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稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇

「ワカタケル」は雄略天皇か

稲荷山古墳の被葬者は、獲加多支鹵大王に仕え助けたと書かれていました。獲加多支鹵大王とは雄略天皇の事でしょうか。
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(「稲荷山古墳・鉄剣が秘めた古代の謎」より写真と文章を抜き書きしました)

原島礼二
(埼玉大教授・古代史)わたしは「ワカタケル」は雄略でいいと思います。471年か、531年かはわからないけれども、皆さんのご意見を聞いていると471年の方がスムーズだなあという感じは受けていますけれども、最終的には古墳の問題もあるし(略)この「ワカタケル」をどうしても雄略であってはならないという問題が、逆に積極的に出されてくればどうなんでしょう。


柳田敏司
(埼玉県史編纂室・考古学)早稲田大学の水野祐先生は、これは雄略と解釈しなくていいんだ。大王というのは、地方の豪族でも名乗ったんだと。だから武蔵方面の豪族がこういうふうに名乗っても一向に差し支えないじゃないか、という説をとっていますよ。

 

斎藤忠(大正大学教授・考古学)全体を見ますと、これは雄略天皇と解釈するのが一番自然ではないか、これは一つの歴史の常識だとおもっているのですが。ただその場合、「寺」を最初は「やかた」というようなことで読んで、それが今まで続いているようですけれども、この「寺」とう言葉をなぜここに使ったかという疑問も出てきます。(略)(人偏をつけて)「侍る」とどうして読めないのか。

文献をやっている人は「ワカタケル大王に はべりて」では順序がおかしいと云うことです。

私は「ワカタケル大王にはべりて斯鬼宮に在りし時、吾天下を佐治しぬ」と読むと、いろんな点ですっきりすることがあるのではないか。


柳田
 「寺」という字は「ジ」とか「シ」とか読んで朝廷のことだという人と、人偏をつけて「はべる」と解すべきだと、二通りあります。


斎藤
 要するに、「ワカタケル大王の館」と「はべる」との場合は、「ヲワケオミ」が主人公になるんです。「ヲワケオミ」が「ワカタケル大王」に侍って斯鬼宮に在ったときに、私は天下を
(たす)け…ということです。


原島
 大王と当人の関係が少し変わってきますね。

柳田 「斯鬼宮に在った時」というんですが、この「斯鬼宮」をめぐってまた問題になっています。

 

黛弘道(学習院大学教授・古代史) それこそ埼玉県の「志木」だという古田説(古田武彦氏・古代史家)もありましたね。


金井塚良一
(埼玉県立歴史資料館・考古学) それは、遺跡の分布からいっても不可能でしょうね。


 (古田説は)東国に結び付けようとしているんですね。これは、(雄略天皇の)朝倉宮のことを「斯鬼宮」といったという方がオーソドックスですね。


柳田
 刀を向う(畿内)で作ったとなると、向こうでは(朝倉宮を)斯鬼宮と云っていたということになりますね。しかし、そういう遺跡もないと云うことになると…


斎藤
 岸氏辺りは、「斯鬼宮」を雄略天皇の時に考えてもいいと云うことでしょう。それと、その剣を一体どこで作ったかということです。象嵌の技術なり、剣を作る技術なり、剣を作る技術は東国でも十分あったと。しかし、あの百十五の銘文を作らせて、あそこに彫らせた技術はやはり畿内でなければできない。そこに当然渡来人というか、帰化人というか、そういう人が文章を作った。そうしか考えられないと思うんです。


柳田
 すると、「斯鬼宮」は大体、畿内にあった。そして、「天下を佐治した」と。また、「百錬利刀」というのは、一種の決まり文句ですよね。


斎藤
 最後のところですが、「吾奉事の根記す也」と、これが一つの疑問を持たれたのは、江田船山古墳の場合は、書く者は、作る者は、と帰化人の名前が出ているんです。これと同じではないかということで「根」は名前ではないかというのですが、江田船山の銘文の内容とこの剣の内容は違うと思うのです。


斎藤
 あれを持っている人がおめでたいという吉祥的なことで、今度(稲荷山)の場合は自分の系譜、それから歴代の身分、地位、それから「天下を佐治する」ということ。よくよくのことだと思うのです、この銘文を書いたということは。

(略)

金井塚 李進熙氏(明治大学講師)が盛んに言われていますけれど、おそらく百済系の渡来人達がこの字を最初に伝えたのだろうと。その場合、呉音でどう読むかということも検討する必要があるといわれている。

