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雲仙が守った首長は、誰?

雲仙と阿蘇に守られたのは何処?
雲仙からのラインは、次の通り
(1)・雲仙・帯熊山神籠石荒平山
(2)・雲仙・脊振山・宗像大島御嶽山頂
(3)・雲仙・女山神籠石岩戸山古墳
(4)・雲仙・三ノ岳・国造神社
(5)・雲仙・金峰山・小山諏訪神社・高岳
(6)・雲仙・健軍阿蘇神社・木山神宮・清水寺
(7)・雲仙・(真東)・草部吉見神社

赤ラインが3本北上しています。西側は、帯隈神籠石を経て、福岡市の荒平山に届きます。中央ラインは、脊振山を通り、宗像大社の中津宮がある大島の御嶽に届きます。東側の赤ラインは、宗像大社と結んでみましたが、何処にも当たりません。
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紫・白・黄緑・緑・赤の5本のラインがあります。
紫ライン
 このラインは、女山神籠石から岩戸山古墳につながります。既に、紹介しています。
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女山を横切る紫ラインが分かりやすいように、白を添えています。
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岩戸山古墳に南西から届いたのが、雲仙からのラインです。
白ライン
 雲仙から伸びて、三ノ岳に届き、阿蘇の手野の国造神社につながります。
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黄緑ライン
 雲仙から金峰山に届き、小山山と神園山の間の小山諏訪神社を通り、阿蘇の高岳につながります。途中の山頂神社は少しずれます。
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平地に二つの低い峰が並んでいます。その間から阿蘇が見えます。阿蘇へ一直線につながります。雲仙と阿蘇は互いに見えます。
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高岳が阿蘇の五岳では一番高いのです。
緑ラインこのらいんは、雲仙から外輪山の清水寺まで届きます。間に、健軍阿蘇神社と木山神宮を通ります。。
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赤ライン
雲仙の真東に当たるのが、草部吉見神社です。
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陵墓は、高千穂峰からこの地に入ってきた、彦八井耳命(日子八井命)のものだそうです。
 雲仙が守ってきたのは、国造神社関係の人でしょうか。清水寺は、国造神社・高岳山頂と一直線になると、「阿蘇町史」に書かれていました。町史を編纂した人も、高岳と一直線になることに驚かれたのでしょう。清水寺を外輪山中に尋ねた事があります。奈良時代創建の古刹だそうです。樹齢四〇〇年のナシの木があります。菩提樹だと聞きました。遠い昔、国造家の意向による祭祀場が此処にあったのでしょう。阿蘇地方で一番古い寺となる前に。
 雲仙・三ノ岳・国造神社とつながるのも、見逃せません。なぜなら、金峰山から阿蘇高岳につながるからです。阿蘇・雲仙の見える有明海を船で通れば、噴煙を上げる両火山が魔の山に見えるかもしれません。雲仙と阿蘇の噴煙が見える有明海は、まさに「地獄の門」だったに違いありません。隋からの使者が自分の紀行文に書いたとおりの景色。7世紀初頭、隋から来た文林朗裴清が、有明海を通ったとすれば、ですが。しかも、彼は阿蘇山のことも、阿蘇に住む人達の事も隋書に記録しています。6世紀の人々は、「隋書」にも書かれているとおり、理由失くして火を噴きあげる火山を恐れていたのです。では、阿蘇山は隋書にある「俀国」の人々を守っていたのでしょうか。筑紫城に住み、アワキミ(おおきみ)とよばれ、妻も太子もいた「天子」を。

 阿蘇から流れ出す白川流域の人々も、雲仙と阿蘇が東西に見える土地に住んでいる人々も、火の山を恐れたことでしょう。阿蘇神社の広がりを見ると、阿蘇の噴煙が見える範囲では神祀りをしたでしょう。しかし、肥(火)君が阿蘇君と同じように火山を祀っていたとは考えにくいです。江田船山古墳から、神社や古墳、山頂などで、阿蘇山に結びつくものが、今のところありません。「江田船山古墳の主は、女山や岩戸山とはつながっているので、彼は北部九州の方を向いている。金ではなく銀象眼太刀(国宝)を副葬していたことからして、小地域の首長です。彼は大王に仕え、八方ヶ岳・熊ノ岳・多良岳に守られた地域を支配していたのです。彼が典曹人として奉事していた大王は何処に住んでいたのでしょう。遠い畿内の雄略天皇となるのでしょうか。なかなか、そうは思えません。
また後で
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by tizudesiru | 2012-02-19 16:50 | 47雲仙が守った首長は、何処 | Trackback | Comments(0)

