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最近、国内最古の出土物が続きます

やはり、北部九州に出ましたか!
西日本新聞記事 2011年9月22日(木)
最近、宗像で出土した「鉄てい」も、国内最古とか。他にも、縄文の櫛も最古だったように記憶している。しかし、暦とは、面白いです。
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使われた漢字から、時代や地域が特定できませんか?
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 また、大和王権からの下賜ですか。この被葬者の立場を示す明確な証拠があるのでしょうか。この被葬者が、九州の勢力とどのようにつながっていたかを示すような、そんな資料はないのでしょうか。
 期待しますね。
 
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by tizudesiru | 2011-09-30 21:40 | 31国内最古の暦が刻まれた太刀 | Comments(0)

地図を歩く

あなたは旅好きですか
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あなたは九州を旅したことはありますか。ここは佐賀県唐津市。唐津湾に浮かぶのは、高島、奥に大島。長い平たい島は、神集島。
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今では陸地になっているけれど、唐津平野は決して広くはありません。
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松浦川が流れています。ここは、弥生時代に末蘆国と呼ばれたところです。
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 この丘は、久里双水古墳です。なぜこの古墳はココに造られたのでしょう。平野も大きくないこの地方に。
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古墳の上に登らせてもらうと、浮嶽が山頂をのぞかせています。この古墳の縦の中央線上に、見える山は浮嶽。山頂に浮嶽神社があります。
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古代の人は、どんなことを考えてココに墳墓を造ったのだろうと、ついつい考えます。しかし、誰も教えてくれません。それで、地図を開くのです。
もちろん、そこに答えが書いてあるわけではないのですが。


始めたばかりで、分からに事だらけですが、よろしくお願いします。
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by tizudesiru | 2011-09-30 15:36 | 初めての地図旅 | Comments(0)

地図で遊ぶ

1 大宰府・都府楼跡の東西南北 
大王の遠の朝廷とあり通う島戸を見れば神代し思ほゆ
万葉集「柿本朝臣人麿、筑紫に下りしとき海路にて作れる歌二首」のうちの一首である。何度も目にし、耳にした万葉秀歌だ。「大王のおいでになる処からは遠い朝廷である筑紫に通う時、島がまるで戸のようになった出入口を見ると、神代の事を思う」と、なるのだろうか。人麿はどんな用事で、筑紫まで来たのだろう。現代でこそ関東や近畿から九州へ転勤させる会社はたくさんあるが、古代にそれが簡単に出来たとは思えない。しかし、困難な旅行しかできなかった古代にかなりの官人が地方に国司として出かけている。
ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも我は忘れじ志賀の皇神
これも万葉秀歌で、博多湾の入り口の志賀海神社に歌碑がある。鐘崎にも志賀島にも尊い神がおられたことになるのか。志賀島は、金印が出土した所でもある。歴史の中の筑紫や志賀島は、どんな姿で昔の人々の目に映ったのだろうか。古代の人は九州の山川をどんな思いで眺めたのだろう。

 古代の官人は大宰府で仕事にあたっていた。福岡県太宰府市の政庁跡(都府楼跡)に立つと、北に山が迫って見える。眼前に折り重なって見える山は、地図で調べると大城山(大野山)である。四王寺山ともいい、朝鮮式の山城である大野城が造られている。白村江(663年)の戦いの後、急いで造られた山城であり、高床式の倉庫跡や百閒石垣などが残っている。この大城山の頂上は、地図上では都府楼跡の真北になる。地元のボランティアの方の説明によると、大宰府政庁は風水にかなっているそうだ。四王寺山は、政庁を守る山である。

都府楼・大城山を結ぶ直線を地図上に南北に延ばしてみた。北に延びた直線は、五万分の一の地図上の猪野の伊野天照皇大神宮(貝原益軒が参拝し縁起を草し寄進した)の辺りを通る。
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(猪野天照皇大神宮)
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 辺りというあいまいな表現は、この神宮が洪水などにより現在の場所に拝殿が移ったことによる。以前は猪野川のほとりにあったのである。南北直線を北へ延ばすと宗像大社まで達する。
南に伸ばした直線は、佐賀の田代太田古墳(国指定史跡)か、安永田遺跡(弥生の祭祀遺跡があるらしい)の上を通り、

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田代太田古墳

筑後の石人山古墳(国指定史跡)の上を通り、山門郡の女山神籠石の上を通るようだ。歴史上の建造物や山が一本の直線上に並ぶといっても、ひとつひとつは遥かに離れいくつもの市町村をまたいでいる。南北を意識した土木工事をしたとしても、それは何の為だろうか。南北だけでなく東西を反映した遺跡や建造物が確認できるだろうか。もし、東西ラインがあるなら、稲作文化として入ったものだろうか。南北なら、何だろう。北天は天子の象徴である。それは、易や風水と関係するのだろうか。興味が湧いて来た。

五万分の一の地図上で直線を引けば、一ミリずれても実際は五十メートルずれることになるから、地図上の地点が直線で結べても眉唾物と思わなくてはならないだろう。そうは思っても東に直線をひくと、都府楼の真東には大分県宇佐市の宇佐神宮があった。都府楼の東に数百メートルで大宰府天満宮があるが、この辺りを、昔から宰府という。この真東に宇佐神宮があるようだ。他にも同じような例があるだろうか。
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(宮地嶽神社)
試しに、宮地嶽神社(巨石の横穴式石室を持った円墳で、国宝の太刀(125m)を墳丘に埋納した古墳がある)から真東に直線を引くと、四国の石鎚山を横切り紀伊半島の熊野(河原の大祓)に達する。これは、国際地学協会の地図帳を使って、緯度を調べながら直線を引いたのだが、それは和歌山県の熊野本宮大社の大斎原の辺りを通るとしか言いようがない。大斎原が洪水で流される前の熊野本宮の地であったとか。なるほどと、一人納得してしまう。が、考えてみると、宇佐も、大宰府も、熊野も、いずれ劣らぬ有名な神社である。宗像大社も宮地嶽神社も国宝の宝物で有名である。これらの有名な神社が東西南北の直線で結びつくとかありうるのだろうか。

測量の面からも、神社の祭祀の始まりの面からも、人々のつながりの面からも、ありえないとは思いつつ、空想しながら地図を見るのもなかなか楽しいものである。神社や、古墳が、何故、その土地に残っているのか、その場所が選ばれたのか。理由や経過があるはずだ。言い伝えは何もないのだろうか。祀られた神は、どなただろう。共通点や結びつきはあるのだろうか。知りたい事が膨らんでいく。

疑問を持ったまま、地図を眺め、直線を引くうちに、面白くなって来た。もちろん、まったく知らない土地は、地図だけではイメージがつかみにくい。行って確かめることのできる身近な地域を選んで調べ歩いた。それだけなので、大きなことは言えない。が、古代の人がかなり正確に位置関係を知る方法や技術を持っていて、それを使っていたのではないかと、だんだん思えて来た。地図とは、なんと面白いものだろう。人の暮らし方や歴史がその中に見える。まだ知らない事がそこに潜んでいる。歴史の真実もきっと隠されているだろう。これまでも地図を何冊も買っている。ページを開くたびに別の世界が展開する。 
 そもそも東西南北の測量は、いつから始まったのだろう。
 『日本書紀』巻第七の成務天皇(稚足彦天皇)の段に、東西南北についての記述がある。「国郡に造長を立て、県邑に稲置をおき、それぞれに盾矛を賜って印とした。山河を境として国県を分け、縦横の道に従って村を定めた。こうして、東西を日の縦とし、南北を日の横とした。山の南側を影面、山の北側を背面と言う。これによって人民は居に安んじ、天下は無事であった。」(宇治谷孟著『日本書紀上』より)縦横の道に従って村を定めたとは、何らかの測量の痕跡を感じさせる。

しかし、『古事記』の成務天皇の段は、記述も極端に少なく「武内宿禰を大臣として、大國小國の國造を定めたまひ、また國國の境、また大縣小縣の縣主を定めたまひき」とかかれている。東西南北についての記述はない。また、地方の長に盾と矛を与え、その証とした事も『古事記』にはない。日本書紀の編者は、成務天皇を矛の文化圏の人として描いている。弥生の銅鐸文化圏ではないと教えているのだろうか。山河を国縣の境とし、東西を日の縱としたのは南北より重んじていた為だろうか。

