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崇俊天皇の真実

崇俊天皇の真実
 蘇我馬子に殺された崇俊天皇。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘、小姉君。母違いの敏達天皇・用明天皇・推古天皇は兄弟です。同母の兄・穴穂部皇子も蘇我馬子に殺されました。姉・穴穂部皇女は、用明天皇の皇后で、聖徳太子の母です。それにしても、臣下である馬子に殺されねばならない理由があったのでしょうか。兄の穴穂部皇子は、物部大連と組み、皇位継承の戦いに敗れ殺されました。その後、物部大連も馬子に敗れ滅ぼされます。元年には大友氏の娘を妃とし、翌年には、東山道・東海道・北陸道に使いを出し境を視察しています。蘇我氏からの妃をさけ、三年目に「任那再建のため」筑紫に二万の軍隊を出しました。かなり指導力もあり、群臣の気持ちをを引きつけた人だったようです。しかし、「猪の首を切るように、私の嫌いな人を切りたいものだ」と言った事が馬子に伝わり、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて弑殺(しさつ)させました。崇俊天皇はその日のうちに埋葬されたという事です…その陵墓は、桜井市倉橋にあります。
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陵墓からラインを三本引きました。水色・黄色・白ラインです。この陵墓は宮内庁が明治に決めたものです。
 水色ラインは、北側へのびて、外山(とび)茶臼山古墳を通り、大神神社の摂社「狭井神社」に届きます。外山茶臼山古墳は、箸墓古墳に次ぐ時期の古墳だそうです。
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字が小さいかもしれませんが、調べた内容を書き込みました。「竪穴式石室・木棺」の棺が、環になっています。誤変換です。それから、狭井神社も書き込みました。
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 大田田根子という人物名は、確かに日本書紀に出てきます。崇神紀です。
黄色ラインは神武天皇陵を横切り、敏達天皇陵墓まで伸びています。
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まだ記紀が成立していない時期に、臣下に殺されて祟り神となったらしい崇俊天皇が、皇統の創始者たる神武天皇と父を同じくする敏達天皇(欽明天皇の皇子)の陵墓とむすびつくのです。後世の人の思いが、倉橋のこの地に陵墓を造ったのでしょうか。
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白ラインですが、これは橘寺を通り、明神古墳に届くのです。東明神古墳は、八角形の古墳です。八角形は天皇陵墓に用いられる墳丘のかたちですね。それで、ここが草壁皇子の陵墓という強い説があります。しかし、宮内庁は認めていません。私は、地図上の祭祀ラインで見る限り、岡宮天皇陵が草壁皇子の改葬前の陵墓だと思います。このことは、すでに紹介しています。
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 それにしても、東明神古墳は気になりますね。大胆な説を立てれば、暗殺後に葬られたのが、倉橋岡上古墳(岡を利用した陵墓とは思えない造りだそうです)だと思います。その後、祟りを恐れた群臣の手により、東明神古墳に改葬されたのでしょう。だって、八角形古墳ですから、天皇陵でしょう。それでも、聖徳太子により、崇俊天皇は兄・穴穂部皇子とともに藤ノ木古墳に改葬されたという説にも、大きく気持ちが引かれます。それは、法隆寺はいつ誰が建立したのかに関わる問題です。魅力的な説ですが、地図上では、東明神古墳が崇俊天皇陵墓としては有力です。力を持った天皇だったはずですから、その祟りを恐れられたのではないでしょうか。
 真の崇俊天皇陵墓として、多くの方の指示を集めている倉橋の天王山古墳があります。
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この古墳から、三本のラインを引きました。藤ノ木古墳・敏達天皇陵墓・石舞台につないでみました。藤ノ木と敏達陵ラインからは、何も生まれませんでした。石舞台古墳につなぐと、倉橋岡上古墳のそばをラインが通過します。この陵墓治定地の辺りに崇俊天皇の宮があったのかもしれませんね。後世の人が馬子の力で、崇俊帝の祟りを抑えようと考えたのなら…です。と、言うことで、「崇俊天皇の真実」を終わります。
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 6世紀7世紀の古墳の被葬者ですら、こんなに特定出来ないのです。まして、4世紀・5世紀の古墳に至っては、難しいでしょうね。

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by tizudesiru | 2012-04-23 17:35 | 66崇俊天皇の真実とは | Comments(0)

