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173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

高市皇子を裏切った但馬皇女


記紀には道ならぬ恋の話が出てきますが、その恋は許されていません。

しかし、天武朝では許されたのでしょうか。


高市皇子の宮に居た但馬皇女は、穂積皇子を好きになります。二人は恋仲になったようですが、

穂積皇子も但馬皇女も咎めは受けなかったのでしょうか。

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但馬皇女、高市皇子の宮に
(いま)す時、穂積皇子を(しの)て作らす御歌一首


114 秋の田の穂向きのよれるかたよりに君によりなな
(こち)()くありとも


 秋の田の稲穂は重くて片方によってしまうが、その片よりのように貴方にわたしは寄り添いたい。どんなに人がいろいろ噂して煩わしくあっても。


穂積皇子に勅して近江志賀の山寺に
(つか)はす、但馬皇女の御歌一首


115 
(おく)れいて恋つつあらずは追いしかむ道のくまみに標結え吾がせ


行ってしまった貴方を恋しく思いながらいるよりは、追いかけて行きますから、道の曲がり角ごとに標を結って神様にお祈りしていて下さい、あなた。


但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、
(ひそか)に穂積皇子に()い、事すでに(あらは)れて作らす御歌一首


116 
人事(ひとごと)を繁みこちたみ(おの)が世に未だ渡らぬ朝川渡る


世間の噂がひどくて煩わしいので、生まれてこの方一度も渡ったことのない川を、それも朝川を私は渡る

   但馬皇女の御歌一首  一書に云う子部王(ちいさこべのおおきみ)作る


1515 事繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひてゆかましものを


世間の噂が激しくて耐えられないような里に住まないならば、今朝鳴いていた雁と一緒に連れだって飛び去ったのに


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但馬皇女(こう)ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷(ひしょう)流涕(りゅうてい)して作らす御歌一首

203 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)()(かい)の岡の寒くあらまくに


雪が降って来た。雪がたくさん降ったならあの人が眠っている吉隠の猪養の岡が寒いだろうから、多くはふってくれるな。

この二人が許されていたとは。高市皇子の妃は御名部皇女(持統帝の妹・阿閇皇女の姉)ですし、不思議です。但馬皇女は世間の噂の中でも、自分を貫いたのでした。二人を結びつけたのは、天智朝の重臣の家系だという自負でしょうか。藤原不比等の後ろ盾があったのでしょうか。

但馬皇女

父・天武天皇  母・藤原鎌足の娘、氷上娘

?生~和銅元年(708)没

高市皇子の宮に住んでいた

若い穂積皇子に惹かれていた

穂積皇子

父・天武天皇  母・蘇我赤兄の娘、大蕤(おおぬ)

壬申の乱後?生~霊亀元年(715)薨去

・持統五年(691)浄広弐  妻・大伴坂上郎女






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by tizudesiru | 2016-11-30 17:15 | 173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌 | Trackback | Comments(0)

172続・糸島の神社・再訪問

糸島神社巡の続きです
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宮地岳山上の熊野社

吉備真備が渡唐の時神に祈ったという宮地岳の山頂の熊野神社(祠)に行きました。
吉備真備は大学者で、聖武天皇の娘の孝謙天皇の養育係でもありました。

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藤原氏のために九州の怡土城(いとじょう)築造をさせられたリ、二度も唐に遣唐使として遣られたり、東大寺造に従事させられたりなど、さんざん都の中枢より遠ざけられます。しかし、「藤原仲麻呂の乱」では、孝謙天皇が素早く真備を呼び出しました。真備は仲麻呂の逃走路を断ち、乱を鎮めました。
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福津市ではなく、糸島市の宮地岳山上の宮地嶽神社です。お宮の紋は福津市の宮地嶽神社と同じです。
あのJALの『光の道』で有名になった宮地嶽神社と、です。


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次に、正八幡神社に行きました。長野川のほとりにあります。
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そして、太田神社に行きました。

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太田神社は糸島七寺の夷巍寺の近くです。この寺の所在はまだ確認されていません。
聖武天皇の時代にはあったという七寺の内、一つも確認されていないのです。
この山門は、ぽつんと道の真ん中に残されています。
大きな仁王が二躯、山門に安置されていて、わたしは泥棒の心配をしてしまいました。
 
この寺の前の道を左に折れると、太田宮の常夜灯が民家の間に残っています。民家の屋根より高いのです。

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この前の道を進むと太田宮です。

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ここは、二丈町大字一貴山です。ここに、大田命を祀る大田神社(神額には太田)です。
神と地名と結びつかないのです。意味深な由緒書きです。

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社殿に到る階段に石が祀られています。社殿の後ろには大石がありました。

太田命は、おおたたねこ(太田タネコ)とつながりがあるのでしょうか?

