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2015邪馬台国シンポ・久留米

久留米・邪馬台国シンポジウムに行きました
邪馬台国時代の久留米」と「考古学から見て邪馬台国畿内説は成り立つのか?」という二つの演題の報告をします。
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久留米市の石橋文化センターでシンポジウムがありました。ここには、子どもの頃にも通った美術館があって、青木茂や坂本繁二郎の作品を見ることができました。それら郷土作家の名作は、東京の石橋美術館に移されました。田舎に置いておくのはもったいないという……ことなのでしょうか。ーーまあ、シンポジウムでしたね。 久留米地方の地図です。右下の緑は耳納山地、茶色の範囲は弥生前期の遺跡集中地域、黄緑の範囲は弥生中期の遺跡集中地域、焦げ茶色は弥生後期の遺跡集中地域、です。
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弥生前期の遺跡として、久保遺跡が紹介されました。擬朝鮮系無文土器や黒色研磨土器を伴う集落が存在します。
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弥生中期の石丸遺跡には甕棺墓群の二列埋葬が認められ、間を墓道が通るそうです。埋葬の形式は集団の結びつきや統制を意味するのでしょうか。   
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安国寺甕棺墓群も弥生中期の遺跡です。甕棺墓が最盛期を迎えたこの時期の集落には、丹塗り土器を伴う竪穴住居が確認されています。これらの建物の主軸はほぼ同じで、いずれも焼失住居ということです。同じ集団の住居が同じ時期に焼失したのは、その時期に何か事件があったということでしょうか。弥生中期の甕棺最盛期にです。 
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水分遺跡は、「大半が弥生後期の所産で二重区画溝、周溝状遺構9基、竪穴住居150軒、掘立柱建物10棟、遺物として銅鏃・広型銅矛耳・骨鏃・碧玉・ヒスイ・ガラス製玉・赤色顔料・内面朱付着土器・鉄製品・炭化種子などが出土している。長方形の大型の竪穴住居から、大量の完形土器や床面にまかれた赤色顔料、ガラス小玉160点、炭化米、鉄鏃4、銅鏃3、骨鏃2がまとまって出土している」そうです。ここの人々は、突然の事件で大型建物を見捨てることになったのだろうかと、想像してしまいました。
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大型建物です。
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良積遺跡も弥生後期から古墳時代初頭にかけての遺跡です。「竪穴住居160軒、掘立柱建物30棟、周溝状遺構40基、甕棺墓・石棺墓・土壙墓34基。銅鏃・銅釧・銅鏡4面・鉄製品、ヒスイや碧玉・ガラス製の玉類、石器・畿内系の壺も見られる」そうです。
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文化財保護課の方の報告文には、上記のような記述がありました。弥生中期にピークを迎えた集落に突然の変化、意図的な溝の埋め戻し、大量の土器の投棄、それはこの土地を離れざるを得なかった結果であり、弥生の終焉であると……恐ろしい社会的変化が起こった?!それが邪馬台国の時代なら、久留米周辺も邪馬台国と関係の深い地域であり、邪馬台国の終焉とともにこの地を去った集団がいるという証ではないでしょうか。そして、古墳時代に入っていく!!
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高良山の西麓に位置する祇園山古墳の測量図です。石棺墓に二体が埋葬され、互い違いに寝かされていたと聞きました。ここでも何かあったのでしょうね。高良大社の三角縁神獣鏡は、祇園山古墳の出土物と言われているけれど、推測の域を出ないと書かれていました。
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祇園山古墳の組み合わせ式石棺です。どんな歴史が此処にはあったのでしょう。

