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186聖武帝の不運と不幸(3)

186聖武天皇の不運と不幸

聖武天皇の不幸は上げればきりがありませんが、その不幸の中で唯一心許せる人物がいたとしたら、橘諸兄でした。その変わらぬ忠誠心を信頼していたのです。「橘は」の歌は元正太上天皇の御製歌という説もあると左脚に注があります。

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1009 橘は実さえ花さえその葉さえ ()に霜降れどいや常葉(とこは)の木

橘は実も花も素晴らしい。その葉は霜が降っても決して変わらず青々としてますます栄えて行く木である。(まるで汝の変わらぬ忠誠心のようではないか)

その忠誠心のまま、諸兄は聖武帝に仕えました。ただ、聖武帝は娘の阿倍内親王に譲位しようと考えていました。そうすると、天武朝の皇統が消えてしまうと諸兄は心配していました。

天平十八年正月・太上天皇(元正)の御在所に雪を払いに行った後の宴席で

橘の諸兄が詔に応えて詠みました。

3922 降る雪の白髪までに大皇(おほきみ)もあ

降る白雪のように白髪になるまで大王にお仕えいたしますことは、何ともありがたく尊いことであります。

橘諸兄は元正太上天皇にも信頼されていました。太上天皇が天武帝の皇子に皇統を継がせたいと内心考えておられることも知っていました。

「天武朝の皇統を守りたい」というのは、壬申の乱で活躍した氏族の願いでした。当然、大伴氏もその考えでしたので、諸兄と親交があったのです。

しかし、藤原氏と光明子が許しません。聖武帝は、内親王に譲位しました。

その後、安堵した聖武太上天皇が諸兄宅に招かれました。

そこで、諸兄の子・橘奈良麻呂が詠みました。

1010 奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すともつちに落ちめやも

奥山の雪は真木でさえ葉をしのぎ押伏せるでしょうが、どんなに雪が降り積んでも橘の実は土に落ちたりいたしません。

こんな橘氏が邪魔でないわけがありません、藤原氏にとって。

だから、橘奈良麻呂の謀反事件は起こりました。

748年 元正太上天皇没

756年 聖武太上天皇没 遺詔により道祖王を立太子

757年 一月橘諸兄没 七月橘奈良麻呂の謀反発覚

先手を打たねばなりません。やはり、諸兄(もろえ)半年後に陰謀の結果が出ました。半年後の法則です。拷問で自白させられた小野東人の告白により、有力者が獄に命を落としました。

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聖武太上天皇の遺言で皇太子になり廃太子されていた(ふな)()も 絶命

佐伯(さえき)大伴氏同族た。佐伯(さえきの)全成(またなり)顛末自白自害た。

大伴家持は既に藤原氏に近づいていました。


しかし、この事件は決定的に家持に深い傷を残したのです。

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奈良麻呂の謀反発覚の前の家持の歌

奈良麻呂の謀反発覚後の藤原の仲麻呂と淳仁天皇(まだ皇太子)の歌

ここに集約された藤原氏側の陰謀の証明

これらの歌については、いずれ触れましょうね。

そして、今年の最後の歌は、大伴家持の万葉集最終歌です。


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何もかも世の中は思い通りにはならず、大切にしていた友と主を亡くし、心あるものは命を奪われ、権力を振り回すものには物事の本質が読めず、弱いものは消されていく。

絶望に満ちた世で生きて行くのは、何のためなのか。


それでも、家持は言霊の力に一筋の望みを託して詠みました。

どうぞ良いお年を。


新しき年の初めの初春(はつはる)今日降()(ごと)








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by tizudesiru | 2016-12-31 14:32 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Trackback | Comments(0)

186聖武帝の不運と不幸(2)

186 聖武天皇の不運と不幸(2)

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即位して間もない時に起こった「
長屋(ながやの)(おほきみ)の事件(729)」は、聖武天皇にとって衝撃だったでしょう。

太上天皇と長屋王の佐保(さほ)の新築の館に招かれて、楽しい宴会をした後の事件でしたから。元正太上天皇にとっても辛い出来事だったと思います。

それでも、元正太上天皇は聖武天皇を「我が子」として大事にしました。

太上天皇にとっては弟の文武天皇の忘れ形見であり、聖武天皇も優しい人がらだったようです。

元正太上天皇は、母の元明天皇の意思を甥に伝えることが使命でもありました。それは、確実に伝えられたと思われます。

それは、即位後の行幸を見ればわかります。

聖武天皇は即位(二月)

持統天皇の形見(かたみ)の地「吉野」に行幸(三月)

紀伊国行幸(十月)文武天皇・元明天皇、持統天皇・有間皇子の形見の地

聖武天皇の紀伊国行幸は「持統天皇最晩年の大宝(たいほう)元年(がんねん)(しん)(ちゅう)冬十月」と同じ季節に同じ場所を訪ねたのです。それも長い滞在でした。

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紀伊国では、頓宮(かりみや)位階名草(なぐさ)海部(あま)地名ゆえ手厚想像

