<   2017年 07月 ( 16 )   > この月の画像一覧

三種神器発祥の地・吉武高木遺跡

平群村があった福岡市早良
a0237545_16510657.png

前回の記事で、景行天皇の征西について書きました。浮羽で征西を終わった景行天皇は京都に帰りました。
その京は何処にあったのか。景行天皇が国偲びで詠んだ「平群」が九州にもありますよ。

というわけで、福岡市の早良区の吉武高木遺跡を紹介しましょう。

a0237545_16512377.png
(小学館・日本書紀の景行紀の図を借りました)

a0237545_16583136.jpg
早良区を流れるのは室見川です。室見川は脊振山系から流れ出し、早良を下って博多湾に届きます。
a0237545_17003349.jpg
博多湾に浮かぶのは、能古島(おのころ島)で、スモッグでかすんで見えます。写真には映っていませんが、陸地側には青木ヶ原(昔は青木氏のものだった)が広がっています

a0237545_17111486.jpg
飯盛山の背後に連なる山は、糸島市との境の山です。
飯盛山の右手(北)には叶岳があり、左手(南)には日向峠があります。
サワラと伊都国をつなぐ最短道路です。
a0237545_17155103.jpg
遺跡の発見から40年、やっと公園になりました。しかし、数人が遊んでいるだけです。真夏ですからね。すごく暑いですね。
a0237545_17183124.jpg
a0237545_17191235.jpg
➁特定集団墓は、半分道路になっています
a0237545_17221526.jpg
この王墓と飯盛山と宝満山は東西に並びます。西には飯盛山。東に宝満山。油山の稜線の左にある宝満山はかすんで見えません。すぐ近くの油山も白く見えます。
a0237545_17255827.jpg
a0237545_17284115.jpg
では明日は、甕棺と木棺墓と副葬品を紹介しましょう。

また明日。



[PR]
by tizudesiru | 2017-07-30 17:36 | 272平群を詠んだ倭建命 | Trackback | Comments(2)

虚実ないまぜ?古事記と書紀の倭建命の父

虚実が絡み合っている記紀の物語
倭建命って何処の誰ですか?


a0237545_21155889.jpg

(写真は三輪山)
書紀によれば、倭建の父は纏向の日代宮の大帯日子天皇だそうで、母は播磨の稲日大郎姫(いなびのおほいらつめ)。祖父は活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)天皇、祖母は日葉洲媛(丹波道主王の娘)。倭建命の名は小碓命で双子、双子の兄は大碓皇子です。

記紀の物語は何処までが嘘なのか、伝承なのか分かりません。


物語の内容が記紀では違っているのです。倭建の国偲び歌
は、古事記では倭建命が歌いますが、書紀では景行天皇が九州に来て歌ったことになっています。

記紀では内容が矛盾することが多々あるのです。景行天皇の記述にも、それは有ります。倭建命の曽孫が、倭建命の父の嫁になって子供を産むなんてありえないでしょ。


これは伝承の手違いか、書き間違いということですが、古事記にも書紀にも書いてあります。どちらも検討されて書かれたでしょうから、共通して矛盾を認めているのです。

記紀の共通点と矛盾点をさらりと見ても、なんだかホントも出てきそうですので、いくつか挙げてみましょう。

1・古事記では纏向に居たという景行帝が「西の方に熊襲建あり」と、息子を九州に遠征させます。倭建命は女装して二人を殺しますが、返り討ちにあっていません。熊襲建の兵と倭建の兵は戦わなかったのでしょうか。次に、出雲へ行って出雲建と友となって騙して殺します。

どちらも、首長のすぐ近くに入りこめています。敵というより、むしろ元々知り合いだったのでは?


2・書紀では征西するのは景行天皇で、倭建命ではありません。

天皇は周芳(すは)のサバ(佐波)
に留まり使いを出しました。神夏磯媛は、根のついた榊に八握剣(やつかのつるぎ)八咫鏡、八尺瓊(やさかに)を取り付けて帰順しました。

神夏磯媛の手引きにより、宇佐の河上と高羽(田川)の河上にいた土蜘蛛を討ちます。
九州の首長って、剣・鏡・瓊を木に結び付けて帰順するのですね。


3・景行帝は日向に留まり、熊襲の八十梟帥(やそたける)を討つ計画を立てます。二人の娘は景行帝に騙され、姉が父に酒を飲ませ弓の弦を断ちます。父を裏切ったにもかかわらず、姉も熊襲
梟帥も殺されました。

4・襲の国を平らげ、数年後に日向にに到り京都を偲んで歌を読みました。

愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も

倭は国のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる 倭し 麗し

命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白橿が枝を 髻華に挿せ この子


この歌は、父と息子のどちらが詠んだのでしょう。それとも、ただの説話でしょうか。ただ、この時景行天皇は病気ではありません。元気に都に帰りましたから。


5・景行帝は日向から都へ帰ることにしました。夷守に寄り熊県で弟熊を誅し、葦北に寄り、火の国を過ぎ、玉杵名で土蜘蛛を殺し、阿蘇を通り御木(三池)を通り、八女津媛の話を水沼県主から聞き、八月に的邑(いくはのむら)に到りました。
九月に、天皇は日向より 帰られました、となっています。

浮羽までは詳しい地名が書かれていますが、ここまでしか書かれていません。やはり景行天皇も、筑紫國では賊を討ちませんでした。景行天皇の都は浮羽より北にあったのでしょうね。


それにしても、平群の山が詠まれていましたね。
a0237545_14231919.png
福岡市早良の平群村
奈良県の平群町
前回、倭建の「国偲び歌」を紹介しました。平群の熊白樫という意味深な言葉がありましたね。神聖な樫の木は、斎樫(いつかし)、白樫(かし)と、斎や白をつけて書かれますが、それに熊が付きました。クマガシと白カシは少し違います。そもそも、熊・球磨・隈とか九州の地名に付く言葉ですね。
熊白樫は九州とつながりが有るのでしょう。

奈良の平群町とよく似た地形の平群村が、最近まで福岡市に在りました。

同じ平群という地名ですが、共通点はあるのでしょうか。
福岡市の早良区に最近まであった平群村は、町村合併で消えました。景行天皇は、ここの白橿の葉を詠んだのでしょうか。

a0237545_13272856.jpg
早良区の吉武高木遺跡(弥生前期の遺跡)、山は飯盛山。古代から見た神祭りの山です。
a0237545_13234310.jpg
早良区の中央を室見川が流れています。平群村はこんな早良区に有りました。

早良の地は弥生時代の先進地で、この遺跡から出雲系の土器をはじめ全国各地の土器が出土していますもちろん、弥生時代の土器です。
また、吉武高木遺跡は、甕棺墓・木棺墓から、三種神器と呼ばれる「鏡・剣・玉」が出土した、三種神器の発祥の地なのです。
景行天皇の祖先の地、神祭りの山は此処だったのでしょうか。



