カテゴリ:23日本書紀の中の日本( 1 )

23 「日本書紀」の中の日本

23 日本書紀の中の日本 日本書紀には「倭王」という語は出て来ない。倭(やまと)は、日本列島を指すのではなく、大和地方のみを指している。これだけの事でも、郭務悰が進上した上表文に書かれた倭王は、畿内の大王ではないと言えないか。倭は何処なのか、改めて確かめたくなる。
 それにしてもなぜ、数年の間に古事記(七一二年)と日本書紀(七二〇年)と二つの歴史書が書かれたのだろう。古事記が不十分だったなら、それに筆を加えればいい。書き直しは出来るはずだ。書紀には古事記が作成されたという記録がない。国家的な仕事をしているのに、である。持統天皇の吉野宮行き(三十一回)は、書紀にかなり繰り返し書かれている。しかし、更に重要であろう「古事記」作成の事が書かれていない。不思議である。秘密裡に作成されたのだろうか。記述の詳しさの違いだけでない、大きな違いがあるようだ。古事記に一度も出て来ない「日本」という文字が、書紀にはかなり出て来る。古事記から日本紀に至る数年間に何があったのだろう。古事記偽書説は、ひとまず横に置いておく。

 まず「日本書紀」の中の日本について見てみよう。
 先の項目で取り上げた「大倭」であるが、書紀では、天皇の諡号にある「大倭」「倭」が「大日本」「日本」と変えられている。この事は、書紀編纂者が、古事記のことを熟知していた事に他ならない。目的があって、古事記に触れなかったのである。または、書紀編纂者は古事記を熟知していたとなろう。
 和風諡号の神倭伊波禮比古命が、神日本磐余彦天皇(一代神武天皇)である。「倭」が「日本」に変えられた理由はなんだろう。四代懿徳天皇は、大日本彦耜友天皇。六代孝安天皇は、日本足彦国押人天皇。七代孝麗天皇は、大日本根子彦太瓊天皇。八代孝元天皇は、大日本根子彦国牽天皇。九代開化天皇は、稚日本根子彦大日日天皇となる。他に日本の字を持つ天皇、二十二代清寧天皇は、白髪武広国押稚日本根子天皇となっている。書紀と古事記では、使われた漢字に大きな違いが出ている。その中で大倭も日本も「やまと」とは読めない。文字が入れ替わっただけでない。意味を背負っている文字に代わっているのだ。日子を彦に変えているのは、音が同じなので分かる。しかし、大倭が日本になるのは不自然な気分が残る。どんな歴史的な意味付けがあるのか。日本は古の倭国の延長にあるという表現だろうか。
 諡号とは、天皇が亡くなった時、その人にふさわしい名を贈るおくり名である。細心の注意を払って作られたと思う。正史編纂に取り掛かった天武天皇や持統天皇には、諡号に「天」が使われている。欽明天皇から「天」が天皇の諡号に使われ出している。二十九代欽明天皇は、天国排開広庭天皇となる。四十一代持統天皇は、高天原広野姫天皇である。高天原の天照大神を意識した諡号であろう。いろいろな方が指摘されているし、古事記にも天照大神の居られる所として高天原が書かれている。持統天皇こそ天照大神の末裔と主張しているのだ。
では、日本書紀の「日本」は、どんな時どんな意味に使われているのだろうか。索引を使って調べてみた。
『大日本』巻一神代「すなわち大日本豊秋津洲を生む」と出るのが最初である。巻一に四回「大日本豊秋津洲」が出て来る。後は、天皇の和風諡号として、巻四に一五回ほど出ている。また、『日本童男・日本武・日本武尊・日本武皇子』などの同一人物の名前として二〇回ほど、『日本足彦国押人』と名前で二回ほど出て来る。
 『日本大国魂神』と巻五の崇神天皇に一回出て来る。「また、日本大国魂神を渟名城入姫命に託して祭らせた。しかし渟名城入姫命は髪が抜け落ち身体が痩せ細って祀る事が出来なかった」とある。この文の前には「天照大神・倭大国魂の二神を同じように天皇の御殿のうちにお祭りしたが……二神とも住むことに不安があったので、天照大神を豊鍬入媛命に託して、倭の笠縫邑に祭り、堅固な神域(ひもろき)を立てた」と出ている。崇神天皇の巻の「日本大国魂」と「倭大国魂」の神は、別の神であろうか。同一神の扱いを受けているようだ。書き分けが分りにくかった。同じ巻に、「日本大国魂」「倭大国魂」と並行して使われているので、同じ神とは思えないのだが。
 『神日本』巻二・巻三に「神日本磐余彦尊」「神日本磐余彦火火出見尊」という和風諡号として五回、後は祖先の名として巻一七と巻二八に一回ずつ。
 『日本国』巻一に大三輪の神が「日本国の三諸山に住みたいと思う」と言った。巻三に饒速日命が「そらみつ日本の国と言った」巻六に「日本国に聖王がおいでになると」と二回。巻九・神功皇后に「新羅王が常に八十艘の貢物を日本国に奉るのであるが」新羅王が「日本国に坐します神の……」巻十・応神天皇に「上表文に、高麗王が日本国に教えるとあった」
