カテゴリ:305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた( 6 )

倭姫命と倭姫皇后と持統天皇

倭姫命世記(やまとひめみことせいき)を読んでいます。

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倭姫命ってどんな人でしょうね。

前回の続きです。豊鋤入姫から御杖代を受け継いだ倭姫命は、お伴の神達と共に祭殿の地を求めて放浪して、阿佐加国に着きました。

阿佐加国の阿佐加の峯に荒ぶる神・伊豆速布留(いつはやふる)神があり、行き来する人を取り殺していました。そこで、倭姫命に大若子が「種々の下賜品をその荒ぶる神に奉げてお鎮めください」と進上したので、倭姫命は阿佐加の山の峯に社を作り、その神を祀ると神は「うれし」と鎮まりました。

一書には、同じ話(阿佐加の山の神)について次のように書かれています。

{天照太神が美濃国より廻り阿濃の藤方片樋宮に至り鎮座された。この時、安佐賀の山に荒神がいて道行く人を取り殺していたので、倭姫命は度会郡の宇遅村五十鈴川上の宮に入られず、藤方片樋宮に神を祀られたのだった。

そこで、倭姫命は中臣大鹿嶋命、伊勢大若子命、忌部玉櫛命を遣わして、天皇に相聞された。

すると、天皇が『その国は、大若子の祖先の天日別命が平定した山であるから、大若子命がその神を祀りたいらげて、倭姫命を五十鈴宮に入れ奉らしめよ』と詔を出された。

こうして、大若子は引き返し種々の幣によって荒神を祀り平らげ、社を安佐駕に定め祀った。この後、倭姫命はお入りになることができた。}


上記の文は極めて意味深なのです。

そこは、大若子命の祖神(天日別命)が平定した地だというのです。
その地の「荒神を鎮めるために大若子命の力を借りよ」というのですからね。

その荒神が鎮まらなければ、「倭姫命は五十鈴宮に入ることができない」とは、すごい話です。


大若彦命は、下宮祀官の度会(わたらい)氏の祖神なのです。豊受太神宮禰宜補佐次第にその事績を記されているそうです。つまり、五十鈴川流域は、もともとは度会氏の祖先の地だったと云うことです。度会氏の聖域にヤマトヒメ命が入っていったと書いてあるのです。


さて、倭姫命は、すぐに五十鈴宮に入ったのではありませんでした。阿佐加の藤方片樋宮から更に移動しています。


次に、飯野の高宮に遷る

この時、櫛田神社(櫛を落とした処)を定め、御船に乗って幸行し魚見社(魚が船に飛び込んで来た)を定め、更に幸行して真名胡神社(御饗を奉る神がいた)を定めたのでした。


また、乙若子命が祓いをして、従う人々に弓剣を留め、兵と共に飯野の高宮に入られたので、遂に五十鈴宮に向かうことを得た、と書かれています。ここで、初めて兵という言葉を見ました。どういうことでしょうか。


ここから幸行して佐佐牟江に御船を泊めて、佐佐牟江宮を作り定め、更に幸行して大淀社(風波無く海潮よどむ)を定められたとあり、多くの社を定められました。

この時、天照太神が倭姫命に教えて云われたこと

「この神風の伊勢の国は、すなわち常世の浪の重波よする国なり。傍国(かたくに)のうまし国なり。
この国に居らむとおもふ」故に、太神の教えのままに其の社を伊勢国に立てたまふ。
よりて斎宮を五十鈴川に興し立つ。これを磯宮といふ。天照太神始めて天より降ります処なり。」

次に、飯野の高宮より伊蘇宮に還幸なりて座す

ここも、「百船(ももふね)度会(わたらい)国、玉ひろふ伊蘇国」でした。
南の山の端に良き宮処があるように見えたので、倭姫命は皇太神を戴き奉り船で幸行(みゆき)されました。

そうして、次々に出会いがあり社が立てられます。


倭姫命は幸行しながら、速河狭田社、坂手社、御船神社、御瀬社、久求社、園相社などを定めながら「よき宮処ありや」と尋ね廻りました。
「佐古久志呂宇遅(さこくしろ)の五十鈴の河上によき宮処在り」と聞いて更に御船で幸行しました。御饗神社を定め、二見の浜、堅多(かたた)社、五十鈴河後に江社、神前(かみさき)社を定め、更に幸行して矢田宮に。