日本には、自然や地形と結びついた地名が多い。昔から生活の中に、自然や地形が深く入り込んでいたのだ。地図とは面白いものである。土地の歴史や、人の考え方や、生活の仕方を想像させてくれる。
日本に住む人は、ほとんど遺伝子の中に「おてんとうさま」を拝む感性を持っているようだ。東西南北がどの方向か生活の中で知っていた。農業が始まると、何よりも春の訪れを知るために、真東の方位は大切になったと思われる。太陽の位置と方位、それと地形が結びつくのは、自明のことであろう。地名にも、西、東など付いた所がたくさんある。特に、山川はどの時代の人間にとっても大切なものだった。

明治まで登山を楽しむ事もなく、山を神の坐す処として、畏れ崇めてきた。人がその山をどう思って暮らしてきたか、それぞれの山の名に残されている。谷も、川も、平地も、地名は過去を反映している。そして、地図は地方の歴史を反映しているのだろう。 


参考資料として
*南北線(東経で表現。国土地理院・地図検索ホームページの地図上にカーソルを当て、経度を検索したもの。検索する位置で若干の数字のぶれがあるとおもう大宰府政庁跡中心(東経130度30分53秒)
大城山=大野城=四王子山(東経130度30分50秒)
宗像大社(東経130度30分50秒)
現・猪野皇大神宮(東経130度30分43秒)*水害で場所移動後
猪野皇大神宮門前・川岸(東経130度30分50秒)
安永田遺跡(東経130度30分51度)
田代大田古墳(東経130度30分55秒)
八女石人山古墳(東経130度30分59秒)
女山神籠石(東経130度30分47秒)
屋久島・翁岳(東経130度30分45秒)
屋久島・宮ノ浦岳(東経130度30分15秒)

*東西線(緯度で表現。国土地理院地図検索を利用したのも)
大宰府政庁跡(北緯33度30分53秒)
大宰府天満宮本殿(北緯33度31分16分)
大宰府天満宮裏庭の神社(北緯33度31分23秒)
宇佐神宮本殿(北緯33度31分24秒)

宗像大社本殿(北緯33度49分52秒)
熊野大社・大斎原(北緯33分50分2秒)
熊野大社・本宮(北緯33度50分24秒)
宮地嶽神社(北緯33度46分48秒)
石鎚山山頂神社(北緯33度46分8秒)
石鎚山成就神社(北緯33度47分24秒)
*こうして見ると、宮地嶽神社のラインは、大祓まで届くにしても、宗像大社と熊野大社は東西の線でつながるんだという、新しい発見におどろくばかり……
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by tizudesiru | 2011-09-30 00:59 | 1大宰府の位置 | Comments(2)

竹原古墳

2 竹原古墳に東西線は見られるか
 古代の人は、山当てをして道を作っていたそうである。古代の官道は、道幅も広くかなり真っ直ぐである。山々は太陽と違って動かないから、方向をつかみやすかっただろう。  
 この山当てを使って墳墓や神社も造られたと思われるものを地図で見つけた。
 福岡県立図書館の二階への階段踊り場の壁面には、装飾古墳である竹原古墳の玄室の壁画のパネルが掛けられている。この福岡県宮若市の竹原古墳は、測量されたことが感じられる円墳である。国指定の装飾古墳でもある。
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(住宅の裏の岡にある竹原古墳)

6世紀後半築造の円墳。玄室、前室、羨道で構成され、勾玉・金環などの装飾品、馬具、鉄製武器などが出土している。玄室の奥壁と前室の袖石にベンガラと炭で絵が描かれている。奥壁に、さしば、龍、三角連続文、船、馬を牽いた人物、波形文、月などが描かれている。波や、さしばは、よく判る。袖石には玄武と朱雀が描かれているらしい。石室の中を見せてもらったが、素人には絵の判別が難しいものもあった。絵の解釈として、四神信仰・龍媒信仰など考えられるそうだが、北には玄武ではなく龍が描かれている。

 この竹原古墳は、宮若市の里山である天の坊(266m)からのびた丘陵の先端に乗っている。竹原古墳と天の坊山頂を地図上であるが、直線で結んでみる。直線を二等分する点に垂直の線を引くと、一方は北の靡山山頂(296m)に、もう一方は南の間夫山頂(508m)に届く。試しに引いた直線が、二つの山頂をつなぐのは偶然とは思えない。ここで古墳・なびき山・天の坊を頂点としてつなぐと三角形が出来る。次に、なびき山を間夫に変えて、古墳・間夫・天の坊を結ぶ三角形を作る。大きさは違うが、どちらもきれいな二等辺三角形になる。竹原古墳を築造するとき、山当て測量をして位置を決めたのだろうか。測量に利用しているのは、どうやら三角形だ。東西南北のラインは使われていないようだ。

天の坊と、竹原古墳は、東西ラインになっているのだろうか。天の坊は、竹原古墳の真西ではない。真西に当たるのは、天の坊の隣の春山(333m)である。昭和49年の国土地理院の五万分の一の地図には、春山と書かれている。が、改訂版の平成2年では、雁城と変わっている。同じ山でも呼び名が変わるのだ。春山という役目が終わったのだろうか。春山・竹原古墳の直線を更に西に延ばすと、古賀市の天降神社に当たる。あもり神社と呼ぶようだ。
竹原古墳の緯度が、北緯33度43分59秒。
春山山頂が、北緯33度43分58秒。
天降神社が、北緯33度43分59秒。

ほとんど一直線、きれいな東西線が出来る。両者は地図上で十六センチだから、直線距離にして実際は八キロあまり離れている。
 天降神社は、いつどのようにして建てられたのだろうか。古賀市の薦野(こもの)にあるこの神社を尋ねてみると、説明の建て看板があった。
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 「1305年に、古野からこの地に移した」とあった。古野にあった神社を、領主の薦野氏がこの地に移した。薦野氏もこの地の名をとって、氏名としたようだ。土地の霊力を借りたいのだろう。七百年前の人々は、この地が竹原古墳の真西であることを承知していたのだろうか。少なくとも七百年前の人々は、目前に立ちはだかる山の向こうの小さな古墳を知っていただろう。薦野から全く見えない春山は、春分秋分の日に太陽が昇る山であり、宮若市側からは太陽が沈む山だったのである。中世の武士にとって東西線上の古墳と山は、霊力の強いものだったのだと思う。

 天降神社の氏子は、米多比・薦野・舎利蔵の人々である。ご祭神は、大己貴神・スサノウ尊・少彦名神である。「太宰府管内志」にも神社名が見えるという。
 天降神社の近くを通る人に、元宮の古野を聞いてみた。答えは、「知らない」だった。地図やパソコンでも調べたが、近くに古野という大字はなかった。小字も見つからなかった。そもそも神社を遷すことに、どんな目的があったのだろうか。強い指導者が候補地を選択したり、一族の繁栄のために祀りを取り行ったり、大変だったはずである。中世の薦野氏はこの地の領主として、神の力を借りなければならなかったのだろう。中世の武士の多くが山城を作った。生死をかけた戦乱に巻き込まれた彼らは、神仏に深く帰依している。薦野氏も、この地で清滝寺と天降神社を支えた領主である。

 山頂をつないでできる三角形を使って、ほかにも測量したと思われる点がある。
 天降神社からなびき山までの距離と、天降神社から間夫までの距離はほぼ同じである。ほぼ八キロ強だから、神社と竹原古墳までの距離に近い。なびき山頂・天降神社・間夫山頂の三点を結ぶと正三角形に近い三角形が出来る。地図上の天降神社から、なびき山頂・間夫山頂を結ぶ辺に垂直な線を引くと、底辺を二等分する。しかも、この二等分線は、天降神社の南(やや西より)に見えるかわいい三角形状の「城の山」山頂を通過していく。山頂をつなぐ直線は、目測しやすかったのだろうか。この山頂は、薦野氏の山城である。

 天降神社を頂点とした三角形の中には、宮若市の人ならたいていは知っている西山連山が入る。一番高いのが、西山(644m)で、レーダー基地がある。
この西山は、この地区にとってどんな意味を持っているのだろう。宮若市の若宮地区には数多くの古墳があるが、竹原古墳から一キロばかりの平地にも剣塚古墳がある。この古墳と西山との距離、西山と間夫との地図上の直線距離は、ほとんど同じである。きれいな二等辺三角形が出来る。西山と間夫から流れてくる二本の川の合流点に、この古墳は造られている。西山はこの地域の大切な山だったはずで、西山・剣塚古墳のラインには大きな意味があったに違いない。そして、西山・間夫ラインもなかなか思わせぶりである。西山・間夫ラインを五、六キロ延ばし南下していくと龍王山(615m)山頂に届く。(このラインは後に再び登場する)また、西山・間夫ラインが北上すると、宗像市の桜京古墳にぶつかるようである。日本中古墳だらけである。犬も歩けば棒にあたる。そういう結論になるのだろうか。それとも、古代の人は、山をつないだライン上に墓や神社を造ったりして、何か山の力のようなものを引き出そうとしたのだろうか。

