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筥崎宮の「敵国降伏」 

 「地図で楽しむ古代史」                          
始めに  
私は、以前から地図で遺跡を確認していくうちに古墳や神社がかなり遠くでも並んでいるように思うようになったのです。それから、国土地理院の地図で調べるようになりましたが、以外に山頂や古墳のラインがつながるので、むしろそんなことはないだろうと否定的な気持ちを持っていましたが、ある時、国土地理院の地図をつなげてみて、一定の時期の古墳がつながる事に気がついたのです。
もしかしたら、その事が古代のある一面を教えてくれるかも知れないと思うようになりました。
では、10世紀から古代にさかのぼりたいと思います。
10世紀の天皇が恐れた「敵国」からわかる信仰の山と神社
山がどのくらい前から信仰の対象になっていたか、難しい問題です。
分かりやすい例として、筥崎八幡宮でお話しようと思います。筥崎宮は923年に穂波町の大分八幡宮から遷宮されています。遷宮の4年後に筥崎宮は朝廷から祈念祭奉幣を受けるべき式内社となっているのです。福岡の式内社(明神大)は、8社です。筑前6社、筑後2社です。筥崎八幡神社の元宮、大分宮は式内社ではありません。そもそも式内社がおかれた最大の目的は何でしょう。
 筥崎宮遷宮の年923年は、菅原道真が右大臣に復し、正二位が贈られた年です。
23年前の900年は、辛酉の年でした。藤原時平は、変革を提言しています。翌年901年、時平の讒言により道真は右大臣の官職を失い、大宰権帥に左遷されました。そして、903年薨去(こうきょ)。この後、都は道真の祟りに苦しみました。905年延喜式の編纂が始まりましたが、時平の死、皇太子の死などの不幸が醍醐天皇に降り掛りました。921年筥崎宮に「敵国降伏」の辰筆が下り、923年大分宮より遷宮。927年醍醐帝に奏上された「延喜式」により式内社となったのです。歴史の浅い筥崎宮が式内社となるための理由とは何でしょう。「敵国降伏」の為の遷宮でしょうか。それは、道真の罪が許された事と関係があるようです。また、「敵国降伏」の敵国とは何処をイメージしていたのかという問題も残ります。
(1)筥崎宮・大城山・太宰府天満宮・宮地岳ライン
式内社箱崎宮とは何だったのか、調べてみましょう。お宮の長い参道から本殿を見ると、鳥居の間から山の頂上が見えています。山頂は、社の屋根の中央に乗っています。後ろの山は、宝満山ではなく三郡山です。しかも、地図で調べてみると、筥崎宮・三郡山・馬見山と二つの山の山頂を結ぶのです。何故、宝満ではなく隣の三郡なのか疑問でした。しかも、延長線が秋月の馬見山山頂まで届きます。遠賀川源流の馬見山です。数年前、その謎を解いたつもりでいましたが、更に新しい事実と重なり、祭祀線が無視できない事実を教えてくれていると思うに至ったのです。が、別の機会に。
 筥崎宮からのラインを詳しく見てみましよう。筥崎宮から大城山(大野城)を通り宮地岳にラインを引くと、太宰府天満宮の社殿を通るのです。何故、大宰府天満宮が来るのか?(天満宮の社殿は、藤原時平の弟の忠平が建立したものです。忠平は筥崎宮から測量して社殿を造らせたのでしょうか。起点になる筥崎宮(宮地岳)は、もと大分宮の頓宮であったからでしょう。近くには神功皇后が米を集めたら山のようになったから「米山」町だとか、古墳をつぶして電車道を造ったとか、本殿の東西に小山があって東側には武内宿禰を祭っていたが削られて「武内通り」という名のみが残っているとか様々な伝承があります。本殿裏を流れる宇美川は糟屋郡宇美町の宇美八幡の裏を流れる川です。宇美には「神功皇后が応神天皇を生んだ処」という伝承があります。筥崎宮も「応神天皇の胎衣が流れついた処に松を植えて印とした」という伝承があります。
箱崎宮から引いたラインが大城山を通ります。大城山は四王子山とも呼ばれ朝鮮式山城の一つで、天智天皇が白村江戦後に造らせたという「大野城」があります。ただ、大野城以前にも山城があったという伝承が残っています。「神武天皇が四王子山に事代主と武ミカ槌命を祭っていた」が、「天智天皇が大野城を築くので事代主と武ミカ槌を通古賀に移した」と、通古賀にある王城(おうぎ)神社の由緒に伝えられています。現在、大城山は古代山城の倉庫跡礎石があります。そして、太宰府都府楼跡の北、背後の山となっているのです。大野城は白村江戦後、太宰府防衛のために造られたと言われています。基肄城、金田城、高安城、鞠智城などとともに正史に出てきます。
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王城神社(資料)『王城神社は、事代主命(恵比須神)をお祭りする太宰府通古賀の氏神様です。その創始神武天皇が四王寺山に城を築いた際に、その峰に武甕槌命と事代主命をまつった事に由来するとされており、その後、天智天皇四年(六六五年)に大野城を築く際に、現在の通古賀の地に移されたと伝えられています。その後も、太宰府が栄えるにつれて、上下の区別なく信仰を集め、「王城神社縁起」(太宰府天満宮所蔵)には、菅原道真が太宰府に流された折には、王城神社の社人は府の南館にたびたび訪れていた』と書かれています。しかし、戦国時代の騒乱により社殿は焼け落ち衰退しましたが、その後、小早川隆景により再建されました。