呉音

古代の漢字が伝わった初期の字音を平安時代に「呉音」と呼び、8世紀初頭に遣唐使が持ち帰った漢字の音を「漢音」と呼んでいる。要するに、呉音の方が古い音で、漢和辞典には呉音・漢音の両方の読みが書かれている。対馬音は呉音のことで、唐音は漢音のことである。


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ちょっと待ってください
刀剣を作る技術は畿内にしかなかった、なんてどうしていえるのでしょうか?!
地方には技術がなかったからと断定して、だから畿内で作った刀だとなって、そうであれば斯鬼宮も畿内にあったのだろう。じゃあ、朝倉宮を実は斯鬼宮と呼んでいたんだ、と想像でいいのですか、歴史ではなく空想の世界の話になっているではありませんか!!
是では、学者の皆さんが事実に基づいて論議しているとは…言いにくいと思うのですが。
是でいいのですかねえ?

明日は、稲荷山古墳の築造時期についてのご意見を紹介しましょう。

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またまた、遅くなりましたが、明日のことです。
熊本の和水町で少しお話することになりました。
稲荷山古墳について少し触れられたらいいと思うのですが、場所が江田船山古墳のすぐそばの公民館ですから。
遅ればせながら、紹介させていただきました。


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by tizudesiru | 2017-08-19 13:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳鉄剣銘文・乎獲居臣の系譜から読めること

稲荷山古墳の鉄剣銘文(乎獲居臣の系譜)何が読めるのか
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ヲワケノオミとはどんなひと? 何をしていた? 幾つくらい?
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前回の座談会の記事から取り上げたのは「ワケ・スクネ・ヒコ」は称号であるということでした。今回は、称号が姓(かばね)へと変わっていくという所を抜き書きしました。
称号から姓(かばね)


姓とは古代貴族階級の身分表示のため(うじ)に付けた呼び名。
大別して語源は敬称などから来たもの(連・臣・君・直・宿禰・首)、天皇に奉仕する意のもの(造)、職能からするもの(史・曰佐・伎)などがある。初めは集団内の地位や宮廷における職能を表示したものが、次第に姓の間に尊卑の別が生じ、尊卑を表示するものと変わった。

柳田(埼玉県史編纂室・考古学) 系譜の上からも大事であると。ワケとか、スクネとか氏姓制度の姓ですね。これ(鉄剣の銘文)との関連はどうですか。

(学習院大学教授・古代史)ここに出てくるのは、いわゆる後世の整った形の姓ではなくて称号というふうに言った方がいいと思うんです。

称号ですから、オホヒコもそうなんですが、その後は「タカリ」でしょう。「カリ」でもいいですが、それから「テイカリ」「テヨカリ」、それから「タカハシ」「タサキ」。

これは、みんな一個の名詞ですよね。先祖は「オホヒコ」で、この「オホ」は形容詞なんです。後はみんな一つの名詞です。そして最後の「ヲワケ」の「ヲ」は、オホヒコの「オホ」に対して、こっちは小さい方です。

で、「ワケ」でしょう。そうすると、先祖たちの代々と比べると「タサキワケ」というのと「ヲワケ」というのは全然構造が違うわけですね。

その段階になって、初めて姓らしきものを必要として来る。

この「ワケ」は元来、称号だったんだけれども、この人にとっては「ヲワケ」というのがむしろ名前の本体に近くなって、それに「直」なり、「臣」なりという後世の姓に近いものがくっついているんです、一番最後の世代に。

この変化は大変面白いと思うんです。称号から姓へという変化のプロセスがここに出ているように思うんです。

(略)

原島(埼玉大学教授・古代史)この「ワケ」については佐伯有清氏が『日本古代の政治と社会』という本を書いていますが、そのご研究の結論とこの「ワケ」とが非常によく合うんです。

黛 佐伯さんは、四世紀に「ワケ」というのが中央と地方にありまして、五世紀中頃から六世紀にかけて、中央では「ワケ」は「大王」と「王」と「公(君)」に分かれている。地方では「ワケ」から「臣」、あるいは「直」あるいは「君(公)」あるいはまだ「ワケ」の連中が残っている。そして六世紀後半から七世紀になると「大王」が天皇になり、皇族は「王」と称し、臣下に下ったのは「公(君)」だと、そういうふうに帰納しているわけなんです。

そうするとね、今の段階は「ワケ」から「臣」か「直」かは問題だけれども、ここの段階だと五世紀中ごろ以降六世紀で合うんですよ。(略)

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ワケがスタートですか?

