相島トレッキング・積石塚古墳群

相島・積石塚古墳群の散策
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6月の最終日曜日に相島に行きました。20人以上の人が集まったので、用意した資料が間に合うか心配でしたが、ひとまず大丈夫でした。相島は、20年ほど前に亡き父と散策した思い出の地です。父と散策した頃は、まだ遺跡も古墳群も整備されていなくて、どこを歩いたらいいかわかりませんでした。しかし、どこを歩いても墓しかなく、大小の墓を飛び石のように渡り歩いたという印象が残っています。
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相島には江戸時代に朝鮮通信使の客館が置かれました。
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積石の墓群は島の東側の海岸にしかありません。古墳群のある海岸から対岸の福津市宮地嶽神社を見ることができます。
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4世紀の前方後方墳と6世紀の円墳(横穴式石室)です。ピークは5世紀になります。
ここ相島の積石塚の変遷は、沖ノ島・津屋崎古墳群と連動しています。つまり、5世紀の終わり・6世紀の初めに、何か大きな変化があったのです。それは、九州における一大事件でしょう。
 まさに磐井の乱のような事件です。
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# by tizudesiru | 2014-07-13 23:58 | 117太宰府・宝満・沖ノ島 | Trackback | Comments(0)

やっと本を出しました

ブログを再・再開します。

一年近くの間ブログをほったらかしにしていました。ごめんなさい。
この一年間にはいろいろなことがありましたが、いろいろな講座に参加させていただいたり、発表させていただいたりして大変勉強になりました。それに、昨年からとりかかっていました「古代史関係の本」を出すことが出来ました。8年ほど前に仕事を辞めた時に書いておいたたものでした。ブログを始めた頃発表したことを見直し、最近の知見や思いを加えました。それまでに考えていたことに対して、内容的に不十分な点が多かったので多少筆を加えたのです。8年も経過すると、かなり新しい発見が加わります。

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# by tizudesiru | 2014-07-12 22:39 | 117太宰府・宝満・沖ノ島 | Trackback | Comments(0)

116大王は神にしませば

大王は神にしませば

大王は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも  (万葉集 巻三 )235
大王は 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隠りたまひぬ (万葉集 巻二 )205
大王は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも (万葉集 巻三 )241
大王は 神にしませば 赤駒の 腹這う田井を 京師となしつ(万葉集 巻十九)4260
大王は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 皇都となしつ (万葉集 巻十九)
4261
 「大王は 神にしませば」の表現は、壬申の乱に勝利した天武天皇とその皇子に限って使われていると、小学館の万葉集の注釈にあり、集英社の「万葉集釋注 二」(伊藤博著)にも書かれています。
 235番の歌は、「天皇、雷の岳にいでます時に柿本朝臣人麻呂が作る歌一首」です。「大王の 神にしませば」の表現を初めて使った人は、人麻呂でしょうか。
 205番の歌は、文武三年(699)七月二一日、弓削皇子が亡くなった時、置始東人(おきそめのあずまひと)が作った長歌の後の反歌です。弓削皇子と仲のよかった春日王が文武三年六月二十七日に没しているので、そのひと月後に弓削皇子の薨去となります。
 弓削の皇子の歌「吉野にいでます時の御歌一首}(巻三242)に
滝の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思わなくに
が、あります。この歌に、春日王が答えます。
大王は 千歳に座さむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや (243)
 弓削皇子は自分の運命を予感していたのでしょう。それに和する春日王は、「千年も生きられるでしょう」となぐさめました。これらの歌の後に、「或本の歌一首」として柿本人麻呂の歌集から紹介されています。
み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに (244)
 人麻呂は、弓削皇子と春日王の歌を知っていたのでしょう。


また明日
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# by tizudesiru | 2013-10-11 00:34 | Trackback | Comments(1)

115こんにちは万葉集!

こんにちは万葉集
忙しくてまたまたブログをお休みしました。再開です。
我が背子を 大和へ遣ると 小夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし
ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

 上記の歌は、「大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて、上りくる時に、大伯皇女の作らす歌二首」です。
 事件が起こったのは、朱鳥元年(686)九月、伊勢神宮の斎王であった姉に会いに行った大津の皇子。弟を大和へ帰す事への姉大伯皇女の不安。父天武天皇が崩御して十五日、まだ喪中です。大和では何かが起こっているが、それはまだ見えない。
 十月二日、それは起こってしまった。親友だった川島皇子から、大津皇子の謀叛が漏れてしまう。
 十月三日、磐余の訳語田(おさだ)の舎(いえ)の池のそばで、大津皇子は殺されます。妃の山辺皇女は髪を振り乱し裸足で走り来て、殉死するのです。
 なぜ大津皇子は死ななければならなかったのか。
 それは、天武天皇に期待され愛された皇子だったからです。健康で文武に優れ、側近からも一目置かれていました。大津と大伯の母は、天智天皇の皇女で太田皇女。持統天皇の姉にあたります。皇位継承の点でも、十分な条件がそろっています。母を幼くしてなくし、今また父天皇の後ろ盾なくして、頼りは伊勢の斎王である姉だけだったのでしょう。
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 ラインを一つだけ紹介します。天武天皇の陵墓から二上山にラインを引きました。磐余で死を賜った大津皇子の屍は、二上山(ふたかみやま)に改葬されています。天武陵から見ると、二上山は夏至の日没の方角で、二神山から見ると天武陵は、冬至の日の出の方角です。このラインを大阪側に伸ばすと、なぜか仲哀陵に届きます。
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# by tizudesiru | 2013-10-10 01:11 | Trackback | Comments(0)

114平城京・天武朝の都の守り

平城京天武朝都の守り神々と仏に守られた都
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 白い印が平城京の太極殿です。北に向かって左が第一次平城宮の太極殿。右が第二次平城宮のものとなります。都があちこち動きましたから、そのたびに移動したのでは大変だったでしょう。戻ってきたときには移築はせず建てなおしたそうです。 
 赤1は、明日香から移動した薬師寺。赤2は、明日香の大官大寺が移動して、大安寺となっています。赤3は、明日香の元興寺(飛鳥寺)が移動しています。飛鳥寺は理由は分かりませんが、移動が遅れています。後から都に入ったから位置がずれるのでしょうか。
 西大寺と東大寺が太極殿を挟んではいません。第一次太極殿の東にあるのは、光明皇后の法華寺です。東大寺は、東西に伸びるピンクラインの東奥にあります。南北のピンクラインは、天智陵からのものです。
 平城宮の北に来る古墳は、磐之媛命陵です。ここからのラインが二つの寺院に届きます。隠れていますが、青や紫ラインは、神功皇后陵から出ています。この時代にも伝承はあったのでしょうか。それとも改葬して、または祭祀の場として造営されたのでしょうか。
 第一次平城京は、黄色ライン(磐之媛命→平城天皇稜→太極殿→垂仁天皇陵)。
 黄緑ライン(磐之媛命→開花天皇稜→元興寺)では、寺院が守りについています。
 白ラインは、磐之媛命陵から南下し、耳成山に届きます。天武朝は、繰り返し耳成山を守りに使っています。
 赤ラインは太極殿→南大門→姫皇子神社→神武陵→岡宮天皇稜 に伸びています。
 青紫ラインは、神功皇后陵→太極殿→大安寺となります。此処も寺院がきます。元興寺の移動が遅れているので、初めは大安寺が都の守りに活躍したことでしょう。

 第二次平城京は、水色ラインで守ったようです。薬師寺と大安寺と太極殿が三角形を作り、第二次太極殿の真南には明日香で最大の前方後円墳・見勢丸山古墳(欽明陵)がきます。欽明天皇陵を取り込んだ太極殿となっているのです。    
 
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薬師寺からの黄色ラインは、薬師寺→法隆寺→用明天皇稜に届きます。様々に想像出来ますが、ここではやめておきます。赤1は薬師寺、赤2は法隆寺です。
 都の守りに寺院が大きな役割を持っていたことは、ラインからも確認できます。仏教によって国を守ろうとした最初の天皇は誰で、いつからでしょう。それは、仏教伝来とも関わります。薬師寺や法隆寺が九州から移動移築されたという説もあります。興味のわくところですね.

都の守りについては、既にこのブログで紹介した事とほとんど変わりはありません。同じラインを使っていますから。以前はただラインを紹介しただけでした。そのラインを見れば答えは出ると思ったし、色々な解釈をする事が出来ると思ったのです。今回紹介したのは、都の守りにどんな神が関わり、どんな祭祀をしていたかを確認したかったからです。平城京と平安京では、守りの神々が似ているようでも、全く違います。藤原宮・平城京は、祖霊を守りの神々としています。この違いは、何処から生まれたのでしょう。 興味あります。
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# by tizudesiru | 2013-08-26 17:41 | 114天武朝の都の守り | Trackback | Comments(0)

113神となった斉明天皇

となった斉明天皇
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 白い印は藤原宮、赤1は牽牛子塚古墳で最近の発掘で斉明天皇陵と発表されました。赤2も、斉明天皇陵です。このころの天皇陵はいくつもあります。改葬されているようです。改葬の記録もあるそうですから、多くは間違ってはいないと思います。さて、赤2の斉明陵ですが、藤原宮を通る緑ラインの起点にあります。このラインは、藤原宮を通り箸墓に届くのですa0237545_028915.gif
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藤原宮は箸墓と斉明天皇のライン上に造られたのでしょうか。 八角形の牽牛子塚古墳に改葬する前、斉明天皇陵は箸墓・藤原宮ラインの選ばれた位置にあった、神となって「新益京」を守る位置にあったという事です。
 改葬後の赤1の牽牛子塚古墳は、天武天皇陵・岡宮(草壁皇子の宮)と並びます。母である斉明天皇を川原宮でモガリしたのは天智天皇ですが、此処に天智天皇の影はありません。飛鳥には、欽明天皇や敏達天皇や舒明天皇推や斉明天皇と、天武系の草壁皇子・文武天皇などの強いつながりを示すラインが多くあります。どうゆう事でしょうね!父のみならず母までも天武系が独占しているのです。壬申の乱に勝利したからでしょうか。壬申の乱とはなんだったのでしょう。以前ブログでも紹介しましたが、天智天皇は舒明天皇の皇子ではなく、斉明天皇の連れ子であったという説も頭をかすめます。だから、天武天皇が壬申の乱を起こしたと。

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赤2の斉明陵(越智崗上陵)からアスカとかかれた「飛鳥寺」を通り、ラインが行きつくのは、天王山古墳です。崇峻天皇の真の陵墓とも聞きます。馬子に暗殺されたという崇峻天皇。本当は、有能な人だったのではないでしょうか。飛鳥寺は、斉明陵と天王山古墳のほぼ中央に建立されています。何を意味するのでしょう。崇峻天皇の御魂を鎮め、その霊力を斉明陵に持ってきたのでしょうか。更に、斉明天皇陵を詳しくみます。
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少し整理しました。
 見勢丸山(真の欽明陵)と牽牛子(斉明陵)と岡宮天皇陵は、直線状に乗ります。牽牛子塚古墳が造営されたのは何時かというと、天武帝崩御後かつ草壁皇子薨去後、祖先の欽明天皇の霊力を借りて改葬されたのです。「正当な皇統の主張」がなされているのです。新しい政権の樹立は、正当な皇統の上に成り立つのでしょう。
 更に、話は継体天皇にも飛びます。
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 継体天皇陵と言われる今城塚古墳と、太田茶臼山古墳です。どちらも継体天皇の墓と言われます。そこから2本のラインが出ています。
星印が今城塚古墳です。
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 二本のラインはどちらも見勢丸山古墳(欽明陵)を通り、文武陵に届きます。
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 どちらも高松塚古墳を通ります。どうやら文武陵を築造するころ、継体天皇の陵墓がどちらか不明になっていたようです。あいまいなラインはその事を示しているのでしょう。 
 箸墓・応神陵・継体陵・欽明陵・斉明陵は、天武系の皇族にとって皇統の証明には欠かすことのできない陵墓だったのです。これは、7世紀後半から始まっているようです。
 王墓がつながるラインの存在、それは弥生から古墳時代にかけての九州の墓の造営に見られるものです。それを畿内に持ち込んだのは誰か。天武系の誰かです。その人は、九州の墓制を熟知していたでしょう。
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天武系の王朝は、本当に九州と関係が深いのでしょうか。
気になるところですね。また、付け加えですが、
九州から東遷した神武天皇と崇神天網は同一人物ではないかという説を聞きます。ラインで見てみましょう。古墳が二人の天皇の陵墓かどうか本当はわかりませんが。
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 北から崇神天皇陵→耳成山→神武天皇陵 と、なっています。直線に並びます。どうでしょうね。偶然ですかね。

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# by tizudesiru | 2013-08-25 01:37 | 113神となった斉明天皇 | Trackback | Comments(0)