 『日本』巻九「東方に神国があって、日本といい」同じく巻九「百済王は、東方に日本という大国があると聞いて」巻一四では、雄略天皇に妻を取られた田狭臣が「百済を踏まえて日本に通じてはならない」と我が子に言った。「百済王は、日本の諸将、小事が原因で不仲になったと聞き」同じく巻一四に「采女大海は小弓宿禰の喪に服するため日本に帰って来た」巻一六・武烈「日本には必ず君主がおられます」など二回。
 巻一七・継体天皇「百済本記に…日本からやって来たと」継体天皇の言葉に「日本は平和であり」「任那の日本の県邑に住む百済の人民で」「この四県は百済に近く日本から遠く」「のろし台、軍用倉庫を置いて、日本の攻撃に備えた」「加羅は新羅と友好を結び、日本に恨みを抱くことになった」「日本人と任那人との間にさかんに子どもが生まれ」継体二八年天皇の崩御を継体二五年とした理由を、百済本記により変えたと書かれている。「また聞くところでは、日本の天皇と太子・皇子は共に薨去されたという」
このように、巻九、巻一六、巻一七では、日本(やまと)を国号として扱っている。特に、外国から見た時の我が国を「やまと(日本)」と総称しているようである。決して畿内の一地方の事ではない。七二〇年前に何らかの国外の資料があり、それを元に国司を編纂したのだろうか。
 日本という名称が最も多く使われているのは、巻一九の欽明天皇の巻である。「日本の天皇の詔は、任那を復権せよと」「永く父兄として日本にお仕えしよう」「また日本の卿たちは長らく任那の国に住んで」「弥麻沙らは、日本から帰り」「使者を日本にむけて……日本に行かせ」「日本の官人に混じって」「日本から帰還した」など、この後も日本は七,八回ほど延々と続く。欽明天皇は継体天皇と手白香姫皇女の皇子であり、継体天皇は筑紫の磐井を倒した天皇である。継体紀の中には「日本の天皇と太子・皇子は共に薨去」という事件も含まれる。継体の代に、大きな事件があったのだ。
推古天皇の巻二十二「高麗国の大興王、日本国の天皇の仏像を造りたまふと聞きて」「日本国に聖人がおり、上宮豊聡耳皇子と申し上げる……玄聖の徳を以ちて日本国にお生まれになられた」「我が王は日本の天皇が賢哲であられると聞いて」
孝徳天皇の巻「明神御宇日本天皇のお言葉があり……」と二回出て来る。「我が日本国の誉田(応神)天皇の御世に」とある。
天智天皇の巻二十七に「また高麗救援に向かった日本の将軍たちが」「高麗は日本に救援を乞うてきたので、将軍を遣わし」「日本の船軍の最初に到着した者と、大唐の船軍とが交戦した。日本は負けて引いた」「日本の諸々の将軍と百済王とは」「混乱している日本の中軍の兵士を率いて」「日本の将軍たちに会って、事を行うよい時機についての相談」「二十四日に日本の船軍と……翌日に出航して初めて日本へ向かった」以上のように、白村江の戦いのとき「日本」がやたら出て来る。敗戦後、百済の人々が渡って来た国が日本である。
 この後に「日本」がでてくるのは、持統天皇の三十巻である。
 「新羅が奏上しては、我が国は、日本の遥か昔の皇祖の御世から……」を二回、これで「日本」という言葉は終わっている。持統紀で日本書紀が終わる。
『日本府』欽明記では、「日本府(やまとのみこともち)」が、二〇回以上出て来る。初出は雄略天皇の「伏して日本府の行軍元帥たちに救援をお頼みします」で、一回のみ。ほとんどは欽明天皇の巻一九に出ている。これは、日本の将軍たちの軍府であったらしいが、後に常設的な政治機関となったらしいと日本書紀の注釈にあった。
『大日本国』巻二七の天智天皇に、百済王が語る言葉に「大日本国の救将庵原君臣…」と出て来る。この大日本は、百済王の外交辞令であろうか。
 日本書紀の作者たちは、明らかに「日本」を国名・外交用語として使っているのである。
しかし、「日本」と並行して、天皇の名前としてだけでなく、「大倭・倭・大和」も使われている。日本と倭とを書き分けた理由があると思うが、「倭」についても書紀を調べてみた。
 人名ではなく地名として「大倭」が頻繁に使われるのは、雄略天皇の辺りからであるが、「倭」としてなら、神武天皇から使われている。
神武紀「倭国の磯城邑に磯城八十梟帥(しきのやそたける)」*梟帥は強い指揮官の意味
安寧紀「父の天皇を倭の桃花鳥田丘上陵に葬る」
崇神紀「倭の笠縫邑にまつり、磯堅城のひもろぎを」
垂仁紀「倭の狭城池と迹見池(とみのいけ)」
景行紀・日本武「倭は国のまほろば、たたなづく青垣山こもれる倭しうるわし」「海路より倭に向い、吉備について」「白鳥になって倭国を指して飛ばれた」「東より帰り伊勢に…伊勢より倭にかえって」
成務紀「大足彦天皇を倭国の山辺道上の陵に葬る」
仲哀紀「天皇を倭国の狭城盾列陵に葬り祀る」「船頭の倭国の菟田の人伊賀彦を祝として」