次に、家田の田上宮に遷り幸行し座す

ここでいろいろな神々が出てきます。度会の大幡主命、出雲の神の子・吉雲建子(よしくもたけこ)命(伊勢都差神・櫛玉命)、その子、大歳神・桜大刀命・山の神大山罪命・朝熊水〈あさまのみなと〉神)、猿田彦の末裔・宇治土公の祖先大田命などと出会い、倭姫命は「よき宮処ありや」と問いかけました。

大田命は、「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上は、これ大日本国の中に、殊に勝りて霊地(あやしきところ)に侍るなり」と、答えました。その地には見たこともない霊物(あやしきもの)があるというのです。

倭姫命がその地に行き御覧になると、なんと昔大神が誓願して「伊勢加佐波夜(かさはや)の国はよき宮処在り」と見込まれて天上より投げ降ろしたもの。

天の逆太刀(さかたち)、逆桙(さかほこ)、金鈴などだったのです。

倭姫命は喜んで事挙げされました。ついにたどり着いたのでした。

 

天照太神を度会の五十鈴河上に遷し奉る

倭姫命は五十鈴川の河上に宮処を見つけて大喜びされたのですが、普通に読んでみると先に祭られていた神があったことは事実のようです。そこへ倭姫命の導きで天照太神が降臨されたのですから、倭姫命は侵入者となりますね。
また、天上では豊受太神と天照太神が幽契(かくれちぎり)していたのですから、二神は同格でした。しかし、ここまでの「倭姫命世記」では、天照太神のことが書かれていて豊受太神のことはほとんど読めませんし、同格とはあつかわれていないようです。
倭姫命は、はじめから二神を同格と扱わなかったし、出発時からはっきりと「天照太神を戴き奉りて行幸す」と書かれています。この「行幸」は、途中から「幸行」と微妙に表現を変えていますが。行幸とは「天皇の外出。上皇、法王、女院の外出」に使われた言葉です。倭姫命とは如何なる人でしょう。
豊鋤入姫と倭姫命は時間軸をずらしてありますが、同じ目的「天照太神を奉り、宮地を求める」を持ち、但馬・倭国・木ノ国・吉備国・倭国(弥和の御室嶺上宮)までさまよいました。豊鋤入姫は架空の存在でしょうが、鏡を護身のために造らせたとありますから、鏡文化が広まった時代の人と設定されています。

倭姫命は大和國・伊賀国・近江国・美濃国・尾張国・伊勢国と移動しました。
この辺りが、持統天皇の最後の行幸と重なるのです。

倭姫命世記は「日本書紀」の記述に基づいて書かれていますから、豊鋤入姫の設定は無視できなかったのでしょう。

倭姫命は実在の女性だと思います。それも、実際に伊勢と関わった権力を持った女性です。すると、持統天皇が浮かび、消えた倭姫皇后と倭姫命が重なるのです。倭姫命がかかわって伊勢の神祭りや催しや他の神々との関係が整って行くからです。その過程が細かに語られ、神々に軽重・主従・役割を決めているようです。
これは、律令により祭祀を統制しようとしたことを意味するのではないでしょうか。
大きな権力でなければ、従来の祭祀や神々にランク付けをすることはできませんし、新しい神祭りを定めることもできないでしょう。権力を持った倭姫命こそ、持統天皇がモデルだったと考えます。そして、「倭姫」という皇位継承者の妃になるべき立場にいた女性だと思うのです。

倭姫世記は此処で終わりではありません。
嶋国の伊雑(いさわ)宮のことや豊受大神のことが語られるのです。
(その事は、また、別の機会に考えましょうね。)



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by tizudesiru | 2017-11-29 01:15 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

「倭姫命世記」の倭姫命、聖地を求めて放浪す

一昨日は、万葉集の不思議の一つ、高市皇子の挽歌についてお話しました。今日は、『倭姫命世記』についての話を少しさせていただきます。

『倭姫命世紀』は特異な性格の書とされています。

伊勢神道の経典として五部書が挙げられていますが、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』、「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」、『豊受皇太神御鎮座本紀』の三部書に、『造伊勢二所太神宮宝基本記』、『倭姫命世記』 を加えられて取りあげられるようになったのは、江戸時代だそうです。この中で、『倭姫命世記』と『造伊勢二所太神宮宝基本記』は、神道の教義ともいうべきものを明確に主張していて、その主張も他の三部書とは微細な点で違っているそうです。


