カテゴリ:134邪馬台国シンポ・久留米( 1 )

2015邪馬台国シンポ・久留米

久留米・邪馬台国シンポジウムに行きました
邪馬台国時代の久留米」と「考古学から見て邪馬台国畿内説は成り立つのか?」という二つの演題の報告をします。
a0237545_19444197.jpg
久留米市の石橋文化センターでシンポジウムがありました。ここには、子どもの頃にも通った美術館があって、青木茂や坂本繁二郎の作品を見ることができました。それら郷土作家の名作は、東京の石橋美術館に移されました。田舎に置いておくのはもったいないという……ことなのでしょうか。ーーまあ、シンポジウムでしたね。 久留米地方の地図です。右下の緑は耳納山地、茶色の範囲は弥生前期の遺跡集中地域、黄緑の範囲は弥生中期の遺跡集中地域、焦げ茶色は弥生後期の遺跡集中地域、です。
a0237545_19471258.jpg
弥生前期の遺跡として、久保遺跡が紹介されました。擬朝鮮系無文土器や黒色研磨土器を伴う集落が存在します。
a0237545_21143774.jpg
弥生中期の石丸遺跡には甕棺墓群の二列埋葬が認められ、間を墓道が通るそうです。埋葬の形式は集団の結びつきや統制を意味するのでしょうか。   
a0237545_19482622.jpg
安国寺甕棺墓群も弥生中期の遺跡です。甕棺墓が最盛期を迎えたこの時期の集落には、丹塗り土器を伴う竪穴住居が確認されています。これらの建物の主軸はほぼ同じで、いずれも焼失住居ということです。同じ集団の住居が同じ時期に焼失したのは、その時期に何か事件があったということでしょうか。弥生中期の甕棺最盛期にです。 
a0237545_19475332.jpg
 
a0237545_2140794.jpg
水分遺跡は、「大半が弥生後期の所産で二重区画溝、周溝状遺構9基、竪穴住居150軒、掘立柱建物10棟、遺物として銅鏃・広型銅矛耳・骨鏃・碧玉・ヒスイ・ガラス製玉・赤色顔料・内面朱付着土器・鉄製品・炭化種子などが出土している。長方形の大型の竪穴住居から、大量の完形土器や床面にまかれた赤色顔料、ガラス小玉160点、炭化米、鉄鏃4、銅鏃3、骨鏃2がまとまって出土している」そうです。ここの人々は、突然の事件で大型建物を見捨てることになったのだろうかと、想像してしまいました。
a0237545_1949406.jpg
大型建物です。
a0237545_19523376.jpg
良積遺跡も弥生後期から古墳時代初頭にかけての遺跡です。「竪穴住居160軒、掘立柱建物30棟、周溝状遺構40基、甕棺墓・石棺墓・土壙墓34基。銅鏃・銅釧・銅鏡4面・鉄製品、ヒスイや碧玉・ガラス製の玉類、石器・畿内系の壺も見られる」そうです。
a0237545_2212936.jpg
a0237545_2213410.jpg
文化財保護課の方の報告文には、上記のような記述がありました。弥生中期にピークを迎えた集落に突然の変化、意図的な溝の埋め戻し、大量の土器の投棄、それはこの土地を離れざるを得なかった結果であり、弥生の終焉であると……恐ろしい社会的変化が起こった?!それが邪馬台国の時代なら、久留米周辺も邪馬台国と関係の深い地域であり、邪馬台国の終焉とともにこの地を去った集団がいるという証ではないでしょうか。そして、古墳時代に入っていく!!
a0237545_19531864.jpg
高良山の西麓に位置する祇園山古墳の測量図です。石棺墓に二体が埋葬され、互い違いに寝かされていたと聞きました。ここでも何かあったのでしょうね。高良大社の三角縁神獣鏡は、祇園山古墳の出土物と言われているけれど、推測の域を出ないと書かれていました。
a0237545_1954115.jpg
祇園山古墳の組み合わせ式石棺です。どんな歴史が此処にはあったのでしょう。

