カテゴリ:76筥崎宮の「敵国降伏」その2( 1 )

続・筥崎宮の「敵国降伏」その2

地図で楽しむ古代史
 (3)東西ラインは弥生時代の信仰のなごりか
ア 宝満山と飯盛山ラインの遺跡
前の「筥崎宮・太祖宮・大分宮」で紹介した福岡平野を東西から見守る山、飯盛山と宝満山ですが、両山頂を結ぶと間に「須玖岡本遺跡」と「吉武高木遺跡」が来るのです。5万分の一の国土地理院の地図では、見事に連なります。この弥生の代表遺跡が飯盛・宝満ラインに乗る事が、地図に興味を持つようになったきっかけの一つです。まず、宝満山を起点にした西に伸びる白ラインをみてください。須玖岡本遺跡は有名ですが、此処は広い遺跡です。ガラス工房・青銅器工房と工場地帯になっています。銅鏡30面以上を副葬していた王墓は、青印を入れています。他にも、地域の首長墓があります。
須玖坂本(銅生産工房・鏡、銅矛など)
須玖五反田(ガラス工房・玉磨きの砥石出土・ガラス勾玉など)
王墓(甕棺・中国鏡30面以上・銅剣・胴鉾・銅戈・ガラス璧・ガラス玉・勾玉・管玉・甕棺上4tの大石)
須玖岡本(甕棺・弥生住居・小銅鐸鋳型)
岡本(甕棺墓群)
赤井手(鉄器工房・青銅器工房・ガラス鋳型・6世紀初頭古墳に鏡、武具、工具、須恵器)
竹ヶ本(弥生から古墳までの集落・前方後円墳)
宝満山からの白ラインは、大城山・須玖岡本遺跡・吉武高木遺跡・飯盛山・糸島市の三雲南小路・一貴山銚子塚古墳とつながります。須玖岡本王墓から引いたピンクラインですが、須玖岡本王墓・吉武高木(はっきりしませんが大型建物)・飯盛山・三雲南小路王墓とつながります。春日市の須玖岡本王墓は、30面以上の漢鏡や王侯クラスに与えられるガラス璧を副葬し、吉武高木は半島と関係の深い多紐細文鏡を副葬していました。三雲南小路王墓も、35面の漢鏡とガラス璧が出土しているそうです。時代的には、紀元前2世紀から紀元2世紀の首長墓ですが、宝満・飯盛ラインに並んでいます。福岡市早良区が衰えた後、春日市須玖岡本地区が栄え、その後糸島地区が栄えたのでしょうか。弥生の首長は何処かでつながっていたようです。甕棺や鏡など葬送の品物が似ていますから。半島や中国と交流のあった王墓とつながるため、東西の信仰の山の間に眠る事が重要だった弥生時代の首長達。一貴山銚子塚は、古墳時代になりますが。
一貴山銚子塚古墳は4世紀築造の前方後円墳で、珍しい金メッキの方格規矩四神鏡を副葬しています。8面の三角縁神獣鏡は棺外の足元に置かれていた事でも有名です。糸島で最大の古墳で、宝満・大城山・飯盛山のラインに連なっていますから、4世紀でも王墓が信仰の山を頂く事が重要視されたのかも知れません。
他の首長墓や山岳を強く意識し、墳丘墓を造るようになったのでしょう。飯盛・宝満ラインには、弥生時代に栄えた早良国、那国、伊都国の中心地域が載っています。そこは選ばれた土地だったのではないでしょうか。その伝承は、古墳時代にも残っていたと思われます。
つまり、このラインから弥生時代から古墳時代への転換期が見えるという事です。
転換期と言えば、三雲南小路王墓の後、平原王墓になるとそれがよくわかります。この弥生墳丘墓は、可也山(糸島富士)と三雲南小路王墓の間にあり、糸島から見える山の最高峰の井原山と、天ヶ岳の山頂を結んだライン上にあります。平原の王は三雲南小路王墓を崇拝し、地域の山々に畏敬の念を持っていたことになりませんか。しかし、宝満・飯盛ラインに葬られなかった…彼女はただ地域の首長にすぎなかったのでしょうか。
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この平原王墓には、漢鏡と日本最大の内向花文鏡(いずれも国宝)が割られた状態で副葬されていたそうです。今日、これらの銅鏡の内二枚以外、全て国産だったという研究が発表されています。「糸島市の平原弥生王墓(原田大六氏が発掘)の舶載鏡、国産と言われる内向花文鏡は、国産鏡だ」と柳田康雄氏は述べています。また、「古代の鏡と東アジア(学生社)」のなかで、新井宏氏は「鉛同位体から見た三角縁神獣鏡」を発表し、三角縁神獣鏡のほとんどが国産鏡だとしています。更に、平原弥生王墓の鏡も国産としています。見事な中国鏡と思われていた鏡が国産なら、そのころの鋳物技術は優れていた事になります。それから、百年もすれば、鉄を溶かして刀を造ることくらいは出来たと思います。最古の暦を刻んだ鉄剣も、近畿で造らなくてもいいでしょう。近畿王家からの下賜品と、初めから決めている最近の論調に、素人なので意味がわかりません。
(余談)しかし、鏡の研究はずいぶん変わってきたと思います。研究家(王仲殊氏や徐苹芳氏)が指摘されているそうですが、卑弥呼が貰った鏡として可能性が大きい物は、「蝙蝠紐座内行花文鏡・双頭竜鳳文鏡・方格規矩鳥文鏡・方格規矩鏡(漢鏡6期)・キ鳳鏡・獣首鏡・竜鳳鏡(三角縁盤竜鏡を除く)・飛禽鏡・円圏鳥文鏡・位至三公鏡」の十種類であるとか。蝙蝠紐座内向花文鏡は、紐の周りにコウモリの文様が見られし、位至三公鏡は文字で分かるのですが、他は名前しかわかりません。これらの鏡のほとんどは北部九州で出ているそうです。
