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206松浦川のほとりを歩く

206唐津で黒曜石と桜貝を拾う
唐津に行くと、必ず松浦川のほとりを歩いていました。そして、虹の松原のレストランで食事をする…松の香りが素晴らしい松原ですよ。
今は護岸工事をやってしまってるので、なかなか拾えませんが、十数年も前には、松浦川の岸辺で黒曜石の欠片をいろいろ拾えました。スクレイパーも、石鏃も落ちていました。土手が雨にあらわれて、ガラスのようにぽつぽつ地表に落ちていたのです。
海岸では紅色の蝶貝と、薄いピンクの忘れ貝を拾いましたね。今も小瓶に詰めていますが…
さて、松浦川のほとりに三世紀後半の古墳があります。最近は、四世紀初めと書き換えてありますが。確かに、四世紀初めとされる一貴山銚子塚(糸島市)より古いタイプの前方後円墳です。だから、三世紀後半でも構わないと思うのですが。
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何度も紹介していますが、久里双水古墳のど真ん中を通る主軸線が真っ直ぐ延びると、浮嶽に届き一貴山銚子塚に届き、志賀島と向き合う毘沙門山に届きます。
二〇〇七年に取った久里双水古墳の墳頂から浮嶽を取った写真です。古墳の主軸線がまっすぐ浮嶽に延びていたので驚きました。

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ここには、後漢の盤龍鏡が副葬されていました。
この古墳は、全長108m(後円部62m)の地山を削り出した上に盛り土をしています。竪穴式の石槨に舟形木棺があった可能性があるそうです。
周りには縄文時代からの遺跡や、弥生王墓と思われる遺跡があり、唐津の菜畑遺跡には早期の水田跡が発見されています。
糸島地方の一貴山銚子塚(いきさんちょうしつか)古墳には、後漢鏡と金メッキの後漢鏡と足元に三角縁神獣鏡・鉄製素環頭大刀(3)、直刀(3)、短刀(1)、剣形槍身(14)硬玉製勾玉(2)碧玉製管玉(33)が副葬されていましたから、久里双水古墳よりは新しいでしょうね。一貴山銚子塚古墳は103mの柄鏡形の前方後円墳です。一貴山は未盗掘の古墳でしたから、竪穴式石室の中にどのような副葬品がどのように置かれたかを知る手がかりとなりました。

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その浮嶽から志賀島の志賀海神社にオレンジのラインがつながっています。このラインには、一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳が乗っています。このラインは、釜塚古墳のど真ん中を通って行きます。そして、延喜式内社の9志賀海神社に当たります。
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一貴山はラインが集まる最重要古墳ですが。
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今日は一貴山には行きませんでした。
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参拝したのは、湊疫神社です。
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神集島(かしわじま)に渡る港にある神社です。
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肥前鳥居がありました。
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次に田島神社に行きました。宗像三女神と大山祇と稚武王を祀ります。
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神社の裏には磐座があります。
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この田島神社が宗像市の田島にある宗像大社の元宮だという話も聞きました。
なかなかおもしろいですね。
神の集まる神集島も、そこにわたる港もある。
なるほどですね。



今日は、少し息抜きでした。
また明日





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by tizudesiru | 2017-01-29 21:07 | 206古墳散歩・唐津湾 | Comments(0)

205藤原宮の御井を寿ぐ歌

205広い敷地で繰り広げられたまつりごと
藤原宮跡に行きました。朝堂院東門の柱の奥に耳成山が見えます。わずかに見える林は大極殿です。車両があるのは、整備しているのです。
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この宮殿の造営に尽力したのは高市皇子です。
天武天皇と宗像徳善の娘・尼子娘の間に生まれた第一子です。
壬申の乱(672)後、天武天皇は皇親政治を望みましたから、高市皇子は大活躍でした。
持統帝の時代には高市皇子は太政大臣にまで上り詰めています。
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遠くに西門が見えます。
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こちらは東門です。
右を向いても左を見ても、ただ広い空き地です。
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北の耳成山。そして、南に南門が見えます。
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一番広くて便利な場所に藤原宮を造ったということでしょうね。
万葉集に「藤原宮御井歌」が掲載されています。作者はわかりません。

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この歌に詠まれている「日の経(たて)」は「東」ですが、本来「日の経」は東西として使われています。「日の緯(よこ)」は南北のことですが、ここでは「西」として使われています。
藤原の宮は、東西南北守られている。東は香久山、西は畝傍、南は吉野、北は耳成山。そこに湧く真清水は永遠にあるだろうと、歌い上げているのです。







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by tizudesiru | 2017-01-28 00:12 | 205藤原宮の御井の歌 | Comments(0)

204吉備真備の挫折と王朝の交替

204吉備真備の挫折と王朝の交替
真備の目の前で王朝交代劇がありました。真備はそれをどう見たのでしょう

波乱万丈の81年の生涯を送ったのは、吉備真備(695~776)です。

優秀な人材であり、孝謙天皇の教育係でしたが、これまでも紹介したように不遇でした。

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藤原氏によって九州に遣わされて、怡土城を築いたのは天平勝宝八年(756)で、真備は六十歳を超えていました。

