カテゴリ:270邪馬台国論争なぜ続くのか( 2 )

卑弥呼の宮室は吉野ケ里ではない?

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卑弥呼の宮殿の候補地は何処なのか

吉野ケ里と纏向でいいの?


邪馬台国論争では、いつもこの二ヵ所が取り上げられて比較されていますが、二か所でいいのでしょうか。

そもそもの出発点、三国志の「倭人伝」に見える女王国の様子を見ましょうね。検討できるところを抜き書きしました。

男子は大人も子供も鯨面文身(顔にまで入れ墨をしている)
道理を図ると、まさに会稽(かいけい)・東冶(とうや)の東にある
禾稻(イネ)苧麻(からむし)蚕桑・絹績(蚕と桑を植え絹織物を織る)細紵・縑緜(細い麻糸と絹織物)がある
兵は、、楯、木弓を用いる。竹矢には鉄鏃、骨鏃を用いる
文物は中国の儋耳(たんじ)朱崖(しゅがい)と似ている。*南海島の郡名
倭の地は温暖・冬も夏も生菜を食し、みな裸足
父母と寝起きするところはちがっている
朱丹をその体に塗る
墓は棺はあるけれど槨(外側の箱)はない。土で冢をつくる。もがりを十日ほどする。
倭は、真珠・青玉をいだす。山には丹がある。
木は、クス・トチ・クスの木・ボケ・クヌギ・スギ(?)・カシ・ヤマグワ・カエデ・
竹には、シノダケ・ヤダケ・?
しょうが・さんしょう・みょうが等あるが、滋味とはしていない
骨を焼いて吉凶を卜う
大人は皆、四、五人の婦(よめ)。下戸は、二、三人の婦。
租賦を収む(税をおさめていた)
邸閣(ていかく)あり。(大きな館があった)
国国に市があり、物々交換をしていた。大倭がこれを監視していた。
女王国より北に一大率を置いて、諸国を検察し、諸国はこれを畏れていた。
一大率は常に伊都国に置かれていた。


ここまでは、
九州説を裏づけする事項だらけですね。
倭王の使いが京都・帯方郡などに詣でる時、及び群からの使いが倭国に来る時、港で文書・賜遣のものなどの荷物を開けて、不足や食い違いがないか調べている。*字が読めたし、書けたのです
(略)倭国大乱などの記事があります。
卑弥呼は王となってより人に会うことが少ない。婢が千人仕えていて、男子一人が出入りする

居処には、宮室・楼観・城柵、おごそかに設け、常に兵が守衛している。
まだまだ、続きますが省略します。

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一方の纏向遺跡
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この大型建物の柱穴は方形です。方形の柱穴が現れるのは、ほぼ七世紀から八世紀だそうです。更に、ここから古い土器に混じって四世紀の土器が出土しているので、時期は卑弥呼の時代ではないと訂正されたそうですが……館に城柵は有りませんね。
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では、この模型はなんなのでしょう。辺りは川の小さな支流がいくつもあり、大型建物を建てるには難しい所だと聞きましたが。
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各地方の土器が沢山出土したことが取り上げられていましたが、韓半島の楽浪系土器は出土していません。(九州には出土していますが)

番組の纏向遺跡の切り札は「ベニバナの花粉」でした。確かに、倭錦・絳青縑(こうせいけん)などを倭国から贈っています。絳青縑は赤と青の絹織物だそうです。でも、ベニバナの花粉がみつかったから絹織物があったとは飛躍がありませんか。(絹織物が弥生の甕棺から出土するので、絹も九州にはありました)


わたしは、近畿に王権が出現する事実を精査して、王権発祥の地を見つけてほしいと思います。このまま纏向に決めて突き進むのは、無理だと思うのです。


大型古墳の築造順序も精査して、埴輪や副葬品の時期をすり合わせて、納得のいく王権誕生のドラマを市民に見せてほしいのです。
私利私欲、我田引水は、もういいですから。
わたしたちは日本誕生の真実を、倭国とは何だったのかの真実を知りたいのです。人間は知ることが好きなのです。


