カテゴリ:12羽白熊鷲と古処山( 2 )

熊鷲と古処山の位置

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古処山と熊鷲の墓と耳納山地の鷹取山は、一直線に並びます。
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熊鷲の墓は、脊振の真東にあります。
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古処山と高良大社を結ぶと、平塚川添遺跡の上を通ります。
 馬見山・熊鷲の墓・三奈木神社・林田の三奈木神社は、一直線に並びます。
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by tizudesiru | 2011-10-03 20:51 | 12羽白熊鷲と古処山 | Comments(0)

12 羽白熊鷲と古処山

12 羽白熊鷲の本拠地は古処山
(ア) 二つの三奈木神社
 朝倉市三奈木には、神功皇后が「水清しと宣り給う」土地という伝承がある。熊鷲を滅ぼした皇后の伝承が、熊鷲の墓の近くにある三奈木神社にも残っている。皇后が三韓遠征の兵を集めようとしたが、全く集まらなかったので、三奈木の地に天神地祇を祀り神に祈ったところ、兵が集まったという。自分たちの領主(?)を殺されたのに兵がすぐに集まるとも考えられないが、何か強制されたのかも知れない。
 三奈木神社は延喜式に名のある式内社である。そして、同じ字、同じ呼び名でもう一つ神社がある。林田の三奈木神社である。昔から、どちらが式内社か、地域を二分し論争が繰り広げられたとか。決着がつかないまま現在に至っているそうだ。
 不思議な事がある。馬見山と寺内の三奈木神社を結ぶと、馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の三奈木神社→林田の三奈木神社と、地図の上ではラインがつながるのである。地図記号の小さな神社。小さな点のような神社記号を通るとは、偶然にしても出来過ぎに思える。
 寺内の三奈木神社は、元宮は裏山(大仏山)の頂上にあったそうだ。行ってみると、ゴルフ場の入口の辺りに案内板があって、確かに社があった。樹木がなければ、そこから熊鷲の墓の辺りを隣の山に見つけられたかも知れないが、木が多くて無理だった。つまり、元宮のままなら直線上には乗らないのだ。神社が移動した事は、由緒書きにも載せてある。しかし、移動した場所が的確(?)なので驚いてしまう。両方の三奈木神社では、お互いに「名前は同じだが、神社としては何の関係もない」と言われるが。
(イ) 馬見山 
 何故、起点が馬見山だろう。馬見山の伝承は、神武天皇が逃げた馬を捕まえられなくて、見逃したから「馬見」となったと聞いたと思う。あまり気にもならず聞き流していた。それにしても、熊鷲は古処山を本拠地としていたのに、その墓が馬見山と結びつくなんて不思議だ。馬見山と古処山は、地図上は東西の関係になりそうである。
古処山(北緯33度29分2秒)
屏山(北緯33度29分16秒)
馬見山(北緯33度29分10秒)

