カテゴリ:186 聖武天皇の不運と不幸( 3 )

186聖武帝の不運と不幸(3)

186聖武天皇の不運と不幸

聖武天皇の不幸は上げればきりがありませんが、その不幸の中で唯一心許せる人物がいたとしたら、橘諸兄でした。その変わらぬ忠誠心を信頼していたのです。「橘は」の歌は元正太上天皇の御製歌という説もあると左脚に注があります。

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1009 橘は実さえ花さえその葉さえ ()に霜降れどいや常葉(とこは)の木

橘は実も花も素晴らしい。その葉は霜が降っても決して変わらず青々としてますます栄えて行く木である。(まるで汝の変わらぬ忠誠心のようではないか)

その忠誠心のまま、諸兄は聖武帝に仕えました。ただ、聖武帝は娘の阿倍内親王に譲位しようと考えていました。そうすると、天武朝の皇統が消えてしまうと諸兄は心配していました。

天平十八年正月・太上天皇(元正)の御在所に雪を払いに行った後の宴席で

橘の諸兄が詔に応えて詠みました。

3922 降る雪の白髪までに大皇(おほきみ)もあ

降る白雪のように白髪になるまで大王にお仕えいたしますことは、何ともありがたく尊いことであります。

橘諸兄は元正太上天皇にも信頼されていました。太上天皇が天武帝の皇子に皇統を継がせたいと内心考えておられることも知っていました。

「天武朝の皇統を守りたい」というのは、壬申の乱で活躍した氏族の願いでした。当然、大伴氏もその考えでしたので、諸兄と親交があったのです。

しかし、藤原氏と光明子が許しません。聖武帝は、内親王に譲位しました。

その後、安堵した聖武太上天皇が諸兄宅に招かれました。

そこで、諸兄の子・橘奈良麻呂が詠みました。

1010 奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すともつちに落ちめやも

奥山の雪は真木でさえ葉をしのぎ押伏せるでしょうが、どんなに雪が降り積んでも橘の実は土に落ちたりいたしません。

こんな橘氏が邪魔でないわけがありません、藤原氏にとって。

だから、橘奈良麻呂の謀反事件は起こりました。

748年 元正太上天皇没

756年 聖武太上天皇没 遺詔により道祖王を立太子

757年 一月橘諸兄没 七月橘奈良麻呂の謀反発覚

先手を打たねばなりません。やはり、諸兄(もろえ)半年後に陰謀の結果が出ました。半年後の法則です。拷問で自白させられた小野東人の告白により、有力者が獄に命を落としました。

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聖武太上天皇の遺言で皇太子になり廃太子されていた(ふな)()も 絶命

佐伯(さえき)大伴氏同族た。佐伯(さえきの)全成(またなり)顛末自白自害た。

大伴家持は既に藤原氏に近づいていました。


しかし、この事件は決定的に家持に深い傷を残したのです。

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奈良麻呂の謀反発覚の前の家持の歌

奈良麻呂の謀反発覚後の藤原の仲麻呂と淳仁天皇(まだ皇太子)の歌

ここに集約された藤原氏側の陰謀の証明

これらの歌については、いずれ触れましょうね。

そして、今年の最後の歌は、大伴家持の万葉集最終歌です。


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何もかも世の中は思い通りにはならず、大切にしていた友と主を亡くし、心あるものは命を奪われ、権力を振り回すものには物事の本質が読めず、弱いものは消されていく。

絶望に満ちた世で生きて行くのは、何のためなのか。


それでも、家持は言霊の力に一筋の望みを託して詠みました。

どうぞ良いお年を。


新しき年の初めの初春(はつはる)今日降()(ごと)








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by tizudesiru | 2016-12-31 14:32 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)

186聖武帝の不運と不幸(2)

186 聖武天皇の不運と不幸(2)

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即位して間もない時に起こった「
長屋(ながやの)(おほきみ)の事件(729)」は、聖武天皇にとって衝撃だったでしょう。

太上天皇と長屋王の佐保(さほ)の新築の館に招かれて、楽しい宴会をした後の事件でしたから。元正太上天皇にとっても辛い出来事だったと思います。

それでも、元正太上天皇は聖武天皇を「我が子」として大事にしました。

太上天皇にとっては弟の文武天皇の忘れ形見であり、聖武天皇も優しい人がらだったようです。

元正太上天皇は、母の元明天皇の意思を甥に伝えることが使命でもありました。それは、確実に伝えられたと思われます。

それは、即位後の行幸を見ればわかります。

聖武天皇は即位(二月)

持統天皇の形見(かたみ)の地「吉野」に行幸(三月)

紀伊国行幸(十月)文武天皇・元明天皇、持統天皇・有間皇子の形見の地

聖武天皇の紀伊国行幸は「持統天皇最晩年の大宝(たいほう)元年(がんねん)(しん)(ちゅう)冬十月」と同じ季節に同じ場所を訪ねたのです。それも長い滞在でした。

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紀伊国では、頓宮(かりみや)位階名草(なぐさ)海部(あま)地名ゆえ手厚想像

そして、長屋王の変(729)