さて、次は「考古学から見て邪馬台国畿内説は成り立つか?」という演題でした。 
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奈良県の前期弥生遺跡(黒丸)は、大阪側や北陸側にはなく東南部に(和歌山側に)偏っているそうです。奈良盆地は低地が多く水害を受けやすい地形だそうです。中期の唐古・鍵遺跡には、青銅器(銅鐸)の製造跡や80cmの柱跡の大型建物跡は見られるが、後期にはめぼしいものがないそうで、巴形銅器の破片、ヒスイ勾玉が出土している、奈良には大陸系の遺物・土器はほとんど出ないとのことでした。「めぼしい墓もなく、方形周溝墓があっても副葬品はない、入れるものがない。鉄器はほとんど出ておらず、10点もない(銅鏃が数点)」と説明されました。墳丘墓も少なく、土器を見ると東は伊勢湾まで西は吉備までの交流は考えられるが、大阪との関係はないとのことでした。
 後期には低地から山辺の道の方へ遺跡が上がっていき、「同じ時期の遺跡(白丸・纏向遺跡など)が南北5kmの範囲に見られ、これらの遺跡が大型古墳とかぶる」そうです。
 纏向遺跡には環濠はなく、遺跡を全部合わせると大きいが、各遺跡は河川により分断されているそうです。最近、話題に上った大型建物は河川と河川の間にあり、建物Aは実はなかったのだ
そうです。
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この建物は古墳時代に端が壊されていて、重要な建物だったとは考えられないとのことです。重要な建物には柵が厳重に巡らされ、後の時代になると土塀などで囲まれているそうです。調査報告書では柵と主張しているが、柵とは考えられないそうで、纏向遺跡の出土遺物は唐古・鍵遺跡より少ないとのことでした。銅鐸の耳や銅鏃だったようです。
 このような纏向遺跡で、鉄の生産が始まるのですが、出土した鞴の羽口はカマボコ型で九州福岡県の博多遺跡のものと同型で、朝鮮南部の陶質土器が一緒に出ているそうです(朝鮮からの直接の伝播といいたいのでしょうか)。その鉄製産の時期ですが、布留式土器と一緒に出ていて、箸墓築造の時期と重なるそうです
 また、箸墓は桜井茶臼塚古墳と同じ時期の土器が出ているし、それらの土器は庄内式土器とは違うということです。庄内式土器は、一つ一つ形が違っているとのことです。
 ほかにも石製品や出土土器の説明がありましたが省略します。
 これらのことから、邪馬台国畿内説は成り立ちがたいとのことでした。ただし、5世紀になると、大型古墳が出現し、馬具・武具などの副葬品が見られるようになり、畿内に王権が出現したと思われる、更に、「中山平次郎氏が言われたように、九州の弥生の鏡・玉・貝輪などが大和の前期古墳のルーツとなっている」と話をしめられました。
 纏向遺跡を発掘された先生のご講演、事実の報告だったのでした。
 



 
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by tizudesiru | 2015-11-29 22:39 | 134邪馬台国シンポ・久留米 | Comments(0)

133ホケノ山古墳は前方後円墳

 ホケノ山古墳とは何? 誰か教えて!と、まあ、こんな気分ですね。ここは、いつから卑弥呼の墓と噂されるようになったのでしょう? いろいろな資料や著作・報告等にたくさん名前が出てきますが、私は残念ながらホケノ山古墳を訪問したことがないのです。ですから、失礼ですが、本やブログで画像を見つけさせていただきました。まず、ホケノ山古墳を画像で探しましょう。
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引かれているライン(青・ピンク・赤)は、青が景行天皇陵と箸墓と孝元天皇陵と見瀬丸山古墳をつないだものです。ピンクは穴師の大兵主神社と結んでみました。ポイントの左端が箸墓(箸中山古墳)です。ホケノ山古墳は箸墓のすぐ近くです。慶運寺のポイントは古墳ではなく、阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇石)の石棺に仏像が彫られているので、ポイントを入れました。赤のラインは、新木山古墳と結んでみたものです。
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ホケノ山古墳の画像を拡大してみました。帆立貝式の前方後円墳です。この形が古墳の始まりの時期の形と言われています。しかし、出土遺物(副葬品)は初期古墳のものとは思えないのですが。
 出土遺物としては、画文帯神獣鏡1面、内向花文鏡と半肉彫の鏡片、素環頭大刀1口、鉄製刀剣10口ほど、銅鏃60本以上、鉄製農工具、多量の水銀朱。二重口縁壺(庄内式)小型丸底土器(布留式)などです。
 次の写真はブログから貰いました。小型丸底土器を見ると、口縁部が広い土器であることが分かります。このようなものは、庄内式の時期には見られないものだそうです。最近は、布留式(古式)の小型丸底土器は4世紀以降のものとされているそうです。
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 全長80mの墳丘には葺石があり、中心主体部は後円部中央に設けられた「石囲い木槨」です。これは特殊な構造とされ「木槨」の周りを川原石で囲むという二重構造になっていて、石囲い木槨の内部に刳り抜き式木棺(長5m、コウヤマキ製)が納められていました。写真は、桜井市ホケノ山古墳(第4次調査)現地説明会資料(2000年)から貰いました。このような埋葬施設は初期古墳のものでしょうか。卑弥呼の時代の墓だとすると、「棺ありて槨なし」という倭人伝の記述とは矛盾すると、多くの方が指摘されています
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 また、中心主体部西側に6世紀末の横穴式石室(組み合わせ式家形石棺あり)が設けられています。3世紀の中心主体部の横に6世紀末になって横穴式石室を設けたというわけです。石室は親族か同じ氏族の埋葬施設なのでしょうか。それとも全く無関係の人物の施設なのでしょうか。同じ墳丘を使った理由が分かりにくいですね。
 発掘後の報告書にはノカツギのついた銅鏃が出土とありますが、これも後の時代のものと指摘されているそうです。3世紀の古墳とは認識しがたい問題だらけの古墳のようですね。
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by tizudesiru | 2015-11-23 22:59 | 133ホケノ山古墳 | Comments(0)

