峠古墳と愛宕山の神社を結ぶと、そのライン上に天拝山頂と日拝塚古墳が入りました。このラインは冬至の日の出のラインに近いようです。
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12月22日、天拝山の方向を見ると、冬至の日の出が見られます。黄緑ラインが、愛宕・焼ノ峠ラインです。愛宕山は、博多湾から早良地区への入り口の重要な見晴らし台であり、祭祀の場です。今も神社となっています。主祭神は入れ替わった可能性もありますが。歴史的にも重要な位置となります。
 焼ノ峠古墳の被葬者が、日拝塚の被葬者とつながりがあったことは大事です。また、天拝山が雷山と馬見山の両方を祀っていたらしいことも、既に紹介しました。馬見山は、古代の祭祀の中心にあった山です。筥崎八幡宮(延喜式内社・名神大)ともつながった山でした。天拝山頂は、雷山と馬見山のほぼ中心にあり、双方とほぼ同じ距離・25kmくらいです。ちなみに雷山と馬見山の間は51kmくらいです。天拝山は地図上の中心から、400mから500mのずれしかありません。その天拝山とつながる焼ノ峠古墳の被葬者とは、いかなる存在だったのでしょう。北部九州の首長と深くかかわった人であることは、間違いありませんが、中部九州を見据えていたのかもしれません。
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# by tizudesiru | 2013-05-26 08:05 | 89古墳のライン | Trackback | Comments(0)

福岡の長谷観音

福岡の長谷観音
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 四月十八日、長谷観音の御開帳に合わせて、初めて参詣しました。
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本堂の裏の観音堂のさらに裏、長谷観音のお堂が建てられていました。
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 奈良の長谷寺の観音像は十メートルあります。鞍手のほうは、僧がここまで担いできたので、この大きさなのでしょう。それにしても、わざわざ九州の山奥に観音像を運ぶわけはなんでしょう。此処は、縁もゆかりもない処ではないはずです。大変な目にあって運び込んだのですから。案内してくださった先生は、「仏像を作らせた人物は、この土地にゆかりのある人で、此処を祖先の地として大切に思っていたのではないか」と、言われました。奈良の長谷寺とは、深い縁のあるお寺なのでしょう。

 地名にも「鞍手町大字長谷」と、長谷が共通しています。近くには、長谷川も流れています。長谷川は、遠賀川の支流です。
 六嶽周辺には、物部氏族の地名が多く残っています。そんなこととも関係があるのでしょうね。
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# by tizudesiru | 2013-05-20 13:21 | 87福岡の長谷観音 | Trackback | Comments(0)

奈良の長谷観音

奈良の長谷観音 
 5年ほど前に参詣した時は、桜の盛りでしたが、今回はボタンの咲きはじめでした。
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若葉もいいものです。舞台からお堂の中の観音像が拝めました。堂内は撮影禁止なので、舞台からカメラを向けました。遠くてピントがずれています。
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長谷観音、そのお姿は大変美しく、感動的です。
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日本に佛教が入ってきたころ、観音信仰が盛んになったようです。仏像の原料木の多くは、楠の木です。日本の有名な仏像は、楠に彫られています。楠は、九州の福岡が北限です。韓国には済州島でも仏像を彫れるような楠は育たないそうです。学者によっては、「楠は交易品として韓国に輸出され、それが仏像となって日本に輸入された」と言われます。古代のことですから、交易品がなんであったかわかりませんが、輸出できたのは、九州となります。数年前、九州の樹齢三百年の楠(矢部川流域)で、仏像が作られたというニュースを聞きました。
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美しいお堂を次に見るときは、桜のときでしょうか。モミジのときでしょうか。楽しみです。
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# by tizudesiru | 2013-05-20 11:45 | 86奈良の長谷観音 | Trackback | Comments(0)

飯盛山&こうやの宮

飯盛山こうやの宮
福岡平野を東西から見守る飯盛山と宝満山。何度もブログで紹介した山々です。この二山の間に、吉竹高木遺跡があり、巣玖岡本遺跡がありました。飯盛山からみれば夏至の太陽は、鉾立山々頂から登ります。下の画像は、グーグルで見る6月22日の日の出です。同じ画像にラインを入れてみました。黄色のラインを飯盛山から出して、鉾立山に結んだものです。この黄ライン上に、延喜式内社の住吉神社が入ります。
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 冬至の太陽は、荒平山々頂から登ります。
 ほかにも、たくさんのラインを紹介しました。飯盛山→愛宕山→宮地嶽古墳・や、 飯盛山→高宮八幡→那珂八幡(古墳)→太祖宮→香春神社(延喜式内社)・などがあります。
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 グーグルの画像にラインを入れてみると、一目でわかります。ラインのゆがみは、地面の高低によるものらしいです。さて、今回は、吉野ケ里とこうやの宮を紹介します。黄緑色のラインを見てください。
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有名な吉野ケ里遺跡の公園です。赤ラインは、普賢岳と結んだものです。これは、信仰のラインだとして発掘された方々から紹介されています。私の紹介しているラインは、黄緑です。拡大します。
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 遺跡のすぐ近くの神社に目印を入れています。そこを通り、祭祀を行ったと思われる建物を通過しています。そして、こうやの宮に届くのです。此処は、テレビでも紹介された小さなお堂です。地域の方々が協力してお堂を建て替えられています。その堂内には……
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 あの七支刀(七枝刀)を胸の前に捧げているのでしょうか。外国人らしい人物像が安置されていました。
 飯盛山・吉野ケ里・こうやの宮と、ラインでつながってしまったので、これを紹介したがいいのか、それとも単なる偶然としたがいいのか、少し考えました。この辺りには、大きなお寺があったようで、このお堂とどんなつながりがあるのか説明のしようがありません。
 飯盛山は佐賀県とは、天山→飯盛山→愛宕山→宮地嶽古墳とつながっています。ピンポイントでこうやの宮も飯盛山とつながるとしたら、宮地嶽古墳の時代くらい時間が下るのでしょうか。ちょっと、面白いではありませんか。
 
 
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# by tizudesiru | 2013-05-18 21:54 | 85飯盛山&こうやの宮 | Trackback | Comments(0)

船原3号墳の馬具

船原3号墳の現地説明会に行きました
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説明会会場への入り口
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背後の青い山は、立花山(二神山)。かっては、香椎宮のご神体の山だったようです。公開されていたのは、下の埋納穴です。ここから馬具が出たのです。
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まだ全体を見ることはできないし、質的にも量的にもよくわかりません。
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これらの馬具が出土したのは、古墳の石室ではありません。なんと田んぼの下にあった埋納穴です。
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 船原3号墳は、中央の円墳です。現在、入り口は土嚢で封じられています。決して大きな古墳ではありません。人だかりの足場の下に埋納穴があります。下に、古賀市が紹介している「船原3号墳」の1ページをのせました。
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 現地にも同じ遺物の紹介写真がありました。
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 古墳から出土したのは、なんでしょう。盗掘されていたので、残り物で想像するしかありません。上の遺物は何に使ったものかわからないそうです。それにしても、船原3号墳の葬送で馬具が石室外に埋納されたのは、いかなる理由によるのでしょうか。ほかに同じような例があるかといえば、……宮地嶽古墳なんかも副葬品が石室の外で見つかっています。それは、のちの世に埋納したからだと聞きました。同じとは言い難いです。
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 漆を塗った矢の束が、馬具埋納土坑の隣の土坑から出ています。しかし、説明会の日は土嚢でふさいでありました。木製品であれば、放射性炭素の測定で年代がわかるでしょうと現地の人に聞きました。そしたら、発見して空気に触れて時間がたっているので、測定はできないといわれました。そんなものですか? 素人は、いつも引き下がります。古墳は7世紀だと言われましたが、一緒に出てきた須恵器の口周りの文様から、6世紀という可能性もあるそうです。
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須恵器と土師器の組み合わせからも、何世紀かの判断はできると思います。よく見て、情報を発信してほしいものです。
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# by tizudesiru | 2013-05-17 12:06 | 84船原3号墳の馬具 | Trackback | Comments(1)

杷木神籠石と鹿毛馬神籠石

杷木神籠石と鹿毛馬神籠石
 なくした資料のことを話したら、知人が神籠石に出かけて写真を撮って送ってくれました。それを紹介しています。
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川岸の美しい桜の丘。この丘のふちに、若干の列石が残っています。神籠石の範囲は、背後の山の斜面です。国道が、神籠石を分断しています。
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水門は、みごとに古の名残をとどめてはいません。残念なことです。
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此処の神籠石の切石は、筑後川の大石堰の大工事のとき使われたようです。 

 次の鹿毛馬神籠石ですが、此処は、列石を見学しながら歩いても40分くらいという、比較的歩きやすい遺構であり、行程も登りが少なく楽なほうです。
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 切石の列石もかなり残っています。水門は暗渠ということで見学はできません。

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# by tizudesiru | 2013-05-14 20:53 | 82再度神籠石へ | Trackback | Comments(0)

帯隈山神籠石と杷木神籠石

御所ヶ谷神門石とおつぼ山神籠石
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 神籠石といえば、「御所ヶ谷神籠石」の中門の大きな石積みが、すぐに頭に浮かびます。雑誌などにも、よく写真が紹介されています。有名な神籠石ですが、ここは、後世に手を入れられたと聞きました。列石が露出した箇所と、版築土塁の中に列石が埋め込まれた個所とあるそうです。埋め込まれたほうが、後世の変更箇所です。逆は、構造上ありえません。ともかく、築造当時の箇所もあるわけですから、見学しやすいコースとしておすすめです。
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おつぼ山神籠石も説明版と写真を紹介します。
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 「おつぼ山神籠石」と「御所ヶ谷神籠石」、この二か所の神籠石にはつながりがあるのです。少しの方々には既に紹介していますが、御所ヶ谷→砥上山頂→帯隈山頂(帯隈山神籠石)→おつぼ山神籠石と、直線が引けます。つまり、この神籠石は、連動して作られたのです。それぞれが勝手に築造すればこうはいかないでしょう。三か所の神籠石が直線でつながるなんて、本当に面白いですね。

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# by tizudesiru | 2013-05-14 09:20 | 82再度神籠石へ | Trackback | Comments(0)

83 悲劇の好字

本の紹介
悲劇の好字
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佛教大学教授で中国語学がご専門の黄當時教授の新刊です。2013年6月20日発売予定ですが。印刷が終わったので、即購入しました。金印の謎が解けますね。
 発行所は、不知火書房です。 FAX 092ー791ー7161
 「奴」の読みは「ぬ」である。金印の「漢の倭の奴の国王」は、「漢の倭奴国王」と読むしかないということです。金印の研究が進んだら、日本の古代がさらにはっきりすることでしょう。

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# by tizudesiru | 2013-05-12 09:46 | 83悲劇の好字 | Trackback | Comments(0)

再度神籠石へ (女山神籠石)

再度神籠石へ (女山神籠石)
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女山神籠石という石碑から車道を上り、展望台のある公園まで行き、そこから列石の見学ができます。
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 神籠石は、何処もよく似ていることがわかります。切石の列石、列石の上に版築土塁、石組みの水門などです。
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女山神籠石は、360度のロケーション。
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# by tizudesiru | 2013-05-08 22:19 | 82再度神籠石へ | Trackback | Comments(0)

再度神籠石へ(高良山神籠石)

再度神籠石へ (高良山神籠石) 
 

「神籠石」という呼び名は、高良山の列石から生まれました。高良山へ上る車道沿いに、列石を見ることができます。
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 大学稲荷前のバス停を目印にすれば、此処から歩いて列石が見られます。
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 車窓からも列石を見ることはできます。
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 高良山神籠石の列石は、他より大きいようです。両手を広げても足りない石が、いくつもあります。この石が神社域を取り囲んでいます。北側は崖になり、列石が切れています。列石は崖下に崩れ落ちたとされ、天武地震による崩壊といわれています。雷山神籠石も、北水門の西側は崖になり、列石が切れています。これも、678年の天武地震による崩壊だそうです。
 神籠石の最高部は、高良大社の本殿裏になります。神社と神籠石が、分かちがたい印象になるのも無理からぬことです。
 高良山神籠石は、ほかの神籠石の列石より見つけやすく、見学しやすい遺構です。

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 少々古い説明版は、おまけです。
 耳納断層と天武地震の説明がされています。
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# by tizudesiru | 2013-05-08 21:31 | 82再度神籠石へ | Trackback | Comments(0)

再度神籠石へ(雷山神籠石)

再度神籠石へ(雷山神籠石)
 雷山神籠石へ行く道としては、千如寺へのぼるコースが楽です。
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 舗装された車道です。が、神籠石へは、若干荒れた道を下ります。車道からやがて神籠石の中に入っています。しかし、北水門まで下らないと、神籠石を十分に見ることはできません。気を付けていれば、途中に列石を見ることはできます。
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 南水門は、見る影もなく壊れています。北水門は、下の写真のようにしっかりしています。
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北水門と、列石がよく見えます。此処には、神社がありましたが、いつの間にかなくなっていました。他へ移したそうです。やはり、守る世代の高齢化でしょうか。
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 列石をしっかり見ることができるので、満足します。よく見ると、かなり風化していますが、切り欠き溝とわかります。L字に石を削りとっています。この溝に横木を置いて、板を固定し版築の土塁を築いたそうです
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 水をためることも可能だったのでしょうか。水量が増えたときの、排水口でしょうか、水門の上部にも出口が設けられています。
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糸島から見える雷山です。青く霞んでいる山並みが脊振山系で、左が井原山、真ん中が雷山山頂、右の稜線上に神籠石があります。
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 帰りに、発掘現場を通りました。飯盛山にならぶ辺りの山の斜面で、6世紀・7世紀のあまり身分の高くない人々の群集墓の発掘があっていました。すごく良かったです。威信財はないけれど、横穴式石室への憧れを感じました。大きな石を斜面に並べるのは、大変なはずです。普通の人のエネルギーがあふれていました。
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# by tizudesiru | 2013-05-08 13:35 | 82再度神籠石へ | Trackback | Comments(0)

再度神籠石へ(宮地岳神籠石)

