<   2013年 07月 ( 12 )   > この月の画像一覧

宇佐神宮と九州の神々 2

宇佐神宮九州の神々のつながり 2
a0237545_1563378.png
宇佐神宮と九州の神々のつながりを考えようと、天照神社(すでに紹介)とラインを結んでみました。すると、ラインはさらに伸びて、福津市の宮地嶽古墳とつながりました。延喜式式内社としての宇佐神宮が、ニギハヤヒを祀る天照神社を抑えようとしているのでしょうか。そのラインは、宮地嶽古墳まで届きました。
a0237545_1503985.gif
宇佐神宮
a0237545_1512391.gif
鷹居神社
a0237545_1522157.gif
香春岳(山頂をずれる)
a0237545_1524824.gif
天照神社
a0237545_1532980.gif
宮地嶽古墳(中央の丸い森)小さな円墳でありながら、石舞台古墳より長く、見勢丸山古墳に次ぐ大きい横穴式石室を持っています。副葬品も、新羅系のガラス板、金冠、碗型鐙など国宝が十数点あります。

延喜式内社の名神大社としての宇佐神宮は、私が主張する式内社(名神大社)の特徴を備えています。それは、古代九州の神祭りの場(神社など)や、信仰の対象だった山々や、政治勢力が残した墳墓や遺構をターゲットとしたラインがかかるという事です。過去の見えない力を後世の霊力(式内社)抑え込もうとしているという事です。地図を広げて神社や古墳をつないでいた頃はまったく気が付きませんでしたが、ラインを引くうちに九州の延喜式内社に共通する事が明らかになってきました。それは、筥崎八幡宮のラインがきっかけでしたが、此処では繰り返しません。天照神社も、宮地嶽古墳も、すでに何度も取り上げたところです。
[PR]
by tizudesiru | 2013-07-31 14:59 | 101宇佐神宮と九州の神々 | Comments(0)

101 宇佐神宮と九州の神々

宇佐の神の始まりの地は何処?暑い中に豊前歩き
a0237545_13501559.png
a0237545_1351233.gif
a0237545_13512796.gif

 辛國息長大姫大自命は神代に唐に渡り、崇神天皇の時に帰国という。豊比賣命は、神武天皇の外祖母で住吉大明神の御母と書かれています。名前が多いので頭が混乱しそうですが、天照大神の子どもの忍骨命が年長で、神武天皇の祖母の豊比賣命が次に年長で、崇神天皇の御代に帰国した辛國息長大姫大自命が一番若いことになります。
a0237545_1426578.png
崇神天皇の時、各神霊を各山頂に祭っていたのに、和銅2年・元明天皇のとき三神を合祀したとあります。その時は、香春宮と尊称されていたけれど、明治になって香春神社になったようです。宮と神社では、格式が違うのです。
a0237545_1294521.gif
a0237545_13371958.png

 先に紹介した薦神社。御祭神は、応神天皇・比哶大神(三女神)・息長帯比売命でした。社殿の造営は承和年中(834~48)と伝わりますが、「八幡宇佐御託宣集」によるとこの神社古より八幡神とかかわりが深かったそうです。720年の日向大隅の隼人の反乱に対し、八幡神を奉じて鎮圧に向かいますが、神輿には三角池に自生する真薦で枕形の御験が乗せられていたのです。こ の薦枕は、八幡神のみ験として永く用いられます。6年ごとに造りかえられ、八幡神とかかわりの深い八社を巡ったあとに、宇佐神宮に納められます。八社とは、田笛者、鷹居社、瀬社、泉社、乙哶社、大根川社、妻垣社、小山田社です。古い御験は、下宮に、さらに下宮の古い御験は国東の東海岸の奈多宮に納められ、最後は海に流されます。それが、四国にまで流れ着きお祭りされたとか。長い八幡神のリレーです。そのスタートが、薦神社です。
a0237545_14175172.png
薦神社の呉橋は、江戸時代の絵図によれば、上の写真の神門の前にありました。特別な人しか渡れない橋です。壊れかかっているのが気になりますが。呉橋は、宇佐神宮にもありますし、久留米の大善寺玉垂宮の神門前にもあったようで、名前が地名に残るそうです。
a0237545_14304679.png
宇佐神宮の呉橋。勅使道に続く橋です。格式のある神社にしかないのですね。
a0237545_14315184.gif
大善寺玉垂宮の前の広川にかかる橋が呉橋だったそうですが、既にアスファルト道路に変わっています。ここでは、薦神社が宇佐神宮の元宮といわれる理由がわかったような気がします。
 では、他の神社も見てみましょう。
a0237545_1454823.png
香春神社と宇佐神宮のライン上に、逢坂山(大阪山)と、鷹居神社御乗っています。この神社を拡大してみると、若干北にずれます。ほかのラインに乗るのかも「しれません。後で、もう一つのラインを紹介します。
a0237545_1563160.gif
a0237545_157932.gif
この神社は、八幡神(鷹の姿)ですから、神功皇后の子どもの応神天皇ということです。大神比義と辛島勝乙目は、ともに八幡神を奉じて大仏開眼に尽力した人です。この地を選んで神殿を建てたのはなぜでしょうね。和銅元年は、銅が日本でとれたことを記念する元号です。香春岳の辺りは、採銅所の地名も残る銅の一大産地でした。その事も関係するのでしょうか。銅の産地を八幡神が抑えていたとか。
 このラインが宇佐神宮に届くのです。
a0237545_15205755.png
a0237545_15211886.png
宇佐神宮の御祭神は、八幡神とその母堂・神功皇后、そして、比賣大神となっています。不思議なことに、比賣大神は宗像三女神となっているそうです。「宗像三女神は、宇佐島に降臨した」という古事記・日本書紀の記述に合わせているのでしょうか。
[PR]
by tizudesiru | 2013-07-30 14:18 | 101宇佐神宮と九州の神々 | Comments(0)