[PR]
by tizudesiru | 2017-07-29 22:00 | 272平群を詠んだ倭建命 | Trackback | Comments(0)

倭は国のまほろば・倭建命の国偲び歌

平群の熊白樫を詠んだ倭建命

長屋王の墓が残る平群は、ほとんどがゆるやかな傾斜地です。

ここは、滅ぼされた古代豪族・平群氏の本貫でした。
古事記では倭建命も、平群の山を詠んでいます。

倭建命の故郷は平群ではないのに

命は平群の熊白樫を詠みました。それを髪に挿して、祀り事をしなさいと。

a0237545_10174209.jpg
(奈良県平群町を流れる竜田川、水量も減ってしまったとか。大和川の支流です)

古事記の倭建命・たくさんの歌が掲載されている

命の父は大帯日子瘀斯呂和氣で、纏向の日代宮に治天下天皇(景行天皇)です。
母は若建吉備津彦の娘・針間の伊那毘能大郎女。
同母の兄妹は、櫛角別王。大碓命。
倭根子命。神櫛王。
       小碓命(倭男具那命)=倭建命

倭建命は西に東に兵を進め、あげくの果てに心身ともに疲れ、杖をついて能煩野(のぼの)までたどり着いました。そこで「国偲びの歌」を詠み、薨去しました。

倭は国のまほろば たたなずく青垣 山隠れる 倭しうるわし

倭は国の中でももっともすぐれたところで、たたみ重ねたように連なる青垣のような山々の中に籠っている、倭はうるわしい。

a0237545_20580006.png


続いて
命の全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白樫が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

わたしは、もはや生きて故郷に帰ることはできないだろう。命ある者は、畳んだ薦を広げたような平群の山の神霊のこもる樫の葉を髻(もとどり)に挿して、神に感謝をするのだぞ、お前たち。

a0237545_21332529.jpg
さて、倭建命の歌は能煩野(のぼの)で読まれました。
また、続けて、

愛(は)しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居起(た)ち来も

なつかしいなあ、我が家の方から雲が湧いて来るよ


この時、命は危篤状態になりました。

嬢子(おとめ)の床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや


乙女の(ミヤズ姫のこと)床の横にわたしが置いて来た剣、その刀剣があったなら、その刀剣が、ああ…

と歌いおえ、崩(かむあが)りされました


さて、倭建とは何者でしょう

西も東も平定した(九州から関東まで)
皇室の宝の草薙劔を持っていた・
各地に地名を残した・
本人も皇太子息子は帯中津日子(仲哀天皇)
妃は垂仁天皇の姫・尾張の娘も妻とした・

平群熊白樫(くまかし)の霊験を知っていた・

天皇ではないのに、死去した時「」と書かれた
*宇治若郎子も崩と書かれていたと思います。

書紀では「国偲び歌」は景行天皇の歌となっている
倭建の記事が異常に多い
 
それにしても、古事記は正直です。物語を無理にでっち上げていないかも知れません。
それぞれの天皇の記述が極端に多かったり、少なかったりするのです。例えば、成務天皇は、単行本では6行。景行天皇は、220行(16ページ)なのです。220行のほとんどが、倭建のエピソードとは・・・。全く、古事記は何を伝えたいのでしょう。

わたしは、倭建は、筑紫の人だと思います。
なぜなら、熊襲と出雲と東国にまで遠征したのに、筑紫は討っていません。纏向も討っていません。纏向には別の同族がいたからでしょうか。皇太子が三人いるのも不思議です。それぞれ別の王族の皇太子と見たほうが自然です。
それに、倭建の曽孫・迦具漏比賣を大帯日子天皇が嫁にして子をもうけています。
息子の曽孫と結婚するなど、有りえないことです。
では、倭建は大帯日子天皇の皇子ではなく、遠い先祖となります。

気が付かれましたか、倭建の遠征地と大国主の勢力範囲と重なりますね。


倭建は倭王武かもしれません。彼は自ら甲冑を着て東西に兵を進めましたから。その伝承が、大国主=倭建と結びついた!!
どこかで聞いたような話になりますか?

すると、倭建の本貫は何処なのか。

福岡平野の西となりますね。そこにも平群がありましたから。倭建は平群の山の神を頼りにしていたと云うことですから。

貴方は、どう思いますか?
このブログの「大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる」を合わせて読んんでくださいね。「彷徨える大国主」あたりも一緒に読んで下さればありがたいです。

また、明日

[PR]
by tizudesiru | 2017-07-27 11:08 | 272平群を詠んだ倭建命 | Trackback | Comments(0)

長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成

長屋王の亡骸を抱いた男・

平群廣成の慟哭


謀反罪で死を賜った長屋王


長屋王は高市皇子の長子でしたが、家族と共に死を賜わりました。その王の亡骸を埋葬したのは誰でしょう。
罪科ある人の墓はほとんどどこにあるかわかりません。しかし、長屋王の墓は伝承があり、その墓が明治になって整備されたのです。
明治までその墓を伝えたのは平群氏でしょう。

a0237545_12273597.jpg
a0237545_12275551.jpg
(長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町にあります。江戸時代の文書に長屋王の墓という伝承が残されていたのです。)

長屋王墓の近所には夫人の吉備内親王の墓もあります。二人を近くに葬るには、それなりの努力と尽力があったと思います。続日本紀には、

「王をして自ら尽(し)なしむ。その室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、鉤取王ら同じく亦自ら経(くび)る」
「長屋王・吉備内親王を生馬山(いこまやま)に葬らしむ。」
「吉備内親王は罪無し。例になずらえて送り葬るべし。」
と書かれています。

この謀反事件で、現天皇の叔母の家族を断罪したのです。吉備内親王は前天皇の妹であり、前々天皇の娘なのです
内親王の家族を全て死なせた事件なのです
a0237545_22070319.jpg
a0237545_22081193.jpg

平群氏は長屋王家に出入りしていた

奈良市の長屋王の屋敷後から、多くの木簡が出土しています。その中に、平群廣足(ひろたり)平群廣成(ひろなり)の名が書かれた木簡が見つかりました。

廣足は倭舞の名人だったようで、宮中の雅楽寮(ががくりょう)より派遣を要請されています。

廣成は天平五年遣唐使として唐に派遣されています。帰国後は順調に官位を進めて、最後には従四位上(長官クラスの官職)に任ぜられ、出世を果たしました。
ですから、長屋王の邸宅に出入りしていたのは若い頃でしょうが、その時、主人の難に遭遇しました


数多の兵と役人に囲まれた王の屋敷内に、従者が出入りすることはできなかったでしょう。
屋敷の召使たちも外でじっと邸宅を見つめ、畏れおののいていたことでしょう。
遂に、長屋王と吉備内親王と四人の男子は、死を撰ばされました。
大邸宅の周りの空気は、泣き叫ぶ召使たちの声で震えたことでしょう。
王の妻だった他の女性たちは、各々の実家で知らせを聞いたでしょうから、屋敷の周りにいたのは庶民だったようです。

