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(2)香椎宮と六嶽神社

(2)香椎宮と六嶽神社
 この二つの神社が結びつくなんて、想像できません。六嶽には宗像三女神が降りたという伝承があるのです。香椎宮とつながりがあるとは思えません。しかし、麓の六嶽神社と香椎宮をつなぐと、間にぴったり宮若市の若宮八幡が入ります。ラインが分かりにくいので、水色に変えました。香椎宮本殿を出た水色ラインは、北東に伸びています。
 このラインは、宮若市の若宮八幡宮を通過するとき本殿を横切ります。
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 画面の若宮神社を通過するラインがいくつかありますが、紫ラインは、宮地嶽古墳からのものです。少しずれる青ラインは、宗像大社からのものです。ピンクラインは、竹原古墳からのものです。が、ここでの説明は省きます。
 水色ラインに話を戻すと、香椎・若宮八幡・六嶽と三社の本殿を結ぶという結果が出ています。三社は話し合って社殿を造営したのでしょうか。そうではありません。建て替え時期がそれぞれ違います。強固な言い伝えがあって、同じ場所に社殿を造営したとしか言いようがありません。それでも、三社がつながっている。その意味はなんでしょう。香椎宮の御祭神が宗像三女神だったなんて事は、まったく考えられません。香椎宮は仲哀天皇の廟であり、神功皇后の伝承の地でもあります。
 若宮八幡は718年の創建で、ご祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・武内宿祢です。仁徳天皇を祭神に加えたとき「若宮八幡」と名を変えたそうです。718年(養老2)は藤原不比等らにより「養老律令」ができた年です (施行は757年、757年は橘奈良麻呂の変で、橘氏大伴氏の一族多数が刑死している。720年に「日本書紀」ができている)。若宮八幡は藤原氏が栄えていた時期の創建ですから、政治的匂いがします。ご祭神も応神・神功ですから香椎宮とのつながりも十分です。
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 では、なぜ六嶽神社とつながるのでしょう。
 ご祭神は、もちろん宗像三女神ですが、ほかに応神天皇・神功皇后・武内宿祢・他も合祀されています。もともと応神天皇・神功皇后がご祭神だったところに宗像三女神が降臨したのでしょうか。また、六嶽の旭岳には、ニニギノ命の御陵があるという伝承もあります。冠は、天冠(てんがい)岳に、衣を羽衣岳に埋葬したそうです。近くの八剣岳もヤマトタケルの住まいのあとだという伝承もありますから、伝承にあふれた土地ということで、驚かされます。いずれも日本書紀や古事記の重要な登場人物です。
 三社の創建は、いつでしょう。三社は連続して造営されたか、または、六嶽神社と香椎宮の間に遅れて(718年)若宮八幡が入ってきたのか。宗像三女神との直接の結びつきは、なかなか出てきません。そこで、六嶽を別のラインで見てみましょう。
 14番目のラインです。14 一貴山銚子塚古墳―香椎宮―六嶽―(劔神社)
 なんと糸島地方で一番大きな古墳からのラインです。 一貴山銚子塚古墳と六嶽山頂を結ぶと、香椎宮の裏の杜を通ります。14番目のラインは、ポイントが若干ずれるので無理かなとも思いましたが、香椎宮と糸島地方は、ほかにも密接なつながりがありそうなので捨てがたいのです。それは、次の「香椎宮と糸島地方」で取り上げます。
 さて、一貴山銚子塚古墳です。ブログでも数回取り上げました。4世紀の古墳で漢鏡(方格規矩四神鏡・内向花文鏡)が頭部付近に、三角縁神獣鏡が側縁(足元付近)左右に4枚ずつに置かれていることでも有名です。方格規矩四神鏡(現品は京都大学にあるそうですが)には鍍金(金メッキ)が施されて、国内には数面しか見られないそうです。
 一貴山銚子塚の被葬者が六嶽とつながっているとしたら、その人物の近親者で、ニニギ命? それは、4世紀の出来事だった? 間に存在する香椎宮。なぜ一貴山銚子塚・六嶽ラインに香椎宮があるのか(正確には香椎宮裏の杜ですが)。一貴山の被葬者は、香椎の宮の住人の親族だった可能性があります。そして、六嶽の地(遠賀川流域)に出て行った(降臨)。逆はあるでしょうか。4世紀の六嶽の人物が糸島に出て行った。後者は、可能性が低いと思います。伊都の首長である一貴山銚子塚の主は、弥生王墓が並ぶ宝満・飯盛ラインに眠っているからです。福岡平野の弥生の伝統を背負った人物であり、遠賀川流域から来たとは考えられません。神功皇后を迎えに行った伊都県主の祖が「日本書紀」に出てきますが、同じく岡県主の祖も神功皇后を迎えに出ています。伊都国と遠賀川流域の有力者は、同一行動をしているのです。何らかの協力関係にあったのです。六嶽と一貴山が結びつく理由が、ここにあるように思います。つまり、神功皇后の時代より以前に伊都国と遠賀川流域はつながっていたのです。
 さらに、一貴山銚子塚古墳は前方部が南に、後円部が北になります。この古墳の主軸は南北になるのです。弥生の王墓ラインに並びながら、南北を主軸とする。新しい思想が入り込んでいるようです。大陸から入った思想でしょう。天命を受けて国を治める首長が北極星をいただいて、北に後円部を持ってきたのかもしれません。木棺が東西に置かれていたのなら尚のこと面白いですね。
(画像から、ピンクのラインをたどってくださいね)
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 六嶽伝承のニニギの命と、神宮皇后・応神天皇のつながりは、今のところ全くわかりません。しかし、ラインを引いてみると、親族と言わなくても同じ氏族だったと思われます。
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by tizudesiru | 2012-11-12 12:00 | 80倭女王墓を教える香椎宮 | Comments(6)

