カテゴリ:161天武朝の女性たちの悲劇( 2 )

162・天武朝の女性たちの悲劇・その2

162・後宮の女性たちの悲劇・その2

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吉野盟約とは、天武八年(679)五月五日

天武天皇が「千歳の後に、事なからしめむと欲す、いかに?」

と問えば、皇子達、「ことわり、(いや)(ちこ)なり」と答えた。


千年の後まで事がないようにしたいが、どうか?

道理はまことに明白です。


六人の皇子が「われら十余りの王は、それぞれ母が違っているが、天皇の勅に従い、これから助け合い逆らうことはしない」と天武帝と持統皇后に盟約をしました。


六皇子とは、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴
ですが、この誓いの詞は正確ではありません。違っているのは、母だけではないのです。六人のうち二人の皇子(川嶋・志貴)の父は、天智天皇でした。父も違っていました。

ここで行われた儀式は「皇太子決め」でしょうか。

草壁皇子が立太子されるのは、天武十年か十二年です。


十市皇女のように思い詰めて苦しむことはないと、天皇が家族として後宮の女性達と、その連れ子達を認めたのです。

だから、川嶋皇子(天智帝の皇子)、志貴皇子(天智帝の皇子)が吉野盟約の六人に入っているのです。滅ぼした前王朝の皇子を入れて、「千歳のことなき」を誓い、新皇族が発足したのです。


川嶋皇子の姉は、大江皇女です。姉弟そろって新家族となったのです。

吉野盟約とは「新王朝を立てたことを確認し、前王朝の子女も含めて新王朝の家族となる儀式だった…と思います。


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天武天皇は歓喜した


吉野宮に行幸して「新王朝」の儀式をした時の喜びの歌が万葉集巻一にあります。気持ちの上でも、全ての女性と皇子皇女たちを受け入れようとしたのです。


天皇吉野宮に
(いでま)す時の御製歌

27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三


よきひとの よしとよくみて よしといいし よしのよくみよ よきひとよくみ

ここ、芳野を、淑き人が良い所だと、よくよく見て、好しと言った。その芳野をよく見よ、若い良き人達よ。よく見よ。


天武朝の後宮


天武天皇の妃には、天智天皇の皇女が四人入っています。
大江皇女と新田部皇女は、壬申の乱後の後宮入りでした。

大田皇女蘇我氏系母) 大津皇子(663~686)・大伯皇女

鵜野讃良皇女蘇我氏系母)草壁皇子(662~689)

大江皇女(忍海造母)  長皇子・弓削皇子 *676年以降の出生

新田部皇女(阿倍氏系母)舎人皇子 *676年以降の出生


新田部皇女の姉・明日香皇女の嫁ぎ先ははっきりしません。なぜ、明日香皇女を後宮に入れなかったのか。そこがキーポイントでありますが。


大江皇女と新田部皇女の初産の時期
から推察すれば、壬申の乱当時は二人は稚かったのでしょう。長皇子と舎人皇子は、大津皇子や草壁皇子の出生年と比べても遅い出生年となっています。

つまり、若い皇女も高齢の婦人も、全て次の王朝に移動させ、その自由を束縛しました。耐えかねた采女が自殺したようです。


壬申の乱という内乱の後、女性たちはこぞって天武朝の皇子に振り分けられたということでしょうか。女性たちはしたたかに生きて行くのですが…

高市皇子(654~696)の妃にも天智帝の皇女が入っています。

御名部皇女蘇我氏系母)長屋王(676~729)

十市皇女(母は額田王) 葛野王は大友皇子の子


草壁皇子の妃に天智帝の皇女が入っています。

阿閇皇女蘇我氏系母)元正天皇(680生)文武天皇・吉備内親王


大津皇子の妃にも天智帝の皇女

山辺皇女蘇我氏系母)* ~686没 ? 


気が付かれましたか。同じ皇女でも、蘇我系の母を持つ皇女が重要だったことが。

蘇我石川麿は右大臣・蘇我赤兄は左大臣にまで上りました。特に、石川麿の娘達は皇女を生みました。その皇女の子どもたちが皇位継承者になったのです。

 

蘇我氏は大化改新(645)で滅びたのではありません。本家は滅亡しましたが、分家の子女が王朝を支えたのです。


持統天皇は苦しんだのか?

