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久邇京の夢さめて

久邇京の夢さめて1200年
恭仁京を訪ねた時、間抜けなことがありました。集落に入り込んだので、長く住んでおられたように見えるご老人に道を尋ねたのですが、「恭仁京ねえ、そうですねえ…此処もそうですけどねえ。…小学校の辺りが中心なんですが…恭仁京と云っても、広いからねえ。何処かと聞かれても…」10分ほどたっても、何処に向かえばいいのか結論が出なかったので「ありがとうございました」と失礼して、気の向くまま田圃道に進みました。思い返すと、恭仁京のど真ん中で「恭仁京は何処ですか?」と、間抜けな質問をしたのでした。
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南にむかって緩やかに傾斜した土地で、下って行けば木津川に届きます。この辺りはすべて恭仁京の中であり、桜の辺りが小学校で古の大極殿跡です。
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ここは、恭仁京大極殿跡であり、山城国分寺跡でもありました。
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橘諸兄の命を受けて恭仁京造営に励んだ大伴家持も、この辺りを歩いたのです。木津川の水運に恵まれたここに新しい都ができるはずでした。しかし、恭仁京造営は中止になり、後に山城国の国分寺となりました。
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国分寺の塔跡です。
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次に、「くにのみや学習館」を訪ねましょう。
芸員の方がとても親切に説明してくださいました。



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by tizudesiru | 2017-05-31 14:46 | 251恭仁京・一瞬の夢 | Trackback | Comments(0)

静かなる高麗寺跡

静かなる高麗寺跡
木津川のほとりに高麗寺跡があります。木津川という名前は木材を運ぶため川という意味で、昔はその為の「津」がある川だったのですね。木津川が大きくカーブし北上するその円弧の南辺に高麗寺は造営されたようです。
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発掘が終わったのか、公園にするための工事が始まっていました。
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上の写真は塔の心礎です。大石の側面に穴が穿たれています。この穴に舎利などを入れたのです。塔の基壇は整地面から直接瓦を平積みした「瓦積基壇」(43尺正方形)です。周りには石敷きの犬走が設けられていました。金堂も整地面から直接瓦を平積みにした「瓦積基壇」(54尺×45尺)だったそうです。
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我が国最古の寺院の一つと書かれる所以は、創建飛鳥寺の屋根瓦とされる丸瓦「花組」の同范品が出土しているからです。ですから、7世紀初頭には創建されたというのですが、発掘調査ではその時期の明確な遺構は確認されていません。
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上の二枚の写真は、飛鳥寺の瓦の展示品です。
飛鳥寺の「花組」と呼ばれる丸瓦は、百済系と云われます。飛鳥寺に韓国から贈られた丸瓦が展示されていました。「素弁八弁蓮華文軒丸瓦」と書かれています。「単弁八弁蓮華文軒丸瓦」と名称は違いますが、同じものを云うそうです。飛鳥寺のものは十弁と書かれていますが、花弁が10枚、9枚、11枚のものもあります。下の写真のように、花弁の先に珠文があるものも飛鳥寺の創建瓦とされています。(下の写真)
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さて、高麗寺に戻ります。恵便(高句麗の還俗僧・蘇我馬子の仏教の師)、恵慈(聖徳太子の仏教の師)は高句麗の人でした。
高麗寺の伽藍は、塔(東)と金堂(西)が東西に並び、講堂が北に位置し回廊が取り付くという観世音寺式の配置になっています。明日香の川原寺も塔と金堂が東西に並んでいました。高麗寺は、川原寺式伽藍配置→「法起寺式伽藍配置」への移行期の寺院とされるのです。下は川原寺の伽藍図と川原寺跡。
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高麗寺跡からは、明日香の川原寺(天智天皇の発願で建立)金堂の創建瓦の同范品が出土しています。ですから、大津遷都(667年)の前に高麗寺の伽藍の整備が行われたというのです。順番は、金堂→塔→講堂→中門・南門ということです。
また、南門は小ぶりな八脚門だったようですが、屋根には不釣り合いな大型3尺の鴟尾(しび)が据えられていたということです。どうしてでしょうね。どこかの余りものか、払い下げでしょうか。
創建高麗寺には百済系と云われる飛鳥寺の同范瓦が使われ、その後の整備時には川原寺の金堂の同范品が用いられたというのです。
また、蟹満寺造営のために新調された瓦范が、高麗寺の中門や南門に用いられたそうです。なぜにこうもバラバラなのでしょう。築造に何年もの年月がかかったので仕入れ先が途中で変わったのでしょうか。請負業者が途中で変わったのでしょか。

