カテゴリ:17神功皇后伝説の空白地( 1 )

17 太宰府は皇后伝説の空白地?

17 太宰府は皇后伝説の空白地
 少し遡って、太宰府を見てみよう。
 日本書紀の仲哀天皇の巻には、九州北部の地名が多く出て来る。紀伊国滞在中に熊襲が従わず朝貢しなかった事を知り、熊襲征討のため山口の穴門まで来て皇后を勅により呼び寄せた。皇后は穴門の豊浦宮から、仲哀天皇八年に筑紫に渡った。その時、出迎えたのが岡県主(おかのあがたぬし)の祖、熊鰐(くまわに)である。遠賀川を船で遡るのに難航したようである。縄文時代には奥地まで海が入り込んでいたが、時代が下がり河底が浅くなっていたのだ。また、筑紫の伊覩(伊都)県主の祖、五十途手も服従の姿勢で迎える。儺県(なのあがた)に着き橿日宮に滞在。そこで群臣と熊襲征討の相談となった。その時皇后が神がかりとなり、熊襲より新羅を討つようにと神託がくだる。しかし、天皇は訊かず熊襲を征討しようとしたが、勝てずに帰り突然体力が弱り翌日に崩御。密かに遺骸は穴門に遷して、豊浦宮で殯葬したという。別伝では、熊襲を討とうとしたが、賊の矢に当たって崩御という。
 次は、神功皇后の巻。天皇が橿日宮にて崩御された事を悲しみ、祟った神を知り罪を払うため、小山田邑(宗像郷山田村)に斎宮を造った。この時、名の出たのは、渡会県の拆鈴五十鈴宮の神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、尾田節の淡郡に坐ます神(志摩国?)、天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神橘小戸の表筒男・中筒男・底筒男の神(住吉三神)である。
 それから、熊襲は自ら服従したが、荷持田村(のとりのたふれ)の羽白熊鷲が従わないので、討つために松狭宮に遷る。層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲を討つ
熊鷲を討った層増岐野(そそぎの)は、場所が特定されていない。しかし、雷山は層増岐(そそぎ)山と呼ばれていた。熊鷲かその一族が雷山で戦ったのだろうか。雷山には雷山神籠石山城もある。もし雷山神籠石山城が熊鷲軍の最後の戦いの場所であれば、彼らが戦ったのは六世紀になる。 

 次は、山門県(大和郡瀬高)に土蜘蛛田油津媛を誅殺。次は、肥前松浦県玉島の里の川で鮎釣りをして占う。それから、儺河(那珂川)の水を神田に引くために裂田溝を掘る。それから、男装して船を整え、財土を求めることにした。そこで大三輪社(朝倉郡・於保奈牟智神社)を立てると兵士が自ずから集まった。準備を整えて出発しようとしたが、ちょうど臨月だったので、石を取って腰に挿んで新羅に遠征した。その石は伊都県の道辺にあるという。新羅王は皇后の進軍に驚き恐れて服従し、朝貢を約束する。この時、重宝の府庫(くら)を封じ、地図・戸籍・文書を収めた。(新羅国にはすでに戸籍があったと書紀は書いている)これを見た高麗と百済の王は自らやってきて朝貢を約束する。いわゆる三韓、内官家(うちつみやけ)である。皇后は新羅から帰り、宇瀰(宇美)で誉田(応神)天皇を出産。この後、皇后は武内宿禰と畿内に帰り、香坂王と忍熊王と戦う。ついに、二人を滅ぼし、皇后は摂政として政治をする。
 皇后の巻の前半は九州であるが、大宰府の辺りの地名はほとんどでてこない。風が笠を吹きとばしたという伝承の御笠山は、後の宝満山である。近くを通ったようだ。

