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228 古代山城の瓦

228 公開セミナーで伝えたかったこと

2月25,26日、久留米大学比較文化研究所主催の公開セミナーに参加させていただきました。
そこで伝えたかったことは、古代瓦が九州で発掘されていること、そこは寺院ではなく山城であること、瓦伝来ルートは畿内経由と考えなくていいのではないかということです。

まず、 古代山城の瓦何処から来たのか??

朝鮮式古代山城は、天智天皇四年(665)に築造されたという。その古代山城に瓦が出土します。七世紀の山城に瓦です。仏教文化と共に我が国にもたらされたという瓦。寺院の屋根を荘厳した瓦が、寺ではなく山城に葺かれた? 驚きますよね。それも7世紀後半です。
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わが国最初の寺と言われる飛鳥寺(元興寺)ですが、ここに葺かれた単弁蓮華文軒丸瓦とは違う文様の瓦が山城から出土しました。新羅系という鎬(しのぎ)を持つ瓦と、花弁の先が反転するかえり弁を持つ百済系と云われる瓦。
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この古瓦が福岡県の大野城から出土しました。この写真は、九州歴史資料館の特別展「四王寺山の1350年」からデジカメで撮っています。となりは、昨年の「山城シンポジウム」で発表された九州歴史資料館の報告の図をデジカメで撮ったものです。

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では、飛鳥寺の瓦を見直してみましょう。花組・星組と呼ばれる瓦です。
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飛鳥寺の瓦は、山城の瓦とは文様が違いますね。大野城の瓦は、どのルートで福岡に入って来たものでしょうね?
そもそも山城に瓦とは不思議です。その事を、発表者に聞いてみました。
「なんのために山城に瓦を葺いたのでしょうか?」
「防火です」

では、防火のために、文様のある軒先瓦を葺いたのですね。
防火なら丸瓦だけでいいと思うのですが。
瓦の文様にこだわるのは、時代によって瓦当文様が変わっていくからです。

その事は、時間の流れだけではなく文化の伝播や政治の動向も教えてくれると思うからです。
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隋書によれば、7世紀初頭、阿毎多利思比弧が仏教を受け入れていたことが分かります。
おや、国家が受け入れていたのですか
確か、明日香では氏族が受け入れて氏族が寺を建てていました。
国家ではありません。それとも、蘇我氏が大王だったのでしょうか?

隋書では、国家の組織ができ上がり、80戸ごとに伊尼翼(いなぎ)を置き、10の伊尼翼は一つの軍尼(くに)に属しているというのです。
人々は税を取り立てられる体制に組み込まれているのです。
仏教は人々に浸透し人々が信仰したとも書かれています。
大化改新などしなくていいほど、国家の体制ができていたのです。

そして、その国には阿蘇山がありました。
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これは、熊本地震の十日前の阿蘇です。阿蘇山と云えば、この山しかありません。隋書に詳しい「阿蘇山」表記も発音も、九州の阿蘇山ですね。
 
素直に隋書を読むと、九州にも天子がいて隋と交流していた。日本書紀を素直に読むと、近畿にも大王がいて隋と交流していた。

別々に交流していてもいいんじゃないの!! と、なるのです。
九州のタリシヒコ側は隋に絶縁されますが、近畿王権は交流が続きましたから。

瓦の話はまだまだ続きます。
画像の①②などの番号は、セミナーでお配りした文章に対応するので消さずに残しました。
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by tizudesiru | 2017-02-26 23:05 | 228古代山城の瓦 | Comments(12)

227 大野城から神山を遥拝した

227 弥生の日知王であった(須玖岡本の王達)は大城山から

真東の宝満山
神山として

遥拝した

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大城山とは大野城のことです。朝鮮式古代山城と呼ばれる山城があることで知られています。
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では、九州の古代山城のうち基肄城・鞠智城・大野城の位地を見てみましょう。北から、大野城・基肄城・鞠智城です。
白いポイントです。赤は須玖岡本遺跡。青は三雲南遺跡(伊都国)です。
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鞠智城はえらく離れていますね。それも、山の中です。有明海を攻める敵にこの山奥で対処したのでしょうか。見晴らしもよくないと思いますけどねえ。のろしなどの伝達手段があったのでしょうか。
今日は、大野城でしたね。

