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天智天皇陵墓と天武天皇陵墓

天智天皇陵と天武天皇陵
 歴史上とても有名な二人の天皇です。また、弟の天武帝のほうが年上だったとか、天智帝は暗殺されたとか、噂の絶えない天皇でもあります。では、二人の関係を地図で見てみましょう。
 天智天皇は平安京の守り神として陵墓が造営されていると、カテゴリ「50醍醐天皇の都の守り」に書いています。その天智帝の陵墓から南に紫ラインを下ろしてみました。
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 この紫ラインは、皇室・藤原氏と関係の深い山科にある歓修寺を通ります。この歓修寺は、醍醐天皇が早く亡くした母のために私邸を譲り受けて造営した寺です。
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 そのまま南下し、黄檗宗万福寺に届きます。それから、宇治の平等院を通過します。
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 この後もどんどん南下し、ウワナベ古墳・コナベ古墳の間を通り、いくつかの式内社(小社)を通過し、藤原京に着きます。
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 更に、南下して天武天皇陵墓に至るのです。
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 天武陵には、持統天皇も合葬されています。
 この様に二人の天皇の陵墓を見ると、並々ならぬ結びつきを感じます。あの壬申の乱は何だったのでしょう。また、結びつきの深い天皇の陵墓は、何らかの結びつきを形・場所・方向で示しているということです。それは、8世紀の陵墓に対する考え方を教えてくれるのです。また、藤原京の南に天武・持統天皇陵墓があることは、都の守りに過去の有力統治者の霊力に頼ったという事でしょうか。
 8世紀には、都の形が方形になり、南北が主軸線となりました。それまでの墳墓は、南北に並ぶ例が少ないようです。しかし、いずれかの方向に並ぶことは、大王墓の大切な要素でした。そう言えると思います。
 「墳墓が並ぶ」この考えはいつから始まったか。それは「九州の弥生から」というのが、私が地図を見て出した結論です。
 九州では、山あてをしながら墓の位置を決めています。測量が難しかった時代ですから、高い処から眺め、山を目当てに墓の位置を決めていたと思います。
 その考え方の延長線上に、6世紀の古墳があると思います。

 さて、畿内の王墓の並び方はどうなのでしょうね。大山・履中陵は並んでいるようにも思えますが。ばらばらにも思えます。
 飛鳥の近くの陵墓の位置をみましょうか。
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地元のひとにしか分からない陵墓の言い伝えがあるでしょうし、知る人ぞ知る陵墓の意味があると思います。

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by tizudesiru | 2012-03-31 11:06 | 56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓 | Trackback | Comments(0)

大山古墳・被葬者の祀り方

大山古墳の謎
 なぜ大山古墳は、大きく造られたのでしょう。なぜ仁徳天皇陵墓とされたのでしょう。王権とのつながりはどうなっているのでしょう。墳丘墓はすでに盗掘されているそうです。それも、盗掘者などには持ち運べないほどの大石を、堺の政所の庭石にしているとか聞きました。もし、そうであれば、盗掘したのではなく堂々と持ち出したのですね。時の権力者(豊臣秀吉)が。誰も止める事が出来なかったのですね。関白の官位をいただいた秀吉が、天皇家の陵墓を破壊出来るでしょうか。大山古墳は、本当に古代天皇の陵墓でしょうか。
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 大山古墳(仁徳天皇)・履中天皇古墳は、二つの式内明神大社に挟まれています。これは、両側からその霊力を封じようという事でしょうか。北を上にせず、少し地図を斜めにしてみます。
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写真で見ると、明らかに巨大古墳の墳丘墓を、大鳥神社と大依羅神社が挟んでいます。両式内社は、はたして如何なる役目を背負っているのでしょう。霊力を封じるためならば、この古墳の被葬者は、天皇家と直接のつながりはないことになります。両古墳から霊力をもらって、国守りの仕事をしているのなら、いずれかの古代天皇の陵墓ということになります。大鳥神社について、もう少し情報が必要ですね。