信じますか? 高千穂ライン

信じますか?高千穂ライン
これは、眉つばものでしょうか。私も少し疑っています。でも、面白いから紹介します。
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宮崎県の高千穂の高千穂神宮です。観光地になっていますね。ここに、ピンク・緑・黄色・赤ラインが集まっています。画像を大きくしたいのですが、ピンボケしてしまうので、ここで我慢してください。
緑ライン高千穂神宮からのラインは、下り宮として有名な草部吉見(くさかべよしみ)神社を通ります。阿蘇神社では、三の宮として大切にされています。
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この神社は、谷に下りるように階段が作られていますから、それを下りて社にお参りするのです。なんとも不思議な神社です。緑ラインはそのまま進んで、阿蘇高岳に届きます。山頂は広いので目印を二か所入れています。御祭神は、神武天皇の長男、彦八井耳命です。
写真は熊本県の紹介の写真を使わせていただきました。
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彦八井命が高千穂峰からこの地にいたり、宮居を定めようと占ったところ、「吉の池」が良いことになりました。が、この池には大蛇が住んでいました。この大蛇を退治し、池を埋めて一夜で屋根も壁も草で葺いて宮殿を立てました。壁がクサだったので、この地が「草部」と呼ばれるようになったそうです。
 大蛇が血を流しながら逃げたところを血引原(地引原)、最後に焼かれたところを灰塚と言うそうです。
 更に、彦八井耳命の弟、神八井耳命の子、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が天皇から「阿蘇を治めるように」命じられて、草部吉見に立ち寄り、彦八耳命の娘、阿蘇都姫と結婚します。
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緑ラインは、高千穂神宮・草部吉見神社・阿蘇高岳とつながるので、まんざら眉つばでもなさそうです。
ピンクライン
 高千穂神宮から、久住山につながり、唐原神籠石までつながります。
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「この辺」と文字を入れている辺りが、唐原神籠石です。高千穂からはるばる北上して唐原まで……です。まさかです。
黄色ラインこれは、高千穂神宮から阿蘇の火口を通り、何と高良大社に届きます。
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噴煙が上がっているところが火口です。
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何度も出てきた高良大社です。

この三本のラインは、スケールが大きすぎますね。
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by tizudesiru | 2012-02-18 20:57 | 46高千穂の峰から阿蘇へ | Trackback | Comments(0)

江田船山古墳と筑紫君磐井

江田船山古墳筑紫君磐井
 カテゴリ「神籠石から分かること(4)」の「女山神籠石の謎」で取り上げた「江田船山古墳」について考えてみたいと思います。
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 此処に、
 赤・ピンク・青・水色・黄色・桜色 
の6色のラインが集まっています。それぞれの行き先を見ましょう。
赤ライン
 海を挟んで、西の山に届きます。佐賀県の多良岳です。春分秋分の日に、江田船山古墳から見れば日が沈む山です。
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多良(たら)とはどんな意味でしょう。
ピンクライン
 このラインは既に紹介しています。北北西に伸びて女山神籠石を通り、福岡市の愛宕神社を通り、福岡市の志賀島の北の志賀海神社元宮に突き当ります。
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(女山神籠石の中心を通っています)
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(愛宕神社にきちんとあたっています)
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(志賀海神社の元宮・沖津宮にちゃんとあたっています)
 ピンクラインは、出来過ぎのラインです。ピンポイントで当たるなんて。愛宕神社は幾度も取り上げました。カテゴリ「愛宕山が見た早良国の光芒」で詳しく取り扱っています。志賀海神社は式内社です。博多湾側に移動したのは、式内社になったころでしょう。その頃、海の神以外の役わりが生まれたと考えられます。
青ライン
 これは、岩戸山古墳(筑紫君磐井の寿墓)からのラインです。江田船山古墳を通過し、熊本県の熊ノ岳に届きます。
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江田船山古墳のほうが年代が上がりますので、筑紫君磐井は江田船山の被葬者に熊ノ岳との仲を取り持ってもらったことになります。これもピンポイントでつながります。江田船山古墳は、国宝の銀象眼鉄剣で有名です。磐井は、江田船山の被葬者を尊敬していたのでしょうか。熊ノ岳にかかる紫ラインは、おつぼ山神籠石と井寺古墳を結ぶラインです。紹介済みです。
水色ライン
 江田船山古墳から出る水色ラインは、山鹿市街にある大宮神社を通り、菊池市の八方ヶ岳につながります。間に伝説の残る不動岩があります。
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大宮神社は、景行天皇の伝承がある神社で、山鹿灯篭でも有名です。
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八方ヶ岳は、熊本平野や菊池盆地など広い範囲から見える山です。たくさんのラインが集まっています。紫ラインは、女山神籠石から阿蘇の国造神社に通るラインです。
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女山神籠石は、幾度も取り上げました。
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阿蘇市手野にある国造神社の近くには10基ほどの古墳があります。地方豪族の「君」が「国造」(くにのみやつこ)となったのは、磐井の乱後だそうです。磐井が敗れた後、倭国は大きく変わったのです。阿蘇の国造神社に祀られたのは、磐井の乱後も勢力を保った豪族ということになります。磐井は肥(火)の君と姻戚関係を結んでいます。江田船山古墳のラインからみると、肥(火)ノ君の勢力は阿蘇地方ではなく、山鹿・玉名の辺りでしょう。芦北ノ君・阿蘇ノ君・肥ノ君などと熊本ではいくつかの勢力に分かれていましたから。江田船山の被葬者は大王につかえていました。「君」ではなく「おおきみ」です。その大王は、雄略天皇だそうです。そう聞くたびに、しっくり来ないのです。磐井の乱の前に、近畿の大王に典曹人として奉事していたのでしょうか。「治天下」と文字が彫られていた以上は、天下を治めていた大王がいた事は間違いないのですが。確かに、万葉集にも雄略天皇から詩歌が載せられています。万葉集が造られた時、雄略天皇は重要な歴史的人物だったのでしょう。
 