そして、長屋王の変(729)

元正太上天皇と目指すべき方向を見定めていたのに、聖武天皇は残念だったと思います。

長屋王を(きゅう)(もん)した舎人(とねり)皇子・新田部(にいたべ)皇子・多治比(たじひの)池守(いけもり)藤原武智(むち)()()小野牛(おのうし)(かひ)す。吉備(きび)内親王・膳夫(かしはで)王・桑田(くわた)王・葛木(かつらぎ)王・(かぎ)(とり)四人男子た。「吉備内親王藤原氏の「藤氏家伝書」には、長屋王の変には一切触れていません。武智麻呂自分にかかわることなので書かなかったのです。

絶頂期に藤原四兄弟死す

天平七年(735)新田部皇子没・舎人皇子

天平八年(736)葛城王臣下に降下、橘氏の姓を賜う(橘諸兄)

天平九年(737)藤原房前・藤原麿・藤原武智麻呂・藤原宇合四兄弟没

光明子の兄の藤原四兄弟が天然痘で世を去ります。



聖武天皇と橘諸兄との蜜月


橘諸兄は、(あがた)犬養(いぬかいの)三千代(みちよ)()()二人た。父違光明子兄弟死後、橘氏当然


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葛城王が臣下に降下した時の聖武天皇の御製歌があります。

橘は実さえ花さえその葉さえ枝に霜降れどいや常葉(とこは)

天平勝四年(752)の御製歌は、阿倍内親王に譲位して太上天皇となった聖武帝が諸兄の宅で詠んだものです。

橘奈良麻呂(諸兄の子)と左大臣(橘諸兄)が応えて歌を詠みました。

大伴家持も同席していました。諸兄は左大臣まで上り詰めて、聖武帝を館に招くほど力もあったのです。

聖武帝と諸兄とを深く結びつけたのは、

天平十二年(740)藤原広嗣の乱だったでしょうか。

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広嗣の乱の後、聖武天皇は長く彷徨います。
平城宮を出て、紫香楽宮、恭仁宮…と京が変わるのでした。諸兄はその聖武帝を支え続けたのでした。

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もちろん、藤原氏は次の手を考えていました。




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by tizudesiru | 2016-12-31 01:22 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Trackback | Comments(0)

186・聖武天皇の不運と不幸

186聖武天皇の不運と不幸

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聖武天皇の不運と不幸

その遠因は、帝(首親王=聖武天皇)の母があの藤原宮子で、皇后に昇る妻が藤原光明子だったことです。

マタニティブルーだったのか、宮子は三十数年も息子に会いませんでした。

光明子(安宿(あすかべ)媛)の母は犬養三千代で、文武帝と聖武帝の乳人(めのと)です。犬養三千代が安宿媛(光明子)と首皇子(聖武帝)を育てたのです。


その成長を元明天皇は危惧していました。

それでも、藤原氏の手により首親王の十五歳即位の準備は、前回書いたように着々と勧められていました。

しかし

祖母の元明天皇は、皇太子ではなく()(たか)内親王(ひめみこ)元正天皇に譲位しました。首皇子が元服立太子していたにもかかわらず、です。

藤原氏は元明天皇にしてやられたのです。

元明天皇の詔には(けん)(どう)は天を()べ、文明ここに(こよみ)(ぎょ)す。大きなる(たから)(くらい)といい(略)()りてこの神器を皇太子に譲らむとすれども、()(はい)幼く(わか)くして未だ深宮(しんきゅう)を離れず。(略)一品氷高内親王は、早く(しょう)()(天の授けるよいしるし)にかない、つとに徳音(とくいん)(よい評判)をあらわせり。(略)今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉くつつしみ奉りて、朕が(こころ)にかなふべし』


詔には首皇子が「若く幼く即位するには不十分」と言うのです。皇太子側には厳しい評価でした。育てた藤原氏側は恥をかかされた状態でしょう。


藤原氏は首親王に猛勉強させます。

715年 長親王(6月没)穂積親王(7月没)志貴親王(8月没)

9月・氷高内親王即位

716年 遣唐使任命有力者を国外へ出す

717年 難波行幸 藤原房前参議 

718年 藤原不比等ら養老律令撰進

719年 首親王始めて朝政に参画 新田部親王・舎人親王が皇太子の補翼を務める

720年 不比等没 日本書紀などを撰進

721年 元明天皇没 井上女王(首親王の娘)を伊勢宮の斎内親王とする

     *県犬養広刀自の生んだ女王の結婚のチャンスを断つ目的か
     実際に「伊勢の大神宮に侍らしむ」のは727年のこと。

724年 首親王即位


日本書紀の編纂に取り組んでいた舎人親王など、天武朝の有力者を皇太子の補翼を務めさせたのでした。
元明天皇が没すると、県犬養広刀自の生んだ皇女を斎内親王と決めます。彼女に有力者に嫁がれては困るので、伊勢神宮の斎宮とするのです。藤原氏側が先手を打ったのでした。

