<   2017年 04月 ( 7 )   > この月の画像一覧

柿本朝臣人麻呂と玉津島

玉津島磯の浦廻の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
この歌は、すでに紹介しました。万葉集巻九の挽歌の冒頭五首は「右五首、柿本朝臣人麻呂歌集に出」と左脚があり、人麻呂歌集(人麻呂自身の作歌)の歌です。それは、「宇治若郎子の宮所の歌一首」と「紀伊国に作る歌四首」の合わせて五首でしたね。
a0237545_23573600.png
宇治若郎子の宮所の歌は、
1795 妹らがり 今木の嶺に茂り立つ 嬬待つの木は古人見けむ
紀伊国に作る歌は、
1796 黄葉葉の過ぎにし児らと携はり 遊びし磯を見れば悲しも
1797 塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とそ来し
1798 いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛形を見ればさぶしも

1799 
玉津島磯の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にもにほいて行かな妹も触れけむ
上記の四首は、持統天皇の死後に人麻呂が紀伊国を訊ね、持統天皇の形見の地で霊魂に触れ、元明天皇に『初期万葉集』の奏上をしてもいいのか(文武天皇が崩御された後なので元明天皇に)霊魂に訊ねに行った旅だと、わたしは書いています。その事は既に紹介しました。
人麻呂が紀伊国に旅したのは、「過ぎにし妹」の形見の地を訪ねた時ばかりではありません。大宝元年(701)辛丑冬十月、持統天皇と孫の文武天皇に従駕して紀伊國に来ています。この時は、有間皇子の所縁の地を訪ねる旅で「結松」を詠みました。人麻呂は有間皇子事件には遭遇していませんから、「又も見むかも」とは人麻呂の心境ではなく、皇子の所縁の人に代わって詠んだものとなります。つまり従駕した太上天皇の思いに重ねて詠んだのでした。

146 後見むと君が結べる磐代の子松がうれを又も見むかも
無事に還って来た後にまた見ようと、皇子が結ばれた磐代の松が枝、あの無念の結松の枝をわたしは再び見ることがあろうか

そして、最晩年の持統天皇の「最後の紀伊国行幸」は、有間皇子への別れの儀式でもありました。この旅には孫の文武天皇も同行しました。文武帝とは途中で合流したのかもしれませんが、一行は、黒牛方・藤白坂・白崎・牟婁の湯と所縁の地を訪ねています。玉津島は紀の川の河口にありますし、景勝地ですから、行幸の人々が立ち寄ったと思われます。小さな島には宿泊は無理でしょうから、行宮は湾の玉津島が見える辺りに作られたのでしょう。
山部赤人が「雑賀野ゆ そがひに見ゆる沖津島」と読んでいますので、聖武天皇の時代には雑賀崎側に行宮はあったのです。更に「神代よりしかぞ貴き玉津島山」とその長歌を結んでいますし、「和歌の浦に潮満ち来れば」と反歌も伴いますから、赤人の見ている風景と人麻呂が「玉津島磯の浦みの真砂にも」と詠んでいる風景は、重なるはずです。二人が詠んだのは、同じ風景でしょう。
「神代よりしかぞ貴き」とは、聖武天皇の先祖(天武・持統)の時代からずっと尊い地であるというのです。つまり神代である持統天皇の時代からこの地に天皇が代々訪れていたので、ここが尊ばれたということなのです。
妹も触れけむ」と詠まれた真砂は、塩気立つ片男波の砂嘴の砂だったのでしょうね。
a0237545_14532368.jpg