倭姫命世記は、『天地開けし初め、神宝日いでます時』という詞で始まりますが、このスタートの詞は「中臣祓訓解」の文に同じだそうですから、同じ理解と思想の元に書かれた文章なのでしょうね。


続いて『御饌都神(みけつのかみ)と大日孁貴(おおひるめのむち)と予め幽契(かくれちぎり)を結び、ひたぶるに天が下を治め、言寿(ことほぎ)宣たまう』とあります。

御饌都神(伊勢下宮の祭神で月神)と大日孁貴(天照大神の別称、伊勢内宮の祭神で日神)が、ひそかに天上で約束をして天下を治め寿いできたと書かれています。天照大神と豊受大神は常にセットなのです。

この二神が月となり日となってきたので、永く世界が保たれてきたのだ、と始まるのです。

倭姫命世記が書かれたのは、日本書紀が広く読まれるようになった後でしたから、この正史に合わせて文章もつづられたはずです。ですから、「倭姫命世記」から正史と離れた個別の真実や事実を引き出すことは難しいかも知れません。しかし、当時の人々が何を思い、何を云おうとしたのかは想像することはできます。

例えば、神々が集まって皇御孫(すめみま)の天下りを決めて、水穂の国を平定するために遣わされた神は、オールスターですね。その初めは、天穂日です。

天穂日(あめのほひ)命 返言(かえりごと)をしなかった。

健三熊(たけみくま)命 父と同じく返言しなかった。

天若彦(あめのわかひこ) 返言しなかった。

布津主(ふつぬし)命・健雷(たけいかづち)命を降して(布津主と健雷が命令して)、

大己貴(おほなむち)神は、その子の事代主(ことしろぬし)に国を平定した時の広矛でもってあまたの鬼神をかり払わせ「葦原中津国を平定した」と復命した。


そこで、三種の神器(神財)を持たせて天津彦火瓊瓊杵(あまつひこほのににぎ)尊を天下りさせた。伴に天児屋(あめこやね)命、太玉(ふとたま)命が従った

降臨した場所は、筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)の峯であった


上記の展開を読むと、矛文化圏のオオナムチ命が先に葦原中津国を平定していたことは認めています。その子の事代主が天孫のために鬼神を退治したのですから、天下りの為に協力し活躍したのは、オホナムチの一族でした。少なくとも前政権の力を借りて、すんなりと権力が交代したというのですね。更に言えば、矛文化圏の広形銅矛は弥生の末に北部九州一帯では埋納させられていますから、弥生末に大変革があったのは間違いないでしょう。スタートは将に北部九州の説話なのです。


この天孫降臨の時、斎部(中臣氏や忌部氏)の始祖が伴として関わったとするのは、正史と同じでしょう。後世の神官の書き加えなのかも知れません。

天津彦火瓊瓊杵命、その第二子彦火火出見(ひこほほでみ)尊、彦火火出見の太子・彦波瀲武鸕草葺不合(ひこなぎさうがやふきあわせず)尊、彦波瀲武鸕草葺不合の第四子・神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇までの四代は、九州に住んでいたのでした。

神日本磐余彦は、その元年に「日本国に向かひたまふ。天皇みずから諸の皇子の舟をひきいて、師(いくさ)東に征(う)ちたまふ」と、東征し、神武天皇の八年、都を橿原に建てました

九州から侵攻した集団が最初に拠点を置いたのは、橿原だったようです。それから九代、神祭りは為政者と同じ屋根の下で行われていましたが、崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖みまきいりひこいにえ天皇)の時、倭の笠縫に天照太神と草薙劔を遷し奉った、と書かれていました。

この後から、崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(とよすきいりひめ)命による国国処処に大宮処を求める旅が始まるのです。

斎部(いんべ)氏が、石凝姥(いしこりどめ)神と天目一箇(あめのまひとつ)の末裔を引きつれ、鏡と剣を作らせ、身を護る御璽としました。斎部氏は「弥生の威信財・鏡と剣の役割を熟知してたようです。

