国守りの祭祀は何処で行われたか

14 国守りの神社(祭祀場)は、何処に置かれていたのか
(ア) 夫婦神が弥生の福岡平野を守っていた

 福岡平野の西にある飯盛山の麓の飯盛神社は、早良郡平群郷(現在は福岡市早良区)にあり、イザナミノ尊、宝満大神(玉依姫)、八幡大神(品陀和貴尊)、中宮に五十猛尊を祀る。天太玉命イザナミノ尊を奉斎した事を創建の起源としているそうである。
 また、神宮皇后が三韓平定した後、奉賽の後、社殿を西に向けて若杉山に太祖神社を造営した。それは、早良郡の飯盛山に鎮座するイザナミノ尊の社殿が東に向かっているので、相対するためであったそうだ。太祖神社の祭神は、イザナギノ尊である。太祖神社を相対して造営した事から、飯盛神社は、先に存在していた国守りの山だという事だろうか。更に、夫婦神の片方だけが(飯盛山が太祖神社よりも早くから東を向いていた)古い時代から信仰されていた事になる。おかしいではないか。
 この他にも皇后が若杉山の若杉を香椎宮に植えたのが、今の綾杉だという伝承もある。

 地図上の大宰府の背後の大城山と、鉾立山を直線で結ぶと、若杉山の太祖神社を斜めラインが横切る。太祖神社が二つの山と深い関係にある事を暗示している。大城山も、宝満神社や飯盛山と同じ東西ラインに乗る山である。しかし、少し腑に落ちない事が出て来た。相対すると言いながら、真東を向いている飯盛山に対して、太祖神社の視線は真西ではない。東西ラインからかけ離れた位置に、太祖神社はある。

 ここで、飯盛山に鎮座していたイザナミ尊に対して、相対する東の宝満山にもともと鎮座していたのはイザナギノ尊だったのではないかと想像したくなる。そうしないと、イザナミノ尊だけが飯盛山に鎮座されているのは、不自然である。イザナギノ尊が、玉依姫以前に宝満山頂に鎮座されていたなら不自然ではない。東西の相対する夫婦山に見守られて弥生の福岡平野は栄えた。そして、後世「神功皇后」以後・鉾立山南北ラインを打ち立てた時代、政権の交代に従って祭神も交代した。宝満山の神が、若杉山に移られたのである。そして、やがて玉依姫が宝満山頂に降りた。どうしても玉依姫でなければならなかったのだ。玉依姫は、神武天皇の母である。神武の政治が始まったという事だろう。イザナミノ尊を祀っていたのは、天太玉命だったから、当然同じ首長がイザナギノ命を祀っていた事になる。この神は、神武に敗れた。

(イ) 王城(おうぎ)神社の由緒 宝満山の東に位置する大城(おうき)山にも伝承がある。太宰府の通古賀にある王城神社の由緒に残っている。
神武天皇が四王寺山(大城山も含む山全体のこと)に城を築く際、その峯に祭っていた事代主と武ミカ槌命を、天智天皇が大野城を築くので、通古賀に移した」先のイザナギ命が若杉山に移られた(政権交代があったらしい)の後、再び政治が変わったのだろうか。神武天皇の城に祀られていた神を、天智天皇が下ろした! という。

  六六三年白村江の戦いで敗れたので、六六五年(天智四年)に、大野城・基肄城の二城を築いた事は、書紀にも書かれている。この伝承は、その事ばかりではなく、「大野城以前に神武天皇の築いた城があった」と伝えているのだ。(*大野城は、大城山を含む古代山城・今、山全体を、四王寺山とよぶ)神武天皇の築城の時そこに祀られた事代主と武ミカ槌命を、天智天皇が通古賀の「王城神社」に移した。王城神社は、ほぼ大城山・都府楼ライン上に位置している。たぶん元宮は、大城山にあったであろう。移動した社が、都府楼の朱雀大路の右郭にある榎社(榎寺)の西にあるからである。そこは、ほぼ大城山の南に当たるから、同じライン上を移動したのだろう。榎社は、菅原道真が謹慎した南館跡である。

 他にも、「天智三年(六六四年)、大宰府を今の地(都府楼跡地)に移し、水城を築き、鬼門にあたる宝満山に八百万の神を祀った。六八三年、玉依姫を示現したので、玉依姫を鬼門封じの神として上宮に祀った」という伝承もある。大宰府は移動していた
 さらに、春日市の春日神社の「春日大明神記録」に、「斉明天皇のとき、中大兄皇子が四王寺山の山頂から此の地に、天児屋根命を祀り、その後七六八年(神護景雲二年)藤原宇合の第五子藤原田麻呂が、大和の春日大明神を迎えて春日神社を創立」とある。こんどは、四王寺山から迎えられたのは、天児屋根命だ。しかし、四王寺山にもともと神が祭られていたことは同じである。その神を四王寺山から降ろしたのは、どちらも同じ天智天皇である。

 つまり、天智天皇のとき、大きな変化があったことを伝えていないだろうか。
 天智以前、四王寺山(大城山)は、大事な山だった。それは、長い間大切にされていた山に違いない。早良の飯盛山の神と、東と西に相対していた宝満山の前山(同じ緯度)なのだ。そして、もともと事代主と武ミカ槌命、そして天児屋根命が祀られていた山城は、何のために築かれたのだろうか。やはり神の力を借りて、何処かを守っていたのだろうか。では、何処を? それは、太宰府と答えたが自然である。そして、その地は、かなりしぼられる。古代の福岡を守っていた神々には、事代主・武ミカ槌・天児屋根の神々もいる。この神々は、重要な場所を守っていた。

 そして、気になる山城がある。先に出て来た筑紫野の宮地岳の古代山城。正史に出て来ないが、白村江の戦いの後に築かれたのだろうと言われている。しかし、神武天皇が築いた元の四王寺山城(仮にこう呼んでおく)と同じ時代に造られたと仮定したら、どうなるだろう。
 面白い事に、宮地岳は鉾立山ラインに取り込まれている。鉾立山→砥石山→宝満山→筑紫野宮地岳→高良大社と南北ラインがつながるのである。宮地岳と高良大社には、神籠石がある。宮地岳から三二キロほど西には、雷神社と雷山神籠石がある。雷山神籠石も、正史には出て来ない建造物である。ここも、国守りの為の山城だろうか。

 神籠石は後に回して、気になる神社について、もう少し考えたい。

(ウ) 筑紫神社
 筑前野市原田に「筑紫国」の名のもとになったという筑紫神社がある。式内社でもある。
 御笠郡筑紫神社縁起は、「筑紫国風土記」をもとに作られたそうである。
境に麁猛神がいて、往来の人が、半ば生き半ば死んだ。その数が多かったので、人の命尽しと言った。筑紫君と肥君が占い、筑紫君の祖、甕依姫を祝(はふり)として祀らせた。その神を筑紫神として祀ると鎮まった」という。本殿の大きな額に「筑紫宮」があり、左右に田村大神と宝満大神の額がある。御祭神は、筑紫大明神と呼ばれ白日別神で、別名は五十猛命である。田村大神は坂上田村麻呂、宝満大神は玉依姫。ここが、筑紫の国の名の起こりともいう。「死んだものを葬るため木を切って棺輿を作ったので、山の木が尽きてしまった。よって『尽くし』筑紫という」という地名譚がある。そうなると、かなり古い由緒ある場所になるのだろうか。また、古代の地方の呼び方は、「ーー道」である。道の奥が「みちのく」であり、常陸は「直(ひた)道」であり、筑紫は、「道の尽きるところ」である。と、日本書紀の講座で先生から教えてもらった。そうならば、中央の地は、自ずから近畿ということになる。この中央と地方という認識は、いつから日本の共通認識となったのだろう。

 話を戻すが、筑紫神社は、もとは城山の山頂に祀られていたという。城山とは、基山(椽城が築かれた山)の事であると土地の人に教えてもらった。。筑紫野市の文化財課に電話で確かめると、「城山と書いてキヤマと読み、基山の事です」という答えが戻ってきた。筑紫神社は、もとは基山山頂にあった。
 またもや、天智四年に築いた大野・椽の二城の内の椽(基肄)城を築くために降ろされたのか。とすると、筑紫神社は六六五年以降に現地に社が造られたことになる。天智天皇の意志により、王城神社・筑紫神社と二つの神社が、同時代に同一の目的で山より降ろされたのだ。
 築紫神社の参道がほぼ南に真っ直ぐ伸びているが、その道を境に筑後と肥前が左右に別れていたと、岩戸山の講演会で聞いた。国境だったのである。白村江の戦後、国境を引くために利用された神社だったようだ。

(エ) 城山から降りた筑紫神社
 筑紫神社を地図の上で確認して良く見ると、前に鉛筆で引いたラインの跡が目に入った。御勢大霊石神社から北西に傾いて香椎宮までを結んだラインである。そのライン上に、御勢大霊石神社(式内社)→五郎山古墳→筑紫神社(式内社)→岩崎神社(志免にあり)→香椎宮と、小さな点が玉のように貫かれている。
 五郎山古墳は、以前にも紹介した双脚輪状文を持った装飾古墳だ。被葬者は小高い丘の上の、自分の領地を見渡せる地に眠っているのだ。自分の土地に王の墓があるという言い伝えを持っていた人が、畑に偶然見つけた円墳である。筑紫神社のすぐ近くからして、白日別命の関係の墓だろうか。いずれにしても、首長格の人の墓なのだろう。
古墳と二つの式内社をラインが通るとは、もはや偶然とは考えられない。しかし、何故? 
 御勢大霊石神社も、筑紫神社も移動したかも知れないのに。今の位置でなければ、直線上には来ない。結果から察するに、これらの神社を建立した時代には、この体制でなくてはならなかったのだろう。これは、新しい時代の、たぶん延喜式が造られた十世紀前後、または七世紀までさかのぼれる、国守りの体制だったと言えないだろうか。
(オ) 香椎廟と式内社

 そうなると、香椎宮は何故、式内社に入れられなかったのだろうか。香椎宮は古くから宇佐神宮と並んで朝廷の崇敬は厚く、祈願・奉幣は宇佐神宮に次ぐ。が、十世紀頃まで香椎廟として扱われ、神社ではなかった。それで、式内社とならなかったのであろう。「仲哀天皇九年、神功皇后がこの地に祠を建て天皇の霊を祀られたのが創建であるが、養老七年(七二三年)神功皇后の御神託により社殿の造営、七二四年に竣工された二つの廟をもって香椎廟とする」という。大友家持の歌「いざ児等香椎の潟に白砂の袖さえ濡れて若菜つみてむ」という万葉集歌もある。香椎宮については、香椎廟と呼ばれた時代と、香椎宮になった時代と分けて考えなければ、時間が交差して分かりにくい。地図に現れているのは、過去千数百年の歴史の縮図であるから。
・糟屋の屯倉として磐井葛子が大和に献上する以前(六世紀前半より前)
・仲哀天皇が香椎宮に滞在した頃
・香椎廟として朝廷の尊崇を集めた頃(七世紀半から一〇世紀前)
・香椎宮となり、今に至る社が造営され始めた頃
と、長い時間をかけて時代を通り変化して来たのである。

 北部九州の式内社が、直線上に並ぶのだが、それは、南北線でも東西線でもない。新しい並び方である。他の式内社も同じような配置やライン上に並んでいるのだろうか。
たとえば、式内社の八幡大菩薩筥崎宮からのラインは、式内社の住吉神社を貫いて背振山頂に結び付いている。式内社の麻氐良布神社からのラインは、同じく式内社の於保奈牟智神社を通り、筑紫野の宮地岳山頂にとどく。こうして見ると、式内社は、東西南北のラインを避けて定められているようだ。東に延びているラインもあるが、式内社ではない。穂波の大分八幡宮は、式内社の住吉神社を通り愛宕神社に辿り着く。大分八幡は、九州五所八幡に数えられる神社であるが、神功皇后に結び着く事は先に述べている。神功皇后なら他の式内社のように、朝廷の手厚い庇護を受けても良かったと思うが。この三神社ラインは、東西の関係になる。これが、延喜式以前の体制の信仰ラインだったとすると、そのまま受け入れるだろうか。東西ラインだったからこそ再利用を避け、政治的意図で筥崎宮に遷宮したのではないか。そうでなくては、簡単に宮を移す事はできないだろう。とても庶民の願いとは思えない。地域の人や歴史に基づいてこその神社ではないか。
 こうして見ても、式内社の位置は、過去の信仰ラインを継承していない。むしろ、神功皇后の伝説を掘り起こし、それを使って新しい国の鎮守としようとする意図が感じられる。
(カ) 辛酉の年に起こった「世直し」
 醍瑚天皇の御代は、天皇親政の時代である。九〇一年(昌泰四年)は、辛酉の年に当たっていた。「除旧布新」すべき年、「世直しのために改元すべき」事を上奏され、「昌泰」が「延喜」と改元された。九〇五年、醍醐天皇の命による延喜式の作成開始。行政の組織を作り上げようとした延喜式の時代は、盤石の国家を目指したのではなかろうか。その為、北部九州に残る「旧体制のなごり」を一掃しようと、神功皇后を利用したのではないだろうか。
 過去にも、世直し・体制の変革を目指した時代が幾度もあった。七二三年にも、元明天皇の時代だが、地名の字を佳字に変え、二字にするよう詔勅が出ている。この時代も、過去を断ち切り、新しい国家を打ち立てようとしたのだろうか。詔勅は二回目も出ているので、国の隅々まで国家の意図を浸透させるために、地方の歴史なり、人々の思いなりの含まれた土地の名を変えたのではないか。
 延喜式以前の国のありようは、式内社で見つけるのは難しい事になる。
 延喜式以前の埋もれた歴史を見出すためには、飯盛神社のような、山と結びついた古い伝承の神社で、神功皇后が出て来ないところを探さなくてはならないのだろうか。
 または、神功皇后は実在していた。彼女は、武内宿禰とともに近畿に攻めのぼり、応神王朝をたてた……
 それにしても、何故、九州で活躍し、近畿に攻めのぼった人物が女性なのだろうか。神功皇后なのだろうか。他には武内宿禰がいるが。二人は、九州に受け入れやすいイメージを持っていたのだろうか。そういえば、田油津姫や八女津媛の伝承もある。女性のリーダーは人気があったのだろうか。または、女神信仰があったのだろうか。
 四王寺山の伝承で少し見えて来た、大野城建造の前にあったという神武天皇の城は、どういうものだったのだろう。(神武天皇が「日本書紀」の神日本磐余彦天皇であると単純に受け止めているわけではない。むしろ別人として、伝承上の人名としては扱っているつもりであるが)

そして、鉾立山→砥石山→宝満山(竈山)→宮地岳山城→高良山神籠石の南北ラインは、いつの時代まで有効だろうか。重要なラインだったような気がしてならない。

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# by tizudesiru | 2011-09-17 20:39 | 14国守りの山は何処に? | Comments(0)

15 神籠石は古代を教えてくれるのか?

15 神籠石は古代を教えてくれるのか?
 九州北部の神籠石は、白村江戦後に造られた山城というのが、今日では定説になっているそうである。そうなのだろうか。
 高校社会科でも、「白村江の戦いに敗れ、敵の襲撃に備えるため、慌てて造られた為か、大野城(日本書紀に書かれた山城)の造りは粗悪なもので、石垣もいかにも工事が粗い」と教えられた。よほど慌てたに違いないと思ったものだ。大人になって、四王寺山を見に行くと、高床式の倉庫群があったらしいことが、綺麗にならんだ礎石群で分かった。今に残る石を見て、しっかり土台を作ったから流れもせず残ったのだと感心したものだ。
 前回と重複するが
七世紀の大野城以前に、六世紀に古代山城が造られていた。そこに、事代主、武??槌を祭っていた」と「王城神社由緒」で述べている。同じく四王寺山から降ろされた天児屋根(春日神社の由緒)も入れて、少なくとも三神が祭られていた。大野城以前に四王寺山城を作り、神を祭ったのは何の為か、再度確認しておく。
 飯盛神社の神は東を向いていたから、当然、宝満山の神は西を向いていた。夫婦山として相対する東西の山(双方の神)は、東と西から福岡平野を見守っていた。そして、大城山は宝満を背中に背負い西を見ていた。または、宝満山を背負った大城山(四王寺山)には祭祀場があり、また都を守るための山城(古代山城)が造られていた。ようやく七世紀以前の福岡が見え始めた気がする。
 
 他の山城(神籠石)はどうなっているだろうと改めて興味が湧いて来たが、不思議な気分だ。初めて神籠石を知った時は、謎の古代建造物として興味津々だった。それで、鹿毛馬神籠石や御所ヶ谷神籠石を見に行ったが、現地の説明板に書いてある以上の事は何も分からなかった。むしろ、六世紀頃の土器も出ているし、その頃の山城だろうと納得したと思う。それが、今更のように、神籠石に興味を持ち始めて、何だか逆戻りした気がする。それに、九州北部に集中的にある事から理由を考えると、余りに単純な答えになる。多くの人から聞いたようなことしか、頭に浮かばない。「神籠石は、大宰府を守っている」となる。それ以外なら、「大和に敵が入るのを防ぐために、前線基地の大宰府を守っている」となるのだろうか。
 祭祀施設としての説も聞くが、設置された場所がそれぞれまちまちに思える。山深くであったり、交通の要衝であったり、何の特色も感じられない里山であったり、神域であったり、共通するのは、列石や水門などである。
 いや、神籠石が祭祀施設説でも山城説でも構わない。神武天皇の四王寺山城にしても、山城であり、祭祀場でもある。山城に神を祭っていても、不思議ではない。命を賭して戦う時、何かにすがりたいものであろうし、中世の武士も守護神を頼みとした。先の大戦ですら、息子を戦場に送る親は、護身用の守り刀を持たせたと聞く。何か霊力のある物を傍に置きたいと思うのだろう。神籠石について祭祀の面からも考えてみたい。
 まず、鹿毛馬神籠石は、何故、かの地にあるのか。
 鹿毛馬の周囲にあるのは、西に遠賀川、東に彦山川である。二つの川は下流で遠賀川となる。これらの川を遡って来る敵を防ぐ役目に違いないだろう。鹿毛馬の南には、馬見山・屏山・古処山が並ぶ。その中央の塀山を背負って、北の響灘から来る敵を見張る山城となっている。三連山の霊力に支えられた城であろうか。
鹿毛馬神籠石(東経130度44分4秒)
屏山    (東経130度44分25秒)

 鹿毛馬神籠石の東には、五所ヶ谷神籠石がある。二つの神籠石はほぼ同じ緯度に並んでいる。連携しているかも知れない。御所ヶ谷の近くには、周防灘に流れ込む今川や祓川がある。南には、英彦山の北岳、中岳、南岳がある。御所ガ谷神籠石は英彦山を背負って、周防灘から入りこむ敵を見張っているのだろう。
 御所ガ谷と鹿毛馬の両神籠石の間には、香春岳の一ノ岳がある。ニノ岳、三ノ岳の力も借りているのだろう。一ノ岳には、香春神社がまつられている。
御所ガ谷神籠石(北緯33度40分29秒 東経130度55分53秒)
香春岳一ノ岳 (北緯33度40分33秒 東経130度50分23秒)
鹿毛馬神籠石 (北緯33度40分37秒 東経130度44分4秒)
屏山     ( 東経130度44分25秒)
英彦山・中岳 ( 東経130度55分35秒)

 同じような事、信仰の対象となる山を後ろに背負った神籠石が、他にも存在するのだろうか。
 筑紫野の宮地岳(古代山城)は、どうだろう。北に宝満山を背負っているから、南を向いているのだろうか。よく見ると、宮地岳山頂は、東隣の砥上山と並んでいる。
宮地岳(北緯33度29分34秒 東経130度34分7秒)
砥上岳(北緯33度29分34秒 東経130度36分38秒)

 近いので、山頂の緯度がほとんどずれない。砥上岳には、またもや神功皇后伝説がある。羽白熊鷲征伐の折、刀を研いだので「砥上岳」という。刀を山頂で研ぐとは、何かのまじないのような、または戦勝祈願のようなものだろうか。砥上岳は神の山だったらしい。
 宮地岳と砥上岳の間を長崎街道が通っている。国道二〇〇号線と重なる。交通の要衝だから、宮地岳は砥上岳と連携して、飯塚方面(遠賀川流域)への道をふさいだようだ。
 更に、宮地岳の西は、国道三号、九州高速道、鹿児島本線等、主要交通機関の通る超重要地点である、昔も今も。此処に、山城を置かない訳はない。宮地岳山城は、大規模なものだっただろう。三郡山地と脊振山地の間の断層地形の重要な峡地を守るのに、砥上岳のようにもう一つなにか山城が必要だと思うが。
 宮地岳の西に見えるのは、天拝山である。山頂は、宮地岳と緯度がややずれる。
しかし、ここは菅原道真が都に帰れるように、天に祈ったという伝説の地だ。実際の道真は、ひたすら都府楼前の朱雀大路の右郭にあった南館に謹慎し、都の許しを願っていた。天拝山に登るはずはない。天拝山の山頂下には武蔵寺がある。蘇我山田石川麻呂を裏切った蘇我日向は、大宰府にしのび流しをされたが、彼が建てたと伝わる筑前で一番古い寺らしい。そこは、後世に寺を建てるにふさわしい場所だったのだ。武蔵寺の辺りが宮地岳と連携するには適当な処だと思うが、勝手な意見かもしれない。それにしても、古代の天拝山では何を祈っていたのだろう。
宮地岳(北緯33度29分34秒)
天拝山(北緯33度28分54秒)
武蔵寺(北緯33度29分22秒)