112都を守る天皇陵墓

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都を守る天皇陵 a0237545_201564.gif 天智陵からのラインは南に伸びて、藤原宮の大極殿址を通り、天武陵まで届きました。白いポイントが藤原宮、帝とあるのは、文武天皇陵です。天智・天武陵の真南ではありません。
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 しかし、文武帝と見勢丸山(真の欽明陵と言われている)古墳をつなぐと、間に高松塚古墳の石室が来ます。。高松塚古墳の被葬者は、草壁皇子だと、昨年ブログで紹介していますから、此処では説明を省きます。文武天皇が草壁皇子の後継者であり、欽明天皇の血統であることを示しているのです。陵墓の位置は決していい加減ではありません。
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 では、昨日からの伊勢ラインに話を進めましょう。伊弉諾神社と伊勢神宮(内宮)を結ぶと、間に文武陵が入りました。しかし、ラインから約100mばかり南にずれます。これは、ライン上にあるとは言い難いです。すぐ近くの高松塚からも100mほどずれるので、どちらとも言い難いです。 
 気になるのは、伊弉諾神社と伊勢神宮の間が172km、伊弉諾神社と文武陵が87・7kmで約半分という事です。高松塚古墳または文武陵は、都の守りにとって大事な位置にあるのです。天武陵は藤原宮の朱雀大路の南の端にあります。このような天皇陵墓のあり方は、いつから始まったのでしょう。
 舒明天皇の場合はどうなっているでしょう。
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黄緑ラインの右から、舒明陵→桜井茶臼山古墳→誉田御廟山古墳(応神陵と言われている)が、ライン上にあります。舒明天皇にとって祖先のラインというのでしょうか。
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(桜井茶臼山古墳)
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(誉田御廟山古墳)
 次のピンクラインは、右から舒明天皇陵→推古天皇陵→敏達天皇陵となります。父の敏達天皇とその皇后の陵墓をラインが結んでいます。白の印は、藤原宮です。
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 天智天皇・天武天皇・文武天皇以前、舒明天皇・推古天皇・敏達天皇の時代は、祖先の陵墓とつながることを重視していたのです。つまり、皇統の正しさを示そうとしているのです。天皇陵が都を守るという発想は、7世紀後半に始まったのです。天智帝の陵墓は平安京が造られるときに造営されたと思います。

 それにしても、気になりませんか?
 桜井茶臼山古墳は、柄鏡形の古墳。舒明陵と誉田御廟山古墳は、撥形? 古墳の形が違います。桜井茶臼山古墳の横には、宗像神社があります。一貴山銚子塚古墳や、石塚山古墳と同じ形の柄鏡形古墳。共通する古墳の形は、何を意味するのでしょうね。

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# by tizudesiru | 2013-08-24 21:55 | 112都を守る天皇陵 | Trackback | Comments(0)

111都を守る選ばれし神々

都を守る選ばれし神々
京都の守り
再び

 桓武天皇が遷都した平安京の守りを見直しましょう。ラインはいずれも以前紹介したままです。変えずに見直しましょう。水色ポイントは、すべて延喜式内社(名神大社)です。三角形の中央を南下するピンクラインの末端の式内社は、広瀬大社です。一言主神社と並ぶ西側の式内社は、長田神社(名神大社)です。実は、一言主のポイントは、春日大社です。すぐ横なので紛らわしいのですが。下に画像を上げます。
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平安京の守りに、当然、春日大社はかかわります。他にもラインがありますが、複雑になるので、一つだけ上げました。
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 平安京は、貴船神社を頂点に伊弉諾神社、伊勢神宮が大きな三角形を造っています。
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貴船神社は二か所からラインが出ています。三角形になる伊勢ライン・伊弉諾ラインは、貴船神社から。ピンクのラインは奥宮から出ています。
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 ピンクのラインは京都御所を通ります。ここは、度重なる御所の火災の後、白いポイントのある大極殿址から移動建て替えられたのです。紹介済です。黄色の三角の頂点は、加茂別雷神社(上賀茂神社)です。
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 賀茂別雷神社からのラインは、松尾大社と天智天皇陵に届きました。陵墓が都の守りとなっています。
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 嵯峨天皇に都の守りを託された空海の東寺は、加茂別雷神社から南下するライン上にありました。そのラインに、徳川幕府の二条城が乗っています。意図的に築造された幕府の出先で、空海の霊力を断とうとしているのでしょう。これらは全て紹介済です。
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 つまり大切な場所は、神々(神社)の力を持って守られる事、偉大な祖先の霊力(陵墓)にも守られる事などを確認したかったのです。
 
 さらに付け加えます。実は、伊勢神宮のラインには、文武天皇陵が乗っているのです。持統天皇が成長を待っていた若い天皇でした。続日本紀には「初めてーーをする」という文章が多く見られます。律令がやっと整いさまざまな法令が施工されたのです。
 伊勢ラインに埋葬された文武天皇、何処を守護しているか、それが問題です。天武朝が初めて造営した「新益京」(いわゆる藤原京です。条坊をもっている都のはずですが、藤原宮はあっても藤原京ではありません。新益京と呼ばれています)
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白いポイントが、藤原宮の大極殿址です。
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 しかし、よく見ると、文武量は伊勢ラインから若干ずれています。
 真相は、またあとで。
 


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# by tizudesiru | 2013-08-23 20:06 | 111京都の守り・再び | Trackback | Comments(0)

110瀬戸内の神籠石再び

瀬戸内神籠石再び
 神籠石は倭国を守るために造られた

 神籠石が九州の王権の終末期と関係が深いと書きました。神籠石と呼ばれる古代山城は、北部九州のみに存在するのではありません。以前から、石城山や播磨城、四国の永納山の神籠石など紹介しています。直線状に並ぶという事です。
 改めて見直しました。
 そこに見えてきたのは、北部九州との結びつきでした。
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 これまでに紹介したラインです。
①石城山と永納山は東西に並ぶ(紫ライン)
②石城山・大廻小廻の小廻・播磨城のライン(赤ライン)
③永納山・城山(坂出)・屋島(ピンクライン)
 上の②ラインに熊山石積という不思議な建造物があります。気になるのでラインに乗せましたが、今のところ意味はありません。③ラインにも、飯野山の山頂が乗っています。偶然でしょうか。屋島城も乗りました。屋島は神籠石となってはいません。しかし、ラインに乗るのでポイントを立てました。このラインは更に伸びて、大津京辺りにつきます。以前も、天智帝とのかかわりが気になるとは書きましたが、結論は出していません。ただの偶然かもしれません。
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 しかし、次の画像は偶然でしょうか。
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 永納山・石城山のラインが伸びて、山口県の生野神社に届きます。この神社には、宮山古墳(前方後円墳)があります。
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 宮山古墳からラインを南下させると、御所ヶ谷神籠石に届きます。間に、天疫神社が乗っています。
 御所ヶ谷神籠石を須玖岡本の祭祀場所(熊野神社)と結ぶと、間に入るのは「風治神社」です。「封じ」の意味を持つ神社です。
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 当然ながら、熊野神社・御所ヶ谷神籠石のラインは、石城山に届き更に伸びていきます。
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 そして、播磨城までラインが伸びるのです。ただの偶然のラインですか?
 私は九州の神籠石とつながるラインで、九州の王権と関係深い築造遺跡だと思います。石城山神籠石・大廻小廻神籠石・播磨城神籠石、そして、永納山神籠石・坂出の城山神籠石は、お互いに深い関係にあったのです。
 これらの神籠石ラインを見ると、神籠石という遺跡がどこを守ろうとしたか。どこに住む人々が造ったのか。
 改めて書かなくとも、分かりますよね。

 
 北部九州につながる人々がかかわり、北部九州を守ろうとしたのです。
 実は、正史に記載されている古代山城も北部九州の王権と関係深いという説も聞きました。それらも合わせて神籠石を見直す時が来ていると思います。
 
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誤解のないように上の画像を追加して載せました。須玖岡本・御所ヶ谷・石城山ラインと、石城山から播磨城ラインは、2本のラインです。

 さらに付け加え、
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 阿蘇と富士を結ぶラインは、夏至の日の出のラインです。このラインとほぼ平行な瀬戸内の神籠石系山城のラインも、夏至の日の出のラインと重なると思います。パソコンで確かめてはいませんが。
 神籠石は山城でありながら、祭祀の場でもあると私は思います。
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 では、また
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# by tizudesiru | 2013-08-22 22:21 | 110瀬戸内の神籠石再び | Trackback | Comments(0)

109倭国王の侵略

倭国王侵略
 倭女王ヒミコが九州に住んでいたのは、考古資料や文献からも動かないでしょう。素人が読めば、そうなってしまいます。ですから、他の倭国王も九州に住んでいたことになります。それは、何処に?
 それは、大陸の文化を取り入れ、米作りが始まり、銅や鉄の道具が使われた地域でしょう。多紐細紋鏡や細形銅剣の副葬を見ると、唐津の辺りに始まった稲作をする弥生集落は北部九州に広がり、中部九州にも広がったようです。

 九州の弥生の人口は少なかったと云われますが、本当にそうでしょうか。
 人口密度ですが、暮らし方が家族単位であったり、一族単位であったりして、集落を築いていなかったのかもしれません。人口が集中するには、それなりのメリットがなければなりません。稲作人口が増え、生産を上げる意味があって人口が集中したのでしょう。
 熊本の畑では少し歩いただけでも「黒曜石の石器」や「縄文土器」をよく拾います。もちろん弥生土器も更に多く拾いますが。其の量からして、人口が少なかったとは思えません。阿蘇の噴火、姶良火山の噴火などで、大地は火山灰に覆われていたとも聞きますが、それでも九州は生産力があったのでしょう。

 石器の伝播の地図を見ると、伊万里の黒曜石が鹿児島にも出土するし、広範囲に人が住み交流していた事が分かります。弥生の物流は、新石器時代・縄文時代の伝播ルートを使わなかったのでしょうか。それはないでしょう。
 福岡市西区今山の石斧は、阿蘇の南西台地にも広がっています。
 阿蘇の黄色の火山灰土を焼くと赤色顔料「丹」になります。福岡県の丹塗り土器にも漆に混ぜて使用されています。其の生産地(阿蘇カルデラ内の南)が昨年発掘され、説明会がありました。つまり、縄文時代からの伝播ルートを使って交流したという事です。
 弥生時代、丹塗り土器を使った祭祀も大掛かりですし、甕棺も大きくなっていきますです。富の集中が始まった処に権力者は生まれたのです。人口が少なくては、富の蓄積はありえません。

 では、「富を蓄積した権力者は何処にいたか」ですが、青銅の剣・矛・戈や、前漢鏡を副葬した甕棺墓が集まる地域です。北部九州に他なりません。
 

 復習ぽくなりますが、再度書きます。1・2世紀のイト国には「世王あり」となっていますから、代々王がいたわけです。当然、「倭国王」です。倭国王は大量の前漢鏡を持っていた。中国の皇帝からの下賜品を持ち、甕棺墓に埋葬されていたのです。
 巫女王といわれる平原周溝墓は割竹形木棺で、国産鏡が40面近く割られて副葬されていました。何らかの社会的な異変が巫女王を襲ったのでしょう。さて、そのあとですが、王墓と思しき墓は「一貴山銚子塚古墳」となります。金メッキされた後漢鏡を持ち、三角縁神獣鏡が棺外に8面副葬されていました。
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(青・一貴山銚子塚古墳、 赤・香椎宮、 緑・六嶽)
 その一貴山銚子塚古墳は、香椎宮を通り六嶽にラインが伸びました。何を意味するか、当然、香椎廟の被葬者と近親者であり、六嶽の神々を崇敬していたことになります。一貴山銚子塚古墳が4世紀初と言われますから、香椎廟はその前後に造られたことになります。前か、後か。紀元前の遺跡、立岩遺跡や須玖岡本遺跡とのラインのつながりから、2世紀か3世紀となります。ラインが社殿を通過していないことも、社殿が作られる以前の出来事を示唆しています。
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そうそう、以前「香椎宮と一貴山銚子塚古墳」について、ブログに下のように書いていました。
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この時、六嶽について、真東の立岩遺跡、真南の須玖岡本遺跡との関係から改めて香椎廟を見直してみると、やはり伊都国の王が夏至日の出の山に降臨したように見えます。西から東に「東遷」したのは、神武天皇でした。「神武は糸島から遠賀川流域に東遷した」という説を聞きました。「まさか」と思って聞きましたが、今は納得できそうです。ただ、文化の伝播を見ると、北部九州の墓制なり、日知りの思想なり、近畿に入っているわけですから、大量の人口移動を伴う政変・異変が幾度かあったのは確かでしょう。「日本書紀」にも神武紀の記述は、主語が変化します。天皇と書かれたり、天神とかかれたりしますから、読み手は少し引っ掛かります。日本書紀の編者は、別々の人物の事を神武紀に集めたとも言われます。神武天皇と表現される人物は、数人いたのです。 
 その中の一人が六嶽に降臨した。彼はそこで終わり、次の世代のキビと親しくなった別の人がヤマトに入ったのでしょう。 
 東遷が成功したのは、鉄があったからでしょうか。
 稲作とともに近畿に九州の文化が伝わったのではありません。稲作はもっと早く伝わっているはずです。
 なぜなら、「田代」という地名は、九州にたくさんあります。「田代」とはその年の稲の出来具合を占う場所であり、稲作の伝統行事です。しかし、近畿には田代の地名は無しに等しいです。しかし、東日本・東北には「田代」の地名があり、青森では田代湿原で今でも「田の出来具合」を占っているそうです。つまり、九州からの稲作の文化は、近畿を飛び越えて東に伝わっています。それはなぜか。近畿には別の文化国があり、九州の勢力は入り込めなかったのです。
 結果、倭王は武力を使ったのです。
 それは、深い確執を生み、後世に「熊襲征伐」や「征西」という形になって、逆に九州が武力で抑えられることになるのでしょう。

