カテゴリ:287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編( 10 )

水神・河童・怨霊・虚実ないまぜの田主丸

虚実ないまぜ不思議だらけの田主丸
五柱神社にも行きました。銀杏が一面に落ちていましたが、拾う人はいませんでした。
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境内には様々な摂社がありました。人々の願いもそれだけ切実だったというのでしょう。
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一つの摂社に込めた願いを思うと切なくなります。享保一揆・宝暦一揆・大飢饉で1万人以上の餓死者を出すという歴史にうなります。
宮地嶽神社が多く勧請されたのは、水争いなどに勝利するためだったそうです。無理もありません、命がけの争いだったでしょうから。
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ここ筑後川流域には河童伝承もあります。久留米市の北野天満宮には河童の墓もあるのです。
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河童に化身したと言われる平清盛と二位尼の木造が、田主丸にはあるそうです。
他にも、怖ろし気な水神が祀られ、怨霊伝説もあります。下の写真は「川ん殿さま」です。ここは、伝承の宝庫ですね。
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帰りにちょっと不思議なところに寄りました。三明寺のバス停にある「用明天皇の墓・伝承地」です。まさか、まさかの展開ですね。
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ここが?!ですか。なんだか盛り上がった土地ではありますが。お堂がポツンと建ち、裏の石柱(?)に網が掛けられていました。
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これは一体なんでしょう。なぜ、用明天皇の墓などという伝承があるのでしょう。聖徳太子の正倉もあるとか聞いて、そんな!!と思いながら、分からないまま筑後川を渡り、帰途につきました。
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河を渡ると、こんなにも不思議な世界が広がるのですね。


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by tizudesiru | 2017-10-12 21:43 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

神鉾神社の祭神は八千矛神(大国主命)

神鉾神社の御祭神は八千矛神

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竹野の森山地区の神鉾神社も長い階段を上らねばなりません。南は耳納山地、北には筑紫平野を望みます。三郡山地と筑豊三山が見えます。ここ神鉾神社が、江戸時代の農民一揆で生葉と共に久留米藩に立ち向かった地区の守り神です。
(享保一揆については、前々回にブログで紹介しています。宝暦一揆については少ししか書いていませんが、キリシタン大名だった有馬氏の末裔の圧政は、今も語り継がれているのです。天草四郎の旗印を何百年も守り続けたあの有馬氏の圧政ですよ。藩が困窮したから、すべてが間違っていったのでしょうね)
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筑紫平野が一望できる神社に鎮まるのは、八千矛神です。
ここには、大国主命=八千矛神が祭られているのです。何故って、
もともと筑紫平野をおさめていた神が大国主だったからでしょうね。

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筑豊三山、左から古処山、屏山、馬見山です。杉木立の向うには、英彦山がみえるはずです。
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神社の屋根には門光紋が打ってあります。上の写真、瓦を変えた時、自慢の瓦を境内に飾ってありました。誇るべき神文なのでしょうね。
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拝殿の裏に祭殿があります。拝殿にはあの「義士衣錦」の額。
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掲げられている「義士衣錦」額には、農民の無念と希望と誇りを秘めているのでしょうね。八角形の飾りが天井に張り付けてありました。
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天上の八角形の意味は何でしょうね。ここは下宮です。
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上宮は山の中にあります。更に更に階段を上ります。
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無理だとおもって見上げるだけにしました。
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神鉾神社の「夜渡」の写真です、夜渡と書いて、「よど」と読みます。神社の夏祭りや秋祭りのことを田主丸ではそう呼びます。夜を通して楽しむという意味でしょうか。
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16枚の花弁の菊の中に目玉のような円が重なっていますが、これは、大国主を意味するマークなのだそうです。
こうして神社に集まって、昔の話もしたでしょう。あの宝暦一揆(1754年)の話も出たでしょう。竹野郡で極刑に処された11人のうち、墓が見つかっているのは、門ノ上村庄屋の忠助、亀山村の庄屋の伴造、騒動の発起人としてさらし首にされた野中村の久兵衛のわずか三名で、ほとんど墓もなく野に眠っているのです。処刑された人々は、村の指導者だったのです。村に残されたのは怒りや悲しみばかりでなく、喪失感、大きな損失だったのです。夜なら顔も見られず集まって泣いて語り合えたし、とがめられなかったでしょうね。
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宝暦一揆の法要が行われています。
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田主丸の人は先祖の深い思いが込められた大地に暮らしておられるのですね。忘れまいぞ、と。
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ぜひ、わたしも蝋燭を上げたいですね。
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こんどは、神鉾神社の上宮に参詣するつもりです。