ワケが地方と中央にあった?! ワケから大王とか・王とか・公(君)が派生したのですか。しかし、ですよ。魏志倭人伝には、九州の伊都国には「世(代々)王がいて、官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚、柄渠觚という。ワケという称号は見当たりません。

お隣の奴国を見ましょうか。官は兕馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。ここにもワケは有りません。

近隣の不弥国を見ると、官を多模(たま)、副を卑奴母離。

一大(壱岐)国は、官を卑狗(ひこ)、副を卑奴母離。
対馬国は、官を卑狗、副を卑奴母離。

南の投馬国(つまこく)は、官は弥弥(みみ)、副を弥弥那利。

要するに、5世紀になって九州辺りの官職名がごっそりなくなっていることは、魏志倭人伝の後の時代に何かが起こったということでしょうか。
忘れていました、女王国の官を付け加えることを。
官には伊支馬(イキマ)、次は弥馬升といい、次は弥馬獲支といい、奴佳鞮という。ここは、官が多いですね。
さすがに七万戸の女王国です。きっと広い平野・大きな川のある地に違いありません。七万戸ですから。まさか谷あいの小さな土地ではないですよね!
弥馬獲支を「みまわけ」とよむのでしょうか。しかし、官としては三番目ですね。ここから「ワケ」が進化していくとは思えないのですが。

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まだまだ、続きます。また、明日



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by tizudesiru | 2017-08-17 22:22 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

乎獲居臣の八代の系譜

乎獲居臣の八代の系譜

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乎獲居臣(ヲワケノオミ)に到る八代の先祖
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黛弘道(学習院大教授)座談会より

「銘文が持つところの歴史的意義といいますか、これは非常に多岐にわたるわけでしてね。いろんな問題がここから引き出せるだろうと思うのです。国語の問題とか、技術的な問題とか云うこともありますが、中身だけについても、八代の系譜が五世紀なり、六世紀なりの銘文に出てくるわけですから、大変なことだと思うのです。文献では継体天皇系譜なんていうのがありますけど、この銘文は確かにこの時期に書かれた系譜ですから、その意味で画期的なものだと思いますね。

ただ大事な点は此処に書いてある八代が全部実在だ、などというふうに思い込んだらとんでもないことであって、これは「ヲワケノオミ」の時代に彼の先祖としてこういう人がいたといわれておった。まあ、それは彼より数代前くらいまでは実在したかも知れませんけれども、例えばオホヒコなんかはすぐに実在だというふうには言えない。
そこで問題になるのは、だからといってこれを記紀に出てくるオホヒコと結びつけることの良し悪しです。私はそれを悪いとは思わない。なぜならば、この時期にオホヒコという伝説上の人物があって、当時の人はすでに信用しており、自分の先祖だと主張する者もおったという事実がこの銘文から知れるし、「古事記」に出てくる『大毘古』が書物になったのは七、八世紀ですけども、ああいう伝承は一方ではずっと古くから伝わっておったと思います。ですから、すぐに両者を結び付けるのは短絡だという批判もあるけれども、案外そうでもないかも知れない。そういう意味で八代の系譜と云うのは古代史の問題として非常に興味があるわけなんです。

ヒコ・スクネ・ワケ

「ヒコ」(比垝)、「スクネ」(足尼)、「ワケ」(獲居)という称号ですね。この辺も「古事記」「日本書紀」などから抽出して、「彦ひこ」、「宿禰すくね」、「別わけ」を並べてみますと矛盾しないのですね。

だから、記紀に書いてある個々の記事が信用できるか、できないかということは別問題としても、記紀といえども時代の大勢には背くような記述はしていないという意味で、記紀の見直しをできる面がある。記紀をそのまま信用できるという意味では、もちろんないですけどもね。

(略)
「ヲワケオミ」を稲荷山古墳の主だとお考えの方が多いのではないかと思いますが、そう断定する根拠は何もないということですね。これはね、もしそういうふうに考えると佐伯有清氏(北海道大学教授)のように「臣」(おみ)じゃなくて「直」(あたい)の方が都合がいいのですよ。私の師の井上光貞氏(元東京大学教授)は、あれが出たときに、これは「直」だと具合がいいんだけどな、とおっしゃいましたが、歴史学の常識からすると「直」でなきゃいけないわけなんです。