大鳥大社・式内社(明神大)
 元来の祭神は「大鳥連祖神おおとりのむらじのおやがみ」だったようですが、「大鳥」と「白鳥」が結びついて「日本武尊」を祀るようになったそうです。(日本武尊は、皇子でありながら「崩御」として取り扱われている不思議な存在です。仲哀天皇は日本武尊の御子です)
 大鳥連は中臣氏と同じ祖神(天児屋命)を祀っていたそうです。ですから、大鳥連祖神は、天児屋命となります。

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by tizudesiru | 2012-03-30 23:48 | 55大山古墳の謎 | Trackback | Comments(0)

空海の霊力=都の守り

 平安京を守ったのは、神か仏か
空海の霊力
 空海(774年~835年)は、弘法大師として知られていますが、これは、921年醍醐天皇から贈られた諡号です。延喜の治として知られる醍醐天皇が、空海の死後80年以上もたって「大師」を贈られているのです。空海の霊力に、大きな期待をされたのです。醍醐天皇は、菅原道真の祟りに苦しんでおられましたから。祟りを払いのけて、都の苦しみをその霊力で救ってくれると信じられたのでしょう。同じ921年は、筥崎八幡宮に「敵国降伏」の辰筆を与えられた年です。このことはカテゴリ「筥崎宮から見える太宰府天満宮」に書いています。「大師」も「敵国降伏」も醍醐天皇の意思でしょう。
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天皇家の尊崇篤かった加茂別雷神社から、桜色ラインが伸びています。このラインは南下し続け、二条城を通ります。この城は、京都を見張るために、江戸幕府がつくった建造物です。大事な加茂別雷神社ラインに割り込んでいます。これは、後世の江戸幕府の意思と言わざるを得ません。家康は、仏教界に対して宗教統制をしました。関東真言宗古義法度、東寺・醍醐寺・高野山学侶方にも法度が出されています。
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 やがて、桜色ラインは、東寺に届きます。東寺は「平安京鎮護」のため、嵯峨天皇より空海に下賜された寺です。「教王護国寺」という名称は鎌倉時代に使われたものらしいです。今は、初めの東寺に変わっているはずです。また、空海の時代から明治まで、宮中でおこなわれていた行事「後七日御修法ごしちにちみしほ」は、明治以後ここで行われています。真言宗最高の秘儀だそうです。ちなみに、東寺の五重塔は徳川家光の寄進によるものです。仏教統制をおこなった幕府の意図を思うと、何やら空海の霊力を断つためのものではないかとと憶測しますね。
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桜色ラインは、更に南下して城南宮に着きます。城南宮は式内社ですが、小社です。ですから、もともと加茂別雷神社のラインがここまでつながっていたか、はなはだ疑問です。しかし、城南宮は「方除の大社」として有名です。この地にあった式内社「真幡寸神社」(城南神)を、白河天皇が「鳥羽離宮」を造るときその一部に取り込んだそうです(代々の天皇・上皇が行幸されたとか)。京都御所の裏鬼門を守る神とされたことから、方除け、厄除けの神として信仰されたそうです。
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 加茂別雷神社からの桜色ラインは南下して、二条城を通り、東寺を通り、城南宮にあたりました。このラインの霊力・威力を信じた人々が浮かんできました。もちろん、醍醐帝を筆頭に。
 式内社にたくされた願いがかなりはっきりしてきました。式内明神大社は、平安京を守る神社です。そして、仏教も大きな役割を果たしています。重要ラインに多くの寺が連なるわけです。また、そのラインの霊力を断つために、城を建築したり、対抗する寺社を造営したりする事もわかってきました。
 




 中学時代、JRを使って京都に修学旅行に行った時、東寺の五重塔をみて感動したものでした。今は、気を付けていないと、塔を見逃してしまいます。京都のシンボルを失った感じで、何度出かけても京都駅でがっかりします。塔が見えないことなんか、京都の人には、どうでもいいのかな…そんな事はないでしょう。やはり千年の古都を守りたいと思ってるはずです。
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by tizudesiru | 2012-03-30 00:36 | 53空海の霊力 | Trackback | Comments(0)