132箸墓は卑弥呼の墓ではない

箸墓は卑弥呼の墓ではないこの噂を少し考えてみます。もちろん推測に対する憶測なのですが……
 邪馬台国畿内説を唱えている人の中にも「箸中山古墳(箸墓)は卑弥呼の墓ではない」といっている人がたくさんいます。それに、あの纏向遺跡の大型掘立柱建物を「卑弥呼の居館跡ではない」と思っている人もたくさんいるらしいです。近畿に住んでいる人の話ですから詳しくは分かりませんが、マスコミの報道の仕方に疑問を感じておられるのでしょうかね。それにしても、40年間掘り続けて小さな柱穴の建物しか出なかった纏向遺跡になんで大きな掘立柱穴が出たのでしょうか。大きな建物を作るには、それなりの財力・権力が不可欠です。辺りにそれらしいものが見られないのに大型建造物は信じられません。それも、1mもある方形の柱穴で(弥生の大きな柱穴は円形だそうですから)大変珍しいとか……5・6世紀でも珍しい方形の柱穴が弥生時代に出るとは。やっぱり、発見当初の見立てのように7世紀後半の建物跡ではないでしょうか。柱近くの溝から庄内式土器の欠片と布留式土器(4世紀以降の土器)の欠片も一緒に出たのなら、すくなくとも4世紀以降の遺構であることは確実ではありませんか。
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それに、この時代の畿内(邪馬台国時代)には、交流があった半島の土器(楽浪系土器・三韓系土器)は出土していません。壱岐の島の原ノ辻や糸島市の御床松原遺跡・三雲遺跡などには出土しています。福岡平野にも出土しています。最近、「馬韓系土器(鳥足文土器)の出土が1世紀から4世紀の間の半島との交流を示している」と聞きますが、それは後の時代のものでしょう。韓国の学者の方が「鳥足文土器は5世紀の工人が使った土器」と書いておられるのを読みました(その文章はどこかにしまったのですが、探します)。そもそも肝心の楽浪系が出ないのはその地域が交流がなかった証拠です。が、「魏の使者は伊都国に留まり、瀬戸内を使わせなかったから、直接は女王国との交流はなかった」といえば、それまでです。はるか九州まで来た人々は、そこでユーターンしたということになります。
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この写真は糸島の歴史博物館の図録をデジカメで撮ったものです。伊都国では国産鏡(大型内向花文鏡・方格規矩鏡など平原王墓の鏡も)を生産していたそうですから、半島の土器をまねて作ることもできたでしょうね。須恵器の生産が近畿で始まる前に、九州では須恵器を生産していたのではないでしょうかと、素人は思うのです。同じ種類に見える庄内式土器の土器編年を使って遺跡や古墳の暦年代を次々に上げるのは、畿内の学者さんの特色のように思えてきました。一つ年代を上げると、連動して他の遺跡も暦年代を上げるのです。九州の博物館を見て回っても、そんなところはないようです。これからは、むしろ中央から暦年代を下げさせられるのかも知れませんが……鳥足文土器の文章見つかりました。平成24年3月10日に「百済文化と古代日本」というシンポジウムで配られた資料です。この会場には希望者が多くては入れませんでしたが、資料のコピーをもらいました。この資料を読むかぎり、鳥足文土器は少なくとも4世紀後半以降、5世紀にしか日本に来ていないようです。一瀬和夫さんがちょっと書かれたように、楽浪系土器で邪馬台国を探すなら「楽浪系土器も三韓系土器も出ない畿内で邪馬台国畿内説は成り立たない」、ということです。
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さて、国立博物館に特殊器台(図録写真のもの)が展示されていましたが、その文様どこかで見たなあと思いました。
