カテゴリ:144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて( 2 )

149・有間皇子を愛した間人皇太后

有間皇子を愛した間人皇太后
スキャンダルとして取り上げたのではありません

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144「紀伊國に有間皇子の跡をを訪ねて」で下記のように書いていました。
先に取り上げた内容は、実は私の本音が含まれていなかったので、訂正したいのです。
舒明帝の娘だった間人皇女が、孝徳天皇の皇后に立てられた時、二人には年の差がありました。それで、孝徳帝は大事にしていたのですが、中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて明日香に帰ってしまいます。孝徳帝との間に意見の違いがあったのでしょう。更に、中大兄皇子は、ずっと皇太子のままで二十年以上も即位していません。それは、妹との道ならぬ関係を断つことができなかったからだというのです。果たして、そうでしょうか。私は、別の意見を持っていますが、それは後で。


貴方の寿命もわたしの寿命も知っているであろうか、岩代の岡のしっかり根を下ろした松の枝を、さあ結びましょう。

我が背子が仮廬を作っていらっしゃる。カヤがないのなら、子松の下のカヤをお刈りなさいませ。

わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれた。でも、阿胡根の浦の玉は拾わなかった。玉こそ拾いたかったのに。


此処に、中皇命の歌が三首もあり、それも有間皇子の歌と対応するのです。

岩代の濱松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む

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孝徳帝の崩御の時、間人皇太后は飛鳥から難波に戻らなかったのでしょうか。

間人皇女は皇后だったのです。皇太后は帝の葬儀のために難波宮に戻ったはずです。そこで、皇位継承の御璽を受けたから「中皇命」という立場になったのです。玉璽を一時的に預かる立場です。それを誰に渡すのか、それが問題でした。当然、中大兄皇子は明日香に帰っていますから、その権利を主張しにくいでしょう。葬儀が終わった後も中皇命は難波宮に残り、大化改新の新体制が全国に浸透するように、難波宮の官僚たちと仕事をしていたのだと思います。近年発見されている三野国の木簡にしても「評」の行政区が書かれ、租税を納められているのですから。天皇の崩御の度に行政が滞ることはないのです。当然、有間皇子も難波宮の東宮の館に住んでいたことでしょう。間人皇后は難波宮の後宮に女官や孝徳帝に仕えた女性たちを護りながら過ごしていたはずです。
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前期難波宮の遺構は赤の部分・八角形の建物は東西にありました。

前期難波宮が孝徳朝の宮跡とされています。掘立柱の異様なほど立派な「いうべからず」という宮殿だったのです。もちろん、後宮も北に在りました。
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難波宮、此処から有間皇子は連れ出されたのです。間人皇太后は事の重大さに不安を覚え、皇子を迎えに行きました。しかし、紀伊國に入って、有間皇子に掛けられたその嫌疑に愕然とします。このことは、後日触れます。
皇太后は皇子に語り掛けました。岩代から白浜が見えています。
「殿下、お気持ちをお察しいたします。殿下がこの先々どれほど永らえられるか、わたくしの命さえどれほどのものであるか、誰が知っているでしょう。ですが、岩代のあの岩ばかりの岡の草は根を深く下ろし、あのようにしっかりと命をつないでおります。岩代の岡はその命運を知っているのでしょうか。さあ、あの岡の草根を結んで、互いの代の永からんことを祈りましょう」

君が代もわが代も知るや 岩代の岡の草根をいざ結びてな


皇子も促されて草を結びました。間人皇太后は、白浜に目をやります。

「殿下、白浜が見えております。あす、出立の松原を過ぎれば、太后のおられる白浜は遠くは有りません。太后はわたくしの母君ではありますが、母を捨てて殿下にお味方したわたくしの言葉など聞いては下さいますまい。まして、兄にすれば。……殿下、今夜はどうぞごゆっくりお休みくださいませ。仮廬の草を深く敷かれてくださいませ。草が足りなければ、殿下が結ばれたあの小松の下の草をお刈りくださいませ。必ず、殿下のお体をお包みしお慰めすることでしょう。」

我が背子は仮廬作らす草なくは 小松が下の草を刈らさね


いよいよ、皇子が一人牟婁の温泉(ゆ)に送られる時が来ました。伴の者も、自ら追いかけて来た中皇命も見送るほかありません。中皇命は去りゆく皇子の姿に問いかけました。

殿下、今一度お声を聴きとうございます。殿下、わたくしがかねてより見たいと申し上げていた野島は見せていただきました。あの野島の海女が潜水して白玉を得ているのですね。願いをかける白玉を。でも、殿下は白玉を拾おうとはなさらなかった。底深い阿胡根の浦の白玉を拾って祈ろうとはなさらなかった。わたくしの心には深い恨みが残りました。ああ、白玉を拾って祈りたかったのに」

吾欲りし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ

中皇命は間人皇太后以外ありえないでしょう。それでなければ、これほどの歌を読むことはできません。後の人が作った歌物語だったとしても、有間皇子の物語を詳しく知っての作となるでしょう。
中皇命は本気で有間皇子に皇位を伝えるつもりだったのです。
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岩代の海の迫った海岸、
みなべの海の奥に白浜が見える。









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by tizudesiru | 2016-11-05 09:45 | 144・紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて | Comments(0)

144・紀伊国に有間皇子の跡を訪ねて

有間皇子の悲劇何故起こったのか
答はシンプル
それは、彼が皇位継承の有力者だったからです。
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和歌山市に二泊して、藤白神社から牟婁の湯まで辿りました。有間皇子の足跡というか、蘇我赤兄に陥れられた皇子が護送された道を辿るのが目的でした。
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孝徳天皇の姉、有間皇子の伯母に当たる斉明天皇の創建と言われる「藤白神社」を出発地としました。藤白神社の境内にある「有間皇子神社」は、昭和になってこの地に置かれた新しい神社です。
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藤白神社は、熊野古道の藤白にあります。
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神社の脇の熊野古道を紫川(ちいさな山川)を越えて、200mも行けば「有間皇子の墓」と呼ばれる地に至ります。
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そこには、案内板が置かれ、有間皇子事件の紹介が書かれています。
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実は、有間皇子の墓は、岩内1号墳が有力とされています。ここは、石室とその副葬品から皇族の墓であろうと推定されています。ところが、和歌山で亡くなった皇族は歴史上は一人もいないということです。有間皇子以外には。それで、岩内1号が有力視されているのです。岩内1号については別の機会に紹介します。
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白崎から、岩代の結松を訪ね、白浜海岸から牟婁の湯とめぐりました。
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先々の有間皇子に関する万葉歌碑に涙しながらの旅でした。これから、数日、万葉の歌を読む旅をしませんか。では、また後で。
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by tizudesiru | 2016-11-01 13:56 | 144・紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて | Comments(0)


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