再度神籠石へ
昨年、外付けで保存していた写真ほとんどをハードデスクの故障のため失ったので、最近データの取り直しをしています。神籠石にもいきました。
宮地岳神籠石(阿志岐古代山城)最近、「神籠石」の名称を「古代山城」に変えようとする流れがあるます。それぞれの学者の都合で、名称が変えられるのですね。しかし、私はなじみの「神籠石」を使っています。
 最初の写真は、水門です。谷にかけられた石塁のようなものでしょうか。水抜き穴は見られません。千数百年もここにあったとは、すごいことです。切り欠き加工が見られます。古代の技術が見られる遺構です。後ろの崖は、樹木に覆われた土塁です。杉木立の先に見える崖です。
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 上の写真は切石の列石ですが、ほかの神籠石と違って、列石の下に敷石があります。急な崖にあるためでしょうか。版築の土塁が、列石の上にあります。
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このように、現況では列石はほとんど埋まっています。築造された時も土塁は低く、切石列石は露出していたそうです。
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 ここは、阿志岐平野部に向いた出入り口です。城門があったのでしょうか。列石が土塁を囲んでいるようです。
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 水門遺構ですが、まだ土砂と腐葉土に覆われています。
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 この神籠石が発見された場所として、整備がされています。遺跡に手を入れて、階段でもつけて、見学できるようにするのでしょう。
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 神籠石の北東方角に宝満山が見えます。
 次は、高良山神籠石です。
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# by tizudesiru | 2013-05-08 09:03 | Trackback | Comments(0)

今年、自分のブログに向って思うこと

2013年になりました。
今日は、なんと2月2日。
自分のブログもホッタラカスほど忙しかったのではないのに、何をしていたんでしょう。また、ブログ始めようと思います。そして、初心に還ろうと思います。
初心っ? 改めていうほどのことでもない… けど

子供のころから聞かされた「邪馬台国九州説」
いまだに決着なし。それどころか、九州の考古学の人に「畿内説」が多いとか…
大人になって、私も「魏志・倭人伝」というものを読ませてもらいました。
漢文だけでは難しいので、口語訳でも読みました。どう読んでも、畿内ではありません。
「九州の古代史が曖昧模糊として、よくわからない。なぜそうなったのか」
「誰が九州の古代を何時、どのように消したのか」
知りたいです。

十数年前に、この本に出会いました。 
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奥野正男著「鉄の古代史1」この本を県立図書館で借りて読みました。
感動して、3700円と高かったけれど、書店に注文して買いました。
「邪馬台国論争は終わった」と思いました。
奥野先生の「鏡」の研究も読みました。ダメ押しです。

もうすでに、「邪馬台国論争」は終わっているはず。

私は知りたいです。なぜ九州に邪馬台国があってはいけないのか。
邪馬台国が存在したのなら、その記憶は、九州のどこにどのように残っているか。
畿内と九州が結び付くとしたら、その記憶は何処にどのように残っているのか。


 地図が面白いのは、地名から過去・生活・人の思いを想像できる事です。
 初めは、国土地理院の5万分の1の地図でした。
 紙の上にひろがる近い過去、遠い過去、さまざま。
 古い集落には神社があり、神社をたどると往時の交通や文化の伝播までわかるようでした。
 山川・古墳・道路、地図には情報があふれています。
 「古代もきっと地図に残されている」直観しました。
 今では、だんだん調べる地域広がって、グーグルになってしまいました。

また、一緒に楽しみましょう。

 
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# by tizudesiru | 2013-02-02 21:37 | 81ブログのスタートに還る | Trackback | Comments(0)

(2)香椎宮と六嶽神社

(2)香椎宮と六嶽神社
 この二つの神社が結びつくなんて、想像できません。六嶽には宗像三女神が降りたという伝承があるのです。香椎宮とつながりがあるとは思えません。しかし、麓の六嶽神社と香椎宮をつなぐと、間にぴったり宮若市の若宮八幡が入ります。ラインが分かりにくいので、水色に変えました。香椎宮本殿を出た水色ラインは、北東に伸びています。
 このラインは、宮若市の若宮八幡宮を通過するとき本殿を横切ります。
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 画面の若宮神社を通過するラインがいくつかありますが、紫ラインは、宮地嶽古墳からのものです。少しずれる青ラインは、宗像大社からのものです。ピンクラインは、竹原古墳からのものです。が、ここでの説明は省きます。
 水色ラインに話を戻すと、香椎・若宮八幡・六嶽と三社の本殿を結ぶという結果が出ています。三社は話し合って社殿を造営したのでしょうか。そうではありません。建て替え時期がそれぞれ違います。強固な言い伝えがあって、同じ場所に社殿を造営したとしか言いようがありません。それでも、三社がつながっている。その意味はなんでしょう。香椎宮の御祭神が宗像三女神だったなんて事は、まったく考えられません。香椎宮は仲哀天皇の廟であり、神功皇后の伝承の地でもあります。
 若宮八幡は718年の創建で、ご祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・武内宿祢です。仁徳天皇を祭神に加えたとき「若宮八幡」と名を変えたそうです。718年(養老2)は藤原不比等らにより「養老律令」ができた年です (施行は757年、757年は橘奈良麻呂の変で、橘氏大伴氏の一族多数が刑死している。720年に「日本書紀」ができている)。若宮八幡は藤原氏が栄えていた時期の創建ですから、政治的匂いがします。ご祭神も応神・神功ですから香椎宮とのつながりも十分です。
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 では、なぜ六嶽神社とつながるのでしょう。
 ご祭神は、もちろん宗像三女神ですが、ほかに応神天皇・神功皇后・武内宿祢・他も合祀されています。もともと応神天皇・神功皇后がご祭神だったところに宗像三女神が降臨したのでしょうか。また、六嶽の旭岳には、ニニギノ命の御陵があるという伝承もあります。冠は、天冠(てんがい)岳に、衣を羽衣岳に埋葬したそうです。近くの八剣岳もヤマトタケルの住まいのあとだという伝承もありますから、伝承にあふれた土地ということで、驚かされます。いずれも日本書紀や古事記の重要な登場人物です。
 三社の創建は、いつでしょう。三社は連続して造営されたか、または、六嶽神社と香椎宮の間に遅れて(718年)若宮八幡が入ってきたのか。宗像三女神との直接の結びつきは、なかなか出てきません。そこで、六嶽を別のラインで見てみましょう。
 14番目のラインです。14 一貴山銚子塚古墳―香椎宮―六嶽―(劔神社)
 なんと糸島地方で一番大きな古墳からのラインです。 一貴山銚子塚古墳と六嶽山頂を結ぶと、香椎宮の裏の杜を通ります。14番目のラインは、ポイントが若干ずれるので無理かなとも思いましたが、香椎宮と糸島地方は、ほかにも密接なつながりがありそうなので捨てがたいのです。それは、次の「香椎宮と糸島地方」で取り上げます。
 さて、一貴山銚子塚古墳です。ブログでも数回取り上げました。4世紀の古墳で漢鏡(方格規矩四神鏡・内向花文鏡)が頭部付近に、三角縁神獣鏡が側縁(足元付近)左右に4枚ずつに置かれていることでも有名です。方格規矩四神鏡(現品は京都大学にあるそうですが)には鍍金(金メッキ)が施されて、国内には数面しか見られないそうです。
 一貴山銚子塚の被葬者が六嶽とつながっているとしたら、その人物の近親者で、ニニギ命? それは、4世紀の出来事だった? 間に存在する香椎宮。なぜ一貴山銚子塚・六嶽ラインに香椎宮があるのか(正確には香椎宮裏の杜ですが)。一貴山の被葬者は、香椎の宮の住人の親族だった可能性があります。そして、六嶽の地(遠賀川流域)に出て行った(降臨)。逆はあるでしょうか。4世紀の六嶽の人物が糸島に出て行った。後者は、可能性が低いと思います。伊都の首長である一貴山銚子塚の主は、弥生王墓が並ぶ宝満・飯盛ラインに眠っているからです。福岡平野の弥生の伝統を背負った人物であり、遠賀川流域から来たとは考えられません。神功皇后を迎えに行った伊都県主の祖が「日本書紀」に出てきますが、同じく岡県主の祖も神功皇后を迎えに出ています。伊都国と遠賀川流域の有力者は、同一行動をしているのです。何らかの協力関係にあったのです。六嶽と一貴山が結びつく理由が、ここにあるように思います。つまり、神功皇后の時代より以前に伊都国と遠賀川流域はつながっていたのです。
 さらに、一貴山銚子塚古墳は前方部が南に、後円部が北になります。この古墳の主軸は南北になるのです。弥生の王墓ラインに並びながら、南北を主軸とする。新しい思想が入り込んでいるようです。大陸から入った思想でしょう。天命を受けて国を治める首長が北極星をいただいて、北に後円部を持ってきたのかもしれません。木棺が東西に置かれていたのなら尚のこと面白いですね。
(画像から、ピンクのラインをたどってくださいね)
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 六嶽伝承のニニギの命と、神宮皇后・応神天皇のつながりは、今のところ全くわかりません。しかし、ラインを引いてみると、親族と言わなくても同じ氏族だったと思われます。
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# by tizudesiru | 2012-11-12 12:00 | 80倭女王墓を教える香椎宮 | Trackback | Comments(6)

香椎宮が教える倭女王の墓

橿日宮が教える倭女王の墓 紀伊国屋に本を探しに行きました。一日も早く香椎宮の謎を知りたかったからです。しかし、空振りです。見つかりませんでした。
 古いはずの香椎宮があまり歴史的に取り上げられていないのは、不思議です。香椎宮をグーグルの画像で見ると、二つの森に分かれています。現香椎宮が左、仲哀天皇の訶志比宮跡が右で、ここは大本営址でもあります。香椎宮は古くは香椎廟と呼ばれ、延喜式では式内社に選ばれていません。しかし、日本書紀に出てくる地名で、今も同じ位置にあるらしいというのは珍しいのではないでしょうか。グーグルの画像にラインを入れてみました。。
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さまざまなラインが入ります。東西ラインが2本。香椎宮からの放射ラインが7本。古宮跡からのラインが4本。そして、香椎宮裏を横切るラインが1本。合計15本のラインを引いてみました。番号を打ちます。東西ライン(上から1・2)放射ライン(反時計回り3・4・5・6・7・8・9)古宮後からのライン(反時計回り10・11・12・13・)その他(14)と、します。
1 大嶽神社の裏山―香椎宮(裏の社)―鉾立山  *大嶽山には岩座がある
2 大嶽神社(西戸崎)-香椎宮-鉾立山 *大嶽から二本目のラインを引いてみた
3 香椎宮―愛宕神社(福岡市西区)―高祖山(糸島市)
4 香椎宮―飯盛山―雷山
5 香椎宮―須玖岡本(王墓)-九千部山(香椎宮のほぼ真南)
6 香椎宮―筑紫神社―五郎山古墳―御勢大霊石神社
7 香椎宮―太祖神社―古処山
8 香椎宮―鹿毛馬神籠石―三ノ岳(香春岳)
9 香椎宮―若宮八幡神社(宮若市)-六嶽神社

10 古宮跡―熊野神社(須玖岡本)―九千部山 *香椎宮からのラインは、王墓を通る
11 香椎宮―竃神社(式内社)-林田の三奈木神社(式内社)
12 香椎宮―大根地神社―荷原の三奈宜神社(式内社)
13 古宮跡―若杉山―古処山

14 一貴山銚子塚―香椎宮―六嶽―(劔神社)

 とりあえず14本です。この中に、背振のラインを入れていません。脊振との関係はなかったのかもしれませんが、まだ未発見の遺構があるのかもしれません。
 
 さて、上記のラインから明らかになる「香椎宮」とは、いかなる神社なのでしょう。
(1)大嶽・鉾立山と香椎宮
 1・2からわかることは、西の大嶽と東の鉾立山のほぼ中間に香椎宮があることです。グーグルによる測定では、大嶽・鉾立山間21.7km。大嶽・香椎宮間10.8km。香椎宮・鉾立間10.7kmで、その差はわずかです。高度な測量技術があったかのようです。
 さて、大嶽のことですが、大嶽には岩座があります。岩座と神社の両方から鉾立山にラインを引くと、岩座を起点とするほうが古くなります。岩座から香椎宮本殿の裏を通り訶志比宮跡を通ります。が、大嶽神社からは香椎宮を通るので、神社という形ができてからのラインでしょう。大嶽から南にまっすぐラインを引くと、福岡市西区の愛宕山を通り脊振山地を越えて、帯隅山に届きます。帯隅山には、神籠石系山城があります。福岡市愛宕山のふもとの室見川流域は、吉武高木遺跡で知られる早良区です。紀元前に半島と交流があった遺跡です。
 一方の鉾立山からラインを南下させると砥石山・宝満山・ 宮地岳(神籠石系山城)を通り、高良大社(久留米市)まで届きます。大嶽と鉾立山からのラインが、どちらも神籠石系山城に至るのがすごいです。何らかのかかわりがあることを示唆しています。
 では、中心に来る香椎宮はどうでしょう。ここからラインを南下させると、九千部山に届きますが、間に春日市須玖岡本の弥生王墓と言われる地点を通ります。訶志比宮跡からのラインは、春日市の同じ地域の熊野神社を通り九千部に届きます。弥生時代の早良区が栄えた後に、春日市須玖岡本地区が栄えたそうです。両地区の首長は弥生時代のリーダーだったのでしょう。それにしても、香椎宮の南に弥生王墓と熊野神社が入る意味はなんでしょう。仲哀天皇の橿日宮は、九千部山の真北に作られています。間に、熊野神社と王墓が入る。つまり、香椎宮の関係者は、弥生の首長を意識していた。崇敬していた。そうなると、香椎宮の創建はかなり古くなります。王墓は大石の下にあり、長い間忘れられていた。しかし、熊野神社は、高台に忘れられず祭られていた。私がこのことにこだわるのには、理由があります。
春日市のこの地域は弥生遺跡密集地だけでなく、弥生のレイラインだからです