天平宝字八年(764)、久しぶりに造東大寺長官として都に戻りました。

この年に、恵美押勝の乱が起こります。

孝謙上皇は真備を頼り、従三位を授け中衛大将として追討軍を指揮させました。

その後、真備は参議・中納言・大納言・右大臣と昇進したのです。

しかし、称徳天皇(孝謙上皇)崩御後、藤原氏の陰謀により白壁王が立太子されました。

真備は長屋王の血統(天武天皇系)の皇太子を立てることができませんでした。

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白壁王の妃が、聖武天皇の第一子である井上内親王でした。

伊勢斎王・酒浸り皇族の妻から皇后、廃后、幽閉の末に毒殺

井上(いがみ)井上(いのえ))内親王の生涯は、まことにお気の毒。内親王に産まれながら幼い時から権力争いの犠牲となり、寂しい思いをしなかった時はほんのわずかという、聖武天皇の第一皇女です。母は犬養(いぬかい)(ひろ)()()した

広刀自は井上内親王の他に、不破(ふわ)内親王と安積(あさか)親王を聖武天皇との間に儲けました。

広刀自に遅れて一年後に、光明子(安宿(あすかべ)媛)も阿倍内親王(孝謙天皇)を聖武天皇の第二子として出産しています。


井上内親王はわずか五歳で伊勢斎王とされました。五歳から家族と離れて潔斎しなければなりませんでした。実際に伊勢に下ったのは、十一歳になってのからでした。伊勢に赴き神祭りに奉仕するのです。

六年間も都の郊外で斎王となるための精進潔斎を続けるのは大変なことだったでしょう。

神亀四年(727)九月、井上内親王は伊勢斎王として旅立ちました。同じ年の(うるう)九月に、光明子に(もとい)王が生まれています。光明子には十年ぶりに第二子の出産でした。男子の誕生に聖武天皇も嬉しかったよう生後一月で基王を皇太子とします。

聖武天皇も幼くして斎王となった娘の寂しさなど忘れることもあったでしょう。

しかし、翌年、基王は一歳になる前に亡くなりました。

その半年後に、長屋王の謀反事件が起こりました。

(長屋王は左大臣でしたから、トップの位置にあったのです。謀反を企てる必要はなかったでしょうに。藤原氏側の陰謀ですね。)

井上内親王が都に帰って来るのは、天平十六年(744)です。

既に、737年、藤原四兄弟が揃って疫病に倒れ、

738年、妹の阿倍内親王が立太子し、

740年、藤原広嗣の乱が起こりそして終息し、

741年~742年、天皇は恭仁京、紫香楽宮、と遷移を繰り返し、

743年、大仏鋳造の詔を出し、

744年、弟の安積親王が薨去。井上内親王、伊勢斎王の任を解かれる。

弟の安積親王の死後に、ようやく斎王の任を解かれました。

28歳の井上内親王が嫁いだのが白壁王でした。

白壁王は志貴皇子(天智天皇の皇子)の子で和銅二年(709)の生まれで、皇位継承の争いに巻き込まれないように酒に親しむ生活をしていたようです。

まあ、酒好き? ですか?
まさか、アルコール中毒ではないでしょうね。

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(白壁王が光仁天皇となり、その皇子が桓武天皇です。)
白壁王の妃となったのに、皇后にまで上り詰めたのに、井上内親王は廃后され、息子の皇太子と共に幽閉され、あげく毒殺されるというのです。
余りにひどい結末ですが、藤原氏がここまでやれたのは何故でしょうね。

あ、そうでしたね。
天武朝とか、天智朝とか、言葉に「--朝」と使っていますが、これは正確な使い方ではないでしょう。天智系とか天武系と使うべきでしょうね。
だけど、桓武天皇は天智系に皇統が戻ったことを「易姓革命」として扱っています。将に、王朝が変わったのだと。
意識的には王朝が変わった! ということでしょうか。
それとも、本当に王朝が変わっていたのでしょうか?
また明日・・・


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by tizudesiru | 2017-01-26 11:18 | 204吉備真備の挫折と王朝の交替 | Comments(0)

204淳仁天皇の甥・和気王の謀反

204政変の果てに


藤原仲麻呂のの反乱で、藤原氏の氏族内の権力争いが決着したのではありません。まだ、聖武天皇と犬養広刀自との間に生まれた三人の子どもたちが残っています。称徳天皇には後継者はいませんから、誰が次の玉座に昇るのか、都には噂ばかりではなく呪詛も充満したことでしょう。

天武系の王子達も、密かな期待を持ちました。
和気王も舎人皇子の孫であり、淳仁天皇の甥であることから皇位を望んだようです。

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天平宝字八年(764)仲麻呂の乱は鎮圧されました。
和気王は淳仁天皇の甥でしたが、臣籍降下していました。
舎人親王に崇道盡敬皇帝の尊号が追贈されると、和気王は皇籍に戻っています。