(古墳時代の紀ノ川)
a0237545_14540609.jpg
(今は紀ノ川の流路は変えられている)
万葉集には玉津島の辺りを詠んだ和歌は多く残されていますが、祀られた神に関するものは有りません。玉津島神社の信仰はいつ始まったか分かりませんが、万葉集巻七の1216に、
潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人娘子(あまおとめ)ども
という歌があるように、もとは海神の男神が祭られていたのかも知れません。それが女神に代わったとなれば、神代(持統帝のころ)となるのでしょう。
わたしには持統帝か文武帝により衣通姫の伝承が持ち込まれ「稚日女尊」として祭られたのではないかと思えてなりません。もちろん、有間皇子を追ってきた間人皇后がモデルです。(紀伊國の道成寺の「安珍清姫伝承」にも、間人がモデルとなったのではないかと、間人皇后が追って来た話と重ねて読んでしまうのです。道成寺は文武天皇が藤原宮子のために建てた寺となっていますが、この寺のご本尊の視線は真っ直ぐ岩内一号墳に向いているというではありませんか。岩内一号墳は有間皇子の墓と言われている方形の古墳です。紀伊国行幸の後、文武天皇が有間皇子の墓を改装し、寺を建てたと考えられなくはありません。もちろん、ゆかりの人だからです。)
持統帝が紀伊国行幸で文武帝に見せたかったのは、有間皇子の所縁の地と結松、藤白坂でした(紀伊國十三首で紹介しました)。
稚日女尊が祭神であることを十分承知していた光孝天皇が、あえて衣通姫を合祀したのは、持統帝や文武帝の紀伊国行幸の故事を踏まえてのことだったと思うのです。
また。


[PR]
by tizudesiru | 2017-04-22 21:21 | 243 柿本人麻呂と玉津島 | Comments(0)

玉津島神社の春・衣通姫の歌

神代よりしかぞ貴き玉津島山
a0237545_21195958.jpg
玉津島が景勝地として知られるようになったのはいつのことでしょう。
「神代」とは、持統天皇や天武天皇の時代を云うのだそうですが。

万葉集巻七 1222には、次のような歌があります。玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため
玉津島神社の周辺には、六つの小高い島山(玉津島六山)があります。いにしえ、これらの島山は潮が引くと陸続きとなり、満ちて来ると玉が連なるように海中に並んだといいます。しかも、紀ノ川は現在と違い、古代には玉津島神社の横の和歌川の流路を流れていました。紀伊国行幸の時、天皇の輿は上流の吉野川から紀ノ川へ船を使って玉津島まで至ることができ、この景勝地を楽しめたのでした。
山部赤人の歌でもその様子が分かるというものです。「やすみしし わご大王の常宮と」歌われたように、各天皇が玉津島の近くに常宮(とこみや)としました。「常宮と仕へ奉れる雑賀野ゆ」と赤人が歌っていますから、宮は和歌浦湾の北の雑賀崎方面にあったのでしょう。そこから、島々が見えました。聖武天皇は奠供山(てんぐやま)に登り、弱浜を明光浦と名をかえ、称徳天皇は玉津島に望海楼を造営したのでした。
a0237545_17120335.jpg
(説明板・奠供山)
a0237545_17243012.jpg
(玉津島の西・雑賀崎方面)
a0237545_17190366.jpg
(玉津島の東・片男波の砂嘴と和歌の浦)
さて、今日は衣通姫のはなしでしたね。
玉津島神社の祭神・稚日女尊は女性神でしたね。衣通姫が五八代光孝天皇の夢枕にたったという故事により玉津島神が「和歌三神」の一つとして崇められたということは、実に唐突で不思議な話に思えます。
衣通姫が夢枕に立ったという光孝天皇(830~887)とは、どのような方なのでしょう。在位は短く四年です。
光孝天皇は仁明天皇の第三子、陽成天皇が藤原基経により廃位された後、五十五歳で即位した方でした。即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、後に皇位継承の憂いを残さないようにしていたのですが後継者が決まらないうちに病に倒れられたため、臣下となっていた源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌日に立太子させ、同日に崩御となられたのでした。この立太子が、光孝天皇の意思だったのか定かではありません。藤原基経としては、仲の悪い妹(藤原髙子)の子の立太子を避けたかったというのがことの真相でしょう。