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次の機会に




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by tizudesiru | 2016-11-29 13:34 | 172糸島の神社 | Trackback | Comments(0)

172糸島の神社・雉琴・宇美八幡・神在・太田

糸島の神社・再訪問

糸島には神功皇后の伝承が至る所にあります。

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雉琴神社には次のような由緒書きがありました。
神功皇后は雷山(曽々岐岳)に登り神祀りをして戦勝祈願をしたら、夢枕に「ヤマトタケル」が立ち、賊徒討伐の方法を教えてもらった。雉の鳴き声を琴の音に聞いて目覚めたので、帰還の後、日本武命を祀り『雉琴神社』と名付けたと
いうことです。
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雉琴神社は他にもありました。社は既になくなっていました。近くに神功皇后の腰掛石がありました。


神功皇后伝承地の宇美神社。応神天皇の誕生伝説の地
ここは、糸島市の長糸です。
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昔は海から川をさかのぼってこの地にあがったのですね。宇美八幡の参道は川から始まっています。参道の脇に近所の田畑から集められた「支石墓」が置かれてました。運よく捨てられなかったのですね。庭石にもされなかった…
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神社の境内は。5世紀~7世紀の墳墓群です。首長の墳丘墓は山上に作られました。
糸島も、福岡平野も、周囲の小さな丘陵は全て古代の墓地と云っても過言ではありません。山を歩くと石室の石組みが露出しているのでぞっとします。
宇美八幡宮は、糟谷の宇美の宇美八幡が有名ですが。ここが、元宮という人もいます。
上宮は仲哀天皇、本宮は誉田別天皇・気長足姫命・玉依姫命・ニニギ尊
古くは長野八幡宮 
⊛宮司家は武内さん・武内宿祢の御子孫とか…
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本宮階段下に宮地嶽神社が摂社としてありました。
祭神に
勝門姫命・阿部助盛命・阿部高盛命・志那津比古・志那津比売・大山祇命
勝門姫命(勝ちど姫)とは、誰でしょうね。たらし姫のことでしょうか。

万葉集に、山上臣憶良の気長足姫の歌があります。
869 たらしひめ 神の命の 魚(な)釣らすと み立たしせりし 石をたれ見き
たらし姫が魚を釣ろうとしてお立ちになったその石を誰が見たというのだろうか
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近くに大石があります。15年ほど前に見た時は畑の中に見えていました。しかし、今はすっかり竹藪の中でした。驚きました。神在の地名は「神在り」そのものでしょうか。
他の神社にも、行きましたが
また後で







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by tizudesiru | 2016-11-29 10:20 | 172糸島の神社 | Trackback | Comments(0)

171額田王の歌の紹介

額田王の歌を紹介します

額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。

でも、天智天皇を待つ歌がありますね。斉明天皇にも仕えています。

額田王とは如何なる人だったのでしょうか。

では、天智朝では、どんな立場だったのか。それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。
女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌はかなり政治的ですね。

最晩年には粟原寺を建立したことになっています。

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では、額田王の歌の紹介です

額田王歌


7 秋の野の 美草刈り葺きやどれりし兎道のみやこのかりほしおもほゆ


 額田王歌


8 熟田津に船乗りせむと月待たば潮もかなひぬ今はこぎいでな


 紀温泉に幸す時に額田王の作る歌


9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が背子がい立たせりけむいつ橿が本


 


 天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌



16 冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を
()み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我れは 



額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌


17 
(うま)(さけ) 三輪の山 青丹吉 奈良の山の 山のまに いかくるまで 道の  (くま) い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむやまを (こころ)なく雲の 隠そふべしや