宝満・飯盛ライン(弥生レイライン)の説明を少々 
 この東西二つの山について繰り返し説明してきたのでかなり御存じと思います。このライン上に、宝満山を起点→大城山(古代山城跡)→春日市須玖岡本遺跡(1世紀)・熊野神社→吉武高木遺跡(紀元前1)→飯盛神社→飯盛山→細石神社→一貴山銚子塚古墳(4世紀)が連なっているのです。または、須玖岡本王墓(1世紀)→飯盛神社→三雲南小路王墓(2世紀)→一貴山銚子塚古墳となります。宝満山を起点にするか、王墓を起点にするかで、少しラインがずれますが、宝満・飯盛に守られたライン上に首長たちが眠っているようです。何より橿日宮からのラインが南下して、宝満・飯盛ライン上の熊野神社と王墓を通過する。このことは、何を意味するのでしょう。香椎宮からのライン上には、重要な弥生の真実が隠れていることになりませんか。まさに、熊野神社に。
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 この熊野神社を斜めに横切る赤ラインは、愛宕・鉾立ラインの愛宕山と、宮地岳(阿志伎山城)を結んだものです。熊野神社をしっかりとらえています。やはり、古代山城が築かれた時代、熊野神社は重要な位置にあったようです。
 もったいぶっても仕方ないですね。唐突ですが、弥生の重要人物と言えば、倭の女王です。もし、倭の女王が九州に住んでいたとしたら、やはり多くの王が眠る弥生のレイライン上に永眠しているのではないでしょうか。しかし、春日の岡本地域は那国と目されているようです。女王国ではないです。それでも、倭女王が眠ると考えられる根拠は、最近の考古学による古墳の被葬者の骨の分析結果です。男女を問わず、同じ墓に埋葬されているのは、血縁者だそうです。女性も実家の墓に埋葬されているのです。遺体が戻って来たのでしょう。倭女王も実家に帰ったと思われます。もちろん、仮にほかの地に埋葬されていたとしても、結果的には戻されたことでしょう。その場所が熊野神社だと考えられると思います。気になるのは、そのことが長く伝わっていたようだということです。

と、結論めいた事を書きました。ブログを読んだ人の「疑問符」や「感嘆符」がどっと届きそうです。
なんで、女性の墓だとわかるの? 「塚}を築いたはずなのに、どうして熊野神社になったの? まだ、女王は熊野神社におられるの? 墓には「親魏倭王」の金印は埋葬されているの? 
 まだまだ疑問はあるでしょう。それに、上記のラインのうち、まだ1・2までしか、説明をしていません。3から14までの説明も必要でしょう。それは、また、次の機会に。
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# by tizudesiru | 2012-11-08 19:55 | 80倭女王墓を教える香椎宮 | Trackback | Comments(2)

孝徳天皇・難波宮の掘っ立て柱

孝徳天皇難波宮の掘っ立て柱
 先日、孝徳天皇の難波宮の話を聞きました。大化の改新後、天皇となった方ですが、難波に遷都した後は中大兄皇子により難波に置き去りにされ、怒りと孤独の中に崩御されたと書かれています。孝徳帝は、何故遷都を必要としたのでしょう。そして、何故難波を選ばれたのでしょう。皇后・皇太后まで連れて「倭京」に帰った中大兄皇子は、どうして天皇をおき去りにしたのでしょう。
 難波の宮は、長い間所在不明でした。大正時代に数個の瓦(重圏文・蓮華文)が、大阪城の外堀の近くで見つかっていたそうですが。二次大戦後、瓦の出た付近から鴟尾(しび)が発見され、奈良時代の宮址とされました。1958年、奈良時代より古い柱列跡が見つかり、柱穴には焦土が詰まっていました。これが、686年(朱鳥元年)の火災の跡であるとされ、孝徳帝の宮室跡と推定されました。
 なお、ここからは、木簡が出土しています。万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀なかごろのものだそうです。「波留久佐之皮斯米之刀斯・はるくさのはじめのとし」とかかれ、前期難波宮の完成前後のものと考えられるそうです。ともに出た土器は、「平行文当て具痕のある須恵器」で、北部九州の古墳時代後期に見られる土器だそうです。九州と難波とは関係が深かったのでしょう。
 さて、難波宮を見てみましょう。
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 青と水色の2本のラインを引いています。水色ラインは、難波の宮から出ています。このラインは、式内社(名神大)比売許曾神社を通り、同じく式内社(名神大)飛鳥戸神社の横を通り、孝徳天皇稜を通り、科長神社(式内社)を通り、式内社(名神大)葛城一言主神社に届きます。
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 こうしてみると、孝徳天皇稜は、二か所以上の式内社(名神大)に挟まれている事になります。その意味は何でしょうな。強力な神の力で抑えられているのでしょうか。
 では、もう一方の青ラインはどうでしょう。このラインは、生国魂神社を起点にしています。もちろん式内社(名神大)です。生国魂・難波宮を過ぎて、天王山山頂と酒解神社(式内・名神大)の間を通り、京都御所を通り、下鴨神社(式内・名神大)に届きます。平安京造営時の御所はもっと西にありましたから、当初からこのライン上にあったのではありませんが。
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 難波宮は、式内社(名神大)に挟まれています。孝徳天皇は、何を恐れられたのでしょう。孝徳帝の皇子である有馬皇子は、中大兄皇子の謀により死を賜りました。天智天皇により滅ぼされた形になっています。そのために、式内社により縛られたのでしょうか。では、後期難波宮は、誰の宮址でしょう。744年(天平15年)、聖武天皇が造営させた「副都としての難波宮」でしょうか。しかし、745年(天平16年)には、紫香楽宮に遷都されています。一年で遷都したのに、屋根瓦の鴟尾(しび)は捨てられたのでしょうか。移築されなかったのでしょうか。
 謎の多い難波宮址です。
 この前期難波宮の柱跡から、掘っ立て柱である事が分かっています。7世紀半ばの宮は、掘っ立て柱だったのでしょうか。
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# by tizudesiru | 2012-09-17 09:59 | 79孝徳天皇の難波宮 | Trackback | Comments(0)

筥崎宮の「敵国降伏」 

 「地図で楽しむ古代史」                          
始めに  
私は、以前から地図で遺跡を確認していくうちに古墳や神社がかなり遠くでも並んでいるように思うようになったのです。それから、国土地理院の地図で調べるようになりましたが、以外に山頂や古墳のラインがつながるので、むしろそんなことはないだろうと否定的な気持ちを持っていましたが、ある時、国土地理院の地図をつなげてみて、一定の時期の古墳がつながる事に気がついたのです。
もしかしたら、その事が古代のある一面を教えてくれるかも知れないと思うようになりました。
では、10世紀から古代にさかのぼりたいと思います。
10世紀の天皇が恐れた「敵国」からわかる信仰の山と神社
山がどのくらい前から信仰の対象になっていたか、難しい問題です。
分かりやすい例として、筥崎八幡宮でお話しようと思います。筥崎宮は923年に穂波町の大分八幡宮から遷宮されています。遷宮の4年後に筥崎宮は朝廷から祈念祭奉幣を受けるべき式内社となっているのです。福岡の式内社(明神大)は、8社です。筑前6社、筑後2社です。筥崎八幡神社の元宮、大分宮は式内社ではありません。そもそも式内社がおかれた最大の目的は何でしょう。
 筥崎宮遷宮の年923年は、菅原道真が右大臣に復し、正二位が贈られた年です。
23年前の900年は、辛酉の年でした。藤原時平は、変革を提言しています。翌年901年、時平の讒言により道真は右大臣の官職を失い、大宰権帥に左遷されました。そして、903年薨去(こうきょ)。この後、都は道真の祟りに苦しみました。905年延喜式の編纂が始まりましたが、時平の死、皇太子の死などの不幸が醍醐天皇に降り掛りました。921年筥崎宮に「敵国降伏」の辰筆が下り、923年大分宮より遷宮。927年醍醐帝に奏上された「延喜式」により式内社となったのです。歴史の浅い筥崎宮が式内社となるための理由とは何でしょう。「敵国降伏」の為の遷宮でしょうか。それは、道真の罪が許された事と関係があるようです。また、「敵国降伏」の敵国とは何処をイメージしていたのかという問題も残ります。
(1)筥崎宮・大城山・太宰府天満宮・宮地岳ライン
式内社箱崎宮とは何だったのか、調べてみましょう。お宮の長い参道から本殿を見ると、鳥居の間から山の頂上が見えています。山頂は、社の屋根の中央に乗っています。後ろの山は、宝満山ではなく三郡山です。しかも、地図で調べてみると、筥崎宮・三郡山・馬見山と二つの山の山頂を結ぶのです。何故、宝満ではなく隣の三郡なのか疑問でした。しかも、延長線が秋月の馬見山山頂まで届きます。遠賀川源流の馬見山です。数年前、その謎を解いたつもりでいましたが、更に新しい事実と重なり、祭祀線が無視できない事実を教えてくれていると思うに至ったのです。が、別の機会に。
 筥崎宮からのラインを詳しく見てみましよう。筥崎宮から大城山(大野城)を通り宮地岳にラインを引くと、太宰府天満宮の社殿を通るのです。何故、大宰府天満宮が来るのか?(天満宮の社殿は、藤原時平の弟の忠平が建立したものです。忠平は筥崎宮から測量して社殿を造らせたのでしょうか。起点になる筥崎宮(宮地岳)は、もと大分宮の頓宮であったからでしょう。近くには神功皇后が米を集めたら山のようになったから「米山」町だとか、古墳をつぶして電車道を造ったとか、本殿の東西に小山があって東側には武内宿禰を祭っていたが削られて「武内通り」という名のみが残っているとか様々な伝承があります。本殿裏を流れる宇美川は糟屋郡宇美町の宇美八幡の裏を流れる川です。宇美には「神功皇后が応神天皇を生んだ処」という伝承があります。筥崎宮も「応神天皇の胎衣が流れついた処に松を植えて印とした」という伝承があります。
箱崎宮から引いたラインが大城山を通ります。大城山は四王子山とも呼ばれ朝鮮式山城の一つで、天智天皇が白村江戦後に造らせたという「大野城」があります。ただ、大野城以前にも山城があったという伝承が残っています。「神武天皇が四王子山に事代主と武ミカ槌命を祭っていた」が、「天智天皇が大野城を築くので事代主と武ミカ槌を通古賀に移した」と、通古賀にある王城(おうぎ)神社の由緒に伝えられています。現在、大城山は古代山城の倉庫跡礎石があります。そして、太宰府都府楼跡の北、背後の山となっているのです。大野城は白村江戦後、太宰府防衛のために造られたと言われています。基肄城、金田城、高安城、鞠智城などとともに正史に出てきます。
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王城神社(資料)『王城神社は、事代主命(恵比須神)をお祭りする太宰府通古賀の氏神様です。その創始神武天皇が四王寺山に城を築いた際に、その峰に武甕槌命と事代主命をまつった事に由来するとされており、その後、天智天皇四年(六六五年)に大野城を築く際に、現在の通古賀の地に移されたと伝えられています。その後も、太宰府が栄えるにつれて、上下の区別なく信仰を集め、「王城神社縁起」(太宰府天満宮所蔵)には、菅原道真が太宰府に流された折には、王城神社の社人は府の南館にたびたび訪れていた』と書かれています。しかし、戦国時代の騒乱により社殿は焼け落ち衰退しましたが、その後、小早川隆景により再建されました。