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結果が、上の画像です。黄色の夏至ラインが「一貴山銚子塚の被葬者は、六嶽に降臨した人物を尊敬し、香椎廟の被葬者とつながりがあった」ことを表しています。冬至の日の出は「金山」から昇りますから、太陽の復活を願い祭祀をしていたはずです。香椎廟からも金山を祀っていたでしょう。故郷の神山として。しかし、水色ラインに筥崎八幡宮が乗っています。延喜式内社として、香椎廟と金山の結びつきを遮断したのです。仲哀天皇廟となった香椎廟ですが、さらなるダメ押しが10世紀に行われたと思います。
 青ラインは、一貴山銚子塚古墳から雷山山頂を通り、女山神籠石に届くラインです。度重なるヤマトの征西に対して、九州勢力が対抗しようと造った「古代の祭祀を伴った山城」です。それは十分に使われることなく、倭王の末裔は九州のあちこちに散らばっていったのでしょう。
 九州に残る神籠石(祭祀を伴う古代山城)は、有名古墳と結びつきます。つまり、古墳時代になって近畿勢力の征西が激しくなり、過去の倭王の霊力を頼りに神籠石を造ったことになるのです。神籠石とつながる古墳は倭王墓であり、古代九州の勢力の最終段階を示しているのです。神籠石の存在意義が伝承としても残らなかったのは、かかわる人々が滅んだからです

 

ここで、次の問題に移らねばなりません。
 近畿には九州の勢力が進出していました。いわゆる「神武東征」という伝承を持つ人々の進出です。 
 その勢力は果たして王権となりえたのか。それとも、在地の王権が復活したのか。
 それは、氏族の戦いであり、氏族の守りの神々の戦いでもありました。
 

では、また
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# by tizudesiru | 2013-08-20 22:11 | 109倭国王の侵略 | Trackback | Comments(0)

ふたたび香椎宮 3

ふたたび香椎宮 3
香椎宮と弥生の国々
のつながりを見直します。
 
 日知り王の夏至・冬至のラインが出てきたところで、弥生王墓とのつながりは確認されているのですが。
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 赤ラインは、香椎宮と九千部山を結ぶラインです。ライン上に須玖岡本王墓(弥生中期)が乗っています。いわゆる奴国王で、ガラス璧・前漢鏡を副葬しています。この時期の大首長は「中細形銅矛」を所有していて、その地域は、伊都国や奴国の周辺と玄界灘沿岸に限定されるそうです。
 
 ピンクラインですが、香椎宮の東、鉾立山の更に東にあるのは、立岩遺跡(弥生中期)
です。この遺跡には、三雲遺跡(伊都国)と同じように男性王と女性王の甕棺が出土しています。ここは遠賀川流域で力を持った国だったのです。
 立岩遺跡の更に東にセスドノ古墳(円墳)があります。この古墳は後の時代の古墳ですが、田川地域の銅などの鉱物資源を手にした有力者のものでしょう。弥生の国産鏡に此処の銅を使ったとしたら、田川の首長は大きな富を得たことでしょう。逆に、他の地域からは垂涎の宝の国と見えたはず。神功皇后が夏羽を焼き殺したのは、銅の利権が絡んだからでしょうね。そして、セスドノ古墳の先には、金富神社がありましたね。
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 金富神社は宇佐神宮の元宮とも言われ、豊前国分寺・金富神社・古表八幡神社のラインがありました。すでに紹介しています。

 白ラインの北には、宮地嶽古墳(6世紀)。香椎宮あたりを挟んで、南には老司古墳(4世紀末)。どちらも馬具を副葬する古墳です。

 香椎宮が弥生中期の王墓とつながる事、それは、香椎宮の祭祀が古い時代に始まったという事を示唆しています。つまり、香椎宮はもともと廟ですから、仲哀天皇以前に別の王が葬られていたかもしれません。その伝承が、神功皇后や仲哀天皇の伝承と結びついた可能性もあります。

 去年から紹介していますが、須玖岡本の王墓は香椎宮と九千部山のラインにあり、さらに宝満山・飯盛山の弥生王墓ラインの交点にあります。香椎宮が弥生の祭祀と結びつくなら、香椎・九千部ラインは、きわめて重要な霊ラインとなります。霊ラインというのは勝手な言い方ですが、古代の有力者が墓を造営したり、祭祀をしたりするために、位置を決めるためのラインという事です。
 香椎宮がさまざまな時代とリンクすることは、みなさんご存じです。
 神功皇后が必要とされた時期に社殿が新しくなったり、社格が上げられたりしますが、それにしても神功皇后が15代天皇という地位を奪われたのは、三韓征伐という記述のためでしょう。
 日本書紀における神功紀と応神紀の間の断絶、オオタラシヒコオシロワケ・ワカタラシヒコ・タラシナカツヒコ・オキナガタラシヒメのタラシ系の天皇が、ホムタ(ワケ)天皇になった本当の理由は何か。九州を侵略したタラシ系天皇の系譜は何故途切れたのか。神功皇后の謎が解ければ、古代史のなぞもかなり解けるのでしょうね。
 
 120年足せば実年代にあうという記述の仕方をなぜ選択したのか、などなど。
香椎宮が持っていたさまざまな伝承が、かなり消滅していると聞くと残念ですね。

 しかし、香椎宮ラインが教えてくれえることもわずかながらあるのです。
①紀元前1世紀の立岩遺跡・奴国の須玖岡本遺跡の王墓が結び付く事は、当時の国々が親密であった事。
 
②前漢鏡を持ち、青銅製武器を持ち、甕棺墓に葬られた王とつながる香椎廟は、弥生の墓だった可能性がある。

③日知り王の山である鉾立山の東に位置する立岩遺跡も、太陽を祭祀し東西ラインを重視していた。セスドノ古墳の被葬者も同じく、立岩の王に倣い鉾立山の東に円墳を造営した。

④宮地嶽古墳と老司古墳を結ぶと、香椎宮と大本営址の間をラインが通る。古代の王の廟があったのは、此のラインの上である。今は、道路になっているが。宮地嶽古墳の被葬者は、香椎廟の伝承を承知していたことになる。
 
⑤仲哀天皇の京都であるとしたら、わずかな時間に都としての形を整えることは難しい。しかし、すでにブログで紹介しているが、後世の都と同じような体裁を整えている。これは、別の権力者の王宮が営まれていたからに相違ないだろう。その王が香椎廟の真の被葬者となる。



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広い地域の山々と結びつく事も忘れてはなりません。地域の山々と結びつく墓を造る事は、古代王のステイタスでした。


 そろそろ、このあたりで香椎宮辺りで一つの仮説を出さなければなりません。
 
 4世紀といわれる一貴山銚子塚古墳の被葬者は、香椎廟の被葬者と六嶽に降臨した神を祭祀していた。この香椎・六嶽ラインは、一貴山銚子塚古墳からすると「夏至の日の出」のラインであり、最重要ラインであった。
次のまとめで書きます。
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# by tizudesiru | 2013-08-20 12:10 | 108ふたたび香椎宮 | Trackback | Comments(0)

ふたたび香椎宮 2

ふたたび香椎宮 2
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前回、香椎宮・若宮八幡・六嶽神社のラインを紹介しました。が、六嶽神社との関係がはっきりしませんでした。六嶽神社の祭祀は、もともと六嶽山頂で行われていました。実は、六嶽は、香椎宮からすると、夏至の日の出の山に当たるのです。
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 (夏至ラインの青星標は一貴山銚子塚古墳です。続いて宮地嶽山頂・若八幡古墳・香椎宮・六嶽)
 さらに、このラインは、伊都国の最大の前方後円墳である一貴山銚子塚古墳からのラインと重なります。一貴山からすると、眼前の宮地岳の山頂から夏至の陽は上がります。宮地岳から見ると、香椎宮を超えて更に奥の六嶽から朝日が昇ります。また、このラインの上には、若八幡古墳(糸島市)が乗っています。 そして、香椎宮から見て冬至の日は何処から上がるかといえば、若杉山の太祖宮あたりから昇ります。ちょうど、神功皇后がイザナミを祀る飯盛山に相対するように、若杉山にイザナギを祀ったと伝承のある太祖神社の後ろから、冬至の朝日は昇るのです。此のラインは、さらに伸びると古処山々頂に当たります。神功皇后が滅ぼした羽白熊鷲の本拠地の山です。彼は古処山に住んでいました。
 春分秋分の陽は東の鉾立山がら昇り、西の大嶽の上に沈みます。鉾立山・香椎宮の距離と、大嶽・香椎宮の距離はほとんど同じです。香椎宮が、鉾立・大嶽ラインを二分するのです。みごとな偶然ですね。
 ただ、若杉山から古処山に伸びる冬至ラインの起点は、香椎宮本殿ではありません。仲哀天皇の大本営址と伝わる訶志比宮址になります。つまり、このラインが有効なら香椎宮本殿が造営される前の古いラインだったことになります。
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(香椎宮・大本営址)
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(若杉山の太祖神社)
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(古処山)
 この太祖神社は、筥崎八幡宮・太祖神社・大分八幡宮と本殿をつなぐライン上にありました。筥崎宮は九二三年に大分八幡宮から遷宮されています。太祖神社は、延喜式内社が奏上されたころの神社だと思っていました。しかし、さらに古い信仰の名残を教えてくれるかもしれません。
 再度香椎宮を取り上げたのは、夏至・冬至・春分秋分の山は何処か明らかにしたいからでした。もし、仲哀天皇が香椎宮を宮殿としたのなら、そこに「日知り王」としての痕跡があるはずです。それも、弥生の須玖岡本遺跡・吉武高木遺跡の日知り王たちにつながる山々と、何らかのつながりがあるはずだと思ったからです。
 吉武高木遺跡からの夏至の日の出は、鉾立山です。
 香椎宮の創建が微妙であることは、みなさんご存知です。弥生の痕跡を残す場所だとしたら、熊襲征伐とは何でしょう。大きな戦いがあっていたのは、倭国大乱のころでしょうか。
飛躍しすぎるので、この辺で。

では、また
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# by tizudesiru | 2013-08-16 11:11 | 108ふたたび香椎宮 | Trackback | Comments(0)

108再び香椎宮

再び香椎宮
 邪馬台国の女王ヒミコは弥生王墓ライン上に眠り、そこは父方の環濠集落の近くであり、神聖な場所である。それは、香椎宮と真南に位置する九千部山とをつなぐライン上で、弥生の霊ライン(宝満山・飯盛山ライン)の交差する地点であり、須玖岡本の熊野神社の周辺である。と、昨年初めてブログに書き自説を述べています。幾度か取り上げた香椎宮を、再び取り上げたいと思います。
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 香椎宮には大事なものだけあげても、上の画像のようなたくさんのラインが読み取れます。これらのラインは、弥生の政治文化勢力のつながり、古墳時代、白村江戦後の政治体制、奈良平安時代の政変などを反映し、さまざまな時代の権力者の思惑が交差していますので、なかなか読みにくいのですが、再度取り上げたいと思います。神社を結ぶラインです。時計回りにラインに番号を付けました。
①香椎宮・若宮八幡神社・六嶽神社
②香椎宮・大根地神社・三奈宜神社(荷原)
③香椎宮・大城山(大野城)・三奈宜神社(林田)
④香椎宮・筑紫神社・見勢大霊石神社
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まず、香椎・六嶽ラインを見ましょう。
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香椎宮を起点にしたラインは、
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宮若市の若宮八幡神社を通り、六嶽神社に届きます。
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いずれも本殿をつなぎます。正確に測量しなければ、三か所がこのようにつながることはないでしょう。三か所の神社は、それぞれ古い由緒を持っています。
 三奈宜神社が二か所ありますが、いずれも延喜式内社を主張しておられます。お互いに神社としての関係もないといわれています。「神功皇后が三韓征伐の折、兵士を集めようとしたが集まらないので、天神地祇を祀り祈ると、自ずから兵士が集まった」という伝承があります。
 見勢大霊石神社は仲哀天皇戦死を隠し、石を天皇にみたてて熊襲退治を成し遂げた後、その石を祀ったとされる神社です。筑紫神社も延喜式内社で、天智天皇が基肄城を築くとき基山から降ろした神を祀っている神社です。
 香椎宮は「万葉集」にも香椎廟として出てきます。仲哀天皇の廟となっているのです。香椎宮に都したとされる天皇で、闇夜に宮で琴をひきながら亡くなっています。
 香椎宮と上記の神社のかかわりは、神功皇后が結び付けていることになります。その伝承を掘りおこし社殿を造ったのは何時の時代でしょう。延喜式内社は10世紀ですが、各神社の由緒は、もちろんそれより古いのです。また、六嶽神社は、もともと六嶽山頂に、三奈宜神社も元は裏山に祀られていたことが分かっています。筑紫神社も基山に祀られていたし、香椎宮も本来は裏山の「二神山」を祀っていたそうです。古い信仰の形は、山をご神体としていたのです。それが神社に下され、後の時代に大きな社殿が必要になった時、ほかの神社と結びつくように建てられたか、または、古来の結びつきを伝承するために選ばれた位置に社殿を建立したか、また、別の理由によるものか……ですね。
 




また、あとで
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# by tizudesiru | 2013-08-14 16:40 | 108ふたたび香椎宮 | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡の最初の製作地は何処?

