<   2017年 06月 ( 15 )   > この月の画像一覧

大国魂神社は大化改新後に総社になった

武蔵大国魂神社の創立は?
a0237545_23474302.jpg

創立は景行天皇四一年だそうで、

ご祭神は大国魂大神で、出雲の大国主神と御同神です。
不思議ですね。
この地域では元から出雲の神を祀っていたと云うことでしょうか。
では、武蔵国は出雲と深い
つながりのある地域となります。畿内の神々を飛び越えて出雲と結びついているのですから、本当に面白いですね。

それも、大化改新後に近畿の勢力の手が入ったと、当の神社が発信しておられるのですから、とても意味深です。祭祀の在り方に大きな変化があったのは、七世紀半ばだということになりますね。

「大國魂大神」とはいえ大国主神と同神であると長年主張し続け、王権側の国司もそれを認めて来たのですね。それにしても、大國主神は大巳貴神ともいい、天地創造の神ですね。

万葉集にも「おほなむち すくなひこなの神こそは 名付けそめけめ 名のみを名児山と…」という九州で詠んだ大伴坂上郎女の歌があります。
巻十八にも「おほなむち すくなびこなの 神代より言い継ぎけらく…」とありますし、
巻七には柿本人麻呂の歌集として「おほなむち すくなみかみの 作らしし 妹背の山を見らくしよしも」があります。
まさに大國主(おほなむち)は天地創造の神ですね。

少なくとも、万葉の時代には、おおなむち(大国主)すくなひこなの神が国土を造った神でした。九州でも、和歌山でも、関東でも、天地創造の神だったのです。
大國魂神社の意味するところは大きいのです。
a0237545_23532065.jpg

武蔵国造が代々奉仕していましたが、大化改新後に武蔵国府がこの地に置かれたので、以来国司が国造に代わって奉仕するようになったと云うことです。
大化改新後に? と云うことは、他の地域でも地域の古来からの神が集められて総社が作られることが、大化改新後にあったのでしょうか。

そもそも、総社が造られたのは何故なのか。大化改新が契機となったのか。
気になることがひとつ増えました。
a0237545_23523715.jpg
a0237545_23461148.png
国司は赴任後一宮から次々に幣を捧げなければなりません。国司が管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵国中の神社を一カ所に集めて祭ったので、大国魂神社が武蔵総社となったのです。集められた神社は六社です。
(西殿)
六ノ宮 杉山大神(神奈川県横浜市緑区西八朔二〇八)
五ノ宮 金佐奈大神(埼玉県児玉郡神川町七五〇)
四ノ宮 秩父大神(埼玉県秩父市番場町一_三)
(中殿)
御霊大神
大國魂大神
国内諸神

(東殿)
一ノ宮 小野大神(東京都多摩市一ノ宮一~一八~八)
二ノ宮 小河大神(東京都あきる野市二ノ宮二二五二)
三ノ宮 氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一~四〇七)
かなり広い範囲から6社集めたのですね
a0237545_23540971.jpg
闇夜祭(くらやみまつり)5月5日の例大祭
夜間八基の神輿が古式の行列を整え、闇夜にお旅所へ渡御するので、俗に府中の「闇夜祭」といわれ大いににぎわいます。府中競馬もありますので、現在は御輿渡御は夕刻六時より行われているそうです。
a0237545_23502325.jpg
摂社として宮乃咩(みやのめ)神社があり、祭神は天鈿女命。例祭の夜、当神社に置いて「青袖の舞」を奏し、終えて本社に参向して同舞を奏し、翌朝「杉の舞」を奏します。創立は本社と同時代であると云われています。他に、摂社の坪宮(つぼのみや)があり、国造神社とも称します。
a0237545_00390745.jpg
a0237545_00405032.jpg
末社に、松尾神社、大鷲(大トリ)神社、住吉神社などがあります。後の時代に勧請されたようです。八幡宮(国府八幡)は、聖武天皇の時代の創立だそうです。
a0237545_00425278.jpg
大國魂神社に集められた六社のうちの一宮・小野神社にも行ってみました。
a0237545_01001610.jpg
a0237545_01012675.jpg
















a0237545_23493524.jpg
a0237545_01015901.jpg
小野神社についてはよくわからない様です。大きな権力によりいつの時代も古来の信仰に改ざんの手が入ったのでしょうね。そうして本来の意味が分からなくなるのは、とても残念な気がしました。
それにしても、秩父大神も夜祭で有名ですね。
関東の暗闇に行われる祭りには、どんな意味があったのでしょうね。


 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング


[PR]
by tizudesiru | 2017-06-27 10:33 | 大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる | Trackback | Comments(0)

隅田八幡神社の国宝・人物画像鏡

国宝・人物画像鏡
を所蔵する隅田(すだ)八幡神社に
寄り道しました。 
赤い橋が架かるのは、隅田川です。鳥居の奥に神社があります。長い参道になっているのですね。

a0237545_21013656.jpg
a0237545_21025455.jpg
a0237545_21034706.jpg
a0237545_21045796.jpg
a0237545_21073631.jpg
有名な人物画像鏡についての説明板がありました。パンフレットは買いましたが、どこかへ行ってしまったので、この写真を読む以外に説明文は有りません。

人物画像鏡の説明板

国宝・人物画像鏡 (大正五年五月二四日国指定 昭和二六年六月九日国宝指定)

