カテゴリ:75筥崎宮の「敵国降伏」その1( 1 )

筥崎宮の「敵国降伏」 

 「地図で楽しむ古代史」                          
始めに  
私は、以前から地図で遺跡を確認していくうちに古墳や神社がかなり遠くでも並んでいるように思うようになったのです。それから、国土地理院の地図で調べるようになりましたが、以外に山頂や古墳のラインがつながるので、むしろそんなことはないだろうと否定的な気持ちを持っていましたが、ある時、国土地理院の地図をつなげてみて、一定の時期の古墳がつながる事に気がついたのです。
もしかしたら、その事が古代のある一面を教えてくれるかも知れないと思うようになりました。
では、10世紀から古代にさかのぼりたいと思います。
10世紀の天皇が恐れた「敵国」からわかる信仰の山と神社
山がどのくらい前から信仰の対象になっていたか、難しい問題です。
分かりやすい例として、筥崎八幡宮でお話しようと思います。筥崎宮は923年に穂波町の大分八幡宮から遷宮されています。遷宮の4年後に筥崎宮は朝廷から祈念祭奉幣を受けるべき式内社となっているのです。福岡の式内社(明神大)は、8社です。筑前6社、筑後2社です。筥崎八幡神社の元宮、大分宮は式内社ではありません。そもそも式内社がおかれた最大の目的は何でしょう。
 筥崎宮遷宮の年923年は、菅原道真が右大臣に復し、正二位が贈られた年です。
23年前の900年は、辛酉の年でした。藤原時平は、変革を提言しています。翌年901年、時平の讒言により道真は右大臣の官職を失い、大宰権帥に左遷されました。そして、903年薨去(こうきょ)。この後、都は道真の祟りに苦しみました。905年延喜式の編纂が始まりましたが、時平の死、皇太子の死などの不幸が醍醐天皇に降り掛りました。921年筥崎宮に「敵国降伏」の辰筆が下り、923年大分宮より遷宮。927年醍醐帝に奏上された「延喜式」により式内社となったのです。歴史の浅い筥崎宮が式内社となるための理由とは何でしょう。「敵国降伏」の為の遷宮でしょうか。それは、道真の罪が許された事と関係があるようです。また、「敵国降伏」の敵国とは何処をイメージしていたのかという問題も残ります。
(1)筥崎宮・大城山・太宰府天満宮・宮地岳ライン
式内社箱崎宮とは何だったのか、調べてみましょう。お宮の長い参道から本殿を見ると、鳥居の間から山の頂上が見えています。山頂は、社の屋根の中央に乗っています。後ろの山は、宝満山ではなく三郡山です。しかも、地図で調べてみると、筥崎宮・三郡山・馬見山と二つの山の山頂を結ぶのです。何故、宝満ではなく隣の三郡なのか疑問でした。しかも、延長線が秋月の馬見山山頂まで届きます。遠賀川源流の馬見山です。数年前、その謎を解いたつもりでいましたが、更に新しい事実と重なり、祭祀線が無視できない事実を教えてくれていると思うに至ったのです。が、別の機会に。
 筥崎宮からのラインを詳しく見てみましよう。筥崎宮から大城山(大野城)を通り宮地岳にラインを引くと、太宰府天満宮の社殿を通るのです。何故、大宰府天満宮が来るのか?(天満宮の社殿は、藤原時平の弟の忠平が建立したものです。忠平は筥崎宮から測量して社殿を造らせたのでしょうか。起点になる筥崎宮(宮地岳)は、もと大分宮の頓宮であったからでしょう。近くには神功皇后が米を集めたら山のようになったから「米山」町だとか、古墳をつぶして電車道を造ったとか、本殿の東西に小山があって東側には武内宿禰を祭っていたが削られて「武内通り」という名のみが残っているとか様々な伝承があります。本殿裏を流れる宇美川は糟屋郡宇美町の宇美八幡の裏を流れる川です。宇美には「神功皇后が応神天皇を生んだ処」という伝承があります。筥崎宮も「応神天皇の胎衣が流れついた処に松を植えて印とした」という伝承があります。
箱崎宮から引いたラインが大城山を通ります。大城山は四王子山とも呼ばれ朝鮮式山城の一つで、天智天皇が白村江戦後に造らせたという「大野城」があります。ただ、大野城以前にも山城があったという伝承が残っています。「神武天皇が四王子山に事代主と武ミカ槌命を祭っていた」が、「天智天皇が大野城を築くので事代主と武ミカ槌を通古賀に移した」と、通古賀にある王城(おうぎ)神社の由緒に伝えられています。現在、大城山は古代山城の倉庫跡礎石があります。そして、太宰府都府楼跡の北、背後の山となっているのです。大野城は白村江戦後、太宰府防衛のために造られたと言われています。基肄城、金田城、高安城、鞠智城などとともに正史に出てきます。
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王城神社(資料)『王城神社は、事代主命(恵比須神)をお祭りする太宰府通古賀の氏神様です。その創始神武天皇が四王寺山に城を築いた際に、その峰に武甕槌命と事代主命をまつった事に由来するとされており、その後、天智天皇四年(六六五年)に大野城を築く際に、現在の通古賀の地に移されたと伝えられています。その後も、太宰府が栄えるにつれて、上下の区別なく信仰を集め、「王城神社縁起」(太宰府天満宮所蔵)には、菅原道真が太宰府に流された折には、王城神社の社人は府の南館にたびたび訪れていた』と書かれています。しかし、戦国時代の騒乱により社殿は焼け落ち衰退しましたが、その後、小早川隆景により再建されました。

