<   2013年 08月 ( 18 )   > この月の画像一覧

114平城京・天武朝の都の守り

平城京天武朝都の守り神々と仏に守られた都
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 白い印が平城京の太極殿です。北に向かって左が第一次平城宮の太極殿。右が第二次平城宮のものとなります。都があちこち動きましたから、そのたびに移動したのでは大変だったでしょう。戻ってきたときには移築はせず建てなおしたそうです。 
 赤1は、明日香から移動した薬師寺。赤2は、明日香の大官大寺が移動して、大安寺となっています。赤3は、明日香の元興寺(飛鳥寺)が移動しています。飛鳥寺は理由は分かりませんが、移動が遅れています。後から都に入ったから位置がずれるのでしょうか。
 西大寺と東大寺が太極殿を挟んではいません。第一次太極殿の東にあるのは、光明皇后の法華寺です。東大寺は、東西に伸びるピンクラインの東奥にあります。南北のピンクラインは、天智陵からのものです。
 平城宮の北に来る古墳は、磐之媛命陵です。ここからのラインが二つの寺院に届きます。隠れていますが、青や紫ラインは、神功皇后陵から出ています。この時代にも伝承はあったのでしょうか。それとも改葬して、または祭祀の場として造営されたのでしょうか。
 第一次平城京は、黄色ライン(磐之媛命→平城天皇稜→太極殿→垂仁天皇陵)。
 黄緑ライン(磐之媛命→開花天皇稜→元興寺)では、寺院が守りについています。
 白ラインは、磐之媛命陵から南下し、耳成山に届きます。天武朝は、繰り返し耳成山を守りに使っています。
 赤ラインは太極殿→南大門→姫皇子神社→神武陵→岡宮天皇稜 に伸びています。
 青紫ラインは、神功皇后陵→太極殿→大安寺となります。此処も寺院がきます。元興寺の移動が遅れているので、初めは大安寺が都の守りに活躍したことでしょう。

 第二次平城京は、水色ラインで守ったようです。薬師寺と大安寺と太極殿が三角形を作り、第二次太極殿の真南には明日香で最大の前方後円墳・見勢丸山古墳(欽明陵)がきます。欽明天皇陵を取り込んだ太極殿となっているのです。    
 
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薬師寺からの黄色ラインは、薬師寺→法隆寺→用明天皇稜に届きます。様々に想像出来ますが、ここではやめておきます。赤1は薬師寺、赤2は法隆寺です。
 都の守りに寺院が大きな役割を持っていたことは、ラインからも確認できます。仏教によって国を守ろうとした最初の天皇は誰で、いつからでしょう。それは、仏教伝来とも関わります。薬師寺や法隆寺が九州から移動移築されたという説もあります。興味のわくところですね.

都の守りについては、既にこのブログで紹介した事とほとんど変わりはありません。同じラインを使っていますから。以前はただラインを紹介しただけでした。そのラインを見れば答えは出ると思ったし、色々な解釈をする事が出来ると思ったのです。今回紹介したのは、都の守りにどんな神が関わり、どんな祭祀をしていたかを確認したかったからです。平城京と平安京では、守りの神々が似ているようでも、全く違います。藤原宮・平城京は、祖霊を守りの神々としています。この違いは、何処から生まれたのでしょう。 興味あります。
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by tizudesiru | 2013-08-26 17:41 | 114天武朝の都の守り | Trackback | Comments(0)

113神となった斉明天皇

となった斉明天皇
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 白い印は藤原宮、赤1は牽牛子塚古墳で最近の発掘で斉明天皇陵と発表されました。赤2も、斉明天皇陵です。このころの天皇陵はいくつもあります。改葬されているようです。改葬の記録もあるそうですから、多くは間違ってはいないと思います。さて、赤2の斉明陵ですが、藤原宮を通る緑ラインの起点にあります。このラインは、藤原宮を通り箸墓に届くのですa0237545_028915.gif
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藤原宮は箸墓と斉明天皇のライン上に造られたのでしょうか。 八角形の牽牛子塚古墳に改葬する前、斉明天皇陵は箸墓・藤原宮ラインの選ばれた位置にあった、神となって「新益京」を守る位置にあったという事です。
 改葬後の赤1の牽牛子塚古墳は、天武天皇陵・岡宮(草壁皇子の宮)と並びます。母である斉明天皇を川原宮でモガリしたのは天智天皇ですが、此処に天智天皇の影はありません。飛鳥には、欽明天皇や敏達天皇や舒明天皇推や斉明天皇と、天武系の草壁皇子・文武天皇などの強いつながりを示すラインが多くあります。どうゆう事でしょうね!父のみならず母までも天武系が独占しているのです。壬申の乱に勝利したからでしょうか。壬申の乱とはなんだったのでしょう。以前ブログでも紹介しましたが、天智天皇は舒明天皇の皇子ではなく、斉明天皇の連れ子であったという説も頭をかすめます。だから、天武天皇が壬申の乱を起こしたと。