 国の安泰を天に祈っていたのではないか。天拝山の東には英彦山があり、西には雷山がある。英彦山と雷山は、離れているが東西の関係にある。この二つの山は東と西の端から国を見守り、国守りの山とされていたのであろう。宮地岳と英彦山の間の直線距離と、宮地岳と雷山の直線距離は数字的にはかなり近い。ほぼ中心地点に宮地岳は位置しているようだ。そして、此処は交通の要衝。宮地岳には堅牢な山城と祭祀場が必要だったのではなかろうか。
 ちなみに天智天皇の命により築造された基肄城は、天拝山より五キロほど南に下がる。
では、次の神籠石を検討しよう。佐賀県の帯隈山神籠石は、どうだろう。
脊振山地の南山麓に、小高い山が並んでいる。
鈴隈山(133m 北緯33度20分8秒)
帯隈山(175m 北緯33度20分8秒)
早稲隈山(163m 北緯33度20分10秒)
真ん中の帯隈山に神籠石がある。近くにエヒメアヤメの自生地があり、花の咲く頃はボランティァが花を守っている。三山の東南には、日の隈山(158m 北緯33度19分59秒)があり、四山は並んでいるようだ。帯隈山と結びつくのは天山である。
天山てんざん(1046m 北緯33度20分20秒)
あめやま  (996m  北緯33度20分5秒)

西の天山を背負って帯隈山が見ているのは、筑紫平野だ。天山は佐賀で一番高い山だと聞いていたが、脊振(1055m)と経ヶ岳のほうがわずかに高いそうだ。しかし、遠く熊本からも島原半島からも目立つ高い山は、天山だ。当然ながら、神籠石を後ろから支えてくれる山に選ばれたのだろう。かなり山と神籠石の関係がはっきりして来た。
 それじゃあ、経ヶ岳は何も支えていないのか。
 実は、おつぼ山神籠石の南に、経ヶ岳の峰が並んでいる。
おつぼ山神籠石  (東経130度3分28秒)
経ヶ岳(1075m 東経130度4分34秒)
 経ヶ岳の峰(865m  東経130度4分6秒)
 経ヶ岳の峰(822m  東経130度3分44秒)
と、並ぶがすっきりしない。北に控える山を見てみよう。作礼山がある。
作礼山(887m  東経130度3分57秒)となる。
地図検索の画面上の神籠石の地図記号にカーソルを当てているので、位置の操作はしていない。やや数字がずれる。しかし、経ヶ岳と作礼山の間におつぼ山があるのだろうか。三者は南北ラインに並んでいる。では、おつぼ山は、どこを見ているのだろう。実は、三方向を見ているのだ。おつぼ山の場所は、有明海に臨み、武雄と嬉野の間にある。長崎、大村、唐津への三方面への分岐点にあるのだ。ここも交通の要衝である。山城のあるべき場所だった。
だんだん神籠石の本質が見えて来た。後は、女山神籠石と杷木神籠石、高良山神籠石。
 女山神籠石は熊本との県境に近く、矢部川を見張り、その向こうの有明海を見ている。女山神籠石を支えているのは、東に並ぶ県境の山、男岳、姫御前岳、女岳である。頼みの山を東に背負うから、間違いなく此処から西の有明海を見張っている。
女山神籠石(北緯33度9分36秒)
男岳 532m(北緯33度9分38秒)
姫御前岳514m(北緯33度9分59秒)
女岳 595m(北緯33度10分17秒)

 この遺跡はかなり開発が進み破壊されているようだ。
 そして、杷木神籠石は、どの山を背負っているのだろう。これは、よく分からない。あえて言えば、マテラウ山であろう。この神籠石は筑後川に乗り出すように位置している。日田を過ぎて渓谷を流れた筑後川は、杷木を過ぎると一気に筑紫平野に蛇行して広がっていく。入るにも出るにも、大事な場所に違いない。平野との境目を守っているのだ。
それから高良山神籠石だが、耳納山地の最高峰の鷹取山を真東に背負い、西を見張っているのは容易に理解できる。ここは、筑紫平野が一望できる場所であり、筑後川の河口を見張る事が出来る。北に広がる筑紫平野、その奥に宮地岳、宝満山、砥石山、鉾立山と中心の山が連なる聖なるラインがここから北上する。
雷山神籠石は、すでに何度も出てきた。この後も、登場するだろう。
 この他にも北部九州には最近発掘された土佐井の神籠石があるが、地図上に記載されていないためにカーソルを当てる事が出来ない。緯度経度が出せないので取り上げていない。地図上に記載されたそれぞれの神籠石は、次のようにまとめることが出来る。
 そこは、頼みとする神の山を背負って一定の方向を見張り、協力してどこか大切な地域を守っている。造られたのは出土物から推定される六世紀のようだ。「白村江の戦い」前に、誰かが目的を持って造ったという事である。そして、白村江の戦い後に造られた大野城・基肄城、高安城(畿内)等とは似ているが、若干目的が違うようだ。
 書紀によると、近畿の高安城熊津都督府(百済に置かれた唐の占領政府)熊津県令が境部連石積らを筑紫の都督府に送って来た天智六年に、讃岐屋島城、対馬金田城と共に造られている。また藤原鎌足内大臣が薨去した天智八年に修理し、畿内の田税を納めている。この年に斑鳩寺(法隆寺)が焼けたという記事が突然挿入されている。天智九年にも高安城の修理を行い殻(もみ)と塩と積み入れた。明らかに戦争の準備をしている。天智十年に天智天皇崩御。天武元年の壬申の乱では、近江軍が城として使っている。が、天武軍に攻められ近江軍は税倉をすっかり焼いて逃亡。その後、天武四年、天皇行幸。持統天皇三年、天皇行幸。高安城は実戦で活躍した重要な城だったようである。
 では、こちら九州の神籠石は戦闘とかかわっていないのだろうか。正史に出て来ない。しかし、神籠石が教えてくれた古代の姿、それは戦争を意識して造られている。更にはっきりしたことを付け加えれば、神籠石は北部九州を守っている。畿内を守っているとは考えにくい。それも交通の要衝を見張っている。神籠石の時代は、守るべき場所として、北部九州を捉えていた。そこには、九州北部の古代から続く山信仰を背景にした思想があり、大事な場所を守ろうとする人間集団がいた。で、あるが、山城の地形・位置などから考えても、神籠石山城は利便性のいい場所にはない。造るのは困難だったはずである。しかし、人々はその大事業を忘れてしまった。正史に記録されていないだけではない。不自然過ぎる。工法や山城の形態から、北部九州の神籠石はほぼ同時代の建造物だという。これだけの工事が同時期に行われたのだ。国を挙げての大事業だったはずである。七世紀の白村江の戦い後、出兵で疲弊した北部九州に、こんな工事をする余力があったとは考えにくい。やはりその前の六世紀に造られたのだ。神籠石が忘れられた理由こそ、政権交代を示しているのではないか。そこに、古代の真の姿が見えるのだろう
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# by tizudesiru | 2011-09-16 21:09 | 15神籠石が教えてくれる古代 | Comments(0)

16 守られた土地は太宰府?

16 守られた土地は太宰府?
 神籠石山城を作り、守らねばならない場所が北部九州にあった。そして、当時の人々もその事を理解していた。そこは、何処だろう。太宰府なのか。それとも、筑後川を含む筑紫平野の中のどこか。
 太宰府の山と山城を地図上で結ぶと、面白い事が見えて来る。
(ア) 大宰府の四角形
 南の宮地岳と北の宝満山は直線距離で五キロほど離れているが、宝満山と西の大城山も、直線で五キロほどの距離である。此処にほぼ正方形の聖域が出来そうだ。正方形とはすばらしい。宝満・宮地・大城の三点は、見つかったが、もう一点は……何処だろう。
 宮地岳と大城山は対角線の頂点になる。どちらも、山城として向き合っているのである。
 宝満山の対角線に来るのは、都府楼の南に直線を伸ばした位置。大城山から五キロの地点になる。
 宮地岳から西へのラインと、大城山から南へのラインの交点だが、大城山から都府楼を通り、朱雀大路を抜け、二日市駅の西側、塔ノ原辺りになる。塔ノ原は、寺院の塔の礎石が見つかったので「塔ノ原」という地名になったそうだ。その礎石は、何処から運ばれたかはっきりしないそうである。
 問題の交点は、平地の上になる。そこに、塔が建っていたとしたら、どうなるのだろう。仏教の寺院とすれば、天智天皇統治前の寺院となろう。しかし、何らかの理由で、塔は取り除かれた。礎石は重いので、遠くに運べず放置された。憶測で申し訳ないが、それは、都府楼の南前二・五キロに立っていた塔になる。大に点のない「大宰府」が置かれた時、邪魔になったから、壊されたのだろうか。ともかく塔が建っていたと仮定すると、正方形の聖域が出来る。それは、塔以外のものでも構わないが、何か強力な意味のある建造物があったと仮定すると、方形の空間が見えて来る。
 そうなると、後世の都府楼跡は、正方形の外枠に位置する事になってしまう。政庁跡として、長く調査を受けている場所なのだが、天地三年以前には中心地に位置しなくなる。どう考えればいいか。政治権力の強制力なしではできない事が、大野城を築いた時に起こったのだ。政庁の建物を建てる時に、一番端のラインが中心線に変わったのである。
 観世音寺もほぼ昔の位置にあるらしい。発掘の結果、太宰府の条坊に沿って立っているらしいのである。そうすると都府楼の前の東西に貫くメイン道路は、昔も道だった事になる。この道は、正方形をほぼ南側と北側に二等分する。では、東と西に等分するラインはあるだろうか。それは、ある。
 地図を見て気が付いたが筑紫神社と太祖神社を結ぶ南北ラインは、正方形を東側と西側に二等分する。
太祖神社(東経130度32分33秒)
筑紫神社(東経130度32分34秒)
ほとんどずれない。この太祖・筑紫ラインが、大城山・宝満山の東西ライン五キロを二等分する。
式内社だが、筑紫神社は古代の伝承を伝えている。この筑紫神社と、若杉山の太祖神社は、南北の関係にある。東の宝満の竈神社と西の飯盛山が向かいあっていた事は、既に書いた。北と南で向い合っていたのは、筑紫神社と太祖神社である。若杉山で神功皇后が飯盛山に向かって社を建てた伝承には、やはり無理がある。宝満と飯盛が向かいあい、筑紫神社と太祖神社が向かい合う。国守りの神社なら当然かも知れない。東西南北の関係なのだ。
 対角線が交差する点、二等分線が交差する点は、どこだろう。
その中心点は、太宰府天満宮の南東五〇〇メートルほどの地点、石坂の東の岡、ゴルフ場の辺りである。そこには、近くに、小さい高雄山がある。都府楼前のメイン道路の直線がいきつく場でもある。
この地点なら、宝満山は大宰府の北東に当たり、鬼門となる。「竈山旧記」によると『大宰府が置かれた時に大宰府の鬼門を護るために建設された』と記されている。陰陽道に基づいて建設されたようだ。しかし、石坂の東の地でなければ、竈神社は鬼門を守っているという言葉の通りにならない。この正方形が示すように、古太宰府の中心は、石坂の東の岡の上辺りにあったのだ。高雄山の斜面には、石穴観音がある。王の墓だろうか。
 太宰府天満宮の辺りを、宰府という。昔の言い伝えの地名として使っているではなく、小字だった。西の都府楼の辺りに朱雀や都府楼の地名に混じって、坂本や国分や水城の地名がある。一方、都府楼から距離的に離れた東の天満宮の辺りに、宰府だけでなく太宰府や連歌屋、三条や五条、白川や高雄などの地名がある。どうも釣り合わない。太宰府の地名から推測しても昔の中心地は、やはり石坂の上辺りだったと十分考えられる。そうだとしても、何時、何故、変わったのか。やはり、天智天皇の時代か。巷の説の通り白村江の戦いに敗れ、戦地へ出ていた王達は戻れなかったのか。
新聞記事を読んで、不思議に思った事があった。都府楼跡の発掘で、大宰府に空白時間があったのだ。太宰府政庁跡には三つの時代の遺構があった。地上の礎石の六〇センチ下に同じような配置の礎石が確認された。更に、その下に掘立柱の柱穴があった。記録と照らし合わせて、礎石の並びから発掘した遺構の年代を決めていくと、不思議なことに、白村江の後の建物が掘立柱になることが分かった。山城として突貫工事をした大野城でさえ、倉庫は礎石の上に建っている。釣り合わないという事だった。発掘の結果、謎は深まったのだ。読んで何故だろうと疑問を持ったが、もし中心地が石坂の東だったなら、西の都府楼跡の辺りは、王都入口の付近になる。そして、南西の裏鬼門には、塔が建っていた。
太宰府ではなく、大に点のない大宰府が大和朝廷の役所として機能し始めた時代に、現在の都府楼跡に石の礎石の建造物が現れても不思議ではない。掘っ立て柱は、その前の時代の遺構だ。そこにもともと何があったのだろう。真っ直ぐ石坂に伸びる道路にはどんな建物がならんでいたのか。
宮殿に向かって伸びた東西メイン道路が、都府楼前の朱雀大路(南北メイン道路)に変わった時、中心地も変わった。昔の王宮は捨てられた事になる。
地図は、思いがけず古代の王都を教えてくれた。そう、これほど守られていた土地は王都でしかありえない。が、しかし、誰の都だろうか。七世紀に王都を造り変えたのが天地天皇として、その前に玉座についていたのは……
王を特定しないまま、6世紀に太宰府は王都だったとしておこう。七世紀後半、支配者が変わり天智天皇による新しい政治が始まると、大きな役所の建て替えに伴い、それまでの国守りの東西重視の信仰は否定され、主祭神も変わり神祀りの方法も変わった。新しい支配者は、仲哀・神功の流れを強く受け継ぐ人々である。都府楼を中心とした筑紫支配の為に、南北重視の神祀りライン香椎・鉾立山・御勢大霊石神社・九千部の四点を頂点とした長い四角形を作り上げ、筑紫の王都(古代大宰府)をはるかに超えるようにした。長四角形はおよそ正方形王都の十倍の広さになり、古代王都も含まれる。歴代王の祖霊の昇る脊振山は、「天竺の鬼門」として避け、東西信仰の英彦山・雷山ラインも忘れようとした。そこに、後に山岳宗教が入りこむ余地があったのだ。
更に時を経て、醍醐天皇の「延喜式」により政治が行われる時代になり、再び古代の国守り信仰の残骸が再度見直され、結果として式内社が選定された。九州北部では神功皇后伝説を利用して、それまでの歴史を背負う神社の事実上の格下げが行われた。此処で、東西南北の国守り信仰が、ずたずたに分断されたのである。
では、それほどに信仰の形や神社の格式等を変えなければならない政治的理由は何だろう。政権交代だけでなく、天智天皇には特別の理由があったのかも知れない。
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# by tizudesiru | 2011-09-15 22:43 | 16六世紀の都 | Comments(0)

17 太宰府は皇后伝説の空白地?

17 太宰府は皇后伝説の空白地
 少し遡って、太宰府を見てみよう。
 日本書紀の仲哀天皇の巻には、九州北部の地名が多く出て来る。紀伊国滞在中に熊襲が従わず朝貢しなかった事を知り、熊襲征討のため山口の穴門まで来て皇后を勅により呼び寄せた。皇后は穴門の豊浦宮から、仲哀天皇八年に筑紫に渡った。その時、出迎えたのが岡県主(おかのあがたぬし)の祖、熊鰐(くまわに)である。遠賀川を船で遡るのに難航したようである。縄文時代には奥地まで海が入り込んでいたが、時代が下がり河底が浅くなっていたのだ。また、筑紫の伊覩(伊都)県主の祖、五十途手も服従の姿勢で迎える。儺県(なのあがた)に着き橿日宮に滞在。そこで群臣と熊襲征討の相談となった。その時皇后が神がかりとなり、熊襲より新羅を討つようにと神託がくだる。しかし、天皇は訊かず熊襲を征討しようとしたが、勝てずに帰り突然体力が弱り翌日に崩御。密かに遺骸は穴門に遷して、豊浦宮で殯葬したという。別伝では、熊襲を討とうとしたが、賊の矢に当たって崩御という。
 次は、神功皇后の巻。天皇が橿日宮にて崩御された事を悲しみ、祟った神を知り罪を払うため、小山田邑(宗像郷山田村)に斎宮を造った。この時、名の出たのは、渡会県の拆鈴五十鈴宮の神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、尾田節の淡郡に坐ます神(志摩国?)、天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神橘小戸の表筒男・中筒男・底筒男の神(住吉三神)である。
 それから、熊襲は自ら服従したが、荷持田村(のとりのたふれ)の羽白熊鷲が従わないので、討つために松狭宮に遷る。層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲を討つ
熊鷲を討った層増岐野(そそぎの)は、場所が特定されていない。しかし、雷山は層増岐(そそぎ)山と呼ばれていた。熊鷲かその一族が雷山で戦ったのだろうか。雷山には雷山神籠石山城もある。もし雷山神籠石山城が熊鷲軍の最後の戦いの場所であれば、彼らが戦ったのは六世紀になる。 

 次は、山門県(大和郡瀬高)に土蜘蛛田油津媛を誅殺。次は、肥前松浦県玉島の里の川で鮎釣りをして占う。それから、儺河(那珂川)の水を神田に引くために裂田溝を掘る。それから、男装して船を整え、財土を求めることにした。そこで大三輪社(朝倉郡・於保奈牟智神社)を立てると兵士が自ずから集まった。準備を整えて出発しようとしたが、ちょうど臨月だったので、石を取って腰に挿んで新羅に遠征した。その石は伊都県の道辺にあるという。新羅王は皇后の進軍に驚き恐れて服従し、朝貢を約束する。この時、重宝の府庫(くら)を封じ、地図・戸籍・文書を収めた。(新羅国にはすでに戸籍があったと書紀は書いている)これを見た高麗と百済の王は自らやってきて朝貢を約束する。いわゆる三韓、内官家(うちつみやけ)である。皇后は新羅から帰り、宇瀰(宇美)で誉田(応神)天皇を出産。この後、皇后は武内宿禰と畿内に帰り、香坂王と忍熊王と戦う。ついに、二人を滅ぼし、皇后は摂政として政治をする。
 皇后の巻の前半は九州であるが、大宰府の辺りの地名はほとんどでてこない。風が笠を吹きとばしたという伝承の御笠山は、後の宝満山である。近くを通ったようだ。