三角縁神獣鏡の最初の製作地は?質問しましたが、答えられませんでした。
 古代史に少しでも興味を持っている人なら、 三角縁神獣鏡が国産だという事を聞いていらっしゃるはずです。

 先日、森浩一氏が亡くなられました。「三角縁神獣鏡は中国に一枚も出ない」と最初に云われたのは、森浩一さんだそうです。

 続いて奥野正男氏が「三角縁神獣鏡の研究」で、鏡の文様などを研究し、笠松型文様が中国鏡にはない日本独自のものであることなどを発表されました。

 そして半年後、中国人学者が「三角縁神獣鏡は中国に出ない」ことを発表し、今では誰でも知ることとなっています。
 だからこそ知りたいではありませんか。

 その鏡は、どこで生産されたかと、製作意図はなんだったのかを。なぜ、1000枚近くも作ったのかを。

 長い間、三角縁神獣鏡が出るから邪馬台国は畿内にあったと聞かされてきました。去年の吉野ケ里でも同じような講演があったようで、その文面を読んで「税金を使っている人は、決まりを曲げられないんだ」と思いました。「三角縁神獣鏡はヒミコの鏡」これは、税金で生活する人の越えられない鉄の壁らしいです。

ですが、質問してみました。8月11日の春日市の邪馬台国シンポジウムで。

「三角縁神獣鏡の件ですが。この鏡について、同型鏡とか、同笵鏡とか言われるものがあります。その中で、どこの古墳のものが原型となり、古いのか。また、古いと云われる理由は何かを教えてください」
 
 原文が手元にないので、文が微妙に違っているとは思いますが。
 質問での失敗は、「畿内の三角縁神獣鏡」の「畿内の」を書き落としたことです。(文面での質問でした)

 同型鏡・同笵鏡という文言で、そのことは当然通じると思っていたのが間違いでした。
 4人のパネリストの答えは共通していて、「中国に三角縁神獣鏡はでない。今は国産と言われている」でした。退屈というか、会場は下を向いていました。みなさんすでに承知、同じことが高島忠平氏のレジュメにも書かれていましたし。

 私は、4人のパネリストは、三角縁神獣鏡がどこで生産されたと云われているか、鏡の形や文様などから何処へ伝播していったか、それが古墳の編年の決定打になる事、古墳の新旧が逆転する可能性がある事など事細かにご存じだと思います。

 それがヤマト王権により下賜されたものとされている事から、王権樹立の次期ともかかわるので言えないのかなと思いました。勝手な憶測でしょうか。

 畿内説の学者の中には、椿井大塚古墳の三角縁神獣鏡がもとになり、それが全国に広がったと云われています。何度も書きますが、一貴山銚子塚古墳をはじめ、那珂八幡古墳、藤崎の方形周溝墓、名島古墳、御陵古墳など、初期前方後円墳やそれ以外の墓にも三角縁神獣鏡が副葬されています。それも墳丘の大小を問いません。地方の有力者に下賜というのですが、墳丘の大きさに差がありすぎます。また、一貴山銚子塚古墳には、金メッキの後漢鏡が頭部に置かれ、三角縁神獣鏡は棺外側面だったそうです。そのことで、王権からの下賜品に疑問符が打たれました。つまり、王権からの下賜品としての三角縁神獣鏡の説が揺らぐわけです。
 


   余計なことかもしれませんが、此処に書きました。
 質問の意図が伝わらなかったとは思えません。司会者も公開の場で質問として取り上げ、パネリストに聞いてくださったからです。司会者は理解されていたはずです。
 でも、
 知りたいことって、たくさんあります。簡単に知ることなんて出来ないのが当たり前。
 そんな気持ちになりました。
でも、これは、寄り道。すっきり忘れて、地図上のラインを追求しなくちゃ……


では、また
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# by tizudesiru | 2013-08-13 10:49 | 107寄り道・邪馬台国 | Trackback | Comments(0)

107邪馬台国シンポジウム

8月11日邪馬台国シンポジウムで聞いた話
 高島忠平氏の話に「考古学的に見た邪馬台国の条件」がありました。興味がわきますね。
 その条件が4項目ありました。
(1)「国」の成立の状況が明らかでなければならない
(2)卑弥呼の館(都)は環濠集落でなければならない
(3)卑弥呼が都する邪馬台国は国際性が豊かであらねばならない
(4)卑弥呼のような巫女王の出現過程が考古学的に説明出来ねばならない
 鉄・鏡・武器・絹だけではありません。他の点からも、邪馬台国が九州にあったと考えられる観点を出しておられました。やはり北部九州のどこかです。
 
 続いて、柳田康雄氏でした。この方は、「邪馬台国の東遷」ではなく、「邪馬台国の移動」説で有名です。
 伊都国にお住まいで、平原の王墓の鏡が国産だと発表された人ですね。三雲南小路王墓の話から始まりました。
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1号甕棺と2号甕棺が周溝のうちに埋葬されています。王が1号甕棺、その妃が2号甕棺と言われています。妃か、女性の肉親か、わかりません。
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1号甕棺には、中国の皇帝から下賜された鏡・ガラス璧などが副葬されていました。異体字銘帯鏡・ガラス璧など楽浪郡では出土しないものだそうですから、前漢王朝から直接下賜されたものだそうです。  二号甕棺からも中国の鏡が22面出ています。
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合わせて57面以上の前漢鏡を持ち、32mの大型墳丘墓を2基の甕棺が占有するわけですから、弥生時代最高で最古の王墓だそうです。三雲南小路の王墓と、須玖岡本王墓のように、平野単位の領域を超越する政治権力を掌握したオウの中の王が出現していると説かれました。
 ありがたいことに、わたしの「日知り王」のラインと何ら矛盾する事なく、那国王墓ともつながります
 更に、 「イト国」王は倭国王という展開になりました。
 ・紀元57年「倭奴國」が、後漢の光武帝から「委奴國王」の金印を下賜されているが、志賀島には後漢鏡は出土せず、ほかにも後漢との交流の証はない。また、須玖岡本王墓の後は有力者の墓は発見されておらず、「委奴」をワドと読み、伊都国説をとる。なぜなら、この時期「井原鑓溝王墓」が江戸時代に発見されており、前漢末から後漢初期の方格規矩鏡21面・巴形銅器3個・鉄刀剣などが発見されている。
 
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(紀元57年下賜の金印と、58年下賜の金印の酷似。これは、金印偽物説はありえないことを証明するそうです)
 また、107年「倭国王帥升等」が「生口百六十人を献じ」ているが、『後漢書』倭伝では、二世紀初めまで倭国王は存在している。それは、『魏志』倭人伝の「伊都国に代々王がいた」とされる王につながるものである。ほかの地域では有力首長墓は発見されていない。
 柳田康雄氏は、イト国王が倭国王だったといわれます。
 倭国王は伊都国で継承されていたことになると、一大率が「常に伊都国に治」し、中国の刺史のような役目をしていたのも自然です。また、女王国への荷物は、船着き場で荷が解かれ文書・賜遺のものを女王国に伝送し、不足や違いがある事は許されなかったと倭人伝に書かれていますから、「文書も読んで、荷物もあらためた」のなら、漢字もある程度以上知っていたことになります。文字を知らないで、文書と荷物を改めることはできません。それは、倭王から韓国の国々へ、帯方郡へ、京都へ使いを出す時も、逆に郡の使いが倭国に来る時も同じであるのです。文字も三世紀には、すでに倭国に上陸しています。
 更に
 「代々王がいた」とされる伊都国です。王がいた国です
。『 世有王。皆統屬女王國となっています。代々王がいて、その王は皆、女王国に統屬されていた』のですか。共立された女王の国に統属されていたとは、変です。力関係からして、周りの共立した国々の首長達はかなりの決定権を持っていたわけです。王が伊都国にいたのなら、伊都国王の発言力は大きかったはずです。奥野正男氏によると、「漢字の読みは、伊都国が女王国を統屬していた」とする方が自然だそうです。 
 そして、柳田氏から鉄の棒グラフが示されました。奥野正男氏「鉄の古代史」により、弥生の鉄は圧倒的に九州に多い事は、すでに十数年前から私も知っています。今回の棒グラフでは、「倭国大乱」の後も、鉄は九州が圧倒的に多い事を力説されました。
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 倭国大乱とかかわりがあるとされる「高地性集落」、紀元前1世紀ころから瀬戸内以東に出現します。やがて、近畿地方の内陸部では大規模な高地性集落が出現します。北部九州では弥生から古墳時代前期まで拠点集落が継承していることから、九州では「倭国大乱」はなかった。それは、邪馬台国女王を共立する条件がない事になり、邪馬台国は近畿であるという論理につながっています。拠点集落の消滅と高地性集落は、倭国大乱を示すのでしょうか。鉄鏃・石鏃・銅鏃の出土を見ると、九州で大乱があったと思っているのですが、どうでしょう。銅鐸ではなく、銅戈・銅矛・銅剣などを祭祀具として発展させた九州こそ、恐ろしい戦いをしていたと思います。平和な祭祀をしていた近畿が、鉄の文化圏に追い詰められたと考える方が自然です。
 鉄さびの痕跡のみしか「弥生の鉄」が出ない奈良県唐子・鍵遺跡などの拠点集落が消滅しています。また、銅鐸は墓の副葬品ではありません。集落の祭祀に使われたそうですから。それを埋納する時、人々はどんな気持ちだったでしょう。悲しみと不安と、生き延びようとする強い決意があったと思います。
 

 続いての 柳田康雄氏の話は、「弥生終末の平原王墓』でした。

 平原遺跡には、弥生後期から古墳前期までの首長クラスも含めた墳墓が営まれています。その1号墓は割竹形木棺の平原王墓です。副葬品は大型内向花文八葉鏡5面・虺龍文鏡・大宜子孫銘内向花文鏡・長宜子孫銘内向花文鏡・方格規矩四神鏡・32面、40面の鏡のうち36面が破砕されていました。墳墓で銅鏡を破砕する風習は、伊都国で始まりました。棺内から耳璫(じとう)が管玉・小玉・など、ともに出土しています。耳璫はピアスで、女性の墓から出土します。つまり、被葬者は女性なのです。
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写真の赤い欠片が、平原1号墳からの出土品です。原田大六氏が掘った時は、ピアスであることが分からず、大きい欠片を分析に出したので、消滅しているそうです。柳田氏は、この古墳が方角・方位を意識して築造されていることを指摘されました。やはりと思いました。弥生時代に、既にラインがあるのです。「1号墓は小型の墳丘墓であるが、主体部の周辺に小さな柱穴群、墳丘周辺に3対の鳥居状の双柱、墳丘の東側では主体部の主軸方向に「大柱」が存在する。「大柱」は、弥生後期初頭の5号墓の2基の主体部の双方にも主軸方向に位置することからも葬送儀礼に関する遺構であることが分かる。被葬者は、多数の大型内向花文八葉鏡を持つこと、墳丘墓が王都から離れた太陽信仰に関する特別な「場」に埋葬されていること、遺構・副葬品の特殊性など総合すると2世紀末の弥生終末期にあたる時期の巫女王とすることができる。すなわち、平原には弥生後期以後の歴代の主要な巫女が太陽信仰のもとに東西一列に埋葬され、三雲遺跡群に実務的な男性の倭国王墓が存在するものと考えている」とレジュメに書かれています。
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(平原巫女王墓です。赤い点が柱穴で、主軸線は日向峠に向きます。ラインは10月20日の日の出のラインになるそうです)

 柳田氏は、レジュメの最後に「ヤマト王権へ」と説を展開しています。
 「3世紀初頭になると、ヤマトに突然前方後円墳が出現している。分析すると、
 ①前方後円墳という墳丘形態
 ②石囲い木槨や竪穴式石室
 ③刳抜式木棺という主体部
 ④大型鏡を含む多量の銅鏡などの副葬品
 などで構成されている。①と②が東瀬戸内から・③と④が北部九州の弥生文化から継承されたものである」といい、「前方後円墳が出現していながら、近畿地方の弥生文化は継承されていない」と、指摘しています。
 つまり、ヤマト政権の発足は「イト国が主体になり、銅鏡の導入が遅れるキビ地方を中心とした東瀬戸内が参画して成立したものと考えている」
 「その時期は、ヒミコが共立され『倭国大乱』が収束した2世紀末以後である」 「ヒミコの性格を分析すると、平原王墓の巫女王に通じるところが多く、時期的には平原巫女王の次期巫女王が、倭国王ヒミコという事になる」
 更に、「倭国大乱の後・2世紀末にヤマトに遷都し、西日本を統括する倭国王に継承発展したものと考える」とまとめられていました。

 そうすると、倭国大乱の前に、ヒミコが共立される前に巫女王がいたという事ですね。「桓帝・霊帝の間、倭国大いに乱れて、こもごも相攻伐、年を歴るも主無し」男性の王でまとまらなかった互いに相攻伐しあった時代に、強力な巫女がいて、その墓は多量の破砕鏡からして霊力を封じられたとなるのですね。この人は、ヒミコではないが、巫女王であると。