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赤2の斉明陵(越智崗上陵)からアスカとかかれた「飛鳥寺」を通り、ラインが行きつくのは、天王山古墳です。崇峻天皇の真の陵墓とも聞きます。馬子に暗殺されたという崇峻天皇。本当は、有能な人だったのではないでしょうか。飛鳥寺は、斉明陵と天王山古墳のほぼ中央に建立されています。何を意味するのでしょう。崇峻天皇の御魂を鎮め、その霊力を斉明陵に持ってきたのでしょうか。更に、斉明天皇陵を詳しくみます。
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少し整理しました。
 見勢丸山(真の欽明陵)と牽牛子(斉明陵)と岡宮天皇陵は、直線状に乗ります。牽牛子塚古墳が造営されたのは何時かというと、天武帝崩御後かつ草壁皇子薨去後、祖先の欽明天皇の霊力を借りて改葬されたのです。「正当な皇統の主張」がなされているのです。新しい政権の樹立は、正当な皇統の上に成り立つのでしょう。
 更に、話は継体天皇にも飛びます。
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 継体天皇陵と言われる今城塚古墳と、太田茶臼山古墳です。どちらも継体天皇の墓と言われます。そこから2本のラインが出ています。
星印が今城塚古墳です。
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 二本のラインはどちらも見勢丸山古墳(欽明陵)を通り、文武陵に届きます。
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 どちらも高松塚古墳を通ります。どうやら文武陵を築造するころ、継体天皇の陵墓がどちらか不明になっていたようです。あいまいなラインはその事を示しているのでしょう。 
 箸墓・応神陵・継体陵・欽明陵・斉明陵は、天武系の皇族にとって皇統の証明には欠かすことのできない陵墓だったのです。これは、7世紀後半から始まっているようです。
 王墓がつながるラインの存在、それは弥生から古墳時代にかけての九州の墓の造営に見られるものです。それを畿内に持ち込んだのは誰か。天武系の誰かです。その人は、九州の墓制を熟知していたでしょう。
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天武系の王朝は、本当に九州と関係が深いのでしょうか。
気になるところですね。また、付け加えですが、
九州から東遷した神武天皇と崇神天網は同一人物ではないかという説を聞きます。ラインで見てみましょう。古墳が二人の天皇の陵墓かどうか本当はわかりませんが。
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 北から崇神天皇陵→耳成山→神武天皇陵 と、なっています。直線に並びます。どうでしょうね。偶然ですかね。

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by tizudesiru | 2013-08-25 01:37 | 113神となった斉明天皇 | Trackback | Comments(0)

112都を守る天皇陵墓

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都を守る天皇陵 a0237545_201564.gif 天智陵からのラインは南に伸びて、藤原宮の大極殿址を通り、天武陵まで届きました。白いポイントが藤原宮、帝とあるのは、文武天皇陵です。天智・天武陵の真南ではありません。
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 しかし、文武帝と見勢丸山(真の欽明陵と言われている)古墳をつなぐと、間に高松塚古墳の石室が来ます。。高松塚古墳の被葬者は、草壁皇子だと、昨年ブログで紹介していますから、此処では説明を省きます。文武天皇が草壁皇子の後継者であり、欽明天皇の血統であることを示しているのです。陵墓の位置は決していい加減ではありません。
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 では、昨日からの伊勢ラインに話を進めましょう。伊弉諾神社と伊勢神宮(内宮)を結ぶと、間に文武陵が入りました。しかし、ラインから約100mばかり南にずれます。これは、ライン上にあるとは言い難いです。すぐ近くの高松塚からも100mほどずれるので、どちらとも言い難いです。 
 気になるのは、伊弉諾神社と伊勢神宮の間が172km、伊弉諾神社と文武陵が87・7kmで約半分という事です。高松塚古墳または文武陵は、都の守りにとって大事な位置にあるのです。天武陵は藤原宮の朱雀大路の南の端にあります。このような天皇陵墓のあり方は、いつから始まったのでしょう。
 舒明天皇の場合はどうなっているでしょう。
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黄緑ラインの右から、舒明陵→桜井茶臼山古墳→誉田御廟山古墳(応神陵と言われている)が、ライン上にあります。舒明天皇にとって祖先のラインというのでしょうか。
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(桜井茶臼山古墳)
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(誉田御廟山古墳)
 次のピンクラインは、右から舒明天皇陵→推古天皇陵→敏達天皇陵となります。父の敏達天皇とその皇后の陵墓をラインが結んでいます。白の印は、藤原宮です。
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 天智天皇・天武天皇・文武天皇以前、舒明天皇・推古天皇・敏達天皇の時代は、祖先の陵墓とつながることを重視していたのです。つまり、皇統の正しさを示そうとしているのです。天皇陵が都を守るという発想は、7世紀後半に始まったのです。天智帝の陵墓は平安京が造られるときに造営されたと思います。