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 見つけました。熊本県の阿蘇市と熊本市の遺跡から出た土器の文様です。(写真は糸島の博物館の図録)熊本市の方は直弧文と書かれています。これらを見ると、重弧文・直弧文はたしかに弥生時代の文様です。しかし、宮山式特殊器台を始め、この特殊器台特殊壺と呼ばれるものが、弥生時代(3世紀)のものとは思えないのです。写真の宮山式特殊器台は前方後円墳の墳丘から出土したものと書かれています。弥生の墳丘に置かれていた(置かれるはずだった)ものが棺として転用されたと説明されているのです。資料的価値の高い遺物だそうです。棺とする時、割れもなく十分に使用できる状態だったのでしょう。ということは、転用されるまでの時間が短かったということになります。つまり、ほぼ前方後円墳の時期に「宮山式の特殊器台は造られていた」となるのです。宮山式特殊器台は、古墳時代の産物かも知れない……すると……、この宮山式特殊器台(岡山県)と都月坂式特殊器台(岡山県)の技術を持った工人集団が箸墓の墳丘上の特殊器台にかかわったと、考古学者の方が言われています。そうなると、箸墓古墳の築造時期は、すくなくとも宮山式特殊器台を持つ前方後円墳より遅い(又は同時期)ことになります。 
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では、同じような特殊器台を持つ岡山の楯築古墳(楯築遺跡)80mの弥生最大の墳丘墓の特殊器台を見ましょう。ここは箸墓より早い墳丘墓とされています。ここも有名なので気が引けますが、素人の憶測です。
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こちらは粉々に割れています。楯築遺跡(2世紀後半)は不思議な墳丘墓です。埋葬施設は木棺と木槨の二重構造で、槨の外側に排水施設の暗渠が設けられているとか、弥生の墳丘墓でしょうかねえ……そもそも木槨の中に木棺が入れられるのは、いつの時代からでしょうか。楯築の特殊器台について、福岡市博物館の図録には、次のような説明がされています。。
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特殊器台が埴輪の原型になると書かれています。一緒に出土している巫女型土製品は形象埴輪の原型とは書かれていません。形象埴輪が出土するのは、円筒埴輪や朝顔形埴輪の後の時期だからです。円筒埴輪より形象埴輪の方が早く出現したとは言えないのでしょうか。
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とても土偶の類とは思えない巫女型の埴輪ですね。頭は別造になっていて首がはめ込まれるようになっています……これだけでも、楯築墳丘墓の築造年代が弥生後期に収まっていることを不思議に思います。箸墓古墳に先行するとされる楯築遺跡と宮山式特殊器台ですが、その時期が弥生終末期にまで延びると箸墓が3世紀末を越えてしまうことになるかもしれません。そうなると当然、箸墓が卑弥呼の墓の可能性は薄くなるのです。それから、箸墓より早くに築造されたというホケノ山古墳があります。卑弥呼の墓と言われる箸墓より古いのですが、近畿では弥生の鉄を副葬するただ一つの帆立貝式の古墳らしいです。最近、このホケノ山が卑弥呼の墓だという噂がたてられています。そして、卑弥呼の鏡として考えられているのが、三角縁神獣鏡ではなく画文帯神獣鏡だそうです。伝ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡があるからでしょう。画文帯神獣鏡は江田船山古墳でも出土していますが、どうなっていくのでしょうね。
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by tizudesiru | 2015-11-17 12:51 | 132箸墓は卑弥呼の墓ではない | Comments(0)