太宰府天満宮は、道長の遺体を牛車に乗せ、牛が動かなくなった所を墓としたという伝承があります。その墓の上に藤原忠平が社殿を造ったのです。忠平が兄の時平一族を倒し、藤原宗家の坐を奪うために道真の祟りを利用したという説もあるそうです。それにしても、王城神社の社人は、道真からどんな話を聞いたのでしょう。
宮地岳は歴史書に出てこない神籠石が山頂西にあるのですが、発掘の結果「古代山城」と発表されました。そのため、他の地域の神籠石が「古代山城」と名称変更したという、その元になった遺跡の山です。その山頂は、宝満山山頂のほとんど真南になります。(写真は、現地説明会のパンフレットからコピーしたものです。太宰府側・北西からの航空写真で、南北が逆です。上部は筑紫平野、下部は阿志岐の田園)
 筥崎八幡宮・大城山・太宰府天満宮・宮地岳のラインは、歴史的な遺跡をつないで、6世紀・7世紀・10世紀初頭の歴史を伝えています。大野城(大城山)は、白村江戦後の建造物と伝わりますが、それ以前にも山城があった事が伝承により分かります。宮地岳山城は文献には見えませんが、切り欠き加工などの工法から古代の建造物である事は明らかです。時代は白村江戦後とされました。しかし、大野城より丁寧な技術が採用され、他の神籠石の列石とは違う列石の組み方が採用されています。それは、写真のように列石の下に丁寧に支えの敷石がある事です。大野城の百間石垣は、急工事のため粗い仕上げになっていると歴史の授業でも習っています。太宰府政庁の背後の大野城より宮地岳山城の方が複雑で丁寧なわけは、築造目的と築造年代が異なる為ではないでしょうか。665年より古い時代、誰かが目的をもって建造したという事です。北部九州の神籠石の何処にも、築造の伝承がない。これも、共通点です。築造目的を伝える必要と意味がなくなったからとか、当事者が滅んだからとか、理由は様々でしょう。現地見学会で「宮地岳山城は、阿志岐側から美しく見えるように石垣が組まれている」と聞きました。列石の並びが切れる場所は広くなり、土塁を列石が囲んでいます。そこに城門があったと予想されるそうです。もちろん、太宰府側(北)に開く城門です。城門が北に向いているのは、それなりの意味があるはずです。
筥崎宮の楼門に掲げられた醍醐天皇の辰筆「敵国降伏」、この文字に託された天皇の思いは何だったのでしょう。菅原道真個人の祟りを鎮めるために、筥崎宮に辰筆を与えられたのでしょうか。道真の復権と時を同じくして遷宮し、「敵国」を抑えようというのなら、その敵国は何時の時代の何処でしょう。筥崎宮・宮地岳ラインから読めるのは、過去の敵国の象徴が宮地岳(天山)にあったという事でしょうか。つまり、宮地岳山城は、敵国の山城だった。天智天皇が大野城を築くまで大城山にあった、別の山城とともに、誰も知らない権力者の山城が二か所。この二か所の山城を結ぶラインは、太宰府天満宮本殿を通過し、此処は道真の墓所という意味だけではないようです。このライン上に憎むべき敵国があった事になりませんか。その敵国の真実に迫りたいのですが… これから、宮地岳山城内の発掘があるそうですが、どんな物が出てくるのでしょう。
 (2)筥崎宮から見る・若杉山の太祖神社・穂波町の大分宮(水色) 筥崎宮から出る水色ラインは、若杉山の太祖神社を通り、穂波町の大分八幡宮に届きます。この三神社は、神功皇后伝説でつながります。此処も憎むべき敵国とかかわるのでしょうか。(画像1・筥崎本殿)
 ア 太祖神社(若杉山・山頂は紫ラインの先端)
太祖神社は、神功皇后が三韓征伐の後、西に向けてイザナギ尊を祭った社だそうです。福岡市早良区の飯盛山のイザナミ尊が東を向いて鎮座しているので、相対させるためだそうです。夫婦神なのにイザナミだけが西の飯盛山に祭られていたとは考えられない事です。考えられる事は、もともと夫婦神が福岡平野を東西から見守っていたという事でしょう。
『飯盛神社由緒』には、天之太玉命がイザナミ尊を奉斎する事を創建の起源としています。上宮にイザナミ尊、中宮に五十猛命を奉斎し、飯盛三所権現宮と称し、「当社は畏くも国土万物を生成し万の事始め給いしイザナミ尊を斎き奉る。太古よりの鎮座なり。社説によると天孫降臨のみぎり、天之太玉命この日向峠、飯盛山を斎き定めてイザナミ尊外二柱を祀り国土開発「むすび」を祈らせ給う。尚、福岡県粕屋郡篠栗町勢文、若杉山鎮座の太祖神社の縁起に曰く『神功皇后三韓を平伏し当社に奉賽の御祭祀を営ませ且つ神殿を西に向けて造営あらせられたり、その処を尋ぬるに早良郡飯盛山に鎮座せらるる伊邪那美尊の社殿東に向かいて相対せられしは深き由縁あり』と、太祖神社の御祭神は伊邪那岐命である事は夫婦相対し向いあえる縁しなり。皇后この若杉をとりて香椎宮に植え給える、今の綾杉がこれなり。以上古代の鎮座なる事明なり。その鎮座し給う由緒は深遠にして比類稀なる古社にして国土を化成し万民の始祖と坐します」と書かれています。
少なくとも太祖神社のイザナギ命が、飯盛神社のイザナミ命より後の世に祭祀された事、夫婦神としては大変不自然な状態です。もともと若杉以外に、イザナギ命の鎮座山があったとしか考えられません。
飯盛山のほぼ真東は、宝満山です。イザナギ命がもともと鎮座していたのは、宝満山でしょう。西の飯盛山に相対する東の山は宝満山。間に立つと、どちらも釣鐘形に見えます。男神が宝満山(約900m)女神が飯盛山(約440m)に鎮座と、見た目にも釣り合うようです。しかし、宝満山に鎮座するのは、神武天皇の母・玉依姫です。穂波町史に書かれていますが、玉依姫が自ら宝満を選んで鎮座したそうです。鉾立山に矛を立てて菅岳と高さを比べた事も書かれていますから、玉依姫は北から福岡平野に入り、宝満山をイザナギ命から奪ったのです。その後、神功皇后が若杉にイザナミ命を祭った事になります。香椎宮に植えられた綾杉は、今も大切に守られています。ちなみに鉾立山は、宝満山のほぼ真北です。鉾立山は方角を決めるときに使われた山のようです。太祖宮を北東側から南西側に横切る青ラインは、宮若市の竹原古墳から鉾立山を通り、太祖宮を貫き、大城山に届くのです。竹原古墳は6世紀の古墳。宮若地域と太宰府地域は、6世紀には深いつながりがあった事になります。竹原古墳の被葬者は、大城山城の権力者を知っていた。または、その逆です。赤ラインは南下し筑紫神社(式内明神大社)に当たります。筑紫神社の神は、基肄城が造られた時、城山(基山)から下ろされたそうです。筑紫神社と太祖神社は、南北の関係になります。
イ 大分八幡宮
大分八幡宮は筥崎八幡宮の元宮であり、宇佐八幡宮の本宮です。神功皇后の三韓征伐の後、従っていた兵士と別れた地なので「大分」おおわかれの地名がついたとか。
 水色ラインによると、神功皇后伝説の大分宮と遷宮先の筥崎宮の間に、神功皇后伝説の太祖宮がきちんとおさります。筥崎宮・太祖宮・大分宮の三か所の神社の並びは、遷宮地を選ぶ為に測量した結果でしょうか。この三神社の並びには、政治的なにおいがします。伝説の神功皇后とは、如何なる人でしょう。大分宮の真東には、新羅瓦を出土した大分廃寺があります。8世紀の寺だそうです。誰が建立したか記録はないのでしょう。

 筥崎宮からのラインで少なくとも考えられる事
・筥崎宮は道真の祟りを抑えるためだけの式内社ではない。
・「敵国降伏」の辰筆が遷宮以前に下賜された事は、敵国の降伏が遷宮の目的そのものである事。
・朝廷にとっての敵国が太宰府とかかわる位置にあり、大城山・宮地岳(天山)の古代山城とかかわる事。
・阿志岐古代山城は大野城より丁寧に築造され、太宰府側に門があるが、白村江戦後の築造とは考えられない事。
・筥崎・太祖・大分の三神社が直線上に並ぶ事は、神功皇后伝説は朝廷にとって重要である。
・筥崎と三郡山・馬見山の山頂がつながる事は、そこには古代の信仰の伝承があった。
・鉾立山のように、山あてを使った測量が行われていた。
・飯盛山・宝満山は、古くから信仰の山であった。イザナミ・イザナギの山として祀られた時代があった。
・大分八幡宮が式内社になれなかった理由が、隠されているのではないか。
大分宮については、次の「東西ラインは弥生時代…」で取り上げます。

 

続きは「筥崎宮の『敵国降伏』その2」を見てください。*「敵国降伏」の敵国は『敵國』です。「敵國降伏」です。変換ミスです。

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by tizudesiru | 2012-07-23 15:30 | 75筥崎宮の「敵国降伏」その1 | Comments(0)