それも、飛鳥寺や川原寺との関係が深いとは…、ここにどういう解釈が成り立つのでしょう。高麗寺が渡来系の狛氏の氏寺としたら、彼らは何によって蘇我氏や大王家と結びついたのでしょうね。
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高麗寺にはまだ訪れる人もありませんでしたが、公園が整えば人の目にも触れるようになるでしょうね。それまで、今まで通り高麗寺は静かに木津川を見ていることでしょう。


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by tizudesiru | 2017-05-27 15:52 | 250静かなる高麗寺跡 | Trackback | Comments(2)

高松塚古墳の被葬者は高市皇子

再度、高松塚古墳の被葬者
NHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で、高松塚の被葬者について追及していました。石棺・壁画とその陵墓の位置を分析しながら。面白く拝見しました。最後まで視聴者を引っ張って面白かったのですが、最後に疑問が残りました。被葬者が高市皇子ではなく刑部(忍壁)皇子となったからです。わたしは被葬者は高市皇子だと思っています。彼こそ新益京(藤原京)を造営した人だからです。最高権力者としてその大極殿と朱雀大路の南の直線上に眠るべくして永眠したと思うからです。
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画像はNHKテレビをデジカメで撮りました。
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藤原宮(新益京)は耳成山の南に作られた最初の条坊を持つ都とされ、藤原宮は初めて瓦が葺かれた宮殿とされています。その藤原宮の大極殿の南に野口王墓(持統・天武陵)があり、その南に中尾山古墳と高松塚古墳があることは、今までに繰り返しお知らせしてきました。
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高松塚古墳は石室(石槨)の壁に人物像や四神の玄武と青龍がえがかれ、被葬者が権力者であることは間違いありません。
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更に、さしかけられた笠が深緑であることから、被葬者が一位であることが分かりました。やはり最高権力者です。そこで,被葬者の候補が忍壁(刑部)皇子と高市皇子にしぼられたのです。また、「海獣葡萄鏡」が副葬されていたことから、遣唐使が持ち帰った鏡ではないかということで、705年没の刑部皇子と決まったという展開でした。
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それでは、四神が描かれたキトラ古墳が高市皇子の陵墓というのでしょうか。しかし、キトラ古墳は藤原宮より伸びたラインからずれています。大極殿を通るラインのみが、中尾山古墳と高松塚古墳を通るのです
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天智陵から南下したピンクのラインに乗るのは、菖蒲池古墳・天武持統合葬墓です。藤原宮から熊野大社に引いたラインにはキトラは乗るかもしれませんが、他の陵墓はラインからずれます。
耳成山から南下した緑ラインには、中尾山古墳と高松塚古墳が乗ります。赤いラインを藤原宮から高松塚古墳までひきました。すると、ラインは大極殿から朝堂院南門を通りました。高松塚古墳は正確に測量して作られたということがわかるのです。