また、日本で出土する「位至三公鏡」はその形式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じで、中国の北方からしか入ってこないそうです。魏晋時代に都があった洛陽市で発掘された洛陽晋墓54基中、主流になる鏡式(ネットの情報)だそうです。晋代に流行した「位至三公鏡」は、我が国では北九州(佐賀県谷口古墳・糸島市井原など)を中心に分布しています。もちろん、弥生時代の漢鏡はほとんど北九州を中心に出土しています。鏡の出土状況からして、265年から316年の晋代まで、倭国の中心は、北九州にあったとしか考えられないそうです。だから、邪馬台国は、当然、北九州にあったようです。4世紀に何があったのでしょう。
イ 大分宮と愛宕山
大分宮の北側の森は小高い丘になっていて、宮内庁管轄の陵墓です。白い筋は階段です。陵墓から出ている紺ラインは、これより真西にある福岡市早良区愛宕山に届きます。大分宮と愛宕山の間に、式内社(明神大)住吉神社と、舞鶴城・鴻臚館が入ります。式内社が間に入る意味は、筥崎宮と同じでしょうか。愛宕山は、早良区を流れる室見川河口にあります。室見川沿いには吉武高木遺跡や、野方遺跡など有名な弥生の遺跡(卑弥呼の時代の漢鏡出土)があり、はやくから半島・中国と交流を持っていました。吉武高木の首長墓から多紐細文鏡が出土した事はすでに書きましたが、三種の神器(玉・鏡・剣)の副葬の原型がみられる事でも知られています。早良地区の入り口にある愛宕山が、弥生の信仰の山だとしても不思議ではありません。
大分宮と愛宕山は東西の関係になりますが、その役割は何だったのでしょう。大分宮が朝廷から奉幣を受けるべき条件を持ちながら、式内社(明神大)とならなかった理由があるはずです。大分宮を筥崎に遷宮しなければならなかった理由が。それは、愛宕山と東西に並んでいたからではないでしょうか。弥生から続く東西の神祭りの場がそこにあったから、そのまま使えなかった。愛宕山は重要な位置にあります(多数のラインが通過することを考えるとそうなります)。南北朝の頃、愛宕山には九州探題が置かれています。古代から中世まで、ただの田舎ではなかったのです。大分・愛宕ライン上に、住吉神社(式内・明神大)が鎮座していますが、式内社として、住吉神社は何をしているのでしょう。筥崎宮のようにこの地に鎮座する意味を担っていたはずです。東西ラインと関係があるとすれば、大分宮と愛宕山の間に入り込んでいる意味が限られます。それは、大分宮や愛宕山を支える為とは思えません。逆に大分宮と愛宕山の結びつきを断つためと考えると、納得できます。そこが過去の権力者とかかわる場所だとしたら、当然です。更に、鴻臚館まで通過します。大分陵墓・愛宕山の位置を考慮して鴻臚館が造られたのなら、築造年代はさかのぼる可能性があります。鴻臚館も文献に出るより、古くから存在していたとも聞きました。鴻臚館が始まったころ、大分宮はなかったのでしょうか。ここの陵墓が何時の時代か分かれば、大分宮についても理解が深まると思います。
東西に相対する山や墳墓や祭祀場が意味を持っていた時代は、いつまで続いたのでしょう。
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ウ 筥崎宮と宝満山をつなぐと、間に宇美八幡がきて、宝満山を越え大根地山山頂にラインが届きます。大根地山は、春日市の日拝塚古墳から見ると春分秋分に陽が昇る山です。山頂近くに大根地神社があります。つまり、両者は東西の位置にあり、大根地は被葬者の信仰の山だったようです。筥崎宮の遷座地からも選ばれた山になります。そうなると、大根地山も大根地神社も朝廷に協力的な立場にあるのでしょうか。一方では「敵国降伏」を目的とし、一方では「崇敬」の態度をとる…考えられません。大根地山も「敵国」とかかわる山なのでしょう。筥崎宮にとって、宝満山は大事な山です。任命された国司が大分宮に奉幣するのに、伯母の宝満山を越えるのが不敬になるので、筥崎に遷宮したのですから。間に入る宇美神社も応神天皇生誕の伝承地ですが、もともと敵国にかかわる神社だったのでしょうか。では、太祖宮・大分宮はどうでしょう。朝廷の国守りに一役を担っているとは、考えられません。大分宮は愛宕山と東西に相対していますから。
筥崎宮は式内社として「国を守っていた」というより、近畿の朝廷を守っていました。筥崎宮以外の他の式内社はどうでしょう。九州の式内社も、地方の豪族の墓や、信仰の山を朝廷の神の力によって抑え込むために定められたと思うのです。地図で見る限り、九州の他の式内社は、9世紀以前の神祭りの山や、有力豪族の墓を封じ込めるような位置に造られています。その話は、別の機会に。

 
「続々筥崎宮の敵国降伏」に続きます
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by tizudesiru | 2012-07-23 15:20 | 76筥崎宮の「敵国降伏」その2 | Comments(0)


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