 磐井の乱から約130年後、万葉集の額田王の歌「にぎたづに船乗りせんと月待てば…」は、660年に滅びた百済を支援するため、662年斉明天皇が船出して九州に向かう時の歌と学校で教えられました。白村江戦の支援もほとんどできず、斉明天皇崩御。万葉集にはこの歌の説明に「征西」に船出したと書かれています。日本書紀も斉明天皇の九州くだりは「征西」です。同じ考えの下の表記でしょう。百済支援ではなく九州への「征西」だったと、どうしても思えるのです。
 九州には、「征西されるべき勢力があった」と思ってしまいます。
 白村江戦後に帰ってくる人々は、九州人です。捕虜となっていた筑紫君薩耶麻も帰ります。彼が倭国の王家の者だったかどうかは分かりません。しかし、他の学問僧や留学生と一緒に唐船で送られて帰ったのです。百済都督府からの使者郭務悰は、倭王への表函(上表文)を持って来ています。筑紫でそれを渡していますから、受け取られて畿内に送られたのか、九州の地で読まれたのか分かりません。
 新しい事実がなかなか見つかりません。しかし、筑紫都督府がおかれていますから、占領軍が九州に来たのは事実です。都督府とは、唐の占領政策を実行する出先機関です。このことは、カテゴリ21・22で天智天皇の事も一緒に紹介しています。
 
 江田船山古墳は5世紀に造られたと言われています。岩戸山古墳が6世紀。白村江戦は、7世紀です。この三百年間に何があったのでしょう。
 



途中ですがここまで
 

 余談ですが、先ごろ福岡市西区の元岡で見つかった鉄剣は、「大和朝廷から下賜されたものであろう」という学者の意見が大半でした。元岡から27基(数が27か、28か分かりません)の製鉄炉が見つかったというニュースも見ました。国内にこれだけ多数の製鉄炉は他にないとの事。
 鉄剣から分かる年代570年、この時期でも、近畿で造ったものであるとは驚きです。九州の製鉄の技術が、近畿に突然友好的に移動しているという報告も見たことがあります。友好的という表現は、どういう意味でしょう。弥生時代春日市の須玖岡本には青銅器の工房もありました。6世紀に鉄剣の制作が出来なかったなんて不思議です。日本書紀によると暦の伝来が6世紀半ばだから、畿内で暦を使い出したと考えて、その後九州に暦がもたらされた例だというのです。九州に暦が先に入ったらいけないのでしょうか。
 江田船山の鉄剣も畿内から下賜されたものでしょうか? それともあちらに注文して作らせたのもでしょうか。こちらで、江田船山の被葬者が作らせたと考える方が自然ではありませんか。鉄剣を作る技術があったと思います。弥生の鉄は、圧倒的に九州が多いのですから。加工する技術があったとしてもおかしくないと思います。
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by tizudesiru | 2012-02-16 11:11 | 44江田船山と筑紫君磐井 | Trackback | Comments(0)

筥崎八幡宮の謎と意味

筥崎八幡宮に謎がある
 921年、醍醐天皇の御辰筆をいただき、923年穂波の大分八幡宮より筥崎に遷宮されたと、縁起にあります。遷宮の年も923年と決まっていて、その理由も分かっている筥崎宮。式内社の中でも創建年代がはっきりしている神社は珍しいでしょう。その神社に謎?しかし、謎があるのです。
(1) 筥崎宮の長い参道から見える社の背後の三郡山山頂。なぜ筑紫の霊峰宝満山ではなく三郡山なのか。長い間の疑問でした。平安時代の国司が穂波の大分宮に奉幣するのが難儀である事と、大宰府から越えていく宝満山に不敬である事が、大分宮からの遷宮の理由だったからです。社の背後に、三郡山と並んでいる宝満山を背後にいただく事は容易だったはずです。宝満山を避けているのでしょうか。
(2) 923年は、大宰府に流された菅原道真が許され官位を戻された年です。道真は左遷後一年ほどで亡くなっています。以後二十年間も道真の祟りに苦しんだ都の人々。923年はその祟りを断ち切る年だったのです。同じ年に遷宮とは、道真の祟りと関係しているのでしょうか。
(3) 遷宮地に筥崎がえらばれたのは、放生会は山より海が望ましいという理由です。本殿のある位置でなけばならない理由があるのでしょうか。
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 本殿から出る水色ラインと黄色ラインと赤ラインがあります。この3本から調べてみましょう。
水色ラインこのラインは、筥崎宮から若杉山の太祖宮を通り、穂波町の大分八幡につながります。本殿から本殿へとつながります。つまり、ここ数百年間、本殿の位置が動いていないのです。
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神功皇后が若杉にイザナギを祀ったという伝承があります。
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水色ラインは、大分八幡宮の本殿にかかっている事がよくわかります。この時代は、正確に測量できたのですね。
陵墓にかかる紺ラインは、愛宕山(福岡市)からのラインです。こうして見ると、大分宮からの遷宮には、太祖宮も絡んでいますね。神功皇后の伝承を承知した上で、神功皇后ゆかりの大分宮から遷宮するとしたら、水色ライン上のどこかになるのでしょう
 黄色ライン
 このラインは、筥崎宮本殿から三郡山を経て、馬見山に届きます。
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三郡山は単なる通過点でしょうか。それとも、別の役目があるのでしょうか。
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馬見山が古代の信仰の山であったらしいと、すでにカテゴリ「神籠石から分かること(5)」で紹介しています。
赤ライン赤ラインは、何処につながるのでしょう。それは、太宰府天満宮の本殿です。
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道真の復権(?)の年、祟り封じの神社として、筥崎宮は創建されたのでしょうか。あまりにも出来過ぎではありませんか。
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赤ラインは、筥崎宮から大城山(都府楼跡の裏山)を通過し、太宰府天満宮を通り、宝満山の南の宮地岳に届きます。この山は、古代山城(神籠石)のある山として幾度も出てきました。
筥崎宮は、きちんと測量され選ばれた位置に造営されたのです。他の何処でもなく、三本のラインの始点(終点)以外に創建の地はないのです。選らばれた神社としても、それは、なんの為に?
 道真の祟りを封じ込めるためにでしょうか?
では、「敵国降伏」の真意は何でしょう?菅原道真という個人を指しているとは思えません。敵国というのは、どの辺りを指しているのでしょう。3本のラインから読めるでしょうか。
 ラインの終点にあたる大分宮は筥崎宮の元宮ですが、弥生時代の早良国を守った愛宕山と東西に相対しています。馬見山は古代からの信仰の山と思われ、磐井ノ墓の岩戸山古墳や、神籠石とも結びついています。宮地岳は、古代山城の地。この三か所に共通点はあるでしょうか。醍醐帝が「敵国」と呼ぶに相当しい国なのでしょうか。三か所がかかわった国は、何処にあったのでしょうか。それが、古代の国の姿を教えてくれるのでしょうか。福岡県全体にも及ぶかと思われる「国」が、9世紀から10世紀の初めころには認識されていたのでしょうか。それは、実際に存在したのではなく、伝承の「国」でしょうか。神籠石に守られた処は何処でしょう。それが、醍醐帝が「敵国」と呼んだ場所でしょう。その中心地の宮城は何処に置かれたのでしょう。天満宮へ伸びたラインの先にあるポイントを以前から見つけていました。