宮若市の古墳は、山当てで三角形を作りながら建造された。と、なると、東西南北のラインは此処にはあまり必要なかった事になる。中世の薦野氏がわずかに東西ラインを意識したようであるが。

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by tizudesiru | 2011-09-29 19:57 | 2竹原古墳 | Comments(0)

間夫という山

3 間夫という不思議な山 
 間夫は、すでに登場した山の名であるが、最初は読めなかった。
 福岡県宮若市の地図を開いた時、初めて間夫にぶつかった。山の名であるが、読みが分からなかった。カンブ、マブ、いずれにしても名づけの由来が想像できない。遊女の情夫をマブというようだが、そんなキワドイ名前をつけるには、面白い伝承などあるかも知れない。間夫の麓に湧く脇田温泉を楽しみながら、調査を開始した。

然し、私が尋ねた脇田の人は、誰一人「間夫」を知らなかった。名前も位置も。犬鳴峠を超えて福岡方面から宮若市に入るとき、カーナビにも間夫の名が出る。確かに、脇田温泉の背後の山である。国土地理院の地図には、麓に「裏の山」や「大道」などの集落名もみえる。大道とは、昔の官道の事ではないか。この山の中を官道が通っていたのだろうか。車で犬鳴トンネルを出ると、右手に三角形をした大きな山が見えるのだが、それが間夫である。宮若市に入ると山の形は、方向が変わるために台形に変化する。

  脇田を過ぎると、やがて田んぼの中に小高い社の森が見える。由緒ありげなので立ち寄った。散歩中の老婦人に尋ねると
「これは、古墳じゃありません。黒水(高水)神社です。山の上にあった様々な社も降ろしてきて一緒に祀っています。若い人は忙しくて手が届きませんから。」
と、答えられた。山中の社を合祀しているそうだ。ついでに間夫のことも聞いた。
「山の名は、まぶです。昔から間夫の右に雲がかかれば昼から雨になるし、左に雲がかかれば晴れてくると知っていたので、一日の仕事の計画をしたものです。」

間違いなく間夫は、まぶだった。そして、人の暮らしと結びついた山だった。山の名の由来については聞けなかった。若宮地区の西側に台形に座っている大きな山の存在が、地域の人々に忘れられかけているのが残念だった。それにしても古代の測量に使われていたらしい間夫は、どういう意味を持っているのだろう。古代にそういうスキャンダルがあったのだろうか。それらしき人物の伝説は残っているのだろうか。私が思いついたのは、武内宿禰である。巷には様々な事が言われているようだ。でも、まさか。間夫は言葉として新しいではないか。古代に間夫とは言わなかっただろう。  

  次に、『夫』を『分』に勝手ながら入れ替えてみた。間分だったのではなかろうか。これなら、測量用語のような気もする。ほかの山地のように、固有名詞の下に山や岳が付かないのは、山以外の役目があったからではないか。間夫は鉱夫か、鉱山の坑道の入口の意味もあるそうである。鉱山があった山なのだろうか。ともかく間夫なのである。
  間夫は、山の他にも何かの役目を果たしていたと、この時点で私は思った。

  間夫が、天の坊やなびき山や竹原古墳、西山や剣塚古墳などの位置と深いつながりがあるらしいと思ったが、龍王山との関係が新たな疑問となった。また、剣塚古墳から間夫山頂を通り更にラインを進めると、宇美八幡(神功皇后が応神天皇を生んだ伝承あり)の上宮(奥宮)神領古墳に届く。宇美八幡本宮や大きなクスの神木とはややずれるのである。

剣塚古墳築造の頃は、宇美八幡宮は存在していなかったのかも知れない。この神領古墳は、五世紀初めの円墳らしい。古墳が宇美公園内に四基ほどある。円筒埴輪や勾玉などを出土している。更に宇美には、光正寺古墳がある。三世紀の前方後円墳であるが、間夫と竜王山ラインからは、かなりずれている。そうならば、このラインはただの妄想だろうか。
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宇美八幡宮
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 改めて地図を広げてみると、穂波町に大分(だいぶ)という地名がある。町名は、神功皇后が、豊かに実った稲穂が揺れるのを見て、『穂波かな』と言った伝説に由来する。

大分とは、三韓征伐から帰還した皇后が、兵士達と別れた処であるという。それで、その地を「大分」と呼んだという地名譚も残っている。間夫が測量用語と仮定すると、この大分という地名も測量用語ということだろうか。然し、大分には別な解釈もあるらしい。大分宮を訊ねてみると、以前は相当賑わいを見せたらしい事が、案内板に書かれている。宮の裏は宮内庁の管轄の陵墓指定を受けていた。
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(大分八幡宮と門前の杯状穴・なぜかしめ縄が張られている)
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近くには、大分廃寺という新羅系の寺院跡もある。大分八幡宮とは、ほぼ緯度は同じである。
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  穂波町の大分(だいぶ)八幡神社は、三大八幡宮の筥崎八幡宮の元宮であり、同じく大分県の宇佐神宮の本宮である

『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、築上郡椎田町の矢幡八幡宮(金富神社)が八幡神顕現の霊地であり、穂波町の大分宮が本宮
であると書かれているそうである。三大八幡宮の元宮、本宮となると、これは、由々しきことではないか。この時点では、このまま先には進めなかった。
竹原古墳→天の坊→なびき山(三角形)
竹原古墳→天の坊→間夫(三角形)
 竹原古墳→春山(雁城)→天降神社 *東西の直線で結ばれる
 竹原古墳→間夫→鉾立山→大城山(太宰府)→九千部(脊振山地)*直線で結ばれる
天降神社→なびき山→間夫(三角形)
間夫→剣塚古墳→西山(三角形)
剣塚古墳→間夫→宇美八幡 *直線で結ばれる
桜京古墳?→西山→間夫→龍王山 *直線で結ばれる
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by tizudesiru | 2011-09-28 23:30 | 3間夫という山 | Comments(0)

筥崎八幡宮

4 筥崎八幡宮
 福岡市東区箱崎に官幣大社の筥崎八幡宮がある。参道から社を見ると、鳥居と本殿の間に、三郡山(三郡山地の最高峰936m)の山頂が三角形に見えている。あまりにきちんと頂上が社殿屋根中央に来るので、以前から気になっていた。筥崎宮と三郡山とは、何らかの関係があるのだろうか。

縁起をみると九二三年に大分八幡より遷宮となっている。山とのかかわりは何もない。遷宮が十世紀なら、神社の中では古い方ではないだろう。しかし、筥崎八幡は延喜式に名を連ねる由緒ある神社なのである。

九〇五年に醍醐天皇
の命により延喜式の編纂が始まり、奏上が九二六年で、施行されたのが九六七年。延喜式に名を残す神社を式内社というが、当然ながら近畿の神社が圧倒的に多い。筑前の神社で式内社として名を残しているのは、十三社という。神社としての格式を認められているのは、中央とつながりを認められた何らかの理由があるのだろう。
筑前の国の式内社は次の通り

   宗像神社(宗像市沖ノ島・大島・田島)
   織幡神社(宗像市鐘崎)
   八幡大菩薩筥崎宮神社(福岡市箱崎)
   住吉神社(福岡市住吉)
   住吉神社(福岡市若久)
   志加海神社(福岡市志賀島)*志賀海神社)
   志登神社(糸島市志登)
   筑紫神社(筑紫野市原田)
   竈神社(太宰府市内山)
   麻テ良布(マテラウ)神社(朝倉市杷木)
   三奈宜神社(甘木市林田)
   三奈宜神社(甘木市荷原)
   於保奈牟智(オホナムチ)神社(朝倉市三輪)*大己貴神社


  何を調べても、山とのかかわりを書いたものは出て来ない。なぜ三郡山を社の背後に頂くのか、それを知りたくなった。それで、地図を広げた。
 筥崎宮について『応神天皇の胎衣を箱に収め川に流し、流れ着いたところに埋めた。そこに、松を植えた。だから、靴箱の箱ではなく、玉手筥の筥の字で筥崎宮という』との言い伝えを神社の近隣の人から聞いたことがある。社伝にも「応神天皇の胎衣を箱に入れ収めた地に松を植え、しるしの松とした」と書いてあった。それで、筥松と呼んだとも。筥松は、御神木として本殿右前に今も名残がある。筥松の地名は、「社領」と共に「筥松」として筥崎宮の南の宇美川沿いに今も残る。筥崎宮の裏(南に二、三百歩離れている)を流れるこの宇美川の上流に、神功皇后伝説の「応神天皇出産の地」宇美八幡はある。