光孝天皇は優れた文化人であり、「三代実録」には、『天皇若くして聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と記されています。帝は優れた資質を持ちながら、自らの親族から皇位継承者を出さないことに強い意志を持っていたようです。
上記のような光孝天皇の夢枕に立ったのが、衣通姫でした。その衣通姫尊を合祀したのが玉津島神社なのです。

では、衣通姫はどのような歌で神となったのでしょう。
a0237545_10092480.jpg
玉津島神社の由緒には「第十九代允恭天皇の妃で絶世の美人であられ、その麗しさは名の通り『衣を通して光り輝いた』と伝えられ、また尊は殊のほか和歌の道に秀でられたことはよく知られるところである。」と書かれています。
衣通姫は、「古事記では允恭天皇の皇女、軽大郎女の別名」とされ、兄の軽太子との姦通事件に巻き込まれ、伊予に流された兄を追って行きともに死ぬという物語の美女です。「日本書紀では衣通姫は允恭天皇の皇后(忍坂大中津姫)の妹・弟姫(おとひめ)、允恭天皇の寵妃」と描かれています。允恭天皇に寵愛された衣通姫は、姉の皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮に移り住んだのでしたが、それでも皇后の嫉妬は止まず、ついに允恭天皇の足は遠のいたのでした
上記のように、古事記では軽大郎女皇女=衣通姫は同一人物ですが、書紀では允恭天皇の妃で皇后の妹、軽大郎女とは別人です。さて、玉津島に祀られたのは後者となっています。

a0237545_12022973.jpg
姉の皇后の意に反して允恭天皇に召し出された弟姫はひとり待ちながら、「わが背子が来べき夕なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 今夕(こよい)著しも」と詠んだので、允恭天皇は聞いて感動し「ささらがた 錦の紐を解き放けて あまたは寝ずに ただ一夜のみ」と仰せられたというのですが、皇后の嫉妬のため、弟姫は茅渟宮に移りました。そこで、
とこしへに 君もあへやも いさなとり 海の浜藻の 寄る時々を

何時もいつもあなたは逢って下さるわけではないのです。せめて、海の浜藻が浜辺に寄って来る時があるように、その時だけでもあってくださいませ。 

その容姿だけではなく、衣通姫の心根にも允恭天皇は感動して、藤原部という御名代を定めたというのです。
一方、古事記の軽太子事件の時に大郎女皇女歌が詠んだのは、
君が行き け長くなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つにはまたじ
貴方がお出かけになってから日もずいぶん経ちました。あなたをお迎えに行こうと思います。とても、待ってなどおられません。
という激しい思いの歌です。皇位継承の争いの中に在って、愛を貫こうとしたのか、軽大郎女皇女は迎えに行って心中したというのです。
a0237545_21132130.jpg
ここで、玉津島神社の由緒にある歌を思い出してみましょう。
立ちかへり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波
この歌を詠んだ衣通姫は、軽大郎女でしょうか、弟姫でしょうか。わたしには、前者に思えます。皇位継承の事件に巻き込まれた絶世の美女の無念を偲び、その霊魂を慰め、自らも決意(皇位継承者を自家からは出さない)を新たにするという光孝天皇の深い意図が、あったのではないでしょうか。以後、衣通姫に奉納する「宮中の歌会」に光孝天皇の思いが受け継がれたのではないでしょうか。
結果として、光孝天皇は崩御の間際では藤原基経の策に何もできなかった…それとも、何もご存じなく崩御されたのか、そこは想像するのみです。源定省(後の宇多天皇)の立太子の日に、即日崩御ですから。事実が重すぎますね。
ここでの結論は、衣通姫は軽大郎女皇女だったのではないか…ということです。
光孝天皇は衣通姫の伝承を十分に承知し、万葉集の軽太郎女と結びつけたうえで、子孫の平穏な将来を祈念しつつ、玉津島神社に衣通姫を合祀したと。

また明日。


[PR]
by tizudesiru | 2017-04-17 13:56 | 242紀伊国・玉津島神社 | Comments(0)