隅田八幡神社に伝わる青銅鏡。直系19.8cm、重さ1434g。背面には人物や騎馬像を現した画像文が描かれ、外区にはこの鏡の特徴である48文字からなる銘文が鋳出されている。この銘文の解釈については諸説あるが、おおむね次のように読むことができる。

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取上同二百旱作此竟

銘文冒頭の癸未(みずのとひつじ)は十干十二支を組み合わせて年代を現したもので、六十年に一回巡る紀年法である。銘文中漢字の恩をかりて表記した固有名詞をどのように比定するかで年代が異なり、西暦383年、443年、503年のいずれかにあたるとされるのが一般的である。

銘文解釈の一例をあげると、「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいましし時、斯麻が長寿を念じて開中費直穢人今州利二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」と解釈することができる。ただし、文字の解読や銘文中の人物を誰に比定するか異論が多く、今のところ定説といえるものは出ていない。

考古学的には、この鏡は舶載の画像鏡を手本として製作されたものと考えられている。この原型とされる中国鏡と比べると、内区の画像は逆まわりに配され、乳による区画も不統一で、人物像も少なくなっている。図像の構図が左右逆転し、逆まわりに配されているのは、手本となる鏡をそのまま鋳型にひき写す仿製鏡によく見られる特色である。

原型とされる中国鏡は大阪府八尾市の郡川古墳等で出土しており、それらの古墳が西暦400年代後半から500年代前半とみられることから癸未年は、443年または503年と推定されている。

この鏡がいつ隅田八幡神社の所蔵するところとなったかは詳らかではない。江戸時代後期に編さんされた「紀伊続風土記」および「紀伊国名所図会」にはこの鏡に関する記述があり、相当以前から神宝とすて隅田八幡神社に伝えられていたことがうかがえる。いずれにしても、日本最古の金石文の一つとして貴重な資料である。  橋本市教育委員会・隅田八幡神社

a0237545_00524495.jpg

江戸時代から近隣の信仰を集めていたのですね。裏手にはたくさんの摂社がありました。

a0237545_00545018.jpg

a0237545_00560400.jpg
a0237545_00571108.jpg
a0237545_00582997.jpg
a0237545_00593642.jpg
a0237545_01001506.jpg
a0237545_01005906.jpg
a0237545_01015012.jpg
a0237545_01023443.jpg
a0237545_01040332.jpg
a0237545_01054407.jpg
境内には経塚もありました。隣にはお寺もありますから、長い間この辺りは寺と神社が地域を守り、また人々も頼りにして来たのでしょうね。

a0237545_01174536.jpg


 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング


[PR]
by tizudesiru | 2017-06-26 01:20 | 隅田八幡・人物画像鏡 | Trackback | Comments(3)

太政大臣高市皇子を苦しめた皇女達

太政大臣高市皇子の苦悩 
a0237545_09505280.png
持統天皇と吉野行幸の不思議
やっと春が来て、その春も過ぎ夏が来たらしい。神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の時代になったのだ』はつらつとした歌ですが、持統帝が実権を握るのは晩年でしたから、これは初老の婦人の歌です。これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのですが。一体、いつ詠まれたのでしょうね。歌の意味と即位後の吉野行幸が結びつかないのです。

日本書紀の持統天皇の吉野行幸を見ると30回以上あり、即位しても仕事していたのかどうか疑いたくなります。即位は称制期間の三年を経ての持統四年1月ですが、吉野行幸がつづきます。行幸の月は、持統三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)ですから在位中の行幸の多さには驚きますね。これで、天皇としての仕事ができたでしょうか。持統天皇は即位していなかったか(太上天皇と称されているが)、すべてを高市皇子にゆだねていたのかなど疑う人もいますが、高市皇子が政権の中枢にいたとしか考えられません。
天皇が旅行している間は政治を留守司がやっていたことになりますが、その立場にあったのは高市皇子でしょう。持統四年(690)に高市皇子は太政大臣になっていますが、天武帝は天皇親政をしていた(議政官の任命はない)のですから、天武帝存命中から高市皇子が行政のトップだったのでしょう。

a0237545_09540454.png
高市皇子が造営した藤原宮
高市皇子が行政のトップとして政治を行っていたところへ「天武十二(683)大津皇子、朝政を聴く」状況が入ってきました。藤原宮が耳成山の南の地に造営されたのは、大津皇子の政治参画によって候補地が変えられたためだそうです。都地を選んだのは大津皇子だったというのです。と云うことは、大津皇子(686没)が大きな存在だったと云うことです。高市皇子はどう思ったでしょうね。
確か、新益京(藤原宮)は「周易」で造られたのでしたね。条坊の真ん中に宮殿があるという京で、平城宮のように北に宮殿が置かれた都とは造営の思想が違っています。
都の中央に宮殿があり耳成山の南の平地に広がる都が…広大な条坊を持った瓦葺の宮殿を持った「新益あらましき」の都が、なぜ捨てられたのか、不思議でなりません。藤原宮は15年で捨てられているのです。
万葉集には藤原宮の「藤原宮御井の歌」など寿ぐ歌がありますが…
遷都の理由は何か、答は少ないでしょう。高市皇子が造った京だから破棄された、藤原宮とは別の思想で造られた都が欲しかった、ここが呪われた京だと思われた、この都を支えた氏族が離反した、謀反者・大津皇子が望んだ都地だったから破棄した、などなど考えられますが。
(藤原宮の瓦も見事です。九州の観世音寺と同じ瓦当文様です。元明天皇の時代になっても60年ほど完成されなかった観世音寺と同じです。この瓦は、この後全国に広がる瓦当文様のモデルとなったようです)。

a0237545_23472176.png

ここで思うのは、持統天皇と高市皇子の確執です。ほとんどの権力を掌握していたであろう高市皇子が太政大臣に留まり、称制していた持統天皇が持統四年に即位するという展開は、次の天皇の出現を待っていたためでした。その事は、高市皇子を苦しめなかったのでしょうか。頼りの女帝は留守で、天智朝の皇子皇女が大勢いる中での政治ですから、困難がなかったとは思えません。

