カテゴリ:11羽白熊鷲と脊振山( 2 )

熊鷲は、何世紀の人なのか

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これで見ると、焼けの峠古墳の被葬者は、脊振の神とは無関係と言えないだろうか。筑紫の国の真ん中に埋葬されたにも関わらず。熊鷲は、脊振の信仰があった時代の人ということになる。日本書紀編纂の八世紀には、熊鷲として、その名前らしいものが残っていた。
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更に、古処山・鷹取山の信仰のあった時代の人ということになる。
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後の時代であるが、馬見山と二か所の三奈木神社の結びつきからすると、馬見山は古くからの神の山ということになる。古処山に住んでいた(?)熊鷲は、馬見山の神を信仰していた。そこから、東の馬見山に向かって、太陽を祀っていたと思うのだが。
 日本書紀の「野鳥(のとり)のタフレ」という地名も気になる。タフレが村という意味なら、壱岐の島には、まだ『たふれ』『ふれ』が残っている。同じ文化圏だったのだろうか。
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寿命王塚古墳の被葬者が、宝満を通り脊振に向かっていたことからすると、熊鷲も同じ信仰の時代にあった。地域の王は、脊振に向かうという信仰の時代に。
 熊鷲は、弥生の信仰の伝統を受け継いでいた。最後は、「そそぎの」に敗れている。そこが雷山(そそぎ山)とすると、彼は広い支配地を持ち、筑紫の国全体で戦った事になる。数日で終わった戦いではないだろう。
 そうなると、小さな国の時代ではなく、大きな支配者がいた時代となる。それは、五、六世紀になるだろう
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馬見山の信仰は、十世紀の初めまでは残っていたと思われる。筥崎宮の遷宮は十世紀のはじめである。このことは、「神社は御神体として、山などを背負っている」と仮定し、更に、山と山との重なりが、強い霊力を生むと仮定しての説である。

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更に、おかしなことだが、馬見山・熊鷲墓・三奈木神社・(林田)三奈木神社・岩戸山古墳とつながる。熊鷲は、誰なのだろう?
 熊鷲が筑紫の王だったとすると、磐井は熊鷲を意識して自分の墓をつくったことになる。
 または、熊鷲とは、磐井の別の名だったのか。熊鷲の墓は、筑紫の王としては、あまりに小さな墓である。
 後の世の人が、過去の王の最後をしのんで、ひそかに選ばれた地に墓をつくったのかも……とか、想像してしまう。
 飛躍しすぎなので、ここでおしまい。 
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by tizudesiru | 2011-10-05 08:34 | 11羽白熊鷲と脊振山 | Comments(0)

