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15 神籠石は古代を教えてくれるのか?

15 神籠石は古代を教えてくれるのか?
 九州北部の神籠石は、白村江戦後に造られた山城というのが、今日では定説になっているそうである。そうなのだろうか。
 高校社会科でも、「白村江の戦いに敗れ、敵の襲撃に備えるため、慌てて造られた為か、大野城(日本書紀に書かれた山城)の造りは粗悪なもので、石垣もいかにも工事が粗い」と教えられた。よほど慌てたに違いないと思ったものだ。大人になって、四王寺山を見に行くと、高床式の倉庫群があったらしいことが、綺麗にならんだ礎石群で分かった。今に残る石を見て、しっかり土台を作ったから流れもせず残ったのだと感心したものだ。
 前回と重複するが
七世紀の大野城以前に、六世紀に古代山城が造られていた。そこに、事代主、武??槌を祭っていた」と「王城神社由緒」で述べている。同じく四王寺山から降ろされた天児屋根(春日神社の由緒)も入れて、少なくとも三神が祭られていた。大野城以前に四王寺山城を作り、神を祭ったのは何の為か、再度確認しておく。
 飯盛神社の神は東を向いていたから、当然、宝満山の神は西を向いていた。夫婦山として相対する東西の山(双方の神)は、東と西から福岡平野を見守っていた。そして、大城山は宝満を背中に背負い西を見ていた。または、宝満山を背負った大城山(四王寺山)には祭祀場があり、また都を守るための山城(古代山城)が造られていた。ようやく七世紀以前の福岡が見え始めた気がする。
 
 他の山城(神籠石)はどうなっているだろうと改めて興味が湧いて来たが、不思議な気分だ。初めて神籠石を知った時は、謎の古代建造物として興味津々だった。それで、鹿毛馬神籠石や御所ヶ谷神籠石を見に行ったが、現地の説明板に書いてある以上の事は何も分からなかった。むしろ、六世紀頃の土器も出ているし、その頃の山城だろうと納得したと思う。それが、今更のように、神籠石に興味を持ち始めて、何だか逆戻りした気がする。それに、九州北部に集中的にある事から理由を考えると、余りに単純な答えになる。多くの人から聞いたようなことしか、頭に浮かばない。「神籠石は、大宰府を守っている」となる。それ以外なら、「大和に敵が入るのを防ぐために、前線基地の大宰府を守っている」となるのだろうか。
 祭祀施設としての説も聞くが、設置された場所がそれぞれまちまちに思える。山深くであったり、交通の要衝であったり、何の特色も感じられない里山であったり、神域であったり、共通するのは、列石や水門などである。
 いや、神籠石が祭祀施設説でも山城説でも構わない。神武天皇の四王寺山城にしても、山城であり、祭祀場でもある。山城に神を祭っていても、不思議ではない。命を賭して戦う時、何かにすがりたいものであろうし、中世の武士も守護神を頼みとした。先の大戦ですら、息子を戦場に送る親は、護身用の守り刀を持たせたと聞く。何か霊力のある物を傍に置きたいと思うのだろう。神籠石について祭祀の面からも考えてみたい。
 まず、鹿毛馬神籠石は、何故、かの地にあるのか。
 鹿毛馬の周囲にあるのは、西に遠賀川、東に彦山川である。二つの川は下流で遠賀川となる。これらの川を遡って来る敵を防ぐ役目に違いないだろう。鹿毛馬の南には、馬見山・屏山・古処山が並ぶ。その中央の塀山を背負って、北の響灘から来る敵を見張る山城となっている。三連山の霊力に支えられた城であろうか。
鹿毛馬神籠石(東経130度44分4秒)
屏山    (東経130度44分25秒)

 鹿毛馬神籠石の東には、五所ヶ谷神籠石がある。二つの神籠石はほぼ同じ緯度に並んでいる。連携しているかも知れない。御所ヶ谷の近くには、周防灘に流れ込む今川や祓川がある。南には、英彦山の北岳、中岳、南岳がある。御所ガ谷神籠石は英彦山を背負って、周防灘から入りこむ敵を見張っているのだろう。
 御所ガ谷と鹿毛馬の両神籠石の間には、香春岳の一ノ岳がある。ニノ岳、三ノ岳の力も借りているのだろう。一ノ岳には、香春神社がまつられている。
御所ガ谷神籠石(北緯33度40分29秒 東経130度55分53秒)
香春岳一ノ岳 (北緯33度40分33秒 東経130度50分23秒)
鹿毛馬神籠石 (北緯33度40分37秒 東経130度44分4秒)
屏山     ( 東経130度44分25秒)
英彦山・中岳 ( 東経130度55分35秒)