出雲大社と熊野大社の絆

出雲大社と熊野本宮大社
 出雲大社(杵築大社)は、日本書紀に登場します。斉明天皇5年(659年)出雲国造に命じて、大社を造営しています。このころの祭神は、オオナムチノ命(大国主命)だったそうです。鎌倉時代には、スサノウノ命になり、17世紀に出雲国造家の申し出が認められ再度大国主に変わっています。平安時代に「出雲太郎・大和二郎・京三郎」と詠われたそうで、大和の大仏殿より大きな建造物があったようです。
 本殿瑞垣内の社
主祭神は大国主ですね。他の瑞垣内の社は、下記の通り
・大神大后神社(大国主の正后・須勢理毘賣
・伊能知比賣神社(大国主の蘇生を行った二人を祀る)
・神魂御子神社(大国主の妻、宗像三女神の一人、多紀理毘賣*「筑紫社つくしのやしろ」ともいう
・門神社(回廊八足門内の両側にあり、本殿を守護する)
 出雲大社は、筑紫との関係が深かったようですね。しかし、10世紀には近畿との結びつきが深まるのです。
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日本書紀でも「出雲古根が筑紫に行って留守の間に、弟が出雲の神宝を近畿に差し出したので、帰ってきた古根が怒って弟を殺した。が、そのことで、古根は吉備津彦に討たれた」事が書かれています。出雲風土記にも同じような話があります。とにかく、地図に戻りましょう。東に進むピンクラインは、出石神社に、南に伸びるラインは伊予神社に届きます。どちらも、式内明神大社です。
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伊予神社から東に伸びる青ラインは、熊野本宮大社に届きます。
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偶然と言えば、それまでですが。熊野本宮大社から北に伸びる緑ラインを見ましょう。北へ昇りつめ、福井県の若狭媛神社にあたります。ここも式内明神大社です。若狭彦神社は、若狭姫神社のラインの南になります。そろって式内社・明神大社です。画面に若狭彦と入れてしまいました。
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若狭媛神社から西へ向かう紫ラインがあります。それは、出石神社に行きつきます。
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 このように、出雲大社・伊予神社・熊野本宮大社・若狭媛神社・出石神社を結ぶと、大きな四角形が出来るのです。いずれも、明神大社です。偶然とは言い切れません。10世紀には、こうした神祀りが可能だったと言えると思います。そして、四角形に意味があったのでしょう。

 また、出雲大社の祭神を熊野に勧請したという伝承もありますから、出雲神の霊力を頼り、畿内の南の本宮大社に祀って、国家安泰を祈願したという事でしょうか。
 そうして、出雲と畿内は結びつき、筑紫との縁は断たれた事になりますね。
しかも、出雲・伊予・熊野本宮・若狭媛・出石の五社は、それまでの地域の伝統や結びつきを捨て、近畿の神祀りの組織の中に取り込まれたことになります。
 ところで、東西に並ぶとか、東西に相対しているとか、国守りの山・神社とか、どこかで聞いたと思いませんか? そうです。九州の弥生・古墳時代に多く出した言葉です。つまり、九州の弥生・古墳時代の文化が、やや形を変えて、近畿まで広がっているのです。九州では、東西の方向が、重要視されたようです。特に、神籠石の並び方を思い出して下さい。神籠石が単に山城としてだけでなく、神祀りの場としての役目を果たしていた事になりますね。

 じつは、まだまだ、あるのです。こうした式内明神大社の鎮座地の不思議が。

 じゃあ、もう一度、都の守りを見てみましょう。また後で、お会いします。


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by tizudesiru | 2012-03-29 11:05 | 54出雲大社と熊野本宮大社 | Trackback | Comments(0)