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by tizudesiru | 2017-10-11 01:13 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

月岡古墳は大和政権側の古墳なのか

若宮八幡神社の若宮古墳群の不思議
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若宮八幡のある吉井町は水上交通で栄えた町でした。若宮八幡は此処に有ります。
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吉井町の若宮八幡は、久留米藩の享保一揆の寄り合いが持たれた場所でした。月ノ岡古墳と日ノ岡古墳は、ここにあります。
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では、月の岡古墳を見に行きましょう。本殿の正面左奥にそれは有ります。
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神社の裏に廻り、濠を渡ると、古墳の鳥居が見えてきます。
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80mの前方後円墳です。5世紀中ごろと書かれています。外側に三重の濠があったそうです。石室は竪穴ですから、九州ではほぼ4世紀の石室ですよね。
以前に見た報告書では、たしか4世紀の古墳と書かれていたように思うのですが、ファイルを探さなくてはなりませんね。

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金銅装眉庇付冑(こんどうそうまびさしつきかぶと)は、誰でも持てるものではありませんでした。さらに、ここで発掘された甲冑の分析をした研究者の報告では、甲冑の鋲留の技術を調査研究の結果「国産品」であるという見解でした。
甲冑など半島からの移入品だと教え込まれていた私には、「国産品」という言葉は新鮮でしたので、よく覚えています。
ここは重要な古墳です。しかも、石棺は長持ち型です。石棺と眉庇付冑から「ここは倭王権とつながりが深く、倭王権が入り込んだ証拠の古墳」だというのは、月ノ岡古墳の定説です。
何もかも「大和王権」と結びつけて考えられるのですね。しかし、ここは装飾古墳ではありません。150mほど離れた日ノ岡古墳は横穴式石室の中に装飾があります。
では、では、大和王権の後に「装飾古墳の文化が入り込み席巻した」というのでしょうか。耳納山地の北側には装飾古墳がどっと増えるのですから。定説では説明がつきませんね。
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では、日ノ岡古墳も見ましょうか。広い境内を横切りまして、若宮八幡神社の正面横の古墳に向かいます。
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日ノ岡古墳と神社の間には、道路が通っています。
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墳長は78mとあり、月ノ岡古墳とほぼ同規模です。同心円とわらび手文、三角文の文様が描かれています。この日ノ岡古墳が後の時代とつながるのは、ラインを引いて確認することができます。もう、何処に行っても紹介していますが、改めて載せましょう。
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日ノ岡古墳、寺徳古墳・下馬場古墳は装飾古墳です。その墳丘部をつなぐと、高良大社の社殿にラインが届きます。おもしろいことですね。
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三か所の装飾古墳が一本の線上に並ぶのは大変不思議ですよね。
江戸時代に若宮八幡が一揆衆の集合地になったと云うことは、古くから祖先の地として二つの古墳を守っていたからかもしれません。が、月の岡古墳と日ノ岡古墳には共通点はないのです。装飾古墳の勢力が入って来て、元の勢力を取り込んで(嫁にするとか、氏を継ぐとか)いったのでしょうかねえ。色々あったでしょうね。
では、また。


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by tizudesiru | 2017-10-09 17:30 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

