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128倭国の墓制

倭国の墓制家形石棺
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(遠景に阿蘇の噴煙が見える。中景は阿蘇火砕流台地の花房台地。菊池川岸に立ち南東を見る)
墓制を見れば、倭国は俀国に滅ぼされたことになる、と前回のブログに書きました。倭国とは熊本の勢力で、邪馬台国を滅ぼした狗奴国であること、狗奴国が鉄をつかって生産力をあげ北部九州を豊かにし、鉄の道具で石の加工をしたことなど、少しふれました。筑紫君の墓制は家形石棺だったことにも触れましたが、それが狗奴国とつながることの説明は足りなかったと思います。
ここでは、そのことを考えてみましょう。では、熊本に集中する装飾古墳の復習から始めましょう。壁画装飾を持つ古墳を装飾古墳とよびますが、その共通性を見つけてください。
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と、公開されている装飾古墳(パンフレットの写真を拡大)を紹介しました。横山古墳は山鹿市古墳博物館に移築されていますから見学できると思いますが、あとは公開の時期でないと見ることはできないと思います。これらの古墳の所在地は、地図で示されています。⑩や⑪は横穴墓と呼ばれる凝灰岩の崖の穴墓で、線彫の装飾が見られます。
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 熊本の古墳はこのような装飾古墳ばかりではありません。何度も紹介したように、狗奴国人は鉄の道具を持った集団ですから、刳り貫き型の石棺を多く造ることができたのです。
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びっくりしますね。宇土市の向野田古墳の女性の骨格です。30歳~40歳で出産経験もある156cmほどの背の高い女性だそうです。骨にハリスの線が見られるので、生前に重金属の中毒などで体がダメージを受けていたようです。石棺に残る水銀朱のような朱丹を人々を惑わす目的で顔や体に日常的に塗っていたことが考えられると、「新宇土市史」の中に書かれています。この本の第一巻のみを宇土市に注文して少し高かったけど買いました。写真はそこから貰いました。
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a0237545_19131288.png向野田古墳は4世紀後半の前方後円墳(89m)であり、竪穴式石槨に舟形石棺が置かれ、鏡3面・腕輪形石製品・玉類・棺外に鉄刀・鉄剣・などが副葬されていました。鏡は方格規矩鏡・内向花文鏡・鳥獣鏡で、弥生の後期に多く副葬されたのは方格規矩鏡(糸島の平原王墓の8割は方格規矩鏡)ですから、向野田古墳はその伝統を色濃く伝えているのです。前方古円墳に女性と確認された人の埋葬は珍しいそうです。それにしても、舶載三角縁神獣鏡を1面副葬された城ノ越古墳より、向野田古墳の築造が遅いとは、どういうことでしょうね。舶載(?)という眉唾な三角縁神獣鏡は4世紀の古墳から出ると聞きますよね。副葬品は古いタイプのセットだが舟形石棺を使用している点から、築造は古墳時代前期の半ばとされているそうです。
 宇土半島基部は熊本県内では最も早く前方後円墳が築かれた地域であり、4群(轟、緑川群・花園群・不知火東、松山群・不知火西部)に分けられていると、市史にあります。宇土市の市史編纂のスタンスは「古墳時代は箸中山古墳(箸墓)から始まる」ですから、最も早い築造とはいえ、畿内より早い設定はありません。それでも、轟、緑川郡の城ノ越古墳(前方後円・三角縁神獣鏡副葬)は3世紀末に属すると書いています。このあとの迫之上古墳(竪穴式石槨・鉄刀、鉄槍副葬)は4世紀中ごろ。不知火西部群の弁天山古墳が4世紀前半とされる他、他の地域はほとんど4世紀後半からの築造とされています。畿内の古墳の暦年代が次々に引き上げられる(その理由も驚きですが)中、九州は一向にその気配はありません。
 ちなみに熊本県の前方後円墳・大型円墳を持つ地域は限られており、9か所が挙げられています(他に小型の古墳群が数多くある)が、次の、①関川(諏訪川)流域 ②菊池川下流域 ③菊池川中流域 ④白川上流域 ⑤緑川中流域 ⑥宇土半島基部 ⑦氷川下流域 ⑧球磨川下流域 ⑨球磨川中流域 以上の地域と紹介されています。