伊弉諾神宮の不思議

淡路国伊弉諾神宮の不思議何も考えず、次の写真を見てください。伊弉諾神社の位置を説明しています。
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すごいです。(東)伊勢神宮 (西)対馬の海神神社 (南)淡路の譲羽神社 (北)兵庫県の出石神社 そして、(北西)日御崎神社 (北東)長野県の諏訪大社 (南東)熊野那智大社 (南西)宮崎県の高千穂神宮
 上記の有名神社にラインが当たるというのです。やってみましょう。
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白ライン・南(譲羽神社)
赤ライン・東(伊勢神宮内宮)
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黄色ライン・北東(諏訪大社)
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ピンクライン・西(海神神社)
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オレンジライン・北西(日御崎神社)
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出雲大社にもラインが当たりそうに思えますが、拡大するとラインから離れています。このラインは、日御崎神社ではなく、出雲大社に向かったすれば、少し事情が変わります。
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水色ライン・北(出石神社)
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紫ライン・南東(熊野那智神社)
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青ライン・南西(高千穂神宮)
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 この様につながります。しかし、どうしてラインがつながるのか、私にも理解できません。何処までもラインを伸ばして、ラインに当たる神社名をあげることは可能だからです。
 しかし、発見がありました
明神大社が包む長方形
 出雲大社・熊野本宮大社を取り込んだ、醍醐帝の願いが見つかりました。出雲大社を見ると、南(水色ライン)と東(ピンクライン)に向かうラインが分かります。ピンクラインは、出石神社にあたり、水色ラインは愛媛県の伊豫神社にあたります。いずれも式内明神大社です。
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伊予神社は、他にも候補地がありますが、ここが有力です。
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出石神社は、これからも度々登場する式内明神大社です。
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このラインの全貌は、次にまとめます。
 10世紀、延喜式の「名神大社」は、大きな国家的戦略のもとに定められました。明神大社により守られる地域こそ、10世紀の為政者が重要と考えた地域なのです。それまでの権力者の歴史や信仰を取り込み、平安京に在位される天皇のために新しく神祀りを造り変えたのです。まさに、辛酉の年を契機にはじめられた大事業でした。
出雲大社と熊野本宮大社の絆をどうぞ!




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by tizudesiru | 2012-03-29 00:31 | 52淡路国伊弉諾神社 | Trackback | Comments(0)

伊勢神宮は国守り?

お伊勢様は何処を守っているのでしょう
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伊勢神宮は式内社ではありません。それに、伊勢の式内社のうち明神大社は、阿射加神社と多度大社だけと思います。志摩国には、明神大社はありません。
 伊勢外宮に赤ラインが届いています。これは、真東の式内社から届いたものです。起点にあるのは、淡路島の伊弉諾神宮です。延喜式では、淡路国津名郡「淡路伊佐奈伎神社」、明神大社です。
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 ここを起点にして、東に伸びている赤ラインが、伊勢の外宮に届きます。北東に伸びたピンクラインは、滋賀県甲賀市の式内社(明神大)川田神社を通過し、三重県桑名市の多度大社に届く感じです。グーグルの写真が不鮮明ですから。多度大社は、式内社(明神大)、伊勢国桑名郡「多度神社」です。
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 さて、淡路の伊弉諾神宮から南東に伸びるラインは、実は、熊野に届きます。それも、本宮大社です。もちろん、本宮大社も式内社(明神大)です。
 オレンジラインは、途中で式内社(明神大)のそばを通り、本宮大社に届くのです。
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本宮大社は、もとは河原にあったそうですが、洪水で流されたので、現在地に移されたそうです。オレンジラインを河原まで伸ばしてみました。
 熊野本宮大社も式内社なのに、伊勢神宮(内宮)は違う……つまり、伊勢の内宮は「国守り」神社ではないというのでしょうか。それとも、「日本」全体を守っているのでしょうか。または、皇室の方々をお守りしているのでしょうか。「天照大神の鎮座地」を求めて、あちこち探された倭姫のお宮(倭姫神社)にも行きましたが、巫女さんから「鎮座地を求めて各地を放浪された倭姫の御苦労を思い、明治になって地元の人が造ったのが、倭姫神社です。だから古くはありません」と教えてもらいました。新しいお宮だったのです。
 伊勢神宮は、日本書紀にも万葉集にも何度も出てくる神社です。地域の式内社は、ほとんど名前も知りませんが、「伊勢」はよく聞きます。そして、今回改めて知りました。伊勢神宮は、どんな式内社ともかかわりを持ちません。しかも、皇室の尊崇を集めています。
 伊勢神宮の天照大神は、本当は何処をみておられるのでしょう。