紀伊国・玉津島神社の春

玉津島神社不思議
紀伊国の春を楽しむ旅に出かけていました。昨日、帰ったところです。
和歌山市和歌浦中三丁目四番二六号に玉津島神社は有ります。この辺りは、玉出島ともいわれ、万葉集の時代には島山がまるで玉のように海の中に連なっていたと推察されています。山部赤人の歌に「神代より然ぞ貴き玉津嶋山」と詠まれているように、昔から風光明媚な景勝地だったのです。ここは、聖武天皇や称徳天皇、桓武天皇の玉津島行幸の地でもあります。

a0237545_21132130.jpg
赤い鳥居に桜が華やかに寄り添っています。鳥居の横には万葉歌碑がありました。
a0237545_21164683.jpg

















神亀元年甲子の冬十月五日 紀伊国に幸す時に、 山部赤人の作る歌一首 併せて短歌
やしみしし わご大王の 常宮と 仕え奉れる 雑賀野ゆ 疎外に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山

a0237545_21175864.jpg
沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも
若の浦に 潮満ちくれば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟を波…」の歌は有名ですね。この玉津島神社のご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)息長足姫尊(おきながたらしひめみこと)衣通姫尊(そとおりひめみこと)明光浦靈(あかのうらのみたま)の四柱です。四柱の神々はどんなつながりがあるのでしょうね。玉津島神社の周囲には美しい風景が広がります。
a0237545_23312367.jpg
a0237545_23293756.jpg
a0237545_00062669.jpg
ご祭神は、
稚日女尊…玉津島の神。イザナミ・イザナギの御子で、天照大神の妹、またの名を丹生都比売神(にふつひめのかみ)
息長足姫尊…神功皇后。皇后が海外に軍をすすめた時、玉津島(稚日女)の神の霊威を尊崇し、和歌山県伊都郡かつらぎ町天野と玉津島の二か所に鎮め祭り、自身も玉津島に合祀せられた。
衣通姫尊…58代光孝天皇天皇の夢枕に衣通姫が現れて「立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波」と詠まれたので、光孝天皇の勅命でこの社に合祀された。
明光浦靈…名光浦の霊。聖武天皇はこの地の「弱浜(わかのはま)」の名を改めて「名光浦(あかのうら)」となし、守戸を置き「春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈を奠祭せよ」と詔勅を発した。
玉津島の神は丹生都姫尊でもあり、この神を神功皇后が二ヵ所で祭り、皇后自身も神として後に祭られ、聖武天皇が詔勅で稚浦靈も祭らせた、という…ここまでは理解できます。しかし、衣通姫尊の歌はなんだか、前の三神とは話がかみあいません。

光孝天皇の夢枕に衣通姫が立ったのは、何処なのでしょう? 京の御所での夢でしょうか? 紀伊國の玉津島での夢でしょうか? 夢枕に立って読まれた歌の故事により、
玉津島の神は「住吉大神(摂津)・柿本大神(明石)と共に『和歌三神』として朝廷はもとより広く一般文人墨客から崇められたそうなのです。後世、玉津島の神に和歌を奉納する歌会「法楽和歌会」が、後西帝・霊元帝・桜町帝・桃園帝・後桜町帝・後桃園帝・光格帝・仁孝帝の各天皇の御代に宮中で催されたそうです。
玉津島の神(稚日女尊)は、衣通姫尊と一体となったということでしょうか。それにしても、玉津島の神が急に「和歌の神」になったのは、衣通姫の夢枕の故事に因ります。
衣通姫は、次のように詠んでいます。
立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦なみ
一度この世を去ったけれども、またこの世に跡を残したくなりました。 その名がうれしいことに和歌の浦となったのですもの。寄せくる波のように、何度でもこの世に。
何とも意味深い、そして、ある歴史的な事件を彷彿とさせる歌ではありませんか。後の多くの天皇が心惹かれた「和歌の浦の玉津島神社」には、古くから衣通姫が祭られていたと、どこかで詠んだことがあります…衣通姫の名は「万葉集」にも出てきます。しかし、玉津島神社の由緒書きにある「衣通姫(十九代允恭天皇の妃で絶世の美女)」とは別の女性として出ているのです。
また、明日。