淳仁天皇としては舎人親王に「天皇」と追贈したかったのですがかなわなかったのです。天皇と皇帝では、意味が違ったということです。

祖父の舎人親王の歌は万葉集に三首残されています。
万葉集の時代には、叙景歌はほとんどないとされます。純粋に景色や風景のみを詠むことはないのです。詞の中に意味があり、出来事や神事が詠みこまれて叙事詩となっているのです。すると、舎人親王の歌も、ただの叙景詩ではありませんね。

1706 黒玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上にたなびくまでに

この歌は、「右、柿本朝臣人麻呂の歌集に所出」と書かれた歌群(1682~1709)の中にあります。1704と1705は、人麻呂が舎人皇子に献じたものです。次が、1706で舎人皇子の歌と続いています。

    
「舎人皇子に献ずる歌二首」
1704 
ふさ手折り多武の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒げる
1705 
冬こもり春へを恋ひて植えし木の実になる時を片待つ吾ぞ
人麻呂は舎人皇子に何を伝えようとしているのでしょうね。

1704 
木の枝をためるという「たむ」と同じ多武の山の霧が深いからだろうか、細川の瀬の波が立ち激しい音を立てている。
1705 
冬の間に春になったらと期待して植えた木に、花が咲いて実がなる時をただ待ち続ける私なのだ。
多武の峯には藤原氏ゆかりの談山神社があります。多武山は藤原氏を意味しているのでしょう。藤原氏の権力への欲望はその山霧のように深く、細い山川は瀬の音高く事件が起こりそうだと騒いでいる、とでも読めそうです。

更に、まるで冬のような時に何をしてもうまくいかない、春になったらと期待して実のなる木を植えておいて、花が咲いて実になるまでただひたすら待ち続ける以外に道はない、それが生き残る道なのだから、と人麻呂が伝えていると読めませんか。

そうして、次に舎人皇子の1706の歌です。
1706 ぬばたまのように黒い夜の暗闇に霧が立ち込め、高い館の上までも包みたなびいている。こんなに夜霧が深ければ、私には何も見えないし、何もすることはできない。
舎人皇子は、自分の置かれた状況を冷静にしかも正確に把握していたのでしょう。
しかし、子の淳仁天皇も孫の和気王も的確な判断ができなかったのか、または藤原氏の方が一枚上手だったのか。
哀しい結果となりました。

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また、明日






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by tizudesiru | 2017-01-25 00:59 | 204和気王の謀反 | Comments(0)

203藤原仲麻呂、琵琶湖畔に死す

203藤原仲麻呂の最後


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琵琶湖;風がない日は穏やかです。古代には、嵐ともなれば波が立ち小さな船では対岸に渡れなかったでしょう。藤原仲麻呂は家族と共に逃れようとして、琵琶湖を渡り切れませんでした。仲麻呂は光明皇后の甥でしたが、罪人として家族ともども湖岸に絶命しました。そのお話です。
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万葉集に残された藤原仲麻呂の歌は二首(42424487)です。既に紹介しています。


4242 天雲の(ゆき)(かへ)ゆえ(おも)(あが)


4487 いざ()(ども)天地(あめつち)やまと


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伯母の光明皇后を後ろ盾に権力の頂点に上り詰めた藤原仲麻呂は、道鏡の存在に恐怖を覚えました。

政敵をことごとく退けて来た仲麻呂でしたが、道鏡は僧侶なので手の打ちようがありません。そこで、道鏡を除くために淳仁天皇を連れ出しクーデターを起こそうとしたのでした。

しかし、密告者が相次ぎ、淳仁天皇も連れだせず、仲麻呂は追われる身となりました。

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淳仁天皇(47代)の父は、舎人親王です。
舎人親王は、天武天皇と新田部皇女(天智帝の娘)の間に生まれています。
仲麻呂の反乱は次のように展開しました。


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仲麻呂は、武智麻呂の後を継ぐべきと思っていたのでしょう。息子が没した後、その妻の婿に迎えた大炊王を天皇に押し上げたまでは、うまくいったのでしょうに。
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*上の人名に間違いがあります。「淳仁天皇が藤原恵美押勝の乱で、押勝を殺させたのは坂上苅田麻呂」です。坂上田村麻呂ではありません。


此の後の道鏡事件はあまりにも有名ですね。
和気清麿が宇佐神宮に御神託を確認に行くのです。
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では、琵琶湖の湖畔にたたずんで対岸を見ましょうか。淡海を渡ることなく滅んだ仲麻呂の家族が流した涙は、この湖に流れ込んだことでしょう。後の世に、この風景を見て、涙を流したのはどこの誰だったのでしょうね。
また、明日



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by tizudesiru | 2017-01-23 12:14 | 203藤原仲麻呂の最後 | Comments(0)

202藤原仲麻呂暗殺計画

202藤原恵美押勝仲麻呂暗殺計画・陰謀の果てに

藤原仲麻呂は、身内からも嫌われたようです。仲麻呂暗殺計画を練ったのは、藤原北家の藤原良継でした。それが、今日のお話です。

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藤原仲麻呂の権力へ執着、そして強引なやり口への反発と不満は、有力氏族のみならず同族内にも根深くありました。