 福岡各地の伝承に幾度となく出てくる仲哀天皇は香椎の宮におられたが、伝承では筑紫平野の大保近くでの戦闘中に亡くなった。その仲哀天皇は、大宰府には踏み込んでいない。立ち寄った形跡がないのは、まだ太宰府が都として機能していなかったからだろうか。
 古事記にも「帯中日子天皇、穴戸の豊浦宮、または筑紫の詞志比宮に坐しまして、天の下治らしめき」とある。香椎は行宮ではない。そこに、畿内とつながる宮があった。それは、いつの時代に造られたのだろう。そこは、宮が置かれるほど、中央の勢力が入っていた。その辺りは、磐井葛子が献上した糟屋の屯倉だろうか。葛子が糟屋の屯倉を献上したのは六世紀である。
 何度も確認するが、磐井の乱は五二七年である。五二八年、磐井の乱を鎮圧したこの年、継体天皇が大和に都をおく。(崩御は、五二七年、五三四年と定かではない)この年、磐井葛子が糟屋の屯倉を大和政権に奉る。磐井の罪に連座する事を恐れたためという。この記録の他にも屯倉の献上はあったかもしれないが。
五四〇年欽明天皇即位。五六〇年伽耶(任那の官家)滅亡。
 香椎辺りに糟屋屯倉があったのなら、此処は博多湾に守られ、近くには防人の名を問うたという「名島」があり、三本の川がある。多々良川は宮若市に迫り、須惠川と宇美川は宝満・三郡山から流れだし、上流は太宰府に迫る交通の要衝である。葛子は大事な土地を手離したことになる。が、同時に、この時点まで筑紫の国の北岸には磐井の勢力があった。博多湾岸の香椎辺りまで、力を持っていたことにもなる。そうなると、位置的に太宰府も、まだ筑紫君の勢力圏にあった事になる。その終焉は、大城山の南の都府楼跡に、初めて大宰府が置かれた時だが、それまでの百年、太宰府がやはり筑紫の都だったのか。屯倉が置かれたので畿内の勢力が入って来たとすると、神功皇后の話は三世紀初頭ではなくなる。香椎の宮の建造が、屯倉が置かれたあとと考えるならであるが。
 伝承の神功皇后と武内宿禰は、仲哀天皇と古代九州のまつろわぬ豪族を誅殺した人物になっている。彼らも太宰府には入っていない。羽白熊鷲は秋月の古処山を本拠としたそうで、太宰府の南にいた豪族である。香椎から南下すれば太宰府のすぐ傍を通って進まねばならない。関や山城があって通れないとしたら、太宰府の王とは敵対していたことになる。田油津媛を倒し、那珂川町山田では神田に水をひくための井堰を造り、裂田の溝を掘り通水したという伝承もある。那珂川町は太宰府から決して遠くはない。しかし、大宰府に入った形跡はない。全国に皇后の所縁の地があふれているというのに。同じく武内宿禰も全国に名が知れ渡っている。伝承が多すぎるのだ。
 皇后の墓も定まらない。奈良の宮山古墳(238m前方後円墳)は武内宿禰の墓というが、子の葛城襲津彦の墓という説もある。これより少し前に造られた巣山古墳が武内宿禰の墓の可能性が出て来たようだ。巣山古墳の中心線は、佐紀石塚山古墳の後円部中心を通る。神功皇后陵墓は、平安時代には隣の佐紀陵山古墳とされていた。が、それが誤っているとのことで祟りがあったそうだ。やはり石塚古墳が神功皇后の墓になるようだ。それにしても、神功皇后陵墓参考地は、全国に八九六ヵ所あるらしい。特定のしようもないだろう。武内の宿禰墓も方々にあるのだ。
 福岡県田川郡香春町高野には、鏡山大神社という皇后所縁の神社がある。三韓出兵の折、仲哀天皇と神功皇后はこの地で天神地祇を祀り、必勝を祈願したが、その時神功皇后の御魂を鎮めた鏡を奉祭したので鏡山という。このような所縁の地を辿れば、墓の数ほどの伝承地が出て来るのだろう。しかし、太宰府には、伝承がない。何故か。伝承は必要なかったか。伝承が入り込む余地がなかったのか。
 久留米の風浪宮は「おふろうさん」と呼ばれ、此処も神功皇后ゆかりの神社である。外苑の一遇にある磯良丸神社は、安曇磯良丸を祀る。この人は三韓遠征のとき干珠満珠を持って皇后に従った後、凱旋して風浪宮の初代神官となったという。現宮司まで六十七代に及ぶ。付き従った船頭のうち七名も当時の船名を継ぎ、この地域の神事に参加するという。船の名前が残っているとは驚きである。
 筑後の式内社は、高良大社、伊勢天照御祖神社(久留米市御井町)、伊勢天照御祖神社(久留米市大石町)、豊比哶神社(久留米市上津町)、豊姫神社(久留米市北野町)、御勢大霊石神社(小郡市大保)の六社である。この中の高良大社の奥宮(奥の院)は、武内宿禰の墓所という言い伝えがある。久留米の北野町にある豊姫神社の「豊姫縁起」にも、景行天皇や神功皇后の征西にかんする伝承が書かれている。応神天皇誕生の地は、此処であるという伝承もある。北野町の旧大城村一帯は、水沼君の本拠地であったという。末裔が住んだという稲数という地名もある。水沼君はかなり皇后に接近しているようだ。
 これほど具体的な伝承が揃っている地域があるのに、仲哀天皇と大宰府を結ぶものはない。崩御後も香椎に運ばれている。流れ矢が当たって亡くなったという大保の地から香椎の宮は遠い。太宰府の方がかなり近い。ここが畿内の王と関係の深い都であれば、仲哀天皇の棺が運び込まれたはずである。仲哀天皇は筑紫の王都とは無関係な存在だったのだろうか。それとも、王都はなかったのか。
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# by tizudesiru | 2011-09-14 08:25 | 17神功皇后伝説の空白地 | Comments(0)

18 太宰府と大保と大分

18 太宰府と大保と大分
 太宰府と伝説の地「大保と大分(だいぶ)」は、つながりがあるのだろうか。太宰府から大保までの距離と、大宰府から大分までの距離はほぼ同じである。
小郡市大保の御勢大霊石神社は、もちろんの神功皇后伝説のゆかりの地である。この近くに大規模な建造物の跡があるようだ。地方役所( 郡衙)の跡らしいのだが、方二町(約240m)は大きすぎるらしい。書籍名は忘れたが記述の中で、「天子の徳を保ち、安んずる宮」の太保府の跡ではないかという説を読んだが、その事がブログにも書かれていた。 そういえば、穂波町の大分八幡宮を訪ねたとき、近くの大分廃寺を知った。この遺跡は、大分八幡と同じ緯度にある。東西ラインで結ばれるのだ。何らかのつながりがある建造物になるのだろう。
穂波の大分八幡宮(北緯33度35分7秒  東経130度37分32秒)
穂波の大分廃寺塔跡(北緯33度35分7秒 東経130度38分12秒)

 廃寺跡に立って新羅系の瓦が出土したという説明書きを見た。そこで、磐井が新羅から貢物を貰っていた事を思い出した。しかし、案内板には八世紀の建立と書かれていた。磐井の時代は六世紀前半であるから、かなり後の時代となる。
 また、大分も太傳府ではないかという説があるらしい。ブログには太傳「天子の師傳となる官」であり、筑紫王朝の太傳府が置かれたところであると書かれていた。太傳府があったから、セットとして近くに寺もあったのだろうか。しかし、時間のずれはどう解決すればいいだろうか。
 大分八幡宮の創建は、七二六年と書かれている。しかし、この年代は宇佐神宮の由緒と矛盾する。「大分宮は我が本宮なり」という宇佐神宮の創建は、欽明天皇の三二年(五七一年)だが、もともと神代に比売大神を祭っていたと由緒にある。七二五年聖武天皇の勅願により現在地に御殿を造立し、八二三年に神功皇后を三の御殿に祀ったという。上記の宇佐神宮の由緒と合致しない。大分八幡宮も創建はもっと古く、比売大神を祭っていたかも知れない。
 大分八幡の門前に杯状穴のある四角柱の大石があり、しめ縄が掛けられていた。古い神祭りの仕方が残っていると感じた。古い神社は、石段などにそんな穴がかなりの頻度であるものだ。九州だけかも知れないが。と、いう事で、再び神功皇后に戻ろう。
大分八幡宮の近くに、神功皇后関連の鶯塚の伝承もある。
うぐいす塚(北緯33度35分21秒 東経130度37分51秒)

 三韓遠征後帰国して将軍達を故郷に帰したのだが、別れの場の伝承地。また、「分かれの場」だから「大分」という地名譚もある。神功皇后は三韓遠征の後、宇美で応神天皇を出産し「しょうけ」に皇子を入れて峠を越え、穂波町の大分に入ったという。宇美からの峠越えを「ショウケ越え」と現在も言う。そして、大分の鶯塚で兵士達と別れているのだ。皇后は筑紫平野の林田や大保で兵を集めたり戦ったりした後、三韓遠征を終え、大分で兵を解散している。と、なると、神功皇后は大保と大分と深くかかわっている。この二ヶ所が役所であり、太保府と太傳府なら、答えは非常に狭い意味になる。香椎の宮も入れて皇后は三つの役所を使っていた。信じられないが、筑紫の役所で仕事をしていたことにならないか。では、新羅と戦った目的は、何だろう。それに、何故、太宰府に入らず、畿内に帰ったのだろう。忍熊王・香坂王との皇位継承の戦いが待っていたからか。
 もし、太宰府に王都があったとすると、仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰がなぜ都に入らなかったのか。王都はいつ始まり誰の王都だったのか、疑問が深まる。そして再び、王都はなかったのかという疑問も生まれる。九州の豪族たちが畿内に取り込まれて行くのはいつなのか。そして、積極的に畿内と結びついた豪族は、どこを本拠地にしていたのだろう。
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# by tizudesiru | 2011-09-13 10:47 | 18太宰府と大保と大分 | Comments(0)

19 畿内に近い豪族たち

19 畿内に近い豪族たち
畿内の王権に深い関係を持つ氏族が、神功皇后の巻でもはっきりしている。
また、水沼君や宗像氏や安曇氏も畿内王家と関係が深い。
天智政権は、都府楼の北の守りに宗像大社を置いている。鉾立山に代わる南北ラインは、宗像大社から都府楼を通り南の女山神籠石に当たる。のちの為政者は再び前の政権の遺物を利用したのか……神籠石を? 福岡県の南北中央線の北の氏族と、南に山門郡の氏族が結ばれることになる。勿論、両者は離れ過ぎてお互いに視覚的には位置を確認できない。都府楼を中心に地図上で測ると、宗像大社までの距離と女山までの距離はほぼ同じくらいである。南の水沼君と北の宗像氏は、畿内に協力的な氏族だった。大海皇子(天武天皇)の妃となった宗像徳善の娘尼子朗女は、高市皇子を生んでいる。宗像神社が十世紀に式内社になった事はすでに述べているが、近くの宗像市鐘崎の織幡神社も式内社である。三韓遠征の折、武内宿禰が紅白二本の幡を織らせ、旗を上げ下げして敵を翻弄し最後に沖の島に旗を立てたという。
水沼君は日本書紀にも登場する。彼も強力な畿内の支援者だったはずである。高良山はすでに高良玉垂命(武内宿禰・水沼君の祖)に取って代わられている。高良山も後世に式内社となっているから、重要な位置にあったと思われるが、位置的に前政権のなごりが強く残りすぎている気もする。それで、宗像・都府楼ラインからずれしているのだろう。宗像大社と都府楼の間の距離が、ほぼ都府楼から女山神籠石までと同じくらいとはいえ、この辺りに別の南の守りがあってもおかしくない。女山の近くに神功皇后に係る建物があったかも知れないが、比定地が定まらない。九世紀に唐から帰国した最澄が女山の近くに清水寺を建立している。この辺りには、九世紀に大寺院を建立する意味があったのだ。
天智天皇のひ孫の桓武天皇は、最澄に平安京を守る西寺を造らせている(空海に東寺を造らせている)。宗像・都府楼・女山ラインが天智天皇の治世の意図を示唆しているなら、桓武天皇の時代、このライン上に最澄が国守りの神社を建造したとしても理解できる。天武朝から天智朝の皇統へ政治が戻ったのだから、桓武帝は古の神祀りを再確認させたかも知れない。平安京は早良親王やさまざまの怨霊から都を守ることを第一に造られた。同じく国の隅々まで怨霊から国を守る工夫がされたはずである。平城京から平安京への遷都は、政治・宗教・文化の上で大きな転換期である。
同じように太宰府が大宰府となった時、大きな変化があったに違いない。それを示すのが、宗像・都府楼・女山ラインである。伊野皇大神宮もこのライン上にある。神功皇后が川のほとりで天神地祇を祀り、財国はないかと登って遠くを見たという遠見山がある。多々良川の上流猪野の辺りは、皇后の斎宮が造られた場所でもある。
それから、遠賀川河口流域の岡県主と伊都県主の祖まで入れると、太宰府は畿内勢力に包囲されたことになるようだ。羽白熊鷲が最後の戦いで敗れた層増岐野(そそきの)が雷山(層増岐山)であり、そこが熊鷲の終焉の地(雷山神籠石)であるなら、眼下に広がる伊都国はすでに敵の勢力圏となっていたのだ。そこで、彼は何を思いながら死んでいったのか。熊鷲の戦場は秋月、大保、雷山と広がり、彼こそ北部九州の王だったようにも思えて来る。彼が敗れた事で九州勢力は大きく後退したのだろうか。九州が畿内勢力に取り込まれて行くのは何時だろうか。羽白熊鷲の時代を特定することが出来ない。三世紀か、四世紀か、五世紀か、果たして六世紀か。書紀の記述で時代や年代が特定できないのは何故だろうか。詳しい話し合いの内容や戦いの様子まで物語のように書かれているのに、それが、客観的な時間と結びつかない事が多い。いつか韓国や中国との歴史的な事実と何処かで接点が出て来るだろうが。地図を眺めながら歴史を見ると、あまりにも時間が交錯した状態なので終始がつかなくなってしまった。少し整理しなければならない。
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# by tizudesiru | 2011-09-12 11:06 | 19畿内に近い豪族たち | Comments(0)

20 大倭とは何か

20 大倭とはなにか
(ア)大倭 
 日本書紀の記述で気になる事がある。「倭」や「大倭」、「日本」と書いて、いずれも「やまと」と読ませる事である。それは、何故だろうか。古箏記には「日本」は出て来ない事からすると、歴史書編纂のほんの数年の間に「日本(やまと)」が入り込んだことになる。それとも、古事記は日本書紀を踏まえて、のちに書かれた「いわゆる偽書」の類だろうか。
 畿内勢力の地が「大倭」と呼ばれるのは、何故だろう。九州にも「やまと」と発音する地名が何カ所かある。山門郡もそうである。福岡市にも、下山門がある。佐賀にも、大和がある。全国にばらまかれた地名である。特に奈良県に多くはない。むしろ少ない。
江戸時代には山門郡の「やまと」の響きから、邪馬台国の比定地にもなったが、「やまと」の発音は、此処だけではない。平安時代末に造られた「和名抄」にも筑後の山門が出て来るが、この地の畿内と関係の深い豪族水沼君が、進んで畿内の地名を入れたとも考えられる。地名は、九州から機内へ動いたと聞く事が多いが、逆もあるだろう。山門の他に「やまと」と読む「大倭」や「倭」がある。地名の移動、そうでなければ、地形が山門のようだったからか。
 または、此処に「やまと」という組織が置かれた名残か。「大倭」と書いて、読みは分からないが、同じ文字が魏志「倭人伝」にも出て来る。
 魏志「倭人伝」の講座などで常に話題になるのは、一大率である。それは、伊都国に置かれ、帯方郡よりの使者が常に立ち寄る処という。女王国の北にあり、他の国を監視しているので、諸国から恐れられている。三世紀初頭には役所があって、様々な仕事を分担していたのである。国の仕事をする組織が出来ていた。そして、気になるもう一つの組織(?)、それが「大倭」である。
 「身分の上下の秩序はよく守られ、十分に臣服している。租税、賦役を収め、そのための建物(倉)が建てられ、国々には物資を交易する市があり、大倭に命じて、これを監督させている」(倭人伝より)どうしてこれを取り上げられないのだろうと、気になっていた。
 ただ、「大倭」が組織名なのか、役職名なのか分からない。どんな仕事をしていたのだろう。物資の交易(市)の監督とは、租税として入る品々の交易の監督をしていたのだろうか。「『やまと』とは矢が的に当たるように、国々が連合し集まったという意味である」という説も邪馬台国講座で聞いた事がある。物資が集まる場所と理解したらどうだろう。
 唐突だが、此処に至って思いついたことがある。租税として物資を集めていた、財政を監督していた「大倭」が、権力を持つのは時間の問題ではなかろうか。また、「倭人伝」に出て来る土地には方位が書かれている。「南、邪馬台国に至るには」「女王国より北の諸国は」「その南にある狗奴国」「女王国より北に特に一大率を置いて」などなど。しかし、「大倭」には方位が書かれていない。これは、国などの場所を意味する言葉ではなく、各地に置かれた役職または組織を表現しているのではなかろうか。交易する市などは、各地にあったはずである。当然、方位を示せない。女王国より任命された「大倭」は、経済を握り次第に権力と結びついて行った。一大率は検察権を持っていたが、財力は持ち得なかった。
 それから、天皇の和風諡号で気になる名前がある。「古事記」の神武天皇の諡号は、神倭伊波禮毘古命である。懿徳天皇は大倭日子鉏友命、孝安天皇は大倭帯日子國押人命、孝霊天皇は大倭根子日子賦斗邇命、孝元天皇は大倭根子日子國玖琉命、開化天皇は若倭根子日子大毘毘命。倭をヤマトと読むが、この天皇の名前も「大倭」と無関係だろうか。彼らが「大倭」という肩書を持って畿内に入り込んでいったとしたら、「大倭」こそ富と権力の象徴となるだろう。畿内に大型古墳が出現するには、財力が必要である。租税を集める組織無くして、財力を蓄えるのは困難である。租税を集める組織が権力を持ち始めると、利権をめぐる争いも生まれるだろう。近畿王権が「公地公民」「班田収受」を打ち出すのは、大化の改新後である。それまで、経済を左右する土地と人民を掌握していなかったことになる。しかし、大型古墳が出現している。つまり、何か経済を握っていた組織があったことにならないか。
(イ) 財力と権力 
 ある時期には、畿内で急激に権力を持った「大倭」という組織の長が蘇我氏だったかも知れない。蘇我氏が突然出てきて権力を握るには、財力の背景が不可欠であろう。その為、畿内の王族と対立しただろう。蘇我氏が結びついた王家は、継体天皇・手白髪姫の皇子、欽明天皇(天国排開広庭天皇)の一族である。そして、大臣が財政を握っていたのである。それでなくては、大臣一族を滅ぼして「改新」とは言えない。
 全く古事記も書紀も現代語訳しか読めないのに、筆者は急に飛躍して大胆な事を並べてしまった。これは、地図で読める事ではない。地図以外の憶測で読んでいる。
 話を九州に戻すが、香椎の宮の「仲哀天皇の組織」は、大倭と関係ないだろうか。租税を集める組織や屯倉が香椎にあって、そこにいて仕事をしていた畿内関係の人物がいた。そこは、磐井から献上された大きな屯倉だったのだろう。もちろん、此処で仲哀天皇が六世紀の人と決めつけているのではない。あくまでそういう組織があった可能性を言っている。
(ウ) 経済活動と文化の交流 
 倭人伝にある「大倭」が畿内の大倭になっていったと憶測を重ねていると、三世紀にはすでに畿内と九州が、組織的につながっていたことになる。そうだろうか。
 福岡市の歴史資料館が天神の赤レンガの建物にあった頃、蔵書のうちから「三輪町史」を借りたことがある。それには、奈良の三輪山の辺りの地名・山川の書き込まれた簡単な地図と、三輪町の地図(地名山川の名前と位置の書き込まれた)が折り込みでついていた。お互いに同じ地名があるばかりでなく、同じ方位に同じ名の集落が位置することに驚いた。三輪町の人は早くからこの事に気づき、情報を発信していた。筆者も地図をコピーして知り合いに配ったが、反応は薄かった。最近は関心も高いようだが。同じ地名という事実を、九州の勢力が畿内に移動したと考えるなら、東西の神の山々の信仰を持った人々の移動による、早い段階の交流はあったかもしれない。交流があったとしてもその理由は何だろうか。鉄が欲しかったとか、手に入れたい鉱物があったとかだろうか。他の地域との交流が始まるには、経済的理由が大きかったと思われる。