次々と祭祀場を求めて還る

はじめは但波(たんば)の吉佐宮に還幸(みゆき)なる。そこは丹波国余社郡です。「ここより更に倭国を求めたまふ」たのですから、まだ倭には入っていません。「この年、豊受の神天降りまして御饗(みあへ)奉る」をありますから、はじめから豊受大神の放浪が始まるようです。


次に、倭国の伊豆加志元(いつかしのもと)宮に遷る

次に、木乃国の奈久佐浜(なくさのはま)宮に遷る

次に、吉備国の名方浜(なかたのはま)宮に遷る

次に、倭の弥和(三輪)の御室嶺(みむろのみね)上宮に遷る


ここで、豊鋤入姫命の妹・倭姫に事依(ことよ)さしめ、御杖代(つえしろ)と定める。

「ここより倭姫命は、天照太神を戴き奉り行幸す」

ここに大きな転機があります。天照太神が特に取り出されて奉られているからです。また、これまでは宮が「遷る」でしたが、ここから倭姫命の「行幸」となるようです。

倭姫命は特別な存在だったというのでしょうか。

更にここから、相殿神に天児屋命・太玉命、御戸開きの神に天手力男命・𣑥幡姫命がきて、御門の神に豊石窓命・櫛石窓命、ならびに五部伴の神がそい仕えるのです。

倭姫命が御杖代になった時に、社殿の形式が揃ったようですね。


次に、大和国の宇多秋(うだのあき)宮に遷る *倭ではなく大和国とかかれている

ここで倭姫命の夢に「夫に嫁がざる乙女にあうように」とお告げがあり、行幸すると八佐加支刀部(やさかきとめ)という娘に会い、仕えさせました。


行幸して、佐々波多の宮に座す

次に、伊賀国に還幸し、市守の宮に隠れる *伊賀国ができたのは天武天皇の時代

次に、同国の穴穂宮に遷る

次に、伊賀国の敢都美恵(あへとみえ)宮に遷る

次に、淡海の甲可の日雲宮に遷る

次に、同国の坂田宮に還幸(みゆき)なる

次に、美濃国の伊久良河(いくらがわ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、伊勢国の桑名野代(くわなのしろ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、阿佐加の藤方片樋(ふじかたかたひ)宮に遷り座す *


*ここで荒ぶる神との説話が挿入され、一書の逸話も入ってきます。どのような思想と人々の手によりこの書が出来上がったのか、少しは想像できますね。
倭姫命は実在の誰をモデルに書かれたのでしょうね。単なる空想にも思えないのです。
今日は、ここまで。




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by tizudesiru | 2017-11-27 13:19 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇が霊魂となって北へ向かったわけ

持統天皇は霊魂となって北の天智陵へ向かった
未来永劫、霊魂のままでいい!
それは女帝の望みでした。太上天皇は望み通りに白い骨となり、ヨミガエリを望むことなく霊魂となって北へ向かったと、わたしは思います。葬儀を指示したのは文武天皇です。十分に太上天皇の望みを知って執り行ったことでしょう。
天智陵と持統天武陵が同じ経度にあることには意味があるはずです。それは、持統帝と天智帝に深いつながりがあったからだと思うのです。
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また、天智陵が平安京を守る位置にあるということにも意味があるでしょう。
平安京は天智帝の皇統の都として造られました。
しかし、持統・天武天皇の陵墓ともつながらないわけではありませんね。天智陵の真南には持統天皇が眠っているのですから。
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新しい皇統の都のために天智陵は移されることなく守護神となりました。
ここで、また振り返ってみましょう。
意思の強い女帝が貫いたことは天武帝の皇統を守ること。何度も書きましたが、草壁皇子の皇統を守ることでした。しかし、ここで立ち止まりましょう。草壁皇子が天武天皇の皇子であり、持統帝・元明帝・元正帝が天武帝の皇統を大事にしたのであれば、天武帝の他の皇子達の皇位継承権を認めたはず、だと。
では、元明天皇が長屋王の子どもたちのを身分を引き上げたのは何故でしょうか、例外でしょうか。
娘を長屋王に嫁がせていた元明天皇は長屋王の皇統に皇位継承権を認めてもいいと考えたようです。それは、「真の天武帝の皇統に継承してもらいたい」というのが草壁皇子の遺志だったからです。大津皇子を死なせてしまったことを悔やんでもいましたから。妃の元明天皇は夫の遺志を承知していたと思います。万葉集を読むかぎり、元明天皇の夫・草壁皇子への思いは、深く強いと思います。
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それでも、天武帝の皇統は抹殺されてしまいました。
藤原氏が外戚として権力を握るようになって、ことごとく天武帝の皇統は抹殺されていきました。ついに天武帝の皇統が絶え、天智帝の皇統が皇位継承者(光仁天皇)となりました。その息子の桓武天皇は平安京に遷都した時、怨霊・悪霊から都を守ることに腐心しました。その時、天智天皇の陵墓は守り神とされたのです。

