カテゴリ:30山岳の名と歴史や文化( 1 )

30 山岳の名と歴史や文化

山の名は歴史や文化の伝播を語るのか?
 九州の地図を見ていて、「国見山」が多いと思う事があった。友人にその事を話すと、
「その国を首長が見渡せる場所でもあるだろうけど、国見山とは、侵略のルートなんですよ。よそ者が侵略する方法を見極める場所でもある」と聞かされて、なるほどとも思いつつ疑問も残っていた。
 何時も使っている国土地理院の地図閲覧サービスで、何気なく「国見山」と入れてみた。すると、面白い結果が出て来た。
*国見山のある県(数)
 岩手(3) 宮城(1) 秋田(1) 福島(2) 新潟(1) 茨城(2)
 石川(2) 神奈川(1) 岐阜(1) 三重(3) 兵庫(2) 奈良(2) 広島(2) 徳島(1) 高知(2) 福岡(1) 熊本(7) 大分(1) 長崎(1) 宮崎(4) 鹿児島(2)
 この中で、香奈川は「六国見山」である。広島も「七国見山」「八国見山」である。
 *国見岳のある県(数)
 秋田(1) 富山(1) 福井(1) 京都(1) 奈良(1) 佐賀(3) 長崎(1) 熊本(1) 宮崎(3) 鹿児島(2)
 こうして見ると、「国見」と付く山は、五十七あるようだ。その中で熊本と宮崎がダントツである。鹿児島と佐賀を入れると、四十パーセントになる。熊襲の地が熊本やその南に集中していたという事だろうか。
 そして、「宮地岳」という山名も多いと思ったので、検索してみた。驚いたことに、宮地岳という山は、九州にしかなかった。福津市には、宮地嶽神社がある。
 福岡県 筑紫野市・前原市・福津市・糸島郡志摩町
 長崎県 松浦市
 熊本県 天草本渡市 *山ではなく地名
 福津市の宮地岳山頂には、ここが本宮跡であり、神功皇后が三韓遠征のおり戦勝祈願をしたところであるという説明書きがある。同じように、検索では出て来なかったが、朝倉市の宮地岳にも山頂に前方後円墳と神社があり、神宮皇后のように斉明天皇が戦勝祈願をした場所だとか。筑紫野市の宮地岳は、古代山城のある山である。
 では、基本的な言葉の山はどうだろうか。たとえば、「原」という字で検索すると、千一件の地名が出て来る。これでは調べようもない。
「彦山」「彦岳」はどうだろうか。かっこ内は(県名)
 弥彦山 やひこやま(秋田)
 雪彦山 せっびこさん(兵庫)
 彦山 ひこさん(広島  福岡  長崎)ひこやま(えびの市)
 英彦山 ひこさん(福岡  長崎県五島市 )
 到彦山 いたひこやま(長崎県五島市) 
 彦岳 ひこたけ(佐賀  熊本  大分)
 九州が多いようである。

「男岳」「雄岳」はどうだろう。かっこ内は(県名)
 男岳 (秋田 埼玉 山口 福岡 長崎2 熊本)
 男岳山(大分)
 雄岳 (岩手、奈良 福岡 長崎 熊本 鹿児島)

 「女岳」「雌岳」はどうだろう。
女岳 (秋田  埼玉  福岡糸島・八女  長崎壱岐・五島  熊本  鹿児島)
女岳外 (熊本) 女岳出 (熊本)
雌岳 (岩手  福岡  長崎対馬・上五島)   

 何となく地域の特色が感じられるが、次の「田代」は驚きの結果となった。青森に旅行した時、田代湿原に高山植物を見に行った。その後、たまたま見たのだが、あるテレビ番組で、田代湿原が取材されていた。そこで、湿原に生えるイネ科の植物の生育具合を見て、その年の稲の出来を予測するという事を紹介していた。その年の稲の出来を見る大事な行事だったようだった。「田の出来を占うから、その地を田代という」
田代湿原は、占いの地だった。そこで、田代の意味が分かった気がして印象に残ったのである。それで、田代という地名が稲作とともにあるなら、全国に普及しているだろう。そう思ったのである。
田代の多い県(数)の順
福島(43) 秋田(32) 岩手(29) 鹿児島(25) 群馬(22) 
大分(20) 青森(20) 佐賀(19) 熊本(18)  福岡(18) 
山口(18) 山形(16) 愛知(16) 宮崎(14)  長崎(14)
静岡(12) 岐阜(9)  新潟(9)  栃木(7)   千葉(7)
茨城(6)  宮城(6)  島根(6)  北海道(5)  三重(4) 
鳥取(3)  滋賀(3)  広島(3)  石川(3)   長野(3)
神奈川(3) 和歌山(2) 福井(2)  高地(2)   山梨(1)   
埼玉(1)   兵庫(1)   岡山(1)  
*田代がない都道県(富山・東京・京都・奈良・大阪・香川・愛媛・徳島・沖縄
 北と南の県に田代は集中していて、畿内及びその近隣県には、極めて少ない。むしろ空白地帯になっている。文化の伝搬が基本的に違っているという事だろうか。