ところが、これは武蔵国造の系譜と断定する根拠は何もないと思う。したがって被葬者を示すものでも何もない。武蔵国造かもしれないけど、そうでないかもしれない。ですから、その点はもう少し虚心に考えた方がいい。たとえば誰かから貰ってきた刀だと、例えば中央からですね。そういう解釈もできないことはないと私は思っているわけです。

特に「オミ」が姓(かばね)であるかどうかという問題もありますけれども、「直」でないことは岸俊男氏(京都大学教授)も断言されたようです。そうなると逆に武蔵国造とすぐに結びつけないで考えたらどうか。(略)

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銘文の読みについては、まだまだ色々あるのですが。
明日は、姓(かばね)について紹介します。




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by tizudesiru | 2017-08-17 00:34 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳の金石文の訓み解きをめぐって

稲荷山古墳出土鉄剣の錯銘文
前回紹介した稲荷山古墳です。古墳公園の「見晴らし台」とするために、緊急発掘が行われ、そこで鉄剣が出土し、鉄剣の金象嵌が発見されたのです。
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鉄剣の裏と表に象嵌された文字。これを裏表に分ける作業がありまして、
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このような文に解読されたのです。
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これは、辛亥年(471年説、531年説)の7月に作られたものです。
これを作らせたのは、乎獲居臣(オワケノオミ)で、彼は杖刀人の首だったようです。仕えていた大王は斯鬼宮にいた獲加多支鹵で、その時自分は大王の政治を助けたというのです。
辛亥年・この時、乎獲居臣は幾つだったのでしょう。50歳前後だとすると、獲加多支鹵大王に仕え天下を佐治(天下を治めるのを助けること)した時期はいつ頃になるのでしょう。
辛亥年(471年)なら
20歳~45歳のころ務めたなら、440~465年ころですかね。
辛亥年(531年)なら
20歳~45歳ころ務めたとして、500~525年ころですかね。

乎獲居臣の前に先祖の名が連なっていますが、「八代の系譜は阿倍氏のもの」
と、『稲荷山古墳(埼玉新聞社)』に紹介されていました。
明日はその乎獲居臣について紹介しましょう。


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by tizudesiru | 2017-08-16 11:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳は仁徳陵の4分の1

行田市の稲荷山古墳
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(発掘調査前の稲荷山古墳・埼玉新聞社「稲荷山古墳」より)
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さて、「稲荷山古墳」(埼玉新聞社発行・昭和53年)を妹から譲られました。彼女も知り合いから譲ってもらったのだそうです。
それは絶版になっているもので、貴重な当時の稲荷山古墳発掘に関わったトップの方々の座談会などが収録された出版物です。
福岡の県立図書館も所蔵していませんし、実に幸運なことでした。
何より、そこに書かれていたのは、将に驚愕の中身だったのです。


江田船山古墳の銀象嵌鉄刀の対して、稲荷山古墳は金象嵌の鉄剣

関東と九州の離れた地域に出土した考古資料、江田船山の鉄刀と稲荷山の鉄剣に錯銘された文字をめぐって新聞やテレビが大きく取り上げました。金石文の中に「典曹人」と「杖刀人」がほられていました。離れた二か所の金石文は互いに比較され、大王の名をどう読むのか、築造時期はいつか、日本中が大騒ぎしたのを覚えています。

その時の出版物を紹介したいのです。
稲荷山古墳は、仁徳陵の4分の1の大きさだそうです。二子山古墳も同じ墳形だそうです。(わたしは此処で大阪平野と関わりの深い古墳だろうかと思いました)

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稲荷山古墳の埋葬施設は、横穴式の石室とかではありません。墳丘頂上部の礫槨でした。

さて、この古墳についてネットには次のように紹介されています。
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群の中で、最初に出現した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。
前方部は1937年(昭12)年に土取りで壊されてしまいましたが、1997年(平成9)年からの復原整備で前方部が復元され、現在では造られた当時のかたちを見ることができます。墳丘の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には二重の堀が巡っています。
堀の整備などはこれからも続けて行きますが、墳丘の頂上には登れるようになり、周囲の古墳を見ることができますので、高さを実感してください。
さきたま風土記の丘を整備するために、1968(昭和43)年に稲荷山古墳の発掘調査をしたところ、頂上から2基の主体部が発見されました。』