試しに、筥崎宮本殿と宇美八幡を直線で結んでみる。直線を伸ばすと三郡山からずれて、同じ山地の宝満山上宮(829m)に届く。更にのばすと、大根地山頂(652m)に届く。三か所の神社がつながれる。

また、拝殿屋根に三角に付き出て見える三郡山と筥崎宮本殿を結ぶと、遠く朝倉の馬見山山頂(978m)まで直線が延びる。こんな偶然もあるのだ。

宝満山と三郡山、これらの山は、お互いに何か関係があるのだろうか。
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筥崎宮のご祭神は、応神天皇・神功皇后・玉依姫となっているので、同じ御祭神を祀る宇美八幡と直線で結ばれるのは納得できる。さらに、筥崎八幡と宇美八幡を結ぶラインは、宝満山頂に伸びている。しかし、筥崎宮が背負う山は、宝満山ではなく三郡山である。どうもしっくり来ない。更に大分八幡との地理的なつながりが見当たらない。ラインはただの偶然かと、再び思う。

  あえて大分八幡と三郡山山頂を直線でつなげば、行先は大きく外れ、大宰府の観世音寺のあたりに届く。何の脈絡もなくその地点で直角に右に折れると、筥崎宮本殿に届く。三郡山と大分宮とつなぎ筥崎宮に届くには直角に曲がる他はない。しかし、直角に曲げる意味も思いつかない。
箱崎宮は元々大分宮の頓宮であった。延喜二十年(921年)、託宣が降り、現在地に新宮を営むことになったという。大分宮では三悪があるという理由だった。
三悪とは、次の三点である。

一に、節会に参来する府官人の行路にある伯母竈宮(宝満の竈神社)に不敬であるため
二に、険阻な山越えのため、饗応の郡司百姓が苦しんでいるため
三に、放生会は海上で行われるべきで、山間部の大分宮では不適当


古代の国司の赴任後の初仕事は、赴任国の全ての神社への参拝であったという。太宰府から大分宮への道は、確かに難儀したであろう。しかし、である。頓宮であった筥崎宮が、何故、式内社となりえたのであろうか。九二一年に醍醐天皇から『敵国降伏』の辰筆が与えられ、遷宮は九二三年である。

この天皇の命により延喜式の編纂が始められ(905年)、奏上が九二七年、施行が九六七年。三代格式の一つという国の組織や法をまとめた延喜式に、筥崎宮の名が出ている。仲哀天皇の崩御の地と伝わる香椎宮も、巨石の横穴式石室を持ち、国宝の太刀が墳丘に埋められていた円墳もあり、由緒もある宮地嶽神社も選ばれてはいない。神名帳に載る二八六一社は、祈年祭奉幣を受けるべき、当時の朝廷から重要視された神社なのである。そうであっても、「敵国降伏」の辰筆を頂いたとはいえ、新参の神社を式内社にするだろうか。出された辰筆が何故「敵国降伏」なのか、政治的状況の反映だったのか、理由はわからないが。何の由緒もない場所だとしたら、新しい社殿を建てるだろうか。

ふらりと筥崎宮に参拝してみると、御神木の筥松が瑞々しい緑を湛えている。本殿の裏地に末社が左右にある。
東末社には、稲荷社、住吉社、乙子殿、武内社、池島殿
西末社には、民潤社、厳島社、仲哀殿、若宮殿、龍王社
バラエティに富む社の数々である。家に帰って、地図を広げると、筥崎宮の真東に穂波町の龍王山(615m)がある。西末社に龍王社が祭られていた。何か関係があるのだろうか。この時点では、龍王山には大きな意味は見出だせない。しかし、地図上では本殿の真東に龍王山の山頂が来るのだ。これは見逃せない。春分秋分に決まって太陽の昇る山を、昔の人は祭らなかったのだろうか。図書館で穂波町について調べてみる事にした。

 龍王山には、伝説が残されていた。穂波の人々は、水を抑えた龍に毎年田植えの水を貰う為、龍を怖れ人身御供も行われたとか、龍王山には鎮西八郎為朝の矢で昇天した龍が住んでいたとか。山頂には「龍王神社があり、昔この一帯で大干ばつがあり、村人が神前で酒を供え、かがり火を焚き太鼓をたたいて一昼夜交代でお籠りを続けたところ俄かに雨が降って村人が助かったとかいう様々な伝承。穂波の人々は、博多へ出る近道だったにも関わらず龍王山の傍を通るのを恐れたそうである

 ここで、私の中に生まれたのは新たな憶測だった。筥崎八幡宮では、九二三年以前は龍王を祀っていたのではないだろうか。社殿も東を向いていたのではないかと、勝手な憶測である。

 そういう由緒ある場所だったからこそ、同じ穂波の大分宮を遷宮し式内社にもなれたのではないか。では、龍王社はどんな霊力を持つ神として祀られたのだろうか。龍王だから農耕の水を守る神、または、海上交通の安全を守る神だったなら、自然と龍王山と結びつく。太陽が真東の龍王山から昇り、真西の能古島の城ノ浦に沈む。太陽信仰の地であり、海上交通の神を祀る地であるとしたらどうだろう。そう仮定すると、漁師町の箱崎に宮が造営されても理解できる。それが、穂波の大分宮遷宮の理由になった……

そう仮定しても、九州に龍王山・竜王山の名を持つ山は少ないのだ。福岡県一ヶ所、大分県二ヶ所、熊本県一ヶ所(竜王山古墳)である。ちなみに岡山県二十二ヶ所、広島県十三ヶ所で、圧倒的に関西・中国・四国が多い。龍王山以前は、別の名だった可能性が強い。太陽信仰の山としても、龍王山という名は他の文化圏のものであろう。政変があった時、入って来たものであろうか。また、古代の豪族が山を御神体として頂くとき、どんな山を対象に選び信仰するのだろう。新たな疑問が浮かんできた。地図を使って、山と神社(信仰)の関係が他にも見つかるだろうか。
筥崎八幡→宇美八幡→宝満山頂神社→大根地山
筥崎八幡→三郡山→馬見山
筥崎八幡→(真東)龍王山

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by tizudesiru | 2011-09-27 00:18 | 4筥崎八幡宮 | Comments(4)

弥生王墓・吉武高木と須玖岡本

5 弥生王墓・吉武高木と須玖岡本 
古代の信仰は見える形では残っていないだろう。そう思いながら、やっぱり地図を開いてみる。福岡平野の北には博多湾。平野の周りは山波である。南に脊振山地。東に、三郡山地。太宰府の鬼門に位置するという宝満山は、東の三郡山地の西端に位置する。以前は三笠山、または竈山と呼ばれていたという。

貝原益軒の『筑前国続風土記』によるが、『この山は国の中央にありていと高く、造花神秀集まれる所にして、神霊のとどまります地なれはにや筑紫の国の総鎮守と称す』と
書かれている。神仏習合の時代になって、宝満と名を変えたようである。三笠の森や三笠川に、いにしえの名をわずかに留めて。
 
宝満山は、明治になるまで英彦山、求菩提山と並ぶ修験道の聖地であった。盛時は僧坊三百七十を数えたという。近くには三郡山もあるが、花崗岩の急峻な宝満が好まれたのだろうか。宝満山・三郡山・砥石山(828m)・若杉山(681m)は、山歩きに慣れた人のハイキングコースである。若杉も、山岳信仰と結びついている。

 はるか昔の人々はこの山をどう思っていたのだろう。三郡、宝満、若杉のそれぞれの山頂から福岡平野を横切るラインを真西に引いてみた。この東西ラインが突き当たる山頂はあるだろうか。真西にある山で、しかも山頂が来なければならない。宝満山頂神社からのラインは、福岡平野の西、早良区の飯盛山の山頂に届いた。
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(飯盛山東側麓の飯盛神社)

 宝満山頂にあるのは、竈神社の上宮である。竈神社の神は、初めに上宮に降りたとか。ここが、竈神社の本宮であるという。

 この宝満山頂神社からの東西ラインに、二つの大きな弥生遺跡が乗っていたのである。
五万分の一の地図の上に、赤ボールペンで直線を入れてよく見ると、赤のラインは春日市の須玖岡本遺跡の上を通っていた。有名な弥生王墓である。三十面以上の舶載鏡を持つ。この時期の墳墓の中では、圧倒的な漢鏡の数である。ここの王墓の近くには熊野神社があり、ほぼ東西に並んでいるようだ。
そして、宝満山頂神社の真西、福岡平野の西奥に吉武高木遺跡がある。