大津皇子を死に至らしめたのは、持統天皇の草壁皇子に対する愛の結果だと噂されています。が、天武朝の他の謀反事件を見ても「謀反の判断を下したのは議政官」でした。藤原広嗣の乱も橘諸兄が謀反と判断、長屋王事件も密告を受けて動いたのは藤原氏でした。天皇に直接密告することはできません。間に議政官がいるのです。

ですから、大津皇子を断罪したのは、持統天皇というより高市皇子だったと考えたが自然です。

天武朝の期待の星・大津皇子を断罪(686年)しなければならなかったのが高市皇子だったとすると、その心中はいかばかりだったのか。
そして、高市皇子を苦しめたのは、これだけではありませんでした。高市皇子は壬申の乱の後遺症も残る新政権のトップだったのですから。
妃の御名部皇女は天智帝の皇女ですし、壬申の乱後に妃に迎えた十市皇女(大友皇子の妃だった)は、天武帝が斎宮に向かった後に自殺しています。異母姉・十市皇女の死に高市皇子は苦しみました。その時の歌が、万葉集の挽歌に残されています。さらに、天武帝の皇女で鎌足の娘の氷上娘の生んだ但馬皇女は、高市皇子を裏切り穂積皇子に走りました。これらのことは既に書いていますが。

a0237545_10085917.jpg
その後、十市皇女は祟り神になったと思います。過酷な皇女の人生とその結末を考えると、人々は畏れたことでしょう。ひそかに祟り神を慰めたり鎮めたり、守護神として頼りにしたり、南都・鏡神社の辺りに天満宮信仰(菅原道真の祟りを鎮める)の原型として、比賣塚信仰が潜伏していたのだと思います。

a0237545_10080253.jpg
以前に紹介した新薬師寺の門前の「比賣神社」は、鏡神社の摂社でした。
この南都・鏡神社は、806年に唐津の鏡神社(藤原広嗣を祀る)からの勧請です。

806年は桓武天皇の崩御年で、平城天皇の即位年です。平安京の平安の為に南都の新薬師寺の守護神として、強い祟り神を選んだのです。祟りが強ければ強いほど霊力が強力だったし、守護神として頼りになったのです。

比賣塚
にもそういう祟り神としての伝承があったので、鏡神社の宮司様が十市皇女を改めて祭られたのだと思います。
わたしがこの比賣塚を十市皇女と結びつけたのは、比賣塚の横に「神像石」があったからです。弘文天皇(大友皇子)の在りし日を顕彰し、四代にわたる御姿石を長く祀ったと書かれていたからです。隣り合い身を寄せ合う塚と石がある、それは何を意味するのでしょう。比賣塚は十市皇女以外に考えられません。
それは、祟り神となった悲しみの王妃を偲ぶ縁となっていたのです。


[PR]
by tizudesiru | 2017-06-24 00:05 | 259王権と高市皇子の苦悩 | Trackback | Comments(0)

三輪山の周囲を根拠地とした氏族は?

三輪山の近くに、三世紀?ホケノ山古墳
a0237545_23561640.jpg

あの有名な三輪山の麓には大神神社

a0237545_00041052.jpg
a0237545_00011317.jpg
a0237545_00021956.jpg
大神神社の近くに箸中山墓古墳があり、何と卑弥呼の墓ではないかと巷では噂されています。では、三世紀に急に巨大古墳が出現したことになり、摩訶不思議な噂です。本気で言われているので驚きです。すると、突然この墓を造る人口増加と食料生産力が上昇したと云うことです。権力も財力も備わっていたということです。吉備系の特殊器台が墳丘墓の上から見つかっているそうですから、吉備との繋がりができていたのですね。特殊器台の型式から時期も特定されるはずですから…ここを三世紀の古墳としてしまうのには、すごい違和感があります。王権が奈良に芽生えた過程を、本当のところを教えてほしいと思います。
a0237545_00053676.jpg
箸墓から三輪山も見えます。
a0237545_00064176.jpg
甘南備のゆったりした三輪山の前にこんもりした森が見えますが、国津神社です。其の左奥に慶雲寺があります。慶雲寺に置かれた石棺は、阿蘇凝結凝灰岩で造られています。遠い九州から離れた土地に阿蘇石の石棺とは恐れ入りますね。誰がなぜわざわざ運んだのでしょうね。九州からの贈答品ですか? 石の材質は宇土石と呼ばれるもので、舟形石棺です。舟形石棺は、熊本の南の地域に多い石棺です。それにしても、自分に関係ない地方の石棺を使うなんて理解しにくいですね。ちなみに、ホケノ山古墳にも家形石棺が出土しています。それは、6世紀末になってホケノ山古墳を再利用した為とされ、本来のホケノ山古墳より後の時代の埋葬施設になるそうです。ホケノ山古墳は国津神社と慶雲寺の間にあります。
a0237545_00173912.png
地図で見ると、ホケ山古墳は大事な位置に在りますね。このホケ山古墳は箸墓より古いとされていますが、4世紀のはじめと考えられている土器を伴っていますし、副葬品も新しいようです。
慶雲寺の石棺はもともと何処にあったのか不明です。