*後に、井上内親王は光仁天皇の皇后になるのですが、最後は皇太子と共に殺されました。広刀自に生まれた三人の子どもたちは全て消されました。

聖武天皇は自分の御子を残すことができませんでした。

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安積親王の突然死

聖武天皇の期待の皇太子(母・光明子)の(もとい)(おう)は生後一歳で死亡し、安積(あさかの)親王(みこ)(母・(あがた)犬養(いぬかいの)(ひろ)()())も若くして薨去し男子跡継

安積親王(728~744)は、十七歳で毒殺されたと言われます。

大伴家持は安積親王の内舎人(うちとねり)だったので、そのショックは大変なものでした。

聖武天皇はまことにお気の毒な帝でした。


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by tizudesiru | 2016-12-29 17:37 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Trackback | Comments(0)

185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇

185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇

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長屋王の館は平城宮の南東にあり、宮城のすぐ近くでした。大規模な発掘があって大量の遺物・遺構が発見され、木簡も出ています。その木簡には『長屋親王』と書かれていて、元明天皇の「吉備内親王の男女を皇孫」としたことを裏づけるものでしょう。


万葉集の巻三に長屋王(
268番)の歌があります。非常に意味深な掲載の仕方になっています。人麻呂(266番)志貴皇子(267番)の後です。

266 (あふ)()夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)()(こころ)しの(いにしへ)

267 むささびは()(ぬれ)とあ()()()(あい)

268 ()背子古家(ふるへ)明日香千鳥(つま)

このように並ぶと、非常に悲しい出来事が浮かんできます。

この歌を詠む人たちには、淡海から近江朝の都の址を思い出させ、志貴皇子の歌から(子が光仁天皇として近江朝の皇統を取り戻したことを思い出させ)何も知らないムササビ(長屋王)が罠にかかって山の猟師(政敵)に殺されたことを思い出させる。そして、長屋王の歌。

父の高市皇子が造営した新益京はすっかり古くなってしまったが、たくさんの鳥が今でも主が帰って来るのを待っているのだろうなあ、と読めるのです。


この三首を読むと、いつもゾッとするのです。

万葉集に驚かされるのですが、ここは人麻呂の編集ではありません。人麻呂(柿本左留708没)、志貴皇子(716没)、長屋王(729没)の死後、時も変わり、事件の真相もほぼ明らかになった後に、すべてを知ることのできた人が編集したとしか考えられません。

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441番歌の倉橋部女王は長屋王の娘とされています。
442番歌は作者不明。これは大伴旅人の作と私は思っています。

次は、いろいろありますが、安積親王の毒殺事件ですかねえ…
お正月には きれいな歌にしたいですが…


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by tizudesiru | 2016-12-28 10:50 | 185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇 | Trackback | Comments(0)

184氷高内親王(元正天皇)の孤独

184氷高内親王(元正天皇)の孤独


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元正天皇の御製歌は、集中に八首ありますが、中でも巻八1637はドラマチックです。太上天皇とは譲位した元正天皇のことで、天皇とは聖武天皇です。


二人が揃って新築した長屋王の屋敷に招かれての御製歌です。


太上天皇


はだすすきや尾花をさかさまに葺き黒木を用いて作った新築の館は、万代までも長く栄えるだろう(栄えてほしい)


聖武天皇


奈良の山にある黒木を持ちて造った新築の館、此処はいつまでいても飽きることはない


聖武天皇の即位は、神亀元年(724)で、長屋王の変は神亀六年(729)です。太上天皇と聖武天皇が揃って長屋王の佐保の新室に訪問し、宴を楽しんだのは、この五年間のいずれかの日でしょう。


参列した長屋王家の人々は笑顔で高貴な二人を迎え、幸せを噛みしめたことでしょう。しかし、数年後には長屋王家の滅亡となるのです。


この時、吉備内親王と氷高内親王の姉妹は、お互いの幸せを喜び合ったのでしょうに。長屋王が無罪だったことを知らされた聖武天皇は、さめざめと泣かれたそうです。


氷高内親王は、草壁皇子と阿閇皇女の長女で文武天皇の姉です。

美しく賢い人で、幼い時から天武天皇に愛されたようです。

天武十一年八月()(たか)皇女(新家(にひのみ)皇女)の病のために、死罪以下の男女、合わせて百九十八人全員を赦免。翌日、百四十人余りを大官大寺で出家させた。


まだ三歳くらいの皇女のために百四十人も出家とは。この皇女が特別の位置にいたとしか考えられません。

これほど愛されながら、生涯独身で誰にも嫁いでいません。文武天皇が即位した時、十八歳の娘盛りだったので、結婚話があってもいいはずですが…

*内親王:大宝律令より皇子と皇女を親王・内親王と称した。

 奈良時代後半には、親王宣下のあった子女のみに使われた。

日高(氷高)皇女が結婚できなかった理由は、率直に考えて周囲の思惑が影響したこと以外に考えられません。天武天皇なら長屋王に嫁がせることを考えたと思います。しかし、天武帝は皇女が七歳の時崩御。