耳納山・鯰・政変・一揆、田主丸の伝承いろいろ

耳納山の牛鬼伝承
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康平五年(1062)のある夜、ゴーンゴーンという鐘の音に然廓上人は目を覚まし「こんな夜中に誰が鐘をついているのだろう」と不思議に思いました。鐘つき堂には誰もいないのです。不思議な出来事は幾晩も続き、果ては婦女子が怪物に襲われるという怪異までもおこるようになり、「御仏の御霊光にかけても」と意を決した上人は正体を突き止めるべく木陰に実を潜め時の到るのを待っていました。
そこに現れた怪物は、顔は牛、体は鬼。しかし、上人はただ経文を読み続けました。すると、御仏の功徳によってか牛鬼も神通力を失い五体の自由さえ失いました。夜が明けるころ、駆け付けた村人たちにより怪物の首は都へ送られ、怪物の手は切り取られて寺に残されるこことなったのでした。耳は山に埋められて、その山を名付けて「耳納山」となった、という伝承が田主丸の紹介本に書かれていました。(写真は、その本をデジカメで撮ったものです)

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古墳で御こもり・塚神と八代龍王
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地徳の善院区の吉岡家の敷地内にある古墳には「塚神」として十一面観音が祀ってあります。この塚神の謂れは、次のようなものです。90年ほど前のこと、吉岡家の幼い長女が病弱で医者にかかっても効果が見られませんでした。ある日、トウニンサン(祷人)が訪れ、「塚の口を開けなさい。そして、十一面観音を祀りなさい」と勧められ、娘の快気を祈って教えに従ったそうです。
吉岡家のあたりはホノケ(字)といい、八龍ということだそうです。古墳の上には以前から「水の神」として八代龍王が祀られていたからでしょう。
この墳丘では年に一度「御こもり」が行われているそうです。この御こもりは一旦絶えたのだそうですが、村内で雷に打たれた人が亡くなることがあって、復活したのだそうです。


阿蘇神社の守り神鯰を食べない人々
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森山地区の人々は、鯰を阿蘇神社の使いと信じ、絶対に鯰を食べないという禁忌を守っていました。上の鯰の石像は、昭和十年(1935)に伊勢神宮に参詣した祈念に奉納されたものです。村人の支えによって代表が伊勢神宮に参拝した祈念なのです。タブーを守ることは、地区の人々の団結力も培ったのです。
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鯰は川魚として昔からよく食べられていましたが、それを禁忌として守ることは、阿蘇神社が中世の菊池市とのつながりができた頃に勧請されたとしても、長く人々の団結力を培ったのでしょう。
藩政に苦しみ一揆を起こした人々
その団結力は一揆にも反映されました。
享保十三年(1728)の一揆は、藩の税制改革が過酷であったので、当時、厳禁とされていた寄り合いを農民たちが各地で持ったのです。そして「大庄屋衆より聞き書覚」によれば、生葉郡若宮の森(現 吉井町若宮八幡境内)で二月二十七日から三月二日までの間に、最初は五~六〇人、次に八〇〇余人、さらに下郡からも参加して二〇〇〇余人の寄り合いを持ったのでした。
三月四日には、城下に押し掛ける覚悟で、菅笠・かうばし(はったいこ)の類を用意したのです。
この事態に、家老中達四名の連盟による税制改革案の撤廃書を出しましたが、信用ならぬと騒動は収まりませんでした。江戸には使者がたてられましたが、藩主からは「税制改革の方針どおりに進めよ」との申し渡しがありました。家老の有間右近も江戸に出府し藩主に一考を促しますが、「騒ぎ立て不届きの至り」と取り合いません。

八月上旬になって、上三郡の農民は「寄合極書」を申し合わせ、竹野郡・山本群からも嘆願書が提出されました。やがて、生葉郡竹野郡の農民の農民が動き出しました。大庄屋は制止しますが聞き入れられません。
八月二十日、農民は城下へ向かって進むことを相談して決めます。大庄屋は郡奉行所に農民の要求を報告しました。八月二十三日、農民はついに久留米市御井の切り通しまで進出したのです。

八月二十四日、家老の有間監物、同内記、同因幡、同右近ら、四人連名で「藩主の裁許無しには願い事は取り上げられぬ。ごくごく難儀の品々があれば藩主からの裁許なくとも詮議するので、そうそう居村に帰るがよい。この旨を相弁えないとすれば幾日滞留しても願いは受けぬ」と申し渡され、農民たちは各村々に引き上げたのでした。