また後で
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# by tizudesiru | 2013-08-12 00:14 | 107寄り道・邪馬台国 | Trackback | Comments(0)

106宮地嶽古墳と石塚山古墳

宮地嶽古墳と石塚山古墳
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宮地嶽古墳の東に尺岳山頂を挟んで、石塚山古墳があります。a0237545_1536460.gif
宮地嶽神社の東に不動古墳はあります。a0237545_15362535.gif石塚山古は、110mの撥形の前方後円墳です。
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1985年に国指定史跡になっています。4世紀初頭の古墳とされ、竪穴式石室ですから、宮地嶽古墳、老司古墳などより古い形態となります。宮地嶽古墳に先行するという事です。宮地嶽古墳の被葬者が、石塚山古墳の被葬者を知っていたとしたら、どういう意味になるでしょう。、三角縁神獣鏡は多くの鏡研究の成果により、魏の鏡ではない、日本製の鏡である事が定説となっています。そうすると、それらの鏡は何処で作られたのでしょう。 石塚山古墳の鏡は、京都の椿井大塚古墳の鏡の同型鏡と言われます。
 そもそも石塚山古墳ですが、『古墳は3世紀後半に出現し、前方後円墳がその象徴的なもので、日本独自に発展したものである。出現期古墳の最大のものは箸墓古墳である。次いで、吉備の茶臼山古墳、北部九州の石塚山古墳である。副葬品などから見ても、ヤマト政権から吉備~九州となっている』という学説(白石太一郎)は、有名です。また、『東日本は西日本とは異なり、前方後方墳が主体である。古墳期初期は政治体制がヤマトとは別であった。魏志倭人伝にいう「狗奴国」であろう。古墳後期になり、邪馬台国と同一の政治権力構造になったと考えられる。邪馬台国を引き継ぐヤマト政権は、古墳の分布から見ると、首長連合的に「王」を共立し、男子直系の継承であったとは言い難い』と、学説はつながっていきますが。
 加えて、『古墳時代の年代については、出土する土器からの判定だけではなく、三角縁神獣鏡の研究から4期に分けられることが分かってきている。年輪年代の研究も進み、今までの年代より古墳時代は3世紀初頭に遡る傾向にある。箸墓は卑弥呼の墓の可能性が高い』と展開していくのです。
 

 素人ながら、疑問でやや首が傾きます。だって、箸墓って、魏志倭人伝の記述より大きかったですよね。後円部の大きさが(径百歩)それだと言っても、前方部は後円部と同時に造られているそうではありませんか。記述は冢でしょう。それに、年輪年代って、別に箸墓そのものとは関係ないはずですよね。箸墓には調査が入っていないんですから。ほかの古墳に箸墓より古いものが出たから、古墳時代を引き上げようとしていると聞きましたが、本当ですか? また、狗奴国って、邪馬台国の北に位置していましたか?たしか、「其の南に狗奴国あり。男子を王となす。其の官には狗古智卑狗あり。女王に属せず」となっています。次の文が「郡より女王国に至るまで万二千余里なり」とある、有名な一文です。

 郡より一万二千余里で女王国に至るなら、そこは北部九州以外にありません。女王国は、九州にあったのです。
弥生の北部九州の墓制は、甕棺墓でした。その中に、方形周溝墓が入ってきます。福岡市には、方形周溝墓と3世紀の古墳(名島古墳)から三角縁神獣鏡が出土しています。近畿の三角縁神獣鏡鏡は、古墳から出土します。前漢鏡は、北部九州から出るのです。後漢鏡は弥生の箱式石棺から出ます。

 それでも、女王国が近畿でなければならない理由はなんでしょう? 事実が指し示す結論を曲げなくてもいいではないかと、普通の人は思います。
 それでは、石塚山古墳に戻りますが、三角縁神獣鏡は、椿井大塚古墳の鏡をもとに全国に広がったそうですが、本当ですか? 
 弥生時代に出土する鏡の鋳型は、須玖永田遺跡・飯倉D遺跡・寺徳遺跡など、福岡県がほとんどだそうです。近畿で鏡の鋳型の出土で有名な飛鳥池遺跡は、7~8世紀とされるそうです。
 椿井大塚古墳と石塚山古墳の鏡の問題に帰りたいのですが、書かなくても結論は出ていますね。伊都国の平原遺跡(方形周溝墓)の中国鏡と信じられていた鏡が国産なのですから、弥生時代には当然「銅鏡の工房」が福岡にあったことになります。技術も中国鏡とかわりがありません。鋳物の技術は、紀元前から北部九州にはありました。たとえば、鉄戈ですが、弥生前期の立岩遺跡の甕棺墓にも副葬されています。この鉄戈は、鋳物だそうです。韓半島には銅戈しか出ませんから、鉄戈は日本独自のものです。弥生の青銅製品加工技術からして、北部九州に大きな財力が集中していたことは疑えません。
 それが、どうして椿井大塚古墳の関係者から三角縁神獣鏡が広がったことになっているのでしょう。
 
 そのことは、またあとで

 白石氏の学説の紹介などの情報はブログ(棟上寅七氏)から教えてもらいました。もっと詳しく書かれていますから、ぜひ見られてください。
 
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# by tizudesiru | 2013-08-07 15:20 | 106宮地嶽古墳と石塚山古墳 | Trackback | Comments(0)

宮地嶽古墳の見直し

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先に紹介した宮地嶽古墳を見直してみましょう。宇佐・大富・天照・宮地嶽古墳が同じラインに並んでいることは、紹介済です。画像の古墳の印が、宮地嶽古墳の位置です。
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(宇佐神宮)
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(大富神社)
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(天照神社)
 宇佐神宮は、道鏡皇位問題で和気清磨が勅命により神意を確かめに来た神社であります。大富神社は、勅使が宇佐神宮に奉幣するとき、勅使井戸からお茶の水を汲み上げる神社でした。天照宮は、特別に宇佐神宮とは関係ありません。宮地嶽古墳も、別に宇佐神宮とは関係ありません。
 では、宮地嶽古墳とはどんな古墳なのでしょう。
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神社の後ろの山は、宮地嶽です。此の山の南麓に宮地嶽古墳があります。この古墳の横穴式石室の前で舞われていたという「筑紫舞」が、現在この神社の宮司に伝えられています。足の運びなど、古来から残る日本の舞踊には見られないものだそうです。
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この舞が奉納された石室は、石舞台古墳より長い、巨石の横穴式石室の古墳です。ここから出た17点の副葬品は、国宝となっています。宇佐神宮の国宝は、2件(本殿・孔雀文磬)です。本殿は江戸時代のもの、磬は平安時代のものです。宝物のほとんどが歴史時代のものになっています。宮地嶽古墳の宝物は古墳時代のもので、ガラス製骨壺以外は国立博物館に収納されています。
 今までに紹介した宮地嶽古墳は、さまざまな横顔を持っていました。御祭神は、息長帯姫命、勝村大神・勝頼大神です。宗像三女神もご祭神とされるようですが、神社聴の記録によると以前には祭祀されていなかったそうです。明治以降いろいろな造作があったのかもしれませんが、真相はわかりません。それでも、勝村大神・勝頼大神が御祭神であることは周知の事のようです。
  さて、宮地嶽古墳をほかの古墳とつないでみましょう。はたして、どんなつながりが想定できるでしょう。すでにお知らせしているものも多く含まれますので、その点もよろしく。
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宮地嶽古墳は、さまざまな神社や山頂と結ぶこともできますが、有名古墳とラインを結ぶことが可能です。
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石塚山古墳、竹原古墳、寿命王塚古墳、太宰府の石穴神社の古墳、老司古墳、興宗寺の穴観音古墳、そして、同じ地域内の波切不動古墳です。まず、宮地嶽古墳と波切不動古墳とを結び、ラインを伸ばすと、寿命王塚古墳に届きます。この三か所の古墳は、6世紀のものと言われ、馬具を副葬していました。王塚古墳は、装飾の豪華さでは一級で国指定装飾古墳1号です。波切不動古墳は盗掘により既に開かれていましたが、再発掘で馬具が確認されていますし、宮地嶽古墳に先行する巨石の横穴式石室です。この被葬者三者が、お互いを全く知らなかったとは考えられません。三者とも忘れられてはいましたが、宮地嶽神社の祭祀が守られています。初めは、山上での祭祀であったようですが、詳細はわかりません。登ってみると見晴らしはよく、鳥居がありました。江戸時代に麓の小山が崩れて石室が現れ、古墳の存在が知られるようになったそうです。
 
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宮地嶽神社のホームページの宮地嶽古墳(不動神社)の説明です。国宝20点となっていますね。
 金銅製の鐙は、高貴な人の副葬品ですし、大太刀も2m70cmもあったそうです。特に、金銅製壺鐙は純金で彫金され、同様のものは法隆寺・正倉院に所蔵されていて、六朝時代の作だとか。天冠も我が国の天冠のうちでも秀逸なもので、金銅製龍虎文様透かし彫りで、鞍と対になっているそうです。また、新羅からの伝来品とされるガラス板から、宮地嶽古墳の被葬者が独自に新羅と交流していたといわれているそうです。
 墳丘は34mほどの小さなものです。そこに国内二番目の23mの横穴式石室ですから、ちょっと変ですが、国宝の数々を見るとただの豪族には思えません。宮地嶽神社が全国の宮地嶽神社の総本山である事もうなずける気がします。

 
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# by tizudesiru | 2013-08-06 22:08 | 106宮地嶽不動古墳 | Trackback | Comments(0)

大富神社と勅使井戸と和気清磨

大富神社勅使井戸と和気清磨
 大富神社は、宇佐・天照・宮地嶽古墳のライン上にあります。
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 ラインは、神社の前庭の上を通っています。前の道路も境内です。昔は道路ではありませんでした。。お祭りの時、流鏑馬が行われる処です。本参道は、東西に森の中を通っています。川に橋はなく、川の堰を歩いて渡ったそうです。川に向かって幣が立てられています。川が本参道の入り口です。参道沿いに「勅使井戸」があります。
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 では、改めて大富神社に参拝しましょう。
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まず。大きな鳥居が見えてきます。右に折れて、流鏑馬をする馬場を過ぎ、神社横の駐車場に入ります。
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宮司さんにいろいろとお話をいただきました。有名なのは「感応楽」です。
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本殿の屋根は、こけら葺きだそうです。宇佐神宮とのかかわりは、勅使のお茶水を「勅使井戸」から二本分汲み宇佐神宮に奉納すると、一本は宇佐神宮の印を押され大富神社に戻ってくるそうです。
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 お祭りの時、「住吉丸」の山車が出ますが、10分1の模型がありました。それに、「鬼」の的がありました。流鏑馬の時に射る的でしょうか。「鬼」の最初の一画がありません。それは、鬼の首が落とされたことを意味しているのだそうです。
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 面白いものがたくさんありました。境内に宮司「清原」氏の御先祖の銅像がありました。由緒ある神社とはいえ、守り伝えるのは大変なことでしょう。
 ちなみに、「道鏡皇位事件」の時、宇佐神宮に勅使として下ってきた和気清磨は、ここに立ち寄ってはいません。路上から大富神社を拝んだので、「拝み野」として松を植え、今に伝わるそうです。それにしても、勅使は陸路を通ったのでしょうか。船で宇佐を目指したのなら、宇佐を通りすぎて大富神社に来るのは変です。陸路にしても、どこかで瀬戸内海を渡らねばなりません。
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 太宰府からであれば、冷水峠を越え、穂波町を通り、豊前にぬけるのは容易です。
 また余談に走りそうなので、此処で止めましょう。
 大富神社が宇佐神宮とかかわりが深いこともわかりました。
 それに、天照・大富・宇佐という全く無関係に見える神社が、一つのライン上にあリます。この事は、古代のどんな出来事を教えてくれるのでしょうね。
 今回の豊前への旅で思ったのは、筑紫君が豊前と関係があったことが分かってよかったという事です。また、宮地嶽古墳と石塚山古墳は、尺岳を挟んで東西の位置にあります。何の関係もない両者が東西に並ぶのは変でした。筑紫と豊前の関係があったのなら、両古墳のつながりの可能性が大きくなりました。
 宇佐神宮の始まりは、安心院の神社や、薦神社や周辺の神社にあるらしいことが分かりました。古代の様子を、やはりラインが教えてく手ました。ただ、安心院のラインは、なかなか有名どころとはつながりません。しかし、水沼氏や、筑紫君の名前を伝承しています。面白い旅でした。

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# by tizudesiru | 2013-08-04 09:31 | 105大富神社と和気清磨と | Trackback | Comments(0)

安心院の佐田神社

安心院佐田神社
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 佐田神社は、歴史の古い神社です。「善神王宮」という神社名は、なかなか聞かない名前です。それにしても、どちらかというと盆地で人家も少ない明治時代に安心院の小さな集落で、反射炉を作り民間で唯一大砲を造れたとは……何の伝統もなしに、そんなものに挑戦するでしょうか。つまり、此処に古代の製鉄の技術が残っていたのではないでしょうか。興味をそそられます。
 