続・筥崎宮の「敵国降伏」その2

地図で楽しむ古代史
 (3)東西ラインは弥生時代の信仰のなごりか
ア 宝満山と飯盛山ラインの遺跡
前の「筥崎宮・太祖宮・大分宮」で紹介した福岡平野を東西から見守る山、飯盛山と宝満山ですが、両山頂を結ぶと間に「須玖岡本遺跡」と「吉武高木遺跡」が来るのです。5万分の一の国土地理院の地図では、見事に連なります。この弥生の代表遺跡が飯盛・宝満ラインに乗る事が、地図に興味を持つようになったきっかけの一つです。まず、宝満山を起点にした西に伸びる白ラインをみてください。須玖岡本遺跡は有名ですが、此処は広い遺跡です。ガラス工房・青銅器工房と工場地帯になっています。銅鏡30面以上を副葬していた王墓は、青印を入れています。他にも、地域の首長墓があります。
須玖坂本(銅生産工房・鏡、銅矛など)
須玖五反田(ガラス工房・玉磨きの砥石出土・ガラス勾玉など)
王墓(甕棺・中国鏡30面以上・銅剣・胴鉾・銅戈・ガラス璧・ガラス玉・勾玉・管玉・甕棺上4tの大石)
須玖岡本(甕棺・弥生住居・小銅鐸鋳型)
岡本(甕棺墓群)
赤井手(鉄器工房・青銅器工房・ガラス鋳型・6世紀初頭古墳に鏡、武具、工具、須恵器)
竹ヶ本(弥生から古墳までの集落・前方後円墳)
宝満山からの白ラインは、大城山・須玖岡本遺跡・吉武高木遺跡・飯盛山・糸島市の三雲南小路・一貴山銚子塚古墳とつながります。須玖岡本王墓から引いたピンクラインですが、須玖岡本王墓・吉武高木(はっきりしませんが大型建物)・飯盛山・三雲南小路王墓とつながります。春日市の須玖岡本王墓は、30面以上の漢鏡や王侯クラスに与えられるガラス璧を副葬し、吉武高木は半島と関係の深い多紐細文鏡を副葬していました。三雲南小路王墓も、35面の漢鏡とガラス璧が出土しているそうです。時代的には、紀元前2世紀から紀元2世紀の首長墓ですが、宝満・飯盛ラインに並んでいます。福岡市早良区が衰えた後、春日市須玖岡本地区が栄え、その後糸島地区が栄えたのでしょうか。弥生の首長は何処かでつながっていたようです。甕棺や鏡など葬送の品物が似ていますから。半島や中国と交流のあった王墓とつながるため、東西の信仰の山の間に眠る事が重要だった弥生時代の首長達。一貴山銚子塚は、古墳時代になりますが。
一貴山銚子塚古墳は4世紀築造の前方後円墳で、珍しい金メッキの方格規矩四神鏡を副葬しています。8面の三角縁神獣鏡は棺外の足元に置かれていた事でも有名です。糸島で最大の古墳で、宝満・大城山・飯盛山のラインに連なっていますから、4世紀でも王墓が信仰の山を頂く事が重要視されたのかも知れません。
他の首長墓や山岳を強く意識し、墳丘墓を造るようになったのでしょう。飯盛・宝満ラインには、弥生時代に栄えた早良国、那国、伊都国の中心地域が載っています。そこは選ばれた土地だったのではないでしょうか。その伝承は、古墳時代にも残っていたと思われます。
つまり、このラインから弥生時代から古墳時代への転換期が見えるという事です。
転換期と言えば、三雲南小路王墓の後、平原王墓になるとそれがよくわかります。この弥生墳丘墓は、可也山(糸島富士)と三雲南小路王墓の間にあり、糸島から見える山の最高峰の井原山と、天ヶ岳の山頂を結んだライン上にあります。平原の王は三雲南小路王墓を崇拝し、地域の山々に畏敬の念を持っていたことになりませんか。しかし、宝満・飯盛ラインに葬られなかった…彼女はただ地域の首長にすぎなかったのでしょうか。
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この平原王墓には、漢鏡と日本最大の内向花文鏡(いずれも国宝)が割られた状態で副葬されていたそうです。今日、これらの銅鏡の内二枚以外、全て国産だったという研究が発表されています。「糸島市の平原弥生王墓(原田大六氏が発掘)の舶載鏡、国産と言われる内向花文鏡は、国産鏡だ」と柳田康雄氏は述べています。また、「古代の鏡と東アジア(学生社)」のなかで、新井宏氏は「鉛同位体から見た三角縁神獣鏡」を発表し、三角縁神獣鏡のほとんどが国産鏡だとしています。更に、平原弥生王墓の鏡も国産としています。見事な中国鏡と思われていた鏡が国産なら、そのころの鋳物技術は優れていた事になります。それから、百年もすれば、鉄を溶かして刀を造ることくらいは出来たと思います。最古の暦を刻んだ鉄剣も、近畿で造らなくてもいいでしょう。近畿王家からの下賜品と、初めから決めている最近の論調に、素人なので意味がわかりません。
(余談)しかし、鏡の研究はずいぶん変わってきたと思います。研究家(王仲殊氏や徐苹芳氏)が指摘されているそうですが、卑弥呼が貰った鏡として可能性が大きい物は、「蝙蝠紐座内行花文鏡・双頭竜鳳文鏡・方格規矩鳥文鏡・方格規矩鏡(漢鏡6期)・キ鳳鏡・獣首鏡・竜鳳鏡(三角縁盤竜鏡を除く)・飛禽鏡・円圏鳥文鏡・位至三公鏡」の十種類であるとか。蝙蝠紐座内向花文鏡は、紐の周りにコウモリの文様が見られし、位至三公鏡は文字で分かるのですが、他は名前しかわかりません。これらの鏡のほとんどは北部九州で出ているそうです。
また、日本で出土する「位至三公鏡」はその形式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じで、中国の北方からしか入ってこないそうです。魏晋時代に都があった洛陽市で発掘された洛陽晋墓54基中、主流になる鏡式(ネットの情報)だそうです。晋代に流行した「位至三公鏡」は、我が国では北九州(佐賀県谷口古墳・糸島市井原など)を中心に分布しています。もちろん、弥生時代の漢鏡はほとんど北九州を中心に出土しています。鏡の出土状況からして、265年から316年の晋代まで、倭国の中心は、北九州にあったとしか考えられないそうです。だから、邪馬台国は、当然、北九州にあったようです。4世紀に何があったのでしょう。
イ 大分宮と愛宕山
大分宮の北側の森は小高い丘になっていて、宮内庁管轄の陵墓です。白い筋は階段です。陵墓から出ている紺ラインは、これより真西にある福岡市早良区愛宕山に届きます。大分宮と愛宕山の間に、式内社(明神大)住吉神社と、舞鶴城・鴻臚館が入ります。式内社が間に入る意味は、筥崎宮と同じでしょうか。愛宕山は、早良区を流れる室見川河口にあります。室見川沿いには吉武高木遺跡や、野方遺跡など有名な弥生の遺跡(卑弥呼の時代の漢鏡出土)があり、はやくから半島・中国と交流を持っていました。吉武高木の首長墓から多紐細文鏡が出土した事はすでに書きましたが、三種の神器(玉・鏡・剣)の副葬の原型がみられる事でも知られています。早良地区の入り口にある愛宕山が、弥生の信仰の山だとしても不思議ではありません。
大分宮と愛宕山は東西の関係になりますが、その役割は何だったのでしょう。大分宮が朝廷から奉幣を受けるべき条件を持ちながら、式内社(明神大)とならなかった理由があるはずです。大分宮を筥崎に遷宮しなければならなかった理由が。それは、愛宕山と東西に並んでいたからではないでしょうか。弥生から続く東西の神祭りの場がそこにあったから、そのまま使えなかった。愛宕山は重要な位置にあります(多数のラインが通過することを考えるとそうなります)。南北朝の頃、愛宕山には九州探題が置かれています。古代から中世まで、ただの田舎ではなかったのです。大分・愛宕ライン上に、住吉神社(式内・明神大)が鎮座していますが、式内社として、住吉神社は何をしているのでしょう。筥崎宮のようにこの地に鎮座する意味を担っていたはずです。東西ラインと関係があるとすれば、大分宮と愛宕山の間に入り込んでいる意味が限られます。それは、大分宮や愛宕山を支える為とは思えません。逆に大分宮と愛宕山の結びつきを断つためと考えると、納得できます。そこが過去の権力者とかかわる場所だとしたら、当然です。更に、鴻臚館まで通過します。大分陵墓・愛宕山の位置を考慮して鴻臚館が造られたのなら、築造年代はさかのぼる可能性があります。鴻臚館も文献に出るより、古くから存在していたとも聞きました。鴻臚館が始まったころ、大分宮はなかったのでしょうか。ここの陵墓が何時の時代か分かれば、大分宮についても理解が深まると思います。
東西に相対する山や墳墓や祭祀場が意味を持っていた時代は、いつまで続いたのでしょう。
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ウ 筥崎宮と宝満山をつなぐと、間に宇美八幡がきて、宝満山を越え大根地山山頂にラインが届きます。大根地山は、春日市の日拝塚古墳から見ると春分秋分に陽が昇る山です。山頂近くに大根地神社があります。つまり、両者は東西の位置にあり、大根地は被葬者の信仰の山だったようです。筥崎宮の遷座地からも選ばれた山になります。そうなると、大根地山も大根地神社も朝廷に協力的な立場にあるのでしょうか。一方では「敵国降伏」を目的とし、一方では「崇敬」の態度をとる…考えられません。大根地山も「敵国」とかかわる山なのでしょう。筥崎宮にとって、宝満山は大事な山です。任命された国司が大分宮に奉幣するのに、伯母の宝満山を越えるのが不敬になるので、筥崎に遷宮したのですから。間に入る宇美神社も応神天皇生誕の伝承地ですが、もともと敵国にかかわる神社だったのでしょうか。では、太祖宮・大分宮はどうでしょう。朝廷の国守りに一役を担っているとは、考えられません。大分宮は愛宕山と東西に相対していますから。
筥崎宮は式内社として「国を守っていた」というより、近畿の朝廷を守っていました。筥崎宮以外の他の式内社はどうでしょう。九州の式内社も、地方の豪族の墓や、信仰の山を朝廷の神の力によって抑え込むために定められたと思うのです。地図で見る限り、九州の他の式内社は、9世紀以前の神祭りの山や、有力豪族の墓を封じ込めるような位置に造られています。その話は、別の機会に。