 下写真は、花園町楢崎古墳です。石材は灰色のの阿蘇石です。この古墳には5基の埋葬施設があり、4基が後円部にあります。家形石棺2基・舟形石棺1基です。ここには刳抜式の技術も、組合せ式の技術も使われています。が、石材は馬門石ではありません。
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さて、家形石棺ですが、『新宇土市史』は、「家形石棺という埋葬施設の発案は九州でなされたことは間違いない」といいます。が、宇土市の前期の古墳はほとんどが舟形石棺です。
 そもそも石棺文化はいつ始まったものでしょう。弥生時代の木棺には地域の首長が埋葬されたそうです。古墳時代になると、木棺に粘土郭、木棺に竪穴式石槨、組み合せ式石棺・割竹型雛形石棺(刳抜式)に始まり、中期には横穴式石室に舟形石棺が継続し、組合せ式長持ち型・箱型・家形石棺が加わってくるそうです。後期には、横穴式石室が普及し舟形石棺から刳貫式の家形石棺が出現するというのです。要するに、弥生の組合せ式箱式石棺(一部には縄文時代のものある)は舟形石棺へ引き継がれていて、刳貫式割竹形石棺(?)→舟形石棺→家形石棺、組合わせ式も箱形石棺→長持型石棺→家形石棺 と変化したと言えるそうです。一般に、香川県の「割竹型石棺」が石棺の始まり(白石太一郎・他1985)と言われますが、それが熊本に入ったというのでしょうか。熊本の石棺の変遷を見ると……
 下図は新宇土市史「九州における舟形石棺の分布」です。◆肥前Ⅰ型・◇肥前Ⅱ型・■北肥後Ⅰ型・□北肥後Ⅱ型・●中肥後型・▲南肥後型・◉豊後Ⅰ型◎豊後Ⅱ型・△日向型・〇その他不明 ★石棺製作地。 製作地★は、菊池川下流域・宇土半島馬門・氷川流域になっているようです。
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上図を見ると、菊池川流域の舟形石棺が、矢部川流域の八女地方に入っていることがよくわかります。筑紫君磐井と火の中君は姻戚関係にあったと書かれている通りの分布図です。
では、家形石棺の分布図も見てみましょう。私が筑紫君の墓制だと思っている妻入横口式家形石棺の出自がわかります。
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  同じく新宇土市史「九州における家形石棺の分布」を見ます。〇妻入横口式家形石棺・■平入横口式家形石棺・●その他組み合わせ式家形石棺・◆刳抜式家形石棺 
 上図を見ると、家形石棺は宇土半島基部・菊池川流域に集中し、「妻入横口式石棺」は久留米地方・菊池川下流域・宇土半島基部あり、他には広がっていません。この三地方の強烈なつながりを示すのでしょう。 此処での結論は、「邪馬台国を滅ぼしたのは倭国である。倭国とは熊本の勢力で狗奴国と呼ばれた国である。狗奴国は南筑後から侵入して筑紫を豊かにし倭国と名乗り、首長は筑紫君と呼ばれたが、豊前と協力した肥後の一族内から謀反があり(いわゆる「磐井の乱」)、1年近く戦った筑紫君磐井は豊前に逃れて行方不明になり(風土記)、一族は衰退していった。」ということですが、この筑紫君の首長の墓制が妻入横口式石棺であれば、磐井の乱後には作られなくなる理由はここにあります。また、その家形石棺が、瀬戸内・吉備・畿内に伝播しているのです。それも、阿蘇石が石棺として運ばれているという事実があります。これは、どういうことでしょう。他地域の首長が、遠い九州の石棺を運ばせているのです。九州からの献上品となっていますが……首長が臣下の墓制を取り入れたとは思えません。
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 上の写真は、馬門石(阿蘇溶結凝灰岩)で作られた植山古墳の家形石棺で、ここは推古天皇と竹田皇子の改葬前の墓と言われています。きれいに掃除されていて、副葬品はなかったと思います。
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by tizudesiru | 2015-10-31 16:13 | 128倭国の墓制 | Trackback | Comments(0)