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 さすがに立派な彫刻です。雲の彫刻の上に本殿が乗っています。高貴な神を祀る神社に使われるのが「雲」だそうで、ここの神様も高貴な神だとすると、「武内宿祢・素盞鳴尊・大山祇命」だという事になる。よく知られた神々です。「善神王宮」と呼ばれた初めのころは、別の名の神々が祭られていたのでしょうか。わかりません。
 本殿の裏の塀に使われた煉瓦です。反射炉は、地域の誇りだったのでしょう。
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 佐田には、佐田の京石という不思議な列石があります。
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 米神山のストーンサークルは有名です。米神山の周辺には、自然には立ちえない立石がたくさんあります。こしき岩という斜めに立てられた石もあり、上に乗せられた石が落ちると風水害になるというのです。十数年前に見たとき、上の石はセメントでつけてありました。落ちると困りますからね。さて、この列石は、何時の時代まで遡るのでしょう。
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# by tizudesiru | 2013-08-03 21:03 | 104安心院の佐田神社 | Trackback | Comments(0)

妻垣神社(足一騰宮)

妻垣神社足一騰宮
                 あしひとつあがりのみや
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薦神社の紹介に出ていた妻垣神社です。真薦で造られた八幡神の御験が、薦神社から八社を巡り宇佐神宮に納入されるという八社のうちに、妻垣神社もありました。
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妻垣神社由緒を見ると、由来には二つの流れがあります。
 まず、妻垣(ともかき)山は比哶大神の降臨地の霊地であり、宇佐神宮の第二殿であるという事。八幡神は天平神護元年だから、後の世に合祀、神宮皇后はさらに後の世に勧請し奉祀となっています。もともとの神祭りの姿は、比哶大神のみを祀ったことになりますね。
 二つ目の流れは、神武天皇の東遷に遡ります。日本書紀と関連させているのでしょうか。宇佐国造の宇佐津彦が宮殿を建立し、神武天皇に奉饗した旧地であるというのです。当時、神武天皇の母・玉依媛命を天種子に祀らせたそうです。似たような話が、書紀の雄略紀にありました。あちらは、一言主の神で祀らせられたのはオオタタネコでした。オオタ種子だったのでしょうね。
 こちらの「妻垣神社の由緒」は、どちらも元は媛神を祀っていたのですね。
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 足一つの印岩と、説明板もありました。
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此処にも「貴船神社」があり、本殿横の灯篭には橘氏の紋もありました。

付け加え
「馬蹄石」の説明板がありました。
「共鑰山」は、「馬城の峯」と同じで、八幡大菩薩が龍の駒に乗り、この山に飛び翔けた」というのです。
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「馬城の峯」とは、どこにあるどんな峯なのか? わかりません。ミマキイリ彦のマキですか?
 混乱するので、追求はしません。

また後で
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# by tizudesiru | 2013-08-02 10:48 | 103安心院の妻垣神社 | Trackback | Comments(0)

安心院の二女神社?三女神社?

安心院の新七不思議!二女神社?!
   それとも三女神社?!

 同じ神社に二つの名前があっても、不思議ではありません。土地の人の呼び名や、正式名称があるでしょうから。でも、この神社は不思議です。まず、神社の案内板には、「三女神社」とありますが。
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横の鳥居は、二女神社。
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三女神と云えば、宗像三女神でしょう。なんで二女神なんでしょう。
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 不思議に楽しくなってしばらく行くと、次の鳥居。それは、三女神社でした。二女から三女になったのです。さらに進むと、三女神社が見えてきました。
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神社の門前に「水沼井」の案内板がありました。「井」とは井戸の事ですが、「水沼」とはなんでしょう。川岸の三女神社に、沼はないでしょう。水沼とは久留米の三潴の事でしょうか。水沼君の墓もあるし、玉垂宮もある。そうなると、安心院は古代を解く鍵を持っていることになります。
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ひとまず、社殿にお参り。
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社殿に由来がありました。
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 むむ・・「豪族筑紫君等がこれを祀る。爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる」
 私たちを案内した人は、この「三女神社由緒」を読んでほしかったのです。わかりました。
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それで、水沼井の案内板に戻り、「社家は水沼氏」というところをアップして写真に撮りました。「筑紫君」の「君」は、「国造」とは若干違います。国造は、「国のみやつこ」ですから、「国に仕える御奴」という意味です。君は地域の首長です。君と呼ばれる豪族は、多くはありません。更に、水沼(みぬま)君が書紀の雄略天皇のところに出ています。その水沼君の氏族が、社家であったのです。それも、三女(二女)神社の。三女神は、筑紫君の神だったのです。
 だから、此処は「筑紫君」が祭った神社であったのです。
 五二七年の磐井の乱で、筑紫君磐井は豊前の山に逃げています。磐井の行方が分からなくなり、怒った官軍が磐井の墓の石人を破壊したと、風土記にありました。筑紫の君と安心院(宇佐嶋)との関係が見えましたね。
 さらに、社殿の隣の摂社「貴船神社」の由緒。
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なるほど、元正天皇の時代になったころ、この土地の人々は「貴船神社」に雨乞いをしていたのですか。八世紀の貴船神社は、すでに大きな信仰の対象だったのですね。三女神社は地域の守り神というより、格式が上げられていたのでしょうか。それとも筑紫の君の衰退により、雨乞いの神事もできなくなっていた……
 さて、「二女神社」ですが、田心姫命・湍津姫命の二神は大国主命の妃だそうです。だから、もともとはこの二神を祀っていたのではないかというのです。後から市杵嶋姫命が加えられたとか。それで、言い伝えを知っている人が、二女神社の鳥居を寄進したという事ですか。ふうん、「安心院の不思議」が解ければ、古代がすっきり見えてくるかもしれません。

 もう一つ付け加え
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 三女神社の境内に「皮籠石」という切石がありました。これは、なんでしょう。
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# by tizudesiru | 2013-08-01 10:28 | 102安心院の二女神社 | Trackback | Comments(0)

宇佐神宮と九州の神々 3

宇佐神宮九州の神々 3
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おやおやと思うくらい、宇佐神宮と高良大社は離れています。詳しくみましょう。
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水色のポイントは宇佐神宮。画像のほとんどは神社域です。白の標は呉橋で、黄色の標は大善寺です。明治時代になって神仏分離の嵐の中、宇佐の神宮寺であった弥勒寺から運ばれた丈六の仏像が、光背を縮められて安置されています。下の画像は、宇佐神宮の神殿。
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 次の画像は、高良大社です。青ラインの周囲が高良山神籠石の範囲となります。北側は天武地震(678年)により崩れているそうです。本殿の裏の高部に古墳があるそうです。ラインはその上を横切っているようです。
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高良玉垂宮の裏の高い所から本殿を見ています。この高部が、高良山神籠石の最高部となります。
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 大善寺の玉垂宮です。寺院の方は、明治の神仏分離で他へ移されています。その昔、神社の神門の前に、呉橋がかかっていたそうです。
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 高良玉垂宮も、延喜式内社の名神大社です。筑後の一の宮であり、九州の山々ともつながります。が、延喜式内社として、古代の政治勢力や信仰の対象を抑える役目も担ってきました。しかし、そこから見えるのは、式内社とされる以前は、古代九州の守りの存在だったのではないかという事です。それは、宇佐神宮も同じです。時代の流れで、祭祀する氏族が変わり、祭神が入れ替わった可能性も十分です。
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# by tizudesiru | 2013-08-01 00:18 | 101宇佐神宮と九州の神々 | Trackback | Comments(0)

宇佐神宮と九州の神々 2

宇佐神宮九州の神々のつながり 2
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宇佐神宮と九州の神々のつながりを考えようと、天照神社(すでに紹介)とラインを結んでみました。すると、ラインはさらに伸びて、福津市の宮地嶽古墳とつながりました。延喜式式内社としての宇佐神宮が、ニギハヤヒを祀る天照神社を抑えようとしているのでしょうか。そのラインは、宮地嶽古墳まで届きました。
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宇佐神宮
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鷹居神社
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香春岳(山頂をずれる)
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天照神社
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宮地嶽古墳(中央の丸い森)小さな円墳でありながら、石舞台古墳より長く、見勢丸山古墳に次ぐ大きい横穴式石室を持っています。副葬品も、新羅系のガラス板、金冠、碗型鐙など国宝が十数点あります。

延喜式内社の名神大社としての宇佐神宮は、私が主張する式内社(名神大社)の特徴を備えています。それは、古代九州の神祭りの場(神社など)や、信仰の対象だった山々や、政治勢力が残した墳墓や遺構をターゲットとしたラインがかかるという事です。過去の見えない力を後世の霊力(式内社)抑え込もうとしているという事です。地図を広げて神社や古墳をつないでいた頃はまったく気が付きませんでしたが、ラインを引くうちに九州の延喜式内社に共通する事が明らかになってきました。それは、筥崎八幡宮のラインがきっかけでしたが、此処では繰り返しません。天照神社も、宮地嶽古墳も、すでに何度も取り上げたところです。
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# by tizudesiru | 2013-07-31 14:59 | 101宇佐神宮と九州の神々 | Trackback | Comments(0)

101 宇佐神宮と九州の神々

宇佐の神の始まりの地は何処?暑い中に豊前歩き
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 辛國息長大姫大自命は神代に唐に渡り、崇神天皇の時に帰国という。豊比賣命は、神武天皇の外祖母で住吉大明神の御母と書かれています。名前が多いので頭が混乱しそうですが、天照大神の子どもの忍骨命が年長で、神武天皇の祖母の豊比賣命が次に年長で、崇神天皇の御代に帰国した辛國息長大姫大自命が一番若いことになります。
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崇神天皇の時、各神霊を各山頂に祭っていたのに、和銅2年・元明天皇のとき三神を合祀したとあります。その時は、香春宮と尊称されていたけれど、明治になって香春神社になったようです。宮と神社では、格式が違うのです。
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 先に紹介した薦神社。御祭神は、応神天皇・比哶大神(三女神)・息長帯比売命でした。社殿の造営は承和年中(834~48)と伝わりますが、「八幡宇佐御託宣集」によるとこの神社古より八幡神とかかわりが深かったそうです。720年の日向大隅の隼人の反乱に対し、八幡神を奉じて鎮圧に向かいますが、神輿には三角池に自生する真薦で枕形の御験が乗せられていたのです。こ の薦枕は、八幡神のみ験として永く用いられます。6年ごとに造りかえられ、八幡神とかかわりの深い八社を巡ったあとに、宇佐神宮に納められます。八社とは、田笛者、鷹居社、瀬社、泉社、乙哶社、大根川社、妻垣社、小山田社です。古い御験は、下宮に、さらに下宮の古い御験は国東の東海岸の奈多宮に納められ、最後は海に流されます。それが、四国にまで流れ着きお祭りされたとか。長い八幡神のリレーです。そのスタートが、薦神社です。
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薦神社の呉橋は、江戸時代の絵図によれば、上の写真の神門の前にありました。特別な人しか渡れない橋です。壊れかかっているのが気になりますが。呉橋は、宇佐神宮にもありますし、久留米の大善寺玉垂宮の神門前にもあったようで、名前が地名に残るそうです。
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宇佐神宮の呉橋。勅使道に続く橋です。格式のある神社にしかないのですね。
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大善寺玉垂宮の前の広川にかかる橋が呉橋だったそうですが、既にアスファルト道路に変わっています。ここでは、薦神社が宇佐神宮の元宮といわれる理由がわかったような気がします。
 では、他の神社も見てみましょう。
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香春神社と宇佐神宮のライン上に、逢坂山(大阪山)と、鷹居神社御乗っています。この神社を拡大してみると、若干北にずれます。ほかのラインに乗るのかも「しれません。後で、もう一つのラインを紹介します。
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この神社は、八幡神(鷹の姿)ですから、神功皇后の子どもの応神天皇ということです。大神比義と辛島勝乙目は、ともに八幡神を奉じて大仏開眼に尽力した人です。この地を選んで神殿を建てたのはなぜでしょうね。和銅元年は、銅が日本でとれたことを記念する元号です。香春岳の辺りは、採銅所の地名も残る銅の一大産地でした。その事も関係するのでしょうか。銅の産地を八幡神が抑えていたとか。
 このラインが宇佐神宮に届くのです。
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宇佐神宮の御祭神は、八幡神とその母堂・神功皇后、そして、比賣大神となっています。不思議なことに、比賣大神は宗像三女神となっているそうです。「宗像三女神は、宇佐島に降臨した」という古事記・日本書紀の記述に合わせているのでしょうか。
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# by tizudesiru | 2013-07-30 14:18 | 101宇佐神宮と九州の神々 | Trackback | Comments(0)

日知王の山々

日知王の山々
 万葉集巻一、柿本人麻呂が近江の荒都を過ぎる時作る歌「玉手次 畝傍山乃 橿原乃 日知之御代従 阿礼座師 たまだすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ あれましし」という長歌に「日知」という語が使われています。畝傍山の橿原にいた日知の王が治めた世より、この世にお生まれになった……と、歌はつながり、橿原の王から次々受け継いだ皇統を詠んでいるのです。「玉たすき」とは、神祀りの時に懸ける襷らしく、文字からすると、橿原の王は、日知です。「日知」とは、聖にも通じ、太陽の動きを読める尊ばれる人物でしょう。ここでは、そういう人物を「日知り王」と呼びましょう。橿原の王は、日知りであったようです。日を読んでいたのです。
 日知り王は、日を読むに何を以てしたか。つまり、見てわかる基準があったはずです。彼は、畝傍山の橿原のある地点から、三輪山を見ていた。三輪山は、神武陵から見るとほぼ夏至の日の出の山です。そして、そのことを確かめて畝傍の一地点に宮柱を建てた。そこは、春分秋分の太陽が天香久山々頂から昇るのが見える場所でもあります。なぜそう言えるのか。それは、九州の日知り王と共通するからです。日知は、王の条件でしょうか。