太宰府天満宮は、道長の遺体を牛車に乗せ、牛が動かなくなった所を墓としたという伝承があります。その墓の上に藤原忠平が社殿を造ったのです。忠平が兄の時平一族を倒し、藤原宗家の坐を奪うために道真の祟りを利用したという説もあるそうです。それにしても、王城神社の社人は、道真からどんな話を聞いたのでしょう。
宮地岳は歴史書に出てこない神籠石が山頂西にあるのですが、発掘の結果「古代山城」と発表されました。そのため、他の地域の神籠石が「古代山城」と名称変更したという、その元になった遺跡の山です。その山頂は、宝満山山頂のほとんど真南になります。(写真は、現地説明会のパンフレットからコピーしたものです。太宰府側・北西からの航空写真で、南北が逆です。上部は筑紫平野、下部は阿志岐の田園)
 筥崎八幡宮・大城山・太宰府天満宮・宮地岳のラインは、歴史的な遺跡をつないで、6世紀・7世紀・10世紀初頭の歴史を伝えています。大野城(大城山)は、白村江戦後の建造物と伝わりますが、それ以前にも山城があった事が伝承により分かります。宮地岳山城は文献には見えませんが、切り欠き加工などの工法から古代の建造物である事は明らかです。時代は白村江戦後とされました。しかし、大野城より丁寧な技術が採用され、他の神籠石の列石とは違う列石の組み方が採用されています。それは、写真のように列石の下に丁寧に支えの敷石がある事です。大野城の百間石垣は、急工事のため粗い仕上げになっていると歴史の授業でも習っています。太宰府政庁の背後の大野城より宮地岳山城の方が複雑で丁寧なわけは、築造目的と築造年代が異なる為ではないでしょうか。665年より古い時代、誰かが目的をもって建造したという事です。北部九州の神籠石の何処にも、築造の伝承がない。これも、共通点です。築造目的を伝える必要と意味がなくなったからとか、当事者が滅んだからとか、理由は様々でしょう。現地見学会で「宮地岳山城は、阿志岐側から美しく見えるように石垣が組まれている」と聞きました。列石の並びが切れる場所は広くなり、土塁を列石が囲んでいます。そこに城門があったと予想されるそうです。もちろん、太宰府側(北)に開く城門です。城門が北に向いているのは、それなりの意味があるはずです。
筥崎宮の楼門に掲げられた醍醐天皇の辰筆「敵国降伏」、この文字に託された天皇の思いは何だったのでしょう。菅原道真個人の祟りを鎮めるために、筥崎宮に辰筆を与えられたのでしょうか。道真の復権と時を同じくして遷宮し、「敵国」を抑えようというのなら、その敵国は何時の時代の何処でしょう。筥崎宮・宮地岳ラインから読めるのは、過去の敵国の象徴が宮地岳(天山)にあったという事でしょうか。つまり、宮地岳山城は、敵国の山城だった。天智天皇が大野城を築くまで大城山にあった、別の山城とともに、誰も知らない権力者の山城が二か所。この二か所の山城を結ぶラインは、太宰府天満宮本殿を通過し、此処は道真の墓所という意味だけではないようです。このライン上に憎むべき敵国があった事になりませんか。その敵国の真実に迫りたいのですが… これから、宮地岳山城内の発掘があるそうですが、どんな物が出てくるのでしょう。
 (2)筥崎宮から見る・若杉山の太祖神社・穂波町の大分宮(水色) 筥崎宮から出る水色ラインは、若杉山の太祖神社を通り、穂波町の大分八幡宮に届きます。この三神社は、神功皇后伝説でつながります。此処も憎むべき敵国とかかわるのでしょうか。(画像1・筥崎本殿)
 ア 太祖神社(若杉山・山頂は紫ラインの先端)
太祖神社は、神功皇后が三韓征伐の後、西に向けてイザナギ尊を祭った社だそうです。福岡市早良区の飯盛山のイザナミ尊が東を向いて鎮座しているので、相対させるためだそうです。夫婦神なのにイザナミだけが西の飯盛山に祭られていたとは考えられない事です。考えられる事は、もともと夫婦神が福岡平野を東西から見守っていたという事でしょう。
『飯盛神社由緒』には、天之太玉命がイザナミ尊を奉斎する事を創建の起源としています。上宮にイザナミ尊、中宮に五十猛命を奉斎し、飯盛三所権現宮と称し、「当社は畏くも国土万物を生成し万の事始め給いしイザナミ尊を斎き奉る。太古よりの鎮座なり。社説によると天孫降臨のみぎり、天之太玉命この日向峠、飯盛山を斎き定めてイザナミ尊外二柱を祀り国土開発「むすび」を祈らせ給う。尚、福岡県粕屋郡篠栗町勢文、若杉山鎮座の太祖神社の縁起に曰く『神功皇后三韓を平伏し当社に奉賽の御祭祀を営ませ且つ神殿を西に向けて造営あらせられたり、その処を尋ぬるに早良郡飯盛山に鎮座せらるる伊邪那美尊の社殿東に向かいて相対せられしは深き由縁あり』と、太祖神社の御祭神は伊邪那岐命である事は夫婦相対し向いあえる縁しなり。皇后この若杉をとりて香椎宮に植え給える、今の綾杉がこれなり。以上古代の鎮座なる事明なり。その鎮座し給う由緒は深遠にして比類稀なる古社にして国土を化成し万民の始祖と坐します」と書かれています。
少なくとも太祖神社のイザナギ命が、飯盛神社のイザナミ命より後の世に祭祀された事、夫婦神としては大変不自然な状態です。もともと若杉以外に、イザナギ命の鎮座山があったとしか考えられません。
飯盛山のほぼ真東は、宝満山です。イザナギ命がもともと鎮座していたのは、宝満山でしょう。西の飯盛山に相対する東の山は宝満山。間に立つと、どちらも釣鐘形に見えます。男神が宝満山(約900m)女神が飯盛山(約440m)に鎮座と、見た目にも釣り合うようです。しかし、宝満山に鎮座するのは、神武天皇の母・玉依姫です。穂波町史に書かれていますが、玉依姫が自ら宝満を選んで鎮座したそうです。鉾立山に矛を立てて菅岳と高さを比べた事も書かれていますから、玉依姫は北から福岡平野に入り、宝満山をイザナギ命から奪ったのです。その後、神功皇后が若杉にイザナミ命を祭った事になります。香椎宮に植えられた綾杉は、今も大切に守られています。ちなみに鉾立山は、宝満山のほぼ真北です。鉾立山は方角を決めるときに使われた山のようです。太祖宮を北東側から南西側に横切る青ラインは、宮若市の竹原古墳から鉾立山を通り、太祖宮を貫き、大城山に届くのです。竹原古墳は6世紀の古墳。宮若地域と太宰府地域は、6世紀には深いつながりがあった事になります。竹原古墳の被葬者は、大城山城の権力者を知っていた。または、その逆です。赤ラインは南下し筑紫神社(式内明神大社)に当たります。筑紫神社の神は、基肄城が造られた時、城山(基山)から下ろされたそうです。筑紫神社と太祖神社は、南北の関係になります。
イ 大分八幡宮
大分八幡宮は筥崎八幡宮の元宮であり、宇佐八幡宮の本宮です。神功皇后の三韓征伐の後、従っていた兵士と別れた地なので「大分」おおわかれの地名がついたとか。
 水色ラインによると、神功皇后伝説の大分宮と遷宮先の筥崎宮の間に、神功皇后伝説の太祖宮がきちんとおさります。筥崎宮・太祖宮・大分宮の三か所の神社の並びは、遷宮地を選ぶ為に測量した結果でしょうか。この三神社の並びには、政治的なにおいがします。伝説の神功皇后とは、如何なる人でしょう。大分宮の真東には、新羅瓦を出土した大分廃寺があります。8世紀の寺だそうです。誰が建立したか記録はないのでしょう。

