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238米原長者伝説の鞠智城

米原長者伝説鞠智城   
この長者原には昔から焼き米が出ました。伝説の通りの灰も出ました。
鞠智城が始めて文献に登場するのは、698年の「太宰府に菊池城を修繕させた」という記事です。(続日本紀)

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鞠智城は誰が造ったのか、実は不明なのです。ですが、たぶん大野城や基肄城と同じように亡命百済人の指導で作られたのだろうと想像されています。
この八角形の建物は鼓楼と呼ばれています。突然鳴り出したという怪奇な現象が史書に記録されていますが、この八角形建物のことらしいです。(文徳実録)同じく、「三代実録」にも「兵庫の戸が勝手に鳴る」と書かれています。
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鼓楼があるのは長者原という中心の広場です。この一帯を中心に5期にわたって建物が建てられています。
最初の建物群が掘立柱建物です。

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長い建物。倉庫ではない建物は兵庫だそうです。
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大野城も基肄城も見晴らしがいいのですが、菊池城の見晴らしも特別にいいようです。灰塚に登ると雲仙から阿蘇の外輪、福岡の南の山から金峰山・熊野岳、八方ヶ岳、鞍岳、360度全部見えます。
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奥の山は八方ヶ岳。下の池は貯水池跡です。ここからたくさんの遺物が出土しました
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遠くの山並みは阿蘇の外輪山の鞍岳です。其の前の瓦屋根の岡が「長者山」です。
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さて、下の瓦はこの山城の何処で一使われたのでしょうね。
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こんなふうに葺かれていたのでしょうか。
出かけていたので、ブログを休んでました。
また、明日




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by tizudesiru | 2017-03-12 22:12 | 238米原長者伝説の鞠智城 | Comments(0)

237パルメット文様は何処から?

パルメットってなんですか?
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パルメットって、ヤシの葉の文様らしいですね。実は「瓦」でも出て来た文様です。法隆寺の若草伽藍にも使われていました。
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この紋様は何処から入ったのでしょうね。若草伽藍の平瓦が平瓦の初出だそうですから、この紋様が気になるのです。
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これは藤ノ木古墳の馬具の文様です。藤ノ木古墳は若草伽藍のすぐ近くの古墳です。この馬具の文様を瓦職人が知っていたとか、そんなことはないよね。
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同じ馬具でも、古墳によって形も文様の複雑さも違っています。移入の時期が異なるのでしょうね。
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馬具の杏葉です。ハート形(心葉)の杏葉で、ここに使われている文様は?なんでしょうね。牧野古墳と平林古墳の杏葉(ぎょうよう)は似ています。
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こちらも同じ文様のようです。ここも、ハート形の杏葉ですね。平林古墳と牧野古墳は築造時期が近いということでしょうか。
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こちらは技術的に進みましたかね。
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大伽耶系の文物といえば、江田船山古墳(熊本)大谷古墳(和歌山)稲荷山古墳(埼玉)は百済系と云うことですね。
江田船山古墳は副葬品のほとんどが外来品だとか。この時期の古墳でこれほど外来品を副葬する古墳はないということでした。

しかし、パルメットの文様を持つ藤ノ木古墳の馬具は新羅系だそうです。
沖ノ島の馬具も新羅系だそうです。「沖ノ島と大和王朝展」にも、宗像大社の馬具が展示されていました。沖ノ島に奉納されていたものでしょうか?
比べると、藤ノ木の方はパルメットだけではなく幾つもの文様が組み合わさっていますね。
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新羅系の馬具は、藤ノ木古墳(奈良)、将軍山古墳(埼玉)沖ノ島(福岡)綿貫・将軍塚(群馬)などから出土しています。埼玉の将軍山古墳からは馬胄が出土しました。
ここは6世紀後半とかかれていました。
福岡の船原3号墳も馬胄が出土しましたが、ここは6世紀だそうです。
大谷古墳も馬胄が出土しましたが、ここは5世紀後半から6世紀前半の築造古墳だそうです。同じようなものが出土しても、時期は同じではないのですね。

ううう、難しいです。
結局、パルメットが何処を通って若草伽藍の瓦までたどり着いたか、想像することもできませんね。
いろいろ見ただけでした。
また、明日。



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by tizudesiru | 2017-03-08 17:32 | 237パルメットの謎 | Comments(0)