 真東とは言い難いが、東にあるようである。熊鷲が古処山を本拠地にしたのは何故だろう。考えられるのは、彼はそこから東の馬見山を遥拝していた? である。彼の神は馬見山に鎮座しておられた? のではないか。と言うのは、遠賀川の源流は、馬見山だ。この辺りでは、大神様を「おんがさま」と呼ぶ。馬見山は「大神様」と呼ばれる信仰の対象だったのだ。だから、遠賀(おんが)川の流れも馬見山から始まっている。一人納得してしまった。
 羽白熊鷲の神が馬見山だとすると、古処山は、地図の上では何処と結びつくだろう。
 そう思って、古処山と甘木市の背後の大平山の山頂を結んでみた。
 古処山・大平山ラインは、南西に傾き甘木市街の中心を貫いた。そのままラインは伸びると、平塚川添遺跡を横切るようである。遺跡が大きいのではっきりとは分からないが、祭祀点を通るのだろうか。ここは、筑紫平野では最大とも言われる遺跡で、二重三重どころではない、七重(?)の環濠を持つ祭祀場のような場所と、大型の建物を持っている。そして、大平山を底辺とし、小石原川と佐田川に囲まれた細長い土地で、川に囲まれた土地は三角形にすぼまり、両河川は筑後川に合流する。古処山・大平山ラインは、この細長い三角の土地の中心を通る。まるで、聖なるラインのようである。あまり触れたくはないが、甘木は、邪馬台国論争の渦中にある。何と言っても、最大の弥生遺跡といわれるほど、平塚川添遺跡は大きい。
 よく見ると、古処山・大平山ラインは、先の馬見山ラインとほぼ並行である。二つのラインは並んでいる。
 馬見と古処のあいだにある屏山は、どうなるのだろう。馬見・古処の東西ラインからは若干北側にずれる山である。屏山(926m)→上秋月の高倉山(285m)→安見ヶ城山(300m)の山頂ラインは、平塚川添の大きな環濠遺跡を横切る。他の二つのラインとほぼ並行である。そして、細長い三角地帯にある、日本では筑後にしかない地名、稲数という村を横切る。久留米の北野町の稲数は、古代の負祖である稲を貯蔵した稲置が置かれた処である。此処も同じ意味の場所であろう。また、筑後国史の「稲数村館跡」によると、「稲員(いなかず)氏は、高良山の神管領の職務を司り、玉垂命の裔孫にあたり、約五百年間稲数に居館した」とある。その稲員氏と関係のある土地らしい。
 馬見山・屏山・古処山からそれぞれに三本のラインが同じような角度に伸びた。それは甘木の市街地を横切った。この三本のラインと直角に交差するラインがある。
 まず、筑後平野の東側に位置する朝倉の宮地岳と、筑紫野の宮地岳(古代山城)の山頂を結ぶと、ラインは北西に伸びて弥永(いやなが)の大己貴(おほなむち)神社を横切る。宮地岳・大己貴神社ラインは、古処山ライン・馬見山ラインとほぼ垂直に交わるのである。聖なるラインを中にして、甘木は四角形に取り囲まれそうである。神社は建て替えの度に場所がずれるので何とも言えない面もあるが。
更に、地図上の甘木市の道路は、古処山を向いている。近隣の町と比べて、明らかに道路網の碁盤の目が、傾いている。甘木は、大平山に向かい、その裏の古処山に向かって出来た集落だろうか。そういえば、久留米も古い道路が高良山を向いている。基本の道路がそうなると、後から造られる道路も向きが決まるのだろう。久留米の近くの福島は東西ライン・南北ラインが交差する碁盤の目になっている。中世に城が築かれたので、それに倣って道路が出来たのだろう。ちなみに、京都や奈良の地図は、綺麗な碁盤の目の道路になっている。古代から都が置かれたので、道路も東西南北のはっきりしたものになったのだろう。
とにかく、古処山と羽白熊鷲の伝承に、馬見山と塀山が結びつき、更に平塚川添が結びつく。とは言え、平塚川添はあまりに大きな遺跡である。的が大きすぎる。当たるのは、当然と言える。ここは、他にも様々な遺跡や、墓や、山などと結びつく可能性がある。
(ウ) 朝倉と甘木
 以前から面白いとおもっていた事がある。筑紫平野の東の朝倉に「朝闇(あさくら)神社」という小さな社があるが、此処を起点に平塚川添遺跡を通りラインを西に延ばすと、田代太田古墳に当たる。東西の関係である。朝闇神社を見に出かけたら、辺りには何もなく斉明天皇の「橘の広庭」という伝承があるのみだった。土地の人もよく分からない様子だったので、写真も取らずに帰った。考古学関係の方からも「あの辺からは何も出なかった」という話を聞いた事がある。しかし、平塚川添の東西ライン上の一点のように思えて気にはなっている。
 平塚川添の北には、何があるだろう。定規を当てると、目配(めくばせ)山が来る。「武内宿禰と神功皇后が、荷持田村(のとりたふれ)の羽白熊鷲を退治するための討伐軍をすすめ、敵の形勢を見渡したところだそうである、熊鷲を滅ぼした後『わが心安し』と言ったので夜須(安)の地名がうまれた」とか。前述の書紀とは微妙に違うが、ほとんど重なる話である。この辺りは、神功皇后伝説が至る所にある。少々、食傷気味にもなる。昔の人は、伝説の中に自分たちの先祖の地を組み込んで何か誇りを持ちたかったのだろうか。
 ついでだが、もし卑弥呼の時代と甘木の辺りが重なるとしたら、古処・馬見のラインと、無縁ではないだろうと思う。筑紫平野にも東西ラインはあっただろう、宝満山ラインのように。東西線の上に卑弥呼の墓は来るだろうか。しかし、馬見・古処ラインは、山が重なりあい、墓を作ろうと思っても筑紫の宮地岳の南裾野辺りになってしまうので、無理。では、古処・大平ラインはどうだろう。これは、神聖なラインで平塚川添の祭祀を行った辺りには、墓らしいものが見つからないとか。残りは、脊振ラインとかになるが、それは、当然、熊鷲の墓の西側ライン上になる。持丸の浄水場の盛土のような小山とか、大塚という地名の辺り。特に、大己貴神社の南に伸びるラインの交点とか、どうだろうか。かろうじて、小石原川の東に入る地点でも、例の三角地帯に入るから可能性があるのではないか。もしくは、どんと離れて、やはり先の筑紫野の宮地岳の裾野に行ってしまうか。古処・馬見ラインと宮地岳ラインの交点が筑前山家の北にある。何処にあっても、三世紀の墳墓である。何らかの伝承と共に残っているはずである。日本のどこかに。
 熊鷲から卑弥呼へ飛んでしまった。
(エ)雲仙ライン 
 九州で最も大きい平野に、何らかの勢力が起こらなかったはずはない。筑紫野市、小郡市、鳥栖市、那珂川町、神崎町など、筑紫平野の西側は、古墳と遺跡の密集地帯である。特に、神崎の吉野ケ里遺跡は有名である。新聞に取り上げられる遺跡の中でも回数の多い地名であろう。「吉野ケ里遺跡北側の墳丘墓と、北内閣と、大型建物の中心線が、雲仙山頂と直線でつながる」という新聞記事を読んだ時は、とにかく嬉しかった。やはり、霊力を持つと思われる山を頂いて、宮殿や墓を作っていたのだと確認できたからである。同時に、雲仙を向いているとしたら、吉野ヶ里は、邪馬台国ではないとも思った。女王国が伊都国に一大率を置いている以上、その視線は九州北部に向けられているだろうし、「信仰の対象として、雲仙は遠すぎる」と。しかし、はるか遠くに見える山に畏怖の念を抱くのは当然でもあろうし、雲仙への信仰心が生まれたかも知れないとも思う。

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by tizudesiru | 2011-09-19 16:02 | 12羽白熊鷲と古処山 | Comments(0)


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