日知王の山々

日知王の山々
 万葉集巻一、柿本人麻呂が近江の荒都を過ぎる時作る歌「玉手次 畝傍山乃 橿原乃 日知之御代従 阿礼座師 たまだすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ あれましし」という長歌に「日知」という語が使われています。畝傍山の橿原にいた日知の王が治めた世より、この世にお生まれになった……と、歌はつながり、橿原の王から次々受け継いだ皇統を詠んでいるのです。「玉たすき」とは、神祀りの時に懸ける襷らしく、文字からすると、橿原の王は、日知です。「日知」とは、聖にも通じ、太陽の動きを読める尊ばれる人物でしょう。ここでは、そういう人物を「日知り王」と呼びましょう。橿原の王は、日知りであったようです。日を読んでいたのです。
 日知り王は、日を読むに何を以てしたか。つまり、見てわかる基準があったはずです。彼は、畝傍山の橿原のある地点から、三輪山を見ていた。三輪山は、神武陵から見るとほぼ夏至の日の出の山です。そして、そのことを確かめて畝傍の一地点に宮柱を建てた。そこは、春分秋分の太陽が天香久山々頂から昇るのが見える場所でもあります。なぜそう言えるのか。それは、九州の日知り王と共通するからです。日知は、王の条件でしょうか。

 北部九州の日知のラインは、北部九州の中央の山地を縦断します。その山地は、福岡平野から見える東の山々。偶然にも南北に連なる山頂で、それは、鉾立山・砥石山・宝満山。更に、阿志岐平野を挟んで宮地岳山頂に及びます。このラインが南下すれば、高良大社に当たり、高良大社から北を見ると、宮地岳の後ろにそそり立つ宝満山々頂の上空に、北極星が見えます。広い筑後平野の奥のひときわ秀麗な宝満山は、福岡平野からも筑後平野からも長い間信仰を集めていました。三郡山系の宝満山は福岡・筑後の両方の平野の接点にあり、断層地形の谷(平地部)を挟んで脊振山系に一番近い山なのです。この山こそ、日知り王の春分秋分の山であり、この山の西に弥生の日知り王はいたのです。
a0237545_112188.png

吉武高木遺跡の時代
 唐津の菜畑遺跡あたりから始まった鏡や青銅器を副葬する習慣は、瞬く間に福岡平野にも広がりました。吉武高木の首長も聖であったと考えられます。飯盛山から見ると、夏至の陽は鉾立山から登り、冬至の日は荒平山から登ります。
a0237545_1112750.png

 荒平山から冬至の陽が昇ることを、早良の首長は飯盛山から目で確認できたと思います。しかし、見勢大霊石神社までラインを伸ばすことは、少しためらわれます。この神社は、神功皇后が清浄な砂地で祭祀をしたと伝わりますから、もう少し河原に近かったかもしれません。そして、鉾立・宝満山ライン上に、脊振からのラインが交差する位置に建てられていたのかもしれません。そうなると、のちの世、延喜式内社の世に、二つの神祭りのラインを断つために建てられた神社ということになります。
 話を戻します。
三雲南小路王墓の時代 
a0237545_13204849.png

 この王は、日知り王だったのでしょうか。高祖山が夏至の陽の出のラインです。脊振と火山の間に甕棺はありましたが、このラインは冬至の陽の出ではありません。夏至の日没は、加也山です。
a0237545_13591641.png

 三雲南小路王墓から平原王墓を通り、加也山につながるラインです。王墓から見ると6月22日の太陽は、可也山に沈みます。画像は、三雲南王墓から見た6月22日の日没です。可也山に沈む陽をパソコン上で確認しています。
a0237545_13315832.png
a0237545_133244100.png

 平原の王は、日没の方向に周溝墓を造ったことになります。此のラインが、大祖神社までつながることは、前回までに紹介しています。可也山から見れば、神社の方向に陽が沈んだのです。神祭りの場としては、ふさわしいでしょう。伊都国の首長たちは、加也山・高祖山、井原山を使って、陽を見ていたはずです。
須久岡本王墓の時代
a0237545_1346763.png
須久岡本の王は、夏至・冬至・春分秋分の山々を、福岡平野の周囲にもっています。すべてそろっているのです。春分秋分の太陽は宝満山から昇り、飯盛山に沈みます。須玖岡本の最高部から見る宝満山は、大城山(大野城)の影になって見えにくいのです。そこで、神祭りを大城山でもしていたようです。王城神社の由緒からすると。
 夏至の陽は砥石山から昇り、愛宕山に沈みます。ここも古代からの神祭りの場でした。冬至の日は宮地岳から昇り、井原山に沈みます。
 須玖岡本の日知り王は、吉武高木の首長の伝統を受け継いだことになります。宝満山と飯盛山の祭祀を受け継ぎ、愛宕山・砥石山・宮地岳・井原山を神祀りの対象の山とした事でしょう。そして、真南にある九千部山を崇敬したはずです。毎日、太陽が南中する山ですから。一族の守り山・神と仰いだ山は、九千部だったはずです。九千部・香椎ラインと、宝満・飯盛山ラインが交差するのは、須玖岡本の最高部です。伊都国と奴国・早良国が出会う場所、古代の太陽祭祀がされたであろう場所は、此処意外にありません。すると、やはり、倭女王は須玖岡本地区と関係の深い人であり、父方の墓地に眠っているはずです。
a0237545_1504664.png