 そこにある偶然があります
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この画像は、筥崎宮・太宰府天満宮のラインをのばした、宮地岳との間をアップしたものです。国立博物館の上を赤ラインが通過しています。更に、よく見るとラインが交差する場所があります。以前から、私が注目しているポイントです。
 赤ライン(筥崎・大城山・太宰府天満宮・国立博物館・宮地岳)と交差するピンクラインがあります。南北に走るピンクラインは、若杉山の太祖宮と式内社の筑紫神社を結ぶラインです。筥崎宮と大分宮を取り持つようにライン上にあった太祖宮。そこから真南にラインを引くと、筑紫神社に当たるのです。偶然すぎます。
 交差する水色ラインが2本あります。東北からのラインは、三郡山から宝満山を通り、高雄山を通り、九千部に届きます。西北からのラインは、大城山と宮地岳を結んだものですから筥崎からのラインの亜流です。また、紫ラインが中心に届いていますが、唐原神籠石からのラインで、途中で大根地山の山頂を通ります。
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(
(「この辺」としているのが唐原神籠石です)
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 こうしてみると、赤・ピンク・水色・紫ラインが集まるところは、どういう歴史のある場所なのでしょう。私は、以前の記事に「此処に古代の太宰府の宮城があったのではないか」と書きました。2006年までは、そう思っていたのです。改めて地図を当たってみて、「やはり此処には歴史が隠れているのではないか」と思います。醍醐帝が封じ込めたかった「敵国」の王宮があったと…… 
 こう書いてしまうと、なんだか恥ずかしいです。ラインが集まる事の他は、何も宮城があったという証拠がないからです。とにかく、なんとなく思ったことです。何年たっても、ここから進化しませんね。
 

九州(熊本・福岡・佐賀)には「天子神社」「天神社」がたくさんあります。これは何を意味するのでしょうか。聞きたいです。
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by tizudesiru | 2012-02-14 11:30 | 45筥崎宮から見た太宰府天満宮 | Trackback | Comments(0)

なぜ愛宕山に鎮西探題は置かれたのか?

古代における愛宕山の意味
 愛宕山の神様に願い事をして、もしそれが叶ったらお礼詣りをするように、神様と約束したことは必ず守らなければならないと教えられたのが愛宕神社でした。強い神様だなあと思いました。
 愛宕山には、元寇の後「鎮西探題」が置かれたそうです。鎌倉幕府は、古代鴻蘆館が置かれた中央区ではなく、福岡平野の西の端を流れる室見川河口になぜ鎮西探題をおいたのでしょう。もちろん九州の動きを監視していたのですが、あまりにも隅っこと思われます。商人の町や、有名寺社のある中心地から離れているのです。とは言え、1333年後醍醐天皇の綸旨を受けて攻めてきた菊池武時は、中心地にあった櫛田神社に矢を射かけています。北条(赤橋)英時を討つためでした。教養人である英時は、最後の執権北条守時の弟です。菊池武時は姪ノ浜から博多に攻めたのです。鎌倉時代には、姪ノ浜や愛宕山辺りは開けていたのでしょうか。一族郎党を引き連れて戦仕立てで博多に入る事はできないでしょうから、脊振の南から福岡市早良区に入ったのでしょう。
佐賀県の神埼側から坂本峠を通り、板屋峠を越えると早良区
です。早良区を流れる室見川に沿って進めば、ほどなく愛宕山に着きます。ここは、交通の要衝だったわけです。改めて、愛宕神社を見てみましょう。
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たくさんのラインがありますが、紫ラインは福岡市東区の大嶽神社を起点として、佐賀の帯熊山神籠石に届くものです。間に、早良区の日吉神社がはいるので画像をアップしました。
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北から下りている紫ラインが、愛宕神社からのものです。帯熊山山頂にラインが届いています。
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愛宕山への信仰はいつから始まったのでしょう。愛宕神社から南東(右下)に伸びる水色ラインは、南東にのびて、日拝塚古墳と焼ノ峠古墳に届きます。愛宕山は既に六世紀には意味を持っていた山だということになります。二か所の古墳は、愛宕山を意識して造られた(?)事になります。
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(北西から南東に横切るのが愛宕神社からのラインです)
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(水色ラインが届く前方後方墳です)
 では、東に伸びるライン(色を紺に変えました)
 紺ラインは、愛宕神社から鴻臚館を通り、住吉神社(博多)を通り穂波の大分宮の背後の陵墓に届きます。鴻臚館は、いつまで遡るのでしょう。鴻臚館の下には古墳もあったとか。