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ここまで藤原宮にこだわった被葬者です。高市皇子以外に考えられないのです。それに、被葬者は頭蓋骨がなく抜き取られた可能性がある(首を斬られたのではない。下あごの骨はのこっていたので40歳~60歳の男性の骨とわかった)、大刀の刀身が抜かれ、玄武の顔が削られていたと、調査報告がありました。そんな仕打ちを受けた可能性のある一位の人物は、高市皇子以外に考えられません。長屋王事件の後、謀反の罪が埋葬されていた父親の高市皇子まで及んだとも考えられるし、軽皇子(文武天皇)の立太子に対して何らかの咎を受けたかも知れません。軽皇子は高市皇子薨去後半年で立太子、その後半年で即位してるのですから。
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ヒストリアで最後にラインを熊野大社に持っていくという不思議な画面の挿入がありました。藤原宮と熊野大社を結びつけるなんて、何か意図があったのでしょうか。平安時代から確かに熊野は聖地となり、あまたの皇族貴族が詣でました。テレビでは意味が分からないまま終わったのですが、わたしは日頃から三本の棒があれば測量し直線を引けると言っているので、ラストの熊野ラインはちょっとおもしろかったです。しかし、正確に言うと、藤原ぐうから熊野まで直線を引くと、天武持統陵や高松塚はラインに乗りません。大雑把なことでいいなら別ですが…
古代は建築や墳丘造営や旅行や意味づけをする時、方角を大事にしました。命や運勢に関係すると思っていたからです。ですから、いい加減な測量はしなかったと思います。
だからこそ、高松塚古墳の位置は大事で、なぜその地が選ばれたか考えなければならないと思います。


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by tizudesiru | 2017-05-22 21:32 | 249再び高松塚古墳の被葬者 | Trackback | Comments(0)

続々・岩戸山古墳と八女丘陵

続々・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山歴史資料館から東に向かって八女丘陵の古墳を訪ねました。これまで、乗場古墳・善蔵塚古墳・茶臼塚古墳・鶴見山古墳・釘崎2号墳・立山山古墳をみました。更に東に向かいます。やがて見えてくるのが丸山古墳です。
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未調査だということですが、墳丘には円筒埴輪の破片が落ちています。
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この破片について質問がありました。「持って帰ったのか?」ということです。残念ながらお墓の祭祀用土器ですから、怖くて持って帰れません。欲しくもありませんから。でも、丸山古墳を円筒埴輪が取り囲んでいた証拠ですよね。それに、以前から遺跡の上に置かれていたと思います、誰もが持ち帰りを敬遠したのでしょうね。
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丸山古墳を過ぎると、古墳群の東端の童男山古墳群です。ここまでくると、これまでの古墳とは異なる様式の墓だと感じます。
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上の写真は童男山11号墳の馬具です。この古墳群は円墳に巨石の横穴式石室を持つのです。この石屋形を持つ墳丘墓こそ磐井の乱後の古墳の様式ではないでしょうか。つまり、童男山古墳の氏族は、侵入者か次の権力者なのでしょう。まず、一号墳。
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1号墳と同じ斜面にあるのが、2号墳と3号墳です。
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この辺り一帯が古墳群ですが、いずれも巨石で石室が組まれています
八女丘陵には他にも様々な古墳群があります。
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資料館では「八女丘陵の首長墓の系列」を上の図のようにまとめられていました。首長の墓はどんどん東に築かれていったということでしょうか。こうしてみると石人石馬という石製品は、九州の特色というより磐井一族の限られた人々が使用したものと云えるのではないでしょうか。八女丘陵の古墳には埴輪も多く使用されていますから。石人山古墳などの古墳は、当然磐井の一族だということになりますね。
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立山山8号墳の形象埴輪には、どんな意味があり氏族のどんな主張があるのでしょうね。石ではなく埴にこだわり固執したのですから。彼らが磐井を裏切ったのかも知れませんし、または、古来の伝統を守り磐井亡き後の北部九州を守ろうとしたのかも知れません。八女丘陵の墓の変遷が、わたしたちに歴史上の何かを知らせているのです。
では、ひとまずこれにて。

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by tizudesiru | 2017-05-21 10:57 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Trackback | Comments(2)