反歌

18 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠そうべしや


*井戸王(意のへの王)の歌は省略

神の山の三輪山、その三輪山が青丹よし奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲りが重なってしまうまでも、見ながら行きたいのに。何度でも見ておきたい山なのに。私の気持ちの分からない雲が隠してしまう。心無い雲が隠してもいいのだろうか。(17)

神山の三輪山を、よりによって何で隠すのか。雲にだって心があろうに。三輪山を隠したりしていいものだろうか。(18)

この二首を山上憶良は類聚歌林に「都を近江の国に移す時に三輪山を御覧になっての御歌」としています。つまり、天皇の歌だというのです。

 天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌


20 
あかねさす紫野行き標野ゆき野守は見ずや君が袖振る

額田王、(こた)へ奉る歌一首(倭京より(たてまつ)り入る)


112 
いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我がもえるごと

吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首


113 
み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく


天皇の
大殯(おほあらき)の時の歌二首

151 かからむとかねて知りせば大御船()てし()まりに標結はましを

山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首


155 
やすみしし 我ご大王の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は ゆき別れなむ

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首


488 
君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く


*巻八・1606は、488と同じ題詞で同じ歌

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藤原宮・新益京




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by tizudesiru | 2016-11-28 17:02 | 171額田王の歌の紹介 | Trackback | Comments(0)

170額田王が草壁皇子の為に寺院建立

170額田王は草壁皇子のために寺を建立した


明日香に帰って、額田王は何をしていたのか?


十市皇女の突然死で苦しんでいましたが、深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後は遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させました。

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草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立?

なぜ? 草壁皇子?

額田王は天武帝の皇子にも尊敬され、藤原氏とも交流があったようです。

中でも、藤原朝臣大嶋とは親密な仲だった、つまり結婚していたいう…

額田王は比売朝臣額田なのでしょうか。

談山神社に、元は粟原寺にあったという国宝の鉢が残されています。粟原寺の塔が完成した時に上げられた露盤で、そこに銘文があり、次のような記述があるのです。
談山神社は藤原氏所縁の神社です。

この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

この功徳により仰ぎてお願いすることは

皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。

(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。

様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

甲午年・持統八年は694年で、和銅八年は715年です。

日並御宇東宮(草壁皇子) このようは表現は、他の資料にはありません。

この年(694)の十二月に、藤原宮に遷都します。(しん)(やくの)(みやこ)藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都だと云われています。


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藤原宮大極殿跡
下は耳成山と藤原宮、南大門跡
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NHKのテレビ画面を撮影

藤原大嶋は、藤原の姓を不比等の血統だけに限られて、中臣の姓に戻っています。
彼は藤原鎌足の亡き後、藤原祝詞をもって天智帝に仕えた藤原金の甥です。
藤原金は、壬申の乱で大友皇子が破れた後に斬られました。

天智帝に右大臣として仕えた叔父の冥福も祈りたかったのでしょう。
しかし、大嶋は持統八年に死去します。
その意志を額田王が受け継いだのでしょう。

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それにしても
なぜ、草壁皇子を「日並知皇子」ではなく、

日並御宇東宮(草壁皇子)
と表現したのでしょう。

傍から見ると、やたらゴマをすっているように見えますが、天武帝も持統帝も文武帝も全て鬼籍に入っています。ゴマをする相手は誰もおられません。

粟原寺の建立を待ち望んだ人は…額田王一人?

比売朝臣額田(女性です)が、伝承通り額田王だとすると、八十歳も過ぎた年齢となります。

ここにあるメッセージは、草壁皇子は特別大事な存在
ということでしょう。

何が特別だったのでしょう。

またあとで


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by tizudesiru | 2016-11-27 17:09 | 170額田王が建立した粟原寺 | Trackback | Comments(0)

169・額田王の恋歌と素顔

169額田王の恋歌と素顔


額田王は恋多き女性だったのでしょうか。
美女だったようですが。


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万葉集にも額田王の恋の歌はあります。巻四と巻八に。

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首

488 君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く

*巻八1606は、巻四488と同じ題詞で同じ歌


あなたが何時お出でになるかと待っていると、わたしが恋しく思っているからでしょうか、わたしの館の簾を動かして秋風が吹いてきました。簾をうごかしたのは、あなたではなかった…