仁徳紀「倭の屯田と屯倉を掌握しようと」「倭直の祖、麻呂をたずねて」「山背をまわって倭に向かわれた」「秋津島倭の国に雁が子を産むと聞いた事があるか」「秋津島倭の国で雁が子を産むと聞いた事がない」
履中紀「すぐさま大坂より倭に急行し、飛鳥山に着くと」「その日に倭へ向かい、夜中に石上に到着し」
允恭紀「倭の春日について」「弟姫を倭直吾子籠の家に留め」
雄略紀「倭の采女日媛に酒を献じてお迎えさせた」「秋蛉島倭・倭国を秋蛉島という」「倭のヲムラの峰に鹿や猪が伏して」「倭国の吾トの広津邑に職人を住まわせ」
顕宗紀「倭はさやさやと音を立てている茅原である」
武烈紀「琨支が倭に参向した時に筑紫島に到着して」
欽明紀「倭の国の添上郡の山林に住まわせた」「倭国の今来郡が」「安羅にいる倭の諸臣ら任那諸国の旱岐らが」「蘇我大臣稲目宿禰らと倭国の高市郡に遣わして」
推古紀「この年の冬に倭国に高市池、藤原池、肩岡池」
皇極紀「倭国が、言いました。『近頃菟田郡の人押坂直が一人の子供を連れて』」
孝徳紀「さて、倭国の六県に遣わされる使者は戸籍を作り」「次に、倭国で他人に刀を盗まれた」「涯田臣の過失は倭国にあって官の刀を盗まれた」「茅渟道から逃げて、倭国の境に向かった」「鼠が倭都に向かって移動した」「鼠が、倭都に向ったのは」
天智紀「この月に倭国の高安城」「古人大兄皇子の娘、倭姫王を立てて皇后とする」「病と称して倭の家に退出した」
天武紀「伊勢の大山を越えて倭へ向かわせ」「将軍吹負は、倭の地をすっかり平定して」「およそ銀が倭に出たのは、この時が最初である」「倭国の添下郡の鰐積吉事が珍しい鶏を献上」「明神御八洲倭根子天皇」「倭の葛城下郡が、四本足の鶏がおりましたと」「次に、大隅、阿多の隼人及び倭、河内の馬飼部造」
皇極天皇の巻には、倭の代わりに大和が使われている。「大和の忍の広瀬を渡ろうと」
仁徳天皇にも「那羅を過ぎ、小楯、大和を過ぎ」
 この他にも、倭京は孝徳天皇で一回、天智天皇で一回、天武天皇で四回出て来る。倭京として機能したのは七世紀の半ば以降のようである。倭都は孝徳天皇で二回くらい。時代が遡ると、人名として倭が出て来る。倭姫とか倭彦命、倭媛、倭君、倭彦王、倭川辺行宮、倭鍛部天津真浦とかである。
「大倭(国)やまと」大が付く倭は、聖地として扱われているようである。「大倭大神」とか、雄略紀「大倭に参向して天皇に仕え」安閑紀「都を大倭国勾金橋に」「天皇を大倭国の身狭桃花鳥坂上陵に」孝徳紀「百済の明王が仏法を我が大倭に」斉明紀「大倭の天の報いは早い」天武紀「大倭国が珍しい鳥を」持統紀「美濃の将軍達と大倭の豪族とは、共に大友皇子を誅殺し」「伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に幣を奉納」「新羅の調を五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉納」こうして見ると、日本書紀の中で「倭」の指し示す場所は、国内の一地域である。それも畿内の一地域になっている。大をつける時は、聖地という意味を持つ。「日本」と「倭」の使われ方は、国名と地方名くらいの違いがある。書記は国号としての「倭国」という表現を捨てているが、それは何故だろう
 歴史書の作り方は、たぶん近隣の先進国から学んだと思うが、中国や韓国では、我が国の「倭」のように、大きな民族の単位としての名前を使って交流していただろうか。韓半島では辰韓・馬韓・弁韓とかの表現を自らしていたのか。それとも、百済や新羅や高句麗という国号を使っていたのか。中国から見た民族集団として、倭国や倭人、倭種という表現はあっただろう。しかし、日本列島全体が「倭国」を国号として使っていたのだろうか。「倭」とは別に国号を持ちたいと願っていたのではないだろうか。
 畿内の王が古の倭国(女王国)の末裔と主張したいのなら、何故に国号を変え、書紀にも「日本」を使用したのだろう。古事記のように「倭・やまと」のままでいいではないか。中国からみた時「日本」より「倭国」の方が、倭国の末裔としての主張と合致するはず。
 天智帝は、何故「日本」を国号として選んだのか。それとも、日本と字を変えても、日本が倭国を意味したので問題なかったのだろうか。それなら、先に日本と国号を変えたのは、倭国だった事になる。そんな仮説が成立するのだろうか。そうでなければ、倭国とは関係ない「日本」を六七〇年に国号とした訳は何か。そもそも、倭国は、いつまで存続したのだろうか。郭務悰の国書は倭国に届けられているのだ。公式には、白村江戦後も倭国のままである。
[PR]
by tizudesiru | 2011-09-08 11:46 | 23日本書紀の中の日本 | Comments(1)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