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「天智三年(663)に水城を築き、翌年(664)に百済の亡命貴族億礼福留、四比福夫に命じて大野城と基肄城を築かせた」と正史に書かれています。白村江で大敗した後の九州の遺族たちが必死になって山城を築いたとしても、人手は足りなかったでしょうね。
女性も子供も働いたとして、どのくらいかかったのでしょう。


そして、大野城の説明板に気になることが書かれていますね。「四王寺山の名前は、宝亀5年(774)仏教の力で新羅を降伏させようとして、大野城内に四天王を祀る寺を建てたことに由来」しているとあります。
古代の戦争は呪力戦でもあったのです。
新羅が日本を呪詛しているから、こちらも負けないように呪詛してやろうというのです。

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尾花地区は、焼米ヶ原と呼ばれています。礎石群もあります。
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礎石群が一番多いのは、主城原地区です。
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主城原とはよく言ったものですね。ここに、中心の倉庫(?)群があったのでしょうか。
古代瓦は、主城原地区、クロガネ門跡、原八坊などから出土しています。

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こんな大野城は、弥生時代には遥拝所だったと思います。「大城山に在った山城で神武天皇が神祭りをしていた」との伝承が王城(おうぎ)神社に残されています。王城神社は、大城山(大野山)の山頂から麓の太宰府に移された神社です。
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東から、宝満山、大城山(大野城)、須玖岡本遺跡、吉武高木遺跡、飯盛山、三雲南王墓、一貴山銚子塚古墳。
このラインは福岡の弥生王墓と言われる三か所を貫き、糸島(伊都国)で最大の柄鏡形前方後円墳(3世紀後半~4世紀初め)まで一直線なのです。
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須玖岡本の熊野神社の辺りは、偶然にも山の山頂と山頂を結ぶラインが交叉します。
それも夏至の日の出のラインと、冬至の日の出のラインもちろん春分秋分のラインが、宝満山と飯盛山を結ぶ直線です。ここに存在した首長は、ここから見える日の出の山をヒジリ(日知り)の山としたと思います。
この話は、至る所でしましたから、ご存知の方もおられるでしょうか。

大城山がもともと神祭りの場であったので、大野城に新羅を呪詛する役目が回って来たのでしょうか。
また明日





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by tizudesiru | 2017-02-24 22:22 | 227 古代山城・大野城 | Comments(0)

226 基肄城の不思議

226 基肄城の不思議
さすがに古代山城、当たりがすっかり見渡せます。
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西には、脊振山(奥)と九千部山(左)
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北には福岡市と博多湾、北北東に筑紫野町(市)と宝満山、北東に三笠山と大根地山、ちょっと待って!
三笠山って、現在の宮地岳ですか? 宮地岳神籠石(阿志岐古代山城)がある、宮地岳となっています。この時、友人が嬉しそうに指摘してくれたのよね。
この方位台が作られた時は、宮地岳は三笠山だったのね。
じゃあ、神功皇后伝説の「皇后の御笠が突風に吹き飛ばされた」ので名付けられた山は、宮地岳だというの? なーあんて。
貝原益軒の紹介では、宮地岳は「天の香久山」って書かれていた記憶があるけど…
なんてこと、基山で話したなあ。今、又思い出しちゃったね。