 
「続々筥崎宮の敵国降伏」に続きます
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by tizudesiru | 2012-07-23 15:20 | 76筥崎宮の「敵国降伏」その2 | Comments(0)

続々・筥崎宮の「敵国降伏」

地図で楽しむ古代史

(4)古墳時代の祭祀ライン
八女丘陵の岩戸山古墳を地図で見てみましょう。岩戸山古墳からはたくさんのラインが出ています。
 まず、岩戸山古墳を横切る黄色のライン。ほぼ真東に来る山は、県境の熊渡山です。
 鈴ノ耳納山から出る赤ラインは、西の石人山古墳に届きます。
八女丘陵の岩戸山・石人山古墳の東には、鈴ノ耳納と熊渡の山頂があります。東に両古墳を遮るような墳墓はありません。つまり石人山古墳・岩戸山古墳の被葬者は、地域の東の高峰とほぼ同じ緯度に眠っているのです。4世紀の一貴山銚子塚古墳も東に飯盛山を頂き、同じく古い形の三角縁神獣鏡を持つ筑紫野の原口古墳のほぼ東に来るのは、少し南にずれるけど古処山です。同じくらい北にずれると、馬見山になります。東の高峰に見守られるのは、地域の有力者の墓です。それは、弥生から受け継がれたものでしょう。しかし、時代が下ると、東の山より神上がりした過去の権力者と結びつく事が大事になっていきます。弥生の東西ラインが、古墳時代になって変化していったという事です。
 他の山とのつながりも見ましょう。脊振山は脊振山地の最高峰、シンボル的な山です。様々な地域や墓からラインが集まりました。その山頂と黄緑のラインで結んでみました。黄緑ラインが岩戸山古墳の後円部から北西に伸びています。このラインは、脊振山頂を通り、糸島市の高祖山に届きます。地域の山と結びつくのは当然かも知れません。が、伊都国の高祖山とは。高祖山山麓には墓群が広がっています。赤ライン(北東へ)麻氐良布山→釈迦ヶ岳となっています。
では、古墳との結び付きです。
赤ライン・岩戸山→(北東東へ)鷹取山→楠名古墳
この他にも、岩戸山→(北東東へ)屋形古墳→日ノ岡古墳もあります。
 岩戸山古墳から出るピンクのラインを天山につなぐと、船山古墳の縁を通過します。青ラインを北に伸ばし筑紫神社の近くの五郎山古墳につないでみると、真北ではなく少し傾きます。いずれも意図的なラインとは言い難いのですが、水色ラインは熊本の江田船山古墳の墳丘部を通り、熊ノ岳に届きます。これは、5世紀の江田船山の被葬者を磐井が崇敬していた事になるでしょう。このように、古墳時代に入ると、過去の有力者とつなぐために山頂を使った事になります。
他にも、気になる事が出てきました。岩戸山古墳から出る二本の紫ラインがあります。北東の紫ラインは、林田・三奈木神社→荷原(いないばる)・三奈木神社→水の文化村(羽白熊鷲墓)→馬見山とつながります。熊鷲の墓は移動を繰り返しているので、場所を決めるのが難しいのですが、磐井が熊鷲の墓を知っていたとしたら、伝承に信ぴょう性が加わります。更に、当たる範囲が広いので表現は難しいですが、そのまま馬見山から更に伸ばすと、御所ガ谷神籠石に届くようです。南西に伸びる紫ラインは、女山神籠石を通り、雲仙普賢岳に届きます。紫ラインが多数集まっているので、岩戸山からのラインには白をかぶせています。6世紀の古墳が、5世紀の古墳や神籠石につながる事。それは、同時代か時代的に近い築造物だと言えるでしょう。神籠石は、7世紀後半ではなく6世紀の可能性が強いという事です。神籠石の下から6世紀の土器片が出てきた例がある事も、無視できないと思います。新たに、6世紀の古墳と神籠石の関係が浮かび上がって来ました。
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(5)神籠石の東西ライン
紫ライン(北東へ)式内社・三奈木神社→馬見山→御所ガ谷神籠石
紫ライン(南西へ)女山神籠石→雲仙普賢岳
前項で女山と御所ヶ谷の神籠石が出てきましたが、他の神籠石は何処にあって、何世紀の築造で、どんな役目をしていたか、ラインで読めるでしょうか。神籠石にも弥生の東西ラインがあるのかという問題も出てきました。結論から言うと、神籠石は東西に向き合っている事が多いようです。相対する神籠石が見つかっていない神籠石もありますが、これから発見される可能性もあります。
(ア)女山神籠石とおつぼ山神籠石
二か所の神籠石は、有明海を挟んで東西に向き合っています。女山から西に出る紫ラインが、それです。
北に伸びる紫ラインは、石人山古墳の墳丘部を通り、筑紫野の原口古墳を通り、大城山山頂横を通過し、更に北上して、式内社(明神大)宗像大社の本殿に届きます。宗像大社が現在地に建てられた時、石人山古墳や女山神籠石を意識していたと思ってしまいます。赤をかぶせた紫ラインは、杷木神籠石を通り、唐原神籠石に届きます。緑をかぶせた紫ラインは、熊本の八方ヶ岳山頂を通り、阿蘇の国造神社に届きます。黄色のかかった紫ライン(北東)は、高良山神籠石を通り、寿命王塚古墳(6世紀)に届きます。北西の紫ラインは、雷山山頂を通り一貴山銚子塚古墳に届きます。ピンクラインは江田船山古墳(5世紀)が起点です。女山を通過し、福岡市の愛宕山を通り、志賀島の北・志賀海神社の沖津宮(元宮)に届きます。女山神籠石は、有明海と筑紫の国を守っているのでしょう。この時代、志賀海神社は現在地にはなかった事になります。
(イ)杷木神籠石と帯隈山神籠石
 この二か所の神籠石も、東西に相対しています。
 帯隈山山頂・神籠石から北上すると、福岡市の愛宕神社を通り、西戸崎の大嶽神社に届きます。帯隈山神籠石を南西から北東に横切るラインは、おつぼ山神籠石を起点とし、帯隈山神籠石を通り、筑紫野の五郎山古墳に届きます。この装飾古墳には、騎馬人物や船や馬の絵があります。日本書紀に出てくる「筑紫の馬」の生産者なのでしょう。五郎山の被葬者は、神籠石の時代には有力者として知られていたのです。
(ウ)宮地岳神籠石と雷山神籠石