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(大分宮の背後の陵墓は宮内庁の管轄です。大分宮は、朝廷から奉幣されていた神社でした)
 縁起によると筥崎八幡宮は 921年に醍醐天皇から「敵国降伏」の辰筆が与えられ、923年には大分八幡宮から遷宮されています。余談になりますが、923年は菅原道真が罪を許され官位も戻された年です。「延喜の治」と言われた天皇親政の時代、その醍醐天皇は次々に降りかかる「道長の祟り」に、震撼とされていたのです。醍醐帝が道長を許された年に、大分宮からの遷宮とは何を意味するのでしょう。そして、「敵国降伏」とは、何処を敵国と思われていたのでしょうね。
『愛宕山とは古代にどんな意味を持っていたのか」少しずつ分かってきました。古代の東西ライン(太陽信仰と思われる)の起点(又は終点)となる位置に存在することです。そこで広い福岡平野(海が深く入りこんでいた)の東の山々から上る太陽を見守っていたのでしょう。愛宕山の南は、早良王墓(吉武高木遺跡)のある福岡市早良区です。板屋峠を越えて佐賀(吉野ヶ里からも)から最短距離で早良に入れます早良に入ると、そこは佐賀大和から三瀬峠を越えた道(国道267)が合流します。合流する辺りを脇山地区と言いますが、門戸口・脇山・大門・城ノ原・谷・仙道・長峰・入部(いるべ)と地名が早良の中心に北上していくのです。中心地の方向が地名に示されているのでしょうか。昔そこに国があったとしたら、守るべき出入口だったでしょう。入部から更に北上すると、妙見崎・浦江・金武となり、金武から伊都国に最短距離ではいる道が西へ伸びています。早良の中心地から日向峠を越える道です。日向峠から伊都国が一望できます。
 また、三瀬から早良に入る辺りには、飯場(伊都国へ入る飯場峠がある)・曲淵・石釜・下ノ畑・古賀・内野ときて、合流します。古代には、三瀬峠より板屋峠の方が通行量は多かったのでしょうか。

 早良地区が栄えたのは弥生時代です。それも、紀元前一世紀。
 愛宕山が早良を守れたのは、わずかの間です。そのあとは、甕棺の並びも乱れているそうです。きちんとした墓地の管理もできなくなったのでしょう。しかし、愛宕山の霊力は福岡平野の人々に信じられ続けた事になります。大分宮(宇佐八幡宮の本宮)とともに福岡平野を守ったのでしょう。そして、6世紀の神籠石が造られた時代にも、その霊力を頼りにされたと考えられます。武士の時代になっても、神の力を頼って、鎮西探題が置かれたのではないでしょうか。

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by tizudesiru | 2012-02-12 12:27 | 42愛宕山が見た早良国の光芒 | Trackback | Comments(0)

仲哀天皇の宮殿は何処に?(橿日宮の場合)