続・岩戸山古墳と八女丘陵

続・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山古墳資料館から八女丘陵を歩いてみましょう。まず乗場古墳、善蔵塚古墳、茶臼塚古墳と見ました。次は、数年前に発掘された石人で有名な鶴見山古墳(前方後円墳)です。その石人は博物館に展示されています。発見された時は、たくさんの石の下敷きになっていて、発掘している方は下から何が出て来るのかドキドキしながら石を除いていったそうです。出土品は、円筒・朝顔形・形象埴輪、須恵器、馬具、銅鏡破片、石製品などがあります。特に、玄室内から出土した銅鏡破片には、表面にヒメクロバエの蛹と毛髪痕が残っていました。それが殯(もがリ)が行われた根拠となったのです。ヒメクロバエは日光の下でしか成長しないからです。

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鶴見山古墳は岩戸山古墳の後の築造とされ、筑紫君葛子の墓ではないかと言われています。

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鶴見山古墳から更に東に進むと、下り坂の途中の釘崎2号墳に当たります。近くには1号墳がみえています。ここは前方後円墳4基を中心にした12基の古墳群です。
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釘崎2号墳から更に下り、集落の中に入ると目の前に石垣が現れ、立山山20号墳にぶつかります。
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あの有名な金製耳飾を出土した立山山8号墳ではありません。これは、立山山20墳です。立山山地区にも多くの古墳がありましたが、8号墳など既に壊されて今はありません。8号墳の副葬品は次の通りです。装飾品の他に馬具などがあります。
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立山山13号墳からは須恵器の祭祀土器がたくさん出土したのですね。
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こうして、古墳を見ると不思議な気分になります。どの古墳も労力と時間と財力を使っているからです。
日本列島の6世紀とは、いったいどんな時代だったのでしょうね。こんなに葬送儀礼に財力を投じるなんて。どの古墳も馬具や武具でいっぱいです。そして、須恵器も溢れています。豪族を支えた経済力は何によって生み出されたのでしょう。更に、墓造りという技術を持った庶民の生活はどうだったのでしょうね。
明日も八女丘陵を歩きます。



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by tizudesiru | 2017-05-21 00:51 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Trackback | Comments(0)

岩戸山古墳と八女丘陵

岩戸山古墳と八女丘陵
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江戸時代までは、石人山古墳が筑紫君磐井の墓だとされていました。岩戸山が磐井の墓とされるようになったのは、この百年余のことなのです。岩戸山にはたくさんのラインが引かれます。既に紹介してると思いますが。直線の先にあるのは、有名古墳の墳丘や地域の信仰の対象になった山の山頂です。宝満山・脊振山・高祖山・九千部・阿蘇山・普賢岳、数か所の神籠石、江田船山古墳などの首長墓です。それはさておき、今回は八女丘陵の古墳群の紹介です。
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岩戸山古墳の東300メートル、博物館のすぐ近くにあるのが乗場古墳です。前方後円墳ですが、昭和30年代に周溝は削られて、今はありません
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副葬品は、玉・馬具・土器などは東京国博にあるのですが、人物埴輪・環頭大刀(福島高校に)など、岩戸山歴史博物館に展示されていました。
さて、磐井の乱後は大きい前方後円墳は作られなくなり、装飾のある円墳に代わるそうですから、横穴式石室に装飾を持つ乗場古墳(前方後円墳)は、磐井の一族ではないということでしょうか。または、一族の中の別の家系だったのかも知れませんね。同じく磐井の乱後に築造されたという装飾を持つ弘化谷古墳は、大円墳で石屋形があります。別の氏族の墓なのでしょうね。
更に、岩戸山古墳(磐井の墓)の石製の大刀には勾金(まがりかね)がついています。大刀の束を飾るものですが、環頭大刀は大刀の頭に輪がついているものです。このような飾大刀は、勾金のついた大刀より古い大刀のように思われますが、どうなのでしょう。岩戸山古墳より新しいということですから
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乗場古墳を過ぎ、福島高校の前を通り抜け丘陵の尾根を下ると、途中に善蔵塚古墳(前方後円墳)があります。
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そのまま丘陵を下りて行くと、茶臼塚古墳(円墳)が見えてきます。道からがけ下を覗くと、ため池と丸山古墳があります。
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丸山古墳の祭祀土器です。
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崖下に下りずに進むと、目の前に茶臼塚古墳が見えてきます。
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八女丘陵は歩けば様々な古墳に出会います。
また明日。