 この二か所も東西の位置にあります。宮地岳神籠石は、すでに紹介している阿志岐山城の事です。江戸時代に宮地嶽神社を山頂に勧請したので、宮地岳と呼ばれるようになったようですが、もともと天山(あまやま)と呼ばれていたようです。ラインは山城の上を通っています。北からの赤ラインは、始めに紹介した筥崎宮からのライン。
宮地岳から伸びる紫ラインの西端に、雷山神籠石があります。神籠石はダム(ため池)を挟んで南北に広がっていますが、西は地震の為に破壊されて列石はないそうです。
印ピンの辺りに神社と水門があります。雷山山頂から出る赤ラインは真北に上り、志登支石墓を通り志登神社に至ります。隣の赤ラインは、式内社(明神大)志賀海神社を通り、宗像大社の大島の中津宮に届きます。そのまた隣の赤ラインは、高祖山→鋤崎古墳へラインが通ります。鋤崎古墳は、位至三公鏡を出土した古墳です。糸島市井原や、浜玉町の谷口古墳からも位至三公鏡を出土しています。弥生後期・古墳前期の頃、中国と交流を持った人々が北部九州に居たのです。
(エ)鹿毛馬神籠石と御所ガ谷神籠石
 この二か所の神籠石も、東西に相対しています。間に香春岳が入ります。現在、セメント会社により、山頂のみならず山全体が激しく削られています。画像の山頂のポイントは、過去の地図と、山の模型と古写真を元に入れました。御所ヶ谷・鹿毛馬とつながるラインは、そのまま西に伸ばすと、志賀島の志賀海神社の元宮(沖津宮)に行きつきます。両方の神籠石の時代、志賀海神社の祭祀は、沖津宮で行われていたのでしょう。
・女山神籠石とおつぼ山神籠石 ・杷木神籠石と帯隈山神籠石 ・宮地岳神籠石(阿志岐山城)と雷山神籠石 ・鹿毛馬神籠石と御所ガ谷神籠石」は東西に相対し、交通の要衝に築造されています。守りと信仰を両立させているようです。
では、高良山神籠石はどうなるのでしょう。もし、東西に相対する神籠石があるとしたら、小城か多久の辺りでしょうか。しかし、今のところ発見されていません。相対する神籠石がないとして、高良山神籠石を見てみましょう。
(オ)高良山神籠石と高良大社
 不思議な事に、式内社としての高良大社と神籠石が同居しているのです。同時代の建造物ではありません。それぞれが別の時代を象徴する建造物です。延喜式神名帳には「高良玉垂命神社」と記載され、名神大社に列しています。高良玉垂宮とも呼ばれ、ご祭神は武内宿禰や、藤大臣、月神など様々に説があるそうですが、正殿には高良玉垂命・左殿には八幡大神・右殿には住吉大神となっています。筑後一宮であり朝廷から正一位を授けられたとされます。仁徳天皇55年(367年)または78年(390年)鎮座、創建は履中天皇元年(400年)と伝わります。高良山にはもともと高木神(高牟礼神・高御産巣日神)が鎮座し、高牟礼山と呼ばれていました。伝承によると、高木神と高良玉垂命との交代は、日数をかけずに行われたようです。権力の支持無くしては出来ない事だと思います。高良大社の麓に神籠石の印を入れていますが、神籠石は広い境内に広がり、本殿も取り込まれています。
大社より様々な色のラインが出ています。本殿から出るラインと、裏の神籠石の領域高所から出るラインを分けてみました。まず本殿から出るラインです。山は、いずれも山頂です。
黄緑・本殿→高樹神社→伊勢天照御祖神社
赤・本殿→九千部山→吉武高木
紺・本殿→釈迦ヶ岳→英彦山北岳
紫・本殿→東へ耳納山地の鷹取山
水色・本殿→御前岳→釈迦岳→渡神山
黄色・本殿→阿蘇の火口→高千穂神宮(宮崎県)
高良大社からのラインは、新しい権力者の好みのようで、海抜の高い山や、火山との結びつきを求めているようです。
 次は本殿裏の高所からのラインです。神籠石の列石があります。
白・神籠石→筑紫野・宮地岳山城→宝満山頂の横→砥石山→鉾立山
ピンク(ラインが切れているが、南につながっている)・大根地山→高良山神籠石→岩戸山古墳
青紫・神籠石→平塚川添遺跡(北寄り)→古処山
 このように、高良山神籠石は、信仰の山とつながっているようです。鉾立山・古処山・九千部山・宝満山・大根地山など幾度も出てくる山の名があります。
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神籠石の時代、高良山は此処から何処を見据えていたのでしょう。佐賀の小城辺りに、高良山神籠石と相対する山城がある可能性を既述していますが、あるいは、宮地岳神籠石と南北に相対しているのかも知れません。そうすると、守るべきものは、宮地岳の緯度より南にあった事になります。そうでなければ、宮地岳山城と相対する神籠石が、更に北に見つかる事でしょう。
そして、高良山神籠石山城と同じ場所が、式内社(明神大)なっている理由はなんでしょう。玉垂宮は鎮座以来、遷宮したりして場所を変えることもしていません。筥崎宮と同じように、過去の国の象徴の山や、祈りの場を抑えるためには、現在地でなければならなかったのでしょう。過去を抑え込む事が、他の場所では出来なかったとしたら……高良山は、古代からずっと重要な位置にあったのです。相対する神籠石がないなら、此処が神籠石の中心であった可能性も出てきます。高良山神籠石→祇園山(高良大社の麓)→帯隈山神籠石、女山神籠石→高良山神籠石→王塚古墳、高良山神籠石→宮地岳山城→宝満山、のように、高良山・帯隈山・宮地岳・女山の四か所の神籠石が結びつきました。すごい事です。他に、女山も、高良山・杷木・唐原・おつぼ山とつながる事は既述しています。神籠石山城の結びつきを見ると、筑後辺りが重要な地域に近いようです。
更に、誰が、またはどのあたりの人物が、神籠石山城を造らせたのかという問題も浮上します。それを、高良山神籠石で探ってみましょう。高良山と結びつく古墳は、祇園山古墳、高良山→寺徳古墳→日ノ岡古墳、岩戸山古墳、王塚古墳などで有名古墳は既述しています。これらの被葬者のつながりは想像できます。もちろん、これだけで探るのは危険ですが、ヒントにはなるでしょう。