 同じような事、信仰の対象となる山を後ろに背負った神籠石が、他にも存在するのだろうか。
 筑紫野の宮地岳(古代山城)は、どうだろう。北に宝満山を背負っているから、南を向いているのだろうか。よく見ると、宮地岳山頂は、東隣の砥上山と並んでいる。
宮地岳(北緯33度29分34秒 東経130度34分7秒)
砥上岳(北緯33度29分34秒 東経130度36分38秒)

 近いので、山頂の緯度がほとんどずれない。砥上岳には、またもや神功皇后伝説がある。羽白熊鷲征伐の折、刀を研いだので「砥上岳」という。刀を山頂で研ぐとは、何かのまじないのような、または戦勝祈願のようなものだろうか。砥上岳は神の山だったらしい。
 宮地岳と砥上岳の間を長崎街道が通っている。国道二〇〇号線と重なる。交通の要衝だから、宮地岳は砥上岳と連携して、飯塚方面(遠賀川流域)への道をふさいだようだ。
 更に、宮地岳の西は、国道三号、九州高速道、鹿児島本線等、主要交通機関の通る超重要地点である、昔も今も。此処に、山城を置かない訳はない。宮地岳山城は、大規模なものだっただろう。三郡山地と脊振山地の間の断層地形の重要な峡地を守るのに、砥上岳のようにもう一つなにか山城が必要だと思うが。
 宮地岳の西に見えるのは、天拝山である。山頂は、宮地岳と緯度がややずれる。
しかし、ここは菅原道真が都に帰れるように、天に祈ったという伝説の地だ。実際の道真は、ひたすら都府楼前の朱雀大路の右郭にあった南館に謹慎し、都の許しを願っていた。天拝山に登るはずはない。天拝山の山頂下には武蔵寺がある。蘇我山田石川麻呂を裏切った蘇我日向は、大宰府にしのび流しをされたが、彼が建てたと伝わる筑前で一番古い寺らしい。そこは、後世に寺を建てるにふさわしい場所だったのだ。武蔵寺の辺りが宮地岳と連携するには適当な処だと思うが、勝手な意見かもしれない。それにしても、古代の天拝山では何を祈っていたのだろう。
宮地岳(北緯33度29分34秒)
天拝山(北緯33度28分54秒)
武蔵寺(北緯33度29分22秒)

 国の安泰を天に祈っていたのではないか。天拝山の東には英彦山があり、西には雷山がある。英彦山と雷山は、離れているが東西の関係にある。この二つの山は東と西の端から国を見守り、国守りの山とされていたのであろう。宮地岳と英彦山の間の直線距離と、宮地岳と雷山の直線距離は数字的にはかなり近い。ほぼ中心地点に宮地岳は位置しているようだ。そして、此処は交通の要衝。宮地岳には堅牢な山城と祭祀場が必要だったのではなかろうか。
 ちなみに天智天皇の命により築造された基肄城は、天拝山より五キロほど南に下がる。
では、次の神籠石を検討しよう。佐賀県の帯隈山神籠石は、どうだろう。
脊振山地の南山麓に、小高い山が並んでいる。
鈴隈山(133m 北緯33度20分8秒)
帯隈山(175m 北緯33度20分8秒)
早稲隈山(163m 北緯33度20分10秒)
真ん中の帯隈山に神籠石がある。近くにエヒメアヤメの自生地があり、花の咲く頃はボランティァが花を守っている。三山の東南には、日の隈山(158m 北緯33度19分59秒)があり、四山は並んでいるようだ。帯隈山と結びつくのは天山である。
天山てんざん(1046m 北緯33度20分20秒)
あめやま  (996m  北緯33度20分5秒)

西の天山を背負って帯隈山が見ているのは、筑紫平野だ。天山は佐賀で一番高い山だと聞いていたが、脊振(1055m)と経ヶ岳のほうがわずかに高いそうだ。しかし、遠く熊本からも島原半島からも目立つ高い山は、天山だ。当然ながら、神籠石を後ろから支えてくれる山に選ばれたのだろう。かなり山と神籠石の関係がはっきりして来た。
 それじゃあ、経ヶ岳は何も支えていないのか。
 実は、おつぼ山神籠石の南に、経ヶ岳の峰が並んでいる。
おつぼ山神籠石  (東経130度3分28秒)
経ヶ岳(1075m 東経130度4分34秒)
 経ヶ岳の峰(865m  東経130度4分6秒)
 経ヶ岳の峰(822m  東経130度3分44秒)
と、並ぶがすっきりしない。北に控える山を見てみよう。作礼山がある。
作礼山(887m  東経130度3分57秒)となる。
地図検索の画面上の神籠石の地図記号にカーソルを当てているので、位置の操作はしていない。やや数字がずれる。しかし、経ヶ岳と作礼山の間におつぼ山があるのだろうか。三者は南北ラインに並んでいる。では、おつぼ山は、どこを見ているのだろう。実は、三方向を見ているのだ。おつぼ山の場所は、有明海に臨み、武雄と嬉野の間にある。長崎、大村、唐津への三方面への分岐点にあるのだ。ここも交通の要衝である。山城のあるべき場所だった。
だんだん神籠石の本質が見えて来た。後は、女山神籠石と杷木神籠石、高良山神籠石。
 女山神籠石は熊本との県境に近く、矢部川を見張り、その向こうの有明海を見ている。女山神籠石を支えているのは、東に並ぶ県境の山、男岳、姫御前岳、女岳である。頼みの山を東に背負うから、間違いなく此処から西の有明海を見張っている。
女山神籠石(北緯33度9分36秒)
男岳 532m(北緯33度9分38秒)
姫御前岳514m(北緯33度9分59秒)
女岳 595m(北緯33度10分17秒)