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では、神祭りはどうでしょう。伊勢の神祭りが天武帝の祭祀であれば、そのまま次の平安京の権力者・皇統の祭祀となったでしょうか。
明治になって、たしかに天皇家の神祀りとして伊勢神宮が神道のトップとなりました。それまで、天皇の行幸が何百年もなかった伊勢神宮が…です。
ここで、やはり立ち止まり考えさせられます。
天武天皇の壬申の乱を勝利に導いた渡会(わたらい)の神は、天照大神ではなかったのではないか。それは、豊受大神だったのではないか。それを証明しているのが、「人麻呂の高市皇子の挽歌」の一節ではないかと、わたしも思うようになりました。すると、天照大神が伊勢に入ったのは豊受大神より後で、壬申の乱より後、となるでしょう。

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ここで、伊勢の神の鎮座地を求めた倭姫命とその物語は、遠い昔の人でも話でもなく天武天皇以降の時代のことだと思うのです。天智帝の消えた倭姫皇后と、持統天皇の伊勢行幸の大三輪高市麻呂との逸話を考えると、倭姫皇后は消えたのではなく天武天皇の後宮に召されたのではないか、持統天皇の行幸の目的が鎮座地探しだったのではないか、などと考えてしまうのです。
だから、持統天皇の霊魂は北へ向かった。天智陵へと。

では、また明日



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by tizudesiru | 2017-11-24 22:07 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

倭姫命と伊勢

高市皇子を助けたのは渡会の神?

では、天照大神ではなく豊受大神だったというのですか?

十二年ほどまえ伊勢に入った時、下宮の傍のホテルに泊まりました。そこで自転車を借りて伊勢を廻ろうと思ったのですが、なかなかでした。その時、倭姫命神社に寄りました。そこで、創建についてお尋ねしました。すると、女性の神官の方が
「この神社は明治になって建造されました。伊勢を求めてお出でになった倭姫を祀る神社がないのはどうしたことかと、その時できたお宮ですので、まだ新しいのです」
と説明されました。
式年遷宮に合わせて御社は建てかえされているそうで、神殿は交互に建てかえられるように空聖地が社の隣に設けられていました。その時、思ったのは『倭姫命の宮地はどのように選ばれたのだろうか』ということでした。
それで、その時に持っていた或旅行雑誌の地図を広げて内宮・外宮・倭姫命神社の位置を当たりました。三社を結びつけたラインは三角形だったと思います。これは測量して聖地を選んだのかな?と思いました。(この時の写真は全部ないのです。パソコンのコードを愛犬が噛んでショートして、データが無くなりました。電気屋さんに見せたけどダメだと云われて、パソコンも廃棄にしたのです。こんなことは何度もありましたから…データが無くなることを常に考えておかなければなりませんが)

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(下宮の東に倭姫命神社は造られています)
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(内宮は五十鈴川のほとりにあります)

伊勢を廻っていた時は、内宮と外宮はずいぶん離れていることを何とも思わなかったのです。が、倭姫命を調べている時「万葉集の渡会の神は、豊受大神である」という文章を読みました。その時は読み過ごしたのですが、後になって気になり始めました。そうして、伊勢神道の五部書を見ると、内宮と外宮は二所大神としてセットになっているのです。しかし、「倭姫命世記」では、聖地を求めて歩くのは、天照大神の御為です。