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白村江敗戦後に築造されたと、日本書紀に書かれています。すると。「こんなところに立て籠もってどうするん?武器も食料のいるだろうし」と、疑問の声が。ふむふむ、のろし台としてなら役立つかも知れないけど、古代の戦争には山城は使われてないという発表もあったけど、確かに、夜討ち朝駆け奇襲・交通路の封鎖だよねえ。
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南北に廻っている土塁遷外側は急崖
内側は車路と称する平坦地が続いて
門跡は、北側の北御門門跡、東北の萩原口文跡、仏谷門跡の三か所
この城跡には、二十数か所の礎石群があり、古瓦が出土している。
この中には城山関係のものも含まれていると推定され *
城山(きやま)とは、基山のこと

と、読み取れます。そうなんです。山城に瓦ぶきというんです。
「誰も見ない山奥の山城に瓦を葺く理由はなんでしょうか?」
昨年の山城シンポでわたしは質問しました。答は「防火のため」でした。
はあ、防火なら瓦当文様のある手間のかかる装飾瓦はいりませんよね。と思ったのです。
それにしても、基肄城は不思議です。大野城は大宰府の官人がいざという時逃げ込むための 城だと聞きました。基肄城にも逃げ込む人がいるのでしょうか。大野城・菊池城は人里が近いのですが、ここはどうなんでしょうね。
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また明日


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by tizudesiru | 2017-02-23 21:57 | 226古代山城・基肄城 | Comments(0)

225 鞠智城の八角形鼓楼

225 鞠智八角形鼓楼
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八角形の鼓楼と言われています。構造上からも人が住むところではありません。ここは熊本県の鞠智城です。
八角形建物と言えば、難波の宮がすぐ浮かびます。

大阪の博物館から大阪城と難波宮が見えます。
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難波宮の朝堂院と内裏の境目に東西に八角形の建物が置かれています。使用目的は何だったのでしょうね。
前期難波宮で孝徳天皇は崩御されましたね。
その後、内裏には誰が住んでいたのでしょうね。わたしは孝徳天皇から玉璽を預かった中皇命(間人皇后)が住んでいたと思います。
その宮殿の内裏への入口の八角形の建物は見事だったでしょうね。
難波の人々はその素晴らしさをほめたたえたことでしょう。
それにしても、鞠智城は山城です。山の中の山城です。(私は菊池で育ったので、そう思うのです)そこに太鼓をたたく八角形の建物が必要だったのでしょうか。誰が見てくれるのでしょうか。そこに住んでる少数の人が見て満足したのでしょうか。
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山城を装飾する理由は何だろうと思うのです。高貴な方がおられたのでしょうか?
難波宮のような宮殿なら私も納得するのですが。
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木が茂っている所が建物跡。異様なほど大きな八角形の建物だったそうです。
また明日。









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by tizudesiru | 2017-02-23 01:04 | 225 古代山城・鞠智城 | Comments(0)

224百済観音は樟の一木彫なのに

224未だに出自が分からない百済観音?!

修学旅行のガイドさんが、中学生に説明していました。そういうことですか! 分からないでいいのでしょうか?

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(画像はNHKテレビ)
先月、法隆寺に行った時のことです。冬の一月半ばの就学旅行一行に法隆寺で会いました。中学生だと思うのですが、西院伽藍と宝物殿を見ていました。東院伽藍(夢殿)には来ませんでした。今どきの子どもはお寺巡りには興味がないのですね。
宝物館でガイドさんの説明が聞こえました。「この百済観音は、日本で作られたのか、百済
で作られたのか、今の時代になっても分からないそうです。」思わず振りかえりました。
何度も言ったと思いますが、百済観音はクスノキの一木彫です。楠は南の木で、福岡県の立花山が北限です。九州より北には自生地はないのです。韓国では済州島でさえ大木に育つことはできません。飛鳥仏は九州で作られたとしか考えられません。法隆寺の四天王像もクスノキです。
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(国博の展覧会の図録)
分からないとは都合のいい言葉ですが、下々には分からなくてもいいのでしょうか。
中学生に樟の自生地の話をしたらどう思うでしょうね。仏教が最初に伝わった地域は九州かも知れない。そこで、ご神木の樟をつかって仏像が作られた等々、考えるのではないでしょうか。
では、九州の古代寺院は何処にあったのでしょうね。