太宰府天満宮は、道長の遺体を牛車に乗せ、牛が動かなくなった所を墓としたという伝承があります。その墓の上に藤原忠平が社殿を造ったのです。忠平が兄の時平一族を倒し、藤原宗家の坐を奪うために道真の祟りを利用したという説もあるそうです。それにしても、王城神社の社人は、道真からどんな話を聞いたのでしょう。
宮地岳は歴史書に出てこない神籠石が山頂西にあるのですが、発掘の結果「古代山城」と発表されました。そのため、他の地域の神籠石が「古代山城」と名称変更したという、その元になった遺跡の山です。その山頂は、宝満山山頂のほとんど真南になります。(写真は、現地説明会のパンフレットからコピーしたものです。太宰府側・北西からの航空写真で、南北が逆です。上部は筑紫平野、下部は阿志岐の田園)
 筥崎八幡宮・大城山・太宰府天満宮・宮地岳のラインは、歴史的な遺跡をつないで、6世紀・7世紀・10世紀初頭の歴史を伝えています。大野城(大城山)は、白村江戦後の建造物と伝わりますが、それ以前にも山城があった事が伝承により分かります。宮地岳山城は文献には見えませんが、切り欠き加工などの工法から古代の建造物である事は明らかです。時代は白村江戦後とされました。しかし、大野城より丁寧な技術が採用され、他の神籠石の列石とは違う列石の組み方が採用されています。それは、写真のように列石の下に丁寧に支えの敷石がある事です。大野城の百間石垣は、急工事のため粗い仕上げになっていると歴史の授業でも習っています。太宰府政庁の背後の大野城より宮地岳山城の方が複雑で丁寧なわけは、築造目的と築造年代が異なる為ではないでしょうか。665年より古い時代、誰かが目的をもって建造したという事です。北部九州の神籠石の何処にも、築造の伝承がない。これも、共通点です。築造目的を伝える必要と意味がなくなったからとか、当事者が滅んだからとか、理由は様々でしょう。現地見学会で「宮地岳山城は、阿志岐側から美しく見えるように石垣が組まれている」と聞きました。列石の並びが切れる場所は広くなり、土塁を列石が囲んでいます。そこに城門があったと予想されるそうです。もちろん、太宰府側(北)に開く城門です。城門が北に向いているのは、それなりの意味があるはずです。
筥崎宮の楼門に掲げられた醍醐天皇の辰筆「敵国降伏」、この文字に託された天皇の思いは何だったのでしょう。菅原道真個人の祟りを鎮めるために、筥崎宮に辰筆を与えられたのでしょうか。道真の復権と時を同じくして遷宮し、「敵国」を抑えようというのなら、その敵国は何時の時代の何処でしょう。筥崎宮・宮地岳ラインから読めるのは、過去の敵国の象徴が宮地岳(天山)にあったという事でしょうか。つまり、宮地岳山城は、敵国の山城だった。天智天皇が大野城を築くまで大城山にあった、別の山城とともに、誰も知らない権力者の山城が二か所。この二か所の山城を結ぶラインは、太宰府天満宮本殿を通過し、此処は道真の墓所という意味だけではないようです。このライン上に憎むべき敵国があった事になりませんか。その敵国の真実に迫りたいのですが… これから、宮地岳山城内の発掘があるそうですが、どんな物が出てくるのでしょう。
 (2)筥崎宮から見る・若杉山の太祖神社・穂波町の大分宮(水色) 筥崎宮から出る水色ラインは、若杉山の太祖神社を通り、穂波町の大分八幡宮に届きます。この三神社は、神功皇后伝説でつながります。此処も憎むべき敵国とかかわるのでしょうか。(画像1・筥崎本殿)
 ア 太祖神社(若杉山・山頂は紫ラインの先端)
太祖神社は、神功皇后が三韓征伐の後、西に向けてイザナギ尊を祭った社だそうです。福岡市早良区の飯盛山のイザナミ尊が東を向いて鎮座しているので、相対させるためだそうです。夫婦神なのにイザナミだけが西の飯盛山に祭られていたとは考えられない事です。考えられる事は、もともと夫婦神が福岡平野を東西から見守っていたという事でしょう。
『飯盛神社由緒』には、天之太玉命がイザナミ尊を奉斎する事を創建の起源としています。上宮にイザナミ尊、中宮に五十猛命を奉斎し、飯盛三所権現宮と称し、「当社は畏くも国土万物を生成し万の事始め給いしイザナミ尊を斎き奉る。太古よりの鎮座なり。社説によると天孫降臨のみぎり、天之太玉命この日向峠、飯盛山を斎き定めてイザナミ尊外二柱を祀り国土開発「むすび」を祈らせ給う。尚、福岡県粕屋郡篠栗町勢文、若杉山鎮座の太祖神社の縁起に曰く『神功皇后三韓を平伏し当社に奉賽の御祭祀を営ませ且つ神殿を西に向けて造営あらせられたり、その処を尋ぬるに早良郡飯盛山に鎮座せらるる伊邪那美尊の社殿東に向かいて相対せられしは深き由縁あり』と、太祖神社の御祭神は伊邪那岐命である事は夫婦相対し向いあえる縁しなり。皇后この若杉をとりて香椎宮に植え給える、今の綾杉がこれなり。以上古代の鎮座なる事明なり。その鎮座し給う由緒は深遠にして比類稀なる古社にして国土を化成し万民の始祖と坐します」と書かれています。
少なくとも太祖神社のイザナギ命が、飯盛神社のイザナミ命より後の世に祭祀された事、夫婦神としては大変不自然な状態です。もともと若杉以外に、イザナギ命の鎮座山があったとしか考えられません。
飯盛山のほぼ真東は、宝満山です。イザナギ命がもともと鎮座していたのは、宝満山でしょう。西の飯盛山に相対する東の山は宝満山。間に立つと、どちらも釣鐘形に見えます。男神が宝満山(約900m)女神が飯盛山(約440m)に鎮座と、見た目にも釣り合うようです。しかし、宝満山に鎮座するのは、神武天皇の母・玉依姫です。穂波町史に書かれていますが、玉依姫が自ら宝満を選んで鎮座したそうです。鉾立山に矛を立てて菅岳と高さを比べた事も書かれていますから、玉依姫は北から福岡平野に入り、宝満山をイザナギ命から奪ったのです。その後、神功皇后が若杉にイザナミ命を祭った事になります。香椎宮に植えられた綾杉は、今も大切に守られています。ちなみに鉾立山は、宝満山のほぼ真北です。鉾立山は方角を決めるときに使われた山のようです。太祖宮を北東側から南西側に横切る青ラインは、宮若市の竹原古墳から鉾立山を通り、太祖宮を貫き、大城山に届くのです。竹原古墳は6世紀の古墳。宮若地域と太宰府地域は、6世紀には深いつながりがあった事になります。竹原古墳の被葬者は、大城山城の権力者を知っていた。または、その逆です。赤ラインは南下し筑紫神社(式内明神大社)に当たります。筑紫神社の神は、基肄城が造られた時、城山(基山)から下ろされたそうです。筑紫神社と太祖神社は、南北の関係になります。
イ 大分八幡宮
大分八幡宮は筥崎八幡宮の元宮であり、宇佐八幡宮の本宮です。神功皇后の三韓征伐の後、従っていた兵士と別れた地なので「大分」おおわかれの地名がついたとか。
 水色ラインによると、神功皇后伝説の大分宮と遷宮先の筥崎宮の間に、神功皇后伝説の太祖宮がきちんとおさります。筥崎宮・太祖宮・大分宮の三か所の神社の並びは、遷宮地を選ぶ為に測量した結果でしょうか。この三神社の並びには、政治的なにおいがします。伝説の神功皇后とは、如何なる人でしょう。大分宮の真東には、新羅瓦を出土した大分廃寺があります。8世紀の寺だそうです。誰が建立したか記録はないのでしょう。

 筥崎宮からのラインで少なくとも考えられる事
・筥崎宮は道真の祟りを抑えるためだけの式内社ではない。
・「敵国降伏」の辰筆が遷宮以前に下賜された事は、敵国の降伏が遷宮の目的そのものである事。
・朝廷にとっての敵国が太宰府とかかわる位置にあり、大城山・宮地岳(天山)の古代山城とかかわる事。
・阿志岐古代山城は大野城より丁寧に築造され、太宰府側に門があるが、白村江戦後の築造とは考えられない事。
・筥崎・太祖・大分の三神社が直線上に並ぶ事は、神功皇后伝説は朝廷にとって重要である。
・筥崎と三郡山・馬見山の山頂がつながる事は、そこには古代の信仰の伝承があった。
・鉾立山のように、山あてを使った測量が行われていた。
・飯盛山・宝満山は、古くから信仰の山であった。イザナミ・イザナギの山として祀られた時代があった。
・大分八幡宮が式内社になれなかった理由が、隠されているのではないか。
大分宮については、次の「東西ラインは弥生時代…」で取り上げます。

 

続きは「筥崎宮の『敵国降伏』その2」を見てください。*「敵国降伏」の敵国は『敵國』です。「敵國降伏」です。変換ミスです。

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# by tizudesiru | 2012-07-23 15:30 | 75筥崎宮の「敵国降伏」その1 | Trackback | Comments(0)

続・筥崎宮の「敵国降伏」その2

地図で楽しむ古代史
 (3)東西ラインは弥生時代の信仰のなごりか
ア 宝満山と飯盛山ラインの遺跡
前の「筥崎宮・太祖宮・大分宮」で紹介した福岡平野を東西から見守る山、飯盛山と宝満山ですが、両山頂を結ぶと間に「須玖岡本遺跡」と「吉武高木遺跡」が来るのです。5万分の一の国土地理院の地図では、見事に連なります。この弥生の代表遺跡が飯盛・宝満ラインに乗る事が、地図に興味を持つようになったきっかけの一つです。まず、宝満山を起点にした西に伸びる白ラインをみてください。須玖岡本遺跡は有名ですが、此処は広い遺跡です。ガラス工房・青銅器工房と工場地帯になっています。銅鏡30面以上を副葬していた王墓は、青印を入れています。他にも、地域の首長墓があります。
須玖坂本(銅生産工房・鏡、銅矛など)
須玖五反田(ガラス工房・玉磨きの砥石出土・ガラス勾玉など)
王墓(甕棺・中国鏡30面以上・銅剣・胴鉾・銅戈・ガラス璧・ガラス玉・勾玉・管玉・甕棺上4tの大石)
須玖岡本(甕棺・弥生住居・小銅鐸鋳型)
岡本(甕棺墓群)
赤井手(鉄器工房・青銅器工房・ガラス鋳型・6世紀初頭古墳に鏡、武具、工具、須恵器)
竹ヶ本(弥生から古墳までの集落・前方後円墳)
宝満山からの白ラインは、大城山・須玖岡本遺跡・吉武高木遺跡・飯盛山・糸島市の三雲南小路・一貴山銚子塚古墳とつながります。須玖岡本王墓から引いたピンクラインですが、須玖岡本王墓・吉武高木(はっきりしませんが大型建物)・飯盛山・三雲南小路王墓とつながります。春日市の須玖岡本王墓は、30面以上の漢鏡や王侯クラスに与えられるガラス璧を副葬し、吉武高木は半島と関係の深い多紐細文鏡を副葬していました。三雲南小路王墓も、35面の漢鏡とガラス璧が出土しているそうです。時代的には、紀元前2世紀から紀元2世紀の首長墓ですが、宝満・飯盛ラインに並んでいます。福岡市早良区が衰えた後、春日市須玖岡本地区が栄え、その後糸島地区が栄えたのでしょうか。弥生の首長は何処かでつながっていたようです。甕棺や鏡など葬送の品物が似ていますから。半島や中国と交流のあった王墓とつながるため、東西の信仰の山の間に眠る事が重要だった弥生時代の首長達。一貴山銚子塚は、古墳時代になりますが。
一貴山銚子塚古墳は4世紀築造の前方後円墳で、珍しい金メッキの方格規矩四神鏡を副葬しています。8面の三角縁神獣鏡は棺外の足元に置かれていた事でも有名です。糸島で最大の古墳で、宝満・大城山・飯盛山のラインに連なっていますから、4世紀でも王墓が信仰の山を頂く事が重要視されたのかも知れません。
他の首長墓や山岳を強く意識し、墳丘墓を造るようになったのでしょう。飯盛・宝満ラインには、弥生時代に栄えた早良国、那国、伊都国の中心地域が載っています。そこは選ばれた土地だったのではないでしょうか。その伝承は、古墳時代にも残っていたと思われます。
つまり、このラインから弥生時代から古墳時代への転換期が見えるという事です。
転換期と言えば、三雲南小路王墓の後、平原王墓になるとそれがよくわかります。この弥生墳丘墓は、可也山(糸島富士)と三雲南小路王墓の間にあり、糸島から見える山の最高峰の井原山と、天ヶ岳の山頂を結んだライン上にあります。平原の王は三雲南小路王墓を崇拝し、地域の山々に畏敬の念を持っていたことになりませんか。しかし、宝満・飯盛ラインに葬られなかった…彼女はただ地域の首長にすぎなかったのでしょうか。
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この平原王墓には、漢鏡と日本最大の内向花文鏡(いずれも国宝)が割られた状態で副葬されていたそうです。今日、これらの銅鏡の内二枚以外、全て国産だったという研究が発表されています。「糸島市の平原弥生王墓(原田大六氏が発掘)の舶載鏡、国産と言われる内向花文鏡は、国産鏡だ」と柳田康雄氏は述べています。また、「古代の鏡と東アジア(学生社)」のなかで、新井宏氏は「鉛同位体から見た三角縁神獣鏡」を発表し、三角縁神獣鏡のほとんどが国産鏡だとしています。更に、平原弥生王墓の鏡も国産としています。見事な中国鏡と思われていた鏡が国産なら、そのころの鋳物技術は優れていた事になります。それから、百年もすれば、鉄を溶かして刀を造ることくらいは出来たと思います。最古の暦を刻んだ鉄剣も、近畿で造らなくてもいいでしょう。近畿王家からの下賜品と、初めから決めている最近の論調に、素人なので意味がわかりません。
(余談)しかし、鏡の研究はずいぶん変わってきたと思います。研究家(王仲殊氏や徐苹芳氏)が指摘されているそうですが、卑弥呼が貰った鏡として可能性が大きい物は、「蝙蝠紐座内行花文鏡・双頭竜鳳文鏡・方格規矩鳥文鏡・方格規矩鏡(漢鏡6期)・キ鳳鏡・獣首鏡・竜鳳鏡(三角縁盤竜鏡を除く)・飛禽鏡・円圏鳥文鏡・位至三公鏡」の十種類であるとか。蝙蝠紐座内向花文鏡は、紐の周りにコウモリの文様が見られし、位至三公鏡は文字で分かるのですが、他は名前しかわかりません。これらの鏡のほとんどは北部九州で出ているそうです。
また、日本で出土する「位至三公鏡」はその形式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じで、中国の北方からしか入ってこないそうです。魏晋時代に都があった洛陽市で発掘された洛陽晋墓54基中、主流になる鏡式(ネットの情報)だそうです。晋代に流行した「位至三公鏡」は、我が国では北九州(佐賀県谷口古墳・糸島市井原など)を中心に分布しています。もちろん、弥生時代の漢鏡はほとんど北九州を中心に出土しています。鏡の出土状況からして、265年から316年の晋代まで、倭国の中心は、北九州にあったとしか考えられないそうです。だから、邪馬台国は、当然、北九州にあったようです。4世紀に何があったのでしょう。
イ 大分宮と愛宕山
大分宮の北側の森は小高い丘になっていて、宮内庁管轄の陵墓です。白い筋は階段です。陵墓から出ている紺ラインは、これより真西にある福岡市早良区愛宕山に届きます。大分宮と愛宕山の間に、式内社(明神大)住吉神社と、舞鶴城・鴻臚館が入ります。式内社が間に入る意味は、筥崎宮と同じでしょうか。愛宕山は、早良区を流れる室見川河口にあります。室見川沿いには吉武高木遺跡や、野方遺跡など有名な弥生の遺跡(卑弥呼の時代の漢鏡出土)があり、はやくから半島・中国と交流を持っていました。吉武高木の首長墓から多紐細文鏡が出土した事はすでに書きましたが、三種の神器(玉・鏡・剣)の副葬の原型がみられる事でも知られています。早良地区の入り口にある愛宕山が、弥生の信仰の山だとしても不思議ではありません。
大分宮と愛宕山は東西の関係になりますが、その役割は何だったのでしょう。大分宮が朝廷から奉幣を受けるべき条件を持ちながら、式内社(明神大)とならなかった理由があるはずです。大分宮を筥崎に遷宮しなければならなかった理由が。それは、愛宕山と東西に並んでいたからではないでしょうか。弥生から続く東西の神祭りの場がそこにあったから、そのまま使えなかった。愛宕山は重要な位置にあります(多数のラインが通過することを考えるとそうなります)。南北朝の頃、愛宕山には九州探題が置かれています。古代から中世まで、ただの田舎ではなかったのです。大分・愛宕ライン上に、住吉神社(式内・明神大)が鎮座していますが、式内社として、住吉神社は何をしているのでしょう。筥崎宮のようにこの地に鎮座する意味を担っていたはずです。東西ラインと関係があるとすれば、大分宮と愛宕山の間に入り込んでいる意味が限られます。それは、大分宮や愛宕山を支える為とは思えません。逆に大分宮と愛宕山の結びつきを断つためと考えると、納得できます。そこが過去の権力者とかかわる場所だとしたら、当然です。更に、鴻臚館まで通過します。大分陵墓・愛宕山の位置を考慮して鴻臚館が造られたのなら、築造年代はさかのぼる可能性があります。鴻臚館も文献に出るより、古くから存在していたとも聞きました。鴻臚館が始まったころ、大分宮はなかったのでしょうか。ここの陵墓が何時の時代か分かれば、大分宮についても理解が深まると思います。
東西に相対する山や墳墓や祭祀場が意味を持っていた時代は、いつまで続いたのでしょう。
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ウ 筥崎宮と宝満山をつなぐと、間に宇美八幡がきて、宝満山を越え大根地山山頂にラインが届きます。大根地山は、春日市の日拝塚古墳から見ると春分秋分に陽が昇る山です。山頂近くに大根地神社があります。つまり、両者は東西の位置にあり、大根地は被葬者の信仰の山だったようです。筥崎宮の遷座地からも選ばれた山になります。そうなると、大根地山も大根地神社も朝廷に協力的な立場にあるのでしょうか。一方では「敵国降伏」を目的とし、一方では「崇敬」の態度をとる…考えられません。大根地山も「敵国」とかかわる山なのでしょう。筥崎宮にとって、宝満山は大事な山です。任命された国司が大分宮に奉幣するのに、伯母の宝満山を越えるのが不敬になるので、筥崎に遷宮したのですから。間に入る宇美神社も応神天皇生誕の伝承地ですが、もともと敵国にかかわる神社だったのでしょうか。では、太祖宮・大分宮はどうでしょう。朝廷の国守りに一役を担っているとは、考えられません。大分宮は愛宕山と東西に相対していますから。
筥崎宮は式内社として「国を守っていた」というより、近畿の朝廷を守っていました。筥崎宮以外の他の式内社はどうでしょう。九州の式内社も、地方の豪族の墓や、信仰の山を朝廷の神の力によって抑え込むために定められたと思うのです。地図で見る限り、九州の他の式内社は、9世紀以前の神祭りの山や、有力豪族の墓を封じ込めるような位置に造られています。その話は、別の機会に。