 人の交流は、王の墓や葬祭の仕方・祀り方なども伝えただろう。墳墓の造り方にしても、山を使って祖先や一族の墓とつながるライン上の地を選ぶとか、王統を継ぐためや大きな権力を持った王とつながるための形式とか、墳墓の建造には力が入ったことだろう。
陵墓は治めた領地を見渡せる位置にあり、太陽の昇る東を向き、西に沈むのを見送り、墓に鏡を副葬することも、剣や太刀を埋葬する事も、同じく文化として持ち込まれたに違いない。祖霊が天に昇る山の思想や文化も持ち込まれただろう。しかし、そういうものが、すぐに浸透しただろうか。
古墳の石室は竪穴式から横穴式に移行するが、横穴式石室が造られるのは、九州の方が早い。横口式竪穴系石室は、今宿の鋤崎古墳、老司古墳、釜塚古墳などに見られ、四世紀から五世紀に出現する。朝鮮半島南部の横穴式石室を竪穴式石室に取り入れたものといわれている。これが、畿内に入るのは百年ほど遅れる。鋤崎も老司も前方後円墳である。前方後円墳は畿内からの伝播というが、外側だけまねしたのだろうか。九州と畿内の連続性や関連性はどう考えたらいいのか、気になるところである。
(エ) 三角縁神獣鏡
 そもそも畿内で大規模古墳が造られたのは、何故だろう。三角縁神獣鏡に卑弥呼との関連を暗示する年号が刻まれている。この鏡は、教科書で卑弥呼が貰った銅鏡百枚の鏡だと教えられた。しかし、三角縁神獣鏡は百をはるかに超え大量に出てきた。中国の技術者を招いて、日本で作られた鏡であるという説も聞いた。何故この鏡が大量に必要だったのだろうか。鏡を作らせて、何を主張したいのか。また憶測だが、それは邪馬台国の末裔である事、栄光ある歴史を背負っている事の主張であろう。鏡はゆるぎない権力の象徴となっていたのだ。でも、畿内王家は、卑弥呼を正史に登場させない。いや、そんな大切な事を書き落とすわけがない。天照大神として登場しているのだ。卑弥呼は天照大神のように太陽神だった。または、太陽を祭っていた。だから、畿内王家が日の神の象徴として鏡を鋳造し、邪馬台国の継承を示したのなら、理解できる。そうなると、卑弥呼は三世紀初頭の人だから、神代が三世紀になってしまう。畿内にも東を神聖な場所として祀る神社や山はあるだろう。畿内へ九州から移動した勢力があったとしたら、その勢力の文化が伝わっているはずだ。しかし、弥生の小国群が一気に大きな国にまとまったとは考えにくい。断続的に幾度も統一に向けての波が来たに違いない。
 それが、熊鷲の時代であり、磐井の乱の後であり、白村江の戦い後の時代であろう。天智天皇の時代には、都府楼の例のように、北に山を持ち南に門が開いた役所に変わる。東向きの文化が、北向きの文化に変わる。太陽神ではなく、北天を頂く選ばれた人間が政治をするようになった。世の中は急速に変わっていった。
失われつつある祖先の栄光と歴史、それを残したいと考えた人物が、古事記や日本書紀の元を作ったのか。何の目的もなしに、困難な国家的な仕事は出来ないだろう。もちろん、中国の文化に学んでいたのだから、天子のいる国に歴史書がないのは恥ずかしい? それぞれの氏族が自分たちの祖先について書いていたものはあったが、国の正史はなかった? だから、天子の出現が正史への取り組みとなった。それであれば、天皇という言葉が出来たといわれる天武天皇以降に、正史への取り組みが始まるのは、当然のことだろう。天武天皇は、それまで欲しくても歴史書を持てなかったとしたら……
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# by tizudesiru | 2011-09-11 11:16 | 20大倭とは何か | Comments(0)

21  七世紀の政変と天智天皇

21 七世紀の政変と天智天皇
 太宰府を造り変えたのが天智天皇だったなら、その理由がなければならない。何のために近畿から遠い九州の地に情熱を注いだのか。それが見えなければ、地図上のただの偶然のなせる技になってしまう。
 七世紀に起こった政変とは、言うまでもなく六四五年「大化の改新」である。そして、六六三年「白村江の戦い」、六七二年「壬申の乱」と政変が続く。この三つの事件にかかわったのは、天智天皇である。天智天皇に関しては、謎が多い。大化改新で中臣鎌足と謀り蘇我氏を滅ぼしたが、皇位にはついていない。叔父の即位を願っている。百済救済のため九州に入っていた時も、九州まで来ていたにも関わらず、母の斉明天皇崩御後は飛鳥へ戻り川原宮で殯をしている。斉明天皇崩御後、六年間も称制をとり、天智天皇の即位は遅い。在位は、六六八年から六七一年と短い。が、その四年間は重要な時間だったはずである。出来上がった天智王朝を倒した天武天皇は、「壬申の乱」について日本書紀の巻二十八で詳しく述べている。天智朝の後継者大友皇子を倒した天武朝の正統性を説かねばならなかったのだ。
社会科で学習したことの他に、天智天皇の事はほとんど何も分からない。大化改新の首謀者であり、蘇我入鹿に皇極天皇の前で斬りつけたという行為にたいして疑問は抱かず、若い皇子とはいえ人に斬りつけることができるのだと驚いたものだった。蘇我氏という明日香の豪族を倒した事が、大きな革命に当たるほどの政変だった事に改めて気付かされたのは、かなり後の事だった。大化の改新の首謀者は孝徳帝だったのではないかという説も聞いた事があるが、即位後の孝徳帝の追い込まれた状況から考えると、革命の首謀者には思えないのである。
(ア) 天智天皇は、いかなる宿命を背負った天皇なのか
 日本初期の天智紀の冒頭に「息長足日広額(舒明)天皇の太子なり。母を天豊財重日足姫(皇極)天皇と申す」と書かれている。舒明天皇の太子であったが、父天皇の崩御後、母が皇位につき、太子ではなく中大兄は「皇太子」と書かれている。皇極四年の乙巳の変による皇極天皇の譲位で、叔父の天万豊日(孝徳)天皇が皇位についた。「位を軽皇子に譲り、中大兄を立てて皇太子としたまう」とあり、この時も皇太子のままである。孝徳帝の崩御後、再度皇位に着いたのは母の斉明(皇極)天皇だった。しかも、斉明天皇崩御後は、皇位につかず長く称制をとっている。なかなか天皇にならなかった人である。年齢的にも充分皇位につけるのだが、ずっと皇太子である。また、皇位に着いた時、皇太子に立ったのは、弟の大海人皇子である。皇位について四年後に崩御。壬申の乱がおこった。
大海人皇子の妃として、天智天皇は娘を四人も出していたのにも関わらず(大田皇女、鸕野皇女、新田部皇女、大江皇女)王権を二分しての戦いだった。他にも、御名部皇女は高市皇子妃、阿陪皇女は草壁皇子妃(元明天皇)、山辺皇女は大津皇子妃、皇女はことごとく天武天皇の家族となり、他の皇女も伊勢の斎宮となったり、独身のままだったり、亡くなったりしている。尋常な婚姻関係ではない気がする。固い絆も役に立たなかったとは。
 天智・天武の両天皇の確執は、平城京にまで引き継がれた。

(イ)ひとつの物語 
 二人の間に何があったのか。物語のような展開になってしまった。
 一つの物語として考えれば「天智天皇は斉明天皇の皇子であり、舒明天皇の実子ではなかった」と言えないだろうか。皇太子として舒明天皇が望んだのは、大海人皇子(天武天皇)の方であった。それが故の二人の確執であったと。他に出自の問題で何かあるかも知れないが、今のところ思いつかない。
 母の天豊財重日足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇( 敏達)天皇の曾孫で押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の孫であり、茅渟王の王女である。はじめは、橘豊日(用明)天皇の孫である高向王に嫁ぎ、漢皇子を生んでいる。それから、舒明天皇に嫁ぎ二男一女をもうけたと書紀に書かれ、舒明天皇の二年に皇后に立っている。何故、舒明二年なのだろう。即位元年に皇后・皇太子を立て玉座につかれるべきとは思うが。元年には他の血筋の強い方が皇后に立たれていたのだろうか。たとえば、敏達帝と推古帝の血を引く田眼皇女はどうなったのだろう。敏達天皇も広姫皇后が立后後に一年足らずで亡くなり、後の推古天皇が皇后に立っている。同じ事が、舒明帝のときも起こったのか。
 舒明天皇の十三年、天皇崩御。この時、一六歳の中大兄皇子が、「東宮開別皇子(中大兄)、年一六にして誄(しのびごと)をたてまつりたまう」とあり、弔いの言葉を述べた。大臣や有力者が申し述べる誄を皇子が述べている。中臣鎌子が蘇我氏を誅する為に近づいた皇子である。中大兄皇子には野心があった? それとも、身内としてより一歩下がって、高貴な人におくる弔いの言葉を述べたのだろうか。または、実子ではなかった? ここに至って、天智天皇には「舒明天皇の実子ではないという説がある」ことを知った。誰の説かは知らないが、やはりそうかも知れないと思った。
 母の皇極天皇が皇后に立って十一年目に、舒明天皇は崩御された。この時、大海人皇子は九歳くらいだろうか、舒明三年の生まれというから。皇太子の中大兄は、一六歳である。立后の前に高向王との間に生まれた漢皇子ではないかという説もあり、推古三四年(六二六年)生まれという天智天皇。大津遷都の翌年六六八年即位し、天智十年(六七二年)崩御である。
 次に、「称制」であるが、史記・呂后紀に「大后称制」とあるように、中国では本来『天子が幼少のとき皇太后が代わって政令を行う事を意味する』という。
 日本では天智天皇が斉明天皇崩御後に称制して七年正月に初めて即位したこと、また、天武天皇崩御後に持統天皇が「臨朝称制」し、四年正月に即位したことが知られているが、先帝が崩じた後、いまだ即位の儀が行われず執政することのようである。別の資料「家伝」には、斉明天皇崩御後には朝倉行宮にて「皇太子素服称制」とあり、「斉明一四年皇太子摂政」とある。六四五年には十九歳くらいになっていた中大兄皇子は、六六三年、白村江の戦には三十半ばを越えていたはずである。しかし、称制をとったという事は、天皇になるべき人の成長を待っていたことになる。その皇子が、大海人皇子だったのだろう。 
(ウ) 崩御後に送られる諡号に込められた業績と血統
 更に、和風諡号についても考えてみたい。諡号とは、天皇の死後に贈られた名前であるが、「天」という字が用いられるのは、欽明朝からである。そこに王朝の血筋が述べられているようである。
 漢風諡号は、奈良時代に淡海三船により、それまでの歴代天皇にふさわしい謚(おくりな)として考えられ贈られたもの。では、和風(国風)諡号はどうかと言えば、はっきりしない。大宝三年(703年)、持統天皇の火葬の前に「謚(おくりな)たてまつりて大倭根子天之広野日女尊ともうす」と、「続日本紀」に書かれているのが初出である。先帝崩御後に送葬儀礼・殯(もがり)の一環として、先帝の血筋が正しく継承されたものであること、正統性を称揚するとともに先帝に和風諡号が贈られたのである。謚が葬送儀礼に用いられたのは、欽明天皇からだとする説もあるという。欽明天皇は、父継体天皇の後に即位したとも言われている。継体天皇は、磐井の乱のときの天皇である。大和に入るのに数十年を要した事でも有名で、この天皇は、武烈帝の姉の手白香姫皇女を「礼儀を正して」迎えている。そうして、生まれたのが欽明天皇になる。幼年だったので武烈帝の血筋ではない兄の安閑・宣化天皇が先に即位したと書紀には書かれている。欽明天皇と在位が重なるのである。ちなみに安閑・宣化の両天皇の諡号には、「天」の字は用いられていない。「広国押武金日」「武小広国押盾」である。共通して「広」が使われている。
 継体天皇は皇統を継承する欽明天皇を大事にしたようで、「父の天皇はこの皇子を大変可愛がり常に傍に置かれた」のである。手白香姫によって、雄略帝・武烈帝の皇統が欽明に継承され、欽明は宣化天皇の皇女・石姫を皇后に立て、敏達天皇に皇統をつたえた。敏達が皇后に立てたのは、息長真手王の娘・広姫である。皇后広姫が立后の年に亡くなったので、次に皇后に立ったのが、蘇我氏の血筋の推古天皇だった。推古の同母弟の用明天皇も、異母弟の崇峻天皇も蘇我氏の血筋である。用眀天皇の皇子の聖徳太子が亡くなると、山背大兄(聖徳の子)と田村皇子(舒明)との間に皇位継承の争いの兆しが見えたが、蘇我氏自らが山背大兄一族を滅ぼしたことにより、皇位は再び敏達の嫡孫の舒明天皇(母は糠手皇女)に移ったのである。
 つまり、舒明天皇の皇統をより強く継承しているか否かが、天智・天武の明暗を分けたのではないだろうか。斉明天皇の皇子となると、欽明→桜井皇子→吉備姫・茅渟王→斉明→天智となり、欽明→敏達→押坂彦人大兄→舒明・斉明→天武となれば、天地の方が皇位継承の可能性が薄くなると思われる。二人に贈られた諡号を見ても、天智は欽明の血筋を主張し、天武は敏達の皇統を主張している。
より強い継承者はどちらと思っていたのだろうか、諡号の贈り手は。
欽明 天国排開広庭天皇(アメクニオシハラキヒロニワ)
敏達 渟中倉太珠敷天皇 (ヌナクラフトタマシキ)
用明 橘豊日天皇(タチバナノトヨヒ)
崇峻 泊瀬部天皇(ハツセベ)
推古 豊御食炊屋姫天皇(トヨミケカシキヤヒメ)
舒明 息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカ)
皇極 天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカラシヒタラシヒメ)
孝徳 天万豊日天皇(アメヨロズトヨヒ)
斉明 皇極に同じ
天智 天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケ)
天武 天渟中原瀛真人天皇(アメノヌナカハラオキノマヒト)
持統 高天原広野姫天皇(タカマノハラヒロノヒメ)

 欽明天皇か、持統天皇の時代のどちらかに諡号を贈る儀礼が生じたとしたら、天智・天武は当然のことながら業績や血筋を主張した諡号になっているはずである。が、決定的なものが見えて来ない。

 淡海三船が造り贈ったという漢風諡号は、どんな意味を持っているのだろう。
天智」は、「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けられたとされる。「天武」は、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から付けられたとされるらしい。二人の関係を象徴している諡号なのだ。殷の紂王とは帝辛の事で、殷の三十代皇帝である。暴虐な政治を行った事で有名である。「義を損ない、善を損なう事を紂という」そうだ。ネットに書かれていた。淡海三船は十分に理解して贈ったのである。奈良時代には、まだ七世紀の出来事が様々な形で言い伝えられていただろうし、貴族達はその出自をはっきり伝承していたであろう。漢風諡号と和風諡号から、一つの結論が見えないだろうか。
(エ) 天智天皇の王朝樹立まで
 中大兄が王朝を樹立するためには、数多くの困難と障害があった。それを乗り越えて、王朝は築かれた。その為に、何をしたのか。その事が九州とどんな関係があるのだろうか。暴君の代名詞の殷の紂王にたとえられた天智天皇。はたして、暴君だったのだろうか。
 日本書紀の中で、天智天皇の暴虐は記録されているのだろうか。
 まず、大化の改新である。孝徳帝と交流のあった中臣鎌足が中大兄に近づき親密になり、蘇我入鹿の暗殺計画を立てる。その為に、蘇我倉山田石川麻呂に近づき、謀を打ち明ける。そして、入鹿を大極殿に討つ。父親の蘇我臣蝦夷は誅殺される時、聖徳太子と編纂した天皇記、国記、珍宝などを焼く。蘇我の本家は滅亡した。中大兄は鎌足と相談して孝徳帝に即位を進め、大化と改元し、妹の間人皇女を孝徳帝の皇后に立てる。様々な改革が進む大化元年九月、古人大兄の謀反が起こる。
 古人大兄は蘇我馬子の孫で、舒明天皇の皇子である。彼は入鹿が斬られた後、家に逃げ帰り門を閉ざし、その後吉野に入って出家した。しかし、吉備笠臣垂が自首して「吉野の古人大兄の謀反」を中大兄に告白した。中大兄は佐伯部子麻呂等に命じて、古人大兄と子を斬らせた。妃妾は首をくくっている。馬子の孫の皇子一家は絶えた。
 佐伯部子麻呂は最後まで中大兄に仕え、天智五年に病気に倒れた時、長年の功績を感謝され天皇に見舞いを受けている。
 大化五年三月、蘇我臣日向が異母兄の倉山田石川麻呂を皇太子に讒言「遠からず謀反するであろう」、皇太子は信じ、孝徳帝に知らせる。天皇は使いを送り問いただすと、「直に天皇に申し述べる」との答えだったが、大臣の邸宅を軍兵が囲んだ。大臣は大倭の自分の寺に入り、三男一女と共に首をくくった。蘇我日向達は軍衆をひきいて大臣の寺を囲み、遺体を斬刑にした。連座して斬られた者は田口臣筑紫など十四人、絞刑に処せられた者九人、流刑は十五人。没収された大臣の邸宅に「皇太子のもの」と書かれた良書・重宝が残されていたことが分かり、中大兄は大臣の潔白を知る。大臣の娘で皇太子妃になっていた造姫(美濃津子娘)は嘆き悲しみ、やがて亡くなるのである。この後、蘇我日向は筑紫太宰師になっている。世の人は「これは隠流か」といったという。太宰府市の古刹、武蔵寺は、日向の創建と伝わる。彼は太宰府で活躍したのだろうか。
 大化が白雉と改元されて四年、皇太子は「倭京に戻りたい」と、間人皇后と母の皇太后を奉じて飛鳥河辺宮に移り住んだ。新築した難波長柄豊崎宮に一人残された孝徳帝は怒り、皇位を去ろうと山崎に移り住む。怒りの中に病気に倒れ、翌年、五年冬に難波宮で崩御。斉明即位後の二年、孝徳帝の子の有間皇子は狂人をよそっていたが、とうとう斉明四年、天皇が紀の湯に行幸中、中大兄の策に落ちた。十一月三日、留守官(るすのつかさ)として全権を任されていた蘇我赤兄は有間皇子に語る。「天皇(斉明)の政治に三つの過失がある。大きな倉を建てた事、長い溝を掘った事、石を積んで岡にした事」と。皇子は喜び、赤兄の家で謀をめぐらしたが、その夜中に赤兄は皇子の家を囲ませ、駅馬を天皇の許へ走らせ、謀反を奏上した。十一月九日、皇子と、坂合部連薬、守君大石、塩屋連鯯魚(このしろ)は捕らえられ、紀湯に護送された。皇太子は問う。「何故、謀反する?」一九才の有馬皇子は、「天(あめ)と赤兄とが知っている。私は全く知らない」と答えるが、十一日には藤白坂で絞刑に処される。万葉集に護送中の皇子の和歌が残されている。「家なれば けに盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」「岩代の 浜松が枝を引き結び 真幸くあればまたかえり見む」斉明帝について紀湯にいた中皇命(間人皇后)は、「君が世も 我が世も知るや 岩代の 岡の草根をいざ結びてな」と詠んだ。間人皇后(中皇命)は、義理の息子の運命を見つめた。事件にかかわった者のうち塩屋連鯯魚と舎人の新田部連米麻呂は、斬刑。坂井部連薬と守君大石は、流罪となった。しかし、坂井部連薬は壬申の乱で近江方の将として戦死、守君大石は白村江の戦の時には百済救援軍の将軍となり、天智四年には唐に派遣されているのである。流罪の二人は、密かに中大兄の指示を受けて有間皇子を陥れる片棒を担いだのだ。皇太子の全幅の信頼を得ていた蘇我赤兄は、天智の下で左大臣の位まで上り詰め、壬申の乱では大友皇子に忠誠を誓っている。
 次は白村江の戦であるが、百済は六六〇年にすでに滅びている。畿内の人々は百済救援に出発する前から、「夜中に理由もなく船の舳先の向きが反転していた」と、敗れる事を予想していた。女帝はその事を承知して出かけたのだろうか。書紀の斉明七年正月六日、「御舟は征西して初めて海路に着いた」と書かれ、熱田津を経て、三月一日に娜大津に至る。救援軍ではなく征西とは、如何なる意味だろう。九州を平定に行く意味なのか。中世の後醍醐天皇の皇子の懐良親王は、九州へ征西大将軍として遣わされた。「征西」とは、同じ意味で使われたのだろうか。一行は娜県の磐瀬行宮に入り、娜津を長津と改めた。五月、朝倉の橘広庭宮に入り、七月、斉明天皇は朝倉にて崩御。皇太子は、長津宮で素服して称制。十月、棺は帰途に着く。十一月、飛鳥川原にて斉明天皇の殯。
 征西の途中、伊予の熱田津で「熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」万葉の額田王のこの歌の後に、「御舟西つかたに征き、始めて海路に就く」とある。同じ文面である。書紀をなぞっている。同じ意図のもとに編纂されたのである。
 これまでの皇太子中大兄は、紂王と言えるのだろうか。
 斉明紀までの天智天皇の記述から浮かび上がるのは、圧倒的な政治力である。蘇我入鹿に始まり、異母兄の古人大兄、皇太子妃の父・蘇我倉山田石川麻呂、叔父の孝徳帝、有馬皇子と、身近な人々を眼前から払い落したかに見える。しかも、皇太子の命令に従った人物に対しては、その最後まで手厚く扱っている。義理がたい人だ。記述が見当たらないのは、蘇我日向である。異母兄の蘇我倉山田石川麻呂が無実であった為、太宰府から召還するのが難しかったのだろうか。それにしても、である。蘇我日向臣が太宰府に居たのなら、そこは役所があったであろう。彼が初代大宰帥だそうである。役所はあっても、宮はなかった。神功皇后と同じように、斉明帝も太宰府に立ち寄らなかった。朝倉の橘広庭に入っている。皇太子が素服称制した宮は、長津宮である。政務をとるにも筑紫大宰府の役所は使わなかった。大宰府政庁が白村江以後に建造されたのなら、六四九年時点で大宰帥蘇我日向は何処に居たのか。六五四年(白雉五年)孝徳帝の病気平癒を祈願し建立したという伝承の般若寺も、大宰府市朱雀にある。奈良県にも般若寺があり、どちらも同じ伝承がある。また、どちらも奈良時代の瓦が出土したそうである。日向臣は何時まで太宰府にいたのか。白村江戦後、唐の使者・郭務悰が居た都督府は何処にあったのか。疑問は次々に湧いてくる。疑問符を持ちながら、天智紀を見てみよう。
まず、近畿の斉明帝一行の目的は、征西だったのだろうか。派遣された将軍は、誰の命令を受けていたのだろうか。
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# by tizudesiru | 2011-09-10 15:23 | 21七世紀の政変と天智天皇 | Comments(1)