中でも、北家の人々は不満でした。藤原宇合(うまかい)北家)藤原広嗣(ひろつぐ)北家不遇藤原朝臣宿奈(すくな)麿(まろ)(よし)(つぐ)一人

良継は大伴家持とも親交がありました。

天平勝宝七年(755)防人部領使(ことりづかひの)(かみ)とし防人八首家持進上ていす。拙劣五首万葉集良継剛毅のあったしょうの進上された三首紹介


この三首は防人の歌として進上されたものです。元は八首あったのですが、拙劣な五首は万葉集に残されていません。作者は、助丁(すけのよぼろ)丈部(はせつかべ)麿上丁(かみのよぼろ)丹比部(たじひべ)国人上丁(かみつよぼろ)丸子連(まろこのむらじ)(おほ)麿(まろ)の三人です。防人は歌が詠める人達だったのです。



4328 大君(おおきみ)命畏(みことかしこ)(いそ)()海原父母

4329 八十(やそ)(くに)難波

4330 難波津に(よそ)(よそ)今日

4328 大王のご命令を畏んで承り、磯や海原を渡っていくのだ。父母を置いたまま。

4329 多くの国から来た防人は難波に集まり船出の舟飾りをする。その日の私の晴れ姿を見る人がいてくれたらいいのに。

4330 難波津にできる限りの舟飾りをして、今日いよいよ命令に従って任地に行くのだ。その私を見送る母もいないのに。

進上された歌の後ろに、家持が「追いて防人の(わかれ)ぶる(いた)一首があす。家持良継えて歌を詠み

二人は非常に親密でした。

天平宝字六年(763)、良継は藤原恵美押勝暗殺計画を練るのですが、発覚しました。


伯母の光明皇后を後ろ盾に皇后直属の官吏として運命の糸を操った藤原仲麻呂。しかし、多くの反感と恨みを買っていました。

仲麻呂に陰りが見え始めるのは、

天平宝字四年(760)光明皇后薨去の辺りからです。

母の看病に疲れた孝謙上皇も病に臥せっていました。そこに道鏡が現れ、上皇の病を見ます。

道鏡は、孝謙上皇をどれほど安心させたことでしょう。

長い間病に苦しんだと、平安な日々を過ごせる都を求め続けたと、一人は、三人そろって仏門に入っていました。

国分寺も造り、東大寺の廬舎那仏も造りましたが、それでも救われないのです。道鏡以外に女帝を救える人はいなかったのです。しかし、仲麻呂は不安になりました。道鏡に権力が移っていくと思ったのです。淳仁天皇に「道鏡への上皇の寵」を諫めさせました。

当然、上皇は激怒しました。

道鏡は、志貴親王(天智天皇の皇子)の王子ともいわれています。道鏡は僧侶ですから、後継者をもうけることはできません。上皇も同じです。

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藤原良継の仲麻呂暗殺計画は、失敗しました。

そのころ、藤原恵美押勝の反乱計画も密に進んでいました。

藤原仲麻呂は、皇族だけが登れた太政大臣と同じ「大師」にまで上り詰めましたが、孝謙天皇の寵が道鏡に集まるとそれを妬み、都督使となり兵を集めました。

孝謙上皇は吉備真備を呼び寄せ、全権を与えます。

そうして、仲麻呂は寂しい末路を辿るのですが。その話は、また後で。


橘奈良麻呂は生き延びていた?

この話は、付け加えです。

奈良麻呂の謀反発覚で、大量の処分者を出し、仲麻呂の独裁体制となりました。

道祖王も大伴古麻呂の杖下に絶命しました。

しかし、奈良麻呂は逮捕されましたが、死亡の記述は「続日本紀」にはないのです。歴史的には、他のものと同じく死没したと扱われています。

しかし、私は佐賀県橘町で不思議な説明板を見ました。

おつぼ山(こう)()(いし)見学ったす。案内板さい。りう

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長崎街道が墓地をカーブしながら通っています。墓地の正面100メートルほどで、おつぼ山神籠石です。
次は、「仲麻呂の最後」ですね。
また、あした

(数日旅行してました。飛鳥の写真を撮りに行っていました)



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by tizudesiru | 2017-01-22 21:10 | 202藤原仲麻呂暗殺計画 | Comments(0)

201大伴家持が見た奈良麻呂の謀反事件

201大伴家持が見た橘奈良麻呂の謀反事件

橘宿祢奈良麻呂の謀反発覚は、長屋王事件と同じくらい世間を驚かせました。四百人以上の処罰者を出し、有力者が杖下に刑死したからです。

同時に、「とうとうこの日が来た」と世間は思ったでしょう。

大伴宿祢家持は、この日を予感していました。

だから、家持は先手を打ち連座を免れたのでした。

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天平勝宝八年(756)聖武太上天皇崩御。遺詔により(ふな)()王立太子