236藤ノ木古墳の築造時期の謎

藤ノ木古墳は本当に6世紀
あ、そうそう一月に藤ノ木古墳に行きました。法隆寺に立ち寄ったついでに行ったのです。そしたら、「沖ノ島と大和朝廷展」に藤ノ木古墳の出土物が展示されていたので、どんな関係かな?と、やや驚きました。
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「沖ノ島と大和朝廷展」に展示されていたのは、どういうわけか金銅製円形金具でした。そこには、6世紀と書かれていました。6世紀、これが定説になったのですね。
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藤ノ木古墳にはたくさんの問題がありました。まず、築造時期とされるのは前方後円墳の時代。が、此処は円墳です冠も大帯も副葬された人物が眠る墳丘なのに。
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そこに副葬されたガラス玉は、オレンジ・黄・グリーンの明るい色が主流。6世紀の日本列島でガラス玉はダークブルーが普通です。しかし、藤ノ木古墳は違います。こんな明るい色の配色は、和歌山県の大谷古墳や韓国の武寧王(ぶねいおう)
など、数例があるのみだそうです。
「玉の世界では、このガラス小玉は古墳時代後半の好みというよりもむしろ正倉院の世界ですね。時代が下がるというのではなく、これは藤ノ木古墳の特異性でしょうね」(森)とい
う意見もあります。聞き過ごすことはできませんね。
6世紀後半の古墳にはありえない状況が揃いすぎているのです。

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(大谷古墳のガラス玉)
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(石棺には朱が塗られていました)
藤ノ木古墳の石棺には二人が埋葬されていたそうです。その二人の身分を証明するような冠と大帯が、二人の足元に折りたたまれて置かれていました。ぞんざいに飾履(しょくり)と棺璧の間に挟みこまれていたとか…
飾履とは、死者が履く金銅製の靴ですが、二足の飾履は片方ずつが壊れていたそうです
冠も大帯も飾履も権威のシンボルですが、それを折りたたみ壊すことは権威の否定という側面があるらしいです。以前読んだ本に、このように書かれていました。

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橿孝研の展示物図録に掲載されている写真をデジカメで撮りました。
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棺内には飾大刀もありました。伊勢神宮の遷宮ごとに作り替えられる玉纏大刀(たままきのたち)によく似ているということです。この大刀の柄の所にサーベルのように三輪玉があります。三輪玉は埴輪にもありますし、岩戸山古墳の石材の大刀にもついていました。
実物が出て世間をおどろかせたのです。この伝統が伊勢神宮に伝わったとは、どういうことでしょうね。

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わたしには冠も大刀も時期は新しいと思えます。

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刳り抜き式の家形石棺です。藤ノ木古墳にはまだまだ多くの謎があります。石棺の中には布も残っていました。その織物の見事さ、スパンコールの新しさは、とても6世紀とは思えないのです。石棺の中の二人の人物は同時に棺内に置かれたらしいです。なぜに、冠を持った人物を同時に? 同じ石棺に埋葬したのでしょうか。
わたしは、これは大きな政変があった証拠ではないかと思うのです。
法隆寺のすぐそばですから、聖徳太子という説もありますが。
それは、どうでしょうね。
また、明日。


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藤ノ木古墳の横にお地蔵さんが祀られていました。ここが昔の村境だったのでしょうか。





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by tizudesiru | 2017-03-07 22:09 | 236藤ノ木古墳は6世紀ですか? | Comments(0)

235 基肄城の水門石組

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235 基肄城の石組み

   そして、瓦のなぞ
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絵地図の現在地と云う所に来ました。*基肄城は福岡・佐賀の両県に属しています。
日本書紀には「天智四年秋八月(665)に、逹率億礼福留(だちそちおくらいふくる)・達率四比福夫(だちそちしひふくぶ)を筑紫国に遣わして、大野及び椽(き)、二城を築かしむ」と記録があります。
達率とは百済の冠位(高官)です。
さて、百済は660年には滅びていましたが、救援を求められた倭国は出兵し大敗したのが663年でした。664年に水城を大宰府に築き、翌年に大野・基肄城を築いたとなっています。
では、百済の高官の指導で作られた石垣を見てみましょう。