127倭国を滅ぼした俀国

倭国を滅ぼした勢力は何処から来たのか  
倭国を滅ぼしたのは、またもや肥後だったという話**筑紫君磐井を滅ぼしたのは、装飾古墳文化圏の人物だったのではないか。その首長の墓が寿命王塚古墳ではないかということを書きました。装飾古墳といえば、熊本で多く見られる墓制です。そして、熊本の墓制が確かに北部九州に入っています。果たして、北部九州は磐井の乱後にまたもや肥後に席巻されたのか。そのことを考えてみましょう。画像は久留米市が小学生に配ったパンフレットの写真をカメラで写したものです。
筑後川流域も、弥生時代は甕棺文化圏でした。
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甕棺が消滅すると、組み合わせ式の石棺が現れます。甕棺文化圏の国が敗れて、石棺文化圏の勢力が入って来たのです。しかし、弥生の墓制の伝統である青銅製武器の副葬は踏襲されています。
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前方後円墳の石室に屍床や石障を持つ古墳が現れます。熊本の[割石を用いた古墳]にも、石障に線彫装飾を施した似た古墳が在ります。熊本の鉄の文化は、石を刻む文化でもあったようです。タガネがなくては石材に細かい彫りを入れることはできません。
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線彫の装飾(直弧文)石棺のことを「123・王塚古墳の被葬者は誰か」で紹介しました。石人山古墳(5世紀)浦山古墳(5世紀後半)の石棺には直弧文が刻まれています。
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a0237545_2252874.png上は浦山古墳、左は江田船山古墳の石棺です。とてもよく似ています。江田船山にも石人山にも「石人石馬」と呼ばれる墳丘に立てた石の装飾品があります。石人石馬は岩戸山古墳のものが有名です。石人山・浦山・江田船山古墳(5世紀)などの「磐井の乱の前の首長の墓制」は、妻入家形石棺のようです 
それが、6世紀後半には家形石棺が消え、円墳に壁画装飾をもつ古墳に変わっていくのです。下の写真は久留米の装飾古墳です。
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装飾古墳が広がるのは6世紀の後半です。磐井の乱(527年)の後であることは、何度も書きました。では、熊本の古墳を見てみましょう。
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石屋形をもつ有名なチブサン古墳です。写真は古墳紹介のパンフレットからいただいています。 
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 熊本は、装飾古墳のメッカです。チブサン古墳は6世紀前半の前方後円墳だそうです。弁慶ヶ穴古墳は切り石で作られています。馬塚古墳は6世紀後半の円墳のようです。御霊塚こふんは6世紀後半の円墳だそうです。長明寺坂古墳は5世紀で、円墳だそうです。大坊古墳は6世紀前半の前方後円墳だとか。
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これは千金甲古墳・6世紀前半で、久留米の日輪寺古墳によく似ています。別当塚古墳は5世紀、田川内古墳は5世紀後半です。
 こうして見ると、5世紀から6世紀前半と6世紀後半ではかなり古墳の印象が違ってきますね。それから、熊本の古墳と筑後の古墳に共通点がありますね。要するに、熊本の墓制が南筑後に入ったということを言いたかったのです。
 磐井の乱とは、九州内の争いだった可能性は強いと思います。では、筑紫君磐井の後に北部九州を席巻した勢力は、北部九州で何をしたのか、となります。彼らは筑紫君の業績を十分に知っていて、それを凌駕するような仕事をしているようです。生産力をさらに上げ、外国とも交流し(隋に使者を送ったのも彼らでしょう)、仏教を取り入れ、律令も作り、戸籍も作り、王家の伝統をつくりあげた。そして、倭国ではなく、「俀国」と名乗ったと思うのです。
『隋書』の本文(皇帝側の歴史)には「倭国」と書かれていますが、周囲の東夷の歴史の一つ「俀国伝」には「俀たい」の字が使われています。「俀」は「倭」の書き誤りであると、現代の中国の学者も日本の学者も言っています。そうでしょうか。当時の歴史学者が漢字を間違えると首が飛びます。「俀」は隋書を書いた歴史家が選んだ字だと思います。万葉集にも「俀人」という字が出てきますが「ねじけびと」と読みます。俀の意味は「ねじけ」なのです。「ねじけた人の国」という意味なのです。アメノタリシホコの国書が生意気だったから、こんな字をつかったのでしょうか。
 それとも、倭国人が自ら「たいいこく」と名乗ったのかも知れません。倭国ではなく「大委國・大いなる委國」と、むかし中国から金印を下賜された「委奴国」の末裔であると言いたかったのかも。しかし、中国人は小ばかにして「たいい」の代わりに「たい(俀・ねじけ)」の字を使った。相手を十分に知っての漢字使いです。隋の使者は九州にに来ています。隋書に「山は阿蘇山あり」と書かれています。俀国の人が阿蘇を自慢して、使者を阿蘇山に案内したのでしょう。人々が火山を畏れ神祭りをしていることも詳しく書かれていますから。要するに、磐井の乱に勝利した側が「俀国」を名乗ったと思うのです。
 倭国は内乱で俀国に負けたのです。では、倭国側はその後どうなったのか。ここでも、やはり東への移動でしょう。彼らを受け入れる体制があったことは、別に触れたいです。また、東の協力で俀国が勝利したのかもれません。阿蘇石の石棺が畿内、吉備、瀬戸内に運ばれているところを見ると、案外裏工作があったのかもしれませんね。すると、この俀国と倭国の相克はまだまだ続くことになります。
 
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by tizudesiru | 2015-10-31 10:10 | 127倭国を滅ぼした?国 | Trackback | Comments(0)

126邪馬台国から倭国へ

邪馬台国から倭国
 甕棺文化圏・青銅製武器(剣・矛・戈)の文化圏・楽浪系土器と三韓系土器が出土する地域にしか、邪馬台国はありません。更に言えば、弥生の鉄が出土する地域であり、弥生の鏡である前漢鏡・後漢鏡を持つ地域にしか邪馬台国はないのです。
 邪馬台国が畿内にあったとすれば、それは狗奴国との戦争に敗れた後、狗奴国の脅威を恐れての集団移動しか考えられません。もちろん、「東にも倭人の国があった(倭人伝)」のですから、東に逃れようと考えるのは自然です。この自然な流れからすれば、狗奴国は邪馬台国より西か南にあったことになります。敵国側に逃げるのは自然ではなく、敵国とは反対側に逃げると思われます。弥生後期に生産力を持っていた地域となれば、肥国でしょう。弥生の鉄の出土量は熊本がダントツで福岡を越えています。食糧と武器がなければ戦争には勝てませんから。江戸時代まで、福岡より熊本の方が生産力は高かったのです。明治になって、中央政府の出先も熊本に置かれました。
 博多遺跡から鞴の羽口と鉄鏃が出土しています。三世紀には鉄製品を作っていたのです。纏向遺跡で出土した鞴の羽口は「博多遺跡のものと同型」です。一之瀬さんの本に「同型で、畿内は筑紫の技術の提供を受けた」と書かれていたと思います。それが、吉備などに広がったと。
 誤解がないように書きますが、鋳造鉄製品は紀元前から九州で作られています。鉄素材を熔かして鉄戈が作られていますし、鉄鏃や鉄斧などの道具も作られています。銅と鉄はほぼ同時に九州に渡っています。3世紀の倭人伝にも「倭が鉄を採っていた」ことが書かれているし、当時の鉄は貨幣代わりだったとも書かれています。3世紀ともなると、鉄はかなり普及していたのです。九州が握っていた「鉄輸入」の利権が奪われたか、移動したか、解体したか、理由は分かりませんが、大きな経済的変化が起こったのですね。写真は、福岡市博物館の図録をデジカメで撮ったものです。
 