(ホケノ山古墳)
a0237545_00195807.jpg
a0237545_00431908.jpg
この古墳は帆立式の墳丘墓と呼ばれ、箸墓より古いタイプの古墳の形で築造は三世紀とされています
ここだけには画文帯神獣鏡だけでなく大量の鉄製品が出土しています。三世紀代とされる古墳で、鉄製品が大量に副葬されるのは、ホケ山古墳だけの特色だそうです… 最近は「画文帯神獣鏡」が卑弥呼の貰った鏡ではないかと、はたまた噂されています。発掘が進んだ結果、三角縁神獣鏡が大量に出過ぎたので、卑弥呼の鏡として画文帯神獣鏡説が新たに取りざたされ始めたのです。考えてみると、三角縁神獣鏡が古墳時代のステイタスシンボルであったのは間違いないでしょうね。みんなが欲しがったのですから。九州の弥生王たちが甕棺に副葬した銅鏡は、時を経て憧れのアイテムとなったのでしょうね。鉄の時代になってからの三角縁神獣鏡の流行なのですから。

a0237545_00451061.jpg
a0237545_00462060.jpg
北部九州では「帆立式の前方後円墳」は、柄鏡形前方後円墳より新しくなります。副葬品からの判定です。方形周溝墓・円形周溝墓と時期も近く、山の尾根に地山を削り盛り土をして造られた前方後円墳が古いのです。平地に下りた古墳は前方部がバチ型に開きますし、その後「造り出し」部分が備わっていくようです。支配地の地域首長の功績を称える埴輪群や祭祀用具が置かれていきます。平地に下りた古墳の方が新しいのは、全国何処も共通すると思います。
a0237545_00495197.jpg
ホケノ山古墳の墳丘上から箸墓が見えます。中央の小山の森。
a0237545_00513048.jpg
もちろん、三輪山も見えます。
a0237545_00533499.jpg
かすんではいますが、耳成山も見えています。
a0237545_01005823.jpg
国津神社の森もすぐ近くに見えます。
さて、この土地を開き、三輪山の神祭りをし、ホケノ山墓を作り、箸墓を造った氏族は、どんな人たちだったのでしょう。ここには石塚古墳や纏向勝山古墳、纏向矢塚古墳、纏野内石塚古墳・東田大塚古墳・茅原大墓古墳など、そして景行天皇陵や崇神天皇陵と呼ばれる大型古墳も近いのです。大きな古墳を作るには大量の人手が必要ですから、辺りを掌握する権力と財力が必要です。大量の食糧生産と人口増加が必要なのです。それは開拓と人口流入の後でしょう。

奈良県天理市と桜井市には宇土半島の阿蘇溶結凝灰岩で造られた石棺が慶雲寺の他にも4基ほどあります。なぜ遠路はるばる石棺を運んだのでしょう。九州からの人間と文化の移入が在ったのでしょうね。

 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング


[PR]
by tizudesiru | 2017-06-23 08:55 | 258ホケノ山古墳の周辺 | Trackback | Comments(0)

蘇我氏の本貫・寺と瓦釜と氏神

飛鳥寺の近くの窯跡と神社
a0237545_23172284.jpg
蘇我氏の宗家の寺は、飛鳥寺でした。この寺は官寺の役目を果たしたようで、公的な行事を寺の傍で行いました。ですから、蘇我入鹿はの首塚が飛鳥寺の裏に有ります。大化改新の事件後には、中大兄は飛鳥寺に籠りました。それを甘樫の丘から蘇我蝦夷は見たでしょう。吾子の悲惨な最後はすぐに伝わったはずですね。古人大兄は震撼しました。「韓人が鞍作を殺した。吾心痛し」と、自分の屋敷の門を閉ざしました。
a0237545_23132328.jpg
飛鳥寺の門前に道を挟んで小高い丘がありますが、そこは窯跡だそうです。ここで飛鳥寺の瓦を焼いたのです。古代寺には瓦窯跡が伴います。すぐ近くで必要なものを調達したのです。もちろん鍛冶も材木加工も寺の近くでしていました。釘も一緒に造ったのです。すると、木材も近くで調達したのでしょうね。
a0237545_23154159.jpg
そして、学問のすべてを併せ持つ仏教文化を取り入れて、最新の事業を展開していたのです。
a0237545_23162636.jpg
そして、飛鳥寺の西裏には甘樫の丘が横たわります。そこは蘇我氏本家の邸宅がありました。甘樫とは、『天のように畏し』だったのかも知れません。文字は変えられていますが、「天氏」のアマだった可能性はあります。樫は「アナかしこ」の「カシ」で、畏れ多いという意味です。つまり蘇我氏は「まるで大王のようにふるまった」のではなく、大王そのものだったのかも知れません。だからこそ、滅ぼされたと考えたが自然でしょう。最近、小山田古墳も蘇我氏の墓だった説が有力ですね。
a0237545_23324493.jpg
a0237545_23414093.jpg
a0237545_23535999.jpg
この甘樫の丘や飛鳥寺の一帯は、当時の権力を握っていた蘇我氏の本貫でした。その中に中臣氏の関係の土地も含まれています。と云うことは、両氏族は近い関係に在ったと云うことでしょうか。飛鳥坐神社は甘樫丘と向かい合っていますから、蘇我氏と中臣氏は同じ神社を祭祀していたのでしょうか。元は同族だった? かも知れません。相手の弱点を十分に承知した上で、乙巳の変は実行された。だから、成功したのでしょう。
a0237545_00035379.jpg
a0237545_00045495.jpg
a0237545_00091416.jpg
飛鳥坐神社と甘樫丘は一本の道で結ばれています。
a0237545_00113645.jpg
この道をまっすぐ進むと甘樫丘です。左に曲がると飛鳥寺です。
a0237545_00155280.jpg
ここには主要道路が交叉しています。
a0237545_00140479.jpg
近くには板蓋宮もありました。
a0237545_00205355.jpg
古代の権力に必要なものがここには揃っているようです。氏の寺、氏の山、氏の祭祀、氏の館、氏の権力の象徴である宮殿、そして、氏が支配する職人集団です。政治経済と文化を掌握しなければ、権力を集中することはできません。蘇我氏が持たなかったものは、軍事力かも知れません。蝦夷は自殺しましたが、兵は動かしませんでした。軍事力…次の権力者は滅びた蘇我氏からあらゆることを学んだのです……