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つまり、稲荷山古墳はほとんど偶然に見つかったのです。
当時、稲荷山古墳の発掘が目的だったのではなく、高度成長の時代に日本中の文化財の破壊が進んだので、破壊から文化祭を守る手立てとして価値のある物だけを文化財として残すのではなく、地域を一塊として公園化すること(風土記の丘)で、文化財指定を受けていない古墳も残そうとしたのでした。
その為に、古墳公園整備のために、古墳公園全体を見渡す「見晴らし台」として、稲荷山古墳が選ばれたのです。
そして、緊急発掘により墳丘頂上部から二基の埋葬施設が見つかったというのです。
土取りで破壊されかかっていた稲荷山古墳の礫槨と粘土郭。
粘土槨の方はかき回されていましたが、礫槨のほうは無事だったのです。整然と副葬品が置かれた埋葬施設が現れました。

発見の楽しさが、やがて驚愕の大発見へとつながっていくのです。

ドキドキ感が伝わりましたね。
また、明日


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by tizudesiru | 2017-08-15 01:14 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

知っていそうで知らない江田船山古墳

江田船山古墳、急に熊本の古墳に話が飛んだ感じですね。
実は、家形石棺を見ていて、今回も疑問が生まれたのです。
艸墓古墳や蘇我系の墓制は、横穴式の石室に家形石棺を置いていました。そのルーツは何処だろうと再度思いました。
まず、家形石棺と云えば北部九州が発祥地ではないでしょうか。
ですが、「九州の墓制は石屋形に亡骸を納め、棺は密閉されていないから、他の地域と特に畿内とは墓制が違う。畿内の石棺は密閉型である」と、墓制の違いが強調されて来ました。しかし、九州には、石屋形だけでなく、密閉型の家形石棺も、舟形石棺も、長持ち型石棺も、組合せ式箱式石棺もみんな揃っています。そこに、装飾が施されているものがあり、大変複雑ですよね。このことには、皆さんがよくご存じだと思いますが。
畿内の石棺には、阿蘇溶結凝灰岩を用いて造られていたものがあり、後期になると畿内の二上山産の凝灰岩が用いられています。
是だけでも、素人は「石棺に凝灰岩を用いる」ことは九州から伝わったと思いますね。というわけで、畿内を飛び越えて、関東と九州の墓制をちょっとだけ見たいなと思ったのです。

知っていそうで知らない江田船山古墳


江田船山古墳は熊本県北部に在ります 
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この時も、きれいに草が刈られていました。いつ出かけてもきれいです。
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横穴式石室に家形石棺が納められています。
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九州の家形石棺には出入り口が穿たれているものがいくつもあります。もちろん密閉型もありますが。こんなに口がぽっかり空いているのは何故でしょう。
当時は盗掘者はいなかったのでしょうか。
墓泥棒には都合のいい造りですね。
この古墳から100mほど離れた古墳も横穴式古墳があり、石室内を見学できます。
塚坊主古墳といいます。
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石屋形と呼ばれるものでしょうか。
わたしには家形石棺のように見えます。

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石室の右横をよく見ると、家形石棺の屋根が見えて縄掛突起らしいものがあるのですが…。激しく破壊されていますね。
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どうですかねえ。
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菊池川流域には多くの装飾古墳があります。
塚坊主古墳も装飾古墳のお仲間だったのですね。


同じ古墳群の中に在りますから、江田船山古墳の被葬者とは所縁のある人なのですね。

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江田船山古墳には造り出(つくりだし)部があり、後円部の付け根に出っ張りがついています。この古墳がつくられた時期は何時なのでしょうね。
築造時期を考えるために、「治天下」と「杖刀人」という金石文が発見された埼玉県の稲荷山古墳の築造時期とも比べてみましょうね。江田船山古墳の鉄刀の銘文にも「典曹人」という役職が出てきます。離れた古墳には何等かのつながりがあることでしょうから。

また明日

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by tizudesiru | 2017-08-13 17:43 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(1)

阿倍寺の近くの艸墓古墳

前回の安倍倉橋麻呂の墓だという、安倍文殊院の西古墳、どうおもわれましたか?