さて、天智朝からたくさんの女性が移動させられたとして、持統天皇はどのような立場になるのでしょう。


また後で


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by tizudesiru | 2016-11-19 10:43 | 161・天武朝の女性たちの悲劇 | Comments(0)

161・天武朝の女性たちの悲劇・その1

161・天武朝の後宮の女性達の悲劇 その1

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壬申の乱で勝利した天武天皇は、滅ぼした王朝の天智天皇の皇女を後宮に入れました。特に有力氏族の皇女は、外に出しませんでした。

なぜなら、女性たちが血統を伝える皇位継承者を生んでくれるからです。

高貴な血統を他に渡すことはしなかったのです。

女性には辛い束縛だったのではないでしょうか。


十市皇女(大友皇子の妃)の薨去


天武天皇と額田王の娘である十市皇女は、壬申の乱の総大将・大友皇子の妃でした。葛野王を生んでいます。乱の後は、母と明日香へ帰り、高市皇子の妃となっていたようです。

天武7年(678)に薨去しています。突然の死でありました。

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三輪山


十市皇女が亡くなった時の高市皇子の歌が、万葉集巻二・挽歌にあります。

十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首


156 三諸の神の神すぎ巳具耳矣自得見監乍共い寝ぬ夜ぞ多き


みもろの みわのかむすぎ巳具耳矣自得見監乍共いねぬよぞおおき

あなたはあの三輪山の神の杉のように思えた。巳具耳矣自得見監乍共 わたしはよく眠れない日が続いています。あなたを理解してやれなかった私です。

この時、十市皇女は30歳過ぎくらいで、高市皇子は24歳です。子連れの敵将の女性に高市皇子は近づき難かったのでしょう。しかも、自分は壬申の乱の総大将でした。十市の夫の大友皇子を殺させ、その首も見たのです。皇女に対して恐れがなかったとは言えないでしょう。

だから、高市皇子は嘆きました。


157 神山の山辺
()()()木綿(ゆふ)


みわやまのやまべまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき

三輪山の麓の神社の神に奉るまそ木綿(ゆふ)ったに、ってい

高市皇子の後悔が伝わります。


158 山ぶきの立よそいたる山清水酌みに行かめど道のしらなく


やまぶきの たちよそひたる やましみず くみにゆかめど みちのしらなく

山吹の花が咲き乱れているという山奥の山清水を酌んであなたに捧げたいけれど、そこはこの世ではないらしく、私には道が分からない。

埋葬の後でしょうか。少し落ち着いて皇女のことを偲んでいます。

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石上神宮

十市皇女は伊勢神宮に参詣したりして、精神的再生を心していたのでしたが、耐えられない日々だったのでしょう。当然、後宮の女性にも不安が走ります。

十市皇女の突然の死(678)は、自死だったと思われます。
母である額田王はどれほど悲しんだでしょう。
息子の葛野王は、しみじみと自分の立場を感じたでしょう。
夫の高市皇子も責任を感じていたし、
父である天武帝にしても、深い自責の念にかられたでしょう。


そこで、一年後天武八年(679)に
「吉野の盟約」と言われる「新王朝の家族となる儀式」をしたのです。


吉野の盟約は「草壁を皇太子とするための盟約」ではありません。

天武帝は、「家族となろう」と呼びかけた。

新家族結成の儀式をしたのです。
後宮の女性たちの不安を除くために。

後にも先にも、天武帝の吉野行幸はこの一回のみです。


吉野盟約の次の年に、草壁皇子に長女の氷高皇女が生まれています。

草壁は安心して、天智帝の娘の阿閇皇女と結婚したのです。

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しかし、天武朝の中の火種が消えたのではありませんでした。

後宮の女性たちの悲劇はまだまだ続きます。

また後で


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by tizudesiru | 2016-11-18 11:07 | 161・天武朝の女性たちの悲劇 | Comments(0)


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