 日知り王は九州で生まれた
 三か所の弥生遺跡の首長たちは、それぞれの地域から太陽の動きを観測した「日知り」であったのです。彼らは尊敬され、畏れられ、大切にされたでしょう。「日知」であることの証に鏡を持とうとしたのでしょう。鏡をいち早く持ったのは、九州の王や首長です。日知りの思想も九州から生まれたのです。


明日は旅行に出ますから、数日お休みします。
101回から、九州の首長のつながりを改めて、紹介したいと思っています。
では、また


[PR]
by tizudesiru | 2013-07-26 00:09 | 100日知王の山々 | Comments(0)

北部九州のミステリーその2

北部九州のミステリーその2
弥生王墓・三雲南小路青の星標のポイントが、三雲南小路王墓です。
a0237545_054219.png
前漢鏡の数の多さやガラス璧でも知られた王墓です。「世々王がいた」伊都国の中心に、大型甕棺に埋葬された首長は、弥生の王の一人です。大型甕棺は、脊振山頂と火山山頂の間にあります。
a0237545_123561.png
更に、弥生の王墓ライン、宝満山・大城山・飯盛山の東西ラインの上に、須玖岡本・吉竹高木・三雲南小路が並びます。三雲南小路の西に、4世紀の前方後円墳・一貴山銚子塚古墳があります。
a0237545_1125428.png
a0237545_11433.png
a0237545_114291.png
a0237545_116577.png

では、三雲南小路と平原周溝墓の関係は、どうなるでしょう。
a0237545_1231156.png
三雲南小路と、可也山のライン上に乗っています。そのままラインが伸びて、大祖神社に届きますが、二つの王墓と大祖神社との関係が、弥生から続くものかどうかわかりません。後の時代に海の信仰と結びついたものか、または、伊都国の使者が韓半島に渡るとき、此処で神祭りをしたものか。後者かもしれませんね。
a0237545_128885.png
一貴山銚子塚は古墳時代ですから、ほかの地域や、ほかの古墳との結びつきも増えてきます。北東に伸びる黄色のラインは、夏至の日の出のラインです。このラインは、糸島の若八幡神社(古墳)を通り、香椎廟を通り、六嶽山頂に届きます。南東に伸びる黄色ラインは、冬至の日の出のラインです。冬至の日は金山から出ます。このラインをそのまま伸ばすと、鳥栖の朝日山まで行きますが、金山で止まりのほうが確実でしょう。それとも、朝日山ともつながったのでしょうか。此処も古代の墓地らしいですが。
a0237545_134276.png
a0237545_141813.png
a0237545_1385139.png


弥生時代にも、墓地を選ぶのに山を使っていたと云えるのではないでしょうか。そして、過去の王墓とつながるように、自分の墓の位置を決めていた事になります。この後、それは一層顕著になります。
a0237545_1565965.png
赤インは、海の中道の大嶽を通り、福津市の波切不動古墳に届きます。この古墳には、馬具を副葬した横穴式石室があり、宮地嶽古墳より前の時代のものと聞きます。一貴山銚子塚古墳は4世紀ですから、波切不動古墳の被葬者は、糸島最大の古墳を知っていて、その霊力にあやかったことになります。青ラインは、一貴山銚子塚古墳から雷山を通り、女山の神籠石まで届きました。
a0237545_1555974.png
 10世紀になると、九州の古代の信仰(霊力)を遮るために、式内社は配置されました。志登神社も延喜式内社(小社)ですが、はっきりその役目を担っています。志登神社は、縦の赤ラインの雷山と柑子岳の関係を断ち、横の赤ラインの加也山・紅葉八幡・小鳥神社・寿命王塚古墳(遠賀川流域最大の前方後円墳)のつながりを断っていると、すでに紹介しました。これは、10世紀でしたね。
a0237545_154268.png
a0237545_13315941.png
古墳と結ぶラインが他地域とのつながりを教えています。大祖神社から出る水色ラインは、大嶽を通り、宮若市の竹原古墳に届きます。同じく大祖神社からの黄色ラインは、夏至の日の出のラインです。下の画像を見ると、彦山・灘山を通り、志賀海神社の旧地・辺津宮を通り、宮地嶽神社と宮地嶽古墳に届きます。志賀海神社が式内社となる前の祀りの場が、志賀島の北岸にあった事は重要です。大祖神社・志賀海神社(元宮)・宮地嶽神社がつながるからです。こうなると、渡海する際の神祭りが見えてきそうです。だいたんな事を言いますが、古代九州の海神は、結ばれていた。海人族はつながっていた事になります。そして、大祖神社から見ると志賀島の北岸と宮地嶽神社の方向に夏至の陽が昇り、宮地嶽神社から見ると、志賀海神社元宮と大祖神社の方向(灘山)に冬至の陽が沈むのです。
a0237545_1541939.png

