カテゴリ:20大倭とは何か( 1 )

20 大倭とは何か

20 大倭とはなにか
(ア)大倭 
 日本書紀の記述で気になる事がある。「倭」や「大倭」、「日本」と書いて、いずれも「やまと」と読ませる事である。それは、何故だろうか。古箏記には「日本」は出て来ない事からすると、歴史書編纂のほんの数年の間に「日本(やまと)」が入り込んだことになる。それとも、古事記は日本書紀を踏まえて、のちに書かれた「いわゆる偽書」の類だろうか。
 畿内勢力の地が「大倭」と呼ばれるのは、何故だろう。九州にも「やまと」と発音する地名が何カ所かある。山門郡もそうである。福岡市にも、下山門がある。佐賀にも、大和がある。全国にばらまかれた地名である。特に奈良県に多くはない。むしろ少ない。
江戸時代には山門郡の「やまと」の響きから、邪馬台国の比定地にもなったが、「やまと」の発音は、此処だけではない。平安時代末に造られた「和名抄」にも筑後の山門が出て来るが、この地の畿内と関係の深い豪族水沼君が、進んで畿内の地名を入れたとも考えられる。地名は、九州から機内へ動いたと聞く事が多いが、逆もあるだろう。山門の他に「やまと」と読む「大倭」や「倭」がある。地名の移動、そうでなければ、地形が山門のようだったからか。
 または、此処に「やまと」という組織が置かれた名残か。「大倭」と書いて、読みは分からないが、同じ文字が魏志「倭人伝」にも出て来る。
 魏志「倭人伝」の講座などで常に話題になるのは、一大率である。それは、伊都国に置かれ、帯方郡よりの使者が常に立ち寄る処という。女王国の北にあり、他の国を監視しているので、諸国から恐れられている。三世紀初頭には役所があって、様々な仕事を分担していたのである。国の仕事をする組織が出来ていた。そして、気になるもう一つの組織(?)、それが「大倭」である。
 「身分の上下の秩序はよく守られ、十分に臣服している。租税、賦役を収め、そのための建物(倉)が建てられ、国々には物資を交易する市があり、大倭に命じて、これを監督させている」(倭人伝より)どうしてこれを取り上げられないのだろうと、気になっていた。
 ただ、「大倭」が組織名なのか、役職名なのか分からない。どんな仕事をしていたのだろう。物資の交易(市)の監督とは、租税として入る品々の交易の監督をしていたのだろうか。「『やまと』とは矢が的に当たるように、国々が連合し集まったという意味である」という説も邪馬台国講座で聞いた事がある。物資が集まる場所と理解したらどうだろう。
 唐突だが、此処に至って思いついたことがある。租税として物資を集めていた、財政を監督していた「大倭」が、権力を持つのは時間の問題ではなかろうか。また、「倭人伝」に出て来る土地には方位が書かれている。「南、邪馬台国に至るには」「女王国より北の諸国は」「その南にある狗奴国」「女王国より北に特に一大率を置いて」などなど。しかし、「大倭」には方位が書かれていない。これは、国などの場所を意味する言葉ではなく、各地に置かれた役職または組織を表現しているのではなかろうか。交易する市などは、各地にあったはずである。当然、方位を示せない。女王国より任命された「大倭」は、経済を握り次第に権力と結びついて行った。一大率は検察権を持っていたが、財力は持ち得なかった。
 それから、天皇の和風諡号で気になる名前がある。「古事記」の神武天皇の諡号は、神倭伊波禮毘古命である。懿徳天皇は大倭日子鉏友命、孝安天皇は大倭帯日子國押人命、孝霊天皇は大倭根子日子賦斗邇命、孝元天皇は大倭根子日子國玖琉命、開化天皇は若倭根子日子大毘毘命。倭をヤマトと読むが、この天皇の名前も「大倭」と無関係だろうか。彼らが「大倭」という肩書を持って畿内に入り込んでいったとしたら、「大倭」こそ富と権力の象徴となるだろう。畿内に大型古墳が出現するには、財力が必要である。租税を集める組織無くして、財力を蓄えるのは困難である。租税を集める組織が権力を持ち始めると、利権をめぐる争いも生まれるだろう。近畿王権が「公地公民」「班田収受」を打ち出すのは、大化の改新後である。それまで、経済を左右する土地と人民を掌握していなかったことになる。しかし、大型古墳が出現している。つまり、何か経済を握っていた組織があったことにならないか。
(イ) 財力と権力 
 ある時期には、畿内で急激に権力を持った「大倭」という組織の長が蘇我氏だったかも知れない。蘇我氏が突然出てきて権力を握るには、財力の背景が不可欠であろう。その為、畿内の王族と対立しただろう。蘇我氏が結びついた王家は、継体天皇・手白髪姫の皇子、欽明天皇(天国排開広庭天皇)の一族である。そして、大臣が財政を握っていたのである。それでなくては、大臣一族を滅ぼして「改新」とは言えない。
 全く古事記も書紀も現代語訳しか読めないのに、筆者は急に飛躍して大胆な事を並べてしまった。これは、地図で読める事ではない。地図以外の憶測で読んでいる。
 話を九州に戻すが、香椎の宮の「仲哀天皇の組織」は、大倭と関係ないだろうか。租税を集める組織や屯倉が香椎にあって、そこにいて仕事をしていた畿内関係の人物がいた。そこは、磐井から献上された大きな屯倉だったのだろう。もちろん、此処で仲哀天皇が六世紀の人と決めつけているのではない。あくまでそういう組織があった可能性を言っている。
(ウ) 経済活動と文化の交流 
 倭人伝にある「大倭」が畿内の大倭になっていったと憶測を重ねていると、三世紀にはすでに畿内と九州が、組織的につながっていたことになる。そうだろうか。
 福岡市の歴史資料館が天神の赤レンガの建物にあった頃、蔵書のうちから「三輪町史」を借りたことがある。それには、奈良の三輪山の辺りの地名・山川の書き込まれた簡単な地図と、三輪町の地図(地名山川の名前と位置の書き込まれた)が折り込みでついていた。お互いに同じ地名があるばかりでなく、同じ方位に同じ名の集落が位置することに驚いた。三輪町の人は早くからこの事に気づき、情報を発信していた。筆者も地図をコピーして知り合いに配ったが、反応は薄かった。最近は関心も高いようだが。同じ地名という事実を、九州の勢力が畿内に移動したと考えるなら、東西の神の山々の信仰を持った人々の移動による、早い段階の交流はあったかもしれない。交流があったとしてもその理由は何だろうか。鉄が欲しかったとか、手に入れたい鉱物があったとかだろうか。他の地域との交流が始まるには、経済的理由が大きかったと思われる。