では、既述の「古墳時代の祭祀ライン」であつかった岩戸山古墳を見直してみましょう。結びつく神籠石系山城は、雷山・高良山・宮地岳・女山です。
結びつく古墳は、楠名・日ノ岡・江田船山・羽白熊鷲(伝承地)・一貴山銚子塚・五郎山(北に位置する)です。
更に、面白い事に、岩戸山を抑える式内社は、
岩戸山→見勢大霊石神社→宮地岳・宝満山…、
岩戸山→三奈宜神社→熊鷲墓→馬見山、
岩戸山→高良大社→大根地山など、
見勢大霊石神社・三奈宜神社・高良大社の三社です。式内社が、間に入って霊力を断っているのでしょうか。宝満・馬見・大根地の山々も、重要な位置にあった事が分かります。
ちなみに、式内社に囲まれた他の古墳は、見勢大霊石神社→五郎山古墳→筑紫神社、筑紫神社→大巳貴神社→羽白熊鷲墓、なかなか少ないようです。一貴山銚子塚→志登神社→大嶽は、大嶽との結びつきを断とうとしているのでしょうか。日ノ岡古墳→大巳貴神社→竈神社は、ラインが若干ずれますので無理でしょうか。ですが、岩戸山古墳が式内社によって信仰の山との間を断たれている事は、明らかだと思います。
では、神籠石は岩戸山古墳の辺りを守っているのかと言うと、そうではないようです。筑後は6世紀前半あたりには中心部だったようですが、神籠石系山城の配置を見ると守るべき場所は移動しています。それは、もっとも丁寧に築造された阿志岐山城の辺りに中心地が移動したものと思われます。式内社の筑前への偏りからも、それが分かります。この移動は、磐井の乱が引き金となったのでしょう。磐井の乱後に置かれたと言われる「国造」や「屯倉」の広がりから見ても、大きな政変があった事は明白です。

(オ)石城山と永納山
 その他の神籠石の位置はどうなっているのでしょう。たとえば、石城山と永納山の神籠石は、東西に相対しています。石城山(山口)からラインを引きそのまま伸ばすと、大廻小廻山城(岡山)に届き、更に播磨城山城(たつの市)まで行き着きます。三か所の古代山城が一列に連なります。では、永納山から讃岐城山城に伸ばすとどうなるかと言えば、神籠石の発見がないので、ラインは滋賀県大津市の中央一丁目と、京町一丁目の辺りにまで伸ばせます。天智天皇の都にたどりつくのでしょうか。二か所しか神籠石をつなげないので、よくわかりません。が、気になる結果です。神籠石は近畿王権とかかわりがあるのでしょうか。

神籠石とされている築造物そのものが、時代的な考証や築造技術について調査が不十分だと思います。特に九州を出ると、技術的な共通点がはっきりしません。しかし、神籠石と朝鮮式山城は区別されているようです。大野城も朝鮮式山城と呼ばれています。それでも、高安城のように日本書紀にたびたび出てくる山城でも、その位置が特定されていません。近畿の古代史に興味を持つ人達が、探査を繰り返してようやく礎石らしいものを見つけたとか。ですから、地図上になかなかポイントを打てないのです。
 見つかっている神籠石系山城
・佐賀県
        おつぼ山神籠石
      帯隈山神籠石
福岡県
・        女山神籠石
・高良山神籠石
・雷山神籠石
・鹿毛馬神籠石
・御所ヶ谷神籠石
・杷木神籠石
・塔原神籠石
・宮地岳古代山城
山口県      石城山
岡山県      鬼ノ城山城
・        大廻り小廻り山城
愛媛県      永納山
香川県      讃岐城
兵庫県      播磨城山城 

朝鮮式山城
高安城・屋島城・長門城・大野城・基肄城・金田城・茨城・常城・鞠智城
(神籠石シンポジウムで、上記のように分けられていました)

まだ次があります「続々の続・筥崎宮の『敵国降伏』」へ進んでください。
画像は後でアップします。

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by tizudesiru | 2012-07-23 15:10 | 77筥崎宮の「敵国降伏」その3 | Comments(0)

続々の続・筥崎宮の「敵国降伏」

地図で楽しむ古代史

6)馬見山の東西 それから、最初に出てきた三郡山の後ろに控えていた馬見山の事ですが、この山は筑後平野を見守る信仰の山のようです。遠賀川の源流は馬見山です。大神様を「おんがさま」と呼ぶそうです。馬見山は「神武天皇が馬を見逃したから、そのまま馬見山と呼んだ」とか伝承がありますが、馬見と名が付く前は何だったのでしょう。ただの「大神山」だったのではないでしょうか。馬見山から秋月を経て流れる小石原川の流域にある「大巳貴神社」は、「おんがさま」と呼ばれています。「馬見」以前は「おんがさま」だったのではないでしょうか。
古処山に居た羽白熊鷲(日本書紀によると、神功皇后に滅ぼされた熊襲の首長)は、山の上で何をしていたのでしょう。彼は、そこで東の山に向かって神祭りをしていた。古処は生活の場ではなかったはずです。祭った神の山が、「大神様」(馬見山)と思われます。
 十世紀の筥崎宮はこの山を崇敬していたのではなく、押さえこんでいました。式内明神大社の筥崎宮は大宰府の道真の祟りを封じ込めるために造られ、敵国降伏させるための神社でした。そうして、都を守ろうとしていました。当然、宝満山・馬見山も都守りの為に役立てたか、押さえこもうとしたかです。敵国の象徴として馬見山を見ていたのなら、醍醐帝が恐れたのは、熊襲(熊鷲の時代)の国だったのでしょうか。
馬見山の西にそびえる山は、雷山です。雷山は「そそぎ山」と呼ばれていました。羽白熊鷲の終焉の地は「そそぎ野」です。そそぎ野とは雷山の事でしょうか。熊鷲が戦いに敗れた「そそぎ野」が雷山だった可能性はあるでしょうか。そうすると、彼は弥生の首長ではなく、もっと後の時代の権力者だった事になります。または、後の時代の戦いと混同されたか。後の時代の戦いとは、6世紀前半の磐井の乱まで下がるでしょうか。