 古代九州の海人族のつながりが、糸島から見えてきました。倭人は、唐津・糸島・博多湾・津屋崎(相島)からも渡海したのです。海岸の神社は、そのことを示していると思います。「万葉集」の志賀の白水郎・荒雄を思い出します。宗像の海人に頼まれて、対馬送糧の任を受け遭難しました。白水郎の絆の深さも、しのばれるではありませんか。
 倭国の中心が九州にあったことが、なぜ否定的に扱われるのか。なぜ、九州じゃいけないのか、たくさんの事実があるのに……北部九州に残された墓や山がなぜつながるのか、わからないことがたくさんあります。しかし、もう少しで、解けそうです。
 次は、100回ですから。今まで書かなかったことを書きたいと思います。


また後で
[PR]
by tizudesiru | 2013-07-25 02:05 | 98北部九州のミステリー | Comments(0)

北部九州のミステリー1

再度、「薦神社の不思議」から見える北部九州のミステリーゾーン
a0237545_056030.png
此の画像を紹介しましたが、なんでこの画像が急に出てくるのか? 疑問に思われたことでしょう。やはり順番が大切ですね。まず整理しておきたいのは、四角形の四隅に在るのは如何なる類のものか、です。西側は北に飯盛山。南に雲仙普賢岳。四角形の東辺の北に薦神社、南に草部吉見神社でした。
 草部吉見神社については、{高千穂の峰から阿蘇へ」でも少し紹介しています。ご祭神は神武天皇の長男・彦八井耳命で、高千穂の峰からこの地に来て、吉の池を気に入り、そこに住む大蛇を退治しています。大蛇が血を流しながら逃げたところに、血引原(地引原)、最後に焼かれたところが灰原と名が付いたとか。彦八井耳命の娘・阿蘇津姫が、神八井耳命の子・健磐龍命と結婚しています。彦八井耳命の一族は、高千穂から阿蘇に入った侵略者なのでしょう。草部吉見神社は、三大下り宮の一つです。
 彦八井耳命の時代には他の地域からの侵略があり、健磐龍命の時代には阿蘇の首長が決まり治まったということでしょう。
 薦神社も同じような侵略を伝えるのでしょうか。
 養老三年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱(大隅国府襲撃)で大伴旅人が率いるヤマト朝廷軍および宇佐神官の辛島波豆米率いる宇佐「神軍」が、薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験・薦枕をご神体に、神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと伝わります。今でも、薦刈神事は6年ごとに行われる「宇佐神宮行幸会」の中で、辛島一族が当時より行い伝えています。薦神社の別名「大貞神社」の「貞}には占いの意味があるとも言われています。
 薦神社・草部吉見神社のどちらも、勝者の神社であることは共通しています。
 ところで、隼人は大隅国府を襲っています。この反乱により班田は見送られ、800年まで行われませんでした。80年間も。それは、なぜでしょう。

 近畿王権から派遣された大伴旅人は、当代一の権力者・太政大臣にもなった長屋王派であり、有力者であったろうと思います。その旅人も隼人の反乱にはてこずったのです。鎮圧に協力したのは神官であり、祭祀する神々でありました。霊力により戦いを勝利に導こうとしたのです。8世紀でもそうです。それは、隼人側も同じでしょう。国府を襲うのですから、政治的な反乱であり、一年も戦うのですから大隅・日向国を挙げての戦いであり、強力な指導者がいたのです。戦いに勝利してもなお班田が行えなかったのは、和解交渉により相手の言い分を認めたからです。つまり、大隅・日向は「独立国」のようなものです。だから、薦神社・草部吉見神社の協力な結界が必要となったのではないでしょうか。
 唐突に見える上の画像の四角形は、8世紀の神祭りを象徴しているといえます。
 ですから、北部九州のさらなる古代を紹介しなければなりません。
 
a0237545_272425.png

 この画像の中にたくさんの山々がありますが、弥生遺跡と関係の深い山を取り上げてみました。これらの山は、博多湾側(志賀島あたり)からほとんど見えます。香春岳は山の影になりますが、龍王山などの山に登れば、見ることはできます。これらの山々が重要な事は、古墳時代から6世紀になっても変わりません。
a0237545_12124171.png
この画像でもわかるように、雷山と柑子岳の間に、延喜式内社(小社)の志登神社が入っています。さらに、弥生の最重要ラインの鉾立・砥石・宝満・宮地岳ラインの南に、高良大社が控えています。高良大社は延喜式内社の名神大社であり、筑後一宮です。延喜式の時代は10世紀です。辛酉の年に、国家・皇室の安泰を願って、国内の神祭りに大きな手が入ります。それは、九州の霊力を抑えることでした。菅原道真のたたりを恐れただけではなかったのです。また、神籠石の標(黄色・雷山・宮地岳)も入れています。これは時代が遡り、6世紀ごろの政治的状況を伝えていると思います。神籠石は、何度も取り上げています。今回は、別の視点からも取り上げたいと思います。