 この遺跡はかなり開発が進み破壊されているようだ。
 そして、杷木神籠石は、どの山を背負っているのだろう。これは、よく分からない。あえて言えば、マテラウ山であろう。この神籠石は筑後川に乗り出すように位置している。日田を過ぎて渓谷を流れた筑後川は、杷木を過ぎると一気に筑紫平野に蛇行して広がっていく。入るにも出るにも、大事な場所に違いない。平野との境目を守っているのだ。
それから高良山神籠石だが、耳納山地の最高峰の鷹取山を真東に背負い、西を見張っているのは容易に理解できる。ここは、筑紫平野が一望できる場所であり、筑後川の河口を見張る事が出来る。北に広がる筑紫平野、その奥に宮地岳、宝満山、砥石山、鉾立山と中心の山が連なる聖なるラインがここから北上する。
雷山神籠石は、すでに何度も出てきた。この後も、登場するだろう。
 この他にも北部九州には最近発掘された土佐井の神籠石があるが、地図上に記載されていないためにカーソルを当てる事が出来ない。緯度経度が出せないので取り上げていない。地図上に記載されたそれぞれの神籠石は、次のようにまとめることが出来る。
 そこは、頼みとする神の山を背負って一定の方向を見張り、協力してどこか大切な地域を守っている。造られたのは出土物から推定される六世紀のようだ。「白村江の戦い」前に、誰かが目的を持って造ったという事である。そして、白村江の戦い後に造られた大野城・基肄城、高安城(畿内)等とは似ているが、若干目的が違うようだ。
 書紀によると、近畿の高安城熊津都督府(百済に置かれた唐の占領政府)熊津県令が境部連石積らを筑紫の都督府に送って来た天智六年に、讃岐屋島城、対馬金田城と共に造られている。また藤原鎌足内大臣が薨去した天智八年に修理し、畿内の田税を納めている。この年に斑鳩寺(法隆寺)が焼けたという記事が突然挿入されている。天智九年にも高安城の修理を行い殻(もみ)と塩と積み入れた。明らかに戦争の準備をしている。天智十年に天智天皇崩御。天武元年の壬申の乱では、近江軍が城として使っている。が、天武軍に攻められ近江軍は税倉をすっかり焼いて逃亡。その後、天武四年、天皇行幸。持統天皇三年、天皇行幸。高安城は実戦で活躍した重要な城だったようである。
 では、こちら九州の神籠石は戦闘とかかわっていないのだろうか。正史に出て来ない。しかし、神籠石が教えてくれた古代の姿、それは戦争を意識して造られている。更にはっきりしたことを付け加えれば、神籠石は北部九州を守っている。畿内を守っているとは考えにくい。それも交通の要衝を見張っている。神籠石の時代は、守るべき場所として、北部九州を捉えていた。そこには、九州北部の古代から続く山信仰を背景にした思想があり、大事な場所を守ろうとする人間集団がいた。で、あるが、山城の地形・位置などから考えても、神籠石山城は利便性のいい場所にはない。造るのは困難だったはずである。しかし、人々はその大事業を忘れてしまった。正史に記録されていないだけではない。不自然過ぎる。工法や山城の形態から、北部九州の神籠石はほぼ同時代の建造物だという。これだけの工事が同時期に行われたのだ。国を挙げての大事業だったはずである。七世紀の白村江の戦い後、出兵で疲弊した北部九州に、こんな工事をする余力があったとは考えにくい。やはりその前の六世紀に造られたのだ。神籠石が忘れられた理由こそ、政権交代を示しているのではないか。そこに、古代の真の姿が見えるのだろう
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by tizudesiru | 2011-09-16 21:09 | 15神籠石が教えてくれる古代 | Trackback | Comments(0)


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258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂は知っていた!
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?

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宮地嶽神社の扁額の文字は..
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たぶん、夾紵棺の技術、大..
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もう読まれましたか。 ..
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郭務宗が二千人の人々を率..
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