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羽口が高熱を受けてただれています。鉄が溶かされたからです。銅の場合はこれほどただれないそうです。
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これは平原王墓(巫女王墓だそうです)の副葬品ですが、これほどの鏡を副葬する人物は単なる王ではないでしょう。それもすべて破砕したのちの副葬ですから、ただ事ではありません。畿内に鏡文化が伝わり、大量の鏡が副葬されるのは古墳時代になってからです。当然、九州の葬送文化の伝播です。
 平原遺跡のこれらの銅鏡は国産だ(柳田康雄)という説もありますが、では、どこで生産したのでしょう。須玖岡本遺跡の辺りの弥生の工業地帯でしょうか。ここが衰退した後に博多遺跡が発展したのでしょうか。鉄と銅の製品は制作場所や工人が違っていたのでしょうか。博物館の学芸員さんが解説してくださると思いますが。
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平原王墓の木棺の上に素環頭大刀が置かれていました。王墓の周濠からは鉄鏃・鏨・ヤリガンナ・斧など出土しています。銅製の鏡は祭祀に、鉄製品は生産に使われていたのです。巫女王は鉄製産をも抑えていたのでしょうか。上の写真の素環頭大刀(約120cm)は五尺刀に相当するとされるものですが、上町向原遺跡(伊都国)の出土品です。五尺刀といえば卑弥呼がもらった大刀で、魏からの下賜品の中にありましたね。弥生の大刀は九州からしか出ないそうです。白く輝く利刀に当時の人は驚いたことでしょう。
 3世紀の九州に大きな変化があったことは、平原王墓の埋葬の様子からも想像できます。世々王がいた伊都国の女王の墓の鏡が、全部割られているのですから。
 巫女が責任を取らせられるのは、古代の中国も同じです。「あぶる」という字は、巫女が占いに失敗して焼かれる字だそうです。おお怖っ! 巫女王も何かの責任を取らされたのでしょうか。
 いつもの私の結論ですが「邪馬台国連合を滅ぼしたのは、狗奴国で肥後の人々だった。彼らが造った国が倭国だった」ということです。「狗奴国は北部九州に鉄を持ち込み生産力を上げ、地域をを活性化し交易を広げ、隣国とも交流し、諸制度を整備し、倭国をつくりあげた」となります。畿内に移動した人は、どう思って見ていたでしょう。大型古墳を作り始めた理由もそこにあるのかもしれませんし。狗奴国の発展を見た他の火国(肥国)の人々はどう感じたでしょうね。筑紫と火国は親しくしていましたから。畿内の倭人も火国の倭人も、心の中で「いつかは……」と思っていたのではないでしょうか。

 
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by tizudesiru | 2015-10-30 11:16 | 126邪馬台国から倭国へ | Trackback | Comments(0)

125「新・奴国展」福岡市博物館の諦め?