131素材がささやく古代の謎

素材がささやく古代の謎大王の棺写真は、宇土市の図書室に隣接する資料室の展示物です。係りの方にお願いして写真を撮らせていただきました。
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左奥は、菊池川産の阿蘇溶結凝灰岩のサンプルです。他は宇土市の馬門石のサンプルで、色はピンクだけではないことが分かります。
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以前、宇土半島の付け根にある楢崎古墳の紹介をしました。ここは馬門石の石切り場の近くにありますが、石棺に馬門石を使っていないそうです。そのために、馬門石のブランドを守るために地域の有力者にも石棺に馬門石を使用することを許さなかったのだという説があります。ちなみに、ここは46mの前方後円墳で、5世紀中ごろのものとされています。その楢崎古墳を見てみましょう。
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石棺の形が少しずつ違っていますから、同時期の埋葬ではなく世代が違う人達の埋葬施設でしょうね。宇土半島本部の古墳築造の状況(新宇土市史より)を見ると、連続している時期と衰退していく地域が分かります。楢崎古墳は宇土半島本部の6期の位置ににあり、辺りでは小さな墳丘になります。
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馬門石の石片が出土したこふんには、峰ヶ塚古墳(大阪府羽曳野市)や今城塚古墳(大阪府高槻市)が在ります。写真は八代市博物館「火の君、海を征く!」の図録をデジカメで撮ったものです。まず、今城塚古墳の石棺石材のかけらです。
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以上、博物館の資料を使わせていただきましたが、馬門石が運ばれているのはたしかです。九州の凝灰岩を使ったのは何故でしょう。特に、同じ宇土市の周辺地域の古墳に「鬼の岩屋式」と呼ばれる石室がありますが、ここに使われている石材は安山岩だそうです。凝灰岩を使わなかった意味が今一つはっきりしません。宇土市の鬼の岩屋式石室を見てみましょう。
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このように、鬼の岩屋式石室は、道路そば、人家の庭先、山道の路肩などいたるところにあるのです。6世紀の群衆墳のようなものでしょうか。一般の人も大いに墓を作ることができたという……
 途中ですが、今日はここまで。
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by tizudesiru | 2015-11-12 10:21 | 131素材が語る古代Ⅱ | Comments(0)

130素材が語る古代

素材がささやく古代の秘密 クスノキは九州が北限(福岡市立花山・樟の原生林)古代には、楠は九州より北には自生していませんでした。かの有名な百済観音はクスノキの一木造りですから、九州の樟で作られたのでしょう。それとも、百済に樟を運んで造り上げて、再度日本に持ち込んだというのでしょうか。楠では船も作られたそうです。命を懸けて海を渡るとき、地域のご神木で作った楠の船に乗ったのかもしれません。仏像を樟で造るのも、納得できそうです。先に紹介した法隆寺の「多聞天立像」は、樟の一木造りです。これも楠ですから、九州で作られたと考えられます。それを、法隆寺に持ち込んだのは誰でしょう。私も及ばずながら推理をしていますが、以前、紹介した自著にそのことについて少し書きました。
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 古代の遺物は私たちの知らないことを多く語ってくれているのかも知れません。
「美の国日本」に展示されていた鏡が二面ありましたが、どちらも奈良県でした。「新山古墳」の直弧文鏡(上の写真)と、「佐味田宝塚古墳」の家屋文鏡(下の写真)です。いずれも「美の国・日本」の図録をデジカメで撮った写真です。
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この銅鏡の「鉛同位体比」を「Pbデータベース」で調べてみました(これは、ネットにも出ていますから誰でも手に入れられる資料です)。最近、青銅器に熔かされている鉛で産地を探るための資料として、又は青銅器の製作地域を探るため(同一工房を探すため)とかに、鉛同位体比が使われています。でも、鉛は銅の中に鉱物のまま入れて溶かすこともできますが、産地の違う青銅器を混ぜ合わせることも可能なので、産地の特定は難しいようです。
 直弧文鏡の方は探しきれませんでしたが、家屋文鏡は珍しいので見つかりました。データは次の順序で書かれています。①②③④は鉛同位体比で4種類あります。
a鏡種・b分類・c時代・d遺物等の名称・e径・地域遺跡名など・①206pb/204pb・②207pb/206pb・③208pb/206pb・④ 207pb/204pb (文献名など省略)
家屋文鏡のデータ a家屋 b古墳前 c家屋文鏡 d22.7cm e奈良県佐味田宝塚古墳 ①18.223  ②0.8586 ③2.1200 ④15.646
分かりにくいですね。下にプリントアウトしたデータをアップしてみました。
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では、福岡の弥生のデータと比べてみましょう。
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数字は左から①②③④の順で同位体比のデータが並んでいます。古墳時代の奈良と弥生時代の福岡では鏡の成分に違いがみられるようです。ちなみに、平原王墓の破砕銅鏡は国産品と柳田康雄さんが言われていますね。あれは見事な技術で造られた銅鏡でしたので、最近まで舶来品だと信じていましたよね。見事な銅鏡を作る技術が九州にあったのなら、古墳時代になって他所から工人を招いて、技術の劣る鏡を作ったのは何故でしょうね。
 pbデータベースを見ると、確かに製作地域は想像できそうですね。それにしても、銅鐸が九州の銅戈を鋳つぶして造ったという説にゆすぶられますね。