 
「続々筥崎宮の敵国降伏」に続きます
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# by tizudesiru | 2012-07-23 15:20 | 76筥崎宮の「敵国降伏」その2 | Trackback | Comments(0)

続々・筥崎宮の「敵国降伏」

地図で楽しむ古代史

(4)古墳時代の祭祀ライン
八女丘陵の岩戸山古墳を地図で見てみましょう。岩戸山古墳からはたくさんのラインが出ています。
 まず、岩戸山古墳を横切る黄色のライン。ほぼ真東に来る山は、県境の熊渡山です。
 鈴ノ耳納山から出る赤ラインは、西の石人山古墳に届きます。
八女丘陵の岩戸山・石人山古墳の東には、鈴ノ耳納と熊渡の山頂があります。東に両古墳を遮るような墳墓はありません。つまり石人山古墳・岩戸山古墳の被葬者は、地域の東の高峰とほぼ同じ緯度に眠っているのです。4世紀の一貴山銚子塚古墳も東に飯盛山を頂き、同じく古い形の三角縁神獣鏡を持つ筑紫野の原口古墳のほぼ東に来るのは、少し南にずれるけど古処山です。同じくらい北にずれると、馬見山になります。東の高峰に見守られるのは、地域の有力者の墓です。それは、弥生から受け継がれたものでしょう。しかし、時代が下ると、東の山より神上がりした過去の権力者と結びつく事が大事になっていきます。弥生の東西ラインが、古墳時代になって変化していったという事です。
 他の山とのつながりも見ましょう。脊振山は脊振山地の最高峰、シンボル的な山です。様々な地域や墓からラインが集まりました。その山頂と黄緑のラインで結んでみました。黄緑ラインが岩戸山古墳の後円部から北西に伸びています。このラインは、脊振山頂を通り、糸島市の高祖山に届きます。地域の山と結びつくのは当然かも知れません。が、伊都国の高祖山とは。高祖山山麓には墓群が広がっています。赤ライン(北東へ)麻氐良布山→釈迦ヶ岳となっています。
では、古墳との結び付きです。
赤ライン・岩戸山→(北東東へ)鷹取山→楠名古墳
この他にも、岩戸山→(北東東へ)屋形古墳→日ノ岡古墳もあります。
 岩戸山古墳から出るピンクのラインを天山につなぐと、船山古墳の縁を通過します。青ラインを北に伸ばし筑紫神社の近くの五郎山古墳につないでみると、真北ではなく少し傾きます。いずれも意図的なラインとは言い難いのですが、水色ラインは熊本の江田船山古墳の墳丘部を通り、熊ノ岳に届きます。これは、5世紀の江田船山の被葬者を磐井が崇敬していた事になるでしょう。このように、古墳時代に入ると、過去の有力者とつなぐために山頂を使った事になります。
他にも、気になる事が出てきました。岩戸山古墳から出る二本の紫ラインがあります。北東の紫ラインは、林田・三奈木神社→荷原(いないばる)・三奈木神社→水の文化村(羽白熊鷲墓)→馬見山とつながります。熊鷲の墓は移動を繰り返しているので、場所を決めるのが難しいのですが、磐井が熊鷲の墓を知っていたとしたら、伝承に信ぴょう性が加わります。更に、当たる範囲が広いので表現は難しいですが、そのまま馬見山から更に伸ばすと、御所ガ谷神籠石に届くようです。南西に伸びる紫ラインは、女山神籠石を通り、雲仙普賢岳に届きます。紫ラインが多数集まっているので、岩戸山からのラインには白をかぶせています。6世紀の古墳が、5世紀の古墳や神籠石につながる事。それは、同時代か時代的に近い築造物だと言えるでしょう。神籠石は、7世紀後半ではなく6世紀の可能性が強いという事です。神籠石の下から6世紀の土器片が出てきた例がある事も、無視できないと思います。新たに、6世紀の古墳と神籠石の関係が浮かび上がって来ました。
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(5)神籠石の東西ライン
紫ライン(北東へ)式内社・三奈木神社→馬見山→御所ガ谷神籠石
紫ライン(南西へ)女山神籠石→雲仙普賢岳
前項で女山と御所ヶ谷の神籠石が出てきましたが、他の神籠石は何処にあって、何世紀の築造で、どんな役目をしていたか、ラインで読めるでしょうか。神籠石にも弥生の東西ラインがあるのかという問題も出てきました。結論から言うと、神籠石は東西に向き合っている事が多いようです。相対する神籠石が見つかっていない神籠石もありますが、これから発見される可能性もあります。
(ア)女山神籠石とおつぼ山神籠石
二か所の神籠石は、有明海を挟んで東西に向き合っています。女山から西に出る紫ラインが、それです。
北に伸びる紫ラインは、石人山古墳の墳丘部を通り、筑紫野の原口古墳を通り、大城山山頂横を通過し、更に北上して、式内社(明神大)宗像大社の本殿に届きます。宗像大社が現在地に建てられた時、石人山古墳や女山神籠石を意識していたと思ってしまいます。赤をかぶせた紫ラインは、杷木神籠石を通り、唐原神籠石に届きます。緑をかぶせた紫ラインは、熊本の八方ヶ岳山頂を通り、阿蘇の国造神社に届きます。黄色のかかった紫ライン(北東)は、高良山神籠石を通り、寿命王塚古墳(6世紀)に届きます。北西の紫ラインは、雷山山頂を通り一貴山銚子塚古墳に届きます。ピンクラインは江田船山古墳(5世紀)が起点です。女山を通過し、福岡市の愛宕山を通り、志賀島の北・志賀海神社の沖津宮(元宮)に届きます。女山神籠石は、有明海と筑紫の国を守っているのでしょう。この時代、志賀海神社は現在地にはなかった事になります。
(イ)杷木神籠石と帯隈山神籠石
 この二か所の神籠石も、東西に相対しています。
 帯隈山山頂・神籠石から北上すると、福岡市の愛宕神社を通り、西戸崎の大嶽神社に届きます。帯隈山神籠石を南西から北東に横切るラインは、おつぼ山神籠石を起点とし、帯隈山神籠石を通り、筑紫野の五郎山古墳に届きます。この装飾古墳には、騎馬人物や船や馬の絵があります。日本書紀に出てくる「筑紫の馬」の生産者なのでしょう。五郎山の被葬者は、神籠石の時代には有力者として知られていたのです。
(ウ)宮地岳神籠石と雷山神籠石
 この二か所も東西の位置にあります。宮地岳神籠石は、すでに紹介している阿志岐山城の事です。江戸時代に宮地嶽神社を山頂に勧請したので、宮地岳と呼ばれるようになったようですが、もともと天山(あまやま)と呼ばれていたようです。ラインは山城の上を通っています。北からの赤ラインは、始めに紹介した筥崎宮からのライン。
宮地岳から伸びる紫ラインの西端に、雷山神籠石があります。神籠石はダム(ため池)を挟んで南北に広がっていますが、西は地震の為に破壊されて列石はないそうです。
印ピンの辺りに神社と水門があります。雷山山頂から出る赤ラインは真北に上り、志登支石墓を通り志登神社に至ります。隣の赤ラインは、式内社(明神大)志賀海神社を通り、宗像大社の大島の中津宮に届きます。そのまた隣の赤ラインは、高祖山→鋤崎古墳へラインが通ります。鋤崎古墳は、位至三公鏡を出土した古墳です。糸島市井原や、浜玉町の谷口古墳からも位至三公鏡を出土しています。弥生後期・古墳前期の頃、中国と交流を持った人々が北部九州に居たのです。
(エ)鹿毛馬神籠石と御所ガ谷神籠石
 この二か所の神籠石も、東西に相対しています。間に香春岳が入ります。現在、セメント会社により、山頂のみならず山全体が激しく削られています。画像の山頂のポイントは、過去の地図と、山の模型と古写真を元に入れました。御所ヶ谷・鹿毛馬とつながるラインは、そのまま西に伸ばすと、志賀島の志賀海神社の元宮(沖津宮)に行きつきます。両方の神籠石の時代、志賀海神社の祭祀は、沖津宮で行われていたのでしょう。
・女山神籠石とおつぼ山神籠石 ・杷木神籠石と帯隈山神籠石 ・宮地岳神籠石(阿志岐山城)と雷山神籠石 ・鹿毛馬神籠石と御所ガ谷神籠石」は東西に相対し、交通の要衝に築造されています。守りと信仰を両立させているようです。
では、高良山神籠石はどうなるのでしょう。もし、東西に相対する神籠石があるとしたら、小城か多久の辺りでしょうか。しかし、今のところ発見されていません。相対する神籠石がないとして、高良山神籠石を見てみましょう。
(オ)高良山神籠石と高良大社
 不思議な事に、式内社としての高良大社と神籠石が同居しているのです。同時代の建造物ではありません。それぞれが別の時代を象徴する建造物です。延喜式神名帳には「高良玉垂命神社」と記載され、名神大社に列しています。高良玉垂宮とも呼ばれ、ご祭神は武内宿禰や、藤大臣、月神など様々に説があるそうですが、正殿には高良玉垂命・左殿には八幡大神・右殿には住吉大神となっています。筑後一宮であり朝廷から正一位を授けられたとされます。仁徳天皇55年(367年)または78年(390年)鎮座、創建は履中天皇元年(400年)と伝わります。高良山にはもともと高木神(高牟礼神・高御産巣日神)が鎮座し、高牟礼山と呼ばれていました。伝承によると、高木神と高良玉垂命との交代は、日数をかけずに行われたようです。権力の支持無くしては出来ない事だと思います。高良大社の麓に神籠石の印を入れていますが、神籠石は広い境内に広がり、本殿も取り込まれています。
大社より様々な色のラインが出ています。本殿から出るラインと、裏の神籠石の領域高所から出るラインを分けてみました。まず本殿から出るラインです。山は、いずれも山頂です。
黄緑・本殿→高樹神社→伊勢天照御祖神社
赤・本殿→九千部山→吉武高木
紺・本殿→釈迦ヶ岳→英彦山北岳
紫・本殿→東へ耳納山地の鷹取山
水色・本殿→御前岳→釈迦岳→渡神山
黄色・本殿→阿蘇の火口→高千穂神宮(宮崎県)
高良大社からのラインは、新しい権力者の好みのようで、海抜の高い山や、火山との結びつきを求めているようです。
 次は本殿裏の高所からのラインです。神籠石の列石があります。
白・神籠石→筑紫野・宮地岳山城→宝満山頂の横→砥石山→鉾立山
ピンク(ラインが切れているが、南につながっている)・大根地山→高良山神籠石→岩戸山古墳
青紫・神籠石→平塚川添遺跡(北寄り)→古処山
 このように、高良山神籠石は、信仰の山とつながっているようです。鉾立山・古処山・九千部山・宝満山・大根地山など幾度も出てくる山の名があります。
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神籠石の時代、高良山は此処から何処を見据えていたのでしょう。佐賀の小城辺りに、高良山神籠石と相対する山城がある可能性を既述していますが、あるいは、宮地岳神籠石と南北に相対しているのかも知れません。そうすると、守るべきものは、宮地岳の緯度より南にあった事になります。そうでなければ、宮地岳山城と相対する神籠石が、更に北に見つかる事でしょう。
そして、高良山神籠石山城と同じ場所が、式内社(明神大)なっている理由はなんでしょう。玉垂宮は鎮座以来、遷宮したりして場所を変えることもしていません。筥崎宮と同じように、過去の国の象徴の山や、祈りの場を抑えるためには、現在地でなければならなかったのでしょう。過去を抑え込む事が、他の場所では出来なかったとしたら……高良山は、古代からずっと重要な位置にあったのです。相対する神籠石がないなら、此処が神籠石の中心であった可能性も出てきます。高良山神籠石→祇園山(高良大社の麓)→帯隈山神籠石、女山神籠石→高良山神籠石→王塚古墳、高良山神籠石→宮地岳山城→宝満山、のように、高良山・帯隈山・宮地岳・女山の四か所の神籠石が結びつきました。すごい事です。他に、女山も、高良山・杷木・唐原・おつぼ山とつながる事は既述しています。神籠石山城の結びつきを見ると、筑後辺りが重要な地域に近いようです。
更に、誰が、またはどのあたりの人物が、神籠石山城を造らせたのかという問題も浮上します。それを、高良山神籠石で探ってみましょう。高良山と結びつく古墳は、祇園山古墳、高良山→寺徳古墳→日ノ岡古墳、岩戸山古墳、王塚古墳などで有名古墳は既述しています。これらの被葬者のつながりは想像できます。もちろん、これだけで探るのは危険ですが、ヒントにはなるでしょう。