新・奴国展福岡市博物館に行きました10月21日の午後にのんびり出かけましたが、展示物の多さと内容の充実に驚きました。もちろん、2500円の展示解説図録も買いました。展示物が多くて、時間切れのチャイムが鳴り、国宝の金印を見ないまま会場を出た次第です。
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図録はどのページも資料が多くて読みこなせませんが、「ふくおか創世記」と副題が付けられているので展示の意図は伝わりました。要するに、弥生のふくおか=奴国の時代というわけです。邪馬台国の時代とは言わず、同時代の奴国をもってして、古墳時代以前のふくおかを象徴しているのです。写真は図録を写したものですが、著作権に触れたらいけないので、マイピクチャの表示画面を切り取りましたそれにしても……
今回の展示で見えたのは、歴然とした「邪馬台国畿内説」でした。初めは内容の充実に満足していましたが、「邪馬台国九州説の否定」そのことに気付いて驚き失望しました。地域の博物館として、なんという方向転換でしょう。
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ぎっしりと並んだ展示物。これだけ資料を並べて、「福岡は奴国であり、卑弥呼の邪馬台国ではない」というのです。
では、何が邪馬台国九州説の否定になるのか、見てみましょう。
①題名・新奴国展 此処にあるものは、古の奴国を証明するものですということ。決して女王国ではない、らしい。
②金印の読み方を「漢の倭の奴の国王」と呼んでいること。この奴という字は、「な」と読まないことは、ほとんどの人が知っているだろう。万葉集でも『奴」は『ぬ』としか読まない。古代には「なこく」はなかったかもしれないし、委奴国かもしれないのに。奴国にしてしまっている理由は邪馬台国を使わないためか。
③吉武高木遺跡を王墓の始まりと捉え、倭人伝に従って「世王」ありの伊都(糸島)や春日丘陵の鏡や青銅製武器を副葬した甕棺墓を王墓としている。倭人の国の王たちが九州にいたのなら、当然女王国との交流もあるはず。鉾(矛)で守られた卑弥呼の宮殿は、銅鐸文化圏の畿内ではなく、矛の文化圏であるはず。倭人の王が埋葬された甕棺墓は突然消滅するが、これも追及がない。
④新聞をにぎわした纏向遺跡の大型建物の柱跡の写真パネルが展示されていた。まだ、卑弥呼の宮殿と断定されたわけではない遺構がパネルになっている。40年間も纏向で探し続けても出てこなかった大型建造物跡がやっと出たが、発見当初は柿本人麻呂の住居跡とされた。それは、人麻呂が纏向を歌に詠んでいるし、大型掘立柱穴が方形だったからだが、3世紀に方形の柱穴は類例がなく、7世紀・8世紀の柱穴に方形が見られるという。なのに、纏向の遺構はいつの間にか卑弥呼の宮殿跡になっている。福岡市博物館も纏向大型建造物跡の柱穴を3世紀とみとめたのか。


纏向の大型建造物跡のパネルを見た時は、すごくびっくりしました。纏向の発掘をしている方は「卑弥呼の宮殿」など一言も言われてないはずです。「卑弥呼の宮殿」と報道してほしいと思っているとは思いますが。以前は、白石太一郎さんが「卑弥呼・宮殿」を使って「邪馬台国畿内説」を決定づけるような発言をテレビカメラに向かってされていましたが……
纏向遺跡ののパネルの前に庄内式土器が展示されていました。つまり、纏向遺跡が卑弥呼と結びついたのは、庄内式土器が大型建築物遺構の近くの溝から出たからです。しかし、同じ場所から布留式土器も出ています。今は、布留式土器は4世紀以降らしいということで、纏向4類から外されているようです。でも、同じ遺構から出ているのですよね……

 私としては上記のような展開からして、福岡市博物館は「邪馬台国九州説」を放棄したと思ったのです。正直がっかりして、金印を見ることもなく時間が来たので会場を出ました。400点を越える展示物を並べて、何を考えているのだろうと、図録を見直す元気もありませんでした。

 しかし、そうではないでしょう! 博物館の学芸員の方々ですもの、九州の資料を手に取り目で確かめて実感することがあるはずです。マスコミの過剰な九州潰しに簡単に乗ってはいませんよね。そう思って、やおら、図録を取り直して読みました。ありがとう! 博物館!図録の最後に掲載された「論考」がすばらしかったです。多くの方に読んでほしいし、弥生から古墳時代の暦年代論も期待しています。
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続きは、また、今度!

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by tizudesiru | 2015-10-29 21:09 | 125「新・奴国展」博物館の諦め | Trackback | Comments(0)

124宇佐神宮の呉橋

宇佐神宮の呉橋10月6日に宇佐に行きました。遅くなったけど報告を少し
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宇佐神宮の鳥居の奥に呉橋が見える。昭和の初めまで、この西参道が表参道だった。勅使道はここから伸びている。だから、呉橋もここにかかる。一般の人はこの橋を渡ることができなかったので、隣にかけられた橋を渡ったという。
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以前、此処には鉄(かね)の鳥居があったが、戦時中に供出されて今はない。さあ、特別の日にしか渡れない呉橋を渡ろう。
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漆が塗られているが、日本製の漆はもはやピンチらしい。これも中国製の漆だろうか。
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渡り終えて、隣の橋から呉橋を眺めた。 
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さて、呉橋をグーグル地図で見てみよう。
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水色のポイントは宇佐神宮本殿で、西の表参道(旧表参道)に呉橋が架かる。橋のたもとから伸びるのが勅使道である。
宇佐神宮から青ラインを引いているが、これは私好みの祭祀ラインで、宇佐神宮→大富神社(ラインは鳥居にかかる)→天照宮(饒速日を祭る神社)→宮地嶽古墳(福津市の宮地嶽神社=筑紫舞を伝える神社にある古墳)と続くラインである。まず、宮地嶽神社を見てみよう。
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宮地嶽神社の旧宮は参道階段を上り詰めた位置にあったそうだが、古墳は江戸時代に発見されたという。出土物のうち十数点が国宝になっている。宝冠や金銅製の輪鐙や3メートルをこす大刀(九州国博でレプリカ作成)など知られている。 
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天照宮のご祭神は饒速日で、他に合祀する神はいないそうである。
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まとめると、このようなラインになる。それから大富神社であるが、ここを書き忘れたのではない。以前にも紹介しているが、宇佐神宮に勅使が遣わされる時、勅使の飲み水を大富神社から届けるという行事があった。その大富神社が今回も勅使に見ていただくというので、参道で伝統の芸能(感應楽)を披露していた。
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勅使は素通りだったが、大富神社側の人たちは汗を流して必死だった。衣装といい、設えといい、老若男女集まって、大変な奉仕だった。こうして伝統が受け継がれていくのだろうが、どうぞ守り続けてほしいと思った。
それに、宇佐からのラインはまだいろいろあるが、宇佐神宮と切り離せない薦神社のラインを紹介したい。宇佐の放生会は、薦神社の薦をご神体として行うのだ。
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ピンクのポイントが薦神社である。この水色ラインが行き着く先は、香春岳の香春神社(式内小社)である。薦神社は、宇佐神宮(式内大社)と式内小社に挟まれているという不思議。説明がうるさくなるので、この辺りで…
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by tizudesiru | 2015-10-28 09:28 | 124宇佐神宮の呉橋を渡る | Trackback | Comments(0)