 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング
[PR]
by tizudesiru | 2017-06-19 00:29 | 257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社 | Trackback | Comments(0)

257平城天皇、侍臣に詔して万葉集を撰ばしむ

「昔、平城天子、侍臣に詔して『万葉集』を撰ばしむ」(古今集・真名序)
a0237545_17052938.png
平城天皇は万葉集を編集した

平城天皇(安殿親王)が万葉集を編纂したと古今集に書かれています。平城上皇の崩御は天長元年(824)ですから、824年までの間で万葉集に手が入れられたことになります。寛平五年(893)に菅原道真により『新撰万葉集(上巻)』が成り、万葉集は古歌で読めなくなってきたと「序」があります。平城天皇と道真は万葉集を理解し、読めるようにしたということです(道真が仕えたのは宇多天皇です)。
平城天皇は藤原氏の勢力争いも含んだ「薬子の変」を起こして、出家するという事態になってしまいました。おかげで皇子の安保親王は父に連座し14年間も九州大宰府に遣られました。父が在位の世であれば、皇太子として都に在り極位に登られていたかも知れません。それなのに九州への遠流のような状況となって、親王にとっては辛い日々だったでしょうか。
a0237545_17135146.jpg
a0237545_17151141.jpg
福岡市の飯盛神社には安保親王の王子の在原清平の書状が残されています。『飯盛神社に伝えられていた諸行事を復活するように』と云う内容でした。飯盛山は古代の信仰の山ですから、そこには古代からの神祭りの行事が残されていたのです。しかし、伝統が廃れていたので復活するようにというのでした。安保親王にとって九州は不思議なところだったことでしょうから、そこで見聞きしたことに関心があったということですね。
a0237545_14551651.png
(不退寺)都に戻った安保親王は、平城宮の北に造営された平城天皇の陵墓の近くに隠棲されました。御子達は臣下に降下し「在原氏」となっていました。在原業平(弟)と在原清平(兄)の兄弟は親王と内親王の御子ですから「やんごとなき身分」の生れでしたが、臣籍降下の憂き目を見たのでした。在原業平は足しげく奈良の旧都の父の隠棲地に通いました。今、そこは不退寺となっています。
それにしても、自ら譲位した嵯峨天皇に挑んでまで、奈良の都への回帰を願った平城上皇の真意は何だったのでしょう。
それは、平城上皇が万葉集と他の資料からある事実に気が付いたからだと思うのです。「父の桓武天皇が言われたように、天皇位は天武帝の皇統から天智帝の皇統に戻ったのではない」と云うことです。もともと、持統天皇によって天智帝の皇統は守られていたと。だから、仏教の都である平城京を捨てるべきではない。むしろ見直して、奈良に戻るべきだと、主張されたのだと思います。
然し、嵯峨天皇は承知しなかった。呪詛でけがれた平城京に戻ることは断じて嫌だったのでしょう。藤原氏によって天武帝の皇統はことごとく悲惨な最後を遂げていたのですから。その怨念は平城京の周りに漂っていました。だから、国家守護の密教で空海の力を借りて平安京を守ろうとしたのだと、思います。

嵯峨天皇と平城天皇の争いは平安京と平城京の戦いでありましたが、平安京が勝利しました。そして、再び「万葉集は日陰の身」となりました。宇多天皇は藤原氏の力が一瞬陰った時にあらわれて、菅原道真に万葉集を預けたのでしょうか。
学識のある道真は歴史的視点で万葉集を見直したことでしょう。
彼が後期万葉集も手掛けていたら、どんな詩歌集が残されたことでしょうね、今日に。
a0237545_20384263.png
 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング
[PR]
by tizudesiru | 2017-06-16 17:42 | 256平城京と平安京 | Trackback | Comments(0)