 では、また「北部九州のミステリー」で

<以下は余談です>

 北部九州の古代、甕棺墓に青銅製品が現れるのは、弥生時代です。まず、佐賀の唐津の菜畑遺跡に、多紐細文鏡・細型銅矛などが副葬されます。稲作の始まりも早く、唐津方面の弥生遺跡は、かなり密集しています。それが、糸島・福岡平野・飯塚などに広がっていくのです。前漢鏡が副葬されるのは、ほとんど甕棺墓で、後漢鏡は箱式石棺となっていきます。古墳時代になって、国産の三角縁神獣鏡などが副葬されていくのです。ですから、前漢鏡・後漢鏡を持つ国々が、倭の国々ということになります。つまり、鏡で見れば北部九州に倭国があったことになります。また、弥生の鉄製品の出土も、やはり九州です。素環頭大刀の副葬も九州で始まりました。邪馬台国の武器である鉾の鋳型もほとんど九州で出ています。絹も甕棺墓から出土しました。
 どこが中心だったか、経済的に力を持った地域は何処か、それは考古資料で専門家が明らかにされると思います。しかし、いつの間にか、邪馬台国は近畿にあったことになりつつあります。不思議です。しかし、それが本当なら少しも構いません。間違いなら……日本の学問のレベルを問われそうで恥ずかしいです。公的なお金を使っている専門家の方に頑張ってもらわないと……
 誰にでも古代を考えることはできるし、面白いことでもあります。地図でも古代がかいま見えると思うのです。



[PR]
by tizudesiru | 2013-07-24 02:05 | 98北部九州のミステリー | Comments(0)

宇佐神宮と北部九州・その2

宇佐神宮北部九州その2
 古代の宇佐神宮は、どんな位置にあったのでしょう。地図上の位置ではなく、信仰上の、または古代の権力者にとっての、更にそこに住む人にとって、どんな意味やつながりがあったのでしょう。
a0237545_0422372.png

 大胆な地図です。東の宇佐神宮からラインが伸びて、大きな三角形ができました。
a0237545_046438.png
 
 赤・水色・青ラインは、どこへつながるか想像できると思います。赤ラインは雷山山頂に届きました。水色ラインは、
a0237545_0492040.png

 宮地嶽古墳に届きます。小さな丸い森のように見えるのが、巨石の横穴式石室の古墳です。このラインは、遠賀川流域にある、天照神社を通過しています。この神社は、日本で唯一ニギハヤヒ命を主祭神として祀る神社だそうです。その神社が、宮地嶽古墳と宇佐神宮のラインの上にあるのです。宮地嶽古墳の被葬者は、宇佐神宮や天照宮を知らなかったのでしょうか。まだ、神社がなかったとして……それとも、すでに天照宮も、宇佐神宮もなにがしかの社を建て、神祀りをしていたのでしょうか。だから、このラインができたのでしょうか。
a0237545_1112930.jpg
a0237545_11326100.jpg

では、青は?
a0237545_0521922.png

 そう、大善寺玉垂宮に届きます。そして、玉垂宮をややはずして、北から降りてくる青ラインは、宮地嶽古墳から南下したものです。大善寺玉垂宮を通り過ぎて……以前紹介した「こうや宮」の小さなお堂に当たります。(このラインを、宮地嶽古墳から権現塚古墳につなぐと、途中に、千栗八幡を通過します)
a0237545_121540.png

 なんだか意味深な三角形に、意味深なお堂がつきましたね。
 こうや宮についての紹介も合わせてみてくださいね。

「宇佐神宮と北部九州」で取り上げたラインで、宇佐神宮・薦神社・香春神社ラインと、宇佐神宮・天照神社・宮地嶽古墳ラインの二本は、北西に延びるよく似たラインです。三か所の神社がつながり、式内社に挟まれている前者と、宮地嶽古墳とつなぐ後者。前者の宇佐神宮は、延喜式内社として香春神社とともに薦神社を抑える役目を持っているのですが、後者の宇佐神宮は、古墳と結びついた北部九州の古代の神祀りを伝えています。
 古墳と神社のどちらが先か難しいところですが、宮地嶽古墳と天照神社が先にあって、この二か所の延長線上に宇佐神宮が祀られ、次に、薦神社を抑えるために、宇佐神宮の霊力を頼りに香春神社が祭られたことになります。他の勢力が北部九州にどのように入ってきたか、想像できるのではないでしょうか。この逆、宇佐神宮に合わせて、天照神社と宮地嶽古墳ができたという仮定は難しいでしょう。

 さらに言えること。「宇佐神宮がもともと九州の神祭りの社だったのではないか」ということです。それが、宮地嶽古墳・天照神社との結びつきが示していると。時代が変わって、東大寺大仏建立に積極的に協力したのは、応神天皇にかかわる古い祭祀が近畿王家につながりがあったからではないでしょうか。応神天皇その人であったかどうかは、わかりませんが。奈良の朝廷と結びついた、かかわりのある人物や伝承があったのでしょう。
 この時代、日本書紀はできていますが、一般の貴族にも特別に学習しなければわからないほど難しかったのですから、普通の人々に歴史は遠い世界だったでしょう。古事記の世界の一部が神楽として全国に広がるのは、神代の昔を知りたいという知的な願望もあったからと思います。その願望が、さまざまな伝承を産み育て、その中に幾らかは事実が含まれ、それがわずかに残されているのではないでしょうか。
 それにしても、古墳や神社は率直に古の一部を教えてくれると思います。

 
[PR]
by tizudesiru | 2013-07-23 01:22 | Comments(0)