 吉武高木遺跡は福岡市早良区の遺跡であるが、早良王墓として脚光を浴びたことがある。弥生の墓である。鏡・玉・剣を副葬していることで、三種の神器の発祥地ではないかと話題になった。しかし、近畿辺りでは三点を副葬した墓が出ないので、最近は三種の神器は考慮に入れず大和王権の発祥の地を考えようという動きになっているようであるが、当時は大きな発見だったのである。この王墓は甕棺群の中にあって木棺であり、鏡は多紐細文鏡である。朝鮮半島と関係の深い鏡だそうである。紀元前二世紀から二百年あまりの間、力をもった人々の墓地なのである。高殿の柱あとも見つかっている。祭祀をした建物と考えられているようだ。

 弥生の墓地から考古学上の様々なことが分かるが、墓地として選ばれた場所にも注目しなければならないだろう。遺跡の背後は飯盛山頂。山頂の東の麓に、飯盛神社がある。吉武高木の王墓は、東の宝満山と宝満神社、西の飯盛山・飯盛神社に挟まれているのである。(ここで、勝手に王墓と書いているが、王とは中国から認定された役職のようなもので、王墓と呼んでいいかわからないが、素人なので王墓と使っている)

 両方の弥生王墓は、無関係なのだろうか。それとも、お互いに意識し合っていたのだろうか。北部九州の弥生の王が、同じ東西のラインの中に眠るとは。吉武高木と須玖岡本では、前者の方が古い王墓となるが、後者の方が鏡の数は圧倒的に多い。早良地区が衰えた後、春日地区が栄えたらしい。前者は後者に吸収されたという説も聞く。

 更に驚いた事に、宝満・飯盛ラインを西に延ばしていくと、飯盛山を越えて伊都国に入り、三雲南小路王墓を通過する。ここも多くの副葬品を持つ王墓である。三十五面の漢鏡だけではなく、中国から王候クラスの者に贈られたガラス璧を出土している。中国製のガラス璧を副葬した王墓は、須玖岡本、三雲南小路、それに福岡県夜須町の峰遺跡が有名である。

 宝満・飯盛ラインは、弥生時代の聖なるラインだったのではないか。

 このラインを、更に西に延ばしてみた。すると、四世紀後半に造営されたという、一貴山銚子塚古墳に届く。伊都国(糸島地方)で一番大きい前方後円墳(103m)である。この古墳は十面の銅鏡を副葬し、そのうちの二面は中国製で被葬者の頭部近くに置かれていた。残りの八面は三角縁神獣鏡で、棺の左右の側縁に四枚ずつ置かれていたのである。この古墳が造られた頃は、三角縁神獣鏡の勢力圏に組み込まれていたのだろう。それでも、この地域の人は、宝満・飯盛ラインにこだわって一貴山銚子塚墓を造った。王墓ラインを意識していたのだ。
 宝満山→大城山→須玖岡本→吉武高木→飯盛山→三雲南小路→一貴山銚子塚

 この時代、弥生時代、宝満山を中心に一つの文化圏が出来ていた。地域により盛衰はあるが甕棺文化圏であろう。そうなると、宝満山(三笠山)は、王の魂が集まる山とならないだろうか。祖霊が天に昇る山としての信仰があったのではないか。

 同じような信仰の山は、宝満山意外にもあるだろう。祖霊が集まる山は、子孫達を見守っている。また、子孫達も先祖の守りの中で、祖先を敬いながら生活したであろう等々想像してみる。

 弥生の人々は見える範囲の山を、自国の守りの山と信仰していたと、仮定出来ないだろうか。その山は、氏族により異なっていた。そう仮定して、他の古墳や神社と山の関係をみてみたい。その際、山頂に限ってラインを引くことにしよう。宝満のように山頂神社が起点になる事もあったのだが。信仰の対象となるなら山頂でなければならないと思う。

 地図の上に定規を乗せて、少し恐ろしくなって来た。安い五万分の一の地図と、プラスチックの定規で、古代史にとんでもない問題のある説を打ち立てようとしているのだろうか。いえいえ、素人のただの楽しみ。定規一本で、どんな事が分かるか、やってみても面白いかも知れない程度のこと。何を見つけたいのか。それをはっきりさせなければ。何から取りかかろうか。とりあえず、山と古墳と神社に定規を当てながら、湧いてくる疑問を追及してみたいと思う。

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by tizudesiru | 2011-09-26 10:35 | 5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本 | Comments(0)

