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126邪馬台国から倭国へ

邪馬台国から倭国
 甕棺文化圏・青銅製武器(剣・矛・戈)の文化圏・楽浪系土器と三韓系土器が出土する地域にしか、邪馬台国はありません。更に言えば、弥生の鉄が出土する地域であり、弥生の鏡である前漢鏡・後漢鏡を持つ地域にしか邪馬台国はないのです。
 邪馬台国が畿内にあったとすれば、それは狗奴国との戦争に敗れた後、狗奴国の脅威を恐れての集団移動しか考えられません。もちろん、「東にも倭人の国があった(倭人伝)」のですから、東に逃れようと考えるのは自然です。この自然な流れからすれば、狗奴国は邪馬台国より西か南にあったことになります。敵国側に逃げるのは自然ではなく、敵国とは反対側に逃げると思われます。弥生後期に生産力を持っていた地域となれば、肥国でしょう。弥生の鉄の出土量は熊本がダントツで福岡を越えています。食糧と武器がなければ戦争には勝てませんから。江戸時代まで、福岡より熊本の方が生産力は高かったのです。明治になって、中央政府の出先も熊本に置かれました。
 博多遺跡から鞴の羽口と鉄鏃が出土しています。三世紀には鉄製品を作っていたのです。纏向遺跡で出土した鞴の羽口は「博多遺跡のものと同型」です。一之瀬さんの本に「同型で、畿内は筑紫の技術の提供を受けた」と書かれていたと思います。それが、吉備などに広がったと。
 誤解がないように書きますが、鋳造鉄製品は紀元前から九州で作られています。鉄素材を熔かして鉄戈が作られていますし、鉄鏃や鉄斧などの道具も作られています。銅と鉄はほぼ同時に九州に渡っています。3世紀の倭人伝にも「倭が鉄を採っていた」ことが書かれているし、当時の鉄は貨幣代わりだったとも書かれています。3世紀ともなると、鉄はかなり普及していたのです。九州が握っていた「鉄輸入」の利権が奪われたか、移動したか、解体したか、理由は分かりませんが、大きな経済的変化が起こったのですね。写真は、福岡市博物館の図録をデジカメで撮ったものです。
 
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羽口が高熱を受けてただれています。鉄が溶かされたからです。銅の場合はこれほどただれないそうです。
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これは平原王墓(巫女王墓だそうです)の副葬品ですが、これほどの鏡を副葬する人物は単なる王ではないでしょう。それもすべて破砕したのちの副葬ですから、ただ事ではありません。畿内に鏡文化が伝わり、大量の鏡が副葬されるのは古墳時代になってからです。当然、九州の葬送文化の伝播です。
 平原遺跡のこれらの銅鏡は国産だ(柳田康雄)という説もありますが、では、どこで生産したのでしょう。須玖岡本遺跡の辺りの弥生の工業地帯でしょうか。ここが衰退した後に博多遺跡が発展したのでしょうか。鉄と銅の製品は制作場所や工人が違っていたのでしょうか。博物館の学芸員さんが解説してくださると思いますが。
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平原王墓の木棺の上に素環頭大刀が置かれていました。王墓の周濠からは鉄鏃・鏨・ヤリガンナ・斧など出土しています。銅製の鏡は祭祀に、鉄製品は生産に使われていたのです。巫女王は鉄製産をも抑えていたのでしょうか。上の写真の素環頭大刀(約120cm)は五尺刀に相当するとされるものですが、上町向原遺跡(伊都国)の出土品です。五尺刀といえば卑弥呼がもらった大刀で、魏からの下賜品の中にありましたね。弥生の大刀は九州からしか出ないそうです。白く輝く利刀に当時の人は驚いたことでしょう。
 3世紀の九州に大きな変化があったことは、平原王墓の埋葬の様子からも想像できます。世々王がいた伊都国の女王の墓の鏡が、全部割られているのですから。
 巫女が責任を取らせられるのは、古代の中国も同じです。「あぶる」という字は、巫女が占いに失敗して焼かれる字だそうです。おお怖っ! 巫女王も何かの責任を取らされたのでしょうか。
 いつもの私の結論ですが「邪馬台国連合を滅ぼしたのは、狗奴国で肥後の人々だった。彼らが造った国が倭国だった」ということです。「狗奴国は北部九州に鉄を持ち込み生産力を上げ、地域をを活性化し交易を広げ、隣国とも交流し、諸制度を整備し、倭国をつくりあげた」となります。畿内に移動した人は、どう思って見ていたでしょう。大型古墳を作り始めた理由もそこにあるのかもしれませんし。狗奴国の発展を見た他の火国(肥国)の人々はどう感じたでしょうね。筑紫と火国は親しくしていましたから。畿内の倭人も火国の倭人も、心の中で「いつかは……」と思っていたのではないでしょうか。

 
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by tizudesiru | 2015-10-30 11:16 | 126邪馬台国から倭国へ | Trackback | Comments(0)


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209石舞台・都塚・坂田寺
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212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
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216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
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231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂は知っていた!
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?

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