123 寿命王塚古墳の被葬者

桂川の寿命王塚古墳
被葬者は誰なのか?!
 
このことに触れないまま、秋を迎えてしまいました。実は、昭和10年の発掘報告書「筑前王塚古墳」を読んでいて、今までの疑問にある意味が加わったのです。そのことを書くつもりでしたが、忙しくて先送りにしてしまっていました
寿命王塚はこれまで幾度も取り上げてきた遠賀川流域最大の前方後円墳で、しかも装飾古墳なのです。下の画像は王塚古墳のパンフレットで、展示館に設けられた施設の写真です。色鮮やかな石室内の様子をうかがい知ることができます。
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それにしても、6世紀の後半に広がるのは装飾古墳ですが、ほとんどが円墳です。磐井の乱(527年)以降、九州では前方後円墳が築造されなくなり、代わりに広がったのが円墳と言われます。それも、筑後地方には装飾古墳が多いのです。肥後形と呼ばれる石屋形も見られます。
筑前と豊前の間にある王塚古墳は石屋形・石棚を持ち、その石材は様々な地域のものが使われているというのです。支配地や出身地の石材を集めさせたのでしょうか。しかも墳丘の版築は、黒色の土と赭色の土を交互に突き固めてあり、断面は縞模様になって大変美しかったそうです。壁画装飾に使われたのは五色の顔料で、このような五色使いの装飾古墳は類例がないと思います。馬・靫・双脚輪状文・三角文などの豪華な壁画です。では、他の装飾古墳を見てみましょう。
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 筑後川南岸の日岡古墳(前方後円墳)の装飾です。赤の顔料で円文・同心円文・蕨手文などが描かれています。
次は重定古墳です。ここには石棚があるようです。
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弘化谷古墳(円墳)の装飾で、この古墳は同時代では最大級の円墳となっています。ちょうど谷を挟んで石人山古墳(前方後円墳)の隣にあります。
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弘化谷の石室の紋様の説明もされています。同心円文・双脚輪状文などが赤色顔料で描かれています。双脚輪状文が描かれた古墳は多くはありません。熊本の釜尾古墳や横山古墳などにも描かれていますが、同じ墓制を持つ人々の墓なのでしょう。それにしても、隣にありながら石人山と弘化谷は何故に墓制が違っているのでしょう。
石人山は筑紫君一族の墓と言われ、岩戸山古墳より100年ほど遡る古墳だそうです。写真を見ても分かるように、妻入家形石棺に直弧文の線刻があり、極めて特徴的な様相です。
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これらの家形石棺の墓制が継続しないのです。石人山古墳にしても、久留米の成田山にある浦山古墳(前方後円墳・妻入家形石棺・石棺内に直弧文の線彫)にしても、首長と思われる地域最大の古墳です。一族の首長の墳墓の形式が消えるのはただ事ではありません。
527年の磐井の乱後に、前方後円墳が消えて円墳が多くなるということと関わりがあるのでしょう。家形石棺に変わって入ってきたのは、6世紀後半に増える装飾古墳ですから、この墓制を持つ人々が筑紫君一族と入れ替わったことになるのでしょうか。
そうすると、ある結論に達しませんか? 装飾古墳群の中で最大最高の装飾を持つのは、寿命王塚古墳です。この被葬者が磐井の乱に関わり、筑紫君一族の権益・権力を奪った、のではないかということです。 では、彼こそ物部麁鹿か、又は継体天皇?彼らが磐井を滅ぼしたと、記紀には書かれています。彼らではなくとも、磐井を攻めた側の勢力の有力者に近いでしょうね。まあ、そう慌てることはありません。
継体天皇は北陸か近江の出身とされていますが、近江や北陸の墓制が北部九州に入って来たかというと、そのような痕跡はなく、逆に九州の墓制が入り込んでいるのです(そのことは、福井の方々が様々なところで発表されています)。つまり、磐井の乱は九州内の勢力の内輪争いだった可能性もあるということです。しかし、ミヤケが置かれています。畿内の王権の出先としての屯倉です。その後、豊前側に次々にミヤケが置かれたようです。6世紀には経済が活気づき、全国的に群衆墓が作られます。福岡平野周辺の群衆墓もほとんどが横穴式石室を持ち、丘陵地帯を覆い尽くしているようです。
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ここで、寿命王塚に戻ります。この被葬者が福岡平野も支配していたと言えるのは、祭祀ラインを引いてみると分かります。
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福岡平野の古来より信仰されてきた山は、脊振山であり宝満山でありますが、王塚古墳と脊振山頂を結ぶと宝満山頂を通過します。王塚からそのまま直線を伸ばすと、他にも届くようです。脊振と宝満山の間に観世音寺が来て、その講堂の屋根を通過するのも面白いですから、自分で試されてはいかがでしょう。
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つまり、王塚古墳は、これからも見過ごしてはならない首長墓だということです。
個人的には、王塚の被葬者は筑紫君磐井を滅ぼした側の長であったと思っています。彼が記紀に登場する人物なのかどうかは別に考えます。

