カテゴリ:183元明天皇の愛と苦悩( 2 )

183元明天皇の愛と苦悩

183元明天皇の愛と苦悩


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元明(げんめい)天皇(阿閇(あへ)皇女)は、天智天皇の(みむすめ)で草壁皇子の妃でした。

持統天皇には異母妹で、息子(草壁)の嫁でした。

吉野盟約の後に草壁皇子と阿閇皇女の間に()(たか)皇女(元正(げんしょう)天皇)が生まれています。

持統三年(689)

草壁皇子の薨去(自死)は、阿閇皇女を打ちのめしたことでしょう。持統天皇は阿閇皇女を連れて紀伊國へ行幸しました。そこで詠まれたのが、阿閉皇女の勢能山の歌でした


夫亡き後に持統天皇に旅に誘われて紀伊国行幸に出かけた阿閇皇女は、背の山と妹山が紀ノ川を見ながら両岸から向かい合っている地に差し掛かりました。皇女は立ち止まって亡き夫を想い、涙を流されたでしょう。その時に詠まれた歌です。

まるで、七夕の牽牛と織女のように逢いたいと思いながら互いに川岸にたたずむ…織姫のような皇女の姿が浮かびます。

即位した持統帝は、幼い子供たちのために阿閇皇女に強い母になってもらわねばなりませんでした軽皇子(文武帝)は、まだ数えの八歳、氷高皇女が十歳、吉備皇女は六歳くらいでしょうか。

持統三年(689)

律令政治に舵を取り直す。六月「諸司に令一部二十二巻を分かつ」とある。

撰善言司(先人の善言を集めて教訓的歴史書を撰上しようとした官司。文武帝や皇族の子弟の修養に役立つ書物の編集を目指したが、完成せず)を置く。

持統四年(690)、即位

六月には高市皇子を太政大臣・多治比嶋を右大臣に任官して、九月紀伊国行幸

持統5年(691)

八月、十八氏に祖先の墓記を提出させる

十月、新益京(いわゆる藤原京)を鎮祭

十一月、大嘗祭。中臣大嶋が天神寿詞を読む

持統五年(692)

三月、伊勢行幸(大三輪高市麿が行幸を諫め、辞職)

五月、藤原宮地鎮祭


持統天皇は一番に
軽皇子(かるのみこ)文武帝の成長を望み(せん)善言司(ぜんげんし)を置きました。きちんと先を考えていたのです、軽皇子を帝王に育てるのだという。持統帝の思いは十分に阿閇皇女にも伝わりました。


軽皇子は冬の阿騎野の野に出かけて一晩を過ごし、草壁皇子の霊魂に触れ皇太子位を受け継ぎ、成人式を上げ立太子。そして、即位。

十五歳の文武帝に三人の女性が入内しました。

文武天皇五年(701)大宝律令成る 藤原宮子は首皇子を生む


しかし、何が原因だったのか、藤原宮子精神的な病気にかかりました。

宮子は首皇子(聖武天皇)を生んだ後に引きこもり、三十年余り息子に会いませんでした。病のために話もできず閉じこもっていたのでした。


文武帝にも、息子の首皇子にも、持統帝にも、阿閇皇女にも、それは辛い現実だったことでしょう。

早くに父を亡くした文武天皇を阿閇皇女は持統帝と守って来た、その息子の嫁が病気になった…これは、阿閇皇女にとって相当に痛手だったはずです。


末っ子の吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、阿閇皇女を安心させました。

しかし、文武帝には多忙な日々が続きました。

大宝二年(702)持統天皇崩御

慶雲四年(707)文武天皇崩御。
         心労のため、文武帝は前年から病気気味だった

         阿閇皇女即位(元明天皇) 


元明天皇は、持統帝と同じ道を辿ることになったのでした

そして

高市皇子が造営した新益京の藤原宮を捨て、藤原不比等の氏寺(興福寺)が岡の上から御所を見下ろしているという都に移ります。

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(この新益京は捨てられました)


平城宮遷都(710)


首皇子(聖武天皇)の乳人は県犬養美千代です。美千代は光明子を生み、首皇子と一緒に育てました。首皇子は十四歳で元服します。


不比等は
皇太子が十五歳で即位することを望み待っていたでしょう。

父の文武天皇も十五歳で即位していましたから。条件は同じだと。

しかし、首皇子は稚いという理由で即位できず、姉の氷高皇女が即位したのです。

和銅八年・霊亀元年(715)

正月、吉備内親王の男女(子供たち)をみな皇孫に入れる

九月、氷高内親王即位(元正天皇)、改元


藤原不比等は、怒りに燃えたでしょうね。首皇子の即位のために準備に準備を重ねて来たのです。

即位はおろか、元明天皇は譲位の前に、あろうことか長屋王の男女を皇孫(二品)に引き上げたのですから、怒り心頭だったはずです。皇位継承候補者の中に長屋王の子どもたちが入るのですから、許せなかったでしょう。