そうそう、昨年の秋に和歌山に行きました。その時、クスの大木の根を見ました。
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それから藤白神社でもクスを見ました。
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ここの樟は「子守樟神社」の神木で楠神さんと呼ばれたそうです。むかし飢饉で村が困った時、氏子が相談して樟を伐り救済資金にしたそうです。切株から四本が発芽しうち三本が今に至るということです。昭和の初めまでその切り株が見られたとか。
楠は虫よけの樟脳の材料でした。切株はいい香りがします。将に樟神だったでしょうね。
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和歌山には、九州と同じように樟がご神木の神社があります。それは、和歌山に九州からの移入者
が多くいたことの証でしょうか。そういえば、あの有名な紀伊川沿いの大谷古墳の家形石棺は、組み合わせ式で材料は阿蘇溶結凝灰岩で造られていました。やはり!!
余分なことまで思い出しました。百済観音の話でしたね。
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法隆寺の東院伽藍の仏は、百済観音・救世観音と、どちらも観世音菩薩ですね。飛鳥寺は「丈六の大仏」です。おや?と思いませんか。飛鳥と斑鳩では仏の姿が違います。ほっとけませんネ。

そして、救世観音のお顔、人間ぽいですね。神々しいというより威厳に満ちた権力者の顔ですね…
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また明日





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by tizudesiru | 2017-02-21 11:37 | 224樟が語る古代 | Comments(2)

223古代山城シンポジウム

223 ほんとに変わりました!

古代山城シンポ!

2017年2月18日~19日の九州国立博物館と熊本県境域委員会の合同シンポジウム、ほんとに変わりました。今まで、まともに取り挙げられて来なかった神籠石について論議されていました。

それも、王権側の公的な遺構だとして。
驚き桃の木!!!でした。あれほど言及を避けて来た神籠石が、一転ヤマト王権側の山城だった!!??
驚きませんか?

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昨年も、熊本のパレアホールでこのシンポジウムはありました。発表者が若い研究者だったので非常に面白かったです。それで、今年も参加しました。今回も若い研究者の発表で内容的にもすごく面白かったですね。ただ、急に神籠石を論議に入れた経過は何も語られませんでした。
むしろ神籠石という呼び名を早く無くさねばならない、古代山城として「ひとくくり」にすべきだという言葉が飛び交いました。
神籠石・古代山城については、わたしも何度もブログに取り上げ、自著「太宰府・宝満・沖ノ島」でも自分なりの考えを紹介しています。
しかし、ヤマト王権側の遺構だということは書いていません。思ってもいないからです。
朝鮮式山城の前身として、同じ地に山城が造営されていた可能性は指摘しています。そこに、後にヤマト王権側が朝鮮式山城を築いたのだと。
そこは、もともと九州の権力者の山城として築造されていた可能性があると。