続日本紀によれば、このあと、都では長屋王事件に
ついて噂と憶測と追悼の声が溢れ、長く終始が
つかなくなるのです。

a0237545_14060323.jpg
吉備内親王は罪無し、しかし、長屋王は…
平群廣成は長屋王の傍に生活したのです。主人を十分に知っています。
主人がいかがわしいことをする人物かどうか、知らないはずがありません。
彼は糾問される主人を待ち続け、死後はその亡骸を抱いて泣いたと思います。
罪無くして逝ったその人を。
だから、平群氏の本貫の地に長屋王の亡骸を葬ったと思うのです。

長屋王の墓は、「前方後円墳の後円部の上に造られている」と書かれた文を読んだことがあります。
罪科のある主人を小さな墓に埋葬しなければならないと十分知りつつ、せめて王墓のような大きさにしたいと、廣成は祖先の墓を長屋王のために提供したと…そう思いませんか。
吉備内親王の墓は少し離れた微高地にありますので、当時はまるで仲良く並んでいるように見えたことでしょう。
平群町の小さな墳丘には、平群廣成の思いが込められていると、わたしは思います。

長屋王の大邸宅は、光明子のものとなりました。

a0237545_14340738.jpg
ここからは、おさらい


なぜこのような悲惨な事件が起こったのか、以前もブログに書いたと思いますが、少しおさらいしてみましょう。事件が起こったのは、
長屋王が恵まれ過ぎていたからです。父母は御名部皇女(内親王)と高市皇子(親王)で、妻は元明天皇の娘であり、文武天皇の妹でした。多大な財力と権力を持ち、当代随一の名家であり、将来も揚々たるものだったのです。

霊亀元年(715)二月、元明天皇(草壁皇子の妃)は「勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を皆皇孫の列(つら)」に入れたと続紀にあります。
長屋王の子どもたちの身分を三世王から二世王(天皇の孫)あつかいしたのです。

藤原不比等は「皇太子の首皇子が十五歳で即位すれば、外戚になれるから」と、長屋王家の特別待遇を容認していたでしょう。

しかし、元明天皇が譲位したのは皇太子の首皇子ではなく、娘の元正天皇でした。それは、政変のような衝撃だったのです。
元明天皇は、前年元服した皇太子・首皇子に不安を覚えていました。

養老二年(718)長屋王大納言。大伴旅人中納言。
     この年、養老律令を撰進(藤原不比等ら) 
     功績に関わらず不比等は右大臣のまま
養老四年(720)日本書紀撰進。藤原不比等没
養老五年(721)一月、長屋王右大臣。十二月、元明太上天皇崩御。

元明太上天皇は長屋王家へのレールを敷いて崩御されたのでした。が、チャンス到来と
藤原氏は着々と首皇子の即位に向けて準備をはじめました。

山上憶良ら当代の知識人を東宮(皇太子)の周りに集めます、そして、元正天皇に譲位を迫りました。元より中継ぎを承知だった元正天皇は、元明天皇の崩御の三年目の二月に首皇子(聖武天皇)に譲位されました。崩御からほとんど二年しかたっていなかったのですが。

この時(724年)、長屋王は左大臣となったのでした。
元明天皇の思いが元正天皇に引き継がれていたのでしょうか。
そして、この時、長屋王の運命は決まったのです。

引き金は、聖武天皇の皇太子(基王)が一歳で没したこと(728年)でした。
聖武天皇の皇位継承者より、長屋王の男子の方が有力だったのです。
神亀六年(729年)、基王の死から半年後、長屋王事件は起こりました。

長屋王がどんな左大臣だったか、都の庶民は知っていました。その事をめぐって様々な噂といざこざが起こり、殺人事件も起こりました。もちろん、聖武天皇は十分に知らされていなかったでしょうね。
a0237545_14044700.jpg
全ては、歴史の靄の中に。


[PR]
by tizudesiru | 2017-07-25 15:05 | 271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成 | Trackback | Comments(0)

卑弥呼の宮室は吉野ケ里ではない?

a0237545_13314132.jpg
卑弥呼の宮殿の候補地は何処なのか

吉野ケ里と纏向でいいの?


邪馬台国論争では、いつもこの二ヵ所が取り上げられて比較されていますが、二か所でいいのでしょうか。

そもそもの出発点、三国志の「倭人伝」に見える女王国の様子を見ましょうね。検討できるところを抜き書きしました。

男子は大人も子供も鯨面文身(顔にまで入れ墨をしている)
道理を図ると、まさに会稽(かいけい)・東冶(とうや)の東にある
禾稻(イネ)苧麻(からむし)蚕桑・絹績(蚕と桑を植え絹織物を織る)細紵・縑緜(細い麻糸と絹織物)がある
兵は、、楯、木弓を用いる。竹矢には鉄鏃、骨鏃を用いる
文物は中国の儋耳(たんじ)朱崖(しゅがい)と似ている。*南海島の郡名
倭の地は温暖・冬も夏も生菜を食し、みな裸足
父母と寝起きするところはちがっている
朱丹をその体に塗る
墓は棺はあるけれど槨(外側の箱)はない。土で冢をつくる。もがりを十日ほどする。
倭は、真珠・青玉をいだす。山には丹がある。
木は、クス・トチ・クスの木・ボケ・クヌギ・スギ(?)・カシ・ヤマグワ・カエデ・
竹には、シノダケ・ヤダケ・?
しょうが・さんしょう・みょうが等あるが、滋味とはしていない
骨を焼いて吉凶を卜う
大人は皆、四、五人の婦(よめ)。下戸は、二、三人の婦。
租賦を収む(税をおさめていた)
邸閣(ていかく)あり。(大きな館があった)
国国に市があり、物々交換をしていた。大倭がこれを監視していた。
女王国より北に一大率を置いて、諸国を検察し、諸国はこれを畏れていた。
一大率は常に伊都国に置かれていた。


ここまでは、
九州説を裏づけする事項だらけですね。
倭王の使いが京都・帯方郡などに詣でる時、及び群からの使いが倭国に来る時、港で文書・賜遣のものなどの荷物を開けて、不足や食い違いがないか調べている。*字が読めたし、書けたのです
(略)倭国大乱などの記事があります。
卑弥呼は王となってより人に会うことが少ない。婢が千人仕えていて、男子一人が出入りする

居処には、宮室・楼観・城柵、おごそかに設け、常に兵が守衛している。
まだまだ、続きますが省略します。

a0237545_13303858.jpg

a0237545_13324544.jpg
a0237545_13330863.jpg
一方の纏向遺跡
a0237545_13343376.jpg
この大型建物の柱穴は方形です。方形の柱穴が現れるのは、ほぼ七世紀から八世紀だそうです。更に、ここから古い土器に混じって四世紀の土器が出土しているので、時期は卑弥呼の時代ではないと訂正されたそうですが……館に城柵は有りませんね。
a0237545_13362998.jpg
では、この模型はなんなのでしょう。辺りは川の小さな支流がいくつもあり、大型建物を建てるには難しい所だと聞きましたが。
a0237545_13372325.jpg
各地方の土器が沢山出土したことが取り上げられていましたが、韓半島の楽浪系土器は出土していません。(九州には出土していますが)

