カテゴリ:25/26文林朗裴清が見た倭王( 1 )

25 文林朗裴清が見た倭王

25 文林朗輩清が見た倭王
 阿毎多利思北孤は、聖徳太子ではないかも知れない。聖徳太子は、近畿王家の太子である。日本書紀によると、推古帝は隋の鴻鸕卿裴世清に対して丁寧に対応している。「鴻鸕卿」とは、外交官のようなものである。
 推古一六年夏四月、小野妹子と裴清は筑紫に着いた。難波吉士雄成を遣わし唐の客を召された。客の為に新しい館を難波に造った。六月一五日、客達は難波津に泊まった。飾り船で迎えて、新館に入らせた。接待係は、中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平である。この時、妹子は『帰還の時、百済で煬帝の国書をかすめ取られたので、届けられない』と言った。妹子を流刑に処すべきとの意見も出たが、天皇は『大唐への聞こえも良くない』と許した。
 秋八月三日、唐の客は都に入った。七五匹の飾り馬で海石榴市の路上に客を迎えた。十二日、客を朝廷に召して使いの旨を述べさせられた。唐の進物を庭上に置き、使者裴世清は自ら書を持ち使いの旨を言上した。その書に「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れよく意を伝えた。自分は天命を受けて天下に臨んでいる云々。天皇は海の彼方にあって国民をいつくしみ、国内は平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。(略)鴻鸕寺の掌客裴世清を遣わして、送使の意を述べ、併せて別にある贈り物をお届けする」とあった。その時、阿倍鳥臣が進み出てその書を受け取り、大友クイ連が帝の机上に置いた。この時には皇子・諸王・諸臣は、みな冠に金の飾りをつけた。十六日、客達を朝廷で饗応した。九月五日、客達を難波の大郡でもてなした。十一日、裴世清たちは帰ることになった。小野妹子を大使、吉士雄成を小使として送らせた。天皇は「東の天皇が謹んで西の皇帝に申しあげます。使人鴻鸕寺の掌客裴世清らが我が国に来り、久しく国交を求めていた我が方の思いが解けました云々」と挨拶しているが、これまでの交流は無かったのか。この時の遣唐使が、福因・恵明・高向玄理・僧日文・南淵請安等々八人である。
 この推古紀の記述の中には、聖徳太子の姿が見当たらない。文林朗輩清は、聖徳太子にあったのだろうか。歴史上の倭王は多利思北孤だけではないが、髄書を読む限り、倭国の所在地がはっきりしない。大和ではなく、九州のような読後感が残る。倭国は何処まで広がっていたのか。それに、都はどこだろう。宋書では、耶麻臺になっている。