256高野山に生きる空海の結界

高野山・国家の鎮守
a0237545_13193987.jpg
弘法大師空海が生きたまま入滅した廟へ向かう道は清々しい空気に満ちています。
a0237545_13212285.jpg
御大師様のお力にすがる人々は間断なくここを訪れていますが、10年前に比べるとすれ違う人の半数以上が外国人でした。「世界遺産」は怖いもので、宿坊も変わりました。なぜか修行僧も半減した感じでした。それはともかく、弘法大師を慕ってなのか様々な人がここに廟や供養塔を設営しています。
a0237545_13315857.jpg
a0237545_13324548.jpg
a0237545_13335190.jpg
a0237545_13343019.jpg
a0237545_13353254.jpg
中でも驚いたのが、外国人観光客を案内しているガイドさんが紹介している供養塔でした。何だと思いますか? ガイドさんが「ここには日本人らしい供養塔があります。これは、白アリの供養塔です」と説明している声が聞こえたので驚いて振り返りました。万物に命があるのだし、「一寸の虫にも」と云うし、白蟻を処分することを生業とする業者の思いが詰まった供養塔なのですが、外国の人に紹介される「日本らしさ」なのかと、改めて思いました。
a0237545_20374013.jpg
さて、空海は平安時代の超天才の留学僧で、予定の留学期間を短縮して帰って来たので、なかなか都に入れなかったという人です。嵯峨天皇の前で不思議な霊力を見せたと言われますし、数限りないエピソードが日本中に在りますね。
空海は嵯峨天皇に東寺を与えられ(西寺は最澄)、都に結界を張り東寺で都を守りました。皇居が焼失して現在地に移ると、下鴨神社と東寺が皇居をまもりました。下鴨神社と東寺をラインで結ぶと皇居を通りますよ。
嵯峨天皇が空海に都の守りを託したのは何故でしょう。嵯峨天皇は桓武天皇の御子で、平成天皇の弟です。父の桓武天皇は極位が天智帝の皇統に戻ったことを「易姓革命」だと思っていましたから、天武帝の皇統の都・平城京のように滅びの道を辿ることのないように、風水で王都を守ろうとしました。それは平安京を造営した桓武天皇の強い願いだったのです。
しかし、長子の平城天皇は奈良の都に深く心を寄せました。平城京に戻るようにと、譲位した後も主張し続けました。そして、自ら平城京に住んで嵯峨天皇と対立したのです。しかし、「薬子の変」で先に兵を動かした嵯峨天皇に敗れたのでした。嵯峨天皇が平安京の守りに力を注いだのも、そういった経過があったからでしょうか。
a0237545_21530525.png
a0237545_21384903.gif
明治になるまで宮中で正月に年頭の厄払いをしていたのですが、明治以降は東寺で行っています。中世、この結界を破ろうとしたのが足利氏でした。天龍寺と金閣寺を造営して結界を破ろうとしたのです。徳川氏は二条城で東寺と賀茂雷神社のラインを切りました。空海が都に張った結界を武士は破ろうとしたのですね、ラインで見ると。
a0237545_21580523.png
古代では見えない霊力を畏れたのですね。


 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング
[PR]
by tizudesiru | 2017-06-15 23:38 | 256平城京と平安京 | Trackback | Comments(0)

255東大寺は聖武天皇の希望だった

東大寺の隣に興福寺がある
a0237545_15210232.jpg
興福寺の五重塔を見ると奈良公園に来たなあと思います。中学生だったころの修学旅行で感動したことを思い出します。この塔は見るたびに違った思いに誘います。家族で見た時は単なる観光地だったし、妹と見た時には藤原氏の権力が話題になったし、古代史研の人と来た時は素通りでした。正倉院展には通っても、五重塔は見なくなっていました。が、今改めて見ると異様な感じがします。それは光明皇后が建立した五重塔が、聖武天皇が建立した東金堂の隣にドーンとそびえているからです。まるで、東金堂を見下ろしているようにも見えるのです。東には塔と東金堂が並びますが。
a0237545_15213704.jpg
西には南円堂と西金堂。
a0237545_15222889.jpg
南に猿沢の池。興福寺は広いのです。東大寺の大仏殿は宝福寺の東隣なのですが、歩けば疲れますね。
東大寺の大仏の右足の下から2010年に国宝が見つかりました。聖武天皇の遺品の宝刀で、長い間行方知れずになっていた「陽剣と陰剣」です。(画像はNHKテレビ)明治時代に見つかっていたのですが、再調査でレントゲン写真を撮り文字が浮かび上がり、「国家珍宝帳」に記載された二振りの刀であると確認されました。大きなニュースになりましたね。
a0237545_15273582.jpg
a0237545_15275700.jpg
a0237545_15281769.jpg
わたしが気になっていたのは、なぜ東大寺正倉院に奉納されていた聖武天皇の一級の宝物が大仏の足元に置かれたのかと云うことです。大仏の体内ならばまだしも、右足の下とは。光明皇后が病気になり、その平癒を東大寺で祈願した時に納めたのではないかということですが、理由は謎のまま今日に至っています。
聖武天皇と光明皇后の微妙な行き違いがあったのではないかと思えてなりません。

a0237545_21250256.jpg
今年は国宝館が休館中だと云うことで、阿修羅像など(西金堂の仏)は特別展で展示されていました。「天平乾漆群像展」です。(西金堂は光明子の母、県犬養美千代の菩提を弔うために建てられました)この阿修羅像は脱活乾漆という技法で作られた像です。脱活乾漆は、布を漆で固めて形を作るのですが、最後に内側の骨組みや支えを抜いてしまうので大変軽いのです。興福寺では度重なる火災にもこの像を抱えて逃げられたから、今日に阿修羅などの八部衆が残ったと云うことでしょうか。この時代の仏像は様々な技法で作られていますね。薬師寺の金銅仏、新薬師寺は塑像(木の骨組みに藁を混ぜた粘土で形を作り、紙の繊維と雲母を混ぜた土で上塗りをしたもの)です。もちろん木に彫られた仏像もあります。その技術の多様さに驚きます。技術者たちは何処で学びどのように技術を伝えたのでしょう。
それらは平安京に伝わったのでしょうか。微妙です。