 人の交流は、王の墓や葬祭の仕方・祀り方なども伝えただろう。墳墓の造り方にしても、山を使って祖先や一族の墓とつながるライン上の地を選ぶとか、王統を継ぐためや大きな権力を持った王とつながるための形式とか、墳墓の建造には力が入ったことだろう。
陵墓は治めた領地を見渡せる位置にあり、太陽の昇る東を向き、西に沈むのを見送り、墓に鏡を副葬することも、剣や太刀を埋葬する事も、同じく文化として持ち込まれたに違いない。祖霊が天に昇る山の思想や文化も持ち込まれただろう。しかし、そういうものが、すぐに浸透しただろうか。
古墳の石室は竪穴式から横穴式に移行するが、横穴式石室が造られるのは、九州の方が早い。横口式竪穴系石室は、今宿の鋤崎古墳、老司古墳、釜塚古墳などに見られ、四世紀から五世紀に出現する。朝鮮半島南部の横穴式石室を竪穴式石室に取り入れたものといわれている。これが、畿内に入るのは百年ほど遅れる。鋤崎も老司も前方後円墳である。前方後円墳は畿内からの伝播というが、外側だけまねしたのだろうか。九州と畿内の連続性や関連性はどう考えたらいいのか、気になるところである。
(エ) 三角縁神獣鏡
 そもそも畿内で大規模古墳が造られたのは、何故だろう。三角縁神獣鏡に卑弥呼との関連を暗示する年号が刻まれている。この鏡は、教科書で卑弥呼が貰った銅鏡百枚の鏡だと教えられた。しかし、三角縁神獣鏡は百をはるかに超え大量に出てきた。中国の技術者を招いて、日本で作られた鏡であるという説も聞いた。何故この鏡が大量に必要だったのだろうか。鏡を作らせて、何を主張したいのか。また憶測だが、それは邪馬台国の末裔である事、栄光ある歴史を背負っている事の主張であろう。鏡はゆるぎない権力の象徴となっていたのだ。でも、畿内王家は、卑弥呼を正史に登場させない。いや、そんな大切な事を書き落とすわけがない。天照大神として登場しているのだ。卑弥呼は天照大神のように太陽神だった。または、太陽を祭っていた。だから、畿内王家が日の神の象徴として鏡を鋳造し、邪馬台国の継承を示したのなら、理解できる。そうなると、卑弥呼は三世紀初頭の人だから、神代が三世紀になってしまう。畿内にも東を神聖な場所として祀る神社や山はあるだろう。畿内へ九州から移動した勢力があったとしたら、その勢力の文化が伝わっているはずだ。しかし、弥生の小国群が一気に大きな国にまとまったとは考えにくい。断続的に幾度も統一に向けての波が来たに違いない。
 それが、熊鷲の時代であり、磐井の乱の後であり、白村江の戦い後の時代であろう。天智天皇の時代には、都府楼の例のように、北に山を持ち南に門が開いた役所に変わる。東向きの文化が、北向きの文化に変わる。太陽神ではなく、北天を頂く選ばれた人間が政治をするようになった。世の中は急速に変わっていった。
失われつつある祖先の栄光と歴史、それを残したいと考えた人物が、古事記や日本書紀の元を作ったのか。何の目的もなしに、困難な国家的な仕事は出来ないだろう。もちろん、中国の文化に学んでいたのだから、天子のいる国に歴史書がないのは恥ずかしい? それぞれの氏族が自分たちの祖先について書いていたものはあったが、国の正史はなかった? だから、天子の出現が正史への取り組みとなった。それであれば、天皇という言葉が出来たといわれる天武天皇以降に、正史への取り組みが始まるのは、当然のことだろう。天武天皇は、それまで欲しくても歴史書を持てなかったとしたら……
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by tizudesiru | 2011-09-11 11:16 | 20大倭とは何か | Comments(0)


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