平原王墓ラインから分かること

6 平原王墓ラインから分かること
 東西ライン(宝満・飯盛ライン)
の上に乗らない有名弥生王墓がある。それは、著書『実在した神話』で有名な原田大六氏が発掘した弥生墓、平原王墓である。弥生後期の方形周溝墓で、国内最大の大きさを誇る仿製鏡(内向花文鏡)五面を入れて四十面の銅鏡(いずれも国宝)を出土している。素環頭太刀やガラス製の勾玉や管玉。漢の高貴な女性が身につけたというピアス(耳とう)も出土している。この、コハク蛋白石のピアス。これは、国内唯一だとか。女性とされるこの王は、どんな環境の中に眠っているのだろうか。
平原王墓の位置
 平原王墓から見える南の脊振山地の中で、井原山(982m)と雷山(955m)が、この地域から見える象徴的な山である。これらの山々との関係はどうだろうか。
井原山と平原王墓をつなぐと、ラインは北側に伸びて糸島半島(いにしえの志摩国)の天ヶ岳(250m)に届く。王は、二つの山の間に眠っているようだ。
 また、佐賀県との県境に位置する羽金山(900m)と平原王墓を結んでみる。羽金山は、埋蔵金伝説の残る山である。天草の乱制圧に向かう黒田藩の軍用金の一部十万両が、長野峠で賊に奪われたという。それが、山中に隠されているというので、埋蔵金を探す人もいるらしい。その羽金山と平原王墓を結ぶと、ラインは北に伸びて、糸島半島(いにしえの志摩国)の浜崎山(97m)につながる。浜崎山は、博多湾側にある今津湾の入り口の山である。平原の王は、今回も二つの山を結ぶライン上に眠っている。彼女は、井原山ラインと羽金山ラインの交点に、日向峠に向かって横たわっている。が、それだけで今のところ何も分からない。
伊都国の他の弥生墓には、このような状況は認められるのだろうか。
たとえば、羽金山ラインは、古墳時代の一貴山銚子塚古墳を通り、志摩国側の彦山(231m)に届く。浮岳(805m)ラインは、宮地岳、志登支石墓1、志登支石墓2を通り、毘沙門山に少しずれて届く。獅子舞岳(841m)ラインは、釜塚古墳を通り志摩国の大葉山に届く。脊振山(1055m)ラインは、三雲王墓を通り志摩国の火山(244m)に届く。火山には、神功皇后伝説がある。新羅遠征の時、山に火を焚いたのでその名がつくという。
 山→古墳→山の信仰が、弥生にはあったのだ……。力のある王は、高い山を背負っている。二つの山に見守られて眠る事は、首長達のスティタスシンボルだったのだろうか。
井原山→平原王墓→天ヶ岳
脊振山→三雲王墓→火山
羽金山→平原王墓→浜崎山
羽金山→銚子塚古墳→彦山
浮岳→宮地岳→志登支石墓→毘沙門山
獅子舞岳→釜塚古墳→大葉山
雷山と平原王墓
 さて、雷山である。この山を通る墳丘墓はないのだろうか。
 平原王墓の存在が、伊都国で絶大だったのは、疑う余地はないが、雷山との関係はどうだろう。定規を当ててみたが、雷山と平原王墓を結ぶラインは、何故かどの山頂にも当たらない。雷山は、雷山神籠石のある山である。伊都国から見ると、井原山より若干低いのに雷山の方が高く思える。その山と平原王墓は、何故結びつかないのだろうか。平原王墓は、直接的に雷山と結びつくのを避けたのか。様々に憶測してしまう。平原の王が、より近くにそびえる雷山に何も思いを抱かなかったとは思えないのである。
 しかし、雷山からのラインが三雲南小路王墓を通ると、丸隈山古墳に届く。宝満・飯盛ラインのように、王墓や首長墓を結んでいる。三雲南小路の時代、雷山は大切な山だったようである。丸隈山の王は雷山への信仰心を持ち、三雲王を崇敬していたのだろう。可也山からのラインも、志登支石墓1を通り、此処から鋤崎古墳へと続く。王墓どうしが結びつく例は、ありそうだ。しかし、平原古墳と雷山の関係はない。弥生後期には雷山への信仰が薄れたのか。または、雷山と結びつく権力が交替したので、平原の被葬者は故意に雷山ラインを避けたのか、である。
雷山と可也山
 では、他に雷山からどんな事実が導き出されるだろう。
 試しに、雷山から真北へ定規を置いてみると、柑子岳(254m)に当たった。
この南北ラインに、式内社の志登神社が乗っている。十世紀になって志登神社の神は、雷山を意識して鎮座されたか。今は、田んぼの中に取り残されたように見えるが、昔はこの地方の大事な神社だったはずである。志登神社の南に志登支石墓群1(この番号は勝手につけている)も乗っている。また、この支石墓群の真西に可也山の山頂が見える。可也山東西ライン上にこの支石墓群1があり、そこは雷山南北ラインとの交点になるのである。東西ラインと南北ラインの交点に、渡来系人の墓と聞いている支石墓群1がある。雷山は、彼らにとって祖霊が集まる山だったのだろうか。それにしても、地域のシンボルの雷山の活躍の場が少ないようだ。何故か? この疑問は後に残しておこう。
 可也山は、韓国の慶尚南道の加耶に由来する山名である。その東にある墓。そうすると、彼らは、先祖の土地を懐かしみながら、地元の山から天に昇ったのだろうか。ちなみに、支石墓はこの地ばかりではなく、方々にある。近くにも残っているが、そこは、浮岳→一貴山銚子塚古墳→志登支石墓群2→志登神社(式内社)→毘沙門山と、浮岳ライン上に並ぶのである。しかし、並ぶからといって、これらの墓や神社の歴史的背景は、同じではない。それぞれが出来た時間は大きくずれる。ずっと存在するのは、山くらいだ。たとえ西九州にたくさんある支石墓群の中の二つが、ラインに並ぶように見えても、それは、ただの偶然かも知れない。偶然を見つけて、古代人の思いや信仰を捻じ曲げても悪い気がする。だが、地域の山に対して聖なるものを感じたり、自分の心のよりどころとする信仰はあったと思われる。
平原王墓と可也山 更に、糸島富士とも呼ばれている加也山と平原王墓の関係はどうなるだろう。可也山から平原に向かって線を引くと、平原王墓を通り南東の三雲南小路王墓に届く。宝満・飯盛ライン上の三雲王墓である。二つの弥生の王墓を、可也山が結びつけている。近くには狐塚とか、割れ塚古墳、築山古墳、端山古墳など多くの古墳があるが、それらには結びつかず三雲南小路の王墓に当たる。平原王墓は、三雲南小路王墓を意識し、王権を継承しようとしたのだろうか。
高祖山と平原王墓
では、高祖神社があり古墳のメッカでもあるという高祖山から直線を伸ばしてみよう。ラインは平原王墓を通り、西に伸びて一貴山銚子塚古墳に当たる。前に紹介した糸島地方最大の前方後円墳である。さすが高祖山、平原王墓と一貴山銚子塚を結びつけたのである。銚子塚の主人は、平原の王権を意識し受け継ごうとした。と、考えられないだろうか。宝満・飯盛ライン上の三雲南小路王墓の継承ばかりでなく、平原からも王の威力を継承しようとしたのだろうか。
可也山→平原王墓→三雲南小路王墓(矢印の向きは、逆であろう)
高祖山→平原王墓→一貴山銚子塚古墳
 王墓や古墳を、山が結び着ける。有名王墓は、有名王墓に結びつく。こんな例が、他にもあるのだろうか。
もし、この直観が有効だとすれば、江戸時代に発見されたが、埋め戻されて所在が分からなくなった、多くの銅鏡が副葬されていた井原鑓溝遺跡も、このようなライン上に隠れているのではないだろうか。平原古墳が、答えを教えてくれるかも知れない。
魏志倭人伝の中で、伊都国の紹介に『世王あり』と書かれている。此処には、王がいた。彼らは、伊都国に眠っている。王の埋葬の仕方も、文化として受け継がれたであろう。伊都国では、甕棺墓が比較的早く始まり、早く終わっているという。三雲王墓は甕棺墓である。しかし、平原王墓は割竹型木棺墓である。弥生後期に、同じ地域内で、葬送文化が変化した事になる。それは、他文化との交流だけでなく、歴史上の変化も示しているのだろうか。それでも、鏡、太刀、勾玉、豪華な装身具などを副葬する埋葬の仕方は、先祖や祖霊を大切にする古代人の考えの表れに違いない。彼らは、日常生活の中でも祖先を敬い畏れていたと思う。だからこそ、国内最大の内行花文鏡を量産し、何らかの意味を持って、それを破壊し埋葬したのだ。内行花文鏡の時代の終焉? なのか。三角縁神獣鏡の時代の始まりか。
とにもかくにも、南北ラインと東西ラインの交点という新しい視点を見つけた事で、これから先がもっと面白くなる気がしている。嬉しいことである。 
 しかしである。
 ここでいう東西ライン、南北ラインが、不正確で意味をなさないとしたら、これからの追及も意味をなさなくなる。そこで、国土地理院の地図検索を使って、緯度と経度を測定してみようと思ったのである。
*宝満・飯盛 東西ライン(大ライン)
 宝満山上宮(北緯33度32分23秒)
大城山頂(北緯33度32分19秒)
須玖岡本遺跡(北緯33度32分17秒)
須玖岡本・神社(北緯33度32分20秒
吉武高木遺跡(北緯33度32分13秒)
飯盛山頂(北緯33度32分13秒)
三雲南小路王墓(北緯33度32分12秒)
一貴山銚子塚古墳(北緯33度32分11秒*可也山 東西ライン(小ライン)
可也山頂(北緯33度34分20秒)
志登支石墓群1(北緯33度34分20秒)

カーソルで数字を出してみると、平野の両端では若干のずれを生じる。定規を使って引いた宝満ラインは、真東真西の関係と地図上では確認したつもりだったが、パソコンで調べた数字では数秒傾いたラインになる。それは、地形の関係や、目測で測量した関係でもあろうが、出発点と到着点が数十キロ離れている事も関係していると思う。それとも、ここ二千年の間に、真東がずれたのだろうか。
*雷山 南北ライン
雷山山頂(東経130度13分24秒)
志登支石墓群1(東経130度13分20秒)
志登神社(東経130度13分20秒)
柑子岳山頂(東経130度13分18秒

 地図に直線を引くと、真北にまっすぐラインが通ったかに思えたが、数字を見るとやや傾いている。山頂の何処かに目印を設定したのだろうが、面になる山頂と墓とを結ぶラインは微妙にずれて来たのだろうか。それとも、この二千年の間に、真北が若干ずれて来たのだろうか? 平原王墓が避けた雷山を取り込んだ十世紀の志登神社の文化は、弥生時代とつながらないかもしれない。
  此処では、山と墓をつなぐラインが存在するらしいと、ひとまず結論を出しておこう。弥生時代から古墳時代にかけて、その時代の首長達は選ばれた地に眠っている。地域のシンボルの山に挟まれて眠るのは王候クラスである。他の首長達も権力を継承するためや、王族とのつながりを示すため、または墓から霊力を得ようとしたのか、山を媒介にしたライン上に眠っている。


まだまだ編集中 つづく
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by tizudesiru | 2011-09-25 20:57 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)

志登神社(式内社)

志登神社の説明板
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神社参道
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by tizudesiru | 2011-09-25 08:05 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)

八女丘陵の古墳のライン

7 八女丘陵の古墳のライン 前項で、有名古墳がお互いに結びつきそうだとか、山と古墳の結びつきとか、怪しげな事を書いたが、その事をもう少し明らかにしなければならないと思う。しかし、有名かそうではないかの区別をつけるほどには、判断基準を持たないので、ひとまず、新聞テレビで見たり聞いたりしたことのある古墳に目を向けてみる。
 考えてみると、九州の古墳には、様々な問題がある。まず、筆者は素人だから弥生の墓も古墳と呼びたい気がするが、考古学の方は弥生の方形周溝墓を古墳とは言わない。古墳とは、古墳時代の墳丘を持つ墓の事をいうそうだ。だから、弥生王墓と古墳は区別して使わなければならない。それに、九州には装飾古墳も数多いし、形式の違いも色々あるそうだ。私は、ひとまとめに古墳として扱っている。
 
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(ア)八女丘陵の古墳
  さて、八女丘陵の古墳に進みたいが、伊都国で見られたような山を東に頂くような首長の埋葬の仕方は此処にもあるのだろうか。また、代々の王達は山や墳墓を媒介にしたライン上に眠っているのだろうか。弥生の埋葬文化が古墳時代にも受け継がれているのだろうか。