周囲の皇族が氷高皇女をゆくゆくは天皇位につけたいと考えての独身だったとしても、まだ、皇女の即位は例がない時期ですから、この説には無理があります。聖武天皇の皇女(阿倍内親王=孝謙天皇)は、天皇位に昇るということで独身でしたが。これは、日高皇女の例があったので、皇女からの極位に昇る条件のようにされたという説があります。


わたしには、
(すめろぎ)の血統を他に分けない為の手段のように思えてなりません。誰の意思だったのか、その人物は特定できるのではないでしょうか。



天皇の子女と後宮の女性は狭い世界に閉じ込められ、相手も自分で選ぶこともできず、権力者の意向に左右されて生きていたと思います。

その苦しさのために病気になるのは当然で、唯一近づけたのが学問を修めた僧であり、宮中に出入りできた僧正に後宮の女性は走ったのだと思います。光明子も僧玄昉との間によからぬ噂が立ちました。それを諫めたのが、甥の藤原広嗣の乱でした。後に光明子の娘の孝謙天皇も銅鏡との噂を立てられました。(しかし、銅鏡は罰されていないと思います。)

閉じられた世界には、悲惨な噂が立つものです。



藤原宮子が病気では後宮は不安定です。早く首皇子を即位させて光明子を入内させようと不比等は焦っていたでしょう。


藤原氏は首皇子の即位に向けて着々と準備を進めていました。


和銅七年(714)

六月、皇太子(首皇子十四歳)元服。立太子。天下に大赦す

和銅八年(715)

正月、皇太子、初めて礼服で拝朝(みかどおがみ)東方に慶雲あらわる

白狐献上、白はと献上。「元日に皇太子始めて拝朝して、瑞雲あらわる。天下に大赦すべし」の詔。(皇太子の拝朝を慶祝する瑞兆とした)

九月、元明天皇、氷高皇女に譲位。霊亀と改元



皇太子のために和銅七年と八年の二回、大赦を行っています。


次は即位だろうと、誰もが思うでしょう。しかし、即位したのは、氷高内親王だった。


元明天皇の決断でした。     


続日本紀には文武帝以下各天皇の即位の宣命を収載しているが、元正天皇の受禅(位を譲られること)、即位に関してのみは、漢文体の詔を載せるに過ぎない。これは元正即位の特異性を物語るか。(岩波・続日本紀・脚注)



日高内親王には母から託された使命があったと思います。


それは何だったのか。その使命を持って皇位につき、長屋王と聖武天皇を結びつけようとしたのでしょう。しかし、辛い結果になってしまった。


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次は、長屋王の悲劇



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by tizudesiru | 2016-12-27 22:38 | 184氷高内親王の孤独 | Trackback | Comments(0)

183元明天皇の愛と苦悩

183元明天皇の愛と苦悩


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元明(げんめい)天皇(阿閇(あへ)皇女)は、天智天皇の(みむすめ)で草壁皇子の妃でした。

持統天皇には異母妹で、息子(草壁)の嫁でした。

吉野盟約の後に草壁皇子と阿閇皇女の間に()(たか)皇女(元正(げんしょう)天皇)が生まれています。

持統三年(689)

草壁皇子の薨去(自死)は、阿閇皇女を打ちのめしたことでしょう。持統天皇は阿閇皇女を連れて紀伊國へ行幸しました。そこで詠まれたのが、阿閉皇女の勢能山の歌でした


夫亡き後に持統天皇に旅に誘われて紀伊国行幸に出かけた阿閇皇女は、背の山と妹山が紀ノ川を見ながら両岸から向かい合っている地に差し掛かりました。皇女は立ち止まって亡き夫を想い、涙を流されたでしょう。その時に詠まれた歌です。

まるで、七夕の牽牛と織女のように逢いたいと思いながら互いに川岸にたたずむ…織姫のような皇女の姿が浮かびます。

即位した持統帝は、幼い子供たちのために阿閇皇女に強い母になってもらわねばなりませんでした軽皇子(文武帝)は、まだ数えの八歳、氷高皇女が十歳、吉備皇女は六歳くらいでしょうか。

持統三年(689)

律令政治に舵を取り直す。六月「諸司に令一部二十二巻を分かつ」とある。

撰善言司(先人の善言を集めて教訓的歴史書を撰上しようとした官司。文武帝や皇族の子弟の修養に役立つ書物の編集を目指したが、完成せず)を置く。

持統四年(690)、即位

六月には高市皇子を太政大臣・多治比嶋を右大臣に任官して、九月紀伊国行幸

持統5年(691)

八月、十八氏に祖先の墓記を提出させる

十月、新益京(いわゆる藤原京)を鎮祭

十一月、大嘗祭。中臣大嶋が天神寿詞を読む

持統五年(692)