香椎宮が教える倭女王の墓

橿日宮が教える倭女王の墓 紀伊国屋に本を探しに行きました。一日も早く香椎宮の謎を知りたかったからです。しかし、空振りです。見つかりませんでした。
 古いはずの香椎宮があまり歴史的に取り上げられていないのは、不思議です。香椎宮をグーグルの画像で見ると、二つの森に分かれています。現香椎宮が左、仲哀天皇の訶志比宮跡が右で、ここは大本営址でもあります。香椎宮は古くは香椎廟と呼ばれ、延喜式では式内社に選ばれていません。しかし、日本書紀に出てくる地名で、今も同じ位置にあるらしいというのは珍しいのではないでしょうか。グーグルの画像にラインを入れてみました。。
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さまざまなラインが入ります。東西ラインが2本。香椎宮からの放射ラインが7本。古宮跡からのラインが4本。そして、香椎宮裏を横切るラインが1本。合計15本のラインを引いてみました。番号を打ちます。東西ライン(上から1・2)放射ライン(反時計回り3・4・5・6・7・8・9)古宮後からのライン(反時計回り10・11・12・13・)その他(14)と、します。
1 大嶽神社の裏山―香椎宮(裏の社)―鉾立山  *大嶽山には岩座がある
2 大嶽神社(西戸崎)-香椎宮-鉾立山 *大嶽から二本目のラインを引いてみた
3 香椎宮―愛宕神社(福岡市西区)―高祖山(糸島市)
4 香椎宮―飯盛山―雷山
5 香椎宮―須玖岡本(王墓)-九千部山(香椎宮のほぼ真南)
6 香椎宮―筑紫神社―五郎山古墳―御勢大霊石神社
7 香椎宮―太祖神社―古処山
8 香椎宮―鹿毛馬神籠石―三ノ岳(香春岳)
9 香椎宮―若宮八幡神社(宮若市)-六嶽神社

10 古宮跡―熊野神社(須玖岡本)―九千部山 *香椎宮からのラインは、王墓を通る
11 香椎宮―竃神社(式内社)-林田の三奈木神社(式内社)
12 香椎宮―大根地神社―荷原の三奈宜神社(式内社)
13 古宮跡―若杉山―古処山

14 一貴山銚子塚―香椎宮―六嶽―(劔神社)