倉橋麻呂の墓と思われましたか?実は、わたしは疑ったのです。
あの切り石加工は、八世紀の文武天皇陵や束明神古墳の石組みに似ていますし、技術的には八世紀と思ったのです。

では、安倍丘陵の他の古墳をみましょうか。


阿倍寺跡ではなく、安倍文殊院により近い

艸墓古墳は誰の墓
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艸墓古墳の家形石棺は、いろいろな古代史関係の本にも出て来るので気になりますよね。わたしは阿倍氏に関わる墓かも知れないと思ったのです。それで、訪ねてみました。
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この古墳は分かりにくくて、地元の人のお世話になりました。
よそ様の敷地の中に半分足を踏み込みそうになりながら、隙間を通ってたどり着きました。ほとんど道はありません。よそ様の家とよそ様の庭の間を通ります。
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安倍文殊院のこの辺りは、安倍丘陵という小高地です。そこに錐(きり)のような形の墳丘があり、長方形の方墳だというのです。石室の石の隙間に漆喰(しっくい)がつめられていて、奈良の竜山石(白い肌の凝灰岩)を用いた刳り抜き型の家形石棺が置かれているのです。
方墳・家形石棺となると、蘇我系の墳墓を思い出しますね。
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巨石の石室の奥に石棺が見えます。
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確かに縄掛突起も見えますね。ここは、家形石棺の時代の墓なのです。
安倍丘陵の日当たりのいい一等地にこの古墳です。見晴らしもよく、眼下に見渡せる谷を流れるのは寺川で、その奥の山は鳥見山だったのです。
艸墓古墳の被葬者は首長だったと思います。だって、鳥見山山頂のほぼ真西に艸墓古墳は造られていますから。
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鳥見山の北には、桜井茶臼山古墳があります。神武天皇東遷に出て来る鳥見の長脛彦の墓ですか。
甘南備型の247mほどの鳥見山の周囲には、舒明天皇陵、赤坂天王山古墳(崇峻天皇という説あり)、少し離れるけどメスリ山古墳と揃ってるんですが、同じ氏族の墓なのですかねえ。

そうそう、艸墓古墳の帰りに「聖徳太子が安倍に造ったという土舞台」を見に行きましたが、なにしろ草が深くて、足が止まりました。
一人旅の手弱女には深草は無理です。怖いです。
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では、また

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by tizudesiru | 2017-08-11 14:30 | 276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓 | Comments(0)

左大臣安倍倉梯麿の安倍寺と墓

阿倍氏といえば阿倍晴明が有名です。彼は平安時代の人です。
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安倍寺を建てたのは、左大臣・安倍倉梯麻呂
阿倍氏の阿倍寺に行きました。阿倍倉梯麿の墓と言う古墳を見に行ったのです。
奈良県桜井市の安倍文殊院境内に西古墳と東古墳があり、どちらも7世紀の古墳です。
阿倍倉橋麻呂は、孝徳天皇の左大臣でした。孝徳天皇の寵妃・小足媛の父であり、有間皇子の祖父でもあります。孝徳天皇の薄葬礼が出ていたにも関わらず、大きな古墳を築いたとされ、それが境内の古墳かも知れないからです。
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山田寺から山田道(磐余道)を北上すると、阿倍寺跡に届き、少し坂道に入り込むと安倍文殊院があり、その境内に二つの古墳はあります。
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(現在の安倍文殊院の文殊池にあるお堂)
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倉梯麿は、645年乙巳の変(大化改新)後に左大臣となりました
阿倍文殊院に安倍倉梯麿の墓と言う古墳を見に行ったのですが、そこは彼が建てたという阿倍寺とは少し離れています。
阿倍倉橋麻呂は力を持った豪族の長
645年6月に乙巳の変が起きました。その直後に大王になった軽皇子(孝徳天皇)の左大臣でしたが、相当に年齢は高かったと思います。舒明帝に古くから仕えていたのでしょう。舒明2年(639)に百済大寺の造寺司となっています。舒明帝は信頼できる豪族に百済大寺を任せたのです。当然、倉梯麿は若くなかったでしょうね。
左大臣
 阿倍倉梯麿 6月任
右大臣 蘇我倉山田石川麿 6月任
内臣 中臣鎌子(鎌足) 6月任
孝徳天皇に任命されたのは、阿倍氏、蘇我氏、中臣氏の三人でしたが、五年目には二人の大臣は死亡します。不思議なことに、左右大臣は同年同月に死亡しています。何かあったのでしょうか。左右大臣が揃って死亡とは…
左大臣
 阿倍倉梯麿 3月没 (巨勢徳陀 4月任)
右大臣 蘇我倉山田石川麿 3月自殺 (大伴長徳 4月任)