[PR]
by tizudesiru | 2017-04-16 00:42 | 242紀伊国・玉津島神社 | Comments(0)

241神籠石と古墳の石組みの技術

切り欠き加工が古墳に!
数年前に大野窟古墳のパンフレッツを見た時、え?と思いました。切り欠き加工が使われていたからです。
a0237545_22045601.jpg
a0237545_22273780.jpg

a0237545_22063216.jpg
a0237545_22072321.jpg
パンフレットの画像を見たので、熊本県氷川町に古墳を訪ねました。この古墳は見学が可能です。なぜか説明板には円墳と書かれていますが、違っているようです。パンフレットでは前方後円墳ですね。
a0237545_22122987.jpg
a0237545_22163235.jpg
入口
a0237545_22173627.jpg
羨道
a0237545_22193976.jpg
玄室の刳り貫きの家形石棺と石棚でしょう。
a0237545_22184009.jpg
a0237545_22225718.jpg
側壁は少しずつせり出していて、持ち送りの技術が使われていますね。天井には巨石が置かれています。
井寺(いてら)古墳は同じような技術を使って、馬門石(ピンク石)=阿蘇溶結凝灰岩で石室が作られています。石室はベンガラが塗られているようです。井寺古墳の石室は鍵がかけられていて見学はできません。切り欠き加工を見つけやすいですね。側壁は持ち送りで石が組まれ、一番上には巨石が置かれています。
a0237545_23074088.png
a0237545_23161316.png
この古墳は直弧文で有名ですね。画像は、古墳関係の本からいただきました。熊本ではかなり知られた古墳です。この紋様は石障に線彫され彩色されているのです。
a0237545_23200088.png
神籠石の水門に使われた切り欠き加工は、肥後の古墳の技術に使われていたのです。この石組みの技術が伝わったのは、もちろん両方の地域に深いつながりがあったからです。巨石の古墳も福岡に伝わっています。
a0237545_23302665.png
(番号はわたしがプレゼンする時に付けたものです)
福岡県の宮地嶽古墳は、6世紀後半の円墳です。相島の玄武岩を使った巨石の古墳です。欽明陵と言われる見瀬丸山古墳の次の長さをもと古墳で、日本では二番目に長いそうです。見学はできます、不動神社となっていますので。
大野窟古墳は、明日香の石舞台古墳より玄室の天井が高く、日本一だとか。

さて、今日は古墳の話ではなく、石組みの技術の話でしたね。古墳の石組が神籠石に使われたということは、肥後の技術が北部九州に伝わっていたということですが、それは、文化として伝わったのでしょうか。それとも、何らかの政治的変化の後に浸透していったのでしょうか。
気になりますね。鍵になるのは墓制でしょうか。先祖の霊を祀る方法が変わるとしたら、大きな社会的変革があったということでしょうから。わたしは、大きな変化が北部九州を襲ったと思います。
(旅行に行くので少しお休みです)


[PR]
by tizudesiru | 2017-04-09 23:59 | 241神籠石と横穴式古墳の共通点 | Comments(0)

240神籠石の水門の技術は共通する

神籠石・水門の石組みの技術は共通する
雷山・阿志岐・女山・おつぼ山・御所ヶ谷神籠石の水門を見ましょう。
雷山神籠石の北水門
a0237545_09370047.png
a0237545_09412241.png
a0237545_09372816.png
a0237545_09375807.png
阿志岐神籠石の第一水門
a0237545_09483942.png
女山神籠石の水門
a0237545_09404835.png
おつぼ山の水門
a0237545_09394965.png
御所ヶ谷神籠石の水門
a0237545_09474968.png