 
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(吉井町の若宮八幡宮、広い境内があったのでしょう)
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久留米藩の税制改革は、正徳二年(1711)に始まり、享保を経て、延喬五年(1748)まで続きますが、藩の財政ひっ迫はどうにもなりませんでした。なかでも、享保十七年に大飢饉が西日本を襲った時には、年貢は平年の二割しか入らず藩は困窮し、領内では餓死者一万一一九〇人、死馬4000頭と伝わります。
更に悲惨だった宝暦一揆
享保一揆は、農民が年貢減免を要求した最初の一揆でした。ここで、彼らは団結する強さを学んだのです。同時に、為政者側は更なる弾圧と取り締まりの方法を考えたのです。ですから、宝暦一揆の場合は農民も強くなっていましたが、藩側も厳しくなっていました。
久留米藩の二大一揆は、生葉・竹野二郡を起点として起こっていますが、それは何故でしょう。この地域は江戸時代初期の「五人の庄屋」の物語が残っています。彼らは命を賭して大石堰を造り用水路を完成させ、地域のコメの生産力を上げたのです。(その後、水神として祭られています)しかし、その水路の恩恵で得た物を藩によりほとんど収奪されたのでした。生葉・竹野の農民の努力に藩は報いるどころか何もかも収奪したのです。


宝暦一揆は、藩権力に対する全領的な蜂起であったので、藩の権威維持と農民支配のために、事後処理は徹底されました。また、藩としても農民からの収奪の限界を知ることにもなったのでした。
一揆後、次々と関係者が捕らわれ始めました。6月末から7月にかけて三〇〇人にも及び、死罪三十七名、追放七十六名、過料四十七名、など厳しいものでした。
竹野郡は、庄屋が四名死罪、二名追放、村役人の重罪処分は他郡より多く、死罪三十七名のうち竹野郡の者は十一名と多いのです。(生葉郡は死罪五名)

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野中村久兵衛は、ただ一人さらし首となりました。

以上、田主丸町史の中身を少しだけ紹介しました。
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竹野の神鉾神社の拝殿の絵馬にあった「義士衣錦」の文字には歴史の重みがあるのですね。
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古代の磐井も耳納山地の西の御井で戦いました。中世の後醍醐天皇の皇子も耳納山地に陣を置きました。豊臣秀吉も耳納山地の西の端に陣を置きました。昔から耳納山地にはあまたの血と涙と汗が流れているのです。美しい山並には、様々な物語が隠れていますね。


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by tizudesiru | 2017-10-08 01:45 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

田主丸の阿蘇神社は橘の紋

なぜか、阿蘇神社に橘の紋
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久留米市田主丸町地徳(善院、ぜい)2808
田主丸の阿蘇神社は、大クスが知られています。祭殿の後ろに樟があります。
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拝殿には橘の紋がありました。よく見ると、あちこちに橘の紋がありました。
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阿蘇神社はほとんどタカノハ(並びタカノハ、ちがえタカノハ、三段のタカノハ、などなど)ですが、ここはタチバナです。不思議です。神額にもタチバナがありますね。これは何故でしょう。
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ご祭神は、建磐龍命(たていわたつ)、合祀している祭神は、国魂神、木花咲耶姫、神功皇后、勝頼大明神、浅間之神。なんとも様々な神様が合祀されていますねえ。
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一段高い所に祠が見えています。
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人の入れ替わりで様々な神様が入れ替わり、粗末にもできず摂社・末社になったと云うことでしょうか。その中で、タチバナの紋は残されたと。
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広い境内の南は耳納山地。北には筑紫平野が広がります。
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阿蘇神社ですから、やはりナマズが置かれているのでしょう。ここだけ、阿蘇神社らしいところですね。

タチバナの紋は、ここのご祭神がもともとは「建磐龍命」ではなかったと伝えているのでしょうね。


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by tizudesiru | 2017-10-05 14:48 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(2)