昨日は撮影可能でしたので、デジカメ写真を使いながら内容を少し紹介しましょう。

今回のシンポジウムは「徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生」という表題でした。
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正史に出てこない神籠石は〇で、朝鮮式山城は■でポイントされています。これは、斉明天皇の橘廣庭宮は大宰府にあったという説を出された研究者の基調講演での画像です。
大野城の太宰府口城門址から出土した木柱の年輪年代についての確認がありました。わたしも自著に書きましたが、既に多くの人が650年ごろの伐採の木(コウヤマキ)であることは知っています。水城の築造年代(665年)と15年のズレがありました。しかし、切った後に他の部材として使われていた可能性、伐採後に乾燥のために数年ねかされていた可能性も否定できません。
しかし、木柱には他の部材としての加工跡が見られなかったこと、コウヤマキは木の特色として伐採後にすぐ使える材だそうで、乾燥時間を取る必要はいらない、ということでした。では、大野城築造のために伐採した木材と云うことですね。
また、このコウヤマキの年輪は近畿地方の気候の変動にぴったり重なるそうです。もしかして、近畿から運ばれた木材ではないかということでした。はあ? では、いかなる理由でわざわざ城門の木材を運んだのでしょうね。
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(版築で水城を築いている想像図です。)
同じ研究者から次のような指摘があります。「昨年、筑紫野市の前畑遺跡が羅城の土塁ではないかという見方がだされた。羅城とは都城の外城である。仮にその羅城が大宰府地域に囲繞されていたとすると、水城から大野城・基肄城などを取り込んだ都城の構想が664年段階ですでに実現されていたことになる。そのようなマスタープランはいつ構想されたことになるのだろうか。また、羅城で守護される主体はどのような人たちであったのかという興味がますます湧いて来る。」 全く納得の御指摘です。続いて、次のように書かれています。
大宰府は百済の泗沘東羅城の敷葉工法が水城土塁の工法にも共通することからも、強い関連性が指摘される。一方で、新羅の王都である慶州にもその山城の配置など類似点を指摘でき、羅城は設けられていないことを以前に指摘した。今後も構想だけではなく明瞭な羅城遺構の存在によって議論は深めなければならないと思う」
大変面白いですね。王都とはその国の首長が住む宮殿がある場所です。首長は畿内にいたのに、王都は九州なのですか? 理解しかねますけど、面白いですね。
この話は、基調講演なのです。このシンポジウムはいろいろな意味で大変素晴らしかったです。

ご希望があれば、山城シンポ、また書きましょうね。



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by tizudesiru | 2017-02-20 11:30 | 223古代山城シンポジウム | Comments(0)

222 「沖ノ島と大和朝廷」に行きました

222 沖ノ島と大和朝廷展驚きました
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まず、船の埴輪が展示されていました。どこかで見たと思ったら、大阪・高廻り2号墳出土(5世紀前半)の舟形埴輪にそっくり。
[この岡古墳の舟形埴輪は4世紀になっている。船のそこに大木を刳り抜いた一枚板が取り付けてあるようだ。外洋に出れば、波のうねりで鉄釘を打った程度の船底ではバラバラになってしまう。船の両端は立ち上がり波除になっている。この船より、5世紀末の宮崎・西都原古墳170号出土の舟形埴輪の方が未熟だという。?] 
外海で命を守る大事な船の技術は、伝わらないものですかね? それとも、どちらかの年代が判定ミスなのでしょうか。
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おや、これも船ですが、奈良・寺口和田1号墳(5世紀)出土の小型船。準構造船だとか。
「沖ノ島と大和朝廷展」だから海に関する「船」なのでしょうが、九州の船は展示がありませんですね。そういえば、九州の博物館に行っても船の埴輪は印象に残っていませんね。船は日常使うもので特別ではなかったのでしょうか。
すると、古墳に入った船は特別の使用目的があったということですね。
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三重・宝塚1号墳の船です。レプリカが展示されていました。明らかにこの船の役割は、大刀に守られ、蓋(きぬがさ)で権威付けられた「石見型(いわみがた)表飾品」(木製品)を運ぶことのようです。石見形木製品と云われる表飾は、古墳に建てられるものです。九州では木製品もありますが、熊本などで大型の石人石馬のような石製装飾品として、蓋や靭や太刀などがあります。その中に岩見形表飾があるのです。
どれも墓制に関わるものでしょうか。それを船で運ぶなら、目的は限られますね。先祖の霊魂を運ぶための道具です。船に乗せて別の土地に祖霊を運んだのでしょう。祖先霊の依代としての木製品です。わたしには、それ以外に考えられません。
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船の次は人物埴輪でした。奈良・岩見遺跡からの出土です。豪族と紹介されていますが、この人物が腰かけている椅子は、直弧文が描かれています。石人山古墳の家形石棺は、蓋の屋根部に直弧文が描かれています。
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この人物はただの豪族なのでしょうか。
この展覧会は、中に入ってすぐにスタートからこんがらかってしまいました。最初の展示がこれらでしたから。
色々考えさせられましたので、ちょっと紹介しました。
また明日