a0237545_09534048.png
御所ヶ谷神籠石の中門は、あまりにも有名です。この石組みは「布積の水門石積の後に、重箱積の石積が乗る」と報告者に書かれていました。つまり、途中で技術者の交替とか、時間の経過とか、指導者の交替とか、何らかの異変があったのでしょうか。長く忘れられていた遺構を別の時代になって再利用した時、前時代の技術は使わなかったなどなど考えられます。また、御所ヶ谷は列石でも不思議でしたね。切り石が版築の中に隠れている所と、版築の外に露出している所とありましたね。何らかの工事変更があるには、社会的な出来事がかかわったと思うのです。
それは何時の出来事か、そこはわかりませんが、少なくとも6世紀の出来事でしょう。6世紀の土器の欠片が出土するのですから。

a0237545_10210223.png
列石の写真で、共通する技術に気がつかれましたか?
それは幾度も出て来た「切り欠き加工」です。この技術は古代にしか使われていないそうです。それは何故でしょう。こうして千数百年も壊れずに残る技術なのに、何故伝わらなかったのでしょう。技術を必要とされる時代が終わったとか、別の地域に一斉に流れて行ったとか、技術者集団が全滅したとか、様々な理由があるのでしょうね。
a0237545_09483942.png
他にも、阿志岐神籠石(阿志岐古代山城)の水門には、階段状に少しずつずれて行く技法が使われています。「持ち送り」の逆ですね。持ち送りは徐々にせり出して最後に大石で抑えるという「古墳築造」の技術ですね。ただし、阿志岐山城の説明会の時、学芸員さんは「持ち送り」とか、「古墳の技術」とか、云われてません。これは、わたしのかってな意見です。「階段のように石組みがずれながら上がっていくのが特色」「切り欠き加工は古代にしか使われていない」「水門の石組みの技術で、鬼ノ城と共通するものもある」とは言われました。
では、次は古墳の技術と比べてみましょうね。
また、明日



[PR]
by tizudesiru | 2017-04-08 10:42 | 240神籠石の水門の技術 | Comments(0)

239神籠石は消されるのか

神籠石は何処へ消えた?!
a0237545_10173658.png
慣れ親しんだ神籠石系山城という歴史用語は、無くなるのでしょうか。確かに神籠石が世間に知られた時、高良大社の神域を囲む列石と古くから使われて来た「神籠石」という言葉が、混同して使われたので理解に混乱が生じたのでしょう。しかし、正史に登場する朝鮮式山城と区別するために、明治以来ずっと神籠石・神籠石系山城という用語が使われて来たのは事実です。しかし、何故か歴史学者の歯牙にはかかりませんでした。その存在を認めることは間違いでああるかのような意見は有りました。ほとんど地方(主に九州)の自治体が地域おこしのために時々使うマイナーな用語でもありました。もちろん、大野城や基肄城、鞠智城といった正史に残る山城のイベントとは比べられないほど小さなものだったと思います。
そのささやかな歴史さえも、突然、奪われようとしていると、わたしは思いました。つい一年前の山城シンポでさえ、若い研究者が馬鹿にした笑いで「僕は神籠石は大野城より新しいと思いますよ」と、これまた若い研究者仲間に喋り掛けているのを見ました。そばを通り抜ける時、「ああ、やはり神籠石について考えてくれる人はいないのかな。九州になんで神籠石が集中するのか、少しは考えてほしいな」と、非常に残念に思いました。しかし、一転、「古代山城」という一語で、朝鮮式山城も神籠石もひとくくりにされてしまったのです。いつの間に? 何があったというのでしょう。分けて考えて来たのではありませんか、今までは。なぜ、急に変わったのでしょう。それも、近畿政権の建造物だったとは、仰天の展開ですよ。つい昨年まで、下の画像のように、朝鮮式山城と神籠石系山城は分けて示されていました。資料は、山城シンポジウムだったと思います。
a0237545_23155541.png
a0237545_10120090.gif
列石と版築を持つ神籠石系山城は九州から瀬戸内に分布します。それも絶妙な位置に置かれているのです。例えば、おつぼ山神籠石、帯隈山(おぶくまやま)神籠石、御所ヶ谷神籠石は一本の直線で結ぶことができます。その山城の高所にピンを立て直線で結べばいいのです。誰にでもできます。
驚いたのは、この直線がほぼ夏至の日の出のラインだったからです。
a0237545_10141523.png
夏至の日の出は、冬至の日没のラインでもあります。東西のラインは春分秋分の日の出・日の入りのラインではありませんか。南北のラインは、太陽が毎日南中するラインです。そこに、神籠石系山城があるのは、非常に驚きでした。これは、自著「太宰府宝満沖ノ島」でも取り上げたと思います。
a0237545_10191366.png
これらの神籠石に共通する列石を見てみましょう。
a0237545_23195957.png
雷山神籠石の列石。番号は昨年の講座(市民センターであった)で、わたしが使ったスライドの番号です。写真の日付けは、撮影に行った2013年です。写真を撮るには冬がいいかなと思います。ただ、一人で行くのは危険だと思います。
a0237545_23210611.png
杷木神籠石の列石は、江戸時代に筑後川の工事に使われたらしくほとんど抜き取られています。大石堰は五庄屋の伝承と共に大変な工事だったようです。古墳の石室も壊されたとか…
a0237545_23214026.png
鹿毛馬(かけのうま)は歩きやすく、40分ほどで列石を一周できます。列石はほとんど残されています。