 結果として十世紀の朝廷が教えてくれたのは、北部九州の信仰の山々です。宝満山・馬見山・古処山・三郡山・脊振山・雷山・井原山・若杉山・釈迦岳・飯盛山・愛宕山・鷹取山・大根地山・宮地岳・天拝山・鉾立山……たくさん出てきましたが、この中には「神の坐す山、首長の祭祀場になった山、中継点になった山」など様々な状況があります。信仰の対象だった時間(時代)にも、違いがあります。
たとえば、宝満山と飯盛山は、古い信仰の対象だったようです。弥生時代(東西に相対する山を信仰の対象にした。太陽の昇る山・しずむ山)まで遡ると思われます。はじめは、宝満山(男神)飯盛山(女神)→宝満山(イザナギ命)飯盛山(イザナミ命)*書紀神話の影響の名前ともいわれます。それに、イザナミの墓は横穴式石室だった?ようです。弥生の甕棺墓にそぐわないとも聞きますが。*
→首長が神祭りを始め、祭祀場が造られる(吉武高木の大型建物)・葬送が権力者に重視される(副葬品)宝満・飯盛ラインは、弥生の首長の眠るラインとなる。これに倣って、族長も地域の山を意識して墓を造る。
→ 権力の移動・勢力の拡大・大城山で宝満山・飯盛山の神を祭る・祖先祭祀も大きくなり、神まつりが国守りと結びついていく(弥生墳丘墓)→地域の山が信仰の対象になって行く(糸島では、加也山・脊振山・井原山など)
 政権交代→信仰されていた神が、有力な首長の祖先神にかえられる。宝満山は、イザナギ命から玉依姫へ。勢力圏の拡大・神祭りの拡大
このように、同じ山が信仰の対象としても変化したと考えられます。
そろそろ、まとめになります。
(7)神籠石の時代・福岡平野、そして筑後平野
神籠石と山と神社
 帯隈山神籠石と杷木神籠石の二か所は、筑後平野を挟んで同じような緯度にありました。少し傾いていますが、だいたい東西の関係になっています。両神籠石は、対になっているのは、何のためでしょう。主要道路を抑えるためとか、物理的な防御が目的でしょうか。宗教的な、または境界を示すとか政治的な関係でしょうか。ほぼまっすぐなラインに意味があるのでしょうか。
 帯隈山神籠石から北にラインを伸ばすと、福岡市西区の愛宕神社を通り、博多湾を越え、西戸崎の大嶽神社に届きました。海の中道にある岡の上の神社です。このラインが有効であれば、神籠石の時代、すでに大嶽は信仰の対象だった事になります。南北に向かい合う神籠石と大嶽。この大嶽と東西に向かい合うのが、鉾立山です。鉾立山から南に、砥石山・宝満山・宮地岳・高良山神籠石とつながっていました。これらの山が連なる事は、山頂に登れば分かります。高良山神籠石は、鉾立山・宝満山からのラインを意識して築造されたのです。そして、後世には、鉾立・宝満ラインを抑えるために高良大社が造られた…となります。敵国につながる信仰の山(または、結界の山)を抑えるのが目的でした。式内社が徹底して抑え込もうとした伝承や山や墳墓に、「敵国」の存在が見えてくるのです。
また、帯隈・大嶽ラインが通過した愛宕神社と東西に向き合うのが、大分八幡宮の陵墓です。大分八幡宮が宇佐八幡宮の元宮であれば、7世紀末には祭られていた事になります。陵墓は何時でしょう。愛宕山と向き合う時期、大分宮の社殿はなかったのです。陵墓は7世紀より遡るでしょう。

帯隈山神籠石と南北に向き合う愛宕神社・大嶽神社
大嶽神社と東西に向き合う鉾立山。
南北に向き合う鉾立・宝満・宮地岳山城の山頂と高良大社(高良山神籠石)。
高良山神籠石と東西に向き合う鷹取山(鷹取山の北に筑後平野を挟んで古処山)
雷山神籠石と東西に向き合う宮地岳古代山城。
女山神籠石と東西に向き合うおつぼ山神籠石
女山神籠石の北には、石人山古墳・原口古墳・太宰府政庁・大城山山頂の横・かなり離れて宗像大社本殿
*宗像大社は、遠くから密かに石人山・原口古墳・政庁を抑えようとしていたのでしょうか*
東西南北の組み合わせを少し紹介しましたが、神籠石の結びつきは東西南北だけではありませんでした。たとえば、女山は杷木神籠石・唐原神籠石とつながりました。これらのラインから囲まれた土地があります。
此処には何があったのでしょう。この土地の何処かに醍醐帝が恐れた「敵国」(筑紫城)があったのです。
東西南北の組み合わせはいくらでも造れます。しかし、歴史的建造物や言い伝えを結ぶ事はなかなかできないと思います。
神籠石と古墳
 神籠石が重要地域を取り囲むのは地図上でも分かりやすいのですが、古墳との結びつきはどうでしょう。たとえば、5世紀の江田船山古墳からのラインは、女山(神籠石を省略)・福岡市の愛宕神社・沖津宮(志賀海神社の元宮)に届きます。余りに離れているので、やや疑わしいでしょうか。他の有力者の墳墓では、すでに紹介したおつぼ山・帯隈山・五郎山古墳がありました。女山・高良山・寿命大塚古墳もあります。岩戸山古墳からは、高良山を通り大根地山。女山からは雷山山頂を経て一貴山銚子塚古墳です。女山からは、石人山古墳・原口古墳もありました。一貴山銚子塚と原口は、早い時期の古墳で三角縁神獣鏡を副葬していました。が、一貴山では頭部に置かれたのではありませんでした。鹿毛馬からは、竹原古墳を通り津屋崎の宮地嶽神社古墳に届きます。被葬者は、宗像君徳善より時代が遡ると聞きましたが、そのはずです。7世紀の古墳ではないようです。
 神籠石は古墳をどう扱っているのでしょう。その権威を否定しているのではないようです。地域の最有力者の墓として扱い、その権威を神籠石に取り込もうとしているようです。岩戸山古墳は、磐井の寿墓と伝わります。神籠石を築造した時、磐井の墓はあった事になります。神籠石築造は、磐井の乱の前か、後か? 乱後だとして、近畿王権に対立した磐井の墓の権威を取り込んで神籠石を造る事が、可能だったのでしょうか。神籠石の配置から言える事は、それは可能だった…でしょう。お互いの位置を確かめながら、同じ目的で山城を造るには、よほどのつながりがなければできない事です。そして、推進力をもった首長も必要です。磐井の乱後、全国に屯倉が増えて行くそうです。その中で、神籠石山城を造り続けた九州北部勢力。目的は、近畿王権に対する防衛でしょう。中心的な磐井が敗れたのですから、九州の豪族たちは慌てたはずです。そして、過去の有力者の権威と霊力を借りて山城を造ったと思われます。鹿毛馬は列石が途切れた場所があり、工事が途中で終わっています。その時、築造の意味が失われたのでしょう。
 528年磐井の子葛子が糟屋の屯倉を献上。535年全国に26か所の屯倉を設置。九州では、筑紫 穂波・鎌・豊国 ミ崎(門司区)・桑原(築上町)・肝(か)等(と)(苅田町)・大抜(おおぬく)(小倉南区)・我鹿(あか)(赤村) 火国 春日(熊本市)と、なっていて、屯倉は神籠石の守りの外側に当たるとおもうのですが。屯倉の設置から見ても、神籠石は磐井の乱後に「北部九州の連合国が、北部九州を守るために造った」のです。
602年には久米皇子が二万五千の軍隊を連れて、新羅を討つために筑紫にきます。662年の白村江戦の軍隊は、筑紫から出ています。では、久米皇子の軍隊は、何処で組織されたのでしょう? 推古10年に「久米皇子をもて撃新羅将軍とす。神部(かむとものを)及び国造・伴造(とものみやつこ)等、併せて軍衆(いくさ)二万五千人を授く」と書かれています。軍隊は皇子が連れて来たようです。久米皇子は病に倒れ筑紫でなくなり、任が果たせませんでした。しかし、筑紫を脅すには十分だったと思います。
 神籠石は535年から602年の間に築造され、山城は使われることなくそのまま放置された事になります。または、602年から660年の間の築造です。久米皇子の派遣に慌てて、北部九州が団結したのです。
602年久米皇子の筑紫下りは新羅「征討」が目的です。しかし、出兵していません。皇族(聖徳太子の弟)が軍隊を率いたのも古代には最初、異例です。そして、何故602年なのか? 大変、恥ずかしい説ですが、これは、600年の「日出処天子」の国書問題(遣隋使)とも関係あるのではないかとかってに思うのです。筑紫城の「天のタリシホコ」が隋に天子として国書を出したとなれば、近畿王権にはゆゆしき問題です。当然、軍隊派遣でしょう。久米皇子が亡くなった後、兄の当麻(たぎま)皇子が征新羅将軍となります。この皇子は播磨で妻を亡くし、引き返し「遂に征(う)討たず」となっています。近畿王権では、続けて皇子を将軍としているのです。
推古8年には、任那救援の大将軍として「境部臣」、副将軍として「穂積臣」を新羅征討に出しています。その二年後に皇子将軍が続くのは、やはり異様でしょう。此処に、大きな目的が隠れていると思います。それは、磐井の乱後の戦後処理の確認です。神部・国造・伴造をともなった理由も分かります。北部九州の造り直しです。根本的な造り直しでしょう。しかし、十分には果たせなかった。次のチャンスは、白村江戦でした。斉明天皇は九州に「征西」します。「征討新羅」ではありません。万葉集も同じく「征西」となっています。百済はすでに滅んでいました。軍隊を出して疲弊した九州へ「征西」し、中大兄皇子(天智天皇)は母と離れ、長津宮で政務をとっていたのです。筑後平野と福岡平野に分かれていたのは、どちらからも軍隊を出すためとも聞きます。しかし、とうとう軍隊を出さずに、中大兄皇子は崩御した斉明天皇とともに飛鳥に戻ります。それからの十年間で、天智天皇として日本と北部九州を変えて行くのです。
 つまり、白村江戦までは近畿王権の「敵国」は、北部九州にあったのです。日本書紀の編纂が「聖徳太子の政治理想を実現する」という組み立てになっていると聞きました。久米皇子が九州の地を踏んだ事は、肥前風土記にも書かれています。聖徳太子は「九州征討」に本気だったのです。この歴史の事実を道真は知っていたでしょう。王城神社の由緒にも言うように、「道真の謹慎する南館に王城神社の社人が頻繁に訪れ」、歴史のあれこれを聞いていた事でしょう。宇多天皇は菅原道真をとりたてました。道真の娘を後宮にもいれています。歴史の話もしたでしょう。醍醐帝に「道真は忠臣」であると、帝王の心得を書いた文中で伝えています。道真の死後その祟りが所縁の人々を襲った時、醍醐帝が思い浮かべたのは「九州の怨霊と一体化した道真」だったのではないでしょうか。その事が「敵国降伏」の辰筆になった…