番組の纏向遺跡の切り札は「ベニバナの花粉」でした。確かに、倭錦・絳青縑(こうせいけん)などを倭国から贈っています。絳青縑は赤と青の絹織物だそうです。でも、ベニバナの花粉がみつかったから絹織物があったとは飛躍がありませんか。(絹織物が弥生の甕棺から出土するので、絹も九州にはありました)


わたしは、近畿に王権が出現する事実を精査して、王権発祥の地を見つけてほしいと思います。このまま纏向に決めて突き進むのは、無理だと思うのです。


大型古墳の築造順序も精査して、埴輪や副葬品の時期をすり合わせて、納得のいく王権誕生のドラマを市民に見せてほしいのです。
私利私欲、我田引水は、もういいですから。
わたしたちは日本誕生の真実を、倭国とは何だったのかの真実を知りたいのです。人間は知ることが好きなのです。


邪馬台国九州説の老人たちが生きている間に、

なんとかなりませんか。

そうそう、わたしは邪馬台国は「吉野ケ里」ではないかも、と思っています。あそこは重要な弥生の集落のモデルですが。
a0237545_14212408.jpg
a0237545_14191321.jpg
もし女王国が北部九州にあったのなら、鏡が副葬されたでしょうし、五尺刀も副葬されているでしょう。卑弥呼は女王国から実家の墓地に運ばれて埋葬されたかも知れません。後の時代の古墳の改葬のように、幾度も改葬されたかも知れません。改葬の途中で金印は権威ある者の手に渡った可能性もあるでしょう。
次の王権が卑弥呼を倒した勢力であれば、必ずそうすると思います。二度と蘇らないように墓を改葬するのです。
卑弥呼の霊力が信じられていたのなら、必ず実行したはずです。

卑弥呼の墓は、北部九州にあると云うことですかね。でも、
卑弥呼の宮殿は吉野ケ里ではない
これは、今の時点でのわたしの結論です。


[PR]
by tizudesiru | 2017-07-24 14:44 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback | Comments(2)

邪馬台国論争・TBSの着地も纏向ですか

a0237545_00235830.png
卑弥呼が没したのは、正始八年(247年)でしたね。三世紀の半ばですね。

ちょっと、テレビに気になることがあったので寄り道です。

またまた不思議な
邪馬台国論争
a0237545_23542191.jpg

「邪馬台国の候補地は全国にある」と笑って

a0237545_00050805.jpg

魏志・倭人伝の一文「水行十日陸行一月」を取り上げて、

邪馬台国論争が始まりました…

女王の都する所が、水行十日陸行一月だというので、明治以来の九州説と奈良説の二ヵ所にしぼって邪馬台国の場所を探る番組でした。吉野ヶ里と纏向が比較されていました。

そもそも、魏志の「倭人」伝は、帯方郡から女王国までの里程を「水行十日陸行一月」のみで説明してるのではありません。里程を抜き書きしてみましょう。

従郡至倭(郡より倭に至る)には、海岸に沿って行き、
到其北岸句邪韓国(その北岸、句邪韓国にる)*その北岸は、何処の北岸?
七千余里、始度一海、千余里至対馬国(七千余里にして、初めて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る)
又南渡一海。(また南し一海を渡る) 名を瀚海という、
千余里、至一大国(千余里にして一大国に至る)
又渡一海、千余里至末盧国また一海を渡り、千余里にして末盧国に至る)
東南陸行五百里、到伊都国東南に陸行し五百里にして伊都国る)

伊都国だけ「到」が使われています。このあとで、伊都国の説明が入ります。これまでの国々にも官や国土や風俗の説明は有りましたが、省きました。

それでは、伊都国のせつめい。

官を爾支(ねぎ)といい、副を泄謨觚(えもこ)柄溧觚(へごこ)という。千余戸あり。世(よよ)王あり。皆、女王国に統属す(皆統属女王国)。(帯方郡の)軍使往来するとき、常に駐まる所なり。*(代々の王は皆、女王国を統属していたとよめませんか?)

再び、里程に戻ります。
東南至奴国、百里(東南して奴国に至る。百里なり)
東行至不彌国、百里東に行きて不弥国に至る。百里なり)
南至投馬国、水行二十日(南にして投馬国に至る。水行すること二十日なり)
南至邪馬壱国、女王之所都、水行十日陸行一月(南して邪馬壱国に至る。女王の都する所なり。水行すること十日、陸行すること一月なり)

次に他の国について「女王国の北にある国」は、その個数とか距離のおおよそを書くことができるが、その他の方角の国々は、遠く離れていて詳しく知ることができない」と書かれています。

すると、

対馬国も、一大国も、末盧国も、伊都国も、奴国も不彌国も、投馬国も、みんな

女王国より北にあると云うことです。

戸数や距離や官や副官が述べられていますからね。


女王の都に至るには、水行十日陸行一月かかるのですが、出発地は何処でしょう。帯方郡ではありませんか?

更に、よく見ると「距離・至・国名」の順番で、対馬国も一大国も末盧国も伊都国も紹介されていました。距離が先で、帯方郡から連なって来た意味でしょうか。
が、
奴国・投馬国・不彌国・女王国は、「至・国名
距離
で書かれていました。距離が国名の後に有りました。
これには意味があると思います。出発地は、郡ではなく伊都国ですかね…

更にさらに、
詳しく知ることができない国々を二十ヶ国あまり名前だけ書いた後に、

其の南に狗奴国あり。男を王とし、その官には狗古智卑狗があり、女王には属していない」と書かれているのです。
狗奴国は女王国の南です。

次に里程のまとめとして自郡至女王国萬二千余里

帯方郡より女王国に至る距離は一万二千里余り

7000+1000+1000+1000+500=10500
あと1500里で伊都国から女王国に届くのです。

普通に、邪馬台国は近畿では有りえません。
a0237545_12273741.jpg
邪馬台国が手に入れていた鉄の問題がありました

「倭人」伝に書かれているのですから、これは決定的な物証でしょうね。

鉄が出土する遺跡とその量の画像を見ると、圧倒的に中部九州が多いですね。

そこには狗奴国があったのではないでしょうか。

狗奴国は鉄を以て武器や工具を作り、生産力を上げ、女王国と対抗したのです。

熊本の遺跡は、近畿の遺跡ほど掘られてはいません。調査もせず土木工事が行われているのも現実です。

見つかっても掘るのは一部です。(吉野ケ里遺跡は特別中の特別なのです)


鉄の工具や鏃などの武器は、出土数で福岡より熊本が勝っています。
自著にも書きましたが、この違いが狗奴国が邪馬壱国を追い詰めたと思います。
そして、女王国は狗奴国に破れたと。

