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28 倭国の空白

28 倭国の空白
 隣国にある倭国の空白の意味 
三国史記「新羅本紀」によると、五世紀に倭が半島に十四回も出兵している
四〇二年・三月に倭人と通好して、奈勿王の子未斯欣を人質として倭に送った
四〇五年・倭兵が明活城を攻める
四〇七年・春三月倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める
四一八年・高句麗と倭への人質が逃げ帰った
四三一年・倭兵が東の辺境を攻めてきて、明活城を包囲したが功なくして帰った
四四〇年・倭人が南の辺境に侵入。夏六月また東の辺境を攻める
四四四年・夏四月に倭人が金城を十日包囲して食料がつきて帰った
四五九年・夏四月に倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い月城を囲んで進撃したが追撃してこれを破る
四六二年・夏五月倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った
四六三年・倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずに去った
四七六年・倭人が東辺を攻める
四七七年・倭人が兵をあげて五道に侵入したが、何の功もなく帰った
四八二年・五月に倭人が辺境を攻める
四八六年・夏四月に倭人が辺境を攻める
五〇〇年・春三月倭人が長峯城を攻め落とした
(この後は長い空白となる)
六六三年・倭の水軍が百済を助ける(白村江戦)
六七〇年・十二月倭国が国号を日本と改める。自ら言うところでは、日の出る処に近いからもって名にした

 同じく三国史記「百済本紀」にある倭国関係記事の五世紀前後は、
三九七年・倭国と国交結び、王子の腆子を人質とする
四〇二年・倭国に使者を送り、大珠を求む
四〇三年・倭国の使者を手厚くねぎらう
四〇五年・腆支王即位
四〇九年・倭国の使者が夜明珠を送る 倭国の使者を熱く礼遇する
四一八年・倭国に白綿を送る
四二八年・倭国に使者を送る
(長い空白期間)
六〇七年・隋の使者が倭国に行くために百済の南路を通る
六五三年・倭国と国交を結ぶ
六六二年・白村江の戦い
 五〇〇年から六〇八年までの間は、半島の国とは何事もなかったのだろうか。どちらも六世紀の倭国関連記述がない。偶然にしては、百年間の空白は大きすぎる。この間に、倭国では何があったのか。五〇二年(梁・武帝即位)倭王武は「征東大将軍」と爵号を進めている。この後である。新羅に出兵を続けた後、新羅も入れて「六国諸軍事安東大将軍」を名乗った武は、どうなったのだろう。急に新羅・百済との関係が切れてしまっている。好太王碑文も三九九年・四〇〇年・四〇四年・四〇七年と倭人の侵出が書かれている。その倭国が、六世紀に突然半島から後退したのだろうか。
 五世紀の百済では中国外交を活発にし、梁から「寧東大将軍」「綏東大将軍」と爵号を受け、聖明王が即位し、新羅と国交を結び、都を泗沘に遷し国号を「南扶餘」とする等、内外的に大変な時期に見える。高句麗の侵入に新羅からの援軍で撃退する事もあったものの、新羅が百済北部に侵入し、聖明王自ら新羅攻撃に出たが、五五四年に敗死する。この後も、百済は陳・隋・唐へと朝貢を続け、なんとか新羅・高句麗の侵入攻撃を打開しようとするが、苦戦し続ける。百済は苦しい内情を幾度も唐の高宗に訴えた。しかし、唐は新羅の理を認めたのである。六五三年に、百済はやっと倭国と国交を結ぶのだが、六六〇年には唐・新羅連合軍により滅亡させられた。救援を頼むのが遅すぎたのだろうか。
 「百済本紀」によると、百済と倭国間には、過去に同じような事が起こっている。その時は、国交を結んで救援が成功していた。
 三九五年に、百済は広開土王と闘うが大敗した。その為であろうか、三九七年、倭国と国交を結び、王子の腆子を人質としている。この後、倭国に使者を送り大珠を求めたり、倭国の使者を手厚くねぎらったりした記述がある。
 四〇五年、枕流王が死去し末弟が弟を殺し王となったため、人質となっていた腆子王子が倭国の護衛により海中の島に待機の後、王となったのである。人質となっていた腆支王の即位を倭国が助けた。全く同じことを、白村江戦いの時も繰り返している。王子扶餘豊が人質として倭国に来ていた。そして、救援の将軍と兵隊を付けて百済に送り帰された。結果は、救援軍の大敗・百済の滅亡であったが。人質を出すとは、そういう事だったらしい。
 しかし、何故、梁・陳・隋・唐へは朝貢し助けを求めたのに、百年間も倭国へ何も言って来なかったのだろうか。倭国側に手助け出来ない状況があったのだろうか。
 九州の倭国に、未曽有の天変地異が起こった。または、政治的事件が起こった。
 考えられるのは、五二七年の磐井の乱である。大和州(移動した神武王権)の王権が、出身地・九州の筑紫の王権を討った。この内乱で、九州の倭国が大打撃を受けたのではないか。それで、隣国へ出兵する余力などなくなった。だから、百済は救援を頼めなかった。百済本紀と新羅本紀は、その事を伝えているのではないか。
 五世紀に高句麗と戦い続け、十四回も新羅に出兵していた倭が、突然全く半島から手を引くとは。倭王武の野心が、「征討大将軍」に満足して消えたとは思えない。同時に、筑紫君磐井が倭王だった可能性も出て来た。では、太宰府の筑紫城に居たのは、父の罪に連座する事を恐れて、糟屋の屯倉を献上した筑紫君葛子だろうか。または、阿毎氏の一族だろうか。
阿毎多利思北孤は、天を以て兄となし、日を以て弟となし、夜明け前に跏趺坐して、政を聴いた。夜が明けると理務を辞め、弟にゆだねたという。その宮殿は、東を向いていたことだろう。低地には無かったと思われる。彼は、筑紫の君の子孫だろうか。
 これ以上、非力の身で言及する事は難しい。その内に遺跡の発掘や、新しい学説が出て来る事だろう。
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by tizudesiru | 2011-09-03 09:46 | 28倭国の空白 | Comments(0)

三国史記に書かれなかった倭国

「『倭国の空白』について、以前書いたものをブログに乗せた」と知り合いに話したら、即、「それは、すでにー氏が書いている」と指摘されました。-氏が誰なのか、聞いたけど忘れました。今度は、人の名はメモをしておこうと思います。やっぱり、あの空白を見れば、何か変だと思いますよね。
 私は、小学館の『日本書紀』の釈注で様々なヒントをもらいました。『これを書いた人は、何かに気が付いているのではないか』と思ったほどです。それをもとに、ネットでも検索しました。
 とにかく、何が本当なのか知りたいです。いろいろ考古学の遺物が出土しているのに、「大和王権」との結びつきという方向で処理されてしまっています。そうかもしれないけど、そうではないかも知れない。そう考えるのが、専門家ではないでしょうか。なんて、偉そうなことを……ごめんなさい。

 
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by tizudesiru | 2011-09-03 08:50 | 28倭国の空白 | Comments(0)


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240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
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