  九州では二番目の大きさで、教科書にも載っている筑紫国造磐井の墓と伝わる岩戸山古墳は、特に有名と言っていいだろう。この古墳があるのが、八女丘陵である。
 筑紫君の幾世代もの墓域といわれる八女丘陵(東西約十キロ)には、百五十から三百の墳墓があると考えられている。石人山古墳、神奈牟多古墳、岩戸山古墳、乗場古墳、善蔵塚古墳、鶴見山古墳、釘崎古墳群、丸山古墳など十一基の有名古墳がある。この東側にも「金製垂飾耳飾り」や埴輪などを出土した立山古墳や、徐福伝説もある巨石石室で有名な童男山古墳などがある。

  岩戸山古墳が知られているのは、一つにはこの墓の被葬者が分かっているためでもある。「筑紫国風土記」には、磐井が生前に造らせた墓と、裁判の様子を表したという墓の隣に造られた衙頭という別区の事が書かれている。風土記に書かれた墓が、岩戸山古墳だと比定されたのである。また、正史に記されている「磐井の乱」でも有名である。

  継体天皇の二二年(五二七年)、磐井は新羅から密かに賄賂を受け取り、新羅に奪われた任那の地を奪還すべく送られた近江毛野臣を、阻止しようとしたのである。新羅と組んだ筑紫国造磐井に対して、畿内の継体天皇は大伴・物部軍をおくった。継体二二年(528年)御井郡(久留米市・御井郡)で激戦の結果、磐井は破れて斬られた。父に連座する事を恐れた磐井の子の葛子は、糟屋の地を屯倉として献上し、罪を免れている

  「風土記」の別伝によれば、磐井は豊前国上膳県(現、豊前市)の山中に逃亡し、磐井がなかなか見つからないので、いらだった官軍の兵士が石人 石馬を壊したという。八女地方や熊本などにもみられる埴輪の代わりに墓に置かれたという石人石馬は、「磐井の乱」後には墳墓に使われることが少なくなっていったそうだ。代わりに装飾古墳が多くなっていったらしいのである。そういう説明を文化財センターの講座で聞いた事がある。

(イ)岩戸山古墳に結びつく古墳岩戸山古墳の真東にあるのは、なに山だろうか。 大きな山に、定規を当ててみる。
岩戸山古墳の真東にあるのは、熊渡山(960m)である。
岩戸山古墳(北緯33度13分47秒)
熊渡山 (北緯33度13分46秒)

  県境の山である。岩戸山古墳とセットになった山だから、有名な古墳に導いてくれるだろう。
 磐井の最後の戦いの場は、耳納山地の西側、御井の辺りである。この耳納山地には多数の峰が乱立している。一番高いのが鷹取山(802m)。

  熊渡山を地図上で耳納山地の峰と結んでみると、いずれも、耳納山地を越えて直線が延びて行く。耳納山地を越えると、的(いくは)臣、水沼君の勢力圏となる。頂上はあるが地図に名前のない山は、「? 山」と表現している。
熊渡山(960m)→鷹取山(802m)→寺徳古墳(装飾古墳)
熊渡山→ ?山(797m)→ ?山(406m)→屋形古墳群(装飾古墳)
熊渡山→ ?山(365m)→楠名・重定古墳(装飾古墳)
熊渡山→ ?山(250m)→塚花塚古墳(装飾古墳)

  地図に名前の載った古墳には、ラインが届くようである。他の有名古墳も東に山頂を背負い、ラインが耳納山地を越えるのだろうか。

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(ウ)石人山古墳 筑紫君一族の墳墓といわれる石人山古墳はどうだろう。
 東西に延びる八女丘陵に点在する古墳の中で、石人山古墳は五世紀半の築造と言われ、岩戸山古墳より時代を遡る前方後円墳である。後円部六〇メートル前方部四五メートル周囲には濠がある。辺りは人形原と言われ、後の世まで石人石馬が方々に見られたようである。
  この古墳の東には、鈴ノ耳納山(931m)があり、その山頂まで小高い山が頂を並べている。石人山古墳から順に山の峰を辿ると、次のようになる。
石人山古墳(北緯33度14分14秒)
高峰山(567m・北緯33度14分15秒)
大山 (599m・北緯33度14分11秒)
? 山(689m・北緯33度14分10秒)
? 山(716m・北緯33度14分11秒)
? 山(705m・北緯33度14分11秒)
鈴ノ耳納山(931m・北緯33度14分11秒)


  こうして並べてみると、石人山の王が自分の墓の東に、選んだ鈴ノ耳納山は、いくつもの峰の奥にある特別の山だったのだろうか。鈴ノ耳納山から発して、別の山を越え、有力者の墓に達するラインも見つかった。
鈴ノ耳納山→明星岳(382m)→浦山古墳(五世紀後半・帆立貝式前方後円墳)
鈴ノ耳納山→ ?山(887m)→日ノ岡古墳(六世紀半・装飾古墳)
釈迦岳(1231m)→鈴ノ耳納山→寺徳古墳(六世紀後半・装飾古墳)
浦山も、寺徳も、日ノ岡も、耳納山地を越えた北側にある古墳である。寺徳古墳は、釈迦・鈴ノ耳納だけでなく、前述の熊渡山もつながっていた。
鈴ノ耳納山→ ?山(716m)→ ?山(689m)→茶臼塚古墳(盗掘・六世紀頃)
鈴ノ耳納山→ ?山(322m)→丸山塚古墳(六世紀後半・装飾古墳)
この二つは、八女丘陵にある。

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(エ)寺徳古墳 
 石人山と岩戸山古墳の真東にある鈴ノ耳納山と熊渡山が、筑後川以南の豪族にとって大事な山である事はうなずける。殊に熊渡山は、大分県との県境の山である。耳納山地の東に位置し、この辺りの最高峯でもある。

  岩戸山古墳の王は、祖先の石人山古墳の王が真東に頂いた鈴ノ耳納山(931m)のように、同じく真東の熊渡山(960m)を選んだ。一族の長として。一族の象徴として選んだ山であろう。その事を子孫達や周囲の有力者達は、十分に承知していたと思える。特に、寺徳古墳の被葬者は、鈴ノ耳納山・熊渡山・鷹取山という筑紫君一族の象徴的な山とつながり、日ノ岡古墳と高良大社の間に横たわるとは尋常ではない。六世紀後半の特別な人物だったに違いない。それも、筑紫君一族と深い関係がある……磐井の乱の後、その勢力は残った事にもなる。もともとの高良の神は、磐井と深い関係にあったことも見えてくる。

釈迦岳→鈴ノ耳納山→寺徳古墳
熊渡山→鷹取山→寺徳古墳
高良大社→下馬場古墳(六世紀後)→寺徳古墳(六世紀後)→日ノ岡古墳(六世紀中)
寺徳古墳→発心山→丸山塚(六世紀後半)
と、なるからである。しかし、この古墳には首長墓としての持ち物が少ない。日ノ岡古墳と似た赤い同心円の装飾が用いられてはいるが。

(オ)周辺の古墳と有名古墳の結びつき
 古墳と山頂にラインを引いてみた。
岩戸山古墳(前方後円・六世紀前半)→乗場古墳(前方後円・六世紀中・装飾)→茶臼塚古墳(盗掘あり・円墳・六世紀ころ)*八女丘陵内の狭い結び着きに収まっている
弘化谷古墳(円墳・六世紀中・装飾))→明星山→耳納山→下馬場古墳(円墳・六世紀後半・装飾)*古墳が耳納山地をはさみ、やや広い結びつきとなっている。
浦山古墳(五世紀後半・帆立貝式前方後円)→高良山→下馬場古墳
前述であるが、耳納山地を古墳がはさむ例である。
寺徳古墳(円墳・六世紀後半・装飾)→発心山→(茶臼塚古墳)→丸山塚古墳(円墳・六世紀後半・装飾)

  これに対して、「高良大社→下馬場古墳→寺徳古墳→日ノ岡古墳(前方後円・六世紀中・装飾)」のように、耳納山地の北部地域だけと結びつく例もがある。南側との関係が切れたのだろうか。
  八女丘陵でも三百近くの古墳がある上に、耳納山地を越えた筑後川流域部にも幾多の古墳や古墳群がある。寺徳古墳のある田主丸地区には、六世紀後半から古墳が集中している。百五十基ほどあそうだ。中には、百メートルを超える前方後円墳も最近見つかり、古墳と山の関係が十分見えているわけではない。
だから、犬も歩けば棒に当たる式の古墳の結びつきは、充分に考えられる。その事は頭に入れておいて、結びついた古墳について分かる事を並べてみたい。

(カ)乗場古墳・弘化谷古墳などその他の古墳 乗場古墳は、岩戸山古墳の東三百メートルに位置する。石人も出土しているが、装飾は、寿命王塚古墳、熊本のオプサン古墳、チプサン古墳とよく似ているそうである。古墳の特色が似ているという事は、それらの古墳とはなみなみならぬ結びつきがある事になる。茶臼塚からは円筒埴輪も出土しているが、詳しく分からない。岩戸山と結びつく範囲は、小さいようである。他地域の古墳とのつながりが薄い気がするのは、磐井の乱が原因で一族から敬遠された為だろうか。