聖武太上天皇は、娘の孝謙天皇に跡継ぎがないので皇太子として道祖王を立てるように遺詔を残していました。

(ふな)()王は新田部(にいたべ)親王の子です。新田部親王(父・天武帝、母・五百重娘)は、長屋王宅に窮問使として遣わされ、長屋王家の滅亡に関わりました。

そのことを聖武天皇は忘れていなかったのでした。

兄の塩焼(しおやき)王には不破(ふわ)内親王(父・聖武天皇、母・犬養(ひろ)()())を室とさせ、弟の道祖王を皇太子としたのです。

新田部皇子(親王)は長屋王の無実を知って窮問したかも知れません。三十年後に、長屋王事件関与に対する聖武太上天皇の配慮があったのでしょうか。新田部皇子に無実の者を裁かせたので、その見返りに手厚くしたという。兄に内親王を与え、弟を皇太子に成したのですから。五百重娘(いほえのいらつめ)は鎌足の子で不比等の妹ですから、光明子の身内から後継者を出そうとしたのかも知れません。五百重娘は不比等との間に藤原麿を儲けていますから、新田部親王は麻呂の兄になります。

しかし、その全ては藤原氏によって奪われてしまいます。

万葉集二十・に道祖王の歌があります。


4284
新しき年の初めに思うどちいむれておればうれしくもあるか

新年に心許した仲間と一緒に集まって宴していると、なんと楽しく嬉しいことだろうか。*どちとは親しい仲間のこと

公卿に仲間入りした初々しい公達の歌です。


しかし、元気な公達はむしろ邪魔だったのです。二月に橘諸兄が薨去しました。すると、聖武天皇の喪中に不謹慎なことをしたと、道祖王は廃太子されました。


翌月に立太子されたのは、
大炊(おおい)王(父・舎人皇子)です。

舎人皇子も長屋王事件の窮問使の一人でした。

天平勝宝九年(757)

(1月)橘諸兄(もろえ) *光明子の兄の諸兄の死亡

3月)(ふな)()王廃太子 *聖武天皇の遺言を無視

4月)大炊(おおい)王立太子 *大炊王は仲麻呂の娘の入り婿

5月)藤原仲麻呂紫微(しび)内相養老(ようろう)律令(りつりょう)施行 *新体制を整える

6月)橘奈良麻呂大弁、大伴家持大輔 *謀反事件の直前に人事

7月)橘奈良麻呂の謀反発覚奈良麻呂逮捕、黄文(きふみの)(おほきみ)・道祖王・大伴()麻呂(まろ)・小野東人ら拷問死。藤原豊成を大宰府員外(そち)に左降。*兄も降ろす

8月)改元(天平勝宝→天平宝字)

黄文王は、長屋王の王子です。吉備内親王に産まれた四王子は自経しましたが、他の女性(藤原不比等の娘)に生れた男女などは許されていました。天平九年(737)には、安宿(あすかべ)黄文(きふみ)円方(まとかた)王、()女王、(おし)海部(みぬべ)女王位階ていす。757年、長屋王の王子の藤原系の黄文王も、藤原系の道祖王も刑死しました。

聖武天皇の崩御後、皇位継承者を断罪し抹殺したのです。

万葉集に、大伴家持、大炊王、藤原仲麻呂の歌が残されています。

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家持は謀反事件と取りざたされそうな兆候を感じたのでしょうか。
藤原氏側にすり寄ったのでしょうか。時勢の移り変わりを見つめています。
対して、仲麻呂の驕りは何でしょうか。彼の末路が読めるようです。


六月二十三日の家持の歌は、謀反事件の一週間ほど前の詠歌です。

4483 いろいろなことが時と共に変わっていく。時勢の変化を見るごとに心が痛み、懐かしい古人が偲ばれてならない。(世の中とは、こんなものか。)


4484
 美しく咲いている花は時が来ればしおれていくものだが、山に生えているヤブランの根は地中深く根を下ろして長くかわらないのだろうなあ。(地中深く隠れるように、今の世を過ごす以外に道はない。)


4485
 季節の花はなかなか良いものだが、このように時の花を見ながら心を明るくして行こう。これから秋になるごとに。(花を眺めて心を晴らす以外にないのだ)


まるで、事件を予知して、身に降りかかる火の粉を避けたような歌です。

奈良麻呂の謀反事件が一段落した後、大炊王と仲麻呂の歌。


4486
 天地を照らす日月の極みが無いように、治世と繁栄はこの国に極みなくゆきとどいているから何も心配することはないのだ。

4487 さあ、お前たち、たわけた真似などするのじゃない。この大和の国は天地の神々が固めた国であるぞ。


前記の二首は、天平宝字元年(
757)十一月十八日に内裏で宴の席で詠まれたものでした。

家持は事件を見ていました。

44834487の五首は、家持の孤独と大炊王と仲麻呂の驕りが臭います。

身内の大伴古麻呂の最後も見ました。大伴古麻呂は、遣唐使として唐に渡っています。唐の皇帝の朝賀の席順を新羅と争い、日本の方が上席だと主張し勝利したのです。ちなみにこの遣唐使の中に阿倍仲麻呂や吉備真備などがいました。

