カテゴリ:78筥崎宮の「敵国降伏」その4( 1 )

続々の続・筥崎宮の「敵国降伏」

地図で楽しむ古代史

6)馬見山の東西 それから、最初に出てきた三郡山の後ろに控えていた馬見山の事ですが、この山は筑後平野を見守る信仰の山のようです。遠賀川の源流は馬見山です。大神様を「おんがさま」と呼ぶそうです。馬見山は「神武天皇が馬を見逃したから、そのまま馬見山と呼んだ」とか伝承がありますが、馬見と名が付く前は何だったのでしょう。ただの「大神山」だったのではないでしょうか。馬見山から秋月を経て流れる小石原川の流域にある「大巳貴神社」は、「おんがさま」と呼ばれています。「馬見」以前は「おんがさま」だったのではないでしょうか。
古処山に居た羽白熊鷲(日本書紀によると、神功皇后に滅ぼされた熊襲の首長)は、山の上で何をしていたのでしょう。彼は、そこで東の山に向かって神祭りをしていた。古処は生活の場ではなかったはずです。祭った神の山が、「大神様」(馬見山)と思われます。
 十世紀の筥崎宮はこの山を崇敬していたのではなく、押さえこんでいました。式内明神大社の筥崎宮は大宰府の道真の祟りを封じ込めるために造られ、敵国降伏させるための神社でした。そうして、都を守ろうとしていました。当然、宝満山・馬見山も都守りの為に役立てたか、押さえこもうとしたかです。敵国の象徴として馬見山を見ていたのなら、醍醐帝が恐れたのは、熊襲(熊鷲の時代)の国だったのでしょうか。
馬見山の西にそびえる山は、雷山です。雷山は「そそぎ山」と呼ばれていました。羽白熊鷲の終焉の地は「そそぎ野」です。そそぎ野とは雷山の事でしょうか。熊鷲が戦いに敗れた「そそぎ野」が雷山だった可能性はあるでしょうか。そうすると、彼は弥生の首長ではなく、もっと後の時代の権力者だった事になります。または、後の時代の戦いと混同されたか。後の時代の戦いとは、6世紀前半の磐井の乱まで下がるでしょうか。