11 羽白熊鷲と脊振山

11 羽白熊鷲の伝承と墓は、脊振へ向かう
 「甘木水の文化村」という施設が、甘木市にある。当地の寺内ダム建設の時、近隣の人々の為に造られた施設であろう。立派なトイレ付きの広い無料駐車場があり、施設への入場料もいらない。ゲートをくぐり階段を上って広場に着くと、小さな円墳がある。羽白熊鷲の墓である。元は、文化村中央にあったが、せせらぎ館建設にともない移動した。が、地元の意見により、せせらぎ館正面に再度移動したそうだ。「千数百年の間、大切にされてきた熊鷲の墓が荒れていくのはしのびない」と、商工会が行動を起こしたそうだ。
 また、この地方では羽白熊鷲の伝承が残り、地域の歴史家の興味を引きだしているようだった。羽白熊鷲の伝承に関するシンポジウムも、開かれているようである。
(ア)日本書紀の羽白熊鷲
 羽白熊鷲は、日本書紀にもでてくる。
 巻第九神功皇后の熊襲征伐に「荷持田村(のとりのたふれ)に羽白熊鷲という者があり、その人となりは強健で、翼があり高く飛ぶことができる。皇命に従わず人民を掠めている。十七日に皇后は熊襲を討とうとして、香椎宮から松峡宮に移られた。その時つむじ風がにわかに吹いて御笠が吹き飛ばされた。時の人はそこを名づけて御笠といった。二十日、層増岐野(そそきの)にいき、兵をあげて羽白熊鷲を殺した。そばの人に『熊鷲を取って心安らかになった』といわれた。そこを名づけて安という」(日本初期・現代語訳・宇治谷孟)荷持(甘木市野鳥)、香椎、御笠山(宝満山)、安(夜須町)などの地名譚も入って、熊鷲という人物の名が出て来る。気になる地名は、層増岐野である。「そそぎやま」の雷山のことだろうか。後で再度追及するが、日本書紀の注解には「層増岐野は場所が特定できない」としている。
 熊鷲は古処山(白山・白髪山)を本拠としていた豪族のようだ。地図で見ると、その墓の位置は、古処山の真南になりそうだ。墓所移動の事情により、場所が特定できないが。
 古処山は秋月の背後の山である。「甘木水の文化村」より秋月に墓があってもよさそうに思うが、ダムが建設されたような人家の少ない土地にあるのである。長い定規を使って古処山から南に線を延ばすと、耳納山地の鷹取山の山頂に達する。既に名前の出た山である。筑後平野の中央から南を見ると耳納山地で一番高く見える山で、戦国時代には山城が築かれていた山でもある。それに、鷹取山はかの高良大社の真東にある。熊鷲は、古処山・鷹取山の南北ライン上に眠っているのだろうか。
古処山(東経130度43分32秒)
羽白熊鷲墓(東経130度43分31秒)*水の文化村せせらぎ館前
鷹取山(東経130度43分23秒)
古処山と鷹取山は、直線距離でも二十キロほど離れている。南北の直線は若干傾いているようだ。
では、羽白熊鷲墓の東西ラインはどうだろうか。真西にラインを伸ばすと、脊振山地の脊振山頂(1055m)に当たる。背振山とは、驚いた。しかし、羽白熊鷲が熊襲の長であれば、当然のことであろう。福岡平野からは、季節を通して脊振は目立つ。筑後平野からもよく見えるのだろうか。九千部山が背振山を遮るので、少し高度があがらないと見えないかも知れない。
脊振山頂(北緯33度26分8秒)
契山408m(北緯33度26分9秒)
羽白熊鷲墓(北緯33度26分6秒)*水の文化村せせらぎ館前

なるほど、かなりいい線である。背振山を墓の西に頂いたという熊鷲は、かなり有力な豪族だったという事になる。神功皇后に誅殺された熊襲だったことは、書紀にはっきり書かれているが。熊襲は南九州だけにいたのではなく、筑紫にも居た事になる。
更に、官軍(神功皇后側)に誅殺された熊鷲の墓を、選ばれた場所に造ったのは誰だろう。何故、墓の西に脊振山が来るような場所を探したのだろう。答えは、そういう思想が既にあったとしか考えられない。「脊振山は王(首長)の魂が天に昇る聖地である」という思想か、または、「祟りがないように、王(首長)の魂が天に昇る場所を選んで葬らねばならない」という思想が、熊鷲の時代にはあった。
 羽白熊鷲は歴史の中に封じ込められた多くの首長達の無念を教えてくれているのかも知れない。
(イ)脊振山の位置
 此処で、脊振についても書いておかなければならない事がある。
 結論をいうと、「脊振は、北部九州の王や有力者の魂が、天に昇る山と思われる」である。
 脊振山と須玖岡本の王墓と結ぶと、間にある日拝塚古墳をラインが通過する。彼岸の時には、一六キロ離れた大根地山から昇る太陽を拝む事ができるので、日拝塚(ひはいつか)古墳と呼ばれている。春日市にあるこの古墳は六世紀前半の前方後円墳で、全長五六メートル。昭和四年に盗掘を受け、その後の発掘で出土した副葬品は東京国博に保管されている。ただ金製垂飾付耳飾は「那国の丘歴史資料館」に展示されている。太刀や槍などの武器、馬具や装飾品、鍍金環頭太刀柄頭など、副葬品からして有力者の墓である事が分かる。日拝塚の被葬者は、須玖岡本の王の威光を自分に引き寄せたかった。そして、脊振山から魂が天に昇った。更に、地図の上での事であるが、このラインをそのまま伸ばして行くと、乙犬山(185m)を通り宮若市の竹原古墳に届きそうである。しかし、これは、定規の加減もあるので自信はない。
 更に、桂川にある寿命王塚古墳も脊振につながる
 この古墳は、採土工事中に偶然発見され、馬具、銅鏡、装飾品、土器類が出土した。六世紀中ごろ造られた、全長八六メートルの前方後円墳である。遠賀川流域では、最大の規模の墳丘と横穴式石室を持つ。遺体を収めた玄室には、工夫を凝らした「石屋形」と「石棚」、前室との間に「小窓」があり、この三点を併せ持つ例は非常に珍しく、王塚古墳の特色となっている。他にも、赤、黄、白、緑、黒で描かれた壁面の装飾も特徴的である。靫、盾、騎馬、星、双脚輪状文、わらび手文、三角文などが、壁面や天井に表現されている。王塚古墳から宝満山を通り、なんと脊振山までラインが届く。かなり離れた場所にある二つの山が、寿命王塚古墳により結ばれた。寿命王塚の被葬者は、宝満と脊振という福岡平野の代表的な山とつながっているのだ。宝満山と脊振山は、福岡平野の王達とつながり、時代がくだるにつれて伊都国や遠賀川流域の有力者ともつながっていった。つまり、有力首長達の神上がりの場だと言っていいだろうか。
 脊振山→三雲南小路王墓→火山(前述
 同じく糸島の金塚古墳→宮地岳(110m)→? 山(700m)→脊振山
一貴山銚子塚古墳→? 山(448m)→脊振山
脊振山→久留米の日輪寺古墳→浦山古墳
脊振山→大峠(406m)→五郎山古墳
 佐賀県の古墳群や遺跡が脊振山麓に広がっているが、たぶん同じことが立証されるのではないだろうか。