邪馬台国九州説の老人たちが生きている間に、

なんとかなりませんか。

そうそう、わたしは邪馬台国は「吉野ケ里」ではないかも、と思っています。あそこは重要な弥生の集落のモデルですが。
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もし女王国が北部九州にあったのなら、鏡が副葬されたでしょうし、五尺刀も副葬されているでしょう。卑弥呼は女王国から実家の墓地に運ばれて埋葬されたかも知れません。後の時代の古墳の改葬のように、幾度も改葬されたかも知れません。改葬の途中で金印は権威ある者の手に渡った可能性もあるでしょう。
次の王権が卑弥呼を倒した勢力であれば、必ずそうすると思います。二度と蘇らないように墓を改葬するのです。
卑弥呼の霊力が信じられていたのなら、必ず実行したはずです。

卑弥呼の墓は、北部九州にあると云うことですかね。でも、
卑弥呼の宮殿は吉野ケ里ではない
これは、今の時点でのわたしの結論です。


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by tizudesiru | 2017-07-24 14:44 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback | Comments(2)

邪馬台国論争・TBSの着地も纏向ですか

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卑弥呼が没したのは、正始八年(247年)でしたね。三世紀の半ばですね。

ちょっと、テレビに気になることがあったので寄り道です。

またまた不思議な
邪馬台国論争
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「邪馬台国の候補地は全国にある」と笑って

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魏志・倭人伝の一文「水行十日陸行一月」を取り上げて、

邪馬台国論争が始まりました…

女王の都する所が、水行十日陸行一月だというので、明治以来の九州説と奈良説の二ヵ所にしぼって邪馬台国の場所を探る番組でした。吉野ヶ里と纏向が比較されていました。

そもそも、魏志の「倭人」伝は、帯方郡から女王国までの里程を「水行十日陸行一月」のみで説明してるのではありません。里程を抜き書きしてみましょう。

従郡至倭(郡より倭に至る)には、海岸に沿って行き、
到其北岸句邪韓国(その北岸、句邪韓国にる)*その北岸は、何処の北岸?
七千余里、始度一海、千余里至対馬国(七千余里にして、初めて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る)
又南渡一海。(また南し一海を渡る) 名を瀚海という、
千余里、至一大国(千余里にして一大国に至る)
又渡一海、千余里至末盧国また一海を渡り、千余里にして末盧国に至る)
東南陸行五百里、到伊都国東南に陸行し五百里にして伊都国る)

伊都国だけ「到」が使われています。このあとで、伊都国の説明が入ります。これまでの国々にも官や国土や風俗の説明は有りましたが、省きました。

それでは、伊都国のせつめい。

官を爾支(ねぎ)といい、副を泄謨觚(えもこ)柄溧觚(へごこ)という。千余戸あり。世(よよ)王あり。皆、女王国に統属す(皆統属女王国)。(帯方郡の)軍使往来するとき、常に駐まる所なり。*(代々の王は皆、女王国を統属していたとよめませんか?)

再び、里程に戻ります。
東南至奴国、百里(東南して奴国に至る。百里なり)
東行至不彌国、百里東に行きて不弥国に至る。百里なり)
南至投馬国、水行二十日(南にして投馬国に至る。水行すること二十日なり)
南至邪馬壱国、女王之所都、水行十日陸行一月(南して邪馬壱国に至る。女王の都する所なり。水行すること十日、陸行すること一月なり)

次に他の国について「女王国の北にある国」は、その個数とか距離のおおよそを書くことができるが、その他の方角の国々は、遠く離れていて詳しく知ることができない」と書かれています。

すると、

対馬国も、一大国も、末盧国も、伊都国も、奴国も不彌国も、投馬国も、みんな

女王国より北にあると云うことです。

戸数や距離や官や副官が述べられていますからね。


女王の都に至るには、水行十日陸行一月かかるのですが、出発地は何処でしょう。帯方郡ではありませんか?