22 天智天皇の十年間

22 「書紀」に書かれた天智天皇の十年間
 日本書紀の天智紀の十年を見ようと思うが、遣唐使や、諸外国の遣使等は省いた。大まかな流れを抜粋している。気になるのは、記事の正確さである。「旧唐書」や「三国史記」には、白村江戦は六六二年(天智元年)と書かれているが、書紀では六六三年(天智二年)である。また、天智紀であるが、解説書を読むと重出事項が多いようである。複数の資料をもとに書かれているためであるらしい。伊岐(壱岐)連博徳の文を掲載しているし、高麗の僧道顕の「日本世紀」も取れ入れている。(六六〇年、壱岐連博徳は唐に軟禁中に、滅ぼされた百済の王室・重臣たちが洛陽に送られて来たのを目撃したようである。白村江戦後は外交官を務めたのか、唐の使者を送ったりしている。天智天皇と大友皇子に仕えたらしく、壬申の乱では流罪になり、その後は天武に仕え、書紀編纂に尽力したようである)他にも資料があるようで、内容が交錯したのだろうか。
*斉明七年八月の救援軍の将軍
前将 大花下安曇比羅夫連、小花下河辺百枝臣
後将 大花下阿部引田比羅夫臣、 大山上物部連熊、大山上守君大石
 ただし、この将軍達の派遣はなかったようだと専門家は考えているそうだ。七月二四日に斉明天皇崩御、皇太子素服称制で「次第に海外の軍政に着手した」頃である。
 書紀には「或本に、別に、大山下狭井連檳樃、小山下秦造田来津(朴市田来津)を派遣した」と付け加えられている。
 
*天智元年五月
 大将軍 大錦中安曇比羅夫連等が、軍船百七十艘で百済王子・豊璋(扶余豊)を百済に送る。

 *天智二年三月の救援軍の将軍(この将軍たちには冠位が書かれていない)
 前将 上毛野君稚子、間人連大蓋
 中将 巨勢神前臣訳語、三輪君根麻呂
 後将 阿倍引田臣比羅夫、大宅臣鎌柄

 百済の地を踏んだ将軍は誰なのだろう。狭井連と田来津は、当地で軍議に参加しているし、毛野君稚子も攻撃に参加している。
 八月、百済王子・豊璋が讒言を聞き入れ良将鬼室福信を斬ったことを知り、新羅軍はただちに攻撃しようと城を囲む。百済軍は、日本の救将廬原君臣を白村江に待とうとした。しかし、白村江には、大唐の将軍が軍船百七十艘を率いて構えていた。八月二七日・二八日、百済救援軍は白村江戦に敗れ、王子豊璋は高麗へ逃げた。前述のように、「旧唐書」や「三国史記」には、白村江戦は六六二年(天智元年)となっているが、書紀では天智二年である。この戦は悲惨で、朴市田来津の戦死も悲壮である。豊璋を送った安曇比羅夫も戦死したようだ。長野県安曇野市の穂高神社(式内社)には、白村江戦で戦死した安曇比羅夫を若宮として祀り、九月二七日に御舟神事を行っている。これは、気になる情報である。福岡県久留米市の風浪神社の伝承と比較すれば、神功皇后伝説に新たな視点が生まれて来る。神功皇后が斉明女帝と重なってくる。これは後に回そう。
 天智三年二月、大皇弟(大海人皇子)に命じて、冠位の階名を増し定め換える。百済亡命貴族らを受け入れる為であろうと、注釈がある。
 白村江戦後処理の為か、「五月一七日、百済の鎮将(占領司令官)劉仁願は、唐の武官・朝散大夫郭務悰を遣わして、表函と献上品を進上した」郭務悰の入国の目的は、書かれていない。表函とは、上表文の入っている函である。冬十月一日になって、郭務悰等を遣わす勅があった。郭務悰に中臣鎌足より賜物があり、四日に一行は帰国している。彼は畿内に入らず、筑紫に留まったままだった。天智帝が、大唐の武官郭務悰を畿内に入れなかった理由は何だろうか。畿内には天皇が不在だからだろうか、皇太子称制の時である。筑紫で郭務悰は何をしていたのだろう。彼は十二月十二日に帰国している。
 『海外国記』(善隣国宝記)によると、唐に「郭務悰を遣わす勅」とはせず、筑紫大宰の言葉として伝達したそうである。この「善隣国宝記」は、一五世紀前半、京都五山の僧だった周鳳が、日本・中国・朝鮮との関係を内外の文書から集めた外交史書である。この時、「海外国記」に見える郭務悰に授けた劉仁願への牒書には「日本鎮西筑紫大将軍牒 在百済国 大唐行軍摠管」と書かれていたそうだ。郭務悰は百済都督府(占領政府)からの使者である。白村江敗戦の責任を、唐が問わないはずはない。しかし、郭務悰を畿内に入れなかったという事は、責任を逃れか、筑紫のみに責任を押し付けたか、であろう。
 この年、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽火を置き、筑紫に水城(大堤)を築く。
 天智四年八月、長門に一城、筑紫に大野・椽の二城を築かせる。築いたのは、百済の亡命貴族や天智朝の兵法指南をした百済人である。この年二月、孝徳帝の皇后だった間人大后が薨去。
 同じ年九月二十三日、唐国が、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高や、右戎衛郎将上柱国百済禰軍朝散大夫柱国郭務悰を遣わした(七月二十八日に対馬に着き、九月二十日に筑紫に着き、二十二日に表函を進上した。全部で二百五十四人である)。郭務悰は、唐からの使者である。此処でも、国書を筑紫で進上している。十月十一日、菟道(宇治)で大がかりな閲兵を行った。(宇治に招待されたのか)十二月十四日に劉徳高らに賜物があり、この月に彼らは帰国した。「この年に、小錦守君大石・小山坂井部連石積・大乙吉士岐弥・吉士針間が唐国に遣わされる。唐の使者を送ったのであろうか」と、書紀は書く。守君大石の小錦という位は、送使としては高いそうである。彼らの遣唐使としての目的を書紀の編纂者は知らなかったのか。この時、朝廷から勅はなかったのか。唐国からの客が、筑紫から畿内にまで来たにも関わらず、である。
 天智五年、高麗からの朝貢が続くが、六月には唐が高句麗征討を始める。耽羅の朝貢もあるが、どちらも畿内に入ったのだろうか。他国からの朝貢が、他の年にもたびたびある。
 天智六年二月、斉明帝と間人大后の合葬の記事。前天皇の葬儀・陵墓造営を取り仕切ったという事は、次の即位への道を仕上げた事になろう。三月、近江に遷都。孝徳帝を難波に置き去りにしてまで帰った倭京ではなく、新しい土地を都とした。ここは、天智帝の理想の土地だったのだろうか。
 この年、二年前に劉徳高を送ったらしい遣唐使が帰国し、筑紫に到着する。十一月九日に「百済鎮将劉仁願が、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下境部連石積らを筑紫都督府に送った」と、書かれている。守君大石は帰って来なかった。唐で死亡したのだろうか。
 境部連石積が送られた「筑紫都督府」は、この文のみに出て来る。都督府とは、敗戦国に置く占領政府の事である。太宰府を唐が一時「占領」してこの官を置いたとする説もある。気になる文である。この月の十三日、司馬法聡らは帰国する。一週間も筑紫に留まらず帰っている。石積を送れば、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡の用は済んだのだろうか。彼らを送ったのは、小山下伊吉連博徳らである。博徳には小山下と官位が付いている。白村江戦後に、天智帝に仕え役人となっている。その後は、天武帝にも仕えて賞与を得ている。境部連石積も天智朝で仕事をしているから、この時は留学後の帰国だったのだ。
天智七年正月、天智天皇即位。皇后は、倭姫王。舒明帝の皇子である古人大兄の娘だが、詳しい記録は無く、万葉集に歌が残されている。ここには、天智紀の后妃子女が記されているが、四人の嬪と四人の宮人である。天皇の配偶者の中で皇族・朝廷貴族の出身者は三位以上を夫人、四位・五位を嬪と称している。天智帝の配偶者に夫人はいない事になる。しかし、天武帝は妃は四人、夫人が三人である。天智帝の方が低く扱われているようだ。
 壬申の乱に敗死する大友皇子は、宮人・伊賀采女宅子娘が生んだ皇子であり、志紀皇子も宮人・越道君伊羅都売が生んでいる。志紀皇子は、後の光仁天皇の父である。ちなみに、漢風諡号に「光」の字が用いられるのは、出自が庶子の天皇という。
 天智七年七月には、舎人等に命じてあちこちで宴を催しているが、時の人は「天皇の世が終わろうとしているのだろうか」と言ったと書かれている。即位の年に、時の人は何を言いたいのだろうか。
 天智八年正月、蘇我赤兄臣を筑紫率に任じた。赤兄は、天智帝の重臣である。目的なしには筑紫率とはならないはずである。それも、天智の即位後である。天皇の勅を持って何をしたか、書かれてはいない。彼は天皇の命令を持って、大野城と椽城の山頂から事代主・武??槌・天御中主を、王城神社と筑紫神社に降ろした。天皇でなければ、神を移すなど出来ない仕事である。何のために? 筑紫の王都を守る神を排除する事は、天智政権の為には重要だった。(後世、『天武帝は筑紫神社を起点に使って、筑前・筑後・肥前の国境を定めた』(講演会で田中氏)。こうして、筑紫王都は破壊されていったのではないか。
 冬十月十日、天皇は鎌足内大臣の病気を見舞う。十六日、内大臣薨去。十九日、天皇は内大臣の家に行幸、大錦上蘇我赤兄に恩詔を奉宣させ、金の香鑢を下賜された。(赤兄臣は緊急事態で急ぎ召還されたか。または、目的を達したので帰ったのか)藤原鎌足内大臣の死は、天智朝にとって大きな痛手だったらしく、「日本世紀」の文を引用して表現している。「強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ」
 十二月大蔵火災。この冬に高安城を修理し、畿内の田税をおさめた。斑鳩寺火災。この年、大唐が郭務悰ら二千人を派遣(十年十一月の派遣の重出か)
 天智九年二月「甲午年籍」を作る。日本最初の全国的な戸籍で、特に氏姓の基本台帳とされ、永久保存が大宝令に定められた。本籍地を離れる事を禁じたのである。戸籍がなければ、税も集められない。やっと戸籍が出来たのである。近隣の国にはすでにあったのに……
 高安城修理、モミと塩を積む。長門城一・筑紫城二を築く(重出か)。鎌足臣の死後、高安城を充実させたのは、内乱への天智帝の不安だろうか。四月に法隆寺が一屋も残さず焼ける。法隆寺の火災は、王朝倒壊の兆しとして記述されたのだろう。
 天智十年正月、大錦上蘇我赤兄臣らが、賀正の礼を述べ、中臣金連が神事(天皇の長寿を祝う言葉・後の『中臣寿詞』これに続いて即位の儀がある)を述べた。大友皇子が太政大臣となり、蘇我赤兄臣が左大臣になり、中臣金連が右大臣となる。次の日、官位・法度の施行・大赦と続く大きなイベントがあった。この月、多数の亡命百済人に叙爵がある。その中の文化人数名は大友皇子の賓客となる。学者として次期天皇を支えられるように、基盤を作り始めたのである。天智帝は、人材を政権に取り込む才能があったようだ。此処に、天智帝の望みは半ば達せられた。後は、大友皇子の即位と、東宮大皇弟大海人皇子の排斥である。しかし、天智帝自身の死も近づいていた。
 九月、天智帝は病に伏し、十月十七日には重くなってしまう。勅して東宮を呼びだし後事を頼むが、東宮は出家して吉野に入るのである。
 十一月十日、対馬から筑紫大宰に連絡が入る。「唐国から沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝娑婆・布師首磐の四人が来て、『唐国使者郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、船四十七隻で比知島まで来た。我らは人数も船も多いので、突然入港すれば防人が驚いて矢を射かけるだろう』と相談があったので、あらかじめ来朝の意図を知らせるよう申しました」二千人の来朝とは尋常ではない。しかし、近江朝もそれどころではなかった。大友皇子を囲んで内裏の西殿で誓盟の儀式をしていたのである。大友皇子は香鑢を手にして誓いの言葉を言う。「六人心を同じくして天皇の詔に従おう。もし背くことがあれば必ず天罰を受けるだろう」赤兄は泣いて誓う。「臣等五人、殿下に随い、天皇の詔に従います」次の日、大津宮火災。五日後、六人はまた天皇の前で誓約をする。
 十二月三日、天皇が近江宮に崩御。新宮で殯をする。
 翌年・天武元年三月一八日、内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わし、郭務悰らに天皇の喪を告げた。郭務悰等はみな喪服を着て、三度挙哀(みね)の礼を奉り、東に向かって深く首を垂れた。二一日、郭務悰らは再拝して書函と進物を献上した。「善隣国宝記」によると、書函の上書に「大唐皇帝 敬問倭王 書」と書かれていたという。唐国は「日本」国王に国書を奉ったのではなく、倭王に奉ったのである。倭王宛の国書が筑紫で進呈されたとしたら、倭王は何処に居たのか。もし、天智帝に出したのなら、その死を承知しているので矛盾する。崩御した天皇には国書等を進呈せずに、弔辞とか仏事に関する物になると思う。次の天皇は決まっていないのだから。
 五月、甲・冑・弓矢・あしぎぬ・布・綿が郭務悰に下され、三十日に彼らは帰国した。前年の十一月から五月までの半年間、郭務悰は筑紫でどんな事をしていたのか。やはり、占領政府の仕事をしていたのだろうか。畿内の出先・筑紫大宰ではない。筑紫大宰は郭務悰に連絡をしたり、勅を出したり、それなりの仕事をしている。郭務悰関係者が常駐したところは、別であろう。書紀に言うように、二千人規模の軍人達が入国していたら、衣食住の問題は大きいはずである。受け入れる組織無くして、何処にでも駐留できない。畿内の王権が、何のお世話もしなかったとは思えないが。

 斉明帝崩御後、天智帝は上記のようにして即位への道を作りあげ、玉座につき、天命により崩御
 天智帝は冷静で賢く、重臣の心を深く捉えた人だった。鎌足にしても、彼は初め孝徳帝と仲が良かったが、だんだん中大兄に引かれて行ったのではなかろうか。そして、孝徳帝を離れ排除し、中大兄を支え続けた。
「大化改新」で租税のもとになる公地公民・班田収受等の改革を行い、元号(大化・白雉)を持っている孝徳帝は、まさに天子となった人である。また、「万葉集」巻一は、雄略天皇御製歌に始まるが、次は舒明天皇である。三番目は舒明帝の皇女・中皇命(間人皇女)が間人連老に献じさせた歌となる。斉明天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇のそれぞれの代の歌は残されているが孝徳天皇の歌 はない。書紀に残された歌はあるが、万葉集では意識的に外されている。万葉集は明らかに、雄略帝の血統・舒明帝の血筋・天智帝天武帝の皇統を歌いあげているのだろう。(たとえ筑紫に王朝があったとしても、九州に関する歌は入れられないはずである)
 天子となった(?)孝徳帝から、何故か中大兄に乗り換えた鎌足。内大臣となり最期を迎える時、「生きては軍国に務め無し」と軍事に責任を果たさなかったのに、死んでまでどうしてわずらわす事が出来ましょうかと、薄葬を願っている。では、鎌足は何をして天智帝に仕えたのか。それは、中臣氏の仕事・神事・神祀りの仕事であろう。天神地祇を祀り、風人・水神を祭るのは天皇の大事な仕事である。占いのような神事もあるだろう。中臣祝詞として出来上がっていく言霊の世界を、鎌足は極めていたのだろう。書紀の天智紀には、神事の記録が少ない。天武紀・持統紀には、毎年四月・七月に広瀬大忌神と竜田の風神を祭っている記録がある。(この神祀りが行われないのは、持統天皇の称制の時である)他に壬申の乱の時、伊勢の天照大神が天武帝に味方したというので、大伯皇女を斎宮に立てたりしている。
 天智朝では、天皇の側近として内大臣が天皇に代わって神事を行っていたのだ。鎌足の死後「内大臣」の位は、長く任命がない。鎌足の仕事は大きかったはずである。その存在の大きさは、鎌足の病気を天皇自ら見舞ったり、東宮を遣わし大職冠や大臣の位を授けたり、「藤原」の氏名を与えたりしている事でも分かる。壬申の乱後、蘇我赤兄は流罪であるが、鎌足の子・中臣金は斬られた。天智への貢献度は赤兄の方が大きいと思うが、刑は金の方が重かった。それは、彼が神事を取り扱っていたからである。国家の守りの神事・豊作祈願神事は、神官の大きな仕事だったはずである。祀られる神も氏族により異なっていたので、戦争に負け氏族・滅びた集団に祭られた神は、他の氏族からは祟り神として恐れられたであろう。祟りを祓い清めるのもまた神だったであろう。神祀りは、古代の首長者の重要な役目だったはずである。どの神を祀りどの神を祓い清めるか、大事な判断であろうし、その判断も神に任せたのだろう。
 天智帝は、来朝した唐の船を利用して「遣唐使}を送り出しているが、白村江戦後すぐから亡命百済人を積極的に取り込んで、海外の文化、政治組織や政策を学んだ。百済の多くの学者・技術者に、冠位を増して与えている。筑紫は敗戦の混乱で亡命した人々を受け入れるゆとりはなかった。しかし、天智帝は敗戦の責任を筑紫に任せた。「大王の遠の朝廷としらぬい筑紫」が、唐新羅連合軍とたたかった倭国だったのだろうか。
この時、天智帝の時代、「倭国」はまだ存在していた。
 「旧唐書」によると、唐の高宗は麟徳元年(六六四年)七月に『三年正月を期して泰山に封禅の儀を挙げる旨を天下に知らせた。「諸王は二年(六六五年)十月に洛陽へ集まり、諸州刺史は同十二月に泰山に集まる事」を命じた。また、「同二年(六六五年)八月以後、百済の劉仁軌も新羅・百済・耽羅・倭人ら四国の使を領して西還し、泰山に赴いた」と、旧唐書の外臣部にある。また、同じ旧唐書の帝王部には「十月に洛陽を発った高宗に従駕した諸蕃酋長の中に、東南アジア諸国と並べて倭国をあげている」と、岩波文庫「日本書紀」の補注にある。六六四年には、倭国が存在し、倭王が居たのである。彼は高宗に従い泰山に行き、当然六六六年正月の封禅の儀に参列した。または、代表が参列した。
封禅の儀とは、「帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式」だそうである。泰山の頂に壇を作り天に感謝する儀式を「封」と言い、泰山の下にある小山の地を平にして地を祭り感謝する儀式を「禅」という。泰山は中国道教の聖地である。秦の始皇帝も、此処で封禅の儀を行っている。唐の高宗も、周到な準備をして取り組んだ儀式である。参列した倭王は誰で、何処の人だろう。
 六六五年は、天智四年である。書紀によれば、この年、小錦守君大石らが唐に使わされた年である。十二月に唐の劉徳高が帰国したのについて、送使として大石らが遣わされたのではないかと書紀にある。十二月の船出なら、大石らは泰山の封禅の儀には間に合わない。早めに発って劉徳高とは別に唐に遣わされたのなら、倭国王の代わりに参列したとも考えられる。それにしても、「参列要請」は、前年に受けているはずである。参列を予定していれば、劉徳高の出入国とは関係なく出かけなければならない。それとも代理参加の守君大石とは関係なく、倭国王は別にいたのだろうか。唐で死亡したのか守君大石は帰らず、二年後、境部連石積らに送史がついて、筑紫都督府に送られたのは気になるところである。境部連石積は封禅の儀に参列した後、唐で学問をしていたのだろうか。彼らが倭国の代表であれば、倭国範囲は全国に広がっていたことになる。すると、「旧唐書」の「倭国伝」と「日本伝」はどうなるのだろう。何故、二つの国名が同じ歴史書に残されているのか。それは、その頃、日本列島に二つの国があったとしか言いようがない。
 それにしても、もし、天智帝が倭国王として、守君大石を封禅の儀に参列させたのなら、それは日本(やまと)の王として、倭国を併合した証拠になるのだろうか。
 「旧唐書」によると、唐の時代にあった二つの国が、それが一つの日本に併合。それがどのようにして「日本」になったのか、歴史に痕跡がほとんどない。曖昧な中に国名の変更が起こってしまっている。郭務悰が進上した函の上表文には、「倭王」とあったのだ。日本王ではない。しかも、日本書紀では、古事記の倭(やまと)が日本(やまと)と変わる。「倭(わ)」は消えている。消したのではなく、はじめから書かれなかった。倭国(わこく)は別にあったから、書紀には書けなかった。倭国を併合したのは、天智天皇である。だからこそ、彼は、即位出来た。当時の有力者の誰も異論を唱える事は出来なかったのだ。と、いえるのではないか。
 白村江敗戦後、天智帝は称制の六年間と即位後の四年間で、神祀りを整え、亡命百済人を受けいれ近代化を図り、筑紫大宰を造りあげ、倭国を大和に併合し、近江令を作り始め、中臣祝詞を使い即位の儀の形式も作り上げ、国の体裁を整えた。舒明帝の嫡子でなくても、即位を主張できる体制を作り上げた。大海人皇子も皇太子に甘んじざるを得なかったのだ。
 天智紀を読むと、ひとまずこのような結論になってしまった。
 このような天智天皇が、何故に太宰府の王城としての姿を破壊し、何故に大城山や基山から神々を下ろし、新しい大宰府を築いたのか。筑紫を否定する事は、何を意味したのか、まだ漠然としている。三国史記「新羅本紀」に書かれた「六七〇年、倭国が国号を日本とかえる」は、天智帝の大きな決断だったのか、勝利の宣言だったのか。