宇佐神宮と北部九州

宇佐神宮北部九州
 前回まで幾度となく名前の出た古代からよく知られた神社は、宇佐神宮です。豊前國宇佐郡の延喜式内社で、名神大社です。宇佐郡には、八幡大菩薩宇佐宮と、比売神社と、大帯姫廟神社の三座があると書かれています。名神大社は豊国の三座、豊後国にはありません。
 宇佐神宮から延喜式内社(名神大社)にラインを引いてみます。筑後国一宮の高良大社と結んでみると、大善寺玉垂宮まで届きました。
a0237545_12463025.png
a0237545_12455899.png
a0237545_12521042.png

a0237545_12532329.png
さて、この並びから何が言えるかというと、二つの名神大社を結ぶと、同じく古い信仰を伝える大善寺玉垂宮とつながるということです。延喜式内社が、古代九州の神祭りを断つ役目を持っているのなら、大善寺玉垂宮こそ古代九州の代表的な神々が祀られた場であった事になります。高良大社は、本殿裏の高部を横切り、そこは神籠石の最高部で、古墳があった処です。
 宇佐神宮は九州のまつろわぬ神々や、まつろわぬ人々を討つ役目を担っています。更に云えることは、近畿王権に取り込まれる前、宇佐で神祭りがおこなわれていたのなら、それは旧高良大社の神(神が交代をする前)や、大善寺玉垂宮の神ともつながっていた事になります。つまり、宇佐・高良・大善寺玉垂宮は、古代の人のつながりを教えてくれるラインとなるのです。
 さて、香春岳のふもとの香原神社は、延喜式内社で、小社です。ですが、香春神社、薦神社・宇佐神宮もつながります。
a0237545_16145942.png
a0237545_1624178.png

a0237545_16161960.png
a0237545_16164535.png
大阪山は、逢坂山でもあります。
a0237545_16192732.png

 このラインを見ると、九州では数少ない延喜式内社が二社、薦神社を挟んでいました。薦神社が重要だということです。既に「薦神社の不思議」で紹介していると思います。再び取り上げました。
 薦神社・金富神社・八幡小兵神社の位置、地図上の位置が教えてくれる古代、そこに見えている北部九州の古代の姿がだんだん明らかになってきましたね。

 大善寺玉垂宮の事も改めて紹介しましょう。宮司さんからお聞きした話も含めて。

それでは、また。
[PR]
by tizudesiru | 2013-07-22 12:49 | 96宇佐神宮と北部九州 | Comments(0)

八幡古表神社と隼人

隼人の反乱の理由を知らないのは、なぜ?
a0237545_095229.png

弥生の信仰のライン(ピンク)が、金富神社に当たります。金富神社は、国分寺と八幡古表神社を結び付けています。金富神社は、宇佐神宮の元宮という説もあり、宇佐神宮と深い関係がありました。実は、八幡古表神社も宇佐神宮と関係が深いのです

 社伝によると、元正天皇の 養老三年(719年)、日向・大隅の隼人等が皇命にに背いたため、朝廷はその鎮圧を宇佐神宮に祈願。豊前国司 宇努首男人は、息長大神宮の神官と協議し、神輿を奉じて敵地に入り、ついに七城を落とすことができたのです。この後、八幡宮を合祀したとのことです。
 日向・大隅の隼人が従わなかった皇命とは、なんだったのでしょう。七城を築いて反乱をしたのですから、日向・大隅の国を挙げての反乱だったのです。官軍・宇佐の神軍に加えて、息長大神宮の神人・社家・村里次官も隼人を討ちに出ていましたが、二城はどうしても落とせませんでした。豊前の国司が息長大神宮に祈らせ、神告の通り、美女・美男の神像を造り、戦場において伎楽を奏して賊軍を懐柔し、官軍の士気を高め、ついに二城を誅つことができたのです。一年もの間、隼人は抵抗しました。そこまで抵抗できたのはなぜか、理由がわかりません。隼人側の死者は1400人を数え、班田収授法の適用は、延暦十九年(800年)まで行われませんでした。日向・大隅の伝承を見直さなければならないですね。
 聖武天皇の天平十六年(七百四十四年)隼人の霊を慰めるため、宇佐神宮が中心となり豊国の大放生会を執り行iいました。息長大神宮の神官も国司から頼まれて、隼人が降伏したとき伎楽を奏したので、似たような木像を造り船に乗せて海上の放生会に参加したのでした。そこで、細男の伎楽を奏したのですが、それがすこぶる古の形をあらわすものであったので、「いにしえを表す」という古表大明神という別宮を建てて奉祀したそうです。宇佐神宮の放生会には必ず出御していたそうですが、時代が下がり八幡古表神社でも独自に行うようになったそうです。
a0237545_0472066.png
a0237545_0473813.png

 画像は、神社の紹介ホームページからいただきました。動画も発信されています。
 隼人の霊を慰めるための伎楽では、細男がさまざまな神像のすべてに相撲で勝ちます。では、細男が隼人を象徴しているのでしょうか。それとも、隼人とは戦わなかった神でしょうか。細男とは、住吉大神だそうです。