ヒキガエルが守る姥ヶ城の天満神社

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ここには八幡宮
はない!
って、どういうこと?? 
不思議な天満宮だらけ

「南無八万大菩薩!」と弓をきりりと絞ったのは、平家物語の那須与一でしたね。武士は八幡神を信仰しました。八幡神は応神天皇で、武人の神なのでしょう。八幡神は神功皇后と一緒に祭られていますね。
案内してくださったM氏が言われました。
「不思議なことに、ここには八幡神社はありません。天満宮だらけです」
ふむ…むむ…では、八幡神を守護神とする武士の信仰が入って来なかったということですか?
それとも、神功皇后伝承が必要なかったということでしょうか? 
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「天」の字にすっかり慣れました。ここは、田主丸町地徳(姥ヶ城)の天満宮です。
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「鳥居杉」というのだそうです。境内への入口には杉の間に注連縄が張ってありました。神域を示したのでしょうね。鳥居を造るにはお金がかかるでしょうから。それとも、本来鳥居などなく、ご神域を示す「注連縄」があっただけでしょうか。
万葉集でも「標結はましを(しめ縄を張りましたのに)」とか「しめ野(標縄を張って区別した土地)」とか出てきます。大事な場所は、標縄を張って区別したのですね。
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あれ!天満宮に牛ではなく、カエルですか?
これは、ヒキガエルだそうです。
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狛犬の台座も梅ではなく牡丹(?)が彫られています。
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確かに天満神社ですね。
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神殿の南北の軒下には、青鬼・赤鬼が守りについていました。
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網戸の向うをのぞかせていただきました。
ご神体は菅原道真のはずですが、三柱の神様がおられるようです。ここも、ある時期に神様の入れ替えや合祀があったのでしょうか。
ふむふむ、ですね。ヒキガエルや三柱の御神体を参拝させていただきましたが、どうおもわれましたか?

ヒキガエルのお話、どこかにありましたね。


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by tizudesiru | 2017-10-04 10:42 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

八代龍王(豊玉彦)が祭られた円墳と石室

八代龍王は個人宅にひっそりと…八代龍王社


田主丸町善院(ぜい)の八代龍王社の御祭神は豊玉彦
ごめんください、お邪魔しますと路地を抜けると八代龍王社が古墳の上に鎮座されていました。もともと辺りには古墳が沢山あったのでしょうね。後世、人々の集落ができ始めると塚は生活上いらないものになったかも知れません。屋敷を広げたり、畑を広げたりと、塚は無くなって忘れられ、すっかり庭の石材となり、用水路の石材となったことでしょうね。

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耳納山地の北側山麓は古墳の宝庫です。龍王社の背後には筑紫平野、目前の南には山塊。あの白建石が見えるのです。
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では、この円墳の石室にお邪魔してみましょう。やはり個人のお宅にお邪魔することになります
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お庭の奥に石室の入り口が開いていました。昔はここで蚕を飼っていたそうです。石室の中は真っ赤に朱が塗られていたそうです。狭い前室の奥に広い玄室がありました。
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天井は高く朱が残っているように見えました。下の写真は石室の天井です。
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玄室の奥壁の前にセメントの台があって、大石が少ししか確認できません。
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小口の石を積み上げて石室を造っているのですね。
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玄室の入り口の袖石です。両袖でした。壊されずに残されてよかったですね。
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しかし、古墳は放置されれば樹木が石を緩めていくかも知れませんね。

田主丸はミステリーゾーンがおおいです!
では、また。


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by tizudesiru | 2017-10-03 14:49 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