たまらず女王国に隷属していた人々は、東へ移動したのです。

もちろん、鉄の生産技術・大型甕棺の焼成技術・銅製品の生産技術など、みんな持って逃げたと思います。


久留米地方も、福岡平野も、繁栄していた遺跡がある時期一度に放棄されました。

生活用具も祭祀具もみんな周濠に捨てて(完品も捨てられている事実がある)、一斉に逃げ出すことが起こりました。


持ち物を破棄する理由は沢山ないでしょう。
豊かな土地を捨てなければならない理由なんて。

その後に入って来たのは、もちろん肥後の勢力でした。
それが、古墳の様相から読み取れるのです。

わたしがこのように書くまでもなく、いろいろな方が様々に指摘されていることでしたね。

明らかに、畿内説は無理なのに。それでも取り上げるTBS。
NHKも同じでした。なぜでしょうか。

由々しくもゲストが言っていました。

「邪馬台国が九州なら、邪馬台国は一地方の国となる」

「畿内ならば、ヤマト王権につながる国ということになる」

そうでしょうか。王権はどのように生まれたのか、まだ定説は有りません。
ゲストとしては、邪馬台国が一地方(田舎)にあったという結論が嫌だというのですね。

でも、田舎でいいではありませんか、事実であれば。(本人は畿内説だそうですから)

それに、王権と九州は深いつながりがありますよね。

東京だって、五百年前は都から離れた田舎だったのですからね。政治が変われば、経済・文化の中心地も変わるのですよ。

更に司会者が「九州説の人には、年よりが多い
」といいました。
驚きました、九州説の研究者にも老人にも若者にも失礼でしょう。
番組として恥ずかしくありませんか。


当然ですが、二千年前は大陸や半島に近い所が文化の中心地だったと思います。

a0237545_13483671.jpg

a0237545_13504586.jpg
(福岡市博物館・新奴国展のカタログより)

さて、里程以外でもたくさんのことが取り上げられ、比較がされていました。
それもなかなか見逃せなかったので、また明日紹介しましょう。
a0237545_13474585.jpg
明後日には、また古代の神祭りと萬葉集の時代に戻るつもりです。
邪馬台国九州説の老女としては、ちょっと、ネ。気になりました。


[PR]
by tizudesiru | 2017-07-23 14:29 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback | Comments(3)

大国主を追放したのは、何処の氏族?

権力者(為政者)が変われば

祭祀方法も祭神も変わる


a0237545_15411420.jpg

大国主命(八千矛神・オオナムチ)が彷徨うことになった理由は、政変

意外に考えられません。

為政者が変われば、墳墓の形も、シンボルの山も、祭祀する神も変わります。
次の為政者は先祖から伝わる葬儀をするでしょうし、崇める山も違って来るし、当然祭神も変わるのでしょう。

全国に浸透しつつあった大国主神が、出雲一局にて祀られるようになったのには理由があるはずです。北部九州・出雲・紀伊・関東で神祭りが変わるのは、いつでしょう。

大国主が出雲へ向かったのは、弥生時代の終わりころ?
普通の国主ではなく、「大」が付く国主となったのは何処で、いつなのか。

大国主命はオオナムチ・八千矛神とも言います。たくさんの矛(鉾)をシンボルとした神なのです。矛を祭祀に使った神祀りをしていたのは、北部九州の福岡平野が中心です。その中でも春日市から小郡市にかけての一帯、その辺りが中心地のようです。
弥生のコンビナート・須玖岡本周辺の古代工業地帯には、銅矛の鋳型が大量に出土しています。
a0237545_15451674.jpg

(福岡平野では、広形銅矛だけではなく、銅剣や銅戈の鋳型も出土しています)

弥生時代の終わりには大型青銅器の広形銅矛がなぜか埋納されるのです。
氏族の貴重品が突然埋められるのは、やはり異常です。

八千矛神は広形銅矛祭祀氏族が信仰した神と、わたしは思います。
その氏族かその一派が出雲へ向かったのではないでしょうか。
八千矛神は、出雲のスサノウの娘を嫡妻としたのです。

出雲の荒神谷に埋納された300本を超える銅剣は、彩杉文に研がれていました。その技術は九州のものだそうです。未だに銅剣製造の跡が見つからない出雲に三百五十余の銅剣が出土したのですから、誰かが九州から持ち込んだと思うのです。製造地がない限り、他には考えられません。
オオナムチは九州から移動し、出雲で大国主になったと思うのです。
その大国主は、広く九州・和歌山・関東の神となっていたのに、
突然「大国の主=権力者=祖先神」ではなくなったのです。それはいつなのでしょう。

それは、古墳時代の終わりだと思います。
前方後円墳ではなく、大型方墳の時代に代わったころ
、大国主の神祭りは傍系に移される運命になったと思います。

為政者の交替により、文化・人脈・祭祀・経済などに変化が起こるのですから。

地方にまで祭祀の変革・神社のご祭神の交替が求められたのは、大化改新後であり、大宝律令制定後ではないでしょうか。


大型方墳・蘇我系の大王
大型方墳が築かれるようになったのは、蘇我系大王の時代です。
a0237545_21293915.jpg

a0237545_16301925.jpg

磯長の用明天皇陵(65m×60m)は方墳です。
a0237545_21345674.jpg

推古天皇陵(63m×55m)も方墳です。または、(59m×55m)

江戸時代に修復が行われています。

推古陵には「内に石棺二を安す」
という記録が残されています。
a0237545_21364355.jpg

a0237545_21374776.jpg
(太子町竹内街道歴史資料館・「横領の谷・磯長谷古墳群」より)
推古陵も用明陵も大型方墳です。

この時代大王の墓の形が変わりました。
蘇我馬子の墓と言う石舞台も、蘇我稲目の墓という都塚古墳も方墳です。


ここで、気になるのは孝徳天皇陵は円墳(経32m)です。竹内街道歴史資料館の傍に有ります。ここは円墳だそうで…他の王陵と不釣り合いですね。
自らが出した薄葬礼に従って、小さな墳丘墓にされたと云うことでしょうか。
あの壮大な難波宮を造営した大王が…小さな墳丘…そうかもしれませんが。
わたしは孝徳天皇陵は近くに方墳としてある思うのですが…
余計なことかも知れませんが、その墓は未だに認められてないのでは…
私としては、確かに大型墳があたりにはあると思います。

蘇我系大王の方墳には家形石棺が置かれている

a0237545_16341637.jpg
都塚古墳(方墳)も、石舞台古墳(大型方墳)も、崇峻天皇墓ともいわれる赤坂天王山古墳(大型方墳)も、凝灰岩の家形石棺が置かれていました。氏族の葬送の共通性は十分にありますね。
家形石棺のルーツも、九州だと思うのです。
 
はい、今日は「広範囲の神とされていたはずの大国主命が、本貫を離れることになったのは何故か」を考えるのが目的でしたね。すっかり大型古墳に話が飛びましたね。戻りましょう。