更に、よく見ると「距離・至・国名」の順番で、対馬国も一大国も末盧国も伊都国も紹介されていました。距離が先で、帯方郡から連なって来た意味でしょうか。
が、
奴国・投馬国・不彌国・女王国は、「至・国名
距離
で書かれていました。距離が国名の後に有りました。
これには意味があると思います。出発地は、郡ではなく伊都国ですかね…

更にさらに、
詳しく知ることができない国々を二十ヶ国あまり名前だけ書いた後に、

其の南に狗奴国あり。男を王とし、その官には狗古智卑狗があり、女王には属していない」と書かれているのです。
狗奴国は女王国の南です。

次に里程のまとめとして自郡至女王国萬二千余里

帯方郡より女王国に至る距離は一万二千里余り

7000+1000+1000+1000+500=10500
あと1500里で伊都国から女王国に届くのです。

普通に、邪馬台国は近畿では有りえません。
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邪馬台国が手に入れていた鉄の問題がありました

「倭人」伝に書かれているのですから、これは決定的な物証でしょうね。

鉄が出土する遺跡とその量の画像を見ると、圧倒的に中部九州が多いですね。

そこには狗奴国があったのではないでしょうか。

狗奴国は鉄を以て武器や工具を作り、生産力を上げ、女王国と対抗したのです。

熊本の遺跡は、近畿の遺跡ほど掘られてはいません。調査もせず土木工事が行われているのも現実です。

見つかっても掘るのは一部です。(吉野ケ里遺跡は特別中の特別なのです)


鉄の工具や鏃などの武器は、出土数で福岡より熊本が勝っています。
自著にも書きましたが、この違いが狗奴国が邪馬壱国を追い詰めたと思います。
そして、女王国は狗奴国に破れたと。

たまらず女王国に隷属していた人々は、東へ移動したのです。

もちろん、鉄の生産技術・大型甕棺の焼成技術・銅製品の生産技術など、みんな持って逃げたと思います。


久留米地方も、福岡平野も、繁栄していた遺跡がある時期一度に放棄されました。

生活用具も祭祀具もみんな周濠に捨てて(完品も捨てられている事実がある)、一斉に逃げ出すことが起こりました。


持ち物を破棄する理由は沢山ないでしょう。
豊かな土地を捨てなければならない理由なんて。

その後に入って来たのは、もちろん肥後の勢力でした。
それが、古墳の様相から読み取れるのです。

わたしがこのように書くまでもなく、いろいろな方が様々に指摘されていることでしたね。

明らかに、畿内説は無理なのに。それでも取り上げるTBS。
NHKも同じでした。なぜでしょうか。

由々しくもゲストが言っていました。

「邪馬台国が九州なら、邪馬台国は一地方の国となる」

「畿内ならば、ヤマト王権につながる国ということになる」

そうでしょうか。王権はどのように生まれたのか、まだ定説は有りません。
ゲストとしては、邪馬台国が一地方(田舎)にあったという結論が嫌だというのですね。

でも、田舎でいいではありませんか、事実であれば。(本人は畿内説だそうですから)

それに、王権と九州は深いつながりがありますよね。

東京だって、五百年前は都から離れた田舎だったのですからね。政治が変われば、経済・文化の中心地も変わるのですよ。

更に司会者が「九州説の人には、年よりが多い
」といいました。
驚きました、九州説の研究者にも老人にも若者にも失礼でしょう。
番組として恥ずかしくありませんか。


当然ですが、二千年前は大陸や半島に近い所が文化の中心地だったと思います。

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(福岡市博物館・新奴国展のカタログより)

さて、里程以外でもたくさんのことが取り上げられ、比較がされていました。
それもなかなか見逃せなかったので、また明日紹介しましょう。
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明後日には、また古代の神祭りと萬葉集の時代に戻るつもりです。
邪馬台国九州説の老女としては、ちょっと、ネ。気になりました。


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by tizudesiru | 2017-07-23 14:29 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback | Comments(3)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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199光明皇后の深い憂鬱
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201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
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212中大兄の遅すぎる即位
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217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
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227 古代山城・大野城
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232岩戸山古墳の歴史資料館
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252瓦に込めた聖武帝の願い
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254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
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263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
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267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
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273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺

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