 それにしても、気になりませんか?
 桜井茶臼山古墳は、柄鏡形の古墳。舒明陵と誉田御廟山古墳は、撥形? 古墳の形が違います。桜井茶臼山古墳の横には、宗像神社があります。一貴山銚子塚古墳や、石塚山古墳と同じ形の柄鏡形古墳。共通する古墳の形は、何を意味するのでしょうね。

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by tizudesiru | 2013-08-24 21:55 | 112都を守る天皇陵 | Trackback | Comments(0)

111都を守る選ばれし神々

都を守る選ばれし神々
京都の守り
再び

 桓武天皇が遷都した平安京の守りを見直しましょう。ラインはいずれも以前紹介したままです。変えずに見直しましょう。水色ポイントは、すべて延喜式内社(名神大社)です。三角形の中央を南下するピンクラインの末端の式内社は、広瀬大社です。一言主神社と並ぶ西側の式内社は、長田神社(名神大社)です。実は、一言主のポイントは、春日大社です。すぐ横なので紛らわしいのですが。下に画像を上げます。
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平安京の守りに、当然、春日大社はかかわります。他にもラインがありますが、複雑になるので、一つだけ上げました。
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 平安京は、貴船神社を頂点に伊弉諾神社、伊勢神宮が大きな三角形を造っています。
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貴船神社は二か所からラインが出ています。三角形になる伊勢ライン・伊弉諾ラインは、貴船神社から。ピンクのラインは奥宮から出ています。
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 ピンクのラインは京都御所を通ります。ここは、度重なる御所の火災の後、白いポイントのある大極殿址から移動建て替えられたのです。紹介済です。黄色の三角の頂点は、加茂別雷神社(上賀茂神社)です。
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 賀茂別雷神社からのラインは、松尾大社と天智天皇陵に届きました。陵墓が都の守りとなっています。
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 嵯峨天皇に都の守りを託された空海の東寺は、加茂別雷神社から南下するライン上にありました。そのラインに、徳川幕府の二条城が乗っています。意図的に築造された幕府の出先で、空海の霊力を断とうとしているのでしょう。これらは全て紹介済です。
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 つまり大切な場所は、神々(神社)の力を持って守られる事、偉大な祖先の霊力(陵墓)にも守られる事などを確認したかったのです。
 
 さらに付け加えます。実は、伊勢神宮のラインには、文武天皇陵が乗っているのです。持統天皇が成長を待っていた若い天皇でした。続日本紀には「初めてーーをする」という文章が多く見られます。律令がやっと整いさまざまな法令が施工されたのです。
 伊勢ラインに埋葬された文武天皇、何処を守護しているか、それが問題です。天武朝が初めて造営した「新益京」(いわゆる藤原京です。条坊をもっている都のはずですが、藤原宮はあっても藤原京ではありません。新益京と呼ばれています)
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白いポイントが、藤原宮の大極殿址です。
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 しかし、よく見ると、文武量は伊勢ラインから若干ずれています。
 真相は、またあとで。
 


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by tizudesiru | 2013-08-23 20:06 | 111京都の守り・再び | Trackback | Comments(0)

110瀬戸内の神籠石再び

瀬戸内神籠石再び
 神籠石は倭国を守るために造られた

 神籠石が九州の王権の終末期と関係が深いと書きました。神籠石と呼ばれる古代山城は、北部九州のみに存在するのではありません。以前から、石城山や播磨城、四国の永納山の神籠石など紹介しています。直線状に並ぶという事です。
 改めて見直しました。
 そこに見えてきたのは、北部九州との結びつきでした。
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 これまでに紹介したラインです。
①石城山と永納山は東西に並ぶ(紫ライン)
②石城山・大廻小廻の小廻・播磨城のライン(赤ライン)
③永納山・城山(坂出)・屋島(ピンクライン)
 上の②ラインに熊山石積という不思議な建造物があります。気になるのでラインに乗せましたが、今のところ意味はありません。③ラインにも、飯野山の山頂が乗っています。偶然でしょうか。屋島城も乗りました。屋島は神籠石となってはいません。しかし、ラインに乗るのでポイントを立てました。このラインは更に伸びて、大津京辺りにつきます。以前も、天智帝とのかかわりが気になるとは書きましたが、結論は出していません。ただの偶然かもしれません。
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 しかし、次の画像は偶然でしょうか。
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 永納山・石城山のラインが伸びて、山口県の生野神社に届きます。この神社には、宮山古墳(前方後円墳)があります。
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 宮山古墳からラインを南下させると、御所ヶ谷神籠石に届きます。間に、天疫神社が乗っています。
 御所ヶ谷神籠石を須玖岡本の祭祀場所(熊野神社)と結ぶと、間に入るのは「風治神社」です。「封じ」の意味を持つ神社です。
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 当然ながら、熊野神社・御所ヶ谷神籠石のラインは、石城山に届き更に伸びていきます。
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 そして、播磨城までラインが伸びるのです。ただの偶然のラインですか?
 私は九州の神籠石とつながるラインで、九州の王権と関係深い築造遺跡だと思います。石城山神籠石・大廻小廻神籠石・播磨城神籠石、そして、永納山神籠石・坂出の城山神籠石は、お互いに深い関係にあったのです。
 これらの神籠石ラインを見ると、神籠石という遺跡がどこを守ろうとしたか。どこに住む人々が造ったのか。
 改めて書かなくとも、分かりますよね。