継体天皇陵墓のライン

太田茶臼山古墳と今城塚古墳 日本書紀によれば、筑紫君磐井を討ったのは、継体天皇です。その陵墓は、宮内庁により太田茶臼山古墳とされています。しかし、かなりの先生方が「今城塚古墳が継体陵である可能性が強い」と言われています。
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太田茶臼山古墳今城塚古墳が1キロあまりはなれて造られています。太田茶臼山古墳のほうが古いそうです。今城塚古墳が6世紀前半だそうで、ちょうど継体天皇の活躍した時期と重なります。今城塚古墳は、この時期の前方後円墳としては最大で、日本一の埴輪祭祀を備えているそうです。埴輪祭祀は、造り出しと呼ばれる場所で行われ、6世紀前半の古墳に用いられている理由は、大倭の古墳の形式を踏襲しようとした継体天皇の思いが現れているのだとか。では、二つの古墳を見ます。太田茶臼山からは赤ライン。今城塚からは青(紫)ライン2本を出しています。 
 太田茶臼山から出た赤ラインは、生駒山の山頂付近を通りますが、青(紫)ライン二本は山頂を外し過ぎています。
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このラインが神武陵を通過するときは、青ラインが陵墓中心近くを通り、赤ラインは中心を外します。
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では、今城塚から出たもう一本の紫ラインは、何処へ行ったのでしょう。それは、藤原宮を通り、飛鳥の岡寺(もと岡寺)草壁皇子が育った岡の宮址・治田神社へ当たるのです。
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こうしてみると、今城塚古墳(継体天皇陵墓か)を、明日香の藤原宮は意識していた事になりますね。それは、草壁皇子の宮に届いていたし……草壁皇子が皇位継承者として重要な位置にいたことは間違いありません。今城塚古墳が、真の継体陵なら、このラインは重要です。
 さて、他の赤ラインと青ラインは、どうなったでしょう。
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両ラインは、見勢丸山古墳(明日香最大の古墳・欽明天皇稜墓の可能性大)の中心をやや外しながら通過します。
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そして、高松塚古墳にあたります。高松塚古墳は、耳成山の南にあたり、藤原宮の横をこの高松・耳成ラインが通過します。
 結論として、古墳から出ている三本のラインだけで言えることは、太田茶臼山と今城塚の双方とも、継体天皇陵墓の可能性があります。しかしながら、今城塚(継体天皇陵墓指示大)古墳は、藤原宮に住んだ人から重要視されていたし、もと岡寺につながるし、高松塚古墳につながるし、神武陵・見勢丸山古墳(欽明陵か)につながるようだし。欽明天皇の父である男大迹(オホド)王(継体天皇)の陵墓として、今城塚古墳のほうがふさわしいでしょうね。北陸から大和に入ってきた継体天皇は、大和の中心になかなか入れず、周辺の宮を移動していたように言われます。しかし、淀川水系という交通の要衝を抑えていたとも考えられます。古代の淀川は、大きな交易用の水路だったことでしょう。陵墓が淀川水系に造られても不思議ではありません。継体天皇が大事にした欽明天皇は、手白香皇后(武烈天皇の妹)の皇子です。前天皇の血統をつないでいるのです。藤原宮が造られる時、継体・欽明天皇の陵墓を取り込む事は当然と言えます。それを草壁皇子(第一の後継者)につなぐのも当然と言えるでしょう。ただ、赤ラインは、高松塚古墳を過ぎて、文武天皇陵墓まで届きます。太田茶臼山古墳の被葬者は、男大迹王の近親者かもしれません。男大迹王の父系の有力者は、すでに大和の近く淀川水系で財をなしていたのでしょう。それが、筑紫君磐井討伐の兵を出せる財源だったのかもしれません。

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by tizudesiru | 2012-04-23 09:07 | 65継体天皇陵墓のラインを読む | Comments(0)

