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143おほなむち少彦名の神こそは

筑前國宗形郡名兒山を越える時の歌・万葉集巻六
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これは、大伴坂上郎女が詠んだ歌です。この歌は、様々なことを教えてくれます。
時は 天平二年(730)冬十一月、
   (旅人は大納言に昇進し帰京することになった)
   大伴坂上郎女は大宰府の帥の館を出て道に上り
  (一足先に帰京することになった)
   筑前の国の宗形の郡の名兒山を越える時に作る歌
  (名兒山を越えて何処へ立ち寄るのか)
   津屋崎側から名兒山を越えると、そこに或る社は宗形の神。
  (宗像神社にお参りする。他には考えられない)
   名兒山と初めて名づけたのは「大汝、小彦名神」という……
  (古代に津屋崎辺りを手中にしていた神は、大汝=大国主だったのですか!!)

名兒山は宮地嶽神社のある津屋崎にある山地の山です。宮地岳・在自山・対馬見山と連なって、名兒山・桂岳と続いていきます。
  
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 大汝と少彦名の神こそが始めて名付けられたという名兒山、その名を負う名兒山と聞いても、わたしが恋しく思う心には、ほんの少しも慰めにはならないのに。
 この歌には、他の読みかたもあります。
大汝 少彦名の神こそば 名付けそめけめ 名のみを 名兒山と負いて 吾が恋の 千重の一重も なぐさめなくに」
此の名兒山の名は、神代の昔、大国主命と少彦名命がはじめて名付けられた由緒深い名だということであるが、心が和むという、名児山という名を背負っているばかりで、わたしの苦しい恋心の、千のうちの一つさえも慰めてはくれないではないか。「万葉集釋注・伊藤博著」より

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それから、もう一つ
   旅の途中に船を下りて、道にあがって、名兒山を越えて、坂上郎女が立ち寄ったのは、何処でしょうね。
 名兒山を越えると宗像神社です。坂上郎女は旅の安全を祈るために、宗像神社に立ち寄ったと思われます。
 宗像大社の神は、宗像三女神のはずですが。古代のこの辺りの神は、大国主だったのでしょうか。では、三女神の信仰は、何時ぐらいから始まったのでしょうね。

「おほなむち すくな御神の 作らしし 妹勢の山を 見らくしよしも」
という本朝臣人麻呂歌集の歌もあります。
 妹勢(いもせ)の山と云ったら、和歌山県の紀伊川の右岸と左岸にある妹山と勢能山(背ノ山)のことです。大国主と少彦名は、いたるところに神としておられたのですね。


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by tizudesiru | 2016-10-31 01:19 | 143大汝小彦名の神こそは | Comments(0)

142宮地嶽神社の光の道は祭祀線

宮地嶽神社の光の道4世紀後半の祭祀線
JALのコマーシャルで全国に知れ渡った『光の道』が、古代の祭祀線であったことに気付かれた人は多いと思います。では、どんな意味を持った直線(ライン)だったのか、少し話したいと思います。このことは、三年前に出した「太宰府・宝満・沖ノ島」という本でも紹介していますが、今回は古代史の集会で私がプレゼンをしたスライドを幾つか使って話してみようと思います。
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 これは、宮地嶽神社の参道の延長上にある相島の話でもあります。私は幾度も相島に行きましたが、そのうち何度か韓国からの旅行者に逢いました。彼らは相島の朝鮮通信使客館跡と積石塚古墳の見学に来ていたのです。つまり、相島は江戸時代の朝鮮通信使が立ち寄った島でもあるのです。朝鮮通信史について知らない方はないと思いますが。江戸時代は鎖国政策をとっていましたので、外国の情報はオランダと朝鮮から得ていました。中でも、朝鮮通信使は徳川将軍の代替わりに来日し、一行は道中を各藩に歓待されながら、江戸まで大行列で上ったのでした。沿線の住民は一行を歓迎しこぞって行列を見に走ったのです。中には筆と紙を差し出し、通信使の役人に一筆書いてもらうという幸運を得た者もいました。
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10月と2月に、この参道のかなたに太陽が沈み、その光の道がテレビで取り上げられたのです。
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地域の方も覚えておられる元宮は、参道の階段を上り詰めた所に有りました。光の道は、最近まで元宮を黄金色に染めていたのです。元宮が見ていたのは、相島の相島大塚古墳(120号墳)になります。
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ほかにも、相島とのつながりを探してみましょう。相島で最高所である「遠見番所」と元宮をつなぐと、相島北塚(1号墳)を通ります。右の白ポイントがメガネ岩で、左が遠見番所です。夕日がメガネ岩に沈むのもカメラマンのお気に入りのようですが、浜の鳥居辺りからのショットは「宮地嶽古墳(6世紀後半)」からのラインと重なります。
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宮地嶽神社の元宮から伸びる参道は、海岸に行き着きます。その先には海があり、相島が浮かんでいます。では、光の道(参道ライン)が当たる積石塚古墳群についてお話しましょうね。
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元宮からの二本のラインの内、参道の上をまっすぐ進んだのは、120号墳に届くラインのみです。遠見番所へのラインは既に参道からずれています。つまり、120号墳と宮地嶽神社(元宮)の結びつきが推察されるということです。宮地嶽古墳からのラインは、1号・120号のどちらの積石塚と結んでも参道を通りません。
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この相島大塚が120号墳です。前方後方墳で、竪穴式石室を持つ4世紀の積石塚古墳と言われています。
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次は、相島北塚(1号墳)です。
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長井浜と呼ばれる積石塚墓の浜は、ほぼ120号墳辺りに始まり、北の1号墳で築造を終わるのです。その間、4世紀から6世紀前半。7世紀までに少し横穴式石室に追葬が行われているそうです。
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ここで、疑問が生まれます。なぜ、6世紀前半で築造が終わるのかです。九州北部で大きな変化があった、のです。6世紀の前半の政変といえば「磐井の乱」です。相島の行政区である新宮町辺りは、「糟谷屯倉」として磐井の子の葛子が献上したとされる地域の近くですから、まんざら無縁とは思えません。すると、沖ノ島祭祀との関係も出て来るのではないでしょうか。沖ノ島祭祀も、「岩上祭祀」が6世紀の始めに終わり、次の「岩陰祭祀」が始まるまでに、半世紀ほどの空白があるのです。この空白がなぜ生まれたのか。沖ノ島の報告書では「磐井の乱」との関連が指摘されていました。このことは、自著「太宰府・宝満・沖ノ島」でも紹介していますが。
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このことは、深く読むと「沖ノ島祭祀」を行っていたのはヤマト王権と呼ばれる勢力なのか、という疑問も引き出してしまうのです。

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by tizudesiru | 2016-10-27 12:51 | 142光の道は祭祀線 | Comments(0)


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