古代の宮殿
 有力者もどこかで暮らしていたわけですが、そこは宮殿のようなところだったのでしょうか? イメージを造りにくいですね。吉野ヶ里のような大きな柱があったのでしょうか。そこで、日本書紀にも出てくる橿日宮の跡が福岡市東区香椎にあるらしいですね。今までラインを引いてきた香椎宮は、香椎廟と呼ばれていたようです。つまり、仲哀天皇の陵墓であったわけです。橿日宮は、少し北東にあります。写真の「仲哀天皇」と文字を入れている辺りのようです。
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 ラインの色を分かりやすく変えてみました。黄緑、水色、青、ピンク、白、赤の6本です。
(1)黄緑ライン
 このラインは、香椎宮から、若杉山の太祖宮を通り、古処山に届きます。神功皇后が「飯盛山に相対するようにイザナギを祀ったという」太祖宮を通り、羽白熊鷲が住んでいたという古処山に届くのです。は白熊鷲を討ったのは、仲哀天皇の皇后である神功皇后です。伝説をつなぐラインです。
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(2)水色ライン
 このラインも、筑紫神社と五朗山古墳を通り、御勢大霊石神社につながります。筑紫神社は式内社です。五朗山古墳は幾度も取り上げましたが、双脚輪状文を持つ古墳で、神籠石ともつながりました。御勢大霊石神社は、御祭神は足仲彦天皇(仲哀天皇)です。熊襲征伐の折、敵の毒矢に崩御された仲哀天皇の御魂代として霊石を船に積み、神功皇后が三韓征伐行った後、凱旋して御魂代である霊石を殯葬の地に宮柱を立て斎祀ったという神社です。水色ラインも伝説の地をつないでいます。
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北にある神社マークの場所が筑紫神社で、南の山の上にラインの集まる円墳が五朗山古墳です。
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(3)青ライン
 このラインは、まっすぐ南に伸びて九千部山に届きます。この山が香椎宮の南に来るという事実だけです。途中で須玖岡本の横を通ります。王墓の甕棺の位置が分からないので、なんとも言えません。
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(4)ピンクライン
 脊振につないでみました。ラインは引いてみると、途中で式内社の住吉神社(若久)の横を通ります。横なので意味はないと思います。香椎廟は脊振山とは結びつかないということでしょうか。
(5)白ライン
 香椎宮から飯盛山を通り、雷山に届きます。
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(6)赤ライン
 最後になった赤ラインは、東西ラインのようです。西は博多湾の西戸崎の大嶽神社、東は鉾立山です。
どちらも幾度となく登場しました。
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 香椎宮(廟)は、上記のように古処山、飯盛山、鉾立山とむすびつき、筑紫神社と御勢大霊石神社と結びつきます。
 では、仲哀天皇の訶志比宮跡はどうでしょう。
 古処山と結ぶと、間に来るのは太祖宮ではなく若杉山山頂です。
 では、他の山と結んでみましょう。糸島市の高祖山はどうでしょう。宮跡(大本営址と表記されている)からラインを伸ばすと、西区の愛宕神社を通ります。高祖山の頂上は平らなので目印を二つ付けました。ラインはその間に付けました。黄土色のラインです。
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(訶志比宮址)
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(愛宕神社)
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(高祖山) 
 8世紀には香椎廟のラインは確かにあったようです。大伴家持が香椎廟に参拝した時の和歌が万葉集にありますから。その頃には、香椎宮はこの場にあったのでしょう。
 次に、神功皇后が「兵が集まらないので、清浄な河原で天神地祇に祈った」という伝承のある苛原の三奈木神社と訶志比宮址結んでみましょう。ラインは、大根地神社を通ります。
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大根地山の山頂と、大根地神社にラインが集まっています。黄土ラインが横切るところが、大根地神社です。
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雲がかかっていますが、辺りの地形から三奈木神社は、この辺りです。皇后が河原で祭祀をしたのなら、その場所は今の神社とずれるかもしれません。
 林田の三奈木神社はどうでしょう。訶志比宮址からラインを引くと、間に竈門神社がきます。
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雲がかかっていますが、グーグルを信じて竈門神社はこの辺りだと思います。
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林田の三奈木神社は、ずっとこの場に動かなかったのでしょうか? 
 驚いたことに、竈門神社も、苛原の三奈木神社も、林田の三奈木神社も式内社です。ここで言えることは、神社は伝承の地に造られたということです。
 古代の宮殿のありようは、まだつかめません。しかし、山や、神社と関係の深い場所に宮殿が造られた可能性はあるでしょう。  


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by tizudesiru | 2012-02-10 13:49 | 43古代の宮殿は何処に?(1) | Trackback | Comments(0)

飯盛山になぜラインンが密集する?

飯盛山は何ゆえに信仰されたのか
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以前から幾度も出てきた飯盛山。古代からイザナミを祀る信仰の山だったことは、幾多の伝承により明らかです。それに、神功皇后伝説に「相対するイザナギの社がなかったので、社を西に向けて若杉山に造った」という伝承が若杉山にあります。夫婦神にもかかわらず、イザナギを祀る社がなかった!とは驚きです。
このことは記事「14・国守りの祭祀は何処で行われたか」でも言及していますが、「記事1~記事30」までは、2006年に書きあげたもので、それに少し最近の写真を入れて紹介したものです。その後、グーグルでラインを引いてみて、新たな事柄を付け加える事になりました。改めて紹介しているのはその為です。
(1)飯盛山を斜めに横切る紫ラインは、鹿毛馬神籠石からのものです。このラインは、飯盛山に届くとそのまま進み、浮嶽に届きます。
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この神籠石ラインは距離が長すぎるので、私も「まさかあり得ない」と5年前は思っていたのです。飯盛山と東西の関係で相対するのは宝満山。飯盛・宝満ラインは以前紹介しました。
 (2)次は、飯盛山で交差する二本の水色ラインです。南西からのラインは、雷山を起点にしています。飯盛山を通り、香椎宮に届きます。香椎宮には同じ色のラインが集まっているので、雷山ラインには紫色を添えています。
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(ラインの集まる香椎宮)