 筥崎宮からのラインで少なくとも考えられる事
・筥崎宮は道真の祟りを抑えるためだけの式内社ではない。
・「敵国降伏」の辰筆が遷宮以前に下賜された事は、敵国の降伏が遷宮の目的そのものである事。
・朝廷にとっての敵国が太宰府とかかわる位置にあり、大城山・宮地岳(天山)の古代山城とかかわる事。
・阿志岐古代山城は大野城より丁寧に築造され、太宰府側に門があるが、白村江戦後の築造とは考えられない事。
・筥崎・太祖・大分の三神社が直線上に並ぶ事は、神功皇后伝説は朝廷にとって重要である。
・筥崎と三郡山・馬見山の山頂がつながる事は、そこには古代の信仰の伝承があった。
・鉾立山のように、山あてを使った測量が行われていた。
・飯盛山・宝満山は、古くから信仰の山であった。イザナミ・イザナギの山として祀られた時代があった。
・大分八幡宮が式内社になれなかった理由が、隠されているのではないか。
大分宮については、次の「東西ラインは弥生時代…」で取り上げます。

 

続きは「筥崎宮の『敵国降伏』その2」を見てください。*「敵国降伏」の敵国は『敵國』です。「敵國降伏」です。変換ミスです。

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by tizudesiru | 2012-07-23 15:30 | 75筥崎宮の「敵国降伏」その1 | Comments(0)


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