八千矛神が何処で生まれたのかというと、九州でしょうね。
何が大きな転機があって、八千矛神は出雲に入り込んでいきました。大国主となった八千矛神は、関東にまでその勢力を伸ばしましたが、ある時、別の勢力にとってかわられた…
それが、大型方墳が現れる時期ではないかと、思うのです。
この大型方墳の勢力が明日香に入っていったと思います。

地名を見ても、太子町の辺りは「近つ飛鳥」というではありませんか
大阪府の南河内に蘇我系の勢力が入って来たのではないかと、わたしは思います。その勢力が奈良の明日香に進出したと。
なぜ奈良なのかですが、追われた氏族が隠れるのにいい土地ですね。山地で農地は狭いけれど薪の材料があり、炭焼きができたし、鉄の生産をするのに適していたと思います。経済力が何より重要ですよね。
また、ながくなりましたね。




 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング
[PR]
by tizudesiru | 2017-07-22 17:27 | 269彷徨える大国主命 | Trackback | Comments(0)

269彷徨える大国主命と宗像君徳善

彷徨える大国主命宗像君徳善
さて、彷徨える大国主命の話の方へ移りましょう。
万葉集巻六「冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を発ちて道に上がりて、筑前の国宗形郡名兒山を越える時に作る歌一首」におおなむちの神が歌われています。

963 おほなむち すくなひこなのかみこそは 名付けそめけめ 名のみを 名兒山とおいて あがこふる 千重の一重も なぐさめなくに

むかし、おおなむちとスクナヒコナの神がはじめて名付けられたという「名兒山」だけど、わたしが都に置いて来た娘を恋しく思う心に比べれば、「なごやま(汝の兒の山だよ)」と聞いても、千重の一重も少しの慰めにもならない。

幾度か取り上げた万葉集の大伴坂上郎女の歌です。
このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神だったと、既に紹介しています。
では、おおなむちとスクナヒコナの神は、宗像氏の支配地域の神だったのでしょうか。支配神でなくては、山の名付け等できないはずです。
しかし、三女神を「宗形氏などが祀る」と書紀にも書かれています。万葉集とほぼ同時代に、同じ地域で神の名がずれているのです。
考えられるのは、同じ八世紀にご祭神が入れ替わったと云うことです。
a0237545_16303006.png

宗像氏は日本書紀に出てきますが、特に天武天皇の嬪となった宗像君徳善の娘・尼子娘は、高市皇子を生んだと書かれています。その宗像君徳善の墓が宮地嶽神社にある宮地嶽不動古墳とされていますが、徳善の墓ではないという説もありますね。
幾度もこのブログでも取り上げましたが、その古墳の所在する宮地嶽神社を再訪してみましょう。

a0237545_15323950.jpg

元のお社は階段を上り詰めたこの辺りに在りました。背面の山は神社のご神体山です。拝殿の大注連縄は、直系2.5m、重さ5t、日本一だということです。
a0237545_15320515.jpg
山門をくぐったこの境内で、毎年筑紫舞が(10月22日)奉納されます。
a0237545_15342674.jpg
特別の舞である「磯良の舞」が舞われた年もありました。安曇磯良は安曇氏の祖先神です。白装束で顔を隠して登場します。安曇氏は海神を祀っています。
a0237545_15350092.jpg
この宮地嶽神社のご祭神は三女神ではありません。また、宗像氏ともかかわりのないご祭神でもあります。
息長足比売命(神功皇后)

勝村大神(かつむらおおかみ)

勝頼大神(かつよりおおかみ)


神社の創建は1600年前とされ、1200年前に神功皇后が遷座されたと云うことです


ご遷座された日が10月22日と云うことで、御遷座記念祭が行われているのです。

平たく言えば、神功皇后は後の世に入って来られた神なのですね。

宮地嶽神社古墳は、相島(神社の正面の海に横たわる島)
の玄武岩で造られた巨石の横穴式石室の古墳です。

(日本で二番目に長い巨石の羨道をもっています)。

以上のことから、この神社の古墳が宗像君徳善の墓であると思いますか?
素人は、違うのではないかと疑ってしまいますね。
a0237545_15481881.png
このブログの『148光の道は弥生から』を見ていただくと、宮地嶽神社と古墳のことが分かるのではないかと思います。光の道で有名になった神社です。

さて、再度「彷徨える大国主命」の話の方へ移りましょう。

このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。大国主は関東地方の神にもなっていたのだと。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神
でした。
すると、おおなむちとスクナヒコナの神は、もとは古代宗像氏の支配地域の神だったのでしょう。(支配神でなくては、山河の名付け等できないからです)

永く神として祭られていた大国主(おおなむち)の神、しかし、歴史のどこかで主祭神ではなくなっていったようです。
おおなむち神は北部九州辺りの神だったのに、その後、何処に行かれたことになります。
古事記によると、おおなむち(大国主)は多くの妃との間に多くの子どもをもうけています。

須佐之男命の娘・須勢理毘賣(嫡妻)
八上比賣ーー木俣神
高志国の沼河比賣
宗像の奥津宮の多紀理比賣ーー阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)・高比賣(下照比賣)
神屋の楯比賣ーー事代主神
八島牟遅神の娘・鳥耳の神ーー鳥鳴海神(とりなるみ)


広範囲から妻を迎えていますね。出雲のスセリヒメ、越の国のヌナカワヒメ、宗像のタギリヒメなどなど、日本海ルートの国と深いつながりがあるのですね。そして、関東にまで手をのばしていた、ということです。

子孫も古事記で辿ってみましょう。
スセリ姫には子が書かれていません。スサノウの娘で、しかも嫡妻ですから、オオナムチ(大国主)が出雲に入るには、出雲の支配者の娘を娶る必要があったと云うことです。もしかしたら、スセリ姫は年齢が高くて子供が産めなかったのかも知れませんね。それでも、嫡妻にしなければならなかった…
この掟(慣習)は、古代国家にもその後にも受け継がれる「王権の条件」ですね。古代では、皇后には皇女でなければなれなかったのですから。


では、大国主の子孫たち、鳥鳴海神から続きます。
鳥鳴海神
と日名照額田毘道男伊許知邇神ーー国忍富神(くにおしとみ)
国忍富神と葦那陀迦神(八河江比賣)ーー速甕の多氣波夜遅奴美神
多氣波夜遅奴美神天の御仲主の娘・前玉比賣ーー甕主日子神(みかぬしひこ)
甕主日子と於加美神の娘・比那良志毘賣ーー多比理岐志麻流美神
多比理岐志麻流美神と比比羅木の其花麻豆美神の娘・活玉前玉比賣神ー美呂浪神
美呂浪神と敷山主神の娘・青沼馬沼押比賣ーー布忍富鳥鳴海神
布忍富鳥鳴海神と若盡女神ーー天日腹大科度美神
天日腹大科度美神と天の狭霧神の娘・遠津待根神ー遠津山岬多良斯神