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by tizudesiru | 2017-05-19 21:48 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社の古墳・うきはの春

賀茂神社の古墳浮羽の春
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水のきれいな此の地に京都の下鴨神社から祭神を勧請したとか…この神社を守る氏子の代表という方のお屋敷を訪ねるというので、四月の日曜日にわたしも出かけました。賀茂神社は以前にお参りした神社でしたので、今回は拝殿など写真を撮るのを忘れました。
この境内に古墳があるのですが、それは知りませんでした。筑後の耳納山の北と南は古墳群が集中しています。南は家形石棺とか巨石横穴の古墳群が多いようですし、北は日ノ岡古墳とか装飾古墳が多いようです。築造時期もややズレるので、別の氏族がそれぞれに栄えたということです。
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この古墳は形を見ると円墳でしょうか。墳丘が南に延びているのを見ると前方後円墳かも知れません。過去に発掘調査があったようで、記念碑が建てられていました。
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石室内の全面には朱が塗られ、頭がい骨と直刀が出たと書かれています。
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賀茂神社から歩いて河北家に向かいました。
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河北家は河北倫明の生家ということで、記念館がありました。下は河北家の倉を使用する時の入口でしょうか。
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広いお庭のある河北邸は文化財の指定を受けていました。河北家には自家の山北神社があり、この地に移入してきた先祖を祀っておられました。神社を「山北神社」と呼ぶのにも歴史があって、ご当主にお話を聞くことができました。楠森河北家は、浮羽の地に800年間27代続く旧家なのです。壁結(かべゆい)や台所に巨大な海老の注連縄など、 中世を偲ばせる民族的にも貴重な祭事が今でも多く残っています。楠森(くすもり)は河北家の古くからの屋号です。
鎌倉時代の初めに大分の日田に、室町時代の初めに山北小柳館に居を構え、天正年間に現在の楠森に住みつかれ、武家から庄屋として生業を変えて家を守られたということです。山北神社は山北小柳館に由来する社だということです。
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山北神社の敷地内にハルリンドウが咲いていました。九州の日の当たる山地に見られる花ですが、宿根ではなく毎年種で命をつなぐので、一度絶えると次の年から咲きません。ここが昔から守られたことを示す春の花でしょうね。
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どちらも河北家の家紋です。
先の大戦後の「農地改革」で農地のほとんどが無くなったうえに社会の変化により、先代まで残されてきた地域の行事などが消えて行く中、ご当主は農業を続けながらなんとか楠森河北家を守って来られたのです。大変だということでした。近くには河北家がお世話する神社が何か所もありました。屋敷裏の神社もその中の一つだそうで、三次神社と云いました。
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以前、知り合いから貰ったお茶があって、「茶ノ木はほとんど挿し木で増やすから主根が浅いけれど、このお茶樹は原木だから根が岩盤まで達していて、深い所のミネラルを吸い上げているから美味しい」という話がついていました。煎茶と番茶でしたが、たまたま河北家がお茶を生産されているということだったので、買わせていただきました。すると、わたしがいただいたお茶と同じでした。廻りあわせで生産者にお会いしたということです。が、唐突なので「以前からいただいています」とは伝えませんでした。お伝えすればよかったです。味わい深いお茶ですから、様々な方にお勧めしたいと思いました。道の駅でも買えるそうです。
福岡県浮羽郡浮羽町大字山北の河北氏に感謝いたします。お邪魔いたしました。