 結果として十世紀の朝廷が教えてくれたのは、北部九州の信仰の山々です。宝満山・馬見山・古処山・三郡山・脊振山・雷山・井原山・若杉山・釈迦岳・飯盛山・愛宕山・鷹取山・大根地山・宮地岳・天拝山・鉾立山……たくさん出てきましたが、この中には「神の坐す山、首長の祭祀場になった山、中継点になった山」など様々な状況があります。信仰の対象だった時間(時代)にも、違いがあります。
たとえば、宝満山と飯盛山は、古い信仰の対象だったようです。弥生時代(東西に相対する山を信仰の対象にした。太陽の昇る山・しずむ山)まで遡ると思われます。はじめは、宝満山(男神)飯盛山(女神)→宝満山(イザナギ命)飯盛山(イザナミ命)*書紀神話の影響の名前ともいわれます。それに、イザナミの墓は横穴式石室だった?ようです。弥生の甕棺墓にそぐわないとも聞きますが。*
→首長が神祭りを始め、祭祀場が造られる(吉武高木の大型建物)・葬送が権力者に重視される(副葬品)宝満・飯盛ラインは、弥生の首長の眠るラインとなる。これに倣って、族長も地域の山を意識して墓を造る。
→ 権力の移動・勢力の拡大・大城山で宝満山・飯盛山の神を祭る・祖先祭祀も大きくなり、神まつりが国守りと結びついていく(弥生墳丘墓)→地域の山が信仰の対象になって行く(糸島では、加也山・脊振山・井原山など)
 政権交代→信仰されていた神が、有力な首長の祖先神にかえられる。宝満山は、イザナギ命から玉依姫へ。勢力圏の拡大・神祭りの拡大
このように、同じ山が信仰の対象としても変化したと考えられます。
そろそろ、まとめになります。
(7)神籠石の時代・福岡平野、そして筑後平野
神籠石と山と神社
 帯隈山神籠石と杷木神籠石の二か所は、筑後平野を挟んで同じような緯度にありました。少し傾いていますが、だいたい東西の関係になっています。両神籠石は、対になっているのは、何のためでしょう。主要道路を抑えるためとか、物理的な防御が目的でしょうか。宗教的な、または境界を示すとか政治的な関係でしょうか。ほぼまっすぐなラインに意味があるのでしょうか。
 帯隈山神籠石から北にラインを伸ばすと、福岡市西区の愛宕神社を通り、博多湾を越え、西戸崎の大嶽神社に届きました。海の中道にある岡の上の神社です。このラインが有効であれば、神籠石の時代、すでに大嶽は信仰の対象だった事になります。南北に向かい合う神籠石と大嶽。この大嶽と東西に向かい合うのが、鉾立山です。鉾立山から南に、砥石山・宝満山・宮地岳・高良山神籠石とつながっていました。これらの山が連なる事は、山頂に登れば分かります。高良山神籠石は、鉾立山・宝満山からのラインを意識して築造されたのです。そして、後世には、鉾立・宝満ラインを抑えるために高良大社が造られた…となります。敵国につながる信仰の山(または、結界の山)を抑えるのが目的でした。式内社が徹底して抑え込もうとした伝承や山や墳墓に、「敵国」の存在が見えてくるのです。
また、帯隈・大嶽ラインが通過した愛宕神社と東西に向き合うのが、大分八幡宮の陵墓です。大分八幡宮が宇佐八幡宮の元宮であれば、7世紀末には祭られていた事になります。陵墓は何時でしょう。愛宕山と向き合う時期、大分宮の社殿はなかったのです。陵墓は7世紀より遡るでしょう。