a0237545_23234932.png
御所ケ谷神籠石は、様々な時代がごちゃ混ぜに盛り込まれた神籠石です。途中で工事の変更もあったとか…

a0237545_23230131.png
女山(ぞやま)神籠石には切り欠き溝がはっきりと残っています。

a0237545_23245677.png
高良山神籠石が、神籠石という用語の発祥の地です。列石は高良大社(延喜式内社・筑後国一宮)の神域にほぼ重なるそうです。

a0237545_23254259.png
a0237545_23544522.png
阿志岐神籠石(阿志岐古代山城)の列石は、二段に積まれている場所があります。丁寧に敷石もしかれています。急斜面を列石が滑り落ちないようにしているのでしょう。もちろん、一段の列石もあります。
a0237545_23265038.png
唐原神籠石は見学できませんでした。ここは列石が抜き取られた跡が残っていました。抜き取られた石が中津城の石垣に転用されているということでした。


a0237545_23274486.png
列石の共通点は見つかりましたか。いずれも切り石でした。切り欠き溝がありましたね。版築のための木材を据えるて見のものだそうです。
a0237545_00145766.png
雷山神籠石の説明板によると、切り欠き溝が彫られた理由が分かります。下は、御所ヶ谷神籠石の報告書の中の説明図です。イラストををデジカメで撮りました。
a0237545_00062246.png
次は、水門をみましょう。
また明日。




[PR]
by tizudesiru | 2017-04-08 00:23 | 239神籠石は消された? | Comments(0)