三月、伊勢行幸(大三輪高市麿が行幸を諫め、辞職)

五月、藤原宮地鎮祭


持統天皇は一番に
軽皇子(かるのみこ)文武帝の成長を望み(せん)善言司(ぜんげんし)を置きました。きちんと先を考えていたのです、軽皇子を帝王に育てるのだという。持統帝の思いは十分に阿閇皇女にも伝わりました。


軽皇子は冬の阿騎野の野に出かけて一晩を過ごし、草壁皇子の霊魂に触れ皇太子位を受け継ぎ、成人式を上げ立太子。そして、即位。

十五歳の文武帝に三人の女性が入内しました。

文武天皇五年(701)大宝律令成る 藤原宮子は首皇子を生む


しかし、何が原因だったのか、藤原宮子精神的な病気にかかりました。

宮子は首皇子(聖武天皇)を生んだ後に引きこもり、三十年余り息子に会いませんでした。病のために話もできず閉じこもっていたのでした。


文武帝にも、息子の首皇子にも、持統帝にも、阿閇皇女にも、それは辛い現実だったことでしょう。

早くに父を亡くした文武天皇を阿閇皇女は持統帝と守って来た、その息子の嫁が病気になった…これは、阿閇皇女にとって相当に痛手だったはずです。


末っ子の吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、阿閇皇女を安心させました。

しかし、文武帝には多忙な日々が続きました。

大宝二年(702)持統天皇崩御

慶雲四年(707)文武天皇崩御。
         心労のため、文武帝は前年から病気気味だった

         阿閇皇女即位(元明天皇) 


元明天皇は、持統帝と同じ道を辿ることになったのでした

そして

高市皇子が造営した新益京の藤原宮を捨て、藤原不比等の氏寺(興福寺)が岡の上から御所を見下ろしているという都に移ります。

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(この新益京は捨てられました)


平城宮遷都(710)


首皇子(聖武天皇)の乳人は県犬養美千代です。美千代は光明子を生み、首皇子と一緒に育てました。首皇子は十四歳で元服します。


不比等は
皇太子が十五歳で即位することを望み待っていたでしょう。

父の文武天皇も十五歳で即位していましたから。条件は同じだと。

しかし、首皇子は稚いという理由で即位できず、姉の氷高皇女が即位したのです。

和銅八年・霊亀元年(715)

正月、吉備内親王の男女(子供たち)をみな皇孫に入れる

九月、氷高内親王即位(元正天皇)、改元


藤原不比等は、怒りに燃えたでしょうね。首皇子の即位のために準備に準備を重ねて来たのです。

即位はおろか、元明天皇は譲位の前に、あろうことか長屋王の男女を皇孫(二品)に引き上げたのですから、怒り心頭だったはずです。皇位継承候補者の中に長屋王の子どもたちが入るのですから、許せなかったでしょう。

これから、藤原氏の暗躍が激しくなりますね。




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by tizudesiru | 2016-12-26 21:46 | 183元明天皇の愛と苦悩 | Trackback | Comments(0)

183元明天皇の愛と苦悩

183天智帝の娘元明天皇の愛

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天智帝との繋がりを意識しているのは、藤原氏だけではありません。

天智の皇女であった元明(げんめい)天皇(阿閇(あへ)皇女九州の観世音寺天智天皇発願(ほつがん)寺」として速やかに造営するように詔を出しています。財政的に困難な時期にもかかわらず。元明天皇は、天智帝の意志を貫こうとしたのです。


皇位継承の法として

元明天皇は天智天皇が用いたという「不改常典(改めベからざる常の(のり))と初め定めた法」を、皇位継承の法として持ち出しています。それは、直系に皇位を継承するという意味で用いられたようです。天武朝が「自ら滅ぼした王朝の法」の「不改常典」の文言を使用するなんて、しかも「皇位継承法」として、です。すっきりしませんね。


この表記は次のように使用されました。

①元明天皇即位の詔(初見)(慶雲四年・707)

➁聖武天皇即位の詔(神亀元年・724)

③聖武天皇譲位の詔(天平勝宝元年・749)

④桓武天皇即位の詔(天応元年・781)


「天智帝が不改常典と初め定めたと伝えられる法」

このような表現は、以後歴代天皇の即位詔(宣命(せんみょう)に継承されていきます。

やや疑問なのは、近江朝での大海人(おほしあま)皇子(天武天皇)皇太子(大皇弟)でした。

ということは、実子に譲位する嫡子継承ではなく、従来通りの同世代(兄弟)継承です。同世代が終われば、次の世代に継承されるという方法が長い間行われていましたので、大海人皇子が皇太子であれば従来通りのやり方だったことになります。