 今日は博物館をはしごしたので疲れて……ここまでにします。
 さて、昨夜の続きです。
纏向遺跡に北部九州産の土器はほとんど無いです。あっても1%くらいです」 
これは、奴国シンポジウムでの奈良文化財研究所パネラーの発言ですが、そりゃあ、そうでしょう。この時代の近畿には半島系土器はまだ多くないし、この時代の対外交流の中心は博多湾沿岸地域にあった(福岡市博物館の図録に解説)のですから福岡市の西新町遺跡からは、半島系の土器や半島の影響を受けた住居跡(室内の隅にオンドル式のカマドがある)、西新式と呼ばれる土器と半島系土器(楽浪系は含まない)、近畿・山陰・瀬戸内などの土器、近くの藤崎1号墳と6号墳からは三角縁神獣鏡がそれぞれ出土しています。ここは方形周溝墓ですが、1号墳の鏡は、滋賀県雪野山古墳鏡と同范で、6号墳鏡のほうは甲斐銚子塚古墳や備前車塚古墳などの鏡と同范です。更に、この西陣町遺跡の人口は突然減少するのです。消滅でしょうか。
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上の写真は、藤崎6号墳の木棺墓と出土品です。この三角縁神獣鏡「二神二車馬鏡」の鉛同位体比を見ましょう。①18.090 ②0.8625 ③2.1321 ④15.603となっています。
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さて、「二神二車馬鏡」に対応する鏡はどれでしょうね。探しかねます。同范鏡ですから、せめてサイズは近似値となるでしょうね。
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この写真は、西新町遺跡の半島系土器です。これらの出土品は、どこが半島大陸との接点であったかを示しているのです。ここで楽浪系土器が見られないということは、楽浪郡が滅びた後の遺跡なのか、それとも交流ルートが違うのか、です。また、西新町遺跡では板状鉄斧(鉄素材)・雛形鉄器・ガラス用の土製鋳型・青銅器の素材の鉛板などが出土していますが、工房などの生産跡が見られないので、物流の窓口だったらしいです。
 鉄器生産跡は西新遺跡より東にある博多遺跡にみられ、大型羽口を使用する大鍛冶が弥生後期には行われていました。この羽口が纏向に伝播するのは、古墳時代になってからですね。だって、纏向には西新式土器は1%しか出ないし、博多遺跡の羽口と同型の羽口が出ているのなら技術の移入は間違いないから、両者を合わせて考えると古墳時代になってからの交流としか言えないのです。いつも、答えは一つの結論に向かいますね。纏向に卑弥呼はいなかったのです。
 桜井市が「卑弥呼と邪馬台国で町おこし」したいと思っておられるという噂を聞きますが、無理をするより古代の交流を現代にも蘇らせるという方向で「福岡市との姉妹都市」などを考えて両者の情報を交流させ、古代を生き生きと現代に結びつける方が、より前向きで楽しいと思います。私は桜井市に何度も旅をして楽しみましたから、両方の都市が結びつくことをすごく期待し希望しているのです。そうなると、いいなあ……ちなみに邪馬台国が●●辺りにあったとか、思っていません。邪馬台国は矛を埋納させられた地域のどこかです。矛で守られた宮殿があった処と思っています。
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by tizudesiru | 2015-11-08 23:52 | 130素材が語る古代Ⅰ | Comments(0)