 
 北部九州につながる人々がかかわり、北部九州を守ろうとしたのです。
 実は、正史に記載されている古代山城も北部九州の王権と関係深いという説も聞きました。それらも合わせて神籠石を見直す時が来ていると思います。
 
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誤解のないように上の画像を追加して載せました。須玖岡本・御所ヶ谷・石城山ラインと、石城山から播磨城ラインは、2本のラインです。

 さらに付け加え、
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 阿蘇と富士を結ぶラインは、夏至の日の出のラインです。このラインとほぼ平行な瀬戸内の神籠石系山城のラインも、夏至の日の出のラインと重なると思います。パソコンで確かめてはいませんが。
 神籠石は山城でありながら、祭祀の場でもあると私は思います。
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 では、また
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by tizudesiru | 2013-08-22 22:21 | 110瀬戸内の神籠石再び | Trackback | Comments(0)

109倭国王の侵略

倭国王侵略
 倭女王ヒミコが九州に住んでいたのは、考古資料や文献からも動かないでしょう。素人が読めば、そうなってしまいます。ですから、他の倭国王も九州に住んでいたことになります。それは、何処に?
 それは、大陸の文化を取り入れ、米作りが始まり、銅や鉄の道具が使われた地域でしょう。多紐細紋鏡や細形銅剣の副葬を見ると、唐津の辺りに始まった稲作をする弥生集落は北部九州に広がり、中部九州にも広がったようです。

 九州の弥生の人口は少なかったと云われますが、本当にそうでしょうか。
 人口密度ですが、暮らし方が家族単位であったり、一族単位であったりして、集落を築いていなかったのかもしれません。人口が集中するには、それなりのメリットがなければなりません。稲作人口が増え、生産を上げる意味があって人口が集中したのでしょう。
 熊本の畑では少し歩いただけでも「黒曜石の石器」や「縄文土器」をよく拾います。もちろん弥生土器も更に多く拾いますが。其の量からして、人口が少なかったとは思えません。阿蘇の噴火、姶良火山の噴火などで、大地は火山灰に覆われていたとも聞きますが、それでも九州は生産力があったのでしょう。

 石器の伝播の地図を見ると、伊万里の黒曜石が鹿児島にも出土するし、広範囲に人が住み交流していた事が分かります。弥生の物流は、新石器時代・縄文時代の伝播ルートを使わなかったのでしょうか。それはないでしょう。
 福岡市西区今山の石斧は、阿蘇の南西台地にも広がっています。
 阿蘇の黄色の火山灰土を焼くと赤色顔料「丹」になります。福岡県の丹塗り土器にも漆に混ぜて使用されています。其の生産地(阿蘇カルデラ内の南)が昨年発掘され、説明会がありました。つまり、縄文時代からの伝播ルートを使って交流したという事です。
 弥生時代、丹塗り土器を使った祭祀も大掛かりですし、甕棺も大きくなっていきますです。富の集中が始まった処に権力者は生まれたのです。人口が少なくては、富の蓄積はありえません。