これから、藤原氏の暗躍が激しくなりますね。




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by tizudesiru | 2016-12-26 21:46 | 183元明天皇の愛と苦悩 | Comments(0)

183元明天皇の愛と苦悩

183天智帝の娘元明天皇の愛

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天智帝との繋がりを意識しているのは、藤原氏だけではありません。

天智の皇女であった元明(げんめい)天皇(阿閇(あへ)皇女九州の観世音寺天智天皇発願(ほつがん)寺」として速やかに造営するように詔を出しています。財政的に困難な時期にもかかわらず。元明天皇は、天智帝の意志を貫こうとしたのです。


皇位継承の法として

元明天皇は天智天皇が用いたという「不改常典(改めベからざる常の(のり))と初め定めた法」を、皇位継承の法として持ち出しています。それは、直系に皇位を継承するという意味で用いられたようです。天武朝が「自ら滅ぼした王朝の法」の「不改常典」の文言を使用するなんて、しかも「皇位継承法」として、です。すっきりしませんね。


この表記は次のように使用されました。

①元明天皇即位の詔(初見)(慶雲四年・707)

➁聖武天皇即位の詔(神亀元年・724)

③聖武天皇譲位の詔(天平勝宝元年・749)

④桓武天皇即位の詔(天応元年・781)


「天智帝が不改常典と初め定めたと伝えられる法」

このような表現は、以後歴代天皇の即位詔(宣命(せんみょう)に継承されていきます。

やや疑問なのは、近江朝での大海人(おほしあま)皇子(天武天皇)皇太子(大皇弟)でした。

ということは、実子に譲位する嫡子継承ではなく、従来通りの同世代(兄弟)継承です。同世代が終われば、次の世代に継承されるという方法が長い間行われていましたので、大海人皇子が皇太子であれば従来通りのやり方だったことになります。


しかし、元明天皇は、直系継承の「不改常典」として天智天皇が決めたというのです。


大海人皇子が吉野に去った後に、天智天皇が急いで決めたのでしょうか。書紀に記述はありません。元明天皇は天智天皇の皇女ですから、父の法を取り入れたいのでしょうか。気持ちはわかりますが、本当は何もなくて、天智天皇の名を借りただけかも知れません。真相はわかりません。


それとも、大海人皇子ではなく、直系である大友皇子に皇位継承がなされていたのでしょうか。(明治になって、大友皇子は弘文天皇と
諡号(しごう)が贈られ認められました

ともかく、元明天皇は「天智天皇の名を以ってして、皇位継承を確実なものとしたかった」のです。天武朝にとっての天智朝は、滅んでも尚大きな影響力を持っていたのでした。

だから、天智帝との結びつきを背景に、藤原不比等が持統帝に取り入ってきていました。持統帝はかしこい不比等を気に入っていたかも知れません。しかし、元明天皇は警戒していました。ですが、天武朝の皇子が力をつけて行く中で、孫の軽皇子を護るには、不比等を頼る他はなかったでしょう。

「高市皇子の死の真相」で述べたように、高市皇子の死は異常でした。何か言いがかりをつけられたか、事件が起こっています。

頭蓋骨を取り去り刀身を抜きとって、壁画の玄武と朱雀の頭を削り、黄泉の国から永遠にヨミガエリができないようにして葬られた人物は、誰だというのですか。高松塚の被葬者は、高市皇子以外には考えられません。

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高市皇子の薨去、その半年後に軽皇子の立太子でした。そして、更に半年後に十五歳での軽皇子の即位です。夫人は藤原宮子ですから、判事でしかなかった不比等の影の力、推して知るべし。


天武帝の皇子の子達には女子が数多いましたが、誰一人として軽皇子の後宮に入れていません。皇族の娘は皇后になれるからです。不比等はそれを阻止しています。他の嬪として、紀氏(竈門)と石川氏(石川刀自)を入れています。が、和銅六年には嬪の身分を削っています。宮子のみが文武帝の後継者の生母になれるのです。これは、藤原氏の横暴以外にないでしょう。

元明天皇は、心の底で藤原氏を畏れていたと思われます。



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しかし、元明天皇は天武朝の皇子達を頼りにはしなかった。文武帝の妃を見れば一目瞭然でしょう。皇族から一人の妃も出さないとは異常すぎます。



軽皇子(文武帝)の立太子に異議をとなえた弓削皇子(天武帝・大江皇女の皇子)は不審な死を遂げました。


元明天皇は持統天皇とともにひたすら軽皇子を護りましたが、持統帝亡き後は孤立無援状態でした。その愛と苦悩の果てに…


若くして文武天皇は崩御してしまうのです。


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苦悩の中で、元明天皇は草壁皇子の忘れ形身を愛し守り続けるのですが…
 また、次回






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by tizudesiru | 2016-12-25 22:41 | 183元明天皇の愛と苦悩 | Comments(0)


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