奈良の都に咲いた花

天平勝宝元年・聖武天皇出家 仏教により救われることを求めた聖武天皇。光明皇后のほうが強かったとか、心の負担が大きくて気の弱い天皇だったとか、色々噂もあるようですが、とても人間的な方だったのではないでしょうか。寺院に行幸される事も多く、749年1月天皇皇后そろって、行基を戒師として出家されました。行基は2月には亡くなっていますから、ギリギリまで唐からの戒師を待っておられたのでしょうか。唐僧鑑真が大宰府にたどり着くのは、753年のことです。754年、鑑真を戒師として、親子そろって菩薩戒を受けられました。
 聖武天皇をこれほどひきつけた仏教。奈良の仏像に迫力があるのもうなずける気がします。
 平城京で朝廷の保護を受けたのは、興福寺(669年創建)・東大寺・西大寺(765年創建)・薬師寺(680年創建)・元興寺(593年創建)・大安寺(飛鳥の大官大寺の後)・法隆寺(607年?創建)の七寺です。この中で、平城京の始まりとともにあった寺は、薬師寺・元興寺・興福寺・大安寺・法隆寺でしょう。東大寺は、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇そろっての大仏開眼で知られる寺です。若草山麓の金鐘寺が前身と聞きます。ですから、平城京造営のとき都の守りにどれだけ貢献したか不明です。
 奈良の都は、多くの寺社により守られています。それも政変の度に強化されたようです。それらのラインが錯綜しているのです。たとえば、興福寺は藤原氏の氏寺です。光明皇后は自らの署名に「藤三女」と書かれています。それほど、藤原家系を誇りにされていたのです。また、藤原の後ろ盾により莫大な財力を手にしておられたのです。ですから、多くの寺社を建立されたことでしょう。
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崇道天皇神社の北に興福寺が在るとか、こんなものを地図上に見つけると心の中に重いものがひろがります。崇道天皇とは、藤原種継暗殺事件に連座して幽閉され、無実を訴え流刑途中に断食し憤死された早良親王の事です。桓武天皇の実弟にあたります。「崇道」と聞くと祟り神の代名詞のように言われるし、胸が詰まります。興福寺は、そういう様々な祟りや怨念も鎮めようとしているのでしょうか。

 奈良の都にもたくさんの悲劇惨劇があるようです。
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2012年1月に佐賀県の武雄市で道祖王(ふなどおう)の墓を見ました。聖武天皇の遺詔で皇太子にされた人です。天武系の新田部皇子の王子です。聖武太上天皇崩御の翌年(757年)3月、孝謙天皇により皇太子を廃されました。光明皇太后の指示だったとか…。
 757年7月橘奈良麻呂の乱。奈良麻呂が擁立しようとした天皇候補の中に、道祖王の名前がありました。わずか9歳で杖打ちの刑(死刑)となった廃太子・道祖王。。この乱では、400人ほどが死刑や流刑になったのです。無実の人もいたでしょう。
 「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今さかりなり」教科書でも習うこの和歌は、大宰府にて小野老(おののおゆ)が呼んだものです。あおによしは、奈良の枕ことばにもなっています。遠く大宰府から思う奈良には、どんな花が咲き、散っていったのでしょう。


 近畿の複雑な皇位継承・主導権争い・氏族の存亡をかけた戦い等々絡んで、祭祀線が複雑です。更に千年の都の怨霊と祟り封じが重なっています。様々な祭祀線を整理して、また後で紹介します。奈良京都は終わりそうにありませんので。
  

旅行で少し家を空けるので一週間ほどお休みです。また、いずれ
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by tizudesiru | 2012-04-10 16:17 | 64続・あおによし奈良の都は | Comments(0)