 では、「富を蓄積した権力者は何処にいたか」ですが、青銅の剣・矛・戈や、前漢鏡を副葬した甕棺墓が集まる地域です。北部九州に他なりません。
 

 復習ぽくなりますが、再度書きます。1・2世紀のイト国には「世王あり」となっていますから、代々王がいたわけです。当然、「倭国王」です。倭国王は大量の前漢鏡を持っていた。中国の皇帝からの下賜品を持ち、甕棺墓に埋葬されていたのです。
 巫女王といわれる平原周溝墓は割竹形木棺で、国産鏡が40面近く割られて副葬されていました。何らかの社会的な異変が巫女王を襲ったのでしょう。さて、そのあとですが、王墓と思しき墓は「一貴山銚子塚古墳」となります。金メッキされた後漢鏡を持ち、三角縁神獣鏡が棺外に8面副葬されていました。
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(青・一貴山銚子塚古墳、 赤・香椎宮、 緑・六嶽)
 その一貴山銚子塚古墳は、香椎宮を通り六嶽にラインが伸びました。何を意味するか、当然、香椎廟の被葬者と近親者であり、六嶽の神々を崇敬していたことになります。一貴山銚子塚古墳が4世紀初と言われますから、香椎廟はその前後に造られたことになります。前か、後か。紀元前の遺跡、立岩遺跡や須玖岡本遺跡とのラインのつながりから、2世紀か3世紀となります。ラインが社殿を通過していないことも、社殿が作られる以前の出来事を示唆しています。
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そうそう、以前「香椎宮と一貴山銚子塚古墳」について、ブログに下のように書いていました。
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この時、六嶽について、真東の立岩遺跡、真南の須玖岡本遺跡との関係から改めて香椎廟を見直してみると、やはり伊都国の王が夏至日の出の山に降臨したように見えます。西から東に「東遷」したのは、神武天皇でした。「神武は糸島から遠賀川流域に東遷した」という説を聞きました。「まさか」と思って聞きましたが、今は納得できそうです。ただ、文化の伝播を見ると、北部九州の墓制なり、日知りの思想なり、近畿に入っているわけですから、大量の人口移動を伴う政変・異変が幾度かあったのは確かでしょう。「日本書紀」にも神武紀の記述は、主語が変化します。天皇と書かれたり、天神とかかれたりしますから、読み手は少し引っ掛かります。日本書紀の編者は、別々の人物の事を神武紀に集めたとも言われます。神武天皇と表現される人物は、数人いたのです。 
 その中の一人が六嶽に降臨した。彼はそこで終わり、次の世代のキビと親しくなった別の人がヤマトに入ったのでしょう。 
 東遷が成功したのは、鉄があったからでしょうか。
 稲作とともに近畿に九州の文化が伝わったのではありません。稲作はもっと早く伝わっているはずです。
 なぜなら、「田代」という地名は、九州にたくさんあります。「田代」とはその年の稲の出来具合を占う場所であり、稲作の伝統行事です。しかし、近畿には田代の地名は無しに等しいです。しかし、東日本・東北には「田代」の地名があり、青森では田代湿原で今でも「田の出来具合」を占っているそうです。つまり、九州からの稲作の文化は、近畿を飛び越えて東に伝わっています。それはなぜか。近畿には別の文化国があり、九州の勢力は入り込めなかったのです。
 結果、倭王は武力を使ったのです。
 それは、深い確執を生み、後世に「熊襲征伐」や「征西」という形になって、逆に九州が武力で抑えられることになるのでしょう。

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結果が、上の画像です。黄色の夏至ラインが「一貴山銚子塚の被葬者は、六嶽に降臨した人物を尊敬し、香椎廟の被葬者とつながりがあった」ことを表しています。冬至の日の出は「金山」から昇りますから、太陽の復活を願い祭祀をしていたはずです。香椎廟からも金山を祀っていたでしょう。故郷の神山として。しかし、水色ラインに筥崎八幡宮が乗っています。延喜式内社として、香椎廟と金山の結びつきを遮断したのです。仲哀天皇廟となった香椎廟ですが、さらなるダメ押しが10世紀に行われたと思います。
 青ラインは、一貴山銚子塚古墳から雷山山頂を通り、女山神籠石に届くラインです。度重なるヤマトの征西に対して、九州勢力が対抗しようと造った「古代の祭祀を伴った山城」です。それは十分に使われることなく、倭王の末裔は九州のあちこちに散らばっていったのでしょう。
 九州に残る神籠石(祭祀を伴う古代山城)は、有名古墳と結びつきます。つまり、古墳時代になって近畿勢力の征西が激しくなり、過去の倭王の霊力を頼りに神籠石を造ったことになるのです。神籠石とつながる古墳は倭王墓であり、古代九州の勢力の最終段階を示しているのです。神籠石の存在意義が伝承としても残らなかったのは、かかわる人々が滅んだからです

 

ここで、次の問題に移らねばなりません。
 近畿には九州の勢力が進出していました。いわゆる「神武東征」という伝承を持つ人々の進出です。 
 その勢力は果たして王権となりえたのか。それとも、在地の王権が復活したのか。
 それは、氏族の戦いであり、氏族の守りの神々の戦いでもありました。
 

では、また
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by tizudesiru | 2013-08-20 22:11 | 109倭国王の侵略 | Trackback | Comments(0)

ふたたび香椎宮 3

ふたたび香椎宮 3
香椎宮と弥生の国々
のつながりを見直します。
 
 日知り王の夏至・冬至のラインが出てきたところで、弥生王墓とのつながりは確認されているのですが。
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 赤ラインは、香椎宮と九千部山を結ぶラインです。ライン上に須玖岡本王墓(弥生中期)が乗っています。いわゆる奴国王で、ガラス璧・前漢鏡を副葬しています。この時期の大首長は「中細形銅矛」を所有していて、その地域は、伊都国や奴国の周辺と玄界灘沿岸に限定されるそうです。
 
 ピンクラインですが、香椎宮の東、鉾立山の更に東にあるのは、立岩遺跡(弥生中期)
です。この遺跡には、三雲遺跡(伊都国)と同じように男性王と女性王の甕棺が出土しています。ここは遠賀川流域で力を持った国だったのです。
 立岩遺跡の更に東にセスドノ古墳(円墳)があります。この古墳は後の時代の古墳ですが、田川地域の銅などの鉱物資源を手にした有力者のものでしょう。弥生の国産鏡に此処の銅を使ったとしたら、田川の首長は大きな富を得たことでしょう。逆に、他の地域からは垂涎の宝の国と見えたはず。神功皇后が夏羽を焼き殺したのは、銅の利権が絡んだからでしょうね。そして、セスドノ古墳の先には、金富神社がありましたね。
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 金富神社は宇佐神宮の元宮とも言われ、豊前国分寺・金富神社・古表八幡神社のラインがありました。すでに紹介しています。

