カテゴリ:29筑紫城の最後( 1 )

29  筑紫城の最後

29 筑紫城の最後

 筑紫城の最後というタイトルで、この(1)から(30)までの文章のまとめにするのは、すごくはずかしい。
 何も目新しい結論に行きつかなかったからである。どこかで聞いたような、見たような結論になってしまった。しかし、まとめておかなければならない。
 憶測の域を超えないが、ただ、九州にも王権が生まれたようだ。各時代の王は、中国を宗主国と仰ぎ、朝貢する事を王のスティタスシンボルとした。太陽の昇る東の山を拠り所とし、陽の沈む山を魂の昇る山とし、祭祀をしていた。王が亡くなれば殯葬をし、王の魂が神となるのを見守った。次の王は、前王の霊力に守られ、子孫繁栄の為に墓制や墓の位置や葬送儀式にこだわった。王は自分の領地に祭祀場を作り、地域の山を御神体として祀った。山には国を守る霊力があると信じられていたのだ。王達は近隣の有力者と結びつき、祭られる神も増えて行った。その中で争いが生まれ、霊力を持った王が連合国の長として選ばれるようになった。「おおきみ」と呼ばれたのだろうか。外交も活発になり、交易も盛んになり、国が整うに連れて地域間の争いは苛烈を極めて行った。それぞれに勢力を伸ばそうと、離れた地域との結びつきも生まれ、王権の分派が数多く生まれた。地域差も大きくなっていった。中でも鉄と銅など金属を手にした人々が、覇権を求めることになった。鉄を持った人々が、列島のありようを変えていった。筑紫で力を持ったのが、倭王たちだった。大和の王権は、皇統を他へ広げないように近親結婚の道を選んだのだろうか。
 九州の王権は、六世紀に大きな事件に巻き込まれた。外敵に備えるより、内なる敵に備えなければならなくなった。やがて、筑紫の都周辺には、四王寺山城・宮地岳山城・雷山神籠石・高良山神籠石・女山神籠石等、戦いの為の山城を築いた。それぞれの山城には氏族の神が祭られ、神力を借りて都や王権を守ろうとした。当然、大和王権は築城を知らなかった。やっと余力が出て来た処に、待っていたように百済が国交回復を望み、王子を人質とした。やがて百済は滅亡し、忠臣が救援要請を申し込んだ。大和の王権にも、同じように要請が入った事だろうし、磐井の乱後に筑紫は形式的には大和の配下に組み込まれていただろう。百済からみれば同じ倭国であり、同じ氏族と思われていたのではないだろうか。九州の王権は、喜んだに違いない。久しく待ち望んだ倭王としての活躍の場だったからだ。倭王は船を作り、兵糧を集め、大挙して百済に向かった。しかし、 九州王権の勝手な振る舞いを、大和が許さなかった。斉明天皇の一行は、雅を神代からの伝統と自負し和歌を歌い、言霊を使いながら、征西したのである。もとより百済救援は二の次、九州に再度王権の復活をさせないための出兵だった。斉明帝は朝倉の宮、中大兄は長津宮でそれぞれの仕事をしたのである。長津と名を改めたのも、九州改造の一環に過ぎない。先に太宰府に入っていた蘇我日向も仕えたであろう。 
 大和王権は当初の計画通り、無傷で大和に引き返せた。斉明帝の死も利用したとしたら、恐ろしい想像になってしまう。筑紫の、かっての王城には都督府がおかれ、天智帝の大宰府は別の場所に建造された。または、阿毎氏の王が既に都府楼跡に宮殿を築いていたので、それを利用した。「太宰府が移された時、造られた」とされた竈神社の言い伝えが、年代を特定できないのが残念である。大宰府移転、その為に、四王寺山城は大野城に造り変えられ、基山の神も筑紫神社に降ろされた。たぶん、筑紫神社に合祀されたのであろう。唐野原の寺は解体され、仏像等はいずれかに運ばれた。「結跏趺坐」の姿に造られた釈迦三尊像は、聖徳太子または阿毎多利思北孤その人に違いない。隋書に書かれた通りの姿で政を聞いていたのだろう。東西信仰の都の主要道路は、北向きに変えられ宝満山の神も降ろされた。竈山が三笠山と名を変えられたかも知れない。神功皇后の説話を持ち出して。神功皇后を持ち込んだのは、おそらく天智帝であろう。宝満山に神武天皇の母・玉依姫が鎮座するのは、後の時代である。
 百済への出兵と敗戦は、筑紫国の責任であると、天智帝は熊津都督府の占領政府に対して主張したはずである郭務悰にも会い、大和王権単一政権の確立をなしえた天智帝は、晴れて玉座に着いた。誰も意見をさしはさめなかった。偉大な仕事をなしたのである。そして、大友皇子が皇太子になる勢いが見えて来た。「天智帝は暗殺された」という俗説が生まれる要素も、即位までの行動の中にあるのかも知れない。六六二年から六七一年までのわずか十年間に、なされた改革は膨大だったことだろう。 筑紫城は捨てられ、遠の朝廷として大宰府の時代になった。神籠石山城も忘れられ、筑紫には細々と氏神を祀る社が残されていた。しかし、それすらも、醍醐帝の延喜式により大きな変革を迎え、天皇家に顧みられない神社は、小さく凋んでいったことだろう。多くは言い伝えも忘れられ、守り手も変わり、祭神も変わっていった。しかし、筑紫王権の末裔は、わずかにその痕跡を残しながら今日に至っているはずである。土地に残された記憶、同時代に生きた名もない人の伝承、それらが断片的に過去を伝えているはずである。
 その一断片が地理ではないかと、筆者は思う。今、町村合併で多くの地名・歴史が消えつつある。核家族化で多くの伝承が伝わらないまま消えつつある。故郷の山河に親しまなくなり、自然と共に生きた暮らしが失われつつある。今だからこそ、故郷の山河に潜んでいる過去を見つめ直したい。