元正太上天皇と目指すべき方向を見定めていたのに、聖武天皇は残念だったと思います。

長屋王を(きゅう)(もん)した舎人(とねり)皇子・新田部(にいたべ)皇子・多治比(たじひの)池守(いけもり)藤原武智(むち)()()小野牛(おのうし)(かひ)す。吉備(きび)内親王・膳夫(かしはで)王・桑田(くわた)王・葛木(かつらぎ)王・(かぎ)(とり)四人男子た。「吉備内親王藤原氏の「藤氏家伝書」には、長屋王の変には一切触れていません。武智麻呂自分にかかわることなので書かなかったのです。

絶頂期に藤原四兄弟死す

天平七年(735)新田部皇子没・舎人皇子

天平八年(736)葛城王臣下に降下、橘氏の姓を賜う(橘諸兄)

天平九年(737)藤原房前・藤原麿・藤原武智麻呂・藤原宇合四兄弟没

光明子の兄の藤原四兄弟が天然痘で世を去ります。



聖武天皇と橘諸兄との蜜月


橘諸兄は、(あがた)犬養(いぬかいの)三千代(みちよ)()()二人た。父違光明子兄弟死後、橘氏当然


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葛城王が臣下に降下した時の聖武天皇の御製歌があります。

橘は実さえ花さえその葉さえ枝に霜降れどいや常葉(とこは)

天平勝四年(752)の御製歌は、阿倍内親王に譲位して太上天皇となった聖武帝が諸兄の宅で詠んだものです。

橘奈良麻呂(諸兄の子)と左大臣(橘諸兄)が応えて歌を詠みました。

大伴家持も同席していました。諸兄は左大臣まで上り詰めて、聖武帝を館に招くほど力もあったのです。

聖武帝と諸兄とを深く結びつけたのは、

天平十二年(740)藤原広嗣の乱だったでしょうか。

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広嗣の乱の後、聖武天皇は長く彷徨います。
平城宮を出て、紫香楽宮、恭仁宮…と京が変わるのでした。諸兄はその聖武帝を支え続けたのでした。

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もちろん、藤原氏は次の手を考えていました。




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by tizudesiru | 2016-12-31 01:22 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)

186・聖武天皇の不運と不幸

186聖武天皇の不運と不幸

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聖武天皇の不運と不幸

その遠因は、帝(首親王=聖武天皇)の母があの藤原宮子で、皇后に昇る妻が藤原光明子だったことです。

マタニティブルーだったのか、宮子は三十数年も息子に会いませんでした。

光明子(安宿(あすかべ)媛)の母は犬養三千代で、文武帝と聖武帝の乳人(めのと)です。犬養三千代が安宿媛(光明子)と首皇子(聖武帝)を育てたのです。


その成長を元明天皇は危惧していました。

それでも、藤原氏の手により首親王の十五歳即位の準備は、前回書いたように着々と勧められていました。

しかし

祖母の元明天皇は、皇太子ではなく()(たか)内親王(ひめみこ)元正天皇に譲位しました。首皇子が元服立太子していたにもかかわらず、です。

藤原氏は元明天皇にしてやられたのです。

元明天皇の詔には(けん)(どう)は天を()べ、文明ここに(こよみ)(ぎょ)す。大きなる(たから)(くらい)といい(略)()りてこの神器を皇太子に譲らむとすれども、()(はい)幼く(わか)くして未だ深宮(しんきゅう)を離れず。(略)一品氷高内親王は、早く(しょう)()(天の授けるよいしるし)にかない、つとに徳音(とくいん)(よい評判)をあらわせり。(略)今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉くつつしみ奉りて、朕が(こころ)にかなふべし』


詔には首皇子が「若く幼く即位するには不十分」と言うのです。皇太子側には厳しい評価でした。育てた藤原氏側は恥をかかされた状態でしょう。


藤原氏は首親王に猛勉強させます。

715年 長親王(6月没)穂積親王(7月没)志貴親王(8月没)

9月・氷高内親王即位

716年 遣唐使任命有力者を国外へ出す

717年 難波行幸 藤原房前参議 

718年 藤原不比等ら養老律令撰進

719年 首親王始めて朝政に参画 新田部親王・舎人親王が皇太子の補翼を務める

720年 不比等没 日本書紀などを撰進

721年 元明天皇没 井上女王(首親王の娘)を伊勢宮の斎内親王とする

     *県犬養広刀自の生んだ女王の結婚のチャンスを断つ目的か
     実際に「伊勢の大神宮に侍らしむ」のは727年のこと。

724年 首親王即位


日本書紀の編纂に取り組んでいた舎人親王など、天武朝の有力者を皇太子の補翼を務めさせたのでした。
元明天皇が没すると、県犬養広刀自の生んだ皇女を斎内親王と決めます。彼女に有力者に嫁がれては困るので、伊勢神宮の斎宮とするのです。藤原氏側が先手を打ったのでした。

*後に、井上内親王は光仁天皇の皇后になるのですが、最後は皇太子と共に殺されました。広刀自に生まれた三人の子どもたちは全て消されました。

聖武天皇は自分の御子を残すことができませんでした。

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安積親王の突然死

聖武天皇の期待の皇太子(母・光明子)の(もとい)(おう)は生後一歳で死亡し、安積(あさかの)親王(みこ)(母・(あがた)犬養(いぬかいの)(ひろ)()())も若くして薨去し男子跡継

安積親王(728~744)は、十七歳で毒殺されたと言われます。

大伴家持は安積親王の内舎人(うちとねり)だったので、そのショックは大変なものでした。

聖武天皇はまことにお気の毒な帝でした。


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by tizudesiru | 2016-12-29 17:37 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)


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