柿本朝臣人麻呂と玉津島
at 2017-04-22 21:21
玉津島神社の春・衣通姫の歌
at 2017-04-17 13:56
紀伊国・玉津島神社の春
at 2017-04-16 00:42
241神籠石と古墳の石組みの技術
at 2017-04-09 23:59
240神籠石の水門の技術は共..
at 2017-04-08 10:42
239神籠石は消されるのか
at 2017-04-08 00:23
240藤原鎌足の墓は何処か
at 2017-04-07 20:54
238米原長者伝説の鞠智城
at 2017-03-12 22:12
237パルメット文様は何処から?
at 2017-03-08 17:32
236藤ノ木古墳の築造時期の謎
at 2017-03-07 22:09
235 基肄城の水門石組
at 2017-03-06 11:27
234 小郡官衙の見学会
at 2017-03-05 21:53
233 耳飾のルーツは何処?
at 2017-03-04 21:55
232岩戸山歴史資料館の新館..
at 2017-03-03 12:05
231雷山神籠石は国家的事業..
at 2017-03-01 11:17
229 残された上岩田遺跡
at 2017-03-01 00:55
228 古代山城の瓦
at 2017-02-26 23:05
227 大野城から神山を遥..
at 2017-02-24 22:22
226 基肄城の不思議
at 2017-02-23 21:57
225 鞠智城の八角形鼓楼
at 2017-02-23 01:04

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
100日知王の山々
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島

画像一覧

以前の記事

2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史