 細男が負かしている神像がすごいです。
 今に伝わる神像が如何なる神々を表しているか、気になります。
 祇園大神・誉田大神・若宮大神・天御中主大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神・廣田大神(撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命)・生田大神(稚日女命)・伊多手大神(五十猛命)・長田大神(事代主神)・大美輪大神(大物主神)・三島大神(大山祇命、事代主命)・大海津見大神(和多都美神)・水波能賣大神(彌津波能売命)・立田大神・美奴賣大神(素盞烏命、弥都波能売神)・鹿嶋大神・香取大神・爾保都姫大神・塞大神・八衢姫大神・大國魂大神・大穴持大神・白髭大神・高オカミ大神・闇オカミ大神・春日大神・熱田大神・宮簀姫大神・大歳大神・若歳大神・豊受姫大神・磯良大神・高良大神・松尾大神・酒殿大神(酒弥豆男神、酒弥豆女大神)・久久奴智大神・金山彦大神・石坂姫大神・稚日女大神・四大夫大神(四大神)・玉手大神(大山祇神)・八意思兼大神さて、神々の所在地がわかりますか。面倒なので、省きました。が、神々だけ見ても、その所在地は広範囲にわたります。此処に出ていない神々もおられますが、それは、どう考えたらいいのでしょう。この時代にはあまり知られていなかったのでしょうか。重要文化財の神像は、八世紀に活躍していた神々なのでしょう。すると、宗像三女神はどうなるのでしょうね。宇佐島に降臨したと、書かれていますが。
 隼人征伐と、天照大神・三女神は関係なかったのでしょうか。
 
鉾立山・立岩・・金富神社
のラインと、国分寺・金富神社・八幡古表神社のラインからわかるのは、弥生の信仰を色濃く残していた金富神社が次の時代の権力にも信仰されたということです。時代がかわったので、同じ神を祀ったのではないでしょうが、信仰の場は残されたのです。伝承のように、宇佐神宮の元宮なのかもしれませんね。
[PR]
by tizudesiru | 2013-07-20 00:11 | 95 金富神社と鉾立山3 | Comments(0)

金富神社から見えること

金富神社から見えること
a0237545_21103670.png

前回、鉾立山と立岩遺跡の弥生のラインを紹介したいために、国分寺・金富神社・八幡古表神社のラインを簡単に扱ってしまいました。しかし、このラインには、大きな歴史の事実が伝えられていると思います。
 まず、八幡古表(はちまんこひょう)神社について、
 福岡県築上郡吉富頂小犬丸にある神社で、すぐそばに山国川が流れ、川を渡れば大分県中津市です。縁起は欽明天皇6年(545年)に遡り、神功皇后の神託により息長大神宮と称し、まず初めに八幡宮が鎮座し、脇殿には住吉宮が祀られました。
 細男舞・神相撲の神々を祭る古表社の起源は、少し時代が下がってからで、天平16年(744年)です。細男舞・神相撲とは、木彫りの御神像が舞い、相撲をとる行事で、馬にまたがった神功皇后の御神像、細男・神相撲四十七体の御神像とともに、国指定重要文化財になっています。
 また、中津藩主からの尊崇も篤く、御神衣や刀剣類など宝物も多数保有しています。
 という紹介文がありました。欽明天皇6年(545年)とは、いかなる年でしょう。そして、天平16年(744年)、神社の名が変わった年ですが、どんなことがあったのでしょう。
744年新京(恭仁京)に遷ることを告げる勅使あり。 (香椎宮編年記)
   難波京に遷都を告げる勅使あり。香椎廟を鎮護する城司を置く。 (香椎宮編年記)

 744年は、聖武天皇にとって、大変な年だったのです。神祀りは、神頼みなのでしょう。香椎宮は神功皇后・中哀天皇の所縁の地ですから。香椎の地に大廟が建ったのは、723年の事です。720年に「日本書紀」が出来上がりましたから、日本書紀上の出来事に合わせての事でしょうか。

545年  545年は欽明天皇6年に当たりますが、これと言って気になる記事はありません。欽明天皇は、昭和天皇・明治天皇に次いで在位の長い帝です。しかし、日本書紀を見ると、百済の任那日本府の関する事と、聖明王の事に記述が集中し、欽明天皇が何をしたか、ほとんど書かれていません。聖明王の活躍と、聖明王の死と、その王子に王位を継がせる話まで登場するのですが。
 明日香で最後で最大の見勢丸山古墳が真の欽明陵と最近定説になりましたが、最大の古墳の被葬者なのに、その活躍が書紀に乏しいのは気になりますね。欽明天皇と蘇我氏の女(妃)の間に生まれた皇子・皇女のうち三人が天皇位についています。直系の敏達天皇の孫・舒明天皇が皇位継承するまで、蘇我氏の妃の皇子達が皇位をつなぐので、いろいろありそうですが。
 ほかの資料に、面白いものがありました。
 540年(庚申 僧聴五年) (欽明元年) 宗像大菩薩、人王卅代欽明天皇御宇僧聴五年、新羅国より釈迦金銅像を献ず。 (宗像大菩薩縁起)
 541年 (辛酉 明要元年 *辛酉による改元) (欽明2年) 明要元年辛酉三月三日丹生山明要寺創建される。 (明要寺勧進文書)
   辛酉明要 百済国より佛像経巻わたると云々。其の時尾輿大連と云える人佛法崇敬すと云々。 (寶光寺古年大記)
 542年(壬戊明要二年) (欽明3年) 壬戊名要二年、始建立宇。本朝佛法流傳之初也。(日本帝皇年代記) 
 544年 (甲子明要四年) (欽明5年) 甲子明要四年、或云、八幡大菩薩此天皇之御宇顕神筑紫肥後国菱形池。現神紀云、我是人皇十六代誉田八幡丸云々。  (日本帝皇年代記)
 545年 (乙丑明要五年) (欽明六年) 明要五年、此代より佛法名を知け (寶光寺古年代記)