続・あおによし奈良の都は

あおよし奈良の都は
遷都を繰り返した聖武天皇を救ったのは、神・仏・家族愛第一次平城宮は、画面左の大極殿という目印を入れています。その画面右の大極殿が、第二次平城宮です。画面の上の陵墓は、薬子の変に巻き込まれた平城天皇稜です。平城帝は「平安京から平城京に帰りたい」と願われたので、陵墓がここに造営されたのでしょうか。
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平城宮からピンクラインが三本出ています。中央ラインは、真南に下りて見勢丸山古墳(欽明天皇陵)に届きます。経度もほとんど同じです。正確に測量したと思われます。
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続いて、左(南西)のピンクラインですが、薬師寺に届きます。薬師寺は、聖武天皇の病気平癒を願って、光明皇后が建立したと伝わります。しかし、藤原京(新益京)からの移築の事も忘れてはなりません。全てを移築していないかもしれません。730年に光明皇后は、興福寺の五重塔一基を造立しています。734年には生母、橘三千代の菩提のため興福寺内に西金堂を建立しています。寺のために一基ずつ建立したのかもしれません。
 同じ薬師寺に届く水色ラインは、平城宮の北にある「磐之媛陵」から引いたものです。
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磐之媛と薬師寺を結ぶ意味は不明です。が、ここから白ラインが出ています。磐之媛陵からの白ラインは、真南に南下し、耳成山に届きます。耳成山には高松塚古墳からのラインが届いています。つまり、この白ラインには意味があるのです。高松塚古墳が草壁皇子の改葬墓であり、藤原宮の守りの位置にあったことを思い出してください。同じように、平城京の守りに草壁皇子が登場しました。耳成山の北に存在する磐之媛陵の被葬者の言い伝えが、この時代にはあったのでしょうね。
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 そして、次は、右(南東)に伸びるピンクラインです。
 これは、大安寺に届きます。
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大安寺は、「宇佐神宮から石清水八幡宮へ」で紹介した南都の寺院です。859年に大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣し、「都に近き男山に鎮座せん」という、八幡神の神託を受けたので、860年に清和天皇の命により石清水八幡宮の社殿を創建したと紹介しました。南都(平城京)の単なる寺の僧の発言が朝廷に取り入れられるはずがありません。大安寺が大きな発言力を持っていたのは、平城宮の守りに関係していたからでしょう。大安寺は以前はもっと広く大きかったと思われます。ラインが当たるのは、旧大安寺境内だからです。これは、私が勝手に「旧境内」としたのではなく、地図上にそう書かれているのです。大きな寺院が第二次平城宮の守りを固めていたのです。ピンクラインは大安寺を通過し、更に進んで、桜井の石上神宮に届きます。ちなみに、大安寺は明日香の大官大寺の後だそうです。発言力があるわけです。
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石上神宮から白ラインが南西に伸びています。このラインは、耳成山山頂を横切り、与楽鑵子塚古墳(石舞台古墳の西)に行き当たります。石上神宮からのラインが耳成山を通り、与楽鑵子塚にあたるとは、どういう事を意味するのでしょうか。与楽鑵子塚は、蘇我馬子の石舞台古墳と東西に相対していましたね。耳成山に北から下りる白ラインは、すでに説明した磐之媛古墳からのラインです。
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 石上神宮が藤原宮・平城宮の守りに関係していたことが分かります。藤原宮における石上神宮は、耳成山の力も借りて与楽鑵子塚の被葬者を抑え込んでいたのかもしれません。馬子の墓の封土は剥いだけれど、こちらは墓を侮辱する理由がなかったとも考えられます。相対する勢力と結ぶものは、徹底して弾圧したのでしょうか。それとも、精神的苦痛を与え続けたのでしょうか。
 聖武天皇は即位の年(724年)に「奥州の反乱」を経験され、大般若経を僧600人に読誦させたり、元正太上天皇のために興福寺内に東金堂を建立したりされますが、728年には幼い皇太子を亡くされました。729年長屋王の変が起こります。、長屋王自刃、吉備内親王も自殺されました。この年に「天平」と改元。国家天下が平和であることを望んでのことでしょう。同年、藤原夫人(光明皇后)が皇后となり、臣下から初めての立后でした。翌年、皇后は興福寺に五重塔を建立。732年干ばつ。734年大地震。735年大宰府管内に疱瘡流行。737年藤原氏の房前・麻呂・宇合次々に死亡するという不幸が続きます。深く仏教に帰依しながら、何も防げなかったという思いでしょうか。738年光明皇后所生の阿倍内親王を皇太子とし、740年盧舎那仏造顕発願されるのです。しかし、藤原宇合の子・藤原広嗣が「僧上玄昉、下道朝臣真備を除こうとして、9月に兵を起こしました。藤原広嗣の乱です。11月には「広嗣を肥前松浦にて斬る」の報告も入るのですが、聖武天皇は伊勢・山城・恭仁(久邇)京とさまよわれました。741年1月、聖武天皇は久邇(恭仁)京への遷都を伊勢大神宮及び諸社に報告させられました。2月国分寺・国分尼寺建立の詔が出されました。これは、光明皇后の勧めによるものとか。 
 聖武天皇の移動は、紫香楽・和泉・難波と742年、743年、744年も続き、四大寺の衆僧を薬師寺に集めて、京師(都)の選考を諮問されたります。
悩みの多い奈良の都です。


忙しいので、また後で
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by tizudesiru | 2012-04-08 13:34 | 64続・あおによし奈良の都は | Comments(0)