続きは「57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ」を見てください。ここで、伊勢神宮と寺社との関わりについても書いています。

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by tizudesiru | 2012-03-28 00:07 | 51十世紀の国守り | Trackback | Comments(2)

醍醐帝の都を守る式内社

10世紀の都の守り
醍醐天皇の時代に成立した延喜式により定められた式内社。その中で、明神大社として手厚く奉幣を受けた神社があります。その神社は、どのように都を守ったのでしょう
 土地に住む人にしか分からない微妙な社格の違いなど、旅行者には分かりません。しかし、心に残った神社や寺の由緒を知るのは楽しいものです。そして、地図を開いてみて、「あれ?」と思う発見があるのです。少しお知らせします。もちろん、その土地に住む人の歴史観や知識にたいして、余計なことを言うつもりはありません。
以外に遠い貴船神社
 貴船神社は京都左京区にありますが、ちょっと駅から遠いです。でも、ここはすごく重要な位置にあります。
 延喜式には、山城国愛宕郡貴布祢神社とあるらしいのですが、都より離れた山深い処にあった神社です。
ここから南にラインを伸ばすと、京都御所の上をラインが通過します。そして、はるか南、広瀬大社までラインが届きます。大和国広瀬郡「広瀬座和加宇加売命神社」と称されたようです。離れた位置から御所を守っているのです。
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(京都御所)
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南北ラインは御所を通るので、分かりやすいです。
 次は、都の北(北区)、加茂別雷神社からのラインです。
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天皇・皇室の尊崇篤かった上加茂神社から、黄色のラインが二本でています。右は、西京区の松尾大社に届きます。乙訓郡(西京区)松尾神社と称されました。もとは、秦氏の守り神だったそうです。酒造の神様としてよく知られています。
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対する左の黄色ラインは、山城の天智天皇陵墓に届きます。平安京が造られた時、天武天皇の血統から天智天皇の血統に変わったことを示したかったのでしょうか。この地に、天智天皇の陵墓を定めたのは、どなたでしょう。政治的なにおいがしますね。
更に、松尾大社と天智帝陵墓は、東西の関係になります。並んで、大事なところを見ておられるのでしょう。
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都は、きれいな三角形で包まれています。
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 こうしてみると、式内社はやはり国守りの神社ですね。

 

まだまだ続きますが…

 



また後で
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by tizudesiru | 2012-03-27 17:01 | 50醍醐天皇の都の守り | Trackback | Comments(2)