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歌を読むと、たしかに伊勢の渡会の神が高市皇子を助けてくれていますね。
柿本人麻呂が高市皇子のために造った挽歌のはじめから途中までを掲載しました。(以前に紹介しています)
伊勢の内宮は五十鈴川の上流にあり、下宮の近くを流れるのは宮川です。二つの川はともに海に流れ込み、合流はしません。
高市皇子が渡会の神(豊受大神)に助けられたのだとすると、倭姫命は渡会の神より後に伊勢に入り、宮川は既に豊受大神が鎮座していたので、五十鈴川を遡ったことになりますが…
そうなのでしょうか。また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-23 12:51 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇と倭姫皇后と倭姫の接点

崩御の時まで持統天皇が胸に秘めていたこと
今日はそのお話です。では、最後の行幸からまいりましょう。
持統天皇の最後の行幸はお気に入りの人を連れての旅だった、と前回書きました

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最後の行幸に従駕した人・万葉集には
長忌寸奥麿(意吉麻呂)、高市連黒人、与謝女王、長皇子、舎人娘子

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を詠みました。有間皇子事件を見事に詠み上げたその歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望したほどです。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。(既に紹介済)

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子についても、既に紹介しています。)

舎人娘子は舎人皇子の養育を受け持つ氏の女性でしょうか。この人は舎人皇子と恋歌をやり取りしています。それなら、持統帝が目をかけた舎人皇子の関係者となりますね。
東国へはお気に入りの人々を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。それは分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょう。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を読んみると、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべしと勅が出されています。何とも、急な勅です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないのです。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのでね。最後まで天智天皇への思いを抱いていた、最晩年に「隠す必要はない」と判断した、それが持統帝の真実の姿でした。

(十二月)六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

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天智天皇量の真南に天武持統陵・大友皇子の屋敷跡は石上神宮へ)

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり終えたというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が天の香久山を詠んだ女帝が、実は天照大神の神祭りの場を探していた、とは。

以前、持統六年(692)の伊勢行幸のとき大三輪高市麿が冠を捧げて天皇の伊勢行幸を諫めた話をしました。「大三輪」ですから高市麿は三輪山の神祀りをする氏族でした。『三月は農繁期ですから伊勢行幸はやめてください(我が三輪山は、天智天皇も大切にしておられた。その神山を捨てて伊勢に行かれるのか)』と諫言したのでしょう。
考えてみると、伊勢の神祭りを始めたのは天武天皇でした。

天武十四年(685)初めて伊勢神宮に式年遷宮の制を定める
  
諸国の歌男・歌女らに命じ、歌笛を子孫に伝習さす。
     

 

壬申の乱に勝利したのは伊勢の神のおかげだとすると、天武十四年の「はじめて式年遷宮」は遅すぎです。神への御礼は一番でなければなりません。
また、天武天皇が伊勢神宮の神祭りを始めたのであれば、その皇后の持統天皇が伊勢に行くのを止める大義名分は誰にもありません。まして、大三輪高市麿にも。
上代の三月が今の四月くらいだとすると、農作業が忙しいのは上代の四月から(五月六月)でしょうね。

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最後まで天智天皇を慕いつづけた持統天皇が、三輪山ではなく伊勢に神祭りの場を求めたのは何故でしょうね。その聖地求めの旅が平安時代~鎌倉時代初期に「倭姫の伝承」として『倭姫命世記』に書き残されたのではないかと思ったのです。

すると、持統天皇こそが倭姫皇后だったのではないか。父は有間皇子で、皇位継承者の妃となるべき立場に生れた姫だった。有間皇子事件の後は間人皇后かくまわれたが見つけ出され、古人大兄皇子の娘として天智帝の妃とされた。
そう仮定すると、紀伊国行幸の歌で有間皇子を偲び続けることも、天智・天武の陵墓が同じ経度にあることも、難波宮に重要なことを決める時に行幸があることも、有間皇子事件に類似した宇治若郎子の事件が額田王や人麻呂によって歌われるわけも、天智天皇の葬送儀礼の歌が天武帝より多く残されていることも、天智帝の血統の草壁皇子が薨去した理由も、額田王と中臣大嶋が草壁皇子の菩提を弔ったわけも、持統帝が天智帝が築いた高安城に行幸する理由も、倭姫皇后が忽然と消えた理由も、大津宮を持統帝が懐かしむ理由も、事実を歌として「万葉集」に編集した柿本人麻呂が刑死した理由も、人麻呂に対して元明天皇が激怒したわけも、平城天皇が「万葉集」を編集しなおして事実が分からないようにした理由も……ほとんど同じ糸で結ばれていたので、意味がつながり謎が解け理解できるのです。