大伴古麻呂は、大伴氏の期待の星となりました。しかし、奈良麻呂謀反に巻き込まれ死亡しました。

家持は大伴氏を守ろうと耐え忍びます。翌年(758)六月、因幡守(鳥取県)として都から離されました。八月に孝謙天皇は譲位し、大炊王が即位しました。

藤原仲麻呂は大保に任命され、淳仁天皇から恵美押勝の姓名を賜ったのでした。

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画像はNHKのテレビの画像・デジカメで撮ったもの

この後、孝謙天皇と淳仁天皇が対立します。
そして、悲しい末路が




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by tizudesiru | 2017-01-16 20:49 | 201家持と橘奈良麻呂謀反事件 | Comments(0)

200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独

200東大寺大仏開眼会の影にスキャンダル

今度は、孝謙天皇(阿倍内親王)の話です。孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の娘です。
藤原宮子が文武天皇の夫人となり、妹の光明子が聖武天皇の夫人となりましたので、阿倍内親王は藤原氏が実権を握った時に生まれたのです。
光明子の生んだ男子(基王)が1歳で死亡しましたので、阿倍内親王の他に藤原氏系の皇位継承者はいません。藤原氏としては、阿倍内親王を皇太子に立てるほかはありませんでした。

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天平十年(738)に立太子して十五年を経れば、
孝謙天皇は三十五歳を過ぎていました。母に守られていたとはいえ、女の盛りを帝王学に明け暮れた日々は、孝謙天皇にとっていかなる意味を持っていたのでしょう。

そこには、女性としての華やかな青春の思い出があったのでしょうか。

孝謙天皇のこれまでの三十五年間には、様々な事件と権力闘争が絡っていましたので、たとえ内親王でも何らかの噂は聞こえたでしょうに、聖武天皇が娘を守り続けていました。


「姫様こそ、わが日本国の極位に昇られる方でございます。ゆめ恋をなさってはなりません」

と、奸臣は囁いたでしょう。内親王からの即位は、元正天皇(氷高皇女・父は文武天皇)という例がありましたから、奸臣どもは男性が内親王に近づくことを極力妨害したはずです。元正太上天皇と聖武天皇は、皇太子の教育係に吉備真備を採用しました。真備の才能を承知していましたから


それは、藤原氏側には不満だったと思います。

光明皇后に働きかけて、藤原氏の権力回復を図りました。

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天平十六年(746)仲麻呂は式部卿になっています。しかし、橘諸兄の長子の奈良麻呂が着実に父の後を追いかけていました。

前年(745)に、都は再度「平城京」に戻っていましたし、大養(やま)()大倭(やまと)戻りました。聖武天皇の病気平癒の為でしょうか。

光明皇后は、天皇の病平癒のために新薬師寺を建立(747)しています。

天平二十年(749)五月に聖武天皇は「薬師寺」に遷御されました。

そして、七月に譲位でした。

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天平二十一年・天平勝宝元年(749)孝謙天皇即位

藤原豊成右大臣、藤原仲麻呂大納言・紫微令、藤原清河参議と、一氏族から一官職という慣例を再び藤原氏が破る状況になってきました。


更に、光明子は
「紫微中台」という皇后の勅を出せる官位を制定しました。当然、仲麻呂が実権を握るのです。

藤原豊成と仲麻呂は、南家(藤原武智麻呂)の長子と二子です。

藤原清河は、北家(藤原房前)の四子でした。

右大臣が豊成で弟が仲麻呂であれば、清河に未来はないでしょう。


天平宝勝二年(750)

吉備真備を筑前守にして九州へ飛ばします。(さらに、751年には、真備を遣唐使の入唐副使に任命する)

藤原清河(北家)を第十次遣唐使に任命します。(唐で客死する)

意に沿わない藤原乙麿(南家)を大宰帥にして飛ばします。



天平宝勝四年(751)

東大寺廬舎那仏開眼会となったのですが、誰に孝謙天皇を諫めることができたでしょうか。開眼会が行われたその夕べ、孝謙天皇は仲麻呂宅に泊まりました。

藤原氏、それも仲麻呂の思うツボにはまった…としか言いようがありません。孝謙天皇は、仲麻呂の田村第を御在所としたのです。


遣唐使も唐へ出発して行きました。この時の、皇后、清河、仲麻呂の歌が万葉集に残されています。三者の状況が詠める三首です。


春日神祭の日に藤原太后の御歌一首

4240大船に()(かじ)しじ貫きこの吾子(あご)韓国(からくに)へやる いはへ神たち


・大使藤原朝臣清河の歌一首

4241春日野にいつく()(もろ)の梅の花栄えて在り待て還り来るまで


・入唐使等の宴の日、主人卿の作る歌一首

4242 天雲のゆき還りなむものゆえに思いぞ吾する別れ悲しみ

(光明皇后)大きな船に立派な梶を取り付けた船で、藤原の血を受けた大事なこの子を韓国に遣らねばならない。春日野の藤原を守る氏神よ、旅路を神力で祝い清め守ってください。