宮地岳古代山城=阿志岐山城

宮地岳古代山城を見ました。
筑紫野市の阿志岐山城です。筑紫野市では見学コースに足場を作り、山道に蓆を敷いて、バスで二日市駅から送り迎えして下さいました。現地案内の人もいて、大変ありがたい見学会でした。地域の方より豚汁まで御馳走してもらいました。国指定史跡になった記念の事業だそうです。宮地岳は何度も行きましたが、山城には出会いませんでした。今回は、大変楽く興味をそそられる催しに出会えてうれしかったです。
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私も写真を撮りました。杉木立の奥の崖が土塁
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第3水門の石塁。石積みを石塁というそうです。
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石を切り欠き加工して積み上げています。
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階段状に少しずつ石をずらしながら積み上げています。この工法は、後の時代には使われなかったので、ここが古代山城と決まったそうです。
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版築で作られた土塁の上を通りました。急な斜面が土塁です。崩れやすい処は粘土質の土。そうでないところは、水はけのいい土を使っているそうです。
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列石の下に長い石が敷かれています。敷石が見られるのは、この阿志岐山城だけだそうです。韓国(百済にも・新羅にも)列石の下に敷石が見られるそうです。
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列石が露出しています。
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この土塁は9mの幅があり、土塁の南北に列石があります。斜面の列石は片面のみで、列石の上に版築の土塁が築かれています。しかし、ここは土塁の両面に列石があります。ここは、出入口があったようです。北の高雄山に
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向いています。
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この斜面には、きれいな列石があるそうです。下の平野から見上げた時、きれいに見えるように作られているそうです。高雄山側から見たら美しいように出来ているのです。
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この斜面は、阿志岐山城が発見された地点です。この列石を見つけた人の喜びは、どんなものだったでしょうね。
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崩れた敷石の奥に、水はけを良くするために使われた小石が見えています。
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第1水門。ここは、一番大きな谷になっているため、かなり流されています。残っている石塁が見られます。古代に築造されたまま残っているか疑問だそうです。
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三郡山地
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中央が宝満山です。
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阿志岐駅(あしきのうまや)は、木立の間の黄色にはげているように見える辺りです。万葉集にもある阿志岐駅です。ここは、交通の要衝でした。
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高雄山は、小高い丘です。
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二日市駅の近くから見た宝満山。きれいな笠の形です。三笠山とか、竈山とも呼ばれた山です。
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二日市駅近くから見た宮地岳。ここも三笠山と呼ばれるとか。 二つの三笠山が、大小で並んでいるのです。 不思議?ですね。
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筥崎宮・大城山・太宰府天満宮・宮地岳というラインの先に、阿志岐山城があります。
また、高良神籠石・宮地岳(阿志岐)神籠石・宝満山・砥石山・鉾立山と南北ライン上にある阿志岐山城。
阿志岐山城の西へラインをのばすと、糸島市には、雷山神籠石があります。
阿志岐山城は、7世紀の築造とパンフレットに書かれ、案内の方に説明も受けました。しかし、その根拠はまだないそうです。歴史書にも書かれていないし、手がかりになる遺物もまだないそうです。たぶん7世紀だろうという事でした。これから発掘するそうですが、決めてかかるのは問題かなと……思います。私は、地図で見る限りですが、7世紀より古いと思います。神籠石は、6世紀の古墳とつながっていますから。神籠石は、磐井の乱後、北部九州の勢力が互いに連絡し合って作ったものと思います。

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by tizudesiru | 2012-03-20 19:34 | 49宮地岳(阿志岐)古代山城 | Trackback | Comments(0)

高良山神籠石から謎が解ける

高良山神籠石から謎を解く
そうなんです。神籠石と式内社の謎が解けると思います。
 高良山神籠石と、延喜式神名帳に「高良玉垂命神社」と記載されている高良大社は、別の時代の建造物なのに、同じ敷地内に同居しているのです。それはなぜなのでしょう。高良大社の敷地を取り囲むように、神籠石の列石が存在するなんて不思議です。また、北側の列石が突然消失しているのは、天武地震(678年)によるものと言われます。そうすると、678年前に神籠石は作られた事になります。高良山のみならず、同じような列石を持った神籠石が、歴史に登場しないのはなぜか。重要な地点に建設され、多くの労働をかりだしたであろうに。高良山の西側の御井には国の役所も作られています。人の行き来のない山奥とは違います。生産力のある平地の近くに造られたのに、まったく忘れられている。それはなぜか。
 忘れられた理由があるはずです。
 