では、既述の「古墳時代の祭祀ライン」であつかった岩戸山古墳を見直してみましょう。結びつく神籠石系山城は、雷山・高良山・宮地岳・女山です。
結びつく古墳は、楠名・日ノ岡・江田船山・羽白熊鷲(伝承地)・一貴山銚子塚・五郎山(北に位置する)です。
更に、面白い事に、岩戸山を抑える式内社は、
岩戸山→見勢大霊石神社→宮地岳・宝満山…、
岩戸山→三奈宜神社→熊鷲墓→馬見山、
岩戸山→高良大社→大根地山など、
見勢大霊石神社・三奈宜神社・高良大社の三社です。式内社が、間に入って霊力を断っているのでしょうか。宝満・馬見・大根地の山々も、重要な位置にあった事が分かります。
ちなみに、式内社に囲まれた他の古墳は、見勢大霊石神社→五郎山古墳→筑紫神社、筑紫神社→大巳貴神社→羽白熊鷲墓、なかなか少ないようです。一貴山銚子塚→志登神社→大嶽は、大嶽との結びつきを断とうとしているのでしょうか。日ノ岡古墳→大巳貴神社→竈神社は、ラインが若干ずれますので無理でしょうか。ですが、岩戸山古墳が式内社によって信仰の山との間を断たれている事は、明らかだと思います。
では、神籠石は岩戸山古墳の辺りを守っているのかと言うと、そうではないようです。筑後は6世紀前半あたりには中心部だったようですが、神籠石系山城の配置を見ると守るべき場所は移動しています。それは、もっとも丁寧に築造された阿志岐山城の辺りに中心地が移動したものと思われます。式内社の筑前への偏りからも、それが分かります。この移動は、磐井の乱が引き金となったのでしょう。磐井の乱後に置かれたと言われる「国造」や「屯倉」の広がりから見ても、大きな政変があった事は明白です。

(オ)石城山と永納山
 その他の神籠石の位置はどうなっているのでしょう。たとえば、石城山と永納山の神籠石は、東西に相対しています。石城山(山口)からラインを引きそのまま伸ばすと、大廻小廻山城(岡山)に届き、更に播磨城山城(たつの市)まで行き着きます。三か所の古代山城が一列に連なります。では、永納山から讃岐城山城に伸ばすとどうなるかと言えば、神籠石の発見がないので、ラインは滋賀県大津市の中央一丁目と、京町一丁目の辺りにまで伸ばせます。天智天皇の都にたどりつくのでしょうか。二か所しか神籠石をつなげないので、よくわかりません。が、気になる結果です。神籠石は近畿王権とかかわりがあるのでしょうか。

神籠石とされている築造物そのものが、時代的な考証や築造技術について調査が不十分だと思います。特に九州を出ると、技術的な共通点がはっきりしません。しかし、神籠石と朝鮮式山城は区別されているようです。大野城も朝鮮式山城と呼ばれています。それでも、高安城のように日本書紀にたびたび出てくる山城でも、その位置が特定されていません。近畿の古代史に興味を持つ人達が、探査を繰り返してようやく礎石らしいものを見つけたとか。ですから、地図上になかなかポイントを打てないのです。
 見つかっている神籠石系山城
・佐賀県
        おつぼ山神籠石
      帯隈山神籠石
福岡県
・        女山神籠石
・高良山神籠石
・雷山神籠石
・鹿毛馬神籠石
・御所ヶ谷神籠石
・杷木神籠石
・塔原神籠石
・宮地岳古代山城
山口県      石城山
岡山県      鬼ノ城山城
・        大廻り小廻り山城
愛媛県      永納山
香川県      讃岐城
兵庫県      播磨城山城 

朝鮮式山城
高安城・屋島城・長門城・大野城・基肄城・金田城・茨城・常城・鞠智城
(神籠石シンポジウムで、上記のように分けられていました)

まだ次があります「続々の続・筥崎宮の『敵国降伏』」へ進んでください。
画像は後でアップします。

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# by tizudesiru | 2012-07-23 15:10 | 77筥崎宮の「敵国降伏」その3 | Trackback | Comments(0)

続々の続・筥崎宮の「敵国降伏」

地図で楽しむ古代史

6)馬見山の東西 それから、最初に出てきた三郡山の後ろに控えていた馬見山の事ですが、この山は筑後平野を見守る信仰の山のようです。遠賀川の源流は馬見山です。大神様を「おんがさま」と呼ぶそうです。馬見山は「神武天皇が馬を見逃したから、そのまま馬見山と呼んだ」とか伝承がありますが、馬見と名が付く前は何だったのでしょう。ただの「大神山」だったのではないでしょうか。馬見山から秋月を経て流れる小石原川の流域にある「大巳貴神社」は、「おんがさま」と呼ばれています。「馬見」以前は「おんがさま」だったのではないでしょうか。
古処山に居た羽白熊鷲(日本書紀によると、神功皇后に滅ぼされた熊襲の首長)は、山の上で何をしていたのでしょう。彼は、そこで東の山に向かって神祭りをしていた。古処は生活の場ではなかったはずです。祭った神の山が、「大神様」(馬見山)と思われます。
 十世紀の筥崎宮はこの山を崇敬していたのではなく、押さえこんでいました。式内明神大社の筥崎宮は大宰府の道真の祟りを封じ込めるために造られ、敵国降伏させるための神社でした。そうして、都を守ろうとしていました。当然、宝満山・馬見山も都守りの為に役立てたか、押さえこもうとしたかです。敵国の象徴として馬見山を見ていたのなら、醍醐帝が恐れたのは、熊襲(熊鷲の時代)の国だったのでしょうか。
馬見山の西にそびえる山は、雷山です。雷山は「そそぎ山」と呼ばれていました。羽白熊鷲の終焉の地は「そそぎ野」です。そそぎ野とは雷山の事でしょうか。熊鷲が戦いに敗れた「そそぎ野」が雷山だった可能性はあるでしょうか。そうすると、彼は弥生の首長ではなく、もっと後の時代の権力者だった事になります。または、後の時代の戦いと混同されたか。後の時代の戦いとは、6世紀前半の磐井の乱まで下がるでしょうか。

 結果として十世紀の朝廷が教えてくれたのは、北部九州の信仰の山々です。宝満山・馬見山・古処山・三郡山・脊振山・雷山・井原山・若杉山・釈迦岳・飯盛山・愛宕山・鷹取山・大根地山・宮地岳・天拝山・鉾立山……たくさん出てきましたが、この中には「神の坐す山、首長の祭祀場になった山、中継点になった山」など様々な状況があります。信仰の対象だった時間(時代)にも、違いがあります。
たとえば、宝満山と飯盛山は、古い信仰の対象だったようです。弥生時代(東西に相対する山を信仰の対象にした。太陽の昇る山・しずむ山)まで遡ると思われます。はじめは、宝満山(男神)飯盛山(女神)→宝満山(イザナギ命)飯盛山(イザナミ命)*書紀神話の影響の名前ともいわれます。それに、イザナミの墓は横穴式石室だった?ようです。弥生の甕棺墓にそぐわないとも聞きますが。*
→首長が神祭りを始め、祭祀場が造られる(吉武高木の大型建物)・葬送が権力者に重視される(副葬品)宝満・飯盛ラインは、弥生の首長の眠るラインとなる。これに倣って、族長も地域の山を意識して墓を造る。
→ 権力の移動・勢力の拡大・大城山で宝満山・飯盛山の神を祭る・祖先祭祀も大きくなり、神まつりが国守りと結びついていく(弥生墳丘墓)→地域の山が信仰の対象になって行く(糸島では、加也山・脊振山・井原山など)
 政権交代→信仰されていた神が、有力な首長の祖先神にかえられる。宝満山は、イザナギ命から玉依姫へ。勢力圏の拡大・神祭りの拡大
このように、同じ山が信仰の対象としても変化したと考えられます。
そろそろ、まとめになります。
(7)神籠石の時代・福岡平野、そして筑後平野
神籠石と山と神社
 帯隈山神籠石と杷木神籠石の二か所は、筑後平野を挟んで同じような緯度にありました。少し傾いていますが、だいたい東西の関係になっています。両神籠石は、対になっているのは、何のためでしょう。主要道路を抑えるためとか、物理的な防御が目的でしょうか。宗教的な、または境界を示すとか政治的な関係でしょうか。ほぼまっすぐなラインに意味があるのでしょうか。
 帯隈山神籠石から北にラインを伸ばすと、福岡市西区の愛宕神社を通り、博多湾を越え、西戸崎の大嶽神社に届きました。海の中道にある岡の上の神社です。このラインが有効であれば、神籠石の時代、すでに大嶽は信仰の対象だった事になります。南北に向かい合う神籠石と大嶽。この大嶽と東西に向かい合うのが、鉾立山です。鉾立山から南に、砥石山・宝満山・宮地岳・高良山神籠石とつながっていました。これらの山が連なる事は、山頂に登れば分かります。高良山神籠石は、鉾立山・宝満山からのラインを意識して築造されたのです。そして、後世には、鉾立・宝満ラインを抑えるために高良大社が造られた…となります。敵国につながる信仰の山(または、結界の山)を抑えるのが目的でした。式内社が徹底して抑え込もうとした伝承や山や墳墓に、「敵国」の存在が見えてくるのです。
また、帯隈・大嶽ラインが通過した愛宕神社と東西に向き合うのが、大分八幡宮の陵墓です。大分八幡宮が宇佐八幡宮の元宮であれば、7世紀末には祭られていた事になります。陵墓は何時でしょう。愛宕山と向き合う時期、大分宮の社殿はなかったのです。陵墓は7世紀より遡るでしょう。