此処に来て思い付いた事がある。
 菅原道真の有名な和歌は、あれは都に残した梅を歌ったのではなく、筑紫王権の滅亡後に歌われた、筑紫の人々の思いではないかと。天神と恐れられたのは道真ではなく、天神と化した筑紫の王達ではなかったか。道長と天神が重ねて考えられたから一層たたりが恐ろしかったのではないか宇多天皇に心から忠臣と信頼されていた、心の清い道真がそれほど恐ろしく祟るだろうか。彼は、ひたすら許されることを望み都府楼前の南館に謹慎していた。が、都の人には筑紫の天神と一体となったと信じられ、道真が怖かったのではなかろうか。
東風吹かば 思い起こせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
[PR]
by tizudesiru | 2011-09-02 09:49 | 29筑紫城の最後 | Trackback | Comments(0)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

続・黒塚古墳の三角縁神獣鏡
at 2017-10-19 20:00
黒塚古墳の三角縁神獣鏡
at 2017-10-18 14:46
黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自..
at 2017-10-17 12:28
人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠ま..
at 2017-10-16 20:58
柿本人麻呂は舎人皇子に警告し..
at 2017-10-15 11:59
柿本人麻呂は長皇子を皇太子の..
at 2017-10-15 01:10
聖徳太子の存在は証明できたの..
at 2017-10-14 01:09
水神・河童・怨霊・虚実ないま..
at 2017-10-12 21:43
神鉾神社の祭神は八千矛神(大..
at 2017-10-11 01:13
月岡古墳は大和政権側の古墳なのか
at 2017-10-09 17:30
あの前畑遺跡を筑紫野市は残さ..
at 2017-10-08 21:16
耳納山・鯰・政変・一揆、田主..
at 2017-10-08 01:45
田主丸の阿蘇神社は橘の紋
at 2017-10-05 14:48
ヒキガエルが守る姥ヶ城の天満神社
at 2017-10-04 10:42
八代龍王(豊玉彦)が祭られた..
at 2017-10-03 14:49
井樋権現は天武大地震を証明する
at 2017-10-03 01:07
古代の祭祀場なのか、明見社は
at 2017-10-01 21:06
謡曲「竹生島」と田主丸にあっ..
at 2017-10-01 01:48
穂波川流域に栄えた土師氏
at 2017-09-25 15:48
初めて見た突堤の溝・天神山古..
at 2017-09-24 00:07

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
278西原村の旧石器・縄文・弥生の資料
289人麻呂が見た王朝の皇子達
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂は知っていた!
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?

画像一覧

以前の記事

2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

最新のコメント

oh! 「すべて」展や「..
by 尊敬します at 23:30
筑紫野市さんへお伝えくだ..
by 尊敬します at 23:36
何時もありがとうございま..
by tizudesiru at 21:33
拝殿でお神楽をやっていた..
by 尊敬します at 23:00
> 宮原さん ありがと..
by tizudesiru at 20:17
宮地嶽神社の扁額の文字は..
by 宮原 at 10:33
たぶん、夾紵棺の技術、大..
by 尊敬します at 22:58
もう読まれましたか。 ..
by 大町阿礼 at 21:21
> 名無しさん ほんと..
by tizudesiru at 11:55
> aさん コメントあ..
by tizudesiru at 11:20
郭務宗が二千人の人々を率..
by 名無し at 09:10
間夫という山名は鉱山に関..
by a at 01:51
いつも楽しく拝見させてい..
by 尊敬します at 23:15
>いつもありがとうござい..
by tizudesiru at 20:27
弥生の風公園のわら細工の..
by 尊敬します at 22:29
> コメントありがとうご..
by tizudesiru at 23:06
建物の遺構もさることなが..
by 暇人 at 22:48
ごめんなさい。 楼閣じ..
by 尊敬します at 00:10
> 読んでくださってあり..
by tizudesiru at 23:59
邪馬台国がどこにあったか..
by 尊敬します at 18:44

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