しかし、元明天皇は、直系継承の「不改常典」として天智天皇が決めたというのです。


大海人皇子が吉野に去った後に、天智天皇が急いで決めたのでしょうか。書紀に記述はありません。元明天皇は天智天皇の皇女ですから、父の法を取り入れたいのでしょうか。気持ちはわかりますが、本当は何もなくて、天智天皇の名を借りただけかも知れません。真相はわかりません。


それとも、大海人皇子ではなく、直系である大友皇子に皇位継承がなされていたのでしょうか。(明治になって、大友皇子は弘文天皇と
諡号(しごう)が贈られ認められました

ともかく、元明天皇は「天智天皇の名を以ってして、皇位継承を確実なものとしたかった」のです。天武朝にとっての天智朝は、滅んでも尚大きな影響力を持っていたのでした。

だから、天智帝との結びつきを背景に、藤原不比等が持統帝に取り入ってきていました。持統帝はかしこい不比等を気に入っていたかも知れません。しかし、元明天皇は警戒していました。ですが、天武朝の皇子が力をつけて行く中で、孫の軽皇子を護るには、不比等を頼る他はなかったでしょう。

「高市皇子の死の真相」で述べたように、高市皇子の死は異常でした。何か言いがかりをつけられたか、事件が起こっています。

頭蓋骨を取り去り刀身を抜きとって、壁画の玄武と朱雀の頭を削り、黄泉の国から永遠にヨミガエリができないようにして葬られた人物は、誰だというのですか。高松塚の被葬者は、高市皇子以外には考えられません。

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高市皇子の薨去、その半年後に軽皇子の立太子でした。そして、更に半年後に十五歳での軽皇子の即位です。夫人は藤原宮子ですから、判事でしかなかった不比等の影の力、推して知るべし。


天武帝の皇子の子達には女子が数多いましたが、誰一人として軽皇子の後宮に入れていません。皇族の娘は皇后になれるからです。不比等はそれを阻止しています。他の嬪として、紀氏(竈門)と石川氏(石川刀自)を入れています。が、和銅六年には嬪の身分を削っています。宮子のみが文武帝の後継者の生母になれるのです。これは、藤原氏の横暴以外にないでしょう。

元明天皇は、心の底で藤原氏を畏れていたと思われます。



a0237545_14063970.png

しかし、元明天皇は天武朝の皇子達を頼りにはしなかった。文武帝の妃を見れば一目瞭然でしょう。皇族から一人の妃も出さないとは異常すぎます。



軽皇子(文武帝)の立太子に異議をとなえた弓削皇子(天武帝・大江皇女の皇子)は不審な死を遂げました。


元明天皇は持統天皇とともにひたすら軽皇子を護りましたが、持統帝亡き後は孤立無援状態でした。その愛と苦悩の果てに…


若くして文武天皇は崩御してしまうのです。


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苦悩の中で、元明天皇は草壁皇子の忘れ形身を愛し守り続けるのですが…
 また、次回






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by tizudesiru | 2016-12-25 22:41 | 183元明天皇の愛と苦悩 | Trackback | Comments(0)

182鎮魂の歌集・初期万葉集

182鎮魂の歌集・万葉集

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さて、三回にわたって藤原(ふじはら)不比(ふひ)()とは何者か」について書きました。


なぜ、このように不比等について書いたのかというと、政界に出てはトップまで上り詰めたのに、万葉集では藤原不比等の影があまりに薄いからです。彼は、歌を詠まなかったのでしょうか。


また、時は天武朝であるのに「滅ぼされた王朝の創始者・天智天皇との関係」を繰り返し持ちだす藤原不比等、それを許した持統帝と元明天皇を不思議に思ったからです。


万葉集の時代に、天皇の外戚として藤原氏は権力の頂点に上り詰めました


しかも、藤原氏は天智帝と鎌足の関係を強調したあげく天智帝の御落胤とまで主張し始めました。


時は、天武朝です。滅ぼした王権の残照にすがりつくなど考えられないことです。何ゆえ藤原氏が天智帝との結びつきを強調し続けるのか、それを時の皇室が許すのは何故か、大きな疑問です。


藤原氏は初期万葉集編纂に関わってはいませんし、壬申の乱の時子どもだった不比等が成長する間に、初期万葉集は一定の方向を以って編集され続けていました。

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(藤原氏関係の歌は、見ての通り、鎮魂の思いは何処にもありません。初期万葉集とは藤原氏関係の歌は、質が異なるようです)

他にも「幾つもの疑問」


万葉集を読むと、幾つもの疑問に立ち止まらねばなりませんでした。


持統天皇が心寄せるのは有間皇子であり、その追慕は尋常ではないが、どんな因縁があるのか…

・持統天皇は柿本人麻呂と他歌人に幾度も近江京を哀しむ歌を詠ませた、そのわけは?

人麻呂は「事挙げす」というが、何を事挙げしたのか

草壁皇子は病弱ではなかったのに、何故か即位しなかった!

天武天皇「吉野の盟約」に感動・歓喜したのはなぜか

・人麻呂は持統帝の詔により万葉集の編纂をしたのか

持統天皇と天武天皇の同じ場で詠まれた歌がないのは何故?