63 あおによし奈良の都は…

さまよえる平城京新益京から遷都した平城京ですが、奈良の都は遷都を繰り返しました。
 いま造る久邇の都は山川のさやけき見ればうべしらすらし (大友宿禰家持が久邇の都を讃めて作る歌一首)久邇京だけではありません。紫香楽・難波にも、遷都が繰り返されます。天平文化が花開いたとされる奈良時代。政情不安に飢饉、天変地異に人々は苦しんでいたのです。そのためでしょうか。聖武天皇は、遷都を繰り返されました。
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遷都後の大極殿はこの位置でした。復元された建物は、第一次平城宮の位置に建てられた事になります。
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平城宮の西側。西大寺があります。
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平城宮の東側。東大寺はありません。更に東奥にあるのです。北南に通る紫ラインは、京都の天智天皇稜と明日香の天武天皇稜を結ぶものです。このラインがあったから、東大寺はずっと東に造られたのでしょうか。西大寺の東辺から大極殿までと、大極殿から紫ラインまでの距離はほぼ同じです。
 平城宮に三本の黄ラインがあります。中央の黄ラインは、橿原の神武天皇稜に届きます。大極殿の真南に偉大なる霊廟を配置する事は、ここでも行われました。高松塚古墳が草壁皇子である事が、さらに裏付けられたと思います。同時に、神武陵は平城京遷都の時代も、同位置であった事が分かります。霊廟をみだりに移動したり、都合に合わせて変えたりするのはためらわれた時代だったのでしょう。
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では、第二次平城宮の祭祀線は、どうなっているでしょう。「続・あおによし奈良の都は」を見てください。

また後で
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by tizudesiru | 2012-04-08 01:23 | 63あおによし奈良の都は | Comments(0)

石舞台と藤原宮

石舞台と藤原宮
 明日香と言えば、石舞台古墳・飛鳥寺(法興寺・元興寺)・板蓋宮・入鹿の首塚が浮かんできて、歴史に翻弄された人々への思いが深くなります。中でも、石舞台古墳(蘇我馬子の墓「桃源墓」と言われています)は、その天井の高さと石の大きさに驚き、無常感さえ覚えたものです。ところで、この時代は、持統天皇だけでなく蘇我氏の血を引く天皇がほとんどです。馬子の妹・娘たちは、ことごとく天皇皇族の后になっているからです。持統帝は、馬子の曾孫です。藤原宮を造営する時、蘇我氏関連の寺社・墓はどうなったのでしょう。
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大きな方墳だったかもしれない石舞台古墳は、見事に墳丘の封土がはがされています。力のある人物の指示で成されたのでしょう。この古墳から西に黒ラインを伸ばすと、与楽鑵子塚古墳にあたります。聞き覚えのない名称です。
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 この古墳は、6世紀後半の径24mの円墳のようです。発掘はされていませんが、横穴式石室が確認され、その玄室の大きさから強力な権力をもった氏族の墳墓と考えられています。ちなみに玄室の長さ4・15m、幅3・15m、高さ4・5mです。
 近くに与楽カンジョ古墳があります。ここは、石室の天井が石舞台古墳より高い5・27mだそうです。ここには、ミニチュア炊飯具の副葬品があり、それは渡来系の古墳に多く見られるものだそうです。
 さて、ここから北東にラインが上ります。
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 ここは、持統天皇の病気平癒を願って、天武天皇のとき建立が始まった「薬師寺(址)」です。天武帝崩御後持統帝が引き継ぎ、698年には完成していたようです。平城京遷都のとき、移築されたそうです。今の薬師寺と大きさ ・柱の間隔など同じであることから完全移築でしょうか。建物が少し残されたということですが、ほとんどは移築されたのでしょう。
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そして、黒ラインは藤原宮に届きました。次は、東側の黒ライン。石舞台古墳とつないでみました。
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飛鳥寺(法興寺・元興寺)を通ります。こうして、大きな三角形が出来るのです。
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色をピンクに変えました。このラインが藤原宮で大事にされたかどうか、分かりません。草壁皇子が薨去され、文武天皇が崩御されたこの都を、元明天皇がどんな思いで見ておられたのでしょう。完成間もない都を去る人々の思いも、様々であったことでしょう。

 この様に、藤原宮の祭祀ラインは三角になっているようです。それは、平城京にも受け継がれたのでしょうか。平安京には受け継がれていました。 
では、また後で
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by tizudesiru | 2012-04-05 11:29 | 62石舞台古墳と藤原宮 | Comments(0)