240藤原鎌足の墓は何処か

鎌足の墓は何処か?
藤原鎌足は明日香村の大原で生まれたといいます。飛鳥寺や飛鳥坐神社のある辺の東で大原神社があり、今は小原という地名になっているそうです。飛鳥で生まれた鎌足が摂津の安威山に葬られたとはどういうことでしょうね。
a0237545_23532885.png
というのは、吉川弘文館「藤原鎌足と阿武山古墳」を読んで、再び鎌足墓に興味を持ったからです。かなり前に、阿武山古墳が新聞に取り上げられた時は、阿武山は鎌足関係の伝承地の近くであり、織冠をもらったのは鎌足以外にいないから、鎌足の墓の可能性が極めて高いと書かれていました。では、多武峯の鎌足の墓は嘘で、梅原氏の説のように「多武峯の十三重塔の下に眠るのは定恵かもしれない」と思ったものでした。しかし、今回この本を読んで、見落としていた事実にぶち当たりました。当然、気が付かなければならなかった事実です。
a0237545_23385654.jpg
a0237545_23394381.jpg
(中央が阿武山古墳です)
メディアのおかげで玉枕と織冠は有名になりましたね。上の写真は吉川弘文館の本の表紙ですが、織冠と玉枕(ガラス製の玉の枕、布にまかれていたであろう)の復元品となっています。織冠には金糸で刺繍がされていて模様があったと思われますが、そこまでは復元されていなくて、縦横の線だけです。わたしが「アッ」と思ったのは、これらではありません。
藤原鎌足とされた人物は、脱活乾漆棺(だっかつかんしつかん)に眠っていたということです。脱活乾漆棺とは、木枠に布を数枚から数十枚重ねて布着せをし漆を塗重ねる技術で作られ、最後には木枠を取り外した乾漆棺です。棺に漆を塗っただけでも高級品なのに、布着せをして漆を塗るとは超高級品なのです。
この技法で作られた棺は、野口王墓(天武・持統帝)、牽牛子塚古墳(斉明帝・間人皇后)などでも使用されています。牽牛子塚古墳は二つの石槨の双方ともに脱活乾漆棺ですね。なるほど。
a0237545_00422292.png
(天武天皇の棺の身が脱活乾漆棺で、蓋は漆塗木棺らしいです)
それにしても、高級な棺が阿武山古墳に使われていたとなると、この被葬者が只者ではなかったということになりますね。
a0237545_00494197.jpg
上記の「本」の挿入写真です。昭和九年の発見だったので、写真や管内の資料の一部しか残されていませんが、その資料を探し出し(地震観測所の倉庫に保管されていた)検討を加えてのシンポジウムのまとめに出された本でした。なかなか面白かったので、おすすめです。
さて、藤原鎌足とは何者だったのでしょうか。
この阿武山古墳を造営したのは、息子の不比等になりますね。そして、定恵がここから鎌足の遺体をほりだして多武峯に移したことになっています。えっ、何で? 墓はここにあるし、遺体もあるし、どうなっているの? と、思いませんか。

この本には、まだ面白いことがたくさん書かれていました。来週は、近畿に出かけてその一部を確かめて来ようと思っています。

また明日


[PR]
by tizudesiru | 2017-04-07 20:54 | 240藤原鎌足の墓 | Comments(0)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇
at 2017-08-18 20:48
稲荷山古墳鉄剣銘文・乎獲居臣..
at 2017-08-17 22:22
乎獲居臣の八代の系譜
at 2017-08-17 00:34
稲荷山古墳の金石文の訓み解き..
at 2017-08-16 11:31
稲荷山古墳は仁徳陵の4分の1
at 2017-08-15 01:14
知っていそうで知らない江田船..
at 2017-08-13 17:43
阿倍寺の近くの艸墓古墳
at 2017-08-11 14:30
左大臣安倍倉梯麿の安倍寺と墓
at 2017-08-10 20:47
明日香・奥山廃寺に秘められた物語
at 2017-08-08 10:38
蘇我馬子の菩提を弔ったのは誰
at 2017-08-06 22:19
福岡市の平群・地図で読む物語
at 2017-08-05 00:02
大型甕棺墓の時代の木棺墓
at 2017-08-02 21:26
大型甕棺の種類、見分けにくい..
at 2017-08-01 20:01
三種神器発祥の地・吉武高木遺跡
at 2017-07-30 17:36
虚実ないまぜ?古事記と書紀の..
at 2017-07-29 22:00
倭は国のまほろば・倭建命の国..
at 2017-07-27 11:08
長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
at 2017-07-25 15:05
卑弥呼の宮室は吉野ケ里ではない?
at 2017-07-24 14:44
邪馬台国論争・TBSの着地も..
at 2017-07-23 14:29
大国主を追放したのは、何処の..
at 2017-07-22 17:27

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
261大化改新後、大国魂神社は総社となる
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造を命じた首長は誰
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳

画像一覧

以前の記事

2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