26 倭国王の素顔
 六〇〇年と六〇八年、隋の煬帝に遣使を出したのが聖徳太子なら、太子は天皇になっていなければならない裴清は倭王(俀王)に会っているからだ。六〇〇年の倭王は男である。妻も世継もいる。聖徳太子は用明天皇と穴穂部間人皇后の皇子であり、推古天皇の太子である。太子は冠位十二階を定め、十七条憲法を作り、それは書紀に詳しく記載されている。太子が政治の中核にいたという事だ。六一三年には都と難波の間に大道(官道)も出来ている。太子が斑鳩に宮を建てたのは、六〇一年である。しかし、帝位にはついていない。
 軍隊はどうかというと、任那を救うために新羅征討大将軍となって筑紫に下ったのは、太子の弟、久米皇子である。目的を達せぬまま久米皇子は筑紫に甍去(殯葬を長門でしたのは、仲哀天皇と同じである)したが、次に新羅大将軍に命じられたのは、久米皇子の兄の当麻皇子だった。太子一族が軍隊を掌握しようとしたのだろうか。
 仏教を取り入れる努力をしたのも太子である。後ろ盾の蘇我氏は、引き続き大臣を引き継いでいる。叔母の推古帝が天皇でなければならない理由は、何だったのだろう。蘇我氏という後ろ盾の絶頂期でもあった。ミステリー小説のように、本当は聖徳太子が皇位を継いでいたのだろうか。法隆寺釈迦三尊像の光背の金石文のいうように素直に天皇になり、法王になっていたとしたら(太子の死亡年と死亡日が、銘文の法王とはずれているが)、歴史はどうなるのだろう。
 NHKの番組で知ったことだが、最近の法隆寺の金堂の調査で明らかになったことがある。金堂が一番古い建築物になるのだが、釈迦三尊像の天井の木材の年輪で年代を追及したところ、六六八年に伐られたというものが見つかったそうだ。天智天皇の時代である。若草伽藍と呼ばれる元の法隆寺は、六七〇年に一宇も残さず焼失している。その前に、救世観音も玉虫厨子も釈迦三尊も新築の現法隆寺金堂に移されていたから、傷一つなく今に伝わったらしい。金堂建造の目的は、何? やはり祟り封じなのか。それとも太子の面影を残す像を移して祀りなおすことに、新政権として意味があったのか。たとえば、法隆寺の近くの「藤の木古墳」の被葬者として埋葬し直したとか。この古墳の副葬品があまりに優れた品々なので、王者のものとしか考えられない。しかし、馬子に暗殺された崇峻天皇の墓とは思えない。それで、ついつい素人は憶測してしまう。聖徳太子は最高の地位に居たのに、歴史的には太子としての地位に甘んじなければならなかった。それゆえに、祟りを恐れて祀りなおされたのではないかと。まさかの域を出ないが。
 聖徳太子と蘇我馬子は天皇記と国記、臣・連・伴造・国造・百八十部並びに公民達の本記を記録編纂している。(蘇我氏滅亡の折に天皇記・国記及び珍宝を全て焼くとあり、船史恵尺が素早く国記を取って中大兄皇子に献じたという。太子の国記は、日本書紀編纂の時に役立ったはず)太子は極めて天子に近い条件に囲まれている。
 稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く大臣に集中した権力は、近畿王家には邪魔だったはずである。蘇我入鹿が、聖徳太子の子、山城大兄一族を追い詰め自殺させたのは、蘇我氏への権力集中に対する豪族達の不満を解消し、蘇我氏の権力を維持する為に、入鹿が選んだ苦渋の選択だったのかも知れない。継体→欽明→敏達とつながった直系皇統が、用眀→崇峻→推古と蘇我氏の勢力に取り込まれそうになっていた。そこで、推古→聖徳太子→山背大兄と歪んでしまっては、かろうじて皇統を継いだ継体天皇の意味が失われてしまう。聖徳太子は、天子であってはならなかった。敏達天皇の直系に皇統を戻す為とはいえ、然るべき地位にあった聖徳太子の存在の抹殺は、天智天皇としても後ろめたかったに違いない。太子一族の霊を慰める事、それが、法隆寺建立の目的だったのではないか。そして、近畿王家の繁栄を願った。となると、太子は天子になっていたかも知れない。
六四〇年に、唐から高向玄理や南淵請安などが帰った
 彼らに学んだ人々が国の在り方を考え直し、計画したという出来事が、六四五年の蘇我大臣一家を滅ぼした「大化の改新」である。皇位継承の争いではない。此処に大きな意味があったとすれば、中国に学んだ人々の力を借り、蘇我氏が持っていた権力を奪った事になる。(たとえば「大倭」という権力の象徴、税を集めるトップの組織だったのではないだろうか)そして、天子の治める国家を目指した。皇位を継いだのは、天智の叔父の孝徳天皇であった。この天皇の時代に、公地公民・班田収受が始まるなど、国家の基本的な骨格が出来ている。実行されたかどうかは分からないが。「大化」「白雉」という年号もある。この後、年号が使われないのは何故だろう。この天皇が排除されたので使われなかったからだろうか。留学から戻った日文(僧・旻)は、「大化改新」の孝徳帝を思想的に支えた人である。日文(僧・旻)が亡くなる時、孝徳帝がその死を惜しみ悲しんでいる。孝徳帝は理想の中に滅び、中大兄の理想に取って代わられた。そして、王家の理想と野望は、壬申の乱までもつれた。
 しかしながら、再び疑問が生まれた。遣唐使(遣隋使)が帰るまで、国家としての組織が十分でなかったとしたら、「倭王は近畿にはいなかった」ことにならないか天子がいて、府を開き、国の組織があり、王城があったのなら、留学生の帰国を待って改新する必要はない。そうなると、六世紀末の「日出処天子(阿毎多利思北孤)」は、誰だろう。
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by tizudesiru | 2011-09-06 20:48 | 25/26文林朗裴清が見た倭王 | Comments(1)


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