帯隈山神籠石と南北に向き合う愛宕神社・大嶽神社
大嶽神社と東西に向き合う鉾立山。
南北に向き合う鉾立・宝満・宮地岳山城の山頂と高良大社(高良山神籠石)。
高良山神籠石と東西に向き合う鷹取山(鷹取山の北に筑後平野を挟んで古処山)
雷山神籠石と東西に向き合う宮地岳古代山城。
女山神籠石と東西に向き合うおつぼ山神籠石
女山神籠石の北には、石人山古墳・原口古墳・太宰府政庁・大城山山頂の横・かなり離れて宗像大社本殿
*宗像大社は、遠くから密かに石人山・原口古墳・政庁を抑えようとしていたのでしょうか*
東西南北の組み合わせを少し紹介しましたが、神籠石の結びつきは東西南北だけではありませんでした。たとえば、女山は杷木神籠石・唐原神籠石とつながりました。これらのラインから囲まれた土地があります。
此処には何があったのでしょう。この土地の何処かに醍醐帝が恐れた「敵国」(筑紫城)があったのです。
東西南北の組み合わせはいくらでも造れます。しかし、歴史的建造物や言い伝えを結ぶ事はなかなかできないと思います。
神籠石と古墳
 神籠石が重要地域を取り囲むのは地図上でも分かりやすいのですが、古墳との結びつきはどうでしょう。たとえば、5世紀の江田船山古墳からのラインは、女山(神籠石を省略)・福岡市の愛宕神社・沖津宮(志賀海神社の元宮)に届きます。余りに離れているので、やや疑わしいでしょうか。他の有力者の墳墓では、すでに紹介したおつぼ山・帯隈山・五郎山古墳がありました。女山・高良山・寿命大塚古墳もあります。岩戸山古墳からは、高良山を通り大根地山。女山からは雷山山頂を経て一貴山銚子塚古墳です。女山からは、石人山古墳・原口古墳もありました。一貴山銚子塚と原口は、早い時期の古墳で三角縁神獣鏡を副葬していました。が、一貴山では頭部に置かれたのではありませんでした。鹿毛馬からは、竹原古墳を通り津屋崎の宮地嶽神社古墳に届きます。被葬者は、宗像君徳善より時代が遡ると聞きましたが、そのはずです。7世紀の古墳ではないようです。
 神籠石は古墳をどう扱っているのでしょう。その権威を否定しているのではないようです。地域の最有力者の墓として扱い、その権威を神籠石に取り込もうとしているようです。岩戸山古墳は、磐井の寿墓と伝わります。神籠石を築造した時、磐井の墓はあった事になります。神籠石築造は、磐井の乱の前か、後か? 乱後だとして、近畿王権に対立した磐井の墓の権威を取り込んで神籠石を造る事が、可能だったのでしょうか。神籠石の配置から言える事は、それは可能だった…でしょう。お互いの位置を確かめながら、同じ目的で山城を造るには、よほどのつながりがなければできない事です。そして、推進力をもった首長も必要です。磐井の乱後、全国に屯倉が増えて行くそうです。その中で、神籠石山城を造り続けた九州北部勢力。目的は、近畿王権に対する防衛でしょう。中心的な磐井が敗れたのですから、九州の豪族たちは慌てたはずです。そして、過去の有力者の権威と霊力を借りて山城を造ったと思われます。鹿毛馬は列石が途切れた場所があり、工事が途中で終わっています。その時、築造の意味が失われたのでしょう。
 528年磐井の子葛子が糟屋の屯倉を献上。535年全国に26か所の屯倉を設置。九州では、筑紫 穂波・鎌・豊国 ミ崎(門司区)・桑原(築上町)・肝(か)等(と)(苅田町)・大抜(おおぬく)(小倉南区)・我鹿(あか)(赤村) 火国 春日(熊本市)と、なっていて、屯倉は神籠石の守りの外側に当たるとおもうのですが。屯倉の設置から見ても、神籠石は磐井の乱後に「北部九州の連合国が、北部九州を守るために造った」のです。