おおなむちの神が妻を迎えた地域は、広範囲にわたりました。
途中から「天御中主神」が入ってきますね。甕(みか)・日子・天など九州に所縁の深い詞が子孫の名についています。九州の勢力が大国主の勢力に浸透していったと云うことでしょうか。
その後、オオナムチ神は摂社や境内社へと遷座されていったようです。または、名前を変えて…
時々、思わぬ場所で「大国主」が祭られている神社に出会います。
そんな小さな祠にも、村社の摂社にも、知られざる歴史の面白さを感じますね。
a0237545_10561096.png
(関東平野の最奥の筑波山とつくし池です。写真をお借りしました)
(古事記では、多岐理比賣がオオナムチの妻になっていますが、書紀には市杵嶋姫という一書もあります。また、宗像大社の辺津宮の女神でもあります。「宗形三女神のお仕事」で祭神はとりあげています)


今回も長くなりました。読みづらいでしょうね。
 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング
[PR]
by tizudesiru | 2017-07-20 11:20 | 269彷徨える大国主命 | Trackback | Comments(0)

人麻呂の妻は火葬された

人麻呂の妻は火葬された!
a0237545_01101773.jpg

「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀働して作る歌二首併せて短歌」

の続きです。
巻二「挽歌」

210 うつせみと思いし時に 取り持ちて 吾がふたり見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白妙の 天ひれ隠り 鳥じもの 朝だちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 若兒(みどりご)の 乞い泣くごとに 取り与ふ ものしなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と ふたり吾が寐し 枕付く 嬬屋のうちに 昼はも うらざび暮し 夜はも いきづきあかし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に 吾戀ふる 妹はいますと 人のいへば 石根さくみて なづみこし よけくもぞなく うつせみと 思いし妹が たまかぎる ほのかげだにも 見へなく思へば 

211 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる

212 衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を往けば 生けるともなし

210 あの人は現世の人だと思っていた時に、手を取りあって二人で見た 突き出した土手の槻の木の枝のあちこちに春の葉が茂っているように 深く思っていたあの人であるが、頼りにしていたあの人なのに、常ならぬ世の中の掟に背くことはできないので、かげろうが燃える荒野に、真っ白な天女のヒレに隠れて 鳥でもないのに朝早くから家を出て、入日のように隠れてしまったので、あの人が形見に残して行った幼な兒がものほしさに泣いても与えられる物もなく、男だけれど小脇に幼兒を抱いて、あの人とふたり寝た 嬬屋の中で、昼はうらさび暮し、夜はため息をついて夜を明し、どんなに嘆いてもどうしょうもなく、どんなに恋しく思っても もう会うこともできない。羽がいの山に恋しいあの人がいますと人が言うので、岩根を押し分けてやって来たのに、その甲斐もなかった。この世の人だと思っていたあの人が死んでしまって、ほんの少しほのかな影すら見えないと思うと…


211 去年見ていた秋の月は今も照らしているけれど、一緒にこの月をみたあの人は年と共に遠ざかっていく

212 衾道の引手の山にあの人を置いて山道を帰って来る時、とても生きている心地がしない。

前回の挽歌の妻とは別の女性でしょうか。この女性と人麻呂は一緒に暮らしていたのでしょう。死亡した女性は朝から白栲の布につつまれて家を出て行ったのだが、もう帰ることはないと嘆いています。そして、一人の幼兒を残していたので、その子が泣いても何もしてやれない男であることを人麻呂は嘆いています。女性は引手の山に葬られたのでしょうか。妻を置いて山から帰るのですから、葬儀を済ませたと云うことです。「使いが来て妻の死を知った」というなかなか会えない207番歌の「天飛ぶや軽の道」の妻とはかなり身分の違う女性のようです。


この挽歌には、異伝があるのです。
表現も大変良く似ています。が、見逃せない言葉があります。

210の最後に「うつせみ(打蝉)と おもひし妹が たまかぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

213の最後に「うつそみ(宇都曽臣)と おもひし妹が 灰にて坐せば

これは、大変な違いです。213の女性は、「灰にてませば」と火葬されているからです。

この時代、火葬は一般的ではありませんでした。

火葬された人の名は、書紀にも取り上げられています。火葬の初出は、700年の道照で「粟原にて火葬」とあります。702年没の持統天皇も火葬でした。

では、213番歌を読みましょう。
或本の歌に曰

213 うつそみと おもいし時に 携はり 吾ふたり見し 出立の ももへ槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂れるがごと 思へりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば かぎる火の 燃ゆる荒野に 白栲の 天ひれがくり 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見における 緑子の 乞いなくごとに 取りあたふ 物しなければ 男じもの 脇挟み持ち 吾妹子と 二人わがねし 枕つく つまやの内に ひるはも うらさびくらし 夜はも 息づきあかし 嘆けども せむすべしらに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に なが恋ふる 妹はいますと 人の云へば 岩根さくみて な積みこし よけくもぞなき うつそみと 念ひし妹が 灰にてませば

短歌三首

214 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は わたれども あいみし妹は いや年離(さか)る

215 衾路(ふすまぢ)を 引出の山に 妹を置きて 山路おもふに 生けるともなし

216 家に来て 吾がやを見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕(こまくら)

さて、人麻呂は210と213の挽歌のどちらを先に詠んだのでしょう。

わたしは、213が先だと思います。「灰にて坐せば」が先だと思うのです。

火葬とは、由々しきことです。こんな行為を受け入れた女性として、読み手は誰を思い出すでしょう。

平城天皇に万葉集が召し上げられて(806年)、編集を担当した学者は、ここを詠んで愕然としたでしょう。「これは、高貴なあの方を導き出す言葉だ」と。
だから、210を挿入し、213を「或本の歌」としたと、大胆にもわたしは思うのです。
そうでなければ、210と213はあまりにも似ています。手直しをする必要はないほど似ているのです。なのに、敢て手直しをしたのは何処か、「灰にて坐せば」以外にありません。

a0237545_01043458.jpg
「灰」になってヨミガエリを拒否した持統天皇の思いを感じずにはおれません。
では、ここに出て来る「幼兒」とは…あの古今伝授に残された人なのでしょうか。
わたしにはわかりません。
古今伝授と207番歌(人麻呂の妻の挽歌)については、このブログの「264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が」を読んでくだされば、少しは説明不足を補えると思います。

それから、前回は「飛鳥と明日香」の紀行文的だったのに、今回は「万葉集」の人麻呂の挽歌について書いているという……ブログの内容があちこちに飛びますね。
ごめんなさい。読みにくいブログになっていることでしょう。
わたしは古代史の謎に興味があるのですが、謎を解く鍵として地図があると考えています。それに、書紀や古事記、先代旧事本記や古語拾遺などの文献、寺社の由緒なども面白いと思うのです。それらのバラバラなパーツを一つずつ拾ってジグソーパズルのようにはめ込んでいるつもりです。だんだんバラバラだったものが、一定の方向に導いてくれるのではないかと、発見したことを書いているのですが。
パーツが多すぎて分かりにくいですよね。
これからも「丁寧に説明していく」つもりです。105.png112.png119.pngよろしくおねがいします。