 何故、脊振山が北部九州で神あがりの山となれたのかという疑問が湧いてくる。
 それは、三連山の山だからであろう。脊振山、井原山、雷山の山頂に直線を引くと、見事に直線で結ばれる。他の山とは、難しい。三は古代には特別の数だったのではなかろうか。思い出してみると、英彦山も、鷹巣山も、三つの峰を持つ山であった。古処山も、馬見山、屏山と峰が並ぶ。宝満山も、三郡山、頭巾山と峰が並ぶ。田川の香春岳も、一の岳、二の岳、三の岳と信仰を集めている。宗像三女神、住吉三神、いずれも三である。そして、海抜の高い山が信仰の対象となったのだ。
(ウ)福岡の主要な山岳を並べてみよう。
釈迦岳(矢部 1230m)
御前岳(矢部 1209m)
英彦山南岳(添田 1200m)
犬が岳(豊前1131m)
脊振山(福岡早良区1055m)
岳滅鬼山(添田1037m)
三国山(矢部 994m)
経読岳(豊前 992m)
井原山(前原 983m)
鷹巣山(添田 979m)
馬見山(甘木 978m)
大塚山(矢部 978m)
猿駈山(矢部 968m)
金山 (福岡早良区967m)
熊渡山(黒木 960m)
雷山 (前原 955m)
障子ガ岳(添田 948m)
石割岳(星野 942m)
三群山(宇美 936m)
鈴ノ耳納山(星野 931m)
屏山 (甘木 927m)
門前山(矢部 922m)
竹山 (星野 905m)
福知山(田川 901m)
頭巾山(宇美 901m)
羽金山(佐賀県 900m)
黒岩 (添田  878m)
休鹿 (矢部  866m)
古処山(朝倉 860m)
九千部山(那珂川 848m)
釈迦岳(添田 844m)
広川原(黒木 843m)
獅子舞岳(佐賀県 841m)
平野岳(星野 840m)
大日ヶ岳(添田 830m)
宝満山(筑紫野 829m)
砥石山(宇美 828m)
浮岳 (佐賀県唐津 805m)
鷹取山(星野 801m)

 こうして山名が並ぶと、信仰の対象になる山には高さが重要だと思えてくる。その中でも、高い山が連なるのは、大切な条件ではなかろうか。山を「さん」と発音するのも、数字の三と同じ発想につながるのだろうか。三にはめでたい意味も重なってくる。それとも、山を高さや山容にかかわりなく、山と呼んだり、岳と呼んだりするのだろうか。
この事は、専門家の方に解決していただくことにしよう。
此処では、羽白熊鷲は、背振山を首長達の魂が天に昇る山である事を示したこと。逆に、彼も甘木朝倉の辺りの首長であった事を改めて確認できる。
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by tizudesiru | 2011-09-20 14:28 | 11羽白熊鷲と脊振山 | Comments(0)


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