 北部九州の日知のラインは、北部九州の中央の山地を縦断します。その山地は、福岡平野から見える東の山々。偶然にも南北に連なる山頂で、それは、鉾立山・砥石山・宝満山。更に、阿志岐平野を挟んで宮地岳山頂に及びます。このラインが南下すれば、高良大社に当たり、高良大社から北を見ると、宮地岳の後ろにそそり立つ宝満山々頂の上空に、北極星が見えます。広い筑後平野の奥のひときわ秀麗な宝満山は、福岡平野からも筑後平野からも長い間信仰を集めていました。三郡山系の宝満山は福岡・筑後の両方の平野の接点にあり、断層地形の谷(平地部)を挟んで脊振山系に一番近い山なのです。この山こそ、日知り王の春分秋分の山であり、この山の西に弥生の日知り王はいたのです。
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吉武高木遺跡の時代
 唐津の菜畑遺跡あたりから始まった鏡や青銅器を副葬する習慣は、瞬く間に福岡平野にも広がりました。吉武高木の首長も聖であったと考えられます。飯盛山から見ると、夏至の陽は鉾立山から登り、冬至の日は荒平山から登ります。
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 荒平山から冬至の陽が昇ることを、早良の首長は飯盛山から目で確認できたと思います。しかし、見勢大霊石神社までラインを伸ばすことは、少しためらわれます。この神社は、神功皇后が清浄な砂地で祭祀をしたと伝わりますから、もう少し河原に近かったかもしれません。そして、鉾立・宝満山ライン上に、脊振からのラインが交差する位置に建てられていたのかもしれません。そうなると、のちの世、延喜式内社の世に、二つの神祭りのラインを断つために建てられた神社ということになります。
 話を戻します。
三雲南小路王墓の時代 
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 この王は、日知り王だったのでしょうか。高祖山が夏至の陽の出のラインです。脊振と火山の間に甕棺はありましたが、このラインは冬至の陽の出ではありません。夏至の日没は、加也山です。
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 三雲南小路王墓から平原王墓を通り、加也山につながるラインです。王墓から見ると6月22日の太陽は、可也山に沈みます。画像は、三雲南王墓から見た6月22日の日没です。可也山に沈む陽をパソコン上で確認しています。
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 平原の王は、日没の方向に周溝墓を造ったことになります。此のラインが、大祖神社までつながることは、前回までに紹介しています。可也山から見れば、神社の方向に陽が沈んだのです。神祭りの場としては、ふさわしいでしょう。伊都国の首長たちは、加也山・高祖山、井原山を使って、陽を見ていたはずです。
須久岡本王墓の時代
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須久岡本の王は、夏至・冬至・春分秋分の山々を、福岡平野の周囲にもっています。すべてそろっているのです。春分秋分の太陽は宝満山から昇り、飯盛山に沈みます。須玖岡本の最高部から見る宝満山は、大城山(大野城)の影になって見えにくいのです。そこで、神祭りを大城山でもしていたようです。王城神社の由緒からすると。
 夏至の陽は砥石山から昇り、愛宕山に沈みます。ここも古代からの神祭りの場でした。冬至の日は宮地岳から昇り、井原山に沈みます。
 須玖岡本の日知り王は、吉武高木の首長の伝統を受け継いだことになります。宝満山と飯盛山の祭祀を受け継ぎ、愛宕山・砥石山・宮地岳・井原山を神祀りの対象の山とした事でしょう。そして、真南にある九千部山を崇敬したはずです。毎日、太陽が南中する山ですから。一族の守り山・神と仰いだ山は、九千部だったはずです。九千部・香椎ラインと、宝満・飯盛山ラインが交差するのは、須玖岡本の最高部です。伊都国と奴国・早良国が出会う場所、古代の太陽祭祀がされたであろう場所は、此処意外にありません。すると、やはり、倭女王は須玖岡本地区と関係の深い人であり、父方の墓地に眠っているはずです。
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 日知り王は九州で生まれた
 三か所の弥生遺跡の首長たちは、それぞれの地域から太陽の動きを観測した「日知り」であったのです。彼らは尊敬され、畏れられ、大切にされたでしょう。「日知」であることの証に鏡を持とうとしたのでしょう。鏡をいち早く持ったのは、九州の王や首長です。日知りの思想も九州から生まれたのです。


明日は旅行に出ますから、数日お休みします。
101回から、九州の首長のつながりを改めて、紹介したいと思っています。
では、また


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# by tizudesiru | 2013-07-26 00:09 | Trackback | Comments(0)

北部九州のミステリーその2

北部九州のミステリーその2
弥生王墓・三雲南小路青の星標のポイントが、三雲南小路王墓です。
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前漢鏡の数の多さやガラス璧でも知られた王墓です。「世々王がいた」伊都国の中心に、大型甕棺に埋葬された首長は、弥生の王の一人です。大型甕棺は、脊振山頂と火山山頂の間にあります。
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更に、弥生の王墓ライン、宝満山・大城山・飯盛山の東西ラインの上に、須玖岡本・吉竹高木・三雲南小路が並びます。三雲南小路の西に、4世紀の前方後円墳・一貴山銚子塚古墳があります。
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では、三雲南小路と平原周溝墓の関係は、どうなるでしょう。
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三雲南小路と、可也山のライン上に乗っています。そのままラインが伸びて、大祖神社に届きますが、二つの王墓と大祖神社との関係が、弥生から続くものかどうかわかりません。後の時代に海の信仰と結びついたものか、または、伊都国の使者が韓半島に渡るとき、此処で神祭りをしたものか。後者かもしれませんね。
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一貴山銚子塚は古墳時代ですから、ほかの地域や、ほかの古墳との結びつきも増えてきます。北東に伸びる黄色のラインは、夏至の日の出のラインです。このラインは、糸島の若八幡神社(古墳)を通り、香椎廟を通り、六嶽山頂に届きます。南東に伸びる黄色ラインは、冬至の日の出のラインです。冬至の日は金山から出ます。このラインをそのまま伸ばすと、鳥栖の朝日山まで行きますが、金山で止まりのほうが確実でしょう。それとも、朝日山ともつながったのでしょうか。此処も古代の墓地らしいですが。
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弥生時代にも、墓地を選ぶのに山を使っていたと云えるのではないでしょうか。そして、過去の王墓とつながるように、自分の墓の位置を決めていた事になります。この後、それは一層顕著になります。
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赤インは、海の中道の大嶽を通り、福津市の波切不動古墳に届きます。この古墳には、馬具を副葬した横穴式石室があり、宮地嶽古墳より前の時代のものと聞きます。一貴山銚子塚古墳は4世紀ですから、波切不動古墳の被葬者は、糸島最大の古墳を知っていて、その霊力にあやかったことになります。青ラインは、一貴山銚子塚古墳から雷山を通り、女山の神籠石まで届きました。
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 10世紀になると、九州の古代の信仰(霊力)を遮るために、式内社は配置されました。志登神社も延喜式内社(小社)ですが、はっきりその役目を担っています。志登神社は、縦の赤ラインの雷山と柑子岳の関係を断ち、横の赤ラインの加也山・紅葉八幡・小鳥神社・寿命王塚古墳(遠賀川流域最大の前方後円墳)のつながりを断っていると、すでに紹介しました。これは、10世紀でしたね。
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古墳と結ぶラインが他地域とのつながりを教えています。大祖神社から出る水色ラインは、大嶽を通り、宮若市の竹原古墳に届きます。同じく大祖神社からの黄色ラインは、夏至の日の出のラインです。下の画像を見ると、彦山・灘山を通り、志賀海神社の旧地・辺津宮を通り、宮地嶽神社と宮地嶽古墳に届きます。志賀海神社が式内社となる前の祀りの場が、志賀島の北岸にあった事は重要です。大祖神社・志賀海神社(元宮)・宮地嶽神社がつながるからです。こうなると、渡海する際の神祭りが見えてきそうです。だいたんな事を言いますが、古代九州の海神は、結ばれていた。海人族はつながっていた事になります。そして、大祖神社から見ると志賀島の北岸と宮地嶽神社の方向に夏至の陽が昇り、宮地嶽神社から見ると、志賀海神社元宮と大祖神社の方向(灘山)に冬至の陽が沈むのです。
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 古代九州の海人族のつながりが、糸島から見えてきました。倭人は、唐津・糸島・博多湾・津屋崎(相島)からも渡海したのです。海岸の神社は、そのことを示していると思います。「万葉集」の志賀の白水郎・荒雄を思い出します。宗像の海人に頼まれて、対馬送糧の任を受け遭難しました。白水郎の絆の深さも、しのばれるではありませんか。
 倭国の中心が九州にあったことが、なぜ否定的に扱われるのか。なぜ、九州じゃいけないのか、たくさんの事実があるのに……北部九州に残された墓や山がなぜつながるのか、わからないことがたくさんあります。しかし、もう少しで、解けそうです。
 次は、100回ですから。今まで書かなかったことを書きたいと思います。


また後で
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# by tizudesiru | 2013-07-25 02:05 | 98北部九州のミステリー | Trackback | Comments(0)

北部九州のミステリー1

再度、「薦神社の不思議」から見える北部九州のミステリーゾーン
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此の画像を紹介しましたが、なんでこの画像が急に出てくるのか? 疑問に思われたことでしょう。やはり順番が大切ですね。まず整理しておきたいのは、四角形の四隅に在るのは如何なる類のものか、です。西側は北に飯盛山。南に雲仙普賢岳。四角形の東辺の北に薦神社、南に草部吉見神社でした。
 草部吉見神社については、{高千穂の峰から阿蘇へ」でも少し紹介しています。ご祭神は神武天皇の長男・彦八井耳命で、高千穂の峰からこの地に来て、吉の池を気に入り、そこに住む大蛇を退治しています。大蛇が血を流しながら逃げたところに、血引原(地引原)、最後に焼かれたところが灰原と名が付いたとか。彦八井耳命の娘・阿蘇津姫が、神八井耳命の子・健磐龍命と結婚しています。彦八井耳命の一族は、高千穂から阿蘇に入った侵略者なのでしょう。草部吉見神社は、三大下り宮の一つです。
 彦八井耳命の時代には他の地域からの侵略があり、健磐龍命の時代には阿蘇の首長が決まり治まったということでしょう。
 薦神社も同じような侵略を伝えるのでしょうか。
 養老三年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱(大隅国府襲撃)で大伴旅人が率いるヤマト朝廷軍および宇佐神官の辛島波豆米率いる宇佐「神軍」が、薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験・薦枕をご神体に、神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと伝わります。今でも、薦刈神事は6年ごとに行われる「宇佐神宮行幸会」の中で、辛島一族が当時より行い伝えています。薦神社の別名「大貞神社」の「貞}には占いの意味があるとも言われています。
 薦神社・草部吉見神社のどちらも、勝者の神社であることは共通しています。
 ところで、隼人は大隅国府を襲っています。この反乱により班田は見送られ、800年まで行われませんでした。80年間も。それは、なぜでしょう。

 近畿王権から派遣された大伴旅人は、当代一の権力者・太政大臣にもなった長屋王派であり、有力者であったろうと思います。その旅人も隼人の反乱にはてこずったのです。鎮圧に協力したのは神官であり、祭祀する神々でありました。霊力により戦いを勝利に導こうとしたのです。8世紀でもそうです。それは、隼人側も同じでしょう。国府を襲うのですから、政治的な反乱であり、一年も戦うのですから大隅・日向国を挙げての戦いであり、強力な指導者がいたのです。戦いに勝利してもなお班田が行えなかったのは、和解交渉により相手の言い分を認めたからです。つまり、大隅・日向は「独立国」のようなものです。だから、薦神社・草部吉見神社の協力な結界が必要となったのではないでしょうか。
 唐突に見える上の画像の四角形は、8世紀の神祭りを象徴しているといえます。
 ですから、北部九州のさらなる古代を紹介しなければなりません。
 
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 この画像の中にたくさんの山々がありますが、弥生遺跡と関係の深い山を取り上げてみました。これらの山は、博多湾側(志賀島あたり)からほとんど見えます。香春岳は山の影になりますが、龍王山などの山に登れば、見ることはできます。これらの山々が重要な事は、古墳時代から6世紀になっても変わりません。
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この画像でもわかるように、雷山と柑子岳の間に、延喜式内社(小社)の志登神社が入っています。さらに、弥生の最重要ラインの鉾立・砥石・宝満・宮地岳ラインの南に、高良大社が控えています。高良大社は延喜式内社の名神大社であり、筑後一宮です。延喜式の時代は10世紀です。辛酉の年に、国家・皇室の安泰を願って、国内の神祭りに大きな手が入ります。それは、九州の霊力を抑えることでした。菅原道真のたたりを恐れただけではなかったのです。また、神籠石の標(黄色・雷山・宮地岳)も入れています。これは時代が遡り、6世紀ごろの政治的状況を伝えていると思います。神籠石は、何度も取り上げています。今回は、別の視点からも取り上げたいと思います。