(清河)
この藤原を守る春日野には神がおられる。そこに栄えて咲く梅の花よ、私が帰って来るまで毎年咲き続けていてくれ。必ず還って来る。


(仲麻呂)
天を流れる雲は流れ去って戻ってくることはない。それだからこそ、私はこの別れをお前との最後かも知れないと思い悲しくなっているのだ。無事に帰ってくれよ。


光明皇后は権威を見せつけ、清河は還って来たいと願い、仲麻呂は是が最後の対面だと内心考えている…三者三様の心の内を万葉集は書き留めているのです。

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また明日


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by tizudesiru | 2017-01-14 13:55 | 200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独 | Comments(0)

199光明皇后の病・既に年月を経たり

199光明皇后の病・既に年月を経たり

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天平元年(729)、八月に藤原夫人・光明子は、皇后となりました。六月が長屋王事件でしたのに、事の運びが早すぎました。光明子が思い悩んだのは当然だったかも知れません。そのための病だったのでしょう。

天平五年(733)、皇后の病により大赦(たいしゃ)がありました。

長屋王の事件以来、皇后はうつ状態だったのかも知れません。


(みことのり)
には、『
皇后、枕席安(しむせきやす)からむこと、すでに年月(としつき)()たり』光明皇后は、長い間何年も寝込んでいたのです。枕席(ちんせき)とは枕と寝床のことす。百方(ひゃくはう)治療(いや)せども、その可なることを見ず』いろいろ手を尽くしたけれど、よくなりそうな気配がない。『この(ぼん)()を思ひて、(しん)(そん)とを忘る』この苦しみのために眠ることも食べることもできないので、『天下に大赦して、この(やまひ)()()ふべし』大赦を行い病気を治そうというのです。『常赦(じょうしゃ)(ゆる)さぬも、(みな)(ことごと)くゆるせ』 ふつうは許さない者も全て許せというのです。そして、強窃(ごうせつ)の二の外は軽重をつけてみな赦したのです。


大赦を考えたほど、光明皇后の病は深刻でした。



独り雪を見た光明皇后の孤独


巻八 1658
は、(とう)皇后(こうごう)(光明皇后)、(聖武)天皇(すめらみこと)に奉る御歌一首

吾が背子とふたり見ませば幾ばくかこの降る雪のうれしくあらまし

雪が降っております。わが背の君とふたりで一緒にこの雪を見ることができましたなら、この寂しい雪もどんなにか嬉しく思われたでしょうに。

この歌は、広嗣の乱(740)の後の詠歌ですね。

四十歳の光明皇后は独り都に残り、聖武天皇は広嗣(ひろつぐ)の乱(740)の後東国への旅の途中でした。この時、天皇は()()京におられたのでしょう。一人雪を見ていた皇后は、何を思っていたのでしょうね。

亡くした基王のこと、その為に滅ぼした長屋王家のこと、聖武天皇が心許した長屋王、その死(身内の陰謀)に目をつぶったこと…

夫が太上天皇と共に長屋王の新室(にいむろ)まで訪ねたのに、長屋王家の後継者の全てが自刃という結末。藤原氏が長屋王に手を下したことは、世間には周知のことだったでしょう。ですから、藤原四兄弟の死は、長屋王の祟りと思われたかも知れません。

甥の広嗣の乱の結末や、一人で旅をしている夫のことも…思い出すと耐えられなかったでしょう。

四月、七月、八月と、兄たち四兄弟が死没した後、大倭(やまと)大養(やま)()文字

この数年にいろいろありました

天平十年(738)阿倍内親王の立太子、(たちばなの)諸兄(もろえ)右大臣

長屋王事件から十年経っていました。

この年になっても、長屋王事件は人々の記憶から消えていませんでした。大伴子(おおとものこ)(むし)長屋王でいる」密告中臣(なかとみの)東人(あずまひと)た。年経ていず、長屋王に恩を受けていた子虫には恨みが残っていました。

続日本紀に子虫の事件が書き残されたということは、事件に世間の風潮が反映しているということでしょう。

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木津川が大きく蛇行し北上する地に恭仁京が造営されました。

天平十二年(740)広嗣の乱

四兄弟没後、聖武天皇が頼りにしているのは、橘諸兄(もろえ)葛城(かつらぎ)王でした。諸兄を退けようと広嗣は立ち上がったのです。皇后の甥だという甘えがあったのかも知れません。

しかし、皇后にも分かっていました。藤原氏が築いた権力構造に、橘氏が入り込む隙を作ってはならなかったのだと。諸兄(もろえ)ら、皇后った

そして、この後もことが起こりました

天平十五年(744)

光明皇后が夫に尽くそうと思っても、当の聖武天皇は都から遠ざかっていきます。()()難波京官人民意安積(あさか)皇子薨去た。突然た。

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光明皇后の娘の阿倍内親王が立太子していたとはいえ、藤原氏側には安積皇子(744没)は大きな存在だったのでしょう。光明皇后は、経論を書写させました。こんな時こそ、経論を唐より持ちかえった玄昉に頼りたくなったでしょうね。しかし、広嗣の乱を見て来た藤原氏は、玄昉を大宰府に左遷(745)しました。光明皇后に安易に近づいてもらっては困るのでしょう。玄昉は、翌年没(746)しています。
尋常な死ではなかったでしょう。
光明子の心を癒すことができた人はいなかったのでしょうね。
光明子は強い人でしたから耐えられましたが…大変気の毒な人だと思います。