[PR]
by tizudesiru | 2017-07-19 01:35 | 268人麻呂の妻は火葬された | Trackback | Comments(0)

鬼のまな板の上で霊魂は語る

飛鳥は霊魂が飛び交う聖地
今年は三度目の明日香の旅でした。
a0237545_09170768.jpg

7月の猛暑の中を明日香へ…
a0237545_09192373.jpg

此の分かれ道を左に向かうと亀石まで届きます。
私も40年ぶりに明日香駅から岡までの路を辿ってみました。
駅から吉備姫古墳と猿石を見て、
a0237545_09231114.jpg

a0237545_09244690.jpg

大池を見て、
a0237545_09235138.jpg

天武持統合葬墓を右に見ながら、
a0237545_09261873.jpg

鬼の雪隠、鬼のまな板まで行きました。
a0237545_09283317.jpg

a0237545_09291260.jpg


思い出しました、むかし不思議に思ったことを。なぜこの墓が破壊され石棺の刳り貫き型の上蓋部ががけ下に落とされたのか…
はじめて見た時は、とても不思議な気がしました。古墳の主はきっと身分の高い人だったでしょうから。
現在地の鬼のまな板の石は、当時の古墳がつくられた場所にあるのでしょう。すっかり竹やぶになった崖の上に。
a0237545_09323322.jpg

a0237545_09331914.jpg


この墓が破壊された理由はただ一つ。邪魔だったからでしょう。

7世紀の当時の人々は、ここが誰の築造で誰のための墓か十分に知っていました。それは王家以外の人物だったかも知れないし、王家の誰かだったかもしれません。
しかし、邪魔だったのです。なぜなら、
a0237545_09472025.png

鬼のまな板は、欽明陵と天武持統陵の間に在りますし、植山古墳(推古陵)と中尾山古墳(文武陵)の交差点に在ります。
どう考えても、高貴な方のラインに乗っているのです

ある氏族にとっては、大事な線上にたまたま鬼の雪隠古墳が乗ってしまったのでしょう。
だから、万人承知の上での破壊だったと思います。

明日香が飛鳥となったのは、ここが霊魂(鳥となった霊)が飛び交う土地だからでしょう。ここには、いろいろな氏族のルーツの墓があります。蘇我氏も、中臣氏も、大伴氏も、天武朝の皇子達も…
ここは、それぞれの氏の祖先霊が飛び交う地なのだと思います。大きな財を生みだす田畑は少ないのに多くの寺院が建立されたのには、わけがあると思います。祖先霊の漂う地が「飛鳥」だから寺が造られたと、わたしはそのように思います。
a0237545_09541253.jpg

万葉集には「明日香」が使われ、日本書紀には「飛鳥」が使われています。その成立の過程で厳密な検討がなされ、書紀編纂者は「飛鳥」を採用したのです。
日本書紀が成った720年は、既に平城京に都が遷っていましたから、祖先の都「明日香」を尊んで祖先の霊魂が飛び交う聖なる土地として「飛ぶ鳥の都」とし、アスカ「飛ぶ鳥の霊魂漂う明日香」と特別の意味で呼ばれたのだと思います。
このブログの「215天智天皇の三山歌」には、ヤマト三山と呼ばれる畝傍山・天香具山・耳成山が古代有力氏族のシンボルの山だったことを書いています。合せて読んでいただければ、明日香のイメージが分かりやすいかも知れません。


[PR]
by tizudesiru | 2017-07-15 12:56 | 267氏族の霊魂が飛鳥で出会う | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

記事ランキング

最新の記事

持統天皇と倭姫皇后と倭姫の接点
at 2017-11-21 23:49
持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮
at 2017-11-21 00:10
倭姫皇后の運命を握った神とは..
at 2017-11-19 00:12
倭姫皇后の運命を握った神は
at 2017-11-18 10:06
「野守は見ずや」と、額田王は..
at 2017-11-17 00:49
持統天皇は天智帝と草壁皇子の..
at 2017-11-16 00:42
「中大兄三山歌」の畝傍山は倭..
at 2017-11-15 00:26
近江遷都で額田王が三輪山を詠..
at 2017-11-14 00:43
持統天皇と呼子鳥をめぐる謎
at 2017-11-13 01:47
謎の鳥・喚子鳥は持統天皇を呼..
at 2017-11-10 01:59
柿本人麻呂は宇治川に天智朝の..
at 2017-11-08 00:14
柿本朝臣人麻呂・近江朝を偲ぶ
at 2017-11-07 00:43
沖ノ島は誰が祭祀したのか・ヒ..
at 2017-11-04 17:27
297鉄の副葬も甕棺墓の時代から
at 2017-11-03 20:00
幻住庵の虚白院に住んだ仙厓和..
at 2017-11-02 16:43
仙厓さんが住んだ天目山幻住庵..
at 2017-11-02 01:02
三角縁神獣鏡は甕棺からは出土..
at 2017-10-31 23:31
景行天皇と倭武尊が詠んだ平群..
at 2017-10-29 16:01
青銅鏡は紀元前に北部九州で国..
at 2017-10-29 02:05
赤塚古墳の三角縁神獣鏡はヤマ..
at 2017-10-26 21:24

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
278西原村の旧石器・縄文・弥生の資料
289人麻呂が見た王朝の皇子達
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた

画像一覧

以前の記事

2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

最新のコメント

oh! 「すべて」展や「..
by 尊敬します at 23:30
筑紫野市さんへお伝えくだ..
by 尊敬します at 23:36
何時もありがとうございま..
by tizudesiru at 21:33
拝殿でお神楽をやっていた..
by 尊敬します at 23:00
> 宮原さん ありがと..
by tizudesiru at 20:17
宮地嶽神社の扁額の文字は..
by 宮原 at 10:33
たぶん、夾紵棺の技術、大..
by 尊敬します at 22:58
もう読まれましたか。 ..
by 大町阿礼 at 21:21
> 名無しさん ほんと..
by tizudesiru at 11:55
> aさん コメントあ..
by tizudesiru at 11:20
郭務宗が二千人の人々を率..
by 名無し at 09:10
間夫という山名は鉱山に関..
by a at 01:51
いつも楽しく拝見させてい..
by 尊敬します at 23:15
>いつもありがとうござい..
by tizudesiru at 20:27
弥生の風公園のわら細工の..
by 尊敬します at 22:29
> コメントありがとうご..
by tizudesiru at 23:06
建物の遺構もさることなが..
by 暇人 at 22:48
ごめんなさい。 楼閣じ..
by 尊敬します at 00:10
> 読んでくださってあり..
by tizudesiru at 23:59
邪馬台国がどこにあったか..
by 尊敬します at 18:44

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