倭姫命が天智天皇の皇后と同じ称号で呼ばれているのなら、何らかの接点があると思いませんか。
いよいよ、倭姫命世記を読まなければならなくなりましたね。
長い物語ではありません。近くの図書館にも関係書はあると思います。
では、また。




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by tizudesiru | 2017-11-21 23:49 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮

もうこの海を見ることもないだろう
あの方の霊魂を鎮める最後の旅となるだろう
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大宝元年の紀伊国行幸(秋九月、冬十月)は、万葉集の巻一、巻二、巻九に歌が乗せられています。大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、女帝の心にあった永年の苦しみを払う行幸でした。文武天皇が持統天皇と合流したのは、十月だったのでしょう。その時、紀伊国での出来事を全て孫に伝えたのです。

持統天皇は、九月に孫の文武天皇より先に紀伊国に来ていました。その時の歌が巻一にありますが、巻九の「紀伊国十三首」と比べて軽いのですが、旅先の土地を誉め、旅の安全を祈ったのでしょう。
a0237545_13200708.png
大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、特別でした。紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。それが巻九の「紀伊国行幸十三首」でした。そのひと月前の持統太上天皇の紀伊国行幸、この時の歌を読んでみましょう。

54 巨勢の山のつらつら椿はさいてはいないけれど、つらつら思い偲んでみようか。巨勢山に椿が咲き乱れるその美しい春野を。
秋なので椿は咲いていませんからね。春野を想像して詠んだのです。

55 麻裳で知られる国、紀伊国の人がうらやましいことだ。この真土山をいつもいつも眺めることができる。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人は本当に羨ましいなあ。
真土山を越えると大和から紀伊國に入ります。その境の山を見ると旅情が高まるのでしょう。

56 川岸に咲き乱れるつらつら椿、巨勢の春の野はつらつら見ても見飽きないことだろうなあ、巨勢の春野は、きっと。
まだ、春は遠いけれど椿咲き乱れる春野を偲びながら、一行は紀伊国の行幸の安からんことを祈ったのでしょう。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。以前紹介した「紀伊国十三首」の重く切ない歌と比べると、九月の歌はかなり軽く感じますね。文武天皇を伴った行幸は特別だったことが分かります。


そして、最後の行幸が大宝二年
持統天皇の最後の行幸・美濃・三河・伊勢・伊賀

大宝二年、東国へ持統太上天皇は行幸しました。
大宝二年は女帝の崩御の年です。崩御のひと月前まで女帝は行幸の輿の上に在ったのです。行幸とは「幸を行う」ことでした。行く先々で、人々を労い褒美を与えることなのです。持統天皇も先々で褒美を与えて回りました。
その最晩年の行幸時の歌が万葉集に残されています。


大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸では、紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。もう思い残すことはないだろうと周囲は思ったでしょう。
しかし、持統天皇は旅に出ました。それも、特別のお気に入りを連れての行幸です。

今度の旅の目的は何でしょうか。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                                       *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *             
 *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を集め整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。
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この行幸時の女帝のようすにただならぬ気配はなかったのでしょうか。十月から十一月まで五か国をめぐる旅が続きました。お疲れだったと思いますが。

歌に出てくる地名です。
引馬野(ひくまの)愛知県宝飯郡御津町御馬の地・音羽川河口付近に引馬神社がある。他に豊川市や静岡県浜松市の曳馬町付近とする説もある。
阿礼の崎(あれのさき)所在地未詳
隠(なばり)三重県名張市のあたり。
円方(まとかた)三重県松阪市の東部。東黒部町一帯後。「逸文風土器」に『地形が的に似る』とある。


持統天皇の行幸は「倭姫命世記」の倭姫の歩いた道と重なります。それは何故か、気になっていました。
それは、また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-21 00:10 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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