602年には久米皇子が二万五千の軍隊を連れて、新羅を討つために筑紫にきます。662年の白村江戦の軍隊は、筑紫から出ています。では、久米皇子の軍隊は、何処で組織されたのでしょう? 推古10年に「久米皇子をもて撃新羅将軍とす。神部(かむとものを)及び国造・伴造(とものみやつこ)等、併せて軍衆(いくさ)二万五千人を授く」と書かれています。軍隊は皇子が連れて来たようです。久米皇子は病に倒れ筑紫でなくなり、任が果たせませんでした。しかし、筑紫を脅すには十分だったと思います。
 神籠石は535年から602年の間に築造され、山城は使われることなくそのまま放置された事になります。または、602年から660年の間の築造です。久米皇子の派遣に慌てて、北部九州が団結したのです。
602年久米皇子の筑紫下りは新羅「征討」が目的です。しかし、出兵していません。皇族(聖徳太子の弟)が軍隊を率いたのも古代には最初、異例です。そして、何故602年なのか? 大変、恥ずかしい説ですが、これは、600年の「日出処天子」の国書問題(遣隋使)とも関係あるのではないかとかってに思うのです。筑紫城の「天のタリシホコ」が隋に天子として国書を出したとなれば、近畿王権にはゆゆしき問題です。当然、軍隊派遣でしょう。久米皇子が亡くなった後、兄の当麻(たぎま)皇子が征新羅将軍となります。この皇子は播磨で妻を亡くし、引き返し「遂に征(う)討たず」となっています。近畿王権では、続けて皇子を将軍としているのです。
推古8年には、任那救援の大将軍として「境部臣」、副将軍として「穂積臣」を新羅征討に出しています。その二年後に皇子将軍が続くのは、やはり異様でしょう。此処に、大きな目的が隠れていると思います。それは、磐井の乱後の戦後処理の確認です。神部・国造・伴造をともなった理由も分かります。北部九州の造り直しです。根本的な造り直しでしょう。しかし、十分には果たせなかった。次のチャンスは、白村江戦でした。斉明天皇は九州に「征西」します。「征討新羅」ではありません。万葉集も同じく「征西」となっています。百済はすでに滅んでいました。軍隊を出して疲弊した九州へ「征西」し、中大兄皇子(天智天皇)は母と離れ、長津宮で政務をとっていたのです。筑後平野と福岡平野に分かれていたのは、どちらからも軍隊を出すためとも聞きます。しかし、とうとう軍隊を出さずに、中大兄皇子は崩御した斉明天皇とともに飛鳥に戻ります。それからの十年間で、天智天皇として日本と北部九州を変えて行くのです。
 つまり、白村江戦までは近畿王権の「敵国」は、北部九州にあったのです。日本書紀の編纂が「聖徳太子の政治理想を実現する」という組み立てになっていると聞きました。久米皇子が九州の地を踏んだ事は、肥前風土記にも書かれています。聖徳太子は「九州征討」に本気だったのです。この歴史の事実を道真は知っていたでしょう。王城神社の由緒にも言うように、「道真の謹慎する南館に王城神社の社人が頻繁に訪れ」、歴史のあれこれを聞いていた事でしょう。宇多天皇は菅原道真をとりたてました。道真の娘を後宮にもいれています。歴史の話もしたでしょう。醍醐帝に「道真は忠臣」であると、帝王の心得を書いた文中で伝えています。道真の死後その祟りが所縁の人々を襲った時、醍醐帝が思い浮かべたのは「九州の怨霊と一体化した道真」だったのではないでしょうか。その事が「敵国降伏」の辰筆になった…