さて、古墳を見ましょう。
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池を見ながら西に進むと、すぐに文殊院西古墳があります。
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綺麗な花崗岩の切り石の石室ですね。此処が、倉梯麿の墓だそうです。
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次は東古墳です。反対側に進みます。
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お社の左に東古墳があります。
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西古墳と比べると、こちらが古いようですね。
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文殊院の西古墳と東古墳をみました。さて、どちらが倉梯麿の墓でしょうか。それとも、彼の墓は別にあるのでしょうか。
安倍倉梯麿の墓が何処にあるのか、どんな墳丘墓なのか、それは重要です。
大化改新前後の安倍氏の文化力、彼の左大臣としての立場や影響力が想像できるからです。

安倍氏は孝徳朝の重要なポストに着きました。天武朝でも、安倍仲麻呂は遣唐使として唐に渡りました。優れた文化力を持った豪族だったのです。
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安倍仲麻呂の望郷の歌は有名ですね。
あまのはら 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
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さて、阿部文殊院の近くには面白い古墳があります。そこもチェックしましょうか。
では、また明日

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by tizudesiru | 2017-08-10 20:47 | 276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓 | Comments(0)

明日香・奥山廃寺に秘められた物語

奥山廃寺は、明日香の奥山にあります。
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奥山の久米寺、その境内に廃寺の塔跡が残っています。
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去年の秋、塔跡を見た時の写真です。よく見ると、左の柱礎石に穴が穿たれているのに気が付きますよね。今年も見に行きました。
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穴を確かめましたが、ヒビがあるので水は溜まっていません。
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これは石塔の下の敷かれた石、こちらには水があります。
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よく見ると穴が有ったりなかったりと、様々な塔の敷石です。
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他にも穴の穿たれた石が境内の隅に置かれていました。
まるで塔心礎のようではありませんか。そういえば、奥山久米寺の礎石が、明日香博物館に置かれていました。なんと、この礎石にも穴があります。講堂の礎石だそうです。
穴は必要なので彫られたはずです、扉の戸の軸穴などとして。すると、奥山久米寺の塔跡の礎石の穴も、扉の開閉のための戸の軸穴だったのでしょうか。
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帰りに橿原の博物館でも聞きました。「塔跡のこの穴は何ですか」
礎石の写真も見てもらいましたが、なぜ穴が穿たれているのか、「開閉のため戸の軸穴の可能性」を云われただけで、はっきりしませんでした。たくさんの穴があることが不思議という感じでしたね。
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実は、ここでスゴイ瓦を見せていただきました。(写真には撮らせていただきましたが、ネットに上げるのは遠慮させていただきます。)

スゴイ古瓦・
奥山久米寺の平瓦・朱が塗られた大きい平瓦

わたしも驚きましたが、同時に「やった!」と思いました。
わたしはかねてより明日香にあったはずのある館を探しているのです。
それが奥山久米寺の辺りなら申し分ありません。近くにあった邸宅が寺院になったと思うからです。

その館の主が没したあと、特別な寺院が造られた、または改造された、と思うからです。

その邸宅の出入り口には、多くの頑丈な門があったでしょう。門扉の軸穴が有って当然です。
その人は高貴な生まれの人だったでしょう。
その死後、四天王寺式の寺院が屋形の柱や礎石を使って建立されたと、わたしは思っているのです。


奥山久米寺、なかなか面白い所ですが、車は入れません。
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きっと、ここも歴史の扉を開ける鍵となることでしょう。


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by tizudesiru | 2017-08-08 10:38 | 275飛鳥・奥山廃寺の謎 | Comments(0)

蘇我馬子の菩提を弔ったのは誰

よく質問されること「古代には測量技術はなかったのに、
何故ラインが引けるのか?」です。
またまた、テレビが教えてくれました。「国宝・投入堂・秘められた謎」です。
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二つのお堂ははるか遠くに離れています。
しかし、同じような建築様式です。それも、緯度がほぼ同じなのです。
投入堂の緯度・北緯35度23分47.5秒
笠森観音堂の緯度・北緯35度23分58・6秒

その答えは、「古代から太陽観測をして、かなり正確に位置を知ることができたから、離れていても二つのお堂の緯度の数値が近いのだ」というのです。
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投入堂と笠森観音を直線でつなぐと、大山の北側を通り熊野神社を通り出雲大社の参道入口までつながります。では、古代の都があった飛鳥でも、太陽を観測して位置を決めたのでしょうか。
調べてみましょうか。