 白ラインの北には、宮地嶽古墳(6世紀)。香椎宮あたりを挟んで、南には老司古墳(4世紀末)。どちらも馬具を副葬する古墳です。

 香椎宮が弥生中期の王墓とつながる事、それは、香椎宮の祭祀が古い時代に始まったという事を示唆しています。つまり、香椎宮はもともと廟ですから、仲哀天皇以前に別の王が葬られていたかもしれません。その伝承が、神功皇后や仲哀天皇の伝承と結びついた可能性もあります。

 去年から紹介していますが、須玖岡本の王墓は香椎宮と九千部山のラインにあり、さらに宝満山・飯盛山の弥生王墓ラインの交点にあります。香椎宮が弥生の祭祀と結びつくなら、香椎・九千部ラインは、きわめて重要な霊ラインとなります。霊ラインというのは勝手な言い方ですが、古代の有力者が墓を造営したり、祭祀をしたりするために、位置を決めるためのラインという事です。
 香椎宮がさまざまな時代とリンクすることは、みなさんご存じです。
 神功皇后が必要とされた時期に社殿が新しくなったり、社格が上げられたりしますが、それにしても神功皇后が15代天皇という地位を奪われたのは、三韓征伐という記述のためでしょう。
 日本書紀における神功紀と応神紀の間の断絶、オオタラシヒコオシロワケ・ワカタラシヒコ・タラシナカツヒコ・オキナガタラシヒメのタラシ系の天皇が、ホムタ(ワケ)天皇になった本当の理由は何か。九州を侵略したタラシ系天皇の系譜は何故途切れたのか。神功皇后の謎が解ければ、古代史のなぞもかなり解けるのでしょうね。
 
 120年足せば実年代にあうという記述の仕方をなぜ選択したのか、などなど。
香椎宮が持っていたさまざまな伝承が、かなり消滅していると聞くと残念ですね。

 しかし、香椎宮ラインが教えてくれえることもわずかながらあるのです。
①紀元前1世紀の立岩遺跡・奴国の須玖岡本遺跡の王墓が結び付く事は、当時の国々が親密であった事。
 
②前漢鏡を持ち、青銅製武器を持ち、甕棺墓に葬られた王とつながる香椎廟は、弥生の墓だった可能性がある。

③日知り王の山である鉾立山の東に位置する立岩遺跡も、太陽を祭祀し東西ラインを重視していた。セスドノ古墳の被葬者も同じく、立岩の王に倣い鉾立山の東に円墳を造営した。

④宮地嶽古墳と老司古墳を結ぶと、香椎宮と大本営址の間をラインが通る。古代の王の廟があったのは、此のラインの上である。今は、道路になっているが。宮地嶽古墳の被葬者は、香椎廟の伝承を承知していたことになる。
 
⑤仲哀天皇の京都であるとしたら、わずかな時間に都としての形を整えることは難しい。しかし、すでにブログで紹介しているが、後世の都と同じような体裁を整えている。これは、別の権力者の王宮が営まれていたからに相違ないだろう。その王が香椎廟の真の被葬者となる。



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広い地域の山々と結びつく事も忘れてはなりません。地域の山々と結びつく墓を造る事は、古代王のステイタスでした。


 そろそろ、このあたりで香椎宮辺りで一つの仮説を出さなければなりません。
 
 4世紀といわれる一貴山銚子塚古墳の被葬者は、香椎廟の被葬者と六嶽に降臨した神を祭祀していた。この香椎・六嶽ラインは、一貴山銚子塚古墳からすると「夏至の日の出」のラインであり、最重要ラインであった。
次のまとめで書きます。
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by tizudesiru | 2013-08-20 12:10 | 108ふたたび香椎宮 | Trackback | Comments(0)