 福岡各地の伝承に幾度となく出てくる仲哀天皇は香椎の宮におられたが、伝承では筑紫平野の大保近くでの戦闘中に亡くなった。その仲哀天皇は、大宰府には踏み込んでいない。立ち寄った形跡がないのは、まだ太宰府が都として機能していなかったからだろうか。
 古事記にも「帯中日子天皇、穴戸の豊浦宮、または筑紫の詞志比宮に坐しまして、天の下治らしめき」とある。香椎は行宮ではない。そこに、畿内とつながる宮があった。それは、いつの時代に造られたのだろう。そこは、宮が置かれるほど、中央の勢力が入っていた。その辺りは、磐井葛子が献上した糟屋の屯倉だろうか。葛子が糟屋の屯倉を献上したのは六世紀である。
 何度も確認するが、磐井の乱は五二七年である。五二八年、磐井の乱を鎮圧したこの年、継体天皇が大和に都をおく。(崩御は、五二七年、五三四年と定かではない)この年、磐井葛子が糟屋の屯倉を大和政権に奉る。磐井の罪に連座する事を恐れたためという。この記録の他にも屯倉の献上はあったかもしれないが。
五四〇年欽明天皇即位。五六〇年伽耶(任那の官家)滅亡。
 香椎辺りに糟屋屯倉があったのなら、此処は博多湾に守られ、近くには防人の名を問うたという「名島」があり、三本の川がある。多々良川は宮若市に迫り、須惠川と宇美川は宝満・三郡山から流れだし、上流は太宰府に迫る交通の要衝である。葛子は大事な土地を手離したことになる。が、同時に、この時点まで筑紫の国の北岸には磐井の勢力があった。博多湾岸の香椎辺りまで、力を持っていたことにもなる。そうなると、位置的に太宰府も、まだ筑紫君の勢力圏にあった事になる。その終焉は、大城山の南の都府楼跡に、初めて大宰府が置かれた時だが、それまでの百年、太宰府がやはり筑紫の都だったのか。屯倉が置かれたので畿内の勢力が入って来たとすると、神功皇后の話は三世紀初頭ではなくなる。香椎の宮の建造が、屯倉が置かれたあとと考えるならであるが。
 伝承の神功皇后と武内宿禰は、仲哀天皇と古代九州のまつろわぬ豪族を誅殺した人物になっている。彼らも太宰府には入っていない。羽白熊鷲は秋月の古処山を本拠としたそうで、太宰府の南にいた豪族である。香椎から南下すれば太宰府のすぐ傍を通って進まねばならない。関や山城があって通れないとしたら、太宰府の王とは敵対していたことになる。田油津媛を倒し、那珂川町山田では神田に水をひくための井堰を造り、裂田の溝を掘り通水したという伝承もある。那珂川町は太宰府から決して遠くはない。しかし、大宰府に入った形跡はない。全国に皇后の所縁の地があふれているというのに。同じく武内宿禰も全国に名が知れ渡っている。伝承が多すぎるのだ。
 皇后の墓も定まらない。奈良の宮山古墳(238m前方後円墳)は武内宿禰の墓というが、子の葛城襲津彦の墓という説もある。これより少し前に造られた巣山古墳が武内宿禰の墓の可能性が出て来たようだ。巣山古墳の中心線は、佐紀石塚山古墳の後円部中心を通る。神功皇后陵墓は、平安時代には隣の佐紀陵山古墳とされていた。が、それが誤っているとのことで祟りがあったそうだ。やはり石塚古墳が神功皇后の墓になるようだ。それにしても、神功皇后陵墓参考地は、全国に八九六ヵ所あるらしい。特定のしようもないだろう。武内の宿禰墓も方々にあるのだ。
 福岡県田川郡香春町高野には、鏡山大神社という皇后所縁の神社がある。三韓出兵の折、仲哀天皇と神功皇后はこの地で天神地祇を祀り、必勝を祈願したが、その時神功皇后の御魂を鎮めた鏡を奉祭したので鏡山という。このような所縁の地を辿れば、墓の数ほどの伝承地が出て来るのだろう。しかし、太宰府には、伝承がない。何故か。伝承は必要なかったか。伝承が入り込む余地がなかったのか。
 久留米の風浪宮は「おふろうさん」と呼ばれ、此処も神功皇后ゆかりの神社である。外苑の一遇にある磯良丸神社は、安曇磯良丸を祀る。この人は三韓遠征のとき干珠満珠を持って皇后に従った後、凱旋して風浪宮の初代神官となったという。現宮司まで六十七代に及ぶ。付き従った船頭のうち七名も当時の船名を継ぎ、この地域の神事に参加するという。船の名前が残っているとは驚きである。
 筑後の式内社は、高良大社、伊勢天照御祖神社(久留米市御井町)、伊勢天照御祖神社(久留米市大石町)、豊比哶神社(久留米市上津町)、豊姫神社(久留米市北野町)、御勢大霊石神社(小郡市大保)の六社である。この中の高良大社の奥宮(奥の院)は、武内宿禰の墓所という言い伝えがある。久留米の北野町にある豊姫神社の「豊姫縁起」にも、景行天皇や神功皇后の征西にかんする伝承が書かれている。応神天皇誕生の地は、此処であるという伝承もある。北野町の旧大城村一帯は、水沼君の本拠地であったという。末裔が住んだという稲数という地名もある。水沼君はかなり皇后に接近しているようだ。
 これほど具体的な伝承が揃っている地域があるのに、仲哀天皇と大宰府を結ぶものはない。崩御後も香椎に運ばれている。流れ矢が当たって亡くなったという大保の地から香椎の宮は遠い。太宰府の方がかなり近い。ここが畿内の王と関係の深い都であれば、仲哀天皇の棺が運び込まれたはずである。仲哀天皇は筑紫の王都とは無関係な存在だったのだろうか。それとも、王都はなかったのか。
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by tizudesiru | 2011-09-14 08:25 | 17神功皇后伝説の空白地 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
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27倭の五王の行方
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37神籠石から分かること(2)
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202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
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218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
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221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
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231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
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256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
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264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
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271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
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296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
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299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
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302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
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