 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング
[PR]
by tizudesiru | 2017-06-14 21:55 | 255 東大寺は興福寺と並ぶ | Trackback | Comments(0)

255新薬師寺門前に淡海三船が勧請した神像石

新薬師寺の門前に天智朝を偲ぶ神像石由来書
a0237545_16361125.jpg
a0237545_14241900.jpg
淡海真人三船(あふみのまひとみふね)は天智朝の末裔でした。天智天皇→大友皇子→葛野王→池辺王→三船王(淡海真人の姓を下賜)、天平勝宝三年(751)に淡海真人三船となりました。天平勝宝八年に「朝廷を誹謗した」として、人臣の礼を欠く罪により大伴古慈斐(こじひ)とともに禁固刑を受けています。なかなか肝の座った学者だったのですね。大学頭兼文章博士を長く務め、最後は刑部卿大学頭因幡守でした。無位無官から数々の独断行動をとりながらも出世したのですから、相当に賢い人だったのでしょう。続日本紀には「卒伝に性識聡敏、群書を渉覧し筆礼を好んだと録す」と書かれています。

この淡海三船が「四代にわたる御姿石を勧請し」ているそうです。すると、天智天皇・大友皇子・葛野王・池辺王の姿石でしょうか。彼の姓からして「淡海」ですから、淡海朝(近江朝)を十分に意識した苗字に違いありません。何処からどのように勧請して、どのような経過でここに置かれたのか全く分からないのですが、興味の湧く状況です。

a0237545_10080253.jpg
a0237545_10085917.jpg
御姿石の隣に比売神社(旧比売塚)がありました。ここに鎮座されたのは、昭和五十六年五月九日と云うことです。神社は新しいことが分かりますが、比売塚は昔からあったと云うことでしょうか。比売塚にはもともと伝承があったということですね。しかし、十市皇女とは……十市皇女は天武帝と額田王の間に生まれた天武帝の長女でした。大友皇子の妃になり、葛野(かどの)王を生んだ人でした。隣の御姿石と所縁の深い人で、天武七年(678)に宮中で突然死(自死ではないかと思われる)し、天武帝を号泣させた皇女で、敵将の高市皇子の妃になっていました。皇女として生まれ、壬申の乱で夫を失い、敵将の妻になって自殺したという、まことに悲運の女性です。
鏡神社はなぜ、ここに十市皇女の社を造ったのでしょう。
a0237545_10325503.jpg

a0237545_10335772.jpg
鏡神社によると、大同元年に「新薬師寺の鎮守」として勧請されたとありますから、桓武天皇が病に倒れられていた年(806)で、平城天皇が即位された年になります。改元されていますから、平城天皇の即位後なのでしょう。春日大社の本殿の部材を用いて鏡神社の社殿を作るとは、この神社と藤原氏との結びつきは深いのですね。
藤原氏所縁の寺の前に御姿石や十市皇女を祀る神社があり、藤原氏がそれらを大事にするのは、天武朝に仕えながら「内心は天智朝のために暗躍していた」と云うことです。そのことは繰り返し書きましたが、天武朝で暴利をむさぼりながら下心は「天智朝の忠臣である」を貫いた藤原氏だった……
藤三女と自らを称する光明皇后も、聖武天皇の皇后でありながら「天智天皇から下賜された藤原氏の三女である」と主張したと云うことです。万葉集にも藤皇后と書かれています。

a0237545_10552548.jpg
a0237545_10540553.jpg
さてもさても、神武天皇とか天智天皇、天武天皇、継体天皇、持統天皇などの漢風諡号を奏上した淡海三船ですが、よくよく考えての諡(おくりな)だったはずですね。天智天武に意味があり、継体持統にも深い意味があると言われています。
三船は藤原氏の何を理解していたのでしょう。六十四歳で生涯を閉じた三船は何を思って生きたのでしょうね。興味の湧く新薬師寺界隈でした。
また、後で。




 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング


[PR]
by tizudesiru | 2017-06-14 00:03 | 254新薬師寺・光明子の下心 | Trackback | Comments(0)

光明皇后の愛と苦悩

新薬師寺は黙したまま光明皇后の苦悩を伝える
a0237545_14212842.jpg
a0237545_14223177.jpg
新薬師寺は光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建てた寺院だと云われます。十二神将像で有名です。平安時代末に成立した「東大寺要録」には末寺である新薬師寺について書かれていて、『天平十九年(747)に光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った』とあるそうです。
a0237545_15413859.jpg
a0237545_15444464.jpg
写真は新薬師寺のパンフレットです。中央の薬師座像を十二の神将が守っています。
a0237545_15501985.jpg
万葉集の巻八1658は、「藤皇后天皇に奉る御歌一首」です。
吾が背子と二人見ませば幾ばくかこのふる雪の嬉しくあらまし
愛しいわが背の君と二人でこの雪を見られたならば、寒く寂しい雪でさえどんなにか楽しく見ることができたでしょうに。
雪の日、聖武天皇は都におられなかったようです。都に残った皇后は寂しかったでしょう。阿倍内親王(718生)の後十年間も子供に恵まれず、かたや聖武天皇と犬養広刀自の間には安積親王・井上内親王・不破内親王と誕生したのに、光明子にはやっと授かった基王が立太子されながら一歳で死亡という不運に見舞われ、失意の日々を過ごしていたでしょう。長屋王の自刃(729)で臣下出身の皇后となっても、母県犬養美千代(733没)を亡くし、頼りにしていた兄たち藤原四兄弟を亡くし(737)、藤原広嗣の乱(740)では僧玄昉との仲を甥の広嗣に疑われ、この後聖武天皇は恭仁京・紫香楽宮・難波宮と住みかえながら平城京を離れました。
孤独と苦悩の日々、この時、光明子の手に有ったのは、権力と財力でした。
興福寺の五重塔は、一年足らず驚くべき速さで建立されました。
母美千代の菩提を弔うために「西金堂」を建立します。あの阿修羅を含む乾漆八部衆立像などが安置されたお堂です。