ふたたび香椎宮 2

ふたたび香椎宮 2
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前回、香椎宮・若宮八幡・六嶽神社のラインを紹介しました。が、六嶽神社との関係がはっきりしませんでした。六嶽神社の祭祀は、もともと六嶽山頂で行われていました。実は、六嶽は、香椎宮からすると、夏至の日の出の山に当たるのです。
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 (夏至ラインの青星標は一貴山銚子塚古墳です。続いて宮地嶽山頂・若八幡古墳・香椎宮・六嶽)
 さらに、このラインは、伊都国の最大の前方後円墳である一貴山銚子塚古墳からのラインと重なります。一貴山からすると、眼前の宮地岳の山頂から夏至の陽は上がります。宮地岳から見ると、香椎宮を超えて更に奥の六嶽から朝日が昇ります。また、このラインの上には、若八幡古墳(糸島市)が乗っています。 そして、香椎宮から見て冬至の日は何処から上がるかといえば、若杉山の太祖宮あたりから昇ります。ちょうど、神功皇后がイザナミを祀る飯盛山に相対するように、若杉山にイザナギを祀ったと伝承のある太祖神社の後ろから、冬至の朝日は昇るのです。此のラインは、さらに伸びると古処山々頂に当たります。神功皇后が滅ぼした羽白熊鷲の本拠地の山です。彼は古処山に住んでいました。
 春分秋分の陽は東の鉾立山がら昇り、西の大嶽の上に沈みます。鉾立山・香椎宮の距離と、大嶽・香椎宮の距離はほとんど同じです。香椎宮が、鉾立・大嶽ラインを二分するのです。みごとな偶然ですね。
 ただ、若杉山から古処山に伸びる冬至ラインの起点は、香椎宮本殿ではありません。仲哀天皇の大本営址と伝わる訶志比宮址になります。つまり、このラインが有効なら香椎宮本殿が造営される前の古いラインだったことになります。
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(香椎宮・大本営址)
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(若杉山の太祖神社)
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(古処山)
 この太祖神社は、筥崎八幡宮・太祖神社・大分八幡宮と本殿をつなぐライン上にありました。筥崎宮は九二三年に大分八幡宮から遷宮されています。太祖神社は、延喜式内社が奏上されたころの神社だと思っていました。しかし、さらに古い信仰の名残を教えてくれるかもしれません。
 再度香椎宮を取り上げたのは、夏至・冬至・春分秋分の山は何処か明らかにしたいからでした。もし、仲哀天皇が香椎宮を宮殿としたのなら、そこに「日知り王」としての痕跡があるはずです。それも、弥生の須玖岡本遺跡・吉武高木遺跡の日知り王たちにつながる山々と、何らかのつながりがあるはずだと思ったからです。
 吉武高木遺跡からの夏至の日の出は、鉾立山です。
 香椎宮の創建が微妙であることは、みなさんご存知です。弥生の痕跡を残す場所だとしたら、熊襲征伐とは何でしょう。大きな戦いがあっていたのは、倭国大乱のころでしょうか。
飛躍しすぎるので、この辺で。

では、また
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by tizudesiru | 2013-08-16 11:11 | 108ふたたび香椎宮 | Trackback | Comments(0)

108再び香椎宮

再び香椎宮
 邪馬台国の女王ヒミコは弥生王墓ライン上に眠り、そこは父方の環濠集落の近くであり、神聖な場所である。それは、香椎宮と真南に位置する九千部山とをつなぐライン上で、弥生の霊ライン(宝満山・飯盛山ライン)の交差する地点であり、須玖岡本の熊野神社の周辺である。と、昨年初めてブログに書き自説を述べています。幾度か取り上げた香椎宮を、再び取り上げたいと思います。
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 香椎宮には大事なものだけあげても、上の画像のようなたくさんのラインが読み取れます。これらのラインは、弥生の政治文化勢力のつながり、古墳時代、白村江戦後の政治体制、奈良平安時代の政変などを反映し、さまざまな時代の権力者の思惑が交差していますので、なかなか読みにくいのですが、再度取り上げたいと思います。神社を結ぶラインです。時計回りにラインに番号を付けました。
①香椎宮・若宮八幡神社・六嶽神社
②香椎宮・大根地神社・三奈宜神社(荷原)
③香椎宮・大城山(大野城)・三奈宜神社(林田)
④香椎宮・筑紫神社・見勢大霊石神社
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まず、香椎・六嶽ラインを見ましょう。
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香椎宮を起点にしたラインは、
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宮若市の若宮八幡神社を通り、六嶽神社に届きます。
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いずれも本殿をつなぎます。正確に測量しなければ、三か所がこのようにつながることはないでしょう。三か所の神社は、それぞれ古い由緒を持っています。
 三奈宜神社が二か所ありますが、いずれも延喜式内社を主張しておられます。お互いに神社としての関係もないといわれています。「神功皇后が三韓征伐の折、兵士を集めようとしたが集まらないので、天神地祇を祀り祈ると、自ずから兵士が集まった」という伝承があります。
 見勢大霊石神社は仲哀天皇戦死を隠し、石を天皇にみたてて熊襲退治を成し遂げた後、その石を祀ったとされる神社です。筑紫神社も延喜式内社で、天智天皇が基肄城を築くとき基山から降ろした神を祀っている神社です。
 香椎宮は「万葉集」にも香椎廟として出てきます。仲哀天皇の廟となっているのです。香椎宮に都したとされる天皇で、闇夜に宮で琴をひきながら亡くなっています。
 香椎宮と上記の神社のかかわりは、神功皇后が結び付けていることになります。その伝承を掘りおこし社殿を造ったのは何時の時代でしょう。延喜式内社は10世紀ですが、各神社の由緒は、もちろんそれより古いのです。また、六嶽神社は、もともと六嶽山頂に、三奈宜神社も元は裏山に祀られていたことが分かっています。筑紫神社も基山に祀られていたし、香椎宮も本来は裏山の「二神山」を祀っていたそうです。古い信仰の形は、山をご神体としていたのです。それが神社に下され、後の時代に大きな社殿が必要になった時、ほかの神社と結びつくように建てられたか、または、古来の結びつきを伝承するために選ばれた位置に社殿を建立したか、また、別の理由によるものか……ですね。
 




また、あとで
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by tizudesiru | 2013-08-14 16:40 | 108ふたたび香椎宮 | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡の最初の製作地は何処?