 光明子と聖武天皇の歌は残されているのに

人麻呂が柿本佐留だとすると、元明天皇の怒りは何だったのか


上記の疑問は、途中ですが少しずつ解けてきました。
ここで、改めて問い直しましょう。
万葉集は、誰が何の目的で編纂したのか。
それを誰が手を入れたのか。






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by tizudesiru | 2016-12-24 22:47 | 182鎮魂の歌集・初期万葉集 | Trackback | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(3)

181藤原不比等は何者か(3)


不比等は万葉集に歌を残してはいません。その館で歌は詠ませていますから、興味がなかったのではありません。不比等は教養人でもあったのですが、万葉集の世界とは異質な世界の人格だったのです。


兄の定恵(じょうえ)(貞慧)が果たせなかった仏教による国家の形成を目指し、不比等は律令による権力の掌握をもくろんでいました。


権力を握るために、あまたの女子が必要でした。めぼしい皇族に結びつくための子女が必要だったのです。


不道徳のようにも思えますが、できるだけ多くの女子を高貴な血統の氏族の女性に生んでもらうことが大切だったのです。


不比等の子(女子)

宮子(文武帝夫人)の母:賀茂小黒麻呂女賀茂比売

光明子(聖武帝皇后)の母:県犬養東人女県犬養三千代(橘三千代)

多比能(橘諸兄の妻)の母:生母不明

娥子(長屋王の妻)の母:生母不明

女(大伴古慈比の妻)の母:生母不明


(あがた)犬養(いぬかい)三千代は美努王(栗隈王の子・橘諸兄の父)の妻で、もともと文武天皇(683~707)と聖武天皇(701~748)の乳人(めのと)でした。不比等はこの女性に近づき光明子(701~760)をもうけました。


不比等(659~720)は、688年に判事になり、697年に藤原宮子入内(じゅだい)させています。娘の宮子が生んだ(おびと)皇子に、三千代に産ませた光明子を入内させるのですから、幸運というより計画的ですね。そして、光明子を皇族外からの皇后となすのです。


不比等の子(男子)

武智(むち)麻呂(まろ)の母:蘇我武羅自古(そがむらじこ)女娼子(蘇我連子の女、娼子または媼子)

房前(ふささき)の母:蘇我武羅自古女娼子

宇合(うまかい)の母:蘇我武羅自古女娼子

麿の母:鎌足女五百重夫人


五百重夫人に産んでもらいたかったのは、女子だったのでしょうね。


しかし、男子・麿が生まれた。不比等はがっかりしたはずです。麿は兄たちのようには出世していなくて、あまり不比等に愛されてはいなかったでしょうか。大伴(おほともの)坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の夫でもありました。


『尊卑分脈』には、藤原夫人(五百重娘・大原大刀自)は後舎兄(たん)(かい)(こう)(不比等)と密通し麿を生む…とあります。

「尊卑分脈」とは、南北朝時代の公家が書き残した系図です。


淡海公に込められた意味=天智天皇の御落胤


(たん)(かい)(こう)とは、天平宝字四年(760に贈られた称号です。

まるで、淡海御宇天皇を思わせるような称号ですね。

「興福寺縁起」ばかりではなく、「大鏡」『公卿補任』「尊卑分脈」などで、不比等は天智天皇の御落胤と書かれているそうです。

淡海公とは、いったいどのような経緯で贈られたのでしょうか。

それは、760年に贈られた追諡です。前後の出来事を見ましょう。

757年(天平勝宝九年)、光明子の兄であった橘諸兄が一月に亡くなると、半年後の七月に諸兄の子『橘奈良麻呂の謀反』が発覚したとして、大量の刑死者と処分者を出します。

半年後の法則とでも言いましょうか。

藤原氏がかかわった謀反事件は、半年後に結果がでますよね。

謀反事件で政敵を一掃するのは、藤原氏の常套手段でした。

757年 (たちばな)奈良(なら)麻呂(まろ)らの謀反事件

758年 (こう)(けん)天皇大炊(おほい)王に譲位。(じゅん)(にん)天皇即位。

759年 正月一日、因幡国庁での家持の最終歌(万葉集最終歌)

760年 一月藤原恵美押(えみのおし)(かつ)太師(太政大臣) 六月光明子

    八月不比等淡海公と追諡。武智麻呂と房前に太政大臣    

759年 大伴家持は歌の道を断つ。藤原氏の謀略横暴になすすべ無しと、世の中に絶望したのでしょうね。

そして、760

即位した淳仁天皇は、藤原仲麻呂に「恵美押勝」を贈ります。

光明子が薨去すると、さっそく父の不比等に「淡海公」と(おくりな)するのです。

当然、藤原仲麻呂(なかまろ)=恵美押勝の意思よって奉られた(おくりな)です。

不比等が天智天皇の御落胤であることを明示するために。

仲麻呂は、藤原四兄弟の武智麻呂の子で、仲麻呂の時代に藤原氏の「藤氏家伝」が書かれています。思いのままに、天智天皇と鎌足の信頼関係を述べたことでしょう。そして、不比等と武智麻呂の功績を。