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石組みはこの狭い谷に在ります。右は急な崖で間に谷川が流れ、左に石垣があります。
この川は高原(たから)川と云います。高良山神籠石の高良川とも似てますね。

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これは案内板の写真です。修復前でしょうかね? 
数年前に修復されていますので、下が現時点での写真です。
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水門です。人が通り抜けできるほどの広さがあります。この石組みは山側と麓側の間に柵のようになっているのです。山側に入り石組みの裏を見ると、人家があり石垣が組まれていました。
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昔は、谷全体に橋のように石柵があったのでしょうか。分かりません。
裏側(山側)から水門を見ました。大きな底石が見えます。きちんと大石を組んで
作られていました。
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麓側の人影が見えますね。
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山側から水門を見た写真です。小石が多く積まれているのは、人力で運ぶのによい大きさだったからでしょうか。あまり上手な組み方には見えませんね。神籠石の水門や列石はなかなか丈夫にできていますからね。
これを見ると大野城の百間石垣が浮かんできますね。あれは、確か「白村江敗戦後に慌てて作ったので石組みが乱雑になっている」と中学社会科で教わりました。ここも同じく乱雑なのでしょうか。
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ここには米倉もありました。倉庫群と呼ばれるところの礎石群です。郡衙も掘立柱建物だったのに、山城は礎石建ちだったのですね。 むむむ…
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というわけで、小郡市の埋蔵文化センターに展示されている基肄城の瓦の写真に戻ってきました。これを見るたびに、山城に瓦を葺く不思議を思うのです。
大事な役所を飾るのではありません。誰も見ない(?)山城を飾るのです。
山城で鍛冶を行ったという事実もありますし、山城の不思議はまだ続くのでしょうね。

では、大野城の百間石垣もついでに見ましょうか。
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ここにも川が流れています。
では、また
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by tizudesiru | 2017-03-06 11:27 | 235 基肄城の水門石組み | Comments(0)

234 小郡官衙の見学会

小郡の三か所の官衙見学
飛鳥時代の評衙・上岩田遺跡
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遺跡の東北に花立山が見えます。上岩田遺跡の北には宝満山が控えます。

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基壇は仏堂の後です。ここには山田寺系の瓦が葺かれていました。しかし、678年の天武大地震(筑紫大地震)で倒壊し、瓦は近くの井上廃寺に再利用されました。
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井上廃寺は小郡市井上公民館の辺りに在りました。横の小さな坂が「瓦坂」と呼ばれるほど瓦が落ちていた道です。
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井上廃寺はどのくらいの敷地を持っていたか、伽藍配置はどうだったのか、不明です。人家が密集しているので発掘できていません。
この井上廃寺の古いタイプの瓦は、上岩田遺跡のものと同じです。
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次の小郡官衙は、天武地震の後に造営されたようです。発掘の結果、三期に渡る建物群が確認されています。
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ここには瓦の出土はありません。敷地内には溝が彫られていました。長者の泉という湧き水もありました。長く使われていたそうです。
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次に、下高橋官衙跡に行きました。ここは小郡官衙の次の時代の役所跡だそうです。
立て看板がなければ見過ごしてしまいそうです。背後の山は九千部山と基山です。基山に基肄城があります。
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ここにも瓦は出土しません。結局、役所や倉庫には瓦は葺かれていないのです。瓦が葺かれたのは仏堂だけ。7世紀後半には、小郡のこの辺りは財政的に行き詰まり瓦を葺けなかったというのでしょうか。それとも、瓦は仏教に伴うもので、役所は掘立柱のカヤ葺きだったのでしょうか。
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ここには柱の復元もされていませんでした。ただ広い草地の下に遺跡は眠り続けているのでしょう。
それにしても、基肄城の城門には瓦が葺かれていました、7世紀の後半にです。防火のために山城には瓦を葺いたそうです。
明日は、基肄城の水門と瓦を紹介しましょう。
見学会で行きましたから。
埋蔵文化財センターの皆さん、お世話になりました。










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by tizudesiru | 2017-03-05 21:53 | 234小郡官衙見学会 | Comments(0)

233 耳飾のルーツは何処?