 (3)それから、南南西からのラインは井原山を起点にしています。福岡市西区の愛宕神社をかすめ、宗像大社に届きます。社殿に届くので、このラインはそう古くはないと思います。宗像大社は式内社です。
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(愛宕神社の写真、ラインが集まっているところ)
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雷山と井原山からのラインが、飯盛山で交差するのも出来過ぎの感がありますね。
 (4)次は、飯盛山・麓の飯盛神社のラインです。式内社の若久住吉神社を通り、宇美八幡の本殿に届きます。スタートのラインが分かりにくいので、赤ラインに白を添えています。
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(神社と文字があるところが飯盛神社)
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宇美八幡を横切る薄茶色のラインは、志賀海神社から、大嶽神社を通り、宇美八幡を通り、宝満山を通り、大根地山に至るラインです。志賀海神社は式内社です。飯盛山から有名神社にラインが伸びるとは、何を意味するのでしょう。
(5)飯盛山より南東に伸びるブルーラインは、天拝山をかすめ、大巳貴神社をかすめ、苛原の三奈木神社に届きます。大巳貴神社も三奈木神社も式内社です。
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(6)更に、ピンクラインは、高宮八幡を通り、那珂八幡(古墳)を通り、若杉山に届きます。太祖神社の横をすりぬけ若杉の山頂に届くのです。那珂八幡古墳は75メートルの初期前方後円墳(箸墓と同じ撥型)です。主体部は発掘されていませんが、2号主体部は割竹型木棺から三角縁神獣鏡と勾玉・管玉・管玉・ガラス製小玉・赤色顔料が塗布された土師器の高坏が出土しています。出土した三角縁神獣鏡は、椿井の大塚山古墳、岡山市の湯迫車塚古墳、奈良県富尾丸山古墳出土のものと同范鏡だそうです。
鏡は平絹に包まれていたことにも興味がわきます。
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(7)鶯色ラインは、飯盛山から式内社の住吉神社を通り、鉾立山にラインが届きます。
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 (8)まだまだラインはあるのです。あきあきしますね。糸島の丸隈山古墳からのラインは、飯盛山を通り脊振山地の九千部山に届きます。
 (9)紹介はこの辺りでやめますが、最後は東西に貫く宝満・飯盛ライン。
 これが、私が初めて見つけた弥生時代の東西ラインです。宝満山から須玖岡本や吉武高木、飯盛山を越えて伊都国に入り三雲南小路王墓を通り、一貴山銚子塚古墳にまで届くもです。「このラインの意味を知る首長は、これを大切にし汚すことはなかった」と、私は思います。
 (1)から(9)までのラインから導かれる答えは、「」飯盛山は弥生・古墳時代を通して政治上でも、宗教上でも重要な山であったろう」です。それにしても、水源の山でもなく、標高も低いのに何故? 
 考えられるのは、重要な祭祀の場所であったのではないか? という事。春分・秋分の日の出は、宝満山から。
 夏至の日の出は、住吉神社(博多)の方向。南公園が間にある。冬至の日の出は、乙子神社の方向で、間に荒平山がある。住吉神社の真南に乙子神社があるのも、このような理由かもしれません。
 「神籠石は、上記のように太陽信仰の山と結びつくのではないか」と思うのです。
 「地域の首長の墓(霊力)と、生活を守る神の山(水)と、太陽(日の神)を祀る山に守られたかったのは、何か。それは、自分たちの住む地域と、住む人に他ならないだろうと・・・」神籠石は交通の要衝にありますが、山城として使うには不都合なところが多いのではありませんか。しかし、事情が変わり始めて、山城としての役割を担うところも出てきた……と考えられませんか。その事情は、もちろん政変、乱、戦争、侵略などでしょう。



 
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by tizudesiru | 2012-02-08 14:11 | 41神籠石から分かること(6) | Trackback | Comments(0)

地図で分かる?神籠石の謎

馬見山の物語古墳と神籠石が結びつくことは、なんとなく分かってきました。
 では、山との関係はどうなのでしょう。
 まず、馬見山から考えてみましょう。
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たくさんのラインを引き寄せています。その中で黄緑ラインは、屏山を横切り、古処山をかすめ、天拝山(山頂ではない)をかすめ、乙子神社を横切り、雷山山頂に届きます。
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雷山と東西の関係で向かい合っているのは、馬見山でしょうか。
馬見山は、屏山や古処山とほぼ東西に並んでいます。古処山はやや南にずれています。古処山は、筑紫平野を挟んで耳納山地の鷹取山と南北に向かい合っている事は、以前にも取り上げました。そして、羽白熊鷲の伝承があることも「12・羽白熊鷲と古処山」でお知らせしています。熊鷲は、古処山で何をしていたのでしょう。地域の首長が生活する場とは考えにくいです。それで、以前の記事では、羽白熊鷲は「古処山で馬見山の神を祭祀し、その神は大神(おおが)様、または大神(おんが)様と呼ばれていたのではないか。遠賀川の源流が馬見山であることも,それを証明しているのではないか」と、既に伝えています。
 馬見山とは、古代の人にとって如何なる山だったのでしょう。
 御所ヶ谷神籠石と岩戸山古墳をつなぐと、馬見山を通り、苛原と林田の二か所の式内社、三奈木神社を通過しました。6世紀の人には、馬見山は大切な山だった事になります。そして、羽白熊鷲の墓を通過する可能性もあります。(古墳の移動や復元などで元の位置がはっきりしない)筑紫君磐井は、羽白熊鷲を知っていたのでしょうか。「熊鷲と馬見山の関係を知っていたから、選ばれた場所に古墳を造営した」のでしょうか。磐井の墓は寿墓だそうです。生前に墓を造っています。当然、しかるべき場所を選んだことでしょう。
 遠賀川沿いに暮らす人にとって、水を与えてくれる山は馬見山です。馬見山の西側の小石原川は恵みの川であり、ここに住む人は大きな筑後川から水をもらっているのではありません。馬見山を大神様と祀っていたのでしょう。同じように、屏山も古処山も信仰の対象だったことでしょう。古処山と高良大社を結ぶと、平塚川添遺跡をラインが通過します。古処山も高良山神籠石と結びつくのです。
 あれほど、多くのラインを引き寄せた脊振山は、どの神籠石とも関わりません。つまり、脊振山と馬見山は、違う意味で信仰されていたことになります。あえて言うなら、脊振は死者の集まる山。馬見は生活を守る山。朝夕、大神の恵みに感謝する時、馬見を拝んだのではないでしょうか。もしかしたら、馬見・屏山・古処の三山を。



 
 



また明日!
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by tizudesiru | 2012-02-07 01:11 | 40神籠石から分かること(5) | Trackback | Comments(0)