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万葉集の最終歌は、大伴家持の絶望を伝えます。
橘諸兄の死後、藤原氏の横暴はついに「橘奈良麻呂の謀反」の発覚という事態を招き、多くの有力者が刑死・流刑などの処分を受けます。家持は藤原氏に取り入り難を逃れますが、決して逃れきれるものではなかったのです。
家持は、絶望の中で、言霊により世の安泰を祈ったのでした。





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by tizudesiru | 2016-12-24 01:08 | 181藤原不比等とは何者か(3) | Trackback | Comments(0)

181藤原不比等とは何者か(2)

181藤原不比等とは何者か? その2

前回、藤原(ふじはら)不比等(ふひと)(鎌足の二子)の母は誰なのか? と書きました。

興福寺(こうふくじ)縁起(えんぎ)には、(かがみの)王女(おほきみ)が不比等の母だとしました。

それは不可能ではありません。


しかし、万葉集事典では「母は
車持(くるまもちの)国子(くにこの)君女(きみのむすめ)としています。興福寺としては、車持国子君女では「役者が足りなかった」ので、鏡王女としたのでしょう。


が、鏡女王が高貴な女性であれば、鎌足の正室の位置にあって一族に采配しても、鎌足と寝所を共にしたとは思えません。

鎌足と鏡王女の万葉集の歌は、公の場で詠まれたものです。天皇の前で詠まれたものかも知れません。


平安時代も、高貴な女性であった皇女・内親王は皇族以外の男性に嫁することはできなかったのですから。その身分を冒すことは大変なことだったのです。鏡王女が天智帝の子を身ごもり、定恵を生んだ可能性はあります。鎌足の子として育ったとしても、世間には高貴な血だと知られたでしょう。


定恵が高貴な血統だとしたら、鏡王女は鎌足を受け入れることはないでしょう。定恵意外に子をもうけないことが、その身を護った証明となるのですから。鏡王女は我が子を強く愛し、国外に留学させたのは理由があると思います。それは、機会があれば、いずれ。


これで、天武帝が鏡王女を見舞った理由が明白になります。生涯を鎌足の正室としながら、天智帝の寵妃であった過去を守り続けたその意思に対しての労いです。世間にもこれほどの美女はなく、これほどの意志の強い女性はいなかった、そして、藤原氏を護った聡明さに対しての労いです。

それを、世間も望んだということです。


それは、鏡王女が皇族だったことの証明にもなるでしょう。

天武帝の異母妹だったかも知れません。


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不比等の生涯を見ると、持統帝の即位の時期に合わせて台頭してきます。

文武帝即位では、娘の宮子を夫人として皇室に接近し、

翌年には、藤原の姓()けました。

藤原の姓は「藤原鎌足」が天智天皇から賜ったものであるから、不比等の家系以外は中臣に戻したのでした。

不比等は、大宝元年には大納言、和銅元年には右大臣です。

養老元年(717)に左大臣の石上麿が没しますから、最終的に不比等が議政官のトップになるのですが、何故か、

元正天皇(文武天皇の姉・草壁皇子の娘・独身)は、不比等を左大臣には任官しませんでした。

元正天皇の陰には母の元明天皇がいて、その意思が働いていたのでしょう。

元明天皇には夫の草壁皇子の意思を受けての信念がありました。さっそく、長屋王を議政官に任じます。

養老二年(718)、
長屋王(高市皇子の長子)が大納言に任じられる

高市皇子の王子がこれから権力の坐へ登っていく。誰にもそう見えました。

長屋王の妃は、文武天皇と元正天皇の妹(吉備内親王)だったのですから。

ここから、長屋王家の滅亡計画が藤原氏により密かに進められていくのでしょう。

720年に不比等が没します。

そこで、不比等の意志を継いだ長男の武智麻呂が長屋王家を滅ぼすという展開になるのです。

藤原氏は徹底的に天武皇統を切り捨てて行きました。
それは、不比等の遺言だったと、わたしには思えます。

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長屋王の父母は、共に皇女と皇子です。
母の御名部皇女は天智帝の娘です。父は高市皇子、子供たちは吉備内親王の子であり、元明天皇の孫です。
何もかもそろった長屋王に権力が渡れば、天武王朝は安泰となる…それは、藤原氏には許せない事でした。
藤原氏は律令により権力を握ろうとした氏であり、天智天皇の腹心でした。




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by tizudesiru | 2016-12-22 14:26 | 181藤原不比等とは何者か(2) | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
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177持統帝と天武帝の絆の深さ?
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197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
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208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
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212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
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224樟が語る古代
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226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
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232岩戸山古墳の歴史資料館
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240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
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243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
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252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、仏像を供養したのか

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