129俀国の墓制は巨石横穴墓か

倭国を滅ぼした俀国の墓制巨石横穴古墳
筑紫君磐井を討ったのが「寿命王塚古墳」の被葬者だと書いたばかりなのに、今度は「巨石横穴墓」の出現に、驚かれますよね。確かに、装飾古墳は福岡県南部に広がりますが、いずれも小規模の円墳です。地域の有力者が装飾古墳を進んで取り入れたとも受け取れます。では首長墓と思しき古墳は壁画装飾を踏襲・継続したのか、という問題になると首をかしげてしまいます。装飾古墳の中にじわっと巨石の横穴墓が混じるからです。突然というより、いつの間にかです。そして、巨石古墳が残るようです。
 下の写真は氷川流域の大野窟古墳です。この流域は、畿内で前方後円墳がつくられなくなっても、前方後円墳を継続して造り続ける地域なのです。写真は大野窟古墳のパンフレットから貰っています。
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6世紀後半の氷川流域の大野窟古墳です。
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日本で一番高い天井を持つ玄室で、石棚があります。
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後期古墳で有名な石舞台古墳より玄室の天井は高いのです。
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大野窟古墳の石室入口です。大きな石を使っています。羨道の高さは2mを越えるくらいですから、歩いて玄室に入れます。鍵を開けてもらえれば見学できます。
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玄室の石の組み方には古代の技術が使われています。井寺古墳の玄室にも見られるし、神籠石の水門の石組みにも使われている技術です。これらのことから考えると、同じ石加工の技術を持った集団を掌握できた有力者に、大野窟古墳の被葬者を考えてもいいということです。更に、北部九州に十数か所の神籠石を造ったのは、北部九州の首長であったはずです。神籠石が6世紀の後半なら、築造したのは筑紫君磐井との戦争に勝利した俀国の首長だということでしょう。 
 同じような巨石石室を持つ古墳が、福津市の宮地嶽(不動)古墳です。幾度も紹介した「筑紫舞」を奉納している神社であり、宮地嶽古墳からは十数点の国宝が出土しています。見事な宝冠は、様々な資料に比較対象物として取り上げられています。
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宮地嶽古墳の羨道入口です。日本で二番目に長いそうです。
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雷山神籠石の水門と列石です。下の写真は井寺古墳の石室内の写真です。石材は馬門石で、朱が塗られています。
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線彫の見事さが目を引きます。井寺古墳は緑川下流域になるでしょうか。
 では、装飾古墳を北部九州に持ち込み、続いて巨石古墳を持ち込んだその首長が住んだのは何処でしょう。遠賀川流域? 筑後地方? いにしえの委奴国? 須玖岡本のあった春日丘陵? 筑紫都督が置かれていたかもしれない太宰府? それとも、熊本の菊池川流域? 白川流域? 氷川流域?
 まず、遠賀川流域。寿命王塚の被葬者の家系は、どうなったのでしょう。この王(または将軍)の家系は続かなかったかも知れません。双脚輪状文などの文様を持つ五色彩色の壁画古墳が、王塚古墳の後に遠賀川流域に現れていません。この被葬者の家族に何か失敗があったか、不幸があったのかも知れません。しかし、装飾古墳の中に混在する石棚を持つ装飾古墳・巨石を使った装飾古墳・石屋形も石棚も持たない装飾古墳が福岡南部に普及しています。それらは有力者程度の円墳で規模が小さいのですが、装飾古墳文化が肥後から浸透しているのは間違いないようです。
 ただ、弘化谷古墳(6世紀中ごろ)は双脚輪状文を持ち、この時代最大級の円墳で、石屋形も持っています。王塚古墳の被葬者の親族の一人が筑後地方を任されたと考えることもできます。石人山古墳を見下ろすように築造されていますから、筑紫君の祖先の墓を意識してのことでしょう。しかし、この地で継続しません。糸島にも釜塚古墳という大型の円墳がありますが、こちらは5世紀半ばの築造で時期が違います。
 さて、巨石の古墳文化が入り込んできているのです、やはり肥後から。祭祀線で調べてみると、実に面白いことになります。大野窟古墳から伸ばしたラインが、太宰府天満宮を通り宮地嶽古墳に届くのです。もちろん、巨石横穴墓と紹介した「筑紫舞」を奉納する神社の古墳です。できすぎの展開ですね。
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まとめると下の画像ですが、長い長い行程をどのように測量したのかと、新しい疑問を引き出してしまいますね。
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太宰府とは何だったのかという問題も残しながら……倭国を滅ぼしたのが俀国であり、俀国は肥後と豊前の首長の連合の上に成り立っていたようだが、巨石文化を掌握する首長が大きな権力を持ちつつあったのではないかということです。ここまで。

〈この回で伝えたかったこと〉装飾古墳の普及は、筑紫君の墓制・妻入横口式石棺の継承を遮断したことを意味していたが、装飾古墳文化圏の首長の系統は途絶え、代わりに同じ肥後の巨石古墳文化を持つ一族が台頭した。この一族が「大い國(俀国)」と、名乗ったのかも知れない。

また今度。 
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by tizudesiru | 2015-11-02 23:57 | 129俀国の墓制・巨石横穴墓 | Comments(0)


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