高松塚古墳の被葬者

高松塚古墳の被葬者は草壁皇子
 この結論に疑問を持つ方のために、もうひとつ、その理由を紹介します。
 
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上の写真は、高松塚古墳と文武天皇陵です。文武天皇陵のピンクラインは、天武天皇につながっています。少し南北ラインが傾いています。文武天皇陵と高松塚古墳を結ぶと、800m北西の古墳に届きます。ここは、欽明天皇陵となっています。しかし、本当の欽明陵は、見勢丸山古墳だというのが最近の説のようです。どちらでしょう。もしかしたら、見勢丸山が造営される間、仮に埋葬されていたのかもしれません。ともかく、欽明陵とされています。
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この欽明陵は、天武陵と並んでいます。文武陵・高松塚・欽明陵は、近い上に赤いラインでつながっていますから、まったく無関係ではないでしょう。
 高松塚古墳の石室の上を黄緑ラインが横切っていますが、これが問題のラインです。高松塚から南西に下りています。ラインの先にあるのが、岡宮古墳です。
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この岡宮古墳は、草壁皇子の陵墓と伝わります。この岡宮古墳を起点にして、北東方向にラインが上ります。ラインは高松塚を通過し、岡寺に着きます。
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写真を見ると、岡寺は画面の右端です。黄緑ラインが届くのは、治田(はるた)神社。実は、この神社が、現在の岡寺の前の「岡寺」です。ここは、草壁皇子が幼少期を過ごした「岡の宮」だそうです。1661年から1667年に描かれた絵図からも、岡寺が治田神社の辺りであったとわかるそうです。金堂・講堂・塔跡などが描かれているそうです。また、神社の敷地に基壇跡や礎石が残っているそうです。発掘の結果、確かに岡寺は治田神社にあったのです。
 これで、お分かりだと思います。
 草壁皇子は、薨去後に「岡宮古墳」に埋葬されたと思います。その後、皇子を愛する母持統天皇により、改葬されたのです。新益京の造営にあたり、草壁皇子を耳成山の南に祀る事にされたのです。神となった皇子の遺体を、何らかのしきたりに従って移されたのでしょう。その祭祀の跡が、黄緑ラインとして残されていると思います。「草壁皇子が過ごした宮と、埋葬された陵墓と結んだラインに、北の耳成山の山頂からラインを下ろし、その交差点に石室を造営した」そうなります。草壁皇子が新しい都を守るにふさわしい存在であった事も分かります。
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 更に、前回の「藤原宮の守り」を思い出したください。耳成山・橿原神宮・大官大寺の三角形のラインのうち、東側の耳成山・大官大寺ラインの方が長く伸びると紹介していました。そうです。大官大寺側のラインは、元「岡寺」つまり、治田神社に届くのです。見事に草壁皇子の宮址と結ばれました。
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画像が小さいので見えにくいですが、大官大寺と治田神社のつながりが分かると思います。
 持統天皇の新益京は、草壁皇子の霊力をかりて造られたのです。持統天皇が退位され、文武天皇が崩御されると、皇后(元明天皇)が即位されました。そして、710年平城京遷都となり、藤原京の時代は終わります。
 前回と今回の祭祀ラインからの結論ですが、「高松塚古墳の被葬者は、草壁皇子」となるのです。

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by tizudesiru | 2012-04-04 23:07 | 61高松塚古墳の被葬者 | Comments(0)