ラインで見る石舞台
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藤原宮の大極殿から石舞台に直線を引くと、紀寺廃寺・飛鳥寺を通って石舞台につながります。持統天皇・高市皇子が造営した藤原宮ですが、飛鳥寺を取り込んでのことでしょうか。石舞台に直線が届いたのは、偶然と思えないのです。
此処はお互いに近いから、棒を数本使って目測で位置を確認できたでしょうね。


それから、石舞台古墳から西にむかって直線をのばすと、与楽鑵子塚古墳に行き着きます。
此処は渡来系の人の古墳だそうです。石舞台古墳のような大石を積んだ石室で高さもあります。
(地図があれば
、古代史の謎に迫ることができる!と思っている私には、面白い事実でした。
地図を見ることが、わたしの古代史の謎を解く時の基本的な方法です。)


蘇我大臣の墓という石舞台の直線は何を語る?
この三角のラインは、以前から気になっていました。藤原宮から与楽鑵子塚古墳に直線を引くと、本薬師寺がライン上に来るからです。飛鳥寺も本薬師寺も当時の官寺ですから、国家の行事も法事も行われていたでしょう。
そして、最近気が付いたのは、定林寺跡が石舞台古墳と与楽鑵子塚古墳の間に入ることです。


古代の寺、それも飛鳥の時期の古瓦が出土した定林寺

蘇我馬子は自分の為に寺を建てなかったのでしょうか。または、余るほどの財力を持っていた蘇我氏は、蘇我大臣のために菩提寺は建てなかったのでしょうか。
そんな思いで地図を見ていて、気になる廃寺がありました。
立部にある廃寺、定林寺です。


馬子が建立した寺は飛鳥寺・甘樫の丘の東に造営した。
では、蘇我馬子の菩提寺は?


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蘇我氏の甘樫の丘から飛鳥寺も槻の広場もよく見えたことでしょう。ただ、蘇我馬子は甘樫の丘ではなく島ノ庄の館に住んでいましたから、丘から飛鳥寺を眺めたのは、蝦夷や入鹿でした。
飛鳥寺は当時の外交の場であり、国内の豪族をもてなす場でもありました。飛鳥寺の横の槻の広場で様々な国家的行事が行われたとされています。
乙巳の変(645)の時、中大兄は蘇我入鹿を斬った後で飛鳥寺に立て籠もり、入鹿の父・蘇我蝦夷の反撃に備えました。その後も、飛鳥寺は官寺として大王のために読経しました。
ですから、蘇我氏が一族の為に造営した寺でしたが、結果的に官寺として多用されたということです。

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飛鳥寺は蘇我氏の寺であっても、蘇我氏の菩提寺ではなさそうです。では、蘇我氏の菩提寺は?
ほとんどの氏が自分の寺を持っていましたよね。

では、立部の定林寺跡に行ってみましょう。

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この道を上っていくと、春日神社がありました。
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定林寺跡が遺跡と認定されたので、この春日神社が移動させられたと云うことです。
道の奥に定林寺跡があり、道は行き止まりです。
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奥に少し広場が見えます。定林寺跡は、ここです。
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狭い丘の上に寺があったようです。見える範囲が全てです。春日神社まで寺域を広げると、塔と金堂が東西に並ぶ配置になるのでしょうね。

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奥の丸い岡の上あたりが定林寺でしょうか。
さて、この飛鳥時代の瓦をもつこの寺を造営したのは誰でしょうね。

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定林寺と他の寺とのかかわりを見ます。飛鳥寺と定林寺を結ぶと、ラインは文武陵まで届きます。

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同じ蘇我氏、石川麿の山田寺とラインをつなぐと、なんと川原寺が乗りました。
鞍作氏の坂田寺を本薬師寺とつなぐと、川原寺と蘇我蝦夷の館跡を通ります。

定林寺を建立したのは、どうも蘇我系の人のように思えます。



定林寺と直線でつながるのは、蘇我石川麿の山田寺・斉明天皇ゆかりの川原寺です。
川原寺は本薬師寺や蘇我本家の館(甘樫丘)坂田寺(鞍作氏の寺)などとつながります。
誰が定林寺を建立したのかですが、わたしは蘇我蝦夷だと思います。馬子大臣の菩提を弔ったのではないかと、思うのです。
では、また


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by tizudesiru | 2017-08-06 22:19 | 274 古代の測量の可能性・飛鳥 | Comments(0)


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197光明子の苦悩と懺悔
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199光明皇后の深い憂鬱
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201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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