 では、また「北部九州のミステリー」で

<以下は余談です>

 北部九州の古代、甕棺墓に青銅製品が現れるのは、弥生時代です。まず、佐賀の唐津の菜畑遺跡に、多紐細文鏡・細型銅矛などが副葬されます。稲作の始まりも早く、唐津方面の弥生遺跡は、かなり密集しています。それが、糸島・福岡平野・飯塚などに広がっていくのです。前漢鏡が副葬されるのは、ほとんど甕棺墓で、後漢鏡は箱式石棺となっていきます。古墳時代になって、国産の三角縁神獣鏡などが副葬されていくのです。ですから、前漢鏡・後漢鏡を持つ国々が、倭の国々ということになります。つまり、鏡で見れば北部九州に倭国があったことになります。また、弥生の鉄製品の出土も、やはり九州です。素環頭大刀の副葬も九州で始まりました。邪馬台国の武器である鉾の鋳型もほとんど九州で出ています。絹も甕棺墓から出土しました。
 どこが中心だったか、経済的に力を持った地域は何処か、それは考古資料で専門家が明らかにされると思います。しかし、いつの間にか、邪馬台国は近畿にあったことになりつつあります。不思議です。しかし、それが本当なら少しも構いません。間違いなら……日本の学問のレベルを問われそうで恥ずかしいです。公的なお金を使っている専門家の方に頑張ってもらわないと……
 誰にでも古代を考えることはできるし、面白いことでもあります。地図でも古代がかいま見えると思うのです。



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# by tizudesiru | 2013-07-24 02:05 | 98北部九州のミステリー | Trackback | Comments(0)

宇佐神宮と北部九州・その2

宇佐神宮北部九州その2
 古代の宇佐神宮は、どんな位置にあったのでしょう。地図上の位置ではなく、信仰上の、または古代の権力者にとっての、更にそこに住む人にとって、どんな意味やつながりがあったのでしょう。
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 大胆な地図です。東の宇佐神宮からラインが伸びて、大きな三角形ができました。
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 赤・水色・青ラインは、どこへつながるか想像できると思います。赤ラインは雷山山頂に届きました。水色ラインは、
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 宮地嶽古墳に届きます。小さな丸い森のように見えるのが、巨石の横穴式石室の古墳です。このラインは、遠賀川流域にある、天照神社を通過しています。この神社は、日本で唯一ニギハヤヒ命を主祭神として祀る神社だそうです。その神社が、宮地嶽古墳と宇佐神宮のラインの上にあるのです。宮地嶽古墳の被葬者は、宇佐神宮や天照宮を知らなかったのでしょうか。まだ、神社がなかったとして……それとも、すでに天照宮も、宇佐神宮もなにがしかの社を建て、神祀りをしていたのでしょうか。だから、このラインができたのでしょうか。
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では、青は?
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 そう、大善寺玉垂宮に届きます。そして、玉垂宮をややはずして、北から降りてくる青ラインは、宮地嶽古墳から南下したものです。大善寺玉垂宮を通り過ぎて……以前紹介した「こうや宮」の小さなお堂に当たります。(このラインを、宮地嶽古墳から権現塚古墳につなぐと、途中に、千栗八幡を通過します)
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 なんだか意味深な三角形に、意味深なお堂がつきましたね。
 こうや宮についての紹介も合わせてみてくださいね。

「宇佐神宮と北部九州」で取り上げたラインで、宇佐神宮・薦神社・香春神社ラインと、宇佐神宮・天照神社・宮地嶽古墳ラインの二本は、北西に延びるよく似たラインです。三か所の神社がつながり、式内社に挟まれている前者と、宮地嶽古墳とつなぐ後者。前者の宇佐神宮は、延喜式内社として香春神社とともに薦神社を抑える役目を持っているのですが、後者の宇佐神宮は、古墳と結びついた北部九州の古代の神祀りを伝えています。
 古墳と神社のどちらが先か難しいところですが、宮地嶽古墳と天照神社が先にあって、この二か所の延長線上に宇佐神宮が祀られ、次に、薦神社を抑えるために、宇佐神宮の霊力を頼りに香春神社が祭られたことになります。他の勢力が北部九州にどのように入ってきたか、想像できるのではないでしょうか。この逆、宇佐神宮に合わせて、天照神社と宮地嶽古墳ができたという仮定は難しいでしょう。

 さらに言えること。「宇佐神宮がもともと九州の神祭りの社だったのではないか」ということです。それが、宮地嶽古墳・天照神社との結びつきが示していると。時代が変わって、東大寺大仏建立に積極的に協力したのは、応神天皇にかかわる古い祭祀が近畿王家につながりがあったからではないでしょうか。応神天皇その人であったかどうかは、わかりませんが。奈良の朝廷と結びついた、かかわりのある人物や伝承があったのでしょう。
 この時代、日本書紀はできていますが、一般の貴族にも特別に学習しなければわからないほど難しかったのですから、普通の人々に歴史は遠い世界だったでしょう。古事記の世界の一部が神楽として全国に広がるのは、神代の昔を知りたいという知的な願望もあったからと思います。その願望が、さまざまな伝承を産み育て、その中に幾らかは事実が含まれ、それがわずかに残されているのではないでしょうか。
 それにしても、古墳や神社は率直に古の一部を教えてくれると思います。

 
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# by tizudesiru | 2013-07-23 01:22 | Trackback | Comments(0)

宇佐神宮と北部九州

宇佐神宮北部九州
 前回まで幾度となく名前の出た古代からよく知られた神社は、宇佐神宮です。豊前國宇佐郡の延喜式内社で、名神大社です。宇佐郡には、八幡大菩薩宇佐宮と、比売神社と、大帯姫廟神社の三座があると書かれています。名神大社は豊国の三座、豊後国にはありません。
 宇佐神宮から延喜式内社(名神大社)にラインを引いてみます。筑後国一宮の高良大社と結んでみると、大善寺玉垂宮まで届きました。
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さて、この並びから何が言えるかというと、二つの名神大社を結ぶと、同じく古い信仰を伝える大善寺玉垂宮とつながるということです。延喜式内社が、古代九州の神祭りを断つ役目を持っているのなら、大善寺玉垂宮こそ古代九州の代表的な神々が祀られた場であった事になります。高良大社は、本殿裏の高部を横切り、そこは神籠石の最高部で、古墳があった処です。
 宇佐神宮は九州のまつろわぬ神々や、まつろわぬ人々を討つ役目を担っています。更に云えることは、近畿王権に取り込まれる前、宇佐で神祭りがおこなわれていたのなら、それは旧高良大社の神(神が交代をする前)や、大善寺玉垂宮の神ともつながっていた事になります。つまり、宇佐・高良・大善寺玉垂宮は、古代の人のつながりを教えてくれるラインとなるのです。
 さて、香春岳のふもとの香原神社は、延喜式内社で、小社です。ですが、香春神社、薦神社・宇佐神宮もつながります。
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大阪山は、逢坂山でもあります。
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 このラインを見ると、九州では数少ない延喜式内社が二社、薦神社を挟んでいました。薦神社が重要だということです。既に「薦神社の不思議」で紹介していると思います。再び取り上げました。
 薦神社・金富神社・八幡小兵神社の位置、地図上の位置が教えてくれる古代、そこに見えている北部九州の古代の姿がだんだん明らかになってきましたね。

 大善寺玉垂宮の事も改めて紹介しましょう。宮司さんからお聞きした話も含めて。

それでは、また。
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# by tizudesiru | 2013-07-22 12:49 | 96宇佐神宮と北部九州 | Trackback | Comments(0)

八幡古表神社と隼人

隼人の反乱の理由を知らないのは、なぜ?
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弥生の信仰のライン(ピンク)が、金富神社に当たります。金富神社は、国分寺と八幡古表神社を結び付けています。金富神社は、宇佐神宮の元宮という説もあり、宇佐神宮と深い関係がありました。実は、八幡古表神社も宇佐神宮と関係が深いのです

 社伝によると、元正天皇の 養老三年(719年)、日向・大隅の隼人等が皇命にに背いたため、朝廷はその鎮圧を宇佐神宮に祈願。豊前国司 宇努首男人は、息長大神宮の神官と協議し、神輿を奉じて敵地に入り、ついに七城を落とすことができたのです。この後、八幡宮を合祀したとのことです。
 日向・大隅の隼人が従わなかった皇命とは、なんだったのでしょう。七城を築いて反乱をしたのですから、日向・大隅の国を挙げての反乱だったのです。官軍・宇佐の神軍に加えて、息長大神宮の神人・社家・村里次官も隼人を討ちに出ていましたが、二城はどうしても落とせませんでした。豊前の国司が息長大神宮に祈らせ、神告の通り、美女・美男の神像を造り、戦場において伎楽を奏して賊軍を懐柔し、官軍の士気を高め、ついに二城を誅つことができたのです。一年もの間、隼人は抵抗しました。そこまで抵抗できたのはなぜか、理由がわかりません。隼人側の死者は1400人を数え、班田収授法の適用は、延暦十九年(800年)まで行われませんでした。日向・大隅の伝承を見直さなければならないですね。
 聖武天皇の天平十六年(七百四十四年)隼人の霊を慰めるため、宇佐神宮が中心となり豊国の大放生会を執り行iいました。息長大神宮の神官も国司から頼まれて、隼人が降伏したとき伎楽を奏したので、似たような木像を造り船に乗せて海上の放生会に参加したのでした。そこで、細男の伎楽を奏したのですが、それがすこぶる古の形をあらわすものであったので、「いにしえを表す」という古表大明神という別宮を建てて奉祀したそうです。宇佐神宮の放生会には必ず出御していたそうですが、時代が下がり八幡古表神社でも独自に行うようになったそうです。
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 画像は、神社の紹介ホームページからいただきました。動画も発信されています。
 隼人の霊を慰めるための伎楽では、細男がさまざまな神像のすべてに相撲で勝ちます。では、細男が隼人を象徴しているのでしょうか。それとも、隼人とは戦わなかった神でしょうか。細男とは、住吉大神だそうです。

 細男が負かしている神像がすごいです。
 今に伝わる神像が如何なる神々を表しているか、気になります。
 祇園大神・誉田大神・若宮大神・天御中主大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神・廣田大神(撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命)・生田大神(稚日女命)・伊多手大神(五十猛命)・長田大神(事代主神)・大美輪大神(大物主神)・三島大神(大山祇命、事代主命)・大海津見大神(和多都美神)・水波能賣大神(彌津波能売命)・立田大神・美奴賣大神(素盞烏命、弥都波能売神)・鹿嶋大神・香取大神・爾保都姫大神・塞大神・八衢姫大神・大國魂大神・大穴持大神・白髭大神・高オカミ大神・闇オカミ大神・春日大神・熱田大神・宮簀姫大神・大歳大神・若歳大神・豊受姫大神・磯良大神・高良大神・松尾大神・酒殿大神(酒弥豆男神、酒弥豆女大神)・久久奴智大神・金山彦大神・石坂姫大神・稚日女大神・四大夫大神(四大神)・玉手大神(大山祇神)・八意思兼大神さて、神々の所在地がわかりますか。面倒なので、省きました。が、神々だけ見ても、その所在地は広範囲にわたります。此処に出ていない神々もおられますが、それは、どう考えたらいいのでしょう。この時代にはあまり知られていなかったのでしょうか。重要文化財の神像は、八世紀に活躍していた神々なのでしょう。すると、宗像三女神はどうなるのでしょうね。宇佐島に降臨したと、書かれていますが。
 隼人征伐と、天照大神・三女神は関係なかったのでしょうか。
 
鉾立山・立岩・・金富神社
のラインと、国分寺・金富神社・八幡古表神社のラインからわかるのは、弥生の信仰を色濃く残していた金富神社が次の時代の権力にも信仰されたということです。時代がかわったので、同じ神を祀ったのではないでしょうが、信仰の場は残されたのです。伝承のように、宇佐神宮の元宮なのかもしれませんね。
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# by tizudesiru | 2013-07-20 00:11 | 95 金富神社と鉾立山3 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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法隆寺は怨霊の寺なのか・隠さ..
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白村江敗戦後、橘寺は彷徨える..
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蘇我馬子は飛鳥の大王だった
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川原寺に残る万葉歌は、白村江..
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明日香・天智天皇が戻った倭京..
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倭姫を探せ
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倭姫命と倭姫皇后と持統天皇
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「倭姫命世記」の倭姫命、聖地..
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持統天皇が霊魂となって北へ向..
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倭姫命と伊勢・度会の神
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持統天皇と倭姫皇后と倭姫の接点
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持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮
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倭姫皇后の運命を握った神とは..
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倭姫皇后の運命を握った神は
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「野守は見ずや」と、額田王は..
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持統天皇は天智帝と草壁皇子の..
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「中大兄三山歌」の畝傍山は倭..
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近江遷都で額田王が三輪山を詠..
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持統天皇と呼子鳥をめぐる謎
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カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
278西原村の旧石器・縄文・弥生の資料
309白村江敗戦後、仏像を供養した?
309白村江敗戦後の霊魂
289人麻呂が見た王朝の皇子達
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺

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