額田王の歌は、
78916171820112113151155488・(1606)の13首 のうち1首は重複してるので、12首。


内容を見ると、非常に政治的な歌が多いようですね。

488と1606以外の歌を見てみましょう。

7は、額田王(兎道若郎子の京を歌った・悲運な皇太子を暗示

8は、額田王(百済救援軍として熟田津を出航する時の歌

9は、紀温泉に幸す時に額田王の作る歌(有間皇子事件当時の詠歌


8は、斉明天皇御製歌とも「類聚歌林」にかかれているという。天皇に代わって額田王が歌を詠んだと云われているのです。いずれも斉明天皇の時代の歌です。

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額田王は若かったのに、上の三首は恋愛とは関係ないようですね。

16は、天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌天皇の詔で判定する歌

17は、額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌(近江遷都の時の詠歌

18は17の反歌

20は、天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌(天皇の宴席での詠歌


16は、非常に文化的な内容での天皇の詔です。春と秋のどちらが優位なのかを、額田王が判定するのです。次は、遷都の時の詠歌と「類聚歌林」に書かれているので、公的な詠歌です。その次も、天皇の前で詠んだもの。

額田王は、立場的に公の場で活躍していた、常に政治の表に立っていたようです。


額田王はただの美女ではなかった!?

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額田王こたへ奉る歌一首

112は、額田王、(こた)へ奉る歌一首倭京より(たてまつ)り入る弓削皇子に奉る歌

113は、吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首弓削皇子に奉る歌

年を取った額田王に若い皇子が様々に問いかけたのでしょう。

公的な舞台から身を引いても、若い皇子に頼りにされる存在だったことが分かります。学識経験者として、政治的相談役だったのでしょうか

151は、天皇の大殯(おほあらき)の時の歌二首天皇の葬儀の挽歌

155は、山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首(天皇の葬送儀礼の挽歌


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この二首は、天智天皇の葬送儀礼の時の挽歌です。倭姫皇后や石川夫人(蘇我石川麿の娘の姪娘)と共に、額田王の挽歌も残されています。


額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。では、天智朝では、どんな立場だったのか。
それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。

女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌からかなり政治的なものが読み取れます。しかも、才能ある美女だった、そんな額田王を天智天皇も愛したに違いありません。
 
葬儀の最後まで額田王は、山城陵にいたのですから。
明日香に帰った額田王は何をしたのか、そこに、大きなメッセージが残されているのです。



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by tizudesiru | 2016-11-26 22:43 | 169額田王の恋歌と素顔 | Trackback | Comments(0)

168・額田王は天智天皇を愛し続けた

168・額田王は天智帝を愛し続けた

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112 (いにしえ)霍公(ほととぎ)()(もえ)


過ぎた昔を懐かしむ鳥は、それは霍公鳥でしょう。霍公鳥は蜀魂とも云われていて、亡き皇帝の魂が鳥となった姿だそうですよ。あなたが見たその鳥は不如帰です。きっと私が昔のことを懐かしく思うように、懐かしそうな声でその鳥も鳴いたことでしょうね。
 


額田王は、王朝が変わっても、幾つになっても、天智天皇を偲びました。


額田王は天智帝の崩御・葬送儀礼の最後まで仕えた人です。

書紀には初めは天武帝(大海人皇子)に召され十市皇女をもうけたと書かれています。万葉集の「中大兄の三山歌」は、大海人皇子と中大兄が額田王を争った歌だとも解釈されています。

その額田王の歌です。(額田王については「144・有間皇子事件の目撃者」で既に紹介していますが、斉明帝にも仕えていました)

ここでは、額田王自身が最後まで愛した人は誰かということです。

それは、天武天皇(大海人皇子)ではありません。

明日香での額田王の暮らしは、天智天皇を偲ぶ毎日だったのでしょう。

額田王の歌・万葉集巻二にある112番歌は、弓削皇子(699没)とのやり取りの歌です。

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若い弓削皇子は、父の天武帝より先の帝の方を愛しているに違いない額田王に興味を覚えたのでしょうか。

ゆづるはの三井の上を鳴き渡って行った鳥がいましたが、あれは昔を懐かしむという例の鳥でしょうか。どうでしょう?


