カテゴリ:179天武帝と持統帝の溝( 2 )

179天武帝と持統帝の溝・2

179・天武帝と持統帝の溝・2

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次に、天武帝の挽歌を見てみましょう。

天智帝(38代)に比べて、天武天皇(40代)の葬送儀礼の歌が少ないことに気づかれましたよね。
しかし、その事で天武帝の立場に問題があったとか、天武・持統帝のふたりの絆が薄かったということの証明にはなりません。
天武天皇の葬儀(686)は
仏教の儀式として執り行われたのでしょう。八年後の御斎会(693)もそうです。天武帝は仏教に手厚かったのです。たびたび寺で経も読ませています。


つまり、天智天皇の葬儀(671)は古来の天皇崩御の時の祭祀の方法
に従って執り行われた、挽歌を献じながらの葬送の儀式をした、ということでしょう。昔ながらの葬儀でした。

すると、天智帝と天武帝は、基本的に異なった宗教儀式を取り入れていたのですね。

天武帝は、天智朝とは別の王朝として出発したかったのですかね。

その天武帝が…伊勢に行くなんて。

いかさまに おもほしめせか神風の伊勢の国に 、八年後の夢の中で天武天皇が伊勢に行かれたことは、持統帝には意外だったようですね。仏教に帰依していた天武帝でしたから西方浄土へ行かれたと思っていたのに、夢の中で神の国である伊勢に行かれてしまった…古代では、夢も現実と同じでしたから、持統帝は驚いたのです。


政治のやり方も天武帝と天智帝では違っていました。
天智帝は律令政治を、天武帝は天皇自らが政治をすることを目指していたのです。だから、在位中に左右大臣も任官はありません。天武帝には、他に権力を分けるつもりはなかったのです。

壬申の乱(672)で天武帝に協力した豪族たちは、出世できなくてさぞやがっかりしたことでしょう。


さて、天武帝崩御後に権力を握った持統帝は、即位(690)後に議政官を任命しています。つまり、律令による政治へ切り替えたのです。持統帝は、天武帝の政治を引き継ぎませんでした。
それまでとは違った政治を始めました。

ただ、太政大臣に高市皇子、右大臣に多治比嶋が任じられました。
高市皇子は、天武帝の側近として天武帝の在位中も活躍していたと思われます。
何の実績もなく太政大臣はないでしょう。大王に次ぐ最高の権力者という意味ですから。

まとめると

天武帝の政治は、律令政治を目指した孝徳朝や天智朝とは基本的に違っていたのです。持統帝は天武帝の政治を否定したのです。

持統帝と天武帝の間には、深い溝があったのでした。
世間では、夫唱婦随のカップルのように言われている二人ですが。

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天武帝の下では、律令によって権力を握ろうとしていた近江朝の藤原氏・中臣氏も不満だったことでしょう。
ですが、持統帝の世の中になりました。
藤原氏は持統帝に近づける大きなカギを握っていました。だから、持統帝の時代には、台頭してきたのでした。

その鍵とは、藤原不比等の出自に関わることでした。

不比等が淡海公と呼ばれていたことは、ご存じでしたか?

次はそのことを書きましょう。



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by tizudesiru | 2016-12-19 22:06 | 179天武帝と持統帝の溝 | Comments(0)

179持統帝と天武帝の溝

179・持統帝と天武帝の溝

「持統帝と天武帝のつながりの深さ」と「天武天皇の霊魂は伊勢へ」で、二人の絆の深さを考える材料としました。

さて、二人は強い絆で結ばれていたのでしょうか。

持統帝の歌を詠めば、どちらかというと持統帝は天武帝に対してさっぱりしていた、あまり執着がなかった…ようですね。なぜ?

持統帝は噂通りの冷たい女性なのでしょうか。いえいえ、有間皇子への深い鎮魂の思いを見ると、情の深い人だと分かります。

草壁皇子を失った後も、妃の阿閇皇女を連れて紀伊國行幸をして嫁を励ましました。阿閇皇女も持統帝を信頼していました。

ですが、「吉野の盟約(天武八年)」で我が子のように受け入れるとした大津皇子に、謀反発覚後すぐ死を賜わった」この時、「皇后、臨朝称制」していたのです。持統帝が政権のトップでした。大津皇子の死は、持統帝の意思だとされています。

持統帝は草壁皇子のために大津皇子を排除した冷酷な女性だというのが、世間の通説です。


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(日本書紀によると、大津皇子は天智天皇に愛されていました。大伯皇女が生んだかわいい孫だったのでしょう。天武帝にも期待されていました。
天武帝崩御後に謀判が発覚し、大津皇子はを死を賜りました。)


そもそも吉野の盟約は、草壁皇子を皇太子と認める儀式ではありませんでしたね。天武朝の新しい皇族の結成の儀式でしたね。草壁皇子が皇太子になるのは、天武十年か、十二年です。その時、大津皇子も「朝政を聴く」地位に置かれ、二人はバランスをとっていました。


もちろん、大津皇子にもチャンスを残しておくことは、天武帝の望みでした。持統帝とは違った考えを持っていたのです。天武と持統の二人は皇位継承に対しても、もともと意見が一致していなかったのです。


しかしながら、天武帝には皇后としての鵜野皇女(持統帝)が必要だった。

その理由は? あまたの妃の中から、なぜ持統帝が皇后に選ばれたのか? 

考えても見てください。

天武帝は天智帝の後宮の女性たちをことごとく、新王朝の後宮に移しました。高貴な血統を他に漏らさない為でした。そして、あまたの後宮の女性の中で、鵜野皇女こそが皇后にふさわしかったのです。

大王になれる皇族は限られています。同じく皇后になれる女性も限られているのです。持統帝は特別な皇女だったのです。


貴種に対する執着は、武家の時代になっても根強く残り続けました。

古代には、その出自で一生が決まったのでしょうね。



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by tizudesiru | 2016-12-19 20:55 | 179天武帝と持統帝の溝 | Comments(0)


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