今まで紹介してきたことを重ねて考えていただくと、結論は自ずから現れてきます。
 6世紀前の北部九州には、国々が大きな連合関係にあった事。それが、磐井の乱後に崩れていったらしいこと。近畿の勢力が九州に入ってきたのは、磐井の乱後。
 7世紀半ばになって、太宰府に大宰府が作られたらしいこと。白村江敗戦後、再び九州の統制が重要になったのが、大宰府設置の本音です。
 10世紀醍醐帝の時代・辛酉の年になって、再、再度九州の神を封じなければならない状況が生まれました。天神として、畿内に災いを起こしたからです。筥崎八幡宮(式内社)の「敵国降伏」の辰筆は、まさに「九州の古代国家を真に降伏させたい」という願いの下に書かれたものでしょう。だから、10世紀になって、北部九州の神を封じるために式内社が設定されたのではないかということ……等々です。
 6世紀から10世紀にかけての政変が、繰り返し過去を消しました。それでも、残ったのが、首長墓・山岳・神籠石・いくらかの神社だったのです。つまり、6世紀の九州の地域連合は、神籠石からのラインや、有力首長の墳墓からのラインが地域の山岳と結びつくということで証明・象徴されるのです。そのことが、高良山神籠石・高良玉垂命神社(式内社)に集約されています。

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写真の神社マークが高良大社です。高良大社から、たくさんのラインを伸ばしています。本殿の裏には神籠石の列石が続いていますが、北側で突然失われています。敷地内には、式内社の伊勢天照御祖神社があります。「高良玉垂の神が、高木の神に一夜の宿を願ったので、高木の神が譲ったところ、玉垂の神が結界を張り居座ってしまった」という伝承もあり、高木の神は、麓に鎮座されています。では、ラインを見てみましょう。
 赤紫ライン(高良大社・筑紫野の宮地岳・宝満山・鉾立山)北へ上るラインです。宮地岳には古代山城址がありますが、誰が何のために作ったのか不明です。宝満山から西へ伸びるラインは、須玖岡本・吉武高木・飯盛山山頂・三雲南王墓・一貴山銚子塚と弥生の中期・後期の遺跡の上を通ります。福岡平野の中心の東西ラインです。その宝満山を通り鉾立山に届きます。鉾立山からも西へラインを延ばすと、香椎宮を通り、海の中道の大嶽神社に届きます。つまり、高良大社から北上するラインは、福岡平野の守りの主軸線とつながっています
 紫ライン(女山神籠石・高良山神籠石・寿命の王塚古墳
これは、寿命の王塚古墳からのラインです。女山と高良山の神籠石を結びつけています。寿命王塚は見事な装飾古墳です。国内最多の5色の顔料が使われ、玄室の手前に羨道・前室があります。奥壁に石棚、下部には石棺、前面に灯明台が置かれ、玄室入口の上部に子窓が開けてあり、石棺を覆う石屋形を持ち、棺床は二人を収納する場所が設置され、石屋形の外にも二個の石枕が置かれていました。文様は、騎馬像・同心円・三角文・わらび手文・双脚輪状文・靫・大刀・盾です。双脚輪状文を持つ古墳は希少。
 未盗掘の古墳だったため、馬具(鐙・轡など)鏡(変形神獣鏡)管玉・なつめ玉・切子玉・耳輪・銀鈴・大刀・鉾・刀子・鉄鏃など・高坏(たかつき)・提瓶(さげべ)等々
 6世紀半ばという古墳ですが、すごい出土品です。磐井の乱後、この古墳の主は二つの神籠石を守ったのでしょうか。 
 