 
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by tizudesiru | 2015-10-28 08:13 | 123寿命大塚古墳の被葬者 | Trackback | Comments(0)

122宮地嶽神社の筑紫舞・2015年

宮地嶽神社「浮神」が
四十数年ぶりに
舞われた 
早めに行ったのに、すでに人でいっぱいでした。
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今年はカメラスタンドを置いて撮影する人が多かったし、ビデオカメラの人も大勢いました。ほとんどの人がシャッタを切るので、カメラの手や頭が邪魔でいい写真が撮れませんでした。今年はお天気が良かったので、とても暑かったのですが、みんな熱心に陽にさらされて見ていました。
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つくし神舞「秋風の辞」、つくし巫子舞「橘」、つくし神舞「勧文乙の曲」、つくし神舞「ふき」、つくし巫子舞「雪月花」、つくし神舞「浮神」の順番で奉納されました。「浮神」で安曇磯良とおぼしき人物が白布をかぶって登場する、さすがに魅力的な舞でした。「浮神」は宮司しか舞うことはできないそうで、宮司のお話によると、舞の譜面である「舞譜」を見ながらずいぶん練習したとのことでした。
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詞もなく、ササラと鼓太鼓の音と龍笛(龍の鳴き声と言われる)だけで舞う「浮神」は、天上神が磯良にまい降りて舞う「つくし舞」の秘儀だそうです。本当に感動しました。
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by tizudesiru | 2015-10-25 23:12 | 122宮地嶽神社の筑紫舞 | Trackback | Comments(0)

121福岡市博物館「金印ロード」プロジェクト

金印ロードプロジェクト
福岡市博物館のイベントに行きました とりあげた画像は、4人の学芸員の方々が会場で紹介されたものをデジカメで写したものです。少しぼやけているのはその為です。
日本三景『天の橋立』より素晴らしいと、江戸時代には褒められていたという、海ノ中道。天の橋立は3キロほど、海の中道は10キロありますから、昔の人は驚いたかもしれません。
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金印発見の地・志賀島の名所を訪ねると福岡の歴史が見えてくるという、博物館の視点は納得なのですが、
なにせ人集めができていなくて会場は空席が目だちました。しかし、志賀島について再度考えることができました。
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海の中道遺跡からは、製塩跡や釣り針だけではない出土品があります。それは、博多湾を挟んで対岸に鴻臚館があったし、大宰府への官道があったからです。鴻臚館は8世紀と言われますが、「トイレに使った木のへらを炭素14で調べると、4世紀という結果もでた」そうですから、古代から何らかの施設があったと考えていいのでしょうね。学芸員さんは、こんなことは言われませんでした、念のために書いておきます。
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志賀海神社には三福の掛け軸が残っていて、勝馬にあった元宮が内海側に遷ってからのものでした。中央の境内図には神の影向の姿がうかがえ、人々の姿はありません。しかし、社の位置と規模が現在の志賀海神社と同じです。
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仏像も素晴らしいものがありますが、なにしろ人が少ない島ですから仏像泥棒が心配です。
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絵画として、昔の志賀島が登場するのは、蒙古襲来絵詞で最古のものということです。このころ貿易で栄えていたのは、箱崎と博多だということでした。
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元寇防塁が築かれた砂浜海岸と当時の入り江がよくわかります。
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金印公園ばかりではなく、蒙古塚も忘れてならない場所です。志賀島を訪れた著名人もたくさんいて和歌を残しています。細川幽斎の歌もありました。
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志賀島の人々のコミニュティについての話が面白くて、長年の疑問が少しとけました。
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志賀海神社には、年間70の行事があり、社人と呼ばれる人々に支えられているそうです。また、同年齢や異年齢の結びつきが組織されていて、結束力が強いということでした。海で暮らす人々の生活意識なのでしょうか。
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志賀島の若者は、2月の厳しい海に入り潔斎して、行事を守っています。しかし、年々少なくなる人口は伝統継承の不安を未来に残しています。
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もちろん、金印ロードという観点から志賀島を考えていくことも大切ですが、現在の島の人口減少をどう食い止めるか、福岡市は考えなくてはならないなあと、よそ事とは思えない気持ちになりました。
もちろん、志賀島に観光資源が溢れていることは間違いありません。志賀島を訪れて感動するのは、外海と内海を一緒に眺められるということ。外海のブルーの波に乗って遊ぶ若者が楽しそうに見えること。行きつけの料理屋さんのお刺身がいつもおいしいこと。博多湾の奥に連なる三郡山地と脊振山地の山々が美しいこと。夜には対岸の夜景がきれいに見えること。早春の海の美しさ、夏の海の青さ、夕日の美しさと日没の後の余韻に至るまで、数え切れないほどの佳さがあり魅力にあふれています。それらを知らないのは不幸というものでしょう。すべて簡単に手に入るものですから。それも、海を渡って志賀島に入るコースが最高でしょう。金印を博物館で見て、そのまま志賀島に渡るというコースは開発できないものですかね。
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by tizudesiru | 2015-10-25 21:29 | 121博物館の『金印祭り』 | Trackback | Comments(0)