帯隈山神籠石と南北に向き合う愛宕神社・大嶽神社
大嶽神社と東西に向き合う鉾立山。
南北に向き合う鉾立・宝満・宮地岳山城の山頂と高良大社(高良山神籠石)。
高良山神籠石と東西に向き合う鷹取山(鷹取山の北に筑後平野を挟んで古処山)
雷山神籠石と東西に向き合う宮地岳古代山城。
女山神籠石と東西に向き合うおつぼ山神籠石
女山神籠石の北には、石人山古墳・原口古墳・太宰府政庁・大城山山頂の横・かなり離れて宗像大社本殿
*宗像大社は、遠くから密かに石人山・原口古墳・政庁を抑えようとしていたのでしょうか*
東西南北の組み合わせを少し紹介しましたが、神籠石の結びつきは東西南北だけではありませんでした。たとえば、女山は杷木神籠石・唐原神籠石とつながりました。これらのラインから囲まれた土地があります。
此処には何があったのでしょう。この土地の何処かに醍醐帝が恐れた「敵国」(筑紫城)があったのです。
東西南北の組み合わせはいくらでも造れます。しかし、歴史的建造物や言い伝えを結ぶ事はなかなかできないと思います。
神籠石と古墳
 神籠石が重要地域を取り囲むのは地図上でも分かりやすいのですが、古墳との結びつきはどうでしょう。たとえば、5世紀の江田船山古墳からのラインは、女山(神籠石を省略)・福岡市の愛宕神社・沖津宮(志賀海神社の元宮)に届きます。余りに離れているので、やや疑わしいでしょうか。他の有力者の墳墓では、すでに紹介したおつぼ山・帯隈山・五郎山古墳がありました。女山・高良山・寿命大塚古墳もあります。岩戸山古墳からは、高良山を通り大根地山。女山からは雷山山頂を経て一貴山銚子塚古墳です。女山からは、石人山古墳・原口古墳もありました。一貴山銚子塚と原口は、早い時期の古墳で三角縁神獣鏡を副葬していました。が、一貴山では頭部に置かれたのではありませんでした。鹿毛馬からは、竹原古墳を通り津屋崎の宮地嶽神社古墳に届きます。被葬者は、宗像君徳善より時代が遡ると聞きましたが、そのはずです。7世紀の古墳ではないようです。
 神籠石は古墳をどう扱っているのでしょう。その権威を否定しているのではないようです。地域の最有力者の墓として扱い、その権威を神籠石に取り込もうとしているようです。岩戸山古墳は、磐井の寿墓と伝わります。神籠石を築造した時、磐井の墓はあった事になります。神籠石築造は、磐井の乱の前か、後か? 乱後だとして、近畿王権に対立した磐井の墓の権威を取り込んで神籠石を造る事が、可能だったのでしょうか。神籠石の配置から言える事は、それは可能だった…でしょう。お互いの位置を確かめながら、同じ目的で山城を造るには、よほどのつながりがなければできない事です。そして、推進力をもった首長も必要です。磐井の乱後、全国に屯倉が増えて行くそうです。その中で、神籠石山城を造り続けた九州北部勢力。目的は、近畿王権に対する防衛でしょう。中心的な磐井が敗れたのですから、九州の豪族たちは慌てたはずです。そして、過去の有力者の権威と霊力を借りて山城を造ったと思われます。鹿毛馬は列石が途切れた場所があり、工事が途中で終わっています。その時、築造の意味が失われたのでしょう。
 528年磐井の子葛子が糟屋の屯倉を献上。535年全国に26か所の屯倉を設置。九州では、筑紫 穂波・鎌・豊国 ミ崎(門司区)・桑原(築上町)・肝(か)等(と)(苅田町)・大抜(おおぬく)(小倉南区)・我鹿(あか)(赤村) 火国 春日(熊本市)と、なっていて、屯倉は神籠石の守りの外側に当たるとおもうのですが。屯倉の設置から見ても、神籠石は磐井の乱後に「北部九州の連合国が、北部九州を守るために造った」のです。
602年には久米皇子が二万五千の軍隊を連れて、新羅を討つために筑紫にきます。662年の白村江戦の軍隊は、筑紫から出ています。では、久米皇子の軍隊は、何処で組織されたのでしょう? 推古10年に「久米皇子をもて撃新羅将軍とす。神部(かむとものを)及び国造・伴造(とものみやつこ)等、併せて軍衆(いくさ)二万五千人を授く」と書かれています。軍隊は皇子が連れて来たようです。久米皇子は病に倒れ筑紫でなくなり、任が果たせませんでした。しかし、筑紫を脅すには十分だったと思います。
 神籠石は535年から602年の間に築造され、山城は使われることなくそのまま放置された事になります。または、602年から660年の間の築造です。久米皇子の派遣に慌てて、北部九州が団結したのです。
602年久米皇子の筑紫下りは新羅「征討」が目的です。しかし、出兵していません。皇族(聖徳太子の弟)が軍隊を率いたのも古代には最初、異例です。そして、何故602年なのか? 大変、恥ずかしい説ですが、これは、600年の「日出処天子」の国書問題(遣隋使)とも関係あるのではないかとかってに思うのです。筑紫城の「天のタリシホコ」が隋に天子として国書を出したとなれば、近畿王権にはゆゆしき問題です。当然、軍隊派遣でしょう。久米皇子が亡くなった後、兄の当麻(たぎま)皇子が征新羅将軍となります。この皇子は播磨で妻を亡くし、引き返し「遂に征(う)討たず」となっています。近畿王権では、続けて皇子を将軍としているのです。
推古8年には、任那救援の大将軍として「境部臣」、副将軍として「穂積臣」を新羅征討に出しています。その二年後に皇子将軍が続くのは、やはり異様でしょう。此処に、大きな目的が隠れていると思います。それは、磐井の乱後の戦後処理の確認です。神部・国造・伴造をともなった理由も分かります。北部九州の造り直しです。根本的な造り直しでしょう。しかし、十分には果たせなかった。次のチャンスは、白村江戦でした。斉明天皇は九州に「征西」します。「征討新羅」ではありません。万葉集も同じく「征西」となっています。百済はすでに滅んでいました。軍隊を出して疲弊した九州へ「征西」し、中大兄皇子(天智天皇)は母と離れ、長津宮で政務をとっていたのです。筑後平野と福岡平野に分かれていたのは、どちらからも軍隊を出すためとも聞きます。しかし、とうとう軍隊を出さずに、中大兄皇子は崩御した斉明天皇とともに飛鳥に戻ります。それからの十年間で、天智天皇として日本と北部九州を変えて行くのです。
 つまり、白村江戦までは近畿王権の「敵国」は、北部九州にあったのです。日本書紀の編纂が「聖徳太子の政治理想を実現する」という組み立てになっていると聞きました。久米皇子が九州の地を踏んだ事は、肥前風土記にも書かれています。聖徳太子は「九州征討」に本気だったのです。この歴史の事実を道真は知っていたでしょう。王城神社の由緒にも言うように、「道真の謹慎する南館に王城神社の社人が頻繁に訪れ」、歴史のあれこれを聞いていた事でしょう。宇多天皇は菅原道真をとりたてました。道真の娘を後宮にもいれています。歴史の話もしたでしょう。醍醐帝に「道真は忠臣」であると、帝王の心得を書いた文中で伝えています。道真の死後その祟りが所縁の人々を襲った時、醍醐帝が思い浮かべたのは「九州の怨霊と一体化した道真」だったのではないでしょうか。その事が「敵国降伏」の辰筆になった…

(まとめ)6世紀の政変・7世紀の征西・10世紀の延喜式
 それにしても、この時代の考え方や、歴史が何故残らなかったのでしょう。銅鐸の言い伝えが残らなかった事と同じでしょうか。他の文化を持った人々に侵略され、文化伝承の継承が出来なかった等々。ほかにも、「神話はあるが遺跡なし」と言われた出雲から、358本(荒神谷)の銅剣が出てきました。誰も想像しなかったけれど、銅剣が出てきたのです。出雲では銅剣と銅鐸が出土します。が、伝承はありません。その文化を支えていた人の移動か、政権争いの敗北により消されてしまったのでしょうか。

祭祀ラインを引いていて気付くのは、6世紀とされる古墳・神籠石・10世紀の式内社・地域の大事な山岳が、数多くライン上に上がる事でした。九州では、幾度も葬送文化に変化があっています。甕棺墓が急に見当たらなくなったり、前方後円墳から円墳に変わったり、石人石馬の古墳が少なくなったり、装飾古墳が広がったり、横穴墓が集中する地域があったり、割竹型石棺や家型石棺、長持ち型石棺など石棺に違いがあったり、横穴式石室や竪穴式石室、副葬品に至るまで、3世紀から6世紀の間にめまぐるしい変化が訪れています。新しい葬送文化を受け入れて行くには、何らかの生活の変化があったのでしょう。心理的・政治的・経済的変化があったと考えられます。
 筑紫における6世紀の政変と言えば、「磐井の乱」です。隣国の歴史書も、6世紀は倭国の記述が消えているのです。私は、「倭国の空白」とブログに書きました。新羅を支持していた磐井は敗れ、九州には物部が入ってきたと言われます。物部はもともと九州の氏族という事も言われますが。当時の大王は、百済を重要視続けています。磐井の乱後、筑紫は立て直しを始めました。神籠石で筑紫を守ろうとしたのでしょうか。消えそうになった連合関係を取り戻そうとしたのだと思います。
 次に隣国と親密になるのは、白村江戦の前あたりからです。それまで、支援を頼むにも、倭国にはそれだけの軍事的経済的ゆとりがなかったのでしょう。600年には、隋へ遣使を送れるようになりました。『山は阿蘇山あり』と書かれた国書を、男性王が隋の天子に送っています。やがて、隣国との交流が再会するのです。多分、近畿と九州に権力が分散していたでしょう。中大兄皇子(天智天皇)は新羅ではなく百済を選びます。660年百済の滅亡後「百済救援軍」を出しますが、筑紫への『西征』でした。中大兄皇子が、長津で政務をとり、斉明天皇は朝倉橘広庭宮に居たと書かれています。斉明帝崩御後、中大兄皇子は政務をとり筑紫を造り変えて行きます(蘇我日向を筑紫にしのびながししています。蘇我赤兄も太宰府帥にしています)。白村江戦で打撃を受けた筑紫には、余力はなかった事でしょう。6世紀の政変・7世紀の征西で、九州の倭国の記憶は消えて行ったと思うのです。
 更に、10世紀の延喜式です。900年・辛酉の年に大改革を提言された醍醐天皇は、歴史にも造詣の深い菅原道真を排除し、国守りの神社を造り変えました。歴史ある神社や言い伝えは忘れられ、御祭神の入れ替えも行われました。もちろん、いつの時代も庶民が新しい為政者と結びつくことを望んだと思います。進んで新しい神やしきたりを取り入れたと思うのです。明治の廃仏毀釈もあったではありませんか。宝満山・脊振山・英彦山などの僧坊・寺社がことごとく消え、伝承すらもほとんど消えています。それは、歴史の中で常に大きなものに巻かれてきた我が国の文化の特色でもあるのでしょう。

以上が「7月の発表で言いたかったこと」です。
筥崎宮の「敵国降伏から見える古代の九州」について、楽しく遊びました。
読んで下さった方、ありがとうございます。

 ブログを読んでくださった方からご指摘をいただきました。筥崎宮の楼門の額「敵国降伏」の国の文字が、國ではということです。確かにそうです。ブログの「4 筥崎八幡宮」の楼門の写真を見ていただくとわかります。「敵国降伏」は「敵國降伏」が本当です。これから、気を付けます。




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# by tizudesiru | 2012-07-23 15:00 | 78筥崎宮の「敵国降伏」その4 | Trackback | Comments(4)

式内社と但馬国の秘密

式内社と但馬国秘密?!
 式内社が狭い範囲に集中する但馬国は、不思議な国です。但馬一の宮「粟鹿神社」も、不便な山の間にあります。高山の山頂にある神社というのではありません。みんながこぞって参拝に出かけるには、かなり大変な場所だという事です。ともかく但馬国を見てみましょう。但馬国は、豊岡市や養父市や朝来市を含む日本海に面した地域です。河口を良港として、河川交通も発達したのでしょう。川沿いに式内社があります。
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『大江山生野の道の遠ければまだ文も見ず天の橋立』の大江山より遠くにある但馬の国。『大江山の鬼退治』の話でも有名な大江山です。酒天童子は、大江山の何処に住んでいたのでしょう。


また後で
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# by tizudesiru | 2012-06-15 14:27 | 74但馬国の式内社の秘密?? | Trackback | Comments(0)

近江国の式内社

琵琶湖の出口を囲んでる? それとも大津市を守っている?
近江国式内社
 近江の大津宮は、天智天皇の都でした。柿本人麻呂の時代ですら荒れ果てていた都です。
 まず琵琶湖の北から見ましょう。
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伊香具神社があります。神社を少し避けて横切る水色ラインは、遠く月山から、納郷白山を通り、平安京の北の貴船神社に届くものです。赤は、西に伸びますが、京都の大虫神社をかすめ、兵庫の山神社をかすめ、鳥取の宇倍神社まで届きます。あんまり遠いので、お知らせのみにします。これらの神社は、すべて式内社(明神大)です。ところで、近江国は不思議なところです。先に書いた天智天皇が都を移した大津京の北方、琵琶湖が大きく膨らんだ当たりの高島市に、「鴨の稲荷山古墳」があります。確か、天智帝は百済を重んじ、外交でも新羅を切り捨てます。そこで、新羅は唐と手を結び、挙句に「白村江戦」に至ります。ここ、高島の鴨稲荷山古墳は、新羅系の副葬品を持ています。欽明天皇時代から「百済」外交を重んじていたはずなのにです。このことを頭に入れて、近江国を見てみましょう。
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 白ラインは、兵主大社を通り、佐久奈渡神社に至ります。式内社(明神大)を三か所貫きます。どんな意味があるのでしょう。
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 東に伸びる水色ラインは、水尾神社(式内社・明神大)から富士山頂を通り、千葉県の玉前神社(式内社・明神大)に至ります。これも、長いラインです。
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琵琶湖が狭くなる「琵琶湖大橋」の辺りを、お互いに見つめ合っている式内社があります。兵主大社と小椋神社です。兵主大社から出る赤ラインは、小椋神社を通り、京都の摩気神社に向かっています。
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地図上で考えると、兵主大社が中心になっていると見ることもできます。北の伊香具神社からのライン(白)は、兵主大社を通り、佐久奈度神社に届きます。兵主・小椋・摩気もそうですが、兵主大社から北西に伸びるライン(白)は、小野神社を通り、大虫神社に行きつきます。では、南西にラインを伸ばすと何処へラインが届くでしょう。それは、三井寺を通り、天王山の酒解神社に届くのです。*取り上げた神社は、全て式内社(明神大)です。
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方位を少し西に方抜けて、白ラインを横に引きました。小野神社(小野篁神社鴨しれませんが)を通り、大虫神社に届きます。こちらも、三か所とも式内社(明神大)です。三か所貫く事に意味があるのでしょうか。
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近江国は、面白い地域です。都から一気に北陸に行けるからでしょうか。方々から文化が流入したと思います。なにせ日本海側が面玄関でしたから。大和王権とは違った道を模索していたとしても、不思議ではありません。
 平安時代、醍醐帝の時代、辛酉の年に合わせて、国守りの改革に取り組んだ朝廷は、近江国に何を望んだのでしょう。都の北・北東の守りに違いありません。琵琶湖側から何者も侵入出来なかったと思います。近江国は、大きな関所だったのでしょう。壬申の乱も、関ヶ原戦もこの関の近くでありました。

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# by tizudesiru | 2012-06-13 15:54 | 73近江国の式内社 | Trackback | Comments(0)