(まとめ)6世紀の政変・7世紀の征西・10世紀の延喜式
 それにしても、この時代の考え方や、歴史が何故残らなかったのでしょう。銅鐸の言い伝えが残らなかった事と同じでしょうか。他の文化を持った人々に侵略され、文化伝承の継承が出来なかった等々。ほかにも、「神話はあるが遺跡なし」と言われた出雲から、358本(荒神谷)の銅剣が出てきました。誰も想像しなかったけれど、銅剣が出てきたのです。出雲では銅剣と銅鐸が出土します。が、伝承はありません。その文化を支えていた人の移動か、政権争いの敗北により消されてしまったのでしょうか。

祭祀ラインを引いていて気付くのは、6世紀とされる古墳・神籠石・10世紀の式内社・地域の大事な山岳が、数多くライン上に上がる事でした。九州では、幾度も葬送文化に変化があっています。甕棺墓が急に見当たらなくなったり、前方後円墳から円墳に変わったり、石人石馬の古墳が少なくなったり、装飾古墳が広がったり、横穴墓が集中する地域があったり、割竹型石棺や家型石棺、長持ち型石棺など石棺に違いがあったり、横穴式石室や竪穴式石室、副葬品に至るまで、3世紀から6世紀の間にめまぐるしい変化が訪れています。新しい葬送文化を受け入れて行くには、何らかの生活の変化があったのでしょう。心理的・政治的・経済的変化があったと考えられます。
 筑紫における6世紀の政変と言えば、「磐井の乱」です。隣国の歴史書も、6世紀は倭国の記述が消えているのです。私は、「倭国の空白」とブログに書きました。新羅を支持していた磐井は敗れ、九州には物部が入ってきたと言われます。物部はもともと九州の氏族という事も言われますが。当時の大王は、百済を重要視続けています。磐井の乱後、筑紫は立て直しを始めました。神籠石で筑紫を守ろうとしたのでしょうか。消えそうになった連合関係を取り戻そうとしたのだと思います。
 次に隣国と親密になるのは、白村江戦の前あたりからです。それまで、支援を頼むにも、倭国にはそれだけの軍事的経済的ゆとりがなかったのでしょう。600年には、隋へ遣使を送れるようになりました。『山は阿蘇山あり』と書かれた国書を、男性王が隋の天子に送っています。やがて、隣国との交流が再会するのです。多分、近畿と九州に権力が分散していたでしょう。中大兄皇子(天智天皇)は新羅ではなく百済を選びます。660年百済の滅亡後「百済救援軍」を出しますが、筑紫への『西征』でした。中大兄皇子が、長津で政務をとり、斉明天皇は朝倉橘広庭宮に居たと書かれています。斉明帝崩御後、中大兄皇子は政務をとり筑紫を造り変えて行きます(蘇我日向を筑紫にしのびながししています。蘇我赤兄も太宰府帥にしています)。白村江戦で打撃を受けた筑紫には、余力はなかった事でしょう。6世紀の政変・7世紀の征西で、九州の倭国の記憶は消えて行ったと思うのです。
 更に、10世紀の延喜式です。900年・辛酉の年に大改革を提言された醍醐天皇は、歴史にも造詣の深い菅原道真を排除し、国守りの神社を造り変えました。歴史ある神社や言い伝えは忘れられ、御祭神の入れ替えも行われました。もちろん、いつの時代も庶民が新しい為政者と結びつくことを望んだと思います。進んで新しい神やしきたりを取り入れたと思うのです。明治の廃仏毀釈もあったではありませんか。宝満山・脊振山・英彦山などの僧坊・寺社がことごとく消え、伝承すらもほとんど消えています。それは、歴史の中で常に大きなものに巻かれてきた我が国の文化の特色でもあるのでしょう。

以上が「7月の発表で言いたかったこと」です。
筥崎宮の「敵国降伏から見える古代の九州」について、楽しく遊びました。
読んで下さった方、ありがとうございます。

 ブログを読んでくださった方からご指摘をいただきました。筥崎宮の楼門の額「敵国降伏」の国の文字が、國ではということです。確かにそうです。ブログの「4 筥崎八幡宮」の楼門の写真を見ていただくとわかります。「敵国降伏」は「敵國降伏」が本当です。これから、気を付けます。




[PR]
by tizudesiru | 2012-07-23 15:00 | 78筥崎宮の「敵国降伏」その4 | Comments(4)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇
at 2017-08-19 13:31
稲荷山古墳鉄剣銘文・乎獲居臣..
at 2017-08-17 22:22
乎獲居臣の八代の系譜
at 2017-08-17 00:34
稲荷山古墳の金石文の訓み解き..
at 2017-08-16 11:31
稲荷山古墳は仁徳陵の4分の1
at 2017-08-15 01:14
知っていそうで知らない江田船..
at 2017-08-13 17:43
阿倍寺の近くの艸墓古墳
at 2017-08-11 14:30
左大臣安倍倉梯麿の安倍寺と墓
at 2017-08-10 20:47
明日香・奥山廃寺に秘められた物語
at 2017-08-08 10:38
蘇我馬子の菩提を弔ったのは誰
at 2017-08-06 22:19
福岡市の平群・地図で読む物語
at 2017-08-05 00:02
大型甕棺墓の時代の木棺墓
at 2017-08-02 21:26
大型甕棺の種類、見分けにくい..
at 2017-08-01 20:01
三種神器発祥の地・吉武高木遺跡
at 2017-07-30 17:36
虚実ないまぜ?古事記と書紀の..
at 2017-07-29 22:00
倭は国のまほろば・倭建命の国..
at 2017-07-27 11:08
長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
at 2017-07-25 15:05
卑弥呼の宮室は吉野ケ里ではない?
at 2017-07-24 14:44
邪馬台国論争・TBSの着地も..
at 2017-07-23 14:29
大国主を追放したのは、何処の..
at 2017-07-22 17:27

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
261大化改新後、大国魂神社は総社となる
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造を命じた首長は誰
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳

画像一覧

以前の記事

2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