井樋権現は天武大地震を証明する

森影に井樋(いび)神宮
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田主丸町大字地徳(ちとく)
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井樋宮の御祭神は、天穂日命・伊弉諾尊・伊弉冉尊です。そして、ここは下宮です。中宮は此処から横の道を上っていけますが、上宮には別の道を使って登らなくてはなりません。
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上宮=井樋権現は上の写真の中の三角形の山です。かすんでいますが、電線の上のほぼ中央に小さく見えています。ここが白建山(白建石)です。天武大地震(678年)で斜面が崩れ花崗岩の岩がむき出しになったという所です。
耳納山地の西でも、高良大社の神籠石の北側が断層崖になり列石が崩れて切れています。これも天武地震の影響とされ、「神籠石」が678年以前の土木工事だと証明されたのでした。
地徳の白建石は花崗岩ですから、遠くからでも白く光って見えたでしょう。下宮の井樋宮に白い白雲母花崗岩が並べてありましたから、白い雲母がキラキラする石は井樋権現の化身だったのでしょうね。
この巨大な白石は筑後川の対岸からも目立ったようで、天武朝に筑紫国が分割された時、上座郡(かみつあさくらぐん)と下座郡(しもつあさくらぐん)を分ける郡境の直線を引くために利用されたようです。
このお話は田中正日子先生からも聞いていたので、井樋神宮を紹介してくださったMさんから再び教えてもらってうれしかったです。先生は実際に見て感動したと言われました。わたしも是非とも白建石を見たいと思いました
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古代の郡境は、筑後川の北北東に延びたの少し濃いラインで、そのラインを南にのばすとⒷの白建石につながります。今でも白い道がまっすぐに通っているのです。川向うからは目印にしやすかったのですね。
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この白建石の山頂からは8世紀~10世紀の土器が表採されています。「東川」と書かれた墨書土器もあり、麓には東川という地名も残るそうですから、何処の人が祭祀を行っていたか分かろうというものですね。
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井樋神宮の上宮と下宮は南北に並びます。祭祀は上宮で始まったのでしょうが、山頂では祭を日常的に行うには難しいこともあったろうし、その後も、山崩れ(山潮・やましお)などの被害も重なり、上宮での祭祀をある程度下宮に下ろしたのでしょうね。
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井樋神宮の入り口のミズヒキソウの花の色は白でした。清々しい空気が漂っていましたね。
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そうそう、神社と神宮は違いますよね。神社は別のところから神様に来ていただいて祭り始めた所ですが、神宮はもともとその地に生まれた信仰が中心になっていて、その宮が原点だということでしょう。
ですから、井樋神宮はこの地の信仰のご祭神を祀る神社ということですね。

それは、地域の誇りともなっているのでしょうし、参詣する者にも大変興味のあることになります。
では、また。



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by tizudesiru | 2017-10-03 01:07 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

古代の祭祀場なのか、明見社は

古代の祭祀場 磐座と明見社
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明見社は小さな石祠でした。石祠の北には筑紫平野が広がり、明見社は北斗をここから眺めています。
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砥上山、宮地岳、大根地山、三郡山、宝満山、大城山という信仰の対象となった山々がここからは見えるのです。
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実は、この石祠の横は2mほど下がったくぼ地になっていて、清流が横を流れている十坪ほどの広場があり、磐座が祭られていました。
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この磐座は無残にも砂防ダムと橋がすぐそばに造られていて、いにしえの面影をわずかにとどめているだけですが、今も祭られ守られているようです。
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この磐座の横の橋を渡り、さらに杉林の中に入ると、井樋神社があるのです。
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実に深い森の中に井樋(いび)神社はあるのです。

それは、また明日。


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by tizudesiru | 2017-10-01 21:06 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

謡曲「竹生島」と田主丸にあった地獄神社?