天智帝・天武帝の二人ともすでに鬼籍に入っているのです。どちらを霍公鳥にたとえてもいいのでしょうが、額田王は「ゆづるはの(王朝を譲った)三井」の上を鳴き渡った「その鳥は不如帰」と答えました。あっさりと「わたしも昔のあの方が懐かしい」と返したのでした。


弓削皇子はこの後も額田王と歌のやり取りを続けたようです。

さて、
額田王と大海人皇子とのやり取りで有名なのは、「天智天皇が、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)(668年)された時の歌」がありますね


天皇、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌


20 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る


紫草の生える野には標が張られ立ち入りが禁止されている、その紫野を行きながら貴方がそんなことしては野守に見られないでしょうか、わたくしに袖を振るなんてこと。

皇太子の答へたまふ御歌


21 
(むら)(さき)のにほへる妹をにくくあらば人嬬(ひとづま)ゆえに吾恋めやも


まるで紫草のように美しい貴女を心憎く思っていたら、人妻のあなたに惹かれたりはしないでしょう。


四十歳近くの額田王としては余裕の歌なのでした。

額田王と皇太子(大海人皇子)は、天智天皇の宴の席で歌のやり取りをしているのです。衆人が見ている中で。

二人は、かっては子ども(十市皇女)までもうけた仲。誰もが知っていました。


今( 668)は、額田王は天智に仕えていて、娘(十市皇女)は天智帝の後継者である大友皇子の妃となっていました。

大友皇子と十市皇女の間に葛野王が生まれるのは、次の年(669)です。

やがて、天智十年(671)天皇崩御

そして、壬申の乱(672)大友皇子敗れる

その後、額田王と十市皇女は明日香に帰った


額田王は、明日香に帰っても天智帝を想いつづけていました
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額田王の気持ちは当然弓削皇子にも伝わったことでしょう


弓削皇子は天武天皇の息子であり、天智天皇の孫、母も天智帝皇女でした。
皇統を継げる血統だったのです。
それが故に、軽皇子(文武天皇)の立太子に異議を申し立てたのです。
それを、十市皇女の息子の葛野王に叱責され止められました。

弓削皇子が言いたかったのは何だったのか。葛野王が弓削皇子を𠮟った理由は何だったのか。気になる所です。
それが為の、弓削皇子の早世(文武三年)でしょうか

またあした




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by tizudesiru | 2016-11-25 15:24 | 168額田王は天智天皇を愛し続けた | Trackback | Comments(0)

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

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文武天皇は15歳で即位しました。

夫人は藤原宮子(不比等の娘)です

文武天皇は若い天皇でしたから、持統天皇が太上天皇として全面的にバックアップしたのです。

ですから,文武天皇の仕事には、持統太上天皇の意思が入り込んでいるのです。

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その中に、おや? と思う仕事があります。


文武三年(699)の山田寺に封三百戸


それに、越智(斉明天皇陵)と山科(天智天皇陵)の造営
です。

山田寺は祖父蘇我石川麿が無念の最後を遂げた寺です。

そして、斉明天皇は天武天皇の母、天智天皇は天武天皇の兄。


陵墓の造営(改葬になります)は当然でしょうか?

ここで、 前に紹介した「163・持統天皇の最後の願い・火葬と合葬」を思い出してください。


持統天皇は真っ白な骨となって、天武天皇陵に合葬されたのです。霊魂がその墓を離れ、未来永劫飛びまわるために。

陵墓の造営が重要であること、祖先・天皇の墓はその王朝にとって意味があること、お分かりですよね。

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(山城の天智天皇陵)

では、高市皇子(天武天皇の第一子)の墓が高松塚であれば、その墓と文武帝は如何なる関係になっているでしょう。

以前、高松塚古墳は文武天皇の墓という伝承がありました。

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(まだ、高松塚古墳の石室が調査中のライン・石室の真上を通っています)


治田神社(草壁皇子の岡宮跡)→高松塚古墳石室→岡宮天皇陵(草壁皇子陵の改葬前の墓)