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# by tizudesiru | 2011-09-09 23:09 | 22天智天皇の十年間 | Comments(0)

23 「日本書紀」の中の日本

23 日本書紀の中の日本 日本書紀には「倭王」という語は出て来ない。倭(やまと)は、日本列島を指すのではなく、大和地方のみを指している。これだけの事でも、郭務悰が進上した上表文に書かれた倭王は、畿内の大王ではないと言えないか。倭は何処なのか、改めて確かめたくなる。
 それにしてもなぜ、数年の間に古事記(七一二年)と日本書紀(七二〇年)と二つの歴史書が書かれたのだろう。古事記が不十分だったなら、それに筆を加えればいい。書き直しは出来るはずだ。書紀には古事記が作成されたという記録がない。国家的な仕事をしているのに、である。持統天皇の吉野宮行き(三十一回)は、書紀にかなり繰り返し書かれている。しかし、更に重要であろう「古事記」作成の事が書かれていない。不思議である。秘密裡に作成されたのだろうか。記述の詳しさの違いだけでない、大きな違いがあるようだ。古事記に一度も出て来ない「日本」という文字が、書紀にはかなり出て来る。古事記から日本紀に至る数年間に何があったのだろう。古事記偽書説は、ひとまず横に置いておく。

 まず「日本書紀」の中の日本について見てみよう。
 先の項目で取り上げた「大倭」であるが、書紀では、天皇の諡号にある「大倭」「倭」が「大日本」「日本」と変えられている。この事は、書紀編纂者が、古事記のことを熟知していた事に他ならない。目的があって、古事記に触れなかったのである。または、書紀編纂者は古事記を熟知していたとなろう。
 和風諡号の神倭伊波禮比古命が、神日本磐余彦天皇(一代神武天皇)である。「倭」が「日本」に変えられた理由はなんだろう。四代懿徳天皇は、大日本彦耜友天皇。六代孝安天皇は、日本足彦国押人天皇。七代孝麗天皇は、大日本根子彦太瓊天皇。八代孝元天皇は、大日本根子彦国牽天皇。九代開化天皇は、稚日本根子彦大日日天皇となる。他に日本の字を持つ天皇、二十二代清寧天皇は、白髪武広国押稚日本根子天皇となっている。書紀と古事記では、使われた漢字に大きな違いが出ている。その中で大倭も日本も「やまと」とは読めない。文字が入れ替わっただけでない。意味を背負っている文字に代わっているのだ。日子を彦に変えているのは、音が同じなので分かる。しかし、大倭が日本になるのは不自然な気分が残る。どんな歴史的な意味付けがあるのか。日本は古の倭国の延長にあるという表現だろうか。
 諡号とは、天皇が亡くなった時、その人にふさわしい名を贈るおくり名である。細心の注意を払って作られたと思う。正史編纂に取り掛かった天武天皇や持統天皇には、諡号に「天」が使われている。欽明天皇から「天」が天皇の諡号に使われ出している。二十九代欽明天皇は、天国排開広庭天皇となる。四十一代持統天皇は、高天原広野姫天皇である。高天原の天照大神を意識した諡号であろう。いろいろな方が指摘されているし、古事記にも天照大神の居られる所として高天原が書かれている。持統天皇こそ天照大神の末裔と主張しているのだ。
では、日本書紀の「日本」は、どんな時どんな意味に使われているのだろうか。索引を使って調べてみた。
『大日本』巻一神代「すなわち大日本豊秋津洲を生む」と出るのが最初である。巻一に四回「大日本豊秋津洲」が出て来る。後は、天皇の和風諡号として、巻四に一五回ほど出ている。また、『日本童男・日本武・日本武尊・日本武皇子』などの同一人物の名前として二〇回ほど、『日本足彦国押人』と名前で二回ほど出て来る。
 『日本大国魂神』と巻五の崇神天皇に一回出て来る。「また、日本大国魂神を渟名城入姫命に託して祭らせた。しかし渟名城入姫命は髪が抜け落ち身体が痩せ細って祀る事が出来なかった」とある。この文の前には「天照大神・倭大国魂の二神を同じように天皇の御殿のうちにお祭りしたが……二神とも住むことに不安があったので、天照大神を豊鍬入媛命に託して、倭の笠縫邑に祭り、堅固な神域(ひもろき)を立てた」と出ている。崇神天皇の巻の「日本大国魂」と「倭大国魂」の神は、別の神であろうか。同一神の扱いを受けているようだ。書き分けが分りにくかった。同じ巻に、「日本大国魂」「倭大国魂」と並行して使われているので、同じ神とは思えないのだが。
 『神日本』巻二・巻三に「神日本磐余彦尊」「神日本磐余彦火火出見尊」という和風諡号として五回、後は祖先の名として巻一七と巻二八に一回ずつ。
 『日本国』巻一に大三輪の神が「日本国の三諸山に住みたいと思う」と言った。巻三に饒速日命が「そらみつ日本の国と言った」巻六に「日本国に聖王がおいでになると」と二回。巻九・神功皇后に「新羅王が常に八十艘の貢物を日本国に奉るのであるが」新羅王が「日本国に坐します神の……」巻十・応神天皇に「上表文に、高麗王が日本国に教えるとあった」
 『日本』巻九「東方に神国があって、日本といい」同じく巻九「百済王は、東方に日本という大国があると聞いて」巻一四では、雄略天皇に妻を取られた田狭臣が「百済を踏まえて日本に通じてはならない」と我が子に言った。「百済王は、日本の諸将、小事が原因で不仲になったと聞き」同じく巻一四に「采女大海は小弓宿禰の喪に服するため日本に帰って来た」巻一六・武烈「日本には必ず君主がおられます」など二回。
 巻一七・継体天皇「百済本記に…日本からやって来たと」継体天皇の言葉に「日本は平和であり」「任那の日本の県邑に住む百済の人民で」「この四県は百済に近く日本から遠く」「のろし台、軍用倉庫を置いて、日本の攻撃に備えた」「加羅は新羅と友好を結び、日本に恨みを抱くことになった」「日本人と任那人との間にさかんに子どもが生まれ」継体二八年天皇の崩御を継体二五年とした理由を、百済本記により変えたと書かれている。「また聞くところでは、日本の天皇と太子・皇子は共に薨去されたという」
このように、巻九、巻一六、巻一七では、日本(やまと)を国号として扱っている。特に、外国から見た時の我が国を「やまと(日本)」と総称しているようである。決して畿内の一地方の事ではない。七二〇年前に何らかの国外の資料があり、それを元に国司を編纂したのだろうか。
 日本という名称が最も多く使われているのは、巻一九の欽明天皇の巻である。「日本の天皇の詔は、任那を復権せよと」「永く父兄として日本にお仕えしよう」「また日本の卿たちは長らく任那の国に住んで」「弥麻沙らは、日本から帰り」「使者を日本にむけて……日本に行かせ」「日本の官人に混じって」「日本から帰還した」など、この後も日本は七,八回ほど延々と続く。欽明天皇は継体天皇と手白香姫皇女の皇子であり、継体天皇は筑紫の磐井を倒した天皇である。継体紀の中には「日本の天皇と太子・皇子は共に薨去」という事件も含まれる。継体の代に、大きな事件があったのだ。
推古天皇の巻二十二「高麗国の大興王、日本国の天皇の仏像を造りたまふと聞きて」「日本国に聖人がおり、上宮豊聡耳皇子と申し上げる……玄聖の徳を以ちて日本国にお生まれになられた」「我が王は日本の天皇が賢哲であられると聞いて」
孝徳天皇の巻「明神御宇日本天皇のお言葉があり……」と二回出て来る。「我が日本国の誉田(応神)天皇の御世に」とある。
天智天皇の巻二十七に「また高麗救援に向かった日本の将軍たちが」「高麗は日本に救援を乞うてきたので、将軍を遣わし」「日本の船軍の最初に到着した者と、大唐の船軍とが交戦した。日本は負けて引いた」「日本の諸々の将軍と百済王とは」「混乱している日本の中軍の兵士を率いて」「日本の将軍たちに会って、事を行うよい時機についての相談」「二十四日に日本の船軍と……翌日に出航して初めて日本へ向かった」以上のように、白村江の戦いのとき「日本」がやたら出て来る。敗戦後、百済の人々が渡って来た国が日本である。
 この後に「日本」がでてくるのは、持統天皇の三十巻である。
 「新羅が奏上しては、我が国は、日本の遥か昔の皇祖の御世から……」を二回、これで「日本」という言葉は終わっている。持統紀で日本書紀が終わる。
『日本府』欽明記では、「日本府(やまとのみこともち)」が、二〇回以上出て来る。初出は雄略天皇の「伏して日本府の行軍元帥たちに救援をお頼みします」で、一回のみ。ほとんどは欽明天皇の巻一九に出ている。これは、日本の将軍たちの軍府であったらしいが、後に常設的な政治機関となったらしいと日本書紀の注釈にあった。
『大日本国』巻二七の天智天皇に、百済王が語る言葉に「大日本国の救将庵原君臣…」と出て来る。この大日本は、百済王の外交辞令であろうか。
 日本書紀の作者たちは、明らかに「日本」を国名・外交用語として使っているのである。
しかし、「日本」と並行して、天皇の名前としてだけでなく、「大倭・倭・大和」も使われている。日本と倭とを書き分けた理由があると思うが、「倭」についても書紀を調べてみた。
 人名ではなく地名として「大倭」が頻繁に使われるのは、雄略天皇の辺りからであるが、「倭」としてなら、神武天皇から使われている。
神武紀「倭国の磯城邑に磯城八十梟帥(しきのやそたける)」*梟帥は強い指揮官の意味
安寧紀「父の天皇を倭の桃花鳥田丘上陵に葬る」
崇神紀「倭の笠縫邑にまつり、磯堅城のひもろぎを」
垂仁紀「倭の狭城池と迹見池(とみのいけ)」
景行紀・日本武「倭は国のまほろば、たたなづく青垣山こもれる倭しうるわし」「海路より倭に向い、吉備について」「白鳥になって倭国を指して飛ばれた」「東より帰り伊勢に…伊勢より倭にかえって」
成務紀「大足彦天皇を倭国の山辺道上の陵に葬る」
仲哀紀「天皇を倭国の狭城盾列陵に葬り祀る」「船頭の倭国の菟田の人伊賀彦を祝として」
仁徳紀「倭の屯田と屯倉を掌握しようと」「倭直の祖、麻呂をたずねて」「山背をまわって倭に向かわれた」「秋津島倭の国に雁が子を産むと聞いた事があるか」「秋津島倭の国で雁が子を産むと聞いた事がない」
履中紀「すぐさま大坂より倭に急行し、飛鳥山に着くと」「その日に倭へ向かい、夜中に石上に到着し」
允恭紀「倭の春日について」「弟姫を倭直吾子籠の家に留め」
雄略紀「倭の采女日媛に酒を献じてお迎えさせた」「秋蛉島倭・倭国を秋蛉島という」「倭のヲムラの峰に鹿や猪が伏して」「倭国の吾トの広津邑に職人を住まわせ」
顕宗紀「倭はさやさやと音を立てている茅原である」
武烈紀「琨支が倭に参向した時に筑紫島に到着して」
欽明紀「倭の国の添上郡の山林に住まわせた」「倭国の今来郡が」「安羅にいる倭の諸臣ら任那諸国の旱岐らが」「蘇我大臣稲目宿禰らと倭国の高市郡に遣わして」
推古紀「この年の冬に倭国に高市池、藤原池、肩岡池」
皇極紀「倭国が、言いました。『近頃菟田郡の人押坂直が一人の子供を連れて』」
孝徳紀「さて、倭国の六県に遣わされる使者は戸籍を作り」「次に、倭国で他人に刀を盗まれた」「涯田臣の過失は倭国にあって官の刀を盗まれた」「茅渟道から逃げて、倭国の境に向かった」「鼠が倭都に向かって移動した」「鼠が、倭都に向ったのは」
天智紀「この月に倭国の高安城」「古人大兄皇子の娘、倭姫王を立てて皇后とする」「病と称して倭の家に退出した」
天武紀「伊勢の大山を越えて倭へ向かわせ」「将軍吹負は、倭の地をすっかり平定して」「およそ銀が倭に出たのは、この時が最初である」「倭国の添下郡の鰐積吉事が珍しい鶏を献上」「明神御八洲倭根子天皇」「倭の葛城下郡が、四本足の鶏がおりましたと」「次に、大隅、阿多の隼人及び倭、河内の馬飼部造」
皇極天皇の巻には、倭の代わりに大和が使われている。「大和の忍の広瀬を渡ろうと」
仁徳天皇にも「那羅を過ぎ、小楯、大和を過ぎ」
 この他にも、倭京は孝徳天皇で一回、天智天皇で一回、天武天皇で四回出て来る。倭京として機能したのは七世紀の半ば以降のようである。倭都は孝徳天皇で二回くらい。時代が遡ると、人名として倭が出て来る。倭姫とか倭彦命、倭媛、倭君、倭彦王、倭川辺行宮、倭鍛部天津真浦とかである。
「大倭(国)やまと」大が付く倭は、聖地として扱われているようである。「大倭大神」とか、雄略紀「大倭に参向して天皇に仕え」安閑紀「都を大倭国勾金橋に」「天皇を大倭国の身狭桃花鳥坂上陵に」孝徳紀「百済の明王が仏法を我が大倭に」斉明紀「大倭の天の報いは早い」天武紀「大倭国が珍しい鳥を」持統紀「美濃の将軍達と大倭の豪族とは、共に大友皇子を誅殺し」「伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に幣を奉納」「新羅の調を五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉納」こうして見ると、日本書紀の中で「倭」の指し示す場所は、国内の一地域である。それも畿内の一地域になっている。大をつける時は、聖地という意味を持つ。「日本」と「倭」の使われ方は、国名と地方名くらいの違いがある。書記は国号としての「倭国」という表現を捨てているが、それは何故だろう
 歴史書の作り方は、たぶん近隣の先進国から学んだと思うが、中国や韓国では、我が国の「倭」のように、大きな民族の単位としての名前を使って交流していただろうか。韓半島では辰韓・馬韓・弁韓とかの表現を自らしていたのか。それとも、百済や新羅や高句麗という国号を使っていたのか。中国から見た民族集団として、倭国や倭人、倭種という表現はあっただろう。しかし、日本列島全体が「倭国」を国号として使っていたのだろうか。「倭」とは別に国号を持ちたいと願っていたのではないだろうか。
 畿内の王が古の倭国(女王国)の末裔と主張したいのなら、何故に国号を変え、書紀にも「日本」を使用したのだろう。古事記のように「倭・やまと」のままでいいではないか。中国からみた時「日本」より「倭国」の方が、倭国の末裔としての主張と合致するはず。
 天智帝は、何故「日本」を国号として選んだのか。それとも、日本と字を変えても、日本が倭国を意味したので問題なかったのだろうか。それなら、先に日本と国号を変えたのは、倭国だった事になる。そんな仮説が成立するのだろうか。そうでなければ、倭国とは関係ない「日本」を六七〇年に国号とした訳は何か。そもそも、倭国は、いつまで存続したのだろうか。郭務悰の国書は倭国に届けられているのだ。公式には、白村江戦後も倭国のままである。
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# by tizudesiru | 2011-09-08 11:46 | 23日本書紀の中の日本 | Comments(1)

24  唐書から見た倭国と日本国

24 唐書から見た倭国と日本国
 「新羅本紀」によると、国号を日本と改めたのは、六七〇年で七世紀の事ある。そこには、「自ら言うところでは、日の出る処に近いからこれをもって名とした」だけではない、天智帝の大きな意志が働いているはず。この年には、庚午年籍が造られている。前年に鎌足を亡くし、高安城を修理し、「長門一と筑紫二の城を築く」と重出の条もある。天皇の胸のうちには、不安のようなものがあったのだろうか。
 「旧唐書」によれば、倭と日本という二国があったことになっている。倭国伝には白村江戦までの出来事が書かれ、日本伝には白村江戦後の事が書かれていると、ネットの情報にも詳しく書かれていう。
 倭国伝には「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅の東南の大海の中にあり」「東西は五月行、南北は三月行、世々中国と通ず」「その王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これを畏怖す」一大卒を置いていたのは、邪馬台国時代の伊都国である。では、卑弥呼の姓は阿毎だったのだろうか。世々中国と通じていたのだから、中国に遣使記事のある国である。「倭人伝」の萬二千里ではなく、萬四千里である。二千里増えているが、まだ畿内には届かない。百済・新羅の東南なら九州である。
 日本伝には、「日本国は倭国の別種なり。その国、日の辺りにある故に日本をもって名となす。或いは、倭  国自らその名、雅ならざるをにくみ、改めて日本となすという」「或いは、日本はもと小国、倭の地を併せもつと言う」続けて「その入朝する者、多く自ら矜大、實を以って対(こた)えず。故に中国、これを疑う」とある。
後に編纂された「新唐書」では、「倭国」が消え「日本伝」のみである。
 その新唐書「東夷伝」日本伝には、「日本は古の倭奴国なり。京師を去ること萬四千里、新羅の東南の海中にある」「東西五月行、南北三月行」と、「旧唐書」倭国伝と似ている。旧唐書の倭国伝と日本伝を合わせた文のようだ。率一人が検察する所も同じである。また、十二の官位があり、文字があり
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主」と書いてある。
 王の姓は阿毎氏で、天御中主を祖先に持つと自分で言っている。
皆以『尊』為號、居筑紫城」と書いてあるから、名前に「尊(みこと)」を付けて名乗り、筑紫城に住んでいたようだ。「彦瀲子神武立、更以『天皇』號、(行にんべんに歩)治大和州」彦瀲の子の神武は天皇と号し、大和州に移り治めた。そういえば、日本書紀を要約すれば、神武が東遷したという事になるそうだ。
 天智帝の時代、筑紫にはまだ王城の跡が残り、その末裔が居たのだろうか。
新唐書」には歴代天皇の漢風諡号が書かれていることから、日本国の資料をもとに編纂されたらしいが、阿毎氏の居城まで書かれている。阿毎氏は筑紫城に住み、神武天皇が移動して大和州を治めたと書かれているのだ。筑紫城とは、大宰府の事だろうか。他には考えられないが。日本国は、唐とはかなり交流があった。郭務悰も長く滞在し、遣唐使なども送られているし、中国語で会話もしたはずである。筑紫城や東遷を中国の知識人が空想して書いたとは考えられない。しかし、「新唐書」の資料的価値は低いとされる。
 とにかく阿毎氏は筑紫城に住んでいた。では、あの有名な、「隋書」の倭王・姓は阿毎、名は多利思北孤も筑紫城に居たのだろうか。 隋書の「日出処天子」は、聖徳太子とされている。天智天皇より更に歴史をさかのぼらねばならない。
六〇〇年の遣隋使の事が書かれているのは、「隋書」の「東夷伝」である。
推古帝は遣使を隋王朝に出しているが、六〇〇年の遣隋使の記録は、日本書紀にはない。ただし、隋書には倭国ではなく「俀国(たいこく)」と書かれている。しかし、これは「倭国」の間違いであろうと、大方の人が言っている。ひとまず倭国として書いてみた。
 「倭国は百済・新羅の東南にあり、水陸三千里である」魏と通じた事があり、里数を知らないので距離を日数でいい、「その国は東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。地形は東高西下で、都は邪靡堆で魏志にいう邪馬臺である。古に楽浪郡や帯方郡から一万二千里という。漢光武帝の時入朝し云々。倭奴国である」さらに、倭国大乱後「名を卑弥呼という女子があり、鬼道で衆を惑わしたが、この国の人は王に共立した」と続き、弟や宮室の様子は魏志と同じような描写である。開皇二十年(六〇〇年)、倭王の姓は阿毎、名は多利思北(比)孤で、阿輩雞彌(大王)と号し、隋の宮殿に遣使した。使者が言うには「倭王は天を兄とし、太陽(日)を弟とし、夜明け前に跏趺坐して政を聴き、日の出で務めを止め、弟に委ねる」、これを聞いた隋の高祖は、はなはだ「無義理」と言い、これを改めなさいと諭した。「王の妻は雞彌と号し、後宮に六、七百人の女性がいる。太子は利歌彌多弗利である。城郭はない。内官が十二ある」この後も服飾の説明が続き、武器の描写の後、「兵隊はいるが、征戦はせず、王の朝会で必ず儀式に武器を持ち連なり並び、その国の音楽を奏でる」と、驚くばかりである。その後、律による刑罰が書かれ、「沸騰中の湯の小石を探させる事」や「蛇甕の中に小石を取らせる事」など恐ろしい曲者の判別が書かれる。また、文字はなかったが、仏法を敬い百済に仏経を求めて、文字を使い始めたようである。
 結婚については、「婚嫁不取同姓」とあり、同じ氏族から嫁を取るのを避けている。また、「婦、夫家に入るに、必ず先ず犬を跨ぎ、すなわち夫に相見ゆ」とあるので、嫁は夫の家で暮らしている。古代は妻問婚だったと聞いたが、違うようだ。葬送の仕方の後に「阿蘇山あり。その石は故なくして火起こり、天に接する」とある。固有名詞の山は、これのみである。阿蘇の字も現在使われているままである。火山であり、人々はこれを祭っている。また、百済・新羅は倭国を大国で珍物が多いとして、敬迎して常に使を通じて往き来している
さて、大業三年(六〇七年)、多利思北孤が朝貢の使を遣わした。使者は言う「海西菩薩天子が重ねて仏法を興すと聞き、遣使して朝拝し、兼ねて沙門数十人が来て仏法を学ぶ」その国書には「日出処天子致書、日没処天子無恙云々」と、有名な文があった。帝はこれを悦ばず「蠻夷の書に無礼者あり。また聞くこと勿れ」と言った。翌年、文林朗輩清(裴世清)が倭国に使いしている。何のために来たのだろうか。倭王は、小徳阿輩臺に数百人を付けて鳴り物入りで出迎えさせた。十日後また大禮哥多田比に二百人余りの騎馬で町外れまで出迎えさせ、その都に向かえ、大悦びして「海西に大隋があり、礼儀の国と聞いていたので、朝貢しました。私は都に離れた海の隅の田舎者で礼儀を知りません」とへりくだって挨拶をしている。裴清も「皇帝の徳は二儀に並び、澤が四海に流れるように(四方に行き届いている)。王が(皇帝の徳)化を慕ったので、行人を遣わして此処に宣諭する」と言う。宣諭とは、何の事だろう。『天子の詔をさとす。申し渡す』という事だろうか。無礼な国書を出した倭国を諭しに来たのだろうか。「朝命はすでに達した」と、裴清は貢物と共に使に送られて帰国する。しかし、末文に「此後遂絶」(この後、国交は絶えた)となり、隋書「東夷伝」は終わる。この後、隋とは国交がなかったのか。