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by tizudesiru | 2017-05-17 14:15 | 248賀茂神社の古墳と浮羽の春 | Trackback | Comments(0)

熊本地震後の塚原古墳群

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塚原歴史博物館は閉鎖中
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外側は片付いているようでしたが、中の展示物はまだ整理の途中でした。壊れたりして散乱したのを片付け展示できるようにするには時間がかかるのでしょう。少ない職員さんが館内の整理や掃除などで忙しそうでした。そこにお邪魔して一枚のパネルの写真を撮らしていただきました。ごめんなさい、お邪魔しました。(パネルには気になる写真があったから、確かめと撮り直しに行ったのです。それは、後に書きましょう)倒れかかった弥生住居や倉庫の展示物は 修理されるのでしょうか。7月には開館の予定だそうです。
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近くの道路はまだ工事中だったし、緑川には渡れない橋があってひどく迂回しました。塚原古墳群の下を九州高速道路が貫通しています。活断層の上の道路がガタガタになったのでしょう。高速道は通れれるようになっていますが、側道はこれからのようでした。
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この方墳はガラス屋根の上から石室を見ることができます。
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大きな石屋形のような、家形石棺のような、変わった石室を持つ石之室古墳は地震で壊れました。奥の二本の木の間に丸く見える古墳がそれです。琵琶塚古墳は墳丘に綱が張られていましたが、大丈夫だったのでしょうか。
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花見塚古墳古墳の石室も家形石棺のようです。
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方形周溝墓から前方後円墳、円墳と揃っていますね。公園として残されたのはこの部分だけですが、十分に楽しめますね。東屋の方は立て直されていましたが、中のテーブルは壊れたままでした。
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さて、こんな状況の閉鎖中の博物館(公園は公開)を訪ねた理由ですが、それは一枚のパネルの為でした。とても気になることがあったのです。前回(地震前)に訊ねた時、おや!?と思ったのです。デジカメで写真を撮って後で調べようと思っていたら、写真がぼけていて肝心の文字が読めませんでした。その写真が下の画像です。今度は文字が読めました。
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玉名郡の郡衙と立願寺の古瓦で、同范か同文になっています。もし、郡衙に瓦が葺かれたのであれば、その時期を調べたいと思ったのです。で、「郡衙と立願寺の文字」を確かめに行ったのです。そうであれば、福岡の場合、評衙の仏堂には瓦は葺かれましたが、その後の郡衙は掘立柱に瓦無しですから、九州の郡衙の状況にややズレがあります。その違いは何によって生まれたのか、玉名の郡衙に古平瓦が葺かれる意味を知りたいと思ったのです。
その時期は福岡の郡衙とどのようにリンクするのか。とにかく、玉名の古瓦の出土は面白い事実ですよね。
五月晴れの塚原古墳群はなかなか美しく心なごみました。親切な資料館の職員さんに感謝します。



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by tizudesiru | 2017-05-14 12:23 | 246熊本地震後の塚原古墳群 | Trackback | Comments(2)

雲居の桜

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ここにても雲居の桜咲きにけり
後醍醐天皇は吉野に逃れても決して都を忘れることはありませんでした。ある日、雲居の桜という名の桜を献上された時、都を思い出して詠まれた御製歌と以前聞いたことがあります。
こんな吉野の山の中でも、雲居の桜が咲いた。雲居とは「遠く離れた所」「宮中や皇居」「皇居のある都」のことを云いました。「雲居の桜」と聞いて、都が思い出されていよいよ都への思いが強くなったことでしょうね。しかしながら、大事な長男で戦力でもあった大塔宮を毒殺され、他の皇子たちも東国から西国の戦場に貴種のシンボルとして差し向けられた帝の無念が吉野にはありました。
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後醍醐天皇の宮跡、吉水神社に行きました。
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ここは「吉水院」という僧坊でしたが、明治になって後醍醐天皇の皇居跡であることから「吉水神社」となったのです。義経と静御前が弁慶と共に住んだとの伝承もあります。