高市皇子は、後皇子尊(のちのみこのみこと)と呼ばれました。

であれば、草壁皇子の宮跡とその陵墓に挟まれて眠るのは当然かもしれません。

そして、あろうことか、文武天皇の崩御。

持統天皇亡き後の公務が多すぎたのでしょうか。

a0237545_11211097.png

文武天皇陵は、現在天武天皇の真南になっています。しかし、最近「中尾山古墳」(八角形墳丘墓)が改装後の文武天皇陵とされています。

その中尾山古墳は、なんと耳成山の真南にあります。


高市皇子と耳成山の間ですね。

そのわけは、①耳成山と高市皇子の霊力を受け取ろうとした。

または、  ➁高市皇子と耳成山の霊力を遮断した。


更に、草壁皇子の墓も最近は岡宮天皇陵ではなく、「束明神古墳」とされています。

よりよい子孫の繁栄を願って陵墓を改装したのでしょう。
それも、牽牛子塚(斉明陵)、天智陵、中尾山古墳と、八角形の極位に上ったという墳丘墓の形式に揃えたかったということでしょうか

a0237545_11292294.jpg


持統帝の天智天皇への思いがだんだんはっきりしてきましたね。

a0237545_09264003.png


文武天皇の傍に藤原氏がぴったりと寄り添って、その行動をコントロールしていたのも確かです。

藤原氏は計画的に謀略を積み重ねて、権力の頂点に駆け上っていくのです。


また明日


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by tizudesiru | 2016-11-24 11:34 | 167持統帝の孫・文武天皇の仕事 | Trackback | Comments(0)

166・高市皇子・万葉集で一番長い挽歌

166・高松塚古墳の被葬者と耳成



持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。


死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。

a0237545_21335032.png

万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。



高市皇子は、
天武天皇の第一子・妻は天智帝の皇女でした。
草壁皇子の死後、後皇子尊(のちのみこのみこと)とされ、権力の中枢に入りました。
 持統天皇十年(696)七月・薨去



高市皇子の陵は、高松塚古墳という説があります。


壁画装飾で知られる高松塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。


高松塚古墳は、耳成山の真南に位置します。将に、


「耳に成す山」の真南です。時の最高権力者の墓と言う場所です。

a0237545_15135705.png

発掘された骨は、40才過ぎの壮年の男性でした。

では、高市皇子となります。


高市皇子は最高権力者となったことになります。書紀では「太政大臣」となっています。妃は御名部皇女(天智天皇の娘・蘇我石川麿の孫)でした。

高市皇子の挽歌は、長歌は草壁皇子の2倍以上あります。

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高市皇子尊の城上(きのへ)(あらき)(のみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

 

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天御門を かしこくも定めたまいて 神さぶと 磐隠ります 八隅しし わが大王の

 

ことばに出すこともはばかれる、言葉にして言うことも何とも畏れ多い、明日香の真神の原に ひさかたの天上の聖なる御殿を畏れ多くもお定めになって、神として窟におられる 世をお治めになった我が大王の


ここに歌われているのは、天武天皇のことです。人麻呂は、挽歌の冒頭には天武天皇のことを述べ、高市皇子の血統を示しました。


(わが大王の)きこしめす 
背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下治めたまひ ()す国を 定めたまふと (とり)が鳴く 東の国の 御軍士(みいくさ) 召したまひて ちはやぶる 人を(やは)せと (まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら (よさ)したまへば 大御身に 太刀取り()かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を (あども)ひたまひ 


我が大王のお治めになる北の(美濃)の国の 真木の立つ不破山を越えて、和佐射見の原の 行宮に 神のように天降りおいでになって 天の下をお治めになって、統治なさる国を鎮めようと、鶏が鳴く東の国の 軍勢をお集めになって、荒れる人々をおさえ鎮め、従わない国を治めよと、皇子であるからこそお任せになったので、皇子はその御身に太刀をお佩きになり、その御手に弓をお持ちになり、軍勢を率いられた。 