藤原宮(新益京)の守り

藤原宮の守り
 持統4年(690年)に着工された藤原京に、694年飛鳥浄御原宮から遷都。完成は704年といわれる。
持統・文武・元明の三天皇が住まわれた16年間、ここが首都だったのです。710年平城京遷都まで。
 日本書紀には、「藤原京」は、出てきません。「新益京あらましのみやこ・あらましきょう、しんやくきょう)」と書かれています。最近読んだ本で知ったのですが、耳成山など飛鳥三山を取り込んだ大変大きな都です。その本にも、天武陵が朱雀大路の南に来ると書かれていました。大変うれしくてそのページをコピーしました。 
 それでは、学術用語としての「「藤原京」」の守りを見てみましょう。藤原宮は、耳成山の南に造営されました。
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耳成山から三本のラインが出ています。東西に黄緑ライン、中央に紺ラインです。紫ラインは、京都の天智天皇陵から天武天皇につながるラインで、既に紹介しました。 
 さて、西側の黄緑ラインは、藤原宮から御神木神社・生国魂神社を通り、橿原神宮に至ります。橿原神宮から東に進むと、大官大寺址に届きます。
 東側から伸びる黄緑ラインですが、藤原宮から大官大寺址を通り、飛鳥座神社(式内社 明神大)を通り、岡寺の治田神社に至ります。東側のラインの方が長いです。ですから、バランスを考えるなら、耳成山・橿原神宮・大官大寺の三角形を基本としていたのかもしれません。しかし、耳成山から南下する紺ラインは、まっすぐ高松塚古墳に届くのです。ここの被葬者が誰なのか、大変な話題になりました。この地図上の関係でいえば、新益京が造られる以前に亡くなった高貴な方となります。天武陵は天智陵とつながって、藤原京の中心ラインを造っています。そうなると、天武・持統天皇の皇太子、草壁皇子以外に考えられません。高松塚古墳の被葬者は、地図上では草壁皇子です。
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新益京の大体の位置です。
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草壁皇子=高松塚古墳
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文武天皇の陵墓は、天武帝の南にはなりますが、真南には少しずれます。こんなに近いのに主軸線がずれるのは、何か意図があるのでしょうか。文武帝の不思議も本で読んだことがあるので、少し気になります。

藤原京には、まだまだ沢山の仕組み・仕掛けがあるようです。
また、後で
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by tizudesiru | 2012-04-04 13:59 | 60藤原京の守り | Comments(0)

続石上神宮の視線

石上神宮の北と南
 大型古墳とつながった石上神宮。他の古墳群との結びつきはどうなっているのでしょう。そして、寺社とのつながりはあるのでしょうか。
北へ伸びる赤ライン
 石上神宮から北へ上る赤ラインと、南へ伸びる赤ライン。この赤ライン二本は、連続して引いたものではありません。まず、北上する赤ラインから見ましょう。
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 ラインは、弘仁寺の敷地を通るようです。弘仁寺は、高野山真言宗の寺院です。814年嵯峨天皇の勅願により、空海が創建したと伝えられています。807年、この地に明星が落ちたので空海が「神聖な土地」として寺を建立したとか。一説には、小野篁が創建者とも。弘仁とは、嵯峨天皇在位期の元号です。
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 弘仁寺から北上すると、春日大社と春日山の間を通過します。
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 更に北上して、滋賀県大津市の三井寺に着きます。三井寺は、長等山園城寺といい、壬申の乱に敗れた大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、子の与多王(よたのおおきみ)が田畑屋敷を投げ打って建立を発願した寺です。686年、天武天皇が建立を許可し「園城寺」の勅額を与えたというのです。以来、大友氏の氏寺となっています。
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 9世紀になって、密教の奥義を伝授された円珍が唐から帰国後、三井寺に入り寺を整備しました。円珍の母は空海の妹か姪だそうです。では、空海の「都守護・国家守護」の方法を熟知していたかもしれません。円珍は、没するまで24年間天台最高の「天台座主」の地位にありました。24年間に様々な事をしたでしょう。その中で、園城寺は国守りの重要な地位を得ていったのではないでしょうか。石上神宮と南北につながるのですから。
南へ伸びる赤ライン
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石上神宮から南下する赤ラインは、崇神天皇陵墓・景行天皇陵墓を通り、若桜神社に至ります。実は、この神社の摂社「高屋阿倍神社」が式内社(明神大)です。以前は、ここより400m南の松木山にあったのですが、かなり以前に移座されたようです。
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 若桜神社からラインを更に伸ばすと、桜井市の古墳に当たるようです。古墳だらけですからね。
南へ伸びる緑ライン
 石上神宮から緑ラインが南下します。赤ラインと並んでいます。手白香皇女陵墓・崇神天皇陵墓・景行天皇陵墓を通り、桜井市のメスリ山古墳に至ります。
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手白香皇女は、欽明天皇の母となった人でしょうね。継体天皇の皇后です。
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崇神天皇・景行天皇の陵墓はこんなに大きいのに、「陵墓を守る陵戸などがいなかった」と、本で読んだ記憶があります。特に、景行天皇は印象に残ったのです。有名な天皇だし、日本武尊の父だし、不思議な気分になったのです。
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 さて、このメスリ山古墳ですが、古墳時代前期のもので大王に並ぶ副葬品を持つそうです。藤原宮と並ぶようですが、皇居と並んでいるのではないようです。この古墳の不思議さは、記紀をはじめ「延喜式」などの、何処にも陵墓としての伝承がない事です。最近、ここの出土物が国の重要文化財に指定されたそうです。
メスリ山古墳については、また後の「メスリ山古墳の謎」でお話します。
 ひとまず、石上神宮をまとめましょう。石上神宮は、何処を見ていたのか。そこは、大山古墳であり、履中の古墳であり、崇神の古墳であり、景行の古墳であり、メスリ山古墳であるわけです。この古墳の被葬者は、仁徳とか、履中とか景行とか、超有名大王とされています。そのことは、素人にはわかりません。後の人が決めた事ですから。、そのことを含めて、祭祀ラインから何か分かるかもしれないではありませんか。石上神宮の主祭神「布都御魂大神」は、剣に宿る神霊のことで、剣を振り下ろす時の「ふっ」という音だそうですね。石上神宮がいつから現地に鎮座していたか分かりませんが、古墳との関係で言うと、南のメスリ山古墳が4世紀なら、その頃にはあったということでしょうか。弥生の遺跡が少ない畿内に、大型古墳が4・5・6・世紀に爆発的に集中する事は何を意味するのでしょうか。労働力とそれを支える食糧を計算しなければならないでしょう。人口集中はどうして可能になったのでしょうか。
 また、メスリ山古墳に見られるような、大型円筒埴輪を焼き続ける事、その技術の保持者を他の地域に頼らなければ急に集める事は出来ないはずです。一つの古墳に必要な埴輪を焼くには何年もかかるでしょうし、技術者集団がいても、いくつもの古墳を同時に受けもつことは大変だったでしょう。大型古墳の埴輪の量も計算して、燃料の確保と原料の確保とそれを運ぶ労働力も考えなければなりません。
 更に、多くの労働者を動かす強烈な推進力、指導力も必要です。文字がまだ浸透していないとされる時代に、口頭のみでそれが可能だったのでしょうか。何か、新しい発見がなければ、解き明かせない真実があるように思えてなりません。