 薄紫ライン(高良大社・平塚川添遺跡・古処山
 古処山は、羽白熊鷲の伝承の山です。神功皇后に敗れましたが、その墓なるものが甘木水の文化村に残されています。日本書紀に書かれている数少ない個人名です。古処山山頂からのラインが、平塚川添遺跡の端を通ります。平塚川添は、六重の環濠を持つ、弥生時代後期から古墳時代にかけての環濠集落です。もし、このラインが有効なら弥生の信仰の場(平塚川添遺跡)を意識して神籠石(高良山)を造った事になります。
赤ライン(高良大社・天神社・屏山)上記の薄紫ラインの古処山からのラインが有効だとしたら、古処山の隣の屏山からのラインも生きてきます。神籠石を造った人々は、古処山・屏山・馬見山と連なる三つの峰を信仰の対象にしていたことになります。馬見山は、幾度となく出てきた信仰の山です。
 青ライン(高良大社と英彦山をつないでみたら、釈迦ヶ岳が間に入りそうです)これは、なぜだか分りません。あえて、言うなら、英彦山が日子山であった時代、神籠石を支える山だったかもしれません。または、式内社としての高良大社を助ける山だったかも。そうなると、まったく逆の働きをしていたことになります。どうも、朝廷側に取り込まれたようにも感じます。
 薄桃ライン(高良大社・下馬場古墳・寺徳古墳・日ノ岡古墳)日ノ岡・地徳・(下馬場)の首長の墓は、神籠石を守るように並んでいると思います。しかし、式内社の高良大社が、その霊力を断ち切ろうとしている。古代の首長連合を阻止しているようです。
 ピンクライン(高良大社の真東の鷹取山)真東の山は、鷹取山。当然、高良山神籠石から朝夕祈りをささげた山でしょう。それは、弥生の福岡平野に見られたような信仰の山、春分秋分の日に太陽の昇る山です。鷹取山は、古処山とともに南と北で筑紫平野を挟んで相対してもいるのです。西を向いている高良大社は、鷹取山に背を向けています。式内社の時代に、鷹取信仰が消されたのでしょう。
 水色ライン(高良大社・矢部の釈迦岳・渡神山)釈迦岳は、福岡県でも英彦山と並んで高い山です。そして、渡神山・釈迦岳・御前岳の山頂は並んでいます。そのラインが高良大社に届きます。三連山のラインを断ち切るように、式内社としての高良大社は造られたと思うのです。神籠石につながる三連山は、6世紀の国守りの山だったはずです。
 黄色ライン(高良大社・阿蘇の中岳・高千穂神宮)
 これも、出来過ぎのラインです。式内社としての高良大社が、高千穂神宮と阿蘇山の力を封じたのかもしれないと思うのです。それは、古代の人が、煙を吐く火山を恐れていたと仮定してのことです。又は、熊襲の信仰の山として封じたのかもしれません。


 かって、高良山は久留米市街から常に見えました。メイン道路が高良山を向いているからです。そこに、筑後一ノ宮としての高良玉垂宮があるからです。そこは、長い間、人々にとって大切な場所だったのです。筑後の一ノ宮の玉垂宮は、人々の尊崇を集めました。中世には、大伴・島津・菊池など九州の武家も高良大社を支えました。西征大将軍懐良親王の陣も、高良山にありました。
 それは、10世紀も同じでした。高良玉垂宮は式内社となりました。筑前筑後の式内社は、古代の権力の否定を目的にしていました。 
 宝満山のイザナギ命を下ろし、玉依姫としたのは、7世紀の天智天皇でしょう。高良玉垂宮は、さらに宮地岳神籠石の霊力を奪い、宝満山を見据えます。そして、古代の耳納山地の信仰の山である東の鷹取山を封じ、西をにらみます。西にあるのは、小城です。そこに、高良大社が直視する城(神籠石)があるはずです。風土記には、「小城には土蜘蛛がいて、堡(おき)=城塞に隠れて抵抗したため、日本武尊により征伐された」と書かれています。この堡から小城という地名が生まれたとの事です。おき(城塞の意味)があったのは確かでしょう。
 渡神山・釈迦岳・御前岳のラインは、霊力を切る為か、逆に霊力を得るためか分かりません。このラインは、英彦山・釈迦ヶ岳と同じように、高良玉垂宮が自社の霊力を高めるために結んだラインかもしれませんが。 
 そして、日ノ岡古墳・王塚古墳・寺徳古墳など装飾古墳の首長たちの連合を断ち切っているようです。首長連合の仲立ちをしていた高良山神籠石の上に式内社が来て、本来の目的を覆しているのです。他の式内社も、同じでしょう。




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by tizudesiru | 2012-03-08 00:10 | 48神籠石の謎解き | Trackback | Comments(0)


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