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by tizudesiru | 2017-02-19 00:59 | Comments(0)

221 不思議と謎の寺・法隆寺

221 法隆寺は不思議だらけ

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奥の門前の右手に、若草伽藍址への出入り口があります。いつもは閉ざされていて、のぞき見すらできません。天智九年(670)に焼失した法隆寺
が、
若草伽藍(斑鳩寺)だったとされています。若草伽藍は燃えたのに、仏たちは無傷でした。先に西院伽藍に移されていたのです。まるで焼失が予測されたかのようです。では、誰が仏を遷したのか?
過去のNHKの放送では、天智天皇の時代と年輪年代測定で出たということでした。
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法隆寺の塔と金堂は東西に並んでいます。法起寺とは並びが逆で、塔が西、金堂が東です。塔と金堂を回廊が取り囲み、回廊が講堂に取り付いています。
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講堂の仏たちは、真実を知っているのに違いありません。しかし、仏にくちなし…です。

では、若草伽藍の瓦を見ましょう。写真は、森郁夫「一瓦一説」から。デジカメで撮影。
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パルメット文様です。手彫り忍冬紋軒平瓦。飛鳥寺や豊浦寺などでは、軒平瓦は使われてないそうです。百済にはパルメット文様はありません

この時点で、初めて軒平瓦が作られたとされています。それが現在の定説だそうです。わたしは、ある瓦研究者に質問してみました。
「軒平瓦は我が国で考案されたもので、百済には出土しないと書かれたものを詠みましたが、そうなのでしょうか」
その研究者は答えられました。軒平瓦は新羅にも出ると
そうなんですね。百済だけを見ては分かりませんよね。

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これは、金堂の軒丸瓦です。古代寺院では金堂が最初に建てられた
そうですから、塔の瓦より金堂の瓦の方が古いのです。おや、これはどこかで見た文様です。飛鳥寺にもありました。
若草伽藍の星組と同范の軒丸瓦は、瓦当范を使って粘土にスタンプするように作られています。あきらかに軒平瓦とは工法が違いますね。
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塔の瓦は、スタンプを交互に忍ながら作っているそうです。
同様な瓦は、斑鳩宮跡(夢殿がある辺りの東院伽藍)や、中宮寺跡(現在地から法輪寺や法起寺の近くに400mほど離れた場所)からも出土します。
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若草伽藍と飛鳥寺の星組と云われる文様の瓦が同范だそうです。では、同じ時期ですか?
しかし、瓦研究者はおっしゃいました。瓦当の范は長くて40年近く繰り返し使われるものだそうです。だから、「瓦当范の傷を見ながら時期を判断するのだが、時間を特定するのはなかなか難しい」と。瓦の中丸を「中坊」と言いますが、そこの「連子」(小粒の点)は、数が少ないほど古い瓦のようです。

この星組系の軒丸瓦は、福岡の上岩田遺跡でも出土していますが、一点だけの出土なので創建瓦と認めることはできないということでした。では、何故似たものが出土したのでしょう。
工房がつながっていた。同じ文化圏にあった。他にも様々なことを教えてくれますね。
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斑鳩は魅力的な土地です。
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また明日
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by tizudesiru | 2017-02-17 15:55 | 221斑鳩寺は若草伽藍 | Comments(0)