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by tizudesiru | 2012-04-02 15:46 | 59続石上神宮の視線 | Comments(0)

石上神宮は何処を見ているのか

西を見る石上神宮
 七枝刀で知られる石上神宮。別名には、石上坐布都御魂神社・石上振神宮・岩神大明神など。このほかにもあります。地元では『いわがみさん』とも呼ばれていたようです。石上郷にある布留山の西北麓に鎮座し、古い歴史を持つ神社で、物部氏が祭祀し、布都姫という斎宮がいたそうです。伊勢神宮の古名が「磯宮いそのみや」ですから、どこか「石上いそのかみ」に似ていますよね。
 主祭神は、布都御魂大神(布都御魂剣)。この剣は、武甕槌と経津主の二神が葦原中国平定に使った剣で、神武東征では熊野で神武天皇が使った(危機に陥った時、夢に天照大神と高木の神、建御雷神が現れ、高倉下をとおして手に入れた)剣です。
 そうすると、神武天皇は、の文化圏からこの地に来たという事ですね。天照大神も高木神も文化圏の神でしょうか。

 
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石上神宮を見てみましょう。ピンクライン・水色ライン・白ラインが西側に伸びています。赤ライン・緑ラインが南北に通っています。
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 東に伸びるピンクラインは、越智神社(式内社 明神大)を通過し、住吉大社(式内社 明神大)に着きます。
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 水色ラインは西側にのびて、、城山古墳の後方部をかすめ、高塚山1号墳を通り、大塚山古墳を横切り、丹比芝籬宮址を通り、大山古墳に届きます。
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 ちなみに、大山古墳の隣の履中陵と石上神宮をラインでつなぐと、間に河合町の大塚山古墳や、中津姫陵古墳(応神天皇皇后)を横切ります。青ラインをみてください。
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 白ラインは、式内社とずれたのでなしにします。それで、別の白ラインを引きました。それは、石上神宮から、南西におります。大和神社(式内社 明神大)を通過し、耳成山山頂に届きます。そのあとも伸びて飛鳥の古墳に届きますが……
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 こうしてみると、石上神宮は、かなりの大型古墳と結びつきます。他の式内社にない特徴です。この神社が古い歴史を持っている事を示しているのでしょう。また、剣を御祭神としている事からも、文化圏とのつながりを無視できないでしょう。
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by tizudesiru | 2012-04-01 22:26 | 58石上神宮の視線 | Comments(0)


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