カテゴリ:197光明子の苦悩と懺悔( 1 )

197 光明子の苦悩と懺悔

197光明皇后の苦悩と懺悔        

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701年生まれの光明子は、夫の聖武天皇(首皇子)と同じ齢でした。

(おびと)皇子(聖武天皇)の乳母は光明子の母・犬養三千代です。

首皇子と光明子は、生まれた時から運命の糸に縛られていました。

県犬養橘宿祢(あがたのいぬかいのたちばなのすくね)三千代(みちよ)(県犬養命婦(みょうぶ)

東人の娘。()(のの)(おほきみ)に嫁し、葛城(かつらぎ)王(橘諸兄)()()王・牟漏(むろ)女王)を生む。

後に藤原不比等の室となり光明子(光明皇后)を生む。

養老(ようろう)元年(717)従四下より従三位、養老五年(721)正三位になるが、同年5月に元明天皇不予(ふよ)により入道。天平五年(733)の薨去。

葬儀は散一位で行われ、同じ年に贈従一位。

天平八年(736)葛城王・佐為王に橘の姓を下賜。

(おびと)親王は三千代と藤原不比等に深宮の奥で大事に育てられました。

成人した首親王と光明子は結婚させられました。

光明子が阿倍(あへ)内親王(こう)(けん)天皇)を生んだのは、十七歳か十八歳の時です

幼いまま母となりました。

皇后になるための特訓は受けていたはずですが、まだ精神的には子供だったと思います。

夫の聖武天皇には犬養広刀自という女性が仕えて、三人(安積(あさかの)皇子(みこ)・井上内親王・不破(ふは)内親王)の男女に恵まれました。安積皇子が生まれたのは、光明子が生んだ皇太子・(もとい)王(九月没)が薨去した翌月でした。

自分が産後の憂鬱にイライラしている時に犬養(いぬかいの)(ひろ)()()懐妊し、更に自分が愛息を亡くした時に広刀自が出産するという現実、後宮の女性の言の葉に上った噂はどんことだったでしょうね。

光明子の嘆きと恨みは大きかったと思います。

基王の没年(728)の年、長屋王家の殲滅計画がなされたとしても、光明子は反対しなかったでしょう。

聖武天皇はそれを知らずに、安積皇子の誕生を喜んでいたでしょうね。

藤原氏にとっても、ゆくゆくは広刀自の生んだ皇子皇女の権力への道は閉ざさねばなりませんでした。

そして、藤原氏にとって気になることは、聖武天皇のまじめさでした。

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聖武天皇は叔母の元正天皇と約束を交わしていたようで、即位の年(724)には紀伊国行幸をしました。その時、冬十月、

山部赤人(やまべのあかひと)の長歌に「やしみしし 我ご大王の常宮(とこみや)と仕え奉れる」

という詞が使われています。聖武天皇は、紀伊国の雑賀(さいか)の宮を仮宮ではなく常宮として使うつもりだったようです。紀伊国には特別の思い入れがあった、特別の所縁の地としていた、ということです。

何のための行幸か、すでに何度も述べた通り、「大宝元年辛丑冬十月の持統太上天皇の紀伊国行幸」は「有間皇子の所縁の地への鎮魂のための行幸」でしたから、聖武天皇もその行幸をなぞり亡き人を偲んだのです。

そして、紀伊国には「止まず往来」しょうと、常宮としたのでした。

持統帝の死後の柿本人麻呂の紀伊国の旅も、亡き人をしのぶ旅でした。

亡き人の所縁の地を訪ねることは、霊魂に触れるための行為でした。

聖武天皇は那珂(なか)郡と海部(あま)郡に長逗留し、名草(なぐさ)と海部の二郡の田租を許し、(わかの)(うら)明光(あか)浦と地名も変えました。

聖武天皇は誠実だったのです。気弱とか意志薄弱とか云われますが、権力におごらず心優しい人だったのでしょう。三十年以上も母の藤原宮子にも会えず、寂しかったと思います。

そんな聖武天皇が安積皇子や長屋王の王子達を皇太子としないように、藤原氏はことを急ぎました。

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神亀六年(729)

二月十日に密告があり「ひそかに()(どう)を学びて国家を傾けむとす」

その夜、兵が長屋王の宅を囲みました。

指図したのは藤原武智麻呂、長屋王宅に向かったのは式部卿の藤原宇合、その他もろもろの官人、そして長屋王の館を囲ませたのです。王家の人々に、逃げる道は何処にも有りませんでした。

*左道とは、良くない道、邪道ということで、長屋王が何か具体的にしたというのではありません。何もなかったのです。

二月十一日、取り急ぎ官の人事を仮に済ませ、

朝十時には、舎人(とねり)親王、新田部(にいたべ)親王と皇族のトップをそろえ、大納言・多治比(たじひの)真人(まひと)池守(いけもり)、中納言・藤原(ふじはらの)武智(むち)麻呂(まろ)長屋王の罪を(きゅう)(もん)しました。

長屋王には、もはや妻や子を救うことはできません。

たぶん、王は自分の身と引き換えに妻子の命乞いをしたと思います。

神亀六年(729)長屋王の謀反の密告は二月十日

二月十二日、王をして自ら()なしむ。その室二品吉備(きび)内親王、男従四位下膳夫(かしはで)王、無位桑田(くはた)王、葛木(かつらぎ)王、(かぎ)(とり)王ら同じく亦自ら(くび)る。

身分の高い皇族を手に掛けることはできませでした。自ら死なせたというのです。男子四人は立派な皇位継承者でした。

続日本紀には、長屋王についてはさんざん誹謗していますが、吉備内親王については『罪無し』と書いています。

事は起ってしまいました。聖武天皇がどんなに嘆かれたか知れません。

長屋王家の滅亡の後、光明子は皇后となれたのです。

長屋王事件は、光明子の中に何を残したでしょう。

光明子の業績を見れば、その事が分かります。

天平二年(730)、興福寺の五重塔の建立を発願し、年の暮には完成させた。

五重塔建立は長屋王事件の翌年でした。

五重塔を造らねば落ち着いておれなかったのです。

天平五年(733)、興福寺の東金堂に対面する西金堂は、橘三千代の一周忌に間に合うように造りました。

天平五年~八年には、多数の財物を法隆寺に施入しました。

天平十一年(739)、法隆寺の東院を建立

天平十九年(747)、聖武天皇のために新薬師寺を建立

中でも

天平八年(736)、僧玄昉が持ち帰った経論の書写を発願し、皇后宮職の写経所で写経させました。写経は天平勝宝元年(749)まで続きました。

この皇后宮職が置かれた場所は、何処でしょう!

他でもありません。

あの長屋王の邸宅跡でした。

あの忌まわしい事件の館跡に、光明子は「皇后宮職」という役所を置いたのでした。そこで、玄昉の持ち帰った経論を十年以上もかけて写経させたのです。なんということ、長屋王の屋敷は官に没収され光明子のために使われたのです。

懺悔のつもりの写経でしょうか。

僧玄昉は、光明子の心の闇を解きほぐしたのかも知れません。

光明子も藤原氏という権力者集団を背負って、時折、心が折れそうになったことでしょう。


また明日


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by tizudesiru | 2017-01-11 16:41 | 197光明子の苦悩と懺悔 | Comments(0)


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