三角縁神獣鏡の最初の製作地は?質問しましたが、答えられませんでした。
 古代史に少しでも興味を持っている人なら、 三角縁神獣鏡が国産だという事を聞いていらっしゃるはずです。

 先日、森浩一氏が亡くなられました。「三角縁神獣鏡は中国に一枚も出ない」と最初に云われたのは、森浩一さんだそうです。

 続いて奥野正男氏が「三角縁神獣鏡の研究」で、鏡の文様などを研究し、笠松型文様が中国鏡にはない日本独自のものであることなどを発表されました。

 そして半年後、中国人学者が「三角縁神獣鏡は中国に出ない」ことを発表し、今では誰でも知ることとなっています。
 だからこそ知りたいではありませんか。

 その鏡は、どこで生産されたかと、製作意図はなんだったのかを。なぜ、1000枚近くも作ったのかを。

 長い間、三角縁神獣鏡が出るから邪馬台国は畿内にあったと聞かされてきました。去年の吉野ケ里でも同じような講演があったようで、その文面を読んで「税金を使っている人は、決まりを曲げられないんだ」と思いました。「三角縁神獣鏡はヒミコの鏡」これは、税金で生活する人の越えられない鉄の壁らしいです。

ですが、質問してみました。8月11日の春日市の邪馬台国シンポジウムで。

「三角縁神獣鏡の件ですが。この鏡について、同型鏡とか、同笵鏡とか言われるものがあります。その中で、どこの古墳のものが原型となり、古いのか。また、古いと云われる理由は何かを教えてください」
 
 原文が手元にないので、文が微妙に違っているとは思いますが。
 質問での失敗は、「畿内の三角縁神獣鏡」の「畿内の」を書き落としたことです。(文面での質問でした)

 同型鏡・同笵鏡という文言で、そのことは当然通じると思っていたのが間違いでした。
 4人のパネリストの答えは共通していて、「中国に三角縁神獣鏡はでない。今は国産と言われている」でした。退屈というか、会場は下を向いていました。みなさんすでに承知、同じことが高島忠平氏のレジュメにも書かれていましたし。

 私は、4人のパネリストは、三角縁神獣鏡がどこで生産されたと云われているか、鏡の形や文様などから何処へ伝播していったか、それが古墳の編年の決定打になる事、古墳の新旧が逆転する可能性がある事など事細かにご存じだと思います。

 それがヤマト王権により下賜されたものとされている事から、王権樹立の次期ともかかわるので言えないのかなと思いました。勝手な憶測でしょうか。

 畿内説の学者の中には、椿井大塚古墳の三角縁神獣鏡がもとになり、それが全国に広がったと云われています。何度も書きますが、一貴山銚子塚古墳をはじめ、那珂八幡古墳、藤崎の方形周溝墓、名島古墳、御陵古墳など、初期前方後円墳やそれ以外の墓にも三角縁神獣鏡が副葬されています。それも墳丘の大小を問いません。地方の有力者に下賜というのですが、墳丘の大きさに差がありすぎます。また、一貴山銚子塚古墳には、金メッキの後漢鏡が頭部に置かれ、三角縁神獣鏡は棺外側面だったそうです。そのことで、王権からの下賜品に疑問符が打たれました。つまり、王権からの下賜品としての三角縁神獣鏡の説が揺らぐわけです。
 


   余計なことかもしれませんが、此処に書きました。
 質問の意図が伝わらなかったとは思えません。司会者も公開の場で質問として取り上げ、パネリストに聞いてくださったからです。司会者は理解されていたはずです。
 でも、
 知りたいことって、たくさんあります。簡単に知ることなんて出来ないのが当たり前。
 そんな気持ちになりました。
でも、これは、寄り道。すっきり忘れて、地図上のラインを追求しなくちゃ……


では、また
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by tizudesiru | 2013-08-13 10:49 | 107寄り道・邪馬台国 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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6平原王墓ラインから分かること
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9渡神山から英彦山へ
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12羽白熊鷲と古処山
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15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
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54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
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59続石上神宮の視線
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174高市皇子の死の真相
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188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
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201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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212中大兄の遅すぎる即位
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214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
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240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
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243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
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251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
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大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
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267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
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269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
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283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、仏像を供養したのか

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