233 似ている金製耳飾
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綺麗で繊細な加工ですね。
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よく似てますね。上の写真は「大谷古墳とその遺物」(2000年・和歌山市立博物館出版)の写真をデジカメで撮ったものです。昨年、博物館に行きました。
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これは、「沖ノ島と大和朝廷展」の展示物の図録です。多くの共通点がありますね。
見た感じだけですが。
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では、③を見てください。福岡県の日拝塚古墳の耳飾です。④は奈良県の新沢千塚古墳群126号墳の耳飾です。不思議なことに、④の千塚126号墳は5世紀後半となっています。①②③は6世紀とされています。
新沢千塚古墳群は、群集墳です。
古墳の常識では、群集墳は6世紀とされています。奈良県は時期を前倒しにしているのでしょうか。常に、こんなふうなので素人は不思議に思うのです。
「沖ノ島と大和朝廷展」指輪でも同じことを思いました。
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指輪の加工技術を見ると、①と➁は共通しています。ところが、⑤はリングの先が細くなり技術が向上していますが、こちらが①②より古いことになっています。
③は国宝の指輪で出土は沖ノ島ですが、岩上祭祀ではないので、岩陰祭祀は6世紀半ば以降ですね。岩上祭祀と岩陰祭祀の間には50年以上の空白があるそうです。
その空白に、磐井の乱が関係しているのではないかと、学者の意見があります。
それにしても、新沢千塚126号墳は5世紀となっていて、①②③よりこちらが古いことになります。
日拝塚古墳を見てみましょう。バチ型の前方後円墳で、大谷古墳にもよく似ています。
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大谷古墳を見ましょうか。
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大谷古墳は丘の上に在り、日拝塚は平地に在ります。そこは違うけれど、大谷古墳の家形石棺は、九州の阿蘇溶結凝灰岩だそうです。
九州とは深い関係がありそうですね。
耳飾の形や加工技術を見る限り共通点があると思います。九州から和歌山まで、こぞって朝鮮半島南部から輸入したのでしょうか。
鎧冑などの武具も国産化されているこの時期に、装飾品の金細工が輸入品だったとは思えないのですが、どうでしょうか。すると、九州と和歌山の耳飾りは九州で作られた可能性もあると思うのです。
それも、伝わったのは6世紀!! 
わたしは磐井の乱後に第二波の人の大移動があったと思うのです。
(最初の波は、熊本の狗奴国に敗れた人々の移動です)
熊本と豊前の勢力に敗れた磐井に関わる豪族が、和歌山から近畿に入って行ったと思うのです。もちろん、家財道具だけでなく祖先の霊をともなったと。
それが、クスの木であり、家形石棺文化であり、横穴式石室文化であると思うのです。
(第三の波もあります。白村江敗戦後に亡命百済人と共に人の移動もあったと思います)


墓制を見るとそうしか思えないのです。

また明日





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by tizudesiru | 2017-03-04 21:55 | 233似ている耳飾のはなし | Comments(0)

232岩戸山歴史資料館の新館三年目

岩戸山古墳資料館の新館

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誰が葬られたか認められている6世紀の唯一の古墳だと聞きました。これはスゴイです。
だって、6世紀の始めの古墳ですから同時代の古墳の様式の指標となるからです。
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この別区と呼ばれる場所に石の古墳表飾物が並べられていました。
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筑後国風土記(逸文)にも岩戸山古墳が取り上げられています。

岩戸山古墳の特色は、別区と呼ばれる首長の功績を称える方形の場があることです。そういえば同じような首長の功績を称える埴輪群がありました。NHKで群馬の保渡田(ほどた)八幡塚古墳の埴輪群です。火砕流にそのまま埋められていたので、在りし日のまま出て来ましたね。

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埴輪で「王の公の場」での装束が分かりました。首長が顔に朱(水銀朱)を塗る習慣は、熊本にもあります。そのため生身の体に異常があったことが分かっています。また、九州の古墳・石棺・石室に朱が用いられています。関東と九州の結びつきは深いのです。
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(NHKのテレビをデジカメで写しました)
さて、岩戸山古墳の資料館に戻りましょう。
立山山古墳13号墳の埴輪がありました。