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後醍醐天皇の所縁の吉水神社が、放火された勝手神社の仮の遷座所にもなっていました。こんな山の奥の神社に何ということをしたのでしょう。
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後醍醐天皇の皇子の中で二条家の血を引く宗良親王はわたしの好きな歌人です。南北朝の戦いの間は歌が詠めなかったようですが、それでもたくさんの秀歌を残されました。
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沢山の宝物を見て庭に出ると、北闕門(ほっけつもん)がありました。
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都の方向を望んで号泣したという公家や武将が偲ばれました。後醍醐天皇はそういった人々に命を捧げられたのですが、彼らをどう思っていたのでしょうね。吉野に来ると命を賭して戦った男たちの哀しみを思わずにはおれません。
今回の吉野では「おりこう犬」に逢いました。どの子もおとなしく賢く愛らしかったのです。今度の旅で一番うれしかったのは、彼らが幸せそうだったことでした。
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今も幸せしてることでしょう。グッドラック!!




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by tizudesiru | 2017-05-06 22:20 | 245雲居の桜 | Trackback | Comments(0)

花の吉野の別れ歌

花の吉野の別れ歌
今年四月十二日、吉野山は中千本が満開でした。
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吉野と云えば、後醍醐天皇の所縁の地でもあります。桜に見とれながら如意輪寺を訊ねました。
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桜に埋もれた宝塔も見事でしたね。数年前に来た時もほんとうにきれいでしたが、今年も何処も素晴らしかったです。
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帰りのシャトルバスで出会ったお嬢さん、義経に惹かれて吉野に来られたようでした。短い間におしゃべりできてちょっと嬉しかったです。その方、後醍醐天皇や楠木正成や正行(まさつら)の話はご存知ないようでしたので、つい「♪青葉茂れる 桜井の♪」と唄ってしまいました。こんな歌、ご存知ですか? お返事は「いいえ、ぜんぜん知りません」でした。
わたしもこの歌を覚えたのは大人になってからです。楠木親子の理不尽な別れと忠誠心が憐れに思えて、いつの間にか幾度も口遊むようになりました。 「♪木の下陰に駒止めて 世の行く末をしみじみと♪」 幼い息子に死地に向う父親の正成は静かに諭したという物語。「お前は生きて、いつの日か父の意志を引き継ぐように」と父の言葉、十年後、約束通りに息子の正行は、後醍醐のために四条畷の戦いに出て討ち死にしました。忠誠心より本当は生き抜いてほしかったのではないかと、吾子の死を願う父親はいないと、わたしは思うのです。
戦前の話ですが、祖父は楠木正成に感動し、港川の墓を訪ねて正成の墓の寸法を測り、同じような墓を建てていましたから、墓参りの度にその話を聞きました。その墓も父が改葬し、今はありませんが、お彼岸や盆暮れの墓掃除の度に、楠木正成の名を思い出しましたね。
ところで、シャトルバスで会ったお嬢さん、神奈川の人でしたね。お健やかにお過ごしですか?
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お嬢さんは、如意輪寺には足を運ぶ時間がなかったのでしょうね。ここには、鏃で御堂の扉に書き残したという、楠木正行の辞世の歌があります。彼は、既に鬼籍に入っていた帝の御陵に参拝し、如意輪堂で髻(もとどり)を切り、過去帳に姓名を残した後に辞世の句を詠んだのです
かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる
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正行を慕った弁内侍(べんのないし)は、討ち死を知った後、髪を下ろし正行の菩提を弔ったと云います。「内侍」とは天皇に仕える高位の女官のことです。吉野は桜の影に男の物語、女の物語が散らばっているのです。



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by tizudesiru | 2017-05-01 21:46 | 244花の吉野の別れ歌 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
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12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
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168額田王は天智天皇を愛し続けた
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173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
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181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺

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邪馬台国がどこにあったか..
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