 日本書紀によると、六一八年に隋が滅びるまでに四回の遣唐使の記述がある。遣隋使ではなく、書紀には遣唐使と書かれている。日本書紀編纂の時期の中国の国号は、唐であったからであろうという説がもっぱらである。また、六〇〇年(開皇二十年)の遣使の記述は隋書「東夷伝」にあるが、日本書紀「推古紀」には書かれていない。その理由は、はっきりしない。
 (第一回は六〇〇年)、第二回は六〇七年から六〇八年小野妹子、第三回は六〇八年から六〇九年小野妹子・吉士雄成・倭漢直福因・高向漢人玄理・新漢人大圀・新漢人日文・南淵請安など活躍した人々である。彼らは十五年から三十二年間も中国にいたようである。第四回は六一〇年、第五回は六一四年から六一五年となっている。これらの遣使を命じたのは、書紀では推古帝となっているが、隋書の六〇〇年と六〇七年は阿毎多利思北孤である。
「百済本紀」には、六〇七年「隋が文林朗輩清倭国に送る。我が国(百済)の南路を経由した」と記録されている。此処には、隋と書かれている。裴清は確かに百済を通り倭国に来ている。書記によると、筑紫に寄り畿内に入っている。彼は、時の天皇に会っている。会えば男性か女性かの区別もつくであろう。彼は、旅行記も残しているそうである。聖徳太子は天皇にはならなかったのだろうか。
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# by tizudesiru | 2011-09-07 13:17 | 24唐書から見た倭国と日本国 | Comments(0)

25 文林朗裴清が見た倭王

25 文林朗輩清が見た倭王
 阿毎多利思北孤は、聖徳太子ではないかも知れない。聖徳太子は、近畿王家の太子である。日本書紀によると、推古帝は隋の鴻鸕卿裴世清に対して丁寧に対応している。「鴻鸕卿」とは、外交官のようなものである。
 推古一六年夏四月、小野妹子と裴清は筑紫に着いた。難波吉士雄成を遣わし唐の客を召された。客の為に新しい館を難波に造った。六月一五日、客達は難波津に泊まった。飾り船で迎えて、新館に入らせた。接待係は、中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平である。この時、妹子は『帰還の時、百済で煬帝の国書をかすめ取られたので、届けられない』と言った。妹子を流刑に処すべきとの意見も出たが、天皇は『大唐への聞こえも良くない』と許した。
 秋八月三日、唐の客は都に入った。七五匹の飾り馬で海石榴市の路上に客を迎えた。十二日、客を朝廷に召して使いの旨を述べさせられた。唐の進物を庭上に置き、使者裴世清は自ら書を持ち使いの旨を言上した。その書に「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れよく意を伝えた。自分は天命を受けて天下に臨んでいる云々。天皇は海の彼方にあって国民をいつくしみ、国内は平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。(略)鴻鸕寺の掌客裴世清を遣わして、送使の意を述べ、併せて別にある贈り物をお届けする」とあった。その時、阿倍鳥臣が進み出てその書を受け取り、大友クイ連が帝の机上に置いた。この時には皇子・諸王・諸臣は、みな冠に金の飾りをつけた。十六日、客達を朝廷で饗応した。九月五日、客達を難波の大郡でもてなした。十一日、裴世清たちは帰ることになった。小野妹子を大使、吉士雄成を小使として送らせた。天皇は「東の天皇が謹んで西の皇帝に申しあげます。使人鴻鸕寺の掌客裴世清らが我が国に来り、久しく国交を求めていた我が方の思いが解けました云々」と挨拶しているが、これまでの交流は無かったのか。この時の遣唐使が、福因・恵明・高向玄理・僧日文・南淵請安等々八人である。
 この推古紀の記述の中には、聖徳太子の姿が見当たらない。文林朗輩清は、聖徳太子にあったのだろうか。歴史上の倭王は多利思北孤だけではないが、髄書を読む限り、倭国の所在地がはっきりしない。大和ではなく、九州のような読後感が残る。倭国は何処まで広がっていたのか。それに、都はどこだろう。宋書では、耶麻臺になっている。

26 倭国王の素顔
 六〇〇年と六〇八年、隋の煬帝に遣使を出したのが聖徳太子なら、太子は天皇になっていなければならない裴清は倭王(俀王)に会っているからだ。六〇〇年の倭王は男である。妻も世継もいる。聖徳太子は用明天皇と穴穂部間人皇后の皇子であり、推古天皇の太子である。太子は冠位十二階を定め、十七条憲法を作り、それは書紀に詳しく記載されている。太子が政治の中核にいたという事だ。六一三年には都と難波の間に大道(官道)も出来ている。太子が斑鳩に宮を建てたのは、六〇一年である。しかし、帝位にはついていない。
 軍隊はどうかというと、任那を救うために新羅征討大将軍となって筑紫に下ったのは、太子の弟、久米皇子である。目的を達せぬまま久米皇子は筑紫に甍去(殯葬を長門でしたのは、仲哀天皇と同じである)したが、次に新羅大将軍に命じられたのは、久米皇子の兄の当麻皇子だった。太子一族が軍隊を掌握しようとしたのだろうか。
 仏教を取り入れる努力をしたのも太子である。後ろ盾の蘇我氏は、引き続き大臣を引き継いでいる。叔母の推古帝が天皇でなければならない理由は、何だったのだろう。蘇我氏という後ろ盾の絶頂期でもあった。ミステリー小説のように、本当は聖徳太子が皇位を継いでいたのだろうか。法隆寺釈迦三尊像の光背の金石文のいうように素直に天皇になり、法王になっていたとしたら(太子の死亡年と死亡日が、銘文の法王とはずれているが)、歴史はどうなるのだろう。
 NHKの番組で知ったことだが、最近の法隆寺の金堂の調査で明らかになったことがある。金堂が一番古い建築物になるのだが、釈迦三尊像の天井の木材の年輪で年代を追及したところ、六六八年に伐られたというものが見つかったそうだ。天智天皇の時代である。若草伽藍と呼ばれる元の法隆寺は、六七〇年に一宇も残さず焼失している。その前に、救世観音も玉虫厨子も釈迦三尊も新築の現法隆寺金堂に移されていたから、傷一つなく今に伝わったらしい。金堂建造の目的は、何? やはり祟り封じなのか。それとも太子の面影を残す像を移して祀りなおすことに、新政権として意味があったのか。たとえば、法隆寺の近くの「藤の木古墳」の被葬者として埋葬し直したとか。この古墳の副葬品があまりに優れた品々なので、王者のものとしか考えられない。しかし、馬子に暗殺された崇峻天皇の墓とは思えない。それで、ついつい素人は憶測してしまう。聖徳太子は最高の地位に居たのに、歴史的には太子としての地位に甘んじなければならなかった。それゆえに、祟りを恐れて祀りなおされたのではないかと。まさかの域を出ないが。
 聖徳太子と蘇我馬子は天皇記と国記、臣・連・伴造・国造・百八十部並びに公民達の本記を記録編纂している。(蘇我氏滅亡の折に天皇記・国記及び珍宝を全て焼くとあり、船史恵尺が素早く国記を取って中大兄皇子に献じたという。太子の国記は、日本書紀編纂の時に役立ったはず)太子は極めて天子に近い条件に囲まれている。
 稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く大臣に集中した権力は、近畿王家には邪魔だったはずである。蘇我入鹿が、聖徳太子の子、山城大兄一族を追い詰め自殺させたのは、蘇我氏への権力集中に対する豪族達の不満を解消し、蘇我氏の権力を維持する為に、入鹿が選んだ苦渋の選択だったのかも知れない。継体→欽明→敏達とつながった直系皇統が、用眀→崇峻→推古と蘇我氏の勢力に取り込まれそうになっていた。そこで、推古→聖徳太子→山背大兄と歪んでしまっては、かろうじて皇統を継いだ継体天皇の意味が失われてしまう。聖徳太子は、天子であってはならなかった。敏達天皇の直系に皇統を戻す為とはいえ、然るべき地位にあった聖徳太子の存在の抹殺は、天智天皇としても後ろめたかったに違いない。太子一族の霊を慰める事、それが、法隆寺建立の目的だったのではないか。そして、近畿王家の繁栄を願った。となると、太子は天子になっていたかも知れない。
六四〇年に、唐から高向玄理や南淵請安などが帰った
 彼らに学んだ人々が国の在り方を考え直し、計画したという出来事が、六四五年の蘇我大臣一家を滅ぼした「大化の改新」である。皇位継承の争いではない。此処に大きな意味があったとすれば、中国に学んだ人々の力を借り、蘇我氏が持っていた権力を奪った事になる。(たとえば「大倭」という権力の象徴、税を集めるトップの組織だったのではないだろうか)そして、天子の治める国家を目指した。皇位を継いだのは、天智の叔父の孝徳天皇であった。この天皇の時代に、公地公民・班田収受が始まるなど、国家の基本的な骨格が出来ている。実行されたかどうかは分からないが。「大化」「白雉」という年号もある。この後、年号が使われないのは何故だろう。この天皇が排除されたので使われなかったからだろうか。留学から戻った日文(僧・旻)は、「大化改新」の孝徳帝を思想的に支えた人である。日文(僧・旻)が亡くなる時、孝徳帝がその死を惜しみ悲しんでいる。孝徳帝は理想の中に滅び、中大兄の理想に取って代わられた。そして、王家の理想と野望は、壬申の乱までもつれた。
 しかしながら、再び疑問が生まれた。遣唐使(遣隋使)が帰るまで、国家としての組織が十分でなかったとしたら、「倭王は近畿にはいなかった」ことにならないか天子がいて、府を開き、国の組織があり、王城があったのなら、留学生の帰国を待って改新する必要はない。そうなると、六世紀末の「日出処天子(阿毎多利思北孤)」は、誰だろう。
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# by tizudesiru | 2011-09-06 20:48 | 25/26文林朗裴清が見た倭王 | Comments(1)

27 倭の五王の行方

27 倭の五王の行方
 阿毎多利思北孤の前世代、五世紀の倭王達は誰も国史を造らなかったのだろうか。戸籍も持っていた韓半島の国を「諸国軍事安東大将軍」として支配したがった倭の五王達が、自国には国史も年号も戸籍も持たなかったとは、考えにくいことである。武力だけで国を治める事は出来ない。倭王武は上表文を宋の皇帝に差し出している。当然、漢字を読み書きできる人々が居たのである。天子という以上、王城を持ち、役人がいて政治を行っていなければならない。租税を集める組織を持ち、文字を使い正史を作り、政治をする役所を持ち、軍隊を持ち、官道を造り、文化的な団体を養い、世継がはっきりしていなければならない。天子はそういう事を揃えていた国の王であり、人物でなければならないのだから。
五世紀の倭の五王は、何処の誰なのだろう。
 倭王武は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍」と爵号されることを望み、宋の順帝に四七七年遣使し方物を献じた翌四七八年、「安東大将軍」に爵号され、有名な上表文が
「宋書」順帝紀に残されている。更に、梁の武帝即位の年、五〇二年に「征東大将軍」と爵号を進められている。倭王武は、少なくとも五〇二年以降も生きていた。阿毎多利思北孤の百年ほど前の時代を、倭王武は生きている。彼らはどのように国を治め、倭王として存在したのだろうか。宋書の上表文は、中国南朝で流行した文体で書かれているという。
 順帝昇明二年(四七八年)倭王武の上表文は、次のように始まっている。
「封国偏遠、作藩干外。自昔祖儞、躬擐甲冑、山川跋歩、不遑寧処。東征毛人五十五国。西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿」
 皇帝の冊封を受けた我が国は、中国から遠く隔たっているが、外臣として藩を作っている。先祖が自ら甲冑を着て山川を踏み歩き、東は毛人の国を五十五国征し、西の衆夷を六十六国服させ、海を渡って海北の九十五国を平らげた。王道はゆきわたり都から離れた所まで広がった、という。また、「累葉朝宗、不愆干歳」代々の中国王朝に朝貢する歳を間違わずにやって来たとも言う。続けて、自分も先祖のように百済を通って朝貢しようと船を整えたが、高句麗が邪魔をしたので朝貢出来なかったという。百済を経て朝貢しなければ、中国への道がなかったのは、倭国が九州にあったからではないか。海北の国を平らげたとあるのも、位置的には九州になる
 このことは、たくさんの人がネット上でも指摘している。もちろん、近畿説もあるが。
 倭王武の上表文は「窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節」で終わっている。密かに開府儀同三司の官を名乗り、我が諸将にもそれぞれ称号を賜って忠誠を励みたいと述べている。「開府」とは、漢代に三公の官庁を府と称し、府を持つことを開府といった。三公とは最高位の三人の大臣の事であり、「開府儀同三司」とは隋唐両時代の従一品の官の事である。五世紀の倭王武は既に国家を構えていた。府を開いていたのである。(ネットで調べてみるとかなりのブログで)多くの人が宋書、隋書、旧唐書、新唐書を読みこなして、「倭王は九州にいた」と書いてある。私が四苦八苦して調べなくても良かったのだ)倭王武が順帝に朝貢した年の四月に、順帝が禅譲し、宋は滅びている。わずか二年の短い在位である。彼に届いた東夷の倭王の国書は、生き生きとしている。若い皇帝の胸を打ったのだろうか。彼は宮殿を出る時、泣いて「次に王家には生まれまい」と言ったそうである。翌年、殺されている。
 約百年後の倭王・亜毎多利思北孤は、「倭の五王」のように漢字一字の名前ではない。倭の五王の伝統を受け継がなかったのだろうか。別の王統なのだろうか。聖徳太子が架空の人物とは思えない。天智帝が威信をかけて移設(?)建立した法隆寺が、その事を物語っていると思う。しかしながら、阿毎多利思北孤はやはり九州にいたのだろう。六〇〇年と六〇七年の遣使は、九州から行ったと思われる。小野妹子も同じく隋に行き煬帝に会ったのだろうか。文林朗輩清は、九州と大和に行人として訪問視察を行ったのだろうか。
 それでは、九州で活躍した倭王達の国は、いつ大和へ移ったのだろうか。
 三国史記の「新羅本紀」と「百済本紀」に気になる部分がある。
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# by tizudesiru | 2011-09-04 20:58 | 27倭の五王の行方 | Comments(0)

28 倭国の空白

28 倭国の空白
 隣国にある倭国の空白の意味 
三国史記「新羅本紀」によると、五世紀に倭が半島に十四回も出兵している
四〇二年・三月に倭人と通好して、奈勿王の子未斯欣を人質として倭に送った
四〇五年・倭兵が明活城を攻める
四〇七年・春三月倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める
四一八年・高句麗と倭への人質が逃げ帰った
四三一年・倭兵が東の辺境を攻めてきて、明活城を包囲したが功なくして帰った
四四〇年・倭人が南の辺境に侵入。夏六月また東の辺境を攻める
四四四年・夏四月に倭人が金城を十日包囲して食料がつきて帰った
四五九年・夏四月に倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い月城を囲んで進撃したが追撃してこれを破る
四六二年・夏五月倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った
四六三年・倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずに去った
四七六年・倭人が東辺を攻める
四七七年・倭人が兵をあげて五道に侵入したが、何の功もなく帰った
四八二年・五月に倭人が辺境を攻める
四八六年・夏四月に倭人が辺境を攻める
五〇〇年・春三月倭人が長峯城を攻め落とした
(この後は長い空白となる)
六六三年・倭の水軍が百済を助ける(白村江戦)
六七〇年・十二月倭国が国号を日本と改める。自ら言うところでは、日の出る処に近いからもって名にした