  弘化谷古墳の方は、鞆、同心円、三角文などの文様もあるが、謎と言われる双脚輪状文がある。双脚輪状文は、何を表現しているのか、解明されていない。この文様をもつのは、寿命王塚古墳、熊本の釜尾古墳、同じく熊本県の横山古墳、五郎山古墳など、超有名な装飾古墳である。蕨手文の複雑な形とも、高貴な人にさしかける「さしば」などなど、双脚輪状文にはさまざまな説がある。この弘化谷古墳は、明星山と耳納山を越え筑後川の方に結びつく。他の豪族との関係を示している。

  寺徳古墳と丸山塚古墳も、山を挟んで他の豪族と結びつくという同じ方法を使ったと思われる。丸山塚古墳には。わらび手文の装飾がある。わらび手文を持つ古墳は、寿命王塚、珍敷塚、塚花塚、日ノ岡、五郎山、熊本の釜尾など、七基である。高良大社からも下馬場、寺徳、日ノ岡と各古墳につながる。日ノ岡古墳は、若宮古墳群の中では最後の前方後円墳となる。七十八メートルあり、横穴式石室にわらび手文・双脚輪状文の文様を持つ。

  近くには、八十メートルの月岡古墳があり、若宮古墳群中の最初の前方後円墳で三重濠を持つ。日ノ岡の被葬者は、近くの月岡より高良大社ラインを選んだのだろうか。もしくは、日ノ岡と高良大社の間を選んで、下馬場と寺徳が墓を造った。古墳造営の順が、私には断定できないのでこうなる。が、いずれかの被葬者が、強い意思を持って先祖の威光にあやかろうとしたと思われる。祖先を祀る事は、一族の結束や繁栄にもつながると考えたのだろうか。筑後の首長達も、須玖岡本や吉武高木や伊都国の弥生王達に倣って、地元の山を選び、自分の墓の位置を決め、一族や子孫の繁栄を願ったのだろう。しかし、途中から山との関係より、高良玉垂宮との関係にすり替わるようだ。

  気になって来たのは、高良大社がからむラインである。
 下馬場、寺徳、日ノ岡、これらの古墳の被葬者は、高良大社とつながりを持とうとした。氏族の守り神とか、血族とか先祖とか、理由があったのではなかろうか。そもそも、高良大社の神は、いつから祀られていたのだろう。古墳との関係が見え隠れしているから、古墳時代中期か、六世紀には、その祭礼が執り行われていたことになる。少なくとも、有力者には尊崇の念を持たれていたのだろうから。

  しかし、大善寺玉垂宮とは関係なさそうである。
  大善寺玉垂宮と近くの御塚古墳(初期ホタテガイ型前方後円墳)をラインでつなぐと、隣の権現塚古墳にはつながるが、高良玉垂宮にはつながらない。また、水間君ゆかりの弓頭神社(塚崎にも弓頭神社がある)(原田)と月読神社(高良御廟塚と同じ敷地)(塚崎)をつなぐと、御塚古墳につながる。ここは、水間君関係の古墳と神社ということになる。筑紫君磐井と水間君は、関係を断っていたのだろうか。

(キ)少し脱線!
「磐井の乱」後も筑紫君一族は存続したのか
筑紫国造(君)磐井は六世紀前半に斬られたというが、「筑紫君」は残ったようである。百年後、六六三年八月、一昼夜にして軍船が炎上し、倭国軍が新羅・唐の連合軍に敗れた「白村江の戦い」の後にも筑紫君一族は残っていたと、古代史の講座ではよく聞く。この戦いで、唐軍の捕虜となったらしい筑紫君薩夜麻は、磐井の子孫だろうか。日本書紀のこの部分を調べることにした。
 捕虜となっていた薩夜麻は、天智天皇十年十一月十日に、沙門道久、韓島勝沙婆、布師首磐と共に帰国している。『唐の使人郭務悰ら六百人、送司沙宅孫登ら千四百人、合わせて二千人、船四十七隻比知島に泊まっている。船の数が多いので、この地に近づけば防人が驚いて戦いになるだろうから、あらかじめ来朝した事を、道久達が述べに来た』と、唐からの来朝を対馬から知らせている。二千人の来朝は、驚きであったろう。
しかし、来朝は、こればかりではない。郭務悰は、天智天皇四年に、二百五十四人で来朝し、大和にも来ている。また、天智天皇八年にも『大唐、郭務悰等二千人を遣せり』とある。彼らは何をしに来たのか。当然、白村江戦の戦後処理だろう。書紀の記述に重複があるかもしれないが、薩夜麻が帰ったとき、送司沙宅孫登ら千四百人が一緒に来たのは驚きである。彼らは、薩夜麻等を送って来たのだろうか。この年の十二月三日、一月も経ぬうちに天智天皇崩御。翌年三月、天皇の喪が筑紫の郭務悰に知らされる。彼は喪服を着て三度挙哀(人の死にあたり声にだして哀情を表す礼)したと書紀にある。五月十二日、郭務悰等は甲冑弓矢その他の賜物を賜り、三十日に筑紫から帰っている。五月末までは、彼らは筑紫に居たのだ。大和に行く用は無かったのだろうか。薩夜麻も筑紫に帰り、大和にはいかなかったのだろうか。疑問は残る。
薩夜麻らは帰国の目的を達成したのか、気になるところである。
そもそも、薩夜麻が帰国出来たのは、大伴部博麻の犠牲の賜物だった。
長安にいた捕虜達は、「唐が倭国を攻める」という噂を聞きつけた。彼らは、帰国して唐の計画を知らせ、国難から救おうとした。しかし、路銀も何もない。そこで、博麻は我身を売って衣食・旅費を捻出し、四人の捕虜を帰国させた。
筑紫国上陽哶(カミツヤメ)の出身で九州の人である大伴部博麻は、三十年後に帰国した時、国への忠節に対し、持統天皇に褒美をもらっている。この時、長安にいた捕虜達は、師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子と博麻が報告しているが、持統天皇四年に書かれている四人の名前は、天智十年の記述と違っている。天智十年の帰国者の中で薩夜麻だけが同じ人物である。我が身と引き換えた捕虜達の名を、博麻が忘れるはずはないだろうに。
五十年後に帰国した許勢部形見も筑後の国山門郡から出征しているから、九州の人である。数万の軍で半島に渡ったのは九州の兵力だったのだろう。九州には、軍事力、海運力ともにあったのかも知れない。
日本書紀によると、白村江敗戦後、百済の熊津には都督府(唐の行政府)が置かれ、占領政策を行ったのである。同じような行政府であろうか、天智天皇六年、「筑紫都督府に境部連石積等を送る」と書いてある。都督府の文字が出て来るのは、これだけと注釈に書いてある。畿内には、都督府は置かれなかった。占領政策下に置かれたのは、九州ということだろうか。
半島に渡った倭国の総司令官は、誰だったのだろう。阿倍引田比羅夫、上毛野君稚子、許勢神前臣訳語、この人達は、戦後どのような運命をたどったのだろう。白村江の戦いの責任を、誰がとったのだろう。
畿内の天皇家は、何も責められなかったのだろうか。
六六〇年に滅びた百済の重臣鬼室福信から、皇太子豊璋の帰国を願い、百済再興のための救援の要請があった時、これに応えた斉明天皇は、近畿から九州に渡り、心労がたたった為か崩御されている。その為、近畿の勢力は兵を動かすことなく、近畿に戻り殯葬をしている。彼らは百済救済に本気だったのだろうか。(?)
筑紫君薩夜麻が、磐井の子孫である可能性はあるだろう。大友部博麻は、主人の身代りになったのだろう。岩戸山歴史資料館の講演会(田中正日子氏)で知ったことだが、博麻は筑紫国住人として出兵したのである。博麻が帰国した時、すでに筑紫の国は二つに分けられ、筑前筑後となっていた。彼が唐に居る間に大きな政治的な改革があったという。
筑紫君一族は筑前筑後の何れに残ったのか。八女丘陵には『磐井の乱』後も墳丘墓は造られ続けられている。気になるのは、薩夜麻・博麻らが身を賭して、大和に「唐の謀を知らせよう」とした事である。では、薩夜麻も博麻も、既に大和の支配下に入れられていたという事だろうか。
気になるところだが、筑後国の方に戻ろう。
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by tizudesiru | 2011-09-24 15:51 | 7八女丘陵の古墳のライン | Comments(2)


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