神籠石から分かること

少しだけ言えること神籠石は、7世紀の建造物とは思えません。偶然にしては、6世紀の古墳と結びつきすぎています。王塚古墳は飯塚市の寿命にあります。双脚輪状文を持つ古墳です。
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・竹原古墳は、宮若市にあります。
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五朗山古墳は筑紫神社の近くにあります。近くと言っても1キロまでは離れていない感じです。ここにも双脚輪状文が石室内に描かれています。
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岩戸山古墳は、6世紀前半の磐井の乱で敗れた筑紫君磐井の墓とされています。
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一貴山銚子塚古墳は、4世紀の古墳だそうです。6世紀の古墳と聞いたこともありますが、私には何処で判定がなされるのか分かりません。
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宮地嶽古墳は、宗像君徳善の墓といわれていますが、そうなると7世紀の墓になります。しかし、それより古いということも聞きます。2メートル以上の太刀(国宝)も埋納されていました。
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これらの古墳の存在を知っていた人々が、共通の意味をこめて方角を探り、神籠石の築造場所を決めたのでしょう。
 そうなると、神籠石を造った人々は、同じような考え方をしていたし、筑紫の君磐井を逆賊と考えていなかったことになります。また、神籠石の列石の下から6世紀の土器片が出たので、その頃の建造物との説を聞きましたが、それはどうなったのでしょう
 つまり、神籠石が「白村江戦後に造られた」という説に疑問が出てくるのです。大野城や椽城(基城)のように日本書紀に書かれてないことも大事と思います。

 

これらの古墳は、たまたま残されたタイムカプセルです。発掘された遺物は、東京や京都の博物館や大学に持ち去られていますが、個人のものではないですから、基本的には地元に返してほしいですね。研究室や博物館は、貸し借りしているとは思いますが。
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by tizudesiru | 2012-02-03 22:35 | 39神籠石から分かること(4) | Trackback | Comments(3)

もう少し、言えること

もう少し付け加えると
 高良大社と日の岡古墳(6世紀中)を結ぶと、ラインに寺徳古墳が乗ることは、カテゴリ7「八女丘陵の古墳」で紹介していますが、高良大社本殿を少しずらした高良山神籠石とすると、日の岡古墳・寺徳古墳・下馬場古墳・高良大社本殿前とつながります。日の岡古墳にもわらびて文が描かれています。全長78メートルの前方後円墳です。
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高良大社に集まるラインの中で少しずれた水色のラインが、日の岡古墳からのラインです。水色の色を付けました。
 日ノ岡古墳は、的(いくは)臣の古墳と言われ、畿内から来たとされています。しかし、高良大社や高良山神籠石と深いつながりがあるとしたら、考え直さなければならないと思います。
 磐井の乱の後、国家は著しく変化したそうです。磐井の子の葛子が糟屋屯倉を差し出しただけでなく、全国的に屯倉が広がったそうです。
 それまで、地方の有力者は「君}と呼ばれていましたが、磐井の乱後は「国造(くにのみやつこ)」となり、国造が各地にがおかれました。国の奴(やっこ)となったのです。6世紀は、国家の体制が大きく変わった時代となります。
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(この写真は、古墳の案内の写真を使わせていただきました) 
 月岡古墳が近くにあります。しかし、こちらは装飾古墳ではありません。この地区の若宮古墳群の中では一番古い前方後円墳と言われています。もちろん日ノ岡古墳より古く、80メートルの前方後円墳で長持型石棺の中に副葬されていたたくさんの馬具・甲・刀・剣などとともに金銅製冑は有名です。長持型石棺は畿内に多く用いられている石棺の形式です。九州では唐津の谷口古墳と月ノ岡だけだそうです。それで、畿内と関係の深い古墳といわれるのです。明らかに、月ノ岡古墳と日ノ岡古墳は様子が違います。日ノ岡古墳の被葬者が神籠石と関係があるなら、各地の有力者(宮地嶽・寿命大塚・竹原・五朗山・岩戸山・日ノ岡など古墳のある地域の首長)は連携していた。と、なるのでしょうか。その連携には、6世紀とそれ以前の九州の体制が反映していると言えるのではないでしょうか。
 そうすると、弘化谷古墳(八女丘陵)にも双脚輪状文があるのです。ここも神籠石と結びつくのか。という問題が出てきます。ためしにやってみましょう。わかりやすく黄緑ラインにしてみます。
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結果、弘化谷古墳から大善寺玉垂宮を通り、雷山神籠石を横切り、一貴山銚子塚古墳に届きました。ラインの色は黄緑です。このラインも神籠石のラインに入れると、有力者の墓と思われる墳墓は神籠石に結びつきます。
 
神籠石は、北部九州の有力者の思いを反映している。彼らが考えていたことは、中途で頓挫した」神籠石は、途中で作業が止まったところがあるそうです。それは、何を意味するのでしょう。それから、先日まで「日ノ岡古墳には双脚輪状文がある」と書いていました。石室の同心円の内の中央の文様がそのように見えるのですが、古墳の案内板には「双脚輪状文」という紹介の言葉がないので、このたびはずしました。蕨手文はいくつもあります。
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by tizudesiru | 2012-02-03 00:07 | 39神籠石から分かること(4) | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
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99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
278西原村の旧石器・縄文・弥生の資料
309白村江敗戦後、仏像を供養した?
309白村江敗戦後の霊魂
289人麻呂が見た王朝の皇子達
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺

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