ここも、ほとんどが天武帝の命令を高市皇子が受けたことが語られているようです。

この後に、戦で高市皇子が活躍したことが述べられています。

要約すれば・


鼓の音は雷の声かと聞き違えるほど

兵士が掲げる軍旗の靡きは、野火が風にあおられるように見え

弓はずの音は、大雪の降る冬の林につむじ風が吹き渡るように聞こえ

飛んでくる矢があまりに多く、大雪が飛んでくるようだった

立向かう兵士も命がけで戦っていた時、

渡会の伊勢の宮から神風が吹いてきて、その天雲で敵を覆ってしまった

そうして、水穂の国を 神として大いにお治めになった


高市皇子の壬申の乱での活躍が語られました。
要約しましたが、壬申の乱は夏だったはずですが、ここではま冬の厳しい戦いとして書かれています。

 長いのでここで一休み。

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さて、続きです。

やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 
()綿花(ふばな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に (よそ)い奉りて (つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ (ぬば)(たま) ゆうべになれば 大殿を 振りさけ見つつ (うずら)なす いはいもとほり さもらへど さもらひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに おもいも 未だ尽きねば 


天下をお治めになった我が大王(天武帝)に、我が大王(高市皇子)が天下のことを申しあげられたので、いつまでもそうであろうと、結う花のように栄えていた時に、我が大王の皇子の御殿を 神殿(御霊殿)として飾りたて 仕えていた御殿の人も真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の庭に 一日中を鹿ではないが腹這い伏して、暗い夜になれば 御殿を仰ぎ見ながら 鶉ではないが 這うようにうろうろし、お仕えしているけれど、お仕えするかいはなく、春の鳥のように鳴き迷っているのに 悲しみも未だおわってはいないのに、皇子を想うこともまだ尽きてはいないのに


何もかも受け入れがたく、気持ちの整理がつかないままなのに、皇子の霊殿から殯宮へと亡骸をお送りすることになってしまった、のです。
次は、殯宮の様子です。


言さえく 百済の原ゆ 
神葬(かむはぶり) て あし   て ら ぬ も 大王

万代(よろづよ)に て し 香久山宮   と つ き む 


あの百済の原を通り抜けて、神として葬り奉り、城上の殯宮を 常にお住まいになる宮として 高くお祀りし 神としてお鎮まりされてしまった。しかれども、我が大王が「万代までも」と思われてお造りになった香久山の宮(藤原宮)、この宮は、いつまでも残って行くと思われただろう。

天を仰ぐように皇子を振り仰ぎながら、玉だすきを懸けるように、皇子のことを心にかけてお偲びしたい。畏れ多いことだけれど。


さて、人麻呂は高市皇子を如何に詠み奉ったでしょうか。

天武天皇が天下を治めた

その皇子は天皇のために戦の前線にたった

その戦いは、敵を圧倒した

すっかり皇子の代になると思っていたのに

皇子は亡くなり、誰もが混乱した

皇子は城上の宮にお住まいになるが、お造りになった藤原宮は万代まで栄えてほしいだろう

皇子をこれからも偲んでいこう


という内容です。


あまた言葉が並んでいますが……

高市皇子は、確かに大王だったようです。天武天皇と同じ文字「大王」を同じ詩篇の中に使われていますから。

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高市皇子は、耳成山の真南に葬られた方のようです。

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しかし、その耳成山との霊力は断たれます。

なぜ?

それは、明日

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by tizudesiru | 2016-11-23 15:20 | 166高市皇子と高松塚古墳 | Trackback | Comments(0)

165・天武大地震(678年)=筑紫大地震

天武天皇七年(678)


九州で大地震
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(福岡県久留米市で、耳納断層に関わる筑紫大地震の爪痕の特別展があっています)

この地震により、筑紫平野の寺院や役所が倒壊しました。上岩田遺跡の瓦が出土しています。ほとんどが垂木先瓦でした。「たるきさきかわら」とは、屋根ではなく垂木の木部が風雨にさらされて痛むのを防ぐための瓦です。
屋根を葺く瓦は他の寺院に運ばれて再利用されたので発掘されなかったのです。
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(小郡埋蔵文化財センターの展示物・写真撮影可能)

八弁蓮華文の文様で、蓮弁の中に子葉があります。飛鳥の山田寺の瓦の文様と同じでしょうか。
瓦のお話もしたいですね……
また、東日本で地震がありました。
大きな被害になりませんように。
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by tizudesiru | 2016-11-22 12:12 | 165天武大地震(筑紫大地震)678年 | Trackback | Comments(2)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
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209石舞台・都塚・坂田寺
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212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
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232岩戸山古墳の歴史資料館
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