(まとめ)6世紀の政変・7世紀の征西・10世紀の延喜式
 それにしても、この時代の考え方や、歴史が何故残らなかったのでしょう。銅鐸の言い伝えが残らなかった事と同じでしょうか。他の文化を持った人々に侵略され、文化伝承の継承が出来なかった等々。ほかにも、「神話はあるが遺跡なし」と言われた出雲から、358本(荒神谷)の銅剣が出てきました。誰も想像しなかったけれど、銅剣が出てきたのです。出雲では銅剣と銅鐸が出土します。が、伝承はありません。その文化を支えていた人の移動か、政権争いの敗北により消されてしまったのでしょうか。

祭祀ラインを引いていて気付くのは、6世紀とされる古墳・神籠石・10世紀の式内社・地域の大事な山岳が、数多くライン上に上がる事でした。九州では、幾度も葬送文化に変化があっています。甕棺墓が急に見当たらなくなったり、前方後円墳から円墳に変わったり、石人石馬の古墳が少なくなったり、装飾古墳が広がったり、横穴墓が集中する地域があったり、割竹型石棺や家型石棺、長持ち型石棺など石棺に違いがあったり、横穴式石室や竪穴式石室、副葬品に至るまで、3世紀から6世紀の間にめまぐるしい変化が訪れています。新しい葬送文化を受け入れて行くには、何らかの生活の変化があったのでしょう。心理的・政治的・経済的変化があったと考えられます。
 筑紫における6世紀の政変と言えば、「磐井の乱」です。隣国の歴史書も、6世紀は倭国の記述が消えているのです。私は、「倭国の空白」とブログに書きました。新羅を支持していた磐井は敗れ、九州には物部が入ってきたと言われます。物部はもともと九州の氏族という事も言われますが。当時の大王は、百済を重要視続けています。磐井の乱後、筑紫は立て直しを始めました。神籠石で筑紫を守ろうとしたのでしょうか。消えそうになった連合関係を取り戻そうとしたのだと思います。
 次に隣国と親密になるのは、白村江戦の前あたりからです。それまで、支援を頼むにも、倭国にはそれだけの軍事的経済的ゆとりがなかったのでしょう。600年には、隋へ遣使を送れるようになりました。『山は阿蘇山あり』と書かれた国書を、男性王が隋の天子に送っています。やがて、隣国との交流が再会するのです。多分、近畿と九州に権力が分散していたでしょう。中大兄皇子(天智天皇)は新羅ではなく百済を選びます。660年百済の滅亡後「百済救援軍」を出しますが、筑紫への『西征』でした。中大兄皇子が、長津で政務をとり、斉明天皇は朝倉橘広庭宮に居たと書かれています。斉明帝崩御後、中大兄皇子は政務をとり筑紫を造り変えて行きます(蘇我日向を筑紫にしのびながししています。蘇我赤兄も太宰府帥にしています)。白村江戦で打撃を受けた筑紫には、余力はなかった事でしょう。6世紀の政変・7世紀の征西で、九州の倭国の記憶は消えて行ったと思うのです。
 更に、10世紀の延喜式です。900年・辛酉の年に大改革を提言された醍醐天皇は、歴史にも造詣の深い菅原道真を排除し、国守りの神社を造り変えました。歴史ある神社や言い伝えは忘れられ、御祭神の入れ替えも行われました。もちろん、いつの時代も庶民が新しい為政者と結びつくことを望んだと思います。進んで新しい神やしきたりを取り入れたと思うのです。明治の廃仏毀釈もあったではありませんか。宝満山・脊振山・英彦山などの僧坊・寺社がことごとく消え、伝承すらもほとんど消えています。それは、歴史の中で常に大きなものに巻かれてきた我が国の文化の特色でもあるのでしょう。

以上が「7月の発表で言いたかったこと」です。
筥崎宮の「敵国降伏から見える古代の九州」について、楽しく遊びました。
読んで下さった方、ありがとうございます。

 ブログを読んでくださった方からご指摘をいただきました。筥崎宮の楼門の額「敵国降伏」の国の文字が、國ではということです。確かにそうです。ブログの「4 筥崎八幡宮」の楼門の写真を見ていただくとわかります。「敵国降伏」は「敵國降伏」が本当です。これから、気を付けます。




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by tizudesiru | 2012-07-23 15:00 | 78筥崎宮の「敵国降伏」その4 | Comments(4)


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地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
261大化改新後、大国魂神社は総社となる
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造を命じた首長は誰
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳

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