地獄(じごく)神社?と読んでしまった神社
しかし、宮地嶽神社と読むとわかりました
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筑後川流域田主丸天満神社
福岡県久留米市田主丸町竹野にあります。耳納山地の北側には古墳が集中しますが、古い神社も集中しています。
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鳥居の額には天満宮と書かれているそうですが、読みにくいですね。
天満宮ですから、ご祭神は菅公(菅原道真)と木花咲耶姫です。不思議な組み合わせですね。
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清々しい神社でした。祭殿には確かに男神と女神が祭られていました。
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境内もきれいに清掃されていました。ほとんど山の中の神社ですし、人もいないのですが。
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この神社の境内にお堂が見えますが、横に鳥居が見えています。そこから階段を上れば宮地嶽神社があると聞いたので参詣しました。
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真新しい鳥居がありました。「宮地獄(みやじごく)神社」という額ですが、何も気が付かずに階段を上りました。宮地嶽(みやじだけ)神社と思って手を合わせました。
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階段を下りて気が付いた人がいたのです。地獄だと…
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鳥居の神額が、宮地獄(宮じごく)神社となっていたのです。
嶽を獄に書き間違えるなんて、まさか、ないでしょう。むかしから「獄」の字をつかっていたのか、本当は宮地嶽神社ではなかったので、「嶽」の字を故意に避けたのか。どうなのでしょうねえ。まさか、地獄とはねえ。
と書きましたが、これは、宮地だけ神社と読むのだそうです。
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もうひとつ、鳥居の横のお堂に西国三十三箇所の三十番目の御詠歌が掲げられていました。
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なんで、ここに滋賀県の竹生島の弁財天信仰に謡われる御詠歌が架けられているのでしょうか。このお堂に、市来島姫(市杵島姫)を祭っているという理由からでしょうかね。
市杵島姫はスサノウとアマテラスの誓約で生まれたことになっている三女神の一人として知られています。出雲大社にある筑紫宮に祭られる大国主命の妃でもあります。つまり、もともと九州の神なのですね。
その神が弁財天して信仰され、竹生島の都久夫須麻神社にも祭られています。都久夫須麻神社は、「三代実録」(879年)には「筑夫嶋神社」と書かれ、10世紀の「延喜式神名帳」では、「近江国浅井郡都久夫須麻神社」と書かれています。


要するに、都久夫須麻神社は筑紫島神社ということでしょうか?
神社によると、竹生島に「雄略天皇三年に浅井姫を祀る小祠が造られたこと」が祭祀の始まりだそうです。また、天智天皇が近江宮を造る時、宮中の守護神として祭られたとも。
聖武天皇の時、「琵琶湖に小島あり、そこは弁財天の聖地であるから寺院を建立せよ」と神託があったので、行基に宝厳寺を開基させたということです。
そうですか。やはり聖武天皇は天智天皇の守護神だった竹生島の神を祀り敬ったということでしょうか。

そうそう、謡曲「竹生島」(宝生流)のことも一事、書かなければなりませんでしたね。
あらすじは『延喜の聖代(醍醐天皇の御代)に仕える臣下が竹生島の参詣に出かけて琵琶湖畔に着くと、老人と若い女が乗った船があったので、同情させてもらう。湖上の春景色を眺めているうちに、舟は竹生島に着く。女が降りるのを見て、臣下はこの島は女人禁制であると聞いていると不審顔をするが、老人は島に祭られている弁財天は女体の神であり、それを知らない人が言ったことであろうと教え、島の由来を語った後、自分たちは実は人間ではないことを明し、女性は社檀の中に消え、老人は波間に姿を消す。(中入り)
臣下が待っていると、社檀が揺るぎ光輝く姿の女体の弁財天が姿を表して舞を舞う。やがて湖上の波が荒れたかと思うと龍神が現れ、光り輝く金銀珠玉を臣下に授けて、素性済度の誓いを表して水中の龍宮に飛んで消え失せる』という大変華やかな弁財天が登場するものです。

謡曲は近世に流行した演劇でしょうが、演目は平家滅亡とか大きな政変に関わる「亡霊」や神や仏が出てくる中身が多いように思います。竹生島も浅井(あざい)媛が首を斬られてできたという伝承の嶋ですから、弁財天の話も入りやすかったのでしょうね。

 

面白いことはまだまだありましたが、ここまでにします。


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by tizudesiru | 2017-10-01 01:48 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(2)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
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197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
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202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
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212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
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226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
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231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
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234小郡官衙見学会
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248賀茂神社の古墳と浮羽の春
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264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
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274 古代の測量の可能性・飛鳥
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276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
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279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
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287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
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by 暇人 at 22:48
ごめんなさい。 楼閣じ..
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> 読んでくださってあり..
by tizudesiru at 23:59
邪馬台国がどこにあったか..
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