 とりあえず14本です。この中に、背振のラインを入れていません。脊振との関係はなかったのかもしれませんが、まだ未発見の遺構があるのかもしれません。
 
 さて、上記のラインから明らかになる「香椎宮」とは、いかなる神社なのでしょう。
(1)大嶽・鉾立山と香椎宮
 1・2からわかることは、西の大嶽と東の鉾立山のほぼ中間に香椎宮があることです。グーグルによる測定では、大嶽・鉾立山間21.7km。大嶽・香椎宮間10.8km。香椎宮・鉾立間10.7kmで、その差はわずかです。高度な測量技術があったかのようです。
 さて、大嶽のことですが、大嶽には岩座があります。岩座と神社の両方から鉾立山にラインを引くと、岩座を起点とするほうが古くなります。岩座から香椎宮本殿の裏を通り訶志比宮跡を通ります。が、大嶽神社からは香椎宮を通るので、神社という形ができてからのラインでしょう。大嶽から南にまっすぐラインを引くと、福岡市西区の愛宕山を通り脊振山地を越えて、帯隅山に届きます。帯隅山には、神籠石系山城があります。福岡市愛宕山のふもとの室見川流域は、吉武高木遺跡で知られる早良区です。紀元前に半島と交流があった遺跡です。
 一方の鉾立山からラインを南下させると砥石山・宝満山・ 宮地岳(神籠石系山城)を通り、高良大社(久留米市)まで届きます。大嶽と鉾立山からのラインが、どちらも神籠石系山城に至るのがすごいです。何らかのかかわりがあることを示唆しています。
 では、中心に来る香椎宮はどうでしょう。ここからラインを南下させると、九千部山に届きますが、間に春日市須玖岡本の弥生王墓と言われる地点を通ります。訶志比宮跡からのラインは、春日市の同じ地域の熊野神社を通り九千部に届きます。弥生時代の早良区が栄えた後に、春日市須玖岡本地区が栄えたそうです。両地区の首長は弥生時代のリーダーだったのでしょう。それにしても、香椎宮の南に弥生王墓と熊野神社が入る意味はなんでしょう。仲哀天皇の橿日宮は、九千部山の真北に作られています。間に、熊野神社と王墓が入る。つまり、香椎宮の関係者は、弥生の首長を意識していた。崇敬していた。そうなると、香椎宮の創建はかなり古くなります。王墓は大石の下にあり、長い間忘れられていた。しかし、熊野神社は、高台に忘れられず祭られていた。私がこのことにこだわるのには、理由があります。
春日市のこの地域は弥生遺跡密集地だけでなく、弥生のレイラインだからです

宝満・飯盛ライン(弥生レイライン)の説明を少々 
 この東西二つの山について繰り返し説明してきたのでかなり御存じと思います。このライン上に、宝満山を起点→大城山(古代山城跡)→春日市須玖岡本遺跡(1世紀)・熊野神社→吉武高木遺跡(紀元前1)→飯盛神社→飯盛山→細石神社→一貴山銚子塚古墳(4世紀)が連なっているのです。または、須玖岡本王墓(1世紀)→飯盛神社→三雲南小路王墓(2世紀)→一貴山銚子塚古墳となります。宝満山を起点にするか、王墓を起点にするかで、少しラインがずれますが、宝満・飯盛に守られたライン上に首長たちが眠っているようです。何より橿日宮からのラインが南下して、宝満・飯盛ライン上の熊野神社と王墓を通過する。このことは、何を意味するのでしょう。香椎宮からのライン上には、重要な弥生の真実が隠れていることになりませんか。まさに、熊野神社に。
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 この熊野神社を斜めに横切る赤ラインは、愛宕・鉾立ラインの愛宕山と、宮地岳(阿志伎山城)を結んだものです。熊野神社をしっかりとらえています。やはり、古代山城が築かれた時代、熊野神社は重要な位置にあったようです。
 もったいぶっても仕方ないですね。唐突ですが、弥生の重要人物と言えば、倭の女王です。もし、倭の女王が九州に住んでいたとしたら、やはり多くの王が眠る弥生のレイライン上に永眠しているのではないでしょうか。しかし、春日の岡本地域は那国と目されているようです。女王国ではないです。それでも、倭女王が眠ると考えられる根拠は、最近の考古学による古墳の被葬者の骨の分析結果です。男女を問わず、同じ墓に埋葬されているのは、血縁者だそうです。女性も実家の墓に埋葬されているのです。遺体が戻って来たのでしょう。倭女王も実家に帰ったと思われます。もちろん、仮にほかの地に埋葬されていたとしても、結果的には戻されたことでしょう。その場所が熊野神社だと考えられると思います。気になるのは、そのことが長く伝わっていたようだということです。

と、結論めいた事を書きました。ブログを読んだ人の「疑問符」や「感嘆符」がどっと届きそうです。
なんで、女性の墓だとわかるの? 「塚}を築いたはずなのに、どうして熊野神社になったの? まだ、女王は熊野神社におられるの? 墓には「親魏倭王」の金印は埋葬されているの? 
 まだまだ疑問はあるでしょう。それに、上記のラインのうち、まだ1・2までしか、説明をしていません。3から14までの説明も必要でしょう。それは、また、次の機会に。
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by tizudesiru | 2012-11-08 19:55 | 80倭女王墓を教える香椎宮 | Comments(2)


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274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳

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