祭神交代・紀伊国の式内社

九州とのつながりがちらついている神社が多い!紀伊國の式内社!
祭神交代が意味する事紀伊国の式内社の御祭神はどなた?
 神社の御祭神は、時代により変わっているようです。理由は統治者が変わったり、中央の意向だったり、さまざまですが、祭神に名前が付け加えたり、新しい神を配祀されたり、主祭神が入れ替わったり形態も色々あるようです。紀伊国も例にもれません。神社の場所も移動しているので、過去のありさまを推し量ることも難しいようです。しかし、今の様子から、考えられることもあるかもしれません。画像を見ると、紀伊國の式内社もラインで結べるように見えます。これは、時代の新しいラインなのでしょう。移動しているという記録が、それぞれの神社に残されていますから、この位置をそのまま受け入れるわけにはいきません。また、式内社のほとんどが和歌山市に集中する事も特色です。その意味もあるでしょう。水色の目印は、式内社(明神大)で、ピンクは式内社(小)です。
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中心にある国懸神社・日前(ひのくま)神社ですが、此処には元は別な神社があったそうです。国譲りで国懸・日前神社と入れ替わったそうです。
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昔、此処に祀られていたのは、伊太祁曽神社だったのです。祭神は、五十猛命です。
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この神は、九州から木の種を蒔き、紀伊國まで木を植えたとされる神です。配祀されていた大屋比売と都麻都比売は、五十猛命の妹です。三人の神が、もともとこの地の伊太祁曽神社に祭られていました。また、スサノウの言葉によると、「わが子が治める国に船がないと困る」とあります。スサノウと五十猛は、国を治めていたようです。更に、伊達神社や志摩神社を見ると、付け加える事柄が出てきます。
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『もともと近くにあった神社が分祀されている。元は、三兄妹が一緒に祀られていたらしい。紀氏の斎祀る神は「船玉」であったらしい』船の材料として、杉・樟があげられていますが、樟は九州が北限です。その種を蒔いても、大木になるには数十年かかったことでしょう。 紀氏は船を作る氏族だったのでしょうか。航海技術も持っていたでしょうか。彼らは、九州とどんな関係があるのでしょう。日前国懸神社のある『秋月』は、福岡県の城下町の地名です。明治に『秋月の乱』を起こした藩でもあります。また、丹生都比売神社のある伊都郡は、魏志「倭人伝」に出てくる古代の国『伊都国』と同じ名前です。和名抄にも「伊都」があるので、古い地名です。ますます九州に近付きます。
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丹生都比売神社は、紀伊国の一ノ宮である事を主張しています。伊太祁曽神社も、日前国懸神社も同じく「一の宮}を主張しています。歴史の古さ・中央との結びつきの深さ・地域の支持など、様々な理由がありそうです。
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日前神社から高積神社(山頂の宮)を通り、はるか「丹生都比売神社」までラインが届きます。途中にある高積神社とは、いかなる神社でしょう。『紀伊続風土記』によると、祭神は高積比古命・高積比売命ではなく、五十猛命・大屋都比売・都麻都比売です。此処も、元は五十猛の三兄妹が祭神でした。丹生都比売神社までのラインは、五十猛の信仰ラインだったのではないでしょうか。「丹」とは赤い色、水銀のとれる赤土の事です。水銀は金メッキに使います。名草戸畔を滅ぼした神武東征が、金属生産と関わると考えられるのも分かる気がします。
 ところで、神社の祭神の入れ替えは、式内社が奏上された十世紀でしょうか。だから、鎌倉時代になって、各々の神社が「一ノ宮」を主張し始めたのでしょうか。上記の事実から、紀ノ川流域が、十世紀まで重要な伝承を持っていた事が分かります。それは、神社の祭神を入れ替えなければならない内容だったのです。九州と関わる伝承だったのでしょうか。更に紀ノ川の上流には『隅田八幡』があります。此処も、「九州(筑前国)から武内宿禰に供奉されて、応神天皇が紀伊をへて大和に赴く途中、この地に長く滞留されたことにちなんで、欽明天皇の詔によりその遺跡に八幡宮が勧請されたという。また859年の創建ともいう」と、伝承があります。それよりも、国宝『人物画像鏡』のほうがよく知られているでしょうか。有名な銘文がありますね。明確な解読がなされてないように聞いていますが。
 紀伊國の式内社の祭神の交代には、政治的な意図がありそうです。古代には、紀ノ川の河口が重要な位置にあり、この地の氏族が船や航路と関わっていたのではないかと思います。また、この地の出入りを見守るためにも、式内社は重要だったはずです。紀州徳川家がこの地に城を築いたのは、式内社の関係を断つためだったかもしれません。和歌山城は、日前神社のほぼ西に位置します。



また後で
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# by tizudesiru | 2012-06-09 16:23 | 72紀伊国の式内社 | Trackback | Comments(2)

伊勢神宮と大縣神社と孫若御子神社

伊勢神宮
大縣神社と孫若御子神社
尾張の式内社(明神大)が朝廷の守りに重要な位置にあったと紹介しましたが、朝廷の第一の守りの神社は、「斎宮」も皇室から選ばれる伊勢神宮です。大縣神社から赤ラインが南に伸びています。これは、熱田神宮の摂社となっている孫若御子神社を通り、伊勢神宮に届きます。社殿をつなぐので、丁寧に測量され、建て替えもかなり元のところにされたと思われます。有名寺社でも再建の時、元の場所と若干ずれることは、よくあることです。
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上の写真ような結果が出ました。伊勢神宮は様々な寺社や山岳と関わります。伊勢の内宮から北へ上る黄ラインがあります。このラインの先には、気多神宮(式内・明神大)があります。気多神宮とは……しかし、間には寺社などはありません。気多(けた)は、本来「北」、伊勢神宮の北という事でしょうか。
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大神社(太神社)と気多神宮
 大神社は、もとは「太神社」と書きました。式内社(明神大)です。この神社と気多神宮を結ぶと、間に白山が入ります。白山は、やはり信仰の山でしょう。その山を、二箇所の式内社が挟んでいるのです。さて、どんな意味を持つのでしょう。今までの多数の例を見てきましたが、古代の権力者の信仰の山だった場合は、その霊力を封じ込め、朝廷側の氏族の信仰の対象であれば丁重に祀るというやり方でした。
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 尾張国の式内社が、重要な位置にあった事が少しは伝わったでしょうか。では、他の地域の式内社(兵庫や福岡など)は、どうなのでしょう。

また、あとで
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# by tizudesiru | 2012-06-03 09:53 | 71尾張国の式内社 | Trackback | Comments(0)

熱田神宮と畿内の結びつき

熱田神宮と畿内の結びつき
結論から言うと『尾張国は畿内を守る位置にある。熱田神宮の辺りに式内社が集まっているのは、地理的に重要な位置であることを示している。富士山を取り込み、都の守りの貴船神社・加茂別雷神社と結びつけている。また、伊勢神宮と気多神社が結びつびついている。これは、朝廷の守りを示しているのだろうか!?』となります。では
熱田神宮は広い境内を持った、超有名な式内社(明神大)です。近くに式内社(明神大)が集まっているのも特色です。熱田神社(熱田神宮)・日割御子神社・孫若御子神社・高座結御子神社の四社が、熱田区に集まっています。熱田神宮より出るラインが4本あります。西にむかう赤ラインは、白鳥陵を通ります。ここは、日本武の墓でしょう。この方の墓はかなり作られていますから、そのまま信頼は出来ないでしょうけれど。尾張は、クサナギ剣を預けたミヤズ媛の故郷ですから、日本武命の墓があっても不思議ではありません。
 赤ラインに戻りますが、白鳥稜を通り抜け、西にまっすぐ進み貴船神社に届きます。都の守りで重要な位置にある貴船神社です。
 北西に進む黄緑ラインは、若狭姫神社の横を通り、隠岐の島の玉若酢神社(式内社・明神大)に行きます。若狭姫神社(式内社・明神大)にきちんと当たらないので、少々自信が持てません。
 南西に進む赤ラインは、三重県の都波祁(つばき)神社を通り、奈良県の吉野水分神社に至ります。都波祁神社も、吉野水別神社も、式内社・明神大です。都波祁神社は、奈加等神社と合祀されています。この神社も少しラインがずれます。通るかもしれないという程度…です。
 また、水色ラインは穂高神社(式内社・明神大)と結ぶと、御嶽山ノ山頂近くを通ります。熱田神宮は、なんだかはっきりしないところもあります
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 尾張国の式内社は、熱田神宮だけではありません。
高座結御子神社と貴船神社と加茂別雷神社
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高座結御子神社を通りぬけるピンクラインがあります。これは、静岡県の三嶋大社からのラインです。高座結御子神社を通り、京都の貴船神社に届きます。高座結御子は、実際に「貴船神社」と「三嶋大社」を結びつけているのです。
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まだラインがあります。黄緑ラインも神社を通過しています。これは、富士山本宮浅間神社と京都の加茂別雷神社を結びます。どちらも式内社(明神大)です。尾張国の神社は、見事に遠江国と都を結びつけました。このラインは、しっかりしています。特に念入りに測量されたのでしょうか。
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既に紹介している加茂別雷神社も、都守りの重要な神社でした。貴船と加茂別雷の両神社と結ぶ事は、高座結御子神社の位置が重要であり、地位も高い事になります。古代には、大きな社が建てられていたのでしょう。今は、熱田神宮の摂社になっていますが…尾張国の式内社は、富士山を押さえておきたかったでしょうし、静岡から足柄山を越えると東国です。防人は、東国からでした。九州に送られた俘囚も、東国からでした。朝廷に支配される前は、力を持った民だったのです。彼らを、富士山の神が守っていたと都の人が考えても不思議ではありません。その富士の神祀りの力を取り込み、都の守りに加担させたのでしょう。
延喜式が奏上された醍醐帝の時代、日本の神祀りの見直しがあったのです。その時、守ろうとした範囲が十世紀の朝廷にとって重要とされた地域です。また、古代より朝廷に協力的だった地域も分かると思います。
 尾張国には、まだまだ重要な神社があるのです。また後で
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# by tizudesiru | 2012-06-01 15:57 | 71尾張国の式内社 | Trackback | Comments(0)

陸奥国の式内社

陸奥国の式内社
零羊崎神社>68「式内社の偏りの意味」で紹介しましたが、陸奥国には式内社の数が多いのです。それらは、式内社として当然国土を守っているのでしょう。不思議な事に、零羊崎神社(式内社・明神大)から出るラインは、鼻節神社(式内社・明神大)を通り、苅田嶺神社(式内社・明神大)を通ります。式内社が三か所も連なるのが、やはり不思議です。
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このラインは何処へ行くのでしょう。ただひたすら南西に向かっています。途中に越後駒ケ岳を通り、飛騨高山の焼岳を通り、滋賀県の小野神社(式内社・明神大)の近くを通り、京都の松尾大社に届きます。松尾大社は、都守りの重要な式内社(明神大)でしたね。既に紹介しています。
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陸奥の式内社三社と松尾大社が、中部地方の山々の威力を取り込もうとしているのでしょうか。それとも抑えようとしているのでしょうか。こうなると、日本一の山・富士山はどう扱われているか、気になるところですね。
 陸奥の式内社の役割は、やはり国守りでしょう。陸奥の地は、守りの届かない地域だったのでしょう。「みちのく」道の奥で、古代道は常陸までだったでしょうし、マツロワヌ民を守る必要がなかったのでしょうか。坂上田村麻呂とアテルイの話は、今聞いても深く心ゆすぶられます。二人はお互いを信じていたのに、都の人はアテルイを殺してしまいました。そんな事を思いながら……零羊崎神社ラインは、ひとまずここまで。

 陸奥の国々に幸が降り注ぎますように!
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# by tizudesiru | 2012-05-30 14:26 | 70陸奥国の式内社 | Trackback | Comments(0)

大物忌神社・最北の式内社

最北の式内社の役割
大物忌神社の位置
大物忌神社の比定地は二か所あります。が、地図上では(画像では北方の神社)ラインが引ける位置を選びました。「鳥海山大物忌神社」というようです。鳥海山は古代より噴火を繰り返し、奉祭を怠れば戦乱が起こると信じられ、朝廷より事あるごとに神階の授位がなされています。鳥海山にはもともと名前がなく、災いをさける神として「大物忌神」の山とよばれていました。
 939年4月17日に秋田夷乱(天慶の乱)の発生の報を受けて、朝廷では物忌が行われました。同じ939年4月19日には、大物忌明神の山が墳火したと『本朝世紀』に書かれているそうです。大物忌神社と鳥海山は、同じ御神体なのです。それも、かなり大きな力を持つと、信じられていました。その大物忌神社は何をしていたのでしょう。守っていたのは、何処でしょう。大物忌神社から隠岐島の水若酢神社(式内社・明神大)のそばを通り、対馬の和多都美神社(式内社・明神大)へラインが引けました。これが意味のあるラインなら、大和の勢力圏の北側を守っている事になります。鳥海山からも赤ラインを引きました。これも、水若酢神社を外しました。そして、対馬の太祝詞神社に届きます。式内社であり、社格は明神大です。
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 大物忌神社から水色ライン・鳥海山から赤ラインが、対馬まで届いているのが分かります。大物忌神社からでた水色ラインが、月山を横切っています。月山も山頂の月山神社が式内社であり、社格は明神大です。鳥海山と同じく山が御神体です。大物忌神社(式内社・明神大)→月山(式内社・明神大)→吾妻小富士(磐梯吾妻)→安達太良山→酒烈磯前神社(式内社・明神大)とつながります。強烈な信仰の山々の連なりです。
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赤ラインが鳥海山から出ていますが、安達太良山で交差し、吉田神社(式内明神大)に届いています。このラインも強烈な信仰の山々が連なります。大物忌神社は大和の最北の守りとして、奉祭されたのです。式内社としても重要な位置にあったようです。

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# by tizudesiru | 2012-05-29 13:59 | 68式内社の偏りの意味 | Trackback | Comments(0)

式内社の地域的偏りの意味

式内社(明神大)偏り醍醐帝の時代に奏上された「延喜式」に名のある神社を式内社と言いますが、それも格式が明神大として扱われた神社の数に、地域的な偏りが見られます。式内社(明神大)が全くない地域もあるのです。たとえば、神武天皇の出身地である宮崎県には、式内社(明神大)はありません。有名な高千穂神宮は、式内社ではありません。不思議です。式内社の位置は、これまでに繰り返し紹介してきましたが、それぞれが意味のある場所でした。では、その意味とは、何でしょう。古代には日本海側が表玄関であり、重要な位置を占めていましたが、式内社(明神大)が少ないのです。そこに、歴史が潜んでいるのではないでしょうか。
A欄は県名、B欄は全体数です。 D欄から後は中世の地域ごとの式内社(明神大)数としました。岐阜県に[1]を入れてください。美濃が1ですから。
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兵庫を見ると全体数も多く、特に但馬は10です。
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 奈良・京都以外では、兵庫が多いようです。その中でも、但馬に10箇所あります。他に、紀伊・陸奥・近江・尾張・伊予・筑前…が多いようです。これらの地域は、中世以前にはどんな歴史を持った国だったのでしょう。これらの国が、古代に力を持っていたとするなら、中央からすれば、はなはだ迷惑な存在だったことでしょう。何とか抑えるか、取り込むか、まったく別の権力とすり替えるか、色々あったことでしょう。地図でどのくらい読めるでしょう。陸奥から初めて、但馬まで行きたいと思っています。
 





では、また後で
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# by tizudesiru | 2012-05-26 15:43 | 68式内社の偏りの意味 | Trackback | Comments(0)


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215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂は知っていた!
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?

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