さて、次は「考古学から見て邪馬台国畿内説は成り立つか?」という演題でした。 
a0237545_2374833.jpg
奈良県の前期弥生遺跡(黒丸)は、大阪側や北陸側にはなく東南部に(和歌山側に)偏っているそうです。奈良盆地は低地が多く水害を受けやすい地形だそうです。中期の唐古・鍵遺跡には、青銅器(銅鐸)の製造跡や80cmの柱跡の大型建物跡は見られるが、後期にはめぼしいものがないそうで、巴形銅器の破片、ヒスイ勾玉が出土している、奈良には大陸系の遺物・土器はほとんど出ないとのことでした。「めぼしい墓もなく、方形周溝墓があっても副葬品はない、入れるものがない。鉄器はほとんど出ておらず、10点もない(銅鏃が数点)」と説明されました。墳丘墓も少なく、土器を見ると東は伊勢湾まで西は吉備までの交流は考えられるが、大阪との関係はないとのことでした。
 後期には低地から山辺の道の方へ遺跡が上がっていき、「同じ時期の遺跡(白丸・纏向遺跡など)が南北5kmの範囲に見られ、これらの遺跡が大型古墳とかぶる」そうです。
 纏向遺跡には環濠はなく、遺跡を全部合わせると大きいが、各遺跡は河川により分断されているそうです。最近、話題に上った大型建物は河川と河川の間にあり、建物Aは実はなかったのだ
そうです。
a0237545_23451590.jpg
この建物は古墳時代に端が壊されていて、重要な建物だったとは考えられないとのことです。重要な建物には柵が厳重に巡らされ、後の時代になると土塀などで囲まれているそうです。調査報告書では柵と主張しているが、柵とは考えられないそうで、纏向遺跡の出土遺物は唐古・鍵遺跡より少ないとのことでした。銅鐸の耳や銅鏃だったようです。
 このような纏向遺跡で、鉄の生産が始まるのですが、出土した鞴の羽口はカマボコ型で九州福岡県の博多遺跡のものと同型で、朝鮮南部の陶質土器が一緒に出ているそうです(朝鮮からの直接の伝播といいたいのでしょうか)。その鉄製産の時期ですが、布留式土器と一緒に出ていて、箸墓築造の時期と重なるそうです
 また、箸墓は桜井茶臼塚古墳と同じ時期の土器が出ているし、それらの土器は庄内式土器とは違うということです。庄内式土器は、一つ一つ形が違っているとのことです。
 ほかにも石製品や出土土器の説明がありましたが省略します。
 これらのことから、邪馬台国畿内説は成り立ちがたいとのことでした。ただし、5世紀になると、大型古墳が出現し、馬具・武具などの副葬品が見られるようになり、畿内に王権が出現したと思われる、更に、「中山平次郎氏が言われたように、九州の弥生の鏡・玉・貝輪などが大和の前期古墳のルーツとなっている」と話をしめられました。
 纏向遺跡を発掘された先生のご講演、事実の報告だったのでした。
 



 
[PR]
by tizudesiru | 2015-11-29 22:39 | 134邪馬台国シンポ・久留米 | Comments(0)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

高松塚古墳の被葬者は高市皇子
at 2017-05-22 21:32
続々・岩戸山古墳と八女丘陵
at 2017-05-21 10:57
続・岩戸山古墳と八女丘陵
at 2017-05-21 00:51
岩戸山古墳と八女丘陵
at 2017-05-19 21:48
賀茂神社の古墳・うきはの春
at 2017-05-17 14:15
熊本地震後の塚原古墳群
at 2017-05-14 12:23
雲居の桜
at 2017-05-06 22:20
花の吉野の別れ歌
at 2017-05-01 21:46
柿本朝臣人麻呂と玉津島
at 2017-04-22 21:21
玉津島神社の春・衣通姫の歌
at 2017-04-17 13:56
紀伊国・玉津島神社の春
at 2017-04-16 00:42
241神籠石と古墳の石組みの技術
at 2017-04-09 23:59
240神籠石の水門の技術は共..
at 2017-04-08 10:42
239神籠石は消されるのか
at 2017-04-08 00:23
240藤原鎌足の墓は何処か
at 2017-04-07 20:54
238米原長者伝説の鞠智城
at 2017-03-12 22:12
237パルメット文様は何処から?
at 2017-03-08 17:32
236藤ノ木古墳の築造時期の謎
at 2017-03-07 22:09
235 基肄城の水門石組
at 2017-03-06 11:27
234 小郡官衙の見学会
at 2017-03-05 21:53

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
100日知王の山々
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者

画像一覧

以前の記事

2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史