 やはり、佛教伝来は、552年より早いようですね。
 僧聴・明要は、認められていない年号だそうです。年号が続くようになるのは、大宝元年(701年)からです。
 長々と書きましたが、つまり、545年の八幡古表神社に関するそれらしい記事は見つけられませんでした。寺院なら別ですが。
 では、もう一度、744年を取り上げたいと思います。
 

また後で
 
[PR]
by tizudesiru | 2013-07-18 12:09 | 94 金富神社と鉾立山 2 | Comments(0)

金富神社と鉾立山

金富神社と鉾立山
 宇佐神宮の元宮・祖宮と言われる神社が各地にあり、なぜそうなのかわかりません。旧穂波町の大分宮や、薦神社など。前回紹介した薦神社は、宇佐神宮と香春神社と直線状に並びました。そうかも知れないとも思いますが、金富神社はどうでしょう。福岡県築上町にあるこの神社も、宇佐神宮の元宮という説もあります。
 「724年、八幡神を祀る神殿(宇佐神宮)を造営するにあたり、神託により当地で斧立行事を行った。その際に仲哀天皇・応神天皇・神功皇后の三神を勧請して創建されたと伝わるが、それ以前から宇佐神宮の元宮、若しくは霊地であったという説もある。天平3年(731年)に宇佐神宮に官幣が奉献されて以来、官幣は当社で仮宿奉安することが慣わしとなった」というのです。社名が、「絹富八幡」「金富八幡」へと変遷下のは、備前国各地に散在する国衙領であった「絹富名(きぬとみみょう)」の遺称に由来すると考えられているそうです。備前国とは、岡山県でしょうか。
 さて、金富神社の位置ですが、画像はコピーするとき傾きを直しています。本当は、右が南東に傾きます。
a0237545_1527773.png

 豊前国分寺からのラインは、金富神社と八幡古表神社とつながります。国分寺は聖武天皇の発願ですから、国分寺の総本山たる東大寺の建立に協力した八幡神(宇佐神宮)を大事にしたことでしょう。
 
a0237545_2124430.png

豊前の国分寺址です。
a0237545_21334028.png

金富神社です
a0237545_21352230.png

八幡古表神社とつながります。
a0237545_21374855.png

実際は、南東に傾きます。しかし、私が注目するのは、このラインではありません。
実は、金富神社と、弥生のラインとのつながりです。
鉾立山・立岩遺跡・セスドノ古墳・金富神社です。
a0237545_21485191.png
a0237545_21494628.png
a0237545_2150389.png
a0237545_2151456.png

鉾立山から東に延びるラインは、金富神社に当たっています。飯塚市の立岩遺跡(遠賀川流域)は、言うまでもなく「石包丁」の生産地で、北部九州の福岡地区・宇佐地区・朝倉地区と深い交流を持ちました。前漢鏡を副葬した甕棺墓でも有名です。金富神社とつながりがあっても不思議ではありません。
 セスドノ古墳は、田川地区の最大の円墳で金冠、垂飾耳飾り・馬具・その他を副葬していました。5世紀末の古墳とみられています。鉄器農具の普及により、立岩遺跡の石包丁の需要は落ちたようで、後漢鏡を副葬する甕棺はありません。後漢鏡を持つ甕棺は、別の地区に移ります。
 5世紀、田川地区のセスドノ古墳は一級の副葬品を持っています。そして、立岩遺跡と同じ緯度、東西の関係になる位置に古墳を築いています。被葬者は、立岩の首長の流れをくむ人でしょうね。
 さらに、鉾立山は、福岡地区の弥生ラインの起点となる重要な山でしたね。

やっぱり、地図は面白いです。

[PR]
by tizudesiru | 2013-07-17 13:56 | 93金富神社と鉾立山 | Comments(0)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

邪馬台国論争・TBSの着地も..
at 2017-07-23 14:29
大国主を追放したのは、何処の..
at 2017-07-22 17:27
269彷徨える大国主命と宗像..
at 2017-07-20 11:20
人麻呂の妻は火葬された
at 2017-07-19 01:35
鬼のまな板の上で霊魂は語る
at 2017-07-15 12:56
世界遺産になった三女神・お仕..
at 2017-07-10 16:15
海の正倉院沖ノ島・世界遺産になる
at 2017-07-10 02:12
264古今伝授に柿本人麻呂と..
at 2017-07-07 00:19
三輪山は饒速日の山だった
at 2017-07-06 01:45
天香具山(物部氏の山?)を詠..
at 2017-07-02 22:00
NHKは日本の歴史を変えるつ..
at 2017-07-01 23:28
大国魂神社は大化改新後に総社..
at 2017-06-27 10:33
隅田八幡神社の国宝・人物画像鏡
at 2017-06-26 01:20
太政大臣高市皇子を苦しめた皇女達
at 2017-06-24 00:05
三輪山の周囲を根拠地とした氏..
at 2017-06-23 08:55
蘇我氏の本貫・寺と瓦釜と氏神
at 2017-06-19 00:29
257平城天皇、侍臣に詔して..
at 2017-06-16 17:42
256高野山に生きる空海の結界
at 2017-06-15 23:38
255東大寺は聖武天皇の希望..
at 2017-06-14 21:55
255新薬師寺門前に淡海三船..
at 2017-06-14 00:03

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
100日知王の山々
261大化改新後、大国魂神社は総社となる
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造を命じた首長は誰
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか

画像一覧

以前の記事

2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