また明日




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by tizudesiru | 2017-01-14 00:51 | 199光明皇后の深い憂鬱 | Comments(0)

198光明皇后の不幸と不運

198光明皇后の不運と不幸

当時の女性たちの中で最高の権力と財力を手にしたのは、光明皇后でした。

しかし、不運で不幸な女性でもありました。もちろん、聖武天皇の皇后になったからです。

権力が光明子を不幸にしたのです。

光明子は生まれた時から聖武天皇((おびと)皇子)の妃となるべく育てられました。母譲りの気丈な女性だったようで、聖武天皇に尽くすことが藤原の娘としての自分の使命だと確信していたようです。

しかし、(もとい)王(728没)の他に男子をもうけることはできず、女子の阿倍(あへの)内親王(ひめみこ)を皇太子にする(738年)ほかは有りませんでした。母として、それでよかったのでしょうか。阿倍内親王が立太子されたのは二十一歳の女盛りです。過酷な判断だったのではないでしょうか。

この時、光明子は三十八歳、基王を生んだ時の光明子は二十七歳でしたが。十年間子供に恵まれなかったのです。

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長屋王の事件以来、光明皇后はふさぎ気味だったでしょう。
あの日、

天平元年(729)、長屋王の事件は世間を揺るがせました。

世間では長屋王への同情が広がりました。「長屋王は無罪だったのに」と。

噂を鎮めるための勅には「長屋王は悪人だったから除かれ滅ぼされたのだ。衆は三人以上集まって話をしてはならない」と書かれました。

異端を学んだ者、勅禁を破る者、呪詛をする者は罰する」という勅も出ました。(呪詛は大流行していたのです。)

天平二年(730)、光明皇后は興福寺の五重塔を建てたりしましたが、男子を授かることはありませんでした。それは、長屋王の怨霊でしょうか。世間は様々に取りざたしたでしょう。

長屋王の館は官に没収され、光明皇后のものとなりました。これを世間はどう思ったでしょう。皇后は平城宮に隣接する長屋王の住居跡が欲しかったのではないか… そこに、皇后となった藤原夫人は、「皇后宮職」を新設していました。

そこに、疫病の流行でした。


天平九年(737)、大宰府に疱瘡が流行し、たちまち都に伝染しました。そのため、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麿)が揃って疫病で没しました。まるで天罰。世間はそう思ったでしょう。

この年、遣唐使の玄昉が持ち帰っていた経論を皇后宮職で写経させました。皇后が仏教にすがったのは無理からぬことでした。そして、

天平十年(738)、阿倍内親王の立太子。四兄弟が没した以上、どうしても政権の安定を図らねばなりませんでした。

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天平十二年(740)

そんな時に、藤原広嗣の乱は起こりました。広嗣は大宰府に左遷されたと、不満を感じていました。それを上表文にしたためました。そして、

弟と九州の兵を使って都に攻め上がろうとしますが、失敗しました。

天皇を誹謗することは、それだけで大罪でした。極刑となります。

広嗣は上表文を出した時点で大罪を犯していました。

彼は都からの「光明皇后と玄昉のよからぬ噂」に、怒り心頭だったようです。

しかし、噂です。噂で兵をあげるなど、考えられない事でした。このように、実際に兵を動かした大罪は、この時代には藤原氏だけがおかしました。(他の謀反事件は密告などで露見し、兵など動かしてはいません)

藤原四兄弟の没後に「広嗣の乱」。怨霊の仕業でしょうか。

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大仏鋳造の発願の詔が出されたのは、光明皇后が一番苦しい時でした。光明皇后は仲麻呂を優遇します。(が、光明皇后没後、4年で仲麻呂も乱を起こし斬られました。この時代、二度も藤原氏は乱を起こしました。)
更に、犬養三千代の子であり、兄であった橘諸兄が没すると、甥の橘奈良麻呂は謀反で断罪されました。光明子は、長屋王事件・橘奈良麻呂事件・藤原広嗣の乱と、苦しめられました。

光明子の不運と不幸の遠因は、「皇后」だったからです。

聖武天皇の皇后だったからです。

聖武天皇の崩御後に天皇遺愛の品を正倉院に納めたのは、光明皇后です。

その宝物は寺によって守られ今日まで伝わりました。

「正倉院展」は、毎年大盛況です。宝物の豊富さと豪華さ技術の高さなどに毎回驚かされました。そして、この天皇だけ、何故このように遺愛の品が残されたのかと不思議に思います。他の天皇の私物はほとんど残されなかったのに。


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考えてみると、遺愛の品は「開かずの倉庫」に納められました。

皇后としての苦痛の年月を思い出す品々を、光明皇后は見たくなかった、見るのが辛かった、二度と目に触れないものとしたかったと、思うのです。

それは、封印。それは、聖武天皇への決別だったのかも知れません。

そして、権力によって大事なものを失ったことの後悔でしょうか。

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また明日




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by tizudesiru | 2017-01-12 22:18 | 198光明皇后の不幸と不運 | Comments(0)


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232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者

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