a0237545_23512938.jpg
新薬師寺と云い、五重塔と云い、西金堂と云い、莫大な富を持った人にしか造営できないものです。国家の富の6分の1を光明子が持っていたそうですが、そうなんですね…。
a0237545_23581702.jpg
本堂は本来のものではなく、広大な元の新薬師寺内のいずれかのお堂だったそうです。
新薬師寺の仏は素晴らしいまなざしで時代をみてきたのです。
守護神である宮毘羅(くびら)像に蝋燭を上げて祈り、家族の為にも祈った後は外に出ました。気になる物を見つけていたからです。以前にも幾度か来たのに気が付きませんでした。それは、南門のすぐそばに在りました。
a0237545_15514966.jpg
a0237545_16361125.jpg
「神像石由来」に「弘文天皇の御曽孫淡海三船公は本邦最初の漢詩集「懐風藻」を編集せられ四面楚歌の中にありながら曽祖父なる弘文天皇(大友皇子)いませし日を顕彰せられ、孝養を讃え四代にわたる御姿石を勧請し永く斎き奉らん願うものなり」と書かれていました。この説明板は新薬師寺に隣接する「鏡神社宮司」様がお書きになったということです。これは、何時からの言い伝えでしょうね。
a0237545_14241900.jpg
この話は、また明日


歴史ランキング

[PR]
by tizudesiru | 2017-06-13 00:08 | 254新薬師寺・光明子の下心 | Trackback | Comments(0)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

椿井大塚古墳が三角縁神獣鏡を..
at 2017-10-20 22:47
続・黒塚古墳の三角縁神獣鏡
at 2017-10-19 20:00
黒塚古墳の三角縁神獣鏡
at 2017-10-18 14:46
黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自..
at 2017-10-17 12:28
人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠ま..
at 2017-10-16 20:58
柿本人麻呂は舎人皇子に警告し..
at 2017-10-15 11:59
柿本人麻呂は長皇子を皇太子の..
at 2017-10-15 01:10
聖徳太子の存在は証明できたの..
at 2017-10-14 01:09
水神・河童・怨霊・虚実ないま..
at 2017-10-12 21:43
神鉾神社の祭神は八千矛神(大..
at 2017-10-11 01:13
月岡古墳は大和政権側の古墳なのか
at 2017-10-09 17:30
あの前畑遺跡を筑紫野市は残さ..
at 2017-10-08 21:16
耳納山・鯰・政変・一揆、田主..
at 2017-10-08 01:45
田主丸の阿蘇神社は橘の紋
at 2017-10-05 14:48
ヒキガエルが守る姥ヶ城の天満神社
at 2017-10-04 10:42
八代龍王(豊玉彦)が祭られた..
at 2017-10-03 14:49
井樋権現は天武大地震を証明する
at 2017-10-03 01:07
古代の祭祀場なのか、明見社は
at 2017-10-01 21:06
謡曲「竹生島」と田主丸にあっ..
at 2017-10-01 01:48
穂波川流域に栄えた土師氏
at 2017-09-25 15:48

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
278西原村の旧石器・縄文・弥生の資料
289人麻呂が見た王朝の皇子達
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂は知っていた!
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?

画像一覧

以前の記事

2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

最新のコメント

oh! 「すべて」展や「..
by 尊敬します at 23:30
筑紫野市さんへお伝えくだ..
by 尊敬します at 23:36
何時もありがとうございま..
by tizudesiru at 21:33
拝殿でお神楽をやっていた..
by 尊敬します at 23:00
> 宮原さん ありがと..
by tizudesiru at 20:17
宮地嶽神社の扁額の文字は..
by 宮原 at 10:33
たぶん、夾紵棺の技術、大..
by 尊敬します at 22:58
もう読まれましたか。 ..
by 大町阿礼 at 21:21
> 名無しさん ほんと..
by tizudesiru at 11:55
> aさん コメントあ..
by tizudesiru at 11:20
郭務宗が二千人の人々を率..
by 名無し at 09:10
間夫という山名は鉱山に関..
by a at 01:51
いつも楽しく拝見させてい..
by 尊敬します at 23:15
>いつもありがとうござい..
by tizudesiru at 20:27
弥生の風公園のわら細工の..
by 尊敬します at 22:29
> コメントありがとうご..
by tizudesiru at 23:06
建物の遺構もさることなが..
by 暇人 at 22:48
ごめんなさい。 楼閣じ..
by 尊敬します at 00:10
> 読んでくださってあり..
by tizudesiru at 23:59
邪馬台国がどこにあったか..
by 尊敬します at 18:44

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