*福岡県 三(み)のつく地名が多い筑紫平野 平野を取り囲んでいる。三という数字に意味があったのだろうし、「み(御)」に通じるものがあるのだろう。
三奈木(甘木) 三春(浮羽) 三丸(大川) 三沢(小郡) 三川(太刀洗)三輪町  三並・三牟田(夜須) 高三潴(三潴) 三八松みやまつ(大木) 御井(久留米)
他地域にも三がつく地名がある。福岡の三宅は屯倉らしいが。
三雲・三坂(前原) 三代みしろ(新宮) 下三緒・鶴三緒(飯塚) 三苫・三宅(福岡) 三池・三池島・三川・三里(大牟田) 三楽さんらく・三毛門(豊前) 三萩野(北九州)
*福岡県 隈のつく地名も捜してみた 県全体に広がっている。熊本の熊とは字がちがっているが、熊襲とつながりがあるかも知れない。「隈」は福岡平野・筑紫平野に多い。この地域のつながりを示すのだろう。
隈(筑紫野) 西隈(那珂川) 隈江くまのえ(甘木) 隈上(浮羽) 月隈・干隈・田隈・千隈・七隈・金隈(福岡) 乙隈・山隈・横隈・今隈(小郡) 篠隈(夜須) 山隈(三輪) 大隈(嘉穂) 大隈(糟屋) 西隈(那珂川) 田隈(大牟田) 
熊野(筑後) 松隈(志摩) 花熊(犀川) 大隈(嘉穂) 大隈(糟屋) 小熊野・熊手・熊西・熊谷・熊本(北九州) 吉隈(桂川) 赤熊(豊前)

*地理から文化の伝播を見てみると、畿内は九州とのつながりが少ない。それは何故か。仮説を立てれば、「邪馬台国は狗奴国との戦いに敗れ、大和への移動を余儀なくされた。または、近畿に逃げた邪馬台国の一部が地元勢力と結びついて、大きくなった。(それなら、地名や文化の伝播があってもいいではないか)』
 勝利した狗奴国は倭の宗主国と名乗りを上げ勢力を広げた。女王国の末裔大和と、狗奴国の熊襲とは、宿命の対決が始まったのである。そして、祖先の土地をとり返したのが、磐井の乱(五二七年)だった。この辺りから、文化の近畿からの九州へ流入が始まる。
 文化の伝播の違いはこのあたりから生まれた。自信を取り戻した近畿王権は言霊による文化を深めていった。万葉集に熊襲の歌が集められる事は決してないのである。九州男児などという強い男のイメージを作り出したのは、「武」により国を建てた熊襲の名残りかも知れない。
 こうなると、巨大古墳が大和に突然生まれた事も理解できる。彼らは、祖先の地を離れ、封禅の儀のような、天の力を得るために円墳を作り、王の霊力と地の力を受けるために方墳を作った。前方後円墳の文化が大きな意味をもつようになった。当然、三角縁神獣鏡の意味もはっきりしてくる。女王国への執着と誇りである。先祖の地奪還のため、大和は幾度も九州に征西した。岡の縣主や、伊都の縣主が、九州の王家を裏切って神宮皇后を迎えたとする日本書紀の記述は、「かっての宗主国の末裔として迎えようとした」その事を裏付けるものかも知れない。大和が九州平定に情熱を注ぐ意味が分かったような気がする。しかし、征西は思うようにいかなかった。継体天皇の時代になって、やっと九州との戦に勝てたようであるが、統治の面では長続きがしなかった。憶測であるが、九州の王朝が細々と存続し続けたからであろう。彼らは筑紫城に住み「天子」として君臨していた。隋に使者を送ったのも、彼らかも知れない。磐井の乱後落ち込んでいた王権がやっと復興し、国家の体制も整ってきていたのだろう。そこで、天子を名乗り大きく飛躍したいと望んでいたのかも知れない。天子「アメノタリシヒコ」を名乗るには聖徳太子では条件が悪すぎる。
 六百六十二年の百済の窮状の訴えにも九州王権として、支援しようとした。六世紀の筑紫君磐井は新羅と結んだが、百年後の筑紫の君はそれができなかった。「大化の改新」を成し遂げた大和勢力におされぎみだったのか。それとも、自力で百済を支援できると判断を誤ったのか。韓半島の実情を知らなかったのか。
白村江戦で敗れた九州王権は、倭国として戦後処理され疲弊し滅亡していった。

畿内の「畿」の漢和辞典による意味は、①みやこ②王城を中心に五百里四方の土地で、天子が直接治める処 と書かれている。我が国では、京都を中心に山城・大和・河内・和泉・摂津を指す。「畿内」の語源は、六四五年大化改新による「畿内制」に始まると近畿地方のブログに書かれていた。明治から公用語になったそうである。畿内には孝徳帝の並々ならぬ思いが込められていたのだろう。大化の改新は、邪馬台国の再出発だったのである。
 地図を広げて、ここまで来てしまった。
 
  こうして見ると、地図にはまだまだ様々な事が潜んでいそうである。結論は、地図に残されているかも知れない。


 以上の(1)から(30)までの長たらしい文章は、5年前にまとめたものです。この5年間ほったらかしていました。その間に、世の中の事情も変わり、考古学主導の古代史もずいぶん変化したようです。
 もうやり直す気力もあまりないし、放りっぱなしにしておくのもさびしいので、ブログで公開してみました。
 今は、熊本の山々と神社や古墳の結びつきなどに興味を持っています。


『 申し遅れましたが、(28)と(29)の文章は、あまりに単純な結論を導き出したのもあり、ここに発表するのをやめました。機会があったら、古い結論ですが、掲載します』
 と、ついこの間書いたのですが、恥のついでにアップしました。聞くところによると、三国史記の百済本記や新羅本記の空白について、どなたかが発見して、きちんとまとめておられるそうです。それを聞いて、安心してここに掲載しました。私はただの思いつきです。
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by tizudesiru | 2011-09-01 09:55 | 30山岳の名と歴史や文化 | Comments(0)


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203藤原仲麻呂の最後
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