120 九州国博「美の国・日本」

九州国博「美の国・日本」に行きました
今回も展示物数が少なかったので、それぞれの展示物の間が広く開いていてゆっくり見ることができました。しかし、それが1600円は高いです。四階の常設展の方が見ごたえがあった感じです。まあ、それはさておき少し思うところがありましたので、書きました。お見せする写真は、2500円で買ったカタログのものをデジカメで写したものです。著作権の問題に触れるといけないので、本を写していると分かるように斜めから取りました。
  
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火炎土器は、東北でも各地の国博でも常設展示してるので珍しくはないのですが、やっぱり縄文はすごいね、と感心しました。もちろん、土偶も見ました。遮光器土偶には赤い彩色がされていたのですね。小さな窪みにそれが残っていました。今回、私がぎょっとしたのは、法隆寺の「多聞天立像」でした。 
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お顔立ちもお姿も七世紀を思わせる端正なたたずまいでしたが、頭に鉤が撃ち込んでありました。後ろに回ってしみじみ見ましたが、悲しくなりました。カタログを買って、家で広げるとやはり鉤が写されていました。写真をアップしましたが、見てはならないものを見た感じです。仏像の頭に杭を打ち込んだものを飛鳥仏で見たと思いますが、それは目立たないように、同じ工房で付けられたと納得できる処理がなされていたと思います。
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あまりに無残な光背の取り付け方だったので、会場では寂しくなって凝視してしまいました。どう見ても、違う工房の人が仏をいたわらずに取り付けたと思いました。多聞天の悲しげなお顔が印象に残り,ほとんどが東京の国博のものでどこかで見たなあと思ったし、正倉院宝物にしても、毎年行われる奈良の「正倉院展」には及びもつかず…と、言うより「正倉院展」そのものをやってほしかった気がします…「日本の美」ですから…年を取ったせいでしょうか、物足りませんでした。
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そうは言いながら、福岡の栗田遺跡の丹塗磨研土器(前2世紀)は大きくて立派でした。北部九州の丹塗土器が消えた後、畿内に現れる丹塗土器ですが、岡山の宮山遺跡の特殊器台(3世紀)もありました。宮山式の特殊器台は奈良の箸墓の墳丘上の特殊器台の基となった形式を持っているそうですから、箸墓の築造はいったい何時なのでしょうか。この特殊器台が円筒埴輪の原型だとか……です。埴輪についてはいろいろ思っていることがあるので、そのうちに書きましょうね。
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熊本のマロ塚古墳(5世紀)の甲冑を見ました。この古墳は所在地も埋葬形態も不明です。遺存状態が良好なので、直葬とかではなく横穴式石室とかだったのでしょう。鋲留の技術は浮羽の月岡古墳(4世紀)の甲冑(国産)などにもみられるのですが、政権中枢の渡来系技術者の工房で集中的に生産され、政治的関係に基づいて各地の首長に配布されたものと説明されています。……3世紀まで鉄を持たなかった畿内の王権が、4世紀には西日本に号令をかけて、甲冑を配布できる存在になったというのです。そんな一大変革は、いつどのような過程をたどって起こりえたのでしょうか。いまだに? 解明されないままです。
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犬も疲れて寝ちゃいました。
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これらの品物が選ばれたのは何故でしょうか。「美の国」というタイトルがすっきりしませんでしたね。
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by tizudesiru | 2015-10-23 10:49 | 120九州国博「美の国・日本」 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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1大宰府の位置
2竹原古墳
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4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
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77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
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87福岡の長谷観音
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309白村江敗戦後、仏像を供養した?
309白村江敗戦後の霊魂
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256平城京と平安京
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102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
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109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
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120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
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126邪馬台国から倭国へ
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129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
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134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
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139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
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146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、仏像を供養したのか

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