220 斑鳩の法輪寺の瓦

220 斑鳩の法輪寺の瓦
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始めて法輪寺に行った時、塔はまだ再建されていませんでした。材料になる木材を調達していると聞きました。あれから何十年!? 見事に三重の塔は再建されていました。近くに来ても此処には寄らなかったのです。今思うと残念ですね。静かな冬の境内に美しい塔が立っていました。
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幸田露伴の娘の幸田あや氏が奈良に住んでこの塔の再建に尽力したという話は有名ですね。
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法輪寺は、法隆寺のように塔と伽藍が東西に並んでいます。
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斑鳩町三井にある法輪寺は、実に不思議な寺です。聖徳太子の息子の山背大兄王と、その子の由義王(ゆぎおう)が建立したとされるのに、太子建立七寺に含まれず、太子建立伝承寺がどんどん増える中世にも太子建立四十六院にも名前が無いのです
斑鳩四寺に入り斑鳩三塔(法隆寺・法起寺・法輪寺)があり、世間に知れ渡っている太子所縁の寺なのにです。
塔基壇の発掘に寄れば、塔心礎は地下式で掘り込み地業により版築が施されています。地下式心礎は古いタイプの塔の工法です。
その版築土から「単弁蓮華文軒丸瓦」と「重弧文軒平瓦」が出土しています。
山田寺のように蓮華文の中に子葉は有りません。連子(中心の小さな点)は、1+8です。これは、七世紀前半の様式と言います。
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(上野瓦の写真は、森郁夫「一瓦一説」の写真をデジカメで撮りました)
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再建瓦にはどのデザインが使われたのでしょうね。
法輪寺は山背大兄王の邸宅だったとか、その広い敷地の一部が寺になっているのです。門の前の低い山に山背大兄王の墓があるという伝承もあります。しかし、そこには埴輪の欠片が出土するとかで、六世紀くらいの円墳らしく山背大兄王の時代と合致しないということでした。
非業の最後を遂げた王の一家が邸宅の前の山に葬られるのは納得です。遠くよりは、まず近くに埋葬し、時を経て改葬することはあるとは思います。暗殺された崇峻天皇もその日のうちに埋葬されています。
近くの古墓を利用した? のかも知れませんよね。それは、余りに失礼でしょうか。
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法輪寺は黙して語りませんが、この小さな丘を見守り続けてきたのでしょうか。伝承という深い悲しみを持って。
また明日
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by tizudesiru | 2017-02-17 01:03 | 220斑鳩の法輪寺の瓦 | Comments(0)

219 法起寺式の伽藍

219法起寺式伽藍は塔が東
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法起寺に行きました。日本で一番古いという三重塔があります。斑鳩のパンフレットにもそう書かれています。法隆寺から近いので自転車で行きました。
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なかなか美しいロケーションです。

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塔は古を留めていますが、金堂は今は有りません。金堂の跡が石で囲まれたところです。
わたしは今まで法起寺を「ほっきじ」と呼んでいましたが、最近世界遺産に登録される時、「ほっきじ」から「ほうきじ」へと読みを変えたそうです。法隆寺の法にあわせて「ほう」と読むことにしたのだそうです。ほう、そうなんか…です。
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美しい三重の塔です。法隆寺の五重塔の一層目・三層目・五層目と、この塔の三層はほぼ同じだとか。やはり、法隆寺と深い関係にあるのでしょうね。
この寺は、斑鳩町岡本にあるので、岡本寺と呼ばれたり、池尻寺と呼ばれたりしました。
上宮王家ゆかりの寺で山背大兄王が亡くなったので、完成まで工事がはかどらず長期に渡りました。
「法起寺塔露盤銘文」(永保元年・1081年に書き写されたものが「聖徳太子私記」に転写されているのですが、露盤そのものが失われ、銘文そのものも疑われている状況です)
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上の瓦の写真は「一瓦一説」(森郁夫著)からデジカメで写したものです。
軒瓦もきわめて少なく、「重弧文軒平瓦」が見つかっていますが、これは斑鳩ではごく限られた使われ方をしているとのことです。この瓦、山田寺式の重弧文の平瓦から考えると、法起寺は七世紀半ばから七世紀後半の寺院だと考えられるそうです。
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また明日
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by tizudesiru | 2017-02-16 00:39 | 219法起寺式伽藍 | Comments(0)


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