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立山山13号墳からこの人がこの地域の首長であったことが分かります。
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馬に乗る首長であったことも分かります。当然、馬具も出土していますね。
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わたしが何時も気にかけているのは、立山山8号墳の耳飾です。
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この技術は何処で生まれ、何処を通り、何処に広がったか、ということです。出所は、朝鮮半島南部だとか、では百済地域ですか?
「沖ノ島と大和朝廷展」でも、国宝の指輪が展示されていました。明日は、その事を書きましょうね。
岩戸山歴史資料館に出かけませんか。
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by tizudesiru | 2017-03-03 12:05 | 232岩戸山古墳の歴史資料館 | Comments(0)

231雷山神籠石は国家的事業だった

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(雷山神籠石には最近行ってませんので2013年の写真です。)

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雷山仙如寺残る伝承
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雷山は曽曽伎山と呼ばれていました。千如寺の敷地内には不思議な伝承が数多くあり、仏像も見事でなかなか面白いお寺です。
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千如寺は桜と黄葉の名所でもあります。


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明治になってたくさんの寺が閉じられ、人々は山を下りました。千如寺とはそういった「たくさんの寺」という意味を持つ名称なのだそうです。政治が代わるとは、そういうことなのですね。誰かが住むところを失うという。
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福岡市の博物館の掛け軸を見ると、神仏習合の時代は山全体に寺が建ち人々の心の拠り所となっていたようです。

雷山神籠石は千如寺から更に山手に登ったところです。途中に雷神社があります。

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杉の大木も黙して何も語りません。
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雷山神籠石は昭和七年には史跡名勝天然記念物として保存されていたのです。
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水門には切り欠き加工も見られます。
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何キロにもわたってこのような切り石を並べるような仕事を一豪族がやれるでしょうか。
それも九州だけではないのです。しかし、九州には神籠石が集中します。
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神籠石の築造は国を挙げての大事業だったと、思うのです。
「瓦の話」の中で、神籠石にも少し触れました。
また明日





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by tizudesiru | 2017-03-01 11:17 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Comments(0)

229 残された上岩田遺跡

229 天武地震(678)で倒壊した上岩田遺跡
上岩田遺跡のある小郡市一帯は弥生遺跡が集中している所でもあります。古代にもここは交通の要衝として、工業製品の供給地として、物流の拠点として栄えていたのです。
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赤いラインは古代の官道です。この地域には三段階の官衙があります。
①上岩田遺跡→ ②小郡官衙遺跡→ ③下高橋官衙遺跡 と役所が移動しています。
①上岩田遺跡は飛鳥時代の評衙の址とされています。

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少し遡って弥生時代を見てみましょう。
上の写真は、弥生時代の銅戈(どうか)と石製武器です。下の画像は広形銅矛の鋳型です。この辺りで生産していたのです。

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下の画像のえらく錆びていますが鉄剣でしょうか。方格規矩鳥文鏡もあります。
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弥生の半ばに大型甕棺文化が急に消滅します。ほぼ一斉に消滅しました。政治的な変化があったのでしょうね。
その後、古墳に馬具が副葬されるようになります。小郡の埋蔵文化財センターの展示はそうなっています。これらの展示物は、上岩田の役所の出入りした人々の先祖なのでしょうか。

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そして、上岩田評衙の時代に近づくのですが、すぐに役所が作られたのではないそうです。
①豪族の館の敷地内に役所があった
➁役所と仏堂が同じ敷地内に置かれた
③役所と仏堂は切り離された
上岩田遺跡は➁の段階になり、小郡官衙遺跡は③の段階だそうです。

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仏堂の基壇ですが、天武地震(678)で大きな亀裂が入っています。修理不可能だったのでしょう。
瓦は井上廃寺に再利用されました。
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山田寺の系統の軒先瓦です。
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軒先瓦も垂木先瓦も鬼瓦も同じ様式の文様で飾られるのが自然だと思います。
沢山の墨書土器も出土しています。
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天武地震の後、小郡官衙に役所が移転したのです。この時、仏堂は有りません。役所と寺が分離したのです。七堂伽藍の寺が建つのは後の時代ということです。
ということは、仏教が入って来た時の姿は、上岩田遺跡で探れるのではないでしょうか。
それも、役所に仏堂ですから、公が仏教を取り入れていたということですね。
公(国)が民の心を仏教によって教化しようとしたのですね。
納得しました。





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by tizudesiru | 2017-03-01 00:55 | 229 残された上岩田遺跡 | Comments(0)


地図で分かる生活と歴史


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1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
100日知王の山々
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
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243 柿本人麻呂と玉津島

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