 同じく三国史記「百済本紀」にある倭国関係記事の五世紀前後は、
三九七年・倭国と国交結び、王子の腆子を人質とする
四〇二年・倭国に使者を送り、大珠を求む
四〇三年・倭国の使者を手厚くねぎらう
四〇五年・腆支王即位
四〇九年・倭国の使者が夜明珠を送る 倭国の使者を熱く礼遇する
四一八年・倭国に白綿を送る
四二八年・倭国に使者を送る
(長い空白期間)
六〇七年・隋の使者が倭国に行くために百済の南路を通る
六五三年・倭国と国交を結ぶ
六六二年・白村江の戦い
 五〇〇年から六〇八年までの間は、半島の国とは何事もなかったのだろうか。どちらも六世紀の倭国関連記述がない。偶然にしては、百年間の空白は大きすぎる。この間に、倭国では何があったのか。五〇二年(梁・武帝即位)倭王武は「征東大将軍」と爵号を進めている。この後である。新羅に出兵を続けた後、新羅も入れて「六国諸軍事安東大将軍」を名乗った武は、どうなったのだろう。急に新羅・百済との関係が切れてしまっている。好太王碑文も三九九年・四〇〇年・四〇四年・四〇七年と倭人の侵出が書かれている。その倭国が、六世紀に突然半島から後退したのだろうか。
 五世紀の百済では中国外交を活発にし、梁から「寧東大将軍」「綏東大将軍」と爵号を受け、聖明王が即位し、新羅と国交を結び、都を泗沘に遷し国号を「南扶餘」とする等、内外的に大変な時期に見える。高句麗の侵入に新羅からの援軍で撃退する事もあったものの、新羅が百済北部に侵入し、聖明王自ら新羅攻撃に出たが、五五四年に敗死する。この後も、百済は陳・隋・唐へと朝貢を続け、なんとか新羅・高句麗の侵入攻撃を打開しようとするが、苦戦し続ける。百済は苦しい内情を幾度も唐の高宗に訴えた。しかし、唐は新羅の理を認めたのである。六五三年に、百済はやっと倭国と国交を結ぶのだが、六六〇年には唐・新羅連合軍により滅亡させられた。救援を頼むのが遅すぎたのだろうか。
 「百済本紀」によると、百済と倭国間には、過去に同じような事が起こっている。その時は、国交を結んで救援が成功していた。
 三九五年に、百済は広開土王と闘うが大敗した。その為であろうか、三九七年、倭国と国交を結び、王子の腆子を人質としている。この後、倭国に使者を送り大珠を求めたり、倭国の使者を手厚くねぎらったりした記述がある。
 四〇五年、枕流王が死去し末弟が弟を殺し王となったため、人質となっていた腆子王子が倭国の護衛により海中の島に待機の後、王となったのである。人質となっていた腆支王の即位を倭国が助けた。全く同じことを、白村江戦いの時も繰り返している。王子扶餘豊が人質として倭国に来ていた。そして、救援の将軍と兵隊を付けて百済に送り帰された。結果は、救援軍の大敗・百済の滅亡であったが。人質を出すとは、そういう事だったらしい。
 しかし、何故、梁・陳・隋・唐へは朝貢し助けを求めたのに、百年間も倭国へ何も言って来なかったのだろうか。倭国側に手助け出来ない状況があったのだろうか。
 九州の倭国に、未曽有の天変地異が起こった。または、政治的事件が起こった。
 考えられるのは、五二七年の磐井の乱である。大和州(移動した神武王権)の王権が、出身地・九州の筑紫の王権を討った。この内乱で、九州の倭国が大打撃を受けたのではないか。それで、隣国へ出兵する余力などなくなった。だから、百済は救援を頼めなかった。百済本紀と新羅本紀は、その事を伝えているのではないか。
 五世紀に高句麗と戦い続け、十四回も新羅に出兵していた倭が、突然全く半島から手を引くとは。倭王武の野心が、「征討大将軍」に満足して消えたとは思えない。同時に、筑紫君磐井が倭王だった可能性も出て来た。では、太宰府の筑紫城に居たのは、父の罪に連座する事を恐れて、糟屋の屯倉を献上した筑紫君葛子だろうか。または、阿毎氏の一族だろうか。
阿毎多利思北孤は、天を以て兄となし、日を以て弟となし、夜明け前に跏趺坐して、政を聴いた。夜が明けると理務を辞め、弟にゆだねたという。その宮殿は、東を向いていたことだろう。低地には無かったと思われる。彼は、筑紫の君の子孫だろうか。
 これ以上、非力の身で言及する事は難しい。その内に遺跡の発掘や、新しい学説が出て来る事だろう。
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# by tizudesiru | 2011-09-03 09:46 | 28倭国の空白 | Comments(0)

三国史記に書かれなかった倭国

「『倭国の空白』について、以前書いたものをブログに乗せた」と知り合いに話したら、即、「それは、すでにー氏が書いている」と指摘されました。-氏が誰なのか、聞いたけど忘れました。今度は、人の名はメモをしておこうと思います。やっぱり、あの空白を見れば、何か変だと思いますよね。
 私は、小学館の『日本書紀』の釈注で様々なヒントをもらいました。『これを書いた人は、何かに気が付いているのではないか』と思ったほどです。それをもとに、ネットでも検索しました。
 とにかく、何が本当なのか知りたいです。いろいろ考古学の遺物が出土しているのに、「大和王権」との結びつきという方向で処理されてしまっています。そうかもしれないけど、そうではないかも知れない。そう考えるのが、専門家ではないでしょうか。なんて、偉そうなことを……ごめんなさい。

 
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# by tizudesiru | 2011-09-03 08:50 | 28倭国の空白 | Comments(0)

29  筑紫城の最後

29 筑紫城の最後

 筑紫城の最後というタイトルで、この(1)から(30)までの文章のまとめにするのは、すごくはずかしい。
 何も目新しい結論に行きつかなかったからである。どこかで聞いたような、見たような結論になってしまった。しかし、まとめておかなければならない。
 憶測の域を超えないが、ただ、九州にも王権が生まれたようだ。各時代の王は、中国を宗主国と仰ぎ、朝貢する事を王のスティタスシンボルとした。太陽の昇る東の山を拠り所とし、陽の沈む山を魂の昇る山とし、祭祀をしていた。王が亡くなれば殯葬をし、王の魂が神となるのを見守った。次の王は、前王の霊力に守られ、子孫繁栄の為に墓制や墓の位置や葬送儀式にこだわった。王は自分の領地に祭祀場を作り、地域の山を御神体として祀った。山には国を守る霊力があると信じられていたのだ。王達は近隣の有力者と結びつき、祭られる神も増えて行った。その中で争いが生まれ、霊力を持った王が連合国の長として選ばれるようになった。「おおきみ」と呼ばれたのだろうか。外交も活発になり、交易も盛んになり、国が整うに連れて地域間の争いは苛烈を極めて行った。それぞれに勢力を伸ばそうと、離れた地域との結びつきも生まれ、王権の分派が数多く生まれた。地域差も大きくなっていった。中でも鉄と銅など金属を手にした人々が、覇権を求めることになった。鉄を持った人々が、列島のありようを変えていった。筑紫で力を持ったのが、倭王たちだった。大和の王権は、皇統を他へ広げないように近親結婚の道を選んだのだろうか。
 九州の王権は、六世紀に大きな事件に巻き込まれた。外敵に備えるより、内なる敵に備えなければならなくなった。やがて、筑紫の都周辺には、四王寺山城・宮地岳山城・雷山神籠石・高良山神籠石・女山神籠石等、戦いの為の山城を築いた。それぞれの山城には氏族の神が祭られ、神力を借りて都や王権を守ろうとした。当然、大和王権は築城を知らなかった。やっと余力が出て来た処に、待っていたように百済が国交回復を望み、王子を人質とした。やがて百済は滅亡し、忠臣が救援要請を申し込んだ。大和の王権にも、同じように要請が入った事だろうし、磐井の乱後に筑紫は形式的には大和の配下に組み込まれていただろう。百済からみれば同じ倭国であり、同じ氏族と思われていたのではないだろうか。九州の王権は、喜んだに違いない。久しく待ち望んだ倭王としての活躍の場だったからだ。倭王は船を作り、兵糧を集め、大挙して百済に向かった。しかし、 九州王権の勝手な振る舞いを、大和が許さなかった。斉明天皇の一行は、雅を神代からの伝統と自負し和歌を歌い、言霊を使いながら、征西したのである。もとより百済救援は二の次、九州に再度王権の復活をさせないための出兵だった。斉明帝は朝倉の宮、中大兄は長津宮でそれぞれの仕事をしたのである。長津と名を改めたのも、九州改造の一環に過ぎない。先に太宰府に入っていた蘇我日向も仕えたであろう。 
 大和王権は当初の計画通り、無傷で大和に引き返せた。斉明帝の死も利用したとしたら、恐ろしい想像になってしまう。筑紫の、かっての王城には都督府がおかれ、天智帝の大宰府は別の場所に建造された。または、阿毎氏の王が既に都府楼跡に宮殿を築いていたので、それを利用した。「太宰府が移された時、造られた」とされた竈神社の言い伝えが、年代を特定できないのが残念である。大宰府移転、その為に、四王寺山城は大野城に造り変えられ、基山の神も筑紫神社に降ろされた。たぶん、筑紫神社に合祀されたのであろう。唐野原の寺は解体され、仏像等はいずれかに運ばれた。「結跏趺坐」の姿に造られた釈迦三尊像は、聖徳太子または阿毎多利思北孤その人に違いない。隋書に書かれた通りの姿で政を聞いていたのだろう。東西信仰の都の主要道路は、北向きに変えられ宝満山の神も降ろされた。竈山が三笠山と名を変えられたかも知れない。神功皇后の説話を持ち出して。神功皇后を持ち込んだのは、おそらく天智帝であろう。宝満山に神武天皇の母・玉依姫が鎮座するのは、後の時代である。
 百済への出兵と敗戦は、筑紫国の責任であると、天智帝は熊津都督府の占領政府に対して主張したはずである郭務悰にも会い、大和王権単一政権の確立をなしえた天智帝は、晴れて玉座に着いた。誰も意見をさしはさめなかった。偉大な仕事をなしたのである。そして、大友皇子が皇太子になる勢いが見えて来た。「天智帝は暗殺された」という俗説が生まれる要素も、即位までの行動の中にあるのかも知れない。六六二年から六七一年までのわずか十年間に、なされた改革は膨大だったことだろう。 筑紫城は捨てられ、遠の朝廷として大宰府の時代になった。神籠石山城も忘れられ、筑紫には細々と氏神を祀る社が残されていた。しかし、それすらも、醍醐帝の延喜式により大きな変革を迎え、天皇家に顧みられない神社は、小さく凋んでいったことだろう。多くは言い伝えも忘れられ、守り手も変わり、祭神も変わっていった。しかし、筑紫王権の末裔は、わずかにその痕跡を残しながら今日に至っているはずである。土地に残された記憶、同時代に生きた名もない人の伝承、それらが断片的に過去を伝えているはずである。
 その一断片が地理ではないかと、筆者は思う。今、町村合併で多くの地名・歴史が消えつつある。核家族化で多くの伝承が伝わらないまま消えつつある。故郷の山河に親しまなくなり、自然と共に生きた暮らしが失われつつある。今だからこそ、故郷の山河に潜んでいる過去を見つめ直したい。

此処に来て思い付いた事がある。
 菅原道真の有名な和歌は、あれは都に残した梅を歌ったのではなく、筑紫王権の滅亡後に歌われた、筑紫の人々の思いではないかと。天神と恐れられたのは道真ではなく、天神と化した筑紫の王達ではなかったか。道長と天神が重ねて考えられたから一層たたりが恐ろしかったのではないか宇多天皇に心から忠臣と信頼されていた、心の清い道真がそれほど恐ろしく祟るだろうか。彼は、ひたすら許されることを望み都府楼前の南館に謹慎していた。が、都の人には筑紫の天神と一体となったと信じられ、道真が怖かったのではなかろうか。
東風吹かば 思い起こせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
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# by tizudesiru | 2011-09-02 09:49 | 29筑紫城の最後 | Comments(0)

30 山岳の名と歴史や文化

山の名は歴史や文化の伝播を語るのか?
 九州の地図を見ていて、「国見山」が多いと思う事があった。友人にその事を話すと、
「その国を首長が見渡せる場所でもあるだろうけど、国見山とは、侵略のルートなんですよ。よそ者が侵略する方法を見極める場所でもある」と聞かされて、なるほどとも思いつつ疑問も残っていた。
 何時も使っている国土地理院の地図閲覧サービスで、何気なく「国見山」と入れてみた。すると、面白い結果が出て来た。
*国見山のある県(数)
 岩手(3) 宮城(1) 秋田(1) 福島(2) 新潟(1) 茨城(2)
 石川(2) 神奈川(1) 岐阜(1) 三重(3) 兵庫(2) 奈良(2) 広島(2) 徳島(1) 高知(2) 福岡(1) 熊本(7) 大分(1) 長崎(1) 宮崎(4) 鹿児島(2)
 この中で、香奈川は「六国見山」である。広島も「七国見山」「八国見山」である。
 *国見岳のある県(数)
 秋田(1) 富山(1) 福井(1) 京都(1) 奈良(1) 佐賀(3) 長崎(1) 熊本(1) 宮崎(3) 鹿児島(2)
 こうして見ると、「国見」と付く山は、五十七あるようだ。その中で熊本と宮崎がダントツである。鹿児島と佐賀を入れると、四十パーセントになる。熊襲の地が熊本やその南に集中していたという事だろうか。
 そして、「宮地岳」という山名も多いと思ったので、検索してみた。驚いたことに、宮地岳という山は、九州にしかなかった。福津市には、宮地嶽神社がある。
 福岡県 筑紫野市・前原市・福津市・糸島郡志摩町
 長崎県 松浦市
 熊本県 天草本渡市 *山ではなく地名
 福津市の宮地岳山頂には、ここが本宮跡であり、神功皇后が三韓遠征のおり戦勝祈願をしたところであるという説明書きがある。同じように、検索では出て来なかったが、朝倉市の宮地岳にも山頂に前方後円墳と神社があり、神宮皇后のように斉明天皇が戦勝祈願をした場所だとか。筑紫野市の宮地岳は、古代山城のある山である。
 では、基本的な言葉の山はどうだろうか。たとえば、「原」という字で検索すると、千一件の地名が出て来る。これでは調べようもない。
「彦山」「彦岳」はどうだろうか。かっこ内は(県名)
 弥彦山 やひこやま(秋田)
 雪彦山 せっびこさん(兵庫)
 彦山 ひこさん(広島  福岡  長崎)ひこやま(えびの市)
 英彦山 ひこさん(福岡  長崎県五島市 )
 到彦山 いたひこやま(長崎県五島市) 
 彦岳 ひこたけ(佐賀  熊本  大分)
 九州が多いようである。

「男岳」「雄岳」はどうだろう。かっこ内は(県名)
 男岳 (秋田 埼玉 山口 福岡 長崎2 熊本)
 男岳山(大分)
 雄岳 (岩手、奈良 福岡 長崎 熊本 鹿児島)

 「女岳」「雌岳」はどうだろう。
女岳 (秋田  埼玉  福岡糸島・八女  長崎壱岐・五島  熊本  鹿児島)
女岳外 (熊本) 女岳出 (熊本)
雌岳 (岩手  福岡  長崎対馬・上五島)   

 何となく地域の特色が感じられるが、次の「田代」は驚きの結果となった。青森に旅行した時、田代湿原に高山植物を見に行った。その後、たまたま見たのだが、あるテレビ番組で、田代湿原が取材されていた。そこで、湿原に生えるイネ科の植物の生育具合を見て、その年の稲の出来を予測するという事を紹介していた。その年の稲の出来を見る大事な行事だったようだった。「田の出来を占うから、その地を田代という」
田代湿原は、占いの地だった。そこで、田代の意味が分かった気がして印象に残ったのである。それで、田代という地名が稲作とともにあるなら、全国に普及しているだろう。そう思ったのである。
田代の多い県(数)の順
福島(43) 秋田(32) 岩手(29) 鹿児島(25) 群馬(22) 
大分(20) 青森(20) 佐賀(19) 熊本(18)  福岡(18) 
山口(18) 山形(16) 愛知(16) 宮崎(14)  長崎(14)
静岡(12) 岐阜(9)  新潟(9)  栃木(7)   千葉(7)
茨城(6)  宮城(6)  島根(6)  北海道(5)  三重(4) 
鳥取(3)  滋賀(3)  広島(3)  石川(3)   長野(3)
神奈川(3) 和歌山(2) 福井(2)  高地(2)   山梨(1)   
埼玉(1)   兵庫(1)   岡山(1)  
*田代がない都道県(富山・東京・京都・奈良・大阪・香川・愛媛・徳島・沖縄
 北と南の県に田代は集中していて、畿内及びその近隣県には、極めて少ない。むしろ空白地帯になっている。文化の伝搬が基本的に違っているという事だろうか。

*福岡県 三(み)のつく地名が多い筑紫平野 平野を取り囲んでいる。三という数字に意味があったのだろうし、「み(御)」に通じるものがあるのだろう。
三奈木(甘木) 三春(浮羽) 三丸(大川) 三沢(小郡) 三川(太刀洗)三輪町  三並・三牟田(夜須) 高三潴(三潴) 三八松みやまつ(大木) 御井(久留米)
他地域にも三がつく地名がある。福岡の三宅は屯倉らしいが。
三雲・三坂(前原) 三代みしろ(新宮) 下三緒・鶴三緒(飯塚) 三苫・三宅(福岡) 三池・三池島・三川・三里(大牟田) 三楽さんらく・三毛門(豊前) 三萩野(北九州)
*福岡県 隈のつく地名も捜してみた 県全体に広がっている。熊本の熊とは字がちがっているが、熊襲とつながりがあるかも知れない。「隈」は福岡平野・筑紫平野に多い。この地域のつながりを示すのだろう。
隈(筑紫野) 西隈(那珂川) 隈江くまのえ(甘木) 隈上(浮羽) 月隈・干隈・田隈・千隈・七隈・金隈(福岡) 乙隈・山隈・横隈・今隈(小郡) 篠隈(夜須) 山隈(三輪) 大隈(嘉穂) 大隈(糟屋) 西隈(那珂川) 田隈(大牟田) 
熊野(筑後) 松隈(志摩) 花熊(犀川) 大隈(嘉穂) 大隈(糟屋) 小熊野・熊手・熊西・熊谷・熊本(北九州) 吉隈(桂川) 赤熊(豊前)

*地理から文化の伝播を見てみると、畿内は九州とのつながりが少ない。それは何故か。仮説を立てれば、「邪馬台国は狗奴国との戦いに敗れ、大和への移動を余儀なくされた。または、近畿に逃げた邪馬台国の一部が地元勢力と結びついて、大きくなった。(それなら、地名や文化の伝播があってもいいではないか)』
 勝利した狗奴国は倭の宗主国と名乗りを上げ勢力を広げた。女王国の末裔大和と、狗奴国の熊襲とは、宿命の対決が始まったのである。そして、祖先の土地をとり返したのが、磐井の乱(五二七年)だった。この辺りから、文化の近畿からの九州へ流入が始まる。
 文化の伝播の違いはこのあたりから生まれた。自信を取り戻した近畿王権は言霊による文化を深めていった。万葉集に熊襲の歌が集められる事は決してないのである。九州男児などという強い男のイメージを作り出したのは、「武」により国を建てた熊襲の名残りかも知れない。
 こうなると、巨大古墳が大和に突然生まれた事も理解できる。彼らは、祖先の地を離れ、封禅の儀のような、天の力を得るために円墳を作り、王の霊力と地の力を受けるために方墳を作った。前方後円墳の文化が大きな意味をもつようになった。当然、三角縁神獣鏡の意味もはっきりしてくる。女王国への執着と誇りである。先祖の地奪還のため、大和は幾度も九州に征西した。岡の縣主や、伊都の縣主が、九州の王家を裏切って神宮皇后を迎えたとする日本書紀の記述は、「かっての宗主国の末裔として迎えようとした」その事を裏付けるものかも知れない。大和が九州平定に情熱を注ぐ意味が分かったような気がする。しかし、征西は思うようにいかなかった。継体天皇の時代になって、やっと九州との戦に勝てたようであるが、統治の面では長続きがしなかった。憶測であるが、九州の王朝が細々と存続し続けたからであろう。彼らは筑紫城に住み「天子」として君臨していた。隋に使者を送ったのも、彼らかも知れない。磐井の乱後落ち込んでいた王権がやっと復興し、国家の体制も整ってきていたのだろう。そこで、天子を名乗り大きく飛躍したいと望んでいたのかも知れない。天子「アメノタリシヒコ」を名乗るには聖徳太子では条件が悪すぎる。
 六百六十二年の百済の窮状の訴えにも九州王権として、支援しようとした。六世紀の筑紫君磐井は新羅と結んだが、百年後の筑紫の君はそれができなかった。「大化の改新」を成し遂げた大和勢力におされぎみだったのか。それとも、自力で百済を支援できると判断を誤ったのか。韓半島の実情を知らなかったのか。
白村江戦で敗れた九州王権は、倭国として戦後処理され疲弊し滅亡していった。

畿内の「畿」の漢和辞典による意味は、①みやこ②王城を中心に五百里四方の土地で、天子が直接治める処 と書かれている。我が国では、京都を中心に山城・大和・河内・和泉・摂津を指す。「畿内」の語源は、六四五年大化改新による「畿内制」に始まると近畿地方のブログに書かれていた。明治から公用語になったそうである。畿内には孝徳帝の並々ならぬ思いが込められていたのだろう。大化の改新は、邪馬台国の再出発だったのである。
 地図を広げて、ここまで来てしまった。
 
  こうして見ると、地図にはまだまだ様々な事が潜んでいそうである。結論は、地図に残されているかも知れない。


 以上の(1)から(30)までの長たらしい文章は、5年前にまとめたものです。この5年間ほったらかしていました。その間に、世の中の事情も変わり、考古学主導の古代史もずいぶん変化したようです。
 もうやり直す気力もあまりないし、放りっぱなしにしておくのもさびしいので、ブログで公開してみました。
 今は、熊本の山々と神社や古墳の結びつきなどに興味を持っています。


『 申し遅れましたが、(28)と(29)の文章は、あまりに単純な結論を導き出したのもあり、ここに発表するのをやめました。機会があったら、古い結論ですが、掲載します』
 と、ついこの間書いたのですが、恥のついでにアップしました。聞くところによると、三国史記の百済本記や新羅本記の空白について、どなたかが発見して、きちんとまとめておられるそうです。それを聞いて、安心してここに掲載しました。私はただの思いつきです。
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# by tizudesiru | 2011-09-01 09:55 | 30山岳の名と歴史や文化 | Comments(0)


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147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島

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